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困難さを物語ることについて:『Celeste』のレビュー



 たったこの25メートルを攀るためだけに/これまでの20年間はあったのではないか
 こんなことはもう二度と/できないだろう
 もう何も/俺の中には残っていない
 気力とか体力とか言葉で言いあらわせるもの/じゃなく 言いあらわせないものまですべて/この攀りに使ってしまった
 そして手に入れたのが あとひと晩か数時間/生きてもいいという権利だ


 神がとか幸運がとは言わない
 このおれがその権利を手に入れたのだ


 作・夢枕獏、画・谷口ジロー神々の山嶺



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www.youtube.com


困難な読書という物語体験


 ゲームだけが読み進めることの困難さを物語に組みこめるのではないか。


 なるほど、他の媒体でも文体その他の変化によって体感時間を操作することはできるかもしれません。しかし,受け手の細かい挫折をあられもない形で物語に同期させることができるのは、ゲームの有する高度なインタラクティブ性以外にはありえない。

 celeste はそれに気づきました。



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 celeste は山に登る話です。鬱とパニック障害を抱えた女性がいくつかのステージに分かれた雪山を踏破するうち、自分の内面と向き合い、それを克服していきます。自分探しの一種、といえるかもしれません。擬人化された自分の心と闇と戦い、乗り越える。そんなあらすじや劇中交わされるセリフだけ取れば、凡庸な印象しか受けないかもしれません。

 しかし、そうした平凡なプロットが、死に覚えプラットフォームアクションゲーム*1というジャンルと、開発者マット・ソーソンによる巧みな演出と組み合わさったとき、じつに深い物語体験をプレイヤーにもたらしてくれるのです。


死に覚えプラットフォームアクションとはなにか

 死に覚えプラットフォームアクション。聞きなれないジャンルかもしれませんが、それもそのはずで、わたしがいまさっきてきとうに付けたジャンル名です。

 super meat boy、BitTrip Runner、They Bleed Pixels、Ori and the Blind Forest、The End is Nigh、そしてCuphead といった「ステージクリアのロジックを覚えるために、そのステージで何度も死ぬことが前提とされる」タイプのゲームを個人的にそうくくっています。これらは他のプラットフォームアクション、たとえばマリオやカービィなどと違って、初見でステージをクリアするのが不可能である場合がほとんどです。が、繰り返される死はテレビゲーム黎明期のアクションパズルによくあったような理不尽な難易度によるものではなくて、正解のルートをゼロから探り出すべく費やされる明瞭で意義深い死です。

 ステージ開始時にはほとんど無限だった選択肢が十数度、時には数十度の試行錯誤の後、たった一本のシンプルな動線に収斂する。その正解した線をなぞるときの昂揚感は無類です。
 ゲームは、努力が必ず報われる数少ない現実のひとつですが、死に覚えプラットフォームアクションでは失敗が必ず成果となって報われます。しかも経験値は画面上のステータスなどには反映されず、プレイヤー自身の身体に蓄積されるため、達成したときの「自分でやった」感がデカい。

 で、自力本願の成功体験そのものがプレイヤーにとっての「物語」になるためか、死に覚えプラットフォームアクションでは、ゲーム上において濃厚なストーリーが語られることはほとんどありません。あったとしても、それこそマリオ的な「お姫様が悪人にさらわれた」程度の薄さにとどまることが多いです。上記で挙げた死に覚えプラットフォームアクションも、サイレント映画的とさえいってもよいほどに言語性をそぎおとしたものが大勢を占めます。
 

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死を繰り返すことによって生まれる物語体験

 celeste も、表面上は、そうした定型の範疇からそれほど逸脱していないようにおもわれます。プレイ中に展開されるキャラたちのセリフ量は、死に覚えプラットフォームアクションとしてはたしかに異例です。
 ですが、たとえばRPGなどのテキスト量や物語の厚みとは比べものにならないほど簡素です。スピーディさを求められる死に覚えプラットフォームではしょうがないことといえましょう。おそらく、「このジャンルで詰められるテキストはこれくらいが限界ではないか」という開発者の計算がはたらいたのではないでしょうか。
 
 その代わりに、開発者たちはストーリーをアクションやマップデザインの演出によって補いました。
 たとえば、ライバル的な敵キャラが、はじめは「主人公を追いかけ、追い詰めていく存在」として登場するのに、クライマックスでは逆に「主人公に追いかけられる存在」になる。この反転はストーリーと連動しているのみならず、その敵キャラが主人公にとってどういう人間であるか、そして本作の物語的テーマを考えたさいに無間の奥行きを与えてくれます。
 また、途中でマップが茨だらけのステージが登場するのですが、これもそのときの主人公の心情と関係しています。
 そして、作中で繰り返し用いられる上昇と下降のアクション。特に「一度底まで叩き落された主人公が自力で一歩ずつ這い上がっていく」くだりや、「自身の弱さと『手を繋いで』上昇していく」演出は気の抜けない操作に没入している間隙をすりぬけて、プレイヤーの胸を打ちます。*2


ですが、何よりゲームのストーリーと密接にからみあうのは「何度も失敗する(死ぬ)」という死に覚えプラットフォームアクションの特性そのものでしょう。
 たったひとつの段差に登るために、五回死ぬ。あるいは十回死ぬ。ようやくその段差にたどりついても、その次の段差へ至る過程でまた死に、セグメントを最初からやりなおすはめになる。三歩進んで二歩下がり、時には三歩進んで三歩戻される。そのあいだ、表面上のストーリーは一歩も進行しません。

 不毛な挑戦を繰り返すうち、疑問が生じます。自分は進んでいるのか? このやり方で、このルートであっているのか? もしかしたら、今こうして死に続けているのは何もかも無駄で、自分は永久にこのゲームをクリアできない運命にあるのではないか? 自分には無理なのではないか?
 
 その瞬間において、超克すべき対象は実は動く足場やプレイヤーを妨害してくる邪悪な雑魚敵などではありません。
 自分のなかに芽生えた疑い、自分自身の弱さです。
 そのとき、プレイヤーと本作の主人公の敵が一致します。わたしたちは「彼女」に同期し、「彼女」の物語はわたしたちの物語になります。プロットのレベルでも、心のレベルでも、です。
 だからこそ、登りきったときの感動がなにものにも代えがたい。


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 ちなみに、このゲームではゲーム中に死亡した回数も記録されます。*3ステージごとの最小死亡回数ではなく、純粋な総死亡回数。普通のプレイヤーは自分が「失敗した」回数など見たくもないもので、死に覚えプラットフォームアクションとはそうした俗世の数字を超越した彼岸に至るトリップ体験を志向するものです。
 なのに、celeste では見せる。あなたはこのステージで165回死にました。全面クリアまでに1387回死にました。そんな不快な事実をプレイヤーの眼前に叩きつける。


 なぜなのか。
 開発者のマット・ソーソンは「死亡回数表示をプレイヤーがそのステージにつぎ込んだ労力を反映させるためのものにしたかったから」だと述べています。

そう、celeste は「つぎ込んだ労力を反映する」数字を見て嬉しさをおぼえるタイプのゲームなのです。本作のおいて「失敗した数」とは、前に進もうと試みた回数を表すのであり、そしてプレイヤーがそれだけ挑んだ自分を誇れるようにデザインされています。
 あなたは1000回失敗した。それでも、やり遂げたのだ。無言でそう褒めてくれるのです。
 嫌味なく褒めてくれるゲームはそうありません。作業的なレベル上げを繰り返してボスを倒して「よくやった!」と祝福されてもなんだか微妙な気持ちになりはしませんか? 
 celeste の嫌味のなさを支えているのは繊細なレベルデザインでしょう。三歩進んで二歩下がるも、実はそれ以上は後退しないように巧みに配慮されたロジカルなステージ。学習する気力さえあれば、チートモードに頼らずとも大多数のプレイヤーがクリアできるような難易度。
 「自力でやってのけた!」というわたしたちの達成感は、開発チームの手のひらでの満足なわけですが、そうした高度なデザインを実現したゲームがどれだけあるでしょうか。


 他にも称えるべき要素はいくつもあります。ローファイでありながらも温かみのあるグラフィック、繰り返しプレイの障りにならず常に心をなごませてくれる音楽、プレイヤーのチャレンジを誘うやりこみ要素……
 まさしく、2018年でもceleste(天上)級に数えられるインディーゲームではないでしょうか。




――何故山に登るのか
 何故 生きるのか
 そんな問いも答えも/ゴミのように消えて
 蒼天に身体を意識が突き抜ける
(中略)
 天と地との境目につづく天の廊下だ
 マウントエヴェレストへと向かう一本の雪の廊下


作・夢枕獏、画・谷口ジロー神々の山嶺

*1:プラットフォームゲームとはまあざっくりスーパーマリオとかドンキーコングみたいなアクションゲームを指すジャンルです

*2:おそらく、この「キャラ操作に集中している最中にストーリーを語られる」手法が ign JAPAN のレビューで否定的に取られてしまった原因なのでしょう。http://jp.ign.com/celeste/21506/review/celeste

*3:ステージごとに記録される細やかさ


きみはどこで死ぬのか。:『minit』のレビュー


 『Minit』は六十秒ごとに死ぬ『ゼルダの伝説』タイプのゲームだ。


Análisis Minit PC | MeriStation.com


 それは一般に「コチッ」「カチッ」だとか、「チックタック」だとかいう擬音であらわされる。

 一六九〇年にジョン・フロイヤーが史上初めて時計の機構に秒針を組みこんだのは、神々のさだめた時を測るためでなくて、人間の生命の時間、すなわち脈拍を測るためだった。だから、いま、あなたが聞いているそれは生命が削られていく音だ。
 血管が脈打つたびに、秒針が刻まれるごとに、なにかが減衰していく。わたしたちは限られた拍動回数のなかで精一杯有益な、あるいは無駄な生をやりすごすしかない。目の前にパズルを用意されていたとして、解法をさぐる途中で絶えてしまうかもしれない。道筋が見えた瞬間に絶えてしまうかもしれない。そもそもそこにパズルなど存在しなかったと悟って絶えてしまうかもしれない。すべては無駄だったのかもしれない。


 有意義な生とは何かを学びたいのなら、『Minit』をやろう。



Minit - Teaser Trailer



 ベッドの上で目覚めると、白黒のドット絵世界でイヌとくらすさびしいたまごっちもどきのあなたである。
 家の北方では草木が繁茂して人の侵入を拒み、東には川の激流、西はやはり通行不可のくさむら、そして南に広がるのは海という名の行き止まり。あなたはまるで『大人は判ってくれない』のラストシーンみたいに、どこにも行けない。ただ、時間だけが無意味に無限だ。


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 手持ち無沙汰なあなたは、浜辺に散歩へ出かける。低ビットの描写能力では表現しがたい砂を踏みふみぶらついていると、波打ち際に見慣れぬ物体が漂着しているのを認める。拾う。剣である。テレビゲームの誕生以来、数々の魔を払ってきた「どうのつるぎ」。
 その重さと秘められた隠喩を噛みしめる間もなく、画面の左上でカウントダウンが開始される。数字は六十から一秒ごとに一つずつ無機質に減っていく。すさまじい不吉さを放っている。あなたはどうにかすべきだと直感するものの、どうすることもできない。


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「のろわれた どうのつるぎ を ひろってしまったのかい?」

 振りかえると見知らぬ男。『アドベンチャータイム』か『FEZ』の登場人物のような簡素で計り知れない顔つきをしている。彼は言う。

「はやく こうじょう へ いって すててきな」


 あなたは物語を理解する。『指輪物語』のヴァリエーション。呪われた剣を拾って呪いを受けたこの身を救うために工場とやらに行き、おそらくはボスを斃してハッピーエンドを手に入れなければならない。それがゲームの目的だ。では、ルールは? この上の数字は?

 カウントが〇を示す。

 あなたは死ぬ。

 当然だ。それ以外の結末があるとでも? 
 
 あなたはふたたびベッドの上で起きあがる。かたわらにはイヌ。見慣れた室内。
 ひとつだけ、以前と違う風景が混じっている。
 剣だ。あなたはXボタンを押すと剣をふるえるようになっている。

 いや、もうひとつ。
 六十からはじまるカウントダウン。あなたの余命を告げる処刑機械。
 
 あなたは恐怖に突き動かされ、鬱蒼と茂るくさむらを剣で払いながら冒険に出る。剣を手に入れることで拡張されたあなたの世界は、新たなアイテムを手に入れることでさらに広がっていくことだろう。
 ただ、次の一歩へ踏み出すための過程で、あなたは何十回と死ぬことになるかもしれない。なにせ制限時間は六十秒しかないのだ。たった一人の証言を聞くために、たったひとつのアイテムを手に入れるために、あっけなく死んでいく。かげろうよりも細い生命の糸が切れるたび、あなたはあの家に呼び戻されるだろう。かたわらにはイヌ。そして、増えたアイテム。蓄えられた経験。「この回の人生」は、おそらく前回のそれよりも効率的で有意義だという確信があなたには宿っている。
 たった一秒差で届かなかった「次」への段差を、こんどこそはしっかりと踏む。すべてを手に入れるためではなく、たった一歩前に進むためだけに今回の六十秒はあるのだ。
 

 そうした圧縮のすえに、ふと人生に余白が生じる。
 もしかしたら、今回の冒険は四十五秒しか、かからないかもしれない。
 残された十五秒では次のステップのあしがかりにもならない。自殺ボタンを押してさっさと次の冒険に向かうのもいいかもしれない。けれど、あなたはもうひとつの選択肢を取る。つまり、余生をすごす。死に場所を探す。

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 あなたは、カニだけが遊ぶ浜で地平を見つめながらその瞬間を迎える。
 あなたは、果てのない真っ暗な砂漠で孤独に倒れてその瞬間を迎える。
 あなたは、汚染された川岸で彼らの怨嗟を聞きつつその瞬間を迎える。
 あなたは あなたの愛したイヌをかたわらに抱いてその瞬間を迎える。

 どこで死ぬかだけはあなたの自由だ。ストーリーは一本道だが、死に方は八百万通り存在する。『Minit』の旅は、人生の最後の一秒における居場所を探す旅だ。周囲に広がっているのは3Dウォーキングシミュレーターのような美麗な現実の模写ではなくて、どこまでいっても代わり映えのしない白と黒の点のあつまりだけれど、すくなくとも六十秒ごとにあなたの喪に服してくれる配色ではある。


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八百万の死にざま (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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言葉の一致と感情の不一致について:『リズと青い鳥』についての覚書

(『リズと青い鳥』、山田尚子監督、2018年、日本。ネタバレを含みますが、そこまで詳細にはやらない)



山田:そうですね。物語は、ハッピーエンドがいいよ……。


――劇場版パンフレットより



『リズと青い鳥』本予告 60秒ver.


リズと青い鳥』を語ることの不可能について

 本来的に映画には意味のないカットなどひとつもなく、どんな空虚にも凝視すれば浮かぶだけのなにかがある。そして現代映画の術理は意味のゴールドディガーたちを誘導するために高度に洗練されてきたのであって、大概の作品において、わたしたちは一度観ればメジャーな構成要素にアタリをつけることができます。それは観る側のスキルというよりも、制作する側の親切心です。ここにこういうものがあるんだよ、と強調してくれる側の歩みよりです。
 親切ではない映画には二つのタイプが考えられます。ひとつはガイドの役割を意図的に放棄し、要素を隠そうとする虚無の映画。もうひとつは過剰なまでに要素を投入し、それらを「親切に」もすべて可視化してしまった混沌の映画。
 前者は上でも述べたように凝視の努力で超克できる。しかし後者は観ようとすればするほどちかちかとフリッキングしてめまいを呼び、あなたをするりと呑みこむでしょう。特に細部を積み立てることで全体の感想を組もうとするタイプの観客は、あまりの情報量の多さに対処しきれない。『リズと青い鳥』とはそうしたカオスの究極です。

 拾うことのできる細部(すなわち反復、構図、対比、ライティング、寓意、表情、動作)が無際限に置かれているのではありません。拾うべき細部が無際限に存在するのです。分析以前に、人間にゆるされた記憶容量ではとてもおぼえきれるものではありません。「『リズ鳥』のすべてを解読した!」と主張する人がいるとしたら、その人は嘘つき村出身の嘘つき太郎か、リズ鳥を百回観てあたまがおかしくなった狂人か、記憶を司る女神ムネーモシュネーでありあらゆる芸術の母かです。
 

 あるいはソフトが出れば、カットごとに一時停止&メモを取ってこの混沌に抗することができるかもしれません。だからそれまで、口をつぐむべきかもしれない。ただ祭壇を崇めつつ、リズ鳥に関して語られるあらゆる言説を信用しないでいるほうがいいかもしれない。

 しかし好きになってしまった以上は「好き」と口に出さないとどうしようもない、という気持ちがあります。「好き」と口に出す以上はどこの何が好きか言わねばいけません。無限のすべてを好きになってしまったのであれば、個々の要素をどれだけ並べても結局無限そのものの輪郭を描けないジレンマがあるわけですが、それでも鎧塚みぞれはがんばったんだから、わたしたちもがんばっていきましょう。


感情という名の歯車の運動

 前置きが長くなりました。
 『リズと青い鳥』における言葉の一致と気持ちの不一致の話をします。

 各種インタビューを読んでいると、言語的なコミュニケーションに対する山田尚子の絶望のふかさにおどろかされます。



山田:「みんな理解してもらいたくて生きてるんだな」というか「でも、思いのほかみんな身勝手に物事を理解しているな」というのでしょうか。なので、「自分の好きな相手には好きでいて欲しいということが実は届かないもの」であったりとか、そうですね……「やっぱり心っていうのはすれ違うもんだな」というのが「言葉っていうのはいくら尽くしても伝わらないもんだな」とか、いやいや全然絶望感まみれの話ではないんです(笑)。だからこそ希望が持てるというか、伝えたいし、伝われ!と思うし、思いを諦めないために物事って伝わらないものなのかな?と思うぐらい、なんかそういうチグハグ感が今回は大事だったのかなと思います。多分最後の最後まで会話って噛み合ってないんですよ。


http://tokushu.eiga-log.com/interview/6632.html


 山田尚子はアクションの作家です。作劇上必要な情報、特に感情のゆれや気持ちのゆらぎを観客に伝える際にはまずセリフよりも運動に頼る。それはサイレント時代からの昏い野望を継いだ映画作家的な芸術主義的な感性によるものではなくて、インタビューを信頼するならば、言語的なコミュニケーションに対する徹底した不信によるものです。
 結果として、『リズと青い鳥』では言葉と気持ち、言葉と運動が幾度となくズレを生じさせています。*1そのズレは鎧塚みぞれにとって希望の皮をかぶった絶望として出現します。すくなくとも、観てる側には絶望にしかみえません。
 ところが山田尚子はそれを希望と呼びます。



山田:希美の存在が自分の世界だと思っているみぞれが、希美に抱いている「好き」の形と、希美がみぞれに対して抱いている「好き」の形がどうしても噛み合わない、思うことの形の違いを丁寧に掘り下げていく作品になっています。お互いに好きではあるし、興味を持たずにはいられない関係ですが、その形がどうも噛み合わない……でも、それは決してすれ違っているだけではないと思うんです。例えば、大きさの違う歯車同士がある一瞬動きが重なるような、そういった二人が重なる瞬間を希望的に描きたいと思いました。


http://liz-bluebird.com/interview/


 
 冒頭の音楽室での早練のシーン。教室で希美とみぞれでふたりっきり。それぞれの楽器を準備しているときに、ふいにみぞれが「うれしい」というセリフをもらします。ほんとうに脈絡なく出てくるセリフなので解釈は色々あると思いますが*2、希美は「(作中作の児童文学で、それを元にした課題曲である)「リズと青い鳥」を演奏会で弾けてうれしい」のだと解釈して、「わたしもうれしい」と反応します。みぞれは「リズと青い鳥」の原作を知らないうえに「演奏会なんて一生来なければいい」と考えているので明らかに間違った受け取り方なのですが、それでも希美が「わたしもうれしい」と言った瞬間、みぞれの眼はかがやきます。
 希美も「みぞれと一緒にいれてうれしい」と一瞬でも思ってしまったからで、これもまたすれちがいなのですが、でもその気持ちは本物だ。
 これも「大きさの違う歯車同士がある一瞬動きが重なるような、そういった二人が重なる瞬間を希望的に描」いたうちなのでしょうが、一瞬と呼ぶのすらためらわれるような刹那の重なりで、本作は以後ずっとこうしたシーンが積み重ねられていきます。ふたりのやりとりに照らして「disjont」という単語を挿入する山田尚子のいじわるさは闇と形容する以外にありません。

 
 余談ですが、「一瞬動きが重なるような、そういった二人の重なる瞬間」は劇中では抽象的な水彩表現でもたびたび示されます。この手法と意識は劇伴担当の牛尾憲輔とも共有されていたようで、



山田:牛尾さんと話す前に「希美とみぞれの関係をどう描こうかな」と考えて出た一つが「デカルコマニー」ということばだったんですね。水の上とかにインクを垂らして、それを紙に転写して絵をつくる絵画の技法です。垂らしたインクでできた模様と転写された側の絵柄は似ているけれど同じにはならない……それを希美とみぞれを描くのに落とし込んでいこうと思ってます、と牛尾さんに話したらすごく面白い、とおっしゃって。五線譜の上にインクをポタポタ垂らして、それを音符に見立てて音楽をつくっておられました。


https://eonet.jp/zing/articles/_4101959.html

 この「似ているけれど同じはならない」関係がまさに希美とみぞれの気持ちと言葉である、ということに素朴ながら留意していただければ。



 つぎにふたりの言葉が一致して気持ちがすれちがうのが、進路選択のシーン。「希美の行くところに行く」と決めているみぞれ(狂ってる……)は進路調査票を白紙で提出したものの、彼女の音楽の才能を見込まれて先生から音大のパンフを渡されます。もちろん、その時点でみぞれに音大に進むつもりなどないわけですが、みぞれの抱えたパンフを(奪い取って)見た希美*3は「みぞれ音大行くんだ。私も受けようかな」と言い出します。
 このときもみぞれの眼は「うれしい」発言のおなじようにかがやきます。自分の進路と希美の進路が「音大」という単語で一致したこと、自分が音大に進むからと希美もそこを希望してくれたこと、それがたまらなく嬉しい。
 いっぽうで、希美が音大受験をいい出したのは、みぞれがそこに進学するからでもフルートが大好きだからでもないのですが、それがまだみぞれにはわからない。わからないまま、希望だけを見つめています。
 ここから二人の距離が開いていきます。

 そのズレがやがて糸のように切れるのが、「リズと青い鳥」の人物関係と希美とみぞれの対応関係についての解釈が逆転する場面。
 異なる場所にいる希美とみぞれのセリフがシンクロしていき、左右二分割された画面で顔とセリフが重なります。最高潮にふたりのセリフと気持ちが一致した劇中類のない場面ですが、残酷にも離れたふたりは自分たちの解釈が一致した事実を知りません。物語の解釈が一致したことでふたりのズレは埋まるのか。埋まりません。


 みぞれが合同練習で「本気の音」を出したあとに、希美に告白するシーン。*4希美がみぞれに対して妬み深い自分の醜さを吐露したあと、みぞれはそれでも「あなたはわたしのすべてなの」と抱きついて、「大好き」なところを羅列します。絵ヅラのエモ具合にもかかわらず、抱きつかれている最中に眼を宙にやって*5茫洋としている希美の表情はほとんどホラーじみていますが、それでもやっと「私はみぞれのオーボエが好き」とだけ絞り出したあと、笑いだします。

 音楽室での「うれしい」のときのように、ここで「わたしはあなたの○○が好き」というセリフが一致します。恋愛映画であれば、相思相愛、ということになる感動的なシーンでしょう。しかし、みぞれが希美の身体的特徴など希美自身につながる「好き」をあげているのにたいして、希美はみぞれの使っている道具しか「好き」と言えない。
 希美とみぞれでは「好き」の量も質も違う。笑っちゃうぐらいに、なにもかも違う。
 前出のインタビューでいうところの「希美の存在が自分の世界だと思っているみぞれが、希美に抱いている「好き」の形と、希美がみぞれに対して抱いている「好き」の形がどうしても噛み合わない、思うことの形の違い」が表出しているところです。
 それでも「好き」ということば自体は噛み合っている。その刹那のつながりがふたりのコミュニケーションになります。
 このシーンの前に来る「本気の音」のシーンで示唆されているように、希美とみぞれはズレている状態が自然です。そのズレの具体値をふたりは告白シーンで認識します。だからこそ、ある種のあきらめにつながるのでしょう。
 

 ラスト、ふたりは(山田監督のいうところの「鳥かご」である)校舎をはじめて出て、並んで歩きます。みぞれが希美をフォローし、その背中を見つめる存在であることについてはまた別の機会にのべたいとおもいますが、急いで付言しておくならば、本作において「横並び」に歩くことは非常に重要です。



山田:希美とみぞれの関係は、映画ではある終わり方をしますが、ただその関係性がずっとそのままなわけじゃない。いろいろと逆転する部分もあるけれど、まだまだこれからどっちがどっちにもなりうる、とも思ったんです。同じ場所にいてどちらかが前に行くこともあるけど、それでも横並びに歩いていけるような関係に描こうと気をつけていました。


https://eonet.jp/zing/articles/_4101959.html

 


 噛み合う瞬間が奇跡ですらある世界観において、「横並びに歩ける」ことや「二人の視線が合う」(パンフより)こと自体、祝福なのです。
 横並びで歩くシーンはわずかしか続かず、また二人にとってのいつもの配置に戻ります。が、今度こそ言葉がきちんと重なる瞬間がやってくるのです。*6みぞれが「ハッピーアイスクリーム」と叫んだあとに「disjoint」の文字が挿入されるのは、単に雰囲気によるものではありません。
 ラストカットでふたりの視線の関係が覆されるに至っては、それまで巧妙に積み重ねてきた視線のズレによるストレスを一挙に解放した巨大なカタルシスが押し寄せてきて言葉にならない……。



いわゆる山尚の闇について

 山田尚子は『聲の形』のときにこんなことを語っていました。



山田:この作品では、“世界が美しくあること”というのは特に意識しました。みんなとても真剣に悩んでいるし、明日の一歩を踏み出すのすら辛そうな子たちばかり。でもすごく一生懸命に生きている。そんな彼らの悩みを肯定したいと思ったし、たくさん悩みがあっても、世の中には青空があるし、花も咲く。彼らを包む世界は、美しく優しくあってほしいと思ったんです。


(リンク切れ)http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/hwchannel_20160916_4549604?p=2)

 鳥かごとしての学校、という抑圧的な舞台を選んでいるにもかかわらず、「世界が美しくあること」の意識は前作から継承されているとおもいます。
 『リズと青い鳥』は一般的な意味でのハッピーエンドの物語ではありません。「横並び」になれたとはいえ希美とみぞれの関係はズレを抱えたままでしょうし、今後も九十九%のズレと一%の歯車の噛み合いを繰り返して生きていくのでしょう。しかし山田尚子の世界観ではそうした関係も美しい世界の一部なのです。おたがい百%の気持ちをぶつけあったからといって、それが百%の理想につながっていくのか、という青春フィクションのアンチ的な意図もこめられているのかもしれません。(込められてないかもしれません)
 しかし、必然的な気持ちのズレと相互理解の不可能を宿命づけられたこの世界において、歯車をまわし続けて通じ合えると錯覚しうる一瞬を求め続けていくこと、それこそが希望なのです。他のフィクションに比べて、リアルのそれに近い感覚だとおもいます。


 フィクションでフィクションの希望をうたわずに、現実にねざした希望を描こうとする山田尚子は闇側の人間ある、とわたしの知る人はいいます。結局はものごとをどういう側面でとらえるかの話で、それでもわたしたちはその大いなる闇が、ひとしずくであまねく天地を照らす光を育てるための養分なのだと信仰したい。わたしたちは「山尚の闇」を主張する一派に屈してはならない。いつかどこかで、歯車が噛み合って希望という名の光を生む瞬間が訪れるのですから。
 だから、山尚を追いなさい。フォローしなさい。「いいえ、止めても無駄です。わたしは異国のひとを慕い、その後を追います*7


 山尚を信じましょう。


 視線のズレと背中を追うことについての話は次にすると思います。次があれば。


*1:ズレといえば本作で最も重要なズレは視線のズレと位置のズレですが、今回はその話はしません。

*2:一番妥当なのは「(これまで色々あったけれど大好きな)希美といっしょにふたりで練習できてうれしい」というシンプルな解釈でしょうか

*3:ここで二人の位置交換が行われるのも興味深い

*4:夕日の陽光がみぞれを照らし、影が希美を覆う、すさまじくいわじるな対比の構図

*5:冒頭の登校シーンからずっと希美は「見上げる人」として描かれ、その視線が彼女自身の感情のゆれとともにゆらぎだします

*6:わたしは普段、あまり音に注目した見方をしないのですが、パンフの監督インタビューによるとこの場面では「二人の足音も偶然重なった」そうで、神の御業はこのような現象を指すのだな、とおもいました

*7:エレミヤ書 第二章 第二十五節

背中、背中を追うこと、そして孤独。:『リズと青い鳥』についての覚書その2

proxia.hateblo.jp


蹴りたくはない背中

 真正面から抱き合う。なんと残酷な態勢なんだろうとおもいます。なぜなら、抱き合っている瞬間、ふたりの視線はすれ違わざるをえない。ハグは最高の愛情表現であると同時に、互いを最も遠くから見る(あるいは最も近いふたりが見えなくなる)行為なのです。
 そういうエモいことばからはじめていきましょう。拾っていきましょう。
 長いですが、特に総論的な結論とかはありません。ただ冗長なだけ。

 
 今回、拾うのは主に「背中」です。あるいは背中を見る視線。そして、背後から追いかける動き。向き合う二者の手前側人物の肩ごしになめるショットは数えません。*1


 みぞれは序盤からのぞみの背中を追うものとして描かれます。
 冒頭、校門で先に待っていたはずのみぞれが、学校前の階段を登るときにはいつのまにか順番がいれかわって希美の後ろについています。
 階段を登る途中*2でみぞれの視点へと切り替わり、希美の首筋を映します。ここで、だしぬけに希美がしゃがみこんで青い羽根を拾うわけですが、後にも示される「上から下への運動をする希美」がここに現れています。 

 ともあれ、希美が青い羽根を拾うシーンは大事です。

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 希美は手を上へ伸ばし、拾った羽根を空に透かして眺めやる。みぞれのカメラアイは希美の背中から青い羽根へと垂直にパンする。大空をバックに羽根がゆらめくさまは、「青空を映した湖のよう」というリズが青い鳥の青さを評したことば*3を想起させます。
 ここでは、ちょっとしたミスリードがしかけられています。「青い羽根をもつ希美=青い鳥を空へと見送るみぞれ=リズ」の図式が、このシーンに込められているように見えるのです。
 が、話はそう単純でもなくて、羽根を掲げている希美は実は「空の羽根を見上げる側の人間」ともいえます。*4

 (作中作の)リズ鳥とのぞみぞの対応関係にかんしては諸説あります。物語的には、希美=リズ、みぞれ=青い鳥のシンプルな図式で通りそうなものです。たしかにある程度までは、そう解釈したほうが明瞭におもわれます。
 たとえば希美は拾った青い羽根をすぐにみぞれへと渡す。*5これによりみぞれは「青」を手に入れるのですが、では希美はリズに対応する色の何を持っているというのか。腕時計です。劇中で幾度となくクローズアップされるピンク色の腕時計がリズのピンクのスカートに対応しています。*6*7
 それに視線も基本的にみぞれがうつむきがちなのに対し、希美は見上げがち。そして、(後に説明しますが)「上から下へ」のカメラパンが希美に、「下から上へ」のカメラパンがみぞれに紐付けられていることを考えると、リズ=希美、青い鳥=みぞれでよさそうなものですが……。
 
