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『20センチュリー・ウーマン』に関する覚書

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今年ベストクラスの映画です。
気になったところでまとまりそうなところを箇条書きで。



「20センチュリー・ウーマン」予告編

海(辺)と土と空

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上が『20センチュリー・ウーマン』の、下が『ザ・マスター』のファーストカット。



20センチュリー・ウーマン』は波打つ海を直下に眺めたショットからはじまる。ここでわたしたちはポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』をひきあいに「ファーストカットが波打つ海な映画は大名作」という法則を謳うこともできる。けれども、思い出してほしい。『ザ・マスター』で波状していたのは船による航行の結果であって、『20センチュリー・ウーマン』での何者にも妨げられない本物の波とは違う。
 『ザ・マスター』は「船」に乗っているひとびとの物語だった。かたや『20センチュリー・ウーマン』の登場人物たちは波打ち際であるサンタバーバラに封じこめられている。もちろん、若者たちが過半数を占めるこの映画においてそんな束縛は一時的なものでしかないのだけれど、既に五十の坂を越した母親(アネット・ベニング)にとっては終着点だ。
 そこは何かにつながる場所でもある。日本では主に文字通りの彼岸として用いられがち(最近だと『武曲』)な浜辺は、『大人は判ってくれない』以来の文脈だと行き詰まりであると同時に本当の行き止まりでないところ。船出の場、外から何かが運ばれてくる場。
 だからかもしれない、彼女は息子(ルーカス・ジェイド・ズマン)の育て方に行き詰まったときは決まって浜辺に行く。エル・ファニンググレタ・ガーウィグに「子離れ」の協力を頼む直前も、それを取り消そうと息子を説得する前も極めて短い浜辺のシーンが挿入される。彼女は押し寄せてくる息子の成長という荒波に、彼女なりに対処しようと奮闘しているのだろう。

 では、ベニングはやはり『ザ・マスター』と一緒で船長的な存在なのか。海の人なのか。違う。『ザ・マスター』のファーストカットと『20センチュリー・ウーマン』のファースト・カットで決定的に異なる点がある。視点の高さだ。つまり、『ザ・マスター』があきらかに船の後尾(くらい)の高さから撮影したものであるのに対し、本作は高高度から波を捉えている。眼は空にある。
 本作を最後まで観た人ならおわかりだろうけれど、最後にベニングは子供の頃の夢だった「飛行士」になる。彼女は空の人だ。
 だからなのか、ガーウィグに大地の神秘を語り、母なる地球と合一する瞑想を好み、のちに趣味が高じて陶芸家になる土の人、居候のウィリアム(ビリー・クラダップ)とはやはりくっつかない運命にある*1。雲の高きに舞う鳥は、地上で羽根を休めてもまた飛びだっていくものだ。だからこそのラストカット。最初のカットとは対になるものであると同時に、答え合わせでもある。


マイク・ミルズにおけるネコとイヌ

20センチュリー・ウーマン』では主人公家の飼い猫が優雅な存在感を放っている。
 ネコとくればイヌ。マイク・ミルズのイヌといえば前作『人生はビギナーズ』における主人公の忠犬アーサー(コズモ)が思い出される。これには単なる偶然以上の作為を見出さざるをえない。
 なぜなら、『人生はビギナーズ』はミルズの父親がモデルの、『20センチュリー・ウーマン』はミルズの母親がモデルの、どちらも半自伝的映画なのだから。
 『ビギナーズ』のアーサーは死んだ父親と主人公自身の曖昧な弱さを具現化した存在だ。元は父親の飼い犬で、父の死後に主人公へ引き取られた。彼はとても寂しがりやだ。主人公がパーティへ出かけるために他人へ預けようとすると、切なく喚いて結局主人公を呼び戻す。
 一方的に主人公へ依存しているかといえばむしろ逆な面もあって、主人公のほうでもアーサーの「声(主に人生に関する助言)」が聴こえてきたり過剰な擬人化をほどこすなど依存の兆候が見え隠れする。
 物語上でも、アーサーとの別離が亡き父親に引きずられてきた生活に対する一区切りとなる。アーサーは映画本編全体でも『20センチュリー・ウーマン』のネコに比べてかなり大きな比重を占めているので、詳しい活躍は本編をご覧になってほしい。

 父親と息子を半々で分け合っていたのが『ビギナーズ』のアンニュイなイヌだったが、『20センチュリー・ウーマン』の自由奔放なネコは100パーセント母親だ。
 ネコは常に母親を伴って出現する。大抵は、ベニングが物思いにふけっているシーンだ。そして彼女が思案しだすや、ネコはぴょんと飛んで画面外へと消えてしまう。ネコはベニングの奔放さを表すと同時に、その胡乱さや迷いをも示唆している。
 ネコが彼女の思考と連動する存在であることは、家族に断りを入れずにロサンゼルスへ出かけた息子が帰ってくる直前、ベッドの上で彼女がネコをさわって話しかけるところによく描かれている。ベニングは他人としてネコではなく、自分の分身に言い聞かせるように話すのだ。
 
 イヌであるところの父親とネコであるところの母親、(生物学的にはまったく対立する必要がないのだが文化的には)対立する(しているということになっている)ふたつの種がなぜ結婚してしまったのか。最初から離婚は目に見えていたのではないか。
 この疑問に対する解答は既に『20センチュリー・ウーマン』の劇中でベニング自身の口からなされている。

「あの人が左利きだったからよ。
 私は右利きで、だから朝に二人で新聞を読みながら株価をチェックするときに、彼は左手で値を書きながら、右手で私のおしりを掻いてくれた」
「それだけ?」
「それが好きだったの」

 まったく対照的な二人だったからこそ、なのだろう。


エル・ファニングの階段。

 十五歳のズマンの部屋に毎晩、二歳上のエル・ファニングが泊まりにくる。ふたりのあいだに、いっさいの性的な接触はない。ただ同じベッドで眠るだけだ。
 エルファに恋心を寄せる思春期少年ズマンはこの中途半端な関係に悶々とした毎日を送っているわけだけれども、ところで彼女は二階に位置している少年の部屋までどうやって侵入するのか。
 あらかじめ、彼の部屋に通じるハシゴが設置されているのだ。なぜハシゴがそこにあるのか。家が普請中だからだ。古い屋敷を戦後に買い取ったため、ベニングがクラダップの助けを借りて、毎日ツナギに身をつつんで改装工事を行っている。

 家、家、家。またアメリカ人の映画に家が出てきた。
 しかも、工事中の家だ。さすがに『許されざる者』に出てくる保安官の家のような邪悪さはないけれど、未完成であることはそのままベニングの未完成の家庭状況に対応している。
 そうした未完成な家に住む未完成な家庭の未熟な子どもの心のすきまにハシゴをかけて、毎晩エル・ファニングは少年をふりまわしにやってくる。イレギュラーな訪問手段*2を使うのは彼女も少年とどうなりたいのかよくわかっていないからで、だから一緒にモーテルへ連れ立って一対一の生身の人間として接したときに、それまでの仮初の関係が崩れ去る。そのコテージに出入りするための扉は一つしかない。
 

突然出来た友だち以上義姉未満の存在としてのグレタ・ガーウィグ

(ここにシチュエーションがよく似ているといえなくもない二作、姉弟版であるところの『20センチュリー・ウーマン』と姉妹版であるところの『ミストレス・アメリカ』のそれぞれにおけるグレタ・ガーウィグについて書くつもりだったが既に記事が長くなってしまったので、まあまた今度ということで。) 

*1:ベニングのキッチンが鮮やかなレモンイエローで、クラダップの寝室が青で染められそれぞれ「色分け」されているところにも注目したい

*2:このイレギュラーな訪問手段の使い方が最上級に上手いのが『アナザー・カントリー』


1930年代から2000年代までの各10年ごとの映画ベスト10

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はじめに

 他人がなんか楽しくワイワイしながら盛り上がってるさまを眺めるのはとてもくやしいものです。わたしだってワイワイしたい。
 最近の twitterでのワイワイ案件としては「◯◯年代映画ベスト10」があります。年代ごとにベストな映画を10本挙げるとかいうやつです。それをここでやります。やりたくなるまでお気持ちの変遷については省きます。
 ちなみに twitterでベストを挙げた方々はそろって「年代ごとに10本しか選べないのキツすぎだろ」とおっしゃってます。私のほうはといえば、今まで観た映画の半数弱? くらい*1が2010年代の作品で、裏を返せばそれ以前の映画はあんまり齧っていません。人間には「知らない分野のことほど気軽に大きなことをいいやすい」という性分があります、よって2010年代以前なら出来心で10本挙げやすい。雑誌なんかのベスト本に妙にラインナップが似通うのもそのせいです。こういうのは選者の人となりがわかる一本の筋の通ったものが読んでておもしろいんですが、まあ、マスに巻かれるのが私のパーソナリティです。
 で、140文字制限のあるところだとタイトルを挙げるだけでギュウギュウになるのですが、せっかくそういう縛りのないブログでやるからには何故選んだかの理由を書きたい。付加価値によるプレミアム感というやつです。
 とは言い条、私はだいたい観た映画の内容の99%を忘れる人なんで、細かくどのシーンのどれがよかった、というよりは「ふわっと」とか「ぐんにょり」とかいったオノマトペが頻出することとなるでしょう。そこらへん、ご寛恕いただけると幸いです。
 
 以下、年代ごとの10選です。選ぶにあたって独自に「アニメは別枠で各年代ごとに一本選ぶ(ただしストップモーションアニメは一般枠)」、「ドキュメンタリーは含めない」といったルールがもうけられています。どういった深遠な理由に基づいてそういうルールが課されるのか、といったご質問については残念ながらお答えできません。わたしにもはっきりとわからないからです。

 では、はじめましょう。おおむね番号順が好きな順です。カッコ内は監督の名前。

1930-40年代

1.『桃色の店(街角)』(エルンスト・ルビッチ
2.『ニノチカ』(エルンスト・ルビッチ
3.『マルタの鷹』(ハワード・ホークス
4.『祇園の姉妹』(溝口健二
5.『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ
6.『駅馬車』(ジョン・フォード
7.『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(小津安二郎
8.『極楽特急』(エルンスト・ルビッチ
9.『レベッカ』(アルフレッド・ヒッチコック
10.『狐物語』(ラディスラフ・スタレヴィッチ)

A. 『バンビ』(デイヴィッド・ハンド)


 たぶん、通して観た長編映画で一番古い作品はルビッチの『山猫ルシカ』(1920年)で、そこから30年間くらいの映画はあんまり観ていません。要するにサイレント時代の作品をほとんど観てないわけで、そういう教養を持ってないのはどうかな、とも思うのですが人は教養のために映画を観ているのではないのでしょうがなくない?
 この年代の映画は事故的に出会うといったことがあんまりなくて、しぜん、気に入った監督の作品を掘る過程で摂取していくわけで、そうなるとやはり名前が偏る。つまりはルビッチ、ルビッチ、ルビッチ。
 でもルビッチはどの年代に生まれたとしても最低三作品は入れてたと思う。
 なんなら『生きるべきか死ぬべきか』や『生活の設計』なんかもぶっこんでよかった。ルビッチは神です。ワイルダーも小津もそう言っている。
 個人的にはルビッチのいわゆるスクリューボールコメディのテンポと所作が非常に大好きで、『生活の設計』の出会いのシーンや『桃色の店』の郵便局のシーン、なんでみんなああいうのやんないんだろうとも思う。まあやれないからなんですが。ウェス・アンダーソンは『グランド・ブダペスト・ホテル』で頑張っていた。
 『市民ケーン』だいぶ昔に観ましたね。わりによく覚えています。ときどき『市民ケーン』て今観てもいうほどおもろいか? みたいなご意見を目にしますが、十二分におもろいでしょう。キチガイがアメリカン・ドリームを実現するためにがんばってやがては幻滅ないし破滅する話は普遍的に面白いです。フィッツジェラルドの時代からずっとそうです。だから私たちは今でも『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ナイトクローラー』といったキチガイ成り上がり映画を見に行く。ジョーダン・ベルフォートもナイトクローラーさんも幻滅はしないところが21世紀ですが。

 アニメ枠は『バンビ』。
 常々言ってることですが、『バンビ』を観たこともない人はもちろん、小さい頃に『バンビ』を観てなんとなく忘れかけてる人もぜひもういちど『バンビ』を観直すべきです。ビビるから。
 アニメーションのうごきがとにかくものすごい。「ぬめぬめ動く」という形容はこれのために用意されたといっても過言ではなく、のみならず動物の毛皮がふんわり膨れ上がるところとか……とにかく官能的、そうエロいんです。この動作のエロさは今現在ディズニーを含めたどこのアニメスタジオも達成できていない。ロストテクノロジーです。オーバーテクノロジーです。アトランティスです。『アトランティス 失われた帝国』じゃなくて。この快楽はたぶん言葉では伝えきれないと思います。



1950年代

1.『幕末太陽傳』(川島雄三
2.『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー
3.『恐怖の報酬』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
4.『イヴの総て』(ジョセフ・L・マンキーウィッツ)
5.『七人の侍』(黒澤明
6.『ぼくの伯父さん』(ジャック・タチ
7.『近松物語』(溝口健二
8.『大人は判ってくれない』(フランソワ・トリュフォー
9.『現金に体を張れ』(スタンリー・キューブリック
10.『大いなる西部』(ウィリアム・ワイラー

A.『眠れる森の美女』(クライド・ジェロニミ *総監督)


 当然のごとくあんまり観ていない。現代っ子なもので。わたしが子どものころはみんな映画なんか観ずにエロゲをやっていました。
 『幕末太陽傳』はこの世でいちばんおもしろい時代劇だと思います。ちゃんばらとかはないんですけど、短いエピソードを細かくテンポよく刻んでいって、最後にフッと哀しいけどどこか爽快な後味を残してくれる。聞けば、元は落語の寄せ集めだそうですが、これと同じ手法で何かまた映画作ろうとしても、そうそう上手くいかないんじゃないかな。川島雄三の演出とフランキー堺の佇まいがとにかくキレまくってる。
 『イヴの総て』と『サンセット大通り』はキチガイがどんな手段を使ってでも成り上がるアメリカン・ドリーム破滅物語のビフォアとアフターって感じで、私の中では二本でワンセットですね。
 『恐怖の報酬』はいつ爆発するかもわからない爆薬を輸送する男たちの話ですが、とにかく観客へのストレスのかけかたが尋常じゃない。ほとんどイジメに近いですよ、これは。しかも、オチな。オチが……。
 時代のわりには全体的に雰囲気やライティングの暗い映画が多いですけれど、『大いなる西部』はカラッと晴れやかな画面で、ガンマンたちは最後は素手で殴り合う古典芸能ってかんじで、同時代の西部劇では好きな方。

 アニメ枠は実質ディズニーからどれを選ぶかの問題。50年代のディズニーではどの作品にもあまりパッションをおぼえないんですが、スタイリッシュさが光る『眠れる森の美女』でここはひとつ。
 
 

1960年代

1.『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー
2.『反撥』(ロマン・ポランスキー
3.『アパートの鍵貸します』(ビリー・ワイルダー
4.『切腹』(小林正樹
5.『殺しの烙印』(鈴木清順
6.『プレイ・タイム』*2ジャック・タチ
7.『日本のいちばん長い日』(岡本喜八
8.『ミトン』(ロマン・カチャーノフ
9.『裸のキッス』(サミュエル・フラー
10.『地下鉄のザジ』(ルイ・マル

A.『101匹わんちゃん』(ウォルフガング・ライザーマン)


 フランス映画ばかりですね。それとアメリカン・ニューシネマ。時代に流されやすい人だよ。ほんとうは『気狂いピエロ』も下三つと甲乙つけがたいかんじだったのですが……短編(ストップモーション)の「ミトン」と入れ替えても……いや、でも「ミトン」はほんとほんとほんとにヤバいので。短編アニメでマジ感動したのはこれと最近の「ひな鳥の冒険」(アラン・バリラロ)くらいでしょうか。いやストップモーション短編ならもっとあるな。
 『プレイ・タイム』と『日本のいちばん長い日』は一見題材からジャンルまで正反対の映画に見えますが、過剰なまでの段取りへの意識という点で非常に似ているとおもいます。ジャック・タチは段取り魔ですね。犬を(たぶん)演技させずに完璧に段取らせることのできた史上唯一の監督だとおもいます(『ぼくの伯父さん』のオープニングのこと)。この段取り力をデイミアン・チャゼル先生も見習ってほしい。
 演出ではタチですが、脚本のソリッドさならやっぱり僕らのビリー・ワイルダー。『アパートの鍵貸します』は元祖反復伏線芸映画と申しますか、特にコンパクトミラーの使い方が神がかっています。
 ポランスキーはこの頃が一番好きかなあ。『袋小路』とかもいいですよね。『反撥』はナーブスリラーなのに、なんの脈絡もなく路上ジャズ・バンドを出現させて主人公につきまとわせたりする茶目っ気が好きです。オープニングが目ン玉のドアップだと名作の法則を確立した一作。
 
『101匹わんちゃん』、俗に犬を映画に一匹出すごとに自乗して傑作になっていく、といいますが*3、その伝でいくと仮に5つ星だとして5の101乗の星が輝く大名作ということになります*4。ライザーマン時代のディズニーはタッチがすばらしいですよね。今観てもモダンでフレッシュ。『バンビ』の官能とはまた別の快楽がある。
 

1970年代

1.『ナッシュヴィル』(ロバート・アルトマン
2.『ジャッカルの日』(フレッド・ジンネマン
3.『ロング・グッドバイ』(ロバート・アルトマン
4.『仁義なき戦い』シリーズ(深作欣二
5.『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル
6.『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー
7.『地獄の逃避行』(テレンス・マリック
8.『チャイナ・タウン』(ロマン・ポランスキー
9.『サスペリア』(ダリオ・アルジェント
10.『デュエリスト』(リドリー・スコット

A.『フリッツ・ザ・キャット』(ラルフ・バクシ


 他の年代は割と序列がはっきりしてますけれど、70年代はあんまりそういうのがないというか、上にも下にも飛び抜けたものがありません。
 でもやっぱり『ナッシュヴィル』は特別かな。群像ドラマとしては後の『ショートカッツ』とか、弟子のポール・トーマス・アンダーソンの初期作のほうが洗練されてますけれど、『ナッシュヴィル』はラストがね、ラストがほんとうにいいんですよ。もともとダメだったものたちが本当に完膚なきまでになにもかもダメになってしまったけれど、みんなそれに目を反らして生きていくんだな、という諦念と前向きさとの間にあるような不思議なかんじは唯一無二。それに歌がいい。総体的にも歌がいい。

 それにしても孤独な男がひとりでトボトボ歩いている映画が多いですね。二人でなんとかやっている作品は『地獄の逃避行』くらいでしょうか。しかも、あんまりみんな胸を張っているイメージではない。『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド、『チャイナタウン』のジャック・ニコルソン、『デュエリスト』のハーヴェイ・カイテル……みんなくだびれていてさびしげです。ベトナム戦争を経て、アメリカの男たちはみんな疲れてしまったでしょうね。そんな中で南米から飄々とやってきたホドロフスキージョン・レノンを筆頭としたアメリカ人たちに熱狂的に迎えられたのも、ある種の逃避だったのか。
 『サスペリア』は『2』にするかどうかでかなり迷ったんですよ。どちらもベクトルの違うおもしろさで、そもそもシリーズですらありませんが。

 『スティング』いいですよね。なんかどこかで映画通のひとにコケにされてましたが、なぜあの手の方々(主語)は『ニュー・シネマ・パラダイス』だとか『レオン』だとか『ライフ・イズ・ビューティフル』を貶すんでしょうか。どれも良い映画じゃないですか。
 

1980年代

1.『ロジャー・ラビット』(ロバート・ゼメキス
2.『アリス』(ヤン・シュヴァンクマイエル
3.『笛吹き男』(イジー・バルタ)
4.『アナザー・カントリー』(マレク・カニエフスカ)
5.『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック
6.『狂い咲きサンダーロード』(石井聰互)
7.『ホワイト・ドッグ』(サミュエル・フラー
8.『食人族』(ルッジェロ・デオダート)
9.『終電車』(フランソワ・トリュフォー
10.『動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー

A『となりのトトロ


 屈指の激戦区。実質アニメ作品が三本くらい入ってるようにも見えますが、気にせんといてください。『ロジャー・ラビット』は半分は実写だし、『笛吹き男』には実写のネズミが、『アリス』の主人公は実際の女の子だからセーフというルールです。
 『ロジャー・ラビット』はおそらく映画史に残る傑作というわけではないでしょうし、ライブアクションと2Dアニメの融合という意味では『メリー・ポピンズ』はもちろん下手すればジョー・ダンテの『ルーニー・テューンズ/バック・イン・アクション』にすら勝ってるかどうか怪しいんですが、まあアニメキャラがわちゃわちゃ出てきてアホくさくてとにかく楽しいんです。楽しいって大事ですよ。エンタメですからね。
 楽しいという基準で行けば『笛吹き男』なんか最高に楽しくない映画の一つでしょう。「ハーメルンの笛吹き男」を題材にしてストップモーションアニメでまあとにかく暗いのなんの。画面が暗いし話もドス暗い。人間は絶望するしかないんだなって思う。ソ連とかチェコとかの旧共産圏のアニメってマーケティング的にはかわいさで売ってるくせに、なんか暗澹たる雰囲気のもの多いですよね。でもベクトルがプラスにしろマイナスにしろ、圧倒的な迫力で押し切られたら降伏するしかありません。
 『アリス』、『フルメタル・ジャケット』、『アナザー・カントリー』、どれもカット単位のエロティックさがヤバいです。それぞれ質的に異なる手触りですが、物語だとかテーマだとかそういうものとは別のところで永遠に観続けられるアレがある。
 『ホワイト・ドッグ』は犬映画を語る上では欠かせない一本です。別にここでは語りませんが。『食人族』とセットで観ると明日から「人間は野蛮なのだ……
わるい文明なんだ……」というアルテラさん気分で生きていけます。滅ぼしましょう。
終電車』、作品要素的にも螺旋階段だとか電話だとかトリュフォー映画の集大成みたいなものです。トリュフォーのなかでは一番好きかもしれない。そういえば『動くな、死ね、甦れ!』の感触は『大人は判ってくれない』に似てる気がします。
 ヘルツォークの『フィッツカラルド』が最後まで粘っていたんですが、内容あんま覚えてないし、『食人族』に負けました。メッセージはナレーションで入るくらいわかりやすいほうがいいですね。そのおかげで作ってるほうも絶対こんなおためごかし信じてるわけないと知れますから。
 『狂い咲きサンダーロード』は元祖ウテナ。人間がバイクになります。
 
 アニメ枠はいよいよ選ぶのが難しくなってきましたね。ディズニーは斜陽期ですが日本勢が元気で、『ビューティフル・ドリーマー』、『AKIRA』、『ニムの秘密』、『ドラえもん のび太の大魔境』、宮﨑駿、どれもいいような気もするし、どれでもいいような気もする。でもコンサバなので、『トトロ』で。


1990年代

1.『エド・ウッド』(ティム・バートン
2.『約束 ラ・プロミッセ』(ドニ・バルディオ)
3.『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(ヘンリー・セリック
4.『コルチャック先生』(アンジェイ・ワイダ
5.『許されざる者』(クリント・イーストウッド
6.『フルスタリョフ、車を!』(アレクセイ・ゲルマン
7.『ブギーナイツ』(ポール・トーマス・アンダーソン
8.『ファーゴ』(コーエン兄弟
9.『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー
10.『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(ロバート・ロドリゲス

A.『少女革命ウテナアドゥレセンス黙示録』(幾原邦彦


 日本映画が入ってませんが、単に絶望的なまでに観てないだけです。
 1~4までは他の年代だったらどれもトップに置いたでしょうね。『ラ・プロミッセ』はかなり昔に一回観たっきりなので思い出補正入ってるとおもうんですが、それでもやはりラストシーンのエモさは屈指だと思います。エモいラストシーンといえば『コルチャック先生』も。なんか最後でエモくなればオッケーになる病気だな、というのはうすうす自覚しているところでもあります。
 っていうかまあリストの上半分はエモい作品ばかりです。下半分はなんというか……人が死んでますね。いや、『ファイト・クラブ』は死んでないけど、精神的にさ。
 『ファイト・クラブ』はとても哀しいお話です。それはそれとしてブラピやジャレッド・レトと殴り合うエドワード・ノートンはいいものです。
 『フロム・ダスク・ティル・ドーン』は何が良かったのか今となってはまったく思い出せないんですけど、鑑賞当時の自分のメモを観てみると「100点!」とあるので100点だったんだと思います。過去の私に免じてエモと人死にが高度に結びついた傑作であるところの『プライベート・ライアン』を押しのけて10枠に滑り込みました。イイ話だな。
 『エド・ウッド』もね、ほんとにイイ話なんですよ。要約すると「どんなに下手の横好きであろうと、自分の好きを貫くことが尊いんだ(報われないけどね)」というお話で、要するに『ユリ熊嵐』ですね。そうか? キチガイにやさしい数少ないアメリカ映画。父親と若いして以降のティム・バートン映画はどれも(『ビッグフィッシュ』とかね)好きです。


