当ブログの最新記事一覧が『ズートピア』で埋め尽くされてて『乙嫁語り』のパリヤさん顔で「うへえ」となりそうな今日このごろですが、もうちょっとだけ『ズートピア』の話をしたいと思います。
今回はズートピアの制作過程について、です。ガイドブックや各種インタビューを読んだ人は漠然とながら掴んでるようなことだと思います。
ネットで読めるインタビュー漁ったのを主観的に再構成したものなので詳細不明な部分*1も多く、あるいは間違いがあったり、誤訳や誤解してる部分があったりするかもしれません。お気付きの場合はご指摘いただけると幸いです。
さしてネタバレはないですが、基本的には観た人向きです。
鈍行列車じゃ too late
『ズートピア』の終盤、ジュディとニックが暴走した機関車に乗ってアクションを繰り広げるシーンが展開される。
目の前から対向車が迫ってくるが、彼らの乗る機関車はブレーキがきかない。
このままだと衝突してお互い四散してしまう。
さて、どうする――かは、映画を既にご覧になった向きにはご存知であろうと思う。
実はあのシーン、実話だ。
暴走する機関車に乗せられて、迫り来る大惨事へのタイムリミットをどう回避するか。
それはまさしく『ズートピア』の参加スタッフ自身が体験した出来事のメタファーだった。
このズートピアを作ったのは誰だ
誰が、いつ、どのようにして『ズートピア』を作ったのか?
ディズニーが、五年かけて、頑張って作りました、で済むならZPDはいらない。それで「なぜ『ズートピア』はあのような作品になったのか」に答えていることになるか? いいや、ならない。
私たちは書かれてあることを信用する。
映画の制作者について知りたければ、まずは何よりも信頼できる情報源として、映画本編のスタッフ・クレジットを参照する。
『ズートピア』には監督として三人の名前がクレジットされている。バイロン・ハワード、リッチ・ムーア、そして共同監督(Co-Director)としてジャレド・ブッシュ。
アニメ映画界において、二人以上の人物が監督の任につくのはさして珍しい現象でもない。ディズニーでもここ十年九作品のうち監督クレジットが単独なのは『ルイスと未来泥棒』(07年)と『シュガー・ラッシュ』(12年)だけで、残り七作はみなペア監督の仕事だ。
それに輪をかけて大家族なのは物語・脚本の方面。
ズートピアにはクレジットされているだけでも七人ものスタッフが名を連ねているけれども、彼らは「ヘッド・オブ・ストーリー」と称されるストーリー制作班の首班だ。クレジットされていないストーリー・トラストの人間まで含めるとおそらく関係者は二桁を軽く越える。*2
さらにはドキュメンタリーや各種インタビューを見るかぎり、クリエイティブ・ディレクターであるジョン・ラセターが大きなイニシアチブを握っていたのは間違いなく、こうなってくるといよいよめんどくささがマッドマックスで「みんなでがんばって作りました」でいいじゃんと済ませたくなってくるが、それならこうして記事として立てるまでもない。
もうすこし、がんばろう。大事なのはくじけない意志だ。
『ズートピア』は五年の歳月をかけて制作された。
と、聞くと「さすがは天下のディズニー。六十ヶ月もかけてじっくりコトコト煮込んできたからこそのあのなめらかな舌触り、透明な喉越し、ディズニー映画はウェルメイドの宝石箱や! と叫びたくなってくるだろうし実際叫んでいる御仁も多かろうし彦麻呂が現在もそのフレーズを使っているのか知らないのだが、実際はそんな単純な話ではない。
ズートピアの辿った道程は一言でいえば、紆余曲折。それも最終カーブが殺人ヘアピンの難産だった。
『ズートピア』の製作時期はざっくり三つに分けられる。
初期、立ち上げからサベージというウサギを主人公にしたスパイ映画をハワードが構想していた時期(2011~12年?)