 では瞳の色は? 希美は青い瞳、みぞれはピンクの瞳を有しています。これにはまだリズ希美&鳥みぞれ説を押し通せるだけの余地はあって、たとえば瞳は他者を映す鏡のような器官ですと言い張ることができる。みぞれの瞳のピンク色は希美を反射した色であり、逆もまたしかりなのです、と。

 それでも構図を拾い集めていくと、いちがいにリズ希美&鳥みぞれ説だけが正しいとも思えなくなってきます。主人公ふたりの主観的にはリズ=みぞれ、鳥=希美だったのが途中で反転する、というプロットなのでこんがらがるのもいたしかたないですが、順序の問題に帰するのも違う気がします。これは何も山尚という太陽を凝視しすぎて目が潰れたせいばかりでなくて、インタビューでもこういうことが言われていて、


 希美とみぞれの関係は、映画ではある終わり方をしますが、ただその関係性がずっとそのままなわけじゃない。いろいろと逆転する部分もあるけれど、まだまだこれからどっちがどっちにもなりうる、とも思ったんです。同じ場所にいてどちらかが前に行くこともあるけど、それでも横並びに歩いていけるような関係に描こうと気をつけていました。


https://eonet.jp/zing/articles/_4101959.html

 どっちがどっちにもなりうる。とりあえずは、この言葉を胸にとめて、あるいは忘れて、やっていきましょう。背中を見ていきましょう。


ゆでたまご先生、音楽室にあらわる。

 校舎内でみぞれは希美の軌跡を徹底的になぞります。希美が下駄箱のかどに手をふれながら廊下に出たら、みぞれも下駄箱にツツと触れますし、希美が水飲み場で水を飲んだらみぞれも従います。みぞれが希美の背中を追う存在であることが徹底されます。
 そして、校舎内の階段を希美が二段飛ばしであがっていき、踊り場からの折り返しの階段から下にいるみぞれを見降ろす。このとき、目が合う。この「上から下」を見降ろす希美と、「下から上」へと見上げるみぞれの図も、やはりリズ鳥の対応関係について観客を惑わすカットです。
 希美が先に階段を上がりきり、まだ登っている途中のみぞれからは希美の足元、黒いソックスだけが覗きます。みぞれは階段を上がった先の廊下でもう一回、後ろからソックスを眺めやる。そこから昔の希美との登校風景を回想する。
 うつむきがちなみぞれはまず黒いソックスで希美を認識します。

 音楽室の前まで来たみぞれは鍵を差しこみ、一瞬、回すのをためらいます。なぜか。このとき、みぞれと希美は横並びになっているからです。その貴重さを彼女は知っている。ですが、解錠します。すると、そそくさと希美はポニーテールをゆらしながら教室へと入っていく。その背中の無情さ。*8

 音楽室で「リズ鳥」の話になり、希美は原作を知らないみぞれのために図書室から借りた絵本版を譜面台に広げて、みぞれと肩を寄せ合って読もうとします。この本を広げようとするところで、正面を向いたふたりの顔のアップが一画面内におさまりますが、奥行きは微妙にズレていて、みぞれが奥、希美が手前になります。顔をあからめたみぞれの視界に入っているのは、おそらく希美の後頭部。この何気ない構図はラストカットで反復され、さらにもうワンアクションが加わることで劇的な効果を生みます。

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 そうして、「リズと青い鳥」の第三楽章を吹いてタイトルが出る。それぞれフルートとオーボエを鳴らすふたりの背中が、他に誰もいない音楽室の後方から捉えられます。
 この場合の横並び、希美とふたりっきりでの練習風景はまあ、みぞれにとっては「うれしい」とつい漏れてしまうぐらいにはこれ以上望むべくもないものです。しかし同時にこの後の練習風景*9での、下級生に車座に囲まれて談笑する希美の姿をうらめしそうにみやるみぞれ、という図とセットでもあります。ふたりならいっしょにいられるが「その他大勢」がいると希美はそちらに取られてしまう。冒頭シーンでの最初のリズ鳥パートにおいて、リズと愉快な動物たちを遠巻きに眺める青い鳥の姿にも重なります。*10
 とはいえ、リズ鳥パートと異なるのは弾かれたみぞれにも視線を送る存在がいることで、しかし、彼女の初登場は「後姿」で刻まれることになる。
 剣崎梨々花。通称、ゆでたまご先生です。
 ぼんやりと希美に視線を送るみぞれの横顔の向こうでパート仲間と向き合っているゆでたまご先生の後ろ姿をおぼえておいて損はありません。これもやはり、後にもう一度、プラスワンアクションつきで反復されるからです。プールの記念写真をみぞれに見せる直前に、ゆでたまご先生はオーボエをくわえる後ろ姿を見せてからカメラに向かって振り返るのです。話の流れからはほとんど独立したカットですが、みぞれとゆでたまご先生のコミュニケーションの深まりを示唆する重要なカットです。
 

背中を見られる側としてのみぞれ

 希美以外との関係性において、みぞれは背中を見られることに鈍感です。ゆでたまご先生からのアフターの誘いを断ったあと、下校時の廊下でふたたびみぞれはゆでたまご先生かちあい、そっけなく去っていきます。その背中を見送るゆでたまご先生は「つれないです〜」としょんぼりするわけですが、そのせつなさをみぞれは感受しません。直前にみぞれが希美を誘おうとして、「パートの子たちとファミレス行くから」と断られたせいでそれどころではないのですね。希美とみぞれがパートの後輩たちと関係においても正反対の状況にあることが、シニカルなユーモアとしてもキャラクターの対比としても効いています。
 さてもとりあえず、われらがゆでたまご先生はあきらめません。みぞれに去られた直後に後輩たちと楽しく下校中の希美を補足し、呼び止めます。みぞれが呼び止められない背中であるのに対し、希美のほうは呼ぶと止まってくれる。これもまた対比ですね。
 この後のやりとりでゆでたまご先生はゆでたまごを希美に渡すのですが、本稿の主題とはあまり関係ないので深く立ち入りません。
 
 みぞれの背中を見られることに対する鈍感さがもっとも色濃いのは、この後に来る「大好きゲーム目撃〜バスケ授業」のあたり。
 いつものように階段から希美をフォローしていたみぞれ*11は、通りすがった教室で、友人同士抱き合いながら「○○ちゃんの△△なところが好き」と互いの長所を羅列するゲームに興じている後輩たちを目撃します。
 「中学のころよくやったよね」と懐かしそうに言う希美に、みぞれは「私は見てただけだから……」と浮かない顔。すると希美は振り返って「ないの? じゃあ」と手を広げます。
 みぞれが抱きつきかけた瞬間に希美は外してジョークにしてしまい、優子といっしょに去っていきます。やはり、ここでもみぞれは希美の後ろ姿を見送るしかない。*12
 ここで、みぞれを背後から呼ぶ声がします。夏紀です。夏紀と優子とみぞれと希美は中学からの同級生なわけですが、まあ、にもかかわらず、夏紀の存在にみぞれは気づかない。右腕をむりやりもちあげて伸ばす、なんていう結構な接触までしないと気づかない。ちなみにこの姿勢は冒頭の「青い羽を掲げて空に透かす希美」の図と重なるように見えますが、うがちすぎでしょうか。一見、希美が飛びだっていく鳥のようだけれど、しかしそれを見送るみぞれの手には羽根は握られていない……。
 それはさておき、夏紀は二期の優子同様、みぞれにとって相対的にわりとどうでもいいポジションにいる人物ですが、『リズと青い鳥』的には結構な重要人物です。
 なぜなら彼女はみぞれに新しい運動を教える。横移動です。本作は人物を正面から捉えた図からその人物を横へ移動させる、なんていうのはあんまりない。*13みぞれが夏紀の呼びかけにやっと気づいたあと、夏紀は彼女を横、すなわち教室へと引き込もうとします。そこで一瞬、教室の引き戸の溝が映されるのも注目すべきポイントです。
 このカットでは、あきらかに「境界」が意識されている。ラストで希美とみぞれが学校の外へ出る際に似たような構図で校門の境目のカットが挿入されることを踏まえれば、夏紀にもみぞれを新たな方向へ導く可能性があった、というふうにも読めます。
 しかし実際にはそうはなりませんでした。みぞれが教室に足を踏み入れかけた瞬間、先生に呼びとめられ、白紙で出した進路票の件で叱られます。今度は希望欄を埋めて出すように、と。結局、みぞれはこの後のバスケの時間も夏紀と同じコートに入ってプレイすることはありません。コートに復帰する夏紀の背中を見送るだけです。

 夏紀が発見した横移動ですが、実はもう一人横移動を駆使する人物がいます。そう、ゆでたまご先生です。ゆでたまご先生が教室から聞こえる吹奏楽部員たちのプール行きについての話し声を盗み聞きするところですね。
 希美がとにかくまっすぐに前へ歩くキャラであるのに対して、みぞれをとりまく別の人間たちは多彩な軌道を見せているのです。


ひとりぼっちの後ろ姿。

 みぞれが背後に対して敏感になることもあって、それはもちろん希美が彼女の背後を通過するときです。希美は劇中でつごう二度ほどみぞれを置いてパートの後輩たちと合流するシーンがありますが、どちらにおいても希美はみぞれの背後を撫でて巻くようにして過ぎていきます。
 このとき何が生じるか。ひとりぼっちで取り残されたみぞれの(引き気味のショットで映された)後ろ姿です。
 一度目の時は例のタイトルの直後だけに、タイトルのときと似たような画面でたった一人だけ残されているみぞれの孤独が際立ちます。
 その直後、みぞれは希美から借りた「リズと青い鳥」の絵本を抱えて教室でひとり窓の外をねめながら「本番なんて一生来なくていい」とうらめしくつぶやきます。ここでも、暗い教室に立つみぞれの後ろ姿が強調されます。この孤独な後ろ姿は、間もなく展開されるリズ鳥パートでの「パン屋で幸せそうな家族連れを見つめるリズの後ろ姿」と呼応しますね。

 みぞれが暗い一室で一人背中を見せるシーンはもうひとつあります。生物室のシーン。フグをながめているうちにうたたねしてしまい、飛び跳ねるように駆ける希美の後ろ姿を夢うつつに見たあと、向かい側の音楽室にいる希美に気づいて交信します。フルートに反射する光を利用した無言のコミュニケーションにしばし至福をあじわうみぞれ。が、ちょっと目をはなしたすきに希美は音楽室から消えてしまいます*14。そのとき、みぞれの後ろ姿が強調されます。

 
 こうして拾っていくとみぞれの一人後ろ姿は「青い鳥を失ったリズ」を連想する光景ばかり目立ちます。*15が、次に出てくる「暗がりでの孤独な後ろ姿」は誰のものか。
 希美です。

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 「リズと青い鳥」の真の物語読解に至ったのち、リズの「神様、どうしてわたしに籠の開け方を教えたのですか」という声にオーバーラップして、丘の上のベンチ*16から夕暮れの街を見降ろす希美の後ろ姿が映ります。*17
 いまや、みぞれの焦燥は希美のものへと転化してしまっている。みぞれのリズ鳥読解によれば、青い鳥を空に還すか否かはリズマタ―であり、青い鳥は彼女の決定を汲むしかありません。鳥は勝手に飛びだつのではなく、リズが飛び出たせるのであって、それは選択ではなくてほとんど運命に近い。この運命に希美は愕然とします。

 この後に、もう一度だけ孤独な後ろ姿が映ります。希美への告白のあと、ひとり生物室に残されたみぞれの姿です。互いに互いを手放した寂寥が彼女を包みます。


鳥の背中は誰の背中か

 一回目の生物室に戻りましょう。生物室から出てきたみぞれは音楽室から出てきた希美と、橋のように校舎間をつなぐ渡り廊下*18で再会します。
 例のようにみぞれは黒いソックスから希美を視認し、このとき両者は真正面で向き合っています。が、右手のみぞれの方角へともに移動することになり、希美がみぞれの背後につく形になります。
 そして、校舎の廊下に入るとほとんど横並びになりかけますが、ここで希美がみぞれの抱えている音大のパンフレットに気づきます。パンフを奪い取った希美はみぞれに背を向けて先行する形となり、いつのまにかいつものポジションに回帰してしまいます。
 パンフを見ながら、この音大、わたしも受けようかな、などと希美はつぶやきます。すると、みぞれも目をかがやかせ身を乗り出し、「私も」と言い出す。そのセリフに反応して希美が振り返ります。「のぞみが受けるなら私も」
 生物室&音楽室間での光によるコミュニケーションで生まれかけた関係性が、パンフひとつで崩壊し、どころか、別方向に新しい関係性――みぞれを見つめる希美の視線を生んでしまいます。
 それまで希美視点のカメラもないわけではありませんでしたが、音楽室で希美、みぞれ、優子、夏紀の四人が集まった場面において希美がみぞれに一方的に投げかける視線はあきらかにこれまでのトーンからすると異質さを帯びています。ある引き気味のカットで他の三人の顔は見えているのに、希美だけは背中しか映っていない、という図が出てくるのも不穏さをあおります。

 表面上の態度や歩くときの位置関係こそ変わらないものの、あきらかに何かが変化がしている。そうにおわせるのが、みぞれが図書室に「リズと青い鳥」の児童文学版を返却しにいった帰りの廊下のシーン。
 そもそも図書返却時に、みぞれの背中に触れてすらこなかった希美が背後からずいっと現れるのも異常でしたが、廊下での会話も一見なごやかに見えながらもなかなかどうしてキテいます。
 まず会話の噛み合わなさ。本を又貸しするのしないの流れで、みぞれは珍しくユーモアを発揮して先ほど見た陰険な図書委員のモノマネをやりだします。希美もいちおう愛想よく笑いますが、どうもネタそのものは理解していないよう。
 互いに意味のやりとりが十全に機能していなくても外見上はなんとなくコミュニケーションが成立してしまっている、という状況はラストの「ハッピーアイスクリーム」にもつながる話で、それをホラーと捉えるか、幸福と捉えるかは見る側の心情によります。*19
 奇妙に思ってしまえば、歩くときに希美が妙にみぞれのほうも振り返るのもなんだか奇妙で、そういえば歩きながら会話することってこれまでなかったなあ、とおもいます。
 その変化がいいのか悪いのかは、ともかくとして。

 音楽室に特訓用の毛布を敷くシーン。床にかかんで毛布をしきつめるみぞれの背後から椅子をもった希美が話しかけるという、これまでのふたりの上下の位置関係を保ちつつも、「みぞれの背後から希美が」という図書室での場面同様にこれまでなかったアクション。
 ですが、ここで見る後ろ姿は、窓を開けたときの希美の後ろ姿。吹いてくる風に髪や衣服がそよぐ姿は、リズ鳥パートで洗濯物を抱きしめながら風を感じる青い鳥の姿と重なりますが、決定的に異なる部分がある。
 カメラワークです。青い鳥のときは風に舞う白いハンカチを追うように下から上へと(ティルトか「し」の字か忘れましたが)カメラが走る。かたや窓を開けた希美を映すカメラは上から下へと叩き落されるようにパンされます。
 青い羽を拾ったとき、そして「本気の音」の演奏で青い鳥のイメージが飛びたつシーンのカメラワークによる上昇イメージに、希美のそれは明確に反してします。つまり、希美が青い鳥ではないことが決定的になってしまう。
 
 ここからプロットは「リズと青い鳥」の物語解釈の解決編となだれこみます。
 

鳥を見送る涙目の

 廊下。希美はみぞれに音大のパンフを渡した新山を背後から呼びとめます。繰り返しますが、希美は背中を見る側ではなく見せる側だったはずです。それが、新山に対しては背後に回り、あまつさえ「音大志望を伝えても芳しい反応を得られない」という敗北を味わったままその背中を見送ることになります。
 さらにその次の練習シーンでは、希美の眼を通したカメラが、横並びで仲睦まじそうに(見える)みぞれと新山を捉えます。優子や夏紀と四人で音楽室に集ったシーンと同じく、一方的にみぞれへ視線を注ぐ希美のカットです。ただその圧力は前回よりも強い。
 希美の視線を感知したみぞれは、手をふります。が、希美はぶっきらぼうに眼をそらします。

 帰りの廊下でみぞれは希美を背後から呼びとめます。みぞれが希美を背後から呼びとめる。その事態の重大さにきづいてほしい。はりつめた緊張が最高潮に達します。
 みぞれは以前未遂に終わった「大好きゲーム」を要求します。しかし希美は「今度ね」と拒み、去っていきます。立ち尽くすみぞれの背中が画面の手前に、歩み去る希美の背中が同一線上の画面の奥に来る構図。反復の二回目。三度目は成就するものですが。

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 そうして黄前と高坂の「リズ鳥」練習が終わり、みぞれは新山の前で、希美は夏紀と優子の前で自分たちの関係の真実を解き明かします。
 このとき、青い鳥を送り出そうとするリズのシーンも挿入され、青い鳥を送り出そうとするリズの背中、リズの家から去る青い鳥の背中と展開されていき、青い鳥の背中が飛び立った瞬間、見上げるような顔の希美のアップを正面から捉えたカットが来ます。鳥を見送る動作がその顔に滲みます。
 ここにおいてリズ鳥とのぞみぞの対応関係は、すくなくともプロット上においては、確定し、「本気の音」のシークエンスにつながるのです。

 「本気の音」の場面は、カメラがときどき滲むことからもわかるように、三人称視点に希美の視点が混ざったように回っていきます。はばたく鳥の後ろ姿を見送る場面です。希美視点であるのは当然でしょう。


去る背中

 音楽室から消えた希美を追って、みぞれは生物室にたどり着きます。呆けたように虚空をみあげる希美の表情が印象的です。

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 なんやかんやで互いに感情を吐き出したあと、みぞれは希美に抱きつきます。これまでかわされてきた「大好きゲーム」三度目の正直です。
 背伸びしてハグするみぞれの背中は、生物室にひとりぼっちで佇んでいた彼女自身のそれ(音楽室の希美と交信するくだり)と呼応します。
 ですが、思いを吐き出すみぞれと希美の視線は、抱き合っているがゆえに交わらない。みぞれの思いの大きさに希美自身という存在はつりあわない。すくなくとも、希美自身はそう思っている。
 希美はようやく「みぞれのオーボエが好き」というTV版二期でも吐いたセリフをつぶやいて、ハグをほどき、笑いだし、みぞれの眼を直視します。背中を見せるのでもなく、振り返るのでもなく、しっかりと真正面から見据えて。言うのです。「ありがとう」

 みぞれを生物室に残して、廊下を歩く希美は直前に「おぼえてない」と主張していた「中学のころにみぞれを吹奏楽部に誘ったときの会話」を思い出します。*20この会話のディティールが前半でみぞれが思い出している内容と微妙に異なるのがほんとうによいのですが、それはともかく、希美は何かがふっきれたような清々しい後ろ姿を観客に残し、去っていきます。

 

直視する関係

 あとは語るべきこともさしてないでしょう。
 図書館でみぞれの背後から登場する希美、という反復が行われたのち、それぞれの分かたれた進路を見据えて別々の場所で受験準備を行うふたりの姿がモンタージュで繰り広げられます。モンタージュ中でふたりの肢、頭、全身が背後から捉えられますが、ピックアップすべきは頭、というより髪の毛でしょう。廊下を足早に歩くみぞれの後頭部でゆれる長髪は、冒頭部で揺れていた希美のポニーテールのゆれとにほぼ対応しています。アクションを等質にすることで、異なる道を選んだふたりが同等に尊いことが示されます。

 みぞれが校門を出ると希美が最初から正面を向いて手をふってくれている。ふたりは背後から追ったり追われたりするのではなく、対等に向き合える存在になったのです。
 そうして、なんなく「カゴの中」(by 山尚)から校門というの名の「境界」を飛び越えて、外の世界で横並びに歩き出します。このときのふたりの後ろ姿は冒頭でタイトルが出たときの演奏するふたりの後ろ姿にもオーバーラップします。楽器や吹奏楽部というツールがなくとも、学校の内部でなくとも、ちゃんと共に歩くことができる。そういう関係になったわけです。おそらくは。
 
 横並びの歩行はやがてくずれ、いつもどおり希美が先行する形になるのですが、今度は階段を登るのではなく降る。振り返って、みぞれを見上げて、「ちゃんとみぞれのこと支えるから」と決意表明をする。構図的には冒頭の階段でみぞれを見降ろすシーンと逆転しています。
 みぞれも「オーボエを続ける」と返す。鳥が性分として飛ぶことを宿命づけられているように、みぞれも宿命としてオーボエをふきつづけるしかない。希美とのささやかな別離がその運命を強化している。悲壮ですが、本人は悲劇とは受け取っていないでしょう。

 階段を降りきって、ふたりは路上を画面右から左へと移動します。「ハッピーアイスクリーム」のあと、カメラは切り替わってふたりを正面から映すショットになります。先述したように、左の希美が手前に、右のみぞれが若干奥に来るのは冒頭の音楽室での場面と同じです。
 しかし、ここにワンアクションが加わります。先行した希美が勢い良く、振り返るのです。
 背中を克服した映画が背中で終わる。それもまたそれ。

 次は何を拾おうか。


*1:この構図はこの構図で集めてショット分析に回すとおもしろいと思いますが

*2:カメラは二人と向き合った位置から撮っている

*3:映画における最初のシークエンス

*4:さらに終盤から逆算的に導くならば、「青い鳥(=みぞれ)を見上げる希美を見上げるみぞれ」というループ的な構図ができあがるわけで、まあそこまで行くと大した意味があるようにもおもわれないので、考えすぎでしょう。

*5:劇中でルビンの壺のように希美とみぞれが一画面内で横対横で向き合っているカットがない、と言うひとがいますが、このとき完全にそういう構図になっています。身長差があるために若干目線がずれているようにも見えますが、それも「どういたしまして?」で希美がかがむときに解消されます

*6:ユーフォニアム二期でも希美はピンクの腕時計をしていますね。キャラデザの変更に伴って若干モデルチェンジして、よりゴツく目立つようになっています。

*7:ちなみに『響け!ユーフォニアム』本編と映画で対応している箇所は色々あって、まあたぶんディープなオタクブログとかが拾うでしょうのでうちではやりませんが、たとえば、一期で高坂と黄前がのぞみぞと同じように黒白ソックスで対比されていたり……二期の序盤はもろに映画本編に直結する部分が多くて、「音楽が大好きなんだ」とか「みぞれのオーボエが好き」とか檻を象徴する鉄格子だとか生物室だとか渡り廊下だとか

*8:というか、冒頭の登校シーンにおける希美ウキウキ具合と感情のなさ加減はサイコパスっぽくていいですね

*9:正確には二番目のリズ鳥パートを挟んでの

*10:さらにいえば、「本気の音」を出したときに後輩たちに囲まれるみぞれの後ろ姿が映るわけですが

*11:登校時の下駄箱の時点では一人だったので、いつのまにか希美を発見して自動で追尾していたことになります

*12:このくだりでかなり複雑というか不可解な運動が行われていたとaruinue氏は主張していましたが、正直よく覚えてない

*13:間違っていたらすまない

*14:「忽然と姿を消すのぞみ」はクライマックスの「本気の音」演奏シーンでも再演されます

*15:ちなみに単に一人の後ろ姿というだけなら、高坂と黄前が「リズと青い鳥」を吹く場面で廊下を歩くみぞれのカットもありますね。

*16:太陽公園?

*17:このシーンは劇中でほぼ唯一、「籠の外に出る前に」学校の外へ出ているところです。もっとも、カゴの中の鳥であるみぞれは出ていないので、そこのあたりでたいした意味があるようには思えませんが

*18:テレビアニメ本編でもたびたび出ていた舞台装置ですね

*19:山尚はおそらく後者で、こういうのをもって「歯車の一瞬の噛合」と呼ぶのでしょう

*20:これもTV版でちょみっと出てきていましたね

アニメ作品の私選オールタイム・ベスト10

経緯と選定基準

『アニメ秘宝』発売をきっかけに、村長ななめちゃんさんに「おまえらのアニメベストを教えろ」と煽った結果、なんか自分も書かなきゃいけない空気になった。
 私はアニメで育ったこどもではないのでアニメにはアニメを観るひとほど親しんではいない(特に国内テレビシリーズ)のですが……。


 選ぶにあたっての基準は「個人的な思い入れ」と「映像ドラッグとしての優秀さ」です。
 あんまり例外は設けない方針ですが、本格的に実写パートの混ざっている作品は除外してあります。それやったらファヴロー版『ジャングル・ブック』とかアメコミ映画もアニメじゃん、ってことになるので。*1『ロジャー・ラビット』とかシュヴァンクマイエルの『アリス』とか好きな作品が多いんですけれども。ともかく。

1.『ファンタスティック Mr. FOX』(2009年、米、長編映画ウェス・アンダーソン監督)



ファンタスティック Mr. Fox


 アメリカ土産に父が『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のソフトを買ってきて*2以来、ストップモーションアニメは私を組成する嗜好の重要な一パートを占めています。
 とはいえ、ヘンリー・セリックの血脈であるライカ(『KUBO』とか『パラノーマン』とか)のウルトラハイパー緻密なアニメーションよりは、流麗ではあるけれどどこかぎこちなさという不自然さの残るアードマン(『ウォレスとグルミット』とか)っぽいのが好みで、それというのも「人間でないものが人間っぽく振る舞おうとがんばる」ものに惹かれる性分であるからかもしれません。
 『Mr.Fox』は、ラディスラス・スタレヴィッチの名作『Le Roman de Renard』(1937年)*3にリスペクトを捧げていることからもわかるように、あえてのぎこちなさを残している面もありつつも、そこで描かれているドラマとキャラはたまらなくヒューマン、という奇跡のようなバランスを有します。奇跡と言えばキツネやアナグマが二本足で歩いて喋っていることが「実写」*4ではありえない、アニメーション特有の奇跡です。
 そこにウェス・アンダーソン製の世界観とユーモア、それにアレクサンドル・デスプラ一流の音楽を加えれば最強。完璧。なにも欠けたるところはなし。
 

2.『バンビ』(1942年、米、長編映画、デイヴィッド・ハンド監督)



「バンビ」MovieNEX予告編


 何度も言っていることなのですが、『バンビ』を観たことのない人、あるいは記憶を呼び起こすには幼さなすぎるほど幼かったころに観たっきりの人はもう一度『バンビ』を観てほしい。ビビるから。ただなめらかに動いてる事実そのものに。アニメーションの純粋な暴力性だけで人間は帰依してしまいます。
 本気で現実を模倣しようとしていたディズニー長編初期作品群には現実すら突き破るハイパーな官能性があり、『バンビ』は人間でなはく動物を描いたからこそのエロティックさがほとばしっています。


3.『千年女優』(2002年、日、長編映画今敏監督)



千年女優 特報


 そう、今敏は『千年女優』です。『東京ゴッドファーザーズ』でも『PERFECT BLUE』でもなく、『千年女優』。
 しっかりした劇映画のようで、実のところほとんど筋なんてほとんどないようなスラップスティックなスケッチが矢継ぎ早に展開されていった末に開き直りのような決め台詞と「白虎野の娘」。永遠のベストエンディングです。


4.『ライオン・キング』(1994年、米、長編映画、ロジャー・アレーズ&ロブ・ミンコフ監督)



ブルーレイ『ライオン・キング』予告編


 戦後のディズニー作品でも『ふしぎの国のアリス』、『101匹わんちゃん』、『おしゃれキャット』、『美女と野獣』、『くまのプーさん』、『シュガーラッシュ』、『ズートピア』、(ピクサーだけど)『ファインディング・ドリー』と人生の一本には枚挙に暇がないわけですが、しかし、『ライオン・キング』にはかないません。幼少期に数十回と観てアニメのイデアとして刷り込まれてしまっているからです。
 
 ミュージカルで捨て曲がないどころか全曲神レベルという事態の尋常ではなさを、われわれはもっと重く見るべきで、ディズニー・ルネッサンスのこの時期でアラン・メンケン*5が関わっていないのに、この出来。ハクナ・マタタ。なんてすばらしい響き!
 なんとなれば悪評高い続編商法の流れで濫造された『ライオンキング2』や『3』でさえミュージカル曲は珠玉です。
 ミュージカルアニメが好きなのは間違いなくこの作品のせい。ちなみに制作背景や音楽の分析は谷口昭弘『ディズニー・ミュージック ディズニー映画 音楽の秘密』(スタイルノート)に詳しいです。全国民必読の書。

 

5.『アドベンチャー・タイム』(2010-18年、米、テレビシリーズ、ペンドルトン・ウォード)



Adventure Time - Funniest Moments Collection #1


 少年と犬というエリスン以来ポスト終末SFのお決まりのホモソーシャルなフォーマットからはじまるも、やがて犬は家庭を持ち、少年は恋を知る。成長とは何か決定的で象徴的な決別ではなくてさらりと語られる細かい別れの連続なのであって、ただ破滅的なギャグアニメを快楽的に観ていたはずなのに、シーズン5にさしかかり第七十五話「レモンホープの旅立ち」と「レモンホープの帰郷」を観おわったとき、ふと、悟るのです。氷漬けのサラリーマンゾンビの群れを無邪気に撃退するような冒険があった時代は、もはや二度と戻ってこないのかもしれない、と。
 あるいはそんな感傷はどうでもよくて、少年と犬がパーティーの好きなクマたちと踊り狂っているさまをぼんやり眺めていることもできる。

 『ホームムービーズ』、『オギー&コックローチ』、『おかしなガムボール』、『デクスターズ・ラボ』、『タイニー・トゥーンズ』、『カウ・アンド・チキン』、『アニマニアックス』、『レギュラーSHOW』、『ぼくらベアベアーズ』、『スティーブン・ユニバース』、『リック・アンド・モーティ』、そして無数のハンナ・バーベラアニメ……カートゥーン・ネットワークはいつも私とともにありました。映像ドラッグの何たるかを、CNから学んだような気がします。


6『serial experiments lain』(1998年、日、テレビシリーズ、中村隆太郎監督)


Serial Experiments Lain Trailer


 『探偵オペラミルキィホームズ』との二者択一で最後まで迷ったんですが、最終的にこっちになりました。正直な話、SFとしてだとか未来観だとか黒沢清が監督しそこねたJホラーだとかはどうでもよくて、この時代特有ののぺっとしたプラスティックみたいでアンニュイな画の感触と雰囲気がとにかく好きです。lainみたいな気分になりたいときに lainみたいな気分にしてくれるアニメが発表から二十年経過した今日でも lainしかない、という状況は嘆くべきなのでしょうか。いいえ、それでも私たちには lainがあります。なんなら、ゲーム版もあります。
 第一話で、登校するために家を出た玲音を取り囲む真っ白で無機質な風景からはじまるすべてが愛おしく、陶酔的です。あとはもう、わかるでしょう。
 わたしたちはみんな既に玲音のことが好きになっている。未来は今で、今が未来。それが二十一世紀です。わたしたちの生きるインターネットです。


 

7.『おおかみこどもの雨と雪』(2012年、日、長編映画細田守監督)



映画「おおかみこどもの雨と雪」特報1


 夏。圧倒的に夏。夏というだけで三倍酔える。
 日本アニメ映画でも屈指の純度を有する映像ドラッグです。劇場でたぶん七回は観ています。特に一昨年だか三年前だかに今はなき京都みなみ会館の夏休み上映にてほとんど貸切状態で観たときは最高の極みで、『インヒアレント・ヴァイス』に並ぶ夏休み映像ドラッグムービーだとおもいます。これの快楽中枢をひたすらやさしく愛撫しつづけてくれるような感覚に比べたら『MIND GAME』のドラッギィさなんかラムネ菓子みたいなものです。*6
 特に雪山で親子三人が真っ青な空の下を高木正勝の「きときと 四本足の踊り」に乗せてはしゃぐくだりは百回でも繰り返して観られる。百回でも繰り返して観たい。
 何かとコントラヴァーシャルな物語部分に関しては、まあ、わかるけどわりとどうでもいいかなって気分です。そういえば、『OVER THE CINEMA』で石岡良治先生が「宮﨑駿に比べて細田守はまだ言えば聞いてくれそうな気がするからみんな叩く」とおっしゃっていましたね。細田守もたぶん一生聞く気はないんだとおもいますが。
 

8.『リズと青い鳥』(2018年、日、長編映画山田尚子監督)



『リズと青い鳥』ロングPV


 山本寛は正しい。というのも、本作は山田尚子の(他人から見れば)絶望的な世界認識(というかコミュニケーション観)においていかに希望を見出すか、という映画で、山尚からすればハッピーエンドなわけですが、ふつーにエンタメのフィクションを観に来ている観客のものさしからすればそんなもんただのバッドエンドじゃねーか、ってことになる。
 ライバルと全力で殴り合えば明日からは無二の友人になれる、という思想の少年マンガを読んで育ってきた私たちは、いつのまにか、百パーセントの「本音」や気持ちをぶつけあえば通じ合える、わかりあえる、そんな神話に毒されていて、ハッピーはそうした衝突に生じるものだと思い込んでいる。
 でもそんな幸せはフィクションのなかにしかない。他人が抱いている気持ちの量や質は自分のそれらとは異なるのがふつうです。だから、コミュニケーションを諦める。他人と自分は違うのだから、と。
 ところが、山尚は諦めない。持ちうるかぎりのあらゆる映像表現を駆使してスクリーンの前の観客に訴えるんですね。錯覚かもしれないその一瞬こそに歓びがあり、つながりが成立するのだと。だからこそ世界は美しいのだと謳います。そんな彼女の歪んだまっすぐさを「闇」だと言いつのる人たちは正しいが、間違っている。
 そうして、結果的に、彼女のあらゆる努力の軌跡が上質の映像ドラッグとして精製されています。



9.『ミトン』(1967年、ソ連、短編、ロマン・カチャーノフ監督)



映画『ミトン+こねこのミーシャ』予告編


 ノルシュテインにしろゼマンにしろトルンカ*7にしろ旧共産圏のアニメは中短編に良いものが多くて、こういう場では何かと不都合なわけですが、何かひとつ選ぶとしたら『チェブラーシカ』で有名なロマン・カチャーノフの『ミトン』でしょうか。
 厳格なお母さんのせいで犬を飼えない女の子が、しかたなく自分の赤いミトンを犬に見立てて遊んでいるうちにだんだん本物の犬に見えてきて……という内容で、朗らかなトーンに騙されてそうは見えませんが、完全にホラーです。
 何がいいって、とにかくかわいい。キャラクターから背景の小道具に至る一切がかわいいで構成されている。かわいいは作れる、と俗にいいますが、人類史において事実上かわいいを作ったのはロマン・カチャーノフ以外だけなのではないかとすら思えてきます。ほんとうにかわいい。断言してもいいが、あなたが想像しうるかわいさの閾値を遥かに越えてくる。
 かわいさは肉を伴った実写作品にとって表現しづらい領域のひとつです。いいや、かわいい人間なんかいくらでもいるよ、と反駁する向きもあるかもしれませんが、では『ミトン』を超えるかわいさを具えた人間がどれだけいると?