 アニメは『もののけ姫』か『ウテナ』か『ライオンキング』か。90年代はいつのまにか「エモさ」がテーマになっているようなので、エモ成分の一番強い『ウテナ』でいきましょう。

2000年代

1.『ファンタスティック Mr.FOX』(ウェス・アンダーソン
2.『コラテラル』(マイケル・マン
3.『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ
4.『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン
5.『その土曜日、7時58分』(シドニー・ルメット
6.『カンフーハッスル』(チャウ・シンチー
7.『ノー・カントリー』(コーエン兄弟
8.『エレクション』二部作(ジョニー・トー
9.『ミュンヘン』(スティーブン・スピルバーグ
10.『かいじゅうたちのいるところ』(スパイク・ジョーンズ

A.『千年女優』(今敏

 まあ迷いますよね。2000年以降はね。現代っ子ですからね。
 オールタイムベストの『ファンタスティックMr.FOX』は揺るがないとして、あとはどう選んだものか。コーエン兄弟とかPTAとか他で入れたんだからエドガー・ライトとかサム・メンデスとかハネケとかに目を向けるべきではないのか。
 それでも欲望のおもむくままに選ぶとこういう感じになってしまう。業ですな。
 なんか色んな意味で説教映画が多い気がします。みんな説教してもらいたいんでしょう。ある日あなたの前に殺し屋のトム・クルーズや殺し屋のハビエル・バルデムやナチぶっ殺し隊のブラッド・ピットが現れてあなたに説教をし、そして殺す。ブラピは特に説教せずに殺してるだけだったな。あとダニエル・デイ=ルイスがおまえのミルクセーキを吸いに来る。
 『Mr.Fox』、『コラテラル』、『その土曜日』あたりは「なんとなくそれなりに生きてるけど、おれの本当にやりたかったことなんなのかなあ……」映画でもあります。どれも大惨事になりますが。『その土曜日』のフィリップ・シーモア・ホフマンフィリップ・シーモア・ホフマン然とした情けなさでいい感じですが、2000年代のフィリップ・シーモア・ホフマンなら『カポーティ』も良い。ハマりすぎて逆にフィリップ・シーモア・ホフマン感ないですが。
 『カンフー・ハッスル』は生まれて初めて映画館で二度観た思い出の作品です。イイ話枠。
 ジョニー・トーはマジ迷いますよね。『エグザイル』、『ブレイキング・ニュース』、『柔道龍虎房』……別に1から10まで全部ジョニー・トーで埋めてもよかったんですが、コンサバなのでそういう冒険はできないタチのです。しょうがないので人が一番死ぬ作品を選びました。
(追記:『フィクサー』を『ミュンヘン』と入れ替えました。)

 『千年女優』はアニメ映画のなかでもマイオールタイムベスト。今敏、生き返らねえかなあ。


2010年代

 あと二年半くらいあるけど、すでになんか各年代の三倍くらいパンパンで選べなくなってる……。


90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

*1:自分的にはけっこう衝撃的な割合で、自分は映画が好きというより映画館に居るために映画を観てるのかな……などとドン・デリーロの小説みたいなことを考えました。

*2:ただし観たのは「新世紀修復版」のほう

*3:今考えた

*4:作中では101匹より多いから本当はもっといく

2017年上半期の映画ベスト20とベストな犬

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トップテン

1.『20センチュリー・ウーマン』(マイク・ミルズ監督、アメリカ)

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 佐々木敦は腐す意味で「オシャレなアメリカ文学みたい」と評したけれど、逆にオシャレなアメリカ文学みたいな映画以外にこの世に何があるっていうんだろうか。
 わたしたちはオシャレなアメリカ文学みたいな家族に囲まれたオシャレなアメリカ文学みたいな青春時代をオシャレなアメリカ文学みたいなカットバックやヴォイス・オーヴァーで振り返りたかったし、そもそも憧れるためにアメリカ映画を観るのであって、そこにオシャレがなければ憧れもないんじゃないの。
 それはそれとして、オシャレであるかどうかは別にして、個人的にああいう語り口に弱いのはたしかです。ああいうの、というのはつまり、不意に入ったナレーションで登場人物が未来の自分自身の死について語るようなやつ。フィクションでしかつけないウソです。
 すがすがしいルックのわりには終わりはわりと「けっきょく人間無理なことは無理なんだよ」的なビターさで、そのへんは存外『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の手厳しさに似ている。ある種の前向きさも含めて。
 あと、カリフォルニアが舞台ってだけで陽光で勝てるからいいですよね。
 

2.『お嬢さん』(パク・チャヌク監督、韓国)

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 劇場版ウテナ。松田青子もそう言っている。
 サラ・ウォーターズ原作でパク・チャヌクが撮る、と聞いたときは、どう考えても変な映画しかできないけど大丈夫か? と危惧したものだけれど、実際とてつもなくへんてこな映画ができちゃって微笑ましいことです。
 基本、フェティッシュですね、フェティシズムですね。こまやかなものも、おおざっぱなものもぜんぶひっくるめて。
 前者の最高峰は風呂に入ったお嬢様の歯を侍女である主人公がヤスリで削るシーンで、あの耽美さは誰にも真似はできない。
 

3.『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督、日本)

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 中村悠一のキャラデザと森見登美彦の物語が湯浅政明の特質に最高にマッチしているのは『四畳半神話大系』ですでに証明されていたわけであって、そういう意味では安心して観られるファンタジー。快楽しかない。

4.『哭声/コクソン』(ナ・ホンジン監督、韓国)

 もちろん真っ裸で生肉を食う國村隼のビジュアルもちょうおもしろいんですが、それがけして出落ちに終わらなくて『お嬢さん』とおなじくエクストリームな新天地へ観客をいざなってくれる。方向はぜんぜん違うけど。
 最初は韓国映画によくあるど田舎刑事ものっぽいかんじではじまるんですけど、途中から白石晃士みたいな呪術師合戦(「殺を打つ」というとてもいいワードが出てくる)となり、最後は不吉なリドルストーリーで終わるんで、やっぱキリスト教をバックグラウンドに持ってる国は強いなあ、とおもいます。

5.『アイ・イン・ザ・スカイ』(ギャビン・フッド監督、イギリス)

 サスペンス映画としては今年一番じゃないかなってくらい、とにかくサスサスしてる。中東のテロリストたちを見張る現場が直接的なスパイサスペンスである一方で、それを見守る政治家たちがテロリストを爆撃するしないの判断にきゅうきゅうとするところもまたサスペンスであって、まあ、色んなレイヤーで色んな種類のサスペンスがたのしめてお得感あります。
 そういう緊張感を支えるうえで古典的な「見る-見られる」のドキドキ演出が作劇に一本筋を通していて、とても骨太なエンタメにしあがっています。

6.『美しい星』(吉田大八監督、日本)

 話自体は箸にも棒にもかからないんだけど、だからこそというべきか、オーバーな演出がうまくハマっている。モブにちゃんと表情があって動いている映画はいい映画ですよね。 

7.『グリーン・ルーム』(ジェレミー・ソルニエ監督、アメリカ)

 密室に閉じこめられた若者たちに満腔の殺意をもってハゲどもが襲い掛かってくる尺にしてだいたい90分のよくあるサバイバルスリラーかと思いきや、そこは『ブルー・リベンジ』のジェレミー・ソルニエ、クライマックスがおそろしくフレッシュ。
 イヌの使い方もちゃんとこころえている。

8.『沈黙/サイレンス』(マーティン・スコセッシ監督、アメリカ)

 「なぜそうまでして信仰を貫かなくてはいけないのか」というのはアメリカ映画の永遠のテーマで、その根底にはイエス・キリストの生涯がある。
  人間が自分なりに信仰を発見していくのはいいものです。ガーフィールドが神の声を聴くシーンはなんどみてもいい。

9.『セールスマン』(アスガー・ファルハディ監督、イラン)

 構成やモチーフ(ドアや密室)の使い方は『別離』や『ある過去の行方』とぶっちゃけ大差ないんだけど、作を重ねるごとに洗練されてきているとおもう。
 キャラクターごとの情報コントロールの繊細さは高度に発達した日米のエンタメ業界にも観られないレベルであって、アメリカあたりでちょっとミステリ映画撮ってもらいたいものだけれど、監督のキャラ的に無理かなあ。

10.『ラビング 愛という名の二人』(ジェフ・ニコルズ監督、アメリカ)

 ジェフ・ニコルズは今年はDVDスルーで『ミッドナイト・スペシャル』も出ましたね。そちらもなかなかいいかんじです。
 しかし、どちらかというと『ラビング』か。ジョエル・エドガートンをはじめとした役者陣のたたずまい(べんりなことばだ)もよろしいんですが、演出面でも非常に(アメリカ映画的な意味*1で)筋が通っていて、安心して観られる一本です。 
 

+10

11.『レゴ(R)バットマン ザ・ムービー』(クリス・マッケイ監督、アメリカ)

 DC映画のなかではいちばん好き。バットマンの重要要素のひとつである「孤独」についてとことんつきつめた作品でもある。

12.『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(ケネス・ロナーガン監督、アメリカ)

 観た直後はそんなでもないんだけれど、日が経つにつれてあれこれ考えてしまう系。やはり最後のキャッチボール。

13.『帝一の國』(永井聡監督、日本)

 こういう観客をバカにしていないコメディがちゃんと評価されてちゃんと興収を稼いでいるのは健全でいいなあとおもいます。

14.『ハクソー・リッジ』(メル・ギブソン監督、アメリカ)

 三幕構成というか実質四幕なんだけれど、最近の映画でここまでちゃんとパッキリ構成を割っているのもめずらしい。

15.『ナイスガイズ!』(シェーン・ブラック監督、アメリカ)

 コメディセンスがツボに入った。ちょっと長いけどね。事件に巻き込まれるガキが無能でない点で珍しいハリウッド映画。

16. 『はじまりへの旅』(マット・ロス監督、アメリカ)

 家族映画。ラストカットがとにかくいい。

17.『パトリオット・デイ』(ピーター・バーグ監督、アメリカ)

 銃撃戦がいいと聞いて観に行ったらたしかに銃撃戦がよく、その他の点でもソリッドな出来。

18.『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、アメリカ)

 SF映画でこのルックが実現できればまあ勝ち戦ですよね。しかしヴィルヌーヴっておもしろいはおもしろいんだけど、いつもアメリカでの評価から-10点されたくらいな印象なのはどうしてなのか。

19.『夜明けを告げるルーのうた』(湯浅政明監督、日本)

 映像ドラッグという観点からはちょっと惜しいところを残した。

20.『ジョイ』(デイヴィッド・O・ラッセル監督、アメリカ)

 O・ラッセルのなかではいちばん好きかも。


その他良作メンション:

『22年目の告白 私が殺人犯です』(入江悠)、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー・リミックス』(ジェームズ・ガン)、『テキサスタワー』(キース・メイトランド)、『くすぐり』(デイヴィッド・ファリアー、ダイアン・リーヴス)、『この世に私の居場所なんてない』(メイコン・ブレア)、『スモール・クライム』(E・L・カッツ)、『ジョシーとさよならの週末』(ジェフ・ベイナ)、『ノー・エスケープ』(ホナス・キュアロン)、『人生タクシー』(ジャファール・パナヒ)、『スウィート17モンスター』(ケリー・フレモン・クレイグ)、『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス)、『フリー・ファイヤー』(ベン・ウィートリー)、『ラ・ラ・ランド』(デイミアン・チャゼル)、『エリザのために』(クリスティアン・ムンジウ)、『こころに剣士を』(クラウス・ハロ)、『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』(ティム・バートン)、『ワイルド 私の中の獣』(ニコレッテ・クレビッツ)、『無垢の祈り』(亀井亨)、『王様のためのホログラム』(トム・ティクヴァ)、『モアナと伝説の海』(ロン・クレメンツ、ジョン・マスカー)、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(ジャン=マルク・ヴァレ)、『ジャッキー ファーストレディ 最後の使命』(パブロ・ラライン)


ベスト・ドッグ

1.『ノー・エスケープ』のベルジアン・シェパード・ドッグ・マリノア
 国境でメキシコからの不法移民をハントするじじいに飼われている忠実なトラッカー。ジジイとの別れのシーンは涙なしでは見れず、観客はみな凶悪なメキシコ不法移民への怒りをあらたにするだろう。


2.『ワイルド 私の中の獣』のオオカミ
 職場でのストレスからメンタルの狂った女に拉致監禁されるかわいそうなオオカミ。換金された部屋で暴れてウンコを垂れ流すオオカミと女との駆け引きが見もの。


3.『コクソン』の黒いイヌ
 韓国の名も無き村へやってきた謎の異邦人、國村隼の飼い犬。連続殺人事件を調べに来た刑事を撃退するなどの活躍を見せるも、最期は逆ギレした刑事に撲殺される。以て瞑すべし。


4.『夜明けを告げるルーのうた』のワン魚
 捨て犬が人魚に噛まれて半イヌ半魚になっちゃった。劇場でこれのワッペンがついたペンケース買いました。


5.『グリーン・ルーム』のシェパード
 ネオナチのパトリック・スチュワートに使嗾されて主人公たちをおいつめるイヌ使いの飼い犬。なぜか劇中でイヌ使いのイヌに対する愛情がこまかに描写されたりもする。

*1:家というモチーフに家族の絆を託すところとか

Brigsby Bear、ならびに監禁映画と毒親マンガの流行

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今観たい映画ナンバーワン

 wikipediaに載っているあらすじをそのまま訳すと以下のようになる。


 ジェイムズ・ポープは赤ん坊のころに病院から誘拐され、以来子供時代から大人になるまでずっと地下シェルターで『ブリグズビー・ベアー』以外のことを一切知らずに生きてきた。『ブリグズビー・ベアー』とは両親になりかわった誘拐犯夫婦によって制作された架空の子供向けTVショーのことだ。
 ある日、ジェイムズはシェルターから助け出される。現実世界へと放り出された彼は『ブリグズビー・ベアー』が実際の子供向け番組ではなかったと知る。
 他にも色んな出来事につぎつぎと直面し、困惑極まってしまうジェイムズ。彼は『ブリグズビー・ベアー』の映画版制作を決意し、この現実世界で学んだことを映画によって語ろうとするが……。


 なんのあらすじかって、今月末に全米で公開される新作映画『Brigsby Bear(ブリグズビー・ベア)』のあらすじだ。
 監督はデイヴ・マッカリー。主演兼脚本のカイル・ムーニーとは幼馴染らしく、人気コメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』時代もムーニーはコメディアンとして、マッカリーは番組の監督*1としてキャリアを積んできた。そのためか、アンディ・サムバーグをはリーダーとする人気コミックバンド「ロンリー・アイランド」やミシェラ・ワトキンズといったSNLの人脈がプローデューサーやキャストに活かされている。
 そしてプロダクションを担当するのはフィル・ロードクリストファー・ミラーの制作会社「ロード・ミラー・プロダクション」*2。さらに音楽を担当するのはジェフ・ニコルズ(『ラビング』、『MUD』)の盟友デイヴィッド・ウィンゴーと聞けば、この座組だけで傑作の予感しかしない。
 映画批評家の評価を集計する映画情報サイト Rotten Tomatoes でも今のところ評価は上々だ。
 

 しかしまあなんといっても、私たちの乙女ごころをくすぐるのはストーリーと設定だ。
 聞いてるだけでワクワクするような展開で、ティーザー予告に出てくる「こんなプロット観たことねえ!」という賞賛コメントはけして過褒ではない。総体としては。


www.youtube.com


 あくまで、総体としては。


誘拐され、監禁され、奪われて

 部分部分はどこかで最近見たおぼえがある。*3
 地下シェルターに監禁されて誘拐犯からとんでもない法螺を吹き込まれた子どもがエキセントリックな人物に成長してしまうのは、TVドラマアンブレイカブル・キミー・シュミット』(2015-)だし、
 生まれたときから外の世界との接触を禁じられフィクションだけを見て育ったこどもが、はじめて触れた現実世界のカオスを映画制作によってセラピー的に乗り越えようと試みる展開はドキュメンタリー『ウルフ・パック』(2015、クリスタル・モーゼル監督)だ。
 監禁ものだとアカデミー賞にもノミネートされた『ルーム』(2015、レニー・アブラハムソン監督)なんてのもあった。
 いずれもここ一、ニ年の作品だ。
 
 これら三作は共通して、長期間の監禁生活を強いられたこどもたちを描いている。*4しかし、『隣の家の少女』(2007、 グレゴリー・M・ウィルソン監督)のように監禁生活そのものの描写をメインとはせず、むしろ監禁から脱したあとのこどもたち(あるいは元こどもたち)がどう社会に適応していくかを主眼に置いている。つまりは、青春を理不尽に奪われ、他者と関わることが一切なかったピュアな人々が、どうやってサヴァイブしていくのか、だ。



アンブレイカブル・キミー・シュミット予告編 - Netflix [HD]

 14歳からの15年間の監禁生活を経て社会復帰した『キミー・シュミット』のキミーはニューヨークという世界でも有数の最先端都市で、トランスジェンダーの黒人デブとルームシェアしながら少しづつ現代社会を学んできて、数々のトラブルを引き起こしながらもNY生活に馴染んでいく。



映画『ルーム』予告編

 『ルーム』の主人公ジョイは誘拐犯にレイプされて子どもを産み、5歳になった彼の助けを借りて監禁部屋からの脱出に成功する。幼い息子は大した苦労もなく常識のギャップを埋めていき、すぐに世間に適応するのだけれど、24歳のジョイにはそれが果てしなく困難だ。マスコミを含めた世間からの好奇の目、野蛮な犯人から「傷物」にされてしまった娘に対する親の視線、その犯人の子を産んでしまったこと……そうしたストレスにジョイは圧しつぶされそうになる。



The Wolfpack | Trailer | New Release

 『ウルフ・パック』では親からようやく外に出ることを許された兄弟たちの長男坊がいさんで働きに出る。しかし、子どものころから他人との会話を映画でしか学んでこなかった長男の喋り口はどこか芝居がかっていて不自然だ。まともな若者同士の会話ができない。そのため彼は徐々にバイト先で疎外感をおぼえだす。
  

 wikipediaのあらすじを読むかぎり、Brigsby Bear もこれら三作品のような「世間との齟齬」にさらされるのだろう。


なぜアメリカ人は適応の物語を描くのか

 なぜこうした「監禁から解放&適応」ものが近年立て続けにアメリカで撮られるようになったのだろう。


 理由はいくつか考えられる。

 まず思いつくのは、「社会とのディスコミュニケーションと適応は普遍的なテーマだから」だ。
 長期間の誘拐監禁という一見過激で極端な設定に何かと眼を奪われがちになってしまうけれども、そこを抜きにして眺めれば「ルールがわからないまま社会に放り出されて、それでもそこでコミュニケーションをとって生きなければならない」という誰でも経験する社会化のプロセスが浮き上がってくる。
 映画のキャラクターたちは常に観客のディサビリティやコンプレックスが増幅した形で現れる。だからこそ感情移入の対象となりやすく、設定そのものが現実離れしていたとしても共感を呼ぶのだ。
 ちなみに「それでも生きなければならない」という課題は、同じく監禁・偽の物語・解放を扱ったディストピアSF『アイランド』マイケル・ベイ監督)や『わたしを離さないで』マーク・ロマネク監督)における「それでも死ななければならない」という課題とは真逆の問題設定だ。現実世界は死を強制してくるがゆえにおそろしいのではなくて、生存を強制してくるがゆえにむずかしい。


 もうひとつは、逆に「長期間の誘拐監禁にこそ普遍性がある」という観方。

 日本でもこのところエッセイ漫画の分野で『カルト村で生まれました。』(高田かや)や『ゆがみちゃん』(原わた)といった、いわゆる「毒親」によって子供としての大事な時期や青春を奪われた人々の体験記が人気を博しており、『みちくさ日記』(道草晴子)などの精神病闘病記もなどを含めて人生サバイバルエッセイとでも呼ぶべきサブジャンルを形成している。

 病んだ家族や共同体によって可能性を奪われてしまうこどもの話は昔から映画でもよく描かれてきた。サブジャンルの「機能不全家族」もののさらにサブジャンル」といったところだろうか。
 「毒親」概念に最も近い作品といえば、古くは実在の人気女優による児童虐待をもとにした『愛と憎しみの伝説』(1981、フランク・ペリー監督)、最近では昨年のアカデミー賞にノミネートされた『フェンス』デンゼル・ワシントン監督)あたりだろうか。どちらもフォーカスしているのは親のほうではあるけれど。*5

 むしろ日本の「毒親」エッセイまんがに近いのは『フェンス』をおしのけてアカデミー作品賞を果たした『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス監督)なのかもしれない。
 まさに「毒親」とゲイを抑圧する世間に挟まれて青春を喪失し、過去の傷を抱えながら独り立ちする男の話だ。*6


ブラッド・ピット製作総指揮!映画『ムーンライト』予告編



 日本の「毒親」ものと監禁&解放もの(呼び方がコロコロ変わるな)の共通点は「根深いトラウマを植え付けられたうえに、一般的な常識や教育を欠いたまま大人になって社会へと放り出される(自分の意志で脱出する)」点だ。
 悲しいことに似たようなトラウマを背負ったこどもたちはたくさんいて、あるいはトラウマとまではいかずともどこかで他者に自分の可能性を理不尽に奪われたという記憶を抱える人たちもいて、だからこそ「毒親」ものや監禁&解放ものの子どもたちに感情移入してしまう。


 どこかで監禁され、レイプされ、何かしらの可能性を奪われてしまった子ども時代の感覚。その責任を実際問題として他者に求めることに正当性があるかどうかは別にしても、感じてしまう心はどうしようもない。
 負った傷を癒す方法はいくつか存在する。
 フィクションを描く、というのもそうした手段のひとつであり、だから Brigsby Bear の主人公も映画を撮ることになるのだろう。たぶん。観てないのでわからんが。観ないとわからないよ、そういうことは。
 というわけで、ソニー・ピクチャーズさんはすみやかに本作を日本に持ってくるように。DVDスルーでもいいからさ。


ムーンライト スタンダード・エディション [Blu-ray]

ムーンライト スタンダード・エディション [Blu-ray]

カルト村で生まれました。

カルト村で生まれました。

*1:全体のディレクターではなく、スケッチと呼ばれるコント単位での監督

*2:ロードとミラーはプロデューサーも兼任

*3:wikipediaに書かれたあらすじはおそらく導入部かせいぜい中盤までの展開にすぎないだろうし、もしかしたら終盤に「みたこともない」衝撃の展開が待ち受けているのかもしれない。ここで言及するのはプロット全体の話ではなく、あくまで上記の wikipediaの記述部

*4:『ウルフ・パック』は劇中で明言されないが、あきらかにヒッピーの親が強制的にこどもたちを監禁状況に置いている

*5:書き終わってから『塔の上のラプンツェル』も毒親と監禁の話だったよなあ、と思い出した。そういえば、ギリシャにも『籠の中の乙女』なんて珍品があったけれど、あれは色々特殊すぎるので……

*6:もちろん喪失しっぱなしではなく、回復こそ重要になってくるのだが、そこを書くとネタバレになるので

『ジョン・ウィック:チャプター2』について:ギリシャ神話・背中・亡霊・犬

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ジョン・ウィック:チャプター2』("John Wick: Chapter 2"、チャド・スタエルスキ監督)


『ジョン・ウィック:チャプター2』予告編 #John Wick: Chapter 2



(以下は『ジョン・ウィック2』を既に観た人向けの完全にネタバレなやつです。
 まだ観てない人は、7月21日現在そろそろマジで上映が終わりそうなので、
 映画館で今すぐ『ジョン・ウィック2』を観ましょう)



強いオルフェ

 監督のチャド・スタエルスキは大学生の時分、ギリシャ神話にハマっていたそうで、パンフレットでは前作『ジョン・ウィック』を「冥界を旅する」物語だと明言しています。*1
 妻を亡くした男が冥界をさまようギリシャ神話のエピソードといえば、オルフェウスです。冥界へと下ったオルフェウスは、幽世の王ハデスと交渉して亡き妻をいったんは取り戻します。しかし、そのときにハデスと交わした「冥界から地上へ戻るまでの途上で決して(後ろを歩く)妻の方をふりかえってはならない」という約束をやぶってしまったがために、契約は破棄され、二度と妻に会うことはかなわなくなりました。
 

 この「振り返ってしまう男である」、という点においてオルフェウスと〈ジョン・ウィック〉シリーズの主人公ジョン・ウィックキアヌ・リーヴス)は共通しています。*2特に今回取り扱う『ジョン・ウィック2』では「背後」にまつわるアクションがそのままストーリー・テリングの重要な一要素をなしているといってもいい。


 まずストーリーから見ていきましょう。
ジョン・ウィック2』の前半部はどういう話か。過去から逃げようとするジョンと、その後ろ髪をつかんでひきずり戻そうとする過去の話です。


