(Phantom Thread、ポール・トーマス・アンダーソン監督、2017年、米)
(本記事はあらすじをほぼすべて割っています)
神へと捧げられた七つの編み込みのある、金髪と赤毛の重い髪の房が彼女の左手に握られているが、その髪にはそれまで一度もかみそりが当てられたことがなく、そこには今まで誰も抗えなかった英雄の男性的な力が潜んでいた。
両刃を開いたままの鋏がデリラの右手で光っている。
――パスカル・キニャール「デリラ」
「ファントム・スレッド」90秒予告編
はじまりは、暖炉からの熾火にほのかに照らされる女性の顔。その表情は穏やかでありつつも自信に満ちている。アルマという名のその女性は、画面外で耳をそばだてているのであろう「観客」に向かってこう語る。
「レイノルズは私の夢を叶えてくれた。そして、私も彼が欲しがっていたものを与えてあげたの」
「欲しがっていたもの?」
「私のすべて(Every piece of me.)」
断片化された人間のあらゆる部分をついばむのが『リズと青い鳥』の愛だとすれば、『ファントム・スレッド』はすべてを与えることこそ愛だと宣言する。すべてとは何か。生だ。
観客の前に初めて姿をあらわすとき、主役の一流デザイナー、レイノルズ・ウッドコックは文字通り顔をさらしている。
シェービングクリームをたっぷりつけてひげを剃る姿はあからさまな男性性のアピールであると同時に、レイノルズという人間が身だしなみに気を使う「ファッションの人」であること、そして寝起きの時間をひげ剃り、髪のセット、靴磨きなどの自分自身のことにしか使わない自己中心的な人物であることも示す。姉のシリルは、弟が身なりをととのえているあいだ、姉弟の城である「ハウス・オブ・ウッドコック」をオープンするための手続き(窓を開けたり、お針子や客を出迎えたり)の一切を仕切っている。
姉が空間を仕切り、弟が服を作る。いちおう愛人のような形で専属のモデルが同居しているけれども、彼女は名もなきお針子たち同様に服を支配するレイノルズの年季奴隷にすぎない。そうやって彼らの家(ハウス)は調和している。
専属モデルは定期的に入れ替わる。まるでモードに合わなくなった古い服が無造作に脱ぎ捨てられるようして。
ディナーに訪れた行きつけのレストランで姉は弟を諭す。「ジョアンナのことはどうしましょうか。私はかわいい娘だけれど、ちかごろちょっと肥ってきたし、あなたとよりを戻せるのを座って待っているだけだわ」
そうして、ジョアンナと呼ばれる専属モデルはハウスから追い出されることが決定される。レイノルズにはどうでもいいことのようで、うわのそらだ。ジョアンナは一切に言及せず、唐突に母との思い出を語りだす。
「最近、ママのことばかり思い出すんだ……よく夢に見る……彼女の匂いがして……私たちの近くにいるんだと強く感じる」
母。匂い。どちらも重要なキーワードだ。だが、とりあえずシリルは弟に田舎のカントリーハウスでの休暇を勧め、弟は単身車で出かける。そこでヒロインと出会う。
レイノルズが朝食をとりにきたベッド&ブレックファストに、アルマはウェイトレスとして勤めていた。彼女はテーブルにぶつかっては騒がしい音を鳴らし、注文を取るためにテーブルからテーブルへとせわしなく動く。後にその騒々しさと too much movent を責めるにもかかわらず、このときのレイノルズは彼女のたたずまいに惹かれる。ジョアンナとの最後の朝食で「朝は胃にもたれるものは食べたくない」と刺々しく言い放ったくせに、平日の朝食とイングリッシュブレックファストの違いはあるにしても、アルマにはベーコンやソーセージ、クリームやバターの乗ったスコーンといったこってりした料理を注文する。
レイノルズはその場でアルマをディナーに誘う。アルマはレイノルズに一枚の紙切れを手渡す。そこにはこう書かれてある。「はらべこぼうや(Hungry boy)へ。私の名前はアルマよ」。*1彼女が「はらべこぼうやに食事を与える存在」として登場したことを覚えておきたい。すくなくとも舞台となった五十年代、ぼうやに料理を作ってあげるのは母親の役目であったことも。
夜、初デートのディナーでレイノルズは赤いドレスに身を包んだアルマに「君は君のお母さんに似ているか」と尋ね*2、母親の写真を持っているなら常に肌身離さず持ち歩け、と奇妙な助言を行う。意味深なことばだけれども、アルマから「あなたのお母様は今どちらに?」と聞き返されて彼はもっと奇妙なことを言い出す。