中期、『ズートピア』のアイディアに転換して、ニックを主人公にストーリーを練っていた時期(2012~2014年11月)
後期、主人公をニックからジュディへと変更し、今の『ズートピア』が完成するまでの時期(2014年11月〜2015年10月)
初期 - 007風映画は死ぬ
発端
始まりは2011年。『塔の上のラプンツェル』が終わった直後だというから、1月か2月くらいだっただろう。
きっかけはハワードがクリエイティブ・ディレクターのジョン・ラセターに提出した物語のアイディアだった。
バイロン・ハワード(監督・企画者):
僕は(『塔の上のラプンツェル』を共同監督した)ネイサン・グレノと六つほどのアイディアをラセターに提出したんだ。
どのアイディアにも共通していたのは、擬人化された動物のキャラクターが出てくることだった。
ラセターはこのアイディアに興奮して、「小さな服を着た動物たちが走り回る映画であれば、どんなものだろうと私は協力を惜しまないよ」と言ってくれた。
「動物が喋ったり、二本足で歩いたり、人間の洋服を着たりしているディズニーのアニメーションが大好き」*3なジョン・ラセターだったが、そのような要件を完全に満たすディズニー映画は『くまのプーさん』のリメイクを除けば*4、2005年の『チキン・リトル』以降、作られてこなかった。*5ラセターがディズニーにカムバックしたのは06年だから、事実上「ラセターのしゃべる動物」は存在しなかった。
なんという手落ちだろう。
ラセターの意を受けて、ハワードはさっそく喋る動物映画の構想をねりはじめる。
『ボルト』、『塔の上のラプンツェル』と監督経験こそ豊富だったが、この二作品は06年のラセターのクリエイティブ・ディレクター就任に伴う混乱で降板した元々の担当監督たち(『ボルト』はクリス・サンダース*6、『ラプンツェル』はハワードの師匠筋にあたるグレン・キーン*7)の代役にすぎなかった。
『ズートピア』はハワードにとって、やっと訪れた「一から十まで携われる初めてのプロジェクト」*8だったという。
監督・アナザー・デイ
草創期のチームには、脚本・ストーリー・監督補を務めることになるジャレド・ブッシュ、キャラクターデザイン部の新入社員でまだ訓練生だったニック・オルシなどの名前が見える。
最初にハワードが思いついたのは、『007』風のスパイ映画だった。
ジャレド・ブッシュ(監督補・ストーリー・脚本):
私がバイロンと最初に会った頃、本作はスパイものだったんだ。私はスパイ映画が大好きだし、『007』シリーズを見て育ったから、「すごい作品になるぞ!」と思っていた。その後、スパイ版の大まかなストーリーを書いたメモを受け取ったんだけど、スパイ版ではズートピアにいるのがたった10分だけで、あとは南国の島を舞台に、スパイ映画的な物事が展開されることになっていた。
ハワードはシリーズ化を視野にいれるほど『サベージ』にノリノリだったものの、「ロジャー・ムーア版007っぽい」などとスタッフの評判は芳しくなく*9、御破算となる。
ズートピアに行こうよ
しかし、ハワードのビジョンは全否定されたわけでもなかった。最初の「たった十分」間に出てくる都市のビジョンだけは誰もがこぞって褒め称えたのだ。
クラーク・スペンサー(プロデューサー):
私を含む全員が思ったよ。「この哺乳類の街は素晴らしい。全てのストーリーはここで展開されるべきだ。だって、この街は今まで誰も見たことがないものだから」ってね。そこで私はバイロンに、「皆はこの街でストーリーが展開されるべきだと思っている。スパイ映画というアイディアもいいけど、ミステリーが隠された警官モノにすれば、この街を舞台として、自然な形でストーリーを展開できるんじゃないかな?」と提案したんだ。
それと前後して? 動物に関するリサーチが終了。*10
ハワードたちは「哺乳類の世界では90%が被捕食者、10%が捕食者」というデータに注目し、それを都市「ズートピア」の社会状況と結び付けられるのではないかと考えた。
ハワード:
動物を1年くらい研究していく中で、哺乳類の中では捕食する側が1割、捕食される側が9割ということに気付いたんです。この自然界の事実をもとに、時として対立関係にある2つのグループが進化して一緒に社会を築いていった場合、もともとあったお互いに対する恐れや不信感は心の中に残っているといったストーリーを思い付きました。ディズニー最新作『ズートピア』主人公は当初、ウサギのジュディではなくキツネのニックだった! (1) 主人公を逆転させた理由 | マイナビニュース
『ズートピア』の作品テーマとは何か
(この節の話は最後にまたするので、ひとまず飛ばしても問題ありません。)
描きたい絵が先か、テーマが先か、で言ったら『ズートピア』は前者先行で生まれた作品だ。
『ズートピア』に関する評言でよく見られる語に「差別」がある。たしかに、映画を見てみると明らかに言い逃れようもなく差別を扱った映画であるとしか言いようが無い。
けれども、監督たちのインタビューを見てみると、「差別」や「レイシズム」といったことばが慎重に避けられている。
――ー政治的な映画を作ったと御自分でお考えですか?
