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第二十八回東京文学フリマで買った本を読む+メモ

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これまでのあらすじ

 世に「しるもしらぬも逢坂の関」という佳歌があって、逢坂とはつまり今の滋賀県大津あたりを指すのだけれど、これが天橋立や箱根すら越えて江戸の木戸となると知らないひとばかりです。

 五月五日、わたしは東京は神保町で京都大学ミステリ研究会の主催するトークショーに来ていました。

 開演前の短い時間、受付ロビーはなごやかに談笑を交わす人々で溢れています。わたしはひとりその輪からはずれ、身の置き所に迷っていました。

 もともと京大ミステリ研四十五周年の祝賀記念の一貫として開かれているだけあって、京大のひとが多い。それも四十五年ぶん、約二十世代です。瓜実顔の初々しい若者から二十歳の成人式からこの方ずっとミス研ヤクザで通してきたような怖そうなおじさんもいます。見知った顔もいないではありませんが、この圧倒的アウェイ感にあっては敵地の知己など敵にひとしい。こころを許してはなりません。関西の弱小大学ミス研勢は例外なく、「京大に復讐せよ」と教えられて育ちます[要出典]。「復讐」の動機が具体的になんなのかは示されずじまいで、おそらく妬み嫉み僻み羨みの言い換えとみんなうすうす気づいていましたが、それでも愛すべき先輩たちのいうことで、内心気持ちがわからないのでもないので、なるべく守ろうと意地をはります。惻隠の情という言葉を今日は学んで帰ってください。

 それでもトークショーが始まってしまえば、取り憑いていた怨霊のことなど忘れ、円居挽我孫子武丸日暮雅通、青崎有吾四先生の軽妙なミス研よもやま話をあまさず愉しむスウィートなわたしがいます。しかしあの三十分間、開場から開演までの三十分間にあっては不安しかともだちがいませんでした。

 京都に帰ったら『ヤオチノ乱』のレビューをブログに書いて、『アクタージュ』の二次創作について考えるんだ……と必死に自分へ言い聞かせ、受付ロビーのすみで震えながら、希死念慮をなんとかおし殺そうと悪戦苦闘しているとき、向こう側のすみで談笑している二人組の片方と目が会いました。彼は親しみ深げな笑みを浮かべると手をふりながら、こちらへ近づいてきます。


「千葉さんやないですか〜」

   
 Nくんです。京大ミステリ研出身者では数少ない友人のひとりです。わたしは先輩の教えや孤高の気概をたちまち放り出して、仔犬(ポメラニアンがいいな)のように彼に駆け寄りました。やっと手を差し伸べてくれる存在がいた。雲の上からカンダタに糸を垂らしてくれたおしゃかさまのような……と芥川を連想したのはその三日目に参加していたデイヴィッド・ピース講演会の影響だったでしょう。


 しかし、安心したのもつかのま、わたしは彼の風体に異なる感じをおぼえました。得も言われぬ禍々しさに戸惑いました。よくよく目を凝らすと、Nくんの着ているTシャツ……ピクトグラムめいた燃える本の下部に印字された「Fahrenheit 451」……。

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 そう、ブラッドベリ華氏451』のTシャツです。ハヤカワが売ってたやつです。
 神保町という本の聖地において開かれる本を愛する人々の集会で燃える本の描かれたシャツを着てくる、この勇気、この蛮勇。養豚場にトンカツの描かれたシャツを着てくるようなものです。

 
 この男……ここまでロックであったろうか……? 
 こんなシャツでいったい何を伝えたいのだろうか……?


 と、しばし三日会わざるうちにすくすく育つ、男子という名の青山の威容に刮目しおののいていたのですが、Nくんはかまわず話しかけてきます。

「明日、文フリいかはるんですよね?」

 そのことばにハッとします。ささやかに蒙が啓かれます。
 六日の東京文フリ。そして『華氏451』のシャツ。

 なるほど、これは彼なりのちょっとした考案だったのです。

 
 わたしは、行くよ、と答えました。
 彼は満足気にうなずくと、それ以上その話題に触れず、ただシャツを誇るように立っていました。わかりますよね? とでもいいたげに。

 
 ああ、わかったとも。
 燃やさねばだよね。


 かくして、わたしは五月六日の東京文フリで本を買いました。
 知るも知らぬも、本は本です。


文学フリマで買って読んだ本

 レビューというよりメモに近い。購入の参考にはならないでしょう。

『深界調査記録』もちくず倉庫

・いわゆるネットロアというか、ホラーな都市伝説の調査記録。調査といっても実際に噂の源泉になっている場所は訪れず、もっぱらネットや書籍の情報を追っていて、そのかぎりではよく調べてあるとおもう。
・実際に起こった事件が地元住民のあいだで長い間噂されていくうちにディテールがおぼろになっていき、ネットへ都市伝説として吐き出される過程が複数例示されていて興味深い。

『立ち読み会会報誌 第二号』立ち読み会

殊能将之の『ハサミ男』、『美濃牛』、『黒い仏』に付せられた「参考・引用文献」をひとつひとつ丹念にあたって文献ごとの引用箇所を正確に洗い出す労作。
・表紙がダントツに好き。元ネタは本を読めばわかります。
・単に点をいくつも打っていくのではなく、浮き出た点を線としてつないで殊能将之への深い理解につなげるあたり、孔田さんじゃないとできない知的な落ち穂拾いですね。
・娘が生まれるとわかった孔田さんがロスマクや結城昌治を読めなくなるくだりはアツい(アツい?)
・巻末の創作を読んで、『異色作家短篇集リミックス』で孔田さんがやりたかったことがなんとなくわかった気がした。気がしただけかも。

『Re-Clam vol.2』Re-Clam編集部

・論創海外ミステリ特集。
・論創編集部のひとたちにインタビューしてるんだけれど、やっぱりすごい人たちが集まってるんだなとおもう。
・森先生のはしゃぎっぷりもすごい
・付録? の短篇「不吉なラムパンチ」(クリスチアナ・ブランド)、短篇ながらのこの犯人像とサービス精神満載なややこしい構成はブランドにしかできないな、という感想。なにげに探偵のキャラと犯人のキャラが対になっているのもいい。そういえば、探偵小説研究会の『CRITICA』十三号(出たのは去年の夏だけれど)にも市川尚吾がブランド論を寄せていて、そこにまるごと割られていた『はなれわざ』のあらすじを読んで、あらためてややこしいプロット書くひとだな、とおもった

『ルヴェル新発見傑作集 「遺恨」』エニグマティカ叢書

モーリス・ルヴェル東京創元社から『夜鳥』という短篇集が出ていて、「フランスのポオ」と称されているらしいのは知っているけれど、読んだことはなかった。
・収録作はいずれも十ページ前後の短編で、語り口は古風であるものの、センテンスレベルでは平易なのでさらっと読める。主人公がある出来事をきっかけにエクストリームな状況に追い込まれ、悲劇的な決断を下す。そんな話が多い。あとほぼ人が死ぬ。
・お気に入りは、迫り来る火の手から家族を守るために老鐘楼番がある行動に出る「鐘楼番」と、亡き妻の遺した二児のどちらかが不義の子ではないかと疑う父の煩悶を描いた「どちらだ?」。
・「仮面」も買ったのでいずれ読もうかな。悲しい気分になりたいときに。

『whodunit best vol.5』京都大学推理小説研究会

・大学ミス研(ミステリ研ではない)に属していた身でいうのもなんですが、「犯人当て」は書くのも読むのもそんなに好きじゃありません。理由はそのときどきで変わりますけれど、主として「自分が勝てないゲームはダルい」というワガママな性分から発するものです。
わたしのいたミス研では二年か三年に一度くらいの頻度で、京大でもすなる犯人当てというやつをやるぞっ! という機運が昂まり誰かが犯人当てを書いていたのですが、思ったより盛り上がらないのでブームにもならず文化にも育たず、一回こっきりで消滅します。わたしも書きました。ゴミでした。
・にもかかわらず、このフーダニットベストは心に響いた。犯人当てはあいかわらずよくわかんない。犯人当てに付されている京大ミステリ研会員たちによる解説、作者の人物像、そしてミステリ研と犯人当ての歴史がアツいのです。特に研内における犯人当ての歴史を綴った「犯人当て史を振り返る二〇一四」(高村優子)は犯人当てという競技の発展を記録した競技史であるとともに、そこに確かに息づいていた若者たちの熱気を封じた青春の記憶でもある。こういうの好き。

『SFGeneration 2018 特集:ゲーム』SFG

・SFであれば、小説や映画はもちろんゲーム、現代アート、音楽、都市(川崎)、大学SF研までもいちいち採取してレビューをつけようとする、メガロマニアックといったら失礼だけど、そんな形容がぴったりな本気のSFジン。
・エディトリアルまわりがカッコいい。写真も。あそびページの vaporwave 感もすき。
・ゲームレビューでわりとマイナーめのやつも取り上げてくれてるのがうれしい。小説レビューでは絶版のやつもためらいなくラインナップしてて罪作りだな、っておもう。
クロスレビュー企画やる同人誌はいくらでもあるんだろうけど、ファミ通でイラスト描いてる本人(荒井清和)をひっぱってきたのは初めて見た。
ツイッターでSFファンダム?界隈に関するマニフェストっぽいことぶちあげててそれきっかけで、すげー、と注目しだしたのだけれど、界隈に疎いせいか団体としての出自がよくわかんない。疎くてもすごそうなものには寄っていってしまう。文フリのスペースでは若いお兄さんと白髪のおじさんが親子みたいにして座っていたけれど、けっこうレンジの広いサークルなんだろうか。謎はつきない。

『イゾラドとの遭遇 NHK特番「大アマゾン 最後のイゾラド 社の果て 未知の人々」と1975年に遭遇した記録』今関直人

・2016年に放送された、アマゾンの少数先住民についてのNHKドキュメンタリーを観た著者が、「そういえば、俺こいつらに四十年前に会ってたじゃねえか!」と思い至り、その時の手記というか日記を冊子にまとめた。そういうもの。
・日記は日記なので特にキャッチーな出来事など発生しないまま、獏や野鴨を狩りつつ川を遡っていく。
・アリクイは手ごわいらしい。
・あとなんか現地の小説家からもらった作品を翻訳したとかいう触れ込みの本も売っていて、そちらも買った。まだ読んでないけど聞き慣れない単語にあふれてて楽しげ。

ひとひら怪談』薄禍企画

・例のシリーズの新刊
・作者名確認しないで読みはじめて、いいなあ、と思った二編ともが藍内友紀の作だった。早川から単行本を出しているらしいので読んでみようかなとなりました。矢部先生はもはや前衛詩の領域だとおもう。
・「『キズが超小さいフック』で5kgまで耐えられる」ってなんだろう

『華文ミステリガイド特別編 華日大学ミス研競演』風狂奇談倶楽部

・最初のページめくったら並んで出てきた復旦大学推理小説研究会の人とワセミスの人のハーモニーがいかにも十年来のミス研同期って雰囲気で笑けた。ミス研の人間にはユニヴァーサルな規格が存在する。5日のトークショーもそうだった。知らないはずなのに、知っているようなひとばかり。
・華文(中国語圏)ミステリ特集。早稲田と復旦で犯人当て小説を交換してバトルするなどおもしろい企画をやっている。
・秋好亮平「華文イデオロギー小考」。ちょうど先日『ディオゲネス変奏曲』で読書会をやったときに中国・台湾・香港のミステリ事情を知りたくて調べて、んー、よくわかんないですね、って無様を晒したところだったので、もうちょっと早くこれが欲しかった。台湾中国におけるミステリ受容史の編纂が待たれる。

『RIKKA vol.1』RIKKA ZINE

英語圏のSF/ファンタジー雑誌に投稿している日本人作家、SFで修士号を取った台湾のSF翻訳家、英米SFを訳しまくっている中国の翻訳家、日本の小説事情にやたら詳しい韓国のSF作家兼翻訳家、日本に居ながらにして英語小出版社を立ち上げそこで作家・編集活動を行う元ホスト*1などのインタビュー集。要するに東西のおもしろSFにんげん大集合、
・オガワ・ユキミ先生のインタビューは文章から知り合いに多い系の人だとわかるので安心感がある。
・台湾の翻訳家インタビューでの「70年代80年代に台湾で育った男子はみんな『マジンガーZ』などの日本のSFアニメを観ていた」という発言で『ぼくは漫画大王』で見たやつだ! となった。台湾ミステリと台湾SFの根っこがおんなじところにあるのだとしたらちょっとおもしろい。SFはミステリに比べて市場がかなり狭いっぽいけど。
・当然かもしれないけど、アジア圏のSF翻訳家は兼業翻訳家が多いっぽい。いつのSF大会だったか、大森望か誰かが「僕たちがSF翻訳専業で食っていける最後の世代になるだろう」みたいなことを言って記憶があるけれど、専業翻訳家という存在自体が世界的にはイレギュラーなのかもしれないなとおもった。
・中国のSF雑誌名「不存在日報」ってめちゃくちゃかっこよくない?
・「板垣恵介刃牙シリーズは、もはや思弁小説である」
・韓国の異世界転生は「漢江に投身自殺しようとしたらポータルができて異世界に」
・そりゃベイリーが最近復刊してるとか聞かされたらビビるよね。

『雨は満ち月降り落つる夜』笹帽子

・いわゆる雨月物語SF合同。雨月物語を下敷きに各作家がSF短篇を書いておられる。各編のあらすじは下記。
www.sasaboushi.net
・古典の素養がないもので、雨月物語と聞くと高井忍、吉備津の釜と聞くと日影丈吉が思いうかぶのですが、そういう見当はずれな読者でも読めばちゃんと楽しめるようになっている。わりとスペキュレイティブなやつに寄ってる印象。もとが幽霊譚ばかりなので幽霊という存在をどうSF的に解釈するか、みたいなところで最近の個人的な興味ともかぶってて、まあそれはいいんです、楽しく読めればね。
・高度に発達した怨霊人工知能より怖いのはアップデートしないヒューマンのエラーだよね、とか、さまざまに姿態を変えてビームを放つウオとか、大師さまに感謝、とか、正太郎はやっぱりクズなのだな、とか、ソルジェニーツィンマッシュアップとかどうかしてるなー、とか、蛇女百合かとおもったら宇宙かー、とか、「貧福論」は資本主義の話といえば資本主義の話なのだけれどこうなってしまえばよくわかんないがいっそ愉快だな、とか細かい部分でのフィーリングッドは多いのだけれど、オチの景色が好きなのは「荒れ草の家」と「飛石」でしょうか。特に前者は健気でかわいい。
・あとで聞いたらすごい勢いで完売したそうで、友人に頼まれたものとはいえ、ひとりで二冊購入したのは不作法だったかな。まあいいです。わたしは知らない人のかなしむ顔より、知っている人のよろこぶ顔がみたい。郵送で届けたので顔は見れませんが。令和ですね。
・そしてここに本書のKindle版がある。アンリミテッドなら事実上ゼロ円で読み放題。文フリの本と秋の空は違うもの。すぐさま移り変わるものでなし、菊が鮮やかなのも今日だけでなし、読むという気持ちがあれば、秋開催の季節になったからといってなんだというのです、と円城塔ならおっしゃるのでしょうが、文フリの本など買っては積んでしまうのが人の性です。だとしたら、マウスの赴くままに買って、その場で読み尽くすのも乙なものですよ。

雨は満ち月降り落つる夜 (雨月物語SF合同)

雨は満ち月降り落つる夜 (雨月物語SF合同)

  • 作者:笹帽子,cydonianbanana,17+1,Y.田中崖,志菩龍彦,雨下雫,シモダハルナリ,鴻上怜,murashit
  • 出版社/メーカー:笹出版
  • 発売日: 2019/05/08
  • メディア:Kindle
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次は

『ヤオチノ乱』について書きたいと願います。これは願いです。

*1:最初「英国人」と書いてましたが、勘違いでした。イタリア人とオーストラリア人とのあいだに米国で生まれたかたです


わたしたちが絶滅させてはいけない現代忍者エスピオナージュまんが『ヤオチノ乱』について

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これまでのあらすじ(スキップ可)

 せがわ版『甲賀忍法帖』を読んだよ。

 『伊賀の影丸』を読んだよ、『忍空』を読んだよ、『カムイ伝』を読んだよ、『ムジナ』を、『ニンジャスレイヤー』を、『NARUTO』を、『あずみ』を、『アイゼンファウスト』を読んだよ。楽しかったよ。楽しかったね。

 そうしてたどり着いた2019年のわたしたちの忍者的気分は最悪だ。ひとことでいえば不感症に近い。もうどんな伝奇バトルにもロマンを感じなくなってしまった。忍者が出てくるものには特に。

 いまや忍者はサンタクロースやキャベツ畑のコウノトリと同等の、ベタで新鮮味のない空想生物に成り下がった。江戸時代に閉じ込められ、昭和に置き去りにされた憐れむべき講談本の絶滅種。

 奇跡や魔法が廃れたように、もはやどこにも忍法は存在ない。池袋の駅前に立つとそれがよくわかる。

 道行く人々はどいつもこいつも世間のツラだ。あなたは幻想ではなく現実が見通している。やつらは同程度に精気がなく、ありふれていて、特徴に欠ける。カジュアルにまとめた金髪のポンパドールにジャージを着たヤンキー風の女性、Bボーイファッションに身を固めたごつい男、いかにもトロそうなパーカー姿の男の子、近寄りがたそうな雰囲気を放つ三白眼の少女。


 それでも。もし。


 もし彼ら彼女らが全員忍者だったとしたら?


 池袋駅前の人混みを縫って『ジョン・ウィック2』ばりの暗闘を繰り広げているとすれば?


 あの日のロマンは死んでいなかったとすれば? 

 薬師寺天膳のように?


 ほんとうは、「そちらの方」が現実だとすれば?


『ヤオチノ乱』のご紹介

comic-days.com


『ヤオチノ乱』(泉仁優一*1)は、現代日本において唯一実効的なプロのスパイ組織として生きる忍者の一族ーー八百蜘*2一族を描いたエスピオナージュまんがです。

 物語は八百蜘一族内における「最終試験」から始まります。全国各地から集められた一族の若手数十名が宗家と呼ばれる中枢入りを競い、ランダムに割り当てられた二人一組でサバイバルマッチを行うのです。

 戦いの舞台はJR池袋駅を中心とした二キロ四方。このフィールドに主人公コンビであるキリネとシンヤ*3は五万円のみを与えられ、身一つで放り出されます。

 衣食住から戦いの装備に至るまで、すべてその五万と自らの創意工夫でまかなわければなりません。

 幼少のころから宗家の一員となるべく鍛えられてきたエリート忍者のキリカは、プロ意識に乏しいぼんくら男子のシンヤにいらだちをつのらせつつも、宗家の期待に応えるべく街に潜むライバルたちをあぶり出していくのですが……というのが序盤(二巻終わりまで)の内容。

『ヤオチノ乱』のなにがよいか

 その魅力はなんといっても地味さ。
 地味が魅力ってなに、忍者バトルものが地味でいいの? と疑問におもわれる方もいるかもしれませんが、本作における「地味」は「シャープでスタイリッシュ」と同義です。

 主人公を含めた八百蜘の忍たちは、異能バトルものに出てくるような派手な術をふるったりはしません。

 彼らの「忍術」は変装や追跡といった、あくまで情報戦のためのもの。そう、情報戦。『ヤオチノ乱』は忍びたちを戦士ではなく、現代的なスパイとして再定義します。


「忍術」同様、忍者ものによく出てくる便利アイテムもあまり登場しません。てぶらで「試験」に行かされるわけですからね。どこまでも自給自足が要求されます。キリネたちはテープやソーイングセットやサングラスや水風船といったありあわせのもので即製のトラップを作り、ファミレスのストローやその袋、調味料の唐辛子から武器をこしらえるのです。

 そしてトラップは寝ぐらとなるネカフェや路地裏にしかけ、食べ物はデパートの試食コーナーや討ち果たしたライバルの所持品から調達する。そうした生活臭が逆に「日常のなかに潜む忍者」のロマンを芳しいものにします。


 キモとなるバトルそのものも実にハードコアです。いちおう忍者なのですから肉弾戦でも常人離れしてつよいはつよい。しかし同時に少しでも状況が不利だったり不透明だったりすれば即逃げます。戦うより逃げたり隠れたりする場面が多いくらいです。

 そのような警戒心の強い忍びをどうやって捕捉し、自分たちに有利な状況へ持ちこむか。それが「試験」における焦点となります。

 探索と追跡と逃走の緊迫感がデフォルメされながらも乾いてカッコいい画風によく合います。そうなんですよ。カッコいいんですよ。クールなんですよ。


 主人公が千円のCD買う時に一万円渡してお釣りを受け取る描写でドキドキできるマンガがありますか?


 CIA(エシュロンを使用可)にケンカふっかけてこてんぱんにされた公安が泣きながら忍者に助けを乞うマンガが他にありますか????(あ、これは三巻以降の内容だった)


「試験」後はさらに世界が拡がり*4、インターナショナルでワクワクなハードボイルド諜報戦に入りこんでいきます。
 つまりは楽しさも百倍に!
 


 しかし……ですよ。
 こういった作品を「地味」以外になんと表現すればよいのでしょう。どう褒めればよいのでしょう。どうおすすめすればよいのでしょう。
 あまりに低温でクールすぎて”良さ”を言語化しづらい。こうしたまんがの命は儚く短いもので、私たちはもう二度と失いたくはない。
 なにかないか。なにかふさわしいことばはないか……。



 ???「ほっほ、お困りですかな」



 !? そのブラックなボイス、六尺に達さんばかりの米津玄師じみたシルエット……あ、あなたは……



f:id:Monomane:20190516023655p:plain
(作・長谷川等伯



 !!!!!!!千利休!!!!!!!!!!



f:id:Monomane:20190516023926p:plain「さすがですな。そこまで感じ入っておられるとは……」


 ですが宗匠、果たして下々にまでこの””良さ””が伝わるかどうか……。
 遠く南蛮(アメコミ)に至るまで、地味で良いなどとは聞いたこともござりませぬゆえ……。



f:id:Monomane:20190516023926p:plain「私は茶頭以前にしがない魚問屋……その私ですらシコいのです。いずれ誰もに伝わることでしょう」



f:id:Monomane:20190516023926p:plain「そう……この”””良さ””をこうとでも申しておきましょうか」




f:id:Monomane:20190516023926p:plain”渋い”と」



 さすが宗匠〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
というわけで平成最後にして令和最初の激シブまんが『ヤオチノ乱』をよろしくな!!


〜〜完〜〜


へうげもの(4) (モーニングコミックス)

へうげもの(4) (モーニングコミックス)

本日の引用文献。

本日は引用していないが忍法帖シリーズは全人類が毎日参考にすべき文献である

*1:「もとじんゆういち」と読む

*2:やおち

*3:どちらも見た目は高校生くらいっぽいけれど、実年齢はよくわからない

*4:拡げるときの世界観の提示のしかたもうまい

【翻訳】アドベンチャーゲームの憑在論:ノスタルジック・ホラーとしての『ナイト・イン・ザ・ウッズ』と『Oxenfree』

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リンクが失われてしまった過去のミームへのトリビュート*1

喪1「いや〜〜〜〜マーク・フィッシャーさんすごく良かったですよね〜〜〜〜」
喪2「良かったですよね〜〜〜」
失われた未来の可能性にゃん「そ、そうにゃんか 失われた未来の可能性にゃんはああいうのよくわからないにゃん……どういうところがいいんだにゃん?」
喪1「うーん、知的でエモい分析とあと死んだ所かな……」
喪2「そうだなー、僕としては叙情的な文体とあと死んだ所を評価してますね……」



現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-

現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-


電気はわれわれをみな天使にしてしまった。(そしてテクノロジーはわれわれをみな幽霊にしてしまった)

 『ニック・ランドと新反動主義現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(木澤佐登志)と『現代思想』の加速主義特集号を読んでて、そういえばマーク・フィッシャーと『ナイト・イン・ザ・ウッズ』をからめたどっかのおたくのブログ記事を翻訳しようとして途絶してたなー、ということを思い出した。

 まじめに訳すのめんどくなってたのは、なんかところどころ論の立て方が雑だったり、意味的にわかんないとこあったり、結論部が大学生の書くレポートみたくぼんやりとしたポジティブさで締められていたり後なんか身体的にダルくなってたりしていたせいで、まあしかしそれでもいちおうあっち(英語圏ウェブやインディーゲーム界隈)の気分の一端が顕れている文章ではあると思うし、足りない英語力をがんばって絞り出してなんとかしました。正確に著者の考えを汲み取りたい方は原文にあたってください。
 注はすべて訳者注です。


アドベンチャーゲームの憑在論:ノスタルジック・ホラーとしての『ナイト・イン・ザ・ウッズ』と『Oxenfree』(Andrew Bailey*2

levelpapers.com



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stranger things

 ネットフリックスのテレビシリーズ『ストレンジャー・シングス』*3(2016)では、やんちゃな子どもたちが中西部の小さな田舎町で”コズミック・ホラー”*4に見舞われる。

 80年代を舞台とする本作は、『惑星からの物体X』*5のようなホラー映画の古典のポスターをある場面で登場させたり、全編を通じてスティーブン・キング作品のレファレンスを多用したりと、そのインスピレーションの源泉を視聴者に隠そうともしない。

 こうした明け透けなパスティーシュはシリーズ全体のトーンを理解するのに有用である一方、文化理論家のフレドリック・ジェイムソン*6が「ノスタルジー・フィルム」*7と定義したジャンルと結びつけることもできる。ジェイムソンの主張するところでは、「ノスタルジー・フィルム」に属する映画は過去を正確に再現することを目的とせず、代わりに特定のスタイルを思わせる要素を用い、より現代的な方法論を駆使してそれらの要素を意図的に再利用するのだという。この種のノスタルジーは、新しい未来の可能性を劇的に減速させる方法でもって現在を過去の中へと埋没させる*8点で問題なのだとも。*9


 時間的崩落、80年代ホラー、そしてノスタルジーのつながりは最近発表されたふたつのアドベンチャーゲームにも見出される。すなわち、Finji Studio の『ナイト・イン・ザ・ウッズ』(2017)*10と Night School Studio の『Oxenfree』(2016)*11だ。『ストレンジャー・シングス』と同じく、どちらの作品もある若者グループが小さな町で起こった超常的なミステリーを調査する、といった内容だ。そしてやはり両作とも怪奇物語を語るにあたって1980年代的な「過去性*12」の感覚を用いている。

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oxenfree

『Oxenfree』ではティーンエイジャーたちが週末の飲み会のために近くの島に繰りだし、その島で、徐々に霊的な存在からの干渉に侵されていく。
 プレイヤーが主人公として操作するのはアレックスという青い髪の少女だ。短波ラジオで幽霊たちと交信して物語を進行させつつ、呪われた*13島の2D世界を右へ左へ歩き回るのだ。Oxenfree は、古典的なアドベンチャーゲームや横スクロールゲームの美学としての時代遅れの技術を取り入れたのに加え、ミュージシャン兼サウンドデザイナーである scntfc*14によるシンセの利いた陰鬱なサウンドトラック*15を通して「過去」を受肉させている。