「彼女はここに――いま着ているコートの芯地*3にいる」
芯地にはコインやささやかなメッセージ*4といった「秘密」を編み込むことができ、レイノルズの場合は母親の遺髪をコートに織り込んでいるという。
母親を常に身につけているのだという。「彼女が私に商売を教えてくれた。だから、いつも離さないようにしているんだよ」
この母親こそレイノルズにとっての「ファントム・スレッド」、まぼろしの糸だ。もともとは徹夜続きで働くお針子が疲労のあまりに糸の幻覚を見てしまうことを指しての慣用表現*5で、プロダクション作業でも割合後半になってつけられたこのタイトルは多様な解釈をさそう。*6ここでは母親(の亡霊、すなわちファントム)ということにしておこう。
序盤におけるレイノルズのセリフは、かなりの部分、母親にまつわる事柄でしめられている。ワインスタイン騒動を経たわたしたちにとって*7、レイノルズの独善的で女性蔑視的な態度は嫌悪感をもよおさせる。しかし彼の「男性的」な唯我独尊、あるいは支配欲はアメリカ映画でよく描かれる家父長的なパターナリズムとは若干異なる。子供っぽさの裏返しというよりも、ストレートに子供っぽい。母親に庇護されたわがままな子どもの気難しさに似ている。*8
レイノルズと亡き母親との関係について、ポール・トーマス・アンダーソン監督は『タイムアウト』誌でのインタビューでこんな風に言及している。
――本作におけるレイノルズを「病んだ男性性(toxic masculinity*9)」と形容する向きもありますが*10
PTA:「病んだ男性性」とは現代的な言いまわしだね。そう呼んでもいいとは思う。しかし、むしろ「子供のまま身体だけ大きくなってしまった大人」*11と言ったほうがよりふさわしいかな。母親に溺愛されて育った息子が、大人になっても子どもっぽいふるまいを続けていたらどうなるか? という話だ。
https://www.timeout.com/london/film/does-daniel-use-emojis-no-hes-got-a-flip-phone-paul-thomas-anderson-on-phantom-thread
アルマをカントリーハウスに連れ込んだレイノルズはアルマに母親*12の写真を見せる。ウエディングドレスを着た肖像だ。十六歳だったレイノルズは再婚する母親のために自らの手で白無垢のドレスを誂えたという。アルマは尋ねる。「そのドレスは今どこに?」「さあ……どこだろうね。灰になってしまったのかも。散り散り(pieces)になってしまったのかも」
話題はレイノルズの結婚観へと移る。
「言い切ってもいいが、私は一生結婚しないよ。断固として独身を貫く。結婚は私を惑わすだろう。心を乱されるのはきらいだ」
アルマはレイノルズの強がりを見抜く。「あなたは強がっているだけね」
レイノルズは意地を張る。「強がってはいないさ。ほんとうに強いんだ……他人の期待や憶測など頭痛のタネにしかならない」
ポール・トーマス・アンダーソンの言う「この映画の最も重要なポイント」――「自分中心で愛には興味のない男が、究極的に愛で満たされ、誰かを必要とし、頼ることを知る」*13に至るまでの予兆が示される。アルマはレイノルズに欠けている「何か」を知っている。ジョアンナのようなレイノルズの愛を「待っているだけ」だったこれまでの専属モデルたちとは一線を画している。
だが、最初はレイノルズに支配権がある。レイノルズはアルマを仕事部屋に連れ込んで肌着一枚に剥く。シリルが遅れてやってきて、初対面のアルマに近づいて匂いを嗅ぐ。「サンダルウッド、ローズウォーター、シェリー……それにレモンジュース?」「ディナーに魚料理を食べたので……」
彼女はにおいをまとっている。
姉弟はアルマの採寸を始める。
一個の人間における身体の支配権が剥奪されていく、実にエキサイティングなシーンだ。
ポーズを指定し、身体をバラバラの pieces に切り分け、その長さを数字に変換する。モノとなってしまったアルマの身体はもはやアルマのものではない。それを再構築する権限はデザイナーであるレイノルズにのみ与えられてしまった。