ハワード:
僕たちは何か知的な主張をしたり、政治的な傾向のある映画をやろうとして企画を立ち上げたわけじゃない。
ます初めに膨大なリサーチを行って、哺乳類の九十パーセントは被捕食者で、十パーセントが捕食者だという興味深い比率を知った。
これを映画に使えば、マジョリティとマイノリティの関係を核として多様な物語が生まれる素地が作れると考えたんだ。
ハワード:
偏見(bias)についてのストーリーを作るつもりでした。
特にもう一人の監督、リッチ・ムーアの方は作品のテーマについて問われると、ジュディの前向きさを強調することが多い。
リッチ・ムーア(共同監督):
ジュディは失敗して、自分自身を見つめなおし、できるだけ良い人間になろうとする……というより、できるだけ良いウサギになろうとするんだ(笑)。自分たち自身を最良の人にしようと努力する時、僕らは世界を変えられるんだと思うよ。それはとてもパワフルなメッセージだと思うな。
ムーア:
この映画の美点は、前向きさを描いていることです。しかし、観客に希望を信じさせるためには、作る側も相応の努力を払わなければなりません。理想を実現させるために困難を乗り越え、ひたむきに頑張る。それが私の考える前向きな映画です。「願えば何でも即座に叶う」ような安易な前向きさなど願い下げです。Zootopia: Byron Howard, Rich Moore on Their Animated World | Collider
「良い人間になろうとする前向きさ」とは、ムーア監督の前作『シュガー・ラッシュ』で描かれたテーマそのものでもある。
一方で、ハワード監督の『ラプンツェル』は(自身のオリジナル企画ではなかったとはいえ)自分の可能性を他者やシステムから抑圧されて閉じ込められている人物が主人公だった。
二人の監督が描きたかった物語の核とは実のところ、「差別はよくないからやめよう」という大上段かつ漠然とした社会正義ではなくて、それぞれの作家としての個人的な資質だったのではないか。それらが微妙にからまりあった結果、『ズートピア』は今日の『ズートピア』になったのじゃないか。
そうしたピクサー/ディズニーの合議制思想とは一見相反する作家主義的なものが『ズートピア』に宿っていたとしたら、面白いな。そういうバイアスのもとに色々調べ始めたわけですが、物事というのはこの社会のようにそんな単純でもない。
ジョシー・トリニダッド(ストーリー担当首班):
しかし私たちは徐々に動物たちにまつわる固定観念を扱う方向に傾倒していきました。誰だって、なにかしらの固定観念と戦っているものですからね。客席の誰もが心から理解できるものです。『ズートピア・ビジュアルガイド』角川書店
この話はひとまず宙吊りにしておいて、とりあえず軸を制作過程に戻そう。
中期-ニック主人公期
キツネと踊れ
さて、様々な種の動物たちが暮らす都市ものへと制作の舵をきった時点で、主人公がニックと決まった。『サベージ』から都市のアイディアとミステリーというジャンル要素を継承し、陰謀をめぐるバディムービーとして本格的なディベロップメント作業へと移行する。
主人公がニックに定まった理由はよくわからない。
しかし理由のひとつとして、バイロンが擬人化されたキツネを主人公とするディズニー映画『ロビン・フッド』の熱心なファンだったことが挙げられると思う。
ハワード:
僕は『ロビンフッド』を観て育った。『ロビンフッド』はディズニー映画のなかでも一番人気の作品ってわけじゃないけれど、子どもの僕にはものすごく印象的だったんだ。だから、『ズートピア』にも『ロビンフッド』のDNAがいっぱい入っている。
ムーア:
バイロンは元々ロビンフッドが大好きで、そもそもこの作品のアイディアもロビンフッドの映画から得ているんだ。【ズートピア】ニック&ジュディで遊び出す監督たち!? ディズニー2人の天才が送る“奇跡”の映画【来日インタビュー】(2/3) - ディズニー特集 -ウレぴあ総研
2013年の5月にはジェイソン・ベイトマンが主演声優を務めることが発表された。つまり、このすくなくとも時点で「ニックが主人公の『ズートピア』」でゴーサインが出ていたとみなしてよい。
『ズートピア』自体がアナウンスされたのは、2013年8月のD23エクスポ(公式ファンクラブ「D23」の会員向けのイベント)のことでである。
このとき公表されたコンセプト画は、無数のウサギ(人間味のない)に取り囲まれたニック、という構図で、ジュディらしきキャラの姿は見えない。
とはいえ、かなり早い段階からジェニファー・グッドウィン演じるジュディがニックの相棒として起用されていたことは疑いなく、制作中期における初期段階のコンセプトアートにもニックとジュディの二人が仲良く同じフレームに収まってる画が多く見受けられる。
ブッシュ:
当初から、バイロンはウサギをストーリーに登場させたいと考えていた。バイロンはウサギのように、一般的に言って可愛いものが好きなんだ。そして彼は、自然界におけるウサギの敵で、一緒にいると衝突するであろうキツネを、自然な流れ(=既存の警官モノで描かれているような流れ)で相棒にした。
Green isn’t Your Color.