 ちょうど80年代へ先祖返りしたようなホラー映画『イット・フォローズ』(2013)*16で Disasterpeace*17が作り上げた気味の悪い劇伴や、ジョン・カーペンター*18ウェス・クレイヴン*19の作品におけるアイコニックでエレクトリックなサウンドトラックがそうであったように、Oxenfree の音楽もまた、開発元の Night School Studio が参照しているレトロ・ホラーの空気感にぴったり合致する、不可欠の構成要素なのだ。


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it follows

 音楽評論家のマーク・フィッシャー(”k-punk"というハンドルネームでも知られる)は、この1980年代前半に始まったノスタルジックな再利用を「緩やかな未来の消去」*20と呼んでいる。アナクロニズムとレトロマニア*21による新たなスタンダードだ。

 この種の時間的脱節*22は「未来の先触れでありシニフィアンでもあるとみなされた」*23エレクトロニック・ミュージックによく顕れるという。

 そこに一種のパラドックスが生じている、とフィッシャーは主張する。現代のエレクトロニック・ミュージシャンたちが80年代的な未来への熱情を参照した作品を生み出すとき、けして訪れることのない未来の概念というノスタルジーを創造してしまうのだ。そしてそれは今やゆっくりと現在そのものになりつつある。

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lost river

 失われた未来の幻に満ちた現在、というこのパラドックスを定義するため、フィッシャーはジャック・デリダを援用してこの状態を「音の憑在論*24*25*26と呼んだ。*27

 さらにフィッシャーは、この終わりなき憑在論的半減期のうちで最も痛切に感じられるのは、喪失の可能性が失われることである、とも述べる。録音録画技術の発展とともに、真に終わることは何もなくなり、真に死ぬものもなくなった。そして、Oxenfree に出てくる不死の亡霊たちのように、永遠に届くことはない未来へ向かって生きることになるのだ。


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night in the woods

『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の音楽は Oxenfree に見られるようなフィッシャー的な憑在論や「未来の消去」の源にあまりなっていない。本作のサウンドトラックはユニークかつ上質ではあるものの、こと憑在論や「未来の消去」に関して言うならゲームの舞台となる街の風景のほうに注目すべきだろう。『イット・フォローズ』や『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』*28、『ロスト・リバー*29、『ドント・ブリーズ*30といった近年の人気ホラー映画群と同様、架空の街であるポッサム・スプリングは「ラスト・ベルト」として知られるアメリカの一帯に位置している。*31

 中西部の広大な地域にまたがり、五大湖を臨むラストベルト地帯は、自動車・石炭・鉄鋼といった従来の主要産業の行き詰まりによる都市の衰微と圧倒的なエントロピーの感覚を特徴とする。*32このことは、ポッサムスプリングスにおいて留め板で覆われた店、朽ち果てた建物、そして廃坑となった鉱山の発見といった様々な形でプレーヤーの眼前に顕れる。

 こうした現代的な斜陽におけるある種の刻印についてフィッシャーはこう述べている。「グローバル化ユビキタスな情報化、労働力の流動化など、いわゆるポスト・フォーディズムへの移行は、仕事と余暇を組織する方法に完全な変革をもたらした。一方でここ10年から15年の間に、インターネットとモバイル通信テクノロジーは、日常的な経験の感触を皆の思っている以上に変えてしまった」

 フォード的な産業からの脱皮とモバイルテクノロジーの台頭との関係についてのフィッシャーの提言は、携帯電話会社からすらも見落とされるせいでサービスを受けられないほどに過疎化した遠隔地であるポッサム・スプリングスでこだましている。

 こうした制度の崩壊と公共・産業・企業からのサポートの欠落が組み合わさって、ポッサム・スプリングスは過去の成功に取り憑かれ、町の現在を適切に把握することができなくなっている。

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only lovers left alive

 このメタフォリカルな憑依は、ゲームの最終盤へ進むつれて現実そのものであったことが判明する。主人公が目撃していた「幽霊」は閉鎖前の鉱山で働いていた保守的な老人たちによる秘密結社だったのだ。長ったらしい会話シーケンスにおいて、これらの男たちは、鉱山の地下に棲まう”存在”に生贄を捧げることでポッサム・スプリングのゆるやかなゴーストタウン化を防げると信じているのだと明かす。

 年老いた元鉱山労働者たちは皆、成功した工業の街としてのポッサム・スプリングの過ぎ去りしイメージに取り憑かれ、将来のさまざまな可能性を認識したり現実的に考えるどころか、今を楽しく暮らすことさえもできなくなっている。『Oxenfree』の囚われた幽霊たちやフィッシャーのエレクトロニック・ミュージシャンたちのように、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の炭鉱カルトは実現しなかった未来という失われたコンセプトに取り憑かれている。


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night in the woods

 『Oxenfree』も『ナイト・イン・ザ・ウッズ』も2Dアドベンチャーの形式を通じてレトロな形式と美学を積極的に取り入れていれつつも、ジェイムソンが論難したような盲目的なノスタルジーとは一線を画す、失われた未来とループする時間というテーマが反映されている。

 両作は共通して、過去との向き合い方に苦悩する敵や対立に焦点を当てている。『Oxenfree』に登場する海軍士官の幽霊たちは乗船していた潜水艦の沈んだ島に縛られており、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』においては元鉱山労働者たちのカルト団体が独自の信念体系を築き上げ、失敗した過去のなかに未来への希望を見出す。*33時間の崩壊についてのナラティブ上の問いかけに加え、これら二作はループと循環するゲームプレイ・シーケンスを多用することで、ノスタルジックな美学によって吹き込まれるであろう安易で盲目的な消費へのいかなる期待もをシステム的に粉砕する。

 
 フィッシャーが信じているように、ジェイムソン版のポスト・モダニズムーー「レトロスペクション(回顧)とパスティーシュへ向かう傾向を伴う」*34ーーが新しい文化的規範になるとするならば、『Oxenfree』や『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のようなゲームはこのような現在の支配的なトレンドに対して積極的に向き合い、転覆したことで格別に称賛されるべきであろう。


 『ストレンジャー・シングス』のようなメディアにはたしかに強みもあるが、アーティストやデザイナーにはレファレンスや引用をもっと考え抜いてもらい、ただ古いものを再利用するのではなくて過去の文化基準や歴史に関して新しい議論を創出するような方向で過去の要素を用いることを奨励すべきだ。

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Thimbleweed Park

 将来的にも、『バイオハザード7』や『Thimbleweed Park』*35といった近年の不気味なアドベンチャーゲームが商業的にも批評的にも成功をおさめていること、あるいはリメイク版『IT』や『ダークタワー』といったスティーブン・キングの八十年代ホラー小説の映画化が注目を集めていることを鑑みるに、この種の作品が尽きることはしばらくないだろう。

 しかしながら、観衆としての我々はレファレンシャルな時間の閉じられたループを作り出すことを求めるのではなく、新しい創造的な作品を促進することにこそ努めなければならない。我々は批評的な観衆として(フィッシャーの憑在論的ミュージシャンやジェイムソンのノスタルジー・フィルムのような)未だ描かれていない可能性を放棄した過去からの既視感のあるビジョンではなく、未知の未来の目覚めを希求せねばならない。
 
〈おしまい〉


わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来 (ele-king books)

わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来 (ele-king books)

*1:™いとう階

*2:ブログの自己紹介によれば、「トロントのヨーク大学で視覚文化と美術史の博士課程に在籍する院生」らしい

*3:『ナイト・ミュージアム』シリーズのショーン・レヴィが製作に携わり、ダファー兄弟がクリエイターを務める大人気ジュブナイルSFホラードラマ。本文中で述べられているとおり、80年代ホラーへのリスペクトで埋め尽くされている。シーズンの変わり目ごとに iOS用のゲームをリリースしているが、それもレトロゲームオマージュだったりで、ノスタルジーのかたまりのような作品。

*4:一般名詞のようなツラをしているが、世界的にH・P・ラブクラフトが創始したクトゥルフ神話に属する物語群を指す。

*5:ジョン・カーペンター版。地球を征服する気まんまんで宇宙からやってきたはいいものの、降り立った先が南極だったためさっそく失敗しかけるかわいそうな寄生生物がイヌなどを乗っ取りつつ悪辣な原住生物の魔手を逃れて必死に生き延びていく愉快なサバイバルアドベンチャー映画。ジョン・W・キャンベルJr. 原作でこれまで三回くらいリメイクされているが、SF映画のマスターピースとして主に言及されるのはこの1982年版。最近翻訳されたピーター・ワッツの短編集『巨星』にもオマージュというかトリビュート作品が載っていましたね。

*6:1934- 日本語版ウィキペディアでは「思想家・フランス文学研究者」、英語版では「文芸批評家・マルクス政治学理論家」となっている。文化批評、およびポストモダニズムと資本主義に関する分析でつとに有名。

*7:『わが人生の幽霊たち』の五井健太郎訳ではオミットされているというか、特にキータームとして扱われていない。

*8:collapses the present into the past

*9:“(『白いドレスの女』[1981年のローレンス・カスダン監督映画。どうでもいいが、『わが人生の幽霊たち』では最初、原題にそのままカタカナをあてた『ボディ・ヒート』と訳されていて、次に出てきたときは邦題の『白いドレスの女』になっている。『ボディ・ヒート』という邦題の別の映画も存在するのでややこしい。]に登場する)モノたち(たとえば車)は、技術的に見て八十年代の製品なのだが、映画のなかのすべてが、そうした直接的に現代を指示するものをぼかし、それがノスタルジックなものとして受け取られるように、つまり、歴史を超えた永遠の三〇年代とでもいえるような、なんとも定義しようのないノスタルジックな過去のなかにある物語の舞台をなすものとして、受けとられるように配されているのだ。現代的な舞台設定をもったこんにちの映画でさえも侵食し植民地化してしまうノスタルジー映画(nostalgia film)という様式の登場は、私にとって、ひじょうに徴候的なことに見える。あたかも、なんらかの理由でこんにちではもう、私たちじしんの現在に焦点を定めることができなくなってるかのようであり、私たちじしんのいまの経験にたいする美的な表象を生みだすことが不可能になってしまったかのようである。 ”ーー『カルチュラル・ターン』フレドリック・ジェイムソン、合庭惇、河野真太郎、秦邦生訳、作品社

*10:大学を中退して故郷の田舎町に帰ってきたネコの女が昔の友だちグループとつるみつつ、バラバラ死体の謎を追っていく(?)アドベンチャーゲーム。傑作。Steam、PS4、Switch などで販売中。日本語化有

*11:高校生のグループが打ち捨てられた孤島に忍び込んでパーティを開こうとしたところその島の幽霊たちに取り憑かれてしまったので短波ラジオで別次元への扉をひらきつつどうにかするみたいな内容だった気がする。ぼんやりした英語理解でだいぶ前にクリアしたものだからあんまり憶えていない。Steamなどで販売中。未日本語化

*12:pastness

*13:haunted

*14:シアトル出身のミュージシャン、サウンドデザイナー。『Oxenfree』の他のゲームサウンドトラックとしては『Old Man’s Journey』(2017)、ドラマ『Mr. ROBOT』のアプリゲーム(2016)など。今年発売予定である『Oxenfree』のスタジオによる最新作『Afterpary』でもコンポーザーを務める。ちなみに『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のスタッフが在籍する Late night works club の作品にも音楽を提供しているというつながりも。

*15:80年代的なシンセサウンドをリファインした「シンセウェイヴ」というジャンルはインディーゲーム界でもちょっとしたトレンドとなっている。元祖はHotline Miami、最近の作品だと『Katana Zero』なんかがその代表に挙げられるだろう。その影響はゲーム外にも波及していて『プロメア』なんかは少なくとも一曲は八十年代を意識したシンセ曲が挿入されていたりして(パンフによる)、流行ってんなーという感想。

*16:デイヴィッド・ロバート・ミッチェルの出世作。セックスで感染するやばい呪いにかかるとさまざまな形態をとるものすごくやばい存在においかけられるようになってしまい、おいつかれると死ぬ

*17:FEZ』や『Hyperlight Drifter』といった名作の楽曲をてがけたインディーゲーム・ミュージック界のマエストロ。デイヴィッド・ロバート・ミッチェルとのコラボを皮切りに映画音楽にも進出。http://proxia.hateblo.jp/entry/2018/10/11/033747

*18:『ハロウィン』や『遊星からの物体X』、『ゼイリブ』などで知られるホラー映画界の巨匠。自作の劇伴を手がけることでも知られる。最近は音楽制作に熱中して映画からは遠ざかってるご様子。

*19:エルム街の悪夢』や『スクリーム』を手がけたホラー映画界の巨匠。ちなみに『エルム街の悪夢』の音楽はチャールズ・バーンスタインで、クレイヴンとは『デッドリー・フレンド』でも再タッグを組んでいる

*20:もとはイタリアの著述家、フランコ・”ビフォ”・ベラルディが『After the Future』において使ったフレーズ。フィッシャーはこれを彼が『資本主義リアリズム』でも説いた再帰的無能感の文脈で使った。”二十世紀の実験的な文化が、新しさなど無限に可能であるような気にさせる遺伝子組換え的な熱狂にとらわれていた一方で、二十一世紀は、有限性や枯渇という屈辱的な感覚によって虐げられている。いまこそが未来なのだという気分にならないのである”ーー『我が人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』マーク・フィッシャー、五井健太郎訳、ele-king books

*21:文字通りレトロなものごとが大好きなひとたち

*22:temporal disjunction

*23:「The Metaphysics of Crackle: Afrofuturism and Hauntology」より

*24:sonic hauntology

*25:The Metaphysics of Crackle: Afrofuturism and Hauntology」

*26:http://k-punk.abstractdynamics.org/archives/007230.html

*27:憑在論はデリダが『マルクスの亡霊たちーー負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』で提唱した概念。”憑在論とは、潜勢的なものの働き(Agency)のことだと考えてみればいい。亡霊を超自然的ななにかとして理解するのではなく、(物理的には)実在しないままに作用するなにかだと考えるのである。……ひとつめが示しているのは、(実際上は)もはやないもの、だがひとつの潜勢的なものとして効果をもったままにとどまっているものである。(トラウマ的な反復強迫、不可避の繰り返しがこれにあたる)。そして憑在論のふたつめの意味が示しているのは、(実際上は)いまだ起こっていないもの、しかし潜勢的なものとして効果をもっているものである(いま現在の行動に明確なかたちを与える、ひとを引きつけるなにかや予測のようなものがそれにあたる。”ーー『わが人生の幽霊たち』)

*28:2013年のジム・ジャームッシュ監督映画。不老不死のヴァンパイアの夫婦が世界をさまよいながらチルでヒッピな日常を送る作品で、個人的にはジャームッシュの最高傑作なんじゃないかと思う

*29:2014年のライアン・ゴズリング初監督作。ゴズリングもニコラス・ウィンディング・レフンみたいな映画が撮りたかったんだなあ、ということがわかる。公開直後は批評的にけっこう叩かれたけれど、アメリカでは数年後にカルト映画としてコアなファン層を確立したらしい。ふつうにあんまりおもしろくなかった記憶がある

*30:2016年のフェデ・アルバレス復活作。盲目のおじいさんの家に盗みに入った若者たち。しかし侮っていたそのおじいさんは実はすごうでの元軍人で……というサイコーな内容であり、サイコーの伏線芸映画。同監督で続編の企画も進行中。

*31:上記四作品に共通しているのはゴーストタウンと化したデトロイトで撮られていること。デトロイト自動車産業の低迷で住民の流出が続いており、空いた土地を撮影の舞台としてフィルムメイカーたちに安価で提供するフィルムコミッションを盛んに行っている。

*32:これらの街は現実では2016年の大統領選でトランプ当選に大きな役割を果たした

*33:“取り憑くこととはつまり、失敗した喪なのだと考えることができる。それは霊を手放さないことでありーーけっきょくはおなじことだがーー幽霊がわれわれに見切りをつけることを拒むことである。亡霊は、われわれが、資本主義リアリズムに統治された世界のなかで見つかる平凡な満足のなかで生きていくのを許さないだろうし、そうした平凡な満足で妥協するのを許さないだろう。”ーー『わが人生の幽霊たち』p.45

*34:”ジェイムソンのいうようなポストモダニズムつまり回顧やパスティシュへの傾向をもったものとしてのポストモダニズムは、自然なものとなっているのだ。たとえば、驚くような成功を収めているアデルのような歌手を例としてとりあげてみよう。彼女の音楽はことさらにレトロなものとして売り出されているわけではないにもかかわらず、それが二十一世紀に属してることを印象づけるようなものは、そのどこにもありはしない。きわめて多くの現代的な文化生産物がそうであるように、アデルのレコードのなかには、曖昧だがしかし拭いさりがたい過去の感覚が、特定の歴史的な時間を思い出されることのないままに飽和しているのである。……新自由主義的でポスト・フォーディズム的な資本主義の到来は、いったいなぜ回顧やパスティシュの文化へと傾いていくのだろうか。おそらくわれわれはここで、いくつかの暫定的な推測を提示してみることができるはずである。ひとつは消費に関わるものだ。新自由主義的な資本主義が連帯や治安を破壊したことが、その埋め合わせのようにして、価値の定まったものや慣れしたしんだものへの渇望をもたらしたとはいえないだろうか。ーー『我が人生の幽霊たち』p34-35

*35:80年代を舞台にしたネオノワール・ミステリー(自称)アドベンチャー。そのクラシックかつ緻密なビジュアルとストーリー、ユーモアが評価され、metacritic では84点をマークしている。Epic や Steam で販売されているものの、未日本語化。https://store.steampowered.com/app/569860/Thimbleweed_Park/?l=japanese

繰り返されて壊れていく死のストーリーテリングーー『KATANA ZERO』について

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 テレビ 日毎の嫌悪嫌悪
 なめらかな饒舌 操作された快活さに接するたびの
 安逸さという字はどう綴るの


 ーーハイナー・ミュラーハムレット・マシーン」岩淵達治・谷川道子訳


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Katana Zero - Launch Trailer



 こどもの頃、英語の先生(オーストラリア人だった気がする)に最近遊んでいるゲームについて訊かれた。

「マリオのゲームをやっています」

 マリオのゲームではどんなことをやるの、と重ねて問われて、「たくさんのマリオを死なせます」と返すと、先生は弾けるように笑った。


 積み重なっていく無数のマリオの死体。それがプラットフォーマーと呼ばれるゲームジャンルのリアリティだ。世界のどこかで少年少女たちが銃やナイフを振り回すたび、「ゲーム感覚」というフレーズが陳腐に繰り返されていくけれど、わたしたちはいまだかつて「ゲーム感覚」の意味するところを真剣に考えたことがあっただろうか?


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 クリボーに触れ、ドッスンに潰され、穴に落ち、マリオは無限に死んでいく。無際限にリスポーンされるからといって、かならずしも死のつらさを希釈してくれるわけではない。むしろ、濃くなる。”コンティニュー”とは「継続・持続すること」だ。絶え間ない阿鼻地獄をわたしたちは味わいつづける。

 プラットフォーマー(アクションゲーム)特有の終わらない死の感覚を体験あるいはストーリーとして組み込んだインディーゲームはいくつか存在する。近年で目立つタイトルだと、Celeste、Outer Wilds*1、The Messenger、Dead Cells あたりだろうか。


proxia.hateblo.jp


proxia.hateblo.jp



 これらはいずれも死んで覚えるタイプのゲームで、だからこそプレイごとの死の理由付けが重要になってくる。なぜ君は死ぬのか。単に「次の周回で上達できるから」以上に、その”ゲーム感覚”的な終わりの持続になんの意味があるのか。
 もはやわたしたちは、いや誰よりもおそらくは制作者たち自身が積み重ねられたマリオたちの空虚さに耐えきれなくなってしまった。
 だから Celeste の死は希死念慮との闘いのメタファーとして取り込み、The Messenger の死はそのためのキャラクターやギャグを生み出し、Dead Cells の死は世界観に、Outer Wilds はストーリーそのものに組み込んだ。*2


『KATANA ZERO』における発露はユニークだ。
 ステージ中にいくらキー操作をあやまろうと、キモノめいたバスローブを着たヤク中のサムライ*3が実際に死ぬ(=ゲームオーバーになる)ことはない。ステージの最初から自動的にリスタートするだけだ。ステージクリアにいたるまでのトライアル&エラーはすべてサムライが「クロノス」と呼ばれる薬物*4によって得た超感覚によるシュミレーションであり、「クリア」したときに得られる正解のルートのみを正しい未来として剪定する。ガイ・リッチー版の『シャーロック・ホームズ』を想像してもらえるとわかりやすい。あるいは『エースコンバット』シリーズを。*5


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 ステージクリア時に再生されるリプレイ動画が90年代風のビデオ映像の形式を取る点は注目したい。
 リザルト動画はシミュレート中の画面とは違い、無音の、色褪せた灰色の映像として出力される。そこに不断の挑戦によって困難を乗り越えた快感はあまり生じない。むしろステージをクリアして物語を進行させていくことが事態を悪化させるのではないか、という不吉さをプレイヤーに植え付ける。そして、その予感は的中するのだ。
 ゲーム中のストーリーはアクションステージと交互に語られるわけだが、ここでもVHS的な手法、つまりはグリッチ*6が多用される。サムライのおぼろげな記憶が呼び起こされるとき、彼の意識が混濁し撹拌されるとき、グリッチは世界の歪みとして現前する。
デッドメディアは死の感覚にお似合いなのかもしれない。


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The external world より


 グリッチを世界の歪みとして意図的に使うアーティストといえば、まっさきにあがるのがアニメーション作家のデイヴィッド・オライリー
 彼が『アドベンチャー・タイム』のゲスト監督に迎えられた第60回Aパート(シーズン5、第15話)、その題も「A Glitch is a Glitch*7」では、悪役の陰謀によって劇中世界がバグに飲み込まれ、いたるところでキャラがノイズとともに消失したり、ありえない変化を遂げたりする。
 Katana Zero の文脈に最も近いのは『THE EXTERNAL WORLD』だろうか。冒頭、ある少年がグランドピアノを弾いては隣に座る教師からひっ叩かれて「もう一回」と命じられ、同じパートを何度も弾きなおさせられる。
『THE EXTERNAL WORLD』は短いスケッチの連続で構成されるが、ピアノの少年を含むいくつかのスケッチやキャラクターは反復され、再登場のたびに世界ごと「崩れて」いく。スケッチの切り替えは失敗や事故がトリガーとなることが多く、反復ごとにひずみが生じ、あらたな失敗や事故を誘発する。やりなおすがゆえに歪んでいき、ますます失敗が運命づけられていく世界。その感触を、1980年代よりこの方、テレビゲームを経験したわたしたちすべてが共有している。


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 死ぬことそのものは痛みではない。繰り返すことの痛みだけがプラットフォーマーのリアルだ。それがゲームの感覚だ。失敗は暴力的な途絶でしかありえない。
 やりなおしによって閑却されていく可能性の先に正解のルートをつかみとる。その正解は積み上がった死体から逆算されたものであり、私たちは犠牲にしてきた自分の分身たちに対する罪悪感を忘れることができない。

 グリッチは叫びだ。ありえた可能性とありうべき現実を行き来する唯一の手段であるとともに、果てしないリピートとコンティニューによって傷つけられた世界の悲鳴だ。傷つきえない私たちの傷を、世界が肩代わりしてくれる。
 Katana Zero においてサムライのライバルとして立ちはだかるあるキャラは、サムライと同じく薬物による時間感覚操作+リセット能力を有している。対峙したふたりは互いに殺すたび、殺されるたび、可能性を幾度となくやりなおす。繰り返しの果てに、そのキャラはこう問う。


おまえは人殺しが楽しいんだろ? クロノスがくれた永遠の命、時間の自動リセット。そんなアタシたちにとって死は無意味だ。だって死んだら、勝手に巻き戻るんだから。アタシたちは、人を殺すことでしか死を実感できない生き物なのさ


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 このセリフは主人公と同時にプレイヤーにも向けられている。
 敵を殺し、クリアしたときにようやく反復してきた死の無意味が報われる。死を実感できる。それがゲーム体験の楽しさだ。原罪だ。そのことをわかっているから、褪色したリプレイ画面で悟ってしまうから、わたしたちは Katana Zero で真に爽快感を得ることはない。
 しかし爽快感の欠如が、必ずしもゲームとしての快楽の無縁さと直結するわけではない。後ろ暗さの経験が、ダークなストーリーに呼応して不思議で独特なプレイフィールを生み、それを私たちの脳は「楽しい」と知覚することだろう。
 楽しいと感じることが倫理的に正しいのかどうかは別にして、だけれど。


 Katana Zero はプラットフォーマーについてのプラットフォーマーだ。
 わたしたちはなぜコンティニューするのか。なぜやりなおすのか。なぜ敵を殺すのか。なぜ自分を死なせるのか。なぜ生きるのか。
 その答えを探すため、私たちはキモノ姿のヤク中サムライに刀をたばしらせる。


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アドベンチャー・タイム シーズン5 Vol.2 [DVD]

アドベンチャー・タイム シーズン5 Vol.2 [DVD]

*1:厳密にはプラットフォーマーではない気がする

*2:死による回帰をストーリーそのものに組み込む試みは日本のアドベンチャーゲームでかつて飽きるほど行われたが

*3:ドラゴンというコードネームで呼ばれる

*4:もちろんギリシャ神話における時間の神に由来する

*5:もちろんインディーゲームファンなら『Braid』を想起してしかるべきなのだが

*6:辞書的には「予期しない細かなエラー」であるけれども、ここでは画面の乱れ、一種のノイズとして捉えていただきたい

*7:邦題は「コワレタセカイ」

2019年上半期に観た新作映画ベスト20

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 子供の頃に観たあの映画
 あの夢と希望
 現実なんて信じないで
 私は映画が好き 


 weyes blood, "Movies"



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 こうして上半期の映画ベストをきめるのも死んだ魚を錐でついたときに起こるけいれんじみてきておりますですが、でもまあ、いってみればブログの記事なんてそもそもがミオクローヌスみたいなものではないですか。発作ですよ。生きているというのは奇跡ではありませんが、奇跡みたいですね。すべてが輝いて見えますよ。

2019年の上半期ベスト10

1.『スパイダーマン:スパイダーバース』(ボブ・ベルシケッティ&ピーター・ラムジー&ロドニー・ロスマン監督、米)
2.『僕たちのラストステージ』(ジョン・S・ベアード監督、米英加)
3.『ゴッズ・オウン・カントリー』(フランシス・リー監督、英)
4.『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ監督、米伊)
5.『ちいさな独裁者』(ロベルト・シュヴェンケ監督、独仏ポルトガルポーランド中国)
6.『きみと、波にのれたら』(湯浅政明監督、日)
7.『海獣の子供』(渡辺歩監督、日本)
8.『ドント・ウォーリー』(ガス・ヴァン・サント監督、米)
9.『ダンボ』(ティム・バートン監督、米)
10.『愛がなんだ』(今泉力哉監督、日)


 今年の上半期はなにひとつとして面白い映画にめぐりあえなかったな、という気分だったのですが、鑑賞録をめくると存外興奮している過去の自分が見出されます。
もうわたしはストーリーがわかりません。ショットはもともと知りません。いちばん重要だとおもっていたルックすらどうでもよくなって、残るのは画の断片から受信した作品のアティテュードだけです。それすらも錯覚かもしれませんが、とりあえずはそのように観ます。

