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I KILL GIANTS ――『バーバラと心の巨人』

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 ピュアな魂があまりにもハードすぎる現実に耐えきれず、膜を隔てて世界と接することがある。『ベイビー・ドライバー』の場合、その膜とは音楽だった。そして、『バーバラと心の巨人』では巨人(ジャイアンツ)*1だった。



映画『バーバラと心の巨人』予告編



 ロングアイランド*2の浜辺に近いボロ家に姉兄らと住む少女バーバラ(マディソン・ウルフ)は、日々攻めよせる巨人から街を守っている。だが、他人の目から見れば完全に変人だ

 うさぎの耳を模したカチューシャをつけ、「コヴェルスキ」という昔のプロ野球選手の名前をつけたポシェットを携行し、呪術めいた奇行に走るバーバラは、学校でも浮いた存在でいじめっ子に目をつけられていた。*3

 そんな彼女もある日イギリスから転校してきたクラスメイト(シドニー・ウェイド)と接近し、「巨人」の何たるかについてレクチャーするほど仲良しになる。

 一方、学校の新任心理カウンセラー(ゾーイ・サルダナ)は素行と家庭に難しい事情*4を抱えたバーバラを心配し、対話しようと試みる。しかしバーバラはカウンセリングを拒む。

 特に家族の話題を出したときのバーバラの反応は頑なだ。バーバラは「巨人」とそれをとりまく世界観に生きているが、その膜を切り裂いてバーバラを傷つける話題が「家族」だ。

 そこのあたりが端的に表れているのが事実上の家長として一家を支える姉(イモージェン・プーツ)と手人形で会話するシーン。架空のキャラクターの口を通じて普段はギスギスしている姉となごやかにやりとりするのだが、姉がふと「私ももっと妹と向き合うべきかしらね」とつぶやくと、途端に人形を引っ込め気まずく沈黙する。「家族」がバーバラを剥き出しの現実に引き戻す。


 一体「家族」のなにが彼女はそこまで追い詰めているのか、というのが本編の興味を牽引するメインの謎だ。

 バーバラの「巨人」は周囲のひとびとから空想と見なされ、映画の物語もあたかも現実逃避に走る少女を友人やカウンセラーを通じて社会化していくかのように展開される。

 転校生の少女は常に黄色のコートを羽織っているが、これはバーバラが常用しているワインレッドのパーカーとの対比であるとともに、劇中で頻繁にスクールバスの黄色と重ねあわされる。つまり、転校生はバーバラにとって学校=健全な社会への媒介だ。


 ところが、そうした見方だけでは取りこぼされる面もある。

 空想癖は現実から逃避する手段である、そういう観念がとかく抱かれがちだ。事実、「現実の苦痛から逃避するためのマジカルでリアルな空想」を描いた映画作品はヴァリエーションまで含めると枚挙にいとまない。*5

 しかしバーバラの「巨人殺し」はストーリーは逃避のみに徹しているわけではない。

 冒頭におけるバーバラのパンチラインを思い出していただきたい。

「私は巨人を見つける。巨人を狩る。そして、殺す。(I find giants I hunt giants. I kill giants.)」

 バーバラは自らを「戦士」と認じ、「巨人」を捕捉するための罠を日々試験し、巨人を倒すために呪文を張り巡らせている。必殺の武器はポシェットに秘めた巨大ハンマーだ。引きこもるために作り出すストーリーとしてはかなりアグレッシブであるといえる。

 バーバラにとり、「巨人殺し」は生の現実に向き合うためのプロセスの一部だ。
 個人的には自己セラピーと形容したくはない。バーバラにとって「巨人」は明らかに現実であり、そして世界だ。*6*7
 ラストシーンにも描かれているように、彼女は「巨人」がいたからこそ、自らと戦えた。空想は弱さの現れかもしれないが、同時に強さを与えてくれる道具でもある。
 あるいは想像力が本来はバラバラに独立している身の回りの物事を統合し、意味のある物語に整えるからこそみな日々をギリギリに生きられるのであって、そう考えれば本作は誰しもが持っている正気についての物語なのかもしれない。



I KILL GIANTS (IKKI COMIX)

I KILL GIANTS (IKKI COMIX)

 ずいぶんひさしぶりに読み直したけど、コミック版はバーバラ視点でのマジックリアリズム的世界のディテールが豊富で、映画版はそこを削った分、姉を中心とした家族の話に注力した印象。

*1:大枠は北欧神話のそれに則っている。共同原作者のケン・ニイムラ曰く『ワンダと巨像』や『千と千尋の神隠し』に影響を受けたそう。http://collider.com/i-kill-giants-movie-interview-joe-kelly-ken-niimura/

*2:共同原作者で脚本も務めるジョー・ケリーの実家がある場所。「変化の象徴としての水辺」の意味合いも込められているらしい。ちなみに実際の撮影場所はダブリンやベルギーだったとか。https://nofilmschool.com/2018/03/i-kill-giants-screenwriter-joe-kelly

*3:いじめっ子がバーバラを袋叩きにするシーンは割と真正面から物理的に暴力的で、女の子同士がいじめが描かれる映画としては珍しい描写な気がする

*4:コミック版では終盤までかなり強引に隠匿されるが、映画版ではかなり早い段階で見抜けるように作られている。

*5:最近だとテーマ的に非常によく似た作品にJ・A・バヨナ監督『怪物はささやく』がある。原作の出版も『I KILL GIANTS』とほぼ同時期。

*6:コミック版では巨人と人間の質感がフラットだったために現実と非現実の境目がより曖昧であり、巨人以外にも妖精などのファンタジーキャラが登場するためよりマジックリアリズム感が強い。一方映画ではバーバラのネガティブな神経質さが強調され、巨人がCGで描かれるため、逃避癖的空想感が強くなってしまっている

*7:さらにいえば、監督のアンダース・ウォルターは「状況に伴う苦痛を緩和するためのイマジナリな世界やファンタジー」に興味があると述べている。すくなくとも彼自身は空想の逃避的な面を描きたいようだ。https://www.filminquiry.com/interview-anders-walter/


犬映画探訪――『禁じられた遊び』、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』、『遊星からの物体X』

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マイ・ドッグ・デイズ・イン・キョート

 なんの因果かわかりませんが、今現在京都では示しわせたように各映画館がイヌ映画の古典作を上映しています。
 京都シネマでは『禁じられた遊び』、河原町のMOVIXでは『遊星からの物体X』、二条のTOHOでは『マイライフ・・アズ・ア・ドッグ』。
 これはきっとイヌ映画を観ろ愚民どもという神からの徴にちがいありません。イヌ映画の神のな。

 というわけでこの三作の犬映画的なアングルについて軽く触れていきましょう。
 ばらばらに書いたものなのでそれぞれ関連性はとくにありません。

イヌの死とヒトの死が等価だった時代、それは――『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督、1952年)


映画『禁じられた遊び』予告編


 冒頭、パリから逃れたポーレット一家三人が橋の上でドイツ軍の爆撃を受ける。
 爆撃機が上空を舞う最中、幼いポーレットは逃げ出した犬を追いかけて走り出し、両親も彼女を追いかける。そこに機関銃が掃射され、両親は死亡。ポーレットはピクピクと痙攣している犬*1を抱いて、ひとりで橋の上をさまよう。
 そこに荷車を引いた老夫婦が通りがかり、ポーレットを拾う。
 老夫婦のおばあさんはポーレットの抱いている犬を見て「もう死んでるじゃないか」と引き離し、橋を通る川へと勢いよく投げ捨てる。このときの犬の死体の「モノ」扱い感がすごい。
 犬を恋しがったポーレットは隙を見て老夫婦野元から脱けだし、川に流されていく犬の死骸を追い、拾い上げる。
 田舎の畑のほうではもうひとりの主人公である少年ミシェルが家族と一緒に野良仕事をしている。牛が逃げ出した*2ので林を流れる川縁まで追うと、そこでポーレットと出会う。
 ポーレットはミシェル一家で一時的に養われることに。橋の上で死んだ両親についてミシェルが訊ねると、ポーレットは「お母さんたちも川に投げ捨てられるの? 犬みたいに」とおびえる。ここでポーレットにとって犬は人間と価値的に大差ないことが示される。
 ポーレットは犬を埋葬しようとするが、途中で牧師の邪魔が入る。パリ育ちで宗教的な知識にぜんぜん通じていない*3ポーレットに対し、牧師は「ミシェルが詳しいから聞いてごらん」と促す。
 ミシェルは、死体を埋めることは知っていても埋葬行為自体の意味をよくわかっていないポーレットに墓というものの存在を教え、水車小屋で犬を埋葬する。ポーレットは「一匹だけだとあの世でさびしいから」と一緒に別の動物を埋めることを主張。ミシェルはとりあえず水車小屋に巣くっているフクロウから死んだモグラを取り上げて穴に放り込むが、ポーレットは「ネコとかも入れないと」と要求をエスカレートしていく。
 ミシェルはミシェルで墓には十字架を指すものだということで十字架を調達しようとする。最初は自作しようとするもうまくいかなかったのもあって、教会の墓地からくすねるようになる。墓の数は埋められる動物の種類のともにどんどん増えていく。


 ポーレットは幼く、命の価値に差をつけない。犬のために両親と自分を危険にさらしたこともいまいちわかっていない。両親が死んだことを理解しても、今度は「死んだ犬のように川へ乱暴へ投げ捨てられるのでは」とおそれる。
 その一方で、両親と犬という自分にとっての世界をいっぺんに喪失してしまったせいか、命が失われることに対して非常にセンシティブだ。ミシェルが戯れにゴキブリを潰す場面では「殺しちゃダメ」と憤激してうずくまり、ミシェルとの対話を徹底的に拒否しようとする。
 そのようなポーレットと、日常に根付く権威たるキリスト教にひそかな反発心を抱いているミシェルが手を組んだ結果、動物たちの墓の山が築かれ、その墓標が人間たちの墓からねこそぎ移しかえられてくる、といったグロテクスな事態が出来する。ポーレットは動物の死と人間の死が等価である世界を実現してしまったのだ。
 そして、実のところポーレットの風車小屋は第二次世界大戦という状況を正確に捉えたジオラマでもあった。爆撃機やロケットミサイルによって人も家畜も無差別に焼き殺される世界。それはたしかにあの時代、誰もが肌で感じた現実だったのだろう。


禁じられた遊び [DVD]

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少年がイヌになる話――『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(ラッセ・ハルストレム監督、1985年)


『マイライフ・アズ・ア・ドッグ 【HDマスター】』予告編.wmv


 めんどくさいのでここからですます調でいきます。
 現代イヌ映画を語る上ではずせない監督がスウェーデン出身のラッセ・ハルストレム。『ハチ公物語』のリメイク『HACHI 約束の犬』や『僕のワンダフル・ライフ』など犬視点の映画をハリウッドでものにしてきたイヌ映画の巨匠ですね。
マイライフ・アズ・ア・ドッグ』はそんなハルストレムの出世作です。ゴールデングローブ賞外国語映画賞を獲得し、オスカーでも監督賞にノミネート*4され、彼のハリウッド進出への足がかりとなりました。


 本作をイヌ映画という観点でみた場合、イヌ登場シーンの少なさにおどろかされます。にもかかわらず、モチーフとして、あるいは主人公の感情移入先として常に物語に影を落とし、観客の印象にまとわりつく。「人間のメタファーとしてのイヌ」に意識的な作品といえるでしょう。
 冒頭*5は夜空に映る無数の星々のシーンで始まります*6
 その夜空にヴォイスオーヴァーで主人公であるイングマルの声がかぶさり、

「かわいそうな死に方をしたひとたちのことを想う。
 たとえば、ボストンで肝臓の移植手術をした男のひとのこと。色んな新聞に彼のなまえが載ったけれど、結局それは死んだからだった。
 宇宙にいった犬、ライカはどうだろう? ロシア人はスプートニクに彼女を乗せ、宇宙へ飛ばした。心臓や脳に電極をつけて、彼女の感情を計った。ライカの気分が良かったはずはない。
 ライカは五ヶ月も地球を周回したあと、飢えて死んだ。こんなふうに、ものごとを比べるのは大事なことだ」

 まさに「これから、イヌと人間を並列に語りますよ」という宣言で行われます。そして、その宣言の通り、本作は少年がイヌになるお話として進んでいくのです。


 舞台は1950年代終盤のスウェーデン。イングマル少年は兄と結核をわずらった母親、そして一匹のボーダー・テリアと暮らしています。
 母親の身体が衰弱していくのに反比例するかのようにやんちゃの度をましていく兄弟を見かね、かかりつけの医者は兄弟を一時的に田舎へ隔離して母親に療養するよう仕立てます。
 イングマルはいつも一緒だったイヌも連れて行きたいと主張しますが、容れられず、林間学校へ行った兄とも別れ、ひとりで叔父夫婦の家へと向かいます。
 その途上の列車で彼は再びライカについて思いを馳せます。

「かわいそうなライカのことを考えると気が滅入る。十分な食べものも与えられずに宇宙に飛ばされるのはおそろしい。
 ライカは人類の進歩のために宇宙へ行かされた。彼女は行きたいだなんて頼まなかったのに」

 このときもヴォイスオーヴァーが使われますが、重ねられる画は画面の右斜め下から左斜め上へと走行する機関車です。その黒くて細長なボディが「上昇」していくさまは、あきらかにロケットがイメージされています。
 そのなかで自らの意志に反して母性=母星から離されて旅する孤独なライカはイングマル少年、というわけです。

 そうして三幕構成の二幕目と舞台は移っていくのですが、少年と切り離された愛犬はこれ以降回想を除いてまったく登場しません。少年が母の待つ実家へと帰ってからも姿を見せないのです。
 代わりにイングマルがどんどんイヌになっていく。彼は逗留先の田舎*7で、縦横無尽に鼻を利かせ、男勝りな少女サガや叔父夫婦の社宅の一階に住む死にかけた老人や村のセックスシンボルとなっている美女や彼女に対する叔父の視線などの「秘密」を本能的にかぎつけて、意図するしないに関係なく迫っていきます。
 友達も大勢でき、村に溶け込んで、一見うまくやっているイングマル少年ですが、しかし、そこには母親への思慕がついてまわる。電話で村で起こったことの報告をながながしたり、実家にいたころの母との記憶をしきりに回想したりします。
 衛星軌道上にあって地上のことを想うライカのように、彼の心は本質的にはさびしさに満ちていたのです。
 病床の母親との回想のシーンでは、イングマルは常に愛犬と共にあります。読書に耽る母のベッドの下にイヌといっしょにもぐり込み、たわむれる。イヌの目線でイヌのようにはしゃぐエネルギッシュなイングマルは、読書を好む病弱な母親との対比になっています。精力旺盛なイヌであるイングマルは母親と遊んでもらいたがるわけですが、彼女にはそれがかなわない。むしろやかましく動く子どもにうんざりする。そのかなしい断絶がラスト付近でのイングマルのエモーションを爆発させる遠因となるのです。

 季節はうつろい、イングマルにもようやく実家に戻る時期がやってきます。彼はさっそく*8愛犬について尋ねますが、どうもあいまいな返事しか返ってこない。
 そうこうしているうちに母親の病状が悪化し、入院生活のすえ亡くなってしまいます。
 事実上のみなしごとなったイングマルはふたたび叔父夫婦の家へと預けられます。が、元気だった前回とは打って変わってふさぎこんだ挙げ句脱走し、叔父に「愛犬について預かり所へ問い合わせる」という条件と引き替えに叔父夫婦の家へと戻ります。 
 ところが翌日、叔父に「犬はどうなったのか」と訊いてもまともに答えてくれない。
 もやもやしているうちにイングマルは彼をめぐるサガともう一人のクラスメイトの女子との恋のさやあてに巻き込まれます。いがみあう女の子のあいだで最初はうろたえていた彼でしたが、突然なにを思ったのか、四つん這いになってわんわん吠え、イヌの物まねをやりだします。
 そのままサガとボクシング対決をする流れになったイングマルは、ふっきれたようにイヌの物まねを続け、実力的には優位に立つサガを翻弄します。
 が、イヌ戦法にいらだったサガは「あんたのイヌは死んだんだよ。知らなかったの?」とつい残酷な真実*9をつきつけます。
 それを聞いて逆上したイングマルはサガに対してがむしゃらに殴りかかりますが、勢いあまってリングのあった納屋の二階から落下し、昏倒します。
 そこでまたライカのことを思い出すのです。

「比べることは大事だ。ライカのようなイヌのことだけを考えろ。彼らは最初から知っていたんだ。ライカが二度と地上に戻ってこない、と。
 彼女が死ぬと知っていた。
 彼女を殺したんだ」

 そこで言及されているのは哀れなライカについての扱いであると同時に、自分の愛犬の、そして自分自身のことでもあります。
 母と愛犬を喪い、兄と別れ、幼年期の世界と完全に切り離されてしまったイングマル少年。
 意識を取り戻した彼は叔父の建てたあずま屋に立てこもり、一晩じゅう泣き明かします。
 翌朝やってきた叔父が「すまなかった、おまえに犬の死を伝えることがどうしてもできなかったんだ」と声をかけると、イングマルは「僕が彼女を殺したんじゃない」と独り言のように繰り返します。
 叔父があわてて「そうだとも、おまえじゃない」と言うと、イングマルは「なんで僕を求めてくれなかったの、ママ。どうして」と嘆くのです。
 ここにおいて、「殺してしまったかもしれない彼女」は三つの対象を指しています。
 ひとつは母親。 
 もうひとつは愛犬*10
 そして三つ目はライカ
 どれも自分自身とは不可分の対象であり、それらを無力に喪失した後悔を乗り越えて、少年は大人になっていくのです*11。イヌとして生きた幼年期に別れを告げて。

マイライフ・アズ・ア・ドッグ [HDマスター] [DVD]

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イヌ映画のストラテジー――『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター監督、1982年)


The Thing - John Carpenters Original Trailer


 ジョン・W・キャンベルのSF短編「影が行く」の二度目の映画化となる『遊星からの物体X』はイヌ映画におけるテクニカルな作劇の見本ともいうべき一作です。
 まずはじまりが南極のまっさらな大地を疾走する一匹のハスキー犬*12。この画だけでも感動的です。そして、その後を追うように現れたヘリコプターから、なぜかハスキーに向けて何発もの発砲がなされます。
 なぜ、ヘリコプターの人間たち(ノルウェー南極観測隊)はいたいけなイヌを執念深く撃ち殺そうとするのか? 観客における謎への当惑が画の強烈さもあいまって、やがて興味へと変わることでしょう。
 ハスキーはやがてアメリカの観測隊が駐留している基地へとたどり着き、彼らに保護されます。ちなみにハスキーを追ってきたノルウェー人たちは射殺。イヌを殺そうとしたものの当然の末路でです。よかったね。
 しかし、このハスキーはもちろん招いてはいけない客でした。しばらく基地内をうろうろしたのち、邪魔だというので檻に放り込まれたイヌでしたが、なんとその夜、ほかのイヌたちがおびえながら見守るなか、異形の姿へと変貌します。
 そう、このハスキーは宇宙から飛来してきた恐るべき寄生生物が宿ったモンスターイヌだったのです。寄生生物はより高度な知性体への寄生をめざし、その毒牙を観測隊員たちへと向けます。


 本作でイヌが登場するのは序盤であるこのくだりまでです。しかしすでに十二分に役割を果たしている。
 まずホラー映画の象徴として。
 ホラー映画にはさまざまなパターンが存在します。そのうちのひとつが「イヌはまっさきに死ぬ」。
 人間たちに凶事がおそいかかるときの先触れとして、その忠実なパートナーであるイヌがいのいちばんに生け贄にささげられます。イヌの無惨な死骸を見た人間たちはなにやらただならぬ事態が進行していることを悟ったり悟らなかったりします。
 いわば、「炭鉱のカナリア」としてのイヌの死とでも呼びましょうか。

proxia.hateblo.jp


 そうした意味で『遊星からの物体X』において「最初の犠牲者」としてイヌが登場するのは実にパターンにかなっています。
 しかし、定型をなぞるだけでおわらないのがジャンルムーヴィー中の傑作として称えられるゆえんです。本作ではもうひとひねりが加えられます。

 すなわち、物語的なテーマに説得力を加える存在として。

 本作の最大のキモは人間同士の相互不信。寄生生物は宿主の外見を完全コピーできてしまう。それがゆえの「ガワや言動がそれっぽくても中身はわかったもんじゃない」という不安にもとづく隊員間の(そして観客の)疑心暗鬼です。
 そこに当時の社会情勢なりなんなりの読み込みも可能でしょうが、今日はそんなことはどうでもいい。


 まっさきに寄生されて正体をあらわにするのがイヌ、という事実がストーリーテリング的に重要なのです。
 くりかえしますがイヌは人間のパートナーです。もっとも重要な、永遠の友達といってもいいでしょう。何千年にもわたって馴らされてきたイヌという種が、人間をうらぎるなど誰にも考えられない。
 その悪夢が本作では具現化するのです。あんなにも従順だったイヌの正体が実は人類をほろぼす寄生生物だった、というショック。
 イヌでさえわれわれを裏切る世界で、いったいなにを信じろというのでしょう。いわんや、人間など。
 そう。「忠実」や「信頼」を表象する存在であるイヌが最初に寄生されるからこそ、効果的なのです。これから展開される人狼ゲームを、「信頼」というキーワードをよりきわだたせるのです。
 これこそ『遊星からの物体X』におけるイヌづかいの卓抜さでしょう。「最初に死ぬイヌ」にビジュアル的な印象だけではなく、二重三重ののたくらみをめぐらす。なみのイヌ映画にできることではありません。

 もちろん、イヌの演出自体も見事です。
 寄生されたハスキー犬の何かの確信を湛えたりりしさ目つきとたたずまいは、あきらかにイヌでもヒトでもない知性を感じさせます。
 基地に潜り込んだあとに隊員の部屋に近づく廊下のカットも、動きのタイミングだけで不穏さを見事に切り取っていてうつくしい。
 寄生ハスキーが檻の中で怪物に変化していくシーンに至ってはまさに白眉。慣れ親しんだイヌがイヌでないものになっていくグロテクスさ、くらがりでぎゃんぎゃん吠えまくる周囲のイヌたち、なんとかその場から脱出しようと檻の網を食い破ろうとする一頭イヌ映画史に残る名シークエンスです。


*1:撮影のときにクスリでも飲ませたのか?

*2:あんなにやたらめっぽう疾走する牛はなかなか映画ではおめにかかれない

*3:十字架にかけられている人物が誰なのかも知らないレベル

*4:外国語映画で監督賞にノミネートされた監督は意外に多いが、スウェーデン人に限れば83年のベルイマン(『ファニーとアレクサンデル』)以来四年ぶり三人目。ちなみに99年に『サイダーハウス・ルール』でハルストレムが二度目のノミニーとなって以降、スウェーデン人映画監督が監督賞にノミネートされた例は英語・スウェーデン語通じて皆無。

*5:母親との浜辺での美しい記憶のファーストカットの後

*6:地球から見あげた宇宙。宇宙から見下ろした地球のカットからはじまる『遊星からの物体X』とは逆。

*7:スウェーデン南部スモーランドにある小さな村という設定

*8:預かり所に預かってもらっていると思っている

*9:聡明なサガであったからこそ叔父の態度から見抜けたことであったという一方で、イングマルも薄々かんづいていたであろう

*10:名前はシッカン。スウェーデンでは男女ともに用いられるファーストネームらしいですが、監督の念頭にあったのはスウェーデンの往年の女優シッカン・カールソンだったでしょうか

*11:本編に横溢する性的なイメージは成長を描くためのひとつの補助線でしょう

*12:ファーストカットは前述したとおり、宇宙からみた地球。その地球にUFOが墜落していくカット

より深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解のためのインターネット

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 あなたはより深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解に至りたいと思ったことはありませんか? 
 わたしはあります。
 わたしはより深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解に至りたいと思ったので至るための文章を書こうとしました。それを読んであなたがより深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解に至れるかどうかはまた別の話ですが、しかしあなた自身が何を願うかにかかわらず、わたしがより深い『シュガー・ラッシュ:オンライン』理解に至れるように祈ってほしい。

 基本的には観た人用です。とくにまとまりはない。ネタバレ注意。


インターネットが分かつもの

リッチ・ムーア監督
 インターネットの世界に来たラルフとヴァネロペは、自分たちがそれぞれ異なるものを欲していることに気づきます。そして、彼らの出会った新しい世界は二人の違いを際立たせていくのです。
 ここにインターネットの大いなる真実があります。すばらしい架け橋である一方で、分断を生じさせもするのです。

『The Art of Ralph Break The Internet』


 第一作目の『シュガー・ラッシュ』でハッピーエンドを迎え、それぞれ「居場所」を見つけたラルフとヴァネロペ。ふたりは親友として強い絆で結ばれていた。
 続編である『シュガー・ラッシュ:オンライン』の冒頭では、仲良しなふたりの他愛もない日常が映し出される。ゲームセンターの閉店後にクイズを出し合ったり、ルートビアを飲んだり、誰も居ないアメフトのスタジアムで星空を見上げて語らったり……。
 一見すると幸福な風景に見えるかもしれない。しかし、そこには微妙な不一致が見え隠れする。

 『1』でゲームを乗っ取っていたヴィランを倒してプリンセスに返り咲き、トップレーサーとして輝いているヴァネロペだが本人はどこか倦んでいた。毎日同じコースを走り、新しい刺激もない。
 『1』のラストでお姫様であることよりもバグった(Glitch)アウトサイダーであることを選択するような彼女だ。同じことの繰り返しは停滞と感じられる。

 その不満を口にするとラルフは「俺はこのままのほうがいいけどな」と言う。
 悪役としての業務を「仕事」と割り切り、職場での人間関係も良好でゲームセンターに友達も多く持ち、なによりヴァネロペという最高の親友と毎日遊んで暮らせる。彼における自尊心の問題は『1』で大方解決されたのだから、彼が満たされているのは当然だ。「強いていえば、働かずにすめばいいかな」。

 このふたりの違いはなんなのか。
 もちろん性格の違いもあるだろうけれど、そもそも置かれた立場が異なるという点も見逃せない。
 ラルフは『フィックス・イット・フィリックス』の悪役だ。彼自身はその立場にうんざりしていたけれども、裏を返せば彼抜きではゲーム全体が成り立たないということでもある。それは『1』でラルフが「ターボ(自分の所属しているゲームから別のゲームへと違法に移る)」したさいに『フィックス・イット・フィリックス』の進行が止まって筐体ごと故障扱いになった事実からも明らかだ。もし「ターボ」に走ったのがモブキャラであるマンションの住民たちの一人だったなら、あんな大混乱を招いてはいなかっただろう。
 ラルフは『フィックス・イット・フィリックス』の重要人物なのだ。

 ひるがえって、ヴァネロペはどうか?
 なるほど、彼女はゲームの筐体にイラストを描かれているし、すくなくとも設定上では(ゲームとしての)『シュガー・ラッシュ』世界のお姫様ということにはなっている。
 しかし一個のキャラとしての重要性は実は薄い。『シュガー・ラッシュ』は用意された十六名のレーサーから毎日九名のみが選抜され、その日のプレイアブルキャラになるというシステムだ。『1』の方式を引き継いでるとしたら選抜はランダムではなく実力によって決定されるので、群を抜いて優秀なレーサーであるヴァネロペが九人の枠から漏れることはないかもしれない。けれど、交換可能な存在であるという事実、抜けたところでゲームは動き続けるという事実は依然変わらない。
 さらにいえば、彼女はバグキャラ(Glitch)だ。まともに動作しているラルフとは異なる次元でアウトサイダーとしての自意識を育んでいる。スウィートでウェルメイドな『シュガー・ラッシュ』の世界に違和感とはいわないまでも、どこかしっくりこなさを感じていたとしても不思議ではない。
 『1』ではバグキャラであることによってゲームの外へ出られず、他のゲームキャラや世界を知らないこともある。

 要するに、ラルフは確立された世界に安住していて、ヴァネロペの世界はまだ未確定で狭い。
 この違いがインターネットの世界へ飛び出したときのふたりのリアクションに違いを引き起こす。


なぜアリエルに頼まなかったのか?

 監督のリッチ・ムーアはインタビューで本作の導入を「過去を守るために未来へ行く」と形容している*1。そもそもインターネットの世界へ飛び出すのも、YouTuber 活動で金を工面しようとするのも、失われてしまった『シュガー・ラッシュ』の筐体のハンドルを手に入れるためだ。*2
 だがその途中で『スローターレース』という魅力的なポストアポカリプティック・オンラインレースゲームに触れたことで「過去を守る」はずだったヴァネロペは脱線していく。
 彼女はおおむね「ハンドルを手に入れる」という当初の目的に沿って行動するものの、『スローターレース』に出会ったことで心にゆらぎが生じる。そのゆらぎは彼女自身にもなんなのかがよくわからない。
 マーベルなども含めたディズニーキャラが一堂に会する人気サイト「オーマイディズニー・ドットコム」で歴代ディズニープリンセスの揃う部屋にきたとき、ヴァネロペは「なりたい自分」を表現するための手段としてのミュージカルを教えられる。
 言ってしまえば、最近のディズニー作品によく見られる自己言及的なパロディだ。
 だが、本作における自己パロディは単なるウケ狙い(もちろんそれ自体おおいに笑えるものであるけれど)や現代の観客に対するエクスキューズとは一線を画している。
 たとえば、自己言及的パロディに関してムーア監督はこう語っている。


 インターネットのユーモアセンスは自己参照的です。ですから(過去のディズニー作品に対する自己パロディを行う場としては)私たちからするとセルフパロディのような類のギャグをやるにはふさわしい場に思われるのです。


INTERVIEW: "Wreck-It Ralph 2" directors Rich Moore and Phil Johnston discuss Disney Princesses, in-jokes, and the fate of that unlucky bunny


 ディズニーパロはインターネットの鉄板ネタだ。日本を含めた世界中で政治的な風刺やドギツいシモネタまで、さまざまな人の手によって改変され、わたしたちもそれを享受してきた。
 インターネットを舞台にするのなら、ある種批評的なメタネタを織り込むのはむしろ正当といえる。

 しかしなにより、プリンセス部屋には場の重力以上に物語的な必然が与えられていることを見逃してはならない。
 プリンセスたちは「水面に自分の顔を映すと自分のやりたいことが歌えるようになる」という。揺れているヴァネロペに対する「自分の心を見つめろ」との助言に他ならない。
 ヴァネロペはプリンセスたちに促されるままに「自分のやりたいこと」を歌い出すが、プリンセスたちのように光が射したり小鳥がさえずったりのミラクルは起きない。なぜなら彼女の歌っている歌詞は「ハンドルを取り返して元の世界に戻る」という内容で、すでに『スローターレース』に心惹かれている彼女の本心と呼応しないからだ。

 ここでミュージカルのお手本としてアリエル(『リトル・マーメイド』)が歌うのが『Part of Your World』であるのは興味深い。
『Part of Your World』は海の底で生きる人魚であるアリエルが、海中で拾った地上の品々を「自分だけの部屋」で愛でながら人間世界に対する憧れ*3を切々と歌い上げるナンバーだ。*4
 


「わたしは人間たちのいるところに行きたい。
 彼らの踊る姿を見たい。
 『足』というのだっけ? それで歩き回りたい。
 (中略)
 この海を出て、陸地を自由に歩き回れたらどんなに素敵だろう。
 あの世界の一部(Part of that world)になれたら……」


 ヴァネロペが出会ったのは王子ではなくシャンクというバッドアスな女性レーサーで、憧れたのは人間世界ではなく犯罪の横行するヤバい世界であるけれども、プリンセス部屋時点でのヴァネロペは『Part of Your World』を歌ったときのアリエルと照応する。

 さらにディズニー作品史の観点を持ち込むなら、アリエルはディズニー・ルネサンスと呼ばれる90年代におけるディズニーアニメ復活期の嚆矢であったことも指摘できる。
 ルネサンス期の「改革」はさまざまな面から語られるうるけれども、ことプリンセス描写に関していえば、ディズニー伝統の「イノセント&アドレセント」路線をある程度まで継承しつつも自分から運命を切り開く主体性を有していたこと*5が挙げられる。
 プリンセス部屋を監修するために『シュガー・ラッシュ:オンライン』のスタッフに招聘されたマーク・ヘン(主に90年代に活躍したディズニーの大アニメーター)も「90年代に入るとプリンセスたちはより大胆でアグレッシブであけすけになっていきました」と語っている。*6
 この傾向はプリンセス部屋にいた14名のプリンセスたちをルネサンス(90年代)以前と以後で分けて比較してみればよくわかる。
 『白雪姫』(1937年)や『眠れる森の美女』(1959年)は基本的に王子様の真実のキスを待つ受け身なポジションであるし、『シンデレラ』(1949年)はがんばってドレスを自作するまではいいものの、舞踏会に行かれずオイオイ泣き伏しているところに都合よくフェアリー・ゴッド・マザーが現れてビビディ・バビディ・ブー。王子様に対しても基本「待ち」の姿勢だった。
 残りの11名はいずれもルネサンス以降。
 アリエルはむしろ王子様を救う側だったし、『美女と野獣』(1993年)のベルもそうだった。『ムーラン』(1998年)にいたってはなんと兵士。最初は花嫁候補だったのが、病身の父を助けるために男子と偽って軍に入隊する。
 時代が下るとともにプリンセスの主体性はどんどん強まっていく。ジョン・ラセターエド・キャットムル体制となって以降の『プリンセスと魔法のキス』(2009年)『塔の上のラプンツェル』(2010年)、『アナと雪の女王』(2013年)、『モアナ』(2016年)についてはもはや何も言う必要はないだろう。
 主体性が強まっていくにつれ、物語自体も恋愛の成就をゴールにしたウェルメイドなおとぎ話ではなく、感情ある個人のアイデンティティや夢についてのお話へと重点がシフトしていく。
 現代のディズニー・プリンセスものにおける最大の主題は「どうしたらなりたい自分になれるのか/なりたい自分とは何か」だろう。
 その意味において、ヴァネロペは紛れもなくディズニープリンセスなのだ。プリンセスたちがヴァネロペの友人になりえるのも道理だといえる。