「ちゃんと普通に立って」レイノルズはアルマに命じる。
「普通に立ってますけど……」「さっきみたいに」「さっきみたいって言われても」「まっすぐ立って」「まっすぐ?」「そう、そういうふうに」「はあ、なら初めからそう言ってください」
レイノルズは姿勢を掌握するだけは飽き足らない。
「君は胸がないね」
「ええ、知ってます」
自分の胸囲の不足について謝るアルマにレイノルズは、
「いやいや、君は完璧だよ。私の仕事は君の胸をふくらませることだ――私が望んだ場合には」
身体の動作のみならず、身体そのものの改造権まで握ってしまう。機械的に告げられた数字をノートに書き記していくシリル*14の不気味さもあいまって、ほとんど暴力的な光景だ。とはいえ、採寸のあいだ中アルマが見せている不遜な物言いや表情は、彼女が単に唯々諾々と姉弟の「ハウス」に飲み込まれていかないことを予告してもいる。
アルマの身体を奪ったレイノルズは、「ハウス」(シリルの支配領域だ)の一室を与えることで空間をも制限し、そして時間をも奪う。
「おやすみなさい。明日は早めに仕事を始めるよ」
「何時ごろに?」
「私が起こしてあげる」
そうして、彼女たびたび夜も明けきらない早朝に叩きおこされるはめになる。
身体、空間、時間を取られてしまったアルマはしかし不思議と気高く在る。
あまつさえ、レイノルズの服に「わたしはあんまり好きじゃない。布地が主張しすぎる」とケチをつけたりもする。レイノルズは「これは正しいから正しいんだ」とアルマの意見を聞き入れない。「たぶん、きみの趣味(taste)もいつかは変わるさ」
アルマも口ごたえする。「たぶん、変わらないかも」
レイノルズはふきげんそうに「たぶん、君は趣味が悪いんだね」
アルマは反駁する。「たぶん、わたしにはわたしの趣味があるのかも」
味覚(taste)が最終的に変わるのはどちらかを知っていれば、実に興味深い会話だ。彼女の好み(taste)を奪うことだけはレイノルズにもできない。
次にアルマの taste が色濃く出るのは、朝食のシーンだ。ジョアンナがいたときの冒頭のように、窓を背にして正面にレイノルズ、左手にシリル、右手にアルマが座る。三角の構図の三角関係。
レイノルズがなにより静穏を求めるこのテーブルで、アルマはざりざりと妙に大きな音を立ててトーストにバターを塗る。手元に集中したいレイノルズの耳に障る。「おねがいだから、そんなに動かないでくれるか(Please, don’t move so much)」
そんなに動いてない、と反論するアルマをさえぎって「It's too much movement. It's entirely too much
movement at breakfast.」と繰り返す。*15元はと言えばアルマが move too much だったからこそ、レイノルズは彼女を発見できたというのにこのときはその動きの多さが気に入らない。
シリルは着付けのときに弟を擁護したときのように、「朝食は別々に取るべきかもしれないわね。彼はルーティンを乱されるのがきらいなの」とアルマに手厳しくあたる。
狂騒じみた新作お披露目ショーを終え、レイノルズはアルマとカントリーハウスでの休暇に向かおうと車に乗りこむ。しかし、精根尽き果ててしまった彼は運転ができない。じりじりとズームでアルマの顔ににじり寄っていくカメラが何かを予感を孕みつつ、アルマは「運転、代わらせて」と申し出る。
ボイスオーバーでアルマはショーを終えた直後のレイノルズの状態をこう表する。「まるで……まるで子どもみたいなの。甘やかされてダメになった赤ちゃんみたい。こういうときの彼はとてもやさしくて、素直なの。数日そんな状態が続いて、また彼は元気を取り戻す」
元気な彼とは、不遜な彼であるということだ。復調したレイノルズは初めてアルマを採寸した部屋で仕事を再開する。アルマは彼にお茶を持っていくが、不機嫌に拒絶される。*16
カントリーハウスでアルマはキノコ採りにでかけ、お手伝さんと調理する。
「ヒダがついたキノコには毒がありますよ」とお手伝さんは言う。それと、キノコを料理するときにバターを入れすぎないことも。「ミスター・ウッドコックはバターを入れすぎるのが大きらいですからね」