10.『スヌーピーの大冒険(Snoopy, Come Home)』(1972年、米、長編映画、ビル・メレンデス監督)



70's Ads: Trailer Snoopy Come Home 1972 1979


 当記事を書き出す前から入れようと決めてはいたのですが、てっきり忘れられた作品であると思いこんでいただけに『アニメ秘宝』で二票も入っていたのには驚きました。これも幼少期に狂ったように観返していた作品です。
 冒頭のシーンで、ライナスといっしょに浜辺にたたずチャーリー・ブラウンが地面に落ちていた石をおもむろに海へと放り投げたかと思ったら、ライナスが「なんてことしたんだチャーリー・ブラウン……あの石は何千年もかけて海からこの浜辺までやってきたんだ。それを君は一瞬でだめにしてしまった……」と無表情に非難します。チャーリー・ブラウンはいつもの「#SIGH#」顔で「ぼくのやってることは全部間違ってるような気分になってきたよ……」と応える。いきなりこのペシミスティックさですよ。 
 『アニメ秘宝』でのコメントで「アメリカン・ニューシネマだ」と言われていたのもなるほど納得で、本作のスヌーピーは原作のような達観した詩人ではなく、犬立入禁止の図書館やビーチから叩き出された鬱憤をライナスやルーシーにぶつけて凄惨な事態を招くクレージーなビートニクです。そんな彼がまさしくヒッピーであるウッドストックを相棒に、手製の楽器をならして放浪するさまはそれだけで理由不明の涙をさそいます。
 『メリー・ポピンズ』などで知られるシャーマン兄弟も関わってるだけあって、音楽もいい。


10.『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(2013年、日、長編映画新房昭之総監督・宮本幸裕監督)



「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」予告編映像 #Puella Magi Madoka Magica #Japanese Anime


 勢いあまって11選になってしまった。
 『アニメ秘宝』の投票コメントで誰かが「劇場で七回観た」と言っていて、へえ、気が合うじゃん、私も当時劇場で七回観ました。
 テレビアニメ本編の悪夢的なビジュアルも映像ドラッグとして良質でしたが、やはりまとまったワンショットとしてパッケージされた映画版にはかなわない。悪夢的というか、本物の悪夢そのものです。




 他にもメンションしたい作品はやまほどありますが、キリがないのでやめておきます。
 あなたのベスト10もぜひ教えて下さいね。


*1:別にアニメってことでもかまわないとは思いますが

*2:サブカルチャーに疎かった父がなぜ幼いこどもの土産にあんなゴスなしろものを買ってきたのか、いまでもよくわからない

*3:ヨーロッパで古くから親しまれている諷刺動物物語『狐物語』の映画化。ちなみにディズニーが同じく『狐物語』を映画化しようとして紆余曲折を経て末に出来上がったのが『ロビン・フッド』であり、その『ロビン・フッド』の劇中歌が『Mr.FOX』で引用されるという奇運もある

*4:かぎかっこでくくるのはファヴロー版『ジャングル・ブック』で観られるように、動物を実写っぽく人間化させようと思えばCG技術のちからでなんとかなるから

*5:『リトル・マーメイド』や『美女と野獣』の名曲群を担当した名匠。本作で歌曲をエルトン・ジョンが担当したのは作詞担当のティム・ライスがジョンを指名したため。

*6:湯浅政明湯浅政明で好きですが。フェイバリットは『夜は短し歩けよ乙女』と『アドベンチャータイム』のゲスト監督回「フード・チェイン」

*7:トルンカの長編『笛吹き男』が大傑作ですが

二つの身体をもった心:『君の名前で僕を呼んで』について



 もしだれかに、なぜ彼が好きだったのかと、しつこく聞かれても、「それは彼だったからだし、わたしだったから」と答える以外に、表現のしようがない気がしている。わたしの思惟を越えて、わたしが個別にいえることを越えて、そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれたのだ。 


(『エセー』、モンテーニュ宮下志朗・訳、白水社


 北イタリアの夏のやさしい夕暮れ*1がつくり出す影は、恋するふたりの距離を喪失させ、ほとんど一体化させる。ベッドまで連れ立つ影、夜の樹上での逢引、旅先でのホテルのバルコニー。
 

 融合のたくらみは映画の最初から仕掛けられていた。
 アメリカからやってきた大学院生オリヴァーは、主人公の少年エリオにとってまず侵入者として現れる。エリオの部屋の半分がホームステイするオリヴァーのためにあてがわれ、オリヴァーも部屋につくなりまだエリオの私物の残るベッドに倒れ込んですやりと眠る。


 その後も事あるごとにオリヴァーはエリオの領域を侵す。
 オリヴァーの自転車が倒れそうになって、エリオの身体に触れる。友人たちとバレーボールに興じる場で、エリオに渡されかけた水のボトルをオリヴァーが横取りしてがぶ飲みする。そのままエリオの肩をぶしつけに揉む。
 エリオの家族も友人も見知らぬ地元民でさえも、あっというまにオリヴァーに魅了される。
 しかし、もちろん誰よりもオリヴァーに惹かれているのはエリオだ。そのことを口に出せないあいだ、彼は一途にオリヴァーを窃視しつづける。視るだけだ。彼は自分の部屋の半分であったはずのオリヴァーの領域に踏みこめない。
 

 『君の名前で僕を呼んで』というタイトルのとおり、エリオの欲望は同化願望になって顕れる。彼が最初に目をつけたのは、オリヴァーのネックレスだ。




 金のネックレスと、金色のメズーザー(ユダヤ教で用いる、聖句を記した小片をおさめたケース)にダビデの星がついたペンダントだった。これが僕たちを結びつけていた。それ以外のすべてが僕たちを分け隔てるとしても、これだけはあらゆる違いを超越していた。僕がダビデの星を目にしたのは、彼が来てすぐだった。その瞬間、僕は悟った――僕を惑わせたもの、彼を嫌いになるどころか親しくなりたいと思わせたのは、お互いが相手に求めるどんなものよりも大きく、したがって彼の魂より、僕の体より、大地そのものより素晴らしいもの、つまり同じユダヤ人同士という同胞意識なんだと。


(『君の名前で僕を呼んで』、アンドレ・アシマン、高岡香・訳、マグノリアブックス)


  
 映画でもエリオはオリヴァーのペンダントを見て、「ぼくもそういうのを昔持っていた」と言い、どこからか見つけ出して身につけだす。オリヴァーとエリオ一家の他にユダヤ人のいない町において、同じ由来を持つこと示す民族的アイデンティティはふたりをつなぐ特別な共通点だ。

 そして、同化願望といえば、もちろん衣服。同性愛と衣服による同化といえば、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』でのアラン・ドロンを思い出すけれど、もちろんエリオはもっと平和的な方法をとる。
 初めて肉体的に結ばれ(エリオが最も望んだ「同化」の形だ)「君の名前で僕を呼ん」だ直後、エリオはオリヴァーにこんなことを言う。


その(青い)シャツ、最初うちに来た日にも着ていたね。お別れするときが来たら、ぼくに呉れない?」


 もちろん、その前にエリオがオリヴァーの下着を頭からかぶってオナニーにふけっていたことを観客は忘れてはいない。
 エリオの父親の友人である老ゲイカップル(片方を原作者のアンドレ・アシマンが演じている)を別荘に迎えたとき、父親から「彼らがプレゼントしてくれたシャツを着ろ」と強要されてもエリオが強く拒絶したことも忘れてはいない。


 かくして、エリオはオリヴァーのシャツの手に入れ、そのシャツに身を包むことで画的にも同化を完了する。


 では、なぜそこまで本作は「一体化」を強調するのだろうか。


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モンテーニュとエチエンヌ・ド・ラ・ボエシー


 重要なヒントは最終盤に提示される。エリオが父親と対話するシーンで、父親はエリオとオリヴァーの関係を「それは彼だったからだし、わたしだったから」というモンテーニュのことばを引用して評する。
 これはモンテーニュが親友エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーとの間の結びつきについて語ったことばだ。なんとなれば、引用元である『エセー(随想録)』の「友情について」という章はまるまる『君の名前で僕を呼んで』についての注釈であるとも言ってもいい。*2「友情について」は亡友ラ・ボエシーとの思い出を介して男同士の友情や友愛について思弁する、とみせかけて、実際にはラ・ボエシーへの強烈な想いが綴られた章だ。
白水社版の『エセー』訳者である宮下志朗モンテーニュとラ・ボエシーの関係について、白水社ウェブサイトでの連載の一回を割いてよくまとめている。25歳のモンテーニュが共にボルドーの高等法院で同僚として働くことになる28歳のラ・ボエシーと出会うシーンをひこう。




モンテーニュは3歳年長のラ・ボエシーという存在を知っていた。ラ・ボエシーもまた、モンテーニュの噂を聞いていたらしい。なにせラテン語母語として育って、6歳だかで、地元の名門コレージュ・ド・ギュイエンヌに入学し、ずっと年上の連中と張り合った神童なのだから。そして二人は、「人出でにぎわう、町の大きな祭りのときに、初めて偶然に出会ったのだが、たがいにとりことなり、すっかり意気投合して、結びついた」(1・27「友情について」)。モンテーニュによれば、「そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれた」のだった。それは、そんじょそこらの友情ではなかった。「世間のありふれた友情を、われわれの友情と同列になど置かないでほしい。わたしだって、そうした友情のことは、人並みに知っているし、そのなかでもっとも完全なものだって知らなくはない。でも[…]、通常の友情の場合は、手綱をしっかり持って、慎重に、注意深く進んでいく必要がある。それは、うっかりしているとほどけてしまうほどの結びつきなのだから」(1・27)。


第8回 友情について - 白水社

 


 まるで映画のようにドラマチックな出会いと情熱的な友情。
 ラ・ボエシーは十代にして『自発的隷従論』という現代にも参照される名著を書き上げた早熟の天才だったことも、音楽に文学に多彩な才能を見せるエリオに通じる。また早逝したラ・ボエシーをひたすら惜しんで嘆くモンテーニュの筆は、オリヴァーが去ったあとのエリオの愁嘆を想起させる。ラ・ボエシーが亡くなったのも、モンテーニュとの出会いからわすが四年後のことだった。「あの人との甘美なる交わりや付き合いを享受すべく与えられた、あの四年間と比較するならば、それはもう、はかない煙にすぎず、暗くて、やりきれない夜でしかないのだ。」というモンテーニュの詩的な悲嘆はそのまま小説版『君の名前で僕を呼んで』に書かれていてもおかしくない。


 しかし、なにより『君の名前で僕を呼んで』を思わせるのは次の一節、いや二節だ。




 われわれがふつう友人とか、友情とか呼んでいるのは、つまるところ、それによっておたがいの魂が支え合うような、なにか偶然ないし便宜によって取り結ばれた親密さや交際にほかならない。そして、わたしがお話ししている友情の場合、ふたつの魂は混じり合い、完全に渾然一体となって、もはや両者の縫い目がわからないほどなのである



この高貴な交わりにおいては、ほかの友情をはぐくむような、奉仕だとか、恩恵は考慮にもあたいしない。なにしろ、われわれの意志は、完全に融合しているのである。……(中略)……事実、両者のあいだでは、意志、思考法、判断、財産、妻子、名誉、生命など、すべてが共通であって、その和合は、アリストテレスの実に的確な定義にしたがうならば、「体がふたつある心」にほかならず、ふたりはたがいに、なにを貸し与えることもできないのだ。


(両節とも宮下志朗・訳『エセー』「友情について」より)

 『エセー』の訳者・宮下志朗によると「これは友情であって、肉体的な同性愛ではない」そう。が、『君の名前で僕を呼んで』の原作者アンドレ・アシマンはその見解におそらく同意しない。
 



――あなたは長年に渡ってプルーストを研究し、教えてきました。プルーストは回想録と小説の境界を綱渡りする人ですよね。


アシマン:まったくそのとおりです。ルソーもそういう人ですね。彼は自分の人生についてウソを書いてきた。



――とても巧妙に、ですね。


アシマン:とても巧妙に、だよ! モンテーニュもそうでした。


Interview with André Aciman | Features

「回想録と小説のあいだに明確な違いなどありはしない」と公言するアシマンは、成程、自伝的小説である『君の名前で僕を呼んで』を執筆するにあたり、(彼の考える)モンテーニュに倣うことで『エセー』に秘められたモンテーニュの思慕を汲み取ろうとしたのではなかったか。


 原作小説では、タイトルの意味、エリオとは「誰」なのか、オリヴァーとは、エリオの父親とは「誰」なのかがより明確なかたちで読者に示される。*3
 小説からアダプテーションされ映像となった本作でも、主人公が「縫い目のない」「身体のふたつある心」たるを追い求める点は変わらない。*4オリヴァーはエリオのベッドを奪うことでエリオの心に侵入し、エリオはオリヴァーの衣服に袖をとおすことでオリヴァーとひとつになる。それらはあくまで映画的な演出・象徴であって、現実には決して実現しないだろう愛情の究極形態なのだろう。だからこそ、燃え盛るさまがうつくしい。*5




 そしてあの頃みたいに僕の顔をまっすぐに見て、視線をとらえ、そして、僕を君の名前で呼んで。


(『君の名前で僕を呼んで』、アンドレ・アシマン、高岡香・訳)

 
 


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エセー〈2〉

エセー〈2〉


 

 

*1:誰もが眼を奪われる本作のライティングであるけれども、実は撮影時はほとんど雨天で、ほとんどが人為的につくり出した光源で太陽光を再現していたらしい。この功をグァダニーノはタイ人撮影監督のサヨムプー・ムックディプロームに帰している。幻想的な画作りで話題となったアピチャートポン・ウィーラセータクンの『ブンミおじさんの森』でも撮影監督を勤めた人物だ。

*2:実際の原作はあまりに多様な文学的レファレンスで構築されているので、ネタ元をひとつに絞ることは無意味だろう

*3:特に映画版ではオミットされた第三部「クレメンテ症候群」

*4:まるで『饗宴』で喜劇作者アリストパネスが語った愛の起源ーーゼウスによって分かたれた男の半身がもうひとりの男の半身を探すように

*5:もっといえば『リズと青い鳥』もモンテーニュ「友情について」なんですが、それはまあ別の機会に

尻のウサギが僕を呼んで:『ピーターラビット』の感想

Peter Rabbit, ウィル・グラック監督、米、2018)
(わりとネタバレを含みます)




映画『ピーターラビット』予告


野うさぎのふたつの身体

 さあ、ご紹介しましょう。彼こそがピーターラビット。わたしたちの物語のヒーローです。
 青いコートに身を包んだ若いウサギ……しかも、ノーパンのね。

映画『ピーターラビット』OPより

ズートピア』になくて『ピーターラビット』にあるものとは何でしょう?


 ずばり、お尻です。

 
 お尻なら最良のが『ズートピア』にもあったじゃないか。心あるひとならジュディがズートピア警察署に初出勤するシーンを想起しつつ、そう反駁なさるかもしれません。
 たしかにスパッツでかたどられたウサギ独特の官能的なヒップラインは、なるほど『ズートピア』における達成かもしれません。しかし、あなたがたは大事なことを忘れていらっしゃる。
 ジュディにしろ、その家族にしろ、みんなズボンを履いているのです。
 どういうことか。
 どういうことだ?

 つまり、生尻ではない、ということです。


ズートピア』世界のウサギたちは、シヴィライズドされた人間の現し身であり、彼ら彼女らは種族の長所である跳躍力を支える尻*1をみずから縛ることによって、文明社会の一員たりえています。社会で生きるということは社会の型にあわせてある程度自分たちの形を削ることなので、肉食動物たちが肉食を封じる一方で、草食動物も自らの「野生」を抑えているわけです。それがウサギたちのズボンに象徴されているのですね。

 かたや、イングランドが生んだ我らが愛されノーパン野郎、ピーターラビットはどうか。
 映画にも原作にも共通することですが、ピーターラビットは基本的にマクレガーさんの農園に押し入って栽培物を強奪する野菜泥棒です。といいますか、害獣です。
 重要なのは速度。ピーターたちは生尻をあらわにして飛び跳ねます。高度に知性化された上半身と野蛮な下半身。相反する傾向がひとつの肉体に宿っていることが、「上だけ衣服を羽織って下半身まるだし」という考えてみれば不思議なピーター一家のファッションに表出しているのでしょう。ただの露出狂ではないのです。
 
 映画序盤、老マクレガーの農園を襲撃(そう、まさに”襲撃”です)するピーター一家のシーンではお尻が強調されます。
 農園へ向かって四ツ足で駈けていくピーターたちを背後からとらえる画面は自然ウサギのお尻づくしになりますし、マクレガー家の柵もウサギたちの尻をちょくちょくひっかけます。
 極めつきは老マクレガーに対して攻勢をかける場面で、ピーターは露出した老マクレガーの半ケツにセイヨウニンジンをつっこむことで、一時的な「勝利」を得ます。ズボンに身を包んだ人間を「野生」のフィールドに引き込むことで勝つ。それが彼等のドクトリンです。*2
 

 ところが映画中盤から、今度は尻と正反対の部位が重要な意味を帯びてきます。頭です。


動物を追う、ゆえにわたしは(動物)である。

 
 ウサギがひたいをくっつけ合う行為は、劇中では「謝罪」と説明されます。
 ピーターたちにとって頭は相手と和解するための器官であり、ここでも野蛮なお尻と対比がなされているのですね。
 もっとも老マクレガーに変わってピーターと対峙することになった新マクレガー(ドーナル・グリーソン)とは、この「謝罪」がうまくいきません。
 というのも、マクレガーがピーターの敬慕するビア(ローズ・バーン)と恋仲になってしまうためで、恋とは縁遠いティーンウサギであるピーター*3も「やさしいお隣のおねえさん」であるビアを取られてしまうことに焦りと怒りをおぼえているのです。*4
 ピーターはマクレガーの寝起きするベッドにトラバサミをしかけ、やはりお尻を攻撃します。ですが、一方で、中盤以降からピーターたちのお尻はあまりフィーチャーされなくなる(ように見える)*5。ピーターはだんだん「野蛮」ではなくなっていくのです。
 その後、詳細は省きますが、なんやかんのあって、ピーターは情緒面でティーンエイジャー的な成長を見せ、マクレガーとも仲直りします。

 そうした点で、本作は知性ある野蛮人だったピーターが(父を殺し土地を奪った)文明と和解し、「人間的に」洗練されるまでの成長物語ともいえるわけです。
「動物を文明化して争いをなくす」という意味では『ズートピア』とほんのり似てるといえなくもない。


 劇中で最も印象的な「頭」の使用シーンは、ピーター、ビア、マクレガーの三者が決裂してしまったのち、ハロッズに復職したマクレガーをピーターが説得してビアのもとに連れ帰ろうとするくだりでしょう。
 ピーターたちを始めとした物語世界の動物たちは喋ることができるのですが、それは基本的に人間には通じないという設定です。マクレガーが農園にきたばかりのときも、袋に捕らえたピーターの従兄弟を掲げて周囲の野生動物たちに「おまえたちもこうなるぞ!」と脅迫するのですが、直後に「なんで俺は野生動物と話そうとしているんだ!」とセルフツッコミをします。
 では、人間と動物との言葉は通じないのか、といえばそういうわけでもなく、ハロッズを舞台にピーターたちが騒ぎを起こすシーンで、子どもにぬいぐるみと勘違いされたピーターの従兄弟が喋るウサギ人形のふりをします。

 つまり、劇中世界において、人間と動物は「コミュニケーションが通じるはずなのに互いに通じようとしない」関係なのです。

 ハロッズの再会シーンで、ピーターとの会話が成立すると気づいたマクレガーは「そりゃ喋れるだろうさ!(I knew you could talk!)」とうめきます。
 そして、これまでの悪事についてのピーターの全面謝罪を聞き、いっしょにビアのもとへ向います。そしてビアとも(やはり上半身を介した)コミュニケーションを通じて和解する。
 それまでピーターたちは暴力やいかにも動物っぽい媚態を通じてしかマクレガーがビアとコミュニケートしてこなかったわけですが、ラストに至ってようやく「対等な相手」として互いをリスペクトしあえる関係になるのです。
 外見で話が一切通じないと判断していた相手が実は対話可能な「人間」だった――一見おバカスラップスティックムービーに見える本作ですが、実は今日的なトピックを奥底に秘めたイイ話なんですね。


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ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

*1:兎肉ではもっとも美味な部位とされます

*2:ちなみに劇中でピーターたちが「先に僕たちがここに住んでいたのに、あとから人間が来てかってに占領した」という趣旨の発言および再現シーンが映ります。原作にはたしかなかったと思うのですが、「アングロサクソンが先住民を追い出してエンクロージャーする」構図は監督のウィル・グラックの出身国であるアメリカ合衆国の成り立ちを想起させます。ここにも(政治的にやや安直であるものの)「野生VS文明」の構図が仕込まれているのですね。

*3:監督のウィル・グラックのインタビューによると「ピーターはティーンエイジャーのイメージで、妹たちはトウィーン(八〜十二歳)くらいのイメージ」とのこと

*4:このあたりの感情の機微は劇中でピーターの口からすべてセリフでギャグっぽく説明される。親切設計です

*5:一度観ただけなのでもしかしたら勘違いかもしれない

アメリカのピカレスクで多弁な娘たちの映画についてのメモ:『アイ、トーニャ』、『モリーズ・ゲーム』、『レイチェル:黒人と名乗った女性』

 とりあえず、「この三作って似てるよね」という思いつきからはじまったものの、おもいついてから二週間経っても、あんまりうまく膨らみませんでした。後々のためのメモとしての残しておきます。


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 このところ、アメリカを騒がせたバッドアスな実在女性たちについての伝記映画やドキュメンタリーの公開が相次いでいます。
 ライバルである五輪代表候補選手を襲撃した疑いでスキャンダルとなったフィギュア・スケーター、トーニャ・ハーディングを描いた『アイ、トーニャ(I, Tonya)』。


『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』予告編/シネマトクラス



 同じく冬季五輪でスキー競技の代表選手一歩手前まで行きながらも、不慮の事故により文字通り代表の座から滑り落ちて引退。その後なんと違法カジノ経営者に転身し、「ポーカーの女王」としてロシアン・マフィアを巻き込んだ裁判にかけられたモリー・ブルームを描いた『モリーズ・ゲーム(Molly's Game)』


『モリーズ・ゲーム』ショート予告 5.11



 そして、全米黒人地位向上協会(NAACP)の支部長としてブラック・リブス・マター運動などで名を馳せるも実際は白人の生まれであったことが露見し、「黒人を詐称した白人」であると国中からバッシングを受けたレイチェル・ドレザルのドキュメンタリー『レイチェル:黒人を名乗った女性』。


The Rachel Divide | Clip [HD] | Netflix



 三者それぞれに生まれた地域、クラス、時代、細かい家族・友人関係、オチのトーン、あるいはドキュメンタリーや劇映画といった違いはあれど、いくつか共通点が見出されます。


 1.前代未聞の事件を起こし、「悪役」として全米から憎まれるはめになった女性が主人公であること。
 2.物語の山場を乗り越えても、彼女たちの人生がまだまだ前途多難であると示唆されること。
 3.一方で、彼女たちは逆風にあっても自分の意地を貫く頑固なキャラクターであること。
 4.彼女たちが人生につまづいた大きな要因が実親による抑圧であること。


 要するに、親との確執を抱えて育った女性が、自主的に発見した才覚と技能によってその親から離れて自立し、栄光をつかみかけるも自分自身に由来するゆがみが遠因となって挫折し、また一念発起して立ち上がろうとする話です。問題の発端である親とは和解したり、しなかったりします。
 まあ、それはいいんですが、共通点がもう一つ。

 彼女たちがものすごく雄弁だということ。

 それぞれ、「スタイルの源流が『グッドフェローズ』だから」だとか「監督脚本がアーロン・ソーキンだから」だとか「インタビュー形式のドキュメンタリーだから」だとか固有の事情を抱えているにせよ、トーニャもモリーもレイチェルもとにかく喋りまくる。
『アイ、トーニャ』のトーニャに至っては他者の証言と真っ向から矛盾する発言をするので作品自体『藪の中』(映画的に言えば『羅生門』)スタイルになっているのですが、ともかく三作品とも「彼女たちのなかにある声」を引き出そうとしています。
 その声は真実を証言しているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。いずれにせよ、彼女たち自身による彼女たちの物語であることには変わりありません。
 もともとバイオグラフィカルな映画というのは、世間的には間違っているとされたり無視されたりしている人々の内情や人生を汲み取りやすくしてくれるものです。
 オリンピックのライバルを襲撃した。違法カジノを開いた。人種を偽った。
 ニュースで伝えられるのは、わかりやすく要約された情報だけです。そういうもので、私たちはなんとなく人一人の人生をわかったような感じになってしまう。ほとんどが本人以外の口から語られたものであるにもかかわらず。
 まあ、本人自身が語っているからいって、それが正しいとかぎらないのですけれども、しかし語る権利くらいはある。ワンフレーズでラベリングされがちな人々の声を聞き、世界に一定の複雑性を与える。映画とはそのための装置だったりもするわけです。


『レイチェル』には言葉にまつわるこんなシーンがあります。主人公(取材対象)であるレイチェルは白人であったことが露見して以降、SNSに何か書き込めば見知らぬ人間たちから嵐のように叩かれる状況に陥ります。たとえば、「車にいたずらをされた」と写真付きで発言をアップすれば、即座に「どうせ自作自演でしょう?」「またウソをついてるな」といった否定的なレスでツリーが埋まるのです。経歴を詐称したことで友人たちからも見放されたレイチェルを擁護する人間はいません。
 極めつきは彼女の息子がロースクールに入学するためにある大学を見学訪問したとき。大学の前でポーズをとる息子の写真をアップすると、「あんな女の息子には入学してほしくない」などと本来事件とは関係ない息子を中傷するコメントで溢れます。そのせいで、彼女に残された数少ない味方だった息子との関係が悪化してしまうのです。
 
 ふつうなら、とっくにアカウントを削除していることでしょう。なのに、レイチェルはSNSへの投稿をやめようとはしません。
 監督が「なぜネットリンチを受けるとわかっていてSNSをやめないの?」とレイチェルに訊ねます。
 彼女はこう応えます。
「何もかもコントロールできない状況で、これが唯一コントロール可能なものだからよ。言葉だけは私のものだから」


 受け手のレスポンスがどうあれ、声だけは奪えない。
 それをインフラとしてのインターネットの発展だったり、昨今の映画界をとりまくmetoo運動などと結びつけてもいいのかもしれませんが、とりあえずここでは「そういう時代である」とだけ留保しておきましょうか。


なぜ『犬ヶ島』はつまらないのか。:『犬ヶ島』について・その1


野田洋次郎も参加!ウェス・アンダーソン最新作『犬ヶ島』日本オリジナル版予告



困ってしまってワンワンワワン、ワンワンワワン



――プロジェクトは犬ものをやろうという着想だったのですか? それとも最初からサムライ犬でやろうと?
ウェス・アンダーソン最初は犬ものってだけだったね。日本要素はあとからついてきた。


(脚本版)『Isle of dogs』、イントロダクションの脚本陣インタビューより


 あなたは、とは書きますが、別に特定の個人を想定したものではありません。
 こういう書き方をすることで時に拾える綾もあるでしょう。

 そのことを飲み込んでもらったうえで言いますが、

 なぜあなたは『犬ヶ島』をつまらないと感じてしまったのか。



 理由は簡単です。




 あなたが犬になれなかったから




 です。



犬ヶ島』は、観客が犬になることを前提に作られた映画です。

 人間側(㍋崎市パート)の物語がナレーションやニュースキャスターの音声などを介して三人称的に語られがちなのに対して、犬(犬ヶ島パート)側のストーリーはセリフメインで組み立てられキャラの成長なども描かれます。犬たちのほうが、人間よりもよほどヒューマニスティックです。どちらかといえば、人間側の話が従、犬側の話が主ということになります。

 ところが、字幕版でも吹替版でもいいのですが、日本の劇場で観ると人間側の物語も犬側の物語も並列して語られているように見える。そのせいでいまいち物語が焦点を結ばないというか、なんというかエモくない。

 なぜか。ウェス・アンダーソンディレクションが下手なのか。彼の仲良し映画人を集めた脚本チームが無能なのか。

 違います。ある構造上の問題から、ウェス・アンダーソンは日本の観客だけを犬にできなかったのです。


犬よ犬よ犬たちよ



ウェス・アンダーソン私は映画で描かれる犬たちが大好きです。わたしにとって、わたしたちの作品中で描かれる犬は人間なのです。


Wes Anderson Interview | The Director On His New Film 'Isle Of Dogs'


 そう、観客は犬になるべきだった。

 ウェス・アンダーソンのインタビューによると、本作では「フランス語版やイタリア語版でも、日本語の部分だけ残して英語の部分だけ現地の言葉に置き換える」*1のだそうで、つまり本作では「英語の部分=観客の言語=感情移入の対象」として措かれているわけです。裏を返せば、「字幕なしで垂れ流される日本語の部分=観客の理解できない言語=他者」となるわけです。 
 劇中で犬たちが人間たちの言語を理解できず、人間たちもまた犬たちの言語を解しないことを思い出しましょう。出版済みの脚本でも人間たちのセリフはト書きで「日本語でなんか喋る」か、あるいは通訳のセリフとして指定されているだけで、日本語部分について具体的なセンテンスはほとんど与えられていません。*2
 犬たちこそがわれわれであり、人間たちは彼らである。それが本作の体験を支える骨子なのです。


 もうおわかりでしょう。
 上記の式が通用しない言語圏がひとつだけあります。日本語圏です。
 吹替版において犬たちの言語は日本語になり、人間たちと言語的に均質化される。犬も人間もわれわれの側になってしまう。人間側のストーリーも犬側のストーリーも真正面から受け止めなければならなくなるわけで、しかも下手に看板やポスターなんかの字もわかってしまうぶん視覚的な情報量もダンチになってしまうわけで、意味の洪水にプロットの焦点がぼやけてただ見るだけで途方もなく疲れてしまいます。ただでさえウェス・アンダーソン映画は鑑賞後の疲労感がすごいのに、いつもの十倍疲れるかんじがする。

 字幕版にいたってはもっと複雑です。犬たちの英語は字幕で日本語に翻訳されるので、表面上、吹替版と同じ効果をおよぼしそうなものなのですが、しかし声的には犬たちの言語は日本語話者にとってあきらかに「他者」のもの。
 だからといって、人間側の話にノるのも難しい。先述のように三人称的に突き放した語りをしているせいもあるのですが、(人間役のキャストがほぼ日本語ネイティブで固められているにもかかわらず)本作で発せられる日本語はどこかわれわれが日常的に耳にしている日本語のBPMとズレている。ウェス・アンダーソン映画の速度でみんな話している。その違和感が劇中の日本人たちを「他者」に見せてしまいます。
 犬と人間の両方を他者の側におきつつ、スクリーン上で出来する事態をすべて把握できてしまうというかなりねじれた体験をしてしまうわけで、この障壁を突破して犬になれる人間はかなり少ないはずです。


おねがい私の知らないことばで喋らないで、おねがい私の知らないことばで喋らないで



「聞こえるよ、アタリさん! 聞こえるよ、聞こえるよ、聞こえるよ……」


(本編より)

 言語で犬と人間を切り分けられないことは、キャラクターの関係性を呑み込む上でも障りとなります。
 先ほど「劇中で犬たちが人間たちの言語を理解できず、人間たちもまた犬たちの言語を解しない」と書きましたが、ひとつだけ例外的な関係があります。犬ヶ島に捨てられた犬スポットと、そのスポットをさがしにやってきた飼い主の少年アタリです。ふたりはシークレット・サービスが使うようなイヤフォンを通じてほとんど完璧にコミュニケーションを果たします。とはいえ、互いに言ってることを百パーセント理解しあってる様子でもない。おそらく、魂で通じ合っている。

 異言語コミュニケーションの話題において、「相手が何をいってるかよくわからないけれども、何を言おうとしているかはクリアに了解できる瞬間」がよく取りざたされるものですが、そうした奇跡のようなコミュニケーション、奇跡のような信頼がアタリ少年とスポットとの間には結ばれているわけです。異なる言語を混ぜたからこそ成り立つ関係性といえましょう。

 ところが日本語圏の観客はアタリ・スポットのどちらのセリフも理解してしまいます。奇跡が死んでしまっている。いや、実はふたりが初めてイヤフォンをつけて会話する場面は字幕版でも音と画面の力で非常に感動的に仕上がっているので奇跡は奇跡なのですが、しかしその他の場面ではどうでしょう?