 プリンセス部屋を経て、ヴァネロペはラルフから「ハンドルを取り戻すのに十分に金が溜まった」と聞かされる。しかし彼女はなぜか浮かない。
 すると眼の前にあった水たまりがきらきらと輝きだし、彼女を『スローターレース』の世界へといざない、シャンクたちと『スローターレース』のすばらしさについて歌うミュージカルシーン(「あたしの居場所」)が始まる。

 このミュージカル曲の作曲者がこれまた奮っている。
 アラン・メンケンである。先述したディズニー・ルネサンス期の立役者となった大作曲家で、『リトル・マーメイド』を始めとして*790年代のディズニー作品のほとんどに関わった。クライマックスのコーラス大盛り上りから余韻を残して終わる「あたしの居場所」の構成は、いかにもメンケン風味で、これ自体セルフパロディの感が強い。
 メンケンの参加もまた、ヴァネロペをディズニープリンセスとして、特にルネサンス以降のプリンセスとして位置づける重要な要素だ。


 このようにディズニーは単にプリンセスを茶化して笑いを取りに来ているだけではなく、より深いレベルのストーリーテリングで利用しつつ、なんとなれば保守的なイメージがもたれがちなディズニープリンセスを「なりたい自分を探求する女性」として再定義することを試みている。


ラララルフ

 まあおおむねそのようにしてヴァネロペの世界はインターネットによって拡張されていくわけだけれど、ラルフはむしろインターネットに対して閉じていく。
 冒頭で「できれば働きたくない」と言っていたラルフが動画配信者として「労働」を強いられるのは笑える皮肉だとしても、大親友のヴァネロペはシャンクという別の友人を見つけてしまうし、せっかくノリかけた動画配信でもコメント欄の心無いディスを見かけて落ち込んでしまう。
 こうしてラルフのインターネットに対する印象はどんどん悪化していき、同時にヴァネロペを失うのではないかという不安から彼女に対するパラノイアが増幅していく。信念やフラストレーション、あるは孤独がマシマシされるのもまたインターネットという場の特性だ。*8


 人格的には未熟なラルフであるけれども、上でも述べたように生活的には完成されている。新世界へ移るモチベーションがない。『1』で悪役であることに悩むラルフに対し『パックマン』のゴーストは「役割は変えられない。それを受け入れたほうが人生も楽しくなる」と諭したけれど、あるべき役割を受け入れた時点で、つまり『1』のラストの時点でラルフの物語は完結している。

 ただ、彼の幸福にはヴァネロペというピースが欠かせない。
 『オンライン』でも重要なアイテムとして反復されるクッキーのメダルの由来を思い出してもらいたい。
 『1』においてラルフは悪役から脱するためにヒーローの証明となるメダルを手に入れようとしていた。だが彼はその旅の途中でヴァネロペと出会い、彼女のレーシングカーづくりと練習を手伝い、友情の証としてクッキーのメダルを渡される。
 そもそも彼が悪役から逃れたがっていたのも一個の人間(ゲームキャラだけど)として繋がれる相手を求めてのことだった。そういう意味ではフィリックスを含めて『2』では打ち解けた仲間がそれなりにいるのだし、ヴァネロペだけに依存しなくてもよさそうなものだけれど、やはりコインをくれる大親友は得難いものだ。
 インターネットの世界はヴァネロペのために用意された「未来」であるけれども、原題のタイトルに Ralph ついているように『シュガー・ラッシュ』の主人公はラルフだ。プロット上の要請として、主人公である以上はよりよい変化を勝ち取らねばならない。
 ならばその敵が「ヴァネロペに固執するラルフ自身」になるのは必定だろう。
 そして、クライマックスが『キングコング』(1933年)になるのも。

 なんやかんやあってヴァネロペに対するラルフの執着心は巨大モンスター化して、ヴァネロペを攫ってエンパイアステートビルならぬグーグルのビルへと登る。
キングコング』は身勝手な人間たちによって森深い孤島からむりやり大都会へと引きずり出されたコングが、惚れた美女を攫って逃走を図る話だった。
シュガー・ラッシュ:オンライン』の共同監督であるフィル・ジョンストンが『The Art of Ralph Break the Internet』で「これは小さな町から大都市へと出てきた親友同士のふたりが『外の世界』に気づく話なんだ」と証言していることを踏まえると、おなじく田舎から大都市へと図らずも出てきて拒絶と孤独を味わうコングとラルフの共通が見いだせる。
 ここでもパロディがストーリーテリングに寄与しているわけだ。


 本作でラルフがキングコング化したことに対して嫌悪感を抱く向きは「前作で『やりすぎ』て反省したことから成長が見受けられない」みたいに言う。
 たしかに『1』で自分の思い込みからヴァネロペの車を壊してしまったのはラルフにとって痛恨ごとだっただろう。
 だが、『1』の車破壊と『オンライン』のバグ拡散は大分事情が異なる。
 まず『1』でラルフが車を破壊しようと決意したのは敵役であるキング・キャンディの佞言に騙されてしまったからだし、騙されてしまったのも「レースに出すとヴァネロペが死んでしまうかもしれない」という恐れからだ。新しくできた友人を失いたくなかった利己的な面もあるだろうけれど、基本的には「ヴァネロペのための自己犠牲」である。ふたりで作った思い出のカートを壊すのが彼の望みであるわけがない。*9
 一方で、『2』のバグ拡散は擁護しようがない。「ヴァネロペを(彼女に意に反して)取り戻したい」と願う独占欲から「『スローターレース』の世界にバグを振りまく」という他者を害する行動に出る。完全に自己中心的に考えなしだ。
 言ってみれば、友達のAさんを別の人間であるBさんに取られたからといって、Aさんに対してBさんの悪口を吹き込むのに近い。そんなのでAさんが良い気分になるはずもない。
 
 ラルフは『1』で成長したはずなのに、なぜこんな愚かなのだろう?
 そもそも彼は『1』で全面的にアップグレードされたわけではない。繰り返すが『1』のラストで完成したのはあくまで彼の生活であって、人格ではなかった。
 「悪役だけど悪いやつじゃない」ふうに生きられるようになったのは成長かもしれないが、それは変えられない人生に対する折り合いのつけかたの話であった、「友人に対するふるまい」を学んだわけでない。
 「友人の尊重」。外部にさらされてヴァネロペに新しい交友関係が生じたときに初めて向き合わねばならなくなった問題だ。
 言うなれば『オンライン』は『1』で治ったはずの病の再発ではなくて、『1』を原因にして発症した病気のセラピーにあたる。
 彼が精神的に安定した生活を送れているのもヴァネロペという依存先のおかげであり、それを失いかけたら不安定になる。
 そうして不安定になれば、ゲームキャラとして設定されていた彼の地が出る。なにごとも感情のままにオーバーキルしてしまう「壊し屋ラルフ」の地が。
「設定された役割」と対峙しなければならないのはヴァネロペもラルフも一緒だ。*10

ベンチとインターネット

 本作においてラルフとヴァネロペの親密さと関係性の変化はベンチの反復によって示される。
 まず最初は冒頭のエントランスでクイズを出し合うシーン。ふたりともリラックスした様子で二人がけのベンチに腰掛けている。周囲のキャラたちはだいたい歩いて往来しており、彼らだけが「止まっている」こともまた親密さを観客に印象づける。

 その次はかなり飛んで、「ラスボス」を倒したあと、ヴァネロペが『スローターレース』の世界へ移籍するシーン。別れのことばと抱擁を交わし、ヴァネロペは『スローターレース』への階段を登っていく。それをベンチに残されたラルフは名残惜しく見送る。
 
 三回目はエピローグとなるラストのシーン。エントランスのベンチに座ったラルフの傍は虚しい空間が占めている。だが、ラルフは嬉しそうだ。携帯型通信機器(インターネット世界で新キャラのイエスからもらったもの)を通じてネットの世界にいるヴァネロペとホログラム・ビデオチャットを行っているからだ。
 このシーンがうまいのは「ここにいるのは自分ひとりだけれど、でもネットを介して大切な人と繋がれる」というネットの良き側面についての讃歌になっているところだろう。
 ふたりはインターネットの世界へ行くことによって分断されたかもしれないけれど、インターネットのおかげでつながりつづけることもできる。新しい時代の友情のありかたがそこにはある。

 インターネットという舞台をただ場として利用するだけでなく、ストーリーテリングや思想にあますところなく使い尽くす。
 その徹底がやはり最近のディズニーのおそろしさなのだとおもいます。


The Art of Ralph Breaks the Internet: Wreck-It Ralph 2

The Art of Ralph Breaks the Internet: Wreck-It Ralph 2

*1:https://insidethemagic.net/2018/02/interview-wreck-ralph-2-directors-rich-moore-phil-johnston-discuss-disney-princesses-jokes-fate-unlucky-bunny/

*2:ハンドルが失われるきっかけとなった「ラルフの自作コース」は注目に値する。『1』にもラルフは素手でヴァネロペのためにコースを作るシーンがあった。洞窟にひきこもってカートを運転した経験がないヴァネロペにレースの練習を積ませるためだ。つまり『1』ではヴァネロペを「外」に出すために自作コースを造ったわけで、ニュアンスが異なるとはいえ結果的に『2』でもヴァネロペのための自作コースで似たような事態を招いたのはおもしろい。

*3:もっと言えばこの直前に出会った「王子」への憧れ

*4:『リトル・マーメイド』自体とディズニー映画史におけるこの曲の重要性は谷口昭弘『ディズニー・ミュージック〜ディズニー映画音楽の秘密』をお読みください

*5:もちろん彼女たちのあいだで差異はある

*6:https://scroll.in/reel/902439/interview-animator-mark-henn-on-bringing-disney-princesses-together-for-ralph-breaks-the-internet

*7:『リトル・マーメイド』自体は89年だが

*8:スタッフがインターネットという場がラルフたちに及ぼす影響を語るときに reinforce (補強する、促進する)という動詞を使っているのが興味深い。リッチ・ムーアは「インターネットは彼らの違いを強化する」といい、ストーリー・ディレクターのジム・リアードンは「ふたりがインターネットで出会うキャラクターたちはみんなふたりの抱いている感情を増幅させます」と言っている。:『The Art of Ralph Breaks the Internet』

*9:もうひとつ彼の起こした「災害」であるサイバグは劇中ではほとんど天災扱いされ、彼がクライマックスでダイエットコーク火山に飛び込む後押しくらいにはなったかもしれないが、はっきりとラルフが責任を感じるシーンはない

*10:「与えられた設定から脱却」はこのところのディズニー作品のテーマであり、ムーア監督の関わった『ズートピア』でも掘り下げられた問題でもある。

まんが臨終図鑑2018〜(主に)二、三巻で完結してしまった今年のおもしろ漫画たち〜

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 無駄だった
 全部……
 全然……伝わってなかった……


 ちゃんと言葉で言えば良かった?


「死なないで」って


 大今良時聲の形




 失うことから全ては始まる。


 山口貴由シグルイ



 うちの出す「年末ベスト」はこれです。

目次

ふめつのこころは LOVE LOVE LOVE


「諸行は無常」とはよくいったものです。
 人生がまったき真空であったとしても、時は流れ、各種まんが雑誌は定期的に刊行され、いろいろな連載が始まり、いろいろな連載が終わっていきます。
 『へレディタリー』という映画をごらんになったでしょうか? 
 まんがを終わらせる力学はああいうホラー映画によく似ています。原因は説明される。理屈は証明される。だがわかったところでキャラたちを殺しにくる魔の手は防ぐことはできない。
 観客である私たちは諦念をもって画面上で起こる悲劇をただ見守りつづけるしかないのです。
 ほんとうにその作品を愛していたのなら止められたのかもしれません。一巻につき百冊購入したり、アムウェイの勧誘員が裸足で逃げ出すしつこさで知人友人に薦めまくり、編集部に毎週ファンレターを出せば、あるいは打ち切りを防げたのかもしれません。ファンレターは実際効力あるそうですね。
 もしもあのとき、ああしていれば。
 もしも私にもっと覚悟と信心さえあったなら。
 ですがスタッフロールを眺めながらいくら「もしも」を考えたところで過去は変わりません。あなたのまんがは死んだのです。もういない。つづかない。

 残されたものにできるのは弔うことだけです。思い出を語り、ありえた未来を想う。
 さいわいなことに(小路啓之谷口ジローといった少数の不幸を除けば)まんがは死んでも作者は描き続けます。
 唱えるべき神の名前さえわかっているなら、次の信仰心をどこに賭けるべきかもわかる。そうではありませんか? そうやって、あなたたちは数々の奇跡を起こしてきたではありませんか? 
 お疑うたがいなら今すぐ Amazon Primeへ飛んでアニメ版『あそびあそばせ』をごらんあそばせ。そして kindleで『りとる・けいおす』の完全版を買え。その業を畏れよ。たしかに軌跡はそこにあるのだ。『蛮有引力』のラストが疑いなく『シグルイ』につながっていたように。

 では見ていきましょう、いつかは昇る北斗の伏龍たちを。

ルール

・二〜四巻で完結した作品(最終巻が2018年に出たまんが)を主として扱う。打ち切りっぽければもうちょっと長く続いた作品も入れる。*1
・単巻完結、短篇集、上下巻で出てるやつとかはナシ。*2
・オススメしやすさ≠個人的な好き度。★★★=一話完結形式で打ち切りの影響を受けにくいものや長さなりに完成度の高い長編が中心。★★=いろいろと不本意だったんだろうなあ、という箇所が見受けられるが、一本の物語として大きな破綻もなく読みやすい。★=いわゆる打ち切り展開。手仕舞いまでに十分な時間を与えられなかったんだろうが、連載中はたしかに未来が見えたんだ。



なんで終わったのかわからないレベルでおもしろい組

『星明かりグラフィクス』(全三巻、山本和音、ハルタコミックス、オススメしやすさ:★★)

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(なんか Amazonのリンクがうまくいかない……)


 ひところよりアートや美大を題材にした作品が増えたように見えるのは、美大出身のまんが家が当たり前になったからでしょうか。
 そのなかでも近年最良の収穫が『ブルーピリオド』であることは論を俟たないでしょう。しかしおなじく「青い時期」の描いた美術ドラマとしては『星明かりグラフィクス』もけしてひけをとっていませんでした。
 まあ美術といっても絵画ではなくデザイン系の物語です。
 舞台は埼玉県のとある美大。油絵を専攻する園部明里(黒髪だんごメガネ)は、デザイン専攻の同級生・吉持星(ウルトラ潔癖症で人間嫌いの金髪)の才能に目をつけ二人だけのデザインチーム「ほしあかり」を設立。学校の内外でデザインの仕事を請け負います。
 計算高いリア充マネージャー気質の明里と典型的な天才型コミュ障の星は凸凹がうまく噛み合っているように見えたのですが……という美大青春物語。
 
 みなさんは関係性、お好きですか?
 わたしは大好きです。
 さてここにいい関係性があります。
 共依存です。たんに「共依存って耽美でええわ〜」みたいなためにするやつじゃない、キャラと物語的に必然のある純度の高い共依存
 とにかく人間嫌いで主体性のない星と、その才能を世に出す(そして自分が出世する)ために外部との折衝を担当する明里という構図で始まりまして、とにかく星のプロモートに奔走する明里の姿はまるでお母さんのよう。最初は打算かもしれなかった明里も、星の世話で彼女自身を深く知るにつれて、だんだん一個の人間として友情を昂めていきます。
 星は「ほしあかり」での仕事を通じて外部の接点ができるにつれ、星も社会性を獲得していき、ときには自分自身に対する客観的な視座も持てるようになります。
 ただ人間的に成長しても、星からは明里が「保護者」であるという前提は抜けません。二人が不可分の関係であることは変わらないのです。
 そのままその関係が続くなら美しいドタバタ美大コメディだったのでしょう。が、学園という場はヒトや関係を変えずにはおられない。
 星は本物の才能を持つがゆえに「世間」がほっときません。大学の中では「デザイン事務所ごっこ」も成立したでしょう。しかし明里のマネージメント力は星のデザインセンスと異なり、社会においては代替可能なものです。
 このジレンマに気づいてしまったとき、明里は、星はどうなるのか。

「天才と凡人」の構図、そして置いてけぼりにされる凡人側の葛藤はさして珍しくないかもしれません。しかし、夢と挫折のるつぼである美大生活と彼女らをとりまく美大生たちの描写が才能譚である本作をより味わいぶかくしています。
 単純にある分野で才能があったりなかったする人々もいるし、才能がある側でもそれがどういう類かの才能で選択可能な人生が違ってくる。それでいて最終的に何を選び取るかは本質的に才能や他人からの評価ではなくて本人の意志と想いにゆだねられている。
 最終的には意志があるからこそ、わたしたちは関係をあきらめないでいられる。そういう人間讃歌です。
 劇中で回収しきれなかった要素も多々見受けられますが、その輝きを汚すほどのものではありません。以て瞑すべし。

『ワニ男爵』(全三巻、岡田卓也、モーニング・コミックス、オススメしやすさ:★★★)

 食卓、それは人類の秘めた野生と築いた文明が衝突するフロンティア。
 空腹を満たす動物の行為とよりよい味を探求をする理性の営為が絶え間ない駆け引きを繰り広げることで、わたしたちの日々を豊かにしてくれます。しかし食事はあまりにも日常的でありすぎるため、ふだんそのことをわたしたちが意識することはありません。
 そんな食文明の根源をわれわれに啓いてくれる希少なグルメまんがが『ワニ男爵』です。

 タイトルロールともなっている主人公の「先生(本名アルファルド)」は小説家のワニ。美食家でもある彼は美味しい食事を求め、お調子者の兎・ラビットボーイ(通称ラビボ)と共に街へ繰り出します。

 ポスト『ズートピア』という点でいえば、本作は実は『BEASTERS』(板垣巴留)よりも『ズートピア』的です。*3『BEASTERS』が「本能にからめとられそうになる理性」を描いているとするならば*4、『ワニ男爵』は「徹底して本能に勝利する理性」を謳います。

 ふだんの「先生」は絵に描いたようなジェントルマンです。シルクハットに蝶ネクタイというフォーマルな格好(でも残りのパーツはほぼ裸)で、言葉遣いも慇懃、物腰は至極やわらかかつ穏やか。
 それが故郷のナイル川を想起する環境に置かれるや、知らず暴走し、「野性」へと還ってしまいます。
 若いころの「先生」は弱肉強食の原理が支配するナイル川に棲む野生のワニでした。しかし不毛な縄張り争いやただ無法に肉を貪る日々を疑問を懐き、陸へとあがったのです。
 そんな彼にとって食事とはただ食欲を満たす行為ではありません。野蛮な過去を克服し、文明人として生きることを選んだことの確認でもあるのです。
 しかし、ワニの本性は、封じきるにはあまりに強力すぎました。楽しい食事の最中に「野性」化してしまった「先生」の姿に怯えるラビットボーイ。
 正気を取り戻した「先生」はラビットボーイにこう告げます。「かけがえないのない友を傷つけてしまうなんて私には耐えられない」「去ってください、私の前から」。
 しかしラビットボーイは離れません。「俺……先生に食べられるのなんてちっとも怖くない!! 本当に怖いのは無料(タダ)でうまいものが食えなくなることなんです」。
 この絶妙な感動のさじ加減。
 
 ラビットボーイにかぎらず、『ワニ男爵』では食事を通じてひとびと(動物ですが)がつながっていきます。実際の野生動物はどうあれ、本作では「野性」は孤独の象徴として描かれ、それが食事という文明のあたたかみによって解消されていく。ドラマが広がっていく。
 動物の生態を利用したまんがが増えてひさしい今日このごろですが、これ以上「擬人化された動物であること」にストーリーテリングのレベルで必然性を持たせた作品はなかなか見ません。
 岡田先生のあたたかみのある線とユーモラスなセリフ回しも洗練されていて、誰もが好きになるまんがだとおもいます。今から好きになっても遅くはないです。以て瞑すべし。
 

魔法少女おまつ』(全二巻、吉元ますめヤングマガジンコミックス、オススメしやすさ:★★)

魔法少女おまつ』、打ち切らる。『くまみこ』でテッペンを極めた天才・吉元ますめ*5にとってはせいぜいかすり傷程度だったでしょうが、読者にとっては二度と取り返しのつかない大いなる損失でした。
 時は江戸時代。パートナーだった魔法少女から引き離され過去へタイムスリップしてしまった妖精(いわゆるマスコット)ニャン太郎は当地で魔法少女を見つけ、その力で元の時代に戻ろうと勧誘活動に乗り出します。が、封建社会のリアリズムに生きる江戸時代人たちは魔法少女になるのに必要な「ドリーム力」が圧倒的に足りていなかった。
 絶望にくれるニャン太郎。そんなとき、やたら「ドリーム力」に溢れた少女おまつが現れ、無理やり契約を交わすが……というコメディ。
 いまさら吉元ますめ先生のポジティブな意味で遠慮なく破壊的なギャグのセンスと、そのなかに垣間見せる、人が人に寄せる(ときにはクマが人によせ、イモムシが妖精によせる)ひめやかな情の繊細さが絶人の域にあることは説明を要さないでしょう。魔法少女もの批評としてもなかなかピーキー
 話も良いですが、本作は絵もいい。
 漠然と「時代劇」をやることだけが決まっていた企画で「昭和の絵柄で描いてみたい!」と杉浦茂の本を読んでタッチを取り込み画風を進化させたエピソード*6は先生の天才の一端を示していますが、なるほど杉浦茂風のポップで線の丸い絵とますめワールドのリアリティが程よくマッチし、そのうえで丹念に取材された江戸の風景に溶け込んでいる。
 この奇跡のようなバランスだけでも二十巻くらい続ける価値はあったはずですが、KADOKAWAのマイナー誌(『Fellows!』、『フラッパー』)あがりに講談社の主力(?)ヤンマガ編集部は厳しかった。無念の二巻打ち切りです。以て瞑すべし。

『黒き淀みのヘドロさん』(全二巻、模造クリスタル、it Comics、オススメしやすさ:★★★)

 終わるまんがについて。
 世の中には終わったのか終わっていないのかどうにも不明なままに終わったり続いたりするまんがが多数あり、これもそのうちひとつで、*7だがいずれにしろ読んだ瞬間にあなたの一切が終わる。あなたが終わるまんが。そういうものもあるのです。
 ヘドロさんは女子高生レーンちゃんの魔導書によって召喚されたヘドロ人間。「善人」としてあらかじめプログラムされており、人助けに生きがいを見出します。ヘドロさんは持ち前のおせっかい精神を発揮して、執事に凄惨な暴力をふるうお嬢様や無免許なのになぜか学校に潜り込んで教師として振る舞う女などと相対します。しかし彼女の善意はいつも良い方向へ作用するとはかぎらなくて……というお話。
 模造クリスタル作品の例にもれず、『ヘドロさん』は孤独で歪な世界に閉じこもる人々が描かれます。これがそんじょそこらの安直な物語ならば、そうした寂しい円をぷちっと開いてハッピーエンドをもたらすのでしょう。ですが、もぞクリ先生はそういう方法はとらない。そんな嘘はつかない。
 先生は本気で孤独や歪みに寄り添おうとします。倫理や役割が明確であるかのようにふるまってるくせに実はグズグズな世間に生きる孤独に対し、どこまでも真摯に向き合うからこそ、一般的な物語メソッドからすればバッドなのかグッドなのか煮え切らないオチへと導かれる。
 『ヘドロさん』はまだわかりやすいほうかもしれません。「人助け」という主人公にはっきりとした役割が与えられているだけあって、悩みも明瞭ですし、最終話もわりあいきれいにまとまっている。以て瞑すべし。
 
 

『Do Race?』(全三巻、okamaヤングアニマルコミックス、オススメしやすさ:★★)

Do race? 1 (ヤングアニマルコミックス)

Do race? 1 (ヤングアニマルコミックス)

 なぜ okama先生のまんがはすぐ終わってしまうのか? 
 漫画界の七不思議のひとつですが、実は不思議でもなんでもない。理由は実に明白です。
 わたしたちがあまりにトロすぎるからです。
 okama先生のマンガは常に最高速度でまっすぐ駆けていきます。その速度に読者はおいつけない。

 あらすじ:

 人類が宇宙の星々に移り住むようになった未来
 国どうしの対立を決着させるため開かれるレースがあった
 ドレースは宇宙のレース
 ワープシステムを搭載した宇宙服(ドレス)を着て……
 はるか何億光年さきのゴールを目指す
 最速
 最長
 最先端にして
 最も美しいクレイジーなレース!!!!
 これは究極のレースに挑む少女たちの物語
 (第一巻第一話より)

 孤児の少女キュウは類稀なドレースの才を見せながらも、生来のやさしさと貧しさからドレースの花形代表チームの入団権を他人に譲ってしまう。
 ドレースを諦め配送員として働くキュウの前に、ある夜、憧れのドレースチャンピオン・ミュラが現れる。キュウの才能を認めたミュラは「まだ夢を諦めたくないなら、チャンスをあげよう」と彼女の来ていたドレスをキュウに譲る。「けして忘れてはならないコト……そのドレスはレースに敗北すると爆発する」
 絶対に負けられないキュウのドレース人生がはじまる……というお話。

 いうまでもありませんが、各種デザインがとにかく秀抜。よくもまあこんなデザイン思いついてかつマンガにして動かそうと思って実際動かせているもんだとほとほと驚かされます。*8絵を眺めているだけでも木戸銭には十分です。
 
 主人公は少年漫画的な意味で王道なキャラで、ピュアかつまっすぐな才能あふれる努力家。そしてそのピュアをどこまでもつらぬけるがゆえに強い。
 そんな主人公がまっすぐに駆け抜け、まっすぐに仲間を作り、まっすぐに憧れや夢へとぶつかっていく。これ以上ないほどに正統派なお話なんですよ。(独特の世界観や設定を除けば)筋はわかりやすいんですよ。もっとみんな okama先生をイラスト方面だけではなくまんがでも褒めるべきなんですよ。なんで『TAIL STAR』といい、原作のつかないオリジナルは長続きしないのか。そんなこんなであやがついてしまったのか、現在連載中の作品(『キミと僕の最後の戦場、あるいは世界が始まる聖戦』)はライトノベル原作です。
 ちなみに『Do race?』は天才が描いた天才論まんがとしてもよいです。以て瞑すべし。
 

『しったかブリリア』(全二巻、珈琲、アフタヌーンコミックス、オススメしやすさ:★★)

 SNS時代のハッタリ豆知識コミュニケーションコメディ。
 このパワーをもってしもマンガ界の鏖の野(キリングフィールド)『アフタヌーン』では二巻打ち切りになってしまうのですね。
 大学二年生の白波理助は学年主席・三つのサークルを運営・三ヶ国語に精通・国際ボランティア・スポーツ万能・クラブDJ・スタバのバイトリーダーと数々の肩書を持つ完璧超人……と周囲からは見なされているが、実際は異常な見栄っ張りなだけで上記の九割はウソ。
 彼は新入生の美少女・濱崎みなとみらいに目をつけ、得意のハッタリとリサーチ力をふるって首尾よく電話番号をゲット。
 したまではよかったが、そこに高校時代に彼を捨てた元カノの加古川姫姫が現れヨリを戻そうと言い出し……というラブコメ

 現代日本においてわれわれが何かととりがちな地獄コミュニケーション、そう、「漠然と聞きかじったネタやインターネットで調べた安い知識でマウントをとろうとする」の悲喜こもごもが絶妙な塩梅で展開されます。
 主人公はまあはっきりいって意識高い系を装ってるくせに見栄っ張りで嘘つき野郎なんで登場時の好感度はゼロです。
 しかし読み進めると意外に彼に対して悪い印象を抱かない。それは、彼が実は「コンプレックスをバネに見栄を張るために本気で努力する」というやや間違った純粋さを有しているからでもありますし、そんな彼にわたしたちがどこか通有性を見出すからでもあるでしょう。
 虚飾と嘘からはじまったコミュニケーションがだんだんと文字通り「素」になっていく構成の巧さもテーマと絡んでていいなあ、とおもいますが、やはり二巻完結は早足すぎた印象。以て瞑すべし。
 

『ピヨ子と魔界町の姫さま』(全二巻、渡会けいじ、角川コミックエース、おススメしやすさ:★★★)

 高貴(noble)であることとは、どのように定義されるのでしょう?
 血統? 地位? 財産? コネクション?
 いいえ、高貴さに必要な要素はたったひとつ。ゆるがぬ威厳(dignity)です。渡会けいじ先生はそれを教えてくれた。渡会先生だけがきみに教えてくれる。

 魔界町とはいかなる場所か。日本にある、魔界のひとびとが多く住む謎の町です。そこに越してきた人間の女子高生ピヨ子は、魔王の嫡流である「姫さま」と知り合い、交友を深めていきます。
 旧支配者の末裔ということで町内でもそれなりのリスペクトを受けている姫さまですが、当代は零落しきっており、平屋ぐらしのド貧乏。しかし、あくまで「姫」としての誇りと風格を失わない姫さまに、ピヨ子は惹かれていくのです。

 基本は姫さまの破天荒なキャラとノリボケなピヨ子によるスラップスティックな日常ギャグマンガです。ボケとボケのボケ倒し。個人的に好きな漫才のかたちです。
 魔界町の日常風景は日本のそれとさほど変わりません。独自の階級の概念だけがやたら強く残っているだけの田舎町、といったふぜいでしょうか。
 そんな場所で没落した魔王の令嬢と魔界町ではイレギュラーな人間という、本来なら交わらないはずのふたりが条例に反して潮干狩りをしたり、まちおこしのためにクラスメイトの家の塀にヒップホップなアートを描いたり、ゆるぎゃん(*ゆるいギャンブルの略)をしたり……。
 常識(庶民)から離れたところで我が道を征く彼女たちの姿にはばかばかしくもたしかに青春のきらめきが宿っている。
 その永遠には続かないであろう刹那のかがやきが一話一話に渡会先生一流のポップかつ美麗な絵で封じられていて、わたしたちの時間も永遠にしてくれます。
 ラストはなんか警官と癒着してる系の東映ヤクザ映画のワンシーンみたいな絵面ですがそれはそれ。

 二巻で終わったのはさびしいかぎりですが、一話完結形式なのでおススメはしやすい。
 
 

『バンデット 偽伝太平記』(全六巻、河辺真道、モーニングKC、オススメしやすさ:★★)

バンデット(1) (モーニングコミックス)

バンデット(1) (モーニングコミックス)

 サブタイトルの通り、鎌倉幕府末期〜南北朝の動乱期を扱った時代物……だったはずが、鎌倉幕府が滅亡する前に終了。『応仁の乱』や『観応の擾乱』といった新書のブームでこれまで人気のなかった鎌倉末期〜戦国時代以前の時期がにわかに脚光を浴び始めてはいたものの、まだまだ厳しかった模様。
 基本的には下人出身の若者「石」が狂言回になり赤松円心足利尊氏、大塔宮、後醍醐天皇楠木正成といった個性的な野心家たちのもとを渡り歩き、「自分の国」を築くために悪党(もちろんここでは歴史教科書的な意味)として時代を駆け抜けるストーリー。
 キーワードは「ヒリつく」。線の太くて濃い画風で描かれた濃いキャラの男たちが濃いセリフを吐きながら濃いノリで濃い敵を殺しまくっていく、ヒリヒリするような暴力が盛りだくさんで、まあまさしくわたしたちの読みたい時代劇マンガです。
 タルいインターバルがほとんどなく、時間を数年単位ですっとばして美味しい事件をつまみ食いしていく作劇で、正中の変だの下赤坂城の戦いだの六波羅滅亡だのがスピーディに展開され、その時歴史が動きまくります。
 時代の変革期に野心家たちの権謀術数を描く。男たちの絆を描く。見せ方も上手い。*9こんなものが面白くないわけがなく、せめて室町幕府成立くらいまでは描いてほしい、と思っていたら一年で終了しました。
 歴史ものはやはりある程度読者が有している共通認識を裏返したり、すきまをついていくことで興味を惹くものなので、いかに演出やキャラ立てに長けていたとしても題材がマイナーすぎたか。以て瞑すべし。
 河部先生は最近『モーニング』で『KILLER APE』という二十二世紀を舞台にしたSFを描き始めた模様。SFといっても内容は民間軍事会社に入った若者が訓練として歴史上の有名な戦場にシミュレーションで放り込まれる、という内容で事実上歴史ものっぽい。
 

『麻衣の虫ぐらし』(全二巻、雨がっぱ少女群、バンブーコミックス、オススメしやすさ:★★★)