レイノルズの taste を熟知したアルマは、もう動きすぎない。微かな音すら立てずに朝食のトーストにバターを塗る姿に、シリルは目を瞠る。
レイノルズは富豪であるバーバラの服を仕立てる。ドミニカのあやしげな美男子と再婚する彼女の結婚式に招待を受けるが、あまり気乗りがしない。
服を仕立てたのち、バーバラは再婚を告知する記者会見に出る。記者から、夫はバーバラの財産目当てで結婚したのではないか、という質問が飛ぶが夫は否定する。「では、バーバラさん、あなたは新しい夫の人生に何をもたらしたのですか?」
彼女は答える。「誠実さよ」
自分がレイノルズのドレスにふさわしくないことを知っている彼女は、自分がウソをついていることも知っている。しかし、それでもレイノルズのドレスを着てパーティに出ることをやめられない。
レイノルズはアルマとともにバーバラのパーティに出席する。晴れの席で狂態を見せるバーバラを見かねたアルマは憤然として「彼女は『ハウス・オブ・ウッドコック』のドレスにふさわしくない」と、酔いつぶれて眠るバーバラからドレスを剥ぎ取りに向かう。
バーバラから剥いだ緑色のドレスをかついで、ふたりは夜の街をはしゃぎながら駆ける。
「ありがとう、愛してる」とレイノルズはアルマに言う。
完璧にレイノルズと通じ合ったかに思われたアルマに、またもや危機が訪れる。ベルギーの王女が結婚式のためにウエディングドレスを仕立てにやってきたのだ。レイノルズの母のときのような白無垢のドレスを。レイノルズと親しげに振る舞う王女に、アルマは何とはなしに心を乱される。彼女の知らない彼はいったいどれだけいるのだろう。
王女が帰った後、アルマはシリルのオフィスを訪れ、「レイノルズのためにサプライズパーティーがしたい」と申し出る。
レイノルズの性格を知り抜いた姉は強硬に反対する。だが、アルマも強硬に決行を宣言する。ここまで生活を共にしてきて、アルマも彼の taste を知らないはずはない。レイノルズがサプライズを嫌うと知った上で、「自分のやりかたで彼を愛したい」と言う。「わたしは自分のやりかたで彼を知る必要があるんです」
アルマはひとり「ハウス」に残ってレイノルズを待ち構える。レイノルズとの最初のデートを彷彿とさせる赤いドレスを身に着け、本来は彼のポジションであるはずの階段の上から彼を見下ろして出迎える。
サプライズにレイノルズは戸惑うものの、しぶしぶ付き合って彼女の手作りのディナーを一緒に囲む。ワイングラスにそそいだ飲み物(炭酸水?)にはレモンの輪切りが浮かべてある。初デートのおもいでのにおい。アルマは出会いを再演しようとしている。
前菜はアスパラガスのバターソース。レイノルズはこれみよがしに卓上の塩をふりかけて齧る。アルマは尋ねる。「おいしい?」。レイノルズはぶっきらぼうに「そうだな」と答える。
アルマは「いえ、嘘だわ。あなたはちっともおいしいとは思っていない。いつもなら感想をつけくわえるはず」と言う。
レイノルズも負けてはいない。「私がアスパラガスをオイルと塩で食べるってことは知ってただろ」
味付け(taste)の主導権争いをめぐる衝突は取り返しのつかないところまでいく。
「何が望みだっていうんだ、アルマ」
「私はあなたとの時間が欲しいだけなの。私だけのあなたとの時間を。私とあなたの間には何かが……距離があるわ」
レイノルズにはわからない。
「こんなくだらないことよりもっと他のことに私の時間を使いたいんだ。私の時間、私の時間だ!」
アルマもキレる。「あなたの時間に私は何をやっているんでしょうね? いったいここで何を? ただ立って、馬鹿みたいに待つだけ」
「待つ、って何をだ?」
「あなたがここから私を追い出すのを待っている。だから、そう言って。出て行けと言ってれれば、バカみたいに立ち尽くさなくてすむ。なんでそんなに私に冷たいの。なんでそんなひどいことを私に言うの」
「ここは私の家か? 私の家だよな? まるで知らない外国に放り込まれた気分だ。敵の国境を越えた場所に」
こうした時間と空間と食を巡る激しい応酬の後、アルマはナプキンをレイノルズに投げつけて去っていく。
翌朝、彼女は「ヒダのついた」キノコを潰して、レイノルズ専用の急須に混入させる。毒はじわじわと効いていき、完成したベルギーの王女のウエディングドレスを検分するころには立っていられなくなる。