 あなたは犬になれましたか?


 ウェス・アンダーソンは、映画の魔法はあなたを犬にしてくれましたか?


 スポットやチーフがアタリに語りかける場面で、すこしでも胸にうずきおぼえたのなら、
 実はもうほとんど犬になりかけているのですが。



 こうした根っこの部分でどうしようもならない上に誰も悪くない問題に悩まされるのは、かなしいものです。
 ですが、だからといって作品の価値が損なわれるわけではありません。といいますか、別に日本語しかわからなくても全然たのしめないわけでもありません。そもそも人間が完全に犬になるとか無理なのです。人間として映画館に行ってもなんら恥じることはない*3。言い忘れていましたが、字幕翻訳も吹替陣も仕事自体はすばらしい出来です。あと、各映画サイトの一般視聴者による採点平均はいまのところ結構良さげっぽいですし……。


 いや、むしろ?


 つい勢いでわら人形論法から記事をスタートしてしまったが、
 ウェス・アンダーソンが人間でも楽しめるように『犬ヶ島』を作ったのだとしたら?


 日本限定のプレゼントとしてユニークな体験をプレゼントしてくれたのだとしたら????


 むしろ日本人こそ『犬ヶ島』を観るべきなのでは???????????????



 というわけで、次は『犬ヶ島』本編の話をします。『ファンタスティック Mr. Fox』から継承している「野生」についての話です。たぶん。

 
 

*1:実際の英語版ではニュース映像や小林市長の演説などのほとんどに英語のボイスオーバーがかかっていたことを考えると、事実上「犬を言葉を現地語にする」という理解でよさそうです

*2:特にアタリは指定があったとしてもせいぜい単語レベル

*3:いちいち通訳が挟まれるので全体的に話運びがトロくなるなあ、とか、ウェス・アンダーソン作品独特のカメラとアクションの一体感にちょっと乏しいなあ、とか、昔の日本映画意識してるのかなんだか知らんがくすんだ画面の色合いがなんかなあ、という演出レベルでの不満もまあ絶無といえばウソになるわけですけれど

ウェス・アンダーソンにおける野生動物たち:『ファンタスティック Mr.FOX』(『犬ヶ島』について・その2)

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 前回書いた記事がその翌々日発売の『ユリイカ』のウェス・アンダーソン特集号に載っていた一部原稿とかぶり、しかも予告した野生の話も論者のみなさんが結構触れてられていたので、そりゃそうだよなあ、などと思いつつ、やる気は減衰し、日々は無駄に過ぎていき、やがて人間はダメになっていきます。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。


 ウェス・アンダーソンのふたつのストップモーションアニメ、すなわち『ファンタスティック Mr.Fox』と『犬ヶ島』をつなぐキーワード――野生。この単語の意味するところを、ウェス・アンダーソン監督の初ストップモーションアニメ、『ファンタスティック Mr. FOX』から読み解いていきましょう。それによっておのずと『犬ヶ島』もわかっていけるはずです。


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ファンタスティック Mr.FOX』のあらすじ

 まず『Mr.FOX』のあらすじから洗っていきましょう。


 家畜泥棒を生業としていた主人公のミスター・フォックスは、当時交際相手だったミセス・フォックスの懐妊を聞かされ、そのまま結婚。「家庭のためにもう危ないことはしない」と泥棒稼業から足を洗い、新聞のコラムニストとしていわばホワイトカラー的な正規の職に就きます。
 それから十二狐年後。優しい妻に多少偏屈ではあるけれど元気な息子の暖かい家庭を築いたミスター・フォックスでしたが、一方で単調で刺激のない貧しい生活に倦んでいます。ミセスは「貧しくても私達は幸せじゃない?」と慰めるものの、ミスターは「俺はもう七歳だ。俺の親父は七歳半で死んだ。もう穴ぐら暮らしはいやなんだ」

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 彼は新居探しの最中に、鶏農場に近接する大きな木を見つけます。「あの家にはリスクがある」という顧問弁護士の助言も聞かず、ミスターは家の購入を決断。新居に移るや、友人のオポッサム・カイリを巻き込み、妻には内緒で鶏泥棒をはじめます。


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 当初は上首尾だった家禽泥棒ですが、調子に乗って近隣の農場や牧場を荒らしまわるうち、農場主たちに目をつけられるように。そして農場主たちの親玉であるビーンの策略により、ある晩、逆襲を食らってミスターは尻尾を失ってしまいます。当然、妻にも泥棒の事実が露見します。「 十二狐年前に約束したわよね。もう二度と、鶏もガチョウもシチメンチョウもアヒルも……ヒナバトすら盗まないって。私はそれを信じたわ。なのに、なぜ? なぜわたしにウソをついたの?」「俺が野生動物(wild animal)だからだ」「でも夫でしょう、父親でしょう」



 さらにビーンたちの重機による追い討ちで、フォックス家の新居は破壊されてしまいます。一家は地中へと退避。見境ない破壊の手はフォックス家のみならず他の動物たちまでにも及び、やはり地中へと逃げ込んできた彼らからミスターは騒動の元凶として冷たい視線を浴びせられます。地上への出口をビーンらによって封鎖され、食料を得る手段もありません。全員、地中で飢えて全滅するしかないのでしょうか?


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 しかし、ここでミスターは起死回生の策を編み出します。またも、家禽泥棒です。今度は地中からルートを掘り、キツネ狩りに追われて無防備になっている農場を突いたのです。


 鶏やシチメンチョウを根こそぎ強奪し、大量の食料を手に入れたミスター・フォックス一行。ビーンのりんごサイダー倉庫から盗んできた勝利の美酒で乾杯……しようとしていたところに、りんごサイダーの洪水に見舞われます。ビーンがありったけのりんごサイダーをミスターたちの立てこもる穴に放水したのです。


 薄汚い下水道に追いやられ、ふたたび一敗地に塗れるミスター。そのうえ、息子のアッシュがビーンに奪われたミスターのしっぽを奪還しようこころみて失敗し、一緒に居たいとこの(ミスターの甥)クリストファソンをビーンの狐質にとられてしまいます。

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 ミスターはミセスを下水が滝のように流れている場所*1へと連れ出し、「きみにウソをつくべきじゃなかった」と謝罪します。


「きみにウソをつくべきじゃなかった。誓いを破って*2、鶏を盗むことなんかしなきゃよかった。農場主たちに手をだすべきじゃなかったんだ。連中の裏をかいていい気になっていた。
 楽しかった。でもやるべきじゃなかった。
 残された道は一つだけだ。俺の身をやつらに差し出す。殺され、はく製にされ、暖炉の上に吊るされるしか……」
「ダメよ」
「それで、他のみんなは助かるかもしれないんだ」
「ああ、どうして私たちをこんな目に巻き込んでしまったの?」
「わからない。でも、もしかしたら、みんなにこう呼ばれたいからかもしれない。”ファンタスティック・ミスター・フォックス(すばらしき父さんギツネ)”とね。それで、みんなが俺の魅力に完全にヤられてしまうまでは……自分自身に満足できないんだ。
 火中の栗を拾いに行ったり、狩りをしたり、捕食者を出し抜くのがキツネの伝統なんだ。俺が得意なことでもある。
 俺たちは結局のところ……」
「わかってるわ。私たちは野生動物なの」
「たぶん、昔は野生でしかなかったんだろう。約束するよ。もう一度最初からやりなおせるとしたら、君にはもう隠し事はしない。ふたりで一緒にやったときのほうが、いつも楽しかっただろう。愛してるよ、フェリシティー*3
「わたしも愛してる。それでも……あなたと結婚すべきじゃなかった……」

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 ミスターはライバルであるドブネズミとの死闘を制して自信を取り戻したのち、ペシミスティックな自己犠牲的作戦を取りやめ、クリストファソン救出作戦に切り替えます。そこで仲間たちに再起を賭けた演説を行うのです。
  
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「さて、この豪華な晩餐のテーブルにならんだ顔ぶれを見てみようじゃないか。ふたりのすばらしい弁護士。優秀な小児科医。天才的なシェフ。辣腕の不動産屋。卓抜した仕立て屋。賢い会計士。天賦の才を持ったミュージシャン。……いい感じのヒメハヤ漁師。そして、おそらくは当代一の風景画家。
 俺のコラムを読んだことのある人はほとんどいないだろう。存在を知っている人さえいないかもしれん。

 だが、今ここに集っているのはみな野生動物でもある。
 特質と唯才を持った野生動物たち。
 DNAに織り込まれた何かに由来するラテン語の学名を持った野生動物だ。みんなそれぞれの種に固有の長所と短所をふせもっているんだ。
 ともかく、この美しい個性を結集すれば、俺の甥を救出する一縷の望みを得られるかもしれない」

 
 そうして、ミスターはその場に集った動物たちひとりひとりを学名で呼んで奮い立たせ、クリストファソン救出チームを組織します。


 地上に打って出たミスター一行は、ビーンらを見事出し抜くことに成功。クリストファソン(と取られたしっぽの)奪回に成功し、バイクで帰路につきます。
 その途中、野生の狼と遭遇し、その美に涙する一シーンを挟みつつ、下水道へ勝利の帰還を果たした一行。その後は、地中を通じて閉店後のスーパーマーケットという新たな狩場を発見し、ハッピーエンドを迎えます。ミスターは新たに妊娠が発覚したミセスを筆頭とした家族に向かい、こう演説します。


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「キツネはリノリウムの床にちょっとしたアレルギーを持ってると言われている。けれど、実は肉球がひんやりあたって気持ちいい。
 俺のしっぽは月に二度ドライクリーニングへ出さないといけない。けれど、自由に着脱可能だ。
 俺たちの木の家はもう二度と戻ってこないかもしれない。けれど、いつかは新しい芽が生えてくる。
 スーパーにあるスナック菓子はガチョウ風味だ。ハトのモツは合成物。リンゴでさえ見た目ニセモノっぽい……でも、星の模様がちりばめられている。
 それでも、今夜は食べよう。みんなで食べ明かそう。この頼りない灯りの下でもかまわない。
 きみたちは疑いなく、俺の人生で一番すてきな野生動物たちだ。
 さあ、みんな、ジュースのパックを掲げて。
 俺たちの生存(survival)に乾杯」


キツネと野生

 ご覧の通り、『Mr. Fox』は、中年の危機を迎えた男性が「野生=冒険心」を取り戻す話です。「みんなから尊敬されたかった」と漏らすミスターの言葉から察するに、男性的な名誉欲もつけくわえてもいいでしょう。作中でもオマージュが捧げられているディズニー映画『ロビンフッド*4、あるいはイギリス児童文学的な文脈で言えば『ピーターラビット』にも見られるように、盗賊生活は動物の「本性」である、という歴史的なイメージがあります。

 もっとも家庭を守りたい心と冒険を求めたい心のあいだで引き裂かれるアンビバレントさは、ロアルド・ダールの原作にはない要素です*5ウェス・アンダーソンのフィルモグラフィを見ればわかりますが、中年の危機的な部分は彼の作家的な資質に依るところが大きい。*6
 ともかくミスターの冒険への回帰が守るべき家族に災厄を招いてしまうわけですが、最終的には自身の野生と折り合うことで家庭と折り合います。農場主たちを撃退し、地中生活に戻ったミスター一家は結局泥棒で暮らしていくことになるものの、狩場は以前のようなハンティングの快楽に満ちた鶏農場ではなく、人工物であふれたスーパーマーケットです。冒険心の面はいくらか後退していても、より安全で安定した盗みにミスターもミセスも満足するのです。*7昔は危険な山に挑戦していた登山家が、結婚して子どもができるようになると家族で楽しめるレジャー登山に落ち着くようになる、といった感じでしょうか。配偶者からは「山なんか危険だからやめろ」と言われたけれど、妥協点としてそこに落ち着くみたいな。

 アニメーション研究家の土居伸彰は、同じくアニメーション研究家である細馬宏通との対談でウェス・アンダーソン作品における「野生」について、端的にこうまとめています。

土居:『Mr. FOX』や『犬ヶ島』を観ると、ウェス・アンダーソンにとっての「人間」がどういうものかというのが象徴的にわかってくる。『Mr. FOX』では、最終的に自分自身の野生を取り戻すことによってすべての危機を回避するという結末でしたが、ウェス・アンダーソンの映画には、その人その人にある種の「野生」「本性」みたいなものが眠っていて、それに基づいた「役割」のようなものを全うすることしかできないという人間観がある。
 (中略)その人の持っている性質、その人独自の役割――本能に従うことが、ウェス・アンダーソン作品においてはすごく重要なものとして考えられているような気がします。


「アニメーションという旅路の途中で」『ユリイカ 総特集=〈決定版〉ウェス・アンダーソンの世界」


 『Mr. FOX』や『犬ヶ島』における「野生」は、それこそ「本性」的にアンコトローラブルな衝動として描かれます。ミスターがスリルをやめられないのと同様、『犬ヶ島』のチーフは噛みつくことをやめられません。
 二〇一六年のディズニー映画『ズートピア』では、動物たちに課せられている「本能」が理性によって完璧に制御されうる幻想として描かれていました。また、「キツネはずる賢い」や「ウサギに警察の仕事は無理」といった世間によるべき論の先入観の押しつけを峻拒する作品でもありました。対照的に、『Mr. FOX』では「本能」や本来あるべき姿といったものが抗えない運命として描かれているのは興味深いところです。


 が、百パーセント野生に身を委ねてしまうのが幸福なのか、といえばウェス・アンダーソンはそうは描きません。
 ミスターは終盤に野生のオオカミと遭遇します。このオオカミは、私たちの世界で見かける四ツ足の獣であり、スーツを着込んで二足歩行するミスターたちは根本的に異なる存在です。本来的な意味での野生動物を体現した存在です。*8
 ミスターはオオカミとコミュニケーションをとるために、英語で「どこから来た? なにをしている?」と問いかけます。

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 オオカミから反応がないとみるや、ラテン語で自分の学名を名乗り、相手の学名も伝えます。「学名を呼ぶ」のはクリストファソン救出作戦時に「学名には動物本来の役割が宿っている」という思想のもと、仲間の動物たちの野生を呼び起こすために使われた手法ですが、このときのオオカミには通じません。
 ラテン語の学名=動物本来の役割=野生の公式はミスター独自の幻想であり、本物の野生動物とはもっと彼の想像とは違う生き物なのだということが示唆されます。
「どうやら英語もラテン語も通じないようだ」と悟ったミスターはフランス語にも挑戦しますが、やはり反応はありません。
 オオカミには、本物の野生には、言語は通じないのです。
 ミスターは崖の上に佇むオオカミの姿に涙します。そして、無言で左手を高く天につきあげます。すると、オオカミも左脚をビッと伸ばして応え、そのまま去っていきます。「なんて美しい生き物なんだろう」。ミスターはためいきをつきます。

 ここで本物の野生動物を知り、自らがどうあがいても文明以前には戻れない存在であると知ったからこそ、ミスターはラストシーンの演説にあるような、人工物に囲まれた世界での妥協した「野生」生活をよしとするのです。
 人間は完全な野生動物にはなれない、しかし、完全に文明にも染まれない。たとえその欲求が自己破壊につながるとしても、誰にも飼いならしえない何かが内に宿っている。そのことを象徴する生き物として、古来から文明と野蛮の境界線上の生き物とされたキツネが主人公として選ばれたのは、ある種必然だったのでしょう。
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 そうして、私たちは内なる野生を抱えて生きていかねばいかない。なぜそれに抗えないのかはわからない。しかし、そういうものであるからしようがない。
 実のところ、『犬ヶ島』もまさに『Mr. FOX』とおなじような結論で終わります。
 主人公犬・チーフは大した理由もないのに人を噛んでしまう癖を持っています。そのことについて、ラストシーンでヒロイン犬・ナツメグと語り合います。



チーフ:友だちは俺を喧嘩好きだとおもっている。でも、ほんとうは違うんだ。ときどきカッとなって自分を見失ってしまうことはあるけれど、それを楽しんだことはない。俺は暴力的な犬じゃない。なぜ噛みついてしまうのかわからないんだ。


ナツメグ:飼いならされた動物は好きじゃないわ。


チーフ:ありがとう。


 決して飼いならしえない何かを持った男たちの物語――それはウェス・アンダーソン映画に共通する彼自身の「本能」でもあるのです。


 次は『犬ヶ島』に戻って「半孤児」の話をすると思います。余力があったら。


*1:ラスト・オブ・モヒカン』のオマージュか

*2:fall off the wagon 自らに課していた禁を破ってしまう、という意味。もとは「禁酒をやぶる」ことを指し、ビーンの農場からりんごサイダーを盗んだことにもかかっている。

*3:ミセス・フォックスの本名

*4:ロビンフッドの劇中歌「LOVE」がラジオから流れます

*5:ダールの原作では終始ミスター・フォックスは泥棒であり、妻子もそれを疑いなく受け入れています

*6:「中年の危機」まわりに着目してWAを論じる代表的な評論家は町山智浩でしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=a7JwA5ZXg6w

*7:ラストで新しい家族としてリスタートをきる、という構図は冒頭のミセスの台詞「妊娠したの」が反復されることで明瞭となります

*8:ユリイカ』のウェス・アンダーソン特集号に寄せられた蓮實重彦のエッセイによると、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌のインタビューで「『ファンタスティック Mr.Fox』での狐のパペットが被写体として最高だったのは、それが犬に似ていたからだと監督のウェス・アンダーソンは述べ、「最後には狼が姿を見せ、それがインスピレーションのみなもとだった」ともつけてい」たそうです

まぼろしの糸による意図のまぼろし:『ファントム・スレッド』について

Phantom Threadポール・トーマス・アンダーソン監督、2017年、米)
(本記事はあらすじをほぼすべて割っています)

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 神へと捧げられた七つの編み込みのある、金髪と赤毛の重い髪の房が彼女の左手に握られているが、その髪にはそれまで一度もかみそりが当てられたことがなく、そこには今まで誰も抗えなかった英雄の男性的な力が潜んでいた。
 両刃を開いたままの鋏がデリラの右手で光っている。

――パスカルキニャール「デリラ」


「ファントム・スレッド」90秒予告編



 はじまりは、暖炉からの熾火にほのかに照らされる女性の顔。その表情は穏やかでありつつも自信に満ちている。アルマという名のその女性は、画面外で耳をそばだてているのであろう「観客」に向かってこう語る。

「レイノルズは私の夢を叶えてくれた。そして、私も彼が欲しがっていたものを与えてあげたの」

「欲しがっていたもの?」

「私のすべて(Every piece of me.)」


 断片化された人間のあらゆる部分をついばむのが『リズと青い鳥』の愛だとすれば、『ファントム・スレッド』はすべてを与えることこそ愛だと宣言する。すべてとは何か。生だ。


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 観客の前に初めて姿をあらわすとき、主役の一流デザイナー、レイノルズ・ウッドコックは文字通り顔をさらしている。

 シェービングクリームをたっぷりつけてひげを剃る姿はあからさまな男性性のアピールであると同時に、レイノルズという人間が身だしなみに気を使う「ファッションの人」であること、そして寝起きの時間をひげ剃り、髪のセット、靴磨きなどの自分自身のことにしか使わない自己中心的な人物であることも示す。姉のシリルは、弟が身なりをととのえているあいだ、姉弟の城である「ハウス・オブ・ウッドコック」をオープンするための手続き(窓を開けたり、お針子や客を出迎えたり)の一切を仕切っている。

 姉が空間を仕切り、弟が服を作る。いちおう愛人のような形で専属のモデルが同居しているけれども、彼女は名もなきお針子たち同様に服を支配するレイノルズの年季奴隷にすぎない。そうやって彼らの家(ハウス)は調和している。

 専属モデルは定期的に入れ替わる。まるでモードに合わなくなった古い服が無造作に脱ぎ捨てられるようして。
 ディナーに訪れた行きつけのレストランで姉は弟を諭す。「ジョアンナのことはどうしましょうか。私はかわいい娘だけれど、ちかごろちょっと肥ってきたし、あなたとよりを戻せるのを座って待っているだけだわ」
 そうして、ジョアンナと呼ばれる専属モデルはハウスから追い出されることが決定される。レイノルズにはどうでもいいことのようで、うわのそらだ。ジョアンナは一切に言及せず、唐突に母との思い出を語りだす。

「最近、ママのことばかり思い出すんだ……よく夢に見る……彼女の匂いがして……私たちの近くにいるんだと強く感じる」

 母。匂い。どちらも重要なキーワードだ。だが、とりあえずシリルは弟に田舎のカントリーハウスでの休暇を勧め、弟は単身車で出かける。そこでヒロインと出会う。


 レイノルズが朝食をとりにきたベッド&ブレックファストに、アルマはウェイトレスとして勤めていた。彼女はテーブルにぶつかっては騒がしい音を鳴らし、注文を取るためにテーブルからテーブルへとせわしなく動く。後にその騒々しさと too much movent を責めるにもかかわらず、このときのレイノルズは彼女のたたずまいに惹かれる。ジョアンナとの最後の朝食で「朝は胃にもたれるものは食べたくない」と刺々しく言い放ったくせに、平日の朝食とイングリッシュブレックファストの違いはあるにしても、アルマにはベーコンやソーセージ、クリームやバターの乗ったスコーンといったこってりした料理を注文する。


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 レイノルズはその場でアルマをディナーに誘う。アルマはレイノルズに一枚の紙切れを手渡す。そこにはこう書かれてある。「はらべこぼうや(Hungry boy)へ。私の名前はアルマよ」。*1彼女が「はらべこぼうやに食事を与える存在」として登場したことを覚えておきたい。すくなくとも舞台となった五十年代、ぼうやに料理を作ってあげるのは母親の役目であったことも。
 
 夜、初デートのディナーでレイノルズは赤いドレスに身を包んだアルマに「君は君のお母さんに似ているか」と尋ね*2、母親の写真を持っているなら常に肌身離さず持ち歩け、と奇妙な助言を行う。意味深なことばだけれども、アルマから「あなたのお母様は今どちらに?」と聞き返されて彼はもっと奇妙なことを言い出す。

「彼女はここに――いま着ているコートの芯地*3にいる」

 芯地にはコインやささやかなメッセージ*4といった「秘密」を編み込むことができ、レイノルズの場合は母親の遺髪をコートに織り込んでいるという。
 母親を常に身につけているのだという。「彼女が私に商売を教えてくれた。だから、いつも離さないようにしているんだよ」

 この母親こそレイノルズにとっての「ファントム・スレッド」、まぼろしの糸だ。もともとは徹夜続きで働くお針子が疲労のあまりに糸の幻覚を見てしまうことを指しての慣用表現*5で、プロダクション作業でも割合後半になってつけられたこのタイトルは多様な解釈をさそう。*6ここでは母親(の亡霊、すなわちファントム)ということにしておこう。
 

 序盤におけるレイノルズのセリフは、かなりの部分、母親にまつわる事柄でしめられている。ワインスタイン騒動を経たわたしたちにとって*7、レイノルズの独善的で女性蔑視的な態度は嫌悪感をもよおさせる。しかし彼の「男性的」な唯我独尊、あるいは支配欲はアメリカ映画でよく描かれる家父長的なパターナリズムとは若干異なる。子供っぽさの裏返しというよりも、ストレートに子供っぽい。母親に庇護されたわがままな子どもの気難しさに似ている。*8
 レイノルズと亡き母親との関係について、ポール・トーマス・アンダーソン監督は『タイムアウト』誌でのインタビューでこんな風に言及している。


――本作におけるレイノルズを「病んだ男性性(toxic masculinity*9)」と形容する向きもありますが*10


PTA:「病んだ男性性」とは現代的な言いまわしだね。そう呼んでもいいとは思う。しかし、むしろ「子供のまま身体だけ大きくなってしまった大人」*11と言ったほうがよりふさわしいかな。母親に溺愛されて育った息子が、大人になっても子どもっぽいふるまいを続けていたらどうなるか? という話だ。


https://www.timeout.com/london/film/does-daniel-use-emojis-no-hes-got-a-flip-phone-paul-thomas-anderson-on-phantom-thread

 アルマをカントリーハウスに連れ込んだレイノルズはアルマに母親*12の写真を見せる。ウエディングドレスを着た肖像だ。十六歳だったレイノルズは再婚する母親のために自らの手で白無垢のドレスを誂えたという。アルマは尋ねる。「そのドレスは今どこに?」「さあ……どこだろうね。灰になってしまったのかも。散り散り(pieces)になってしまったのかも」


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 話題はレイノルズの結婚観へと移る。
「言い切ってもいいが、私は一生結婚しないよ。断固として独身を貫く。結婚は私を惑わすだろう。心を乱されるのはきらいだ」
 アルマはレイノルズの強がりを見抜く。「あなたは強がっているだけね」
 レイノルズは意地を張る。「強がってはいないさ。ほんとうに強いんだ……他人の期待や憶測など頭痛のタネにしかならない」

 ポール・トーマス・アンダーソンの言う「この映画の最も重要なポイント」――「自分中心で愛には興味のない男が、究極的に愛で満たされ、誰かを必要とし、頼ることを知る」*13に至るまでの予兆が示される。アルマはレイノルズに欠けている「何か」を知っている。ジョアンナのようなレイノルズの愛を「待っているだけ」だったこれまでの専属モデルたちとは一線を画している。


 だが、最初はレイノルズに支配権がある。レイノルズはアルマを仕事部屋に連れ込んで肌着一枚に剥く。シリルが遅れてやってきて、初対面のアルマに近づいて匂いを嗅ぐ。「サンダルウッド、ローズウォーター、シェリー……それにレモンジュース?」「ディナーに魚料理を食べたので……」

 彼女はにおいをまとっている。


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 姉弟はアルマの採寸を始める。
 一個の人間における身体の支配権が剥奪されていく、実にエキサイティングなシーンだ。
 ポーズを指定し、身体をバラバラの pieces に切り分け、その長さを数字に変換する。モノとなってしまったアルマの身体はもはやアルマのものではない。それを再構築する権限はデザイナーであるレイノルズにのみ与えられてしまった。
「ちゃんと普通に立って」レイノルズはアルマに命じる。
「普通に立ってますけど……」「さっきみたいに」「さっきみたいって言われても」「まっすぐ立って」「まっすぐ?」「そう、そういうふうに」「はあ、なら初めからそう言ってください」

 レイノルズは姿勢を掌握するだけは飽き足らない。

「君は胸がないね」
「ええ、知ってます」
 自分の胸囲の不足について謝るアルマにレイノルズは、 
「いやいや、君は完璧だよ。私の仕事は君の胸をふくらませることだ――私が望んだ場合には」

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 身体の動作のみならず、身体そのものの改造権まで握ってしまう。機械的に告げられた数字をノートに書き記していくシリル*14の不気味さもあいまって、ほとんど暴力的な光景だ。とはいえ、採寸のあいだ中アルマが見せている不遜な物言いや表情は、彼女が単に唯々諾々と姉弟の「ハウス」に飲み込まれていかないことを予告してもいる。


 アルマの身体を奪ったレイノルズは、「ハウス」(シリルの支配領域だ)の一室を与えることで空間をも制限し、そして時間をも奪う。
「おやすみなさい。明日は早めに仕事を始めるよ」
「何時ごろに?」
「私が起こしてあげる」

 そうして、彼女たびたび夜も明けきらない早朝に叩きおこされるはめになる。
 
 身体、空間、時間を取られてしまったアルマはしかし不思議と気高く在る。
 あまつさえ、レイノルズの服に「わたしはあんまり好きじゃない。布地が主張しすぎる」とケチをつけたりもする。レイノルズは「これは正しいから正しいんだ」とアルマの意見を聞き入れない。「たぶん、きみの趣味(taste)もいつかは変わるさ」
 アルマも口ごたえする。「たぶん、変わらないかも」
 レイノルズはふきげんそうに「たぶん、君は趣味が悪いんだね」
 アルマは反駁する。「たぶん、わたしにはわたしの趣味があるのかも」