 百合、死、虫、サイコパス。エンペドクレスが提唱した四元素をすべて含有する現状唯一のまんがが『麻衣の虫ぐらし』です。錬金術はあったのですよ。
 最終的(二巻)には桜乃麻衣という無職の女と菜々ちゃんという農家の女のラブになるのですが、第一巻は主にジェノサイドと爺です。菜々ちゃんがハイライトの消えた目で害虫を冷酷に虐殺していくさまと奈々ちゃんの余命いくばくもないおじいちゃんが病み衰えていく様子が描かれます。
 奈々ちゃんが虫を殺しまくるのは愛するおじいちゃんの畑を守ろうとする想いから発しているわけですが、そのおじいちゃんにお迎えが来たら彼女はどうなってしまうのか。ギャグも織り込みつつも、喪失との向き合い方をていねいに描いた叙情的な一作です。
 「虫ぐらし」をうたうだけあって、各話ごとに虫の生態や農業に関する豆知識を挟み、それをストーリーに自然かつ巧みに織りこんでいきます。最近この手のまんがが増えましたけれど、なかでも手腕が卓抜していますね。ストーリーテリングのうまさは二巻序盤でのあえての菜々ちゃん外しあたりにもあられています。
 終わってみれば二巻で終わったのもおさまりがよかったかな、という気もします。でも欲を言えば魅力的なサブキャラたちのからみももうちょっと見たかったかなあ……えっ? ちょうど電子書籍でサブキャラの番外編が出ているですって〜!? 
 以て瞑すべし。

『剣姫、咲く』(全四巻、山高守人、角川コミックエース、オススメしやすさ:★★)

 21世紀の今日にあって剣道まんがは呪われたジャンルといえるかもしれません。『BAMBOO BLADE』は別格であるにしても、二〇〇〇年代に入ってから三年以上の長期連載を勝ち取ったのは四コマの『青春甘辛煮』くらいではないでしょうか。
 特に少年誌での戦績は散々たるものです。『六三四の剣』の栄光は遠くになりにけり。
 
 さてここにそんな剣道まんがを救うかに見えた新星がありました。『剣姫、咲く』。
 高校女子剣道における全国区の強豪、鶴城高校剣道部。そこに入部してきて早々、ある一年生が主将に対してケンカをふっかけ、完勝します。
 この一年生剣士こそ『開闢の剣姫』、中学一年時の全中大会で破格の強さを見せて女子剣道界に革命をもたらすも、その後三年間消息しれずになっていた戸狩姫咲だったのです。
 自身の「強さ」によって先輩たちの剣道を否定する戸狩。彼女に対して、同じく新入部員である草薙諸葉が待ったをかけて立ち向かいます。最初は相手にもならないとおもわれていた諸葉ですが、立ち会いで思いがけない冴えを見せ、戸狩の心を捉えます。試合後、戸狩は諸葉を「好敵手(仮)」に任命し、自分のライバルにふさわしい存在に育て上げることを誓う……という剣道青春ストーリー。 
 
 とにかくアツいライバル関係を描くのがうまい。二巻まで*10は本当に神がかっていて、主軸となる戸狩×諸葉の「圧倒的な天才対徹底的な努力の人」という関係はもちろん、諸葉と中学時代に同じ剣道部に所属していた火ノ浦という剣士と諸葉の関係もよい。
 火ノ浦も戸狩もずばぬけた実力をもつ天才という点ではかわらないのですが、その二人が諸葉に惹かれている理由がそれぞれ違ってていいんですよね……。その感情のぶつかりあいがこれまた激アツな剣戟シーンとなって弾けるからすごくいいんですよね……。絵もきれいでキャラも立ってるしギャグとシリアスの配分も絶妙だし、正直なんでこれをモロ打ち切り展開にして四巻で終わらせたのか理解できません。
 鉄火場で対戦者同士が互いに向けるエモーションの交錯がうまいマンガは関係性の積み重ねあってのものなので、続ければ続けるほどよくなっていくものなのに……。やはり剣道まんがは不遇なのでしょうか。以て瞑すべし。


終わるのも理解できなくはないがもうちょっと続いてほしかったり、傑作だけど色んな事情で上には入らなかった組

『ひつじがいっぴき』(全二巻、高江洲弥、ハルタコミックス、オススメしやすさ:★★)
 
ひつじがいっぴき 1 (ハルタコミックス)

 小学四年生のお嬢様、怜夢がファンシーな夢のなかに作り出したヤンキーと仲良くなっていく、ガール・ミーツ・ヤンキーもの。いかに現実と向き合うかみたいな話。『ハルタ』出身だけあって絵がかわいい。


『青高チア部はかわいくない!』(全三巻、CONIX、ビームコミックス、オススメしやすさ:★★)

青高チア部はかわいくない! 1 (ビームコミックス)

 女子高生たちのチアリーディング部青春もの。絵がいい。


キャッチャー・イン・ザ・ライム』(全二巻、背川昇、ビッグコミックス、オススメしやすさ:★)

キャッチャー・イン・ザ・ライム 1 (1) (ビッグコミックス)

 女子高生がフリースタイルラップする系まんが。般若とR指-定(CREEPY NUTS)が監修しているだけあってラップ部分とライムを組み立てるときのディティールは本物。絵柄はライトなのに展開はヘビイといいますか、各キャラに背負わせているものが重い。終盤でいきなり「団地のリアル」みたいな描写いれてくるし。あまりにおもすぎたのが敬遠されたか。同じ女子高生ラップまんが『CHANGE!』が現在ワンステージ上に行ってることを思えばもったいなかった。


『少女支配』(全二巻、筒井いつき、オススメしやすさ:★★)

少女支配(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 仲良し女子高生グループがそのうちの一人のクソオヤジを協力して殺害し、一緒に山に埋める話。あなたはこれを出落ちだっていうんだろう。でも、初速で秒速百メートル出れば百メートル走じゃ勝ちなんですよ。実際出落ちにならない程度に「仲良しグループの崩壊」でもうひと山場つくりつつ、うまくエグくまとめあげている。熱さと冷たさの同居するエピローグ周辺がすき。


『バカレイドッグス』(全三巻、原作・矢樹純&漫画・青木優、ヤンマガKC、オススメしやすさ:★★)

バカレイドッグス(1) (ヤングマガジンコミックス)

 ヤクザや犯罪者を相手に闇医者稼業をする兄弟のお話。話の構成がうまくてミスリードを二重三重に貼ってきて飽きません。反面やや型通りな感も否めなかったので終わる時は「そうか……」でしたが、完結後に重版かかったとも聞き、やはり他にも好きな人はいたんだなあ、と感慨にふけったりもしました。まんがが終わっているので感慨にふけってる場合ではないんですが……。
ちなみに医学監修にあの名作『ナイチンゲール伝』や『まんが医学の歴史』の茨木保先生が入っているのもポイント。


もっこり半兵衛』(全二巻、徳弘正也ヤングジャンプコミックス、オススメしやすさ:★★)

もっこり半兵衛 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 落ち着きある丹精な時代連作短篇集なのですが、あまりに落ち着きすぎているのと作者の名前に「旬」感がないのであまりに見過ごされすぎたか。こういう作品のニッチが削られていく今日このごろですが、もったいないですね。


『ブランクアーカイヴス』(全二巻、交田稜アフタヌーンコミックス、オススメしやすさ:★★)

ブランクアーカイヴズ(1) (アフタヌーンコミックス)

 大きなくくりでいえば異能サスペンスもの。発動する能力が少年バトルまんがとかに比べてやや複雑なのと、特有のジャーゴンも絡んでくるので初見ではのみこみづらいかもですが、それさえ乗り越えれば良質なサスペンスまんが。一話ごとの出来はともかく、主人公の物語としてはあまりに使えた時間が少なかった。


『リウーを待ちながら』(全三巻、朱戸アオ、イブニングKC、オススメしやすさ:★★★)

リウーを待ちながら(1) (イブニングコミックス)

パンデミックの流行から収束まで。話としては割に綺麗に終わっているので、薦めやすくはあります。パンデミック医療ものは珍奇ではありますし、このいかにもイブニング好みの緊張感ある静謐さは見知った日常がじわじわと崩れていく恐怖によくマッチしている。三巻まででも十二分な満足感は得られる作品です。


『斑丸ケイオス』(全三巻、大野ツトム、ヤングアニマル、オススメしやすさ:★★)

斑丸ケイオス 1 (ヤングアニマルコミックス)

「ヌシ」と呼ばれる化物たちがはびこる世界で、「ヌシ」を殺しまくる腕利きの女忍者・白夜。彼女に付き従っていた少年・斑丸は「ヌシ」狩りの途中で切り捨てられてしまう。裏切られてもなお白夜を慕う斑丸ががんばる異形時代バトルおねショタまんが。エクストリーム加減が終盤やや失速したか。


キスアンドクライ』(全二巻、日傘希望、週刊少年マガジンコミックス、オススメしやすさ:★)

キスアンドクライ(1) (講談社コミックス)

 フィギュアスケートまんが。性格を極悪にしたような羽生結弦が記憶喪失になり、フィギュアの訓練をいちから組みなおす。ほんとうに可能性だけを見せて終わったマンガなのでオススメはしないのですが、作者の名前はおぼえておきたい。


『柔のミケランジェロ』(全二巻、カクイシシュンスケ、ヤングアニマルコミックス、オススメしやすさ:★)

柔のミケランジェロ 1 (ヤングアニマルコミックス)

 柔道漫画。芸術家の息子として鍛錬を積みまくったおかげでヒョロい文化系にもかかわらず相手の重心を一目で捉えられるので強いッッ! みたいな主人公がライバルたちと切磋琢磨していく正統派青春スポーツもの。ほんとうに可能性だけを見せて終わったマンガなのでオススメはしないのですが、作者の名前はおぼえておきたい。


『時計じかけの姉』(全三巻、池田たかし、バーズコミックス、オススメしやすさ:★★)

時計じかけの姉 (1) (バーズコミックス)

 姉SFの傑作。話的にもよくまとまっていて読みやすいのですが、導入が「死んだ弟のロボットを造り、それが娼夫として商店街のおっさんたちに明るく楽しく犯されているさまを監視カメラで盗撮しながら自慰をしたり、ときには自分もロボットとセックスしている時計屋の姉」という複数の道徳に抵触するアレなアレなのでちょっとススメにくい。
 とはいえ背徳的でエグいばかりがヒキのまんがかといえばそうではありません。おちゃらけたなコメディを基調にしつつ、時計屋の姉の静かな葛藤と彼女に恋するアラサー男の空回り純愛を軸に据えて丹念に描かれるドラマは見てくれよりずっと堅実で重厚です。



『私は君を泣かせたい』(全三巻、文尾文、ヤングアニマル、オススメしやすさ:★★★)

私は君を泣かせたい 1 (ヤングアニマルコミックス)

 ヤンキーと優等生が映画鑑賞によってつながっていく百合。個人的には終始好みでなかったのですが、好みでないというだけでこのリストから外すほどわたしたちは愚かではないはずです。


『落ちてるふたり』(全二巻、西原梨花、マガジンポケットコミックス、オススメしやすさ:★★)

落ちてるふたり(1) (マガジンポケットコミックス)

 男子高校生と留年生女子大生のラブコメ。ドギツイ設定やビジュアルでツカもうとしてくることが多いマガジン連載陣にあって、この繊細で地に足のついたクズさでせめてくる作品は貴重だったのですが……。


『たのしいたのししま』(全二巻、大沖週刊少年マガジンコミックス、オススメしやすさ:★★)

たのしいたのししま(1) (講談社コミックス)

 ふしぎな離島四コマ。大沖先生にはおもしろい大沖先生とあんまりおもしろくない大沖先生がいて、これはその中間くらいのやつです。


『月曜日の友達』(全二巻、阿部共実ビッグコミックス、オススメしやすさ:★★★)

月曜日の友達 1 (ビッグコミックス)

 阿部共実先生がいつのまにか四季賞出身者みたいな陰影使いを習得していて全読者を驚嘆させた。最初から二巻で終わらせる予定だったんだろうなあ、という感じだったんでここに。阿部共実先生のは全部読みましょう。国民の義務です。


『ジャバウォッキー1914』(全四巻、久正人シリウスコミックス、オススメしやすさ:★★【続編なので】)

ジャバウォッキー1914(1) (シリウスKC)

 『ジャバウォッキー』の続編。まあ続編だし最初からこのへんでおわらせる感じだったんだろうなあ、という印象。『ジャバウォッキー』をあとを受けたお話としては満足な完成度で、ラストシーンはファンなら号泣必至。久正人先生のは全部読みましょう。国民の義務です。


でぃす×こみ』(全三巻、ゆうきまさみビッグコミックススペシャル、オススメしやすさ:★★★)

でぃす×こみ(1) (ビッグコミックススペシャル)

 毎回冒頭につく作中作の彩色をさまざまな有名漫画家が担当するという趣向で話題を読んだ漫画家まんが。これもまあこのくらいで終わるつもりだったんだろうなあ、というようなきれいな手仕舞いでした。創作者の物語としてさすがゆうき先生、という出来。
 ゆうき先生は新連載の『新九郎、奔る!』がめちゃくちゃおもしろいのでそちらに要注目。


『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』(全二巻、ペス山ポピー、バンチコミックス、オススメしやすさ:★★★)
実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。(1) (BUNCH COMICS)

『一人交換日記』(全二巻、永田カビ、ビッグコミックススペシャル、オススメしやすさ:★★★)
一人交換日記 (ビッグコミックススペシャル)

 エッセイ漫画。もともとエッセイ漫画は一巻完結が前提で、つづくもののほうがめずらしいし、こういう記事だと扱いにこまります。ただ、この二巻は何はさておき読むべき傑作。
 前者の『泣くまでボコられて〜』はマゾと形容するのもはばかられるクラスの被虐癖を有した女性が出会い系を通じて知り合ったサドの男性と恋に落ちる内容。自身の抱えた複合的で複雑極まりないセクシュアリティを認識していく過程がまんが的な意味において巧みに描かれていて、かなり惹き込まれます。
 『一人交換日記』は話題作『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』の実質的な続編。家族関係で消耗したり、「身近な人物をネタにすることの罪悪感」というエッセイまんがの壁にぶちあたったり、入院したりと前作に輪をかけてヘビイな内容。こんな状態の人間にまんがを描かせる編集部はマジで鬼だと思いますが、おかげで稀に見るほど””人生””のつまった傑作に仕上がってしまった(最終話の「ただの人生です」という宣言がとにかくクる)ので、芸術の功罪はとかく判断がむずかしいものです。



 他にもいろいろありましたね。『TAMATA』とか『もしもし、てるみです。』とか『しおりを探すページたち』とか『GREAT OLD』とか……。彼ら彼女らがよりよき明日のまんが界の礎となることを願って、いささか駆け足とあいなりましたが、今年のところはおしまいとさせていただきます。
 よいお年を。
 

追記

 ブコメ見てアアッ! 『ようことよしなに』(全三巻、町田翠、ビッグコミックスを完全に見落としてたッ! と愕然としたので特別に追記。
 

ようことよしなに 1 (ビッグコミックス)

ようことよしなに 1 (ビッグコミックス)

 下の記事でもちょっと書きましたが、青春ガールズバンドものの傑作です。
 このくらいのスケール感ならこのくらいでちょうどいいんだろうな、というところにジャストフィットして完結した印象。
 なので悲劇感はうすいのですけれども、青春ものに抱く「このままこの幸せが永遠につづいてくれ」という読者としての願いが……こう……。
 あとこういう機会でもないかぎりは推せないので推しておきます。きれいにはじまってきれいにおわるので読みやすいですよ。読め。買って読め。
人類が存続を保証すべき2017年の新作連載マンガ72選 - 名馬であれば馬のうち

 

人間臨終図巻1<新装版> (徳間文庫)

人間臨終図巻1<新装版> (徳間文庫)

 

*1:いくらなんでも17年続いて割と円満に完結した『ストレンジ・プラス』とかは入れない

*2:『銀河の死なない子供たちへ』とかはさすがになんか違うだろということで

*3:板垣先生の名誉のために申し述べておくなら、『BEAST COMPLEX』のあとがきによると、『BEASTERS』の構想自体は『ズートピア』より前です。

*4:まあ長期連載になってくるとそう簡単に割り切れる図式でもなくなってくるのですが

*5:くまみこ』最新巻で『押入れのわらしさん』以来のショタリミッターを外して読者を「いままでこれほどの”力”をセーブして戦っていたのか……」と震撼させたのは記憶にあたらしいところ

*6:第一巻あとがき参照

*7:各種有料まんが配信サイトの「完結」表記から完結と推測

*8:まんがとして見難いコマが散見されるのも事実ですが

*9:セリフパロ(多分)しているところを見ると『へうげもの』とか『シグルイ』とか『ジョジョ』に影響受けてんだろな―という感じ。

*10:実質的には三巻序盤まで

第三回文学フリマ出展告知とその詳細

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 あけましておめでとうございます。
 突然ですが、1月20日(日)に京都市のみやこメッセで行われます京都文学フリマに出展します。徒党を組んで。


bunfree.net

 配置はう-43。サークル名は「ストレンジ・フィクションズ」。

c.bunfree.net

 今回の特集内容は『異色作家短篇集リミックス』。
 昔、早川書房から出されていた『異色作家短篇集』という叢書の収録作・収録作家を下敷きに創作を書く、いわゆるトリビュート本ですね。
 最初は創作だけの薄い本になる予定でした。
 が、せっかくなので評論も入れようインタビューもやろう創作もリキ入っちゃった等で増しましが際限なく膨れあがり、最終的には270ページを超える見込みに。その場のノリというのはおそろしいものです。高級なノリになればなるほどよく燃やされる。
 

 ってなわけでなんだかんだ豪華になってしまいました。
 第九回創元SF短編賞大森望賞を受賞した織戸久貴同人の受賞後第一作や、『立ち読み会会報誌』の孔田多紀同人による「『異色作家』『奇妙な味』というタームの起源と発展」について十分でよくわかる解説もいまならついてくる。
 ゲスト原稿もゴージャスの極みです。
 表紙絵とカバーストーリーの掌編には『魔女の子供はやってこない』『〔少女庭国〕』の矢部嵩先生。
 インタビューには『呪いに首はありますか』『牛家』の岩城裕明先生、『刀と傘 明治京洛推理帖』の伊吹亜門先生のおふたり。
 岩城先生には「現代の異色作家」を切り口に、デビューから現在にいたるまでのさまざまなご活躍を語っていただきました。
 伊吹先生には11月に出たばかりのデビュー作『刀と傘』に関連し、作家としての御自身の源となった「14の短篇」についてサークルの先輩でもある織戸同人と対談していただきました。

 まあ概要はこんな感じ。ジャンルでくくるとミステリとかSFとかになるはず。
 事前予約・取り置き等も受け付けております。。
 ご希望の方は twitterの公式アカウント(@strange_fics*1かメールアドレス(strangefictionsdoujin@gmail.com)に、「受取人名と欲しい部数」を添えて御連絡ください。一部1000円です。
 通販は現在予定しておりません。予約分の受け渡しも原則的に文フリ当日の現地でのみです。


 で、おしながきやコンテンツごとのやや詳しめの内容を知りたい方は以下をご参照ください。画面はいずれも開発中のものです。

 

コンテンツ紹介

カバーストーリー

矢部嵩「私の好きな異色作家短篇集について」

 矢部嵩先生による寄稿。
 おじいちゃんと釣りに行ったときの思い出が書き綴られています。二ページほどの掌編ですが、あますところなく矢部嵩節が発揮されております。

特集:異色作家短篇集リミックス

創作パート

 企画趣旨:『異色作家短篇集』から各自好きな短篇(あるいは作家)を選んで、それを「リミックス」した短篇を書く。

九鬼ひとみ「十三子のショック」

リミックス元:リチャード・マシスン*2『十三のショック』

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 古今東西のホラー・怪奇コンテンツを語らせたら関西に並びたつもののいない博覧狂奇の怪人・九鬼同人。
 本作は元ネタの『十三のショック』に収録されている短篇をなるべくいっぱいリミックスしようという気宇壮大な志のもとに書かれた怪奇姉短篇です。
 作者は「富沢ひとし先生の『プロペラ天国』みたいに異なる姉がいっぱい出てくるとうれしい」みたいなことをお話になっていました。うれしくなるんじゃないかとおもいます。

紙月真魚「いつかの海へ」

フレドリック・ブラウン「雷獣ヴァヴェリ」

 夏の某日のこと。創作同人誌を立ち上げたはいいものの、メンツに(世代的な意味で)フレッシュさが足りない……と悩むわたしにある人物から一本の電話がかかってきました。
「ふふふ……。同人誌の参加メンバー集めに苦労しているそうじゃないか」
「あ、あなたは人気現役ミス研生の紙魚ちゃんこと紙月さん!?」
「《ストレンジ・フィクションズ》旗揚げ興行は立派にやれるッ!
 一人の超大物大学生がみやこメッセへ行き、きみと戦うからな!」
「エッ……そ、その超大物とは!?」
「わたしだよ。それとも紙月真魚は超大物ではないかな?」
「し、紙月さん!!!」
 あくまでうわさですが、このような感動的なやりとりがあったとされています。

 本篇は死んだ伯父の遺品から金魚石なるふしぎな石と伯父の書いた同人SF小説を発見した少年が、その小説を読み解くうちに「あること」に気づく……という叙情的な内容らしい。らしい、というのは1月1日現在、この短篇の完成稿があがっていないからで、もしかしたら同じブラウンリスペクトでも後ろを見ないほうがいい系の短篇に書き換わっている可能性があります。
 たぶん完成すると思います。完成するんじゃないかな。まあちょっとは覚悟しておけ(編集担当が)。
 姉は出てこないはずです。

浦久「象が地下鉄東西線に体当たり」

リミックス元:ウィリアム・コツウィンクル「象が列車に体当たり」

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 京都市営地下鉄東西線二条駅構内に忽然とゾウが出現し、いとけない京都市民を虐殺する話です。京都文フリで売る話か……。
 京都市民がゾウに踏まれて虐殺されるジャンルではたぶんナンバーワンなんじゃないかとおもいます。
 作者いわく「リミックスといえば古川日出男なので古川訳の『平家物語』の構成を用いた」と言っててふーんと思っていましたが、昨年十月に『MONKEY』のカバー特集に古川先生も参加していたの見、ささやかながらこれもシンクロニシティなのだと感じます。
 とらえようによっては姉もすこしだけ出てきます。

水月司「渚の邂逅」

リミックス元:レイ・ブラッドベリ「穏やかな一日」

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 本来水月同人は非人情的なぐらいピーキーでガチガチのパズラー本格ミステリを書くヒトです。なので最初「ブラッドベリでやる」と聞いたときはいささか不安を催したのですが、実際あがったのを読んでみると杞憂でした。
 クラシカルな本格短篇でありながらも、ブラッドベリの叙情がうまい具合に絡まっていい感じのバランスにおさまっています。この企画でしかやれないであろうラストも見事。知らないあいだに人間は大人になっていくのだなと感じました。
 執筆中は取材と称してずっと Don’t Starve と Civilization V に興じていたようですが、それらが作品にどのような形で反映されているのかは不明です。
 姉は出てきません。


織戸久貴「時間のかかる約束」

リミックス元:シオドア・スタージョン「孤独の円盤」ほか
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 第九回創元SF短編賞大森望賞を受賞した百合SFおよび姉ミステリの麒麟児による受賞後第一作。
 理に生きエモに死ぬ織戸同人が選んだリミックス元はもちろんスタージョンです。
 ある街に出現した謎の円盤と交信する妹、その妹に寄り添う姉、そして彼女たち姉妹の物語をつむぐ作家が巻き込まれるとてつもない実験とは。
 作者自身も謎の円盤と交信して「『天体のメソッド』をやれ」というメッセージを受け取り実行したところ、完成後の昨年暮に『天体のメソッド』第二期の発表があったといういわくつきの短篇でもあります。 
 創元SF代表としてハヤカワ『SFマガジン』を向こうに回して史上最大の百合決戦を単騎挑む織戸先生の姉妹SFミステリをよろしくおねがいします。
 
saitonaname.hatenablog.com


孔田多紀「特別資料」

リミックス元:スタンリイ・エリン「特別料理」
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殊能将之論の名著『立ち読み会会報誌』で斯界の話題をさらい、松井和翠さんの『推理小説批評大全 総解説』の巻末座談会にも招かれるなどここ最近のミステリ評論界でプレゼンスが急上昇中、気鋭の論客・孔田多紀同人も創作と評論の二刀流で緊急参戦。
 小説がまったく読まれることのなくなった近未来の日本で、学校の図書係に任命された少年が小説好きの図書館司書との交流をつうじてフィクションのよろこびに目覚めていく……と書くとほのぼのした小説讃歌のようですが、ところどころで垣間見せる突き放したクールさに批評性がしのんでいます。
 ある種の読書論でもあり、本同人誌全体に対する評論みたいな内容でもある。創作パートの棹尾をかざるにふさわしい小篇。
 姉は出てきませんが、心の持ちようによっては同級生というのも姉の範疇ではないでしょうか。

anatataki.hatenablog.com


インタビュー・座談会・エッセイ

異色作家・岩城裕明氏メールインタビュー

 聞き手は九鬼同人。現代の異色作家・岩城先生のデビューから現在までを一問一答方式で答えていただきました。文学フリマに出展した縁からとある本につながったり、デビュー当時に先生が志向していた形式についてのお話があったり、短いながらもなかなか豊かです。

参考文献解題(孔田多紀)

 孔田同人による「「奇妙な味」「異色作家」という語が発生し拡散するまで」を素描していく野心的企画。
 「奇妙な味」の首唱者である江戸川乱歩から発して都筑道夫小林信彦常盤新平中村融らにリレーされていくうちに微妙に変容しつつゆるやかな合意を形成していく過程がスリリングに書かれています。
 これさえ読めば、明日からきみも異色作家短篇集博士。

平成以後の異色作家について語る匿名座談会

 「参考文献解題」が「異色作家」のいままでの話だったするのならば、これは「異色作家」のこれからを語る座談会。参加者がもちよった「ぼくのわたしのかんがえた最強の現代異色作家ベスト5」を戦わせてナンバーワンを決める大会です。いや、実際に戦わせはしませんが。
 やたらネームドロップしているだけの内容に見えるかもしれませんが、そのこと自体が「異色作家」や「奇妙な味」をめぐる状況をあらわしているともいえますね。
 巻末には座談会に出席できなかった九鬼同人のベスト5とコメントも掲載。

異色漫画エッセイ(仮)(紙月真魚

 まんが大好き紙月同人が選ぶ現代の異色漫画短篇リスト&コメント。一月一日現在、まだ完成していないようなので、詳しいコメントは差し控えます。

二〇一八年の新作異色映画(浦久)

 二〇一八年に公開された新作映画のなかで浦久同人が「異色っぽい」と思ったものをあげたリスト&コメント。ラインナップは見てのお楽しみ。

小特集:伊吹亜門

ロングインタビュー 伊吹亜門と十四の謎

 昨年11月に東京創元社から『刀と傘 明治京洛推理帖』でデビューするや法月綸太郎綾辻行人辻真先、青崎有吾など斯界の本格玄人たちから絶賛を集めた今日本ミステリ界最注目の新人、伊吹亜門先生のロングインタビュー。聞き手はサークルの先輩でもあり、デビュー前から伊吹先生を見守り共に研鑽に励んできた織戸同人。
 「伊吹亜門」という作家を形成した十四の短篇たちをその読書経歴(小学生から現在まで)とともにシロノワールより濃厚に語りおろしていただきました。
 思い入れ深い十四の短篇ひとつひとつが『刀と傘』の要所要所にパズルのピースのごとくはまっていくさまはそれ自体本格ミステリの解決編のような快感。ほとんど「メイキング・オブ・『刀と傘』」の趣です。

 伊吹亜門を読まずして二〇一九年を語るなかれ、
 本インタビューを読まずして伊吹亜門を語るなかれ。

小論――情念小説としての『刀と傘』解説(織戸久貴)

 織戸同人による「今現在、世界で最も詳しい『刀と傘』解説」。連城三紀彦の小説に対する巽昌章の「反―情念小説」というタームを援用しつつ、連城と『刀と傘』をあざやかに対比させ、伊吹亜門という作家をミステリ史のなかに位置づけた力作。今度の伊吹亜門論の試金石となるであろうことは間違いありません。
 


 こんなかんじ。
 繰り返しになりますがこういうのは末尾にもあったほうが便利なので書いておくと、
 事前予約・取り置き等もやっておりますので、
 ご希望の方は twitterの公式アカウント(@strangefictions)かメールアドレス(strangefictionsdoujin@gmail.com)に
「受取人名と欲しい部数」を添えて御連絡ください。一部1000円です。

*1:フォロー外からのDMも承っております

*2:旧版ではマティス

第91回アカデミー賞の受賞予想全部門

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 予想の季節です。
 ほんとうは各ギルドの授賞が出揃ってからやったほうが当たりやすいんでしょうけど、
 そこまで固まってしまうとつまらないので。


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作品賞

 『ブラックパンサー
 『ブラック・クランズマン』
 『ボヘミアン・ラプソディ
 『女王陛下のお気に入り
★『グリーンブック』
 『ROMA』
 『アリー スター誕生』
 『バイス

・部門賞に目立ったサプライズもないなかで、メインディッシュたる作品賞が大波乱。『ファーストマン』や『ビールストリートの恋人たち』といった今年前半に本命視されていた「いかにもオスカー」な二本が落ち、『ブラックパンサー』と『ボヘミアン・ラプソディ』という大ヒットエンタメが入った。
・『バイス』はなんで賞レースでここまで名前出るのってくらい批評家受けも観客受けも微妙なんですよね。クリスチャン・ベールの変身芸とアナプルナのプロモーション力に助けられすぎてる感がある。あと政治的な時事性。
・『アリー スター誕生』はつい最近まで大本命扱いだったのにゴールデングローブ賞でミソがついてから元気がない。プロデューサーの名前的にもそんな強い感じはないし、このままずるずる立て直せなさそう。
・『ROMA』。外国語映画が作品賞獲ったことってあったっけ? いくらキュアロンのオスカー力をもってしても、いくらトランプがメキシコ映画のプロモートに一役買っているといっても、限度ってもんがある。
・『グリーンブック』、前哨戦の最重要賞のひとつであるトロント国際映画祭の観客賞を獲ったし、ゴールデングローブもいったし、素直に本命。政治的な時事性も備えているし、アメリカ人好きする内容(行儀の良い黒人と粗暴な白人が相互理解を深める!)っぽいし、適度にユーモアがあるようだし、主演&助演男優賞脚本賞にもきっちりノミネートされてるし、死角があまりない。唯一の懸念材料は監督賞にノミネートされなかったことくらいか。あとは投票期間までのバックラッシュに耐えられるかどうか。
・『女王陛下のお気に入り』、ヨルゴス・ランティモスがオスカー像を掲げている姿を想像できない。あまりにエッジーな作品はオスカーで好まれない。
・『ボヘミアン・ラプソディ』、ゴールデングローブ賞ではドラマ部門でのノミネートだけでも疑問符だったのにまさか受賞までいくとは。ここまで来ると20世紀フォックスも応援に本腰を入れるでしょう。ただやはりオスカーって格ではない。アカデミーの上層部がいくらより観客に愛される作品を候補にしようとしたところで、投票するのは頭の固いおじいちゃんたちばかりなんですよ。
・『ブラッククランズマン』。『グリーンブック』のライバルになりえるとしたらこれ。しかしいくら黒人映画に好意的になったとはいえ、スパイク・リーの描くKKK潜入映画はあまりにポリティカルに深入りしすぎやしていないか。その深さをいまだ白人男性がマジョリティを占めるオスカーはそっと遠ざけてしまうのではないか。
・『ブラックパンサー』。視聴率対策っていうか、一般人への目配せでしょう。映画史的には重要作だろうけれど、オスカーでは客寄せパンダ以上にどうしてもならない。

監督賞

 スパイク・リー(『ブラック・クランズマン』)
 パヴェル・パヴリコフスキ(『COLD WAR あの歌、2つの心』)
 ヨルゴス・ランティモス(『女王陛下のお気に入り』)
アルフォンソ・キュアロン(『ROMA ローマ』)
 アダム・マッケイ(『バイス』)

・外国語映画の監督が二人も入る異常事態。
・そして、ピーター・ファレリーまさかの落選。「お下品ロマコメの人」のイメージが払拭できなかったか。
ブラッドリー・クーパーの落選はあきらかにゴールデングローブ賞の後遺症という気がする。ジェンキンス? チャゼルくん? そんなのもいたねえ。
・『ボヘミアン・ラプソディ』の作品賞ノミネートに象徴されるように、今年は「これ」という監督があんまりいない。
・というわけで、キュアロンに行きそう。外国語映画に作品賞を与えなかったとしても、アルフォンソ・キュアロンはあいかわらずハリウッド監督であり「身内」であるので、よくわかんないギリシャ人とかポーランド人とか変な映画撮る同国人よりはよほど安心感があるだろう。


主演男優賞

 クリスチャン・ベール(『バイス』)
 ブラッドリー・クーパー(『アリー スター誕生』)
 ウィレム・デフォー(『永遠の門 ゴッホの見た未来』)
ラミ・マレック(『ボヘミアン・ラプソディ』)
 ヴィゴ・モーテンセン(『グリーンブック』)

・実在人物完コピ対決。ラミ・マレックか、クリスチャン・ベールか。ゴールデングローブ賞をもぎ取ったマレックに行くだろう。『ザ・マスター』以来、天才ハッカーになったり惨劇に巻き込まれたり突然職場で素っ裸になって会社を飛び出していったりしていたファンとしては感慨深い。
イーサン・ホーク(『魂のゆくえ』)とジョン・デイヴィッド・ワシントン(『ブラッククランズマン』)が落ちて、ウィレム・デフォーが入った格好か。緒戦で有力視されていたライアン・ゴズリング(『ファースト・マン』)やルーカス・ヘッジズ(『Boy Erased』)はいつのまにかずるずると当落線上ですらなくなってしまった。
・作品と助演賞では黒人が強いのに、主演賞では八割型白人なのはまたぞろ論議を呼びそう。