『ダンボ』とかまあ、たぶん誰もいい作品だなんておもってないんでしょうけれど、原典に対する態度がとにかくうつくしい。ディズニーの実写リメイクはバートンにこれを撮らせただけでも大いに意義があったのだとおもいます。おもいたいところです。
 原作ものに関しては『海獣の子供』もなかなか極まっていましたね。あるインタビューで渡辺監督が「眼の描写は意図的に原作より頻度を増やした」と言っていて、そうですね、模倣を本物っぽく信じ込ませるには本物より過剰ではなければならないんです。アニメや映画は多分みんなそうです。てきとうにレンズを向けて動画や写真として切り取っても、その像はわたしたちにとっての現実にはなりえない。だからそう、「五十嵐大介のまんがは『眼』だ」とわたしたちがとらえているならば、五十嵐大介のまんがの映画化はもちろん過剰に眼であふれていなければならない。あたりまえの話ですよね。
 誠実さや熱情も良いものですが、ときには不遜さも愉快に味わえるときがあって、グァダニーノ版の『サスペリア』はその例。こんな傲岸不遜なリメイクをつくるひともいまどきいないでしょう。自分は歴史や社会や人類をすべて見通していて、それを曇りなく映すことができる、という今や失われてしまった古典的な西洋知識人特有の傲慢さを受け継いでいるヨーロッパの映画監督でもどこかそのアナクロニズムにさめてしまっているラース・フォン・トリアー*1などと違ってグァダニーノは真剣です。真剣に、ここ七十年(百年?)のヨーロッパ文明における諸問題すべてを二時間半の映画で語りつくそうとしている。まじめすぎてばかというか、メガロマニアというか、でもダンサーたちの肉体性でギリギリ地上から浮かないだけの質感を担保しているのだから、やはり良くもわるくも頭はいい。
 一方で『ちいさな独裁者』はこちらもただしく生真面目な皮肉であって、特に収容所に爆弾が降ってくるタイミングの古典的な完璧さはおそろしく感動的です。全編がタイミングと間のコメディでできているので、別にカラーで観ようが白黒で観ようがこの愉快さに影響はない。
 やはりタイミングを生真面目にきざむ映画がいいよ。『ゴッズ・オウン・カントリー』と『僕たちのラストステージ』も、それぞれメイン二人のすれ違いと同期のドラマがものすごくよかった。特に『僕たちのラストステージ』の徹底っぷりはすごかった。タイミング以外に愛や友情を語る手段なんて存在するんだろうか。『愛がなんだ』のよさもなんだかんだ視線のタイミングの生真面目さに起因するのでは、という気もしてくる。「オフビート」すら結局はビートに回収されてしまうのです。ふだんはあまり心地よく感じられない湯浅政明のハズし芸も、ある程度型にはまった『きみと、波にのれたら』では極上の体験に仕上がった。
 タイミングという点では、『スパイダーバース』は少々調子っぱずれところが目に付きました。ところが圧倒的に今年上半期の第一位です。これはもう仕方がなくて、わたしは『ロジャー・ラビット』の昔からずっと、異なるレイヤーに属するキャラクターたちがひとつの平面に共存している世界に弱い。脆弱性です。これまでもアップデートされてこなかったのだから、これからも修正されることはないでしょう。画だけではなく、キャラクター間の感情がレイヤー化されているのも地味にうまかったですね。ソニーにはロード&ミラーの映画を一年に最低一本はつくることを義務付けてほしい。
『ドント・ウォーリー』、ホアキン・フェニックスが主演している映画はだいたい良い。

+10

11.『シシリアン・ゴースト・ストーリー』(アントニオ・ピアッツァ&ファビオ・グラッサドニア監督、伊)
12.『バーニング 劇場版』(イ・チャンドン監督、韓)
13.『COLD WAR あの歌、2つの心』(パヴェウ・パヴリコフスキ監督、英仏ポーランド
14.『コレット』(ウォッシュ・ウエストモアランド監督、米英ハンガリー
15.『魂のゆくえ』(ポール・シュレイダー監督、米)
16.『フロントランナー』(ジェイソン・ライトマン監督、米)
17.『シャザム!』(デイヴィッド・F・サンドバーグ監督、米)
18.『ある女流作家の罪と罰』(マリエル・ヘラー監督、米)
19.『ハイ・フライング・バード―目指せバスケの頂点―』(スティーブン・ソダーバーグ監督、米)
20.『FYRE:夢に終わった最高のパーティ』(クリス・スミス監督、米)


『魂のゆくえ』と『フロントランナー』と『ある女流作家の罪と罰』と『FYRE』は負のアメリカの話でしたね。アメリカ人にはこの先もアメリカンドリームの歪みや挫折を描いてほしい。『ハイ・フライング・バード』もアメリカのおはなしなんですが、やたらにポジティブというか、90年代に置き忘れてきた爽快さを残しています。今となっては貴重です。
 上半期のスーパーヒーロー映画では『シャザム!』がよかったですね。下半期カウントの『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』もですが、ギャグで笑えるところがよい。
シシリアン・ゴースト・ストーリー』は作者の私的な感情というか願いが史実を捻じ曲げてイリュージョンを起こす、という点でビネの『HHhH』に似ています。*2

 だいたいそんな感じです。下半期もよろしくお願います。


*1:『ハウス・ジャック・ビルド』は彼のそうした真摯さの発露した結果の失敗なのだと思います。けして全面的につまらないわけではないですが

*2:『HHhH』も今年『ナチス第三の男』という邦題で映画化されていましたが、しまりのない作品になっていましたね。ワシコウスカまで使っておきながら……。

東京になる、あるいは少年は如何にして「大丈夫」になったか?――『天気の子』について

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注意:本記事は新海誠『天気の子』の重大なネタバレを含みます。

(『天気の子』、weathering with you、新海誠監督、日本、2019年)



 彼はその海岸で、ひとにぎりの砂をすくう。それが「世界」だ。もちろんそれが現実に広大さをたずさえた世界であるはずがないことは、だれでも知っている。だがそれでもなお、そのひとにぎりの世界について、局地的に、個人的に、沈黙への誘惑にさからって、熱心に語らなくてはならない。


  ――管啓次郎『狼が連れだって走る月』河出文庫


映画『天気の子』スペシャル予報



 映画は少年によるモノローグから始まる。
 本来なら彼が知らないはずの少女の体験を神の視点から克明に描写する。全知であるかのようにふるまう。
 

 にもかかわらず、観客の前に登場した少年はなにも知らない。
 仕事の捜し方も、都会での生き延び方も、林立する看板やブランドの読み方も、そこに生きる人々も、世界の秘密も、故郷で感じた息苦しさの解消法も知らない。


 そうして、少年にとって触れ得ないものはすべて「東京」に集約される。東京はその本性を徹底的に隠す。そしてその不可解さは少年にとって自分より先にあるものとして映る。

 主人公・帆高が東京で出会うひとびとはみな彼よりおとなだ。彼と同じく十代で家出し、東京でタフな自営業者として生き抜いてきた須賀。高校生の帆高にとって仕事上の先輩であると同時に、ワンステージもツーステージも上の段階にある就活に勤しむ夏美。十七才(「あと一ヶ月で十八才」)と帆高より少し年上で、小学生の弟・凪との二人暮らし生活をひとりで支える陽菜。帆高たちを監視、追跡する警察。風物の由緒に詳しいおばあさん。その孫の神木隆之介。指輪選びのアドバイスをくれるどこかで見た女。

 なんとなれば、帆高より年下であるはずの凪ですら恋愛や物事の達観具合において帆高より先を行っている。なにせ、ファーストコンタクトにおいてプレイボーイっぷりを見せつける凪に対して抱いた感想は「東京の小学生って進んでるなあ*1」だ。凪もまた、不可思議のヴェールに覆われた東京の一部として帆高に理解される。


 そう、彼は東京を知らない。東京行きの船内でのビールの値段も、高校生が学生証なしでできるバイトも、都会でありうべき金銭感覚*2も、須賀と夏美の関係も、夏美の抱える苦悩も、陽菜の本当の年齢も*3、陽菜の祈りの対価も、東京に属する事柄はほとんどひとつも知らない。

 帆高にとって迷ったときに頼れる相手は(須賀や陽菜と出会ったあとでさえ)ヤフー知恵袋=インターネットであるのだけれど、しかしネットは有意な答えを返してくれない。世界は彼の相手をしている暇などないか、あるいは彼の求めている個人的な答えなど知らない。ここからネットは決してパーソナルな友人にはなってくれないという監督の思想性を読み取ることもできるけれど、今回は深入りするのはやめよう。


 なぜなら今の世界は、ランタイム二時間のあいだの世界は「東京」とイコールになっている。

 陽菜は初めて自分の家に帆高を迎えたとき、こう尋ねる。「東京に来て、どう?」
 帆高は返す。「そういえば――もう(故郷で感じたような)息苦しくは、ない」。
 すると彼女は「そ、なーんか嬉しっ」と微笑む。
 
 このやりとりから読み取れるのは、帆高が東京にとって客人であるということだ。よそから来た人間が自分の住んでいる土地にやすらぎを見出すのは、土地の人間にとっては「嬉しい」。裏を返せば帆高は陽菜と違って東京の一部ではない。陽菜と帆高は他人である。*4

 と、同時に帆高がふるさとでの息苦しさから脱して呼吸の仕方を覚えたのは、須賀のもとで取材に駆け回ることで東京の貌を知り、陽菜とも出会ったことで、彼もまた東京の一部として根を張りはじめたことの証左でもある。


 以後、陽菜を知ることと東京(=世界)を知ることは連動していく。
 晴れ女稼業を開始することで経済的にも自立*5し、晴れ間という新しい光が射すことで、ますます東京の景色が広がっていく。帆高自身の心もまた、神宮外苑花火大会での浴衣姿といった新しい陽菜の貌によって広がっていき、恋という感情に発展する。

 やがて、陽菜の力の秘密の一端に触れるまでになる。

 
 だが、核心の部分で帆高はまだ東京ではない。彼は陽菜の秘密のすべて――つまり、祈りが彼女の身体におよぼす影響を知らされてはいない。
 では、いつ帆高は東京になるのか。

 
 警察*6に追われるようにしてアパートから退去する準備をしながら、陽菜は帆高に「補導される前に実家へ戻ったほうがいい」と勧め、こう告げる。

「私たちは、大丈夫だから」

 この「私たち」とは陽菜と凪のみを指す。帆高は含まれていない。疑似家族的な関係を結びつつも、ギリギリのところで家族としては認められてはいなかった。

 帆高はしょせん東京の外に帰るべき家をもつ客人なのだ。そこに陽菜は線を引く。日常的に使われる「大丈夫」には場合に応じてさまざまな意味が込められるけれど、このときの「大丈夫」は帆高を切り離して守るやさしさとしての「大丈夫」だ。*7

 

 だが、帆高はその「大丈夫」を拒絶する。

「俺、帰らないよ。一緒に逃げよう!」

 それは陽菜といっしょに東京を生きることの宣言でもある。
 帆高の東京化は一段階上のステージへと移行し、より高度の秘密へのアクセス権を得る。
 

 そうしてなんやかんやがあり、最終的に彼は陽菜の秘密=東京の秘密=世界の秘密を手に入れるわけだ。
 もはや少年は無知ではない。逆に、世界の知らない秘密を自分たちが握るという立場になる。かつて東京の秘密を帆高から隠していた須賀や警察といったおとなたちは、逆転したあとの東京ではむしろ「知らない」ひとたちとして扱われる。
 ふたりだけの秘密。それは東京を滅ぼす秘密でもある。それは「僕たちは世界の形を決定的に変えてしまった」というフレーズで表現される。それは確信をもって描かれる。



 が、その確信はいったん、カッコでくくられる。
 東京になったはずの帆高は陽菜と引き離され、故郷の島へと戻される。そこで三年を過ごす。彼は大学入学を機にふたたび上京する。
 三年後の東京はすっかり海に沈んでいる。
 再会したおとなたちは「東京はもとの姿に戻っただけ」「おまえたちが世界の形を変えてしまったなんて、あるわけない」という。*8

 陽菜と帆高が体験し、ふたりをつないだ秘密は幻想だったのだろうか。ふたたび東京はおとなたちの手に戻ってしまったのだろうか。


 想いがゆらぎ、三年前のように東京と切り離されそうになる。が、陽菜と再会すると、彼はかつて得た確信を取り戻す。
 感極まって号泣する帆高は陽菜*9から「大丈夫?」と訊かれ、こう応える。


「陽菜さん、僕たち、僕たちは大丈夫だ」

 
 これが映画のしめくくりとなるセリフだ。

 逃避行直前の「私たちは大丈夫だから」の指す範囲はここで裏返る。今回の「私たち」には帆高も含まれる。東京の秘密を引き受け、雨に濡れることを、世界の変容を受け入れた先に、ようやく「僕たち」としての東京で生きることができる。
 知っているからこそ「大丈夫」ということばを吐ける。
「世界が君の小さな肩に乗っているのが僕だけには見えて」いるからこそ「君にとっての『大丈夫』にな」りうる。*10

 おたがいにとっての「大丈夫」になれるのは、おたがいしかいない。なぜなら、世界の秘密を真に握っているのは帆高と陽菜のふたりだけなのだから。


 ここに至り、ようやく線は引き直される。
 ふたりは東京になる。



天気の子

天気の子

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

*1:「怖ぇ〜」だったかもしれない

*2:「特売で買えっていったでしょ!」、「五千円は高すぎるかな?」

*3:と同時に彼女がバイト先を首になった理由も

*4:他者性を土地に求めるのはいろんな意味で新海誠らしい見方だ

*5:といっても携帯の費用や家賃はまだ須賀もちなわけですが

*6:来京当初から執拗に帆高を東京から排除しようとする存在として描かれている彼らが、帆高にとっては致命的な陽奈の秘密、すなわちほんとうの年齢を握り、かつ彼にそれを報せる役割を与えられている事実のはきわめて重要です。脚本のいじがわるい。

*7:陽菜たちは東京の一部でありながらも、東京に押しつぶされていきもする両義的な存在だ。東京の歪みを引き受けているといってもいい。彼女は人柱なのだから。その点においては彼女は東京外の人間である帆高を巻き込むわけにはいかなかった

*8:セカイ系というよばれる作品群についてはあまり真剣に向き合ったことがないのだけれど、『イリヤの空』を読んだ記憶から導き出される自分なりの要件は「良きにつけ悪しきにつけ、おとながなんだかんだで世界の全容を把握し、それに対する責任を引き受けていること」になるんだと思います。しかしまあこの二十年でおとなが世界を責任持って把握しハンドリングしているというのは嘘っぱちなんだと小学生でも知るようになってしまった。あとは細分化された体験のみが真実な世界です

*9:陽菜も泣いている

*10:エンディングのRADWIMPS「大丈夫」の歌詞から。ラストのセリフはこの歌から導き出されたものだという(『小説版 天気の子』あとがき)』

原作をそのままやってもやれなくて。――リメイク版『ライオン・キング』について

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(The Lion King, ジョン・ファヴロー監督、2019年、米)


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 ふだんはあんまり愚痴っぽい感想を書かないようにしているんですが、今回だけは思い入れの強さが段違いなので許してください。
 原作厨モードなので「オリジナル版」との比較ばかりとなっております。




「ライオン・キング」予告映像B


顔あるけもの



 ディズニー・アニメのマジックは、個性が内面化したように描かれることである。「ものが動くのではなく、生きて考えているように描かねばならない」とウォルトは言う。ディズニーのアニメーターであるケン・ピーターソンによると、「アニメーション」という言葉は、「動き」を意味すると考えられがちだが、実際はそうではなく、「ANIMUS」とは「生命の原動力・生命」あるいは「生きる」ことを意味するのである。
 ディズニーのアニメーションは生命を描いている。というようりも生命上に大きいものを描いている。ウォルトが追求したのは生命の模倣ではなく、その誇張である。
 ウォルトの言う「生命の風刺」はリアリズムにもとづいて、そのうえに膨張していく。そしてリアリズムは彼の世界を単純化し完璧なものにし、世界をコントロールする。


 ――ニール・ゲイブラー、中谷和男訳『創造の狂気 ウォルト・ディズニーダイヤモンド社


 原作をそのままやる。
 ただそれだけがなんと至難であることでしょう。
 この夏話題の『ドラゴン・クエスト ユア・ストーリー』はまさにそのままやれなかったことが*1炎上につながる結果となりました。*2

 ひるがえって、リメイク版『ライオン・キング』は極めてオリジナルのストーリーに忠実です。プロット単位はもちろん、シーン単位、ともすればカット単位で見てもオリジナル版(1994年)とかなり一致しており、2010年代のディズニークラシック・リメイク作品群のなかでも「そのままやった度」では群を抜いているのではないでしょうか。
 アメリカでの映評のなかにはガス・ヴァン・サントの『サイコ』リメイクと重ねる声もあるくらいです。*3


 にもかかわらず。
 この違和感はなんなのでしょう。
 シンバも、ナラも、スカーも、ザズーも、ハイエナたちも何かが違う。同じセリフを吐き、同じ歌を歌っているはずなのにオリジナルの『ライオン・キング』となにかが決定的に違う。

 そのなにかとはなんなのか。
 わたしたちの眼に映っているもの、まさにそれです。


 そう、シンバたちがあまりにリアルすぎる。
 顔が、ではなく、動きが。

 ジョン・ファヴロー監督曰く「自然ドキュメンタリーのような」*4フォトリアルな造作と挙動。それがアニメーションのキャラとしての自由さを制限してしまっているのです。



“完璧すぎない”ことが大事だったんだ。アニメーターたちが動物を動かすときは、本物の動物がやること以上の行動はさせないことも大切だ。キャラクターが人間的な表情をしてしまうと、逆に変になるんだよ。最初の頃のテストで表情を感情的にしてみたら、僕たちが違和感を覚えてしまったんだ。『今見ている映像はリアルかもしれない』と、観客にイリュージョンを感じてもらうことに意味があると僕は思っている


 ――ジョン・ファヴロー 
「ライオン・キング」ジョン・ファブロー監督、目指したのは“完璧すぎない”こと : 映画ニュース - 映画.com

 多くのディズニーアニメと同じく、オリジナル版『ライオン・キング』のキャラクターたちはかなりデフォルメされた動きをします。端的に言えば、人間っぽく振る舞うのですね。
 たとえば、プライドランドを追放されたシンバがティモンとプンバァ*5と知り合い、彼らから虫を勧められて食べるシーンがあります。
 オリジナル版だとシンバはティモンから渡された虫を前肢の指で器用につまんで口にいれます。現実のライオンにはできない芸当です。
 いっぽう、リメイク版だとシンバは四足獣らしく、這っている虫を口だけで拾い上げ食らうのです。
 このように、オリジナル版に出てきた「本来動物には出来ない動作」は軒並みそれぞれの身の丈にあったアクションに置き換えられています。 *6


 オリジナル版ではどのキャラも表情をコロコロと変えるのも人間くさくて印象的でしたが、リメイク版ではそちらもかなり平坦な演技に変わっています。そりゃ、ふつう動物は笑いませんからね。
 骨格から表情筋までリアル動物基準に合わせてしまったがために、『ライオン・キング』は仏頂面のオンパレードです。「ふつうの動物」の範囲では精一杯表情豊かにふるまっているのですけれど……。
 オリジナル版の活力に溢れた顔に比べると、なんだか本物の動物に『ライオンキング』のセリフを当てて作ったMAD動画のような不吉ささえ帯びています。*7


スカーフェイズ

 「動物化」路線にとりわけ影響を受けたのは悪役のスカーでしょうか。
 彼はオリジナル版だと細身で能弁な策士で、そのオーバーアクト気味な演技力でムファサとシンバの親子を破滅へと追いやっていきます。卑怯者の情けなさと謀略家の冷酷さを伏せ持つ彼のイメージに、シェイクスピア俳優ジェレミー・アイアンズの声はまさにぴったりでした。
 ところがリメイク版のスカーは、ムファサと比べれば若干痩せ気味なものの、それなりに立派な体格のオスライオン。面構えもゴツい。
 演じたのはキウェテル・イジョフォーです。『それでも夜が明ける』や『ドクター・ストレンジ』での朴訥で生真面目なイメージが強いですが、本作でも策士であることは策士なんだけれど、過剰な演技でシンバを誘導するようなことはせず、芯を持ってぶっきらぼうに釣り餌をまいていくアンタッチャブルなヤクザめいた印象です。声そのものはオリジナル版のアイアンズに寄せてきたな、というかんじ。


 ふたりのスカーの違いをよく表しているのは隠れた名曲「Be Prepared」*8
ディズニー公式チャンネルで上がっているクリップを見てみましょう。

 こちらはオリジナル版。
www.youtube.com


 実に躍動感溢れるノリで数々のギミック(?)に飛び移ってはハイエナたちとドツキあいつつ、セクシーなシブい声で高らかに自分の野望を歌い上げます。特に最後の"Be king undisputed, respected, saluted, and seen for the wonder I am! Yes, my teeth and ambitions are bared. Be prepared.”は名曲ぞろいの『ライオン・キング』挿入歌中でも屈指のパンチラインではないでしょうか。めちゃくちゃかっこよくて高揚しますね。


 で、イジョフォー版の映像は用意できませんでしたが、曲調はこんな感じ。

www.youtube.com


 場面としては、薄暗い岩陰で足場を(オリジナル版よりは幾分控えめに)飛び移りながら、歌うというよりはハイエナたちへ演説するような調子でリリック*9を乗せます。*10
 ハイエナたちもノリが悪く*11、全体的にヘビーでおとなしめです。たしかに単体の曲としては悪くないし、場面の雰囲気とマッチしてはいて方向性は理解できるのですが、あまりに荒涼としていて愉しさにかけます。


夢と魔法を引かれたアニマルキングダム

 そうなんですよね。ミュージカルシーンが愉しくないのが問題なんです。
 リメイク版は動物たちを「動物化」すると同時に、オリジナル版にあった魔法をも消してしまった。具体的にはこんな感じです。


挿入歌"I JUST CAN’T TO BE KING”比較。
(オリジナル版)

www.youtube.com



(リメイク版)

www.youtube.com




 オリジナル版ではシンバが歌い始めた途端に画面がアフリカンアートめいたカラフルな色調に塗り替えられ、シンバたちが表情豊かに飛んだり跳ねたりしながらモブ動物たちの大コーラスをバックに狂った世界でシャウトします。同時にザズーとのスピーディな掛け合いもコメディとして良好に機能しています。これがミュージカルの魔法です。

 ところがリメイク版ではその魔法がかからない。オリジナル版に似ていながらも縮小された景色を行きながら歌詞をなぞるだけです。
 誇張した表現を使わずとも、ハイパーリアルな映像美で観客を圧倒できる、そういう計算だったのかもしれませんが、実際に展開される光景はナショナルジオグラフィックめいていて退屈です。とてもシンバとナラのわくわくに満ちた子供時代を再現できているとは思えません。


意味かい? 「ぼくたちは大丈夫」だってことさ。(By ティモン)

 たしかにたてがみの一本一本が細やかに風になびく映像技術はすばらしい。実際の動物のモーションを再現するためのリサーチも十分尽くしたのでしょう。
 スクリーンにいるのは完璧なライオンです。ライオンたちが人間的な感情を有していたらこんな感じなんだろうな、と想像させます。そこはすごい。

 ですが、その完璧なまでにリアルなライオンたちに『ライオン・キング』を演じさせたのは、果たして正解だったのでしょうか?

ライオン・キング』はもともと人間寄りに戯画化されたキャラクターたちのために作られた作品です。だからこそディズニーアニメ作品のミュージカル化にあたって真っ先に選ばれたのでしょうし、今に続くロングラン作品となりえたのでしょう。
 そんなものに本物のライオンたちをアテたって馴染むわけがない。奇妙なパロディの感覚を喚ぶだけです。*12
 やはりディズニークラシックのリメイクであったファヴロー監督の前作『ジャングル・ブック』でも登場動物たちは誇張を捨てたリアルな装いを身にまとっていました。しかし、あの作品の中心には人間であるモーグリ少年がいて、「人間と動物」の線を引くことが物語の核心に関わってくるよう構成されていたため、『ライオン・キング』ほどの異物感はありませんでした。


 リアルさを追求するな、リアルっぽい動物に人間のことばを喋らせるな、と言っているわけではありません。
 むしろ、誇張を抑えてリアルに再現された動物たちだけが出てきて喋るCG映画作品があったら何としてでも見てみたい。わたしはそういうものが大好きです。
 もし、あの本物のライオンたちのために用意されたシナリオが、作品があれば、あるいは幸福な映画の可能性もあったやもしれません。
 しかしディズニーはその道を選びませんでした。多額のコストをかけてオリジナル作品に賭けるよりは、すでにヒットの実績があって知名度も高い過去作という器を選んでしまったのです。その器が自分たちの手法に合っているかどうかを考慮することもなく。*13*14


「原作をそのままやる」ことがかならずしも幸せにはつながらない。ストーリーやセリフだけをなぞっても「そのまま」にはけしてならない。
 映画とは、なんと繊細で深遠なことでしょう(テキトーなシメ)。

 こうした挑戦をひとつひとつ噛み締めながら、人類は進歩していきます。わたしたちは薪に座し、吊るした肝を舐めながら次なるディズニーのリアル動物リメイクものに Be Prepared しましょう。


 で、「次」とは?