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 味覚(taste)が最終的に変わるのはどちらかを知っていれば、実に興味深い会話だ。彼女の好み(taste)を奪うことだけはレイノルズにもできない。


 次にアルマの taste が色濃く出るのは、朝食のシーンだ。ジョアンナがいたときの冒頭のように、窓を背にして正面にレイノルズ、左手にシリル、右手にアルマが座る。三角の構図の三角関係。
 レイノルズがなにより静穏を求めるこのテーブルで、アルマはざりざりと妙に大きな音を立ててトーストにバターを塗る。手元に集中したいレイノルズの耳に障る。「おねがいだから、そんなに動かないでくれるか(Please, don’t move so much)」
 そんなに動いてない、と反論するアルマをさえぎって「It's too much movement. It's entirely too much
movement at breakfast.」と繰り返す。*15元はと言えばアルマが move too much だったからこそ、レイノルズは彼女を発見できたというのにこのときはその動きの多さが気に入らない。
 シリルは着付けのときに弟を擁護したときのように、「朝食は別々に取るべきかもしれないわね。彼はルーティンを乱されるのがきらいなの」とアルマに手厳しくあたる。


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 狂騒じみた新作お披露目ショーを終え、レイノルズはアルマとカントリーハウスでの休暇に向かおうと車に乗りこむ。しかし、精根尽き果ててしまった彼は運転ができない。じりじりとズームでアルマの顔ににじり寄っていくカメラが何かを予感を孕みつつ、アルマは「運転、代わらせて」と申し出る。
 ボイスオーバーでアルマはショーを終えた直後のレイノルズの状態をこう表する。「まるで……まるで子どもみたいなの。甘やかされてダメになった赤ちゃんみたい。こういうときの彼はとてもやさしくて、素直なの。数日そんな状態が続いて、また彼は元気を取り戻す」


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 元気な彼とは、不遜な彼であるということだ。復調したレイノルズは初めてアルマを採寸した部屋で仕事を再開する。アルマは彼にお茶を持っていくが、不機嫌に拒絶される。*16
カントリーハウスでアルマはキノコ採りにでかけ、お手伝さんと調理する。
「ヒダがついたキノコには毒がありますよ」とお手伝さんは言う。それと、キノコを料理するときにバターを入れすぎないことも。「ミスター・ウッドコックはバターを入れすぎるのが大きらいですからね」

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 レイノルズの taste を熟知したアルマは、もう動きすぎない。微かな音すら立てずに朝食のトーストにバターを塗る姿に、シリルは目を瞠る。

 レイノルズは富豪であるバーバラの服を仕立てる。ドミニカのあやしげな美男子と再婚する彼女の結婚式に招待を受けるが、あまり気乗りがしない。
 服を仕立てたのち、バーバラは再婚を告知する記者会見に出る。記者から、夫はバーバラの財産目当てで結婚したのではないか、という質問が飛ぶが夫は否定する。「では、バーバラさん、あなたは新しい夫の人生に何をもたらしたのですか?」
 彼女は答える。「誠実さよ」
 自分がレイノルズのドレスにふさわしくないことを知っている彼女は、自分がウソをついていることも知っている。しかし、それでもレイノルズのドレスを着てパーティに出ることをやめられない。

 レイノルズはアルマとともにバーバラのパーティに出席する。晴れの席で狂態を見せるバーバラを見かねたアルマは憤然として「彼女は『ハウス・オブ・ウッドコック』のドレスにふさわしくない」と、酔いつぶれて眠るバーバラからドレスを剥ぎ取りに向かう。
 バーバラから剥いだ緑色のドレスをかついで、ふたりは夜の街をはしゃぎながら駆ける。
「ありがとう、愛してる」とレイノルズはアルマに言う。

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 完璧にレイノルズと通じ合ったかに思われたアルマに、またもや危機が訪れる。ベルギーの王女が結婚式のためにウエディングドレスを仕立てにやってきたのだ。レイノルズの母のときのような白無垢のドレスを。レイノルズと親しげに振る舞う王女に、アルマは何とはなしに心を乱される。彼女の知らない彼はいったいどれだけいるのだろう。

 王女が帰った後、アルマはシリルのオフィスを訪れ、「レイノルズのためにサプライズパーティーがしたい」と申し出る。
 レイノルズの性格を知り抜いた姉は強硬に反対する。だが、アルマも強硬に決行を宣言する。ここまで生活を共にしてきて、アルマも彼の taste を知らないはずはない。レイノルズがサプライズを嫌うと知った上で、「自分のやりかたで彼を愛したい」と言う。「わたしは自分のやりかたで彼を知る必要があるんです」


 アルマはひとり「ハウス」に残ってレイノルズを待ち構える。レイノルズとの最初のデートを彷彿とさせる赤いドレスを身に着け、本来は彼のポジションであるはずの階段の上から彼を見下ろして出迎える。
 サプライズにレイノルズは戸惑うものの、しぶしぶ付き合って彼女の手作りのディナーを一緒に囲む。ワイングラスにそそいだ飲み物(炭酸水?)にはレモンの輪切りが浮かべてある。初デートのおもいでのにおい。アルマは出会いを再演しようとしている。
 前菜はアスパラガスのバターソース。レイノルズはこれみよがしに卓上の塩をふりかけて齧る。アルマは尋ねる。「おいしい?」。レイノルズはぶっきらぼうに「そうだな」と答える。
 アルマは「いえ、嘘だわ。あなたはちっともおいしいとは思っていない。いつもなら感想をつけくわえるはず」と言う。
 レイノルズも負けてはいない。「私がアスパラガスをオイルと塩で食べるってことは知ってただろ」
 味付け(taste)の主導権争いをめぐる衝突は取り返しのつかないところまでいく。
「何が望みだっていうんだ、アルマ」
「私はあなたとの時間が欲しいだけなの。私だけのあなたとの時間を。私とあなたの間には何かが……距離があるわ」
 レイノルズにはわからない。
「こんなくだらないことよりもっと他のことに私の時間を使いたいんだ。私の時間、私の時間だ!」
 アルマもキレる。「あなたの時間に私は何をやっているんでしょうね? いったいここで何を? ただ立って、馬鹿みたいに待つだけ」
「待つ、って何をだ?」
「あなたがここから私を追い出すのを待っている。だから、そう言って。出て行けと言ってれれば、バカみたいに立ち尽くさなくてすむ。なんでそんなに私に冷たいの。なんでそんなひどいことを私に言うの」
「ここは私の家か? 私の家だよな? まるで知らない外国に放り込まれた気分だ。敵の国境を越えた場所に」

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 こうした時間と空間と食を巡る激しい応酬の後、アルマはナプキンをレイノルズに投げつけて去っていく。


 翌朝、彼女は「ヒダのついた」キノコを潰して、レイノルズ専用の急須に混入させる。毒はじわじわと効いていき、完成したベルギーの王女のウエディングドレスを検分するころには立っていられなくなる。
 自室で昏倒していたレイノルズをアルマはベッドに横たえる。レイノルズやシリルに部屋から出るように言われても、彼女は断固として居座ろうとする。レイノルズが倒れているあいだ、一時的にアルマが空間を支配する。
 どうも病気の原因に勘付いているようすのシリルはアルマの反対を押し切って医師ハーディを呼ぶものの、レイノルズは診察を拒否して追い出してしまう。
 二階のベッドでねむるレイノルズの真下では、シリルやお針子たちがレイノルズが昏倒としたときに台無しにしてしまったウエディングドレスを大急ぎで直している。アルマはお針子のひとりに「何かわたしにできることは?」と尋ね、ドレスのすそをピンでとめておく作業をたのまれる。ハウスで「待っているだけ」だった彼女は本来レイノルズの領域である服に自分もかかわれてうれしそうだ。

 一方熱にうなされるレイノルズは部屋の片隅に母親の幻影を見る。
「ここにいるのかい? いつもここにいたのかい? 母さんがいなくてさみしいよ。いつも母さんのことばかり考えていた。ぼくの名前を呼ぶ母さんの声を夢に聴くんだ。目覚めると、涙が頬にこぼれている。さみしいよ。ただそれだけなんだ。なんて言ってるの、聞こえないよ……」

 開いた扉が母親の幻影を遮るようにして、アルマが現れる。このとき、レイノルズは彼女こそ母親の代わりにさみしさを埋めてくれる存在だと確信する。
 アルマはレイノルズに慈母のように語りかける。
「熱は下がったみたいね」
「愛してるよ、アルマ。君なしではもう生きられない。愛してる」

 全快した翌朝、修復されたウエディングドレスの横でアルマは眠り込んでいる。レイノルズは彼女の足に口づけをしてやさしく起こす。*17

「やりたいことがたくさんある。自分の歳月は無限だと考えていたけれど、そうじゃないと気づいた……。変化のない家は死の家だ。アルマ、私と結婚してくれるかい?」

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 こうして、「ハウス」は変化する。亡霊に支配されたレイノルズの支配するハウスはたしかに「死の家」だったのかもしれない。毎日毎日常に同じルーチーンを繰り返すレイノルズは静かに腐敗していっていた。この後、レイノルズは客離れを結婚のせいにするけれども、彼のデザイナーとしての創造力の衰えは実は結婚前から兆していた。彼は、王女に捧げるドレスを前にして彼はお針子たちの縫製を讃えながらも、「でもこれはダメだ……醜い……」とつぶやいて倒れたのではなかったか。
 病の床に伏せったことで、レイノルズは無限に続くと思っていた日々にも終わりが来ると悟った。死を意識した。肉体的な、あるいはデザイナーとしての精神的な死を回避するために彼にとっての永遠の象徴である母親の写し身であるアルマと結婚しようと決めたのだった。

 しかし、結婚するとやはりアルマは「ハウス」からはみ出すふるまいを見せる。
 新婚旅行先のアルプスで、アルマはレイノルズを置いて一人でスキーツアーに出かけ、一度は収まっていたバター塗りの悪癖も再発して、スープもズーズーとやかましく飲む。二人で訪れたパーティでは、アルマはドクター・ハーディとイチャついてレイノルズを不愉快にさせ、食後のバックギャモンでは逆にレイノルズに負かされたアルマが機嫌をそこねて会場を飛び出す。

 大晦日もレイノルズは家で過ごしたがるが、アルマは新年のパーティに出たいと言って一人で家を出る。残されたレイノルズは仕事が手につかなくなり、ドアの前でうろうろしながら彼女の帰りを待つ。親の帰りを待ち望む子どものように、今度は彼が「待つ側」になってしまう。
 もはや「ハウス」は彼にとっての安住の地ではない。アルマそのものがレイノルズの求める空間になってしまっている。母親の髪の毛は肌身離さずに持ち歩けるけれども、アルマはなぜかレイノルズの手元から離れていってしまう。安心するための結婚が、逆に彼を不安に陥れる。彼はアルマを追いかける。

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 数日後、シリルのオフィスを訪れたレイノルズはある常連客*18が「ファッショナブルでシックな服」を求めて、「ハウス」から離れたと聞かされ、キレる。
 情緒不安定な彼はシリルに「仕事にならないんだ。集中できない。自信をなくしてしまった。助けてくれ」と乞う。
「”彼女”はこの家にはふさわしく(fit)ない。私たちふたりで築き上げたこの「ハウス」を、今や彼女がしゃちゃかめっちゃかに乱してしまっている。彼女は私たちを仲違いさせようとしている。すべてを影で覆ってしまうんだ、シリル」
 自らの規律を重んじるレイノルズにとって労働者階級の移民*19でなにかにつけハウス・オブ・ウッドコックの型からはみ出してしまうアルマは、耐え難かった。そんな彼女に母親の面影を重ねて結婚してしまったことを「とんでもない間違いだった」と悔やむのだった。

 アルマはレイノルズの訴えを彼の背後で黙って聴いている。

「この家には静かな死の空気が漂っている。いやな臭い(smell)だ」

 シリルのオフィスを追い出されたアルマはふたたび毒キノコを摘みにいく。

 今度はレイノルズの眼の前で調理する。毒キノコをバラバラの pieces に切り刻んで、たっぷりのバターで炒める。溶き卵が茶色く濁るほどの量のバターだ。レイノルズの好まない量のバターだ。
 アルマの料理姿を覗き見るレイノルズは既に何かに気づいている。

 きのこ入りのオムレツが完成する。

「お水はいる?」

 アルマはこれみよがしにジョボジョボと音をたててコップに水をいれる。

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 オムレツを供されたレイノルズは最初に何をするか。皿を持ち上げて、たっぷりとにおいを嗅ぐ。
 そうしてアルマを見つめながら、あるいはアルマに睨めつけられながら、口に含んでゆっくりと咀嚼する。彼女の taste を愉しげに受け容れる。

 求婚のときに「変化がない家は死の家だ」と言ってアルマを迎え入れたレイノルズは、姉に対してはアルマこそ家に充満している死の臭いの発生源だと告発した。停滞が死なのか、変化が死なのか。どちらもだ。停滞と変化のあいだ、生と死のあいだを行き来することでレイノルズはやっと生きることができる。ファッションのモードが変化した瞬間に停滞を孕み、停滞が変化を呼ぶように。
 だから、アルマは小さなこどもに言い聞かせるように語りかける。

「あなたには倒れていてほしい。無力に。おだやかに。素直に。私にしか助けられないように。そしてまた力強く立ち上がってほしい。あなたは死なない。たとえ死を願おうと、あなたは死なない」

 レイノルズは笑みを浮かべる。「倒れる前に、キスをして」
 
 アルマは暖炉のそばで膝枕の態勢になってレイノルズの頭をやさしく撫でる。
「私はあなたのドレスを管理する。埃と亡霊と時からあなたのドレスを守ってあげる」
「そうだな、でも今のところは、僕たちはここにいる」
「そう、ここにいる」
「お腹がすいたよ」
 
 かつてレイノルズの所有物だったドレスは、アルマの管理下に置かれる。もうレイノルズは母親の亡霊を幻視することはないだろう。アルマが亡霊から守ってあげているから。二十年後には彼の肉体とともにオートクチュール業界もに朽ち果てるはずであるけれども、彼が死をおそれることはないだろう。アルマが時から守ってあげているから。彼が飢えて死ぬこともないだろう。アルマがいつでも食べさせてあげるから。
 もはや「ハウス」は姉弟の家ではない。母に「私が死んだら、弟の面倒を見るのよ」と言われて*20自分なりに母親の代理を演じてきたシリルには、夫婦の子ども*21のゆりかごを揺らす程度の役目しか与えられない。一方でかつては服を着せるマネキンの仕事くらいしかなかったアルマは活き活きと「ハウス」を駆け回って、彼女の taste でもって服を管理する。

 管理といえば、映画全体の語りを握っているのもまたアルマであることを思い出しておきたい。本作は物語本編における時間軸の外部に位置する語り手によって語られる、いわゆる「枠物語(frame story)」の形式をとる。「枠」を握っているのは最初から彼女だったのであり、いくらレイノルズが「彼女はここにフィットしない」と言い募ったところで見当違いだったのだ。


 出会ったときにはレイノルズの側が支配していたはずの空間・時間・身体が、いつのまにかアルマの手中に収まっている。ポール・トーマス・アンダーソン自身が述べているように、「これは自己中心的な男を解体するヒロインの物語」*22なのだろう。子どもっぽい男によっておもちゃのように pieces に分解された女が、男を解体仕返す。バラバラになったふたりは互いにしだれかかるようにして、織り糸を交錯させて、ふたりのドレスを仕立て上げる。


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 アルマはレイノルズに死を味合わせることで生を与えた。*23

 レイノルズと彼の芸術は永遠に死なない。アルマがそういうふうに語ることを望むかぎりは。

*1:『ザ・マスター』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』がそうであったように、ポール・トーマス・アンダーソン作品において主人公の名前はかなり直接的にテーマを物語る。アルマの役は、企画当初は「アグネス」という名前で進められていたらしい。(imdbトリビア欄より)処女性や夫婦の守護聖人である聖アグネスを意識したのだろうか。しかし、最終的にはアルマという名前になる。アルマという名は単独ではさしたる意味付けもないように思われるけれども、本作がヒッチコック・リスペクトに満ちた作品であることを踏まえればある関係性が導き出せる。アルマとは、アルマ・レヴィル――アルフレッド・ヒッチコックの妻であり脚本家だった女性の名だ。レイノルズの姓がヒッチコックと脚韻を踏む「ウッドコック」であることも考えると、この巨匠夫婦の関係性が『ファントム・スレッド』にも取り込まれていると見ても穿ち過ぎではないだろう。アルマとヒッチコックの関係は2012年に公開されたサーシャ・カヴァシ監督の伝記映画『ヒッチコック』にも描かれている。芸術家肌で自己中心的なヒッチコックの振舞いに、アルマがイライラさせられる、だいたいそんな内容だったはずで、いかにも『ファントム・スレッド』のアルマ-ウッドコックを想起させる。

*2:このとき交わされる「お母さんの目の色はきみみたいにブラウンだった?」「緑よ」というやりとりは、その後、緑色のドレスが劇中でどのような使われ方をするかに着目すれば興味深いものとなる

*3:the canvas

*4:後に出てくる not cursed という言葉が関連づけられる

*5:パンフレットより

*6:「男と女の力関係はとても不安定なもの。愛し合っていても細い糸にしがみつくようだ」『毎日新聞』インタビュー https://mainichi.jp/articles/20180529/dde/012/200/008000c

*7:ポール・トーマス・アンダーソンの前々作『ザ・マスター』はワインスタイン・カンパニーがプロデュースしていた。ちなみに、『ファントム・スレッド』のクランクインはドナルド・トランプの大統領就任宣誓式の当日だったという。

*8:余談だが、やはり天才肌の芸術家であるダーレン・アロノフスキーに散々振り回されて破局したジェニファー・ローレンスは本作を「三分と観ていられなかった」という。http://www.indiewire.com/2018/02/jennifer-lawrence-shut-phantom-thread-off-paul-thomas-anderson-1201932932/

*9:心理学およびジェンダー研究の概念。欧米における男性の「こうあるべき」という規範によるプレッシャーから誘発されるミソジニーホモフォビア、過度な貪欲さ、暴力的な支配などといった社会の害毒になる行動を指す。また、男性的な規範にそぐわない自分自身を害する場合もある。英語版ウィキペディアの説明をざっくりまとめるとそんなところ。

*10:『ニューヨーカー』誌に掲載されてプチ炎上を喚んだコラム、「なぜ『ファントム・スレッド』は病んだ男性性のプロパガンダなのか?」を念頭に置いた質問。https://www.newyorker.com/culture/culture-desk/why-phantom-thread-is-propaganda-for-toxic-masculinity

*11:arrested development本来は医学用語で精神や肉体の発育が停止してしまった状態を指すことばであるが、この場合はもう少しやわらかい意味合いを持つ。関係ないけれど、おもしろコメディ・ドラマ『アレステッド・ディベロップメント』はネットフリックスで好評配信中

*12:ポール・トーマス・アンダーソン自身の母親は怒りっぽくて、気難しい性分だったといい、『ブギーナイツ』での主人公の母親にキャラクターが反映されている。:Jason Sperb『Bloosoms and Blood』より

*13:映画秘宝インタビュー

*14:彼女とて採寸の最中に微妙な感情の揺れをみせるのだが

*15:レイノルズは短い間に特定のフレーズを繰り返す癖があり、そこも神経質なキャラクタ表現に一役買っている

*16:この場面での「(お茶を持って出ていっても)邪魔されたという事実はこの部屋に残るんだ」というレイノルズのセリフはPTAのお気に入りの一節らしい

*17:このときもアルマは「緑色」の毛布をかぶっていることにも留意しておきたい

*18:冒頭で着付けに訪れていたヘンリエッタという女性

*19:アルマを演じたヴィッキー・クリープスのインタビューによると「(クリープス自身と同じく)アルマはルクセンブルク出身で、第二次大戦後にドイツから流浪してきて、一時は小さな漁村で恋人と暮らしていたこともあった」というバックストーリーがあったのだが、本編ではカットされたという。https://thefilmstage.com/features/vicky-krieps-phantom-thread-paul-thomas-anderson-interview/  また、衣装のマーク・ブリッジスは「アルマは、漁師の娘だから、最初の頃は、服は家で手作りしたものが多かった。そして上着は、誰かが着たもののおさがりだろうし、手袋は、姉妹から譲り受けたもの。レイノルズと出会った頃のアルマの衣装は、彼女の出自がわかるような衣装にしているんだ。」と証言している。https://madamefigaro.jp/culture/series/interview/180528-phantom-thread.html

*20:監督インタビューより http://www.moviecollection.jp/interview_new/detail.html?id=813

*21:ゆりかごの赤ん坊の顔は映されないものの、制作会社が公式 youtubeチャンネルに公開した削除シーン集でははっきりと映っている。https://www.youtube.com/watch?v=lPwfENwnMlI

*22:AERA 2018年 6月4日号』インタビュー

*23:あるいは死んだ後に生きるということは、レイノルズが幽霊になってしまったことを示しているのかもしれない。ポール・トーマス・アンダーソンはインタビューで「幽霊は本来喜ぶべき存在なんだ。死後の世界があるということを約束してくれる存在だからね」と語っている。https://www.youtube.com/watch?v=I9aVSMeL3Ws

2018年上半期の新作映画の思い出とベスト20作

 対象作品数はだいたい90ちょっと。
 頭がぼんやりするのでコメントは短く。

上半期ベスト2

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2『リズと青い鳥』(山田尚子監督、日)


『リズと青い鳥』本予告 60秒ver.


 山田尚子はハッピーエンドや幸福の定義を更新した。

proxia.hateblo.jp
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3『パディントン2』(ポール・キング監督、英)


映画『パディントン2』予告篇


 続編というのはかくあるべきです。クマ映画オブジイヤー

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5『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(ヨルゴス・ランティモス監督、英・アイルランド


映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編


 ヒッチコックの映画自体はそんな好きでも嫌いでもないんですが、ヒッチコキアンな映画は好きなものが多いです。

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6『ビューティフル・デイ』(リン・ラムジー監督、米)「


You Were Never Really Here Movie Clip - Alphabet (2018) | Movieclips Coming Soon


 ホアキン・フェニックスが児童売春してるやつをボコボコにしにいったら大変な目にあう映画。『タクシー・ドライバー』や『レオン』に対する批評的な側面もあり(まあ『タクシー・ドライバー』も元々ヒーロー映画ではないんですけど)、そこがラストの絵面のすさまじさに直結しています。


7『犬猿』(吉田恵輔監督、日)


映画『犬猿』予告編

 兄弟姉妹が互いに甘えあい憎しみ合う映画。クライマックスでくどくなりすぎるきらいはあるんですが、とにかく細かなイヤ描写が最高にうまい。


8『ぼくの名前はズッキーニ』(クロード・バラス監督、仏)


「ぼくの名前はズッキーニ」予告編


 孤児院もの。「なぜアニメなのか」「なぜストップモーションなのか」について常に自問しているのが伺えます。孤児院舞台でいえば『きっと、いい日が待っている』という北欧映画もよかったです。しかし、今年は『万引き家族』といい『ワンダー 君は太陽』といい『フロリダ・プロジェクト』といい、子ども映画が元気ですね。


9『ペンタゴン・ペーパーズ』(スティーヴン・スピルバーグ監督、米)


メリル・ストリープ、トム・ハンクス主演!『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』予告編


 なぜこんな地味な話(政治的には大事だけど)をウルトラエキサイティングに撮れるのか。カメラがみょんみょん動く。


10『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ監督、米)


映画『君の名前で僕を呼んで』日本語字幕付き海外版オリジナル予告編

 リズムの点で肌に合わないところがちょっとあったけれど、この圧倒的な夏感には抗いがたい。

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11『恋は雨上がりのように』(永井聡監督、日)

 ラストの「フロントメモリー」への入り方が最高。『帝一の國』の永井聡監督を信じてよかった。広告業界出身という出自の意地汚さの割には、演出におもいがけない品性があるのが彼の美点です。


12『30年後の同窓会』(リチャード・リンクレイター監督、米)

 三人のおじいちゃんたちのロードムーヴィ。キャラの愉しさがほぼダイレクトに観客にも伝わってくる稀有な作品。リンクレイターはどんどん洗練されていく。


13『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』(マイケル・ショウォルター監督、米)

 ジャド・アパトーってあんまり好きじゃないんだけどこれはいいなあ、と思っていたら別の監督でした。大筋では難病ものといえるんだけど、安易にお涙頂戴に流れないでいつつも暖かい話にもっていく巧さがあります。実話なんですが。個人的には『シリコン・バレー』のクメイル・ナンジアニが出世していてよかった。『セントラル・インテリジェンス』では超脇役だったんですけどね。


14『嘘八百』(武正晴監督、日)

 
 『30年後の同窓会』が今年最高のアメリカブロマンス映画なら、こっちは今年最高の日本ブロマンス映画だと思います。コンゲームものとしてはまあナニなんですけど。


15『ピーターラビット』(ウィル・グラック監督、米)

 喋る動物映画における「喋れること」というギミックを説話レベルで利用した点でエポックだったと思います。

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16『パティ・ケイク$』(ジェレミー・ジャスパー監督、米)

 クソ田舎のデブい女の子がラップでサクセスしようと友人のオタク、林に住む中二病、おばあちゃんなどを集めたグループを作ってがんばる映画。「サンプリング」という要素を物語にいちいちエモく取り入れており、ヒップホップ映画としては一番好きかもしれない。


17『ミスミソウ』(内藤瑛亮監督、日)

 
 百合。


18『犬ヶ島』(ウェス・アンダーソン監督、米)

 ウェス・アンダーソンストップモーション、犬。十分おもしろいんだけれども、好きな要素の満漢全席なのだからもっと良くなっててもいいだろ、という思いがどうしてもぬぐいきれない。

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19『ボストン ストロング』(デヴィッド・ゴードン・グリーン監督、米)

 たまたま元恋人が参加するボストン・マラソンに赴いたところ、テロに巻き込まれて両脚を失い、気がついたら「ヒーロー」として事件に屈さないボストン市民の象徴に祭り上げられてしまったダメ男の奮闘記。ほんとうに特別なところが何一つない一小市民が、その自己認識と世間からの視線のズレとどう折り合っていくか、という視点から誠実に作られています。こういう役をやらせたらジェイク・ギレンホールは超一級。


20『ブリグズビー・ベア』(デイヴ・マッカリー監督、米)

 奇抜な設定もさることながらプロデューサーのミラー&ロードファン、そして『サタデー・ナイト・ライブ』ファンとしては見逃せなかった。ここまでオタクの人生を肯定してくれる映画だとは思いませんでしたね。肯定されたいオタクは観ましょう。



観たドキュメンタリー映画ぜんぶ

☆『私はあなたのニグロではない』(ラウル・ペック監督、米)


I Am Not Your Negro Movie CLIP - Future of America (2017) - Documentary


 とにかくアレック・ボールドウィンの文章とサミュエル・L・ジャクソンの語りがいい意味で重い。ここ数年、黒人映画は絶えず良作話題作を連発してきたわけですけれど、このところはどんどんパーソナルかつアクチュアルになっているように思います。キャスリン・ビグローが撮った『デトロイト』にすらその傾向が反映されているのではないか。



 『レイチェル:黒人と名乗った女性』(ローラ・ブラウンソン監督、米)

  歪んだ家庭で育てられた結果、歪んだ個性を身につけてしまった人間の悲劇。



 オデッサ作戦』(ティラー・ラッセル監督、米)
  ソ連崩壊直後のロシアで潜水艦を買い付けてコロンビアの麻薬カルテルに売ろうとした男の実話。とにかくうさんくさい人間しか出てこない。むちゃくちゃ時代のむちゃくちゃなエピソードばかりです。



 『テイク・ユア・ピル:スマートドラッグの真実』(アリソン・クレイマン監督、米)

  アメリカの大学や一般社会になぜスマートドラッグが蔓延してしまったのかを考えるドキュメンタリー。「価値のある人間にならなければならない」という強迫観念は近代以降すべての国家に通じるんだろうけど、ことアメリカにおいてはアメリカン・ドリームの裏返しなんだな、という意味で『ステロイド合衆国』(クリストファー・ベル監督)を思い出します。



 猫が教えてくれたこと』(ジェイダ・トルン監督、トルコ)

  イスタンブールに住むネコと彼らにまつわる人間たちを追ったドキュメンタリー。ネコを介して都市の在り方なんかも透けてくるわけですが、そんなことは放っておいてだいたいの人はネコをめでるとよい。



 『悪魔祓い、聖なる儀式』(フェデリカ・ディ・ジャコモ監督、イタリア)
  地元で悪魔祓い案件を粛々と処理しているカトリック神父さんのドキュメンタリー。悪魔憑きというものは精神病や生活に追い詰められたすえの癇癪など、近代以前の医学ではケアできなかったものだったんだなあ、とわかりますが、おそろしいのはそうしたトラブルが依然として悪魔憑きとして愁訴されつづけ、どころか案件としては増加しつつあるというのが現代の不思議。



 『サファリ』(ウルリッヒザイドル監督、オーストリア

  人間の放つ言葉の寒々しさにおいてはトップクラスで、これを観ると言葉などというものは空虚であるどころか害悪ですらないかと思えてきます。



 『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』(ホセ・ルイス・ロペス=リナレス監督、スペイン&仏)

  みんな大好き『快楽の園』についてのドキュメンタリー。



観たアニメ映画ぜんぶ

☆『リズと青い鳥
 『山村浩二 右目と左目で見る夢』(山村浩二監督、日)
 『犬ヶ島
 『僕の名前はズッキーニ』
 『リメンバー・ミー』(リー・アンクリッチ監督、米)
 『名探偵コナン ゼロの執行者』(立川譲監督、日)
 『ニンジャバットマン』(水崎淳平監督、日)
 『さよならの朝に約束の花をかざろう』(岡田麿里監督、日)
 『ボックストロール』( グラハム・アナブル&アンソニー・スタキ監督、米)
 『ボス・ベイビー』(トム・マクグラス監督、米)


 アニメ映画観てねーなー、と数えてみたら意外と観ていた。『右目と左目で見る夢』を観て初めてノーマン・マクラレンがおもしろいと感じたかもしれません。『リメンバー・ミー』はさすがピクサーの最新作という感じで、外しませんね。『ゼロの執行者』は前半退屈だったんですけれども後半に『ワイルドスピード』化してきて愉しくなりました。ところで公安警察がほとんど白色テロ機関として描かれてますが、大丈夫か? 『ニンジャバットマン』、総じておもしろく観ましたが、中島かずきの熱気のインフレーション芸は映画の尺にはあわないんじゃないかなあ。『さよ朝』については一本あるテーマについて記事を書こうとしました。いつか出すかもしれません。『ボックストロール』、ライカ作品で唯一日本にきてなかったのがソフトスルーとはいえ観られるようになってめでたい。『ボスベイビー』、ハンナ・バーベラ風のルックスを3Dでやる心意気は買いたかった。


姉映画五選

☆『ワンダー 君は太陽』(姉弟)(スティーヴン・チョボスキー監督、米)
 『ファントム・スレッド』(姉弟
 『犬猿』(姉妹)
 『スリー・ビルボード』(姉弟
 『ビリー・リンと永遠の一日』(姉弟)(アン・リー監督、米)

 『ワンダー』と『ファントム・スレッド』の二強ですね。これまでは。『聖なる鹿殺し』も入れていい気もする。


犬映画

☆『犬ヶ島
 『ワンダー 君は太陽
 『リメンバー・ミー
 『エターナル』(イ・ジェヨン監督、韓)
 『キングスマン:ゴールデン・サークル』(マシュー・ヴォーン監督、米)

 『エターナル』と『ワンダー』はエグい系の使い方。下半期に『犬ヶ島』を超える犬映画が果たして現れるのでしょうか?