主演女優賞

 ヤリーツァ・アパリシオ(『ROMA』)
グレン・クローズ(『天才作家の妻 40年目の真実』)
 オリヴィア・コールマン(『女王陛下のお気に入り』)
 レディー・ガガ(『アリー スター誕生』)
 メリッサ・マッカーシー(『Can You Ever Forgive Me?』)

・前哨戦的にはほぼほぼクローズかコールマンか。批評筋はややコールマン寄りだが、「七度目の正直」というドラマ性とゴールデングローブ賞受賞の実績を持つ大ベテラン・クローズをこそオスカー会員は推すだろう。
・主な落選組はエミリー・ブラント(『メリー・ポピンズ リターンズ』)、ヴィオラ・デイヴィス(『妻たちの落とし前』)、トニ・コレット(『へレディタリー』)あたりか。『Eighth Grade』のエルシー・フィッシャーは次世代を担う新星としてノミネートしててもよかったかもしれない。

助演男優賞

マハーシャラ・アリ(『グリーンブック』)
 アダム・ドライバー(『ブラック・クランズマン』)
 サム・エリオット(『アリー スター誕生』)
 リチャード・E・グラント(『Can You Ever Forgive Me?』)
 サム・ロックウェル(『バイス』)

・個人的にはサム・エリオット以外ありえないわけだけど、一歩引いた視点から冷静に考えるとやはりマハーシャラ・アリの『ムーンライト』以来の二度目の受賞が固い。対抗となるのはグラントか。
・大方事前の予想通りの顔ぶれだけれど、『ビューティフル・ボーイ』のティモシー・シャラメが入らなかったのは意外。


助演女優賞

 エイミー・アダムス(『バイス』)
 マリア・デ・タヴィラ(『ROMA』)
レジーナ・キング(『ビール・ストリートの恋人たち』)
 エマ・ストーン(『女王陛下のお気に入り』)
 レイチェル・ワイツ(『女王陛下のお気に入り』)

・大方の予想通り、と思ったら、前哨戦では一切名前の挙がらなかったマリーナ・デ・タヴィラがここにきて大サプライズ。逆にクレア・フォイは『ファースト・マン』勢全体の不振のあおりを喰らった印象。
・でもまあ、レジーナ・キングの受賞は揺るがないでしょう。ストーンとワイツは票が割れるだろうし。

撮影賞

 ルーカズ・ザル(『COLD WAR あの歌、2つの心』)
 ロビー・ライアン(『女王陛下のお気に入り』)
 ケイレブ・デシャネル(『Never Look Away』)
アルフォンソ・キュアロン(『ROMA』)
 マシュー・ライバティク(『アリー スター誕生』)

・なんでお前ここにいんのキュアロン。ルベツキはどうした。
・毎年常連組が独占しがちな撮影賞だけれど、今年はフレッシュな顔ぶれがならぶ。デシャネルを除けば今回含めて全員ノミネート歴二度以下。
・『ROMA』かなあ、って印象。撮影がキュアロン自身になってもキュアロン映画の変態撮影は生きている。

脚本賞

 デボラ・デイヴィス、トニー・マクナマラ(『女王陛下のお気に入り』)
 ポール・シュレイダー(『魂のゆくえ』)
★ピーター・ファレリー他二名(『グリーンブック』)
 アルフォンソ・キュアロン(『ROMA』)
 アダム・マッケイ(『バイス』)

・大御所級の名前が並ぶ。しかしここはゴールデングローブ賞を獲った『グリーンブック』一択。
脚本賞は例年若手をフックアップする場でもあるが、『eigtth grade』のボー・バーナムより『女王陛下のお気に入り』のデイヴィスがノミネートされたのは興味深い。
・それにつけてもポール・シュレイダー

脚色賞

 コーエン兄弟(『バスターのバラード』)
 スパイク・リー他三名(『ブラック・クランズマン』)
 ニコール・ホロフセナー、ジェフ・ホイットニー(『Can You Ever Forgive Me?』)
★バリー・ジェンキンス(『ビール・ストリートの恋人たち』)
 エリック・ロス他二名(『アリー スター誕生』)

・各批評家賞やナショナル・ボード・オブ・レビューで受賞しているバリー・ジェンキンスに一日の長があるか。『ブラック・クランズマン』、『Can You Ever Forgive Me?』との三つ巴になるだろう。
・個人的には『スターリンの葬送狂騒曲』あたりも入ってほしかった。Netflixのアピールに押し出されてしまったか。

外国語映画賞

 『Capernaum』(レバノン
 『Cold War あの歌、2つの心』(ポーランド
 『Never Look Away』(ドイツ)
★『ROMA』(メキシコ)
 『万引き家族』(日本)

・オスカーの歴史上、同じ回の作品賞と外国語映画賞に同時ノミネートされて外国語映画賞を獲らなかった作品は存在しない。*1今回も『ROMA』がその伝統を踏襲しそうな勢い。
・日本のテレビ的には「カンヌを獲った『万引き家族』が本命!」みたいに盛り上げていくんだろうけど、『ROMA』の前には万に一つ程度の可能性しかないです。パルムドールってオスカーではあんま御利益ないし。
・つか『Cold War』が監督賞にもノミネートされちゃったから、二番手どころか三番手じゃん。

長編アニメーション映画賞

 『犬ヶ島
 『インクレディブル・ファミリー
 『未来のミライ
 『シュガー・ラッシュ:オンライン』
★『スパイダーマン:スパイダーバース』

・基本的に他の賞があんまり参考にならないので難しい。いつもならピクサーかディズニーに賭けておけば間違いないのだが……。
・ただ『シュガーラッシュ』も『インクレディブル』も続編。続編が受賞した例は『トイ・ストーリー3』しかない。どちらも批評家受けは結構いいものの、トイ3クラスの出来栄えだったかといえば疑問符がつく。
・そして『スパイダーバース』の勢いが無視できない。一方で、フィル・ロードは本命といわれながら候補にすら入れなかった『レゴ・ムービー』のときの悪夢がちらつく。
・とすると『犬ヶ島』か? 監督はアメリカ人には馴染みのある名前だし、作品の格的には十分だろう。しかし「アート枠」とみなされる作品は弱い。ストップモーションアニメの受賞は『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』だけだ。ウェス・アンダーソン個人に関していうなら、『ファンタスティック Mr.FOX』が『カールじいさんの空飛ぶ家』に敗北した歴史もある。
・間隙をついて『未来のミライ』? たしかに(日本の不評に反して)アメリカ人の受けは異常にいい。しかし投票方式が変わってますます内向きになる長編アニメーション部門で非アメリカ製映画が勝ち残るのは『千と千尋の神隠し』のときより困難になっている。
・候補作にはどれも一長一短がある。わたしに言えるのは「『リズと青い鳥』を候補に入れていないアニメ賞に価値などない」ということだけだ。

主題歌賞

 “All the Stars”(『ブラックパンサー』)
 “I’ll Fight”(『RBG』)
 “The Place Where Lost Things Go”(『メリー・ポピンズリターンズ』)
★“Shallow”(『アリー スター誕生』)
 “When a Cowboy Trades His Spurs for Wings”(『バスターのバラード』)

・要するに『アリー』の二曲のうちどちらか、という話で、まあ「Shallow」だろうな、といった感じ。ポテンシャル的には「All the Stars」も十分ありうる。

短編実写映画賞

 『Detainment』
 『Mother』
★『Skin』
 『Fauve』
 『Marguerite』

・難しい。それぞれに受賞実績はあるのだが、どの賞を獲っていれば有利というものでもない分野なので……。
・受賞実績でいえば「FAUVE』。あるいは実績こそ少ないものの黒人問題を扱って会員たちにも馴染み深い『SKIN』あたりか。『ブラックパンサー』『ブラッククランズマン』『グリーンブック』の年であることを考えると、後者に一票。

短編アニメーション映画賞

 『Animal Behaviour』
 『Bao』
 『Late Afternoon』
 『One Small Step』
★『Weekends』

・やはり難しい。
・昨年はディズニーの功労者グレン・キーンがコービー・ブライアントの詩をアニメ化した『Dear Basketball』で受賞するという嬉しいサプライズがあった。
・このところピクサーが弱い部門であることを踏まえると『Bao』は望み薄か。受賞実績から『Weekends』を推そう。アヌシー受賞作はアヌシー受賞作でオスカーに嫌われる伝統があるが。

作曲賞

 ルドウィグ・ゴランソン(『ブラックパンサー』)
 テレンス・ブランチャード(『ブラック・クランズマン』)
★ニコラス・ブライテル(『ビール・ストリートの恋人たち』)
 アレクサンドル・デスプラ(『犬ヶ島』)
 マーク・シャイマン(『メリー・ポピンズリターンズ』)

ゴールデングローブ賞を獲ったジャスティン・ハーヴィッツ(『ファースト・マン』)が落選する波乱。となると前哨戦でハーヴィッツと賞を二分してきたブライテルが独走か。対抗馬はもちろん、ここ十三年で十作品目のノミネーションとなるアレクサンドル・デスプラ

編集賞

 バリー・アレクサンダー・ブラウン(『ブラック・クランズマン』)
★ジョン・オットマン(『ボヘミアン・ラプソディ』)
 ヨルゴス・マヴロプサリディス(『女王陛下のお気に入り』)
 パトリック・J・ドン・ヴィトー(『グリーンブック』)
 ハンク・コーウィン(『バイス』)

・前哨戦でも受賞が割れていて予想がしづらい。監督降板のドタバタ劇を立て直した功労者であろう『ボヘミアン・ラプソディ』のジョン・オットマンに会員からの称賛票があつまるか。編集芸といえばマッケイ映画の『バイス』もあるだろうし、単純に作品の強さでいえば『グリーン・ブック』も捨てがたい。
・ここでも『ファースト・マン』が落ちている。かわいそう。

美術賞

★ハンナ・ビークラー、ジェイ・ハート(『ブラックパンサー』)
 ヒィオナ・クロンビー、アリス・フェルトン(『女王陛下のお気に入り』)
 ネイサン・クロウリー、キャシー・ルーカス(『ファースト・マン』)
 ジョン・マイラ、ゴードン・シム(『メリー・ポピンズリターンズ』)
 ユージニオ・キャバレロバルバラエンリケス(『ROMA』)

・前哨戦の実績から見れば、『ブラックパンサー』と『女王陛下のお気に入り』の一騎打ち。SFやファンタジーもそこそこ強い分野だけに『ブラックパンサー』の勝利に期待がかかる。

衣装デザイン賞

 メアリー・ゾフレス(『バスターのバラード』)
★サンディ・パウエル(『女王陛下のお気に入り』)
 ルース・E・カーター(『ブラックパンサー』)
 アレクサンドラ・バイン(『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』)
 サンディ・パウエル(『メリー・ポピンズリターンズ』)

・この四半世紀で(今回の二作品含めて)十六回のノミネーションと三度の受賞を誇る大御所サンディ・パウエル一強か。衣装デザインは全体的に時代劇が強い傾向があり、『恋に落ちたシェイクスピア』と『ヴィクトリア女王 世紀の愛』で華やかな衣装を手がけてきたパウエルならやすやすと『女王陛下のお気に入り』でオスカー像をかっさらってしまうだろう。
・ノミネーション自体に大したサプライズはないけれど、『ボヘミアン・ラプソディ』(ジュリアン・デイ)が落ちたのは意外といえば意外。

メイクアップ&ヘアスタイリング賞

 ゴラン・ランドストロム他一名(『Border』)
 ジェニー・シャーコア他二名(『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』)
★グレッグ・キャノム他二名(『バイス』)

・去年のゲイリー・オールドマン大変身が受賞にいたったことを考えると、『バイス』かな。ただクリスチャン・ベールの大変身はメイクの力というより本人の努力が大きい気もする……。

視覚効果賞

 ダン・デリーウー他三人(『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』)
 クリス・ローレンス他三人(『プーと大人になった僕』)
 ポール・ランバート他三人(『ファースト・マン』)
★ロジャー・ガイエット他三人(『レディ・プレイヤー1』)
 ロブ・ブレドウ他三人(『ハン・ソロスター・ウォーズ・ストーリー』)

・伝統的にSFが強い。問題はどのSFが取るか、ということだけれど、『シャイニング』を完コピした『レディプレイヤー1』にインパクトの面で軍配があがるか。『スパイダーマン2』の受賞以来、スーパーヒーロー映画は惜敗続きなので集大成的な『アベンジャーズ:IW』にあげようとする空気もできるかもだが……。
・『ブラックパンサー』が落ちて『プーと大人になった僕』が入ったのはちょっしたサプライズだった。やはりSFでもスーパーヒーロー映画は敬遠されるのかもしれない。オスカー会員の微妙な乙女心。

録音賞

 スティーブ・ボーデッカー他三名(『ブラックパンサー』)
 ポール・マッセイ他二名(『ボヘミアン・ラプソディ』)
 スキップ・リーヴセイ他二名(『ROMA』)
 ジョン・タイラー他三名(『ファースト・マン』)
★トム・オザニック他四名(『アリー スター誕生』)

・こっちは音響編集賞と違って必ずしも音楽映画が弱いとは限らない。とはいえ、編集賞とかぶりがちなのも事実。
・音楽映画で比べるなら、『ボヘミアン・ラプソディ』は役者自身の肉声でないのが痛い。ここは『アリー』か。

音響編集賞

 ベンジャミン・A・バート、スティーブ・ボーデッカー(『ブラックパンサー』)
 ジョン・ワーハースト、ニーナ・ハートストーン(『ボヘミアン・ラプソディ』)
★アイ-リン・リー、ミルドレッド・イアトロウ(『ファースト・マン』)
 イーサン・ヴァン・デル・リン、エリック・アアダール(『クワイエット・プレイス』)
 セルジオ・ディアス、スキップ・リーヴセイ(『ROMA』)

・正直なんもわからん。受賞実績や作品そのものとの関わり具合で言えば『クワイエット・プレイス』組なのだが。
サウンド関係ではあるけれど音楽映画が録るとは限らず、ここ最近の受賞傾向(『ゼロ・グラビティ』、『アメリカン・スナイパー』、『マッドマックス:FR』、『メッセージ』、『ダンケルク』)を管見するに基本静かでたまにドンドン重低音が鳴る映画が好まれるかな、という印象。とすると(観てないけど)『ファースト・マン』?

長編ドキュメンタリー賞

 Free Solo
★RBG
 Kinder des kalifats
 Hale County This Morning, This Evening
 Minding the Gap
・あんまりよくわからんですが、アメリカのリベラルの良心を体現した最高裁判事ルース・ベイダー・ギンズバーグのドキュメンタリーが話題性あって抜けるんじゃないかとおもう。

短編ドキュメンタリー賞

 A NIGHT at the Garden
★Black Sheep
 LIFEBOAT
 End Game
 Period. End of Sentence.

・手がかり絶無に等しいですけど、時勢的にはなんとなく難民問題を扱った『LIFEBOAT』か、人種問題を扱った『Black Sheep』の二択な気がする。

*1:作品賞と外国語映画賞でそれぞれ違う回にノミネートされてどちらも受賞しなかった例はある。1971年の『移民者たち』だ。

2018年の新作映画ベスト30+α

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風邪引いててつらいので簡単にいきます。

proxia.hateblo.jp

2015年に観た新作映画ベスト20とその他 - 名馬であれば馬のうち
2016年に観た新作映画ベスト25とその他 - 名馬であれば馬のうち
2017年の映画ベスト20選と+αと犬とドラマとアニメと - 名馬であれば馬のうち


ベストな10作

1.『ファントム・スレッド』(ポール・トーマス・アンダーソン監督、米)

・世間には絶対理解されないであろうキチガイ同士がバトルする映画(『セッション』とか)が好きです。わたしたちが観たかった『貞子 vs. 伽椰子』がここにあった。


2.『リズと青い鳥』(山田尚子監督、日)

・わたしたちはわたしたちを殺してくれる時間、拷問してくれる空気を求めて映画を観に行ってるところがあり、その点でリズ鳥はまちがいなくグアンタナモでテロリストを尋問するときに最適なツールといえるでしょう。


3.『パディントン2』(ポール・キング監督、英)

・完璧。


4.『ビューティフル・デイ』(リンゼイ・ラムジー監督、米)

・なんか不安定にフラフラしてるホアキンが出てくる映画は大体いいんだよ。


5.『スリービルボード』(マーティン・マクドナー監督、米)

・あのラストでなかったら「そこそこ面白かったな」程度だったかもしれない。


6.『寝ても覚めても』(濱口竜介監督、日)

・攻守がそっくり入れ代わる(入れ替わってない)タイプのホラー映画

寝ても覚めても [Blu-ray]

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7.『若おかみは小学生!』(高坂希太郎監督、日)

・すさまじく気合の入ったトラック横転シーンを観た瞬間に神を確信した。

若おかみは小学生! 花の湯温泉ストーリー(1) (講談社青い鳥文庫)

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8.『聖なる鹿殺し』(ヨルゴス・ランティモス監督、英)

・悪役がわけがわかるようでわけのわからないたとえ話をするサイコホラーは名作


9.『心と体と』(イルディコー・エニェディ監督、ハンガリー

・コミュ障ポルノ

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10.『ボルグ/マッケンロー』(ヤヌス・メッツ監督、スウェーデンデンマークフィンランド

・こういうね……正反対の性格だと思われていたライバル同士が実は根っこで一緒だったいう展開にね……脆弱性がね……


ネクストな10作

11.『ペンタゴン・ペーパーズ』(スティーブン・スピルバーグ監督、米)

・よく考えたらそこまでおもしろくないプロットやおもしろくなりそうにない場面をサービス精神満点でめちゃくちゃスリリングに撮れるってヤバくないですか? ヤバいです。

12.『タリーと私の秘密の時間』(ジェイソン・ライトマン監督、米)

・『止められるか、俺たちを』と並んで半径一クリック以内に見せたい映画ナンバーワン

13.『僕の名前はズッキーニ』(クロード・バラス監督、仏)

・孤児院ものはいいよね。去年では『きっと、いい日が待っている』もよかった。2018年はストップモーションが『ズッキーニ』、『犬ヶ島』、『ライカ』(ソフトスルー)、『ボックストロール』(ソフトスルー)と多かったですね。

14.『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』(パブロ・ラライン監督、チリ)

・詩人然としていない詩人の話を詩のように撮る。去年度最高峰の探偵映画。

15.『30年後の同窓会』(リチャード・リンクレイター監督、米)

・このところリンクレイターはなに撮っても最高。芸達者のおっさん三人を転がしているだけでこんなにもおもしろくなってしまう。

16.『ピーターラビット』(ウィル・グラック監督、米&英&オーストラリア)

・トランプ時代の最重要ポリティカル映画

17. 『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督、米)

・圧倒的夏感。

18..『パティ・ケイク$』(ジェレミー・ジャスパー監督、米)

・出てくるキャラがみんなチャーミング。コンサートのシーンは泣きますよね。

19.『スターリンの葬送狂騒曲』(アーマンド・イヌアッチ監督、英&仏)

・ヤクザ映画みたいなノリのタイミングと口先三寸でタマ取り話がつまらないわけがない。

20.『ホールド・ザ・ダーク そこにある闇』(ジェレミー・ソルニエ監督、米)

・わたしたちがジェレミー・ソルニエのサイコパス殺人鬼映画を讃えなくて誰が讃えるっていうんですか。


メンションしたい10作

21.『犬猿』(吉田大八監督、日)

・悪意のある笑いがペーソスに転化する瞬間はいつも美しい。

22.『ボストン・ストロング』(デイヴィッド・ゴードン・グリーン監督、米)

・英雄なんてガラじゃないのにむりやり英雄にさせられてしまった平凡な男の等身大の物語。意外となかった気がするところにジェイク・ギレンホール

23.『判決、ふたつの希望』(ジアド・ドゥエイリ監督、レバノン

・絶対に和解不能なラインまで追い詰められた二人がギリギリのところでギリギリのコミュニケーションを取る。『偽りなき者』のクリスマスのシーンに通じる美がある。

24.『へレディタリー 継承』(アリ・アスター監督、米)

・あざとすぎるきらいはありますけど、やっぱりすごい。

25.『ウィンド・リバー』(テイラー・シェリダン監督、米)

・暴力。

26.『犬ヶ島』(ウェス・アンダーソン監督、米)

・イヌ。

27.『恋は雨上がりのように』(永井聡監督、日)

・『帝一の國』がフロックでなかったことを証明した奇跡の映画監督永井聡の活躍に御期待ください。

28.『ブリグズビー・ベア』(デイヴ・マッケイ監督、米)

・オタク全肯定ポルノみたいな話だけど、オタクなので。

29.『トラジディ・ガールズ』(タイラー・マッキンタイア監督、米)

・なにもかも燃やして終わる話は100点。

30.『カメラを止めるな!』(上田慎一郎監督、日)

・わたしはこうした素朴な達成を否定する人々を絶滅するためにここにいます。



 あとは『ビッグ・シック』とか『ミスミソウ』とか『ゲティ家の身代金』とか『ワンダー 君は太陽』とか『嘘八百』とか『キングスマン:ゴールデンサークル』などが心に残った。『アンダー・ザ・シルバーレイク』は一本の作品としてはあんまり良いとはおもわなかったけど、時代的には最重要の一本です。


ドキュメンタリー10選

1.『消えた16mmフィルム』(ネトフリ)
 90年代のシンガポールで自主映画を撮ろうとした少女たちについての不思議なドキュメンタリー。一言で言い表すのは難しいけれど、哀しい変人の記録ならびに映画制作青春ものとして最高にいい。最高です。


2.『マーキュリー13 宇宙開発を支えた女性たち』(ネトフリ)
 宇宙開発の陰で女性飛行士として訓練を受けていたものの、男性社会の理不尽な圧力に潰されてしまったパイロットたちの話。出てくるおばあちゃんたちがみんな痛快で蓮っ葉な飛行機乗りばかりでとにかくかっこよく、気持ちがいい。かっこいいババアを見たい人におすすめ。最高です。


3.『私はあなたのニグロではない
 アメリカで最も尊敬される黒人作家のひとり、アレック・ボールドウィンが遺したメモや手紙をサミュエル・L・ジャクソン読み上げていくドキュメンタリー。イカしたパンチラインがいっぱい出てきてよい。最高です。


4.『ゲッベルスと私』
 ゲッベルスの秘書だった人が「たしかにおかげでいい目を見させてもらったけど? わたしだけが悪いわけじゃないし? 時代の流れにはおまえらだってどうせ逆らえないでしょうが」と一人語りしていく。悲惨なババアを見たい人にオススメ。ゲッベルスに忖度して職員たちがローマまで愛犬を緊急輸送したら戦争中なのに何やっとんねんと逆に叱られたエピソードが好き。


5.『オーソン・ウェルズの遺したもの』(ネトフリ)
 ネトフリで同時公開されたウェルズの遺作『風の向こうに』についてのドキュメンタリー。いいブロマンス。


6.『レイチェル: 黒人と名乗った女性』(ネトフリ)
 白人家庭に生まれたのに、なぜか黒人として黒人地位向上協会の幹部にまでのし上がって黒人権利運動のジャンヌ・ダルクとなって女性の転落とその後、そして彼女がなぜそんな行為に走ったのかを過去の人生からたどっていく。こういう救いがたいホラに走った救われない人の救いようのない人生を見せて観客を「どないせーちゅーねん」みたいな気持ちにさせるドキュメンタリー好き。どうしようもなくなりたいときに見ましょう。


7.『オデッサ作戦』(ネトフリ)
 むちゃくちゃなアホがむちゃくちゃなことやってむちゃくちゃ荒稼ぎした記録。ソ連崩壊直後のロシアがいかに混沌としていたのかがよくわかる。


8.『サファリ』
 アフリカでのスポートハンティングについてのドキュメンタリー。人間のおぞましさを描き出した点でこの映画に勝るものはなかった。さすがはウルリッヒザイドル


9.『テイク・ユア・ピル: スマートドラッグの真実』(ネトフリ)
 アメリカで社会問題となっている強壮剤としてのアデロール(アンフェタミン)濫用問題を描いたドキュメンタリー。「勝てない人間に価値はない=常に価値を証明しつづけなきゃいけない」というアメリカン・ドリームと表裏一体のアメリカの病が顕れるところはなんだっておもしろい。


10.『黙ってピアノを弾いてくれ
 こんなに個性的な狂人が世界のショービズ界にはいたんだな、とおもうとまだまだ自分はなにも知らないのだとおもいしらされます。


観たアニメ映画全部

リズと青い鳥
 神。

若おかみは小学生!
 おかみ。

ぼくの名前はズッキーニ
 かわいそうなガキはいい出汁がでるんですよ。

『ライカ
 犬で泣かす。

犬ヶ島
 犬で泣く。

山村浩二 右目と左目で見る夢』
 「頭山」の山村浩二の短編集。いい感じの映像ドラッグ。

『シュガーラッシュ:オンライン』
 なんだかんだ言ってもちゃんと「2」やってる。

リメンバー・ミー
 完成度は高いし面白い。ただ最近のピクサーの中ではいい意味でも悪い意味でもそこまで残らない。

『マイリトルポニー プリンセスの大冒険』
 現生人類が到達した一つの達成。疑いなく何かを成し遂げている。何かを。

ペンギン・ハイウェイ
 この作品はこれでいいんだけど、このまま続けられるとこの監督をあんま好きになれそうにない。

名探偵コナン ゼロの執行人』
 全体的にバカっぽいんだけど、突き抜けたバカなので好き。

さよならの朝に約束の花をかざろう
 全体的に気持ち悪いんだけど、突き抜けた気持ち悪さなので好きなほうではある。

ゴッホ 最後の手紙』
 ゴッホのタッチを再現した労苦は評価したい。ただ話はダルい。

『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』
 体調の問題で上映時間の九割は寝てたけど起きてた一割はきれいだった。

『ボックス・トロール
 やっと来たライカの未公開作。期待ほどじゃなかったけれど、よく考えたらライカっていつもこんくらいだよなとはおもう。

『生きのびるために』
 やっときたスタジオサルーンの話題作。社会性があってよろしおすなあ、としか言えない。

ボス・ベイビー
 全然悪くはない。アイディアが六番煎じくらいなだけど。ハンナ・バーベラ風の3D背景には可能性を感じる。

『ニンジャ・バットマン
 いい加減勘違いジャポネスクではしゃぐのダサいからやめたほうがいい。

『小さな英雄 カニと卵と透明人間』
 ジブリの短篇アンソロ。特に感想はない。

ネクスト・ロボ』
 なにもかもがどうでもいい。

未来のミライ
 アニメーションのレベルが高いからといってショタをどうにでもしていいわけではない。

姉映画10選

『ワンダー 君は太陽
ファントム・スレッド
バーバラと心の巨人
『メアリーの総て』
『来る』
犬猿
クワイエット・プレイス
若おかみは小学生!
『RAW 少女のめざめ』(今年の正月に観た)
サーミの血』

『フロントランナー』:目をそらし続ける私たちと、ジェイソン・ライトマンが救おうとした女性について

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ジェイソン・ライトマン
私は複雑な人物が好きです。その欠陥がどう表れてくるかにも興味があります。


https://www.reviewstl.com/interview-director-jason-reitman-front-runner-1121/



ヒュー・ジャックマン主演!映画『フロントランナー』予告


 人は誰しも多かれ少なかれ、現実から目をそむけて生きています。
 なぜ目をそらすかといえば理想の自分と実際の自分のあいだに齟齬が発生しているからで、そのゆがみが行くとこまで行ってしまうとジェイソン・ライトマン監督の『ヤング≒アダルト』や『タリーと私の秘密の時間』といった過去作*1みたいなエクストリームな悲劇へと発展します。
 最終的にツケが自分に返ってくるだけならまだマシなほうでしょう。ですが、現実が人間の形をしている場合、そこから目を逸らすことは他者の尊厳を踏みにじる行為につながりかねません。
『フロントランナー』は人間の顔を持った現実を直視せず、踏みにじっていた男の話です。
 

 

あらすじ:

 時は1988年、アメリカ合衆国大統領選前夜。元上院議員のゲイリー・ハート(ヒュー・ジャックマン)はみなぎる若さと甘いマスクで老若男女の支持を掴み、民主党の大統領候補予備選を目下独走中。このまま行けば共和党の有力候補ジョージ・ブッシュを打ち破り、レーガンから続く共和党の天下にストップをかけられるはずだった。
 ところが匿名のタレコミを聞きつけた新聞社がハートの不倫疑惑を報じると事態は暗転する。マスコミは疑惑の真偽を問いただそうと、ハート一家の邸宅や選挙事務所に押し寄せ、連日連夜取り囲んで取材攻勢をかける。一方、遊説中のハートはマスコミ対応を進言するスタッフをはねつけ、「くだらないスキャンダルよりも政策発信に集中すべきだ」と頑固に言い募る……。



 本作はもちろんゲイリー・ハートについての映画です。ジャーナリズムと政治家の倫理について提議する作品でもあるでしょう。
 しかし一方で、「わたしたち」によって葬り去られた一人の人間を救い出すための物語でもあります。その人の名はドナ・ライス。ハートの不倫疑惑の相手役とされた女性です。
 監督のジェイソン・ライトマンは制作当初、「ゲイリー・ハートについての映画を作っている」と他人に話すと、こんな反応が返ってきたそうです。「ああ、あのボート、〈モンキー・ビジネス号〉だっけ? あのブロンド女のほうはなんて名前だったっけ?」
 1988年から(映画が公開された)2018年までの30年間、ゲイリー・ハートの一件はずっと「大統領選という『本番』の前に起こった炎上ネタ」としてアメリカ人に記憶されていたのです。
「彼らの認識は非常に冷ややかでした」とライトマン監督は分析します。「ドナ・ライスをまるでモノのように扱い、事件のすべてがジョークであるかのようにふるまっていたのです」
 ネタとみなされた人間はモノとしてあつかわれます。他愛のない気の利いたジョークに引用され、コミュニケーションの道具として消費されていく。それはテレビ時代の昔もネット時代の今も変わらないわれわれの残酷な本性です。
 彼女はスキャンダルを乗り越えて一度は勤め先だった製薬会社に復帰しようとしますが、騒動の後遺症によるストレスとプレッシャーで退職を余儀なくされ、その後七年のあいだ公の場から姿を消します。*2
「不公平にも彼女の人生はある一瞬で定義されてしまいました。彼女を生身の人間ではなく、ボートに乗っていた「あの女」としか見なさなかった私たち全員によってそう定義されたのです」*3

 そういうわけでライトマン監督にとっては「野心と賢さを備えながらも自らの手から人生をもぎとられてしまった一個の女性として、彼女を礼節と共感をもって描くことはとても大事だったのです」*4


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 騒動が勃発すると、ハートと彼を支えるスタッフたちは徹底してドナ(サラ・パクストン)を隔離します。ハートはドナに電話をかけようとすらしません。ただ、マスコミの目から逃れてスタッフとともに政策に関する原稿をこまごまと手直しするという現実逃避にきゅうきゅうとします。
 男性陣ではJ・K・シモンズ演じる選挙参謀だけが事態のヤバさへ真っ向から取り組み、ドナを「直視」します。ただし、人間としてではなく、あくまで対処すべき問題として。その視線の圧倒的な冷たさときたら、『セッション』で怒鳴り散らかしているときより数万倍もおそろしい。*5唯一、ハート陣営の紅一点である女性スタッフ(モリー・イフラム)とドナは打ち解けて親密な視線をやりとりを交わしますが、しかし、彼女の視線が途切れた瞬間にドナは無数の視線と声に捉えられてしまいます。


 参謀は現実逃避を続けるハートにマスコミと向き合うように説得にかかります。しかしハートは聞きません。
「私は20年ものあいだ政治に身をおいてきた。君もそうだろ。世間(The public)はこんなくだらないことなんて気にしないよ。興味なんてないさ」
 参謀は反論します。「1972年ならそうだったでしょうね。82年でさえ問題にならなかったかもしれない。でも、今は違うんです。理由はわかりません。でも、そうなんです。はやく我々の側の『ストーリー』を組み立てないとーー」
「”ストーリー”なんかないんだよ!」


 仮にハートの政治的資質に欠陥があるのだとしたら、貞操感覚などではなく、時代の気分と向き合えなかったその鈍感さだったのかもしれません。
 そして人間としてはーーすくなくとも映画のなかではーー自分自身の妻と向き合えなかったことが致命的でした。
 不倫騒動が噴出する前からハートには妻との不仲疑惑がつきまとい、劇中の序盤では記者から家庭や結婚観に対する質問をされて頑なに回答を拒否するシーンが描かれます。ハートの遊説に同道しないのはティーンエイジャーの娘が家にいるから、という言い訳はあるにしても、二人の関係はどこかぎこちない。
 騒動によりハート家の敷地はマスコミに包囲され、母娘は外出もままなりません。ハートは電話越しに妻に謝罪をしはしますが、家には選挙スタッフを一人送り込むだけで特になにもせず、妻と対面することもありません。
 マスコミの待ち受ける嵐のなかに送り出したドナのことなど、もちろん二の次どころか三の次です。妻の視線、ドナの視線、世間の視線からハートは逃げ続けます。