過去と言う名の運命に捕まる(by クリント・イーストウッド

 本作の冒頭部は前作の直後からはじまります。前作で妻の遺した犬を殺し、大事な車を盗んだロシアン・マフィアどもを皆殺しにしたジョン・ウィックは、車を取り戻すためにぶちころしたロシアン・マフィアのドンの弟が率いる別のマフィア組織へカチコミをしかけます。
 そこでなんやかんやあって車を取り戻すわけですが、取り戻したといっても車体はボロボロ。犬と車(が象徴する亡き妻)*3のために始めた復讐戦だったのに、終わってみれば犬は入れ替わり、車は廃車同然です。
 いったん戦いはじめたら引き返せないし、いったん失ってしまったものは前とおなじ状態では戻ってこないのだ、つまり妻とともにあった平穏な日常は二度と帰ってこない。そんなことが実に即物的な形で観客に示されます。


 ジョンはうすうすその事実に気づいているはずですが、しかしあらがおうとする。日常に回帰しようとふるまう。ベッドに寝そべって、妻の写真*4を眺めながら犬と眠る。そんな平穏な日々が可能だと思いたがる。
 まず彼は、ジョン・レグイザモ演じる車の修理工を呼び、車の修理を依頼します。
 さらに前作で家の地下室に封印されていたのを掘り起こした武器やコンチネンタルのコインの類を再び埋め、入念にセメントで塞ぎます。地味ながらも暗殺者時代には絶対戻りたくない、というジョンの強い意志が伝わってくるシークエンスです。


 ところが、セメントを詰めおわって一息つくかつかないかというところでさっそく過去が追ってくる。チャイムがなります。玄関に行くと扉には男のシルエット。来客は昔の彼の雇い主、ダントニオ(リッカルド・スカマルチョ)でした。
 彼はジョン・ウィックが忘れたい「過去」そのものの具現です。引退する時に交わした血の誓約をもちだして、ジョンに仕事を強要しようとしてくる。ジョンは繰り返し拒絶します。そして言う。


「俺はもう昔の俺じゃない。(I’m not that guy anymore.)」


 ダントニオは返します。


「おまえはいつだって変わらんさ、ジョン(You are always that guy, John.)」


 誓約とダントニオが存在するかぎり、ジョンはいつまでも that guy のままです。
 ジョンはダントニオの要求をはねつけきります。ダントニオはあきらめたのでしょうか? とんでもない。ダントニオはロケットランチャーでジョンの邸宅を木っ端微塵に破壊します。ジョンが大切にしていた妻との思い出の写真もごうごうとあがる火の手に包まれ灰となっていく
 ジョンの家はいわば、妻との思い出のよすがとなる最後の場所でした。ここを奪われてしまえば、もうジョンに戻る場所はなくなってしまいます。
 そしてジョンは暗殺者としての彼と繋がる場所ーーすなわちコンチネンタルへと帰還するのです。
 

 コンチネンタルのマネージャー、ウィンストン(イアン・マクシェーン)から誓約を守るよう諭されたジョンは、しぶしぶながらダントニオの依頼を引き受けます。
 このときウィンストンが説得に用いた「誓約の重要性」はダントニオのものとさしてかわりがありません。そもそもジョンだって裏社会の人間だったのですから誓約の重要さはよくわかっていたはずです。にもかかわらず、ダントニオには彼を説得できず、ウィンストンにはできた。
 それはウィンストンが特別な人物であるからです。終盤、彼がアカウント部にジョンの追放を依頼するときの番号がアンダーグラウンド(=冥界)における彼のポジションを示している、という指摘はなかなかに興味深いところです。彼がラストの公園のシーンで階段の下のスペースに立っているのも、つまりはそういう理由なのでしょう。

 ダントニオの依頼する仕事とは、目の上のたんこぶである姉をローマで葬る仕事です。彼は「ハイテーブル」と呼ばれる裏世界での最高意思決定機関?的なよくわからないがとにかくビッグな席を夢見ていましたが、父親が後継者として姉を指名したことにより、その席が姉に渡ってしまいました。そこで彼女を殺して「ハイテーブル」に成り上がろうと画策したわけです。
 この「ハイテーブル」が「12席」あるという設定は、おそらくギリシャ神話における「オリンポス十二神」を意識しているのでしょう。*5

 
 イタリア行きの直前、ジョンはホテルのコンシェルジュ(ランス・レディック)に犬を預けます。このコンシェルジュの名前はシャロン。 charon と綴ります。これもギリシャ神話由来の名前です。カローンは冥界の川、日本で言えば三途の河の渡し守で、銅貨を一枚受け取って死者を現世からあの世へと連れて行きます。この点は重要です。
 つまり、彼にコインを渡すという行為はオルフェウスたるジョンにとって「あの世」へ戻る行為なのです。

 しかしもちろんジョンは戻りたくて冥界に戻ってきたわけではない。彼は犬を預けたのち、その足でユダヤ人の貸金庫屋(質屋?)に託してあった箱からパスポートと拳銃とコインを請け出します。そこで慟哭するのです。結局戻ってしまった、と。
 ちなみにこの箱は二重底になっていて、しかけを外すと拳銃とコインが出てくる仕組みになっています。これが自宅での武器の隠し場所だった地下室のミニチュアであることは言うまでもありません。彼は常に忌むべき過去をを自らの手で掘りださなければならない。だから、苦痛を感じ苦悶をおぼえ、心がさけびだしもするんだ。
 

 イタリアにて「恐るべき幽霊」を意味する「ブギーマン」へ回帰したジョンは、地下=冥界へと戻ります。その地下世界がカタコンベ(地下墓所)であるとはなんと念の入った演出でしょうか。「地下より地上へ現れるブギーマンとしてのジョン・ウィック」はイタリア編を含め、都合三度ほど劇中で反復されていきます。
 オルフェウスと同じく妻(とともにあった穏やかな日々)を取り戻すために彼は地下を旅し、任務を実行します。実行後にはターゲットの護衛であったカシアン(コモン)の反撃やダントニオの裏切りに遭いながらも、満身創痍でなんとかコンチネンタル・ホテルまで戻ります。
 そして部屋で携帯を取り出すと、画面が割れて使用不可能になっています。その携帯は、ただの携帯ではありません。妻との大切な思い出の映像が記録された代物です。*6
 ここでもまた徹底してジョンの美しい過去が奪われてしまうのか……などと感傷に浸る間もなく、ふたたび醜い過去からの呼び鈴が鳴ります。ホテルの黒電話のベルです。ダントニオからです。ほとんどジョークみたいな宣戦布告。
「もしもし、ジョン。きみが怒るのは理解できる。個人的にも同情する。しかし、実の姉を殺されたのに復讐もしないとなれば、私も男としてのメンツってもんがたたないわけだしさ」
 こうして彼は地獄めいた過去へと本格的にひきずりもどされるのです。


背中に向かって声、弾丸、車

 プロット的には「過去をふりはらおうとして逆に引きずり込まれる」が前半部で三度(最初のダントニオの訪問、コンチネンタルのマネージャーによる説得、イタリアでのダントニオからの電話)描かれているのがわかりました。
 
 では細部やアクション面ではどうでしょう。
 劇中、ジョン・ウィックは何かと後ろからモノを浴びせかけられます。
 浴びせかけられるモノは、友好的な人物であれば声であったり、敵対的な人物の場合は銃弾や車のボンネットであったりするわけですが、どちらにせよジョンを過去へと引っ張る忌まわしい力であることに変わりはありません。
 見ていきましょう。


呼び止められる男

 まずジョンが武器やパスポートを請けだすためにユダヤ人の貸金庫を訪れるシーン。武器を携えたジョンは店を出ようとしますが、その背中に店主が「良い狩りを、ジョン」とヘブライ語でなげかけます。ジョンは立ち止まり、しばしののち、店主の方を振り返ります。そして沈黙したまま頷き、去っていく。ジョンにとってはいかに好意的なものであれ、暗殺者としての過去からの声であることに変わりありません。


 次に背後からジョンを呼ぶ人物はコンチネンタル・ホテルのローマ支店のマネージャー、ジュリアス*7です。彼はコンチネンタル・ローマの受付に姿を表したジョンを呼び止め、久闊を叙しつつも、きゅうに英語からイタリア語に切り替えシリアスな面持ちでこう訊ねます。「教皇に会いにきたのか?(Are you here for the Pope.)」
 このセリフには色々な解釈が可能だと思いますが、個人的には、ジュリアスは本気で言葉通りの意味で訊ねたのだとおもいます。ジョン・ウィックならばどんな殺しでもやってのける。たとえ、標的が大統領であろうと教皇であろうと彼はためらわない。そう信じるからこそ彼は至極真面目に敬愛する教皇の身を案じたのです(おそらく彼自身敬虔なカトリックなのでしょう)。それは同時にジュリアスがジョンを深く観察し、力量を知悉してきたことの証左です。彼もまた暗殺者としてのジョン・ウィックの証言者なのです。
 

 そして、イタリアのコンチネンタルでみんな大好き銃ソムリエに銃器をみつくろってもらうシーン。


 ここでも立ち去り際、ジョンが背中を向けるとソムリエが「ミスター・ウィック?」と呼び止めます。ジョンが振り向くと「パーティを楽しんできてください」と言う。ずらりとライトアップされてならんだ銃器に囲まれたソムリエがこのセリフをいうところは、ちょっと異世界感があるといいますか、彼もまた奈落の住人なのでしょう。ジョンはまた無言で頷いてソムリエの武器庫を去ります。*8


 彼を背後から呼び止める四人目の人物は、敵です。イタリアにおけるジョンのターゲットの護衛をつとめる男、カシアン。


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 ターゲットを仕留めて現場から脱しようとするジョンはすれちがいざまにカシアンの姿を認め、一瞬表情をこわばらせたのち、通り過ぎようとしますが、カシアンが数歩進んだところでジョンの背後から「ジョンか?」と呼び止められます。ジョンを諦めたように、あるいは意を決して振り向き「カシアンか」と応じます。あくまで表面上は旧知の人間と再会したときの会話です。しかし、カシアンの表情からはジョンがたったいま行ったことを見抜いたような、冷たい緊張感がみなぎっています。「仕事中か?」「ああ。おまえもか?」「そうだな」「楽しんでるか?(Good night?)」「おまえには悪いが、そうだな(Afraid so.)」「そうか、残念だな」
 二人を銃を抜き、真正面から撃ち合います。本格的な銃撃戦がはじまる*9象徴的な場面です。


 以後、全アサシン界が敵にまわり、彼を呼び止めるものはいなくなります。

 
 しかし、ダントニオに復讐を果たし、残骸となった家に犬とともに戻り、灰のなかから妻のネックレス(妻にまつわるものは一つ残らず失われていたとおもったのに)を発掘し、平和へのかすかな希望が芽生えかけたところで、もう一度だけ背後から名前を呼ばれます。
 声の主はコンチネンタルのコンシェルジュ、彼はジョンをウィンストンのもとへ送ります。そこでジョンは終わりなき地獄を宣告されるのです。コンチネンタルのルールを破った彼にもう平穏は訪れず、妻はもどらない。それはハデスとの約束を守れなかったオルフェウスが課せられた苦しみとおなじ罰です。


背中を撃たれる男の美学

 ジョンはよく後ろから撃たれる男でもあります。横から轢かれる男でもあります。


 冒頭のロシアン・マフィアとのカーチェイスシーンでは愛車の側面に敵の車をぶつけられること二度、ついに運転席から放り出され、素手による近接戦闘を強いられます。そして三度目の衝突としておそいかかる車を回避して難局を切り抜けます。

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 カタコンベを抜けたあとのカシアンとの戦闘でも横から車で轢かれていましたね。敵にとっては呼び止めるより、撃ったり轢いたりするほうが礼儀作法にかなった挨拶なのです。
 その証拠に、ニューヨークでの暗殺者勢のひとり、路上ヴァイオリニストの女は最初の弾丸をジョンの背中に見舞います。それより前だとカタコンベの戦闘の後半部でも雑魚に後ろから撃たれて当たっていましたね。*10無敵の防弾スーツを着用しているジョンだからこそ可能なコミュニケーションです。*11
 

 そうした暴力に対して、やはり彼は「振り向」かざるをえません。背後から発される暴力は彼を常に暴力そのものへと引き戻します。


亡霊ふたり

 常に背中を見せる男だからこそ、ジョンが最初から正面切って視線を交わす人物は貴重です(コンチネンタルのウィンストンでさえ、本作ではじめてジョンと会うシーンでは視線がすれちがっていたことを思い出しましょう)。そうした人物というと、コンチネンタル関連の人々(特にコンシェルジュシャロン)、ローレンス・フィッシュバーン演じるホームレスの「キング」といった面々が挙がりますが、しかしなにより本作でジョンとの視線のやりとりが印象的なキャラといえば、カシアンでしょう。
 最初こそすれちがいかけた二人ですが。互いに敵と認めあってからは編集的にもカシアンの視線が強調されます。
 特にNYでの駅前の噴水をはさんで互いに長い間見つめ合うシーンは舞台を含めてほとんどメロドラマ的なエモーションすら感じます。そして、駅構内のひそやかな撃ち合い、プラットフォームを挟んでの凝視合戦、からの電車内での格闘……これらのシークエンスのあいだ、二人が互いに視線を外す瞬間はほとんどありません。カシアンは視界からジョンが消えたら群衆をかきわけてジョンを探し、ジョンは自分を探すカシアンを見出します。なんというロマンス。なんというリレーションシップ。


カシアンという名前はカシアス(カッシウス)というラテン語名に由来し、その原義は「虚ろ(empty, hollow)」です。彼が亡霊であるジョンを直視できるのも、彼もまた「亡霊」であるからかもしれません。
同じ亡霊であるからこそ、直視も可能であり、ジョン・ウィックのライバルたりえるのです。
 ジョン・ウィックを殺せる角度は〇度のみ、真正面から対峙したときのみ、互角の戦いが可能となります。
 それをできるのは『ジョン・ウィック2』ではカシアンと、現代美術館の鏡の間で扉をあけて登場したさいの西宮硝子(ルビー・ローズ)*12だけですね。カシアンも硝子も最終決戦にナイフで挑み、ふたりとも同じような部位をさされて敗北しました。刺したあとの扱いの差に、ジョンの愛情格差が垣間見えます。

亡霊は常に階下から

 さきほど、ジョンのことを「亡霊」と呼びました。なぜ彼は亡霊なのでしょう。それは設定やセリフによってではなく(まあシャロンにコインを渡す行為は設定のうちですが)、行動と演出によって定義されます。

 劇中で「暗殺」を行うとき、彼は地下を経由します。イタリアではカタコンベを通過し、ターゲットであるダントニオの姉に近づきました。
 ニューヨークではやはり地下から美術館へと現れてダントニオに接近しました。
 もうひとつ、「下から上がってくる」画があって、それはラストのウィンストンとの最後の話し合いが終わってからNYの街へ出る時のシーンです。それまでは地下鉄やカタコンベのように地下こそが地獄であったのに、コンチネンタルを追放されてからは地上も地獄に変わってしまう。いっそう彼の依るべなさが際立ちます。

 ジョンが亡霊であることを示す演出はもうひとつあります。鏡です。
 前項でジョンに向けられる視線の話をしましたが、ジョンに殺される人物ーーダントニオとダントニオの姉ーーはどちらも鏡を介してジョンの姿を視認します。直視ではありません。心霊写真等が示すように、幽霊や怪異とは古今東西、人間の眼よりは鏡やレンズといって無機質な物質にこそ投影されるものだという信仰があります。*13ジョン・ウィックが直視できない存在だとしたら、それを視るためには鏡を利用するしかない。クライマックスでの美術館鏡屋敷迷路*14での戦闘は非常に多義的な意味を持つとおもいますが、一面ではそこが唯一亡霊を捉え、殺せる場であるからかもしれません。*15


 一方でジョンはNY篇から徹底して「一方的に視られる」側の存在にもなります。しかし見えるからといって殺そうとしても殺せない。逆に殺されてしまう。彼自身視られることをあまり気にしてるふうではありません。

 しかしラストシーンでウィンストンと別れて公園の階段をあがると、彼はものすごく他人からの視線に怯えるようになっている。
 それまでのジョン・ウィックには、なにもかも失ったように見えて、なんだかんだでコンチネンタルというラストリゾートが存在しました。彼はそこのVIPであり、庇護される貴種だったのです。カシアンとジョンとローマでの戦いに描写されているように、コンチネンタルとはある種の秩序でした。
 しかし、掟をやぶった彼にはもう家どころか羽根をやすめる休息所すらない。秩序なき世界で、四六時中ぶっつづけで戦いつづけなければいけないのです。
 彼は、だからこそ、犬を連れて行く。


亡霊と犬

 〈ジョン・ウィック〉シリーズにおける犬とは何を意味するのでしょう。
 第一作では間違いなく亡き妻との思い出の象徴でした。しかしその犬はむざんにも殺されてしまいます。第一作のラストで手に入れた新しい犬は、亡き妻とは縁もゆかりもない犬です。


 ではなんなのか。


 いわせてもらえるならば、第二作目の犬はジョンの帰るべき場所ではないのでしょうか。


 ジョンはイタリア行きを決断する前に、コンチネンタルのコンシェルジュに犬を預けます。彼の考えうるなかで最も安全なところに愛犬を置いたわけです。それは金庫屋に預けた武器類とは違い、また引き取りに戻るための保護でした。この時点で、彼の旅は、犬のもとから離れまた犬のもとへ戻る、という道程がひかれたのでした。
 大冒険へ出た主人を待つ犬、という構図は、ギリシャ神話に照らすならば、オデュッセウスを二十年のあいだ待ちつづけた忠犬アルゴスを彷彿とさせますね。


 かくしてサントニオをぶち殺し、血みどろの戦いが終結した同時にコンチネンタルからの追放が確定的になり、コンシェルジュから犬を引き取ります。そこからはずっと犬と一緒です。


 コンチネンタルを失ったジョンにとって、犬を置ける場所はもはや自分の身の回りしかない。『少年と犬』以来、男の子の旅の道連れは犬であると相場は決まっています。いってみよう、ぼくらといま、アドベンチャーの国へヘイ! ( ߀ ඨՕ) 人|(ㆆ_ㆆ) |


 いまや一介の野良犬となったジョン・ウィック


 さよう、〈ジョン・ウィック〉とはキアヌ・リーヴスが犬になる物語なのです。*16
 次は神犬ライラプスとなって、痛み分けに終わったカシアン=テウメーッソスの狐を追いかけるのでしょうか。いや、その場合は狐と犬が逆か。

 だいたいそんなところです。


犬にしてくれ 初回盤(CD+DVD)

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*1:ジョン・ウィック2』パンフレット

*2:ちなみに本作と神話との関係を考察した記事は英語圏にいくつかあってこちらなども面白い  →The Hellish Mythology of John Wick | Endless Realms 以下当記事もこの記事に多くを負います。ここでは扱いませんでしたがローレンス・フィッシュバーン演じるバウリー・キング=聖杯伝説の漁夫王(フィッシャー・キング)説も面白い

*3:ジョンにとって車は宝物です。1で妻がジョンに犬をプレゼントするとき「わたしがいなくなっても、あなたには愛する対象が必要よ。この子を愛して。車じゃダメ(the car doesn't count)」と言っています。このセリフを裏を返せば、ジョンにとっては車は愛着の対象であるわけです。1の序盤では犬の描写と愛車の描写が半々であることにも留意しましょう。

*4:取り返した車のなかにあったものです。わざわざ車を奪還しにいった理由の一つ

*5:rf. http://www.tribality.com/2017/02/22/john-wick-and-mythology/

*6:1の冒頭で印象的に提示され、その後も何度となく再生されてきた重要な動画です

*7:これもまた神話由来のネーミング。原義はユピテルギリシャ神話の最高神ゼウスのローマ神話ヴァージョンの名前です。コンチネンタル・ローマの支配人にふさわしい名前といえます。ちなみにユピテルはドラマの『アメリカン・ゴッズ』にも重要な役回りで出てきますね。

*8:余談ですが、この武器調達シーンの一幕である仕立て屋のところで「ボタンはいくつ?」「ふたつ」「ズボンは?」「細身のものを」「裏地はどうします?」「実戦用のを」というやりとりがありますが、原文では「How many buttons?」「Two.」「Trousers?」「Tapered.」「How about the lining?」「Tactical.」と、ジョンの受け答えがすべてTで頭韻を踏んでいます。だから何だと言われたらそれまでですが

*9:冒頭のロシアン・マフィア戦のメインはカーチェイスと体術でそた

*10:正面からラリアットかましてきた山本山はえらい

*11:背後から追われるのでいえば、NYの駅構内でアジア系の暗殺者二名によってはさみうちされるシーンも含まれるかも

*12:役名はアレス。ギリシャ神話の戦神です。

*13:どこかの本でそう言ってた気がするが、ソースは忘れた

*14:ギリシャ神話の文脈でこれを「ミノタウロスの迷宮」と結びつける人もいますが、さすがにちょっと弱いかな。http://www.tribality.com/2017/02/22/john-wick-and-mythology/

*15:そうした観点でいくと、鏡屋敷で雑魚が鏡に移ったジョンの姿を誤射してしまうところは意味深ですね

*16:『レヴェナント』のときに使った論法の使い回し

「なぜあなたはFGOのガチャを回すのですか」

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 不自然な弁明ではなく、解明すること。これが与えられた使命である。


   ――シュテファン・ツヴァイク、『マリー・アントワネット』(下巻、角川文庫、中野京子・訳)



 一度羽生に訊ねたことがある。


 なぜFGOをやるんですか、と。


 羽生がなかなか答えないので、きまずくなって質問をつけ足した。「マロリーとおなじ理由ですか」


 二十世紀初頭の偉大なソシャゲーマー、ジョージ・マロリー(1886〜1924)。ヴィクトリア朝課金スタイル最後の継承者と謳われた彼は「なぜFGOをやるのか」と訊かれ、こう答えたという。〈そこに物語があるからだ〉。
 FGOのシナリオを褒め称える人は数多い。たしかな構成と想像力に支えられた物語こそが凡百のソシャゲと一線を画し、iTunesのランキングで五指に入った原動力である、そんなふうに誰もが認めている。
 だから、漠然と羽生もそうなのだと考えていた。彼もシナリオがあるから、FGOをやるのだろう、と。

 だが、羽生は首を横に振った。
「違うよ。そこに物語があるからじゃない。そもそも〈そこ〉に物語なんてない。あるのはシナリオだけだ」
 素朴な疑問が湧いた。物語とはシナリオのことではないのか? だから問うた。
「じゃあ、なぜ」
 そこで初めて羽生の双眸がわたしをまっすぐに見据えた。自他両方に対する冷厳さに満ちた、ベテランソシャゲーマー特有の眼のかがやき。うっすらと開いたくちびるのあいだから、水着イベントのザリガニを思わせる、硬く、重い響きが漏れた。
「おれがガチャを回すからだ」


 羽生はその一週間後、十八体目の星五サーヴァント宝具五にアタックをかけ、行方知れずとなった。
 生きた人間は星五サーヴァントをどれだけ宝具五にしても伝説にはなれない。死んではじめて伝説となり、英雄となる。

 英雄になることとは、つまり物語そのものになることだ。他人の口から物語られるエピソード、それが伝説の定義なのだとわたしは定義したい。
 今や伝説になった彼の物語は日を追うごとに膨れ上がっていく。行方不明になる直前、前人未到と言われた宝具五サーヴァント宝具五の十八体目を達成していたらしい。どころか十九体目も達成していたらしい。無記名霊基を百基あつめたらしい。1・5章の第七部をクリアしたらしい。
 わたしは、根も葉もない噂には興味がなかった。羽生がやったかやらなかったかわからない事蹟よりも、羽生がたしかに言ったことのほうが気になった。「おれがガチャを回すからだ」。


 わたしたちは最初の十連をおぼえているだろうか。
 アプリをダウンロードし、チュートリアルをこなし、☓☓を死なせ(わたしはあの悲劇を思い出すたびに胸が切なくなり、死者をもてあそぶリヨをにくむ)、序章をクリアし、かならず特定の星4サーヴァントの含まれた十連を、最初のガチャを回す。
 その十連は、わたしたちにとって想起することのできる最初の誕生の記憶だ。羊水から浮上して産道を通り、人生で最初の賭けを張る行為をわたしたちはヴァーチャルに再演する。
 だが、そうやって生を得たあたらしいわたしたちは哺乳類ではない。鳥類だ。目が開き、世界が暗闇から光へとうつろって、そこで最初に見た人物を「親」だと認識する。その人物をわたしたちは「初期星4」と言い換えてもいい。呼び方は自由だ。わたしとしては「運命」と呼びたい。

 そう、運命だ。

 わたしにとっての「運命」はマリー・アントワネット[ライダー]のすがたをとって現れた。人生における諸々の致命的なイベントと同様に、マリー・アントワネットが現れたときにはそれが「初めて見たきんぴかのカード」以上の何かを意味しているとは思われなかった。あまりにも、なんでもなかった。

 そのなんでもなさに、わたしは愕然としてしまった。最初のきんぴかカードは、もっと特別な存在だとどこかで思い込んでしまったいた。
 ギンカの筆によって描かれたマリーはなるほどかわいい女の子ではある。戦力的な観点から言えば、クセの強いサーヴァントではあるが、育てれれば随一のねばりを発揮する。だから? それが? わたしは絵や暴力を求めてFGOをダウンロードしたわけではなかった。物語が欲しくてゲームをはじめたのだ。