さて、プロジェクト中期、『ズートピア』としては初期に属するこの段階において構想されていたのはダークな雰囲気のディストピア陰謀劇だった。
多種多様な種の動物たちが平和に共存する理想郷、ズートピア。
しかし、その「共存」は明確な差別思想の元に築きあげられた偽りの平和だった。
その根幹を支配していたのが「テイム・カラー(Tame Collar)」と呼ばれる首輪だ。
ハワード:
その時点のバージョンでは、捕食者はマジョリティである被捕食者によってとても手ひどい扱いを受けているという設定だった。そういう場所がニックの育った街だったんだ。
被捕食者が安全で快適な生活を送っている一方で、捕食者は過度に興奮したり乱暴になったときに電気ショックを与える「テイム・カラー」と呼ばれる首輪を身につけなければならない
この時期に作られたストーリーボードにはこんなシーンがある。
子ども時代のニックとフィニックが小学校の一室で教育用フィルムを観ている。*11
教師(ウマっぽいが具体的な種族は不明)が子どもたちを、首輪をつけたグループとそうでないグループに分けてこう言う。
「私たち哺乳類は二つのグループに分かれています。サメのような歯をもつ捕食者と、ひらべったい歯をもつ被捕食者の二つです。
私たちが『お友達』ではなぜでしょう、フィニック?」
フィニックは答える。「えーと、食べ物をわけてあげられないからですか?」
先生は「なぜなら、捕食者は私たちを食べちゃうからです!」
こうしてズートピアの子どもたちは幼いときから「捕食者と被捕食者は違う」「捕食者はほっとくと被捕食者を襲う」と教育されて育つ。
人口の90%にとっては安全安心な理想郷だが、残りの10%にとっては監獄のような社会。
こんな世界でニックが素直で善良な一市民として成長するはずもない。
ハワード:
(ニックが主人公の頃は)観客はニックの過去について知りたくなるはずだった。なぜ彼はそんなにシニカルなのか? 彼の目標はなんなのか? 何と戦っているのか?
だから僕はキャラクター理解のために、彼に暗い過去を与えた。その過去が映画全体を暗く重いものにしたんだ。そうなるとニックのエッジの効いたジョークも精彩を失った。ジェイソン・ベイトマンも彼のキャラをつかむのに相当苦労したと思うよ。Zootropolis: Rich Moore and Byron Howard interview | Den of Geek
彼は長じて、ズートピアに反抗する擦れたアウトサイダーになる。
禁酒法時代の地下酒場風のバーに偽装し、「ワイルド・タイムズ」という捕食者たちのための脱法アミューズメントパークを経営する。
ブッシュ:
動物たちが動物に回帰できる場所さ。捕食者が被捕食者のコスプレをした別の捕食者をおいかけて遊んだりできる。
そうやってストレスを解消するわけ。「ワイルド・タイムズ」にはニック考案の安っぽくて楽しげな遊び道具がたくさん設置されていて、まるでカーニバルみたいだった。
環境アートディレクターであるマチアス・レクナーのサイトから「ワイルド・タイムズ」がどういう施設だったか、どんな遊び道具が設置されていたかを確認できる。
余談になるが遊具の一つに『ピノキオ』に出てくるネコ、フィガロを模したものがあるのが面白い。『ズートピア』の街並みは『ピノキオ』に影響をうけたもの*12らしいけれども、そういえば、子ども時代のジュディを虐めるキツネ、ギデオンも『ピノキオ』に出てくる悪者のキツネの腰ぎんちゃくである山猫と同じ名前だ。こういうところにもディズニーの先達に対するリスペクトが垣間見える。*13
ダークでないと
それはさておきつ。
このニック主人公&ディストピア案はラセターの許可も受け、制作をかなりの段階まで進めていたらしい。
ストーリーの詳細は明かされていないのだが、ビジュアルブックや制作ドキュメンタリーの断片などから掴める内容としては、自由人ニックと新米警官ジュディがひょんなことからチームを組んで事件を捜査することになるうちにある巨大な組織の陰謀に気づき始める……という、アレ? そんなに変わんなくない?*14
しかし、現行のものと比べて見ると、やはりというかトーンがかなり異なる。ニック主人公案はシチュエーションもロケーションもダークで重いものが多く、「これ本当にディズニーでやっていいの? 『コルドロン』*15か?」とも思ってしまう。
作品の空気を特に重たくしているのは主人公ニックの存在そのものだった。
「偏見(bias)についてのストーリーを作るつもりでした。しかし、主人公であるニックの目から眺めたズートピアはとっくに『壊れた街』だったのです。彼はズートピアを好いてはいませんでした」
ニックのキャラクターを観客に理解させるために用意された彼の過去話はどれも差別や虐待を受けた経験だった。
ジュディはジュディで「きれいなズートピア」を信じて疑わないガサツで無能な警官にしか見えなかった。
果たして、このドギツく暗澹とした社会的弱者の物語を子どもたちは喜んで受け入れてくれるだろうか?