 が、ようやく腹をくくって出席した会議でスクープの元凶である新聞社をうまくやりこめたことでハート陣営は一時持ち直します。時代的に新聞社がスキャンダルネタの扱いに不慣れだったこともあり、裏取りに穴があったのです。
 瀕死状態から息を吹き返したハート陣営は乾坤一擲の釈明会見に打って出ます。これさえ乗り切ればまた予備選のフロントランナーに返り咲けるはずです。ハートは会見前の控室でスタッフとともに想定問答を叩き込みます。
 どの角度からボールが来ても完璧に返せるーースタッフたちがそう確信したとき、思わぬ方向から思わぬボールが飛んできます。
「ドナはどうするんですか? 彼女のプライバシーを守るために誰か派遣すべきでは?」
 陣営で唯一ドナとまともにコミュニケーションをとっていた女性スタッフでした。
 彼女の提案は他のスタッフによって「アホか?」と即座に却下されます。
 続いて、記者質問対策のスタッフが最もハートにとって嫌な質問をぶつけてきます。
「『あなたは以前にも他の女性と不倫したことがありますか?」
 ハートは顔を紅潮させ「あんまりバカにするなよ! そんな質問には答えない! 誰にも関係ないことだ!」とスタッフに対してマジ切れします。
 この勢いで拒絶すれば記者からの圧力もはねのけられるだろうとスタッフは勝利を確信しますが、しかし、ドナと妻という二人の女性を徹底的に「ないもの」として振る舞うハートに天罰のような、あるいは奇跡のような一瞬が(文字通り)訪れます。
 それが何であるかは本篇をごらんになってのお楽しみですが、一言でいうなら、「人の形をした現実」です。
 その「現実」と向き合い*6、そしてそのあとで記者会見である経験(選択)をすることで彼は確実に変化していきます。

 記者会見後の彼の変化を示すシーンを二つ挙げておきましょう。
 ひとつはさきほどの女性スタッフに「マイアミはどうなってる?」と訊ねるところ。
 もうひとつはハートが予備選立候補の取りやめについて会見を行う自身の姿をテレビ越しに眺めるところ。政治家として自分のイメージを他人に見せる側だった人間が、惨めな自分の敗北と向き合い、現実を受けいれる。こうした成長が描かれるからこそ、ラストに簡潔に提示される「その後」についても納得されるのです。
 自分が現実から目をそらすことで歪んでしまった世界、そのひずみを引き受ける人々の存在に気づき、向き合うこと。それはけしてゴールではありませんが、すくなくとも、第一歩ではあります。


余談

 映画はキレイに落ちたとはいえ、やはり現実のツケはなかなか精算できないものです。映画で語られなかったドナ・ライスの「その後」はどうだったのでしょうか?
 ドナは先述のとおり勤めていた会社を退職したのち、七年ほど隠遁生活を送ります。そして1994年に移住先のワシントンDCでビジネスマンのジャック・ヒューズ(Jack Hughes……さかさまにすると Hugh Jack な man ですね)と結婚し、ドナ・ライス・ヒューズとなります。
 それと前後して彼女は社会運動家としての活動を開始。保守系NPO団体 Enough Is Enough のスポークパーソン兼コミュニケーターとして活躍し、児童オンライン保護法(COPA)を始めとした未成年者を対象としたインターネットにおける有害情報へのアクセス規制関連法案に成立に貢献します。現在ではドナは EiE のCEOの座についています。
 この団体の直近の活動として話題となったのは、「ナショナル・ポルノ・フリー・Wi-Fi・キャンペーン」でしょう。日本と同じくアメリカのマクドナルドやスターバックスでは無料のWi-Fiスポットが設置されているのですが、当初はろくにフィルタリングもしておらず、子どもだろうが有害サイトにアクセスしほうだいでした。また、その匿名性を利用して児童ポルノの温床になっているという指摘もありました。
 EiE はキャンペーンを通じて世論や企業に訴えかけ、マクドナルドに全国規模の、スターバックスに世界規模のフィルタリングポリシーを導入させることに成功しました*7


 このように立派な社会的成果をあげている一方、共和党系議員の妻が立ち上げた団体という出自からか、民主党にとってはちょくちょく頭痛の種を生みだしてもいます。
 たとえば、EiE の設立当初から関わって活動していたクリスティーン・オドネルという人は2010年前後にかけ、いわゆる「ティーパーティー系」の新人として三度上院選に挑戦し、いずれも落選したものの、その個性的なキャラクターから話題を呼びました。08年の上院選本戦では88年にゲイリー・ハートと民主党大統領候補の座を争ったジョー・バイデンとマッチアップしたというのですから、歴史のめぐり合わせとは奇妙なものです。*8
 そして、めぐりあわせといえばティーパーティーの撒いた種が芽吹いた2016年の大統領選挙。
 ドナ・ライス・ヒューズは熱心なトランプ支持派として FOX NEWS をはじめとしたニュースサイトに彼を支持するオピニオン記事を掲載します。*9
 子どものころから成年期にいたるまで複数回性的虐待を受け、その経験から子どもたちを有害な表現から守るために戦ってきたドナにとってレイプ疑惑の渦中にいるトランプを支持するのは内面的には苦渋の選択だったようですが、彼女は「彼の謝罪を受け入れ」、「クリスチャンとして」中絶規制や軍備の縮小といったトランプの政策を支持しました。
 トランプが当選した夜を『タリーと私の秘密の時間』のセットで迎え、「『スター・ウォーズ』が帝国の勝利という間違った展開になってしまったように感じた。悲しかった」と述懐した*10イトマンは、その次に撮影予定だった『フロントランナー』で彼が救おうとしていた女性の現在の立ち位置についてどう感じていたのか。

 民主党候補によって人生を破壊され、そこから立ち直った人間が民主党にとって最大の悪夢であったトランプ大統領の誕生に寄与するーー三十年にも渡る彼女の半生の細部を無視して「ネタ」性だけを見れば、これもまあ、ひとつの”ストーリー”といえるのではないでしょうか。



panpanya「いんちき絵日記」と「グヤバノ・ホリデー」について

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*宿題の絵日記のネタに困った「わたし」は、飼い犬のレオナルドが近所のポストまで郵便物を出しに行ったさいに同行したことにして、なんとか体験を捏造しようとする。
 居間の机に座しながら通い馴れた近所の風景を思い出しつつ細部を想像力によって補完していく「わたし」の作業は、得体の知れない都市の闇をフィクショナルな空想で作り上げていった panpanyaの過去作の裏返しでもある。


*現実を想起しようとすることと、現実の隙間を虚構によって埋めようとすること。このふたつのあいだにさして距離はないとレオナルドは言う。「日記ってのはいつだってあとから思い出して書くものです。主観と記憶によるものですから必ずしも正確とは限らないものです」。
 それを聞いて開き直った「わたし」はわざと知らない道に出て、好き勝手に景色を捏造しだす。知らないはずの場所の記憶を現実として日記に書き留める。そのあたりの描写もまた panpanyaの自己批評なのだろう。


*おもえば panpanyaは空想を現実にし、現実を空想にするためにまんがを描いてきたのではなかったか。panpanyaのまんがに「歩く」行為が頻出するのもそのせいで、歩けば歩くほどわたしたちは街の細部を発見し、しかしそれがどのような機構のどの部分を担っているのかがわからない。遠くに行けば行くほどそうしたわからない細部、全体と噛み合わない細部が増えていく。


*インコプレヘンシブな都市に対する、あるいはテクノロジーに対する畏怖は panpanyaの初期作にただよう薄暗さを裏打ちしていたけれども、最近のそうしたダークさも退潮してきた。理屈っぽい空想で現実の闇に間断のなく抗してきた結果、影が祓われてしまったのだろうか。表題作となっている「グヤバノ・ホリデー」はフィリピン旅行記であり、いつもの奇想的な部分には乏しい。だけれども、フィリピンの街路の細部に向ける観察眼そして薄暗い場所への誘惑はまぎれもなくいつもの panapanya のそれで、センス・オブ・ワンダーとは空想を司るエンジンからではなく、現実の風景を観るレンズから生じるものなのだとおもわされる。


グヤバノ・ホリデー

グヤバノ・ホリデー

 

映画かもしれない悪夢の技術ーーリメイク版『サスペリア』について

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(『サスペリア』、Suspiria、ルカ・グァダニーノ監督、2018、米)

 ネタバレあり。

 夢は映画においてもっとも描くのが難しいもののひとつです。なぜなら、映画はすでにして夢なのですから。
 ーールカ・グァダニーノ*1


 夢を調べることは特別な困難を伴います。夢を直接調べるわけにはいきません。私たちにできるのは、夢の記憶について語ることです。けれども夢の記憶は夢にそっくりそのまま対応してはいない。……(中略)……つまり夢を虚構の作品と考えるならば(私はそう思っています)、私たちは目覚めるときに、また後で語って聞かせるときに、さらに話を作ることができる。
 ーーホルヘ・ルイス・ボルヘス『七つの夜』野谷文昭・訳、岩波文庫




Suspiria Featurette - The Transformations (2018) | Movieclips Coming Soon


夢制作の方法



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 たとえばカフカのように夢をひとつらなりの物語として記憶することのできる人々には驚かされます。漱石の正気具合にいたってはおそろしいほどです。わたしにとって夢とは常に独立した断片の不完全な連続であり、継ぎ目の綴じられていないフィルムであり、物語の対義語のようなものです。


 リメイク版『サスペリア』(以下『サスペリア』)を監督であるルカ・グァダニーノは「ティーン・エイジャーの誇大妄想狂的な夢(a teenager’s megalomaniac dream)」と呼びました。

 如何様、『サスペリア』は夢のように撮られています。神経症的に細かく区切られたカット、発声者が画面の外にいるオフスクリーン・サウンド、散りばめられた要素の膨大さ、視点人物のせわしない切り替わり、唐突で矢継ぎ早な場面転換、ささやきなのかBGMの一部なのか区別のつかないサウンド、一人三役を演じるティルダ・スウィントン、二つの以上の筋を並行して語るプロット、そしてそれを並行して見せるクロスカット……あらゆる演出が多動的なシャルル・ボネ症候群*2めきます。

 初めて『サスペリア』に接した観客はそうした視覚情報の奔流にめまいをおぼえるでしょう。ダリオ・アルジェントのマスターピースサスペリア』のリメイクであること、ドイツ赤軍とルフトハンザ航空機ハイジャック事件、ナチスドイツという国家の過去、メノナイト、ベルリンの壁精神分析、女性のみで構成されたコンテンポラリダンス/魔女団、要約すれば「歴史とフェミニズム」となる題材はわたしたちにシリアスな社会性をつきつけてきます。
 しかし、一方でグァダニーノ監督はどこまで「シリアス」なのかという疑問も抱いてしまう。

フェミニズム


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 監督は本作を「フェミニズム映画」「女性同士の関係性の話」と自認し、あるインタビューではエーリッヒ・ノイマンの『グレート・マザー』をネームドロップしつつ「真のフェミニズムとは」について語りさえもする。*3*4
 なるほど、『サスペリア』の舞台立てをフェミニズムと結びつけるのは自然かもしれません。
 魔女狩り=女性に対する弾圧という視点から魔女を再評価する運動*5フェミニズムから盛り上がったこと、魔女狩りにおいてダンスとサバトが同一視されたこと*6魔女狩りの対象にされた女性の多くが産婆であったとする見方があること*7、そしてドイツにおけるモダンダンスの文脈等々を踏まえれば、70年代に「産むこと」を目指す魔女たちが支配するダンス学校を舞台とする作品にフェミニズムがマッチすると考えるのはある意味自然でしょう。
 しかし観客はそこに欺瞞のにおいを嗅ぎ取ってしまう。しまいますね。評論家の真魚八重子は「魔女を否定する合理主義や、理性の象徴である博士が男性であり、バレエ学校に巣食う原始的で呪術に満ちた魔の力を女たちが体現するという構図は、非常に短絡的な性的偏見の表れである」と劇中に出てくる表象の一面性を糾弾し、「この映画で顕著なのは女性たちの連帯の分断だ」と反フェミニズム性を浮き彫りにします。*8。かたや「魔女」の面でも、真魚と同じく『サスペリアMAGAZINE』に掲載されている朝倉加葉子、中西舞、加藤麻矢の魔女に造詣の深い女性フィルムメーカー三名による座談会(「『サスペリア』魔女座談会」)でグァダニーノにおける魔女についての興味の薄さが指摘されています。

 劇中のフェミニズム的なイメージはnighty_queerさんに網羅されているのですけれども、そこでは「(アンチ・フェミニズム的な描写が)徹底されすぎて逆に感動してしまった。というかある程度ちゃんと勉強したのかなとか思った」とコメントされている。

 たしかにグァダニーノ監督は本作が「勉強」の産物であると言ってはいます。

 ふたつの別々の理由が交差した結果(『サスペリア』は完成した)といえます。まずひとつは、ダリオ(・アルジェント)の『サスペリア』が1977年に公開されたということ。それを意識して以来、私のなかで1977年は妄執の対象になりました。そして独学で、その年の出来事についていろいろと勉強したんです。
 ……(『サスペリア』を監督することが決まってから)脚本家のデイヴィッド・カイガニックと話し合ううちに、この映画には77年という時代背景こそが必要なのだと分かってきたのです。1977年に対する私個人の興味が、この物語を語るうえでの必要性と重なっていったわけです。
 ーー「『サスペリアルカ・グァダニーノ監督インタビュー、『サスペリアMAGAZINE』



 各所のインタビューで垣間見える『サスペリア』の制作過程からは歴史やフェミニズムを語るために『サスペリア』を選んだのではなく、「『サスペリア』リメイク」という夢を語るための舞台として1977年のドイツが選ばれたことが伺える印象です。

歴史


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 1977年に含まれているもののうち、フェミニズムに関する「勉強」の成果があまり芳しくないとするならば、歴史のほうで深い理解が発揮されているのでしょうか?
 ドイツの現代史に関してグァダニーノ監督は饒舌です。彼は作品のテーマとして「母性」とともに歴史における痛み、あるいは罪や恥の意識を取り上げます。

ーー「この世界がどんなふうに罪や恥を必要としているのか」に関するセリフが出てきますね。あなたは劇中のそれに同意しますか?
監督:人々が自分の罪と向き合い、それに打ち克てるようになれればと私は願っています。映画に出てくるキャラクターについてもそうですし、真に関係してくるのはタイトルである「サスペリア」ーー嘆きについての部分でしょう。痛みである何か。


ーードイツ人の歴史的な「罪」もありますね。
監督:本作は、戦時中の出来事や所業に対してなお向き合わねばならなかった時代のドイツ人の集合性(collectiveness)についての映画でもあります。
(中略)戦争が終わって二十年ものあいだ、ドイツ人が戦時中のことを語ってこなかったのはとても象徴的なことだと思います。ナチスドイツ時代の「罪と恥」だけではなく、その二十年におよぶ「罪と恥」に対する無頓着っぷりにも向き合わねばいけません。ドイツは歴史的、文明的、文化的に極めて成熟した国家です。しかしベルリンに行くたびに、私は抑圧されているような気分になります。そう感じるのは、私がラテン民族であるせいかもしれませんが。


https://www.vulture.com/2018/10/luca-guadagnino-suspiria-interview.html



「罪と恥」、『サスペリア』のクライマックスに出てきたフレーズでもあります。 エピローグで主人公がクレンペラー博士に「私たちには罪や恥と必要です。でも、あなたはそうじゃない」と告げ、彼と彼女にまつわる戦時中の負の記憶とダンス学校で起きたことについての記憶を消し去ります。
 ダンス学校内における魔女たちの権力闘争及びカルト的な権威主義ナチスドイツの、そしてドイツ赤軍のそれの相似形として描かれており、グァダニーノはそうした組織に共通する暴力性に対して批判的です。そうした暴力に加担した人は誰しも「罪と恥」を背負って生きていかなければなりません。しかし、それは『コロッサス』誌のクリス・ランバートが言うように「政治家や指導者や軍といった人々が持つべきなので、あって残虐行為の目撃者(かつ被害者)に背負わせるものではない」*9のだと読み取られます。

 では、仮にそういう意図があったとして、(普遍的な「母」と化したとはいえ)アメリカ人である主人公がクレンペラーにおけるホロコーストの記憶を消去して「癒やしてあげる」のは正当といえるのでしょうか? あまりにも安易で非現実的な解決ではないでしょうか?
 よその国へやってきて政治的歴史的罪悪感を共有し、断罪し、あまつさえ癒そうとするグァダニーノ監督の立ち居振る舞いは由緒正しきヨーロッパ的知識人の無邪気な傲慢さを想起せざるをえません。
 しかしそれが、たとえば『アクト・オブ・キリング』のジョシュア・オッペンハイマーなどのどこまでも正しくてゾッとする正義感とどこか微妙に違うのは、グァダニーノ監督自身が映画内における解決すらも一歩引いた目線から見ているという点で、当該シーンについてはこんなことも言っています。

ーーこの映画では記憶を消去することも向き合いかたのひとつとして描かれますよね?
 脚本のデヴィッド・カイガニックによるすばらしいアイディアです。愛されるキャラクターに良いことが起きたと観客は感じるでしょう。しかし、ほんとうはおそろしい出来事なのです。記憶がなければ、たとえそれが耐えがたい記憶であったとしても、わたしたちは無になってしまいます。人間ではありません。
 なので、記憶を消してしまう人物は「悪役」なのです。


https://www.vulture.com/2018/10/luca-guadagnino-suspiria-interview.html



 わたしたちはこの発言をどのように受け取ればいいのでしょう。
 つまり、グァダニーノ監督は主人公の「正義」をいいものとしては認識していない。しかし主人公を「悪役」に据えたところで、物語全体がどのように捉え直されるというのでしょうか。ドイツにおける歴史認識問題の焦点であるあのシーンの解釈がズラされることで、監督の態度も宙吊りされ、テーマとしても混乱します。
 こうなってくると、グァダニーノにはフェミニズムも歴史もどうでもよかったのではないか? そんな疑念が生じてきます。ではその二つに焦点がなかったとして、グァダニーノはなぜリメイク版『サスペリア』を作ったのでしょうか。
 単純にオリジナル版への憧憬だけあるならば、ゴテゴテした装飾など抜きにしてオリジナルの脚本を忠実になぞればよかったはずでは?
 しかし現実にはオリジナル版とまったく違うものになっている。なぜか。

どこかのドイツ


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 『サスペリアMAGAZINE』のインタビューでは歴史やフェミニズムに加えてもうひとつの「1977年」的な要素について触れられています。

 ……(1977年は)私が尊敬するフィルムメイカーたちが非常にラジカルな映画群を放った年でもありました。


 ーー「『サスペリアルカ・グァダニーノ監督インタビュー、『サスペリアMAGAZINE』



 この「尊敬するフィルムメイカー」にはもちろんダリオ・アルジェントも含まれていますが、それよりも文脈的にはファスビンダー、シュレンドルフ、ヴェンダースといったニュー・ジャーマン・シネマの作り手たちを意識していたものと取ったようがよいでしょう。特にシュレンドルフとファスビンダーは『ドイツの秋』*10というドイツ赤軍を描いたドキュメンタリーを作り、映画作りを政治に深くコミットさせています。
 グァダニーノはファスビンダーたちを身振りを真似、彼らに憑依することで異国の地で尊敬する巨匠の名作をリメイクするという難事業にあたっての動力源としたのです。

監督:映画の力によって自分たちの国に道徳的、倫理的、そして歴史的な責任感をもたらそうとしたニュー・ジャーマン・シネマ世代の映画作家たちの力を私も借りようとしたのです。


https://mubi.com/notebook/posts/killing-the-mother-luca-guadagnino-discusses-suspiria



 歴史だのフェミニズムだのは実のところドイツでアルジェントを夢見るための従属的な枠組みでしかない。
「ただひとつそこに真実があるとすれば、それは映画だ」と指摘した柳下毅一郎はただしい。「グァダニーノは間違いなく映画の子どもであり、その感情はすべて映画からよってきたるものである。グァダニーノにとって70年代のドイツはファスビンダーなのであ」*11り、まさしくひとつの夢であった『ブンミおじさんの森』でも撮影監督を務めたサヨムプー・ムックディプロームのレンズを通して夢見られる風景はあくまでファスビンダーのドイツ、そしてオリジナル版『サスペリア』が公開された年としての1977年なのであって、現実の1977年のベルリンなどではありません。
 グァダニーノ自身はたぶん本気で自分はフェミニズムにもドイツの歴史にも情熱を燃やしているのだと信じていて、事実理解や知見もよほど深いのでしょうが、しかし彼の炎の燃え盛る場所はスクリーン以外にないのでしょう。

 

夢としての映画


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 もっといえば、映画を夢見た映画は映画にはなれなくて、夢そのものになってしまうのかもしれません。夢になってしまう映画は希少です。夢を描けば夢のような映画になれるかといえばそんな単純でもない。グァダニーノのことばを借りれば「映画はすでにして夢そのもの」なので、夢を描くのに向いていない。

 思想家で音楽評論家のマーク・フィッシャーは「失われた無意識ーークリストファー・ノーランの『インセプション』」*12のなかで「なによりもまず目につく『インセプション』の奇妙さのひとつ」として「映画のなかの夢が、まったく夢のように見えない」ことを挙げています。ノーランは「ごく標準的なアクション映画の場面をとりあげたうえで、それを夢として再パッケージ化している」。劇中で働いている夢の力学はコンピュータ・グラフィックの論理による代替品であって、無意識や夢そのものに属するものではないのです。

 フィクションの内側で夢を夢見ようとすると、既存の偽物の夢のイメージに頼るしかない。だけど偽物の夢は夢ではない。この倒錯が夢の物語を不可能にしてしまいます。なので映画のなかで本当に夢そのものを描きたいのであれば、一本筋の通った物語としての夢を諦めないといけません。フェリーニの『8 1/2』のような理性的で象徴的な夢は不可能です。

 そのような諦念を土台に『サスペリア』は夢見られています。刹那的で孤立したイメージの連続。ひとつひとつは物語のどこかに関わるカットのようですが、その切り替わりの速度はわたしたちに接続のいとまを与えません。気がつけば主人公のスージーダコタ・ジョンソン)は痙攣を起こして枕を涙で濡らしている。その姿を見た同級生たちは「みんな最初は悪夢を見るんだよ」というふうにささやきあいます。
 都合二度ほど訪れる悪夢のモンタージュが『サスペリア』の夢の核になっていて、その夢の手法が映画全体へも滲み出している。『サスペリア』が大量の要素を必要とするのも、ダンスシーンでやたらクロスカットを挿入するのもそれが夢のメソッドだからです。


 ボルヘスは夢のなかでは複数のことが同時に生起し、その意味をすくい取る前に物事が前へと進んでいくのだと述べました。そして、目覚めて残るのは細切れで筋を成さないかけらだけ。「私たちが夢について調べられるのは、その記憶だけ、哀れな記憶だけなのです」。*13
サスペリア』ではキャラも歴史もフェミニズムもダンスもそしてグァダニーノのドイツ映画幻想でさえも等価にならべられ、大量に用意された視点を通して観客へと流されます。すべてにピントのあった二時間三十分の画像の連続を受け取ったわたしたちはそれらすべてが過去にあったイメージのコピーであるがゆえに記憶として統合可能であると錯覚してしまう。おそらくはグァダニーノ自身でさえも。無理もありません。そもそも全体の型としてオリジナル版の『サスペリア』の枠組みが与えられているのです。
 たちのわるいことにグァダニーノとムックディプロームはワンカットワンカットを卓抜した質感で切り取ってしまう。その感触はいわゆる現実としてのリアリティとは異なる、映画としてのリアリティであって、夢のなかにおける離人症的でありながらも無条件に現実として受け入れてしまう類のそれです。

サスペリア』を観るわたしたちはまるで冒頭シーンでのクロエ・グレース・モレッツ。ふらつきながらクレンペラー博士の診療室へと押しかけ、部屋の中で脈絡なくつぶやいたり歌ったりしながら夢遊病的にダンスを舞うなどする不安で壊れた多動のこどもです。
 舞台でもない場所で踊るダンスは起きながら見る夢のようなものです。区切られていた世界の境界が融解し、歴史とフィクションの、オカルトと科学の、夢と現実の境目が失われてしまいます。彼女が他動的に乱射する視線*14には物語と関わるクレンペラーの過去とリンクするものも含まれるわけですが、彼女や観客の現実には一切関わりません。夢では伏線や反復などは機能しなくなる。
 論理や物語作法はわたしたちの夢を綴じてはくれない。夢に一貫性を与えるヴェールの正体は親密さの感覚です。居心地の悪い親近感といってもいい。ストレンジでありながらもファミリアな夢に固有の感覚。

 その感覚は劇中ではマダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の手に見いだせます。「器」として完成していくスージーの部屋をマダムが見舞う。マダムはたびたびそうしてきたように、ここでもスージーの手に自分の手を重ねて、つながろうとする。握られた手はそのままベッドに横たわるスージーの頰に引き寄せられ、温もりを直に感じることで彼女は安堵したような表情を浮かべます。「信頼して」とマダムは言います。
 しかし触知することさえ夢の中では何も保証はしてくれないものです。『サスペリア』でも触れ合いは裏切ります。失われたはずの妻と再会したクレンペラー博士は手と手を取り合い、キスまで交わして彼女を現実として認知しますが、それは魔女たちが彼をダンス学校までおびき寄せるための幻影でした。朝目覚めるたびに夢はわたしたちを裏切るのです。夢見ていた最中はあんなにも親密であったはずなのに。


 わたしたちは裏切りの喪失感を埋めようと夢を他人に物語ることのできる形になんとか修復しようとこころみます。
 『サスペリア』の物語も、最終的にはオカルトや精神分析で狂奔する妄想を現実として組織化しようとするクレンペラー博士そのままにグァダニーノ監督によってリーズナブルなプロットに整理され、不朽の愛のおはなしに回収されます。
 しかしそのおはなしは夢のなかで経験されたものと一致するのでしょうか? 夢そのものと夢を思い出そうとして語られた物語が一致したことなどこれまであったでしょうか? 完全に思い出せたとして、もはやフロイト古代エジプトの神官のやるようなシンボリックな夢の解釈を信用できないわたしたちはグァダニーノのメガロマニックな要素の洪水をどう読めばいいのか?

 わたしとしては『サスペリア』を哀れな記憶の残滓としてよりも、質感を有した悪夢の感触だけをおぼえておきたい。それこそは嘆きの母にも消せない経験です。


*1:guadagnino-on-assaulting-the-senses-and-i-1829994124

*2:白昼にやたらリアルで脈絡のない幻覚がみえる病気

*3:https://themuse.jezebel.com/director-luca-guadagnino-on-assaulting-the-senses-and-i-1829994124

*4:”『グレート・マザー―無意識の女性の現象学―』というエーリッヒ・ノイマンのすばらしい本があります。さまざまな文化における女神の物語と、それが家父長制が中心的になるに従っていかに抹消されてきたかを追った本です。「グレート・マザー」について語るとき、恐ろしい母親を避けることはできません。真のフェミニズムとは女性のアイデンティティの複雑さについて恥ずかしがらないことではないでしょうか。「女はよくて、男は悪い」なんてばかげています。女性は複雑な生きものであり、男性とは異なる生殖の力を持っています。私は、この映画はだいたいにおいて女性たちの関係性についての話であると思います。男でさえ、女性によって生み出されるのです。”

*5:発端は1921年に発表されたマーガレット・アリス・マレーの『西欧における魔女教団(The Witch-Cult in Western Europe: A Study in Anthropology)』。その後の発展と新魔女運動の概要については以下。http://tmochida.jugem.jp/?eid=272

*6:バスク地方魔女狩りの舞台となったのもバスク人のダンス好きな民族性が一因とも言われる。『魔女狩り 西欧の三つの近代化』黒川正剛

*7:実際にはそんな多くはなかったらしい。/グァダニーノ「私は本作を生命の誕生と破壊についての作品だと思っている。子どもを産むと同時に、自分が生み出したものに敵対する母親がいるんだ。」http://www.neol.jp/culture/78575//「これは娘を殺して生まれ変わろうとする人間の映画であり、それこそ真に迫った母性の描写である、といえます」https://www.vulture.com/2018/10/luca-guadagnino-suspiria-interview.html

*8:「プリミティブ女性への根源的な恐怖」、『サスペリアMAGAZINE』

*9:https://filmcolossus.com/single-post/2018/11/22/Explaining-the-end-of-SUSPIRIA-how-and-why-its-like-a-game-of-charades-and-less-about-witches-and-more-about-politics

*10:正確には78年公開

*11:「妄想のドイツ、妄想の映画』、『サスペリアMAGAZINE』洋泉社

*12:『わが人生の幽霊たち 鬱病、憑在論、失われた未来』ele-king books、五井健太郎・訳

*13:『七つの夜』

*14:彼女が極端に「目」のイメージをおそれていることは重要です。彼女にとって夢は自分が見るものではなく、不気味な外部によって自分に向かって見られているものなのです

予告された転落するサッカーチームの記録ーー『サンダーランドこそ我が人生』

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ネットフリックス・オリジナルのドキュメンタリーシリーズの話。



 彼はサンダーランドを出たがっている。沈みかけた船だからな。


 ーー『くたばれ! ユナイテッド サッカー万歳』




Sunderland 'Til I Die Official Trailer A Netflix Original Documentary

大転落

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 サンダーランドAFCは2019年で創設140周年を迎えるイングランドのプロサッカーチームだ。戦前にトップカテゴリで六度のリーグ制覇を成し遂げた名門として知られ、最近でも入れ替わりの激しいイングランドにあって、2007年から10年にわたってプレミアリーグのカテゴリを保ち続けていた。
 長きに渡って不景気にあえぐ港街サンダーランドにとっては数少ない地元の誇りであり、切り離しがたい生活の一部だ。ファン層は文字通り老若男女取り揃えていて、「60、70年前からチームの浮沈を見てきた」なんていう人たちはごろごろいる。教会ではチームの勝利のために祈りが捧げられ、葬式のときにはユニフォームを着た遺体が赤と白の縦縞のチームカラーに彩られた棺に入れられる。
 4万8000人収容のホームスタジアム「スタジアム・オブ・ライト」は街の聖地だ。スタジアムやチームのスタッフとして働く地元民も多い。ファンの人々が好んで口にする「サンダーランドこそ我が人生(Sunderland Till I die)」はけして言葉遊びやスローガンではなく、まぎれもなく彼らにとっての現実といえる。
 だからこそ、10年ぶりの二部リーグ*1降格はファンに衝撃を与えた。その前の数年間も降格圏内ギリギリで戦ってきていたため、予感はあっただろうが、実際に降格するのとしないのとでは、やはり違う。
 とはいえ、一度「落ちた」場所から再生する、という物語もあるだろう。再建のために新監督や新戦力を迎え、チームとファンが一眼となって一年での再昇格を目指す……そんなドキュメンタリーをサンダーランドの経営陣は当初もくろんでいたらしい。*2
 しかし、実際できあがったドキュメンタリーは「再生」の物語などではなかった。
 カメラが映したのはむしろズルズルと沼の底に引きずり込まれてさらなる深みへと「転落」していくチームの姿だった。

いかにして組織は崩壊していくのか

サンダーランドこそ我が人生』は壮絶な苦難と敗北の記録だ。チームが障害を乗り越えて立ち上がろうとするたびに絶え間なく不運が襲いかかるさまは、ほとんどブラックコメディのようで、あるいはある種のヤクザ映画のようで、終盤に至ってはほとんど超越的な存在の力を信じかけてしまうほどだ。
 長年プレミアリーグの中位から下位をうろうろしていたとはいえ、サンダーランドイングランド全体で見ればビッグクラブに属する。ふつうなら昇格争いで苦しみこそはすれ、降格争いをするような格ではない。
 新任監督もチームスタッフもそう考え、昇格に向けて意気込みを見せていた。
 どんな破局にも前兆はある。サンダーランドにおける黙示録の喇叭手となったのはギブソンという選手だ。彼は降格後の移籍に失敗して、不満を溜め込んでいた。その不満をチームメイトへの悪口という形でSNS上で広めてしまったのだ。
 当然チームはギブソンを注意し、ギブソンもチームメイトに謝罪を行うのだが、このような本来ならスポーツ記事の隅っこのようで読み流されるような些細ないざこざが、チームの結末を知っている視聴者からすれば「伏線」に見えてしまう。
 事前に悲劇と知りながら悲劇を観るとき、わたしたちは破滅へつながるヒントについて敏感になる。
 たとえば、よくスタッフから漏れる「オーナーが投資を渋って金がない」というぼやき。彼らは「金がない」からユース上がりの若手を育てて売却しようとリーグ戦でのスタメンを若い選手で占めようとする。「金がない」から怪我や移籍で抜けた選手の穴をなかなか埋めることができない。でも「金がない」から新しい選手がオファーに応じてくれない……。そして「金がない」ことは最終話である一つの帰結を迎える。
 
 そして結末を知っているからこそ沈んだチームを浮き上がらそうな希望の芽が出ても、それが新たな絶望の予告にしかとれない。チームが降格圏内に沈んだリーグ戦中盤、サンダーランドは監督を解任してウェールズ代表監督して目覚ましい実績を挙げたクリス・コールマンを招聘する。前任とは違い、ビジョンを持ちファン受けもよいコールマンのもと、チームは再編されて調子は上向きとなり、新人からもデビュー戦でゴールを上げるスター候補が出現する。
 だが、直後にチームの得点王だったストライカーが起用法に不満を抱いて別のチームに移籍してしまう。彼の後釜さがしに苦慮しているあいだに他の主力選手もつぎつぎと故障しまくって戦線を離脱。コールマンは新戦力を獲得しようと奔走するが、やはり前任監督とおなじように資金難に直面し、おもうように補強がうまくいかない。チームはまたもズルズルと負け、晴れかけていたファンの表情もふたたび翳っていく。
 このように、何か希望の光が指すたびにサンダーランドファンが喜ぶ→希望をへし折られて嘆く、のパターンが一年間全八話を通じてえんえんと繰り返される。まるで賽の河原の石積みだ。画面に映されるサンダーランドファンはいかにも人の良さそうなおじさんおばさんばかりで、それゆえに敗北を重ねても健気にスタジアムへ通い続ける姿に胸をしめつけられる。サッカーの神がいるとすれば、そいつは間違いなくサディストなのだろう。
 極めつけはもうひとつも負けられなくなったリーグ戦最終盤で前述の問題児ギブソンが起こす、ある「事件」だ。
 ここまでくると、なぜサッカーをやっているだけで、あるいはサッカーチームを応援しているだけであそこまで徹底的にどん底へと叩き落とされなければならないのか、という気もしてくる。

 それでもサンダーランドのファンは応援をやめない。むしろ幸せそうだ。サッカーの神からさんざんな仕打ちを受けようが、オーナーに見捨てられようが、シーズンパスの更新期間になればいそいそとパスの更新にやってくる。「前に三部まで落ちたとき(1987年)も応援しつづけたんだから、今回も応援するよ」「いくら負けてもサンダーランドのファンは死ぬまでやめないよ」などという。
 彼らの情熱はほとんど宗教的熱情にひとしい(実際に教会で祈りを捧げていもするのだし)。地元チームであるから一生愛しつづけなければいけないのだという信仰はサッカーのサポーター文化、ホームタウン文化に馴染みのない外部からするとわかりにくい。イングランド人のサッカー狂いっぷりを描いた映画としては『ぼくのプレミアライフ』を含めていくつかもあるけれど、『サンダーランドこそ我が人生』ではより土着性を見てとれて興味深い。たしかにサッカーが人生になる場所はあるのだ。


勝利を決定するもの

 一方でマネーゲーム化する現代サッカーの呪われた側面もするどく剔抉している。サンダーランドにかかった呪いの大元はケチなオーナーに起因する財政難であり、それが年に二度訪れる移籍期間の場面ではっきりと出る。
 ここで思い通りの選手がとれていればサンダーランドももう少しどうにかなっていたかもしれない。しかし、降格したことで移籍の資金が絞られるし選手としては下位のチームへなんて行きたくないしで、選手が獲得できず、さらに下位に沈むという負のスパイラルにはまりこんでしまう。
 そこにはサッカーの勝者を勝者たらしめるのは愛でも信仰でも戦術でも努力でもなく、金なのだという残酷な現実が横たわっている。イングランドは世界のなかでも最も大金が動くリーグでもあって、プレミアリーグのチームは一人の選手に平気で2000万ポンドや3000万ポンドの移籍金を費やし、時にはその額が7000万や8000万にも膨れ上がる。ドキュメンタリーの舞台となった17/18年シーズン冬のマーケットではプレミアリーグ20チーム合わせて総額で約4億3000万ポンドの移籍金*3がやりとりされたという。*4単純に平均しても一チームあたり約2150万ポンドの計算だ。
 対して同じ時期に二部リーグに所属していたサンダーランドが費やした移籍金は新戦力10名に対し総額150万ポンド。格差はプレミア-二部間だけではなく、二部リーグ所属チーム同士にもあって、たとえば同時期の移籍マーケットでたった一人の選手に対し150万ポンド以上を支払ったチームは五チームあった。*5そしてそのうち二チーム(ウルブスとカーディフ)がプレミアへ昇格していった。
 この事実が示すことは明快だ。マネーゲームに乗れないチームは勝てない。そして勝てないチームはどんどん窮乏していく。*6
 実際、三部転落と同時にチームスタッフにはリストラの波が押し寄せる。先細っていくサンダーランドというクラブの姿は、グローバライゼーションに飲み込まれて寂れていく造船の街サンダーランドそのものとも重なる。
サンダーランドこそ我が人生』は意欲ある新オーナーに買収され、再生を予感させる光明が差すところで終わる。


 この記事を書いている時点では、三部リーグにおけるサンダーランドは全試合の約3/4を消化したところでプレーオフ圏内の4位だ。
 はたして今度は「一年で復帰」で叶うのだろうか? そしてプレミアリーグへ昇格しサンダーランド住民たちを沸かせる日が来るのだろうか? 