 だから、彼女にむりやりに物語を見出そうとした。マリー・アントワネットをフィーチャーした第一章が、コンビニで売っている安物のテーブルワインのように薄いお話であると判明し、幕間の物語もそれ以上ではないと知るや、史実に、シュテファン・ツヴァイクに、遠藤周作に、ソフィア・コッポラに、惣領冬実に、たすけを求めた。文字で書かれたものにこそ物語がやどるのだ。そんな無垢な信仰があった。
 だが、そうしたものにマリー・アントワネットの物語は含まれていなかった。いや、精確に言えば、小説や映画や伝記に描かれたマリー・アントワネットは1793年にフランス革命で処刑された現実のひととしてのマリー・アントワネットなのであって、FGOのマリー・アントワネットではなかったのだった。
 FGOの延長線上のマリー・アントワネットを求めるならば、二次創作などを漁るという手もあっただろう。でも、それはそれで「わたしの」マリー・アントワネットではない。わたしの運命ではない。わたしの運命でなければ、わたしの物語ではない。



 ゲームを進めるにつれ、扱いにくいマリー・アントワネットは主力パーティから外れるようになった。高レベルな敵を打倒するには、お姫様の攻撃力はあまり心もとない。わたしの手札には雷神の化身ニコラ・テスラがおり、殺す意志をもった打ち上げ花火アーシュラがおり、ゲーム中でも一二を争う破壊衝動クー・フーリン[オルタ]がいた。攻撃力がすべてだった。暴落する株価、堕落する議会政治、混迷を極める日本社会、暴力が世界を支配していた。地面から生えた手が金色の種火を落とすたび、わたしのこころは荒んでいった。フレポガチャを回さなくなった。シナリオを読み飛ばすようになった。運命や物語を信じなくなった。親愛度が七で止まったまま、マリーを忘れた。



 そんな時期に羽生と出会い、別れた。
 羽生との短い友人生活を送るあいだに、わたしは諸葛亮孔明[ロード・エルメロイIII世]を引き、エレナ・ブラヴァツキーを引き、ナーセリーライムを引いた。クラス別のきんぴかカードでは、キャスターが最多となった。
 第一部をクリアした。羽生は帰ってこなかった。
 新宿を終え、CCCコラボイベントを終え、アガルタを終えるころになっても羽生は消えたままだった。


 そうして、二〇一七年七月三十日だ。
 わたしはおぼえている。
 よく晴れた日曜日だった。ほどほどに暑く、ほどほどに湿気ていて、なんにせよ合唱するセミを殺してまわりたくなる憎悪はわかない休日だった。

 福袋ガチャの日だった。

 細かい部分を省いて説明すると、福袋ガチャでは四千円払えばタダで星5のサーヴァントが手に入る。ふだんの星5サーヴァントがたった一枚のきんぴかと引き換えに魂や人としての尊厳を要求してくることを考えれば、実に良心的なおねだんだ。なにせ、タダなのだから。

 わたしは特になにも願わずに、回した。
 欲しかったサーヴァントがいなかったわけではない。ただ、五十分の一の確率に願を掛けるほどのピュアさを保てていなかっただけだ。
 倦怠期のカップルが義務で行うセックスみたくけだるい虹色につつまれて、星5確定演出がはじまる。きんぴかのカードの背面はそれがキャスターであることを示していた。

 またキャスターだ。

 かすかな失望でこころが濁る。

 星5キャスターに強力なサーヴァントが多いのは事実だけれど、暴力性の点においては他クラスに劣る。わたしが欲しいのは暴力だった。
 しかしそれもまた人生だ。回ってしまったものは変えようがない。気持ちを切り替える。はたしてどれが来るのだろう。どれが来てもいい。
 二枚目の孔明? 不夜城? 三蔵? 玉藻? それともダ・ヴィンチちゃん? 
 マーリンが当たるとは思っていなかった。それはあまりに都合がよすぎる。ことソシャゲに関して、夢を見る趣味はない。


 だが、マーリンだった。


 マーリンか、と思った。
 ありがたくはある。トップクラスに便利な魔術師だ。声も櫻井孝宏だし。櫻井孝宏だし? でも、特別な感慨は浮かばない。わたしのなかに、マーリンにまつわる物語は用意されていない。
 彼は単なるNPと毎ターン回復を生む道具だ。


 育成用の種火と集めないといけない。
 あと輝石も。
 ああもう。どうしてこんなに術の輝石が不足してるんだ。うちには魔術師がおおすぎる。こんなにキャスターだけ多くてもどうしようもないのに。
 ええい、せっかくだから全員キャスターのパーティでも組むか?


 水着イベ終了で不要になったパーティセットを解散させ、空白となった枠にあたらしいサーヴァントを配置しようとする。
 手持ちのサーヴァント一覧画面を開く。
 サーヴァントはレベルの高い順に並んでいて……孔明、ジャンヌ[ルーラー]、マシュ、アンデルセェン……。
 ふと、ひらめく。

 
 これなら自前でアーツ耐久パを組めるんじゃないか?
 

 わたしは、いわゆる耐久パーティをきらっていた。耐久パを勧める人間もきらっていた。
 100ターン200ターンかけてちまちまと敵の体力ケージを削ることに快楽をおぼえるような人間には、きっとなにかしら欠陥があるに違いない、と思ってもいた。おはしをちゃんと持てないとか。twitterで会話するときはいつもポプテピピックの画像で返すクセがあるとか。かわいそうな人たちだ。


 だが、気がつけば、わたしのカルデアには耐久パに最も適したメンツがそろっていた。意識しないうちに、耐久パ用のメンツを鍛えあげてもいた。
 それなりに育ったマシュと、それなりに育ったジャンヌ。その二枚にそれなりに育てたマーリンを加えて前線に並べれば、FGO一退屈で頑丈な耐久パーティができあがる。どんな敵であろうとボスであろうと寄り切れる無敵パーティだ。最強だ。
 できあがってしまった。
 なんの予告もなく、唐突に、わたしのカルデアはここで戦力的に完成してしまった。
 ガチャを回してしまったがために。
 だが、やはりそこに物語など――。


 そのとき、わたしはまだ手持ちサーヴァント一覧画面を見つめていた。
 視界の焦点が吸い込まれるようにマリーへ合った。
 羽生のことばを思い出した。「物語はシナリオにはない」。
 最初に回した十連を思い出した。
 運命を思い出した。

 史実でも小説でもなく、FGOにおけるマリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。
 戦闘中に発揮できる彼女のスキルは三つ。一つ目は敵を〈魅了〉状態にして一ターンのあいだ行動させない能力。二つ目は、自身に敵の攻撃を三回も無効化できる〈無敵〉状態を付加し、かつ毎ターンHP回復状態にする能力。三つ目はHPを大回復させる能力。
 いずれも生き延びることに特化したスキルだ。先述したように、こと生存能力に関して彼女はゲーム中でもずば抜けている。耐久することに長けたキャラである。


 マリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。


 わたしが最初の十連を引いたときから、彼女は予言していたのだ。
 いずれわたしが彼女のようなパーティに終着するであろうことを。
 彼女のようにしぶとく、彼女のようにやさしく、彼女のようにしたたかな六枚。それを組むことこそがわたしのFGOにおける運命なのだと。
 そして、そのパーティにマリー・アントワネット自身のすがたはおそらく、ない。魔術師たちと聖女によるアーツカードのチェインをつなげるには、クイック偏重の彼女のカード構成は邪魔になる。でも、かなしくはない。そうだろう? わたしたちは? だからこそ、だろう? だからこそ、なのだろう? それは?


「それ」はわたしの物語だ。運営の書いたシナリオでも、他人の描いた二次創作でもない。最初の十連を、さっきの十連を、ガチャを回したからこそ生じたわたしだけの物語だ。
 もう暴力は必要はない。これからもテスラやアーシュラを使いつづけるだろうが、彼らが何本手を焼いたとてわたしの魂が落ちぶれることはない。
 わたしのFGOは既に完成したのだ。


 そして完成はかならずしも終わりを意味しない。

 わたしたちは常につぎのガチャを回すことができる。つぎのつぎのガチャを回すことができる。無限にガチャを回しつづけ、無限に物語を生成できる。もちろん、金さえ払えばなにもかもタダだ。自由だ。


 つぎはどんな運命が回るのかな。
 そんなことを考えながら、わたしたちは今日もガチャを回す。
 わたしのマイルームで、レベル100の新宿の犬が、うおんとちからづよく鳴いた。
 羽生もどこかで、聴いているだろうか。



神々の山嶺(上) (集英社文庫)

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Baby, Please Drive me. ――『ベイビー・ドライバー』の感想

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(Baby Driver, エドガー・ライト監督, 2017, 米)


 音楽が鳴っているあいだはきみも音楽。


 ――T・S・エリオット*1


 パンフレットにも載ってある「カーチェイス版『ラ・ラ・ランド』」という惹句に尽きる。ミュージカル的な快楽の点ではララを越えてさえいるのかもしれない。
 思えば常にエドガー・ライトの映画は音楽と共にあった。いまさら、『ショーン・オブ・ザ・デッド』でクイーンの「Don’t Stop Me Now」をかけながらゾンビをビリヤードのキューでたこなぐりにするシーンや、『ワールズ・エンド』でザ・ドアーズの「Alabama Song」がかかるシーンのミュージカル性を指摘するのも恥ずかしいくらい。『ホット・ファズ』でも『スコット・ピルグリム』でもエドガー・ライトはずっとビートを刻んできた。音楽は彼の映画そのものだ。


www.youtube.com


 『ベイビー・ドライバー』の主人公、逃がし屋のベイビー(アンセル・エルゴート)にとっては音楽も車も逃避の手段であり、同時に彼自身だ。幼いころに歌手だった母親を父親ともども車の事故で亡くして以後、彼は耳鳴りを抑えるため常時イヤフォンを耳にはめ、アクセルペダルを踏んできた。

バディ 「耳鳴りを抑えるために音楽を聴いてるって、ほんとか?」
ベイビー「うん、まあね。ついでに物事*2も考えずにすむ。
バディ 「つまりは逃避だな。なるほど」
ベイビー「速く動けるようにもなる。音楽のおかげでなにもかも上手くいくんだ」

――本編より

 彼にとっての世界とは、プラスチックのイヤフォン越しに聴こえ、車のフロントガラス、あるいはサングラス越しに見えるものだ。


 グラスとイヤフォン。ベイビーはこの二つのアイテムによって世界を拒絶している。直に触れるにはあまりにハードすぎるから。イヤフォン越しでなら強盗集団のボスであるドク(ケヴィン・スペイシー)が垂れる犯罪計画(本来のベイビーは正直な正義漢だ)も聞ける。
 聴くことを視ることを拒む、というのは裏を返せば、聴かれることも見られることを嫌いだということにもなる。
 映画の後半で、ドクに命じられてイヤフォンとサングラスをオフにしたまま、郵便局に入るシーンがあったことを思いだそう。彼は耳鳴りに苛まれ、監視カメラに怯える。あるいはヒロインのデボラ(リリー・ジェームズ)に出合うまで唯一の「家族」だった里親のジョー(CJジョーンズ)が聾唖であったのを思いだそう。
 そして、なにより彼は寡黙だ。自分の言葉をほとんど持たない。デボラとジョー以外の前ではほぼ音楽や映画の引用で喋る。*3
 

 つまり音楽はベイビーと世界との関係を象徴しているわけで、 エドガー・ライトは劇中で実にさまざまな角度から音楽を使ってベイビーと外部とのつながりを描く。
 たとえば、彼はドクに秘密で周囲の人々の”イイセリフ”を録音する。その録音をもとに何に使うかといえば、カットだのヒップホップななんだのをやって独自のミックステープを作成する。そうやっておっかないギャングや通りすがりのウェイトレスといった他人を音楽化することで、自分の世界へと取り込む。*4音楽でなければ彼の世界には入れない。なぜなら彼にとって人間とは音楽、歌う母親が原型としてあるからだ(一番大事なテープには「Mom」と書かれていて、中身は母親の歌声だ)。


 
 音楽で他人と繋がる手段は他にもある。曲の共有だ。ジョーとは同じ曲を聴いてコミュニケーションをとるし、デボラや郵便局のおばさんなんかとは音楽おたくトークで親愛度を上げる。
 でも、一番映画っぽいのは、犯罪集団でベイビーの兄的な存在になっていくバディ(ジョン・ハム)とのひとときだろうか。バディはベイビーがクイーンの「ブライトン・ロック」を好きだと聞いて、左耳のイヤフォンを借りて「ブライトン・ロック」をベイビーとシェアする*5。画としても美しいし、物語的にも後にこの構図が反復されることでその場面のエモーションが高まる。*6
 

 音楽はベイビーの世界観なので、音楽がズレるときに彼の世界も崩れだす。そのズレは撮影時に起きたちょっとした手違いに発している*7のだけれども、奇妙なぐらい映画的なストーリーテリングにマッチしている。映画にも音楽にも愛されないと、こういう偶然は生まれない。


 山田尚子は映画版『聲の形』を「伏し目がちな主人公が顔をあげて世界のうつくしさにちゃんと向き合うまでの物語」と定義したけれど、『ベイビー・ドライバー』にもそんなところがある。ブレーキを踏んで車のキーを投げ捨て、イヤフォンを外し、裸の眼できちんと「うつくしいもの」を捉えることで、傷ついた孤独なこどもはようやく車から人に戻り*8、音楽そのものになる。




 
 

*1:ベイビー・ドライバー』のファースト・ドラフト巻頭に書かれていたとされるエピグラフ

*2:stuff

*3:ドクに対しては『モンスターズ・インク』を使う。

*4:パンフレットによるとベイビーが大量に所有しているiPodはすべて盗んだ車に残されていたもの、という裏設定があるそう

*5:ここで「兄貴もクイーンが好きだった」とバディ言わせているのは重要だ。ベイビーに兄弟めいた情を感じている証拠なのだから

*6:「ひとつのイヤフォンをわけあう」構図だけでなく、「ブライトン・ロック」そのものや「killer track」というフレーズもまた別の場面で反復される。そう、本作でも反復は実に効果的に使用されている。「バナナ」とかね。序盤でジョーと一緒にテレビをザッピングしているときに『ファイト・クラブ』などと共にチラッと『くもり、ときどきミートボール』が映るけれども、エドガー・ライトもまたミラー&ロードの反復伏線芸に感動したクチだろうか

*7:その音楽のズレを生み出すのが誰か、と考えたときに、その人物がベイビーから「テキーラ」を盗むんだことも思い出すはずだ

*8:ここでもちろん私たちは、「人間が車になる物語」である劇場版『少女革命ウテナ』へのオマージュである『スコット・ピルグリム』をエドガー・ライトが映画化した事実を忘れてはいけない

奔るゾンビ映画――『新感染 ファイナル・エクスプレス』の感想

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(原題:부산행、ヨン・サンホ監督、2016、韓国)



「新感染 ファイナル・エクスプレス」予告編

走る列車、トレインするゾンビ

 感染が拡がる、まるで新幹線の速さで。
 などという地口が、場当たり的なノリでなく、しんじつ映画としての速度にマッチしているものだから、一見いかにも二秒でおもいついたようなB級のかおりがぷんぷんする邦題も実は考えに考え抜かれてつけられたものなのだと、心ある観客ならば開始二十分で気づく。


 とにかく列車も映画も止まらない。

 ZPM(Zombeat Per Minutes)は200を超えているだろうか、めちゃくちゃ機敏なゾンビたちが時には波のように、時には滝のように*1、そして時には獣のように人間に襲いかかり、その数を増していく。
 ゾンビ映画にありがちな「噛まれた人間が徐々にゾンビ化していき、蝕まれていく人間性とのあいだでコンフリクトを起こす」なんていうぬるい描写は(一部を除いて)ほとんどない。動脈を噛まれればまず秒でゾンビ化する。本当に秒だ。ウワーッと噛まれて振り向いた瞬間にはもうゾンビ。シャーッと元気に飛び跳ねる。このスピード感、この物分りの良さには走るゾンビ否定派も屈さざるを得ない。R. I. P. ジョージ・A・ロメロ。あなたも草葉の影から、あるいは天国の無人ショッピングモールからごらんになっているでしょうか。
 

銃社会でのゾンビ・マナー

 本作はオールドスクールなゾンビ作法にのっとりつつも、要所要所ではオリジナルな切れ味を発揮している。
 ゾンビの造形に関してひとつ、アイディアだなと感じたのは、その弱点だ。伝統的なゾンビ映画のゾンビにおける絶対確実な弱点として「頭をぶち抜かれると死ぬ」があるわけだが、しかしよく考えてみたら、これ、弱点か? 頭を打ち抜くなんてのは基本的に銃が身近に存在し、銃を失っても素手やバットで頭をストライクできるマッチョなステロイド国家でこそ成り立つ「弱点」であり、憲法で武装する権利を認められていない一億総ウィンプ国家である日本や韓国では到底現実性がない。ましてや強靭な肉体を持った走る系のゾンビを前にすれば、貧弱な東洋人などゴミムシも同然である。
 で、そうした問題を逆手にとって、そのあたりをどうクリアしてゾンビをぶち殺すか、といった興味が日本のゾンビものではひとつ頭のひねりどころだったわけだけれど、ヨン・サンホ監督はそもそもの前提を覆した。

 弱点がないなら、作ればいいじゃん、と。

 本作のゾンビは視覚と聴覚に頼って人を襲う。どちらかといえば、視覚が中心だ。とはいえ、ゾンビたちは感染したとたんに白内障のようなものにかかって視力が低下してしまう。他のゾンビ作品のように視覚と引き換えに嗅覚や聴力が跳ね上がったりはしない(というか、たぶん五感はすべて生前より鈍くなってる)。それでも眼に頼るしかないのが堕落した野生動物の悲しさ、つでいに彼らは思考能力がゼロなのでぼんやり眼についた人間に片っ端から突っ込む。


 といわけで、視界を塞げば無力化できる。

 その方法のバリエーションは実際に本編を観てほしいのだけれど、この特性を応用することでひとつの空間をまるまる安全地帯化できたりもする。さらには、その特性が「列車内で繰り広げられるドラマ」ともマッチするから、監督の作劇センスには舌を巻く。
 

 

韓国映画とゾンビ

 さっき、オールドスクールなゾンビ作法、と書いたけれど、オールドスクールなゾンビ作法といえばゾンビに込められた社会風刺だ。ロメロが『ゾンビ』でショッピングモールに集まるゾンビを描いたのは消費社会批判だった、なんてのは今では『ウォーキング・デッド』をカウチでポテトチップス食べながら見ている太ったガキが空で言えるほど手垢のついた決まり文句で、むしろゾンビと社会風刺をそんなに不可分にしてしまったらゾンビ映画の純粋なエンタメ性を削いでしまわないか? と思ったりしないでもないけれど、こと『新感染』に関してはそうした懸念はあたらない。というより、社会風刺とゾンビがうまいこと相乗効果を生み出して、作品を何倍もおもしろくしている。

 監督が社会問題に対してセンシティブなのは諸々のインタビューでも明らかになっている。近年で階級闘争とエンタメを織り交ぜた列車の映画を撮った韓国人監督といえば、ポン・ジュノだろう。『ニューヨーク・タイムズ』の映画評での「階級闘争を補助線に引いた公共交通機関ホラー映画」という言からもわかるとおり、英語圏のメディアで本作はよくポン・ジュノの『スノーピアサー』と比較されている。
 なるほど、監督自身が抱えている現代資本主義社会に対する問題意識をブロックバスターに耐えうるエンターテイメントに乗せることができる才覚は似ている。*2そういう意味でヨン・サンホはポン・ジュノの後継者なのかもしれない。
 しかしまあ韓国映画のエンタメ大作が社会に対する独特の緊張感をはらんでいるのは何もヨン、ポンのふたりに限った話ではなくて、たとえば最近でも「トンネル、父と娘、極限状況でのサバイバル」といった道具立てが本作と共通しているキム・ソンフン監督の『トンネル 闇に鎖された男』も積極的に韓国のメディアや行政批判を取り込んでいる。しかし、『トンネル』が本編でのサバイバルと社会風刺があまり有機的に成功おらず、ぎこちない印象を与えている一方で、『新感染』の処理は流麗だ。


 たとえば、主人公パーティの一人にホームレスのおっさんがいる。このホームレスは最初薄汚い恰好でわけのわからないことをぶつぶつつぶやいている気味の悪いアンタッチャブルとして登場して、ゾンビ騒動に巻き込まれるうちになし崩し的に主人公たちと行動をともにすることになる。
 特に役立つスキルやドラマティックな過去を持っているわけでもない、そこらへんの浮浪者だ。ふつうのゾンビものなら、あんまりメインキャラとして据えたりはしないだろう。
 そこをあえて起用した理由を、ヨン監督はこう語っている。

――今作でも、その前日譚である『ソウル・ステーションパンデミック』でも、ホームレスのキャラクターがキーになっていますね。


ヨン:『ソウル・ステーションパンデミック』はソウル駅が舞台ですが、ソウル駅というのは経済発展の象徴であり、その経済発展の道からはみ出してしまった人がホームレスになって、ソウル駅にいるのです。ソウル駅に行くと、一般の人はホームレスの人が見えていても見えていないふりをします。ゾンビの身なりや歩き方はホームレスに似ているものがあります。だとしたら、ソウル駅でホームレスを無視していた一般の人達は、ソンビが現れたときに果たしてその存在に気付くのか、というところからアイデアが広がっているのです。
『新感染~』でもホームレスのキャラクターは非常に大切な存在でした。ホームレス以外の登場人物はみな普通の人々です。公権力から阻害されている一般の人達がいて、ゾンビではないけれど一般の人でもないホームレスがいる。そういった状況で、果たして一般の人はホームレスを受け入れられるのか、また、それによってホームレス側の態度がどう変わっていくかを描きたかったんです
『新感染 ファイナル・エクスプレス』ヨン・サンホ監督インタビュー 「クラシカルなゾンビ映画であり、誰でも楽しめる普遍的な物語」 – ホラー通信|ホラー映画情報&ホラー系エンタメニュース


 ゾンビとして出てきたホームレスがゾンビ騒動を通じて人間性を回復していき、やがては「人間」的な行動に出る――彼の物語がヨン監督のいう「一般人」がつぎつぎとゾンビ化していく本編の展開との逆行ヴァージョンになっているのはおもしろい。
 最初薄かった人間味を取り戻していく、という点では主人公もまた同じなのだけれど、ホームレスや主人公とは逆に「一般人」たちはゾンビ化をまぬがれても極限的な状況にさらされて、人間性を喪失していく。
 生存者同士のいがみあい。ゾンビ映画にはよくある「ゾンビより人間がこわい」というやつだ。しかしその描きかたも大雑把なようでいて実は繊細で、彼らの変質もまた恐怖というまさに人間的な感情から発したものだという視線を監督は常に忘れない。
 それに本作における一番の悪役であるバス会社の重役(キム・ウィソン)によく象徴されている。彼は自分が生き延びたい一心で、とんでもない行為を数々やってのけるのだが、そんな彼がなぜ繰り返し「釜山行き」に終着するのかが、終盤に非常に悲劇的な形で明かされる。ド外道である彼もまた人間であったのだと、観客はそこで知るのだ。
 

 
 見えてなかったものをあぶり出す。それがドラマになる。
 夏休み映画になるには一日遅れてしまったが、夏休みを延長してでも見逃せない逸品だ。



ご冥福をお祈りします。

*1:列車内では難しい「縦のアクション」も、ちゃんとある舞台で用意されている。心憎い。

*2:未見だけれど、監督の過去作であるアニメーション作品『豚の王』『我は神なり』も韓国における階級を意識した点があると監督自身がインタビューで語っている


私たちは悪魔と取引してデザインされた死を遊んでいる

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 『ゆゆ式』を思い出そう。『終末少女旅行』を思い出そう。


 あなたはいつだって、「この問題」を無敵の少女たちに押しつけてきた。
 その罰として、あなたは今、悪魔と契約したコップに成り果てている。
 


Cuphead Launch Trailer



 人生では一回しか体験できず、ゲームでは何度でも味わえるものの一つに死がある。
 ゲームにおいて前提となる要素はかならず洗練されていなければならず、つまり死が前提となるゲームではいかに死という体験を洗礼していくか、そんな話になる。
 中世の王たちが生ではなく死をもって人々を統治したように。


 Cuphead。


 そこにはデザインされた死の体系がある。
 ちょっとした油断、ささやかな操作ミス、初見ではよくわからない敵ボスの当たり判定、結果として明らかに回避不可能となってしまったが事前にもうすこし考えて動いていれば出来していなかったはずの殺し間。

 プレイ動画を観た人間は誰もが「かわいそうに、理不尽に殺されているよ」とプレイヤーをあわれむことだろう。

 だが、プレイヤー本人は「理不尽」とは感じていない。

 彼にはなぜ自分が死んだのかが見える。

 ステージ開始から一分四十三秒後に死んだのなら、その百三秒の一挙手一投足すべてで積み上げてきた因果の結果として死に捕まったのだと知っている。動線が見える。死神の動線が、彼にだけ見える。


 だから、わかってほしい。


 すべてには順序と理由がある。私たちは順序と理由を求めてゲームを遊ぶ。あのときのたったワンフレームの誤操作、あのときのたった一度のライフ喪失。死因は積み重なる。
 やがて訪れるであろう、たった一度の本物の死をそうやって準備するのだ。