現場でも薄々やばいことに感づいてはいたらしい。
ジャレド・ブッシュなどは「当初のニックとジュディのキャラクター設定に納得がいかなかった」などとぶちまけている。
ディズニーではストーリーボードや未完成のシーンなどをつなぎあわせて、とりあえず仮の完成版を作ってスクリーニングで出来を観る。最初の数回のスクリーニングは反応がかんばしくなかった。
しかし、もうラセターのGOサインは出ている。監督のハワードの意志も固い。そもそも今更一からやり直せるタイミングは過ぎ去っていた。
ストーリーや設定を練るディベロップメントの段階は既に終わりかけ、いくつかはもう実際にアニメーションをつけるプロダクションの工程に突入している。
声優もスタッフの割当も出揃い、『ズートピア』は2014年の秋にはもはや止まらない止まれない暴走特急と化していた。
全米公開は2016年3月6日。公開まで後一年半。天下のディズニーの面目にかけて、その期日は一日たりとも延ばせない。
もはや後戻りできない段階にさしかかっていた。
誰もがそう思っていた。
ところが2013年11月、その暴走特急を止めようとする人物が現れた。
あるいは、いかにしてピクサーのレジェンド監督がウォーリーするのをやめなかったか。
ハワード:
主人公の交代が決まったのは、五回目のスクリーニングが終わった時だ。Zootropolis: Rich Moore and Byron Howard interview | Den of Geek
その日のスクリーニングはいつもと様子が違っていた。
普段は来ていない、「よそもの」がいたのだ。いや、どちらかといえば「普段は遠くに離れて暮らしている実家の親」に近いか。
ピクサーの社員たちである。
ディズニー wikia の制作過程にはこう書かれている。
「テイム・カラー」のコンセプトは既にプロダクションの大きな部分を占めていた。ラセターでさえ、このアイディアに認可を下していた。ところがピクサー社員のチームを招いてスクリーニングを行った際の反応が思わしくなかった。
このことが主人公交代劇の決定的な契機となる。
この不遜な「ピクサー社員」とは誰のことか。
別のインタビューには詳しく名指しされている。
ムーア:
ピクサーの人々を迎えてのスクリーニングで、アンドリュー・スタントンがこう言った。「俺はこの世界を好かないな。ニックに対してあまりにも手ひどい。観客はニックを通してこの世界のすべてを見る。だから、俺はニックにこの街を離れてほしくなるよ。
ニックの人生を辛くしている世界になんて、誰が住みたいと思う?」Zootropolis: Rich Moore and Byron Howard interview | Den of Geek
アンドリュー・スタントン。
ピクサーのオリジナル・メンバーの一人で『バグズ・ライフ』や『ファインディング・ニモ』、そして『ウォーリー』の監督。ピクサー、いやアニメ界のレジェンド中のレジェンドだ。
その彼に異見されてしまったことでハワードの心も折れた。
自分たちはズートピアという世界を観客に愛してもらいたくて映画を作っている。しかし、観客にとってのズートピアとは、感情移入先であるニックをいじめる酷い世界だ。そういう世界をどうして観客が愛してくれるというのだろう?
スタントンの意見は正鵠を射ていた。
ムーア:
そして、ハワードがやってきて「君たちはもうニックを主人公として好ましく思ってないのでは」と言った。
ムーアを始めとしたストーリー・トラスト(物語の内容を討論するための会議。ストーリーにクレジットされている七人はその主要な面々)の人々も、ジョン・ラセターもスタントンに同調した。
いまや暴走特急は大きくレバーを入れて、路線変更を試みようとしていた。
one Moore time, once more chance
ニックを主人公から降ろす。ではその代わりは?