自室で昏倒していたレイノルズをアルマはベッドに横たえる。レイノルズやシリルに部屋から出るように言われても、彼女は断固として居座ろうとする。レイノルズが倒れているあいだ、一時的にアルマが空間を支配する。
どうも病気の原因に勘付いているようすのシリルはアルマの反対を押し切って医師ハーディを呼ぶものの、レイノルズは診察を拒否して追い出してしまう。
二階のベッドでねむるレイノルズの真下では、シリルやお針子たちがレイノルズが昏倒としたときに台無しにしてしまったウエディングドレスを大急ぎで直している。アルマはお針子のひとりに「何かわたしにできることは?」と尋ね、ドレスのすそをピンでとめておく作業をたのまれる。ハウスで「待っているだけ」だった彼女は本来レイノルズの領域である服に自分もかかわれてうれしそうだ。
一方熱にうなされるレイノルズは部屋の片隅に母親の幻影を見る。
「ここにいるのかい? いつもここにいたのかい? 母さんがいなくてさみしいよ。いつも母さんのことばかり考えていた。ぼくの名前を呼ぶ母さんの声を夢に聴くんだ。目覚めると、涙が頬にこぼれている。さみしいよ。ただそれだけなんだ。なんて言ってるの、聞こえないよ……」
開いた扉が母親の幻影を遮るようにして、アルマが現れる。このとき、レイノルズは彼女こそ母親の代わりにさみしさを埋めてくれる存在だと確信する。
アルマはレイノルズに慈母のように語りかける。
「熱は下がったみたいね」
「愛してるよ、アルマ。君なしではもう生きられない。愛してる」
全快した翌朝、修復されたウエディングドレスの横でアルマは眠り込んでいる。レイノルズは彼女の足に口づけをしてやさしく起こす。*17
「やりたいことがたくさんある。自分の歳月は無限だと考えていたけれど、そうじゃないと気づいた……。変化のない家は死の家だ。アルマ、私と結婚してくれるかい?」
こうして、「ハウス」は変化する。亡霊に支配されたレイノルズの支配するハウスはたしかに「死の家」だったのかもしれない。毎日毎日常に同じルーチーンを繰り返すレイノルズは静かに腐敗していっていた。この後、レイノルズは客離れを結婚のせいにするけれども、彼のデザイナーとしての創造力の衰えは実は結婚前から兆していた。彼は、王女に捧げるドレスを前にして彼はお針子たちの縫製を讃えながらも、「でもこれはダメだ……醜い……」とつぶやいて倒れたのではなかったか。
病の床に伏せったことで、レイノルズは無限に続くと思っていた日々にも終わりが来ると悟った。死を意識した。肉体的な、あるいはデザイナーとしての精神的な死を回避するために彼にとっての永遠の象徴である母親の写し身であるアルマと結婚しようと決めたのだった。
しかし、結婚するとやはりアルマは「ハウス」からはみ出すふるまいを見せる。
新婚旅行先のアルプスで、アルマはレイノルズを置いて一人でスキーツアーに出かけ、一度は収まっていたバター塗りの悪癖も再発して、スープもズーズーとやかましく飲む。二人で訪れたパーティでは、アルマはドクター・ハーディとイチャついてレイノルズを不愉快にさせ、食後のバックギャモンでは逆にレイノルズに負かされたアルマが機嫌をそこねて会場を飛び出す。
大晦日もレイノルズは家で過ごしたがるが、アルマは新年のパーティに出たいと言って一人で家を出る。残されたレイノルズは仕事が手につかなくなり、ドアの前でうろうろしながら彼女の帰りを待つ。親の帰りを待ち望む子どものように、今度は彼が「待つ側」になってしまう。
もはや「ハウス」は彼にとっての安住の地ではない。アルマそのものがレイノルズの求める空間になってしまっている。母親の髪の毛は肌身離さずに持ち歩けるけれども、アルマはなぜかレイノルズの手元から離れていってしまう。安心するための結婚が、逆に彼を不安に陥れる。彼はアルマを追いかける。
数日後、シリルのオフィスを訪れたレイノルズはある常連客*18が「ファッショナブルでシックな服」を求めて、「ハウス」から離れたと聞かされ、キレる。
情緒不安定な彼はシリルに「仕事にならないんだ。集中できない。自信をなくしてしまった。助けてくれ」と乞う。
「”彼女”はこの家にはふさわしく(fit)ない。私たちふたりで築き上げたこの「ハウス」を、今や彼女がしゃちゃかめっちゃかに乱してしまっている。彼女は私たちを仲違いさせようとしている。すべてを影で覆ってしまうんだ、シリル」