 『わんわん物語』です*15
 アメリカでは2019年12月公開予定。*16
 監督はカートゥーン・ネットワークで長年活躍したベテラン、チャーリー・ビーン
 脚本はなんとあの「マンブルコアの帝王」、アンドリュー・バジャルスキです。
 現段階ではティーザーすら出ていないのでどうなるかまったくわからない。
 もしかしたら、リアルなイヌの挙作をするリアルなイヌたちに、ミクロなバジャルスキ脚本はマッチしてしまうかもしれない。そういう希望だけを抱いて生きていきましょう。

 ハクナ・マタタ。心配すんなってことさ。




 なにかと批判の多かった続編ビデオ商法ですが、『ライオン・キング』に限っては三作とも好きです。

*1:そもそも異なるメディア間でのアダプテーションは格段に難しいにしろ

*2:一方でおなじ山崎貴作品の『アルキメデスの大戦』は改変具合こそを褒められたりもしていた

*3:さすがにヴァン・サント版『サイコ』ほど偏執的な完コピ芸ではありませんが。

*4:https://www.gizmodo.jp/2019/08/lion-king-jon-favreau-interview.html

*5:彼らは劇中で唯一、「自然ドキュメンタリー」であることの制約から逃れ得ている存在です。「ハクナ・マタタ」は本編のミュージカル中で唯一オリジナル版に伍することができる出来でしょう。なんたって自由人なのです。彼らには既存秩序から遠く離れて自由であってほしかったからこそ、リメイク版で「サークル・オブ・ライフ」に取り込まれるのはかなしかったですが……

*6:セリフやシチュエーションも微妙に改変が加えられているのだけれど、ここではあまり触れません。シンバの母親やハイエナのリーダー格といったメスキャラたちのプレゼンスが意識的に上がっていることは確かです。

*7:この動物的な無表情が面白さに寄与している場面がひとつだけあります。プライドランドに舞い戻ってきたシンバが囮としてプンバァたちを繰り出そうとする場面。シンバとナラのあのキョトンとした表情はフォトリアルならではの通じなさです。圧倒的他者として現れる動物本来の映画的用法だと思います。

*8:ディズニーアニメでヴィランが歌うものとしてはベスト級では

*9:ファヴロー監督曰く、ハイエナのキャラ付けを深めるために歌詞を変更したそう。

*10:こういうふうに「突然ラララと歌い出すミュージカル」というよりは会話の延長線上での歌唱っぽいものが全体として志向されているように思う。https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/07/24/152834:=この傾向はリメイク実写版『アラジン』にも見られる

*11:ハイエナたちのキャラ変更ははっきり改悪だと思います。ハイエナ三匹組のリーダー格であるシェンジ(オリジナル版ではウーピー・ゴールドバーグ、リメイク版ではフローレンス・カサンバ)が毅然とした女族長のポジションに据えられたのは、ラストバトル時にサラビやナラといったメスライオンのカウンターパートに置く意図があったのでしょうが、彼女が理性的に群れを統率しているものとして描かれてしまっているためにオリジナル版におけるハイエナたちの壊れた狂気が後退し、スカー始末の場面があまり効かなくなってしまっている。

*12:重要なのはディズニーのクラシック作品はけしてリアリズムを軽視していなかったことです。『バンビ』でシカの動作を追求するために動物学者を雇ったり、本物のシカをスタジオ内に連れ込んだエピソードは有名です。リアリズムとフィクションのバランスをどう取るか、どうすれば作品の雰囲気にマッチするのか、そういう問題なのです。

*13:悲しいことにディズニー実写リメイク群の多くが多かれ少なかれ似たような轍を踏んでいるとおもいます

*14:話は若干それますが、ディズニーのアニメ映画リメイクにはディズニーにおける過去の贖罪と再創造――ようするに多様性の要素を吹き込むことで現代的な強度をもたせて「王国」を延命する、という目論見があるように思われます。現状ではお仕着せ感が拭えないものが多いですが。一見動物しか出てこないので人種的な多様性など関係なさそうな『ライオン・キング』もその流れにあって、オリジナル版では白人(マシュー・ブロデリックとモイラ・ケリー)が演じていた主人公カップルを黒人(ドナルド・グローヴァービヨンセ)に置き換えたりしています。簒奪されてきたアフリカ的な文化を黒人の手に返す、という意味では『ブラックパンサー』あたりも意識しているのかな。グローヴァー大好きだしそれはそれはいいのですが、そもそも『ライオン・キング』自体がアフリカという土地に対するオリエンタリズムでできているのは否ませんし、そんなこといったらそもそもリメイク対象になってるディズニー映画だいたいそうですよね。特に九十年代はオリエンタリズムを金に変えまくってきましたよね。昔の基準で作られたものをなんとなく声優だとか、ガワだけ現代のクライテリアにあわせて、内実を真剣に検討することなく安易に今のリメイク作品として出してしまうのは危険なのじゃないな、と『アラジン』くらいから考えています。なにせ次に待機しているのはあの『ムーラン』。割とガチ目な中国系俳優(ドニー・イェン!)でキャストを固めてきているようですが、はたして物語としてはどうなるのか。当時でさえ色々批判が多かったからなあ

*15:正確には人間も出てくるので動物オンリーというわけではない

*16:ディズニーの新しい動画ストリーミングプラットフォームであるDisney+のサービス開始同時に配信されるらしいですが、もしかして配信限定?

twitterのアカウントが消えた。

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 おまえがメキシコに戻ってきたのは、生者といるより死者といるほうが落ち着くからだ。


 ――ドン・ウィンズロウ田口俊樹・訳『ザ・ボーダー』

【あらすじ】

  10年くらいやってた twitterのアカウントが消えた。

https://twitter.com/nemanoc


【経緯】

 
 ふだんいじらない各種設定欄をいじってるうち、プロフィール欄全部埋めちゃえ生年月日も埋めちゃえというノリになり(深夜0時ごろだった)、2005年生と大嘘を提出。
 13才以上ならイケたはずという算段だったものの、それまであらゆる軽口をアルカイックに流していた twitterさんがとつぜん「”登録時の年齢”が13才以上じゃないとダメなの! 2009年時点だと4才じゃん!! 死ね!」とマジギレしだし、秒でアカウントが停止してしまう。
 返してほしくば政府機関の発行する身分証を出せということなので、おとなしく保険証に黒塗りをかけて提出した。

 すると今度は返信メールで「顔写真がないとダメ」とか抜かしやがる。最初から言えよ。
 顔写真つきの身分証といえば要するに運転免許証なのであるけれど、わたしは免許証というものを持たない。
 パスポート探すのもめんどいし、役所に頼るとなると光年の彼方の気分です。ネトフリで『グレート・ハック』見た直後でもあったし、ぶっちゃけよくわからん理由で twitterごときにセンシティブな公的書類わたしたくねえ……。
 てきとうにすむやつないかなー、と財布をひっくりかえして出てきたのが動物園の年間パス。
 写真も名前も歳も有効期限も示されてるし、いちおう公的機関発行でもあるから大丈夫だよねーこれでダメなら明日またパスポート探すなりすればいいし、で提出して後はどうにかなるさと肩を組んだ。


 もちろん大丈夫なわけはありません。どうにかもならない。肩を組んでる場合ではない。

 そのうえ、証明画像のアップロードにまごまごしていたせいで twitterさんの逆鱗に触れたらしい。*1
「もう貴様からのお問い合わせは受け付けません。ツイをつづけたいなら新しいアカウントを作れ!! さもなくば死ね」
 とお叱りを受け、わたしは死んだ……。*2

【敗因】

 ふだん表面に見える活動から twitterTSUTAYAなみにルーズな企業だと侮っていたので、個人照会もTSUTAYAのノリでいけるだろうと考えてしまった。

【かなしいこと】

・フォローしていたおともだちの大半が失われてしまった。彼らから見ればわたしが死んだことになりますが、わたしから見たら彼らのほうが大絶滅。わたしたちはもう二度と『将太の寿司』で盛り上がる世界を目撃することはないだろう。
・過去のフォロー欄にもアクセスできないので、誰をフォローをしていたか九割がた思い出せない。
・nemanoc というID、上半分がまるくておさまりよくてかわいくて好きだったのに二度と使えなくなった*3
・過去ログが全部消えた。定期的にバックアップは取っていたんだけど、ここ半年くらいはアップデートしてなかったのでそのあいだに見た映画の感想とかもう見られない……。年末のまとめとかつくるのに難儀する。



【今度の方針】

・特に以前と変わらない。
・数ヶ月前に別アカ的なものをこしらえていたのでとりあえずそっちに移るっていうか合併する。*4

twitter.com


・思い出せるかぎり前にフォローしていた人たちをちょくちょく見つけていく。せっかくだし以前とは違うTLを作りたいというアレはある。
・アカウントが変わるとふしぎなもので、実際上はなにも変わっていないはずなのに、ポストする文の感触が変わってくる。ほんの一時的な現象なのかもしれません。
・子供のころにインターネットをはじめてから、数年ごとにハンドルネームを変えながら生きてきたのだけれど、nemanocは6年?*5くらい続いて、これが終の名になるのだろうか、ツイだけに……と予感していたところにこれですから、なんといいますか、連続して在るのはむつかしいですね。かつてわたしたちは四肢と頭によって統合された肉体だけが身体だったけれど、今やインターネットに不可視の王冠かぶった自分の複製がいる。それは無料で登録できる不滅でもある一方、いともたやすく失われもする。
・誰もが簡単に死ねるのに死ねない。ならば、どう死ねばいいのか。レベッカ・ソルニットも「忘却ではなく手放す技法こそが肝要なのだ」といっているのだし、意図するにせよしないにせよ過去を洗い磨いていくための切断は大事なのだとおもう。あるいは忘れられることによって自分も研ぎ澄まされていくのかもだけれど、そういうのは年をとると怖くなるよねえ。
・というわけで半端にわたしの twitterはつづいていくのです。
 

【教訓】

・余計なことはしないほうがいい。

暗い鏡の中に (創元推理文庫)

暗い鏡の中に (創元推理文庫)

*1:具体的には、証明書類の提出回数には制限があったらしいのだが、勝手がわからず同じ画像をアップロードして送りまくっていたらあっというまにその制限を超えたらしい。

*2:ちなみに基本的に twitterは想定されうる状況ごとに用意された専用のフォームからしか問い合わせを受付ず、定形外の事態に遭遇しても説明する手段がない。

*3:twitterで一度取得されたIDは消えても(自主的な削除だろうがBANだろうが)再取得できない

*4:そっちはもともと創作用のアカウントだったのだけれど、考えてみれば創作はほとんどしていないので開店休業状態だった。

*5:twitter始めてから数年は別のIDだった


クリシェじゃないのよ。ーートレイ・エドワード・シュルツ監督『クリシャ』について

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(Krisha, トレイ・エドワード・シュルツ監督、2015年、米)


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『クリシャ』について


Krisha (2015) Official Trailer


 最近の、あるいはむかしからそうだったのかもしれないけれど、アメリカのインディー映画は一幕目で出した銃を三幕目で撃つより、銃がなぜそこにあるのかを映画全体のストーリーテリングによって観客に想像させるほうが好みらしい。
『クリシャ』における撃たれない銃は欠けたひとさし指だ。

 物語冒頭、主人公クリシャは六十代の老体には重そうなトランクをひきながら妹の家を訪ねる。
 その扉の前でさりげなく包帯のまかれた右手のひとさし指が示されて、観客はオッ何かあるなと身構えるわけですが、期待に反してその傷の由来が説明されることはついにない。欠落や違和感を即座に伏線として認識するような、鍛えぬかれた現代の物語鑑賞者たちは肩透かしを食らうだろう。
 けれど作品の文脈的に、監督の「語らない」という選択は正しい。『クリシャ』は、監督であるトレイ・エドワード・シュルツが自分の親類を題材にし*1、自分(自身を含めた)の親類を役者として起用した、極めて私小説的な映画だからだ*2。いや、私小説というよりはホームムービーに近いのかもしれない。伏線とその回収は、物語世界を作り物として見せてしまう副作用があるけれど、『クリシャ』は自然主義的な撮りっぱなしの作法とはまた異なるところであえて放置しているようにおもう。
 あえてあえての説明のなさ。人工的に造られた自然な不自然さ。埋まらない欠落。そこに案外2010年代後半からのアートハウス系現代アメリカインディーホラーの潮流の鍵が眠っているのかも。

 観客は主人公クリシャを寄り添うように追うカメラに導かれ、クリシャ一族の感謝祭パーティへ放り込まれる。合わせて十数名ほどの親戚縁者のうち、クリシャとの関係が明示されるのはほんの数名だ。しかも明かされるにしても、ほとんどの場合、物語が始まってからけっこう経った時点なので、とにかく序盤は話が掴みづらい。
 映画なのだから我慢して観つづければ映画的に決定的な瞬間がいつかは訪れるだろう。そんな経験則にたのんで、観客はなんだかよくわからない不安定なクリシャにつきあっていく羽目になる。
 映画の編集も精神的な疾患を抱えているっぽい*3クリシャの認知に沿ったつくりとなっていて、時系列が微妙に前後していたり、本筋と関係ない映像や音声があったりとみょうにノイズが多い。挙句の果てには不協和音めいたBGMがクリシャの不安と連動するかのようにえんえん鳴り響く。
 登場人物たちを把握しきれないはがゆさとノンリニアな語り口のままならさは、本来あまり共感的なキャラといいがたいクリシャの感情を観客へとリンクさせるだろう。

 すなわち、疎外感。

 最もプリミティブなはずの「家族」という名の輪にひとりだけ外される。戻りたいのに戻れない。自分はそこに属しているべきなのに、属せない。
 その悲しさを私たちは親密に共有しつつ、一方でおもう。でも、しょうがないんじゃないんじゃないか。よく知らないけれど、あなたの現状を見るかぎりでは。
 クリシャは泣きわめく。「私だって頑張ってきたのよ!」
 観客は彼女の「努力」を知らない。クリシャの家族も彼女の「努力」を知らない。見えるのは結果だけだ。今この瞬間のぶざまさだけだ。

 他人の人生や家庭の一場面をアイスクリームのスクープですくうようにえぐりとって覗き、判断する。映画はそうした傲慢さを前提とする*4物語装置で、トレイ・エドワード・シュルツはそのいやらしさを自覚的に使い潰す。
 なにがいちばんずるいって、クリシャの執着する息子役を監督自身が演じているところだ。役名まで「トレイ」。*5映画監督志望だったけれど大学では経営学の道を選んだという背景まで反映されている。*6
 観客の眼に否応なくメタ視点のレンズを取り付けて、ご近所さんのゴシップ的な窃視欲をひきずりだす(それこそシチメンチョウの内臓を取り出すような手際で)監督のいじわるさは第二作となる『イット・カムズ・アット・ナイト』でもいかんなく発揮されている。
 

It Comes At Night | Trailer #2 | A24


2015〜16年にかけて当時無名だった若手監督によるものとして特に話題になったホラー作品が三本あって、ひとつはデイヴィッド・ロバート・ミッチェルの『イット・フォローズ』、ひとつはロバート・エガース『ウィッチ(The VVitch)』、そしてもうひとつがこの『クリシャ』だった。
 三作とも今ふりかえれば、さまざまな点においてアリ・アスターの『へレディタリー』を準備していたといえなくもない時代性をまとっていた。唯一『クリシャ』だけが日本公開されずにおわるのは悔やまれるところだったけれど、この2015年における「欠けたひとさし指」を上映にまでもっていったグッチーズ・フリースクールさんは、ほんとうにいい仕事をしたとおもいます。


Waves』について


WAVES | Official Trailer HD | A24


 そして気になるシュルツ監督第三作にして最新作の『Waves』。すでにアメリカではテルライド映画祭にてプレミア上映され、批評家筋からも高い評価*7を集めている。10日にはアカデミー賞前哨戦トロント国際映画祭でお披露目される予定だ。
 主演は『イット・カムズ・アット・ナイト』にもメインで出演したケルヴィン・ハリソン・ジュニア、共演にはエミー賞常連で『ブラックパンサー』や『ザ・プレデター』でも存在感を発揮したスターリング・K・ブラウン、ドラマ『ロスト・イン・スペース』で注目をあびたタイラー・ラッセル、そして『マンチェスター・バイ・ザ・シー』以来活躍の著しいルーカス・ヘッジスなど。
 内容は父子の関係に焦点を当てたいつものシュルツの家庭不和ホラーかとおもいきや、後半からおもいがけなく「感動作」になってくるそうで、シュルツとしては新境地っぽい。英国ガーディアン紙は「今年最も視覚的に驚嘆した映画」として五ツ星を与えている。
 インディーの余韻を残しつつもジャンル映画を脱してステップアップした一作であろうと予想され、トロント国際映画祭の評判次第ではアカデミー作品賞の候補にもあがってくるはずだ。
 トレイ・エドワード・シュルツはまだ三十歳。アリ・アスター、ロバート・エガース、サフディ兄弟、ボー・バーナム、グレタ・ガーウィグといった80年代生まれ*8の”A24ギャング”でも、A24究極の秘蔵っ子としていよいよ飛躍していくだろう。


*1:物語の核となるクリシャの設定はシュルツの父親といとこに依ったらしい。(https://www.npr.org/2016/03/16/470668069/we-couldnt-save-them-lessons-from-a-film-about-family-and-addiction)クリシャを演じるクリシャ・フェアチャイルドはシュルツの叔母にあたり、クリシャの姉役がシュルツの実母。祖母はそのまま祖母役で出演。ややこしい。

*2:シュルツ監督は精神科医を本業とする実母に出演を頼むにあたり、ジョン・カサヴェテスを引き合いに出したらしい。返ってきた反応は「だれ、それ?」https://nofilmschool.com/2016/03/trey-edward-shults-breakout-film-krisha-was-shot-9-days

*3:原因が何であるかは終盤になって明かされる

*4:二時間の映画で語られうる物語は小説に換算すると短編一本分、というのはよく言われる話だ

*5:ちなみにクリシャも本名は「クリシャ」。出演陣のほとんどは実名=役名に設定されている

*6:監督も両親に映画の道をいったん反対されたという過去があったようだ。「私の両親はビジネススクールを出て学位を取得し、いい仕事を得ることを私に望んでいました。」結果的に、彼は大学を中退してテレンス・マリックの現場に参加しながら映画を独学する道を選ぶ。https://nofilmschool.com/2016/03/trey-edward-shults-breakout-film-krisha-was-shot-9-days

*7:rotten tomatoes で9月8日現在、12個のレビューで支持率100%。スコアは8.8

*8:バーナムだけは90年生まれだが

2010年代のTVアニメ/海外アニメ/アニメ映画の年別ベスト

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highlandさんが「テン年代のTVアニメベスト10」という企画? をやっていたので便乗していろいろ考えます。考えるうち、海外のやつも映画もやりたいなー分けたいなーとおもったので、全部やることにしました。
わたしはそんなにTVアニメを見る人ではありません。通しで視聴するのはピーク時でもせいぜい年に二桁をやっと超えるくらい。しかも最近は減少傾向にあります。そもそも2010年くらいまでは深夜アニメを見る文化を持っておらず、というか、だからこそ、まがりなりにもその上っ面に振れるようになってからの2010年代アニメ群に自分なりの愛着を抱くのでしょう。だからここにあるのは批評的な態度ではなく、個人的な思い入れです。ご了承ください。
海外アニメの視聴本数は輪をかけて少ないわけですが、人生に与えた影響では同等なので枠を分けました。
アニメ映画のほうは、全体の本数における視聴済みの割合ではTVアニメより多いハズ。
以下、海外アニメは製作国での発表年に準じます。
2019年のものはいずれも暫定。

TVアニメ

10 探偵オペラ ミルキィホームズ
11 ジュエルペット サンシャイン
12 人類は衰退しました
13 ゆゆ式
14 ガンダム Gのレコンギスタ
15 ユリ熊嵐
16 フリップフラッバーズ
17 少女終末旅行
18 宇宙よりも遠い場所
19 さらざんまい

こうして眺めてみると、スラップスティックというか、アホな話が好きなんだなあ、という感想です。

2010年は『四畳半神話大系』と『STAR DRIVER』という名作もあったわけですが、選ぶにあたっては迷いませんでした。『ミルキィホームズ』がなかったら、わたしはTVアニメを観ていなかったでしょうし、少なくともその時期に進んで探偵小説を読もうという気にならなかったでしょうし、なんとなればいまもこうして生きていなかったでしょう。ミルキィホームズはわたしに探偵とは何か、人生とは何かを教えてくれました。

2011年は一番難しい年ですよね。ここに選者ごとのアニメ観が出るといっても過言ではないと思います。なにせ、『魔法少女まどか☆マギカ』、『輪るピングドラム』、『放浪息子』、『TIGER & BUNNY』、『UN-GO』、『THE IDOLM@STER』、『FATE/ZERO』、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』等々が並び立つのです。素人目にみてもコレなのですから、深夜アニメファンならきっとさらに頭を悩ませることでしょう。で、そんな名作たちから己のたましいに最も正直なひとつを選ぶなると、『ジュエルペット サンシャイン』ということになります。なってしまうのですね。

ひるがえって、2012年は違う意味で選ぶのに困る。比較的観ていた時期に入るはずなのですが、思い入れのある作品がない。世間的には『ガルパン』とか『アイカツ!』とか『坂道のアポロン』とかなのでしょうが……。『人衰』を選んだのは原作を好きだったのが八割な気もしますが、アニメもよくできていたとおもいます。原作を損なわないアニメ化というのはそれだけで偉業なのです。あとOPとEDがすばらしくいい。オリジナルなら『AKB0048』でしょうか。わたしは人道主義者なのでアイドル文化というものがきらいなのですが、アニメになると人権侵害が免責されるのでオッケーということになる。アンチ回がすき。

2013年、あるいは『たまこマーケット』か『てーきゅう』か。実は『キルラキル』全話見通したことないんですよね。これまで五回くらい挑戦してるんですけど、だいたい三話くらいでなんか満足してそのままになってしまう。一話ごとのカロリーが高いせいかもしれません。目の食が細い。


2014年はSFに良作がそろっていた印象ですけれど、まあ〜〜〜〜〜〜……Gレコか。ガンダムというかロボットアニメはそもそもあまり観ないのですが、なんかこれはスルッと入った。

2015年は『ユリ熊嵐』か『シンデレラガールズ』かということになる。『ユーフォニアム』でも良かったけれど、リアルタイムでは観ていなかった。『ユリ熊嵐』は幾原アニメのなかでもそんなに評価の高いほうではないと思うのですが、個人的には、演出がいちばんシュッとしてて好きなほうです。ピンドラより上にくるくらい。今でもたまに見返します。世評に反して、という点では翌年の『鉄血のオルフェンズ』も嫌いではない。

2016年は渋い作品が多いですね。『落語心中』が一番人気らしいですけれど、わたしは観てはいません。原作を読んでいる作品はその原作が格別に好きというケース以外、あんまり積極的に観ないんですよね。『だがしかし』とか『甘々と稲妻』とかもその枠。せっかくならオリジナルアニメを評価したいという気持ちもあります。となると『ルル子』か……『フリップフラッパーズ』。フリフラですね。百合に疎いわたしが綾奈ゆにこという狂気を知るきっかけになった作品です*1

2017年、オリジナルを評価したいなどと抜かした舌の根も乾かぬうちに原作つきの『少女終末旅行』を挙げたわけですが、いやだってこれはしょうがなくないですか。エンディングを原作者が描いてるアニメがどれだけあるっていうんです?

2018年、『プラネット・ウィズ』のことはうつくしい思い出として胸に留めましょう。たとえ『惑星のさみだれ』がアニメ化されることがなくなったとしても、わたしたちは水上先生から十分以上のプレゼントをもらったのです。『あそびあそばせ』、『ハクメイとミコチ』、『三ツ星カラーズ』、『ヒナまつり』、『ポプテピピック』と好きな漫画原作をちゃんとしたアニメにしてくれて嬉しかった記憶のある2018年ですけれど、なんといっても『宇宙よりも遠い場所』。ここ十年でもベストなストーリーだと思います。

2019年はあんまりアニメ観る気になりませんでした。こうやって人は朽ちていくのかもしれません。


海外

10 レギュラーSHOW
11 おかしなガムボール
12 グラビティ・フォールズ
13 リック・アンド・モーティ
14 ボージャック・ホースマン
15 ぼくらベアベアーズ
16 アニマルズ
17 ビッグ・マウス
18 サマー・キャンプ・アイランド
19 トゥカ&バーティ

どれもめむちゃくちゃおもしろいんですけれど、とりわけ10〜11年に個人的な傑作が集中しているんですよね。人生に影響を与えたアニメランキングではトップ10に入りそうな『マイ・リトル・ポニー〜トモダチは魔法〜』や『アドベンチャー・タイム』なんかも2010年ですし。『スティーブン・ユニバース』は2013年か。単によく観ていた時期がそこっていうこともあるんでしょうけれど。
アメリカの大人向けアニメは長寿プログラムが安定して抜群におもしろくてチャレンジングという美点があり、『シンプソンズ』とか『サウスパーク』とかそういう感じなんですけど、あんまり日本じゃ配信してくれない。『シンプソンズ』は一時期 Hulu でやってましたし、『サウスパーク』は今ネトフリで観られますけれど。
近年はネット配信のオリジナルにイイのが多いですね。『ヒルダ』(ネトフリ)とか『アンダン』{アマゾン)とか。
わたしが好きになる海外アニメの傾向はわりにはっきりしていて、ダメな人間(人間でない場合が多いですが)が主人公です。
『レギュラーSHOW』や『ぼくらベアベアーズ』を観ていると、ああ、人間ダメでも愉快に暮らせるもんなんだな、という心持ちになります。一方で『ボージャック・ホースマン』や『トゥカ&バーティ』を観ているとやっぱりダメじゃいけないんだな、ともおもいます。なったりおもったりしたところで今日明日の生き方に影響はでないわけですが、まあ作品として心には残りますね。愛という感情が。


映画

10 トイ・ストーリー
11 ランゴ
12 おおかみこどもの雨と雪
13 風立ちぬ
14 LEGOムービー
15 映画 ひつじのショーン〜バック・トゥ・ザ・ホーム〜
16 ズートピア
17 夜は短し歩けよ乙女
18 リズと青い鳥
19 天気の子

特にいうことはありません。ただ、新海誠映画が自分のなにかしらのベストリストに入ることになるとは去年まで予想もしていなかった。『スパイダーバース』が2019年だったなら(アメリカでは2018年公開)もうちょっと悩んだかと思いますが。リズ鳥となら迷わない。
この前観てすげーよかった『ロング・ウェイ・ノース』も2015年なんですよね。罪作りなことです。公開されないよりはいいか。

*1:きんモザ』もよく考えたら狂ってたな、と思い返したりもした

そんなところで何してるんだい、文学フリマ野郎?

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 これからしばらく文学について何かと書かなければならない。その実物はともかく、文学という言葉は今日よく行き渡っているようで、文学と言えば相手は何か解った風な表情になる。これは外国では余りないことらしいから、そのことから直ぐに、日本人というものはとやりたくなる所であるが、考えて見ると、日本も戦前まではこんなことはなかった。その頃はむしろ、文学をやるなどと子供が言えば、親が泣いたり、怒ったりし始めるのが常識で、そういうひどいことにならなくても、そうどこへ行っても文学、文学ではなかったのに対して、文学の方はいいものが沢山あったという感じがする。


 ーー「文学の楽しみ」吉田健一



 そこは文学の自由市場だと謳われているが、実際には文学の奴隷市場だ。*1 書店とはまた異なる法や規範で律せられていて、きみはそこでも創造的に振る舞うことができない。でも、どういう場であれ、きみが自由で創造的だったことなど一度でもあっただろうか? 文学が文学だったことなど、あっただろうか?