ぼくのプレミア・ライフ (新潮文庫)

ぼくのプレミア・ライフ (新潮文庫)


*1:チャンピオンシップと呼ばれるがここで「二部リーグ」で統一。ちなみに『サンダーランドこそ我が人生』の日本語字幕では一部相当のプレミアリーグと三部相当のリーグ・ワンがどちらも「リーグ1」と表記されている箇所があって、混乱する

*2:サンダーランドがドキュメンタリーの取材を受け入れたのに広報的な目的があるのは当然だが、さらなる裏もあって、チーム経営に嫌気がさしていたアメリカ人オーナーのショート・エリスが新しい投資家を募るための宣伝の一環としてドキュメンタリーを利用しようとも考えていたらしい。https://www.sunderlandecho.com/sport/football/sunderland-afc/sunderland-s-netflix-documentary-will-give-different-view-to-man-city-s-pep-talks-1-9334011

*3:開幕直前となる夏のマーケットでは取引がより活発となり、たとえば2016年夏のマーケットでは11億6500万ポンドが動いた

*4:https://number.bunshun.jp/articles/-/829833?page=2

*5:https://www.transfermarkt.co.uk/championship/transferrekorde/wettbewerb/GB2/plus//galerie/0?saison_id=2017&land_id=alle&ausrichtung=&spielerposition_id=alle&altersklasse=&leihe=&w_s=w&zuab=0

*6:たとえばプレミアリーグに在籍しているだけで放映権料によって最低でも6000万ポンドの収入が保証がされるが、これが二部になると四分の一以下に下がる。https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=2996

Youtube 時代のカルトの作り方ーー『ビハインド・ザ・カーブ 〜地球平面説〜』

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(Behind the Curve、ダニエル・J・クラーク監督、米、2018)


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 中世の人々は、地球は平らだと信じていた。少なくともそれは自分たちの感覚という証拠に支えられていた。一方、われわれは地球は丸いと信じている。そのような奇妙な考えの物理的根拠を理解している者が1%もいるからではない。今日の科学によって、当然と思われるものはひとつも正しくなく、反対に魔法のようなもの、ありえないもの、尋常ではないもの、巨大なもの、微小なもの、冷酷あるいは腹ただしいものこそが科学的であると、説得されてしまったからである。


 ーージョージ・バーナード・ショウ『聖女ジャンヌ・ダルク』序文



Behind the Curve - Official Release Trailer


『ビハインド・ザ・カーブ』は近年アメリカで急速な盛り上がりをみせている地球平面説支持者(Flat Earther フラットアーサー)のコミュニティを記録したドキュメンタリー映画です。
 地球平面説とは文字通り、「世界は球体でなく、まっ平らな円盤の形をしている」と考える説で、公教育で教えられている地球球体説は「民衆を洗脳する権力の陰謀」とされます。最近ではラッパーの B.o.B が突然地球平面説支持を表面して天体物理学者と論争になり、なぜか天体物理学者の甥とラップでdisりあいをするなどで話題になりましたね。*1

 コペルニクスが『天体の回転について』の第一章の冒頭で「なによりもまず、我々はこの世界が球形であるということを心に刻んでおかねばらない」と宣言してから500年近く、ガガーリンが宇宙から地球の姿を睥睨してから50余年を閲する今日このごろ、なぜそのようなコミュニティがTV番組などでたびたび著名人に言及され、facebookで20万人のフォロワーを獲得する規模にまで盛り上がっているのでしょう。

 インターネットのおかげです。


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有名地球平面説 youtuber のマーク・サージェントさん。常におもしろ平面説Tシャツを着て登場するナイスガイ。お母さんは支持者ではないが、彼の活動を暖かく見守っている。

 ドキュメンタリーの主人公として据えられるマーク・サージェントは初老の冴えない白人男性です。実家に母親と二人暮らし、少なくともドキュメンタリー内ではなにかしらの労働に従事している様子は見られず、地域の友人とつるんでいる場面もありません。

 それでも彼は地球平面説コミュニティ界隈における名士です。四年前に地球平面説に目覚めて youtubeに動画*2を投稿して以来、配信者として熱心に活動し、英語圏の平面説支持者では知らぬもののいない存在となりました。

 動画総再生回数1500万回超を誇る彼の youtubeチャンネルの自己紹介欄にはこう書かれています。

「私たちは『トゥルーマン・ショー*3を何千マイルにも拡張したような閉じた世界にいるのでしょうか? このチャンネルの動画はそれが単なる可能性ではなく、十分に有り得る出来事であると示します」*4

 マークは実に快活なおっさんです。陰謀論者のイメージにありがちな陰湿で攻撃的な人物からは程遠い。コミュニティの人々とネットを通じて活発に交流し、それを通じて人気配信者の女性ともちょっとしたロマンスにも築きます。自分で開発したミームを発信し、皆既日食の日には見物客に向かって平面説を「布教」しようとしたりもします。

 一部の配信者とは敵対関係にありはするものの、コミュニティでは「youtube時代の地球平面説啓蒙のパイオニア」として概ね尊敬されていて、平面説支持者のコンベンションでも主賓級の扱いを受けています。事実、彼の啓蒙動画によって「目覚めた」人は多い。

 彼は間違いなく、コミュニティで最も必要とされている人物なのです。



 地球平面説の真偽はともかく、 『ビハインド・ザ・カーブ』には現代における陰謀論コミュニティの在り方がよく描かれています。かつて新興宗教が担っていたメインストリームに弾かれた孤独な弱者の救済をネットの陰謀論コミュニティが代替しているのです。

 そういう意味ではネットの陰謀論コミュニティはカルトなき時代のカルトであるといえるでしょう。

 たとえば、劇中のコンベンションのある場面で参加者がつぎつぎと自分の孤独さを告白し、そしてその孤立感を救ってもらったコミュニティに感謝するくだりがあります。

 宗教とはそもそも社会的弱者のケアのために存在するものです。現行の社会システムから切り捨てられた人々に接近し、ある世界観に則って彼らの生に意味や意義を与え、彼らを受け入れてくれるコミュニティへの扉を開きます。

 作家の架神恭介も指摘してるように、コミュニティ要素は重要です。*5かつて創価学会は農村から都会へ出稼ぎにやってきた独身者の青年たちを勧誘し、信者同士の緊密なコミュニケーションを築いてきました。事実、入信後に受けた「御利益」として「人間関係」をあげる信者は多かったのです。*6

 本作における地球平面説支持者同士の濃密な交流も、どこかこうした言説を思い出させます。誰もが互いを必要としているがゆえの親密さです。コンベンションではある講演者がこう述べます。「私たちは特別で、人生の目的を見つけた人々なのです」

 ネットではSNSによって外界から切り離された空間をたやすく作りやすくなりましたから、エコーチェンバー効果も接触効果も使いたい放題です。また、オルタナ右翼の活動が証明したように、ネットミーム陰謀論コミュニティは相性がいい。マークも車のナンバープレートに平面説支持を表明する文言をまぎれこませるネタを流行らせて、支持者同士のコミュニケーションを促しています。


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全米に広がる平面説支持プレート。日本では難しそう。


 しかし陰謀論コミュニティは孤独感を解消してくれる一方で、既存の社会とのつながりを切断しもします。ここらへんもカルトにおける出家と一緒ですね。ビリーバーであることを黙って生活している分にはまだ無難ですが、恋人や家族といった親しい人々に自分の信仰を告白したり、伝道師として表に出て積極的に活動しようとしたとたんに破綻をきたしてしまいます。

 ここはコミュニティ内のつながりとのは裏表で、そうやって既存の社会から孤立していけばいくほど「わたしにはここしかない」とコミュニティ内への帰属意識が強化されていくわけです。

 劇中ではあるビリーバーのグループが高い機材(2万ドルのレーザージャイロ)を購入し、地球平面説を証明しようと実験を繰り返しますが、彼らの仮説に反して地球が球体であることを裏付ける結果ばかり出てしまいます。それでも彼らは「いや、余計な要素が多すぎたんだ」「環境が悪かったんだ」などと言い訳をつけて別の実験を行う。

 そこまで地球平面説に固執するのは、球体をおそれているからではありません。「地球平面説支持者のコミュニティ」が崩れてしまうことが怖いのです。


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地球平面説支持者の必読書です。


 監督はマークにこんな質問を投げかけます。「コミュニティ内に科学者は誰かいますか?」

 マークは答えます。「いないよ。ある一定の教育を受けた人間は、その枠から抜け出すことが難しくなるんだ」

 インテリは既得権益である、という陰謀論にありがちな糾弾でありますが、マークのこのセリフはもうひとつ示唆が秘められています。

 専門知から疎外された人々の不安です。

 陰謀論の信じやすさは教育程度に比例するという調査結果*7もありますが、*8こと物理学に関する高度な知識などは、たとえ大卒であったとしても専門外だと了解しづらい。

 それでいてネットで自主的に陰謀論を検索して調べる人々は、(出発点はともかく)論理的に筋の通ったことを理解できる力を持っている。*9劇中でも述べられているとおり、彼らは「普通の人々」なのです。陰謀論者の悲劇はそこに端を発します。原初的な「世界のすべてを把握したい」という欲求と、知り尽くすにはあまりに高度に専門化してしまった世界とのあいだに起こる齟齬。無能感。

 そこに経済的な格差構造が加わったとき、人は今在る世界を否定したくなってしまう。

 すでに知られてしまっているはずなのに手の届かない世界、誰かによって所有されているはずなのに自分は持っていない世界から振り落とされてしまった人々は、バーナード・ショウのいう「自分の感覚」の延長線上で別の世界を作り上げようとします。

 それがおそらく爬虫類人類であり、イルミナティであり、ヒラリー・クリントンの関わる児童買春ピザ屋であり、地球平面説なのでしょう。

 前提されているのが知識ではなく肌感覚なのだとしたら、陰謀論コミュニティのひとびとが仲睦まじいのも当然です。*10

 つまるところ、彼らは真実の発見のためではなく、孤独の解消のために交わるのではないでしょうか。知識の間違いを否定することはできても、その欲望まで否定することは難しい。陰謀論から脱するために必要なのは専門家による論破などではなく*11、人がさびしくならないためのやさしいコミュニティの用意なのかもしれません。


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平面説支持者のための出会い系(マッチング)サイト。ふつーのマッチングサイトで付き合おうとすると、平面説支持と告白したとたんに離れていく相手が多いらしい。


 マークは『トゥルーマン・ショー』のラストを引用し、誇らしげにこう述べます。

「あの映画で、すべてまがいものだと気づいたジム・キャリーがその世界を去るのは、彼が失うもののない人間だからだ。出ていかざるをえないんだよ。中の世界にはなにもない。
 これが対極にいる贅沢な人物、リムジンや愛人を所有する市長だったらどうだろう? そこから外に出て見知らぬ悪と対峙しようとはしないよ」

「市長」を既得権益層たる科学者たち、ジム・キャリーを真実の探求者たる自分たちに重ねたこのセリフに対し、監督はこう問いかけます。

「今やあなたも平面説支持者たちの『市長』では?」

 そうして、マークは返答に詰まってうつむき、ためいきをつきます。

〈おしまい〉


 
japanese.engadget.com
 関連する記事。ドキュメンタリー内でも「YouTubeで啓蒙動画を見て初めて説の存在を知った」という人が出てきます。それだけ食いつきやすい入り口なのですね。

*1:この天体物理学者のタイソン先生も本作にちょっと顔を出しています。

*2:https://www.youtube.com/watch?v=T8-YdgU-CF4

*3:マーク・サージェントが『トゥルーマン・ショー』を始めとした映画がやドラマをよくアナロジーに使うのは興味深いところです。一概のフィクションが現実へ及ぼす作用を軽々に語るのはアレですが、アメリカにおける映画は陰謀論的な想像力を育む装置として機能している面があるのではないでしょうか。

*4:https://www.youtube.com/user/markksargent/about

*5:『完全教祖マニュアル』ちくま新書

*6:https://note.mu/girugamera/n/n22d784c3cdb3

*7:https://psycnet.apa.org/record/2016-57821-001

*8:個人的な感触で言えば、陰謀論の教祖となる人は高学歴の非専門家な人が多い気がします

*9:劇中でも引き合いにだされている、[https://ja.wikipedia.org/wiki/ダニング=クルーガー効果:title=ダニング・クルーガー効果

*10:ちなみに『ビハインド・ザ・カーブ』でもコミニュティ内での紛争も描かれたりしています。陰謀論者が陰謀論的ロジックによって黒幕のエージェントに仕立てられる様はアツい

*11:もちろん間違った知識を潰していくことはそれはそれで予防策として重要ですが

ネットフリックスで観る最悪世界確認ドキュメンタリー番組ーー『汚れた真実』

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(Dirty Money, creator: Alex Gibney, 2018, 米)

 2月はネットフリックスのドキュメンタリー視聴強化月間でした。ふりかえってみれば。



DIRTY MONEY Official Trailer (HD) Netflix True Crime Documentary Series

前説:アレックス・ギブニー、起つ。

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 アレックス・ギブニーは今やアメリカにおける「ドキュメンタリー作家」の代名詞です。
 大規模な粉飾決算により破綻したエンロンに取材した『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』で広く評価されたのを皮切りに、主として経済・音楽分野でタイムリーかつ骨太な社会派ドキュメンタリーを量産。
 近年ではトム・クルーズが広告塔を務めている新興宗教団体サイエントロジーの闇を追った『ゴーイング・クリア』(2015年)やサイバー戦争の恐怖を描いた『Zero Day』が話題を呼んだ他、プロデューサーとして『ラッカは静かに虐殺されている』(マシュー・ハイネマン監督)を始めとした膨大な数のドキュメンタリーに携わっています。
 そんなアメリカ・ドキュメンタリー界のゴッドファーザーが、2015年、怒りに震えていました。ドイツ自動車大手のフォルクスワーゲンが排ガス規制を逃れるために会社ぐるみで不正を行っていたとして、アメリカの環境保護局から告発されたのです。監督は怒り心頭で妻とともに愛車をフォルクスワーゲンの販売店まで返品しに行きます。
 そんな折、ラジオから流れるDJの声がこんなことを言いました。
「こんな不正は断じて許せないよね。ぜひギブニーのような監督に内幕や経緯を追及してもらいたいもんだ……」
 民衆(?)の声に応えてギブニー監督は立ち上がります。
 はたしてフォルクスワーゲンはどこまで腐っているのかーー。

『汚れた真実』は全六話。それぞれ、欧州の大手自動会社における排ガス規制不正、ペイデイローンと呼ばれる貧困層向け消費者金融、薬価を釣り上げて成長する製薬会社、麻薬カルテルやテロ組織の資金洗浄を請け負う国際銀行、ケベックメープルシロップ市場を握るメープルシロップ生産者協会、アメリカの「偉大なビジネスマン」ドナルド・トランプといった会社や人々の暗部に迫るシリーズです。
 一本あたりの尺は45分〜1時間程度で、いずれも濃厚なドキュメンタリー映画の仕上がり。巨大な資本が傍若無人に振る舞って世界をめちゃくちゃにする話ばかりなので、クソッタレな世界に絶望したい方々にオススメです。

第一話「排ガス不正 Hard NOx」(監督:アレックス・ギブニー)

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 フォルクスワーゲンエコカーが実は広告の五十倍もの排ガスを出していたーーそれまで巧みなCM広告で「エコ」のイメージを打ち出してきた企業の裏切りにアメリカ社会の怒りが爆発。ギブニー監督は事の経緯の解明へと乗り出します。
 発端は、とある非営利団体フォルクスワーゲン車の排出する窒素酸化物の値がカタログ値より異常に高いことを発見したことでした。彼らは排ガステストのときだけ有害物質を減らす装置、いわゆるディフィートデバイスの存在を疑います。
 団体から通報を受けてアメリ環境保護局はVWを問い詰めます。決定的な証拠をつきつけられて万事休すとなったVWでしたが、彼らが選んだのは罪の告白よりも安易な時間稼ぎでした。なんと、ディフィートデバイスを改造して新たな偽装を重ねようと試みたのです。しかし、彼らの恐ろしい「犯罪」はそれだけではありませんでした……。
 二十世紀から二十一世紀にかけてあまりに強大になりすぎた自動車産業の闇、それが第一話の主題です。
 なぜ排ガス規制が年々厳しくなっているのに各都市に漂う窒素酸化物は減るどころか増える一方なのか(「ドイツでは交通事故で死ぬ人よりも二酸化窒素で死ぬ人のほうが多いんですよ」)。なぜフォルクスワーゲンは徹底して隠蔽を図り、それが成功すると思い込んでいたのか。その体質はどこに由来するのか。
 ヒトラー政権時代にまで遡ってその歪んだ歴史をブリッジしてしまう構成は、アレックス・ギブニー直々の監督回だけあって非常に達者です。

第二話「ペイデイ・ローン Payday』(監督:ジェシー・モス)

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ある豪邸のガレージから運び出されていく大量のスポーツカー……いったい何が起こったのか

 ペイデイ(給料日)ローンとは、日本でいうところのいわゆるサラ金、街金と呼ばれる類の小口消費者金融のこと。銀行にお金を借りることのできない信用レベルの人々を対象にした短期融資ビジネスです。
 アメリカでは州によってはペイデイローンを規制するところもあったのですが、ネットの普及によって事実上その規制が有名無実化し、マフィアの闇金業者を駆逐する勢いで発展を遂げました。
 トラック運転手のウォルターは二児の父親。生活費を賄うためにペイデイローンから500ドルを借ります。返済額650ドル。その後、毎月75ドルが口座から引き落とされていきました。
 返済は順調。そう思っていたウォルターでしたが、彼にある銀行から残高不足の通知が届きます。ペイデイローンの会社が彼の許可なく950ドルを引き落とそうとしていたのです。
 どういうことかとペイデイローンに問い合わせると信じがたい返答がなされました。
「こちらとしては一ドルもまだ返済をうけておりません。一括払いでしか認めてないんです。毎月引き落とされていた75ドルというのは、それができないときの延滞の更新手数料ですね……」

 弱者を食い物に貧困ビジネスの極北、もとい最大の詐欺事件。その仕掛け人となったのがカーレースの全米チャンピオンとして名高いスコット・タッカーでした。
 アメリカン・ドリームを夢見て裸一貫で兄弟とともに小さなオフィスから金融業を始めたタッカーは、州からの訴訟を回避できるオクラホマの先住民の免責特権に目をつけます。先住民の酋長と交渉して名義を借りだしたタッカーはその名のもとにペイデイローン会社を設立します。
 そして、上記のような詐欺まがい、というか詐欺でしかない取り立てを行い、全米150万人から13億ドルをせしめたのです。
 消費者が「こんな契約はおかしい」とコールセンターに怒鳴り込んできたいり、弁護士が介入したりしても、「うちには免責特権があるので訴えられませんよ」の一点張り。実際には別の場所にある会社をオクラホマにあると徹底的に偽装していました。
 儲けた金でタッカーは高級住宅地に豪邸を建て、家族と贅沢な暮らしを送ります。あるときふと思いついてカーレースの訓練をはじめ、素人同然の状態から国内でもトップクラスのレーサーにまで上り詰めました。レーサーとしての彼を支えるチームは超一流。件の豪邸には何輌ものスポーツカーやレースカーがずらりと並びます。ちろん費用はペイデイローン会社の利益で賄われました。
 しかし正義を信じる弁護士たちと連邦取引委員会は彼の悪行三昧を黙過してはいませんでした。州ではなく連邦政府に目をつけられたタッカーの運命は如何に。
ウルフ・オブ・ウォールストリート』を彷彿とさせる「間違ったアメリカン・ドリームを叶えてしまった人」タッカーと、オクラホマ強制移住させれて以来、百五十年ものあいだ文化・経済・尊厳を奪われつづけてきた先住民の酋長が手を組む構図がおもしろい。
 実際にタッカーが先住民にまわしている利益は全体の一%(それでも額にすればかなりのもの)に過ぎないわけですが、酋長はそんなことにはお構いなく連邦政府の復讐に燃えます。「俺達はずっと奪われてきた。白人から奪って何が悪い?」と。
 しかし、彼の復讐心が向かう先はこれまた連邦政府にネグレクトされてきた弱者たち。アメリカの哀しい内戦です。

第三話「製薬会社の疑惑 Drug Short」(監督:エリン・リー・カー)

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薬価操作とメディアに対する挑発的な言動で話題を呼んだシュクレリさん。しかし記者にいわせれば「彼なんか小物。巨悪は別に存在する」

 08年、地方の一製薬会社だったバリアント社がカナダのバイオヴェイルという企業に買収され、新しいCEOを迎えいれます。これがすべてのはじまりでした。
 以降、バリアント社は認可薬の特許を保持する製薬会社をつぎつぎと買収しては業績を伸ばし急成長。08年には一株15ドルだった株価が15年には一株262ドルまで上昇し、一躍製薬業界の寵児としてもてはやされます。
 一方で特定の疾患を抱えるひとびとの生活に異変が起こります。たとえばある難病を抱える患者においては、それまで月三十ドルだった薬代が突然月二万ドルまで急騰。破産か死かの二択を迫られる羽目に陥ります。
 バリアント社躍進のからくりーーそれは薬価操作にありました。買収した製薬会社の抱える認可薬の価格をことごとく釣り上げたのです。生命を握られた患者たちは高値であっても買う以外の選択肢はありません。
 こうしてバリアント社は売上を爆発的に伸ばしたのです。バリアントは平均的な製薬会社であれば収益の18%は研究開発費に充てているところをわずか3パーセントしか回さず、完全に買収と価格釣り上げによる「効率的な」戦略に振っていました。
 そうした悪どいバリアント社を裏で支えていたのが、ウォールストリートの有名投資家たちです。なかでも端正なマスクと派手なパフォーマンスで知られるビル・アックマンは徹底的にバリアント社を協力に支持。この二者は次なるターゲットとしてボトックスを開発したことで有名な美容大手アラガンの敵対的買収に乗り出します。
 しかし、思うがままに製薬市場を蹂躙するバリアントとその一味を影から睨むある投資家の一団がいました。彼らは「空売り投資家」。企業の株価が上がるほうにではく下がるほうに賭けて利益を手にする一匹狼たちです。
「我々は他人を騙す人物をマークします。我々にとってはそういう人物が『利益』を生むからですよ。そういう企業はいつからほころびが出て、株価が下がります。だから『空売り投資家』は悪徳企業を追うのです」
 そう語る彼らはバリアント社のやり口を陰で探り出し、薬価操作以上にとんでもない「錬金術」を発見します……。
 薬はわれわれのインフラの一部といっていい代物ですが、それが倫理なき資本家に手に渡るとどういうとんでもない事態を招くか、という例。命の換金は無限に財を産むのです。
 ちなみに本作では「悪の投資家」として空売り投資家たちの標的にされるアックマン氏ですが、別のドキュメンタリー映画『目標株価ゼロ』(これもネトフリで観られます)では逆に悪徳健康食品ネットワークビジネスに対して大規模な空売りをしかける「正義の投資家」としてフィーチャーされていてます。一人の人物が異なるドキュメンタリーでそれぞれまったく正反対の立場として描かれるのは皮肉で興味深いといいますか、実録ものの醍醐味ですね。

第四話「カルテルと銀行の癒着 Cartel Bank」(監督:クリスティ・ジェイコブソン)

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世界中に支店を持つメガバンク。国際空港とかに行くとよく広告が掲げてあります。

 国際メガバンクHSBC香港上海銀行)による麻薬カルテルやテロ組織の資金洗浄を行ったとして告発された事件を扱います。
 2002年にメキシコのビタル・フィナンシャル・グループを買収しHSBCメキシコと改称したのちも、HSBCはもともとビタルと深いかかわりのあったメキシコの麻薬カルテル資金洗浄をも引き継いでいたのです。
 買収にあたってHSBCは公的には「資金洗浄など存在しない」という前提を持ちつつ、メキシコ国内での取引内容を精査しない、という奇妙な制度上の取り決めを行っていました。
 メキシコに限らず、HSBCは買収先の各地域で顧客の身元を把握するという銀行の基本中の基本を意図的に無視し、世界中のブラックな組織(なかにはヒズボラも)の金庫となっていたのです。
 もちろん、テロ組織の撲滅や「麻薬戦争」をうたうアメリカとは相容れません。口座凍結命令がたびたび出されます。
 ところが、HSBCは怒られるたびに「たしかに資金洗浄してました。すいません。もう二度とやりません」と平謝りに再発防止を誓うものの、涼しい顔で取引を続けたりダミー会社を作るなどしてマネーロンダリングをやめないのです。
 堪忍袋の緒が切れたアメリカはついに司法省直々に訴追させようとします。天下のメガバンクといっても相手はアメリカの司法省。年貢のおさめどきと思われましたがーー。
 香港上海銀行はもともとイギリス統治下の香港で設立された歴史ある国際銀行です。その歴史と怪しげな名前、そしてサッスーン財閥*1ロスチャイルドと関わりのためかよく陰謀論者にも目の敵にされています。
 世界支配をもくろんでいるかどうかはともかく、世界を股にかけてブラックなことをやりまくっているのは事実なようで、陰に隠れてこそこそ、というよりは実に堂々と明け透けにマネーロンダリングを行っている。陰に隠れる場合も実にカバーが稚拙で、むしろバレてもいいと考えているふしさえあり、実際にダミー会社での資金洗浄行為に従事していた人々から告発されまくっています。
 それでもHSBCには絶対に自分たちは潰されないという自負がある。その自負がどこまでも企業を傲慢にしていきます。あまりに大きくなりすぎた企業は腐敗するーー第一話と第三話で既に見てきた法則が、銀行業界でも繰り返されるのです。

第五話「メープルシロップ盗難事件 The Maple Syrup Heist」(監督:ブライアン・マッギン)

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メープルシロップ生産者協会の備蓄倉庫内部の様子。ここから日本を含めた世界中にカナダの名産メープルシロップが出荷されていく。

 ときは2012年。カナダはケベック州。名産であるメープルシロップの生産を統括するメープルシロップ生産者協会の備蓄倉庫から大量のメープルシロップが盗まれます。
 盗まれた缶の数は約9500本。被害総額は1800万カナダドル
 ケベック史上最大級の盗難事件を受け、地元警察は過去最大規模となる250人の特殊捜査チームを結成し捜査へ乗り出します。
 果たしてこの大泥棒の犯人は誰なのか。
 記者が調査していくうち、前代未聞の盗難事件の裏側にある生産者協会とその反対派との対立、そして州をまたぐ闇メープルシロップマーケットの存在などが次々と浮かび上がってきてーー。

 のっけから、「合成メープルシロップを客に出すのはカナダでは無礼にあたる。フランスでいうならワインの代わりに水を出すようなものだ」というカナダしぐさがぶちかまされ、その後も全編通じて、
「カナダではメープルシロップは不可欠な文化」「メープルシロップアメリカでいうなら野球にあたる」「ドラム缶一個あたり石油の三十倍の価値がある」「カナダにとってメープルシロップは石油のようなもので生産者協会はいわばOPEC」「彼は名の知れたシロップ缶の”転がし屋”ーーつまり闇マーケットの売人だ」「メープルシロップ弁護士」「カナダのメープルシロップ業界は娼館みたいなものさ。いくら生産者が頑張っても、儲かるのはポン引きである協会だけ」
 などといったノワールで素敵なパワーワードやキラーフレーズが頻出する異色回。単に面白事件簿というだけでなく、カナダ人とメープルシロップの文化的な深いかかわりも学べます。
 
 メープルシロップ生産者協会の誕生は1980年代のこと。
 当時メープルシロップ市場は完全に自由市場の”見えざる手”に委ねられていました。不安定に乱高下するメープルシロップ価格のせいで、生産者たちの暮らし向きはけして良好とはいえず、破産者も続出。なかには「木材にしたほうがまだ儲かる」と虎の子のメープルを伐採する農家も出てくる始末でした。
 この状況を憂えた一部生産者たちが立ちあがり、生産者協会を設立します。
 生産者協会が行ったのは徹底した流通管理でした。豊作の年は余剰分を協会の備蓄倉庫*2に保管し、市場価格の低下を防ぎます。そうして逆に不作の年は余剰分を市場へ出荷するです。こうしてメープルシロップの価格は安定し、生産者たちの生活も保証されました。
 その甲斐あってか破産する生産者も激的に減少(というかほぼゼロに)、80年代当時はカナダ全体で一億ドル程度だったメープルシロップ産業もケベック州単体で5億ドル規模にまで発展し、みんなハッピーに……
 なりませんでした。
 一部の生産者はある不満を抱くようになったのです。
「自分たちでシロップを売ったほうが儲かるのに、なんで協会にいちいち管理されなきゃならないんだ?」と。
 そうして反対派は余剰分のシロップ生産量を過小に申告し、浮いたぶんを”ヤミ”へ流しはじめました。番組内で紹介される「転がし屋」と呼ばれるブラックマーケットの売人の一人は、協会時代以前には森の奥で自由にメープルシロップを作って売っていた祖父のもとで育ったというかっこいい経歴の持ち主です。
 こうした「転がし屋」を介してヤミシロップはケベックから隣のオンタリオへと密輸されます。オンタリオでは協会の力が及ばないため、たとえヤミであっても自由に取引できるのです。禁酒法時代のアメリカのギャング顔負けなアウトローたちですね。
 しかし、反対派に言わせれば「マフィア」なのは生産者協会のほうです。生産者が自由に取引する権利を奪い、そこから外れようとすると徹底的に締めつける。反対派が自由な取引を求めて協会を訴えたこともありましたが、一度は勝訴したものの、協会はロビイングで州の法律を改正したのち再度裁判へ訴え、反対派をねじふせました。協会はケベックで強大な権力を有しているのです。
 一言につづめれば、市場経済をめぐるミクロな対立、といえます。アメリカならともかく、カナダでもこういった対立が起こるんだなあ、というところに面白みがありますね。管理する側が出てくればそれに反抗する個人も出てくる。この構図は古今東西変わらないのかもしれません。
 もちろん、ミステリとしても楽しめます。犯人たちが駆使した驚天動地(?)のトリックも見どころのひとつです。