相棒のジュディだ。
ジュディを主人公として、観客の感情移入のガイド役として改めて眺めてみると、実に具合が良かった。
田舎から上京してきて、まっさら目でズートピアの素晴らしさ、きらびやかさに魅了される。努力を惜しまず、正義感は人一倍な一方で、どこか偏見から抜け出せない。ジュディとは観客そのものだ。
バイロン:
『私たちはこの映画を通じて何を言おうとしているのか?』
偏見について語ろうとしているのなら(私たちが認めたがらないにしても、必ず誰の心にもあるものです)、皆親切で温かい環境からやってきた純粋なジュディこそ、そのメッセージを伝えるのに一番相応しいキャラクターだと気付きました。
そして、世界の嫌な面を知るキャラであるニックは彼女と衝突し、互いに学び合う。これは以前より良いアイディアのように思いました。
主人公が変われば、ストーリーも当然変わる。
本来なら一からジュディの物語を組み立てなければいけない。
だが、時間がない。一からストーリーを立て直すには、致命的なまでに遅すぎる。
いっそ公開日を延ばすか? いや、それは許されない。
ジョン・ラセターはそれまでハワード単独監督だった『ズートピア』に、もう一人の運転手を投入した。
それが共同監督のリッチ・ムーアだった。
ムーアは数年内に公開予定だった映画のプロジェクトを抱えていたが、それをなげうって『ズートピア』の監督を引き受けた。
ムーア:
スタジオで働くっていうのはそういうことさ。総力戦になったならば、全員が今やってることの手を止めて、製造ラインの次に控えている映画のために奉仕しないといけない。
ハワードは、ムーアが『ズートピア』に向いていた理由としてこんなことを語っている。
ハワード:
リッチは『シュガー・ラッシュ』を監督した経験があった。壮大な世界観を持つ作品で、五つの異なる世界が一つの映画のなかに詰まっているんだ。この経験が『ズートピア』でも生きたんだと思う。
このことがラセターの念頭にあったかは定かではない。
ともかく、リッチが新たに全体を差配する人物に昇格することで、意思決定のプロセスが劇的に短縮されることとなる。
「普通なら二年かけてやらなきゃいけないことを、僕たちは一年でやった」とはムーアの言だが、監督を二倍に増やしたからと作業期間を半分にカットできるとは、簡単な算術なようでいて、そうとうトチ狂っている。
でもそれをやるのがディズニーという会社だ。
後期-ジュディさん主人公期
ムーア:
スケジュールが大いに詰まっていたもので、とにかく早く、早く進行しないといけなかった。もはやディベロップメント(内容を練る)に使う時間なんてなかったんだ。ストーリーの書き換えとプロダクションを同時にこなさないといけなかった。
だから、スタッフの質問や疑問に答えられる人物が二人いるということは制作を停滞させないためにも重要だったんだ。なんとしてでも2016年3月4日の公開に間に合わせる必要があった。
現場は混乱した。
この時点でリッチ・ムーアが新たに監督に迎い入れられたことは公式にアナウンスされていなかった。
そのせいでもないだろうが、なんと主演声優であるジェニファー・グッドウィンとジェイソン・ベイトマンに主役の交代を伝えるの忘れるという失態を犯してしまった。二人が変更に気づいたのは、新しい台本を渡されてのボイスセッションの途中であったという。
このエピソードだけ見ても、いかに現場が狂騒の渦中にあったかがうかがえる。
それでも彼らは少しずつ、大急ぎで作業を進行させた。
ムーアとリッチは時に協働し、時に分担することで効率的にひとつひとつ問題を解決していった。
ムーア:
共同監督として、僕たちは一緒に多くの作業*16にあたった。いかんせん、スケジュールがきつかったから、時々は分担して作業をすることもあったけどね。
ハワード:
リッチは編集面を握り、僕はライティング*17やエフェクト等に注力した。今回は分担と協働のハイブリッドって感じだったな。(『ボルト』をハワードと共同監督した)クリス・ウィリアムズと組んだときは分担することが多かったけど、(『塔の上のラプンツェル』を共同監督した)ネイサン・グレノとやったときは一緒に作業することが多かった。『ズートピア』ではこの二つの中間のスタンスをとったんだ。
僕たちは時間さえあえばいつでも協働したし、スタッフにもそのことを理解してもらった。映画を立て直すために、関係者全員が同じゴールを見据えているんだと確認したかったんだ。だから仕事の偏りはそんなになかったはずだよ。Byron Howard and Rich Moore Talk ‘Zootopia’ | Animation World Network
脚本は絶えずアップデートされつづけ、脚本担当のフィル・ジョンストンによれば「400回も」脚本を書き直したという。*18
没になったストーリーボードやシーンを見てみると、現行本編でも一部改変されて流用されている箇所も多い。
あらかじめ作り上げていた背景やエピソードが主人公変更後も活きたのだ、といえば聴こえはよろしいか。
ムーアが共同監督に、ブッシュが監督補として正式にアナウンスされたのは2015年の3月だった。
5月にはベイトマンとグッドウィンが担当するキャラクターの名前が公表される。
そうして、完成五ヶ月半前の6月。ようやく最初のティーザーが『インサイド・ヘッド』の全米公開に合わせる形でお目見えする。