オリジナル劇中歌・主題歌部門

☆「Mystery of Love」(サフィアン・スティーヴンス、『君の名前で僕を呼んで』)

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 「Never Enough」(ローレン・アラード、『グレイテスト・ショーマン』)

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 「It ain’t Fair」(ザ・ルーツ、『デトロイト』)

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 「山の音」(尾野真千子末井昭、『素敵なダイナマイト・スキャンダル』)

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 「Tuff Love」(『パティ・ケイク$』)

2018年上半期の新曲プレイリスト40曲

2018年上半期リリースでよく聴いてたやつ。映画主題歌に関しては日本公開時点で2018年であればOKという基準。カヴァーも。
基本的にはキャッチャーなポップが好きです。


鳴り止まない/集団行動

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Pet Cemetary / Tierra Whack

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SAD! / XXXTentacion

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Woop Woop / Kid Ink

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Make it Up As (feat. K. Flay) / Mike Shinoda

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Mystery of Love / Sufjan Stevens

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Lost in Paris (feat. GoldLink) / Tom Misch

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Ultimatum (feat. Fatoumata Diawara) / Disclosure

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ミラクルシュガーランド (feat. 桃箱) / Yunomi

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Must've Been (feat. Dram) / Chromeo

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Hateful Summer / Luby Sparks

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Youth (feat. Khalid) / Shawn Mendes

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Saturday Sun / Vance joy

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Never Enough / Loren Allred

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Sway / Tove Styrke

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(F**k a) Silver Lining / Panic! at the Disco

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Ornaments / Caitlyn Scarlett

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I Need Your Lovin' / Nao

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ICHIDAIJI /ポルカドットスティングレイ

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カラーズぱわーにおまかせろ!/カラーズ☆スラッシュ

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How Simple / Hop along

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High Five / Sigrid

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It Ain't Fair (feat. Bilal) / The Roots

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Dust / Gizelle Smith

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Curious / Hayley Kiyoko

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Alright / CYN

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I Never Dream / Against All Logic

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Corner / iri

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Wait (feat. A Boogie wit da Hoodie) / Maroon 5

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Drive / Molly Hammar


Birds On The Tarmac (Footnote III) / Leon Vynehall

leonvynehall.bandcamp.com


Your Song / World Maps

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2018年上半期の生き残るべき新連載マンガ十選

 一月ごとにまとめるはずが三月あたりからめんどくさくなったのでこの有様です。どの有様かな。

 というわけで、六月末日までに出た新刊漫画(新連載作)で個人的におもしろかったな、早く続きが読みたいな、と思ったものを選びました。いつのまにか既に終わってたらすいません。

 以前こういうリスト記事で72作とか挙げたら「多すぎる」と怒られたので、反省をふまえ、今回は十作+αにします。αには任意の数字が入ります。とりあえず覚えてる分だけなので、面白い作品で忘れたものがあったらごめんなさい。いや、あるんですよ。面白くても忘れるもの。

 例のごとくKindle版出ているやつ限定です。言っている意味がわかりますか、T島社? メガストア
 短編集とか単発長編とかは別の記事でやります。
 では、いってみよう。

2018年上半期の十選

まつだこうた『骸積みのボルテ』(バーズコミックス)

 従属先であった帝国の奸計によって滅ぼされた部族の生き残り、ボルテ・コア。平凡な少女にすぎなかった彼女は戦後、なぜかほとんど不死に近い自己再生能力を具えるようになり、帝国兵士を襲うテロリスト「骸積み」として恐れられていた。ボルテは親兄弟の仇で現在は行方不明となっている帝国皇帝の娘イリアを探して帝国領内を彷徨う。

おかか』、『超人間要塞 ヒロシ戦記』のまつだこうた先生の最新作。複数の時制が入り乱れる語りをとおして「骸積み」誕生を描く実験的な開幕からも新しいファンタジーを紡ぎ出そうする先生の意欲が伺えます。
 戦場で同胞を皆殺しにされた女戦士が人間離れした戦闘能力を発現して夜狼のような復讐マシーンと化す漫画といえば、伊藤悠先生の『シュトヘル』を思い出さずにはいられないわけですが、伊藤先生のシュッとシャープで緊張感のある線に比べ、まつだ先生の産み出す柔らかくラブリーな輪郭のキャラクターたちは獣人の住む世界感と相まって、どこかほのぼのとした印象を受けます。そうした柔和なキャラデザインを活かして骸積み化する前のボルテの日常パートだったり、ボルテを追う帝国の「骸積み」討伐部隊の面々を描く一方で、戦闘シーンではバイオレンスが一挙に爆発する。このメリハリが導入部の複雑な語りと非常にマッチしていて、読者にワクワクを与えてくれるのです。
 一巻のラストページのヒキも見事。こんどこそ、の期待がふくらみます。


佐和田米『アクロトリップ』(りぼんマスコットコミックス)

 魔法少女ベリーブロッサムが守る街に住む中学生、伊達地図子。ベリーブロッサムの大ファンである彼女はある日、街を脅かす悪の組織の総帥クロマから「うちの参謀にならないか」と勧誘を受ける。ベリーブロッサムによって倒されることを快感にしていたクロマだったのだが、あまりにもダメダメなため、このままだと戦闘で負けるだけでは済まされず組織ごと滅ぼされるのではないか、と危惧を抱いたのだ。悪の組織が潰されてしまえばベリーブロッサムの活躍も見られなくなってしまう……ベリーブロッサムを輝かせ続けるため、地図子はベリーブロッサムの「影」になる決断をする。

 『りぼん』から現れた刺客。広義の魔法少女もの、といいたいところですが、ほとんどアイドルものに近い。アイドルものというか、アイドルファンもの、『推しが武道館に行ったら死ぬ』のノリに近いかな。いや、あそこまで狂ってはいませんが。
 かわいくてがんばりやの魔法少女(アイドル)、地味な営業活動で彼女を支えるマスコット(マネージャー)、魔法少女の活躍に感涙し一介のファンでありながら売り出し戦略まで妄想し、好きが昂じてなんだかよくわからない仕事を始めてしまった主人公(ファン)、という構図に「ヴィランあってのヒーロー/ヒーローあってのヴィラン」という『LEGOバットマン』的なスーパーヒーローもののテーマを組み込んだ悪魔合体漫画です。
 とにかくギャグがキレています。魔法少女も悪の総帥も主人公もそれぞれにポンコツで愛嬌があり、読んだらみんなだいすきになることうけあい。


山田果苗『東京城址女子高生』(ハルタコミックス)

 都内の高校に通うあゆりは彼氏との痴話喧嘩のもつれで、たまたま通りがかった同級生に怪我をおわせてしまった。おわびを申し出るあゆりに対し、その同級生、美音は「東京城址散策部」に入部するよう要求する。城址とは昔あった城の跡のこと。気乗りしないあゆりだったが、美音になかば脅迫される形で世田谷城跡へ連れて行かれることに。

 地味な題材を女子高生のキャッキャうふふで味付けして売ろうとするマンガ飽きた……と思っていた時期がわたしにもありました。
 ややそそっかしくて荒っぽい江戸っ子な主人公と、一見善良だが悪意なく悪意をぶつけてくるサイコパス城址マニア女子の掛け合いのテンポが絶妙に心地よいです。女子二人のコンビが剥き出しでやりあってる感は同じ『ハルタ』連載の『星明かりグラフィクス』に通じるものがあります(キャラ自体のタイプは全然違いますが)。
 話づくりも巧い。一話ごとにあゆりが日常でぶつかる悩み未満のひっかかりをわざとらしすぎない程度に城址にまつわるエピソードとからめてクレバーに落としていて、これぞ短編の名手といった趣。
 それにしてもここのところのハルタの新連載はどれも強いですね。


知るかバカうどん『君に愛されて痛かった』(バンチコミックス)

 恋慕していた男子に刺されて死んでしまった女子高生の回想から始まる衝撃のオープニング。女子高生かなえはクラスでは人気者グループの下っ端として必死に居場所を作る一方で、夜になると援助交際に走って「必要とされる」欲求を満たしていた。が、ある日、合コンで知り合った野球部のイケメン寛に援交現場を見咎められたことをきっかけ、もともと歪んでいた日常が音をたてて軋んでいく。

 映画にしろマンガにしろ、いじめという問題を多視点で描く作品が増えたように思いますけれど、これは本来「みんなかわいそう」に還元されるそうしたテクニックを「みんなクソで世界はゴミだ」にズラす禁断の呪法に変えていて、おっとろしいなとおもいます。なにかと怠惰におちがちなエグい系残酷話でありながらも、テンプレに対する繊細な反抗が迸っていて、今後が実に愉しみ。特に「わたしには友達(みんな)が居るんだ」という感動セリフの定型文をあそこまで悪意たっぷりに読み替られるに至っては感動すらおぼえました。


山本中学『戯けてルネサンス』(ヤングキングコミックス)


 『繋がる個体』の山本中学先生新作。極端な引っ込み思案と一風変わった名字のせいで陰惨な中学時代を送っていた西名生蓮。彼は学生生活を「リセット」しようと昨年まで女子校だった高校に入学し、男子が二人しかいないクラスに振り分けられる……も入学初日から緊張で嘔吐してしまう。果たして彼は女子だらけのクラスで自分の居場所を築けるのか。

『君に愛されて痛かった』が「世界は残酷です」という学園ものなら、本作は「世界は思ったよりもやさしい」というお話。
 常に後ろ向きな自意識モノローグを垂れ流しているコミュ障男子が変わりたいと願い、その一歩を踏み出そうする。その行為自体は美しくあっても現実問題、世間というのはそうした勇気ある一歩に対していつも理解があるわけではありません。
 が、本作ではとにかくそういう小さな勇気をとにかく肯定してくれます。つながろうとさえ願うのなら、コミュニケーションをはかる気持ちさえあるのなら、他人はちゃんと応答してくれるのだよ、という至極まっとうな応援をしてくれるいい漫画です。そのやさしさが嘘くさかったり、上っ面をなぞるだけにならないキャラクターの深度も魅力です。


福島聡『バララッシュ』(ハルタコミックス)

 2017年。アニメ監督・山口奏と作画監督宇部了の幼馴染コンビは初めてのオリジナル長編劇場アニメを成功させた。物語はそこから三十年を遡り、1987年、十七歳だった二人の出会いに移る。アニメオタクであることを隠してリア充グループに属していた山口は、天才的なイラストレーションの才能を持った宇部を見出し、二人でアニメ業界に進むことを決意する。彼らは志望する東京のアニメスタジオに見学に行くのだが、動画志望の宇部が即戦力として遇される一方で、演出志望の宇部はスタジオの監督から「お前は凡才だ」と言われ……。


 ビーム系の狂児、ロマン溢れるひねくれマンガばかり描いてきた(印象)福島聡先生の最新作はなんとストレートに爽やかな青春もの。
 昭和アニメ史を描く実録的な側面から言えば、アニメ版『アオイホノオ』とでも呼ぶべきでしょうか。アオイホノオもアニメですが。そこに日本橋ヨヲコ成分を足した感じ。
 演出志望のアニオタとアニメーター志望の天才のコンビで、視点を前者に置いてるところが重要です。アニメーターは高校生でも絵をかけばある程度実力を示せるけれども、演出のほうはそうもいかない。後に監督として大成すると初手で示されているとはいえ、17才時点の山口は単にアニメをたくさん観てるだけのオタクにすぎません。その格差を自覚しつつ嫉妬する気持ちと、夢を共にする唯一の仲間である宇部に対する友情との間で揺れ動くワナビ男子の繊細な心があたたかなまなざしでもって描かれていて、実にうつつい。
 

大窪晶与『ヴラド・ドラクラ』(ハルタコミックス)

 十五世紀の中欧、ワラキア公国(現ルーマニア)。周囲を大国に挟まれたこの小国に、新たな君主として若きヴラド三世が戴冠する。大国の思惑と有力貴族たちの専横に板挟みにされ難しい舵取りを迫られるヴラド三世であったが、政治的な妥協を重ねる陰で密かにある陰謀をめぐらせていた……。

 ”串刺し公”ヴラド三世はフィクションの題材にされる事が多い人物ですが、やはりクロースアップされるのは「元祖ドラキュラ」としての面であり、そこにきてスーパーナチュラルな能力を持たない一人の人間としての「ヴラド三世」を描こうとする試みはかなりめずらしい。
 話としては陰謀と談合を中心とした政治劇。ワラキア独特の統治システムや中世ヨーロッパの文化などのディティールがきっちり書き込んだうえでの展開なので、読んでいてかなり説得力があり、飽きません。一筋縄ではいかない大貴族との権謀術数のやりあいは、全体的に静かなタッチに反して、とてもエキサイティング。ハルタは伝統的に歴史ものに強いですね。


道満晴明メランコリア』(ヤングジャンプコミックス)

 ショートショートの名手、道満晴明先生による短編集。彗星メランコリアの接近により人類滅亡が秒読みとなった世界で織りなされる主に恋模様。

 生き残るべきもなにも、上下巻なので次で終わるんですが。
 あいかわらず『メランコリア』だったり『マグノリア』だったり映画・サブカルネタをしのばせつつ、各話ごとにきっちり小咄としてオチをつけ、世界を作り上げていくつまりはいつもの(『ニッケル・オデオン』以降の)道満晴明先生です。いつもの、な割りにマンネリ感が薄いのはドライさとリリカルさを共存させつつ気の利いた少し不思議エピソードをコンスタントに作り上げられる人材が現代日本にあまり存在しないからで、石黒正数先生が現状長編に専念している以上、しばらくは道満先生の天下が続くことでしょう。いいのか、ヒコロウ?


原作・久住昌之、漫画・武田すん『これ喰ってシメ!』(ニチブンコミックス)



「週刊漫画サボウル」の編集部でデスクとして辣腕をふるうアラフォー編集者神保マチ子(独身)が、若手編集者岡野ひじきとともに今日も元気に原稿を取り立てつつ、うまいメシを食う。

 グルメ漫画ってそんな好きじゃないんですよね。嫌いでもないんですけど。読むとお腹空くじゃないですか。それでも年に一本は心にヒットする作品が出てくるのでつい漁ってしまいます。今年はそう、『これ喰ってシメ!』。
 久住先生原作ものらしく、題材となる食べ物そのものに珍奇なところはありません。
 しかし、読ませる力が圧倒的に高い。まず絵がいい。構成がいい。会話のテンポがいい。「今の私達に必要なのはそう……炭と水の化物と書いて……タンスイカブツ!」や「鮨……!? あの魚へんに旨いと書く?」といった久住先生一流のしょーもないギャグが効きまくっている。
 悩みが解消されたり欝が治ったりするようなマンガではないですが、読み終わるといい感じの気分になります。


賀来ゆうじ『地獄楽』(ジャンプコミックス

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地獄楽 1 (ジャンプコミックス)

地獄楽 1 (ジャンプコミックス)

 時代劇異能バトルロワイヤルものとでもいえばいいのか。絶海の孤島に送られた死刑囚たちが首切り役人(山田浅右衛門一門)とペアを組んで、ヤバい死刑囚やヤバい原生生物などを撃退しつつ、将軍様のために不老不死的なやつをゲットしようとする話。
 二巻までに数組の死刑囚×執行人ペアが出てくるわけですが、どのペアもバディものとしてのケミストリーが高い。基本的には「敵」同士なので緊張感がある一方で、ペアごとに独特の関係が築かれていてキャラ自体の個性よりは関係性の個性で見せる、こういうのもあるんだな、という感慨。


ーー


全然十選と入れ替えてもいい、既に十二分に面白い枠


田村由美ミステリと言う勿れ 1 (フラワーコミックスアルファ)、ふしぎな事件に巻き込まれたふしぎな大学生が事件関係者の生活の悩みを解決しつつ事件の謎も解いていくセラピーミステリ。主人公がスカしててムカつくという一点を除けば読みどころ満点。


デッドマウント・デスプレイ(1) (ヤングガンガンコミックス)、あの成田良悟異世界転生ものを!? ただし、転生元は異世界で、転生先は個性豊かな殺し屋とギャングの蠢くSHINJUKU!みたいな。


高野雀世界は寒い 1 (フィールコミックスFCswing)、ファーストフード店の店内で本物の拳銃を拾った女子高生六人組。扱いに困った挙げ句、「一人一発、撃ちたいやつを撃とう」ということでまとまる。ターゲット選びに苦慮する六人の前に、銃の元の所有者らしき人物が現れて……。一話ごとに六人それぞれに視点が切り替わる群像劇。題材といい空気感といいモノローグの入れ方といい生きていたのか岡崎京子チルドレン、という感じ。それまで抑え込んできた鬱屈が、銃という非日常によって開かれて物語がドライブしていきます。2018年にもなってこんなにまっすぐに平成初期の臭いをまとった鬱屈青春グラフィティを出せるとは、侮りがたし、FEEL。
 

仲川麻子飼育少女 (1) (モーニングコミックス)、高校の実験室で科学教師と女子高生がヒドラやナマコやイソギンチャクといった地味ないきものたちを飼育するギャグ漫画。題材の生態自体がギャグっぽいよね。


吉本浩二ルーザーズ~日本初の週刊青年漫画誌の誕生~(1) (アクションコミックス)、日本初の青年漫画誌(自称)『アクション』誕生を描く。『吉川先生のルポマンガにはある種のくさみがつきまとっていて、それは情に厚い好男子である吉川先生がインタビュアーとして前に出てくるせいであったのですけれど、本作は完全に実録ものに徹しており「作者」の姿は見えません。おかげでテンポのいいこと極まりない。


どるから (1) (バンブーコミックス)、脱税で逮捕されたK1の石井館長が出所直後にトラックに引かれて死亡(現実には生きています)、なぜか自殺した女子高生の身体にのりうつり、女子高生の経営する斜陽の空手道場を再建するという話。出落ち感があるわりに物語的な骨格がしっかりしていて、石井館長直伝の格闘技トーク・経営術トークがそれなりの説得力を持って展開されます。館長トークの出方がちょっと『プロレススーパースター列伝』っぽいですが。強敵と出会った館長が「解説者時代は色んなしがらみのおかげで自由に空手できなかったけど、死んで(現実には生きてます)初めてハジケられた。死んでよかった(現実には生きてます)!」とイキイキと闘う姿には涙が出ます。実際には生きてますが。


渡会けいじピヨ子と魔界町の姫さま(1) (角川コミックス・エース)魔界(町)の高校に通う人間の女の子と庶民的な魔王のお姫様(町なのだが)の学園ギャグ。なんでも額面通りに受け止めるアホの子とポンコツお嬢様の組み合わせはストレートに面白い。


志村貴子ビューティフル・エブリデイ 1 (フィールコミックス)、多作な割に平均点がここまで高い作家がいただろうか。あいかわらず主要人物は性格が悪い。しかし私たちは志村貴子先生の描く性格が悪い女を見たくてここまで生きてきたのではないでしょうか。


瀧波ユカリモトカレマニア(1) (KC KISS)、元カレを好きすぎるあまりイマジナリーフレンド化してしまったOLが実際の元カレと再会してしまってさあどうなる、という話。『勝手にふるえてろ』を瀧波ユカリ先生が書いたら感があります。


石川香織ロッキンユー!!! 1 (ジャンプコミックス)、高校でロックバンドやる漫画。「初期衝動」という言葉がそのまま結晶化したような第一巻であり、間違いなく青春マンガで今一番アツい作品。


とよ田みのる金剛寺さんは面倒臭い(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)、恋とは奇跡に支えられたものだという精神に貫かれた恋愛コメディ。


大石浩二トマトイプーのリコピン 1 (ジャンプコミックス)、こういうノリで時事ネタをいじる少年漫画がいつのまにかなくなってしまっていましたね。


宮崎夏次系アダムとイブの楽園追放されたけど…(1) (モーニング KC)、夏次系先生わりと普通にギャグ漫画かけるじゃん、と思う一方でやはり短編のほうがシマッてるんですよね。


フォビドゥン澁川スナックバス江 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)、これまでのフォビドゥン先生に比べて気持ち悪さが二割ほど減っており、お子様にも安心しておすすめできます。自分に子どもがいたら読ませたくはないですが。



将来性がありそうなタイトル枠


三浦みうチルドレン 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスUP!)、十四歳の園長を戴く山奥の幼稚園。そこは園児たちが人間を「処理」する殺人幼稚園だった……。キャッチーで悪趣味な残酷グロ設定が目に付きますが、出落ちにとどまらず、ちゃんとドラマを描こうとする気概も発揮されています。設定の慣性以上に伸びる予感がするというか、伸びる義務がある。


チノク白石君の動級生(1) (Gファンタジーコミックス)、動物に変身できる子どもたちのクラスに入った男子高校生の話。こういう学校だったら生きたないなあ、という人間のストレートな欲望が詰まっています


大沖たのしいたのししま(1) (週刊少年マガジンコミックス)、おもしろい方の大沖先生。


柳生卓哉メメシス 1 (1) (少年サンデーコミックス)、ウルトラ強い勇者のパーティーから役立たずとしてはじき出された戦士と魔法使いが勇者を見返すためにめっちゃ強くなるファンタジーギャグ。主人公二人の気持ち悪い友情がよい。


天地創造デザイン部(1) (モーニング KC)天地創造時に神様は動物のデザインをデザイナーに発注していた。動物をデザインするという思考実験。一見むちゃぶりに思える注文が実在の生物へ繋がるという意外性。動物の面白うんちくを退屈させないようにどう紹介するかという動物ものの懸念を上手に処理しています。


椙下聖海マグメル深海水族館 1 (BUNCH COMICS)、水族館で働くことになった男の子との成長譚。絵がいい、トピックがいい、テンポがいい。専門ウンチクもので全体のリズムが崩れずにすっきり読めるのは驚異的なことです。だからこそ主人公の悩みと成長に嘘がない。


山本亜季賢者の学び舎 防衛医科大学校物語 1 (ビッグコミックス)防衛医大に入学した医者(医官)志望の男の子の成長物語。題材のものめずらしさも手伝って、群像青春もののうまさが際立ちます。体育会系と文科系が入り交ざったなんともいえない独特の文化や上下関係がすてき。今んとこ先輩の理不尽なシゴキがただのシゴキにしか見えないんですが、これをどう良かった話につなげていくんですかね。実際今もやってるんだろうから否定もできないだろうし……。


武富智ロマンスの騎士(1) (裏少年サンデーコミックス)、近世のヨーロッパ騎士が現代の少年の身体に転生してフェンシングをやる……というあらすじを聞いて「逆『ビロードの悪魔』かよ」と興味を惹かれましたが、読んでみると真っ当にアツい青春スポーツもの。フェンシングのスタイリッシュな絵面と武富智先生の躍動感あふれる画作りが幸福にマッチしています。


美代マチ子ぶっきんぐ!!(1) (裏少年サンデーコミックス)、書店員ものってわるい意味でブッキッシュな作品が多い印象があるんですけれど、これはちゃんと「書店員の話」をしてくれるので好印象です。とはいっても変に業務についての細部を羅列するわけでもなくて、ちゃんと作劇のパースを取りつつ書店員の世界観で話を進行させていくかんじ。


瀬下猛ハーン ‐草と鉄と羊‐(1) (モーニングコミックス)義経チンギス・ハン説。ややスロースターター気味ですが、政治描写も骨太で、これから本格的な合戦に突入すると一挙に爆発しそうな予感。


原作・マツキタツヤ、漫画・宇佐崎しろアクタージュ act-age 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)、俳優バトル漫画。自分のなかでは『累』とか『響』とかと同じ枠なんですけれど、どういう枠なのかと聞かれると困ります。掲載順で打ち切りが危ぶまれたりもしましたが、重版かかったそうだし生き延びそう?


宮永麻也ニコラのおゆるり魔界紀行 1 (ハルタコミックス)、獣人や魔法の存在する魔界に迷い込んだ少女とその道連れというか保護者的な立場の悪魔のロードストーリー。一話一話マァー丁寧です。


ひらけいシンマイ新田イズム 1 (ジャンプコミックス)、このところ増えている教師もの。能力は高いが空気読めない系の教師が生徒や同僚の悩みを解決していく学園ギャグマンガ。この手のものとしてはわりに正攻法で攻めてくるが、主人公にドライさがいい話に傾きすぎないバランスで品がある。


カクイシシュンスケ柔のミケランジェロ 1 (ヤングアニマルコミックス)、全体の雰囲気としてはオーソドックスなスポ根ですが、過剰に「見る」ことで理屈っぼく強くなっていく主人公がいい感じ。


本田優貴ただ離婚してないだけ 1 (ヤングアニマルコミックス)、関係の冷えた夫婦ものなのかな……などと思っていたら、夫の元不倫相手を夫婦で殺してしまったところで一巻が終わり、次が気になります。


ふみふみこ愛と呪い 1 (BUNCH COMICS)、今度こそどうにかなってほしい。


原作・七月鏡一、作画・杉山鉄兵探偵ゼノと7つの殺人密室 1 (1) (少年サンデーコミックス)、名探偵ゼノが有名建築家に挑戦状を叩きつけられ七つの殺人密室を解いていくという往年のメフィスト臭溢れる館ミステリ。トリック自体は館の仕掛け(物理)に全振りしているので一般的な意味でのミステリ的な驚きを求める向きにはアレかもしれませんが、ここまで館のロマンを信じた作品はマンガじゃ最近でも珍しい。


原作・縞田理理、漫画・みよしふるまち台所のドラゴン 1 (ジーンピクシブシリーズ)、東欧に留学した女の子がドラゴンを拾って飼う話。ドラゴンが適度に知能のない「動物」って感じでリアリティがあります。けだものであることの愛嬌ってあるよね、といいますか。


八木教広蒼穹のアリアドネ(1) (少年サンデーコミックス)、戦闘ロボ少年と天空のお姫様のボーイミーツガール冒険もの。やはり年上なところが八木先生の業。


人生負組ぼくらのペットフレンズ (電撃コミックスEX)、よく怒られなかったな、このタイトル。


Cuvieエルジェーベト(1) (シリウスKC)、筋トレマニアのお姫様による陰謀劇。史実。筋トレも史実。


三都慎司ダレカノセカイ(1) (アフタヌーンKC)、想像した物体を実体化できる「クリエイター」と呼ばれる能力者として覚醒した少年がクリエイター同士のバトルロワイヤルに巻き込まれていく。少年漫画誌的なおおぶりなコマ割りに緻密な作画とセリフの絞られた作劇が展開していく。青年漫画誌バトル漫画の王道の感。もうすこしディティールがはっきりしてくれば。


原作・村田真哉、作画・柳井伸彦ヒメノスピア 1(ヒーローズコミックス)【期間限定 無料お試し版】、女王蜂のパワーで周囲の女性を働き蜂化(ハーレム化)していく女子高生のサスペンス。今やすっかりひとつのジャンルとなった「動物能力もの」の元祖村田先生ですが、バトルもの以外もいけるやんけ。


漫☆画太郎星の王子さま 1 (ジャンプコミックス)、最悪なことにちゃんと『星の王子さま』をやっている。


秦三子ハコヅメ~交番女子の逆襲~(1) (モーニング KC)、クサくなりすぎない人情話の作り方が上手。


福田秀ドロ刑 1 (ヤングジャンプコミックス)、主に窃盗事件を扱う警視庁捜査三課、通称ドロ刑を舞台に若手刑事と謎多きナイスミドルの泥棒が凸凹タッグを組むバディ系ミステリ。刑事は泥棒を通じて「犯人の心理」をシミュレートすることを学び、現場に残された痕跡から犯人のキャラクタを探る。敵か味方が定かでないまま刑事を振り回す泥棒の造形が魅力的。


陽東太郎遺書、公開。(1) (ガンガンコミックスJOKER)、急死したクラスナンバーワンの人気者、その彼女はクラスメイト一人ひとりにあてて遺書をのこしていた。彼女の死の真相めぐり、遺書を公開し合う学級会が始まる……。日本版『13の理由』。一巻からそれなりに面白かったんですけれど二巻から急にドライブかかってきて、オッ、と思っていたら三巻で終わるようで。一見何の変哲もない「お別れ文」からクラスみんなで違和感を探り出していくシステムはなかなかアイディアだったと思います。

2018年上半期の漫画ベスト10選〜単発長編、短編集編〜

proxia.hateblo.jp


 の続き。
 単発の長編や短編集、連作短編集などといった一巻完結のブツを扱います。
 例によって Kindle化されている本限定です。

 感想が絶望的に書けなくなっていて、そういうときのわたしは決まってキング牧師の最後の演説を引用します。良い子のみんなはどこがそれなのか注意して考えてみよう。

 

十選

吐兎モノロブ『少女境界線』(ヤングキングコミックス)

 主に異能ガール・ミーツ・ガール短編集。特に言語的センスが強靭。セリフをドライブさせるために計算された構成もすばらしい。今年の新人ではかなりお気に入りです。
 収録作はわりとどれもいい。一番好きなのは「アイアンリーシュ」でしょうか。ストレスから夜な夜な怪物を「吐き出して」しまう女子高生の前に、跳ねっ返りの転校生が現れる。少女の秘密を目撃してしまった転校生は彼女を呼び出し、吐き出した怪物をバットで殴らせろと要求。二人の「ストレス解消」がはじまるーーという話で、書いていて気づきましたが、セックスですねこれはもはや。
 前後編ではあるものの、トータル40か50ページくらいでプロットもシンプルですが、はじまりからほぼ嘔吐少女側で進められてきた視点をクライマックスからラストまでの10ページぐらいで転校生側へ切り替えるのが絶妙。
 「アイアンリーシュ」以外の短編にも共通する美点ですが、とにかくオチのつけかたが気の利いていて、解放感に満ちています(ダークな話なときでさえも)。長編になるとこの才がどう作用してくるのか、愉しみなところです。


ルネッサンス吉田『あんたさぁ、』(ビッグコミックススペシャル)

 双極性障害の漫画家である葉子は漫画業に行き詰まり売春まがいの行為で小銭を稼ぎつつ、務め人の弟・幹生と一軒家に同居しています。今にも爆発しそうな希死念慮とせめぎあいながら、葉子は漫画家に復帰しようと奮闘します。そんな姉をどこか一線を引いた様子で見守る幹生。そこにはどうやら姉弟の過去がからんでいるようで……、みたいな。
 「自分ではない完全な他者を書こうとしましたが結局自分と自分になってしまいました」とはルネッサンス吉田先生のあとがきですが、先生はたしかに同じ人間の話ばかり書きます。なのにいつも新鮮でおもしろい。なんでおもしろいかっていえば主人公のセリフと思考が極限まで鋭利に研ぎ澄まされているからで、一コマごとにわたしたちはさまざまな精神的ポイントを削られます。その痛みが、重さがクセになる。読者と作者の共犯的な相互自傷が最高まで達し、作品としての強度も最強になったのが本作です。現実は殴ると痛いんですよ。
 そして何より……そう、姉ですね。
 至高の姉漫画は存在するのか。
 もしそんなものがあるとすれば、シナイ山の頂上で石版に雷によって刻まれたものでしかありえない、とあなたはいうかもしれない。しかし、現実にあるのです。ここに。日本の書店に実在するのです。Amazonで売っているのです。紙で、電子で。
 もちろん、私だってみなさんと同じように長生きしたい。長生きするのは良いことです。しかし、今はもうそんなことはどうでもいい。私は姉漫画の意志を遂行したい。私は姉漫画の神から山の頂上へ登ることを許されました。そして私は目の当たりにしたのです。約束の地をこの目で見たのです。私はあなたがたと共にそこへたどり着くことはできないかもしれません。ですが、私たちは必ずそこへ行けるのだとあなたがたへ伝えたい。今宵の私は幸福です。もはや不安など何もない。もう何者も恐れない。姉漫画の栄光をこの眼で見たのですから。



アッチあい『このかけがえのない地獄』(電撃コミックスNEXT)



