今年ベストクラスの映画です。
気になったところでまとまりそうなところを箇条書きで。
海(辺)と土と空
上が『20センチュリー・ウーマン』の、下が『ザ・マスター』のファーストカット。
『20センチュリー・ウーマン』は波打つ海を直下に眺めたショットからはじまる。ここでわたしたちはポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』をひきあいに「ファーストカットが波打つ海な映画は大名作」という法則を謳うこともできる。けれども、思い出してほしい。『ザ・マスター』で波状していたのは船による航行の結果であって、『20センチュリー・ウーマン』での何者にも妨げられない本物の波とは違う。
『ザ・マスター』は「船」に乗っているひとびとの物語だった。かたや『20センチュリー・ウーマン』の登場人物たちは波打ち際であるサンタバーバラに封じこめられている。もちろん、若者たちが過半数を占めるこの映画においてそんな束縛は一時的なものでしかないのだけれど、既に五十の坂を越した母親(アネット・ベニング)にとっては終着点だ。
そこは何かにつながる場所でもある。日本では主に文字通りの彼岸として用いられがち(最近だと『武曲』)な浜辺は、『大人は判ってくれない』以来の文脈だと行き詰まりであると同時に本当の行き止まりでないところ。船出の場、外から何かが運ばれてくる場。
だからかもしれない、彼女は息子(ルーカス・ジェイド・ズマン)の育て方に行き詰まったときは決まって浜辺に行く。エル・ファニングとグレタ・ガーウィグに「子離れ」の協力を頼む直前も、それを取り消そうと息子を説得する前も極めて短い浜辺のシーンが挿入される。彼女は押し寄せてくる息子の成長という荒波に、彼女なりに対処しようと奮闘しているのだろう。
では、ベニングはやはり『ザ・マスター』と一緒で船長的な存在なのか。海の人なのか。違う。『ザ・マスター』のファーストカットと『20センチュリー・ウーマン』のファースト・カットで決定的に異なる点がある。視点の高さだ。つまり、『ザ・マスター』があきらかに船の後尾(くらい)の高さから撮影したものであるのに対し、本作は高高度から波を捉えている。眼は空にある。
本作を最後まで観た人ならおわかりだろうけれど、最後にベニングは子供の頃の夢だった「飛行士」になる。彼女は空の人だ。
だからなのか、ガーウィグに大地の神秘を語り、母なる地球と合一する瞑想を好み、のちに趣味が高じて陶芸家になる土の人、居候のウィリアム(ビリー・クラダップ)とはやはりくっつかない運命にある*1。雲の高きに舞う鳥は、地上で羽根を休めてもまた飛びだっていくものだ。だからこそのラストカット。最初のカットとは対になるものであると同時に、答え合わせでもある。
マイク・ミルズにおけるネコとイヌ
『20センチュリー・ウーマン』では主人公家の飼い猫が優雅な存在感を放っている。
ネコとくればイヌ。マイク・ミルズのイヌといえば前作『人生はビギナーズ』における主人公の忠犬アーサー(コズモ)が思い出される。これには単なる偶然以上の作為を見出さざるをえない。
なぜなら、『人生はビギナーズ』はミルズの父親がモデルの、『20センチュリー・ウーマン』はミルズの母親がモデルの、どちらも半自伝的映画なのだから。
『ビギナーズ』のアーサーは死んだ父親と主人公自身の曖昧な弱さを具現化した存在だ。元は父親の飼い犬で、父の死後に主人公へ引き取られた。彼はとても寂しがりやだ。主人公がパーティへ出かけるために他人へ預けようとすると、切なく喚いて結局主人公を呼び戻す。
一方的に主人公へ依存しているかといえばむしろ逆な面もあって、主人公のほうでもアーサーの「声(主に人生に関する助言)」が聴こえてきたり過剰な擬人化をほどこすなど依存の兆候が見え隠れする。
物語上でも、アーサーとの別離が亡き父親に引きずられてきた生活に対する一区切りとなる。アーサーは映画本編全体でも『20センチュリー・ウーマン』のネコに比べてかなり大きな比重を占めているので、詳しい活躍は本編をご覧になってほしい。
父親と息子を半々で分け合っていたのが『ビギナーズ』のアンニュイなイヌだったが、『20センチュリー・ウーマン』の自由奔放なネコは100パーセント母親だ。
ネコは常に母親を伴って出現する。大抵は、ベニングが物思いにふけっているシーンだ。そして彼女が思案しだすや、ネコはぴょんと飛んで画面外へと消えてしまう。ネコはベニングの奔放さを表すと同時に、その胡乱さや迷いをも示唆している。
ネコが彼女の思考と連動する存在であることは、家族に断りを入れずにロサンゼルスへ出かけた息子が帰ってくる直前、ベッドの上で彼女がネコをさわって話しかけるところによく描かれている。ベニングは他人としてネコではなく、自分の分身に言い聞かせるように話すのだ。
イヌであるところの父親とネコであるところの母親、(生物学的にはまったく対立する必要がないのだが文化的には)対立する(しているということになっている)ふたつの種がなぜ結婚してしまったのか。最初から離婚は目に見えていたのではないか。
この疑問に対する解答は既に『20センチュリー・ウーマン』の劇中でベニング自身の口からなされている。
「あの人が左利きだったからよ。
私は右利きで、だから朝に二人で新聞を読みながら株価をチェックするときに、彼は左手で値を書きながら、右手で私のおしりを掻いてくれた」
「それだけ?」
「それが好きだったの」
まったく対照的な二人だったからこそ、なのだろう。
エル・ファニングの階段。
十五歳のズマンの部屋に毎晩、二歳上のエル・ファニングが泊まりにくる。ふたりのあいだに、いっさいの性的な接触はない。ただ同じベッドで眠るだけだ。
エルファに恋心を寄せる思春期少年ズマンはこの中途半端な関係に悶々とした毎日を送っているわけだけれども、ところで彼女は二階に位置している少年の部屋までどうやって侵入するのか。
あらかじめ、彼の部屋に通じるハシゴが設置されているのだ。なぜハシゴがそこにあるのか。家が普請中だからだ。古い屋敷を戦後に買い取ったため、ベニングがクラダップの助けを借りて、毎日ツナギに身をつつんで改装工事を行っている。
家、家、家。またアメリカ人の映画に家が出てきた。
しかも、工事中の家だ。さすがに『許されざる者』に出てくる保安官の家のような邪悪さはないけれど、未完成であることはそのままベニングの未完成の家庭状況に対応している。
そうした未完成な家に住む未完成な家庭の未熟な子どもの心のすきまにハシゴをかけて、毎晩エル・ファニングは少年をふりまわしにやってくる。イレギュラーな訪問手段*2を使うのは彼女も少年とどうなりたいのかよくわかっていないからで、だから一緒にモーテルへ連れ立って一対一の生身の人間として接したときに、それまでの仮初の関係が崩れ去る。そのコテージに出入りするための扉は一つしかない。
突然出来た友だち以上義姉未満の存在としてのグレタ・ガーウィグ
(ここにシチュエーションがよく似ているといえなくもない二作、姉弟版であるところの『20センチュリー・ウーマン』と姉妹版であるところの『ミストレス・アメリカ』のそれぞれにおけるグレタ・ガーウィグについて書くつもりだったが既に記事が長くなってしまったので、まあまた今度ということで。)