このティーザーには現行の本編に登場するキャラクターがほぼ全て揃っており、しかもジュディは駐禁取り締まり用のジャケット、ニックはおなじみの緑のシャツを着用している。
つまり、この時点で大方の設定やビジュアル、筋はほぼ出来上がったと見ていい。
かくして、2015年10月29日。
ムーアは自身の twitterで完成を報告する。
And did I mention animation on #Zootopia is wrapped? No? Well, ANIMATION ON #ZOOTOPIA IS WRAPPED! #HalleFREAKINlujah@DisneyAnimation
— Rich Moore (@_rich_moore) 2015年10月30日
「主人公変更」という重大な決断から僅か一年たらずでの出来事だった。
主人公変更によって物語はどう変わったか。
いささか人物によった見方になるけれど。
バイロン・ハワードにとって『ズートピア』は一貫して「偏見 bias」を語るための物語だった。これにゲイとしての自身の人生が反映されていない、と言えばウソになるのではないだろうか。
世界から否定され、抑圧され、踏みにじられてきたニックは彼の一部であったはずだ。『ズートピア』のメイキングを描いたドキュメンタリー「Imaging Zootopia」でもそのことに触れられている。
主人公がニックからジュディに変更されたことで、『ズートピア』はハワードのニック的な面よりもジュディな面を引き出すようになった。
バイロン:
この物語では、ウサギのジュディが、周りの人たちからウサギだからとバカにされ、勇ましい警官にはなれないだろうと見られてしまいますが、その彼女が主人公であることによって、偏見や先入観からいろいろな障害や困難を経験した人たちに理解してもらえるものになると考えました。ディズニー最新作『ズートピア』主人公は当初、ウサギのジュディではなくキツネのニックだった! (1) 主人公を逆転させた理由 | マイナビニュース
元々彼はディズニーでの仕事を夢見て、アニメの専門がない大学を卒業してから何度もディズニーの入社試験に挑戦し、二年通算五回目の挑戦でようやく採用を勝ち取った苦労人だ。
ハワード:
ある意味、ジュディには共感を覚えるよ。
かつての僕はアニメーション部門に入ることを夢見ていて、応募すればすぐに入れるものだと思っていた。でも、実際はディズニーに入るのに2年かかったんだ。5回も応募して拒絶され続けた。
僕はそれでも諦めなかったし、今では入るのにそれだけ長くかかったということをとても誇りに思っている。
だって、これから始めようとしている人に、「僕は1回目の応募で入れたよ」なんて言ったら、圧倒されてしまうし、そんな期待に応えるのは大変だろう? でも僕らはみんな人間で、誰もが失敗するし、物事はいつも思う通りには進まない。そういうことを示せれば、人はもっと勇気づけられると思う。だから、僕はずっとトライし続けるジュディを尊敬しているよ。
ハワードはジュディの不完全さに人間味を、そして希望を見出す。
ハワード:
そして、「完璧であろうとするな」と言いたいよ。ジュディには欠点があって、完璧なキャラクターでないのと同じようにね。常に、正しくあろうとしない方がいいと思う。誤りを犯すことも予想して、その誤りで自分をこうだと決めつけないことだ。ディズニー「ズートピア」2人の監督が語った“夢を叶える秘訣”<米アニメーション・スタジオ取材Vol.2> - モデルプレス
世界が完璧でないのと同様に、人間もまた完璧ではない。
だからこそやり直せる。仲直りできる。再挑戦できる。
まさにそのようにして、『ズートピア』という映画は完成した。
素朴な理想と夢から始まり、てさぐりのまま大きな挫折を二度も経験し、その果てに『ズートピア』の大ヒットをつかみとった。
『ズートピア』の物語の心臓は、ハワード自身の物語と奇妙に呼応している。
リッチ・ムーアもまた『シュガー・ラッシュ』で偏見と抑圧を描いた人物だった。
『シュガー・ラッシュ』の主人公であるラルフはテレビゲームの悪役キャラ。しかし、素顔は心根のやさしい、さびしがりやの大男だ。
彼はゲーム世界の隣人たちと仲良しになりたいと願っているが、しかし「悪役」という偏見のせいで拒絶される。
ラルフはゲームの悪役たちが集うミーティングでこんなセリフを聞かされる。
「俺たちは悪役だけど、悪人ってわけじゃないだろ?」
根が善人の悪役は、世界からの決め付けを乗り越えて「正義の味方」になれるのか。それが『シュガー・ラッシュ』という作品だ。『シンプソンズ』出身の監督らしい、若干シニカルでありつつも温かいオチが待ってる。
その彼が『ズートピア』の監督に加えられるにあたって、本編に注入したのが(先述したが)「前向きさ」、オプティミズムだ。
ハワードのそれが個人の絶望に抗するための、再挑戦のための努力なら、ムーアの前向きさは世界を革命するため、つまり「世界をよりよくするため」にある。
ムーア:この映画の美点は、前向きさを描いていることです。しかし、観客を希望を信じさせるためには、相応の努力を払わなければなりません。理想を実現させるために困難を乗り越え、ひたむきに頑張る。それが私の考える前向きな映画です。「願えば何でも即座に叶う」ような安易な前向きさではダメなのです。
ジュディには心から信じている理想があります。
ムーア:
ジュディの旅の目的は、世界をより良い場所にすること。