第六話「ペテン師 Confidence Man」(監督:フィッシャー・スティーブンス)

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トランプ親子のポートレイト。左がトランプの父親。ジャーナリストに言わせれば「真に立志伝中の人なのはドナルドではなく彼のほう」らしい。

 最終回では、現職のアメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプのビジネスマン時代の実態を追います。支持者が彼に見た「身一つで成り上がってアメリカン・ドリームを達成した偉大なビジネスマン」というイメージは果たしてどの程度ただしかったのか? 
 まあ、一言でいうと、「トランプは『偉大なビジネスマン』などでは全然なかった」という内容です。
 ショーマンシップに長けた父親からの支援を受けつつ不動産業界に乗り込み、トランプタワーの成功で若き実業家として一躍時の人となったトランプですが、航空経営やカジノ経営といった不慣れな業界へ進出しようとして大失敗。破産し、不動産業者としてのキャリアも失った彼は、90年代から2000年代中盤まではほとんど「ビジネス」を行わず、「ビジネスマン」としてCMやトークショーや各種イベントにぽつりぽつりと出演するという不思議なソーシャライトに成り果てていました。
 ところが、2000年代後半、リアリティ・ショーの『アプレンティス』で大復活を遂げます。番組制作者は最初トランプを過剰に有能な人物として演出することを「ギャグ」として打ち出したつもりでしたが、この番組を見た視聴者たちは「トランプは本当にかっこよくて成功したビジネスマンなんだ!」と錯覚してしまいます。
 そう、不動産業者としては三流(by 元秘書)だったトランプもイメージを利用することに、そしてそのイメージを自分で信じ込むことに関しては超一流でした。
 彼が特に固執したのは「大富豪トランプ」のイメージです。
 若い頃はゴシップ誌の記者と懇意にして社交界のネタを流していたのですが、自らのことを書く場合は「どんな記事にしてもいいが、かならず名前に『大富豪』をつけろ」と要求。トーク番組などでも「大富豪」として振る舞うことで破産したのちもアメリカ国民に「大富豪トランプ」「ビジネスマン・トランプ」のイメージを植え付けたのです。
『アプレンティス』で復活した彼のもとにはさまざまなオファーが舞い込みます。なかでも「美味しい」のは彼の名前をホテルなどに貸すライセンス契約でした。不遇時代も「トランプ」のイメージは利用価値があった(特に海外で)ため、彼は自分に所有権のない建物にもバンバン「トランプ」の名前を貸していたのです。*3
 やがて彼はビルだけではなく、ネットワークビジネスや教材販売にも「トランプ」の名前を貸し出しますが……。
 
 トランプ当選の原動力となった「アメリカン・ドリームを叶えたタフなビジネスマン」のイメージがアメリカのマスコミに作られた虚像だった、という内容。しかもCMやトークショーの制作者たちはむしろ「ビジネスマン・トランプ」を小馬鹿にしたり半笑いで扱っている節さえあったのですが、それがいつのまにか世の中的には「マジ」になってしまった。いまや懐かしいポストモダンの音が聞こえてきますね。
 大統領選直後の分析でも「アメリカの左派的なテレビ番組がトランプをネタにしまくって『宣伝』に貢献したのも当選の一因」という記事をどこかで読んだ記憶もありますが、SNL的なリベラル・インテリ層の笑いがどこかで限界に達している、サタイアや”気の利いた”ジョークの文化が終わりかけている気がします。

まとめ

 全六話見終わっての感想はだいたい「世界って最悪」に収束するとおもいます。そうです、世界は最悪です。最悪なものほどコンテンツとしては最高なのです。
 両論が等価に併記されている第五話を除いて、『汚れた真実』の言わんとしてところは一貫しています。
 あらゆる企業体は市場の独占を目指し、独占あるいは強大化したのちは暴君として振る舞う。それが強大であれば強大であるほど、歯止めがきかない。
 アメリカという「世界最大の企業」を手に入れたトランプ大統領の行く末はいかに(番組制作時点では2018年1月)。
 ちなみに第二シーズンの制作も決定してるそうで、ますます磨きのかかった最悪が期待されますね。

*1:設立時の評議委員に一族の人間がいた

*2:Global Strategic Reserve という大層な名称

*3:たとえばNYに現存する「トランプ」系ビル17棟のうち、実際にトランプが所有しているのは5件のみ

永続暴力のためのゴリラ革命(ゴリレヴォリューション)ーー『APE OUT』

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「俺たちはその昔、ゴリラだった。取るか取られるかがすべてだった。実際のところ、今日の君は昨日の君よりも『男』なんだよ」
「どうやってわかる?」
赤潮だよ、レスター、俺たちの人生は赤潮だ。他人がひねりだしたクソを毎日食わされる。上司。女房。そんなやつらにすり潰される。もし屈したままなら、君のもっとも深く大事な部分はいまだに"サル"なのだとやつらに思い知らせないままなら……君は洗い流されるだけだ」


 ドラマ版『ファーゴ』シーズン1、第一話



Ape Out - Launch Trailer


 またゴリラと暴力か、と思う。


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キングコング』、あるいは『ターザン』以来、わたしたちは常にゴリラと暴力を結びつけてきた。

 今日のインターネットでは荒ぶるゴリラのイメージを容易に発見できる。怒れる森の化身として人間を叩き潰し、血を撒き散らす。野蛮で、人類未満の存在。
 結局のところ、わたしたちは今でもポール・デュ・シャイユ*1以前の時代を生きている。ゴリラというのは伝説の動物であって、信じるに値する現実の種ではない。「どんな問題も相手の顎を殴りつけて解決するゴリラ」(ジョージ・オーウェル「少年週刊誌」)。


 だがいくら現実の生態に反していようと、わたしたちは暴力の化身としてのゴリラを愛した。そうだろう? 目を血走らせて卑劣な人間たちを激情のまま肉塊に変えていくゴリラのイメージは、わたしたちが取り戻したいと熱望してやまない野生そのものだ。比類なき虐殺者であるわたしたちは銃や核爆弾といった冷たい暴力をほしいままにしてきたけれど、ひきかえに拳という原初的で熱い暴力を奪い取られてしまった。

 わたしたちはもうムカつく上司やうんざりする社会の圧を拳で精算することはできない。アメリカで日々乱射されているのは握りしめられた感情エネルギーではなくて、秒速四百メートルの銃弾だ。あいつらは人生を棄ててクラッシュするそのときでさえ、NRAに甘えなければ何もできない。日本にはそのNRAさえない。

 ゲームは銃を与えられることで、あるいは銃をあらかじめ奪われることで去勢されたわたしたちに暴力を所有する幻想をもたらしてくれる。銃も剣も魔法も都合してくれる。けれど、本当に必要なのはゴリラの心と身体じゃないか?


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『APE OUT』の最初のティーザーが公開されたとき、もうあれは二年か三年も前だと思うけれど、わたしたちはこれこそ「それ」だと考えた。
 かぎりなくシンボリックに簡素化されたグラフィックのゴリラが、人間どもを拳ひとつでぶちのめす。アンニュイなジャズドラム(黒人音楽!)に乗せて、肉を引きちぎっていく。これこそわたしたちの欲しいゴリラだった。無人の野をゆくがごとき無敵の爽快感を期待した。圧倒的な”暴”への陶酔を予感した。


 発売予定は「来年の夏」。

 その翌年の夏になってもまだ「来年の夏」は「来年」のままだった。

 申し訳程度にプレイアブル・ティーザーがリリースされたりもしたけれど、わたしたちは騙されない。フリースタイルに狂いまくるスケジュールはインディーゲームにつきものだ。ゲームのあるべき未来として人々の希望を一身に背負いながら、ついに現在になれなかった話題作はいくらでもある。わたしたちはいつしか期待することをやめていた。ゴリラはやはりユニコーンやビッグフットと同じくらいに空想の生きものなのだ。


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 そうして二〇一九年の三月だ。ゴリラは突然オリから放たれる。弾丸のように。 

 わたしたちはその速度を殺さないままに暴力を愛でようとする。
 人間どもを虐殺しよう。理由はわからない。説明などない。なんとなく研究所っぽいところに閉じ込められていたことはわかる。わかるが……どうでもいい。
 見るべきはプリミティブなグラフィック、感じるべきはシンプルな操作、聞くべきは絶え間ないビート。用意されたあらゆるデザインが眠れる欲動を煽る。燃やす。
 驚嘆すべきはその速度。ボタン(R2トリガー)を押すと指先から衝動が秒で伝わり、破壊として画面に結実する。そのシームレスさがゴリラとの一体感を生み、系統樹をリスのように駆け下りさせる。今日の君は昨日の君よりも確実にゴリラだ。ライフルを構えた警備員など恐れる必要は一ミリもない。壁に叩きつければザクロめいて弾ける弱い生きものなど……。


 だが恐れるべきだったのだ。警備員のライフルは想定以上に強力だった。三発も当たれば、いともたやすくゴリラを屈服させてしまう。
 やつらはとにかく数で攻めてくる。ちぎっても叩き潰しても、おそらくは無限に湧いてくる。
 ゴリラとなった今日の君は確実に昨日の君よりも賢い。やがて悟るだろう。
 ”暴”をむやみにほとばしらせているだけでは勝てない、と。


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 戦術が要る。ゲームの表情が変わる。
 ゴリラは物陰から物陰へと隠れながら移動するようになる。待ち伏せで警備員を屠り、また陰へと融けていく。死体を、ときには生きている人間を盾に敵陣へと近づき、十分に間合いを詰めたところで投げつけて一挙に殲滅する。
 重要なのはリズムだ。速度の緩急。潜むべきときは潜み、攻めるべきときは攻める。ジャズドラムのビート、そのフロウに身を委ねろ。
 やがて気づくだろう。
 このゲームのゴールは「脱出」であると。暴力はあくまでは手段にすぎない。わたしたちの目的は生き延びることだ。
 ギャング映画を見ればわかる。刹那的で放埒なバイオレンスが行きつく先は即座の死だ。


 わたしたちが目指すべきは持続可能な暴力。逃避のための暴力。生存のための暴力。

 自然を守ろう。暴力の可能な環境を守ろう。

 ロックスター・ゲームズの暴力がペシミスティックな近代文学と成り果ててしまった今、質のいい純粋な暴力は絶滅が危ぶまれている。
 求められているのは調和だ。
 ミーム的なイメージとしてのゴリラと、わたしたちの破壊衝動と、ゲーム性を持ったゲームの均衡が織りなすハーモニーを永続していきたい。子どもたちに暴力の大切さを伝えていくのが、わたしたちの使命ではないだろうか?




 人と自然が調和して生きられる未来を
 実現するその日まで。


WWFジャパン

www.buzzfeednews.com



*1:アメリカの探検家。1856年にガボンにおいてゴリラの完全な標本を報告し、それまで西欧では現地人の想像上の生きものとされていたゴリラの実在を証明した

作業用BGMとして優秀な知らないインディーゲームのサントラ十選を聴く

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前回までのあらすじ

 作業がおわらない。

選考基準

・あんまり盛り上がりまくられると困る*1
・聴いてて心地いい
・チルいやつ
・チルすぎても眠くなるよね
・だいたいサブスクリプションサービスにおいてある。
・いうて八割方プレイ済みで、知らないゲームがなくないですか。

10選

『Florence』ーKevin Penkin


FLORENCE | Launch Trailer

 ・ピアノとチェロを中心にオーソライズされたやさしい音色。
 ・作業用としては一番向いているかもしれない。
 ・ペンキンは日本ではアニメ版『メイド・イン・アビス』の仕事で有名。
 ・一枚のなかでメリハリが作業的にいい意味で効いているのもヨシ。
 ・使われている楽器の関係性がゲームに出てくるキャラの関係性に反映されてるんだけど、そんなことを考えていたら作業はできないので忘れろ。

FEZ』ーDisasterpeace


FEZ Official Trailer

 ・チルくてシンセなインディーゲーム音楽でも最高峰の名盤。
 ・Disasterpeace はもともと『FEZ』『Hyper Light Drifter』といったインディーゲームの話題作で名を馳せていたけれど、近年では『イット・フォローズ』『アンダー・ザ・シルバーレイク』『トリプル・フロンティア』といった映画音楽の分野にも進出。
 ・『FEZ』はインディーゲーム期のディザスターピースの仕事でも最良のもの。本人曰く、作曲当時はドビュッシーラヴェル、チリー・ゴンザレス*2の『Solo Piano』、ジャズピアニストのエロール・ガーナーに影響を受けたらしい。*3
 ・特に「Spirit」は単曲で無限ループできる。
 ・『Hyper Light Drifter』のサントラも悪くないけれど、作業用としては荒涼としすぎている感が。

『rain』――菅野祐悟

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 ・ドラマに映画にひっぱりだこな国民的コンポーザー菅野祐悟の珍しいゲーム仕事。PS3のダウンロード専売(のちにパッケージも出たはず)。
 ・アコーディオンを使ったノクターン(自称)なタンゴだかミュゼットだかが癒やされる〜〜〜。
 ・Apple Music にも Spotifyにもないが、Amazon Primeにはある。

Minecraft Volume Alpha』――C418

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 ・言わずとしれた『マインクラフト』のサントラ。わたしは工作苦手なのでやったことありません。
 ・もともと作業するゲームのために作られたためか、作業を邪魔しないけど耳に心地いいアンビエントな曲ぞろい。第二弾?の『Volume Beta』はもうちょっとダークなテイストが強まってる気がする。

『Monument Valley』――Stafford Bawler

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 ・睡眠導入剤か?ってレベルでぶわんぶわんしている。
 ・追加DLC用のサントラ『Monument Valley: foggoten shores』もおすすめ。ややこしいけど『Monument Valley 2』のサントラは別にあってそっちもわりと使える(コンポーザーは Todd Baker)。

『Hotlime Miami』――いろいろ

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 ・見下ろし型虐殺ゲーム『ホットライン・マイアミ』のサントラだけれども、この盤はミニマルにだんだん脳に効いてきて、つまり作業に向いてる。
 ・サントラは soundcloudでしか売ってないけど、いい感じに使える部分は spotifyとかに置いてある Scattle の『Hotline Miami: Take down EP』で聴ける。 
 ・っていうか、かなりの収録曲をオフィシャルにタダで聴ける。
soundcloud.com

 ・80年代のシンセ音楽を再解釈したシンセウェイヴとやらのジャンルのゲーム界隈におけるはしりのひとつとされる。ちなみにシンセウェイヴを採用したインディーゲームタイトルで最も有名なのが『VA-11 HALL-A』や『2046: Read Only Memories』。そういう理解でいる。他にもど直球に志向してるとこだと『Neon Drive』や『crossing soul』のサントラなんかがある。ああいう系は Steam を「1990年代」タグで探せばザクザク出てくる。2010年代erにとっては90sも80sも同じにおいのノスタルジーだ。


『Secret Little Haven』――Victoria Dominowski

www.youtube.com

 ・で、シンセウェイヴに近接したジャンルとしてヴァイパーウェイヴが今をときめいているわけですけれど、インディーゲームにもヴァイパーウェイヴを取り込もうとする動きはあるようで、バカ正直にヴァイパーウェイヴのMVっぽいウォーキングシミュレーターを作りましたみたいな作品が散見されるもののいっこもおもしろそうでなく、『LSD』フォロワーと混線を起こしている始末。
 一方で『Hypnospace Outlaw』の登場でにわかに脚光を浴びつつあるのが「1990年代のパソコンのデスクトップ&インターネット再現シム」ゲーム*4で、そういう意匠でフェミニズム寄りに視点を当てたのが『Secret Little Haven』、らしい。
 ・らしい、というのはもちろんプレイしてないからで、それはともかくサントラはまさに90年代の再解釈としてのヴァイパーウェイヴが活かされていてチルい。ヴァイパーウェイヴというジャンルのことは現象としてはともかく楽曲としてはあんまり興味ないので本当にヴァイパーウェイヴかどうかは知らない。*5
 ・ちなみにサントラは Bandcamp でしか買えない。良いサントラに限ってそうなんだ。

『The Red Strings Club』――fingerspit

www.youtube.com

  ・適度にソフィスティケートされたシンセミュージックならこれ。アダルトなサイバーパンクの世界観が忠実に反映されている。

『Kingdom: New Lands』――ToyTree, Amos Raddy

www.youtube.com

  ・タワーディフェンスという本来は忙しないジャンルであるにもかかわらず、計画された冗長さをプレイヤーに強いてくるRTS『KINGDOM』シリーズ。そんな狂気のバランスが産んだサントラは、奇跡のリラクゼーションを放ちます。
  ・もちろんシリーズ作品である『Kingdom Ost』と『Kingdom: Two crowns』もヨシ。

『Mini Metro』――Disasterpeace


Mini Metro Launch Trailer

 ・スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラス、そしてノーマン・マクラーレンのアニメを参考にして誕生した、無限に聴ける作業用ミニマル・ミュージック。Disasterpeace のマスターピース
 ・なんだけど、サントラが発売されていない。IGFアワードを始めとした各賞のベスト・オーディオ部門にノミネートされたにも関わらず。
 ・なぜなのかといえば、mini metro の「サウンド」はプレイ中のアクションを通じてプログレッシブに生成されるものであり、通常の意味における楽曲など存在しないからだ。
 ・そういうわけで作業用BGMにしたければ、こういう動画をサントラの代わりにするしかない。コメント欄曰く「ADHDに効く」らしい。
www.youtube.com

Donut County』――Daniel Koestner

www.youtube.com

  ・牧歌的でありながらもイマっぽい感じ、この……ジャンル名がわからない。

思いついたけど様々な理由から選から漏れた。

『Luna』――Austin Wintory

 ・幻想的な雰囲気をもつVRゲームのサントラらしいが、未プレイなので詳しいことはよくわからない。ゲーム自体の評判は微妙。
 ・オースティン・ウィントリーは『風ノ旅ビト』の人といえば一番通りがいいかもしれない。AAAからインディーまで手広く作曲しており、最近では『アサシンクリード:シンジケート』や『Tooth and Tail』、『The Banner Saga』シリーズなどがノータブル。
 ・幻想的な雰囲気を残しつつ、もうすこし盛り上がりも欲しいよ〜という欲張りさんは『Abzû』のサントラを聴け。

FTL: Faster Than Light』――Ben Prunty

 ・ピコピコ感がほしいならこれ。
 ・一曲ごとに曲調が乱高下するところがあるので、安定感がほしいなら順番をいじれ。
・もうちょっと爽やかにアゲアゲで行きたいなら『the messenger』。

『diaries of a space janitor』――Sundae Month

 ・エスニックでドローンでありつつもノレる感じ。
 ・「Incinerate」だけテンション浮いてるので外してもいい気がする。あと歌付きのやつも数曲入っているけれど、意味をなさない架空言語。気になる人は気になるか。
 ・難点は Bandcamp でしか手に入らないこと。

『Thomas was Alone』――David Housden

  ・ミニマルっぽいといえばTwAのサントラは外せないよね。

『OneShot』――Nightmargin

  ・暗め曲調のものが多い。
  ・42曲が一時間半におさまっているため切り替わりが激しいけれど、似たようなテイストばかりなのであまり気にはならないか。
  ・最後の「It’s Time to Fight Crime」だけはやたら勇ましいでの作業用にするときは外してもいいかも。

『Skullgirls』――いろいろ

  ・コナミの名コンポーザー山根ミチルが参加していることで名高いサントラ。
  ・基本的にはジャズっぽくて、同じジャズでもテンションがやたら高い『Cuphead』よりかは作業に向いている。
  ・まあでも格闘ゲームなんで基本テンションは高いよね。

上記のやつを雑にまとめたやつ+αプレイリスト

・そこ(Spotify)にないものはないですね 。


次回予告

 作業は進まない。


*1:まあ世の中には『Undertale』のサントラを作業用BGMにしている人もいらっしゃるようなので好き好きなんでしょうが

*2:日本でも去年ドキュメンタリー映画黙ってピアノを弾いてくれ』が公開されて話題になった

*3:http://disasterpeace.com/blog/in-depth-fez

*4:90年代のパソコンの画面上で繰り広げられるアドベンチャーはそれなりに前から存在して、最近だと『Her Sotry』や『Emily is Away』なんだろうけれど、それより更に前にもうひとつマイルストーン的なのがあったはず。思い出せなくて気持ち悪い。

*5:SLHのはちょっと洗練されすぎてる気がする。


『異色作家短篇集リミックス』の電子版販売はじめました。+まぼろしの序文について

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前回までのあらすじ

proxia.hateblo.jp
(同人誌の詳しい内容はこちら)

早川書房『異色作家短篇集』シリーズをネタ本に『異色作家短篇集リミックス』という文芸創作(+評論)同人誌を作った。
・なんか最初は身内の創作だけで細々やろうか……3円くらいで売るやつで……というノリだったものの、信頼できる同人たちの勇気とコネクションにより、矢部嵩先生(『〔少女庭国〕』*1、『魔女の子供はやってこない』)の掌編と表紙絵、岩城裕明先生(『牛家』、『呪いに首はありますか』)と伊吹亜門先生(『刀と傘 明治京洛推理帖』)のインタビューといった特別寄稿がなされ、オリジナルメンバーからも第九回創元SF新人賞大森望賞受賞者で第十回でも大絶賛一次選考通過中の織戸久貴氏の完全新作姉妹百合SF、殊能将之研究の泰斗・孔田多紀氏のリキの入った論考、さらには次世代のホープ・紙月真魚氏のパワフルな狂気に満ちた漫画短編レビューなどが集まり、思ったよりタイムリーで1000円で売れる級のものが出来てしまった。

呪いに首はありますか

呪いに首はありますか


・というわけで、1月の京都文フリで頒布したところ高評につき見事完売。*2
・勢いで電子版も作ることになった。

今回のあらすじ

・電子版が出来たよ! 二ヶ月の限定販売だからお早めに!

strange-fictions.booth.pm

 あのムラシットさんも買って凄い勢いで読んどる(ハズ) 買ってへんのはおまえだけ。


おまけ


 デフレ世代なので単に告知するだけだとお得感なくてゴミだなー、とおもってたところに孔田多紀(id:kkkbest)さんからナイスパスがきました。
 
anatataki.hatenablog.com



nemanocさんによる「序文」も紙版のver.2から変わってver.3くらいの一番短いものになってます(一番長いver.1(4000字くらいある)もけっこう面白いと思うんですが公開されたりしないんでしょうか?どうでしょうか?って、ここで書いても意味ないか……)


 この「一番長いヴァージョン」は物語仕立てになっていたんですが、いくらなんでも序文にしては長すぎるのと、内輪ネタすぎるのと、『アラビアの夜の種族』あとがきネタはさすがに関係なさすぎるのと、三つの異なる「異色作家短篇集」が出てきて無駄にややこしいのと、その他さまざまな理由によるのとで怪文書度数(K: Kaibunshority)が閾値を超えてしまったのでボツにし、紙版掲載の2000字?くらいのヴァージョン2に落ち着き、三ヶ月経ってこれもサムいな、と思ったので一行に切り詰めて現行のヴァージョン3(電子版)になったという経緯*3があります。要するに詩歌が俳句になっていく過程といっしょですね。小さい進化はデカイ進化の経過をなぞるってやつです。

というわけで、お蔵出し。


まぼろしの序文



 死ぬほど退屈なあなたに べそをかいていることはない! あなたは抜け出られます。これがその出口です!
 ――旧版『異色作家短篇集13 レベル3』の帯文より。


 あの興奮を忘れない。


 あなたもきっとおぼえているはずだ。


 わたしが旧版『異色作家短篇集リミックス』に初めて出会ったのは、大学に入りたてのころーー青雲の志を抱いて京都に住みはじめた時期だった。
 せっかく古都に来たのだからと毎日のように河原町三条の古書店森見登美彦円居挽の同人誌などを求め漁っていたわたしに、ある日、初老の店主がこう声をかけてきた。

「あンた、ミス研の学生さん? やったら、よほどおもしろいもんあるで」

 店の奥に引っ込んでしばしのち、店主は一冊の薄い書物を持ち出してきた。本にはカバーもかかっておらず、装丁はみすぼらしい。どうみても商業出版された代物ではない。離れていても、饐えたような、ほこりっぽいようなにおいがツンと鼻をついた。

 同人誌ですか? とわたしが店主に尋ねると、彼はしたり顔でうなずき、わたしに本を手渡した。「お代は結構。サービスや」と言った。

 ボール紙の安っぽい黒地の表紙にはこう題されていた。『異色作家短篇集リミックス 第一巻』と。



 今となっては関西圏で知らぬものはいない同人誌シリーズであるけれど、一応説明しておこう。
 〈異色作家短篇集〉という叢書がある。もとは一九六〇年代に早川書房から出版された海外作家別短編集のシリーズで、二〇〇五年には新装版として再販された。
 江戸川乱歩の提唱したいわゆる「奇妙な味」との結びつきでよく語られるものの、乱歩の意識した英国新本格や変格の文脈よりはもうすこし広く「変な話」を募っている。

 その〈異色作家短篇集〉をオマージュした変な話の創作をやろう、ということで当時の関西の大学ミス研有志で集まったのが一九七八年の旧版『異色作家短篇集リミックス』……らしい。すくなくとも、巻頭言にはそうある。アジ文めいたその行間からは、関東圏の大学ミス研を中心に設立された全国区的ミステリー団体に対するリージョナルな対抗意識なども読み取れるが、そうしたものもモチベーションの一つだったのだろう。

 それ以上の成立過程はつまびらかではない。どころか、信用に足らない部分も散見される。「編集長」を名乗る人物の巻頭言では、「同志社立命館など各大学の推理小説研究会の精鋭」が参加したというけれど、当時の立命館にミステリ研究会は存在しなかった。

 また、巻末の参加者コメントを読むに、京都圏のさまざまなミステリファン(なかには高校生や社会人らしき人物もいる)が参加していた形跡もうかがえる。実態として、「各大学の推理小説研究会」の会員は全体の二割にも満たなかったのではないだろうか。おそらく、「大学ミス研」というカンバンによる権威を借りようとしたのか。当時、そこまで大学ミス研というものにそこまでのブランド力があったのかは疑わしいけれど、背景には先述した関東圏の大学ミス研組織への対抗意識があったものと想像される。


 このようにガワは怪しさ芬々たる旧版『異色作家短篇集リミックス』だったのだけれど、中身はべらぼうにおもしろかった。

 さっそくミス研の友人に貸そうとすると、「もう持っている」と言う。

 聞いてみると先輩も同期もみな既に入手済みだった。いずれも古本屋めぐりの最中に手に入れたのだと言う。しかし時期や店舗、状況などはまちまちであり、たとえば件の友人は河原町OPAの安売りカゴに放り込まれていたものになんとなく興味を惹かれて手にとったらしい。一方である先輩は古本屋でたまたま会ったOP(オーバー・パーソンの略。終わったひとのこと)から「俺も昔OPの人からもらったんだけど処分に困って」と言われて譲り受けたと明かした。

 入手当初は同人誌の貧相な見た目のせいで、みな読む気力を起こせなかった。ネタ元である〈異色作家短篇集〉を未読だというのでためらっている人もいた。なので、その時点で旧版『異色作家短篇集リミックス』読み終わっていたのはわたし一人だった。もっともわたしも当時は〈異色作家短篇集〉を一冊も読んだことがなく、単に読書家としての躾がなっていなかったせいで元ネタを通過せずにオマージュ作品を読む蛮行を犯してしまっただけに過ぎない。

 その知的怠慢が、布教のうえでは有利に働いた。

「元ネタ知らなくてもそんなにおもしろいんなら読んでみるか」と友人や先輩は言ってくれた。他人が勧めた本は読む。説得されたら読む。その善き不文律が生きていた最後の時代をわたしたちはいまだに懐かしむ。

 その次の例会は読書会だったはずだ。でも課題本のことはまったく覚えていない。旧版『異色作家短篇集リミックス』の話一色だった。あの短篇がいい、この短篇がいい、いや収録作まるごといい。全部いいのはいいけど好みや差異もあるだろう。そうだな、ランキングを作ろう。ここは教室なので黒板がある。まずタイトルを書き出そう。それから投票で序列をつけるのだ。なんでもかんでもランキングにするのは悪い文化だね、宝島社に毒されてちゃって。そうだな、みんな宝島社が悪い。それはそれとしてランキングを作るのはたのしい。たのしいね。いいから好きなやつのタイトルを挙げて。

 みなのフェイバリットを挙げていくと当然のように食い違った。どころか、互いに「そんなタイトルの短篇はない」と非難しあった。そんなやりとりが新しいタイトルを挙げるたびに湧く。会員たちはめんどくさがりなので相手の本を検めるようなことはしなかったが。

 それでも三回目の異議でさすがに異常さを悟り、それぞれ所持している旧版『異色作家短篇集リミックス』を引き比べてみた。


 どれ一冊として収録作がかぶっていなかった。


 巻数違いとも考えられたが、ナンバリングはどれも「第一巻」だったし、表紙や巻頭言、発行日にも相違は見当たらなかった。同じ本なのだ。「おもしろい」という感想も一致している。ただ、収められている物語が異なる。

 その場では「ずいぶん凝った趣向の同人誌を作ったものだね」という結論に落ち着いた。同じ装丁であつらえて、中身だけを一冊一冊入れ替える。金と手間はかかるものの、仕掛けとしては単純だ。一冊につき各十三篇で編まれているから、あの場にあっただけでも百篇以上の物語が存在していたことになる。そのどれもがおもしろかったのだから、ちょっとした奇跡だ。


 それから数週のあいだはお互いの旧版『異色作家短篇集リミックス』を交換して読みふけった。あんなにも立てつづけに同人小説を読んだ経験はあとにも先にもあれだけだっただろう。気位の高い会員たちには「同人は商業に劣る」という固定観念があった。その風潮を一発で払拭したのだ。

 そのうち他大のミス研にも旧版『異色作家短篇集リミックス』が流通していることがわかり、ふだんの交流など絶無だったにもかかわらず、他大の例会へおしかけ本を交換しあった。余談になるが、本同人のメンツもそのときの交換会を通じて知り合ったのだった。

 新たな所有者が判明するにつれ、短篇の数も飛躍的に増えていった。最初は百ちょっとだと思われていたのが、五百を越え、千を越えた。全レビューを行うべきだという声も一部であがったが、刷られた正確な冊数も不明だったし、なによりみな億劫がった。量の問題もあるが、簡明なあらすじにまとめるにはあまりに筆力を要求される作品ばかりだったし、その評なり感想なりを書くとなるとなおさらむずかしかった。そこのあたりは元ネタとなった叢書に似ている。


 ミス研員というのは概して小説の感想を精緻に言語化する訓練を積んでいる生きものだ。社会では評価されなさそうな生きものですね。

 けれども、旧版『異色作家短篇集リミックス』に関しては単純に「おもしろい」としか表現できない人間が多かった。わたしもそのひとりだった。感想の不可能性は敗北感の苦さではなく、むしろ特別な秘密の甘美さをともなっていた。読者が偉大な作品に出会ったときに抱きがちな「自分だけに向けられた何か」の感覚は、大量生産大量消費の原則からいってほぼ錯覚であるけれど、旧版『異色作家短篇集リミックス』は現実に、まぎれもなく「自分だけの一冊」だったのだ。

 わたしが大学を去るころには、旧版『異色作家短篇集リミックス』のヴァージョン違いは二百近くにのぼっていた。そのころには京都圏だけでなく関西圏全域、大学ミス研員やそのOBだけなく市井の一部読書家などにも所有の環が広まっていることがわかっていた。たしか会の内部でヴァージョンごとの所有者と収録作を書き記したリストがあったはずだけれど、いまごろどれくらい膨れあがっているか、想像するだにわくわくする。『二巻』や『三巻』やついぞ見つからなかったようだけれど。


 あのすばらしい思い出のすばらしい同人誌を復興しよう。わたしがそう思い至ったのは、この夏の高知への旅行がきっかけだ。

 同地に暮らしている後輩に会って酒を飲み交わしていたら、ふと旧版『異色作家短篇集リミックス』の話になった。

 それまでに繰り返し何度も語らった話題であったけれど、このとき後輩はふいに奇妙なことを言った。

「もしかしたら、どの本も内容は一緒だったのかもしれませんね。読むぼくたちが違っていただけだったのかも」

 どういう意味だろう? わたしは発言の真意を問いたかったが、酒で思考と発声がのろくなっていたために、彼に先んじられた。

「ああいう話が書きたいんですよ。僕は。あれと同じ同人誌っていうか……本自体の趣向じゃなくて……うまくいえないんですけど……ああいう感じの短篇、ぼくの読んだ短篇のような短篇を書きたいんです」

 わたしは彼の旧版『異色作家短篇集リミックス』を読んだことがない。その後輩は他の誰にも自分の本を見せなかった。だが、それを読んだ彼が作品に対してどういう気持を抱いていたかならわかる。そこは全員に共有されている。

 わたしは言った。今、ミス研OBたちとあたらしく創作文芸サークルを作る話が持ち上がっている。サークルの名は〈ストレンジ・フィクションズ〉。河出書房新社の不滅の叢書にリスペクトを捧げた名前だ。ついては、きみも参加しないか。

 彼は赤ら顔を眠たそうにもたげながら、夢のように訊ねた。

「テーマは……決まってるんですか」

 高知に来るまでは決まっていなかったが、今決まったよ。『異色作家短篇集リミックス』だ。早川の〈異色作家短篇集〉は出て四十年後に新版が出た。あの『異色作家短篇集リミックス』が出て、今年で四十年だ。ちょうどいい符合だろう?