自らの規律を重んじるレイノルズにとって労働者階級の移民*19でなにかにつけハウス・オブ・ウッドコックの型からはみ出してしまうアルマは、耐え難かった。そんな彼女に母親の面影を重ねて結婚してしまったことを「とんでもない間違いだった」と悔やむのだった。
アルマはレイノルズの訴えを彼の背後で黙って聴いている。
「この家には静かな死の空気が漂っている。いやな臭い(smell)だ」
シリルのオフィスを追い出されたアルマはふたたび毒キノコを摘みにいく。
今度はレイノルズの眼の前で調理する。毒キノコをバラバラの pieces に切り刻んで、たっぷりのバターで炒める。溶き卵が茶色く濁るほどの量のバターだ。レイノルズの好まない量のバターだ。
アルマの料理姿を覗き見るレイノルズは既に何かに気づいている。
きのこ入りのオムレツが完成する。
「お水はいる?」
アルマはこれみよがしにジョボジョボと音をたててコップに水をいれる。
オムレツを供されたレイノルズは最初に何をするか。皿を持ち上げて、たっぷりとにおいを嗅ぐ。
そうしてアルマを見つめながら、あるいはアルマに睨めつけられながら、口に含んでゆっくりと咀嚼する。彼女の taste を愉しげに受け容れる。
求婚のときに「変化がない家は死の家だ」と言ってアルマを迎え入れたレイノルズは、姉に対してはアルマこそ家に充満している死の臭いの発生源だと告発した。停滞が死なのか、変化が死なのか。どちらもだ。停滞と変化のあいだ、生と死のあいだを行き来することでレイノルズはやっと生きることができる。ファッションのモードが変化した瞬間に停滞を孕み、停滞が変化を呼ぶように。
だから、アルマは小さなこどもに言い聞かせるように語りかける。
「あなたには倒れていてほしい。無力に。おだやかに。素直に。私にしか助けられないように。そしてまた力強く立ち上がってほしい。あなたは死なない。たとえ死を願おうと、あなたは死なない」
レイノルズは笑みを浮かべる。「倒れる前に、キスをして」
アルマは暖炉のそばで膝枕の態勢になってレイノルズの頭をやさしく撫でる。
「私はあなたのドレスを管理する。埃と亡霊と時からあなたのドレスを守ってあげる」
「そうだな、でも今のところは、僕たちはここにいる」
「そう、ここにいる」
「お腹がすいたよ」
かつてレイノルズの所有物だったドレスは、アルマの管理下に置かれる。もうレイノルズは母親の亡霊を幻視することはないだろう。アルマが亡霊から守ってあげているから。二十年後には彼の肉体とともにオートクチュール業界もに朽ち果てるはずであるけれども、彼が死をおそれることはないだろう。アルマが時から守ってあげているから。彼が飢えて死ぬこともないだろう。アルマがいつでも食べさせてあげるから。
もはや「ハウス」は姉弟の家ではない。母に「私が死んだら、弟の面倒を見るのよ」と言われて*20自分なりに母親の代理を演じてきたシリルには、夫婦の子ども*21のゆりかごを揺らす程度の役目しか与えられない。一方でかつては服を着せるマネキンの仕事くらいしかなかったアルマは活き活きと「ハウス」を駆け回って、彼女の taste でもって服を管理する。
管理といえば、映画全体の語りを握っているのもまたアルマであることを思い出しておきたい。本作は物語本編における時間軸の外部に位置する語り手によって語られる、いわゆる「枠物語(frame story)」の形式をとる。「枠」を握っているのは最初から彼女だったのであり、いくらレイノルズが「彼女はここにフィットしない」と言い募ったところで見当違いだったのだ。
出会ったときにはレイノルズの側が支配していたはずの空間・時間・身体が、いつのまにかアルマの手中に収まっている。ポール・トーマス・アンダーソン自身が述べているように、「これは自己中心的な男を解体するヒロインの物語」*22なのだろう。子どもっぽい男によっておもちゃのように pieces に分解された女が、男を解体仕返す。バラバラになったふたりは互いにしだれかかるようにして、織り糸を交錯させて、ふたりのドレスを仕立て上げる。
アルマはレイノルズに死を味合わせることで生を与えた。*23
レイノルズと彼の芸術は永遠に死なない。アルマがそういうふうに語ることを望むかぎりは。