僕自身、若いころにこの業界や自分の世界をより良い場所にしたいと思っていたことを覚えている。僕が学んだレッスンで、劇中のジュディも学んだことがあるんだ。
それは、世界をより良い場所にするための最善の方法は、自分自身を見つめるべきだということ。
必ずしも外側を変えるのではなく、内側に目を向ける必要があるんだよ。ジュディは失敗して、自分自身を見つめなおし、できるだけ良い人間になろうとする……というより、できるだけ良いウサギになろうとするんだ(笑)。自分たち自身を最良の人にしようと努力する時、僕らは世界を変えられるんだと思うよ。それはとてもパワフルなメッセージだと思うな。
ミクロとマクロ。個人の変革と世界の革命。
差別と偏見は確かに存在する。だが実のところ問題はそれらが存在することそのものではない。
そうした世界の歪みにいかに立ち向かうか、だ。
大事なのは、くじけない意志だ。
それこそが『ズートピア』で何より最重要のテーマなのだと思う。
ムーアとバイロンの二人の資質とディズニーの制作環境がかっきり咬み合うことで、『ズートピア』という前代未聞の作品が爆誕した。めでたしめでたし。
proxia.hateblo.jp
proxia.hateblo.jp
top.tsite.jp
columii.jp
制作経緯について割と書かれてる感じの日本語、翻訳記事。
io9.gizmodo.com
主役交代劇にスポットを当てた英語記事
disney.wikia.com
ざっくりと制作過程について書かれている wikia
*1:特に精確なタイムライン
*2:IMdbにはクレジットされていないストーリー担当としてダン・フォーゲルマンの名前も書かれている
*4:そもそもあいつらぬいぐるみだし
*5:「しゃべる動物が主人公」というだけなら08年の『ボルト』がある
*6:主な監督作に『リロ・アンド・スティッチ』。ディズニー退社後はドリームワークスで『ヒックとドラゴン』シリーズを立ち上げ大成功を収めた
*7:ディズニーを代表するアニメーターの一人。80年代から90年代にかけてのいわゆる「ディズニー・ルネッサンス」期の作品群のほぼ全作品で主人公級キャラのアニメーションを担当した。80年代にはラセターと組んで『かいじゅうたちのいるところ』を3D作品として作ろうとするなど先見の明もあった。が、ラセターがディズニーに戻ってきたタイミングで体調不良を起こし、自身初の監督作になるはずだった『ラプンツェル』から身を退き退社。彼の弟子であるアーロン・ブレイズがハワードの直接の師匠
*8:http://www.awn.com/animationworld/byron-howard-and-rich-moore-talk-zootopia
*9:余談だがおそらくスパイ映画案のまま企画が成立していたら、2015年のスパイ映画の大攻勢――『キングスマン』、『ミッション・インポッシブル』、『007 スペクター』、『SPY』、『コードネーム U.N.K.L.E』――を受けての戦いを強いられたはずで、今ほどの評価を享受しえたかは疑わしい
*10:九ヶ月、証言によっては八ヶ月、あるいは十八ヶ月かけたとされる動物リサーチだが、時期があまりはっきりしない。プロジェクトが立ち上がってすぐにリサーチをかけたならばスパイ映画案にはならなかったはずで、かといって一旦スパイ映画が頓挫した後にリサーチを始めるのも「まずリサーチから」というディズニーの信義に反する
*11:このフィルムの内容はそのまま現行の本編の冒頭シーンとして流用されている
*12:http://ure.pia.co.jp/articles/-/54141?page=2
*13:本編で一番目立っているのは『バンビ』と『南部の唄』へのオマージュだろう。ジュディがボゴ署長から駐禁取り締まり100枚のノルマを課せられたときに片足をトントンさせるのは、『バンビ』のとんすけの癖だし、終盤にはバンビそのものを模した子鹿の模型が出てくる。ジュディが私服を着ているシーンにおけるピンク色のシャツとジーンズのコーディネートは『南部の唄』のうさぎどんの服装そのまま。ジュディはディズニーを代表するこの二作品のウサギ、灰毛でほっぺたがぷにぷにしているカントリー・ラビットの血統なのだ。
*14:まあそもそも都市型ノワールのプロットなんて大してかわんない。みんな『チャイナタウン』とジェイムズ・エルロイが好きすぎるせい
*15:85年に公開されたディズニーのアニメ映画。不必要なまでに暗すぎるトーンと内容で公開当時から長らく「ディズニー・アニメ最悪の失敗作」と評された
*16:meeting togeter
*17:writing ではなく、lighting のほう
*18:プロデューサーのクラーク・スペンサー「私が思うに、これまで多くの脚本家たちは、個人で脚本を書くプロセスを楽しんできた。しかし、私たちの脚本はとても協力的なプロセスを踏んで完成されたんだ。脚本家や監督、ストーリー・アーティスト、そしてラセターにはそれぞれの視点があって、これらが融合して最終的なストーリーが完成したけれど、脚本家たちはそれぞれの視点に応じて、全ての会話を書かなければならなかった。脚本家は、脚本が常に前進と後退を繰り返しながら進化していくということを、理解していなければならなかったんだ。」http://top.tsite.jp/news/cinema/i/28566791/