 だが、今は三十分のあいだに四十回死ぬ。
 ボクシンググローブをはめたカエルの兄弟、お菓子の城の女王様、カーニバルを支配する変幻自在のピエロ、野菜の形をしたザコ、見えるもの、触れ得るものすべてが冗談みたいにおまえを殺す。悪夢。
 プロメテウスは人類に火を与えた罰として、タンタロスは神々に自分の息子の肉を供した罰として永遠の苦悶を課せられた。おまえの罪はなんだ?
 そんなことを自問しながらフルアニメーションで描かれる美麗な作画に見とれているうちに、おまえのライフはゼロに達している。


 そう、壊れやすい陶器のコップである私たちは、百回の死のチャンスに対してライフを三つしか持っていない。
 これはゲームなので寿命を伸ばすことができる。ライフを四つ、あるいは五つにしたらグンとステージクリアの確率があがるだろう。武器を変更してもいいかもしれない。オススメは追尾弾だ。ただ撃つだけで自動で敵を追ってくれる。おまえは逃げるだけでいい。気分はまるでコロンバインだね。
 cuphead の本質は敵を倒すことじゃない、避けることだ。それは資本主義社会の本質でもある。ある日とつぜん降ってくる死などない、すべてには理由がある、という嘘に支えられた宗教だ。そこではアイテムを買い占めて、細心の注意をもって、踊るように、怯えるように過ごせば死を先延ばしできるはずだった。


 だがいくら眼を背けても、ないふりをしようとしても、完全に逃げ切ることはできない。
 七十回のコンティニューの果てにボスをギリギリで倒す。その瞬間はなにかが……なにかが報われたような気がする。救われた気分になる。
 その幸せは三秒程度しか持続しない。なぜなら、あなたの信仰はすでにリニアなひとつらなりの生にではなく、反復される死に対して捧げられている。「つましく小さなひとつの幸福を抱きしめる――それを「帰依」と呼ぶ。だがそうしながら早くも、新しい小さな幸福を流し目で盗み見ている」*1
 激戦地で九死に一生を得た兵士たちが次の死地に赴くように、マーリンを引いたFGOプレイヤーが宝具レベル2を目指すように、私たちは幸福を抱きしめる権利をかんたんに放棄してしまう。
 そういうふうに、私たちの欲動は、きらら四コマのごとき精密さで完璧にデザインされている。いったんコントローラー(ロジクールのやつ)を握ってしまえば、最低二時間はその慣性に追従しつづけるだろう。


 次の死のために、次の次の死のために。


ゆゆ式 9巻

ゆゆ式 9巻

私はゲームと書き物がへただ。

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 颱風がいくつか北大路通を過ぎて死の季節を開いたようだった十一月、ようするに寒い。両手足のゆびさきが絶妙に冷える。毎朝なじみのゴミ捨て場ずまいのネコも早朝からどこかへと失せるようになって、他人の犬たちの毛も増えた。大きい犬ばかりだ。散歩に出るのは。

 この前なんか、王将の前の横断歩道で信号を待っていたら、わたしの横に大型犬が三匹も溜まったよ。ハスキー、セントバーナードゴールデンレトリバー。そういう奇跡もある土地だ。

 わたしはわたしの犬を飼えない。犬飼いが犬とあそぶ時間を、別の余暇に割かなければならない。だから、さいきんのひと月ばかりは、金をもらって文章を書いていた。

 時間的な順序をただせば、文章を書いて金をもらっていた。人さまに見せると、面白くないと言う。なんだかつまらないものを書いた気になった。

 つまろうがつまるまいが、金はマネーだ。何かを買える。何を? ゲームを買う。Steam では毎日何かしらのパソコンゲームが安売りに出されていて、まるで奴隷市場の様相です。あなたに愛玩してもらうために、かわいらしい産まれたてのゲームたちが媚びながら、数分間の新しい快楽を約束してくれます。


Superflight七分

Superflight Launch Trailer - Wingsuit Highscore Game


 スタートと同時に宙に投げ出される。眼前にはルネ・マグリッドの描いた岩をマインクラフトでぶさいくに掘削したような絶壁が立ちはだかっていて、開始三秒以内に避けるなり回りこむしないと墜落する。
 あなたは鳥だ。ただし、カモメやアホウドリのように羽ばたくことはゆるされない。グライダーで滑空するだけだ。運と手管に恵まれれば、気流をつかまえて上昇することもできるだろう。でもそれだってほんの二、三秒しかもたない。すぐに落下する。
 重力の原理にしたがってしまえば楽に死ねる。あるいはできるだけ長い間滑空を続けるのもいいかもしれない。岩壁スレスレに飛べば、ポイントが加算されていく。なんのポイントかわからない。ぐるりと岩壁を周回する。ポイントが二倍になる。なぜ二倍なのか。誰にもわからない。
 意味をもとめてメタファーを探すのは徒労だ。そこに太陽はない。あなたはイカロスではない。
 意地汚く長生きすれば、やがて空間の歪んだ場所を発見できる。そこはポータルと呼ばれていて、くぐれば別のエリアに飛ばされる。別のエリアには、別の色の岩壁。別のポイント。別の墜落。するとまた、別の飛行。


Universal sandbox 2 八分

Universe Sandbox 2 - Teaser Trailer HD

 そこではコッツウィンクルの掌編みたいに、太陽系を貸し出している。あなたは嬉々として天の川銀河を受け取るが、そのあとどうすればいいかわからない。
ひとしきり途方に暮れた末に、太陽系に惑星を追加することに決める。
 そうして形成されたベガクラスの天体に、悪意は微塵も含まれていなかったはずだ。
 数周期もしないうちに異変が発生する。すべては重力のせいだ。まず水星が従来の軌道をかろやかに外れる。次にふきげんな金星が暴れ出す。すでに太陽も不審な挙動を見せはじめる。火星は手前勝手に新しい軌道を引いてそれに沿って回るし、土星はこのままいけば木星と衝突する。
 そして、われらが地球は? とっくに太陽に呑まれて影も形もない。予定より数十億年早いな。
 あなたは海王星をカメラで追尾する。海王星はいまや銀河でいちばん孤独な旅人だ。尻からなんだか正体不明の粒子を吹き出しながら、いつか別の惑星に出逢えることを夢見て、真っ暗な外宇宙をものすごいスピードで旅している。


Kerbal space program 6分

Kerbal Space Program Launch Trailer

 あなたはしちめんどくさいチュートリアルをすっとばして、出来合いのロケットで宇宙征服を企む。
 だが、そのロケットは飛ばない。
 いかにも第二宇宙速度を超越しそうな機体から燃料らしきものを吹き出しているくせに、飛ばない。
 チュートリアルをすっとばしたあなたには発射失敗の原因がわからない。重力に打ち勝つ方法を人類は発見したはずではなかったのか?
 発射場は夜になった。
 あなたの乗組員たちが困りはてている。


Hue 1時間

Hue Gameplay Trailer

 パレットのなかから色を選ぶ。すると世界がその色で塗りつぶされる。
 たとえば、青で世界を塗ったとする。その場合、オレンジの世界のときには見えなかったオレンジの足場が見えるようになり、それまであった青の箱が消えてしまう。
紫のときは紫以外のすべての色のオブジェクトが可視化され、紫のものだけが見えなくなる。
 メランコリックな女の語りがどこからか聴こえる。
でも、色とりどりの殺人岩を避けるのにいそがしいあなたの耳には入らない。


Hollow knight 19分

Hollow Knight: Beneath and Beyond Trailer

 愛らしいガイコツがかわいいクリーチャーたちを地下世界でなぎたおす。どう進めればいいのか誰かおしえてくれ。


GONNER 3時間

GoNNER Launch Trailer – Nintendo Switch

 愛らしいガイコツがデカいクジラのようなイルカ?を救うために、地下世界で銃弾をぶっぱなす。頭は着脱可能だ。武器も。命さえも。
 いつかは回避不能になる瞬間がくる。
 受け入れる準備をしておけ。
 それはあなたが思っているよりも早くやってくるから。


Night in the woods 15分

Night In The Woods Trailer - NEW DATE: FEBRUARY 21st

 大学を中退したネコが故郷の町に戻ってくる。町に入るためには、清掃員だか警備員だかにコーラをおごらなければいけない。家に帰ると父親が待っている。彼はあなたの帰りを予期していない。そこまでしかプレイしていない。


PUBG 1時間

Battlegrounds PS4 & XB1 RELEASE CONFIRMED!! PlayerUnknown's Battlegrounds On PLAYSTATION 4 & XBOX 1

 武器も持たず民家のトイレに籠って敵を待ち受ける。『喧嘩商売』に学んだ必勝法である。誰の足跡も聞こえないまま数分が経過する。プレイエリアの縮小が告知される。トイレから退出することを余儀なくされる。そして、民家を出たところをスナイパーライフルで撃たれる。実にみごとなヘッドショット。順位は32位だ。まあ、そんな日もあるさ。


Fortnite 2時間

Fortnite Battle Royale Gameplay Trailer

あなたはグライダーのおもむくまま、刑務所に降り立つ。
それははじめてのプレイだろう。なので、しらないのはしかたがないんだけれども、刑務所は皆殺しの野なんだよね。あなたは死ぬ。順位は82位。まあ、そんな日もある。


RUINNER 20分

 ヤクザが強い。操作のフィーリングがクソだ。これでIGNはよく満点をつけたものだとあなたは唾を吐く。慣れればおもしろくなりそうな予感はある。その予感を予感のままに残し、あなたは別のゲームへと移る。


Fate grand order 

 どのくらいの回数を回せるか、ではない。
 どのくらいの速度で回せるか、だ。
 忘れないで。


マギアレコード

あなたは本物の絶望をそこで知ることになるだろう。


Unepic 10分

Unepic Wii U Trailer


アメリカのオタクがノリで作ったようなシナリオに付き合うだけの気力が、そのときのあなたには欠けている。


Starbound3時間

Starbound - 1.0 Launch Trailer

 幸運なことにあなたには一緒に遊んでくれる友人がいた。
 ボイスチャットを介せばどんなゲームも楽しいものだ。
 あなたは宇宙船を拡張する。ペンギンを雇う。どこかの星に降りたつ。見知らぬ風景、見知らぬ人々。ときめく冒険心。
 なのに。
 なぜみんな死んでしまったのだろう。
 殺したのはあなただ。
 あなたにそんなつもりはなかったのに。
 ただ異星人の家にあった竹のテーブルが欲しかっただけなのに。
 もらっても怒られないと思ったのに。
 村から追われて別の村へ。そこの人々も敵に見えて、あなたはついブラスターを向ける。
 友人は言う。欲望が誤解を産む。恐怖が虐殺を産む。それはピサロやコルテスの頃から変わらない、征服の作法なんだよ。
 友人は原住民の死体を銃把でどかしながら、金庫を物色する。そしてこちらを向き、かなしく首をふった。なにもない。クズばかりだよ、この星は。いったい何のために存在しているのやら……。
 あなたの船に新しく据えられた竹のテーブルは、野蛮人どもの血に塗れている。


Lobotomy corporation 29分

[ Lobotomy Corp ] Join to Our Manager!

 神秘を説き明かせ。幾重にも覆われた謎のベールを一枚一枚丁寧に剥いでいくのだ。
 その過程であなた研究員達は狂気に陥り、研究所内で殺し合いを行うだろう。
 だとしても、この研究はそれを乗り越えるだけの価値がある。
 そう信じたい。
 SCP財団の福音が聴こえる。


Beholder 11分

Beholder Trailer [Polish]

 祖国に対する裏切り者があなたのマンションに潜んでいるらしい。
 監視しろ。鍵穴から覗け、隠しカメラを設置しろ、あらゆる不審をレポートにまとめるのだ。
 祖国はいつか、あなたに報いてくれるはずだ。


Candle 7分

Candle Trailer (2016 Video Game)

 ロウソクが飛んだり跳ねたりしていた。よく覚えていない。


Deceit 30分

 人狼fpsというキャッチーな謳い文句に惹かれて、あなたは閉鎖された病棟に仲間ともに飛び込む。仲間はもちろん、前から見知った友人達であるほうがのぞましい。できれば、ボイスチャットで繋がれる相手あるのがよい。
 あなた自身を含む仲間のうち二人は裏切り者だ。狼だ。夜になれば人を食う。だから、どうかお願い、逃げて。あるいは投票で殺せもするだろうが、現実的とはいえないだろう。あなたの仲間を殺さなきゃいけないのだから。
 野良プレイでは日本語を喋る狂人か、外国のことばを喋る狂人しかいない。近づくな。


Moonhunters 3時間

Moon Hunters | Gameplay trailer

 あなたは力を得て狼に変身する。モンスターを殺して金を集めると、今度はライオンに変身できるようになり、ボスに勝つ。ボスに勝つと、英雄として、そして星座として登録され、別の人生での冒険に添えられるささやかな彩りとなる。
 別の人生であなたは狼に変身できないかもしれないが、やがて星座に昇る運命は変わらない。
 人生は繰り返される。
 四度ほど繰り返されたところであなたは飽きて、九生を生きるネコたちの熱心さに畏敬の念を抱く。




RENOWNED EXPLORERS 2時間

Renowned Explorers: International Society Trailer

『アンリミテッド:サ・ガ』を思い出すよ。なつかしい。
 今では名作ということになっているらしいが、今でもダメなゲームだったと思う。しかし、あのゲームみたいに、見捨てさえしなければ面白さを味えたゲームをいくつ見放してきたことか。いまさら思いを馳せても詮無いけれども。
 REはアンサガより大分わかりやすい。そして、楽しい。
 アイルランドハンガリー、アルゼンチン、世界中を飛び回って冒険する。インディー・ジョーンズみたいに遺跡からお宝を発掘しにいくよ。もちろん、インディー・ジョーンズみたいに危険な目にいっぱいあうけれど、それはやはり映画的な、安全な危険だったりもする。
 倦怠は健全なよろこびだ。現実にはとうの昔に踏破されていると知りながら、あなたたちは未知の領域へと出かける。



 買えば買う分だけ、ひとつのソフトあたりのプレイ時間が短くなる。体験が薄まる。
 それでもまた買う。ライブラリにはアルファベット順に並んだ未プレイソフトたちが優美な屍骸を形成している。
 いつか遊ぶ日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
 
 

文学フリマで読んだ本。

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 11月の東京文学フリマで買っ(てきてもらっ)た本を読み終わったので、感想など。評論系がほとんどです。


東京大学お茶の会『月猫通り 2158号(特集:ショートアニメ)』
 友人が寄稿していたので入手。
 気がついたらなんとなく増殖してたショートアニメの歴史と位置づけを問い直す意欲的な特集。こういう気がついたらあったものを真剣に論じようぜ的なフロンティア・スピリットは大事ですね。
 冒頭に掲げられたショートアニメ史の概説は驚きと発見の宝庫。日本初のテレビアニメは『鉄腕アトム』ではなくてあるショートアニメだったとか、昭和のショートアニメアニメは毎日放送されていてそのシステムが広告ビジネスの産物だったとか……。
 2010年代以降のショートアニメの潮流について語り合う座談会もなかなかになかなかで、大学サークル同人誌での座談会って大概しょっぱい印象に終わることが多いんですが、ショートアニメを170本だったっけ? つまり2010年代のショートアニメをほとんど観てる意味わかんないマンとかがメンツに混じってるので意味がわかんないくらい明晰にシーンを総括できてる。
 「『ヤマノススメ』が五分アニメらしさを求めているとしたら、いかに五分アニメの軛から逃れるかが『信長の忍び』」「時間の制約に愚直に対抗してきるのが『信長の忍び』で、流れに身を任せてるのが『ヤマノススメ』」は名言ですね。
 


東京大学ジャンプ研究会『少年ジャンプ評論集 少年ジャンプ vs 東大生!?』
 友人から面白いと紹介されたので。
 二十代の英文学院生たちが集結し、マンガ評論論集を作った。論じる対象は国民的マンガ雑誌週刊少年ジャンプ』。執筆者の世代を反映してか、扱う作品は『ヒカルの碁』、『HUNTERXHUNTER』、『るろうに剣心』、『ジョジョリオン』、『僕のヒーローアカデミア』、『鬼滅の刃』、『ワールドトリガー』と1990年代半ば〜現在の作品で揃えられている。
 自分は評論や批評に手続きの正当性や細部の正誤より物語的ロジックのエモさを求めてしまうところがあるんだけれど、その観点でいえばマンガ表現論的分析で解体される『ヒカルの碁』の技巧的なストーリーテリング、『HUNTERXHUNTER』のゴンが「ゴンさん」にならなければなかった理由のキャラ関係からの読み解き、少年マンガに憧れつつも作家性が情念を裏切ってしまう悲劇の漫画家和月伸宏、といったあたりに読み応えをおぼえた。
 特に和月伸宏はネタがネタだけにタイムリーで、事件と呼応しちゃってるとこも出てきてタチがわるい(初売は夏コミですが)。
 これも座談会が充実している。男子校ノリが若干キツいけれど。


立ち読み会(孔田多紀)『立ち読み会会報第一号 特集・殊能将之(一)』
 先輩(大きなゆるいつながりの)が書いたので。
 不世出の天才作家・殊能将之の初期三作『ハサミ男』、『美濃牛』、『黒い仏』を、主に殊能が遺した日記サイト(いわゆる memo)の記述から読み解いていく、っていう認識でいいんだと思う。つづめていえば、殊能将之をめっちゃ精読した本です。
 著者の孔田さんのブログから元になったテキストがいくつか読めます。

anatataki.hatenablog.com

 って要約しちゃうと、なんだ、よくあるファンジンのレビュー本か、と思われる向きもあるんでしょうけど、違うんですよ、あなたは間違っている。
 殊能将之がデビューしてから十八年、物故してから四年、もう四年か、とにかく四年が経つわけだけれど、それまでわたしたちは殊能という作家を語り得てこなかったわけです。
 そら、殊能が好きだという人はいっぱいいましたよ。でも、殊能将之とはどういう作家だったのか、どの類に属する妖怪なのか、誰も言語化できてなかった。
 生前の殊能がほとんど素性を明かさない覆面作家だったせいもあったでしょう、作品が何かのオマージュっぽいわりにはその元ネタがわかりにくすぎるせいもあったでしょう、ミステリのレーベルから出てる割にはジャンル横断的というかおそらくSFなんだろうだけどそれにしては出処が不明すぎるにおいを放っていたせいもあったでしょう、あらゆるひっかかりをすっとばして読んでも作品そのもののケレン味が強すぎたせいもあったでしょう。とにかく、生半な読者の行為を寄せつけない、ミステリアスな雰囲気がありました。
 だからわたしたちが殊能将之を語るときはどこか尊敬と恐れが入り混じった、ぼんやりした印象論におちいりがちでした。ためか、ファンの多さにもかかわらず、殊能将之とは1999年からずっーと顔貌のぼんやりした作家でした。

 そうした状況にもってきて、孔田さんは殊能に作家としての輪郭を与えんと挑戦した。
 殊能将之を語る言語を発明しようとした、と言っていいのかもしれない。
 想像するだに、まあ、大変な作業でしょうよ。
 普通は……いくら好きな作家でもやりたくはない。作品ごとにテキトーな感想を書きつらねた全レビューとかでお茶を濁したい。
 でも、孔田さんは逃げなかった。
 ひとつひとつを、実直に読んで、誠実に論じました。必要な文献をていねいにあたり、フィードバックして、複雑な殊能世界をときほぐしていきました。
 ただ読んで、ただ語る。その積み重ねがいかに難しいことか。

 本書は形式的には作品についての本かもしれませんが、実質的には作家についての本です*1。覆面のまま失せた殊能将之という人間を、血肉を伴った作家として蘇らせるためのラブレターめいた魔術書であるのです。


  
アントニイ・バークリー書評集製作委員会『アントニイ・バークリー書評集 第七号』
 バークリーファンなのでずっと購読しつづけてきました。

 アントニイ・バークリーの書評集は、読んでも基本的にあんまりおもしろいもんでもない
 たまに鋭い評言が出たり、興味をそそられる紹介もあったりするけれど、だいたいがtwitterの文章に毛が生えたような短評だ。
 ディスりの文彩は異常に豊かだけど、巧すぎてなんだか騙されているような気持ちになる。
 こういう文章の集積から何がしか優位なサムシングを読み取ろうとすると、藤原義也とか森秀俊とか真田啓介とか法月綸太郎とかの翻訳ミステリ仙人クラスの域でも到達しなければならない。大半の人は悟りを得る前に入寂してしまう分野だ。
 なので、おもしろくはない。おもしろくはないが、愉快ではある。
 このクラスの個性になると立ってある方向を指差すだけでも文脈が生まれ、印象を派生し、気分を愉快にしてくれるものですよ。
 たとえば、バークリーはアンドリュウ・ガーヴをやたら褒める。紹介するたびにどんどん持ち上げていき、ついには「ガーヴは常に新しいことをやるものだ」というラテン語のことわざを捏造する。作家を褒めるためだけに、ラテン語のことわざを捏造する作家を、わたしは他に知らない。
 そう、現役作家時代はトラブルメーカーで知られたへんくつインテリ野郎バークリーさんも、老境に至っては古き佳きオックスフォード流のウィットを飛ばすおもしろミステリ爺さんだったんです。
 それを確認するだけでも、いいじゃないか。たのしいじゃないか。

 最終巻の本書は、ガーディアン紙によるバークリーの訃報記事で締められる。ある種の惜別だとか、そんな大層なものではないかもしれないけれど、わたしたちはこれを読んでようやく初めてバークリーにお別れを言える気がした。いや、これからも読むけれど。
 

稲村文吾・編『陳浩基の本』
 『13・67』が面白かったので買いました。
 『13・67』(文藝春秋)で今年のミステリ界の話題をかっさらった、今一番熱い海外ミステリ作家、陳浩基。その人のインタビューと、中国語圏系作家たちによる『13・67』レビュー、ならびに編者・稲村文吾氏による陳作品全レビューが読める。
 薄いコピー本だがこもった熱量はすごい。
 インタビューで陳が高らかに清涼院流水ファン宣言を行ったかと思えば、レビューでは馴れ合いや提灯記事などという語彙を知らないかのような(まあ中国語作家だし)ガチンコ評論・読解が並ぶ。
 収録短編ごとに連想される香港映画を記してレビューを始める李柏青のオタクっぷりもなかなかだけれど、陳嘉振も日本人にはわかりにくい中国語のニュアンスの問題を指摘し「単なる難癖ではなく、ミステリだとそういうミスも読者の推理の材料になってしまうから」と述べるめんどくさい本格マニアっぷりを見せつける。
 あんまり中国語圏のミステリは読んだことはないけれど、こういう人材が作家として揃っているなら、未来はあかるい。


薄荷企画『ゆびさき怪談(赤)』
 矢部嵩が書いてるから買った。
 201X年、空前の矢部嵩飢饉にあえぐ人類の前に一人の石油王が登場し、広漠たる文フリ砂漠に矢部嵩オアシスを建てた。御大尽の名は岩代裕明、オアシスの名は『ゆびさき怪談』という。
 掌編、あるいは超短編は、現存する文芸の形式においてもおそらく最難の部類に属する。特にホラーでは。
 ホラーの超短編には罠がある。ホラーはイメージの文学だ。なので、超短編でホラーを書こうとした場合、たいていの作者は最小の分量で最大限のイメージを喚起することばかりに神経を注いでしまう。そうした制作現場では、文章のリズムは注意の外へ追いやられる。ほんとうはリズムこそイメージと分かちがたく結びついている要素であるのに。
 そこにきて矢部嵩は強い。ワンセンテンスで読者にリズム感覚を乗っ取り、イメージの支配権を強奪してしまう。矢部嵩の暴力の本質が、『ゆびさき怪談』のシリーズには如実に顕われている。
 

風狂奇談倶楽部『風狂通信 VOL.4.5 『相棒』シーズン16開幕記念特別号 勝手に!ガイドブック』
 なんとなくネットで目についたので。

 人気刑事ドラマ『相棒』の特集号。『相棒』対談や、ノベライズ本全レビューなどが載ってある。
 ワセダミステリクラブから発展したサークルだけあって、ミステリの目利きはそれなりに信頼できる。たぶん。
 風狂の出す本はどれも座談会(的な企画)がおもしろい。理性のタガがちょうどいい具合に、ときには完全にアウトな具合で外れているので、発言の一切に責任を取らなくていい立場の読者からすればまあ愉快である。コンプライアンスを度外視してるかといえば、伏せ字などを多用するなど崖っぷちでブレーキを踏むだけの狡いバランス感覚はあったりもするので御父兄も安心してお子さんに読ませられる。
 

*1:即ち作家論、ということでもない気がする

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈8〉:『ハイウェイとゴミ溜め』ジュノ・ディアス

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『ハイウェイとゴミ溜め』(Drown、ジュノ・ディアス、江口研一・訳、1996→1998)

ハイウェイとゴミ溜め 新潮クレストブックス

ハイウェイとゴミ溜め 新潮クレストブックス


 ドミニカ共和国のスラムで育った少年ユニオールはある日、アメリカに住む父親の招きで兄や母親と共にニュージャージーに移住する。ドミニカでの幼少時代から、アメリカでの青年時代まで。『オスカー・ワオの凄まじく短い人生』で話題となった著者ジュノ・ディアスの自伝的デビュー短編集。