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 11月24日、日曜日。

 きみはきみの可能性ではなく、きみの有限性を確認するためにそこへ出かける。

 東京駅からなら山手線で浜松町でモノレールに乗り換えて、流通センター駅まで21分。片道510円。*2 駅で降りれば、すぐに東京流通センターが見える。

 流通センター。なにが流通しているのだろう。幻想だ。

 売り手も書い手も、「小説」や「評論」になってくれているはずの不安で不穏な文字の集まりを紙に印刷して束にすれば、それが「本」になると信じている。その思い込みを売ったり買ったりしている。

 みんなわかっていると思うけれど、文学フリマに流通している貨幣は円ではない。そういう、共同幻想だ。祈りだ。だからこそ、人は読む。F I N A L F A N T A S Y。



 もし文学フリマに参加するのが初めてであれば、入り口付近では足元に気をつけてほしい。まあ、においで気づくとは思うけど、大量のゲロの海になっているだろうから。

 どこであれ、文フリ会場に選ばれた場所は臨時のサウスパークと化してしまう。文フリ参加者の七割が嘔吐を経験するという。理由はさまざまだ。視界に大勢の人が映るのがとにかく気持ちわるいという人、参加者の体臭(コミケとはまた違う類の悪臭)に耐えられない人、その行為が文学的であると思うから吐く人(バカか?)、会場内でひろった菓子パンをつまみぐいしてお腹をこわす人、思いがけずブースで他者とのコミュニケーションを強いられてストレスに晒される人、その他人同士の会話を見て実存的不安を催す人、他人のゲロを経口摂取して気持ち悪くなってる人、乗り物酔いしたイヌ、サム・”ポーター”・ブリッジス、他にもいろいろ。

 だから、来るならなるべく早い時間帯がオススメだ。開場直後の11時に着くにこしたことはないけれど、やんごとない身分であると察せられるきみの日曜はおそらく午後から始まるだろう。1時2時の到着でも問題はない。

 お昼アラウンドの時間帯に来れば、文フリ名物おいしいインドカレーライスが食べられる。このカレーライスと、会場入口でひとつの意志を持ちつつある大量のゲロはなんの関係もない。おいしく食べてほしい。



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ここのチェーンが毎回出前出店している。



 信じられるだろうか。文学フリマで売られる本は、基本的に売り手が自ら価格を設定している。

 たとえば、『あたらしいサハリンの静止点』と題されたこの本は「第十回創元SF短編賞日下三蔵賞、宮内悠介賞を受賞した二作を含む、最終候補作品三作+新作を掲載!」などと称して1冊1000円で売られるわけだが、つまり、これの売り手は自分たちの本に1000円の価値があるものとみなしていることになる。

 デフレが深刻化する現代日本で1000円といったらそうとうな大金だ。戦後の大阪の闇市では揚げパンが1個5円だったから、それが200個も買える計算になる。戦後の大阪にどれだけ腹をすかせた子どもたちがいたかを考えれば、1冊1000円で同人誌を売るなどという行為は想像力の欠如でしかない。

 そして、なお狂ったことに、この1冊1000円というのは文学フリマにおける中央値だ。千円札は文フリの公用語といってもいい。大抵の売り子は多言語に堪能だから、一万円札や五千円でも話くらい通じるかもしれないが、千円札を用意するにこしたことはない。だから、きみは大量の千円札を財布にしのばせて会場へ向かうことになる。

 見たことない枚数の千円札が財布にはさまっているのを見て、きみは金銭感覚および現実感覚は崩壊し、喉のおくから吐き気がこみあげてくるかもしれない。そんなときは入り口で吐けばいい。ただし、エチケット袋を忘れないことだ。床に吐くのは文学である人間以外にゆるされない決まりになっている。



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これはうちのイヌヌワン。



 そろそろ書くのにも飽きてきた。本来ならここらへんで「文学フリマの回り方」を紹介するはずだったが、どうでもいい、きみは好きに回るといい。文学だろうが評論だろうがエッセイだろうが、なんでも買うといい。



c.bunfree.net



 どうせすべての本を買うことなどできやしないのだ。きみがアラブの石油王だというなら話は別だが、きみがアラブの石油王であるならなんで文フリなんかにいるんだい? コミティアに行け。コミティアにはアラブ中から集まった石油王が一冊の同人誌を巡ってクリスティーズ顔負けの札束乱舞オークションを開催しているという噂だ。噂でしかないので事実かどうかはわからない。うそだったら、実に悪質だと思う。でもコミティアに石油王が集うのは、いかにもありえそうなことだ。

 文学フリマにいそうな王といえば、舞城王太郎くらいで、それだって昔の話だ(知らない人は「タンデムローターの方法論」でググろう)。*3

 文学フリマ設立当初の大塚英志の理念はとうに失われ、私たちはもはや文学に「生き残る意志」があるなどと微塵も考えておらず、始まって十数年を経た文学フリマの会場内ですら文学は秘儀としての仮面をかぶってとりすましたまま、文芸誌や書店とはまた違う類の「不良債権」を弁済するはめになっている。そんな文フリに誰がしたかというと、私たちなのだが、まあ人間が実地に集ってやる以上、しょうがない有様だと思います。

 問題は永遠に完済できない「不良債権」にどうつきあっていくかで、なんとなれば、24日の文フリのテーブルにならんでいるのはそれに対する各々なりの処方箋であると思ってもいい。そう考えるとなんとも偉大なものを売り買いしている気分じゃないか?

 あるいは何も思わないこともできる。

 問題など存在せず、文学だけが在り、東京流通センター内の約39万平方メートルだけがリアルで、そこから外はすべて悪い夢にすぎないと、そういう虚構を崇めてもいい。誰も責めはしない。

 きみの文学的良心と、ついに超知性を得て現生人類とあらゆる文学を滅ぼし新たなポストヒューマンーーゲロ・サピエンスーーを創造すべきと結論した巨大危険文学破壊モンスター(元・会場入口のゲロの集合体)以外は。
 


 助けてくれ。
 






〜保護者のみなさまへ〜

 私どものサークル第三象限はお子さまの文学的感性や情緒をうるわしく涵養することを目的に、日々良質の文学を生産しております。


c.bunfree.net


 各自の作中にはお子さまにはふさわしくない物語、表現などがしばし出てくることがありますが、作者たちの生まれた平成、そしてお子さまたちがこれから生きることになる令和という時代環境を鑑み、あえて発表当時の文章を残すことにしております。

 ご意見・苦情などがある場合は、文学フリマにご来場の際に、ク-16*4へお立ち寄りくだされば1部1000円『あたらしいサハリンの静止点』を提供いたします。内容の詳細は以下のリンクを参照。


note.mu


 表紙イラストはあの今井哲也先生(『アリスと蔵六』、『ハックス!』などの)。
 すごい。

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表紙。いい。


 取り置き依頼はわたしの twitter までお願いします (谷林さん織戸さんのほうでも可)(twitterアカウントをおもちでない方は monomanemano@gmail.comまで。件名「同人誌取り置き希望」で以下のフォーマットに沿ってお申し込みください。)。
 取り置きは「1. 当日会場にいらっしゃる方のみ受け付け可能」で、「2. 当日14時までに受け取りに来てください」(それより遅れる場合は事前に連絡をいただけると幸いです)。なお、勝手ながら「3. お一人さま二冊まで」とさせていただきます。あらかじめ、ご了承ください。取り置き受付締切は文フリ前日の23日(土)17時までです。とりあえず。
 申し込み用フォーマットもつけておきます。

(メールの場合のみ:件名「同人誌取り置き希望」)
 お名前:
 冊数 :


 あと個人的に『Re-Clam』さん(ヌ-19)で、『Re-Clam 第3号』に「オススメのアントニイ・バークリー三冊」を寄せています。入門者向けの紹介ということなので、比較的エッセンシャルな三冊をセレクトしました。

deep-place.hatenablog.com

*1:フリーマケットの本来のつづりは flea market ですが

*2:紙のきっぷ購入時

*3:当時の会場に舞城王太郎がいたかどうかは知らない

*4:大人気サークル「ねじれ双角錘群」の裏です。→「 ねじれ双角錐群」でした、ごめんね。https://c.bunfree.net/c/tokyo27/2F/ア/16

ネトフリに入った『サウスパーク』S15〜S21の入門用エピソード10選

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オープニングソング「サウスパークを観るのうた」

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(オ〜オ〜オ〜〜〜)
ネトフリにサウスパークが やってきた(やってきた)
サウスパークを観よう
サウスパークを観よう
チャンネルまわせば顔なじみ
どこかで見たおぼえはあるけれど
実際に視聴したことはなかったね
サウスパークを観よう
サウスパークを観よう
十回に一回はドンで引く
コミケに行くな サウスパークを観ろ
コミケに行くな サウスパークを観ろ
今夜は合法だ



これまでのあらすじ

 現代の怒れる神、ネットフリックスはそのときどきの気まぐれで想像もしなかったコンテンツを追加したり、永遠とも思えた番組を予告なく消去することがあります。
そんなネトフリからの十二月最大の贈り物といえば『サウス・パーク』。シーズン15(2011年)〜21(2017年)までが現在絶賛配信中です。
しかし開始して十五年経過した作品にいきなり入るのも難易度が高い。こち亀でいえば、70巻代から読み出すようなものです。意外とハードル低くないか? なんかいきなりシーズン15から観出しても大丈夫な気がしてきた。
ウオーッ
おれたちはシーズン15からサウスパークを観るぞッ!!


番組の主な登場人物

・どこから始めても、だいたい観てて五分くらいで主要メンツのポジションを把握できる。


青いニット帽(スタン):劇中ではよく常識人ヅラしてデブを説教したりしているが、行動だけ見ればこいつも大概である。


緑の帽子(カイル):ニット帽とあまり見分けがつかない。演説が巧い。カナダ生まれの弟(養子)がいる。


デブ(カートマン):劇中随一の悪役。


オレンジのジャンパー(ケニー):昔はよく死んでいたらしいけれど、今はただの無口なガキ。


金髪のチビ(バターズ):かわいそうだね?



オススメ入門用エピソード十選

s15ep1 「ムカデ人間パッド(HumancentiPad)」

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いきなり最悪な絵面です。

 iTunesのアップデート後の規約をよく読まずに同意してしまったために、緑の帽子がスティーブ・ジョブズに拉致され、新型 iPadであるムカデ人間パッドの実験台にされてしまう。ちなみにムカデ人間パッドとはカルト映画『ムカデ人間』に出てくるムカデ人間(人間の口を別の人間の肛門に縫い合わせて作る夢の生命体)に iPadを取り付けただけの目を疑うお下劣な製品です。
 シーズン15の第1話にして、時事ネタ、カルチャーネタ、下ネタ、グロネタ、ウンコネタ、有名人・ブランドいじり、カートマンの人格破綻っぷりと以降の『サウスパーク』のエッセンスが詰まった入門編のようなお話です。まずはこれを観て、自分と『サウスパーク』の相性を確かめましょう。合わなかったらお気の毒。

s15ep7「立派な大人(You're Getting Old)」

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手塚治虫の『火の鳥』に出てくる周囲の人間がすべて石に見える男の話っぽい。

 思春期を迎えて観るもの聴くものすべてがクソ(比喩ではなくマジで人の口からウンコが出てくる)に思えてくるようになったスタン。口をつけば厭世めいたセリフしか出てこない彼に友人たちはうんざりしはじめ……というお話。
 英語圏では思春期少年少女の苦闘を描いたドラマを「カミングエイジもの」と呼びまして、本エピソードはまさにその傑作。無限に湧き出るウンコを通じて思春期の痛切な揺らぎをえぐり出す物語は、マジックソリアリズムともいうべきか。言わなくても良い気がしますが。
永遠の小学生たちの楽園であるサウスパークでは「成長」という切り札を切れる機会は少ないわけですが、使うときは効果的に使い潰してきます。
 ウンコネタだったらep8の「ケツバーガー」も必見。
 
 

s15ep5「クラックベイビー選手権(Crack Baby Athletic Association)」

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南部の農場主の装いでコロラド大学に現れたカートマン

 資本主義に手厳しい『サウスパーク』中でもスポーツ産業風刺は度々大きなパートを占めます。
 この話でも、コカイン中毒の赤ちゃんにコカインのボールをもてあそばせるスポーツで一儲けしようと企むカートマンが相談先としてコロラド大学が登場。
 カートマンは大学の学長に対して「おたくのスポーツチームみたいに『奴隷』を上手く扱う方法を教えてほしいんだけど」ともちかけます。大学スポーツをビジネス化する風潮への皮肉ですね。
 他にもスポーツゲームで有名なEAスポーツ社にハメられりたりと、様々なプレイヤーから食い物にされているスポーツ業界の現状が浮き彫りにされていきます。
 そういうお勉強になりつつも、むちゃくちゃなスポーツを考案してメイクマネーしていくカートマンのハスラーっぷりも痛快です。

s16ep11「バターズ故郷へ帰る(Going Native)」

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”ハワイ先住民”の方々。

 もちろん人種差別ネタも『サウスパーク』におけるコアの一つ。
 わけても本エピソードはポスト-ポストコロニアル文学の領域に達した傑作といえるでしょう。
 なぜだか急にキレやすくなっていたバターズはあるとき、両親から一家の出自の秘密を告げられます。
「バターズ、実は私たちはネイティブ・ハワイアンなんだ。一定に年齢に達したお前はふるさとへ帰ってハワイの伝統に則った成人の儀式を行わないといけない……」
 ちなみにバターズもその両親も思いっきり白人。ハワイ人の血が混じっているようには見えません。
 視聴者を混乱に突き落としつつ、バターズは彼の身を案じたケニーを共連れにカウアイ島へ到着します。すると彼を出迎えた「両親の部族」の人々は、これまたアロハシャツを着た白人ばかり……。彼らは言います。「私は十年も前から毎年夏の間ここにいるネイティブハワイアンだ」「私は三年前からネイティブハワイアンだ」
 要するにリゾート客です。
 彼らはバターズを”村”ーーリゾート客向けのゲーテッド・コミュニティへと連れていき、立派な「ハワイ人」になるための試練を課そうとしますが、事態は思わぬ方向に……。
 全編が皮肉で出来た、秀抜なエピソードです。

s16ep12「ハロウィーンの悪夢(A Nightmare on Face Time)」

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もちろんオチはこれ。『ドクター・スリープ』ちょうどやってるし、時期的にもヨシ。

 ハロウィン回はアメリカ製カートゥーンにとっての温泉回のようなものです。『シンプソンズ』では毎年決まったタイトルにナンバリングを通してハロウィン回を流すほど。サウスパークでもちょくちょくハロウィンが催されます。
 本エピソードは、スタンの父親のランディが潰れかけたレンタルビデオチェーンの店舗*1を買い取るところから始まります。
 一国一城の主となって浮かれるランディですが、家族の反応は後ろ向きです。それもそのはず、ネットフリックスを始めとした映画配信サービスの隆盛により、レンタルビデオ店など誰も利用しなくなっているからです。
 それでもノスタルジーに毒されてレンタルビデオ店の復活を信じるランディでしたが、店は閑古鳥が鳴くばかり。陰気な店内で彼は徐々に精神を病みだし、亡霊が見えだすように……そう、『シャイニング』のオマージュですね。
 アメリカ人がどうしてここまで自分たちのコンテンツに映画ネタ引用に執着するのかは大いなる謎とされますが、ともかくも題材的にも映画ネタを使う必然があって実にハーモニアス。
 ちなみにかつて世界9000店舗を誇ったビデオレンタルチェーン「ブロックバスター」は本エピソード放映に先立って2010年に破産し、2019年末現在はオレゴン州に一店舗がほそぼそと残るのみ。逆に希少価値があがって「生ける歴史博物館」として観光スポットになっているのだそう。
 

s17ep6「赤毛の牛(Ginger Cow)」

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赤毛の牛。赤毛にどういう意味が込められているかは各自で調べてください。

 資本主義、人種差別、ときたら当然宗教ネタも外せません。クリエイターコンビはなにせモルモン教を題材にしたミュージカル*2トニー賞を獲っていますしね。
 カートマンが赤毛の牛を捏造するイタズラをしたことがなぜか聖書の予言にある「赤毛の牛の出現」の奇跡に繋がり、いがみあっていたユダヤ教キリスト教イスラム教が和解して一つになる方向へと動きます。
 はじめは赤毛の牛の存在を不快に思っていたカイルでしたが、宗教間対立を収めるカギとなるとしるや、一転していたずらであったことを隠し通そうとします。
 それを知ったカートマンは当然カイルを徹底的になぶろうとするわけで……というお話。
 最後のツイストが効いてます。
 ちなみにS17はこの後のep7から始まる四話ひとつながりの『ゲーム・オブ・スローンズ』リスペクトエピソードが白眉なのですが、選定の基準から外れるのでここではメンションにとどめておきます。

s18ep6「フリーミアムは無料じゃない(Freemium Isn't Free)」

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末路がある。

 ソシャゲやってる日本人は全員が視聴すべき神回。
 ちなみに海外ではガチャは法的に規制されているので、まだ日本より良心的なのかもしれません。

s19ep4「食べるログお断り(You're Not Yelping)」

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レビュワー様のお通りだ。

 日本でも評論家気取りの食べログレビュアーは忌み嫌われて揶揄の対象にされていますが、アメリカにも似たようなレビューサイトと文化があります。Yelpです。
 サウスパークの街中がにわか美食評論家となり、レビューの星をネタに飲食店を脅迫して過度なサービスをせびりまくる。彼らの横暴に絶えられなくなった店側は「Yelpレビュワー入店お断り!」の張り紙を出し、一時的に平和を取り戻しますが、本当のカタストロフはそこから始まるのでした……。
 エミー賞も受賞した名エピソードです。ネット文化なんてどこの国でもクソしか生み出さないことがよくわかる。

s20ep2「スカンクハント(Skunk Hunt)」

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おれたちの話その三。

 2016年の大統領選挙の真っ只中に放映されたS20はトランプ当選の混沌のあおりをモロに喰らいました。ヒラリー当選を前提にして作っていたエピソードを一日で差し替える羽目に陥ったのです。


www.excite.co.jp


S20はシーズンを通して大統領選ネタが展開され、ほとんど全話が続きものとなっているので、一話完結が基本の他シーズンと比べて単話ごとの評価がむずかしい。そんななかで一本選ぶとしたら、「SNS自殺」と荒らしを扱ったこのep2でしょう。
SNSで辛いとき、かなしいとき、アカウントを消したくなったときに思い出したいエピソードです。

s21ep5「フンメル人形の秘密(Hummels & Heroin)」

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こういうネタは無条件で好きになってしまう。

S20の後遺症か、S21はインパクトに欠ける話が多い気がします。それでも一話ピックアップするのなら、老人ギャング回のep5で決まりでしょう。
老人介護施設が社会の暗部と繋がっているのは『チャイナタウン』のころから常識です。

教訓

 97年の放映開始から20余年を経た現在でも、『サウスパーク』が時代の最先端を行く最高に先鋭的で実験的な風刺コメディの地位を保ち続けているのか?
 と問われれば、肯定はしづらいのが正直なところです。フォーマットが定まっているがゆえのマンネリズムからは逃れえませんし、特に近年の政治・社会的状況の変化にキャッチアップできていない部分も見られます。

 ですが、少なくともクリエイターたちは最高に先鋭的であろうとする努力を続けてはいる。時代の波を真正面から受け止めようと試みている。
 それこそが彼らの偉大さであり、今なお観られるべきコンテンツの座にある理由なのです。
 そういう教訓を胸に刻んで、君たちも明日から立派なサウスパーク町民として生きてもらいたい。
 そしてこう叫ぼう。
 Make Star Wars Great Again.

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サウスパークを見ればなぜSWがああなってしまったのかも全部わかる。すべての陰謀はつながっているんだよ。


サウスパーク 無修正映画版(字幕版)

サウスパーク 無修正映画版(字幕版)

  • 発売日: 2015/03/15
  • メディア: Prime Video
名作。

*1:キャプテン・マーベル』でも出てきた「ブロックバスター」

*2:“Book of Mormon"

2019年の新作映画ベスト25と、その他について

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 でももう楽しめねえ
 音楽を聴かなくなった
 友だちと会わなくなった
 笑わなくなった
 わがままになった自分を
 責めても仕方ないから
 次の手で攻めるだけ
 俺は自殺しないんだ

  ーー「KURT」SALU

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2018年の新作映画ベスト30+α - 名馬であれば馬のうち
2017年の映画ベスト20選と+αと犬とドラマとアニメと - 名馬であれば馬のうち
2016年に観た新作映画ベスト25とその他 - 名馬であれば馬のうち
2015年に観た新作映画ベスト20とその他 - 名馬であれば馬のうち




ベスト10

1.『マリッジ・ストーリー』(ノア・バームバック、米)

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 今年はストーリーやコンセプトより佇まいを好きになる映画が多かった気がします。で、その佇まいという点において『マリッジ・ストーリー』は完璧だった。
 ノア・バームバック作品は特に『フランシス・ハ』以降は(『デ・パルマ』を含めて)なべて傑作なんですけど、個人的好きな理由は「ダメ人間の話だから」だったんですよね。
 なのでバームバックのダメ人間趣味の窮極として『ミストレス・アメリカ』が作家ベストに挙げられるべきだと考えていたんですけれど、『マリッジ・ストーリー』でそこがちょっと変わったように思われる。
 もちろん、世間的にバームバックが振れ幅の少ない作家としてみなされていることにあんまり反駁する気もなくて、『マリッジ・ストーリー』もデビュー以降のゆるやかでプログレッシブな変化の範疇内で語られることはたしかだし、演出面においても前作『マイヤーウィッツ家の人々〔改訂版〕』とモロに地続きではあります。
 技巧的といえば前から技巧的だったんだけれど、それしてもこっち方面でこんなに巧みだったかな、と思わされるところが本作には色々あって、たとえばカリフォルニアを訪れたアダム・ドライバースカーレット・ヨハンソンの、それ自体はほのぼとしてさえいる何気ない描写が、離婚調停の場面では相当な悪意のもと互いの人格を貶めるための材料として”解釈”されるという、悲劇的あると同時に相当にイカす業前を決めてきたりして、ただでさえ画面的に豊穣な映画がどんどん耕されていく。


 そして、アダム・ドライバー。バームバック作品出演四作目にしてついに主演をつとめたアダム・ドライバー
 2019年は改めてアダム・ドライバーはすごいな、と思い知らされた年でした。
 なにかアダム・ドライバーが映って何かしら苦悩しているだけでその映画が成立してしまうように見えてしまう。そういう領域にまで達してしまう俳優は少ないです。たいてい役者の魅力というのは演出でどうにかなってる場合が多いと思うのですけれど、『マリッジ・ストーリー』ような四方に隙きのない完璧な作品から『スカイウォーカーの夜明け』のようなとっちらかった作品、『ザ・レポート』のような毒にも薬にもならない社会派、サブに回った『ブラック・クランズマン』まで一様に成り立たせているのは俳優本人の力以外に説明がつかない。ヤバいな、と思い始めたのは『パターソン』くらいからですけど、2019年は特にすごかった。アダム・ドライバーはすごいんです。
『マリッジ・ストーリー』における佇まいを象徴する存在なんじゃないかな。

2.『スパイダーマン:スパイダーバース』(ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン監督、米)

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 これもわかりやすく佇まいの映画ですよね。スパイダーグウェンが飛び回るところだけでじんときます。
 注ぎ込まれたリソースがほんとうにやばくて、各バースのスパイダーマンごとでフレーム数が違う、とか、バカなんじゃないんでしょうか。よく製作費が9000万ドルぽっちで済んだな。
 ストーリー的にもよくできていて(フィル・ロードが関わっているので当たり前なんですが)、ちゃんと「スパイダーマン」に求められる物語様式に向き合いつつも、新鮮な作劇に仕上がっている。クモに噛まれてベンおじさんが死んで大いなる力には大いなる責任が展開のオリジンにはもう観客飽き飽きだよってことで今やってるトム・ホランド版ではその手間をすっとばす大正解の判断をしたわけですが、やはりスパイダーマンをやる以上、最終的には「おじさん」的な存在とその喪失の重力に引き寄せられてしまう。そこのあたりスパイダーバースはベンおじさんオリジンと「代わりのおじさん喪失」話を何重にも誠実かつおもしろくこなしたわけで、その点だけとってもなかなか常人にはできないことです。
 あとマーベルのクレジット後演出はあんまり好きじゃない(本編が終わったらさっさと席を立ちたい派)んですが、本作のはすごくよかった。

3.『僕たちのラストステージ』(ジョン・S・ベアード、英米カナダ)

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 すれ違いと同期の映画やホモソーシャルの亀裂と惜別の映画が好みで、本作にはこの二つがたっぷり含まれていました。
 どっからどう見てもイギリスのインディペンデント映画だなというルックで、だからこそサイレント時代のハリウッドと斜陽の人気コンビによく合うのかもしれない。
 

4.『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』(レミ・シャイエ、仏デンマーク

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 三年くらい前に東京の日本橋のTOHOでやっていたアニメアワードフェスティバルのコンペ作品として劇場にかかっていたんだけど、そのときは満員で入れませんでした。で、三年後の2019年になって出町座の小さなスクリーンで観て、ああ、あのときは銃乱射してでも観るべきだったんだな、と後悔したものです。
 丸っこいキャラデザから『ケルツの秘密』や『ソング・オブ・ザ・シー』のスタジオサルーン作品みたいなかわいらしい感じなのかな、とおもってたらまあぜんぜんハードなんですね。そして、「かわいらしい」というより「うつくしい」という印象が強く残ります。
 そのビューティフルっぷりはキャラの動かし方でもあるし、シンプルなストーリーを指してもいるし、背景美術の話でもあるし、静謐さに満ちた演出の話でもある。
 スパイダーバースは本来調和のとれない要素をむりやり調和させたという点で見事だったのですが、本作はむしろ調和のためにすべてを捧げたような逸品であり、私たちはただその世界に身を委ねるだけで心地よくなれるのです。

5.『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ、米イタリア)

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proxia.hateblo.jp

 オチそれでいいの? とか、ティルダ・スウィントンを三役に分けた意図はわかったけど、だから何? とか、そもそも原作ほぼ意味ないじゃん、とかまあ言いたいことはいろいろありますが、佇まいに振っている、という意味ではこれほど傑出している作品は2019年でも屈指だったと思います。
 手足のながい人たちが一心不乱に踊っている*1、魔女たちがなにやらあやしげな談合を催している、壁を光が泳いでいる、人がスローモーションで破裂している、よくわからない高速カットバック、そういう積み重ねられていく不穏さが自分のなかで最高さの結晶として形づくられていきます。

6.『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ、米)

 オチの部分にかんしてはおっさんの駄々っ子ですね、でおしまい*2なんですが、とにかくディカプリオとブラピがいい。
 特にディカプリオ。
 冷静に考えれば、あの一場面の演技を立派にやりとおしたところで、ただでさえ地位の低い当時のドラマのワンエピソードのワンシーンでしかないわけだし、落ち目の俳優人生がどうこうなるわけでもないんですが、だからこそ、それさえこなせないほどどん底にもがいていたディカプリオが感極まるというのがよくわかってしまう。
 ブラピもブラピも出ている場面はぜんぶ良くて、なんならただハリウッドの街を車で流しているだけでも感動的なまでに美しい。

7.『隣の影』(ハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン、アイスランドデンマークポーランド・ドイツ)

 ご近所戦争もの。こういう細か〜〜〜い人間のイヤさを描く話は好きですね。特に主人公がおかした”罪”のイヤさ加減が絶妙です。
 ネタバレになるので詳しくは言えませんが、最初の段階では「まあそれはアウトでしょ」とおもっていたのが、あとで事情を聞くと第三者的には「ん〜〜〜ま〜〜〜〜気色悪いことは悪いけど、ギリギリかな〜〜〜〜」くらいになるのがまたいい。
 対照的に飼い猫のネコの「復習」に走るおばあちゃんのエクストリームさにはただただ呆然とするしかない。あれはビビるでしょう。
 

8.『天気の子』(新海誠、日本)

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 わたしは2000年代にまつわるものすべて、ゼロ年代といった呼称を含むすべてを焼却することに人生を捧げており、近々その功により教皇聖下から叙勲される気配すらある身なので、本来ならゼロ年代の亡霊たちのフラグシップのような新海誠をその年のベストに入れるような愚は犯さないはずでした。
 だが、『天気の子』はそんなわたしさえもゼロ年代の亡霊にすぎなかったのだと証明してしまった……。その敗北の記録として、ここにあげておきます。
 あと東京が滅ぶとすなおに気持ちいい。

9.『ちいさな独裁者』(ロベルト・シュヴェンケ、ドイツ)

 ナチスコメディに外れなしということで『ジョジョ・ラビット』には今から大いに期待しているわけですが、一方で『ちいさな独裁者』はほぼノーマークでした。だって『ダイバージェント』の監督ですよ? シュヴェンケ監督分は未見ですけれども、だってあなた、『ダイバージェント』の監督っていったらニール・バーガーと同格ってことですよ? いや、『幻影師アイゼンハイム』はいうほど嫌いではありませんが……。
 しかし観てみたらやはりいいわけですね。戦争もののコメディというのは本来悲劇的なものとして描かれる戦争や死を笑いの対象としてのアングルから撮るわけで、ある種の思い切りのよさが必要とされるわけですが、『ちいさな独裁者』はそのあたりにためらいがない。まったくない。特に収容所のシークエンスのクライマックスの強引で唐突なあっけなさを観たときはこれこれこういうのだよ、とうれしくなりました。
 収容所から後はやや蛇足感が残りますが、それでも今年随一のコメディであることは間違いがない。
 

10.『宮本から君へ』(真利子哲也、日本)

 やはり暴力……暴力はすべてを解決する……。
 2019年の映画において90年代の新井英樹のマンガを原作に立てるにあたってはさまざまな障害を抱えるわけですが、『宮本から君へ』はそこのあたりをうまくいなしつつ、真利子哲也の暴力性と新井英樹の熱量のいいとこどりをしたアホみたいな快作にしあがりました。

11〜25

11.『ゴッズ・オウン・カントリー』(フランシス・リー、英)

 105分間ずっとケンカックスしてる。扉づかいがいい映画は名作の法則。

12.『愛がなんだ』(今泉力哉、日本)

 視線と”空気”と居心地の映画で、それだけともいえるけれども、逆に映画にそれ以外何があるっていうんです?