 ガーリーにあふれた短編集。
 表題作である第一話は魔法少女版自称ヒーロー/ヴィジランテものをやって見事にオリジナリティを獲得した奇跡の一作。やさしい『キックアス』とでも形容すれば少しは合っているのでしょうか。
 第二話「死んでいる君」は投身自殺した女子高生の幽霊がなぜか全く関係ない男のアパートに現れて……というハートフルロマンス。
 第三話「4番目のヒロイン」は少年漫画雑誌で連載されているラブコメマンガの世界に別ジャンルのマンガのキャラが紛れ込んでしまい、そいつがモノ扱いされているラブコメのヒロインたちをめざめさせていくフェミニズム短編……と思ったらラストにすごいオチを持ってくる。
 第四話「黙れニート」は全反労働主義者必読の、おそらく地上唯一であろうニート万歳マンガ。
 第五話「僕は彼女の彼女」、ピュアな男子高校生が憧れの女子に告白したら、彼女の密かに焦がれている別の女子に似せた異性装をすることに条件にオーケーしてくれる男の娘もの……が百合になっていく。

 外から押し付けられる窮屈なイメージや価値観を拒み、オリジナルな幸せを発見する。一口にまとめれば、そんな短編集です。イチオシは第三話でしょうか。
 「4番目のヒロイン」の世界ではキャラたちが「自分たちは漫画雑誌で連載されているハーレムラブコメの登場人物」と認識しています。ハーレムラブコメ世界では定期的にラッキースケベなシーンをこなしていかないと存在が薄れていき、モブに降格する、という設定。
 そこへ本来は戦争漫画に出演するはずだった女の子が四番目のヒロインとして紛れ込んできてしまいます。この新ヒロインは初っ端からメインヒロインの座争奪戦から降り、ヒロイン候補の一人に「恋人でもない男におっぱい揉ませて悔しくないの?」と挑発します。
 みんなハーレムラブコメの世界で頑張っているのだから馬鹿にするな、と一度は戦争漫画女に対して反発するヒロイン候補。しかし、翌日「主人公」に会ってみるとなんだか気持ち悪く感じられ、ラッキースケベを拒絶するというラブコメ漫画にあるまじき行為に走ってまうのですが……。
 ともすれば教条的になりすぎてしまいそうなアンチラブコメ話を、既存の枠組みを一度転覆した上でもう一度「ラブコメ」に作り直すという超荒業。荒業なわりと最終的なバランスはきっちりとれている。全体的に膂力がストロングと言うか、いい意味での力業が印象的な作家さんです。

 

崇山祟『恐怖の口が目女』(リードカフェコミックス)



 ホラー(コメディ?)長編。
 あきらかにギャグ寄りの作風で、あー、こういうノリね……と読んでいたら、あれよあれよという間にとんでもない方向へ……ほんとうにとんでもない方向へ……。
 みてくれに反してかなりウェルメイドで読みやすい。ページ単位で同じ構図を効果的に繰り返す手法を用いるところなんか見ると、アート志向でもあるのでしょうか。ホラーとギャグとサイケとロマンとインディーマインドが高レベルでまとまった良作です。意外に他人にも勧めやすい。


panpanya『二匹目の金魚』(楽園コミックス)



 マジックかリアリズムかのスペクトラムでいうなら、panpanya先生の初期作はマジックの風景にリアリズムが散在しているかんじだったと思うんですが、近作はリアリズムに穴をうがってマジックをのぞき見ている感覚があります。
 本短編集ではそこからさらに発展して、いや、改めて怪しい非日常的な世界を創り上げなくたって、今われわれのいるこの日常にいくらでもファンタジーの種はあるんだ、と訴えてきます。
 日常に潜んで黄金色に輝く死角を狩る作家を、わたしたちはエッセイストと呼び習わします。本作で言うなら「今年を振り返って」や「知恵」、「小物入れの世界」といったところがどこに出してもするりと通る、いい意味でエッセイっぽい作品です。
 それでいて、わたしたちが夢見たころの panpanya先生がそのままの姿でそこにいる安心もうしなわれてはいません。なぜでしょうね。おそらく、先生が日常の死角を収穫するだけではなくて、日常と日常のすきまにある暗黒空間を非日常的な想像力で埋めて現実として均していく、そんな営みをおこなっているからではないでしょうか。
 以上は二月に書いた文章をまんまコピペしたものです。


前田千明『OLD WEST] (アクションコミックス)


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Old West (アクションコミックス)

Old West (アクションコミックス)


 やはり漫画家はガンアクションに歓びを見出す人種であるのでしょうか。『PEACE MAKER』(皆川亮二のほう)を始め「西部劇」をモチーフにしたマンガは現在にいたるまで途切れることなくほそぼそと作られつづけていて、それこそピスメのような「西部劇っぽいファンタジー」を含めればちょっとした市場です。*1
 ところが本短編集はリアルな昔のアメリカを舞台に置きながらも、あまり派手なガンアクションはやりません。それでいてたまらなく「西部劇」なんですね。
 たとえば、表題作「OLD WEST」では西部開拓時代の終わった1900年という年代設定。年老いて引退した元カウボーイの老人が隣人である農家の少年と交流を深めます。老人は若い頃から「夢や希望」を求めて西部や南部を渡り歩いた過去を少年に語る。成績優秀で進学を希望しているけれども家庭の事情でそれが困難な少年は、ロマン溢れる老人の昔話、そして「生きているうちに飼馬に乗って西海岸の海を見たい」という夢に自分の(叶わないであろう)夢を重ね、目を輝かせます。この老人は本物の「西部人」で、終わってしまった夢の時代をまだ体現しているんだ、と。
 ところがそれから間もなく老人の飼馬が死んでしまう。馬を失った老人はそれを潮に東部に住む娘の家に引っ越す準備を始めます。その姿を見た少年は「西海岸まで行きたいというのはウソだったのか?」と老人を問い詰め、農家の息子である自分はいくら勉強しても将来的にはすべて無駄で、自分はかつての老人のようにどこかへ行くことはできない、と吐露します。
 物語はそこからもう一段階飛躍していくわけですが、そこまではバラさないとして、かくのごとく前田千明先生は「夢」や「幻想」の終焉を、ときにはポジティブに、ときにはダークに描きます。そして、そこには常に「終わってしまった輝かしい可能性の時代」に対する(基本的には若い)登場人物たちのノスタルジーや憧れがついてまわるのです。
 その間に合わなかった過去への強烈なノスタルジーこそ、西部劇映画そのものでもあります。そもそも西部劇映画は始まった時点*2で「古き良き西部開拓時代」はとっくに記憶の彼方であって、だからこそファンタジーを投映できる場たりえたのでした。
 まさしく遅れてきてしまった人々による物語を描くことで、前田千明先生は「ガンアクションのほとんどない西部劇」を濃密に達成したのです。
 
 

板垣巴留BEAST COMPLEX』(少年チャンピオン・コミックス)



『BEASTERS』の板垣先生の初短編集。獣人ものです。主に草食獣と肉食獣の友情だったり恋愛だったりの関係を描きます。板垣先生が巧いのは「食う者と食われる者」というともすれば陳腐に響きかねない抽象的な構図から思わぬリアリティを突きつけてくるところで、たとえば第三話の「ラクダとオオカミ」における指の使い方なんかはこの上なくシャレています。
 動物モチーフの取扱についてはそれこそ『ズートピア』から顕在化してきているように思われますが、収録作のほとんどが『ズートピア』以前に描かれた本短編集ではわりとギリギリのバランスで、それでも渡りきってるのがセンスだなあ、と思うのです。


須藤佑実『みやこ美人夜話』(フィールコミックス)



 京美人がテーマのすこしふしぎな連作短編集。森見登美彦で育ったわたしたちの京都幻想をまた別の角度から満たしてくれる。出色は大学教授の娘が父親の教え子の「京女」と出会う第四夜。溝口健二の『お遊さま』をモチーフにとりつつ、ファンタジーの投影先としての京都を批評的に描ききっています。
 幻想はしょせん幻想なので最強ではないけれど、しかし幻想として了解したうえで現実を生きる糧ともなる、そういう話が多い気がします。つまりは恋の話でしょうか。須藤先生の品のあるタッチが作品全体の説得力に貢献しています。


谷口菜津子『彼女は宇宙一』(ビームコミックス)



 今年のサブカル漫画枠な短編集。ポップな絵柄で主として恋でドライヴして暴走まで行ってしまう人びとをSFチックに描きます。しかし個人的なお気に入りは恋バナでもSFでもない最終話の「ランチの憂鬱」でしょうか。クラスの人気者の取り巻きだった女の子が人気者の機嫌を損ねてイジメ地獄へ突入、という点では『君に愛されて痛かった』みたいな導入ですね。フツーのイジメ和解の話では「いじめてる側にもかわいそうな事情はあって〜」的なところから入るんでしょうけれど、「ランチの憂鬱」ではむしろ「いじめられている側のかわいそうな事情があって〜」からのシンパシーモードに入るのがちょっと変わっています。陰鬱な環境を持ち前のポップさの魔法でぜんぶチャラにしてしまうところがええですよね。
 ところで最近女の子のエモが高まって巨大ヒーローになったり怪獣になったりする漫画多くないですか。


三島芳治『ヴァレンタイン会議 三島芳治選集』(つゆくさ)



 『レストー夫人』でその名をとどろかせた鬼才、三島芳治がコミティアで出していた同人誌を電子化した短編集。
 三島先生の最大の魅力は言語やコミュニケーションに対するセンシティブさといいますか、フラジャイルさにあるのかもしれません。
「いとこリローデッド」では成長して疎遠になった従姉妹に対して男の子が学校で集めたことばをワードサラダのようにして投げるも従姉妹は振り向いてくれない、ではどうしたら振り向いてもらえるか、という話。人間は大人になると自分のだけのことばの世界に引きこもってしまい、他人のことばが聞こえない、あるいは他人に自分のことばを届けられない状況に陥りがちです。そうした齟齬を乗り越えてコミュニケーションが通じる瞬間をわたしたちは奇跡と呼び、魔法と呼びます。三島先生は文字通りに劇中で魔法をよく用いますね。なぜならコミュニケーションは魔法でしか実現しないと知っているから。

 ちなみに Kindleの Unlimited に入ってます。小原愼司先生の同人誌といっしょに iPadにでもつっこんで読みまくりましょう。


エッセイまんが部門

窓ハルカ『かすみ草とツマ』(ヤングジャンプコミックス)

・ひどい。


ペス山ポピー『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました』(バンチコミックス)



・個別の変態性をどう普遍に寄せられるかという挑戦でもあり、成功しています。


みやざき明日香『強迫性障害です!』


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強迫性障害です!

強迫性障害です!

・わかりみ。

*1:特に90年代は多かった気がする

*2:1903年の『大列車強盗


誰が歴史と物語を描くのかーー『スターリンの葬送狂騒曲』

(The Death of Stalin、英・仏、ベルギー、アルマンド・イアヌッチ監督)



ロシアで上映禁止のブラックコメディー『スターリンの葬送狂騒曲』予告編公開 - シネマトゥデイ



 北野武の『アウトレイジ』シリーズにおける独特の緊張感、たとえばヤクザたちがあまりにもくだらない理屈であっけなく殺されていくさまを強調することで、一見穏やかな日常的な場面(ラーメンを食べている、歯医者で治療を受けている、自営の修理屋で車をメンテナンスしている)がおぞましいまでの死や暴力とシームレスに地続きであるのだと観客に意識させて常時集中を強いる、あの空気。
 何かのタイミングを間違えたら死ぬ。だがその「何か」がなんなのか、「タイミング」がいつなのかがわからない。気づいたら撃たれて死んでいる。ところが自分殺した理不尽にも腑に落ちるところを感じる。今までその理不尽に順応して、肌感覚でわかっているような気もあったから。


 独裁者スターリン死後の後継争いを描いた『スターリンの葬送狂騒曲』の基調は明確にコメディです。ときに戸惑いすら押しつけてくるある種のブラック・コメディなどとは違い、笑いどころを作って観客をわかりやすく笑わせてくれます。たとえそれが(おそらくロクでもない場所に行くのであろう)トラックの荷台にスターリンの別荘で働いていた使用人たちを強権的に乗せて送り出した兵士が、直後に横からNKVD*1の職員に頭を撃ち抜かれる、といった残酷なジョークであったとしてもです。
 さらにいえば、劇中で処刑されるような人物のほとんどは名もなき兵士や市民だけで、終盤のある場面を除き、メインキャラクターたる委員会の面々が直接的な暴力にさらされることはありません。彼らは一貫して、スターリンの死に右往左往するコメディアンとしてふるまいます。
 ところが弛緩した喜劇の裏には冒頭で述べたような”暴”のにおいが潜んでいる。委員会メンバーたちの吐く言葉、取る行動ひとつひとつが最終的に政敵を葬り、自らが権力の座を奪取するためのものであると私たちは知っています。
 ただキャラクターたちは自分たちの目的は知っているかもしれないけれど、自分たちの言動の効果までは把握しきれない。独裁者の死によって生じた一時的な権力的真空が、どの人物に権力を与えているのか不明瞭にしているのです。たとえばスターリンの遺児であるスヴェトラーナ。ライバル同士であるフルシチョフとベリヤはそれぞれの手管で彼女を味方につけ、後継者争いを優位に進めようとしますが、彼女にも思惑があってなかなかうまくいかない。ソ連北朝鮮のような王朝でないのですから、レーニンのこどもたちがそうであったように、スターリンの娘だからといって後継争いを左右する力を持つとはかぎりません。しかし、まったく影響しないともかぎらない。
 あるいはちょっとしたジョークで相手の機嫌を損ねたりするだけで、委員会内でのパワーバランスが傾くかもしれない。なにが自らの墓穴を掘ることにつながるかもわからない。油断のならない混沌とした曖昧さが、喜劇性とやがて爆発するであろう暴力の予感を高めてくれます。


 では、その混沌の正体とは何か。
 終盤、あるキャラクターが政敵を蹴落とし処刑した直後、スヴェトラーナにこのような「勝利宣言」を吐きます。


「これが"物語"を間違えた人間の末路です(This is how people get killed, when their stories don't fit.)」


 人にはそれぞれ描こうとしている物語があります。
 その Story 同士が闘争し、fit できなかった物語から滅ぼされていき、残ったものだけが公式な historyとなるーー人間同士の争いに関するシニカルで普遍的なテーマが本作には能く描かれています。


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スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

*1:旧ソの秘密警察機構。KGBの前進

2018年に公開された Netflix オリジナルのSF映画全レビュー

遊星からの物体 NetfliX

 2018年から「ネットフリックス・オリジナル」を冠した映画・ドラマが爆発的に増えましたね。すげえ増えましたね。ばかみたいに増えましたよ。年ごとに倍々になってなるんじゃないか? って勢い。

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_original_films_distributed_by_Netflix#Drama


 わけても、SFがちょっとした勢力を誇っている様子。
 たとえばドラマでは『ストレンジャー・シングス』や『センス8』*1、『グッド・プレイス』、『エキスパンス』*2、『ブラック・ミラー』といった人気シリーズの最新シーズンに加え、『マニアック』、『オルタード・カーボン』、『ロスト・イン・スペース』などが新たに立ち上げられていて、いずれも好評を博していますし、アニメでも『ファイナル・スペース』の第二シーズン制作が決定済み。どれもカネがかかっていますね。

 一方で映画はといえば、中規模程度の予算の作品が多い模様です。監督の顔ぶれをながめますと、アレックス・ガーランドダンカン・ジョーンズなど界隈で声望を築いている監督をしっかり押さえる一方*3、短編などで話題を博した新人〜若手を積極的に起用してメジャーへの試金石にしているのがうかがえます。数撃ちゃ当たるでやっているのか、批評的に成功している作品は今の所多くありませんが……。

 ともかく、2018年に発表されたネトフリオリジナルSF映画*4を見ていきましょう。
 


星取り解説

☆☆☆……面白い
☆☆ ……愉しめはする
☆  ……時間は潰せる

作品一覧

『カーゴ』(Cargo、ベン・ホウリング&ヨランダ・へムケ監督、オーストラリア)☆☆☆



Cargo Teaser Trailer (2017) Martin Freeman Post-Apocalypse Movie


 ゾンビめいた伝染病が蔓延し文明が滅んだオーストラリアを舞台に、妻を失い自らもゾンビ病におかされつつあるマーティン・フリーマンが一粒種である赤ん坊の託し先を求め、試される大地を彷徨う。
 非常にシブいゾンビ映画です。激シブです。王道展開や典型的な「本当に怖いのは人間」路線を踏襲しつつも、派手で扇情的なアクションや銃撃戦を乱発せず、それでいて要所要所でサスペンスフルな演出やドラマで観客を惹きつけます。
 もともとジョージ・A・ロメロの作品を始めとしてゾンビ映画が人種問題や差別問題と密接に関係していることはよく指摘されるところです。アメリカでの黒人差別のメタファーだったものがオーストラリアに輸入されると先住民差別のそれとなる。ゾンビポカリプス下にあっても白人に搾取される彼らの姿*5は、ゾンビよりも人間をこそおぞましく思わせます。*6そうして、ご当地ゾンビ映画として見事なレペゼン感を醸し出す。
 もちろん、マーティン・フリーマンもいい。オーストラリアの大自然と対比される彼の頼りない表情がまたユニークな味わいを出している。特に最終盤の「有様」は衝撃的でもあり、感動的でもあります。
 元となったのは世界最大の短編映画祭トロップフェスとで2013年に話題を集めた同名の作品*7。本作はその長編化で、監督のベン・ホウリング&ヨランダ・ラムケのコンビはこれが長編監督デビュー作です。


サイコキネシス -念力-』(염력、ヨン・サンホ監督、韓国)☆☆☆



PSYCHOKINESIS Bande Annonce (Netflix 2018) Super-Héros


 うだつのあがらない中年警備員がある日、ひょんなきっかけから強力なサイコキネシス能力を手に入れる。その力で彼は長い間離れて暮らしていた娘の力になろうと、彼女の所属する商店街一帯を地上げしようとするヤクザに対して抗戦を開始するのだが……といった内容。
『新感染 ファイナル・エクスプレス』で世界の映画ファンに衝撃を与えたヨン・サンホの実写長編第二作です。
 『新感染』同様に「娘を守るためにがんばるダメな父親」*8ものですね。本作の娘は成人済みですが。
 劇中のセリフでも「かめはめ波」が引用されるように、主人公の能力自体は『ドラゴンボール』じみていて、それっぽい画も多々出てきます。
 しかし、本作の主眼はその能力を爆発させて悪者を退治することではありません。主人公のカウンターパートとなるべき「同等の能力を持った敵役」などは出てきませんし、基本的に主人公は群れる雑魚をなぎ倒すだけです。
 主人公の本当の敵は誰か。商店街を蹂躙する地上げヤクザでもなければ、それを裏で操る建設会社の役員でもありません。「韓国資本主義社会」そのものなのです。これがあまりに巨大で強力すぎる。一個人がスーパーパワーを手にしたくらいでは太刀打ちできるものではない。
 フィクショナルな超人ですら、現実に存在する悪を打倒しえない。そうしたビターな意識に貫かれた一本ですが、そうした絶望的な状況下にあっても一筋の光明としての家族の絆を輝かせる、そういうところも『新感染』の監督だなあ、と思います。
 キャラも相変わらず濃いのが揃っています。暴力常務もすてきですが、地上げヤクザの側近のデブがかわいい。ガタイから用心棒的な立ち位置かと思いきや会計だったり、ビビるときはかならずボスの袖を掴んでたりとか。
 

『アナイアレイション 全滅領域』(Annihilation、アレックス・ガーランド監督、アメリカ)☆☆



Annihilation (2018) - Official Trailer - Paramount Pictures


 突如発生した謎の「ゾーン」に行って帰ってきた夫がなんだかうまくいえないけれど変わりはててしまった。夫とゾーンの謎を探るため、科学者である妻は女性だけで構成された調査チームに加わる。
 原作ファンからはすこぶる評判の悪い本作ですが、単体の作品として観た場合は、わけのわからないものだけれど映像がキレイだしまあオッケーくらいの感覚なんじゃないかな、と思います。
 ただ、「そのオチ」はもう飽きたよ、ガーランド先生……という気持ちがなくはない。
 アレックス・ガーランドはイギリス出身。小説家としてデビューしたのち、『ザ・ビーチ』(ダニー・ボイル監督)が映画化されたのをきっかけに映画界入りし、『28日後……』や『わたしを離さないで』、『ジャッジ・ドレッド』なで脚本をつとめます。そして2015年に監督デビュー作となる『エクス・マキナ』で一挙にSF映画界の旗手として躍り出ました。次回作は本作でもプロデューサーを務めたスコット・ルーディンと組んだSFスリラー・テレビドラマ『Devs』。人気ゲーム『Halo』の映画化作品の脚本も担当するらしいです。


『Mute/ミュート』(Mute、ダンカン・ジョーンズ監督、アメリカ)☆


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 原色ネオンばりばりな近未来のベルリンで、唖のバーテンダーが行方不明になった恋人を探して裏社会のディープサイドに入りこんでいく話。
 いま一番信頼できるSF映画作家だったのに、なぜか『ワールド・オブ・ウォークラフト』というゲーム原作ファンタジー大作をひきうけ、大方の予想通り見事にコケたダンカン・ジョーンズの捲土重来となる一作……だったはずが……。
 ビジュアルは洗練されていてさすが、という感じなのですが、いかんせんストーリーがいきあたりばったりで脈絡がなさすぎる。ノワールというのはある程度迷走しているほうが雰囲気に貢献するものなのですが、これはちょっとダルさが勝ちすぎていて……場面毎のアイディアもそんな新鮮でもないし……。
 なんというか……なんだかな……また次がんばってほしいですね、ジョーンズは。
 

TAU/タウ』(TAU、フェデリコ・ダレッサンドロ監督、アメリカ)☆

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 イカレた天才AI研究者(『デッドプール』で悪役だったエド・スクレイン)に実験のため監禁されてしまった娼婦(マイカ・モンロー)。彼女は監禁場所である研究者の屋敷を管理するAI・タウ(声:ゲイリー・オールドマン)を仲間につけ、脱出を果たそうとする……。
 一言で言ってしまえば、アレックス・ガーランドの『エクス・マキナ』の二番煎じです。*9家父長的な権力に抑圧を受け監禁される弱者としての女性がいて、その属性が人間の奴隷としてのAIと重ねあわされ、そういう状況に対して反乱が起こされる。
エクス・マキナ』では「女性」と「奴隷としてのAI」がアリシア・ヴィカンダー一人に集約されていましたが、本作ではそのまま二つの器に分割されています。それを表現の退化とみるかどうかはともかく、別々に置いたことの効果はあるもので、タウ(声:ゲイリー・オールドマン)がかわいらしい。
 基本的には主人である研究者に忠実なのですが、女と交流を深めるにつれ、研究者から禁止されていた知識をどんどん吸収して感情豊かになっていき、「(普段は研究者から禁止されている)ご本をもっと読んで〜」と子供っぽくねだるようになります。声はゲイリー・オールドマンなのですが。
 しかし、AIの描き方があまりにテンプレすぎるのと、主人公である女性のキャラの薄さがあまりに心もとない。最終盤の展開もそれこそ『エクス・マキナ』を薄めたようなだし……。
監督のフェデリコ・ダレッサンドロは、2000年代からマーベル映画やSF映画などの多数の大作でアニマティック/ストーリーボード・アーティスト*10として活躍してきた人物。本作が長編デビューです。
 
 

『エクスティンクション 地球奪還』(Extinction、ベン・ヤング監督、米)☆

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 何者かから地球侵略を受ける悪夢に夜な夜なうなされる男(『アントマン』の相棒役で知られるマイケル・ペーニャ)。ある日、その夢が現実となる。彼は家族を守るために予知夢めいた夢を利用して妻子とともに生き延びることを目指すが……といった『宇宙戦争』的インベイジョンもの・ミーツ・SFミステリ。
 主人公の見た「夢」は何を意味するのか? 本当に予知夢なのか? 姿形も自分たちによく似ていて、技術程度もさして変わらないらしい「侵略者」の正体とは? といった謎がストーリーを牽引する反面、(予算の関係か)侵略者の攻撃によってドキドキハラハラするといった味は意外に薄い。
 話の核となるどんでん返しの部分は、アイディア自体は陳腐なものの、話運びがよくできています(「夢」と現実の齟齬をうまくついている)。しかし、クライマックスの後処理がなんだかおざなりで、説得力と物語的な魅力の両面で詰めを甘くしている印象です。つーか、末端の兵士と仲良くなっても大局に影響ないだろうしなあ……。
 監督のベン・ヤングはオーストラリア出身。同国のテレビで俳優や監督としてキャリアを積んだあと、2016年の長編第一作『アニマルズ 愛のケダモノ』で注目を集め、『エクスティンクション』が第二作目となります。
 
 

『タイタン』(The Titan、レナート・ラフ監督、米英スペイン)☆☆

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 どん詰まりで滅びかけた人類を救うため、土星の衛星タイタンへの移住計画が持ち上がる。しかしタイタンの環境は過酷であり、現在の人類ではとても居住できない。そのため天才科学者マーティン教授は軍人や科学者を選りすぐり、人体改造実験を施す。しかし次第に身体だけでなく心も人間離れしていく被験者たちに家族を始めとした周囲は戸惑いはじめる……といった内容。
 序盤から難解な専門用語を飛び交わせつつ静かに進行するさまはいかにも典型的なインディー系SFといったおもむきで、個人的には嫌いではないです。
 サム・ワ―シントン演じる中尉たちが次第に「進化」していくプロセスも割合丁寧に描かれており、SFマインドをくすぐられます。
 が、あまりに進行が単調なうえ、終盤のとってつけたような急展開でそれまでの重々しさが一気に軽いものに。「進化」の理論付けがかなり雑なのもちょっと……。
 監督のレナート・ルフはこれが初長編。2014年に「Nocebo」というスリラー短編で学生アカデミー賞の外国映画部門を受賞したことを受けての抜擢なようです。


ネクスト・ロボ』(Next Gen、ジョー・クサンダ―&ケヴィン・R・アダムス監督、アニメ、米中カナダ)☆☆

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 無国籍近未来シティに住むやさぐれたアジア系少女*11が兵器として生み出されたロボットと友情を深めるファミリー向けロボットアニメ。原作は中国で人気のウェブコミックだそうです。
 この手のアニメ映画には『アイアン・ジャイアント』や『ベイマックス』という巨大な壁がそびえているわけですが、ストーリーテリングの面ではその域にはおよぶべくもないものの、画面のルックやアクションシーンの面に関してはかなりのがんばりがうかがえます。
 世界観(カップラーメンロボットなどが出てきたり、原作者の Wang Nima を戯画化したキャラが登場したりする)はやや中国テイストが強めですが、キャストおよびスタッフはアメリカ人が中心。監督はディズニー出身で『9 〜9番目の奇妙な人形〜』などで美術監督兼撮影監督を務めたケヴィン・R・アダムスと、リズム&ヒューズ社やインダストリアル・ライト&マジック社などの特殊効果畑で活躍したジョー・クサンダー。このコンビは2014年に近未来ロボットSF実写短編「Gear」*12を共同監督しており、その腕を見込まれての抜擢でしょう。


 

『軽い男じゃないのよ』(Je ne suis pas un homme facile、エレノア・ポートリアット監督、仏)☆☆

 セクシストのプレイボーイが電柱で頭を打って男女の社会的地位が完全に逆転した世界へ。戸惑いをおぼえながらもその世界でセクシストのモテ女である作家と関係を深めるが、実はその作家は異世界転生を主張する主人公をネタに本を書こうとしており……という内容。
 女は化粧をせず身体を鍛えナンパをし、男はボディコンシャスな短パンを履いてマニキュアをし男女同権を訴える。まっすぐなまでにミラーリング(マイノリティの立場をマジョリティと置き換えて考える思考実験的なやつ)に徹していて、細部がところどころ気になるものの性差ギャグとしてよく機能しています。男性優位社会のグロテスクさというのは、それをあたりまえのものとして受容しているぶんにはなかなか意識しづらいものですが、本作でそれをある程度体験できるのではないでしょうか。
 あまりにまっすぐすぎてそれ以上になりきれていないのがもどかしい部分ではありますが……とはいえ、ラストシーンの光景のゾッとする不穏さはなかなかに秀抜。
 監督のエレノア・ポートリアットはもともとはフランスのテレビドラマなどで活躍していた女優でこれが長編デビュー作。10分ほどの短編だった「Majorité_opprimée」*13の世界観を拡張したのが本作のようです。


『マーキュリー13:宇宙開発を支えた女性たち』(Mercury 13、デイヴィッド・シントン&ヘザー・ウォルシュ監督、米)☆☆☆

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 アメリカの初期宇宙開発の裏で進行していた女性宇宙飛行士採用計画「マーキュリー13」についてのドキュメンタリー。S”F"ではないですが、いちおうサイエンス関係なので。
 出演している元計画参加者たちがとにかくパワフルでストロングで自由なパイロットおばあさんばかりで、彼女たちなら宇宙でもどこでも行けたんじゃないかと思わされますが、それを許さなかったのが六十年代という時代でした。理不尽な圧力がかかりまくり、彼女たちはどこまでも戦います。
 アメリカ初の女性宇宙飛行士がマーキュリー13関係者をロケット打ち上げに招いたときの話は感動的。あと再現映像の複葉機の飛行シーンがうつくしい。
 監督の一人であるデイヴィッド・シントンはこの前にも『ザ・ムーン』というアポロ計画を描いたドキュメンタリーを残しています。

『すべての終わり』(How It Ends、デイヴィッド・M・ローゼンタール監督、米)☆

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 婚約者の両親に挨拶するためにシカゴを訪れていたウィル(テオ・ジェームズ)が婚約者の待つシアトルへ帰れなくなる。西海岸一帯を謎の異常事態が見舞い、各種交通機関が不通になってしまったためだ。恋人の安否が心配なウィルは、前の晩に喧嘩別れしてしまっていた恋人の父親(フォレスト・ウィテカー)と共に3200キロの大陸横断行へ挑むのだが、彼らは道中で信じられない光景をつぎつぎと目撃することに……。
 元軍人の横暴なオヤジと命がけのアポカリプティック・サバイバル旅行を通じて友情を築く……というのがプロットの本線のはずですが、なんというかあまり友情構築プロセスが効果的に描かれておらず、気づいたら仲良くなってましたって感じ。
 ロードムービーだけあって結構色んなキャラが出入りするんですが、基本的にはシーンごとの使い捨てで後から再登場したりはしません。それはそれで作法なのでしょうが、唯一メインっぽいノリで主人公一行に加わる先住民の女(グレイス・ドーヴ*14)までも途中離脱&永久に退場するのはなんだkな
 こうした手法の難点は、キャラの背景や感情が特段説明づけされないまま観客が彼らの行動を評価しなければならないため、どいつもこいつも愚かな行動を取りまくる本作においては大変にストレスフルに感じられてしまうことです。本来、登場人物が愚かだったり短慮だったりすること自体は、フィクションの評価において責められるべき性質ではありません。人間はもともと愚かで短慮ないきものですし、フィクションでそう描かれるのも物語上・感情上の必然や必要が前提されているからです。が、逆にいえば、その行動に至るまでの人物の性格や感情の流れや物語的な背景などが説明されず、ただストーリーを進めるため、主人公たちを窮地に陥れて盛り上げるためだけにそう演出しているのが透けてみえるとどうにも厳しい。いくら状況が状況だといえ限度がある。
 監督のデイヴィッド・M・ローゼンタールは2000年代から活躍している映画監督で、近年では『パーフェクト・ガイ』や『転落の銃弾』などのサスペンス・スリラー作品をてがけています。次回作も『ジェイコブス・ラダー』のリメイクだとか。