 冒頭の短編「イスラエル」はひどい話だ。
 夏休みに田舎のおじさんの家へ預けられた主人公とその兄ラファは、「豚に顔をかみちぎられた」と噂のマスクド少年イスラエルに目をつける。粗暴なラファはイスラエルと遭遇すると絡みだし、顔を覆うマスクをむりやりはがす。イスラエルを辱めて逃げ出したふたりは帰りのバスで、イスラエルがアメリカで受けるらしい整形手術について思い出す。弟は訊ねる。「アメリカでなら、治るよね?」兄は言う。「治るもんか」

 ユニオールがジュノ・ディアス自身であることは疑いようがない。ディアスはドミニカ移民として過ごしてきた人生をおそらくは多少のフィクションを織り交ぜながら、飾り気なく語る。ひとつひとつの短編はさほどわかりやすい盛り上がりやヤマを持たず、つねに淡々と進行していく。その自然さと明け透けさは洗練された私小説を思わせる。
 九十年代にスティーヴ・エリクソンがアメリカにおける私小説の不在を指摘していたけれど、まさに同じ時期に移民系の作家がみずからの来歴についての語りを通して、そうしたスタイルを獲得していたのは興味深い。

 二百四十ページ弱に収められた十編の物語はそれぞれ独立していると同時に、ゆるやかに共鳴していて、たしかにひとつの統合された物語を形作っている。それは人生の形をしている。読者は、ああ、これがユニオール=ジュノ・ディアスの人生なのだな、と額面通りに受け取る。「イスラエル」のように自らの恥部を晒す作家なのだから、ここには彼の人生のすべてが語られていると思ってしまう。
 そこに陥穽がある。

 2010年、ディアスは『ニューヨーカー』誌のインタビューにで以下のように述べた。
「……『ハイウェイとゴミ溜め』では、兄のラファが途中から登場しなくなります。彼はがんを抱えていたので。この本では、その話を書けなかった。あまりに辛すぎて書けなかったんです。だから、あの本には語りにおける『抜け』が存在します。その空白を埋めるためにニルダ」や「プラの信条」(どちらも『こうしてお前は彼女にフラれる』に収録)を書いたんです。」


 何を語るにしろ、一冊の本だけでは語りを尽くせない。だからこそ、ジュノ・ディアスは書き続けることを必要とした。作家になった。『オスカー・ワオ』や『こうしてお前は彼女にフラれる』はデビュー作の語りなおしであり、補論でもある。
 といっても、語りの空隙は作品を不完全にするのではない。むしろ、より豊穣にする。ユニオールの母親はそのへんをよく心得ていた。彼女の腹部と背中にはやけどの痕がある。1965年のアメリカ軍によるドミニカ進駐時のミサイル攻撃で負った傷だ。おそらくはユニオールの生まれる前だったであろう災難について、彼女は何も語らない。アパートの壁に息子の元恋人の写真を貼りつづけて現恋人の存在を無視し、「私の夢のなかではあの二人はまだつきあっているの」と蔭でうそぶく。
 何を見るか、何を見ないか。何を書くか、何を書かないか。何を語ろうとするか、何を語ろうとしないか。つまるところ、そこがあらゆる物語の行き着く地点だ。


 翻訳は江口研一。コエーリョの『ベロニカは死ぬことにした』などで有名だが、本書の訳は中途半端に古くさい。人称代名詞が「ボク・カレ・カノジョ」となぜかどれもカタカナで表記されるのはともかく(最初は「カレ」という名前のキャラがいるのかと思った)、全体的に無駄にカタカナが多い。雰囲気が統一されているので読みにくいことはないのだけれど、貧乏移民のハードボイルドな日常がバブルの残り香に汚染されているようで、二〇一〇年代に読むのはややつらく感じた。せっかく復刊するなら改訳してほしかったですね。(1700文字)


〈収録作〉
イスラエル」Ysrael
「フィエスタ、1980」Fiesta, 1980
「オーロラ」Aurora
「待ちくたびれて」Aguantando
「ふり回されて」Drown
「ボーイフレンド」Boyfriend
エジソンニュージャージー」Edison, New Jersey
「ブラウン、ブラック、ホワイト、そしてハーフのGFとデートする方法」How to Date a Browngirl, Blackgirl, Whitegirl, or Halfie
「のっぺらぼう」No Face
「ビジネス」Negocios

ケネス・ブラナー版『オリエント急行殺人事件』について

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 『オリエント急行殺人事件*1の映像化と呼ばれる作品は世界にだいたい五つくらいありまして、ここではシドニー・ルメット監督&アルバート・フィニー主演版(映画、1974年、以下「ルメット版」)、フィリップ・マーティン監督*2&デイヴィッド・スーシェ版(TVシリーズ、2010年、以下「スーシェ版」)、そしてケネス・ブラナー監督主演版(映画、2017年、以下「ブラナー版」)を扱います。
 この三つのラストを比較することでケネス・ブラナー監督版が何を描いているのか、そういうことの輪郭を素描できたらな、とおもいます。

 各版の総体的な違いは以下によくまとまっているので参照してください。ネタバレがありますけれど。

www.cinematoday.jp




 以下、まあ、なるべくネタバレしないように努力をしますがあまり期待しないほうがいい。


映画『オリエント急行殺人事件』予告編


ケネス・ブラナー演じるポワロについて。

 1934年のエルサレム聖墳墓教会で司祭、ラビ、ウラマーの三人が容疑者とされる盗難事件が出来します。そこにさっそうと登場したのがわれらが名探偵エルキュール・ポワロ(ケネス・ブラナー)! 彼は快刀乱麻を断つ推理で事件を華麗に解決へと導きます。犯人はポワロに捜査を依頼したイギリス人警察官でした。彼は独立の気運が高まるエルサレムで治安維持の職を失うことをおそれ、事件をでっちあげることで市民を不安によって支配しようと企んだのです。


 冒頭数分で語られ、ポワロの「名探偵力」を観客に知らしめる小さな事件。いかにも公正でリベラルな「イスラエルパレスチナ問題はそもそもイギリスが悪いんです」論を戯画化したような挿話です。
 もちろん、2017年に生きるわれわれは、もはやこのトピックを単純な善悪でくくれないと知っています。
 しかし、本作のポワロさんはそれが可能な存在として現れます。
 彼は過剰なまでに秩序を希求する、強迫性障害じみたキャラとして描かれます。朝食にゆで卵を2つ注文して、その大きさが均等かを確かめる。やたら他人のネクタイの曲がり具合を気にする。片方の足でロバの糞を踏んだら、もう片方の足も糞に突っ込ませる。
 ブラナー監督曰く、
「彼はロバの糞を踏んづけても気にしない。しかし、もう片方の足が糞を踏んでいないことを問題視する。混沌にあってさえ、不均衡に秩序をもたらさなければと考えているんだ。」*3
 かくしてポワロは1934年のエルサレムで明朗に断言するのです。
「物事には正しいこととと間違っていることがある。その中間は存在しない。 “There’s right, there’s wrong, there is nothing in between.”」
 この絶対の自信、シリーズ名探偵にふさわしい所作といえるでしょう。
 なんとなれば、正邪の分別に自信満々のブラナー版のポワロこそ『オリエント急行殺人事件』を経験するにもっともふさわしいポワロなのかもしれません。『オリエント急行殺人事件』とは、探偵の敗北についての話でもあるのですから。


オリエント急行とはどこか。

 名探偵とは毎度毎度、非日常的な場へ放り出されるものと決まっています。では「オリエント急行」という場とは具体的に何を表している場であるのか。実のところ、この列車に何を見出すかによって物語は若干性格を違えてくる。
 ポワロの同乗者たちの顔ぶれを見たときに、まず目につくのはその国際色の豊かさです。ポワロ自身はベルギー人で、他にはイギリス人、ハンガリー人、フランス人、ドイツ人、スウェーデン人、アメリカ人に至ってはイタリア系がいたりユダヤ系がいたり。
 この多国籍性は原作でも言及されています。

「……それにポアロさん、なんとも物語的だとは思わないかね。あらゆる階級、あらゆる国籍、あらゆる世代の人々が勢揃いだ。三日間にもわたり、そんな赤の他人同士が一緒に過ごすのだからね。お互いからの逃げ道ひとつ持たないまま、ひとつ屋根の下で眠り、食事をするんだよ」(田内志文・訳『オリエント急行殺人事件』角川文庫)


 このセリフにスーシェ版では「まるでアメリカじゃないか」というセリフが付け加えられます。
 まずもって、オーソドックスな見方でしょう。原作でも解決編のときにポワロはこう述べています。「こんなに様々な人々が一ヶ所に集まるようなことが果たしてあるだろうかと想像してみたのです。そんな場所は、ひとつしか思い浮かびませんでした。アメリカ以外には、アメリカならば、それだけ多くの国籍を持つ人々がひとつ屋根の下に暮らしていてもうなずけます」(田内訳)
 出自の異なる多様な人々が一つの場に集っているのはいかにも移民国家アメリカ的な状況ですし、殺人の動機となって幼児誘拐殺害事件もアメリカで実際に起こったリンドバーグ事件をモデルにしています。被害者につけられた12の刺し傷*4と12名の乗客が陪審制度と結び付けられるのは原作でも印象深いところです。
 ネタバレぎりぎり、というか、これはもうネタバレだと思いますが、アメリカ的な状況下に集った人々が自分たちの信念にもとづき独自のルールを策して正義を執行する、というのもこのうえなく象徴的だとおもいます。
 「オリエント急行=アメリカの縮図」説をより色濃くハッピーかつドメスティックに描いたのがルメット版です。


 もうひとつの解釈としては、ミステリ評論家の佳多山大地が唱えた「国際連盟」説もあります。
 後に第二次世界大戦で対立する陣営に分かれて戦うことになる国々が一丸となって協働する光景に「絵に描いた餅に終わった国際連盟の〈理想〉を、あの客車内で実現しようとした試み」*5を、なるほど、見いだせるといえば見いだせる。
 

 オリエント急行にヨーロッパを見出すにしろ、アメリカを見出すにしろ、結局はハコとしての性質です。ケネス・ブラナーは探偵の物語として『オリエント急行殺人事件』を描くと宣言している(していない)のだから、われわれはオリエント急行が「ポワロにとって」何なのかを求めるべきでは?

 というか、ルメット版、スーシェ版、ブラナー版の三者の違いもそこにあります。
 つまるところ、「ポワロがどちらの側に属しているか」の違いなのです。


ポワロはどこにいるのか。

 ルメット版。
 1974年版のハリウッド・オールスター大作として制作されたルメット版のオチは、現在的な倫理観からするとかなり異常です。
 なにせポワロの情状酌量によって「無罪」になった真犯人が乗客たちと抱き合って喜び、シャンペンを開けて乾杯する、というシーンで幕を閉じるのです。正義は圧倒的に真犯人の側にあり、残酷無道な被害者は殺されてよかった。正義は果たされた。めでたし、めでたし。そんな感じです。*6
 こうした場において、フィニー演じるポワロもまた「善」の側、真犯人の側にあります。段取りありきで解決編へと導く原作版の発展形ですね。*7アメリカ人大物キャストによって固められたアメリカ的なオリエント急行内で、ポワロもまたアメリカ人の倫理に回収されていく。すなわち、独自の法による独自の制裁。
 もっともフィニー・ポワロの立場には彼を「外国人」に留めるちょっとしたエクスキューズも入っています。彼は事件解決後、喜びに湧く乗客たちを尻目にちょっと意味ありげな顔つきで列車を去っていき、祝杯には参加しません。そのポワロの顔を、ひややかなものと受け取るか、真犯人に対する是認と受け取るかは意見がわかれるところでしょう。
 ともあれ、カメラは退場していくポワロを追わず、エンドクレジットまで乗客たちによる祝宴の様子を映しつづけます。ルメット版『オリエント急行殺人事件』が主人公ポワロの映画というより群像劇として撮られた印象が、そんなところからも滲んでいます。

 

 スーシェ版。
 2010年にイギリスで作られたドラマ版では、流石にルメット版のようなハッピーな解釈は許されませんでした。
 原作やルメット版のポワロは、同乗した鉄道会社の重役の意見を容れる形で偽の解決を甘受します。ところがスーシェ演じるポワロは偽の解決を受け入れることを強硬に反対するのです。オリエント急行乗車直前に「人が人を裁くこと」についてのジレンマをつきつけられていたポワロは、いくら被害者が極悪人とはいえ、私刑を看過できませんでした。彼自身、熱心なクリスチャンだったせいもあるでしょう(本ドラマでは、ポワロが神に祈りを捧げるシーンが何度も印象的に挿入されています)。
 頑なに真相暴露にこだわるポワロのもとへ真犯人が説得へやってきます。
 ポワロは説きます。「正義は法体系に委ねるべきだ」
 真犯人は反駁します。「でも法が機能しなかったら?」
 ポワロは激昂します。「ならば神に委ねるがいい」
 真犯人は泣きはらします。「でも、人は正義を否定されたときに不完全な気持ちに――神に見捨てられた気分になります」
 ここで突きつけられている問いはけっこうクリティカルです。
 法律や神が悪人を見逃し、善人を苦しめているとき、人はどうすべきなのか。何ができるのか。
 本ドラマの冒頭で、ポワロはある事件で犯人を追い詰めた末自殺に追いやりました。その直後、イスタンブールで(おそらくは姦通罪かなにかで)不当に石打刑に処される女性を目撃しました。前者の事件は、ポワロの職業である「名探偵」がある種私刑的な要素を孕んでいることを、後者の事件は法の正義に限界があることを示唆しています。
 この2つの事件を前提にし、オリエント急行の殺人に相対したとき、法にも神にもすべてを委ねることのできない自分がいることを彼は発見するわけです。彼は「悪」としての真犯人との共通項を見出し、結局、大変な嗟嘆を飲み込みつつ、真犯人の「悪」に加担する。
 スーシェ・ポワロにおいて、復讐はぜんぜん善きこととではないわけです。それを知りながら偽の解決を警察に報告しなければならないところにシリーズ探偵*8としての敗北がある。
 ルメット版や原作とは違い、ラストでは乗客もポワロもみんな雪の舞う列車の外に降りています。彼は乗客たちの刺すような視線を浴びながら真実をねじまげた報告を行い、涙を溜めながら去っていくのです。この場面描写は重要です。
 つまり、スーシェ版で描かれる「オリエント急行内での出来事」はある特定の範囲内での特殊な出来事ではなく、世界とどこまでも地続きの「現実」なのです。その厳しい現実をどこまでもポワロは孤独に歩いていかねばならない。スーシェ版の悲壮さは、そんなところからも生じているのでしょう。
 


 
ブラナー版。
 で、われらがブラナー・ポワロは善と悪のどちらに属するのでしょうか?
 ブラナー版において、ポワロは独特のルールを有した列外の人物として現れます。オリエント急行に乗車するさい、カメラは列車の外部からパンしつつ、それぞれ固有の「窓」を持ったキャラたちを通り抜けるポワロを映します。このショットは降車時にも反復されるわけですが、乗客たちのなじみっぷりに対してポワロは明らかに異物として描かれている。
 乗客たちとポワロの断絶は徹底しています。
 まず被害者の身元が判明したときに、ポワロは「悪人といえど、殺してはいけない」とつぶやきます。原作で被害者に対して「まったく、あの獣め!」と怒りを示した友人に同意したのとは大違いです。被害者に同情する様子こそは見せないものの、被害者を悪党として糾弾する乗客たちとも一線を画しています。
 なにより二者間の断絶が決定的なものとして視覚化されるのは、解決編のシーンでしょう。
 雪の積もった車外で、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を思わせる長方形のテーブルに乗客たちが一堂に会し、その向こう側にポワロがポツンと立っている。そんな異様な構図。ルメット版での明るい車内で乗客たちに囲まれたポワロの図とは対照的です。
 ポワロはこのとき真っ白な積雪の上に立っていて、対する乗客たちは洞窟内?に座っている。裁きを与える無垢な存在としての探偵がそこにはいます。
 冷徹に真相を暴き出したあと、ポワロは真犯人に銃を渡してこう言います。「これで私を撃てばいい。そうすれば皆の望みどおり、真相は闇へと葬り去られる」
 ブラナー・ポワロにはうそがつけない。友人である鉄道会社の重役はうそがつける(から対決場面において乗客たちの側に立っている)けれども、真実とバランスを至上とするポワロにはできない。
 真犯人はそこであるリアクションをとります。その行動から、ポワロは真実とバランスだけでは、正しさと間違いだけでは割り切れないケースがあるのだと知ります。
 彼の敗北宣言はスーシェ版と似ているようでまったく違う。ブラナー・ポワロはあくまで自身の問題として事件を捉えているのであり、そこにフィニー・ポワロのような、あるいはスーシェ・ポワロのような真犯人たちへの共感はほとんどない。
 なぜならブラナー・ポワロにとってオリエント急行は完全な異国であり、その乗客たちは列車内で制定された独自のルールで動く異国人たちだから。
 彼は彼の正義の通用するところでしか、名探偵たり得ない。
 ブラナー・ポワロは善と悪のどちらに属していたか。答えは「どちらでもない」です。どちらにも属しきれなかった。彼の正義は場の正義と合致せず、最初から最後まで列車は彼と違うルールで走っていたのだから。

 そうしてポワロは一人、列車の最後尾から降り、列車の進路とは逆の方角(駅)へ向かって歩み出します。観客の方へ向かって。
 彼は駅で出会った警官から「ナイルで事件があった」*9と聞かされて、オリエント急行の殺人などなかったかのように名探偵の仕事に復します。そのとき、彼は警官に対してこう言うのです。「ネクタイが曲がっているよ」
 まったく同じセリフを、彼はオリエント急行乗車直前にも口にしています。
 彼がネクタイのあるべき姿を指摘し、それに他人も同意してくれる場所。彼が名探偵であり続けられる場所。
 そういう場所に、ポワロは帰ってきたのでした。

 
 

*1:あるいは『オリエント急行の殺人』

*2:いまや『ザ・クラウン』の主戦エピ監督だ

*3:CS Interview: Kenneth Branagh Orient Express, Thor & More!

*4:本邦で初訳されたときのタイトルでもあります

*5:『謎解き名作ミステリ講座』講談社

*6:事件が解決した瞬間に雪に足止めされていた列車が力強く走り出す場面も高揚感をあたえます

*7:原作版でのポワロの被害者への肩入れっぷりは露骨です。不要なはずの「第二の解決」を縷々と組み立てていき、ハバート夫人の証言につまづきが出れば助け舟を出してあげたりもする。これを段取りと呼ばずに、なんと言えば良いのか。

*8:オリエント急行殺人事件』のエピソードがスーシェ版のドラマではほとんど末期に放映された事実を思い出しましょう

*9:言うまでもなく次回作『ナイルに死す』へのめくばせ

『おそ松さん』2期OP曲=『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』説

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前回までのあらすじ

 引っ越しの準備で映画を観ている時間がない。



君子危うくも最後のジェダイ

 「君氏危うくも近うよれ」を朝から晩まで聴いています。『おそ松さん』二期のオープニング・ソングです。この曲を十回、二十回、三百四十二回、千九十六回、とヘビイにリピートしていくうち、宇宙に関する真理を少しずつ悟っていきます。
 啓示を得ます。この曲はわたしたちになにかを伝えようとしている。全貌までは垣間見えません。しかし、そこでは『おそ松さん』というアニメについて以上のことが語られている。わたしたちはそう感じる。「それ」は何か。



【MV】A応P「君氏危うくも近うよれ」Short Ver.



 こうして、十二月十五日が来ます。『スター・ウォーズ』のエピソード8『最後のジェダイ』の公開日です。
 その日、IMAXスクリーンの前でわたしたちは直感するのです。
『おそまつさん』のOPソングが伝えたかったのは「これ」だったのだと。
 『スター・ウォーズ:フォースの覚醒』から『最後のジェダイ』に至るまでの物語こそ、歌詞に込められたメッセージだったのだと。
 なぜJJエイブラムスが日本の深夜アニメのOPにスター・ウォーズの物語を忍ばせようとしたのか、その意図は不明ですけれども、まあわたしたちがJJの意図を理解したためしなどない。


 ただ在るものは在るのです。


 稲妻によって石板に刻まれた十個の戒律のように、片田舎の駅に建つ地元マイナー偉人の銅像に付せられた短歌碑のように、なぜかは知らないけどそこに歌われている。そういうものです。


 と、いうわけで。
 これから「君氏危うくも近うよれ」に隠されたSW秘話を解き明かしていきましょう。
 と思いましたが、歌詞を全文引用するとどうも怒られるらしい。といわけで、元の歌を独自に翻訳した文をテキストとして用いたいと思います。
 もっとも世の中には翻訳権というものもあるようです。『平家物語』や『源氏物語』といった古典が矢継ぎ早に「現代語訳」されている現状的にはどうやら日本語を別の日本語に移し替えるのも「翻訳」であるとみなされる危険もある。ダメじゃん。
 というわけで、以下の引用文は『おそ松さん』二期のOPとはなんの関係もない、完全創作による詩です。そういうことにしておいてください。そういうことにしてしまったらそもそもの企画意図が破綻してしまう感じもしますが、破綻なら最初からだ、なにもかも。 


 以下『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』のネタバレが含まれます。あと、同作についての感想その他ではありません。
 

1番の歌詞解説〜『フォースの覚醒』制作秘話〜

1番の歌詞は主にエピソード7『フォースの覚醒』の成功が歌われています。『プロジェクトX』みたいなノリなので、JJエイブラムス的には歌手に中島みゆきを想定したものとされています。

すいません、通してください
本心から言ってるのではないのですが……
でもまあ、そういうものでしょう?
午前六時に愛想をふりまけと?

解説:ファンからの大反対を受けつつSW新作製作権を得たディズニー。「六つ」のエピソードのファンたちを納得させ、新時代の幕開け(明け)を呼ぶ新作となれるのか? という出だし。


迷子になってもむしろ絶好調です。
自慢じゃないんですが
負ける気がしませんね
こっちには松竹梅がございますので

解説:新三部作の舵取りを任されたプロデューサーのキャスリーン・ケネディ、ならびにJ・J・エイブラムスはさまざまな試行錯誤をおこなったに違いない。
 しかし、それは行き当たりばったりの手探りによるものではなく、ディズニー資本の協力なバックアップと豊富な人材、そしてSWへの熱意(まさに松竹梅である)に裏打ちされたアドベンチャーであったので、成功を疑うものはいなかった。


酔ってきたようです あなたという酒に酔ったのですよ?
「最初の一撃で決めましょう。砲弾よーい」
あとは待つだけです

解説:JJらの熱意は現場へと伝染し、チーム一丸となって”開幕全力一発”、まさに乾坤一擲の大勝負である『フォースの覚醒』を完成させた。
 満腔の確信のもと、彼らは最初の吉報を待ったのである。


 ふわふわしたファジーさはなるべく抑えました
 顔をあわせて透き通っていつもどおり
 毎度毎度総集編みたいなものですね
 あたりまえですが

解説:JJはいつものJJ演出(フレアの多用とか)を封印し、『フォースの覚醒』では旧作のキャストを揃えて馴染みのあるプロットで透明な演出に徹した。
その手法が「まるでエピソード4の焼き直し」などとも非難されたが、その総集編感がいいんじゃないか。いうたら、SW映画って、てんこもりすぎて毎回総集編みたいなもんでしょ? と主張。


うるわしの貴方に会いたいです
でも貴方は言います「危うきには酔わず」
なんとなれば難易度エクストリーム
もういっかい やらなきゃですよね

解説:プロデューサーと監督の一人二役では自らの手に余ると判断したJJはエピソード8以降の監督を探す。しかし、監督候補たちはプロジェクトのあまりの無謀さ、責任の重大さに尻込みしてしまう。
 あくまでクオリティを求めてやまないJJ。無理を承知でエピソード8も自分がやるか……? そんな思いつめる彼の前に現れたのが――。


常時ぶっ飛んでいます
(回転)翼なんかなくても飛べます
「いつからそんなことできるように?」なんて聞かないで
いつだって最後までフルパワーです

解説:ライアン・ジョンソン。『LOOPER』という「トン」でもない名作SF映画を撮ったこの若手にJJはプロジェクトを託します。
 この人選にファンはもとより業界人たちも大ショック。低予算の長編を三作しか撮ってない若造にこんなビッグバジェット大作を任せるなんて……「いつからそんな」実力を?
 各所からあがる疑問の声を「ぷろぺら」のように受け流し、全力小僧ライアンは我が道をつきすすんだ。そうして、『最後のジェダイ』を完成させた。


二番〜『最後のジェダイ』の内容解説〜

ここから二番。『最後のジェダイ』の内容を歌った歌詞になります。同作の重大なネタバレが含まれます。

貴方の言うとおりです
本心ではありません
でもまあ、そういうものじゃないですか
午後六時にまたよろしくお願いします

解説:『最後のジェダイ』の台本を読んだマーク・ハミルは演じることに気乗りしなかったらしいが、映画とはそういうものだと割り切ったに違いない。彼もまた、「六つ」の旧い作品を「愛顧」する人々へ別れを告げるときであることを認識していたのであろう。


肩の力がぬけてていいかんじじゃないですか
悪くないですよ
悪くないですけど自信を持てなくて……
松竹梅があるはずでは?