13.『よこがお』(深田晃司、日仏)

 時系列のいじり方がとにかく技巧的。このわざとらしいくらいの人工性が深田晃司の妙味だと思います。

14.『海獣の子ども』(渡辺歩、日本)

 五十嵐大介に対する解釈が完全に一致してしまった。

15.『ジョン・ウィック:パラベラム』(チャド・スタエルスキ、米)

 ジョン・ウィックさんモテモテ映画。
 みなさんはニュヨークの路上できゃりーぱみゅぱみゅ流しながらスシを握っているハゲの凄腕暗殺者は好きですか? わたしは大好きです。
 あとついに人間がイヌを殺す映画じゃなくて、イヌが人間に殺す映画になった。

16.『君と、波に乗れたら』(湯浅政明、日本)

 あらすじはいかにもプログラムピクチャー的なのに、「好きにやった」と言っていた『ルーのうた』よりよほど好きにやっているように見える。ディティールがやはりいいんですよね。

17.『ボーダー 二つの世界』(アリ・アッバシ、スウェーデン

 二つの世界にアイデンティティを引き裂かれそうになる主人公に現実世界のさまざまなイシューが表象されつつも、やはりダークなファンタジーとして一級というバランス。
 原作になったヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの短篇集もハヤカワから出ているのでオススメ。おばあちゃん版『ファイトクラブ』みたいな話もあるよ。

18『ルディ・レイ・ムーア』(クレイグ・ブリュワー、米)

 ひさしぶりのクレイグ・ブリュワーエディ・マーフィ主演? とふしぎがりつつも見たら、ハッピーな『エド・ウッド』であり『ディザスター・アーティスト』で、『エド・ウッド』の系譜としての『ディザスター・アーティスト』に失望していた自分的にはドンピシャでした。

19.『シシリアン・ゴースト・ストーリー』(ファビオ・グラッサドニア&アントニオ・ピアッツァ、イタリア)

 エモ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い。

20.『エイス・グレード』(ボー・バーナム、米)

 「なんとなくその場にはいはするけれど、グループの輪のギリギリ境界線に立っているぐらいのきまずさ」をすくいきった稀有な青春映画。

21.『劇場版バーニング』(イ・チャンドン、韓)

 イ・チャンドンの映画はいい。今回もいい具合の不穏さ。

22.『ドント・ウォーリー』(ガス・ヴァン・サント、米)

 『ジョーカー』や『ゴールデンリバー』もけして悪い映画ではないというかむしろ好きなのですが、今年のホアキン・フェニックスではこっちかな。[ こういうゆるやかなウィズネスによわい。

23.『アイリッシュマン』(マーティン・スコセッシ、米)

 長いけど、やっぱりいいよ。長いんだけどね。”ワンス・アポン・ア・タイム・イン〜”感は『〜イン・ハリウッド』よりもあった。『〜イン・アメリカ』のほうに近いという意味で、ですが。

24.『ドクター・スリープ』(マイク・フラナガン、米)

 キングもキューブリックもリスペクトしてますけど、でも結局撮るのは”俺”ですよ? とでもいわんばかりの不敵さを見せるマイク・フラナガン。これこそおれたちのマイク・フラナガン
 

25.『ひとよ』(白石和彌、日)

 人間という名のブラックボックス&おまえひとりで納得されてもな〜〜〜〜系映画。


犬映画オブジイヤー

*本年度の犬映画オブジイヤーは、わたしが『ドッグマン』を見逃すという前代未聞の不祥事を起こしたため、中止とさせていただきます。

 

ドキュメンタリー映画10選

『ビハインド・ザ・カーブ:地球平面説』
アメリカン・ファクトリー』
『FYRE:夢に終わった最高のパーティ』
『コカインを探せ!』
『マックイーン:モードの反逆児』
『本当の僕を教えて』
『《外套》をつくる』
『あるスパイの転落死』
『グレートハック SNS史上最大のスキャンダル』
『メディアが沈黙する日』

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観たアニメ映画全ランク

1.『スパイダーマン:スパイダーバース』
2.『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』
3.『天気の子』
4.『海獣の子供
5.『きみと、波にのれたら』
6.『トイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督)
7.『空の青さを知る人よ』(長井龍雪監督)
8.『プロメア』(今石洋之監督)
9.『失くした身体』(ジェレミー・クラバン監督)
10.『ひつじのショーン UFOフィーバー!』(リチャード・フェラン&ウィル・ベッカー監督)
11.『羅小黒戦記』(MTJJ監督)
12.『レゴ(R)ムービー2』(マイク・ミッチェル監督)
13.『アヴリルの奇妙な世界』(クリスチャン・デスマール&フランク・エキンジ監督)
14.『劇場版ガンダム Gのレコンギスタ I 行け!コア・ファイター』(富野由悠季監督)
15.『ヒックとドラゴン 聖地への冒険』(ディーン・デュボア監督)
16.『アナと雪の女王2』(クリス・バックジェニファー・リー監督)
17.『名探偵コナン 紺青の拳』(永岡智佳監督)
18.『ディリリとパリの時間旅行』(ミッシェル・オスロ監督)
19.『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』(まんきゅう監督)
20.『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(山崎貴&八木竜一&花房真監督)
21.『ロイヤルコーギー レックスの大冒険』(ヴィンセント・ケステルート&ベン・スタッセン監督)
22.『HELLO WORLD』(伊藤智彦監督)

*1:これ系ではギャスパー・ノエの『クライマックス』もよかった

*2:タランティーノの個人的な駄々っ子に他人が文化論的観点から付き合う必要はまったくないと思う

2019年に5巻以内で完結した面白マンガ10選+α

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 火は、地獄で生まれた言葉の最終目的地だった。
  ーー『日々の子どもたち』、エドゥアルド・ガレアーノ

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 早期に終わる、あるいは打ち切られる連載マンガはつまらない。
 そのような呪わしい言説が、いまだネットでまかりとおっている状況に唖然とします。
 ママの愛情が十週目で打ち切られたせいでそういうトンチンカンなことを抜かすのでしょうか?
 一生こち亀ガラスの仮面だけを読んで生きるつもりなのでしょうか? それも人生といえば人生でしょう。

 厳然たる事実として、長く続いていようがいまいがおもしろいマンガはおもしろい。
 ことマンガに関しては天網は恢恢、疎にして漏らしまくるものなのです。

 というわけでまいりましょう。
「2019年、五巻以内で完結した面白マンガ十選+α」。 


選定にあたってのレギュレーション

・単巻、短篇集、上(中)下巻などは外す。


ベスト10選

1.魚豊『ひゃくえむ。』(全5巻、マガジンポケットコミックス)

ひゃくえむ。(1) (KCデラックス)

ひゃくえむ。(1) (KCデラックス)

  • 作者:魚豊
  • 出版社/メーカー:講談社
  • 発売日: 2019/06/07
  • メディア:コミック

「たいていの問題は100mだけ誰よりも早ければ全部解決する」。
 才能にまつわるフィクションはお好きですか? だったら、あなたもこの本と無縁じゃない。
 100走。よーいどんで100mの距離を疾走し、誰よりも走り抜ければ勝つ、原初的な競技。そのシンプルさゆえに力量と才能がどこまでも残酷に明瞭に示されてしまう。
 才能フィクションに頻出するテーマのひとつとして、「自分では絶対勝てない天才が現れたらどうすればいいのか?」というのがあります。勝つことだけがすべての世界で、勝てなくなってしまったらどうするのか。『ひゃくえむ。』は五巻に渡ってその葛藤に対してどこまでも真摯に、濃密に向き合います。
 作品の特徴としては、言葉が強いというのがあげられます。言葉が強い才能フィクションはいい才能フィクションです。『ブルーピリオド』が証明したように。
 
 

2.模造クリスタル『スペクトラルウィザード』(全2巻、イースト・プレス

スペクトラルウィザード

スペクトラルウィザード


 模造クリスタルをお読みでない? 傷ついたことがないのなら、それでいいのだけれど(by 円城塔)。
 魔術の奥義を究め、世界を滅ぼしかねない力すら有していた魔術師集団「魔術師ギルド」。かれらの存在を危険視した国際社会は魔術師討伐組織である「騎士団」を組織し、魔術師ギルドをテロ組織として壊滅させる。
 討伐後、ギルドに所属していた魔術師たちは散り散りとなり、そのひとりであるスペクトラルウィザードも一般世界の片隅で静かに暮らしていたが……というファンタジー
 前にも言いましたが、模造クリスタルの作品は世界からあぶれて疎外された人々の物語です。そういう意味ではポップな画風に反してガロとかアックスの系譜ともいえるかもしれせん。*1
 このあまりに救われない世界で、どうすれば生きることをゆるしてもらえるのか。インターネットが忘れてしまった誠実なペシミズムがここにだけ保存されています。
 ちなみに初出はほぼ同人誌。

3.泉仁優一『ヤオチノ乱』(全3巻、コミックDAYSコミックス)

ヤオチノ乱(1) (コミックDAYSコミックス)

ヤオチノ乱(1) (コミックDAYSコミックス)

 山田風太郎が死に、白土三平が死に、横山光輝が死に、NARUTOが終わった……*2
 日本から忍者は絶え、忍者マンガも絶滅してしまったのでしょうか?
 否である、と『ヤオチノ乱』は断言します。
 平成もおわかりかけた時期にファンタジー寄りではなく、リアリズム忍者活劇をやるというアナクロニズムを通り越した豪胆さ。そのクソ度胸を成り立たせるエスピオナージュ描写の繊細さ。なにより痺れるほどにハードボイルドな世界観。
 読み終わると誰もがこういいたくなるはずです。「日本にはまだ……忍者がいるのだ!」と。
 あとは以下の記事にて候。
 
proxia.hateblo.jp

4.TAGRO『別式』(全5巻、モーニングコミックス)

別式(1) (モーニングコミックス)

別式(1) (モーニングコミックス)


 そして時代劇マンガも死んではいなかった。
 江戸初期を舞台に女性剣客(別式女)たちの恋と友情と仇討と殺人を描く死ぬほどおもしろいちゃんばらマンガ。やや理屈っぽい剣戟や、ファンタジーとリアルが奇妙なバランスで混ざった世界観は同じ講談社系の『無限の住人』を想起したりもします。
 なにより、シスターフッドの崩壊を60年代松竹時代劇ばりの容赦なさで描いたところがフレッシュ。
 

5.原作・田中芳樹、作画・フクダイクミ『七都市物語』(全5巻、ヤングマガジンコミックス)

 陸がめちゃくちゃズレて、宇宙に浮かんでいるすごい兵器のせいで飛行機が飛べなくなった世界で、顔と頭がすごくよく、性格が善良だったり狷介だったりする男たちたちが戦争するファンタジー戦記。
 とにかく一曲二癖ある男たちのカラミがいい。といってしまうと田中芳樹作品のテンプレ感想みたいですが、とにかく一曲二癖ある男たちのカラミがいいんですね。
 近年百花繚乱状態の田中芳樹作品のコミカライズとしては、フジリュー版『銀河英雄伝説』や荒川版『アルスラーン戦記』とならぶクオリティではないでしょうか。
 あまりにおもしろかったので原作も買って続きを読もうとしたら、漫画版と同じとこで終わってやんの。
 

6.百名哲『モキュメンタリーズ』(全2巻、ハルタコミックス)

モキュメンタリーズ 1巻 (HARTA COMIX)

モキュメンタリーズ 1巻 (HARTA COMIX)

 作者の実体験をおりまぜつつ、ルポ漫画にような体裁でフィクションをやる、という企みらしい*3のですが、正直そこらへんが手法的に成功してるかは微妙なライン。しかし、エピソードごとの濃さで圧倒的に勝っています。
 マイナーなAV女優のビデオをネットオークションで買い占める人物の怪、アイドルのライブのために羽田から浜松までを徒歩で踏破しようと試みるオーストラリア人、バングラデシュでの「自分探し」……どれもフィクションとしてのウェルメイドさとドキュメンタリーとしての出来事のとんでもなさとのバランスが絶妙で、非常に楽しく読めます。

7.曽田正人『CHANGE! 和歌のお嬢様、ラップはじめました』(全5巻月刊少年マガジンコミックス)

(追記:すいません、よく考えたら全6巻でした。今更入れ替えも億劫なのでそのままにしておきます)

フリースタイルダンジョン』以降、マンガでもなんとかフリースタイルラップを紙上でうまくやれないものかという試行錯誤*4がなされ、その影でいくつもの実験作がつぶれていきました。そうした屍の山の上に完成したラップまんがの結晶が『CHANGE!』だったはずでしたが……。
 フリースタイルの「いがみ合っているようにみえて、実は水面下では場を盛り上げるためにすごいリスペクトしあっている」という空気を説明ゼリフではなく、ちゃんとバトルで書けているのはすごいしアツい。
 フリースタイルラップまんがでは歴代随一だとおもいます。

8.SAXYUN『超常探偵x』(全2巻、電撃コミックスNEXT)

超常探偵X 1 (電撃コミックスNEXT)

超常探偵X 1 (電撃コミックスNEXT)

 不条理探偵部活コメディ。2019年において最も真摯にミステリを考えていたまんがは『じけんじゃけん!』とコレなのではなかったでしょうか。はいドドン 事件ですよ 
 とにかくアイディアが豊富で、テンポとコマ割りが天才的。
 

9.高野雀『世界は寒い』(全2巻、FEEL COMICS swing)

世界は寒い(1) (FEEL COMICS swing)

世界は寒い(1) (FEEL COMICS swing)

 拳銃を拾ってしまった女子高生たちの群像劇。せっかく拳銃拾ったんだから誰か殺そうぜっていう流れになり、それぞれに殺したい対象はいないかと考え出すんだけれど、恨みとか殺意とかってそんなに静的でもくっきりしたものでないよね、というところで錯綜していく。
 銃という単純明快な凶器の登場が逆に人間心理や関係の複雑さをあぶりだしていくプロセスがおもしろい。
 言語に対してセンシティブなまんがは良い漫画です。

10.山本ルンルン『サーカスの娘オルガ』(全3巻、ハルタコミックス)

サーカスの娘 オルガ 1巻 (ハルタコミックス)

サーカスの娘 オルガ 1巻 (ハルタコミックス)

 サーカスのスター、オルガの恋と人生。
 記号化されたデザインでありつつも、ロシア革命前のロシアの風俗やサーカスまわりの描写がやたら丁寧。山本ルンルン入門に是非。

必読オーバーエイジ

売野機子ルポルタージュ』『ルポルタージュ -追悼記事-』(全6巻、バーズコミックス→モーニングコミックス)

ルポルタージュ (1) (バーズコミックス)

ルポルタージュ (1) (バーズコミックス)

・2030年代の日本で、恋愛をすっとばしてビジネスライクなパートナーとして結婚することを志向したコミューンで起きた大量殺戮テロ事件の犠牲者たちについて、ルポ記事を書くことになった記者コンビのお話。人間が描かれている。
 めっちゃおもしろいです。

コージィ城倉『チェイサー』(全6巻、ビッグコミックス

チェイサー(1) (ビッグコミックス)

チェイサー(1) (ビッグコミックス)

・コージィ版『ブラックジャック創作秘話』。手塚治虫をライバル視すると同時に影で憧れている同年代作家を主人公に、「神様」手塚治虫の業績を「人間」の視点から描く。コージィ先生なりの手塚論を織り交ぜつつ、当時の少年漫画の偽史が紡がれていくさまは非常にエキサイティング。
 めっちゃおもしろいです。

原作・岩明均、作画・室井大資『レイリ』(全6巻、少年チャンピオン・コミックス エクストラ)

 戦国時代末期、滅亡寸前の武田家嫡男の影武者として死にたがりの少女が取り立てられる。岩明均の歴史ものが面白くないわけがなく、それを室井大資の絵でやるものだからいつもと空気感と言うか迫力の質が違います。
 めっちゃおもしろいです。

終了? 継続?

石川香織『ロッキンユー!!!』(全4巻?、ジャンプコミックス

ロッキンユー!!! 3 (ジャンプコミックス)

ロッキンユー!!! 3 (ジャンプコミックス)

・高校生がロックバンドやるまんがで青春のエモ(エモはやらないが)がすごい。連載が終わった後に集英社から版権戻して自己出版に切り替える(現在 kindleで『ロッキンニュー!!!』として+4巻まで出ている)という形で継続中。バイタリティが佐藤亜紀並である。

佐藤将『本田鹿の子の本棚』(全4巻?、リイドカフェコミックス)

・娘の本棚にある小説(だいたいスラップスティックで変な話)を父親が盗み読んだのをマンガ上で再現するギャグまんが。第4巻はネットで話題になった『キン肉マン』オマージュ回「ゆで理論殺人事件」や激アツ耳なし芳一リベンジバトルアクション「続・耳なし芳一&続・平家物語」などが収録されていたのけれど、なぜか「続刊未定篇」と不吉なサブタイトルが。
 この単行本が売れないと五巻が出ませんよ、ということらしい。いきなり四巻から読んでもおもしろいというか、おそらくなんの支障もないので、みんな『続刊未定篇』から買いましょう。




他言及したいところ。

仲川麻子『飼育少女』(全3巻、モーニングコミックス)
・高校の生物部でヒドラやヒトデでイソギンチャクを飼育する生物生態解説系ギャグまんが。生物に人権がない。

まつだこうた『骸積みのボルテ』(全3巻、バーズコミックス)
・まつだこうた版『シュトヘル』。シュトヘル並に続いていればこの世界観を十全にあじわいつくせたのに……とおもうと惜しい。個人的には大好き。

五十嵐大介『ディザインズ』(全5巻、アフタヌーンコミックス)
・存外にバトル描写がうまい。

吉本浩二ルーザーズ~日本初の週刊青年漫画誌の誕生~ 』(全3巻、アクションコミックス)
・日本初の週刊青年漫画誌『漫画アクション』の誕生を名物編集者・清水文人を中心に描く。『ブラックジャック創作秘話』などのルポ漫画のスペシャリスト吉本浩二がてがけているので間違いない。『アクション』を創刊して軌道に乗せたあとはかなり早送りなのがもったいなかった。

原作・谷崎潤一郎、作・笹倉綾人、Mint『ホーキーベカコン』(全3巻、KADOKAWA
谷崎潤一郎の傑作『春琴抄』のコミカライズ。絵に力がある。終盤に若干オリジナルなツイストが入ります。

佐藤宏海『いそあそび』(全3巻、アフタヌーンコミックス)
・零落したお嬢様と磯に詳しい中学生男子が磯で自給自足を目指す。女の子が釣りしたり磯や潟でがんばるまんが増えましたよね。

宮下裕樹『決闘裁判』(全4巻、ヤングマガジンコミックス)
・17世紀の神聖ローマ帝国を舞台に実在した裁判システム「決闘裁判」を裁定する巡回裁判官と姉を殺された少年と獣人っぽいけど獣人じゃない男のロードストーリー。

うかんむり『羊飼いのケモノ事情』(全4巻、RYUCOMICS)
・よくお天道様の下で堂々と出せたなと奇跡を感じるケモノラブコメ

インカ帝国『ラッパーに噛まれたらラッパーになる漫画』(全3巻、LINEコミックス)
・ゾンビをラッパーに置き換えたゾンビもの。出落ちにならないだけの膂力は有していた。

天野シロ『アラサークエスト』(全3巻、ヤングキングコミックス)
・ウルトラひさびさの天野シロオリジナルまんが。ギャグのきれあじが往年の頃からいささかも減じていない。

河部真道『killer ape』(全5巻、モーニングコミックス)
・歴史上の有名な戦場を再現した仮想空間に飛ばされて一兵卒として戦うSF。『バンデット』といい、河部先生は良いものを書くのに……。


きりがないのでこのへんでやめときます。『乙女文藝ハッカソン』とか『マーダーボール』とか『メメシス』とか『ロマンスの騎士』とかももったいなかったなー、とおもいつつ。

*1:個人的には2000年代初頭のインターネットのメランコリックさなのだけれど、話すと長くなるので割愛。

*2:BORUTOは続いてますが

*3:モキュメンタリーを名乗ってはいるものの、作者あとがきでは「私小説的アプローチを試みており、世間的なモキュメンタリーとも違うテイスト」と説明されている

*4:たとえば、ラップ描写の表現技法。ラップ場面で韻を踏んでいる箇所を強調するためにある作品では傍点をふっていたのが、『CHANGE!』ではフォントとそのサイズで強調されるようになり、よりライブ感が増した。

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈9〉:『トリック』エマヌエル・ベルクマン

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エマヌエル・ベルクマン『トリック』、Der Trick、 浅井晶子・訳、ドイツ語



魔術っていうのは、素晴らしく美しい嘘なんだよ
  p.141


トリック (新潮クレスト・ブックス)

トリック (新潮クレスト・ブックス)


 ロサンゼルスに住むユダヤ人の少年マックスは両親の離婚危機に動揺していた。彼は父母を仲直りさせようと、父親の古いレコードに吹き込まれた魔術師「大ザバティーニ」の愛の魔法を頼る。が、レコードが壊れていて肝心な愛の魔法が聞き取れない。そこで彼は大ザバティーニ本人を探そうと決心する。
 一方、所変わって二十世紀初頭のプラハオーストリア=ハンガリー帝国に徴兵されたとあるラビが大戦から帰ってくると、妻から不意の妊娠を聞かされる。不貞を疑う夫に対し、「父親は神様」と強弁する妻。夫は”神の意志”を受け入れ、やがてモシェという男の子が生まれる……。
 生まれた国も時代も異なる二人の少年の運命が、数奇な変遷を経て交錯する、というお話。

 あらすじのとおり、本作は二つの筋が交互に語られていく。片方はロサンゼルスのマックス少年が「大ザバティーニ」を探すパート。もう片方はラビの息子であるモシェ少年が、二十世紀前半のヨーロッパをマジシャンとして生き抜くパート。
 当然、後者ではナチスドイツが大いにからんでくる。予言を得意とするペルシア人マジシャンに扮したモシェが、手八丁口八丁でオカルト好きのナチス高官たちの信頼を得ていくさまはちょっとした詐欺師ものの趣を呈している。
処女懐胎」という母親のウソから産まれたモシェは言ってみればウソのキリストだ。出自や名前を隠すのはマジシャンとしてのビジネスのためでもあるし、苛烈なユダヤ人迫害から逃れる手段でもある。しかし彼の仮面もナチスの暴力の前にやがて剥ぎ取られてしまう。丸裸でモシェは受難と相対させられる。その虚実の裂け目にこそ、奇跡の種が宿る。
 一方、ロサンゼルスのマックス少年は彼の民族の歴史的悲劇から遠く隔たった場所にいる。彼を襲っているのは政府による民族浄化ではなく、大好きな両親の仲違いだ。
 純粋なマックス少年は魔法を信じ、魔法に頼ろうとする。だが、彼の両親にとって夫婦間の愛情の喪失と離婚問題はどこまでも現実だ。そのギャップをどう埋めていくのか。寓話のようなモシェパートとは対照的に、マックス少年の奮闘は都会的なユーモアでもって描写されていく。
 正直な話、本作は小説的にはあまり上手くいっていないところが多い。
 交互に語られる二つのパートが直接的に交わるような場面はほとんどないし、二つの物語の結節点となる「奇跡」もあまり周到に準備されたものとはいえない。『トリック』という題名からクリストファー・プリーストばりの技巧的なストーリーテリングを期待する向きもあろうが、本作はむしろ素朴で素直なジュブナイルとして読まれるのが正解だろう。
 それもどちらかといえば、マックス少年ではなく、モシェ少年を救う話として。
 モシェ少年の半生は孤独に覆われている。だがそれは自ら望んだ孤独ではなく、政治と歴史によって強いられたものだ。暴力的に記憶やアイデンティティを引き千切られたユダヤ人が自分のつながりを回復するーーキュートな見た目でありながら、壮大な射程を見通した物語だ。
(1271文字)


第92回アカデミー賞全部門の受賞予想

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短編アニメーション部門ノミネート作「kitbull」より

 ハリウッドスターはみんなうそつきだ。
 ハリウッド映画はすべてたわごとだ。
 リアルなのはオスカーの予想だけ。
 ノミネーション発表から各組合賞の結果が出るまでの間の今この瞬間に行われる予想だけがバチバチの本物なんだよ。


   ーーボノ(U2*1

全部門予想

作品: 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』


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・安心と信頼のトロント映画祭勝者ジョジョ、視聴者のウケ狙いナンバーワンジョーカー 、格で勝負するならのワンハリとアイリッシュマン、品ならマリッジ、後出しじゃんけんで狙い通りGGをさらった1917、おっさんが好きそうなFvF、唯一社会的に訴求力がありそうな若草、とどの作品も「武器」を持っているが決定的なところでいまひとつ足りない。
・となると前哨戦での実績と社会現象化とのダブルパンチでパラサイトがノシてきそう……けれどネックはやはり外国語映画であること。
・ネトフリ二作もどちらかにプロモーションを集中させないとむずそう。
・ジョーカーはやっぱり映画としての評判がね……アメコミ映画だし。
・ワンハリは俳優ものだし、ノスタルジーだし、案外強いのでは。
・最初は1917と思ってたけど、ワンハリの気分になってきた。
・ワンハリです。監督賞レースでやや弱めなのが不安材料。

監督: ポン・ジュノ(『パラサイト』)

・フィリップス以外だったら誰に行ってもおかしくない。監督組合賞にもノミネートされていないのでまずフィリップスだけはない。
・もういいでしょ感が強いスコセッシだけれど、老人方から票が集まる可能性はある。でもさすがに『ディパーテッド』でさんざん「やっと取れてよかったね」やったしな……
タランティーノは個人的に全然アリな選択肢だと思うのだけれど、これまでの賞レース結果を見ると賭けの対象としてはスコセッシより弱い。混戦の年は作品賞と監督賞でバラける傾向もあるし。
・ポンジュノは批評家賞ばっかもらってるけど、アカデミー予想において批評家賞ほど信用ならないものはないしな……でも国籍を抜くと強いのは確か。
・メンデスは相対的に固め(全編ワンカットものはみんな好きだし)だと思うのだけれど、面白味がないんですよね。
・ノミネーション全体が too white であるという批判を浴びまくっているので、エクスキューズつけるならここというのもある。
・ほら、ちょっと前までメキシコの監督たちが続けて監督賞もらってたよね的な。そこでメッセージ出すんですよね、アカデミーは。
ポン・ジュノ、メンデス、タランティーノの順かな。

主演女優: レネー・ゼルヴィガー(『ジュディ』)

・前哨戦で食らいついていたルピタ・ニョンゴ(『アス』)が落ちたため、ゼルヴィガーかスカーレット・ヨハンソンの二択。
・近年の受賞者はほぼGG賞受賞者とかぶってるため、ドラマ部門でGGを獲ったゼルヴィガー優位と見た(ミュージカル・コメディ部門を受賞したオークワフィーナは既に落選)

主演男優: ホアキン・フェニックス(『ジョーカー』)

・事実上、ホアキンとカイロ・レンの一騎討ち。
・ここ十年はGG賞のドラマ部門の男優賞とオスカーの主演男優賞とで一致している。
・主演女優賞もだけど、どこまでネトフリが『マリッジ・ストーリー』を本気でプロモしてくれるのか、やや疑問。

助演男優: ブラッド・ピット(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』)

・なんの面白味もない顔ぶれだけれど、ここは固いと思う。あとはブラピがどれだけ嫌われていないかの勝負。
・対抗はジョー・ペシ。その次がトム・ハンクス
助演女優賞よりはオッズが変動しやすいか。

助演女優: ローラ・ダーン(『マリッジ・ストーリー』)

・やはりここも固い。GG獲っている人が強い。
・最大の対抗馬だったジェニファー・ロペスがまさかの候補落ちだったため、フローレンス・ピューがダーンのライバル筆頭に。人気投票となるとペーペーのピューは不利か。まだキャシー・ベイツのが勝てそう。

長編アニメ: 『トイ・ストーリー4』

・混戦。どの候補作も得票的にポジティブな要素よりネガティブな要素のほうが強い。
・GG取ったとはいえ、伝統的にストップモーションが弱いオスカーで『ミッシング・リンク』がどこまで行けるか。ライカにそろそろ取らせてあげたい気持ちはありそう。
・なんだかんだでトイストーリーは強いだろうと思ってたけど、ピクサーの割にここまで圧倒的という感はない。3で獲ったとはいえ、続編ものに厳しいオスカーの傾向も不安材料。
・ヒクドラも"格"かあ? という疑問が。三作連続ノミネートに有終の美を飾らせたいという業界の温情が働く見込みはないでもない。
・『クラウス』? なんかの冗談だろ?
・前哨戦だけ見ると『失くした体』も悪くないチョイスなのだが、オスカーは基本的に外国語アニメ、というか大作以外に良い顔しないしな……。
・というわけで、最後には知名度が勝つと見込んでトイ・ストーリー4。
・こんだけ盛り上がらないメンツに一作も割り込めなかった日本アニメ映画のロビイングの脆弱さは深刻。
新海誠がアカデミーでここまで弱いとは。嫌われているのか?