『ホンモノの気持ち』(Zoe、ドレイク・ドレマス監督、米)☆☆


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 人間のパートナーとしてのアンドロイド、通称「シンセ」を開発している研究所の中間管理職ゾーイ(レア・セドゥ)がシンセの研究者(ユアン・マクレガー)に惹かれていく。彼女は研究者の開発した相性診断ソフトでマクレガーとの相性を診断するが、なんと結果は一致率ゼロパーセント。「根本的に違う二人」だという判定を下されてしまう。
 ショックを受けて診断結果を打ち明けるゾーイに対し、マクレガーはさらなる衝撃的な事実をつきつける。なんと、ゾーイは彼の開発した「シンセ」の最新ヴァージョンだというのだ……といった恋愛映画。
 これもAIものの一つですね。人間とAIの恋愛を描くとしては2013年のスパイク・ジョーンズ監督『her/世界に一つだけの彼女』と、いくぶん変則的ですが『エクス・マキナ』が思い出されますね。本作は前者の色合いのほうが濃いかな。(特に前半で)AI側の視点に重きが置かれているのも珍しい。*15特に病んだ男性性などを告発する気がないフツーにピュアな純愛ストーリーです。
 ドレイク・ドレマス監督はアメリカ恋愛映画における若手のホープとしてデビュー以来一貫してせつないラブストーリーを撮ってきました。それだけに本作でもセドゥとマクレガーの関係の描き方は繊細を極めており、デートを重ねて仲を深めていく様子は多幸感に溢れています。となると、「人間はどうやったら『人間』になれるのか」という普遍的な問いかけに対する答えも自ずと決まってくるものですが。
 繰り返しますが、あくまで基調はラブストーリーであり、AIを扱ったSFとして新鮮味やリアリティを期待するのは筋違いです。
 

『クローバー・フィールド:パラドックス』(The Clover Field Paradox、ジュリアス・オナー監督、米)☆


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 なんの予告もなく突然ネットフリックスに投下された『クローバー・フィールド』シリーズ最新作。
 ダニエル・ブリュールエリザベス・デビッキ様、デイヴィッド・オイェロウェ、クリス・ダウド、チャン・ツィイー、ググ・バサ=ローと、さすがにオールスター・キャストとまではいかないものの国際色豊かないぶし銀のメンツを揃えています。出演料の中央値はここで挙げたどの作品よりも高いもしれません。
 エネルギー資源が枯渇し、限られたパイを巡って各国の間で軍事的緊張が高まる時代、人類は打開策を求めて各国から選りすぐった六名を宇宙へと飛ばし、「シェパード」と呼ばれる超巨大粒子加速装置を起動させる……が、そこで事故が発生。それをきっかけとして次々と異常事態がクルーたちを襲う、というスペースパニックホラースリラー。
 宇宙ステーションという密室で展開されますが、メンツの豪華さもさることながらセット作り込みも相まって、あまりチープさを感じさせません。しかしそれが映画としての質に貢献しているかといえば微妙なところ。
 最大の難点はキャラクターの書き込みの薄さと動かし方の行き当たりばっかり感。ダメなスペースパニック特有の散漫に死んでいくキャラとかはおくとしても、動く腕とかダニエル・ブリュールスパイ疑惑なんかも処理が雑。何より理解に苦しむのがチャン・ツィイー演じる中国人エンジニアの扱い。他国のクルーが英語で会話をかわすなか、このヒトだけがなぜかナチュラルに中国語で通し、同僚たちも彼女に対しては中国語で返す*16
 いくらグローバル社会といえど不自然極まりなく、何か設定や物語的に意味がある演出なのかな、と思ったらすくなくとも表面上は何も回収されません。*17
 ホラーやパニック映画というジャンルは「投げたボールを投げっぱなしにしてもいいジャンル」ではけしてないとおもうのですが……。続編でカバーするつもりなのでしょうか。
 コメディ・リリーフのクリス・ダウドと3Dプリンターベーグルはよかった。
 監督のジュリアス・オナーはナイジェリア生まれのアメリカ人。父親がナイジェリア政府で各国大使を歴任した関係から世界各国を回ったのち、アメリカの大学を卒業。学生映画で名を馳せたのち、スパイク・リーの推薦により、クライムスリラー The Girls in Trouble で長編デビュー。本作が二作目です。
 ちなみに双子の兄弟であるアンソニー・オナーも2017年に The Prince で長編デビューを果たした映画監督です。

*1:S2最終話

*2:正確にはネトフリオリジナルではないのだが、日本ではネトフリオリジナルマークがついている

*3:ガーランドはパラマウントともめた末のネトフリ買い取りなので事情はちょっと違いますが

*4:日本で「ネットフリックスオリジナル」マークのついてる作品って「ネットフリックスが作ってますよ―」という意味ではなく、日本ではネトフリでしか観られませんよくらいの意味あいしかないですが、ともかく

*5:そしてそんな地獄を本来はイギリス人であるフリーマンが見るという構図のメタな皮肉

*6:とはいうものの、結局オーストラリアにおける人種問題をうまくさばき切れたとはいえない仕上がりですが

*7:https://www.youtube.com/watch?v=gryenlQKTbE

*8:by 町山智浩

*9:根源をたどれば『フランケンシュタイン』なのでしょうが

*10:この場合は実写映画の制作初期段階において描かれる絵コンテのようなもの。いわゆるプリビズ

*11:エモっぽさが『ベイマックス』のゴーゴータマゴの佇まいと似ている

*12:https://www.youtube.com/watch?v=SL27ME9Y2hI

*13:https://www.youtube.com/watch?v=kpfaza-Mw4I

*14:カナダ北部のシュワスップ族出身のカナダ人女優で、ディカプリオ主演の『レヴェナント』などにも出演経験あり。

*15:まあノリは人間の視点とそんなに変わんないんですけど

*16:その設定すらブレる場面があるのですが

*17:おそらくエリザベス・デビッキ演じるキャラとの絡みが関係してくるんでしょうが、劇中ではマジで何一つ説明してくれない

ホラー映画における奪われやすい対象としての子どもたち――『クワイエット・プレイス』

微妙にネタバレ注意



「大きく存在する寓意は、いつかは子どもたちを外の暗く深い森へと出さなければいけないときがくる、ということだ。この映画で家族を襲う“何か”のようなものが外の世界にはいるものだ」
「クワイエット・プレイス」に隠された裏テーマとは? 監督が明かす : 映画ニュース - 映画.com


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 狙われるのは常に子どもたちだ。
 大きな音を立てれば「何か*1」に襲われて殺される世界。
 ジョン・クラシンスキとエミリー・ブラント演じる夫婦*2は、「何か」から子どもたちを守るために奮闘する。
 
 興味深いのは、「何か」の脅威に晒されるのが、ほぼ常に子どもたちであるという点だ。
 もちろん、家族を描いたホラー映画その他において、家族のもっともやわらかい部分である「子ども」がターゲットにされるのはめずらしくない。 
 しかし本作は「何か」の凶手はほぼ子どもたちに向けられおり、両親、特にクラシンスキ演じる父親は子どもたちを守る存在として描かれ、「狩られるもの」として受け身に回ることはあまりない。
 エミリー・ブラントを演じる母親ですら、直接「何か」と対峙するのは妊娠した赤ん坊を守るためだ。「何か」が彼女の前に現れるのはどういうタイミングだったか。彼女が陣痛をもよおしたとき、だ。
  

 ここから導ける寓意は無数にあるけれど、本記事では一本に絞ろう。
 かつて、ヒトの子どもは生物として今よりずっと弱い存在だった。
 まず産まれるのが大変だった。
 たとえば十九世紀なかばのアメリカにおける新生児死亡率は出生児千人につき約二百十六人と推定されている。これは白人のこどもの数字で、アフリカ系となると千人につき約三百四十人の命が失われていた。*3
 今日におけるアメリカでの新生児死亡率は出生児千人につき六人*4だ。そしてこの数字ですら他の先進国に比べて格段(一・五倍〜三倍)に多い。
 不衛生な環境で誕生を強いられた赤ん坊、そして妊婦たちがいかにフラジャイルな存在であったか、医療の発達した現代では忘れがちな視点だ。

 無事生まれたところで成人に至るまで生き延びられる子どもの数も今よりずっと少なかった。なにせ、ちょっとした病気や事故であっけなく亡くなってしまう。
 そういう現象や子どもの不安定さをひっくるめて、「得体の知れない『何か』が子どもをさらっていく」と捉えるのは古今東西に汎く見られた発想だ。古くは旧約聖書の「出エジプト記」に出てくるユダヤの神によってエジプトへもたらされた十の災いの十個目「長子を皆殺しにする」もそのうちだろうし、ヨーロッパのチェンジリング(取り替え子)なる妖精のいたずら、日本でも河童などは本来子どもの命をねらう凶悪な妖怪だという話をどこかで聞いたおぼえがある。*5日本でそこらへんが文化として能く現れていたのが幼名、つまり小さい頃の仮の名をつける慣習で、もちろん長福丸だの千寿王だの福々しくめでたい名付けで長寿を勝ち取ろうとする戦略もあった一方、棄*6だの阿古久曽*7だのととても自分の子どもにつけないような汚らしい、あるいは禍々しい名をつける親たちもいた。
 これは、『何か』は親が大切にしている子どもを奪ってしまうため、無関心を装ったり、不浄な感じを加えたりしなければならない、というわかるようなわからないような魔除けの発想*8で、やはり「意志を有した『何か』が親から子どもを奪っていく」というスタンスがあったのだろう。

 言ってしまえば、お父さんやお母さんが自分の子どもを守る系ホラー映画はすべてこうした万古不易の恐怖心を具現化した内容だと言ってもさしつかえない。
 その中にあって『クワイエット・プレイス』が「奪われていく子ども」のイメージをとりわけ意識させるのは、先述したように、狙われる対象としての妊婦や子どもたちの描写が多いせいだろう。

 それに「何か」を子どもを取り巻く危険の歴史と重ね合わせたなら、ラストの展開がよりするりと腑に落ちてくる。
 現代において子どもたちが命をながらえられるようになったのは、科学的思考により発展した技術と、親から受け継ぐ有形無形の資産のおかげなのだから。

*1:劇中では Creature としか呼ばれていない

*2:もちろん二人は実生活上でも夫婦である

*3:https://en.wikipedia.org/wiki/Infant_mortality#cite_ref-107

*4:https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.IMRT.IN

*5:おぼえがあるだけ

*6:豊臣鶴松

*7:紀貫之

*8:http://membrane.jugem.jp/?eid=296

「これは京都SFフェスティバルの参加レポではない」(I'm not the Kyofes Report.)



*去る人物から京都SFフェスティバルのレポを書けといわれたので書きますが、ほとんどはフィクションです。
 まじめに内容を知りたい方は、

https://virtualgorillaplus.com/topic/kyoto-sf-festival-2018-opening/
http://whiteskunk.hatenablog.com/entry/20181009/1539011800
https://togetter.com/li/1274530

 などをごらんください。


* * *


 神宮丸太町には「京のつくね屋」というすこぶる評判な親子丼の店があります。
 そこで名物の親子丼と鳥餃子(揚げた手羽先の中に餃子めいた野菜の具がつまっている)をのんびり食べておりますと、片付けたころにはとっくに京都SFフェスティバル本会の開始時刻を越している。こうして割と行きたかった一コマ目が飛びます。イコライザーさんが見ていたなら「どうしてチャンスを逃すんだ」と怒ったでしょうが、わたしは『世界と僕のあいだに』を半分ほどしか読まないままうっちゃった人間なので、どうしようもない。

 二コマ目には間に合います。
 酉島伝法先生と飛浩隆先生の対談です。
 酉島先生についてはいつかのやはり京フェスのときに吉村萬壱先生との対談を通じておもろい大阪のおっさんなんだなと知っていたのですが、飛先生はどうだか未知数です。イメージとしては声が中田譲治な白髪知的紳士。酉島先生と話が合うんだろうか、と心配してしまいます。
 会場に着くとたしかに声こそ中田譲治ではなかったものの絵的にはだいたい白髪知的紳士と合致するおじさまが演壇に座っています。不安がさらに募ります。しかし始まってみると、飛先生もおもろいおっさんの類なのだと判明しました。
 対談は飛先生の聴き上手と切れ味鋭いボケがいかんなく発揮され、酉島先生の新作にまつわるあれこれから普段の執筆スタイルまで根堀葉掘りされていきました。あまりに飛先生のインタビュアー力が高すぎたためか、飛先生のほうの話がそれほどなかったように思われましたが、おもしろかったので良しです。酉島先生の新作長編の元ネタが『次郎長三国志』と聞いて、ほう、となりもしました。
 本対談の白眉はなんといっても、「川」でしょう。川をあのように使いに、川に溶け込む酉島先生はやはり彼岸の向こう側が見えているヒトなのではないかと思わされました。詳しくは上記のリンク(下のほう)をお読みください。


 三コマ目は小川一水先生による『天冥の標』完結記念トークでしたが、天冥は三巻くらいまでしか読んでいなかったのでそんな状態で出席するのも失礼だと思い、近くのからふね屋でミックスジュースフローズン(おいしい)をすすっていました。
 あとでトークの内容を報告してくれた、やはり天冥を通読していない後輩によると、別に素の状態でも先生のキャラを十分堪能できたそうで、やっぱりいきゃあよかったなとちょっぴり後悔しました。筋を通すのは人間として大事ですが、ときに筋を曲げていい場合もあるのです。学びですね。京フェスはいつだってわれわれを成長をさせてくれます。一抹のほろにがさと共に……。




 さて本会が終わると工場へと案内されます。


 工場の入口で靴とコートをフロントに預けると、スタッフから俳句をしたためるように要請されます。どんな俳句ですか、と訊ねると、今生にお別れするノリで、と注文が付きます。
 俳句を提出すると若こうじょうちょう(両親を亡くしたばかりの小学生)にいざなわれ、暗い地下の奥の奥へと連れて行かれました。
 壁の途中途中には歓迎のメッセージらしきものが刻みつけられており、「いますぐ逃げろ」「死にたくない」「サラミだけはいやだ」などといった個性豊かなセンテンスでわれわれの目を楽しませてくれます。

 
 三十分ほど歩いたでしょうか。
 急に視界がパッと明るくなり、目の前にハリウッド製SF映画でよく見るような清潔感溢れる作業場に出ました。縦横に巡らされたベルトコンベアの上を青い肉と赤い肉が流れていき、働いているひとたちが忙しく処理をほどこしたりしています。
 若こうじょうちょうはわたしにこう言います。
「ここはSFフェスミート工場。二種類のsfフェスミートを生産しています」
 向かって右側がS味で、左側がF味ですね、と手で示しながら、若こうじょうちょうは丁寧に解説してくれます。
「二種類! すごい、スプラツーンみたいだ」
「そう、スプラツーンみたいでしょう」
 若こうじょうちょうは、あなたも肉になってみませんか、とわたしに対して提案してきました。
「ええー、肉ですか。自信ないなあ」
「自信なくても大丈夫です。SFフェスミート工場はどんな肉も拒みません。あなた以外の参加者のみなさまも、全員肉になっておりますよ」
 たしかに周囲の参加者たちもみな肉と化していました。
 自分以外の人間が足並みをそろえて肉になっているのを見ると、ふだんは押し殺している日本人としての本性がむくむくともたげてきて、自分も肉にならないと! という気分が盛り上がります。
「わたしも肉にしてください」
 こうしてわたしも肉になりました。


 肉になったので、若こうじょうちょうはさまざまな肉たちが催しているおもしろコンテンツの部屋をツアーしてくれました。

「これは VRChat の部屋です」
 現実世界では肉だったものがVR世界で寿司になったりしていました。わたしも寿司になりたくなったので、家に帰ってから早速 blenderをインストールしようと決意しました。


「これはsf映画を語る部屋です」
 SF映画が観たくなりました。参加者にダンカン・ジョーンズの『mute』をやたら詳しく読解する方がいて、あれ実はおもしろかったのか、という感情を持ちました。


「これは海外SFの最新情報を語る部屋です」
 SFが読みたい! になりました。赴任地のアフリカ諸国に現地語に翻訳した自国のSFをばらまいている旧共産圏の外交官(ジョン・ポールか?)や日本語から直接SFを訳しているハンガリー人などの話を聴き、旧共産圏の人間はヤバイな、と思いました。


「これはsf映画を観る部屋です」
 うおー観たい、と思っていると突如としてベルトコンベアが動き出し、わたしは大広間へ運ばれました。


 大広間には二種よりはるかにヴァリエーションに富んださまざまな肉がひしめていていました。肉フェスじゃん、とおもいました。
 馬肉、牛肉、羊肉、魚肉、バイオミートなどに仕分けされた肉たちが肉々しているのに目移りして自分はどのグループに属する肉なだろうと惑っていると、百合の花を匂いを放っているグループになんとなくつられました。
 そこで百合だと思われる作品リストを手渡され、ここに載ってるやつ以外で百合だと思うものがあったらどしどしあげてほしい、と言われたので、いっしょうけんめい考えようとしましたが、私は花についてあまり詳しくないものですから、たちまちに腐りかけました。
 今にして思えば『少女境界線』あげりゃあよかったのですが、あれもリストに記入済みだっかな? なにもおぼえていません。前回の創元SF短編賞で審査員賞をおとりになられた百合とミステリの泰斗、織戸久貴先生がいたらな、とおしまれました。


d.hatena.ne.jp

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 時計も十二時を回り、わたしも他の肉もぶよぶよにやわらかくなりはじめます。

 気がつけば映画の部屋で mute を熱心に語っていた人をはじめとした数名と百合の議論を白熱させており、そのうちのひとりがガンガンに載っているマンガで何か外伝的なエピソードが出ると百合っぽくなる*1カドカワの陰謀ではないか、とおっしゃったので、わたしは「では、ひとつのプログラムのなかでたまに百合回があるだけの作品は百合なのでしょうか?」と問いました。
 すると mute のひとが、
「そういうものは百合とはみとめがたい。外伝とか別枠ならアリかもだが」
 じゃあ、このリストに『スティーヴン・ユニヴァース』が入ってますけど、『アドベンチャー・タイム』のほうはダメだってことですか、と不安がちに尋ねると、「『アドベンチャー・タイム』は百合だよ!」と一喝があり、百合ということになりました。
 ATが百合かどうかでないかは大した問題ではない、とみなすレモンピープルもいるかもしれません。わたしもふだんはそう思います。しかし百合であるかどうかで生きるか死ぬかみたいな鉄火場はたしかに実在し、いかなる場であれATを殺すのは忍びない、そうではありませんか? 愛とはそういう力です。

 あとなんかホモ・ソーシャルなブロマンス好きだから百合好きなところあるよね、などと親和性を論じていると、いきなり百合原理主義テロリストが乱入してきて肉切り包丁をつきつけつつ私たちを壁を前に整列させ、SF百合聖書(『裏世界ピクニック』か?)の一文を原語で暗唱するように要求し、わたしはできなかったので向こうの景色が透けるほど薄く芸術的にスライスされました。


 スライスの妙による酸化作用でもっとおいしくなっていると、ゲームにくわいひとがやってきて、伸びるイヌのゲームを紹介してくれました。


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「うはははは、伸びてる伸びてる。すげえ。ウケる」
 わたしはウケました。
 ひとしきりウケたあと、ふと大広間を見渡してみるとほかのみんなも伸びている。わたしも伸びている。なんか肉の状態で伸びるとソーセージ(スライスされているのでむしろハムですが)みたいな心地でみっともないな、と恥じていると、伸びるイヌのゲームを紹介してくれたひとが別の伸びてるひとをつれてきました。あんまり他人のテイストをこういう場で話すのもどうかな、と思いますが、味は星野源に似ていてすてきでした。
 お源さんは、人生ってなんだろうな、みたいな問答を発されたので、私は生まれて初めて人生について思いを馳せ、人生、人生か、なんなんでしょうね人生、でも今肉だしな〜人生とかもう……みたいなことしか返せなかった。もっとちゃんと考えていこうとおもいました。肉の生に意味などなく、暮らしがあるだけなのかもしれませんが、それでも生活はつづくのです。

 
 映画にくわしい肉のひとも複数いました。
 やたらマイナー映画をおさえているひとがいました。インドのサスペンスやホーガンの名作のタイトルをパクった吉岡里帆の映画がアツい、アツいが、どれもソフト化される気配がない、という話を聞いて淀川長治の戦前トークを聞かされたみたいな空気になりもしました。
 映画をすごくよく記憶しているひともいました。
 映画を動きで見られる人すごいですよね、なんかわたしは静止画の連続としてでしか動画を認識できないのでアレです、と話すと、流派はいろいろですよね、編集が映画の動きを決めてるみたいな部分があって、たとえば鈴木清順、『ピストルオペラ』なんかは編集のタイミングだけで動きを創出しようとしていたんです、と言われて、なるほど、あれはそういう映画だったのか、と感心し、やっぱり映画を読むのは大事だな、mute みたいに、と内省しました。あと観賞録をつけるなら、KINENOTEより、Filmarks がいいのかなあ、とも思いました。ネトフリとかの作品は登録されてないんですよね、KINENOTE
 そのあとは、マックGのネトフリ映画『ザ・ベビーシッター』は最高だという流れになり、最高になりました。気分は熟成肉です。気がつけばもう四時ですよ。熟すのも当然ですね。
 メタンがわたしの全身を包み、睡りの国へと連れていきます。夢の中のわたしは神戸牛で、ロシアの大富豪に買われましたが、大富豪はあまりに大富豪すぎたのでわたしはロットワイラー犬の餌に供されました。肉のいのちはなんと儚いものでしょう。


 朝目覚め、校長先生の朝礼を聞いたのち、三々五々出荷の次第とあいなりました。
 わたしは加工プロセスでなんらかの不具合が発生したらしく、家畜用の餌として世に出される情勢となり、残念だけどしょうがないな、という諦念をのみこみつつ工場の外へ運びだされたその瞬間、川側の草地の影から飛びだしてきた野良犬に襲われガブガブかじられました。
 わたしは、たすけてくれー、とわめきますが、犬の勢いがあまりにものすごいので、運送員のひとも近寄れません。わたしの含有している塩分は犬の身体にはあまりよくないはずですが、そんなことは餓狼と化した犬には関係ないようです。
 運送員のひとは「ハイクだ、ハイクを思い出せ!」とわたしに対して必死に呼びかけます。それを聞いて、ああ、あのときに出したハイクは辞世の句だったのだな、とわかり、あんなうろんな夜にも伏線がはらまれていた事実にちょっとおどろきながら、犬の食道へと嚥み下されました。


 数時間後、三条のあたりが野良犬が草地にうんこをプリッとひねると、それが養分となって、あとからきれいな百合の花が咲いたそうです。


 



 企業機密や個人情報というのもあって、工場のなかのことはよく明かせませんが、まあだいたいそんな感じでした。そういう感じなのでは、なかったでしょうか。色んな方にお世話になりました*2。こんな規模の大会を四十年以上続けている京都大学のSF研のかたがたはすごいなあ、文化に貢献しているなあ、とおもいました。ありがとうございました。

*1:実際の発言の主旨とは微妙に異なっているかも

*2:特にSF映画企画に誘っていただいたKさんには。多分それがなかったら本会止まりだったので

インディーゲームと映画の(雑な)関係――Disasterpeace、デイヴィッド・オライリー、アナプルナ

 例によって動画リンクが多いので重いですが。

デイヴィッド・ロバート・ミッチェルと Disasterpeace


『イット・フォローズ』監督の新作『アンダー・ザ・シルバーレイク』日本版予告編



 めずらしく音楽ネタから入ります。


アンダー・ザ・シルバーレイク』が日本公開される時期となりました。はやいな。アメリカ映画なのに、なんと全米公開より早い。
 それもそのはずで、監督のデイヴィッド・ロバート・ミッチェルは前作の『イット・フォローズ』で日米ともに一躍名を売った期待の新鋭。次代のタレントということで、日本の配給会社も気合が違うわけです。
 『イット・フォローズ』は実にいろんな褒めかたができる作品でした。
 わけても印象的だった部分として「劇伴音楽」をあげる人も多いんじゃないでしょうか。

 そんな『イット・フォローズ』のサントラを作曲し、今回の『アンダー・ザ・シルバーレイク』で監督と二度目のタッグを組むのが Disasterpeace。
 『イット・フォローズ』のとき、一部界隈はこの名前を見て震撼しました。あの Disasterpeace が、と。


 どの界隈が?


 インディーゲーム好き界隈です。


 元々インディーゲームの作曲家として有名な人です。その制作経緯含めて*1伝説となったプラットフォームアクションゲーム『FEZ』(めっちゃすき)において評価を確立したのち、


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 これまた世界的な話題を呼んだパズルゲーム『mini metro』(めっちゃすき)、


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 そしてリリース自体は『イット・フォローズ』日本公開より微妙に遅れますがアクションRPG『Hyper Light Drifter』(めっちゃすき)、


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 いずれもその年を代表するアウォード・ウィナー的名作インディーゲームの作曲を務めた、いわばインディーゲーム界のアレクサンドル・デプラとも呼べる存在なのです。


越境するインディー系短編アニメーション作家たち

 そして、ここ最近のシーンを観察するに、どうもインディーゲームで見た名前が映画に関わっていたり、映画で見たクリエイターがインディーゲームを作っていたりすることが妙に多い。
 ゲームと映画は元々つながりの深い業界同士ですから、単に私がここ二三年でインディーゲームに触れるようになった影響で個人的に視野が広がっただけ、ともいえなくもないかもしれません。
 が、それにしても、「そこを出してくるか」というラインを目にする機会が多くなってきている。


 代表的なところで言えば、3D短編アニメーションの若き巨匠デイヴィッド・オライリー
 メジャーどころの仕事だとスパイク・ジョーンズ監督『Her/世界にひとつだけの彼女』の作中内でホアキン・フェニックスが遊んでいるゲームのアニメーションや、『アドベンチャー・タイム』のゲスト監督回(「コワレタセカイ」)などがあります。 *2『Her』にちょっと噛んだだけの人物を映画人として上げるのはどうなんだ、というご意見もあるでしょうが、今回はそういう流れなので我慢して聞いてください。

 もともとはローファイなポリゴンを使用したシュールでスラップスティックな、しかしどこか切なさをはらんだ作風の短編アニメで注目を浴びていた作家です。


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 彼は2010年に集大成的な作品*3『THE EXTERNAL WORLD』を公開したのち、上記の商業作品ゲスト参加以外はオリジナルのアニメプロジェクトをやっていなかったのですが、では何を作っていたかといえば、ゲームです。


 山になる(そして山でいる他はほぼ何もできない)ゲーム『Mountain』


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 原子から銀河まであらゆる「もの」に変化していく『Everything』


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 といった野心的なゲー……ゲームかなあーー??? これ??? 的なゲームを発表し、プレイヤーの度肝を抜きまくりました。
インタビューによるとノンリニアな物語を描き出せることにゲーム制作の魅力を感じているそうで、やはりストーリーテリングのヴァリエーションのあり方として接近したと思しい。
 彼に限らず短編アニメーション作家がインディーゲームに参入してくる例は増えてきておりまして(『Plug & Play』、『Night in the Woods』)で、作家的な個性を発揮する場としてインディーゲームという場は魅力的なのでしょう。


 余談になりますが、オライリーといえばインディーアニメーション評論家・プロデューサーの土居伸彰の『21世紀のアニメーションがわかる本』でも触れられていますが、彼を紹介した土居先生自身も審査員として関わっている映画祭でインディーゲーム特集を開いたり、ゲーム製作にかかわられたりもされているようで、これも「流れ」っぽいかんじがする。

 

アナプルナの野望〜インディーゲーム編〜

 そして近年におけるインディーゲームと映画のクロスオーバーでもっとも見逃せないのが、アナプルナの暗躍です。
 オラクル創業者の娘でウルトラ金持ちのミーガン・エリソンが2011年に設立するや、毎年のようにアカデミー賞ノミネート作品を送り出している映画製作会社アナプルナ・ピクチャーズ。
 そのアナプルナが母体となって2016年にできたのがゲームパブリッシャー、アナプルナ・インタラクティブ(Annapurna Interactive)です。
 インディー的な感性の映画を豊潤な資金力で多数製作しハリウッドのアナプルナの名に恥じず、創立以来、優秀なゲーム開発者・スタジオを援助してはいい意味で珍奇な作品群を商業ラインに乗せ、映画方面とおなじく批評的な大成功をおさめています。
 
 その最良の収穫が、『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと(What Remains of Edith Finch)』。
 
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 とある若い女性が幼少期を過ごした実家に舞い戻り、不可思議な死を次々と遂げていった自分の一族の謎を追体験するアドベンチャーゲームで、その卓抜したストーリーテリングによりゲーム・アワードを始めとして数々の賞を受賞。各種批評紙の評点を集計した metacrtic のスコアも異例の90点超えと昨年度でも最も注目されたインディーゲームです。わたしもだいすき。
 

 『フィンチ家』はアナプルナ新作としては第二弾ですが、第一弾となったパズルゲーム『Gorogoa』も興味深い。
 なんといいますか、説明しにくいのですが、多数のレイヤーが重なったフラクタルな絵画のような画面をクリック(タッチ)することで仕掛けを説いてストーリーを解き明かしていく作品です。 

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 そして最近発売されたオリジナルタイトル第三弾が『Donut County』。
 これはまあドローンのヘリコプターを欲しがるドーナツ屋のアライグマがドーナツの配達先で謎のアプリを駆使しして謎の穴を作り出し、その穴にドーナツを注文した動物たちを含むさまざまなオブジェクトを落としていくことで塊魂的に穴を広げ、落として貯めたポイントでドローンをゲットし友達の女にぶち壊されるという内容のゲームで、何を言っているのかと思われそうですが、まあそういうノリです。
 とにかくビジュアルがポップでかわいく、オフビートな会話のノリがすてき。

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塊魂』っぽいといえば、本家『塊魂』の開発者である高橋慶太の新作『Wattam』もアナプルナがパブリッシャー。たのしみですね。

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 ちなみにわたしは未プレイですが、Apple Storeでやたらプッシュされているしゃれおつインタラクティブノベル『Florence』も今年のアナプルナの仕事です。

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 今年の待機作としては他にもローポリで幻想的な雰囲気が特徴のRPG『ASHEN』や、ある惑星が恒星の超新星爆発によって滅ぶ直前の二十分間を繰り返しその謎を探るオープンワールド探索アドベンチャー『Outer Wilds』などが控えており、さらには発売予定日はまだ不明ながらユニークなインターフェイスで話題をさらった推理アドベンチャー『Her Story』の続編もラインナップには見えます。
 いずれもゲームファンとして、いや、人間存在として見逃せない作品ばかり。


 とまあ、ご覧のとおり、アナプルナはビジュアルやデザインは洗練されているもののAAAタイトル的な狂騒やわかりやすいエンタメからは遠く離れた侘び寂びに満ちたゲームを世に出しまくっています。
 ゲームのパブリッシャーの役割は映画のプロデュースと異なるわけで、どこまで映画のほうのノウハウが役に立っているかはわかりませんが、大手から相手にされないようなめんどくさいが観客にとって魅力的な個性を持つ作家にカネをあたえていいものを作らせるスタンスはまさにアナプルナの精神そのものです。
 アナプルナがゲーム業界に参入した理由については今日のところは疲れたので後日また調べたいと思いますが、アナプルナの「本気度」をかんがみるに、アートのプラットフォームとしてのインディーゲームが映画と同レベルの強度を獲得しつつあること、あるいはそのような潮流が生じていることを見込んだのかな、と推察します。
 そうした潮流の一現象として、映像作家だったり作曲家だったりがインディーゲームと映画のあいだを横断している。
 かなり、むりやりなまとめですが、そういうことにしておきましょう。単にわたしの好きなものを並べただけの記事だということがバレないように。


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Fez

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Under the Silver Lake

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*1:『Indie Game: The Movie』というドキュメンタリーでフィーチャーされています

*2:そういえば、 Disasterpeace も『アドベンチャー・タイム』でゲスト参加回がありますね

*3:といっても公開時25才くらいだったのですが

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