解説:ルーク・スカイウォーカーのもとで修行に励むレイを描写している。レイの圧倒的才能を前にしてもなかなか師匠になってくれいルーク。切迫した状況下で松竹梅(ここではフォースのことです)を求めるレイに対し、彼は「自信ないの」になってしまった過去を「実はね」と明かすのだった。

揺れている貴方も素敵
弾幕を調整するので、弾込めはすこし待ってください」
あとは待つだけです

解説:解釈が分かれるパートであるが、一般的にはファースト・オーダーの驍将ハックス将軍を歌った部分とされる。いつも上司やカイロ・レンにしぼられて地に突っ伏したり首しめられたりでぐらぐらしてる彼も、戦場では一軍を率いる指揮官。
 冷静沈着な将である彼は敗走する反乱軍の偽計を見抜き、「弾幕」の方向を「調整」するのである。すくなくとも、ファースト・オーダーの戦史ではそう記述されていることだろう。


大志ある少年よ! 貴方は想像以上に
ぼんやりしてて掴みどころがないですね
全速力で走って栄光に手を伸ばして
それがチャレンジというものです

解説:言うまでもなく、カイロ・レンくんのことを歌った箇所。レンくんはエピソード7から立ち位置が「曖昧」でどこに「ふち」があるか見えないキャラである。
エピソード8は、そんな彼が「超Q」で「駆け上が」る「挑戦」を行う野望の物語でもある。


早く大人になりたいあまりに
危険なことを他に押しつけてしまってすいません
でもわたしにも信義があります
話し合えば、わかってもらえるはずです

解説:新キャラ・ローズのパートであろうと推測される。反乱軍の一員として早く「大人になりたい」若き整備兵は、英雄フィンと手を組んでファースト・オーダーの追撃を止めるある秘密作戦に参加する。
そのために「危うきを任せ」られる人物を探すが、やっと見つけたその人に参加報酬として彼女の大切なアクセサリーを要求される。しかし、まあ意外と話せばわかってくれるわけである。


一日中
「突撃だ!」
と心臓を早鐘のように鳴らします
あまりに高くて硬くて震えがとまらない
会敵したら、ジャミングでOK

解説:ローズとフィンがある星で繰り広げるドタバタを活写している。たぶん。


「宇宙の果てまでだって飛びますとも」
膨れ上がるエントロピーを夢で除きましょう
するといつかはお望み通りに反転するはずです

解説:当初はレイア姫「宙の果てまでだってトンでるぜー!」なシーンのことと解釈されてきたが、近年の研究ではむしろレンくんとのバトル前後におけるルークの心情を表したものという解釈が有力。


 ふわふわしたファジーさはなるべく抑えました
 顔をあわせて透き通っていつもどおり
 毎度毎度総集編みたいなものですね
 あたりまえですが

解説:一番の繰り返し。つまり、エピ8もエピ7と同じ志のもとで作られたということ。わりにジョンソン色が出ているけれど。


大志ある少年よ! 貴方は想像以上に
ぼんやりしてて掴みどころがないですね ぱやぱや
毎回リトライしてばかり
そういうものだと悟りました

解説:ここの「少年!」は前述のレンくんではなく、ルークのこと。彼がラストバトルにおいて「曖昧 透明でふちのなし」的な「ぱやぱや」存在になってしまったことは観賞済みの諸兄の知るところである。
 ルークの遺志を継ぎ、ファースト・オーダーに「サイチョーセン」する反乱軍。それはエピソード9に対する製作陣の心意気ともシンクロしている。心あるものならばここで涙が溢れてくるはず。


常時ぶっ飛んでいます
(回転)翼なんかなくても飛べます
「いつからそんなことできるように?」なんて聞かないで
いつだって最後までフルパワーです

解説:レイア姫のあのシーンである。
「えっ、フォースっていつからそんなことが?」などとは聞かないでほしい。キャリー・フィッシャーは常に「気が済むまで絶好調」であった。R.I.P.


何事も完璧なことなんてありえないんですよ
お相撲さん*1

解説:エピソード8の出来に関しては、いろいろ文句もあるだろうが、誰もが納得できる、完全な続編などありえないんだよ、というJJからのファンへの伝言……
 かと思いきや、最後の最後で驚天動地の反転が起きる。
 実はこの歌を捧げる対象はSWファンでなく、力士だったのだ。
 ここからは、現在の日本を揺るがす角界の騒動を憂慮するJJの心情がうかがえる。あるいはこれこそまさに彼が深夜アニメにSWからのメッセージを託した動機なのかもしれない。スモウ・レスラーたちよ、まずは落ち着いてくれ、と。とりあえず俺たちのSW新作を観てほしい。そして、世代交代と相互理解の重要性について思いを馳せてほしい。そうJJは言いたかったのだ。
 JJの視野の広さと慈愛の深さには感服するばかりである。
 がんばれ、JJ.
 銀河と土俵に平和がもたらされるその日まで!



君氏危うくも近うよれ

君氏危うくも近うよれ

*1:各種歌詞サイトでは「おそまつさん!」と表記されているが、どう聴いても「お相撲さん!」としか聞き取れない

ユーゴ紛争について触れずにクストリッツァを語ることは可能だろうか。:『オン・ザ・ミルキーロード』感想

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(On the Milkyroad, エミール・クストリッツァ監督、セルビア、2017)
*注意:オチまでネタを割っています。

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 男は厩舎で女と邂逅する。ぎこちなく、けれど自然に数語がやりとりされる。

 男は言う。

「僕の名はコスタ。きみは誰だ?」

 女は返す。

「昔は女の子だったわ、今はもう違うけれど」

僕といっしょだな。もう男じゃなくなってしまった……」

「どんな『男』だったの*1?」

「僕がかつてそうだったような男さ*2



エミール・クストリッツァ監督最新作!『オン・ザ・ミルキー・ロード』予告


動物たちの小芝居を再演する人間たちよ

 冒頭のシークエンスに二時間のストーリーラインがまるっと予告されている。

 岩場にたたずむ二羽のハヤブサ。つがいだろうか、と勘ぐる間もなく片方のハヤブサが飛び立って、内戦*3の再開をまつ兵士たちを旋回しながら鳥の眼で俯瞰していく。

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 ぼんやりハヤブサの視線を追っているうちにカメラは地上で群れるアヒルたちへとバトンタッチされて、彼らのかたわらを豚が屠殺人によってある一軒家へとひきずりこまれていく
。やがて屠殺人が血でたぷんと膨らんだ革袋を持って出てきて、玄関先に設置してあったバスタブに中身をぶちまける。なみなみと揺れる豚の血のプールを見るや、アヒルたちは我先にとバスタブに飛び込んでいく。白い羽毛が真っ赤に染まる。

 ただ動物の眼から見た即物的な狂騒が描かれていてなんとも居心地の悪くなっていたところに、戦闘用ヘリコプターが現れる。この機械仕掛けの飛行体を契機に戦いのひぶたがふたたび切って落とされて、そこかしこに銃弾が飛び交う。

 ヘリは戦闘域を脱しようと奮闘する。が、おりあしく高速で向かってきたハヤブサと正面衝突、操縦室は鳥の血まみれに……なったかと思いきや、それは夢で、夢の主である主人公コスタ(エミール・クストリッツァ)がハッと冷や汗をかいてベッドから飛び起きる。
 だが、画面から銃声はやまない。戦争そのものは夢ではなく、現実のようだ(ここでようやく演者のクレジットが表示される)。


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 彼は窓にハヤブサがとまっているのを見て、名を呼ばわり、リズミカルなパーカッションで出迎える。なるほど、このハヤブサがコスタの分身なのだな、と合点するのはまだ早い。

 そうして、彼は日常の業務を開始する。前線の兵士にミルクを配達する仕事だ。彼はロバに乗り、黒い傘をさし、まるで『エル・トポ』みたいな風体で砲火をくぐる。まるで命など惜しくないか、あるいは戦争など起こっていないかのように、泰然とロバを走らせる。


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 ロバに乗るコスタは、いついかなるときも地に足をつけない。横着にも脚をロバの首にそって伸ばしてくつろぐことさえある。傘を翼のようにひろげて太陽を拒み、常時肩にハヤブサを従えて空と地のはざまをゆく彼はさながら鳥のよう*4

 なんとなれば、彼は望遠鏡を持っている。そのレンズを通して、陰からさまざな対象を観察する。ときにそれは人であり、彼のこぼしたミルクをすする蛇でもある。蛇。蛇は重要だ。でも、言及はあとにしよう。

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 とりあえずコスタは鳥だ。そう措定したい。


 コスタをハヤブサと断定しないのは、彼が途中で別の鳥に変わるからだ。

 ゼウスがレダを誘惑するために白鳥へと変身したように、彼もまた性愛のために水鳥へと変わる。ただし、白鳥ではなくてアヒルに、だけれども。

 彼はとある事故から片耳が切り離されてしまう。それを元の通りに繕ってあげる女性が出てくるのだけれど、彼女がモニカ・ベルッチ演じるヒロインの「花嫁」だ。

 彼女はもともと難民キャンプに身を寄せていたセルビア人とイタリア人のハーフだったのだけれど*5、その美貌をコスタの住む村の英雄ジャグ(クストリッツァ作品の常連ミキ・マノイロヴィッチ)に見初められてキャンプから誘拐同然にひきずりだされ、むりやりジャグの婚約者にされてしまったのだった。

 ちなみにコスタにミルクを卸しているジャグの妹(スロボダ・ミチャロヴィッチ)もコスタに惚れていて、戦争が終結した暁には兄妹揃って結婚式をあげようと画策している。この妹というのも変わり者で、ひとつ印象的なのが実家に設置してある大時計に執心している点だ。
 大時計は毎日故障を起こして狂いっぱなしなのだが、彼女は取り壊したり交換したりは絶対にせず大きな時計をいつも苦労して修繕する。おそらく戦争という狂った時間が終われば、幸せな日常=コスタとの結婚生活がやってくるという彼女の信仰がそうさせるのだろう。「たとえ明日で世界が終わったとしても、結婚式は開くわ」

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 ともあれ、いわば未来の義姉弟の関係になるはずのコスタと「花嫁」は互いに惹かれあっていく。初めは厩舎の窓越しに会話をするだけだった二人の関係は、井戸という水辺でコスタの耳を継ぐ肉体的接触を経て、何かが大きく動いてしまう。

 
 そして戦争が終わる。ジャグと妹はクストリッツァ名物である盛大な結婚式を執り行う。ところが、祝い事に沸く村に多国籍軍の特殊部隊が唐突な襲撃をしかけてくる。なぜ? 事前に提示されていた伏線だけれども、「花嫁」は多国籍軍の将校のもとから逃げ出してきた来歴を持ち、その将校が「生死を問わず」彼女を取り戻してくるよう部隊を村に差し向けたのだった。

 丸腰の村民たちは虐殺され、村は焼かれる。ジャグと妹も死ぬ。皆死ぬ。家畜たちも逃げ惑う。火だるまになりながら羽ばたこうとするアヒルのショットが観客の網膜に焼き付く。
 将校の指令はこうだ。「蝶一匹残すな」。

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 とある幸運から虐殺を回避したコスタは、白無垢のウエディングドレスを羽織ったままの「花嫁」と共にあの井戸に身を潜める。井戸に貯まった水に潜る。めざとく井戸をのぞき込んで貯水の下をさぐる兵士たち。だが、そこに蝶々があらわれて、兵士たちを翻弄する。指令の遵守が仇となり蝶々に気をとられている兵士たちを尻目に、コスタたちは村から遁走する。手と手とをたずさえて。暗いトンネルの先にある光明へ向けて走り去るふたりの影は、まるで蝶々の両翅、あるいは鳥の両翼のようだった。


 ハヤブサの羽だろうか。いや、水をくぐって生まれ変わったふたりはもうアヒルだ。

 その証拠に、もはやコスタは徒歩しか移動手段を持たない。彼を地上から遠ざけていたロバは虐殺事件の巻き添えになって殺されてしまった。彼はアヒルみたく不器用に地を這うしかなくなる。たとえ、嵐の中で樹上に身を隠しながら愛し合うことで天上へ昇ったとしても、それは『ラ・ラ・ランド』のプラネタリウムよろしく二人の脳内だけで繰り広げられるファンタジーなのであって、アヒルの飛行のように一時的なものにすぎない。

 ふたりはハネムーンみたいに甘く愛を交わしながら逃避行をつづける。川辺に家まで建てる。「花嫁」はコスタへの愛の証としてジャグから押しつけられた花嫁衣装を川に投げ捨てる。ふたりは幸福だった。


 だが、兵士たちの追跡は執拗だ。

 ふたりはついに彼らに捕捉されてしまう。マシンガンを抱えて迫りくる兵士たち。運の悪いことに、「花嫁」は魚用の罠にひっかかっておぼれかけている。

 彼女を必死で探すコスタは、捨てられた白い花嫁衣装(彼が運んでいたミルクのイメージと重なる)の導きで「花嫁」を見つけ出したものの、そこで兵士の一人とかち合い水中でのとっくみあいに発展する。

 コスタを助けるため「花嫁」はナイフを取り出し、兵士の首につきたてる。鮮血が水にぶわりとふきだして川のながれにそよぐ。冒頭の屠殺シーンが再演される。豚である兵士の血をアヒルであるところのコスタと「花嫁」は浴びてしまう。


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 ふたりは追い詰められていく。川を下り、滝壺へと身を投げ、ついにクライマックスの舞台である牧羊たちが群れる地雷原へとたどりつく。
 そこで大スペクタクルが繰り広げられる。
 ああいう感動は実際に観た者にわからず、観た人間であれば忘れがたくその印象を記憶しているはずなので、ここでは顛末を簡潔にそっけなく記すにとどめたい。
 要するに、大量の羊たち(もちろんそれは大量の白でもある)と兵士が地雷によって吹っ飛び、「花嫁」も命を落とす。


 それから15年後を描いたラストのパートも書くに及ばないだろう。
「花嫁」は”天国”にいる。コスタはミルクの代わりに白い瓦礫を運んで彼女の没地に敷き詰めることに余生を費やしている。彼はつばさを取り戻せなかった。
 彼は丘の上に座って、空を旋回するつがいのハヤブサたちを見やる。あれは「花嫁」だ。うたかたのように消えた彼女との幸福な日々だ。もはや二度と届かない幸福が、「昔と違えてしまった」彼の頭上でうつくしく舞っている。
 
 

聖書の蛇の再評価

 さて、本作ではさまざまな動物が印象的に使われていますが、とりわけ蛇は重要でしょう。誰が観てもわかると思いますが、『オン・ザ・ミルキーロード』はアダムとイヴの楽園追放のモチーフをプロットの基底部に明確に据えてあります。

 劇中で蛇はコスタと「花嫁」に一回ずつ襲いかかり、体にねっとりと巻き付いて身動きをとれない状態してしまう。一見、攻撃行動のように見えますが、実はそれはむしろ死地を踏みかけていた彼らを救う行為であったと判明します。*6

 蛇はどうやらふたりを守護する存在のようです。キリスト教色がところどころに垣間見える本作の文脈にあっては、どうも矛盾しているように見えますね。

 劇中でも、ある村人が蛇についてこう言います。「蛇の誘惑に乗ってしまったばっかりに、俺たちはこんな世界に降りてくるはめになっちまった」
 別の人物がこうも付け加えます。「蛇もいっしょにな」

 クストリッツァの意図は何か。実は日本語メディアのインタビューで、聖書的なモチーフに関してはっきりと回答しているのです。*7

クストリッツァ:彼らは、旧約聖書に出てくるアダムとイブのようなカップルなんだ。そして、アダムとイブについて考えるとき、私はいつも思いを馳せることがある。彼らは、蛇にそそのかされて木の実を食べてしまったために楽園を追われることになったが、それ以前の彼らは、どう過ごしていたのだろうか? それを今回の映画で、描こうと思ったんだ。だから、この話はある種の神話だ。
……(中略)……
この映画は、「エデンの園」の物語に対する、私なりの回答なんだ。「エデンの園」では、アダムとイブをそそのかした悪者のように描かれている蛇だけど、古代メソポタミア文明をはじめ、かつて蛇というのは、神の一種であったという記録もある。新約聖書において、蛇は必ずしも悪者として描かれていないんだ。

そして、さらにエデンの園の物語をよく読んでみると、アダムとイブをそそのかしたのは確かに蛇だが、そのあと蛇は彼らと一緒に楽園を追放されているんだよ。つまり、蛇は人類と運命を共にしたんだ。そういう意味で、蛇に感謝を示したかったというのがひとつあった。あと、もうひとつは、アフガニスタン紛争中にあったという、「牛乳好きな蛇に、ある男が生命を助けられた」というエピソード。それらを取っ掛かりとして、私は今回の物語を考えていったんだ。

宮内悠介がエミール・クストリッツァを直撃 監督の発想の源は? - インタビュー : CINRA.NET


 たしかに蛇にそそのかされて、人類は大変な流浪を強いられたのかもしれません。ですが、追放者という点では彼らもまた苦汁という名のミルクを分かち合う仲間だったのです。

 なにより、蛇がいなければ人類は性愛を知ることはなかった。

 クストリッツァにとって蛇とは、人類を導いてくれる賢いけものなのです。




夫婦の中のよそもの

夫婦の中のよそもの

本作の原作が載っている。

アンダーグラウンド Blu-ray

アンダーグラウンド Blu-ray

名作。本作でジャグを演じたマノイロヴィッチが主人公を演じている。

*1:which man?

*2:The man I once was

*3:直接国名等の言及はされないが、明らかにユーゴ内戦がモデル。パーティシーンに赤青白の三色に星が配された国旗が出てくるけれど、セルビアの国旗に似ている

*4:そういえば、軍時代の彼は狙撃手だった、という台詞が出てきた気もするが、記憶が定かではない

*5:クストリッツァイタリアの巨匠フェリーニに大いなる敬慕を捧げていることを想起されたい

*6:もっとも、「花嫁」のときは救えなかったわけですが……。

*7:これを引き出した宮内悠介はえらい


人類が存続を保証すべき2017年の新作連載マンガ72選

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神獣楽天庭国カドカワにて*1

あけましておめでとうございます、あたらしきマスター。
連載継続保障機関ヨムデアにようこそ。
あなたの着任を歓迎します。

さて2017年、われわれは許されざる人道上の大罪を二つ犯しました。
ひとつは『ルポルタージュ』(作・売野機子)の打ち切り。
もうひとつは『四ツ谷十三式新世界遭難実験』(作・有馬慎太郎)の打ち切りです。
どちらも最高級のマンガ作品です。将来を嘱望された名作です。やがて歴史に残る傑作になるはずでした。

幸い『ルポルタージュ』は他社への移籍が決定しているとのことですが、『四ツ谷十三式〜』はいまだにどうにもなってません。*2

このような悲劇を二度と繰り返してはなりません。
われわれは読者として、消費者として、なにより一個の文明人として、マンガ史に対する責任があります。


わかりますか?
わかりますね?


であるからには、あたらしきマスターよ。
ここに2017年に見出された七十二の初芽を、やがてマンガ界を支える柱になるであろう新連載マンガの第一巻を七十二作、そろえてございます。


であるからには、あたらしきマスターよ。
顕現せよ。
牢記せよ。
これに至るは七十二柱のマ神なり。


注意と目次

*注意1……というわけで昨年第一巻が発売されたマンガで、現在も連載が継続中(最初の二作は除く)の良作をピックアップしていきたいと思います。単発長編や短編集、同年内打ち切り作品等はまた別の記事を立てる予定です。
*注意2……基本的に単行本派なので、モノによったら既に雑誌上で打ち切られたり完結してる可能性あり。
*注意3……興味の範囲的に、アフタヌーン、モーニング、ハルタ、バーズといった系統の青年マンガが中心です。
*注意4…‥読書環境的に、紙でしか買えないマンガは扱っておりません。
*注意5…‥タイトル横のカッコ内は著者名と既刊数(2018年1月1日現在)。
*注意6……「振った番号=面白かった順位」ではありません。が、ざっくり数十作単位でふんわり格付けみたいなものはしてます。
*注意7……amazonのリンクと一緒に(読める場合は)公式サイトの第一話試し読みリンクも貼っておくので、気になったかたはぜひチェックしてみてください。


私が選んださいきょうのAチーム30柱

永遠じゃなくて無限につづいて欲しい傑作30作。

1柱『ルポルタージュ』(売野機子、3巻)

 目が合った。
 今は合わせてくれない。


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 結論から言えば、顔のいいジト目の女が出てきておまえたちは一人残らず睨め殺される。


 恋愛という行為および感情が衰退し、双方の実利に基づく合理的なパートナーシップ契約としての結婚が一般化した近未来日本。
 そんな時代を象徴する存在と見られていた非・恋愛コミューン(恋愛を飛ばして”共同経営者”としての結婚相手を見つけるための共同体)である日、凄惨なテロ事件が発生します。新聞社に勤める若手記者・絵野沢は憧れの先輩である青枝聖と組み、テロ事件の犠牲者たちに関する人物ルポを書くように命じられます。
 その過程で聖はテロ犯人に支援を行っていたNPOグループの男性・國村と出会ってしまう。眼と眼が合うんですね。その瞬間、聖と國村のあいだに「何か」が生じてしまったことを傍目に絵野沢は嗅ぎ取ります。*3
 そこから恋の話が始まります。恋の話を描くにあたって、売野機子は「眼」の描写を徹底します。
 そう、とにかく眼のアップが多い。それらは周到かつ巧妙に配されている。たとえば第一巻だけで対面している聖と國村を真横から捉えた構図が三度繰り返されますが、そのどれもで微妙に両者の位置関係をズラしています。
 計算され尽くした巧緻な語り口によってでしかつづることのできないたぐいの物語があります。人間についての物語はいつも一筋縄ではいかない。たった三巻で終わらせるにはあまりに複雑で、蠱惑的すぎました。
 具体的な移籍先はまだ不明ですが、今のうちに百回くらい読み直しておきましょう。


2柱『四ツ谷十三式新世界遭難実験』(有馬慎太郎、1巻)

 こいつはこの星の知識を全力で嫌がらせに使うつもりだ。


comic.mag-garden.co.jp


 ひょんなことから奇っ怪野蛮な巨大生物たちが蠢く異世界に飛ばされた四ツ谷正宗くんとその友人たち。元の世界へ帰還するにあたっての最大の障壁は巨大生物ではなく、正宗の兄にしてアタマのネジがいかれた天才マッドサイエンティスト・四ツ谷十三なのでした。

 私たちは一人残らず例外なく九十年代が大好きで、すきあらばその残り香を瓶に詰めて閉じ込めようとします。
 あるいは本作もそんなノスタルジーの一環なのかもしれません。
 今となってはどこか芋っぽい絵柄。『レベルE』(冨樫義博)のバカ王子じみた悪魔的天才主人公。ぐちゃっとした異世界。16ビットゲームのパロディ。パンイチのつっこみでキャラが吹っ飛ぶギャグのノリ……。
 そしてなにより、読者を鈍角から不意打ちするSF的センス・オブ・ワンダー
 なにもかもがみな懐かしい。
 新しい酒は新しい革袋に入れるべきだと人はいいます。しかし、古い酒を新しい革袋に入れる愉しみも世の中にはあるわけで、容器が違えば風味も口触りも微妙に変化するものです。
 仮に動機が『レベルE』の再現であったとしても、紙面に反映されているのはたしかに有馬慎太郎先生個人のタッチと思考なのであって、力量のある作家は舗装された大道から必ずいつか脱線して、自分の道をこしらえてしまいます。
 その兆候がみえた矢先に無残にも打ち切られてしまいました。でも忘れらんねえよ。忘れたくねーよ。
 

3柱『バイオレンス・アクション』(画:浅井蓮次、原:沢田 新、3巻)

「大丈夫? 死ぬかもですよ?」
「……それはきみもだろう」
「死ぬつもりなんですね。絶望のにおいがする。サービス料は入金済みだから別にどちらでもいいんですけどーーなるべくなら生きましょう。猫とかプランターとか小さい喜びを胸に!」


yawaspi.com


 これもボーイ・ミーツ・ガールが「目が合う」ことによって成立するマンガですね。
 いわゆる殺し屋もの。天使的な役割を演じるタイプの殺し屋もののなかでは最上級でしょう。
 定型をある程度までなぞりつつも、ある程度わかりやすい引用などを踏まえつつも、要所要所でのハズし具合がとにかく絶妙です。スクラップ・アンド・ビルド、ビルド・アンド・スクラップ。

 そんでまあ、話がうまい。キャラがうまい。設定がうまい。表情がうまい。構成がうまい。アクションがうまい。セリフがうまい。ウソがうまい。ようするに、まんががものすごくうまい。
 陰惨な話が多いですが、主人公の殺し屋少女のポジティブさが陽性の救いをあたえています。
 女の子が殺し屋やる話なら『CANDY AND CIGARETTETS』も要注目です。


4柱『BEASTERS』(板垣巴留、6巻)