撮影賞: ロジャー・ディーキンス(『1917』)

・撮影監督協会賞までは予断をゆるさないが、現時点ではディーキンスでまず間違い無い。長回し=勝ち。
・ワンハリの撮影とかふつうに好きなんだけどな。

衣装デザイン:アリアンヌ・フィリップス(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』)

・本来なら『ルディ・レイ・ムーア』が獲るべき部門だとおもうが……
・若草も強そうに見えるんだけど、組合賞にノミネートされているのがワンハリとジョジョだけというのが気になる。
ジョジョはスカジョのお召替え勝負、ワンハリは……でも印象に残るってブラピのすっぽんぽんなんだよね。

長編ドキュメンタリー: 『娘は戦場で生まれた』

・アポロ11候補落ちが意外だった。
・SXSWの娘戦、サンダンスの honeyland、トロントのthe cave 、ネトフリのアメファクと消えゆく民主主義、と各自相応の看板をひっさげてきていてアツい。
・シリアものが二本。
アメリカ人に直結する題材を扱ってるのは『アメリカン・ファクトリー』くらいか。大統領選を睨んでいるのも強み。
・シリアものの票がバラけるかな、と思ったけれど、やはり娘戦の前評判の高さには抗いがたい。

短編ドキュメンタリー:LEARNING TO SKATEBOARD IN A WARZONE (IF YOU'RE A GIRL)

・タイトルがいいなと思いました。

編集:マイケル・マクスカー&アンドリュー・バックランド(『フォード vs フェラーリ』)

・『アイリッシュマン』とせめぎ合っている。わかりやすく評価されそうなのは『アイリッシュマン』のほうな気もするけど。
・まともに勝負すれば『パラサイト』が勝つと思うんですが、ここはアメリカです。

外国語映画: 『パラサイト』

・むしろこれ以外に何があるってくらい固い。今年一番の鉄板部門。作品賞と同時ノミネートされて外国語映画賞逃した作品ってたぶんなかったとおもうし。
・Portrait of a Lady on Fire や pain and glory が候補落ちしたのはちょっと驚いた。ポーランド勢の強さがあらためて印象づけられた格好。

メイクアップ&ヘアスタイリング:ジェレミー・ウッドヘッド(『ジュディ』)

・誰から見てもすさまじい仕事か、さもなくば実在著名人の再現度によって評価されやすい傾向にある。
・ので、ジュディ・ガーランドのジュディか。

作曲: ヒドゥナ・グドゥナトッティル(『ジョーカー』)

・前哨戦の結果があまり当てにできないカテゴリだけれど、作詞家作曲家協会賞を獲ったこのヨハン・ヨハンソンの秘蔵っ子はイケるのではないか。
・というか、他が「おまえら何度も貰ったろ」すぎる。

歌曲: (i'm gonna) love me again(『ロケットマン』)

・アナ雪のキャッチーさよりは老人のノスタルジーが勝つかな、と思って。

美術: バーバラ・リン&ナンシー・ヘイ(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』)

・前哨戦実績からいうと圧倒的にワンアポ。

短編アニメ: hair love

・「Dcera / The Daughter」(現状予告編のみ)はストップモーションなのに実写のようなアップの多用とスピード感のある演出がかなり異色。
・「Hair Love」(ソニー・ピクチャーズの公式で全編視聴可能)は黒人家庭のお父さんが娘のくせ毛をセットするために奮闘するお話。アートによりがちなカテゴリにあって、ストレートに感動的でわかりやすい。
・「Kitbull」(ピクサー公式から全編視聴可能)は、野良の仔猫が人間に飼われているピットブルと交流を温める、アニマル感動物語。hair love より普遍性のあるわかりやすさを持つ分、逆にドメスティックなオスカーでは不利か。3Dアニメの御本尊ピクサーで作られた2Dアニメという異色作。
・「Memorable」(予告編のみ)は紙粘土で刻まれた皺が印象的なアヌシーグランプリ作品。予告編の印象ではフランス人だな〜〜〜という感じ。
・「SISTER」(作者の公式から全編視聴可能)は、中国人の少年に妹ができる物語。中国語。フェルトが織りなすとぼけた表情とマジックリアリズムな表現が魅力。ただテーマ的にはよくあるのでそこまで強くないか。
ストップモーションが過半を占めているけれど、それぞれ選んでいる素材が異なるのがおもしろい。
・賞的には、アメリカ独特の題材を扱ってお話的にも感動的な Hair Love が強いのでは。なにせバスケ選手の詩のアニメ化が獲るような賞だし。
・個人的にはDceraが観たい。

短編実写:A Ssiter

・トレイラーをざっと見たかんじ、ワンシチュエーションものの A Sister がわかりやすいかな、と思った。
・Nefta Football Club, The Neigbor’s Window, Brotherhood の三作は公式でネットにアップされている。時間があったら観ます。

録音:マーク・テイラー&スチュワート・ウィルソン(『1917』)

・わからん。音楽ものと戦争ものが強い分野なので、1917有利か。あるいはオーガニックさでFFかな。宇宙ものとの相性も悪くない分野だし、アド・アストラに獲ってほしいけれど。

音響編集:オリヴァー・ターニー&レイチェル・テイト(『1917』)

・同上。録音よりはSF的な作品が若干評価されやすいので、スター・ウォーズもありかなと思う。
・録音と音響で合わせておけば、どっちかは当たるだろうという算段。

視覚効果: ロバート・レガトー他(『ライオンキング』)

インパクトという点ではエンドゲームやスターウォーズ凌いでたでしょう。

脚本: クエンティン・タランティーノ(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』)

・ワンハリとマリッジとパラサイトで割れている模様。個人的にはせめてここくらいはマリッジに獲ってもらいたいけれど、レース的にはワンハリが頭ひとつ抜けてる。
・パラサイトはわかりやすく脚本家好きする映画でもあるので、ふつうにあり得るライン。作品賞よりは言語の壁は低いのでは。

脚色: スティーヴン・ジリアン(『アイリッシュマン』)

・ここも結構割れてる。
・「次は頑張ってください(私たちはちゃんと見てますよ)賞」的な脚本・脚色賞の性格にハマるのはグレタ・ガーヴィグなんだけど。ジェンダー公平の観点(オスカーにとっての言い訳)からしても。
・人情でいえば、ここでジョジョラビットにあげときたいという人も多そう。
アイリッシュマンはチョイスとしては面白みに欠けているけれど、たぶんこの中では一番技巧的なので、脚本家好きはするかな、といった点で推します。


複数部門受賞作品予想まとめ

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(作品賞、助演男優賞、衣装デザイン賞、美術賞脚本賞):5部門
『1917』(撮影賞、録音賞、音響編集賞):3部門
『パラサイト』(監督賞、外国語映画賞):2部門
『ジュディ』(主演女優賞、メイク&ヘア):2部門
『ジョーカー』(主演男優賞、作曲賞):2部門

・やはり俳優賞がバラけてしまうと、なにか一つの作品がスウィープする事態は起こりにくい。
・主演賞でフロントランナー張っている『ジュディ』も『ジョーカー』も作品の評価自体はそこまで高くない。去年の『ボヘミアン・ラプソディ』同様、混戦を引き起こす原因。
・『ジョジョ・ラビット』や『若草物語』の暴れ具合次第では完全に予想が崩壊してしまう。美術や編集部門での『パラサイト』もどう動くか予想がつかない。

*1:ボノはそんなこと言ってません

まるで天使のようなサム・ロックウェルーー『リチャード・ジュエル』について。

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(本記事は『リチャード・ジュエル』の重大なネタバレを含みます)

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ーーイーストウッドさん、最近のあなたは実際にあったヒーロー的な出来事に惹かれているようですね。なぜこうした物語があなたに芸術的なインスピレーションを与えるのでしょうか?

イーストウッド:ある人の人生がどのようにぶち壊されたのか。そういうことは実際に沢山起こっていますが、どれもとても奇妙です。ある日、世界の頂点に立ったと思ったら、次の日にはどん底に突き落とされている。本作はその格好の例ですね。
https://torontosun.com/entertainment/movies/clint-eastwood-on-richard-jewell-hes-a-real-life-hero-who-got-completely-screwed-over

 英雄になれ、とアメリカは言う。
 その「英雄」とはもちろんジョセフ・キャンベル的な意味での英雄を指してはいない。他者に優越すること、ずば抜けた勝者であることの言い換えだ。
 要は、存在するに値する人間であることを証明しろ、と言っている。取るに足らない人間はアメリカ人ではない。


 いつ映画館に来てもヒーロー映画ばかりだ。
 クリント・イーストウッドも最近はヒーロー映画ばかり撮っている。ただし、彼のヒーロー映画には空跳ぶ鎧を着た大富豪もいなければ、神のような超能力を持つ超人も出てこない。
 運命的なその瞬間に、英雄的な行動を取り、英雄として讃えらることになった、市井の英雄たち、それがイーストウッド映画に出てくるヒーローだ。
 しかも愛すべきピーター・バーグ作品に出てくるような、なんのひっかかりもなしに素直に感動を与えてくれるようなヒーローたちではない。
 何かが狂っている。『アメリカン・スナイパー』のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)ははっきりとPTSDを患っていたし、『ハドソン川の奇跡』のサリー機長(トム・ハンクス)は完璧なはずだった自らの判断を疑い自家中毒に陥っていく。*1


『リチャード・ジュエル』のリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)も何かがおかしい。
 彼は一見鈍臭そうではあるが、実はよく気がつく備品補充係の青年としてスクリーンに現れる。ジュエルは上司であるワトソン(サム・ロックウェル)と交流を深めるうち、「将来は法執行機関に務めたい」と漏らす。「人々を守りたいんです」と。
 やがてジュエルは省庁の備品補充係を辞め、大学で警備員の仕事に就く。そこで職務熱心のあまり、大学の敷地外でも学生に対して秩序と規律を強く要求しすぎ、問題を避けたい大学から解雇されてしまう。そのときに学長に対してジュエルは「『ミッキーマウス映画みたいな騒ぎ(mickey-mousing)はごめん』だっておっしゃってたじゃないですか」と詰め寄る。「重要だと思ったこと」をびっしり書き留めたメモ帳を開き、何度も学長の「ミッキーマウス」発言を繰り返す。
 大学をクビになったあと、ジュエルは友人と射撃場でライフルを撃ちながら「昇進の知らせかと思ったら解雇の知らせだった」とぼやく。
 ズレている。観客はジュエルの異様さを嗅ぎ取りだす。その言動、振る舞い、特に法秩序をやたら重視する傾向から、単なるボンクラっぽい哀れな青年、という以上のなにか強迫観念を抱えていることを察しだす。


 折しも1996年。ジョージア州ではアトランタ・オリンピックが催されていた。彼はオリンピック会場の警備員の職にありつく。オリンピック会場、といっても、コンサートの会場だが。とにかく人は集まる。テロのターゲットにされる可能性はあるだろう。
 けれど、実際に不審者や不審物に気を配ろうとするのはジュエルだけだ。
 同僚の警備員や警察官たちはジュースを飲みながら、益体のない雑談に興じている。ジュエルも自分もセキュリティの一員であると誇示するかのように会話の輪に加わる。ひとりが地元交通局の手際の悪さをあざける。あくまでの内輪の会話の、その場限りのジョークとして。だが、ジュエルは交通局を擁護する。目の前の同僚より、秩序を保つために動いてる交通局の側に立つ。
 彼は空気が読めない。
 だからこそ、弛緩したコンサート会場の雰囲気に流されず、爆弾を見つけだす。
 
 
 大量殺戮を防いだジュエルは一夜にして英雄になる。
「私はヒーローではありませんよ。本当の英雄は、あの場にいて避難誘導に尽力した警察官や警備員です」と一応はテレビのインタビューに答える。だが、内心では英雄扱いにまんざらでもない。
 出版社からは自伝の出版まで打診される。
 出版契約について右も左も分からないジュエルは、唯一知る法律の専門家を頼る。電話を受けたワトソンは以前の省庁を辞め、独立して不動産関係の弁護士事務所を開いていた。彼はジュエルに助言する。以前、同じ職場だったときと同じように、頼れる先輩として、兄貴分としてジュエルに接する。「どんな契約書であれ、俺が読むまで絶対にサインはするな」

 
 FBIがジュエルを捜査対象としていることがマスコミ*2に漏れ、彼はやはり一夜にして英雄の座から疑惑の人へと転落する。
 FBIやテレビは犯人像をプロファイリングする。英雄になりたがる孤独な人間。類型。イメージ。そうした型がジュエルに容疑者の烙印を押す。

 
 FBIの捜査官たちは彼を支局の一室に閉じ込める。講習用ビデオの撮影だ、と言葉巧みに騙して、調書にサインさせようとする。あくまでレプリカにサインするだけだと嘘をついて。
「俺が読むまで絶対にサインはするな」
 ジュエルは頑なに拒む。ワトソンに電話する。
 ワトソンがジュエルの担当弁護士になる。
 

 奇妙なことにジュエルは容疑者として報道されるようになってからも、オリンピック警備員用のシャツを着て生活する。
 背中には大きく Security の文字。保護するもの。その使命を果たしたからこそ、彼はいったんは英雄になれた。英雄とは、人々を守る存在だから。
 だが、劇中で最もか弱く、不安定(insecure)な人間は誰か。ジュエル自身だ。一度持ち上げられた自尊心を粉々に破壊され、英雄としての自分を傷つけられ、四六時中泣いてばかりの母親よりも不安に陥っている。
 そのジュエルを守る存在は誰か。
 ワトソンはジュエルに何度も言い含める。「俺以外の誰とも喋るな。FBIの人間とは絶対会話するな」
 ジュエルはしかし、「僕にだって言いたいことはある」。
「でも喋るな」
 FBIが家宅捜索にやってくる。
 ジュエルはワトソンのいいつけに何度もそむき、自分は捜査に協力的だとFBIに対してアピールする。そして、あまつさえ重要な録音まで捜査官に渡してしまう。
 ワトソンは怒る。なぜ権威を相手にするとそんなに従順になるんだ。ドアマットみたいに踏みつけにされてるんだぞ。怒りはないのか。俺の弁護が必要ないのか? だったらなんでそもそも俺に助けを求めた?
 それまであまり激情を見せることのなかったジュエルは顔を赤らめ叫ぶ。「怒ってるさ。怒ってるとも。あいつらにバカにされてることもほんとはわかっている。あんたに弁護を依頼したのは、僕の人生で唯一『デブ』とか『のろま』とかでコケにせず、人間扱いしてくれた人だからだ」


 ジュエルは死ぬほど法執行機関に入りたがっていた。副保安官の地位をクビになったり、警官を偽って逮捕された前歴すらあった。なぜそこまでこだわるのか。
 「人々を守る」ためなどではない。他人を守ることで、法の一部となることで、社会の成員として認められたかった。
 劇中でジュエルが直接面と向かってバカにされる場面はせいぜい、コンサート会場で若者グループを注意したときくらいだろう。だが、彼が暗に軽んじられていることは全編通じて伝わってくる。
 昼休みに一人でゲームセンターでシューティングゲームに興じていること、大学警備員時代に学生から「本当の警官でもないくせに」と言われたこと、コンサート会場での警官たちや警備員仲間たちのなんとなしのよそよそしさ、母親以外に出てくる親しい人間がやせこけた青年一人だけであること、古い知人がFBIから頼まれた盗聴器をつけて探りを入れてきたこと、FBIの強引な手口、ジュエルの顔にはりついた自信のない硬い表情*3……。
 彼はテロ事件で英雄になることでようやく人間になれた。まともに扱われるようになった。
 けれど、彼生来のイメージは人間としての彼を認めなかった。*4 


 ワトソンはジムニークリケットだ。ジュエルの言動を逐一指導して彼を守ろうとするけれども、「人間になりたい」ピノキオであるジュエルはつい言葉に頼ってしまう。伸びた鼻先を掴まれてしまう。まだおまえは人間ではない、と。

 ワトソンはジュエルを守るために尽力する。他人を守ることが英雄の条件であるならば、ワトソンこそが英雄だ。弱きものを見守る番人として、そのひとを守ることのできる唯一の存在として際立つ。*5

 
 最終盤。
 ジュエルはFBIの取調室で捜査官たちに対して啖呵を切る。
「次に爆弾を見つけた警備員はどうすると思う? きっと黙って逃げ出すよ。どうせ通報しても犯人扱いされる。ジュエルの二の舞はごめんだってね」
 知ってか知らずか、このときジュエルは自分がヒーローでないことを認めている。自分と同じ能力を持つ、自分と同じような人間を想定し、そういう人が自分と同じような行動を取れるようにと訴えている。自分が「特別」でないほうがいいのだと。
 同時に、法執行という権威への憧れも捨てている。彼はFBIのオフィスで働く備品補充係の姿を見て、自分を英雄にしたのは射撃の腕などではなく、備品補充係としての注意力だったのだと思い出す。
 自分が交換可能な存在だと認め、手に入らないものを不必要だったと知る。
 ジュエルは与えられかけた虚像を手放すことで、ようやく「人間」としての自分を獲得する。*6
 そうして、ジュエルはアメリカの神話から解放される。*7
 そのかたわらに、彼の弁護士が守護天使のようによりそう。
 彼は孤独ではない。


ハドソン川の奇跡(字幕版)

ハドソン川の奇跡(字幕版)

  • 発売日: 2016/12/22
  • メディア: Prime Video

*1:個人的にここ四、五年のイーストウッド作品は大して好きでもないが、嫌いでもない、くらいの感触です。『ハドソン川の奇跡』が一番楽しめたかな。かなり変な映画を撮る人であることは疑いがない

*2:オリヴィア・ワイルド演じるこの女性記者の描写がアメリカ本国で問題になっている。彼女はFBIから容疑者の情報を手に入れるため、FBIの捜査官を性的に誘惑し、情報をリークさせるという手段を取る……と劇中では描写されています。しかし、実際にその記者がそうした行動に走ったという証拠はどこにもありません。イーストウッドは「彼女のことを調べると、そういうことをするキャラクターだったように思われた。だから、そういうシーンをいれてもおかしくないと考えた」というようなことを各所のインタビューで語っています。しかし、これは映画全体からするとちょっと変ですね。本作はもととなった新聞記事に描かれた出来事をかなり忠実に、伝記映画としても高いレベルの精度でなぞっています。それなのになぜネタ取りの場面だけ「想像」に任せたのでしょう? もうひとつ奇妙なのは、枕で落ちるFBIの捜査官(ジョン・ハムが演じている)が偽名ないし架空の人物に設定されているのに対して、女性記者は完全に実名なことです。2001年に亡くなった彼女を大した証拠もなしにネガティブに描くことはFBI捜査官の失態を想像で描くのと同等にリスキーなはずですが、イーストウッドと脚本担当のビリー・レイはあえて両者ともに偽名にしなかった。実在の女性記者を、正面から「股ぐらでネタを取る最低なトップ屋」として書くことをあえて選んだのです。そう、意識的にそうなるようにした。これはもはやチェック漏れやリスク管理のミスなどではなく、イーストウッドからの明確な意思表示として受け取るのが適当であるように思われます。言葉の上では「作品に政治的メッセージはこめない」と繰り返しているけれど、彼個人の信条や時々の思いを込めない、とは言っていないのだし。

*3:アメリカン・スナイパー』も『ハドソン川の奇跡』も主人公の表情は硬かった。

*4:日本の一部で既に本作が「キモくて金のないおっさん」エンパワメント作品として、すなわち『ジョーカー』と同じような文脈で享受だしているのは憂慮すべき事態ではないでしょうか。個人がそういう喜びかたするならともかく、作品の地位や価値が争われる戦場が「そこ」に固定されてしまうのは損失だと思います

*5:rf. 映画版『インヒアレント・ヴァイス

*6:取調室におけるポール・ウォルター・ハウザーの演技がなによりの証明となるでしょう。

*7:エピローグで警官になった彼にはかつてのような独特の緊張がない

2020年にアメリカで公開され(そうになって)る期待の新作映画リスト

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公開日はアメリカ合わせ。調べ方が雑なので合ってないかもですが。

(参考サイト)
https://editorial.rottentomatoes.com/article/most-anticipated-movies-of-2020/
https://www.slashfilm.com/most-anticipated-movies-of-2020/
https://filmschoolrejects.com/anticipated-good-movies-2020/
https://www.vulture.com/2020/01/2020-movies-the-68-most-anticipated-films-this-year.html


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1月

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The Gentlemen(ガイ・リッチー監督)
『アラジン』ですっかりファミリー映画監督になったと思われていたガイ・リッチーが原点であるイギリスギャングものに回帰。主演はマシュー・マコノヒー。脇をチャーリー・ハナムヒュー・グラント、ジェレミー・ストロング、コリン・ファレルとそこそこ豪華な俳優陣が固める。

Gretel & Hansel (オズ・パーキンス監督)
童話の『ヘンゼルとグレーテル』をベースにしたホラー。予告を観るかぎりでは雰囲気がよく出来ていて期待を持てそう。ハリウッドでは定期的にヘンゼルとグレーテルものが出ますね。


2月

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ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(キャシー・ヤン監督)

実はそこまで期待はしていないけれど、その年のスーパーヒーロー映画を占うビッグタイトルであることは間違いないでしょう。日本では3月公開。

The Lodge(セベリン・フィアラ&ベロニカ・フランツ監督)
『グッドナイト・マミー』で一躍オーストリアにこのコンビありと知らしめたフィアラ&フランツ*1の初英語フィルム。ライリー・キーオ演じる若い母親が養子の子ども二人と大雪でキャビンに閉じ込められ、いろいろとヤバげな現象に襲われる……的な話らしい。これも予告が雰囲気たっぷりでよく出来ている。でも『アナ雪2』っぽいポスターアートはどうかと思います。

Downhill(ナット・ファクソン&ジム・ラッシュ監督)
『プールサイド・デイズ』のファクソン&ラッシュコンビの新作! 六年くらい音沙汰がなかったのでもう監督はやらないのだと思ってたのでびっくりです。ジム・ラッシュは俳優として超多忙*2でもあるし。
内容はというと、なんとリューベン・オストルンドの『フレンチアルプスで起きたこと』のリメイクで二度びっくり。主演の夫婦役をウィル・ファレル、ジュリア・ルイス=ドレイファスというアメリカを代表するコメディ役者が務めます。予告編観るかぎりでは結構原作に忠実っぽいですが、やはりアメリカ人がやるとアメリカのコメディっぽさが出ますね。

The Invisible Man (リー・ワネル監督)
『ソウ』以来の盟友であるジェイムズ・ワンに比べていまいちブレイクしきれなかった印象のリー・ワネルでしたが、ジェイソン・ブラムと組んだ前作『アップグレード』でSF映画監督として一挙に開花。その勢いを駆って再度ブラムをプロデューサーに迎え、『透明人間』のリメイクに挑みます。
ユニバーサルが鳴り物入りで立ち上げたものの、第一作の『ザ・マミー』の失敗で企画ごとコケた「モンスター・ユニバース」の残滓らしいですが、果たして。

3月

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First Cow(ケリー・ライヒャルト監督)
ケリー・ライヒャルトと原作脚本ジョナサン・レイモンドの四度目のタッグ。2019年のテルルード映画祭で上映され、すでに批評家から好感触を得ている。牛さんがかわいい感じになりそうですね。

Onward(ダン・スキャンロン監督)
ピクサーの新作。青いエルフやドワーフの出てくるアニメってだけでテンション下がるところある*3んですけど、まあピクサーなんだから観たらどうせそこそこいい感じになるんだろうな、という信頼があります。主演はトム・ホランドクリス・プラットのマーベルヒーローコンビ。

Saint Maud(ローズ・グラス監督)
去年のトロント映画祭で高い評価を得たホラー。米国配給をA24が務めており、内容もいかにもA24好みのスタイリッシュなアートホラー&ダークな宗教色。これが監督デビューのローズ・グラスですが、第二のアリ・アスターとなれるかどうか。

Spenser Confidential(ピーター・バーグ監督)
みんな大好きピーター・バーグ&マーク・ウォルバーグ(『ローン・レンジャー』などのコンビ)の最新作はなんと戦争ではなくハードボイルド私立探偵もの。しかもロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズ。正確にはパーカー本人ではなく後を継いだエイス・アトキンスによるスペンサーものの映画化ですが、いずれにせよお前らでほんとうに大丈夫なのか? なぜかポスト・マローンとかも出る。ネトフリ作品なので日本でもさして時差なく観られるはず。

The Way Back(ギャヴィン・オコナー監督)

みんな大好きギャヴィン・オコナーベン・アフレック(『コンサルタント』のコンビ)の最新作のネタはバスケットボール。アル中になって選手からコーチに転身を余儀なくされたベン・アフレックが中毒と戦う話。オコナー監督でスポーツものというと傑作『ウォリアー』が思い出されるだけに、期待大。

4月

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The Lovebirds(マイケル・ショウォルター監督)
『ビック・シック』で大成功を収めたショウォルターとクメイル・ナンジアニのコンビが再び。今度はミステリ仕立てのロマンティック・コメディらしいです。

Peter Rabbit 2: The Runaway(ウィル・グラック監督)
ベアトリス・ポッターが墓場から出てきてキレそうなイロモノコメディとして登場したわりに意外なクオリティの高さを見せた『ピーター・ラビット』の続編。俳優・声優陣はもちろん、監督のウィル・グラックも続投。

No Time To Die(キャリー・フクナガ監督)
タイトルに007ってつけないと007ってわかんねーでしょうが。ダニエル・クレイグボンドのラストアクト。そういえば、クレイグが引退したらベン・ウィショーもいなくなるんスよねえ。

Antlers(スコット・クーパー監督)
激シブ映画しか取らないウルトラ硬派なスコット・クーパーがホラーを!!???

