結局、自分の好きなコンテンツとはなんなのか。好きなコンテンツがあったとして、どんなところが、何が好きなのか。
おおむね重曹みたいにふんわりとした生きざまをさらして歩いてる動物でも、歳をとればコンテンツの好みがはっきり確定して『へうげもの』の千利休みたいにハードコアで渋い趣味人になれるだろうと漠然と想像していたけれど、どうもそういう事態にはならないようで、未だに自分の好みがよくわからない。
自分でもよくわからないことは他人にも判じかねるらしい。コンテンツを勧めたり薦められたりするコミュニティに属しているにもかかわらず、「あなたが好きそうな本を見つけた」といって来る人があまりいない。そんなもんだ。別の可能性として、僕が知人友人から嫌われ敬遠されている、というのがあり得るけれど、そういうことを考えだすとこわいのでやめましょう。
物心つかないころは、好みなんてものは「タグ」だとか「属性」だとかとイコールだと思っていた。
好きな作品を要素に分解して、複数の作品間で最大公約数的に共通する要素を抽出すればそれが己の「好み」になる。そう無邪気に信じて、自分のベスト作品を百ほど選定し、要素を抜き出すと、どうやらヤクザと喋るイヌが出てきていっぱい死人の出る作品が「好み」とするところであるらしいと占われる。*1
ハハアン、なるほど、つまり『イノセンス』だな、と雑に合点して早速ビデオ屋で借り、DVDプレーヤーにかけてみる。案の定、全体の四分の三を寝てすごし、喋るイヌやヤクザが出てきたとしても見逃してしまう。円盤を吐き出すDVDプレーヤーに手を伸ばしつつ思い返せば、そもそも押井守の映画をおもしろいと感じた記憶がない。
ヤクザと喋るイヌが共演する小説なり漫画なり映画なりが市場的に枯渇している以上、消費者としてはヤクザか喋るイヌか、どちらかが片方の出演のみで我慢するしかない。
ヤクザかイヌか。どちからといえば、ヤクザよりイヌのほうに好意を持つ。昔、イヌを飼っていたせいだと思う。不幸にして、ヤクザを飼う経験には恵まれてこなかった。
ところが喋るイヌの出てくる作品は希少だ。子供向けの作品だとよく口をきいたりするが、求めているのはそういう類のイヌじゃない。もっと致命的なのは、喋るイヌの出てくる作品は人死が出るとはかぎらない点だ。まともな文明国でまともな文明的生活を営んでいるまともな人々にとって、いままさに死なんとしている人間は喋るイヌやヤクザ並に遭遇率の低い生き物(死につつあるが)であって、その生命が暴力的な手段で奪われるのであればなおさらレアい。
そこへくると、ヤクザの出てくる作品はどういうわけか人がよく死ぬ。だから自然ヤクザ作品に傾斜しかかるのだけれど、ヤクザという人種そのものが好きなわけではないから、噛んでるうちにいらいらしてくる。
そういう幾多の苦難を乗り越えて、やがては八割から九割がた自分の「好み」の要素をおさえた神的な作品を発見するわけだけれど、実際に読んでみるとどうも何か違う。何かが足りない。文体? 絵柄? カメラ? セックスアピール? それとも何かしら未確認の新しい要素?
この時点で労力を注いで構築した要素/属性データベースが壮大なガラクタであったことをようやく悟る。
好みの作品をあらかじめ用意されたデータベースから導出できないのであれば、漠然と選んだり出逢ったりした作品群をえんえんと選り分けるしかない。要素や属性の抽出を放棄し、ただタイトル名だけをならべる。その配列に、自分や他人はなんらかの文学的な意味か変態的なフェティシズムをなんとなく見出す。
それが21世紀人のやることか、とも思うが、しょうがない。現実にみんなそうしているようだし、そうしているみんなはちゃんと21世紀人だ。
ところが、この方法もこの方法で問題がある。漠然とセレクションしたものを曖昧と摂取するせいで、あいかわらず自分の本質的な好みがわからない。『虚航船団』と『ゆゆ式』と『NieA_7』と『プロ野球チームをつくろう』と『仁義なき戦い』が好きな人間がいるとして、まあそんなおぞましい奴はいないと思うがとにかく存在すると仮定して、提出された以上のリストからわかるのは、そいつが虚無に吸い寄せられる傾向にあるか虚無そのものの権化であるかということくらいだ。
ならじゃあ自分というものをちゃんと持ってしゃんと選別に望むべき、というきびしい御指摘があるかもしれない。しかし、カッコたる自分を持たないから自分の好みがわからないわけで、しゃんとしようと思ってしゃんとできるならハナから苦労ない。
というかそもそも、ぼんやりしすぎてるせいか、目の前で綴られている物語を自分が好きになっているのかどうかすらもわからない。コンテンツの皮膜に接して得られる感情は好悪だけではないことくらいこっちも承知しているけれども、そういうレベルの話ではない。人間の話をしているのではない。文字を読める動物の話をしているんだ。
文字を読める動物が、あるコンテンツに接して好きにも嫌いにも感情を賭けられないのなら、すわなち、コンテンツか自分かのどちらかが即座に死ぬべきであることを意味する。そうした賭博のテーブルの外にあって何も感じないというのなら、それはもう動物ですらなく既に死んでいるのだろう。
しかし死にたくはない。しかし手詰まりだ。では、どうすればいいのか。
ひとつの対処法としては、諦めるという選択肢がある。
諦める理由はいくらでもある。問題設定からして間違えていたのだと認める、とか、人間は複雑な機構で成り立っており好き嫌いの二元論で世界を捉えるようにはできていないとうそぶく、とか、その場その場のコンディションで決定されるコンテンツに対する評価を不変不動のものとして後生大事抱えることになんの意味があるのかと主張する、だとか。
そういう言い訳で自分を納得させる。総体として何を好きなのか、そのイデアを追求することをやめて、上流から流れてくるコンテンツをえんえん「好き」の箱と「好きじゃない」の箱に選り分ける人生を送り、喋るイヌかヤクザを飼い、最期には可愛い孫と娘夫婦と飼い若頭に見守られながらベッドに横たわって天へと召される。幸せな人生だ。カマキリのクソみたいだな。
もうひとつの選択肢としては、諦めないというのがある。
これは方法ですらない。諦めないと決めたところで、問題がはじめに戻るだけで何も解決しないし何も進まない。不可能だとわかっていながらも不断に挑戦することに意義あるのだという宗教めいたアジを飛ばす向きもあるけれど、それはキチガイの美意識というもので、論じられているのが人類の理想であるならばいざしらず、こういう個人的なテーマにはフィットしないと思う。
個人的には解決したい問題なので、解決の方法を知りたい。ならば新しい方法を探る必要がある。要素抽出をやり直し、データベースをより精緻に再構築するという手もある。うまくいくかはわからない。
どうすればいいのかなあ。
などとつぶやいてると、「自分で作ればいい」などと軽々に口走るとんちんかんが出てくる。何もわかっていない。自転車を買いたがっている人に自動車のほうが速くて遠くへ行けるしカッコいいよ、と薦めるようなものだ。そういう人の相手をするのは大変につかれる。つかれるだけで何もいいことはない。こういう仮想敵は増やそうと思えばいくらでも増やせるけれども、藁人形を編むのも一仕事なので、やはりつかれる。つかれたところで詮ないことを考えるのはもうやめます。
要約すると、あなたがたにはもっと、あなたがたの考える僕の好きそうなコンテンツを推薦してほしい、ということです。
*1:実際のところはもっと細分化され、グラデーションのついた結果が出たのだけれど、ここで長々棚晒しするものでもないので割愛する