「いいですね」と彼は笑い、空いたグラスにビールを注いだ。


 そうした驚くべき小さな奇跡の積み重ねのうえに、今ここにこの本がある。


 謎の円盤が浮かぶ街でおかしくなっていく妹を案じる姉の話。
 浜辺で起こった足跡のない殺人事件の話。
 伯父の遺した奇妙なSF小説を読み解こうとする少女の話。 
 警官の前で繰り返しの姉の話をする妹の話。
 地下鉄に体当たりをする象の話。
 小説が忘れ去られてしまった未来で図書委員に任命された少年の話……。


 ここに収められた短篇はどれも異なる色を持つ、わたしたちだけの秘密の部屋であり、あなただけの秘密の部屋でもある。ここ以外の、どこにも属さない。


 かつての〈異色作家短篇集〉のように。


 かつての『異色作家短篇集リミックス』のように。


 奇妙(ストレンジ)であることとは特別(イスペシャル)であることの謂である。


 あなたもきっと忘れられなくなるはずだ。


〈おしまい〉*4


レベル3 (異色作家短篇集)

レベル3 (異色作家短篇集)


くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

*1:文庫化おめでとうございます

*2:時間内ギリギリで売り切れる量だけしか刷らなかった編集長の眼力が優れていたともいう。なお、印刷ギリギリになって参加者たちから「さすがに部数少なすぎるでしょ。もうちょっと増やしたほうがいい」と説得されてようやく腰を上げた模様。

*3:ver2まではいちおう『異色作家短篇集』という叢書についてのざっくりとした説明みたいなものがついてましたけれど、電子版で買う人は文フリの客層と違ってそもそも異色作家短篇集が何であるかを知ってるひとが大半であろう、ということで大幅カットしたみたいなとこもあります。

*4:なお、文中に出てくる”旧版『異色作家短篇集リミックス』”についての問い合わせに関しましては一切お答えできません

『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーの関係について

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*『ナイト・イン・ザ・ウッズ』に関する多少のネタバレがあります。



 エルサレムの聖キュリロスは教理問答でこう記した。「竜が道の脇に座し、通りすがる人々をじっと見張っている。この竜に食い殺されないよう用心せよ」


ーーフラナリー・オコナー、Mystery and Manners



 世界はものすごく悪い状態にあるよ。


――『ナイト・イン・ザ・ウッズ』


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ナイト・イン・ザ・ウッズ(Night in the Woods) Switch & PS4 PV


 キュートなアートワーク、ウィットに飛んだダイアログ、深みのあるキャラクター、そしてストーリー。
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』は間違いなくここ数年で最良のインディー・アドベンチャーゲームのひとつでしょう。PS4かSwitchかPCを所有している人間が今すぐ買うべきゲーム2019ぶっちぎりナンバーワンです。*1開発元の ininite fall はもちろんのこと、スラングの多用される難易度の高い原語版をかくも丁寧かつ上質に訳したプレイズムの功績も讃えたい。
 

 さて、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』は多くの顔を具えたゲームです。若者の自意識と葛藤を描いた青春モラトリアム物語であり、死にゆく田舎町の悲哀を捉えたアクチュアルな社会派文学であり、『ツイン・ピークス』めいたビザールなミステリであり、重層的な意味を持ったゴースト・ストーリーでもあり、みんな大好きなコz……いや、これはネタバレだったか。

 どのトピックから語っても記事をまるまる一つ消費してしまえるだろうけれど、今回は「『ナイトインザ・ウッズ』に影響を与えたもの」という切り口から探ってみましょう。

 すなわち、フラナリー・オコナー
 

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 三人の主要クリエイターのひとりで共同脚本などを務めたスコット・ベンソンはあるインタビューで影響を受けた作品群について語るなかでフラナリー・オコナーに言及しています


  
 フラナリー・オコナーはこのゲームのゴシック的な部分について終始影響を与えています。すべてを覆う、ぞっとするような恩寵に満ちた南部アメリカに潜む恐怖を探求する彼女の筆致は、ひとつのインスピレーションでした。
 私は非常に長い間クリスチャンとして過ごしていましたが、今では信仰を完膚なきまでに失ってしまいました。しかし、私はいまだにフラナリー・オコナーの「キリストに取り憑かれた(haunted)」世界とつながっているのです。神は完全に私のもとを去ってしまいましたが、恩寵の瞬間は美しくもナチュラルな形で残っており、私は純粋にひとりの人間として信仰心の探求に興味を持ち続けているのです。『善人はなかなかいない』と『賢い血』は間接的にではありますが本作に明確な影響を及ぼしています。もっとも、私はオコナーと究極的な神の実在に関しての見解は分かれるでしょうが。

 フラナリー・オコナーはファークナーなどと並んで南部アメリカ文学(ときには南部ゴシック文学)の代表的作家のひとりとされる人物です。人間の暴力性や南部特有のグロテクスさ、そして残酷な現実をえぐりだす作風で読者に鮮烈な印象を与え、今でもファンが多い。
 オコナーはまた(プロテスタント国家アメリカでは少数派の)カトリック教徒としての意識からクリスチャン的なテーマだったり、宗教的な道徳や倫理への問いかけをよく扱います。
 影響先で近年で最も話題になったのは一昨年のアカデミー賞で作品賞候補にノミネートされた『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー監督)でしょう。*2まあそこらへんの詳しい解説はいろんなの人が書いてるので……。


『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のクリエイターたちにとっても「信仰」は欠かすことのできない題材でした。killscreenの記事によれば、メインのクリエイター三人(アレック・ホウルカ、ベサニー・ホッケンベリー、スコット・ベンソン)はいずれもキリスト教にいったんはコミットしつつも、やがて信仰から離れていった経験を共通して持っているといいます。
 なかでもスコット・ベンソンはフラナリー・オコナーとおなじくアメリカの南部出身 *3であり、やはり保守的なバブテストの家庭で育ちました。しかし「フェミニズムは世界を破壊してしまう」だとか「AIDSは同性愛者を罰するために神から下された」といった教会の政治的な主張に疑問を抱き、別の教会へと移り、やがて信仰そのものを喪失してしまいます。
 そんな彼が信仰の酷薄な側面を描いたオコナーに惹かれたのはある種自然なことだったといえるでしょう。
 

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 ベンソンの言のとおり、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』からフラナリー・オコナーの影響を汲み取るのはさして難しくありません。日常に根ざした宗教。不完全で欠陥だらけの人間たち。病んだ父親。*4突然のバイオレンス。どこかユーモラスでウィットに富んだ会話。恩寵と救済。
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』には神的な「何か」が出てきます。が、それは慈悲深い神などではありません。というか、自ら「神」であることを否認する何かです。主人公のメイに対してとことんまでに冷たく、無関心で、「おまえは宇宙から忘れられている。私はお前を見ているが、それはお前を心配しているからではない」などとキツいことばをつきつけてきます。
 フラナリー・オコナーのいくつかの短編でも得体のしれない「何か」が登場します。興味深いことにそのうちの二つは「〜 in the woods」というタイトルがつけられているのです。
 ひとつは「森の景色(A View in the Woods)」。偏屈な地主の老人が険悪な仲である娘婿に嫌がらせするために、娘婿が放牧に使っている土地を売ろうとします。しかし老人が唯一心を許してかわいがっていた孫娘は、父親が仕事場を失うことを嫌がり、売却に反対します。
 彼女は猫可愛がりしてくれる祖父よりも、なにかにつけ自分を折檻する父親のほうを愛してしたのです。軽んじられた老人はより頑なになり、土地の売却を強行。しかし、売買契約を結んだ途端に孫娘はおもいがけない暴力をふるいだし、その姿に憎むべき娘婿の姿を見た老人は怒りに身を任せて彼女を殺してしまいます。
 直後、老人はかねてから弱っていた心臓が発作を起こし、臨死体験なのかなんなのか超現実的な光景を幻視します。そこで「怪物」を目撃するのです。



 ……白い空が水面に映っている小さい空き地。走るうちに、その場所は次第に大きくなり、突如、足もとにさざ波が寄せてくる水際の向こう、老人の目の前に、湖全体が堂々と拡がった。急に自分が泳げないこと、ボートを買ってなかったことを思い出した。両側の痩せた木々が、密度を増して、神秘的な暗い隊列を組み、水面を越えて遠くへ行進していゆくのが見えた。助けを求めてあたりを見まわしたが、人の気配はなく、となりにはただひとつ、巨大な黄色の怪物が、老人とおなじようにじっとして、土をむさぼり喰っていた。


――フラナリー・オコナー「森の景色」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 下』ちくま文庫

 この土を食む「巨大な黄色の怪物」とはブルドーザーを指します。アメリカ文学研究者の大久保良子いわく「メアリー・フォーチュン(注:孫娘の名前)のワンピースの色が黄色であることや、少女が怪物的な力で、父権的な父になろうとする祖父を攻撃したことを鑑みれば、黄色いブルドーザーと、黄色いワンピースのメアリー・フォーチュンとが、老人の目に重ね合わされて知覚されているといえ」*5るらしい。
 解釈はともかくとして、幻想的な風景の連続の果に突如として現れる巨大モンスターの姿は『ナイト・イン・ザ・ウッズ』における夢のシークエンスを思わせます。


 
 もうひとつは「An Afternoon in the Woods」。 初期作品である「七面鳥(The Turkey)」(1948)の最終改訂版に付された題名で、オコナーの生前に世へ出ることはなく、死後出版された『Collected Works』(1988)にようやく収録された作品です。
 主人公の名前*6や年齢など細かな違いはあるものの、「An Afternoon in the Woods」と「七面鳥」のプロットはほとんど同じです。*7
 主人公は十歳くらいの少年。彼は森で七面鳥を追いかけています。七面鳥を捕獲すれば、家族や町の人々が自分を褒めてくれるはず、問題を起こしてばかりの厄介者の兄とは違って価値ある人間だと証明できるはずーーそう考えてのことです。
 しかし苦労の甲斐なく七面鳥を逃してしまい、彼は神を呪うことばを吐きます。そうして森を出ようとしたところで、傷を負って死んでいる大きな七面鳥に出くわします。
 彼は喜び勇んで七面鳥を抱え、家への帰路につきます。ついでに神を呪ったことを埋め合わせるため、道中で出会った浮浪者に無理やり十セント硬貨を施したりもします。
 ところが、罪の意識を帳消しにして安心したのもつかの間、年長の少年たちの一団に出くわし、七面鳥を強奪されてしまいます。
 ラストの場面で、少年は後ろから「おそろしいなにものか」が迫ってくる恐怖をおぼえながら、必死で家まで駆け出します。



 足が動くようになった時には、少年たちはもうララーを一区画引き離していた。遠くなって、とうとう後ろ姿も見えなくなったことを、ララーは認めないわけにはゆかなかった。這うようにのろのろと家に向かった。四区画歩いたところでいきなり、もう暗くなってきているのに気がついて、走りだした。走って走って、家に向かう最後の曲がりかどまできた時、心臓が足の動きとおなじくらい早くなっていた。ララーにははっきりわかった。腕に力を入れ、今にもつかみかかろうと指をかまえて、おそろしいなにものかが後ろから迫ってきていた。


 ――フラナリー・オコナー七面鳥」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 上』ちくま文庫

 少年につかみかかろうとした「おそろしいなにものか」の正体は何なんなのか。森で悪態をついたときに少年がおそるおそる背後を確認する場面もありますが、そこにいるかもしれなかったのは神なのか、それとも他のなにかなのか。
 オコナーの最初期、修士論文として提出した六作品のなかでは「オコナーが後の作品で常に読者に問いかけてくる、神と人との関わりについて示唆」*8する部分が最も色濃い一篇です。
 タイトルの「An Afternoon in the Woods」は『Night in the Woods』の対になるとも読み取れます。果たして制作陣にどこまでその意識があったのか。


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 超越的な存在に対する信仰と不信のあいだで揺れ動くのは、メイだけではありません。『ナイト・イン・ザ・ウッズ』で最も宗教に近い人物ーー新任牧師のケイトもその一人です。神的な存在と邂逅し「私達が考える(親切な)神様なんて最初からいなくて、神様だと思っていたものは無慈悲で無関心ななにかなのではないか」と考えるようになったメイから「神様っていると思う?」と問いかけられ、ケイトは不信心な自分を告白をします。
「わからないの。調子のいい日は心から(神の存在を)信じられることもあるよ」。しかし、そうでない日はその実在を疑うこともある、と。「神様を信じるっていうのはある種のプロセスなの。毎日毎日、『今日も立ち直ってまた前に進もう』って自分に言い聞かせなきゃいけない」
 そんなケイト牧師に対し、メイは「自分が信じてないものを他人に信じろと言って回るのなんてウソじゃん。信じるのがあんたの『仕事』じゃん」と不実をなじります。
 ケイトは「確かに毎週みんなの前に立って『今回はこれだけ神様を信じられるようになりました』って数字にして報告できたらいいのかもね。でも、そうしたって誰が助かるの? 誰のためになるの?」
 ケイト牧師の信仰のゆらぎは、神への熱烈な愛を日記に書き綴りながらも一方で不安に陥っていた20代のオコナーの想起させます。


 この時代の空気を吸っていると、わたしは神への信仰と不信のはざまでいつも悩んでしまいます。常に信じることは困難です。ましてやこんな世界に生きているとなるとなおさらでしょう。わたしたちの中には、信仰を得るために一歩ずつ踏み出さなければならない人もいれば、信仰なしの人生がどんなものであって、究極的にそんな生活が可能かどうかを烈しく考え抜かなければならない人もいます。


ーーフラナリー・オコナー、”To John Hawkes,” The habit of being: Letters of Flannery O'connor

 ケイト牧師も牧師になる程度には神を信じている。教会にほとんど行かないメイより信仰心は強いでしょう。けれども、「こんな世界」に身を置いているとそんなケイト牧師ですら「常に信じること」が難しくなる。
 

 ケイト牧師は本作には珍しく、はっきりと善意で動いているキャラクターです。オコナー作品にたびたび見られる傲慢な”善人”とは違い、本気で他者を想いやっています。たとえば、教会近くの空き地に住み着いた浮浪者を見かねて教会の中で寝起きできるよう図ろうとする。が、町議会の反対に会って頓挫してしまいます。
 だれかを助け、ケアする。そんなシンプルなことさえ可能でなくなってしまうこの世界においてわたしたちは「何」なのか。そうした苛烈な問いかけをなげかけてくる点で、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーは姉妹のようなものだといえるのかもしれません。


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「なにも、世の終わりみたいなまねをすることはないだろう? この世は終わってないんだ。これからは新しい世界に生きて、これまでと違う現実に直面するんだよ。元気を出すんだ。それで死ぬようなことはないよ」


――フラナリー・オコナー「すべて上昇するものは一点に集まる」、横山貞子・訳、『フラナリー・オコナー全短編 下』ちくま文庫

 あんまりよくまとまらなかったな。


フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

*1:残念ながら、期待されていた steam 版の日本語化パッチはまだ来ない。プレイズムは独自の販売プラットフォームを持っているため、おそらく steam 版は出ないのではないか。やはり名作の誉れ高い『To the Moon』のときのように。

*2:スリー・ビルボード』と『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の原語版が同じ2017年にリリースされたのは全くの偶然ではない気がします。

*3:ベンソンはテキサスで、オコナーはジョージア

*4:ビーのね

*5:大久保良子「母なる子:フラナリー・オコナー「森の景色」における親子関係の撹乱」https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=7060&item_no=1&page_id=13&block_id=49

*6:七面鳥」ではララー(Ruller)、「An Afternoon〜」では Manley

*7:手元にないので、wikipediaを読むかぎりでは

*8:渡辺佳余子「フラナリー・オコナーの初期作品再読」http://www.tsc.ac.jp/library/bulletin/detail/pdf/38/y_watanabe.pdf

魔法の羽根としてのダンボーー実写リメイク版『ダンボ』に関する短い感想

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「ダンボ」日本版予告編


 ティム・バートン曰く「歪んだウォルト・ディズニー*1であるところの興行師ヴァンデヴァー(マイケル・キートン)が自身の経営する遊園地〈夢の国〉から偽物のフリークスたち*2を叩き出す。ダンボの属していた弱小サーカスから移籍してきた彼らは、ダンボというお目当てを手にしたヴァンデヴァーから邪魔な付属物としてお払い箱にされたのだ。

 
 解雇を通告されたフリークスたちはダンボのテントに集い、すやすやと睡る仔象を微笑みながら見つめ、それぞれに別れを惜しむ。

 このときダンボは単なるかわいいだけのゾウさんではない。本作においては単なるかわいいゾウであるで十二分な瞬間が山ほどあるけれども、映画を観て涙を流すにはかわいいだけでは足りはしない。


 わたしたちがあのシーンで泣いてしまうのは、ダンボが魔法そのものであり、希望の象徴だからだ。不完全で、不格好で、無力に見えても、ハンデと思われた特質を羽ばたくための翼に変えて自由に宙を舞う。ダンボの魔法を目の当たりにしたからこそ、フリークスたちは窮地にあっても絶望しない。

 そして、その魔法を信じるからこそ、ダンボの母親(ジャンボ)の救出劇に手を貸し、「本物」のフリークスとして自分たちの奇跡を顕す。

 オリジナルの『ダンボ』では、ダンボがティモシー(ネズミ)からカラスの羽根を「魔法の羽根だ」と吹き込まれたのを信じて飛んだ。

 ティム・バートンの『ダンボ』では、ダンボ自身が人々にとっての魔法の羽根になる。オリジナル版で徹底的にオミットされていた人間たち*3がリメイク版のメインをはったのは、けしてナラティブにおける親しみやすさの追及のみが目的ではない。

 
 フリークスのサーカス団員たち、そしてコリン・ファース演じる父子は、オリジナル版『ダンボ』を観た観客自身の映し身なのだ。

 かつて、わたしたちはセルアニメで描かれたダンボに自分を信じることの魔法を学んだ。おそらくはティム・バートンや脚本のエーレン・クルーガーもそうだっただろう。

 要するにリメイク版『ダンボ』とは、オリジナルへの感謝を形にした映画だ。その点で、これまでオリジナルの影をなぞって虚しいダンスを続けたり、変に現代っぽく仕立てようと挑んで見事オリジナルを台無しにしていたディズニーの一連の実写リメイクにあって、唯一といっていいオリジナリティと意義を有する作品となった。


ダンボ (吹替版)

ダンボ (吹替版)

*1:パンフレットのインタビューより

*2:サーカス団長のマックス・メディチ曰く

*3:サーカスの団長は常にテントの影となり、ピエロたちは化粧で素顔を隠す。黒人の作業員たちに至っては「人間」として扱われていなかった。

幻の漫画家 panpanya 先生は実在したッ!! 衝撃と慟哭の緊急サイン会レポ!

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panpanyaという漫画家は実在しない」
 と、母から教えられたのは小学校に入るか入らないか、とにかくそんな時分でした。


 そりゃあショックでしたよ。これまで信じてきた世界を突然崩されたのです。納得できるものではありません。
 当然、わたしは「じゃあこのマンガは誰が描いたの?」と『足摺り水族館』を指差して母を問い質しました。
 すると母は微笑んで(そう、大人が世間知らずの子どもを見下すときに浮かべるあの笑みです)、
「『楽園』のマンガはみんな位置原先生が描いてるのよ」
 と言います。


「えっ、じゃあ。イコルスンも?」
「そうよ」
黒咲練導も? kashmirも? シギサヤも?」
「全員そう」
鶴田謙二もなんだ……」
「エレキテ島が出ないのはそのせいね。忙しいから」
「そうか……すごいな……位置原先生は……」
 そう、位置原先生はすごい。位置原先生の新刊をみんな読もう。


先輩の顔も三度まで

先輩の顔も三度まで



 それから十年。

 京都で都のとろめきを惑わす不逞浪士たちを拷問にかける仕事に就いていたわたしは、 その業務中に思いがけず panpanya先生が京都でサイン会を開くという情報を手に入れました。
 実在しないはずの panpanya先生が……?
 矢も盾もたまらず罪人から無理やりサイン会の予約券をもぎ取り、乾きパサつく肌をひきずり、四月二十一日先勝、三条のアニメイトへ馳せ参じます。
 サイン会のうわさを聞きつけたのか、通りは世界各国から集結したサブカルおたく(見た目でわかる)たちで溢れていました。意気軒昂な彼ら彼女らは宮崎駿のアニメのように無数の個というよりはなめらかに統一・組織された群的な生命体となってメイトの階段へとなだれ込んでいき、それをメイトの店員たちが「もうだめだ」「ここで俺たちは死ぬんだ」「援軍はどうなっている」などと泣きわめきながらマスケット銃をやぶれかぶれに撃ちまくって押し返そうとしていました。
 わたしも用意したサイン用の本(『蟹に誘われて』)を弾避けにしながら血路を開き、なんとかメイトの出入り口へとたどり着きます。panpanya先生にはちょっとした防弾効果もあるのです。

 山積された死屍を踏み越えつつ、サイン会担当と思しき店員に今すぐ panpanya先生に会わせろと要求します。
 すると、店員はセルロイドめいたにこやかな顔で一枚の紙片を差し出し、「整理券です」という。
 聞けば、「整理券」とやらに記載されている時刻にまたメイトに戻ってこいというのです。予約券とはなんだったのか。
 いくら不条理でもルールはルールです。
 一時間後、わたしはふたたび屍山血河を乗り越え、メイト前に立ちます。
 そうして店員に「整理券」を渡すと、今度は別の紙片をよこして「整理券2です」とぬかす。
 言われるがままに「整理券2」に書かれた集合時刻に三度戻ってくると「整理券3」を渡される。
 さすがに何かがおかしい、と勘づいたわたしは、


 コラッ!!!!


 と店員を一喝しました。
 あんまりお客をバカにするんじゃないよ!
 
 すると店員は悪びれてるようなそうでないようなノリでぺろっと舌を出し、
「たはー、あいすいません。これもうちのもてなしというやつで」
 と言い訳しました。

 
 なるほど、京都名物のいけずと言われればもてなしのうちかもしれないな、とひとり合点しているあいだに店員に促され、会場内に入ります。
 予想はある程度していましたが、人がいっぱいです。いっぱいすぎます。
 なんというか、人を人として認識できないレベルでいっぱいです。なんというか形から人だと察しはつくのですが、それがふだんおもっているような人権を有した存在としての人と視るのがむつかしい。おぞましい別の何かに見える。時代が時代なら独裁者が生まれ、虐殺が起こり、統計学が完成していたことでしょう。

「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生サイン会の待機列はこちらです〜」
 
 会場内に店員の呼びかけが響きます。
 なに? なに先生だって?

「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生サイン会の待機列はこちらです〜」

 外に掲げてある看板を見るかぎり、本日ここでサイン会を催すのは panpanya先生のみ。
 ということは、「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生」とは panpanya先生を指しているのでしょうか。文脈的にそれしか考えられません。
 わたしは今まで panpanya先生のことを「ぱんぱんや」あるいは「ぱんぱにゃ」と読んできましたが、どうやら間違っていたようです。
 先生にお会いする前に気づけてよかった……
 
 
 待機列に並ぶと地獄の獄卒のような店員たちが「オラッ 本を用意しろッ」と客たちをしばきあげながら、ひとりひとりにペンを渡します。
 どうやら整理券(3)の裏にサイン本に付す為書き用の名前を書け、と言いたいらしい。
 わたしにペンを突き出してきた鬼はこう言いました。
「書いていただく姓か名か、どちらか一方を選べ! フルネームはNGだ!」
 なるほど、時短というやつですね。 
「ちなみに漢字かひらがなか、どっちかに限る。カタカナはダメだ!」
 ……??? 先生はカタカナアレルギーなのでしょうか?
 書き終わってペンを返却し、鬼は待機列の後ろに人にまたペンを渡して、同じような注意をがなりたてます。
「ちなみにカタカナか漢字か、どっちかに限る。ひらがなはダメだ!」
 ……??? さっきと言ってることが違う?
「ちなみにカタカナかひらがなか、どっちかに限る。漢字はダメだ!」
「ちなみにアルファベットか漢字か、どっちかに限る。ローマ字はダメだ!」
「ちなみにイヌかネコか、どっちかに限る。オオサンショウウオはダメだ!」

 
 列が進みます。進行方向の終端には灰色のカーテンに仕切られたスペースが設置してあり、その向こうに先生がいらっしゃることが見て取られました。
 本当にいるのかな、とこの期に及んで疑念を棄てきれません。
 ときどき、メイトの本棚のあいだから巨大な蛇がぬっと飛び出してきて、待機列のファンをぱくりとひとのみして去っていきます。
 サインももらえないうちに蛇に食べられるのはいやだなあ、とおもいましたが、この日は幸い食べられずにすみました。実はちょっとヤバい場面もあったのです。蛇がちろりと舌を出し、味見のつもりなのかわたしの頬を舐めてきて、「ぬめっててまずっ!」とそっぽを向いて退散したのです。あぶなかった。

 
 列はさらに進みます。
 ようやく先生とのご対面です。
 店員が上げてくれたカーテンをくぐり、秘密のヴェールの深奥へと至ります。
 そこにいた panpanya先生は……

 まさしく作品に「わたし」として出てくるキャラそのものの、ショートカットのかわいらしい少女でした。
 先生のとなりにはイヌのレオナルドまでいます。
「ほんとうにまんがの通りだ……」
 おもわず感嘆すると、先生は照れ気味に「よくいわれます」と頭をかきました。


 感無量の心地で本を差し出し、サインをいただきます。
 わたしは基本サイン会の場では喋らないひとですし、先生もサインに添えるイラストをお描きになるので忙しく、特に会話もなく進行していたのですが、シャイなわたしを慮ってくれたのかレオナルドがいろいろなことばをかけてくれました。

「どのあたりから先生の本を読みはじめられたんですか」
「『足摺り水族館』のころからですね」
「ほう、どこでお知りに?」
「先輩が『すごい漫画がある』とガケ書房に連れてってくれて……」


足摺り水族館

足摺り水族館

 
 話すと思い出がよみがえり、知らず目尻に涙が溜まってきます。
 そのあいだにも先生は魔術師のような手際で美麗な線を描き出していきます。

 レオナルドは質問をつづけます。

「今日はどちらからいらしたんですか?」

 無口な客に対するサイン会での常套質問です。

「川から来ました」

「へえ、川。ここまでは大変じゃありませんでしたか。オオサンショウウオなのに」

 オオサンショウウオのわたしは、ベタつく頬をぺしぺし叩きながら嘘をつきました。

「そんなでも」

 そこで先生から「はい、できましたよ。どうぞ」とサイン本を渡されました。

 描いてくださったのは、川のほとりで踊り狂うオオサンショウウオの絵でした。


 わたしは久正人先生サイン会以来の満足をおぼえつつ、同じくサイン会に参加していた後輩のウーパールーパーと合流し、三条の人気ジェラートハウス「SUGITORA」に入りました。味はまあ普通なのですが、虎をフィーチャーしたマスコットが可愛い名店です。

www.sugitora.com

 
 わたしたちはジェラートをつつきながら、サイン会について語らいました。
 よかった。
 ほんとうによかった。
 信じていてほんとうによかった……と。
 信じれば漫画家はかならず具現化するのだ……。


「よかった」を唱えつづけて三十回を超えたころ、わたしの電話が鳴り出します。
 とってみると、母からでした。
 わたしは誇らしい気持ちで、母に panpanya先生の実在を報告しました。
 母は大して興味なさそうに「そう、よかったね」と返し、「ところで」と話題を変えます。
 
「ゴールデン・ウィークは何をするつもり?」

 深甚な問いかけです。わたしはしばし考え、「年を取ろうかとおもっています」と告げました。
 しばらくは川に戻りたくない気分でした。
 しばらくのあいだは……。

蟹に誘われて

蟹に誘われて

第十回創元SF短編賞の思い出。

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(撮影:織戸久貴)神戸の異人館(英国館)にて。

 トリガー警告。
 この世における三大どうでもいい話といえば、他人が昨日見た夢、他人の書いた小説、他人の幸福、ですが、この記事にはそれらがすべて含まれます。
 私事で恐縮ですが、残念だったな、このブログには私事しかないよ。







 あの小説のなかで集まろう


 ーースチャダラパー「ET UP AND DANCE」




 シロクマは予想してなかった、とクラスの誰もが口をそろえる。まして回せるとは想像もしなかった。


 ーー「回転する動物の静止点」*1



 あれから、いろいろございまして。


www.tsogen.co.jp


 拙作「回転する動物の静止点」(千葉集名義)が宮内悠介賞をいただきました。
 選考委員の皆さまがた、東京創元社編集部の方々、友人各位に心より御礼申し上げます。
 正賞のトキオ・アマサワさん、優秀賞の斧田小夜さん、そして日下三蔵賞の谷林守さんの御三方にもお祝い申し上げます。


 宮内先生は(自分としては珍しく)デビュー短篇集『盤上の夜』から好きで追ってきた作家で、ある種のゲーム的勝負を扱った小説、それも架空の謎ゲーム小説*2を出そうと思ったのも、ゲスト審査員に先生のお名前があったのも少なからず影響しているようにおもいます。*3重ねて感謝を捧げます。


 みなさんも激おもしろアメリカマイノリティ×VRセラピー文学『カブールの園』を読もうな。姉文学の名作「半地下」も同時収録されている。ああいうふうに遠くへ行けたらなとおもうよね。明日には新作も出ますよ。*4


カブールの園

カブールの園

偶然の聖地

偶然の聖地




 ちなみに「回転する動物の静止点」(以下、「回転動物」)の内容ですが、ええっと、京都のとある小学校内で動物をコマのように回してガチらせるあそびが流行る話です。
 そうですね。ジーン・シェパードの「スカット・ファーカスと魔性のマライア」ですね。*5どうぶつ版ベイブレードですね。シカとかシロクマとかが回ります。書く前に織戸久貴先生*6にコンセプトだけ話したら「どうぶつタワーバトル?」と言われました。そういう理解でいいです。
 タイトルはハイスミス経由エリオット行です。エピグラフはパラニュークです。犯人は加速主義者です。ドノソの『別荘』です。姉です。亡霊です。動物です。映画です。漫画です。聖書です。スポーツ史です。人間です。その他諸々のすてきなものぜんぶです。あとはそう、ダンス……すなわちダンス(®矢部嵩)。
 でも一番影響受けたのは法月綸太郎の『北米探偵小説論』(野崎六助)文庫解説かもしれない。あるいは『おかしなガムボール』。


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(撮影:織戸久貴) 同じく最終選考に残った織戸氏と選考委員会からの連絡の電話を待っていたときにふたりで観ていた『リズと青い鳥』の一場面。いま映画館でやってる『誓いのフィナーレ』のあとだと完全にホラーのシーンですね。


 SFを十全にしてこなかったお前がなぜいきなりSFの賞に送ったのか、という疑問もあろうかとおもわれます。人が人を殺したり、学校に行けなくなったりするのと同様に動機は複合的なんですけれど、だいたいパーソナルなことなので詳述はさけます。しかし直接にはたぶんこれです。


proxia.hateblo.jp

 

 で、「回転動物」を今後どこで読めるかというと。

 特別賞はスペシャルメンション的なアレなので商業での活字化はアレがナニらしく、いわゆる同人的なルートで出すことになろうかと思われます。最近流行りのディープパブリッシングアンダーグラウンドってやつですね。

 折良く昨年より織戸久貴氏と〈ストレンジ・フィクションズ〉なる文芸創作サークルを立ち上げておりまして、そちらのほうで織戸氏の百合スメルSF(らしい)「あたらしい海」と合わせて〈第十回創元SF短編賞最終候補ミニアンソロ(仮)〉的なものを編む方向で進んでいます。
 〈ストレンジ・フィクションズ〉本誌とは別の、文庫サイズの本になる予定です。なればいいなとおもっています。

 ちなみに織戸氏とは別に、今回の最終候補組からもう一方加わる予定です。つまり、(たぶん)三人分の最終候補作が読める。お得ですね。年内には出せるといいよね。

 なにかしらで固まったら、またご報告します。

 報告する用の twitterアカウントも作りました。

twitter.com


 既存のやつとダブルで持つ意味が今んとこ「スクリーンネームを変えたくない」以外にないので近い内に消えるかもしれない。
 


 アッ、あとBOOTHで〈ストレンジ・フィクションズ〉から出した『異色作家短篇集リミックス』の電子版を引きつづき販売しております。来月の21日前後までの期間限定販売です。

strange-fictions.booth.pm


 わたしが寄せた「象が地下鉄東西線に体当たり」は、「回転動物」と同じ本(若島正篇『異色作家短編集18 狼の一族 アンソロジーアメリカ篇』)をネタ元にしていて、こう例えておけば言葉づらの通りがいいので例えておきますが、双子のような存在です。あわせて読んでおくといいことがあるかもしれません。同人誌製作費の赤字分が減るとかね。
 もちろん、他にも織戸氏の作品や豪華ゲスト陣の寄稿もあって読み応え抜群じゃよ。詳しい内容は以下。


proxia.hateblo.jp



 ああ、あと昨日見た夢の話しなきゃですね。

 また「あの夢」を見ました。



 今回は以上です。おつかれさまでした。今後ともご愛顧のほど、よろしくお願いします。


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(撮影:織戸久貴) 電話がかかってきたときに画面に映っていた画。
*7

*1:メモに残ってたやつのたぶん初稿

*2:今どうしても思い浮かべてしまうのは「トランジスタ技術の圧縮」

*3:というか「回転動物」読み返すと影響しか受けてない気がする。

*4:さっき kindle見たらもう配信されてた

*5:残念ながら話はぜんぜん違う

*6:第九回創元SF短編賞大森望賞受賞者で、第十回とわたしと同じく最終候補に残った

*7:結局どちらも特別賞ということで鎧塚みぞれにはなれず、黄前久美子と久石奏になった

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