5月

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The Personal History of David Copperfield (アルマンド・ラヌッチ監督)
スターリンの葬送狂騒曲』や『VEEP』でコメディの名手として愛されるラヌッチの新作はチャールズ・ディケンズの映画化。笑えるヴァージョンになっているらしい。

Greyhound(アーロン・シュナイダー監督)
アカデミー実写短編賞を受賞したのち、2010年にデビュー長編 Get Low で高い評価を得たアーロン・シュナイダー監督久々の新作、といってもいずれも日本で未紹介なのでよくわからない人ではあります。しかし、トム・ハンクスが主演に配されていることからもポテンシャルは察せようというもの。内容はUボートに付け狙われる軍艦の航海を描く戦争もの。

The Woman in the Window (ジョー・ライト監督)
最近のジョー・ライト(『チャーチル』を含む)にはもはや希望を抱けなくなってしまったのですが、それでも観に行ってしまうんだろうな。原作は『裏窓』をリスペクトしたスリラーらしいです。日本公開に合わせてハヤカワあたりで訳されそう。→既に出てます。

ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ 上

ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ 上


Barbie(グレタ・ガーウィグ監督)
ガーウィグ監督、ノア・バームバック脚本という仲がよろしいことで大変結構ですねなコンビによるなぜこの企画なんだ映画。そう、バービー人形の映画化。プリマイズを聞くかぎり、相当ひねってはくるっぽいですが。
ただ、5月公開ということになっているのに作っている雰囲気が全然ない。

6月

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Soul(ピート・ドクター監督)
ピクサー新作その2。ピート・ドクターを信頼しないでどうしますか。
みてくれは『インサイド・ヘッド』×ジャズ版『リメンバー・ミー』といった印象。

7月

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Free Guy(ショーン・レヴィ監督)
ゲーム世界のNPCがある日自分がゲームのキャラクターだということに気づくコメディ。この手の話なら主演はもちろんライアン・レイノルズ。あまり期待できなさそうな予告編が気がかり。

TENET(クリストファー・ノーラン監督)
泣く子も黙るノーラン新作。今回は『インセプション』気味の路線っぽいし、好みかもしれない。

Jungle Cruise(ジャウム・コレット=セラ監督)
パイレーツ・オブ・カリビアン」や「カントリーベア」や「ホーンテッドマンション」といったディズニーランドの人気アトラクションをことごとく映画にしてきたディズニーがこれを映画化しないわけはないよね、ということでみんな大好き「ジャングル・クルーズ」。主演がドウェイン・ジョンソンなのはともかく、監督がなんとジャウム・コレット=セラ。出世といえるかどうかはわかりませんが、そこそこの規模のアクションスリラーばかり手掛けてきたハリウッド随一の職人が大作でどう仕立てるのか。

9月

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モンスターハンターポール・W・S・アンダーソン監督)
実はモンハンに触った経験がゼロなのですが、これは気になる。

The King’s Man(マシュー・ヴォーン監督)
すっかり地位を確立した人気英国スパイ・アクションの三作目にしてプリクエル。マシュー・ヴォーンの悪趣味はどこまで健在でしょうか。

Last Night in Soho(エドガー・ライト監督)
むしろエドガー・ライトの新作を観なくて何を観るというのでしょうか。ニコラス・ローグの『赤い影』とポランスキーの『反撥』にオマージュを捧げたホラー映画らしく、本気か? とおもいもしますが、主演にアニャ・テイラー=ジョイを据えたあたり、どうやら本気のようです。

The Trial of the Chicago 7(アーロン・ソーキン監督)
モリーズ・ゲーム』で脚本家としてだけではなく監督としての手腕も証明したアーロン・ソーキンの新作。1968年にベトナム戦争反対デモで逮捕された七人、通称「シカゴ・セブン」を描く実話劇。もともとは2007年にスピルバーグ監督で決まっていたのが俳優組合のストにより潰れた企画の十年後しの映画化。

10月

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Death on the Nile (ケネス・ブラナー監督)
オリエント急行殺人事件』のリメイクからの続き。今度は『ナイルに死す』(『ナイル殺人事件』)ですね。こちらも以前ギラーミン監督で映画化されていますが。

The Witches(ロバート・ゼメキス監督)
英国の大作家原作の映画化作品のリメイク、という点ではこちらも。もとはロアルド・ダール『魔女がいっぱい』を原作にニコラス・ローグが『ジム・ヘンソンのウィッチズ』として1990年に映画化しました。ゼメキスが結構長い間温めてた企画っぽい。

ゴジラVSコング(アダム・ヴィンガード監督)
本来ゴジラ映画にはそれほど思い入れはないんですが……監督がアダム・ヴィンガードなんですよ! 『ビューティフル・ダイ』の! 『サプライズ』の! 『ザ・ゲスト』の! 
『ブレア・ウィッチ』以降はメジャーに活躍の場を広げたものの、あんまり奮わない印象ですが(中規模ホラー作ってるのが一番向いてる気がする)、本作がヴィンガード一世一代の晴れ舞台であることはたしか。公開が半年以上延期されたり、脚本がテリー・ロッシオだったり、いろいろと不安要素はありますが、希望は持ちたい。

Raya and the Last Dragon(ポール・ブリッグス&ディーン・ウェリンズ監督)
ディズニー最新作。ディズニー初の東南アジア舞台。孤独な戦士の少女ラヤが最後の水竜(人間に変身できる)シスーと出会うファンタジー。シスー役に起用されたのはすっかりアジア系女優ナンバーワンの地位を確立したオークワフィナ。彼女が演じるということは結構コメディちっくな掛け合いが中心になるのでは。
監督はジョン・ラセター体制以降のディズニーにおいて数々の作品でストーリーボードのヘッド・アーティストを務めてきたポール・ブリッグス。ちょうど『ヒックとドラゴン』が完結したタイミングでの新しいドラゴンものは吉と出るか凶と出るか。

Respect(リーゼル・トミー監督)
アレサ・フランクリンの伝記映画。鉄板な題材だけに、きちんとアクセントつけないと埋もれてしまう危険もありますが……。主演はジェニファー・ハドソン。監督はトニー賞ノミネート経験もある舞台監督ですが、映画はこれがデビュー作。

12月

Dune(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)
あの『デューン』を、あのドゥニ・ヴィルヌーヴが監督する。相変わらずヴィルヌーヴさんギャンブル性高い企画をチョイスするなあといった印象ですが、はてさて。公開されるまでホドロフスキーには生きていてもらいたいもんです。

Uncharted (トラヴィス・ナイト監督)
あの大人気アクションゲームシリーズを『クボと二つの弦』や『バンブルビー』のトラヴィス・ナイトが映画化。なんで??
主演はトム・ホランド。新世代のインディー・ジョーンズ映画のポジションを担えるか。

West Side Storyスティーブン・スピルバーグ監督)
あの映画化も大成功した大人気ブロードウェイ・ミュージカルをスピルバーグ監督が再度映画化。だからなんで???


Coming 2 America(クレイグ・ブリュワー監督)
ネトフリの『ルディ・レイ・ムーア』で大成功を収めたブリュワー&エディー・マーフィーのコンビがふたたび。それで何を作るかというとなんと1988年の『星の王子 ニューヨークに行く』の続編。
王位を次ぐために故国に戻ったアキーム王子でしたが、彼も知らない息子の存在が発覚。迎えに行くためにアメリカへと再び飛びます。

News of the World(ポール・グリーングラス監督)
トム・ハンクス主演その二。南北戦争直後のアメリカで、トム・ハンクス演じる記者が孤児の少女を彼女の親戚のもとへ届けるために旅するロードムービーらしい。

未定

The French Dispatch (ウェス・アンダーソン監督)
ウェス・アンダーソン監督最新作。観る理由としてはそれだけで十分です。公開予定は未定ですが、どうせ映画祭合わせで作ってるんだろうなあ。フランスの架空の街を舞台に、「ジャーナリストたちへのラブレター」的な作品になるとのこと。ジャック・タチみたいな感じになるのかな? 主演は俺たちのティモシー・シャラメ

I’m Thinking of Ending Things(チャーリー・カウフマン監督)
チャーリー・カウフマン監督最新作。観る理由としてはそれだけで十分です。
前作の『アノマリサ』はストップモーションアニメでしたが、今度は実写っぽい。主演は俺達のジェシー・プレモンス。


Mank(デイヴィッド・フィンチャー監督)
デイヴィッド・フィンチャー監督。観る理由としては以下略
『マインド・ハンター』続編無期限制作延期という悲しいニュースが飛び込んできたばかりですが、新作映画が観られるなら文句ないです。もっとも、フィンチャーの「予定」ほど頼りにならないものはないですが。
内容は『市民ケーン』における脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツと監督オーソン・ウェルズの相克を描いたハリウッド内幕ものだとか。
しかし何より注目は脚本担当の名前。2003年に亡くなったフィンチャーの父親、ジャック・フィンチャーが脚本家としてクレジットされてるんですね。もともとジャックはジャーナリスト兼脚本家みたいな人だったらしいんですが、果たしてどういう作品になるのやら。

C'mon C’monマイク・ミルズ監督)
マイク・ミルズ監督、ホアキン・フェニックス主演。
もう一度言います。マイク・ミルズ監督、ホアキン・フェニックス主演。
以上。2020年内に公開決まるか若干厳しいかな。


Rebeccaベン・ウィートリー監督)
かつてヒッチコックが映画化したデュ・モーリアのゴシック・マスターピースレベッカ』をリメイクするのはイギリスの狂児ベン・ウィートリー。どう考えてもまともなゴシック・ホラーになりそうにないのですが、それは不安ではなく期待です。


Ammonite(フランシス・リー監督)
名作恋愛劇『ゴッズ・オウン・カントリー』のフランシス・リーの最新作は、主演ケイト・ウィンスレットシアーシャ・ローナンレズビアン伝記もの。
日本では去る事情*4から知名度を爆上げした19世紀の女性化石発掘者メアリー・アニング(ウィンスレット)と貴婦人であるシャーロット・マーチソン(ローナン)の階級に隔てられた切なくもロマンティックな関係を描くのだとかなんとか。*5


Ironbark(ドミニク・クック監督)
そのシアーシャ・ローナンが主演を務めた2018年の『追想』で監督デビューを飾ったドミニク・クック。最新作はベネディクト・カンバーバッチ主演の実録スパイもの。ソ連の核開発計画を入手するためにCIAを助けた英国人ビジネスマンの活躍を描きます。1月のサンダンスでプレミアらしいので、そこで買い手が決まるか。

Tesla(マイケル・アルメレイダ監督)
イーサン・ホークが長年の盟友アルメレイダ監督と組んで、ニコラ・テスラを演じる、というだけでなかなかおもしろそう。こちらもサンダンスでプレミア。

Kajillionaire(ミランダ・ジュライ監督)
海外文学大好きっ子たちのアイドル、ミランダ・ジュライ九年ぶりの長編映画。制作はブラピのPlan Bと天下のアンナプルナという盤石の布陣。これもプレミアがサンダンスですが、そこでの盛り上がり次第ではマイク・ミルズの新作(間に合えば)と揃ってアカデミー賞で夫婦ノミネート……なんていう夢も膨らみます。

Cut Throat City(RZA監督)
アイアン・フィスト』以来となるRZA監督作品。ケイパーものっぽいんだけど詳細は不明。テレンス・ハワードウェズリー・スナイプスが出るよ。3月のSXSWで初プレミア。

Bernstein (ブラッドリー・クーパー監督)
アメリカの偉大な音楽家レナード・バーンスタインの伝記映画。『アリー スター誕生』で作家としての実力も証明したブラッドリー・クーパーが、監督・脚本・主演の三役をつとめます。

Blonde(アンドリュー・ドミニク監督)
き、きさまはアンドリュー・ドミニク! まさか生きていたとは……。そして彼が(年内公開なら)八年ぶりの監督作に選んだのは、文豪ジョイス・キャロル・オーツの『ブロンド マリリン・モンローの生涯』。『ジャッキー・コーガン』のときといい、またイキったチョイスを……。いずれにせよ、楽しみな組み合わせ。

Hillbilly Elegy(ロン・ハワード監督)
日本でもちょっと話題になったノンフィクション『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』の映画化。読んだ記憶があるけど、基本的に「貧乏白人の生活はクソ。でも俺(著者)はがんばったから偉い」みたいな部分くらいしか覚えてません。
著者ではなく、著者の母親を主人公に据えるつもりらしく、エイミー・アダムスが主演としてクレジットされてます。
去年の6月に撮影スタートして、ディストリビューションがネトフリなこともありますし、まあ今年中には公開されるでしょう。日本ではどうかな。

Make Up(クレア・オークリー監督)
自分の恋人が浮気していることを疑う少女がどんどんその想念を膨らませていく話。低予算ながら、すでに批評家からは上々の評価を得ている。

Prisoners of the Ghostland(園子温監督)
例の園子温アメリカでニコラス・ケイジと組んだやつ。案外日本人でやるよりもうまくいきそうな気がする。

After Yang(コゴナーダ監督)
A24案件のSF。監督はクライテリオンのネット動画チャンネルで映画分析エッセイ動画をえんえん作っていたひとで、おそらく相当のシネフィル。小津安二郎の大ファンでもあり、奇妙なペンネームは小津作品で脚本を多く担当した野田高梧から取っているとか。ヤバい人では。


Army of the Dead(ザック・スナイダー監督)
いろいろと辛いことがあったスナイダー監督ですが、自由にのびのびとやってほしいと切に願います。ゾンビものに回帰するらしい。ディストリビューションはネトフリ。

Macbeth(ジョエル・コーエン監督)
コーエン兄弟監督作」ではなく、「ジョエル・コーエン監督作」。もちろん、シェイクスピアの映画化。脚本のクレジットを観る限り、ジョエル自身の手も入るようだけれど、どうなることやら。デンゼル・ワシントンとかブレンダン・グリーソンとか出るらしい。想像できない。

Next Goal Wins(タイカ・ワイティティ監督)
ジョジョ・ラビット』でオスカーノミネート監督にのしあがったタイカ・ワイティティのスポーツコメディ。FIFAランキング万年最下位のサモア代表にオランダ人監督がやってきて、勝利を目指してワールドカップ予選に挑んだ実話の映画化。主演のオランダ人監督役はマイケル・ファスベンダー。もとになったドキュメンタリー『ネクスト・ゴール!世界最弱のサッカー代表チーム0対31からの挑戦』は日本でも観られます。

Benedetta(ポール・ヴァーホーヴェン監督)
はい、ヴァーホーヴェンの新作。17世紀のイタリアに実在したレズビアンの尼僧の愛の物語。もともとは2019年のカンヌでお目見え予定でしたが、ヴァーホーヴェンが手術を受けたこともあってポスプロが遅れて結局2020年公開に。

False Positive(ジョン・リー監督)
ホラー映画であることと監督名(テレビコメディで活躍した人で、これが劇場映画監督デビュー作)と出演陣(イラナ・グレイザー、ジャスティン・セロー、ジョシュ・ハミルトン、ピアース・ブロスナン)とA24製作であること以外ほぼなにもわからない。けれどA24のホラーというだけでチェックリストに入れてしまう。

Mob Girl(パオロ・ソレンティーノ監督)
巨匠ソレンティーノの最新作。FBIの情報提供者になったNYマフィアのお母さんの実話を映画化。主演はジェニファー・ローレンス。ソレンティーノ監督作品で女性主人公は初めてなのだとか。Imdbではまだプリプロ段階ということになってるけれど、公開は2020年セッティング。間に合うのかな?

The White Tiger(ラミン・バーラニ監督)
2008年にブッカー賞を受賞し『グローバリズム出づる処の殺人者より』というどうなんだなタイトルで邦訳されたアラヴィンド・アディガの小説を実力の割にいまいち報われている感のないラミン・バーラニ監督が映画化。一方的とはいえ書簡体形式の原作をどう料理するのか、楽しみ。


映画秘宝 2020年 03 月号 [雑誌]

映画秘宝 2020年 03 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー:洋泉社
  • 発売日: 2020/01/21
  • メディア:雑誌

*1:ベロニカ・フランツの夫はなんとウルリッヒザイドル

*2:ドラマ版の『ハーレイ・クイン』ではリドラー役を務める予定だとか

*3:主にパラマウントのせい

*4:まんがでわかるFGO

*5:ちなみに去年この企画が発表されたときに、アニングの縁戚から「アニングが同性愛者かどうかわかんないんだから勝手なもん作るな」と批判を受けて、それに監督がツイッターで応答したりして、ちょっとした論争が起こっていたらしい。https://www.indiewire.com/2019/03/kate-winslet-saoirse-ronan-lesbian-ammonite-fictional-gay-relationship-1202051788/

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈10〉:『西への出口』モーシン・ハミッド

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モーシン・ハミッド『西への出口』、Exit West、藤井光・訳、英語



 私達はみな、時のなかを移住していく。
                (p.167)



西への出口 (新潮クレスト・ブックス)

西への出口 (新潮クレスト・ブックス)



 内戦下にある国のある街で、サイードとナディアは恋に落ちる。戦争に日常を蚕食されていくなか、ふたりは不思議な噂を耳にする。「扉」の噂だ。なんの変哲もない扉が、突然、遠くにある別の街へと繋がる扉へと変わるという。ふたりは戦火を逃れるために「扉」をくぐることを決意する。
 はたして「扉」は噂通り西へーーギリシャのミコノス島に繋がっていた。ふたりは難民として流れ着いた地で生き延びようとし、あたらしい「扉」をくぐるたびにさらに西へと移っていく。そして流亡の日々のなかで、ふたりの関係も更新されていく。
 世界は静的にはできていない。常に変貌していく。そうして、なにが変わっていくのか。自分とモノ、そして自分と他者との距離だ。
 サイードとナディアの風景をまず作り変えたのは、戦争だった。多くの戦争フィクションにおける市街戦の描写で明らかなように、戦時下における街は平和な時の街と違う表情を見せる。家族や生活を包む建物は、銃弾を避けるための防護壁となり、敵が潜んでいるかもしれない物陰となる。窓も外を眺めるための安全で透明な壁などではなくなり、「死が入ってくるとすればその可能性がもっとも高い境界」(p.59)へと変わる。
 そうしたリアリスティックな観察の延長線上で、モーシン・ハミッドは扉に魔法をかけた。
「扉」をくぐることは亡命越境のメタファー、というかその行為そのものとして描かれる。ファンタジーめいた「扉」の先には難民キャンプがあり、現地民による難民差別があり、テクノロジーによる監視があり、要するに現実がよこたわっている。
 単に戦争難民の流氓の物語として書くこともできたはずだった。かれらの艱難辛苦に寄り添ったドキュメンタリー的な書き方だって採れただろう。しかし、本書は意図的に抽象化を徹底した。本書に出てくる登場人物はナディアとサイード以外、名前を与えられていない。彼らの故郷である街も国もその名が示されない。
 モーシンはそうした寓話的な手法の意図を問われ、「読者自身の、あるいは読者に親しい人の住む街として想像してもらいたかった」*1と答えた。自らの住むパキスタンのラホールをモデルにしたが、そこが戦火に晒されると想像するのがつらかった、なぜならたぶん起こらないだろうが、全くありえないことではないから、とも。
 本書は特定の場所に生まれた特定の誰かの物語ではない。だからこそ、本書は名前をもったふたりの人間の恋愛という普遍的な切り口を通して語られるのだろう。
 劇中でもサイードはこんなセリフをナディアに言う。「空は同じで、時刻が違うだけだよ」。
 それは人間同士の関係を指しているのかもしれないし、悲劇の無場所性を指しているのかもしれない。わたしたちは結局みんな同じ場所にいて、ただ異なる時刻に生きているだけの存在なのかもしれない。
(1034文字)

縛る手、浮かぶ足、結ぶ手、踊る足――『ジョジョ・ラビット』について

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(『ジョジョ・ラビット』のネタバレを含みます)



 今日は踊ってください 未来には期待したいし


    ――「POSITIVE feat. Dream Ami」tofubeats



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ジョジョ・ラビット』が靴の映画であり、足の映画であることは観た誰もがわかることだけれど、劇中でまず映るのは手のほうだ。
 ヒトラーに熱狂するドイツ民衆の手。「ハイル・ヒトラー」を叫び波打つ手たちを、ビートルズの「抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)」のドイツ語版に乗せて、アップで強調する。英語版だとサビは I wanna hold your hand. (君の手を握りたい)だが、ドイツ語版ではすこし変わって、Komm, gib Mir deine Hand. (さあ、僕に手を貸して)となる。*1
 その手はナチスドイツに貸された手だ。では、その手はどのように行使されたのか。
 
 ヒトラーを信奉する少年ジョジョは、冒頭でヒトラー・ユーゲントのキャンプに参加する。そこで彼は「手」の使いかたを教え込まれる。ナイフをふるい、本を燃やし、石を投げ、ユダヤ人を醜く描き、ハンドグレネードを投げる。
 あるとき、ジョジョは年上の監督役の団員からうさぎの首を折って殺すように命じられる。Place both hands around its neck, and then hard twist. (「両手をそいつの首に回して、思い切り縊ってやれ」)と。
 しかし優しい心根のジョジョは、罪のないウサギを殺せない。とっさにウサギを逃し、自らも駆け出したジョジョを、仲間の少年たちは「臆病者のジョジョジョジョ・ラビット)」とはやしたてる。*2
 直後、彼はユーゲントとしての名誉を挽回すべく、”ハンド”グレネードの投擲訓練に挑み、失敗して、自らを吹き飛ばしてしまう。
 つまり、彼は「手」の人間ではない。すくなくとも、彼の手は誰かを縛り首にしたり、戦場で兵器を扱うための手ではない。
 それでも戦争は荒ごとに向かないジョジョ少年の手すらお上に供出させる。大傷を負った彼はユーゲントとして軍事訓練に従事しない代わりに、後方での雑事に駆り出される。鉄を集めたり、志願兵募集のポスターを貼ったり。

 ナチス政権下において民衆の手はヒトラーという支配者に与えられた。その国においては人と人が直接につながることは許されない。「ハイル・ヒトラー」と、ヒトラーという国父を介することでようやく彼らの関係は成立する。あの時代、イマジナリーフレンドとしてのヒトラーを持っていたのはジョジョだけではなかった。
 
 それでもジョジョはウサギを縊り殺すだけではない手たちにも出会う。

 ひとつは母親であるロージーの手。劇中、ロージージョジョのブーツの靴ひもを結んであげるシーンが出てくる。ジョジョが不安に苛まされるたびに、心配ないよ、とでもいうように結んであげるのだ。

 もうひとつはロージーが匿っているユダヤ人の少女エルサの手。ジョジョと邂逅したさいの彼女は手そのものな存在として現れる。ジョジョがこじあけた隠し扉の縁を掴み、それを見て怯えて階下へ逃げ出したジョジョを、エルサの右手が手すりを伝ってゆるやかに追い詰める。そして、その手はジョジョの口をふさぎ、彼を脅迫する。
 互いに追い詰め合う手の関係が変わりはじめるのは、ジョジョが「ユダヤ人図鑑」を作り始めたときだ。エルサの声によって与えられたイメージをジョジョの手が紙の上で翻訳することで、はからずもヒトラーを介さないコミュニケーションが生まれる。彼は直接的なつながりを通してエルサを知り、リルケを知り、人間を知る。

 かろやかに踊るロージーの足は、本作で最も印象的なモチーフだろう。けれど、しかし彼女から少し離れて映画全体をながめてみると、実はネガティブな足もいくつか見いだされる。
 たとえば、ウサギ殺しを拒否したジョジョを踏み潰すと脅す足。
 たとえば、絞首台に吊るされて浮かぶ反ナチ活動家たちの足。
 地についてない足はどこか不吉だ。それは幽霊の足だから。
「たぶん、わたしたち(ユダヤ人)はみな幽霊なのかもね。気づいていないだけで」と言うのはエルサだ。死んだジョジョの姉の幽霊として、かろうじてジョジョの家で生き延びることをゆるされた*3彼女は街へ出歩くための足を必要としない。

 おなじく、(そしてこちらは文字通りの意味で)足を失った戦傷帰還兵たちは戦時下における幽霊たちだ。彼らがプールで泳ぐことでそれがいっそう強調され、プールサイドでステップを踏むように歩くロージーの靴とあざやかに対比される。

 ロージーは言う。
「ダンスは自由な人たちのためのものよ。そして窮極の脱出手段」
 彼女にとってダンスは運命の恋人である夫と出会った入り口でもある。つまり、ダンスなしではジョジョは生まれなかった。
 ジョジョはダンスの申し子として生まれたわけだ。
 
 だから、ジョジョは、母から受け継いだ手をウサギを縊るためではなく、誰かの靴ひもを結ぶために使う。
 だから、ジョジョは、母から受け継いだ足を踊るために使う。


 
 そう、手はつなぐためにあり、足は踊るためにあるのだ。


ジョジョ・ラビット (オリジナル・サウンドトラック)

ジョジョ・ラビット (オリジナル・サウンドトラック)

  • 発売日: 2019/10/18
  • メディア: MP3 ダウンロード

*1:英語になおすと come, give me your hand.

*2:ジョジョが根っからの「ナチ」でないことはキャンプに参加する直前のシーンで示されている。彼はユーゲントの仲間数人と森の中をかけるのだが、足の遅い彼は集団に追いつけない。ナチスの速度に同期しない人間として暗示されている。

*3:劇中でエルサはしばしば死んだジョジョの姉の幽霊と重ねられる。ジョジョはエルサと出会ったことを母に悟られないようにするために「死んだお姉ちゃんの幽霊がお姉ちゃんの部屋にいる」と報告するし、ゲシュタポによる家宅捜索の場面はジョジョの姉のIDを自分のものと偽って提出したエルサに「写真を取り直せ、まるで幽霊みたいだぞ」というセリフがかけられる。これらは姉映画として本作を読むときに重要。

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