 文字通り、俺はあなたを食べようとした。
 怖がるどころか 会話する権利すら本当は
 ないんだーー


arc.akitashoten.co.jp


 学園版ズートピア。内気なオオカミの男の子がウサギの女の子に恋心を抱くものの、捕食者-被捕食者という種同士に植えつけられた本能が恋路を阻む。古典的な『あらしのよるに』メソッド。理性を圧倒的に肯定するズートピアとは逆ですね。予定された運命にどれだけ抗えるか、自分を獄する世界をいかに改革しうるか。そうしたものを描くためには、寓話でありつつもリアリティを出すという矛盾したタスクをこなさなければなりません。新人だてらに板垣(巴)先生はその不可能を可能にしました。
 視野が広いんですよね。世界観に奥行きがある。まるまる一話分を割いた「学食に自分の産んだ無精卵を売るニワトリ」の話もここでそれ持ってくるのか、という驚きがありますし、描写レベルでも、たとえば最新第六巻の隕石祭のシーン:「先に拍手したのは肉食獣。鋭い爪音を混ざるのをかき消そうとするように、草食獣の拍手も徐々に加わった」と情景もちゃんとビースターズ世界の言語で叙述している。
 豊かな世界を構築できているからこそ、そこに生きるキャラクターたちの懊悩も空疎なものになっていない。この罠を回避できる描き手はけして多くはありません。才能だなあ、板垣娘。
 

5柱『ワニ男爵』(岡田卓也、2巻)

「カキ小屋が今熱いです」
「気になってはいました」


www.moae.jp


 紳士的なワニ男爵とちょっとだらしないウサギ、ふたりのグルメは今日も食を探求する。
 グルメギャグ漫画です。
 こちらは第一話のアオリで「ライバルはズートピア」と自分から喧嘩を売っていくスタイルですね。
 瞠目すべきは絶妙なキャラメイクと盲点から撃ってくるギャグの威力。どちらも無二のセンスです。
 特にワニ男爵の造形はいいですね。ジェントルな立ち振舞の深奥に隠された荒々しい過去。日々の衝動を己を律することで乗り切っていく求道者っぷりが惹かれます。第一話を読めば誰もがラビットボーイのようにどこからどう見ても純然たるワニにしか見えないワニ男爵を「先生!」と慕いたくなるはず。
 私たちが求めていた「師匠」マンガがここにあります。


6柱『違国日記』(ヤマシタトモコ、1巻)

 あの日 あのひとは
 群をはぐれた狼のような目で
 わたしの 天涯孤独の運命を 退けた

 両親の急逝により天涯孤独になった中学生が、JKローリングみたいな売れっ子児童文学作家である彼女の叔母と同棲生活をはじめる話。

 『HER』、『BUTTER!』、『花井沢町公民館便り』。ヤマシタトモコはキャリアを通じてずっとことばを研ぎ澄ましつづけてきました。なんのために?
 わたしたちを『違国日記』で殺すためにです。
 清冽というよりも、凄烈ですらあるセリフ力が至る所で炸裂しています。あらゆる演出が凝らされた罠であり、すべてのページが地雷原です。
 ことばのマンガなんですね。ことばで展開のメリハリを作り、ことばでイメージを描く。文字が多いということではありません。むしろ尽くすよりは絞っている。狙いすましている。だから読んでみるとたちまち、きみさ、人生。かわるね。エポックだ。
 特に主人公。小説家ですから、もちろんことばの力を熟知しています。
 自分の書いている少女向け小説の読者が送ってきた「あなたの小説で人生が変わりました」というファンレターには「本気にしてマセン。いつかは読まなくなるものでしょ、少女小説って」とクールな一方で、同居しはじめた姪に対しては「15歳みたいな柔らかい年頃、きっとわたしのうかつな一言で人生が変えられてしまう」と怖気づく。その二つのセリフのあいだに挟まれる死んだ姉(引き取った姪の母親)のものと思われる陰が彼女の名を呼びかけてくるコマ。これだけで、おそらくは読書に耽溺しながらも人生に決定的な影響を与えたのは姉から直接かけられたことばのほうだったんだろうな、と推測がつきます。
 そういう、最小限のセリフとカットでそのキャラの人生に一瞬で陰影をつけられる手品のような手際がすさまじい。
 完全に魔神の領域に突入してしまったヤマシタトモコを御覧じろ。
 

7柱『麻衣の虫ぐらし』(雨がっぱ少女群、1巻)

 こうして背中にちょんと付けるだけで
 羽がくっついて飛べなくなるんですよ

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 二十才無職さんの麻衣と、農作物と麻衣にたかる害虫どもの駆除に執念を燃やすクレイジーサイコペスティサイドレズ少女菜々のふたりによる農家暮らし日常。
 とにかくキャラの勝利。虫を殺す時の菜々ちゃんのサイコパス顔ももちろんだけど、「自分にとって大切なもの(おじいちゃんから受け継いだ畑や麻衣)を守る」という彼女の潔癖な信念がドラマにジレンマという名をコクを加えていて、1巻終盤で爆発するエモーションを深めています。
 

8柱『しったかブリリア』(珈琲、1巻)

 先輩……本当はベルギー行ってないんじゃないですか?


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 4G回線スマホとグーグルのマリアージュは、現代しったかぶりコミュニケーションをネクストレベルの地獄へとひきあげました。
 その現実を戯画化した恋愛ギャグが『しったかブリリア』です。

 主人公は低身長にコンプレックスとトラウマを持つ意識高い系大学生・白波理助。彼は一目惚れした黒髪ロングの新入生・濱崎さんにアプローチするため「「サークルを三つ運営し学年主席で三カ国語話せて国際ボランティアやっててスポーツ万能でクラブDJもやっててスタバでバイトリーダー」と九割がた虚構の経歴を吹聴しつつ、ベルギー留学に興味を持つ彼女に「自分はベルギーに行ったことがあるしオランダ語やフランス語も話せる」(もちろん全部嘘)とマウントをかけつつ接近します。
 が、濱崎も濱崎でなるべく角を立てずに円滑なコミュニケーションをやりたいあまりに、つい思ってもないことを口走ってしまう性分だったため、ふたりのキャッチボールは実にスリリングな様相を呈してきて……、というかんじ。

 見栄をはるためのウソに命をかける男と、見栄をはるためのウソでサバイバルする女。
 両者のグーグルとウィキペディアとネットの聞きかじり知識で武装したコミュニケーションゲームは、多かれ少なかれ、我々自身の似姿でもあります。本来は空疎でクソでイヤなものでしかないマウンティングトークに駆け引きのダイナミズムを導入することで、傍目から見たらバトル的なコメディとなってしまう。このカメラの置き方の絶妙さよ。
 それでいてこういう哀しい人間たちを一方的に突き放して嗤わず、どこか共感をもって寄り添ってやさしさも垣間見えます。
 作中でも引用されてますが、オシャレな初期『カメレオン』(ヤンキー漫画のやつ)の子どもがなぜかアフタヌーンで生まれて意識高いウェイ系に育ってしまったような風情です。


9柱『ブルーピリオド』(山口つばさ、1巻)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

 好きなものを好きっていうのって
 怖いんだな……


afternoon.moae.jp

 学業優秀で友達も多いいけれど心の底からアツくなれるもの持てないヤンキー(か?)男子高校生が、美術のクラスで与えられた課題をきっかけに絵に目覚め、ゆかいな仲間といっしょに美大を目指す青春マンガ。
 
 ハイそこの人。このあらすじでビタイチ興味を持てなかったでしょう。

 私もそうでした。どこかで「成績優秀かつスクールカースト上位の充実した毎日を送りつつ、どこか空虚な焦燥感を感じて生きる高校生・矢口八虎は、ある日、一枚の絵に心奪われる。 その衝撃は八虎を駆り立て、美しくも厳しい美術の世界へ身を投じていく。 美術のノウハウうんちく満載、美大を目指して青春を燃やすスポ根受験物語、八虎と仲間たちは「好きなこと」を支えに未来を目指す! 」なんていう公式の紹介文見かけたらフツーに敬遠してたとおもいます。

 「”そういうマンガ”ね。あるある、よくあるよね。才能? 努力? 空虚な日常? 女装男子? そういう青春もの。知ってるよ」と。

 断言しましょう。この漫画はそんな安い経験則を軽々と越えてきます。
 作りがとにかく丁寧です。
 主人公の動機づけから心情、「上手い絵」を見た時のリアクション、キャラ一人一人の性格のかき分けに至るまで手を抜いているところがほとんどない。出してくるあらゆる要素をひとつひとつ綺麗に使い潰しています。
 青春マンガの基礎中の基礎である「主人公の視野が広がっていく=成長」の感覚をワンエピソードごとにきっかりこなしていきます。
 読者の最大公約数的に共感しやすいところを狙いうちつつも、それをアウトプットするためのことば選びでいくらでもマンガというものは可能性が拡張されていくのだな、と今更ながらに認識させられます。その実感は新鮮な衝撃です。衝撃度だけでいえば2017年でもトップクラスです。何気なく手に取ったコンビニのあんまんが実はネクタールだったみたいな。
 陰影が印象的な画風もすばらしいですね。光に溢れていながらも、どこか柔らかくて不安定な陰の差した室内の描写はそのまま青春時代のおぼろげな不安感に直結しています。
 一つのテーマを描くために何が必要かを見極めて、それらの要素を極限まで磨きあげて鍛えれば唯一無二を作ることができる、という好例。


10柱『星明かりグラフィクス』(山本和音、1巻)

星明かりグラフィクス 1 (ハルタコミックス)

星明かりグラフィクス 1 (ハルタコミックス)

 私 最近気付いたんだ
 美大って 才能を磨く所じゃなくて
 本当に才能にある人間とコネを作るところだって
 そりゃ確かに吉持は問題児だよ 潔癖以前に性格が悪い 生活力がない 無礼に自己中 恩知らず
 だけどデザインはとびきりに上手いんだ 2年だけど校内の誰より上手い
 上がると決まってる株 買わない手はないでしょ


www.kadokawa.co.jp



 これも美術で才能の話。
 センスは天才的なものの極端な潔癖症のせいで友達ゼロのデザイン科美大生女と、その天才を独り占めしようとする利己的なコミュ強女の百合……百合か? 百合ではないな。たぶん。利己的女は天才女をプロデュースして名を売ろうとする一方、さまざまな奸計をろうして天才女を孤立させ、自分に依存させようと仕向けます。やっぱ百合だな。
 アウトサイダーアウトサイダーのまま、あるいはクズをクズのままやさしく包んで出してくれるマンガが好きなんですよね。
 ハルタ一番の期待株です。買っとけ。


11柱『ようことよしなに』(町田翠、2巻)

ようことよしなに 1 (ビッグコミックス)

ようことよしなに 1 (ビッグコミックス)

 ねー、マキさあ、これをいつかさーー
 ちゃんと録音して、音楽会社に送ってさ
 MステでもCDTVでもいいから、二人で出演して人気者になったら…
 こんな ど田舎のしみったれた町、二人で出ていこうね。絶対だからね。


comics.shogakukan.co.jp


 女が二人出てきて青春するつながりでは『ようことよしなに』はハズせない逸品でしょう。夏とクソ田舎とロックンロールさえあれば青春はかけるとゴダールも言っている(言ってない)。
 クソ田舎に住む純ぼっち(バカ)と半ぼっち(まじめ)の女子高生ふたりの野蛮な仲良し日常ですね。彼女たちは素人バンドを結成し、クソ田舎を脱出しようとがんばる。
 それぞれ別の高校に通ってるんだけど、バカな方が学校の図書館でぼっち昼飯してると聞いて我慢してグループに所属してるまじめな方が安心したりだとか、ナレーションが「未来の自分による回想」形式なところだとか、両開きで飛び上がって歌うところにエモーションのクライマックスをもってくる構成とか、そういうのホントダメなんだ……そういうの読むとダメになってしまうよ……
 音楽マンガとしてのエモさもかなり濃いです。


12柱『青野くんに触りたいから死にたい』(椎名うみ、2巻)

 幽霊ってモンスターなのかな
 このまま青野くんと一緒にい続けたら
 わたしどうにかなっちゃうのかな


 どうなってもいいよ


comic.pixiv.net



 天より地上のマンガ界へ遣わされた2017年度最高の新人にして最強の悪意、それが椎名うみ先生です。
 とにかくずば抜けてユニーク。基本線としては付き合い始めたばかりの彼氏を亡くした女子高生のもとに死んだはずの彼氏の幽霊が現れてさあどうなる、って話なんですが、
 主人公が椎名うみ先生特有の自分の感情に対してあまりにまっすぐすぎて怖い人なせいで、結果的にホラーと恋愛とコメディがほぼ同一軸上で展開される狂気じみたマンガになってしまいました。でも、イイ話なんですよ。泣けますよ。信じられますか? わたしはいまだに信じられん……。
 なにげに卓越したマンガ力と見て一発でわかる秀抜なセリフセンスも見もの。短編集も出ていますが、そちらも別記事で紹介したい。
 

13柱『ラグナ・クリムゾン』(小林大樹、2巻)

 失うばかりの人生 それでも戦い続ける
 限界の限界の限界の限界の限界の
 限界のさらにその先の強さへーー


ラグナクリムゾン - 連載作品 - ガンガンJOKER -SQUARE ENIX-

 変態……もとい変化球マンガの次はストレートにアツいバトルファンタジーのご紹介。
 圧倒的な戦闘力をもつ「竜」に生存を脅かされた人類。狩竜人(かりゅうど)の少年ラグナは「狩竜の天才」と称される少女レオにつきしたがって竜と戦っていた。自分に竜と戦う才能はない。せめて無敵の英雄であるレオに微力なりとも貢献して死ねれば本望ーーそう考えていたラグナだったが、ある日謎の老人からレオが竜に惨殺される未来を幻視させられる。少女を救うための強さを願う少年に、老人は驚愕の正体を明かす。
 定められた悲劇を避けるための◯◯◯◯◯もの(無料公開分の第一話で明かされますが)としてはわりとストレートなストーリー。しかし、紙上からほとばしる熱量がすさまじい。「竜殺しの物語(ドラゴンファンタジー) 次世代スタンダード」を自称するのは伊達ではありません。
 主人公がいきなり最強クラスの兵器化してしまうため、一巻時点ではバトルパートは単調にならざるを得ませんでしたが、二巻では新加入キャラによる戦術要素も出てきて厚みが増します。
 飽和気味のファンタジーバトルマンガ市場にあって、まず拾われるべき原石の一つ。
 

14柱『わたしと先生の幻獣診療録』(火事屋、2巻)


 自分なら出来るはずって始めたことなのに
 出来ないこととか、失敗とか、
 そんなことばかりだなって……。
 


comic.mag-garden.co.jp


 魔術が科学によって超克されつつある世界。魔術師の末裔である獣医師見習いの少女ツィスカが師匠である獣医師ニコとともにカーバンクルやサラマンダーといった幻想クリーチャーたちを試行錯誤しながら癒やしていく。

セントールの悩み』から一万光年、人外ブームも久しくなりぬれど、『ダンジョン飯』や『科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日記』といった幻想生物の生物学的考察をフィーチャーしたマンガもにわかに活気をおびてきた今日このごろ。
 幻想生物にリアリズムに基づいた解釈を与える系統のマンガとしては、一番地に足がついている*4といいますか、これが俺たちの求めていたやつだよ感があります。*5下手に「人類」に手を出さずに「動物」に扱いを限定しているのも勝因。
 キャラクターの配置もいいですよね。中途半端ながらも魔術の知識も持ち合わせるツィスカが、未熟なりに近代獣医学の可能性を広げたり広げなかったりする。表面的にはぶっきらぼうなニコもツィスカの努力と成長を見守る。魔術が科学によって駆逐されつつある世界観も触媒としてツィスカのキャラクターや二人の関係にプラスの効果を与えています。
 さじ加減がむずかしいジャンルを、よく欲望を抑えてコントロールしていると思います。
 

15柱『さよなら、おとこのこ』(志村貴子、1巻)

 舞台の上では老人にもなるし 幼児にもなる
 時には女になることだってある
 肉体そのものは変えられないが
 紙の上でなら なんにだってなれる


www.cmoa.jp


 バスの運転手と同棲していたゲイの演劇俳優がある日突然ショタボーイになっちゃった、ってあらすじだけなら、今年でいえば、『昴とスーさん』のゲイヴァージョン……のはずなんですが、そこから一気に読者の予測のつかない地平までもってかれます。
 これ以上は言えないな。察してくれ。買ってよめ。「BLはちょっと」? おいおい、志村貴子だぜ? ってかそういう問題じゃないから。いいから。とにかく。

 メタフィクションの本質的な営みとは「物語ることの主導権の奪い合い」なのではないかと常々愚考するところんですけれども、群像劇と語りの魔術師・志村貴子はそれを今回もっとも即物的な形でついてきます。
 これは読者への挑戦状といって差し支えないのではないか。
 斯界の志村貴子ウォッチャーとして知られるななめちゃんさん氏は「わたしたちがその圧倒的なまでに複雑化されたストーリーテリングの本質を理解するにはおそらくあと三年ちかくかかるのではないか。」と諦め気味に指摘しており、その定見は圧倒的に正しいのですが、ヨムデアであるところのわたしとしては人類の、読者の可能性を信じたい。
 志村貴子に負けるな人類。
 がんばれ人類。
 がんばれ……。


17柱『怒りのロードショー』(マクレーン、1巻)

怒りのロードショー

怒りのロードショー

 そんなんでよくシュワ好きが名乗れたな!!!
 シュワ愛がぜんぜん足りてねーよおまえには!!!!

comic-walker.com
 

 風が吹いている。暖かくて、乾いていて、しかしどこか懐かしいにおいの風だ。メヒコからーーおたくのぼんくらどもの街から吹く風だ。
 ここのところ映画マニアを題材にしたマンガが増えましたが、本作はその先駆にして最もハードコアでどうしようもない作品です。オタクであることの喜びを肯定しつつ、その罪悪に対して正面から向き合う。映画ジャンルに限らず、マクレーン先生の誠実さはやっすい開き直り型オタクファンタジーどもとは一線を画しています。


18柱『ザ・ボーイズ』(ガース・エニス、3巻)

ザ・ボーイズ 1 (GーNOVELS)

ザ・ボーイズ 1 (GーNOVELS)

 コミックだよ。
 脳みそを腐らせる。


 Kindle導入以来すっかりBDやアメコミから遠ざかってしまっていた私ですが、そこへ来てG‐NOVELSはちゃんとKindle版も商ってくれるようになりました。えらい。同社翻訳作とはアメコミ版鉄腕アトムゴジラ(?)『ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット』や松本サリン事件をドキュメンタリックに描いた『MATSUMOTO』などもオススメです。そして! 今月にはあのオトナ百合アメコミ*6『サンストーン』が出る! ホットなレズビアンのボディコンセックスが読めるぞ! サンキュー、G‐NOVELS!!


 さて、『ザ・ボーイズ』ですが。
 簡単にいえば、謎の注射を射たれて超人化したサイモン・ペグがアンチ・ヒーロー組織に加わり、腐敗したジャスティス・リーグやXメンを皆殺しにする話です。何言ってるんだと思われそうですが、一言一句たりとも私は間違っていない。『ウォッチメン』とかのスーパーヒーローものの批評的なパロディをもっとグチャグチャに、残虐にしたかんじ。
 こういう系は取扱を一歩間違えれば単に反マジョリティを気取ってるだけで浅薄で陳腐な、なんとなれば本家で既に自己言及してることすらありえることの二番煎じに堕した駄作に陥りがちなものですが、そこは大傑作『ヒットマン』のガース・エニス。見事に人間の哀しさを描ききった仕事人ハードボイルドに仕上げています。
 個人的に一番好きなのは一巻に出てくる「テックナイト」というヒーローのエピソード。テックナイトはバットマンをモデルにした大富豪ヒーローなのですが、なぜか突然、穴とみれば男女の尻穴からチンチラやコーヒータンブラーまでなんでも性器を突っ込むセックス衝動を抑えきれない身体になってしまいます。
 その病気のせいで所属していたヒーローチームからも解雇され、信頼していた執事(バットマンでいうところのアルフレッド)からも愛想をつかされてしまい、ヒーローとしての尊厳を完膚なきまでに失ってしまいます。そんな彼が終盤ヒーローとしての矜持を発揮するシーンがありまして、それがなんとも悲劇的でありつつも滑稽で、胸打たれるのです。オチも含めてね。


19柱『黒き淀みのヘドロさん』(模造クリスタル、1巻)

黒き淀みのヘドロさん 1 (it COMICS)

黒き淀みのヘドロさん 1 (it COMICS)

 おかしいか? うまく言えないけど
 でも私には 悪から善を作るより 他に手はないんだ


www.mozocry.com

 
  模造クリスタル先生の本が一年で二冊も出ただけであまねく人類は生に感謝すべきなのですが、それはまあともかく、
 『黒き淀みのヘドロさん』は当ブログ*7でも既にご紹介しましたね

proxia.hateblo.jp


 女子高生が黒魔術を使ってヘドロから人間を作り出すお話です。模造クリスタル先生は『スペクトラル・ウィザード』、『ビーンクとロサ』そして『金魚王国の崩壊』と一貫して人間の不全性と孤独を描いてきた作家で、本作でも何者も寄せ付けず唯一傍にいてくれる執事に対しても過剰な暴力をふるうお嬢様とか、自分を教師と思い込んで勝手に学校で先生としてふるまっている狂人とかが出てきます。
 泥人形たるヘドロさんはそうした人間たちを救えるのか。結論からいえば救えません。その救えなさをいかにデザインするかが模造クリスタルという作家の本領なわけですが、しかしわたしたちはその救えなさの悲劇を前に何をなせるのか。
 絶望と仲良くなりたい向きには、ぜひフォローしておきたい作家です。
 
 

20柱『1日外出録 ハンチョウ』(協力:福本伸行、原作:荻本天晴、漫画:上原求&新井和也、2巻)

1日外出録ハンチョウ(1) (ヤングマガジンコミックス)

1日外出録ハンチョウ(1) (ヤングマガジンコミックス)

 肴にしてるんだ……っ!
 飲みたくても飲めない……
 サラリーマンへの優越感を……っ!


yanmaga.jp


 傑作『中間管理録トネガワ』の二匹目のドジョウを当て込んで作られた『カイジ』のスピンオフ漫画ですが、これがまたいい。パロディとしてはちょっとそらおそろしくなるくらいのクオリティです。
 ハンチョウというキャラクターと「一日外出」というシチュエーションを徹底的に使い潰す豪腕さは講談社含めたチームの全面バックアップがあってこそ成り立つ細部の神々しさなのでしょうが、『トネガワ』と併せてこうなってくると、ある程度までのキャラ崩壊を許容しつつ取り込んでしまう福本作品の懐の深さがおっとろしい。
 
 最近はパロディ/スピンオフ漫画の話題作が立て続けに発表されていますね。『3年B組一八先生』、『ふたりエッチ外伝 性の伝道師アキラ』、『今日からCITY HUNTER』……そんな中にあって大本命は次にご紹介する作品。


21柱『金田一少年の事件簿外伝 犯人たちの事件簿』(原作:さとうふみや天樹征丸金成陽三郎、漫画:船津紳平、1巻)

 多い……
 やることが……多い!


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 国民的人気推理コミック『金田一少年の事件簿』を犯人側の視点で再解釈した公認パロディ漫画。おなじく国民的推理マンガである『名探偵コナン』も似た趣向の(こちらはエピソードごとの真犯人視点ではないものの)『犯人の犯沢さん』を去年出しましたね。
 肉体的なアクションや即興の演技力を要求される金田一犯人たちの苦労をおもしろおかしく描いたギャグの切れ味もさることながら、そうした視点を通して推理マンガとしての批評性をも獲得しています。
 ミステリとは、探偵と犯人との暗黙の合意にもとづいた甘い犯罪なのですね。
 

22柱『北極百貨店のコンシェルジュさん』(西村ツチカ、1巻)

 北極百貨店にはあらゆる動物のお客様がいらっしゃいます。
 あらゆる悩みをお持ちのお客様が!
 今日はどんなお客様がいらっしょうか。楽しみです


csbs.shogakukan.co.jp


 わたしたちはみんな、一人の例外もなく、高野文子の『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』と喋る動物が大好きです。
 人と種と品と領域が雑然と交わるデパートという舞台にした変則お仕事話を描くのはなんと、ヴィレッジヴァンガードの守護神にしてサブカルマンガ界のラスト・チャイルド、西村ツチカ先生。
 不安がありますね?
 西村ツチカ先生がこれまで出してきた短編集はどれも歴然たる才能が発揮されていることは見て取れても、その良さを感覚以上の理屈で理解するにはあまりにもクールすぎました。つまり、人を選ぶ作家でした。
 ところが『北極百貨店のコンシェルジュさん』では実にウェルメイドなトラブルシューターものを描いています。わかりやすい。わかりやすく、おもしろい。「絶滅種が集う百貨店」という設定もよく使いこなしている。自分の尖った部分を丸く収めて、ややマジョリティに寄せてきている。それでいてしっかり西村ツチカとして主張しています。よくできている。同時刊行された短編集『アイスバーン』と併せて、ツチカ先生の幼年期に別れを告げたメルクマール的な作品といえるでしょう。
 なんとしたたかに成長したことか……と『へうげもの』で秀吉と和解する家康を見たときの本多忠勝が流したものと同じ涙が、読者のほほを伝います。言祝ぎましょう。

 ちなみに「絶滅種の集まるお店」というコンセプトを共有している新刊としては『絶滅酒場』(黒丸、少年画報社)もございまして、興味のある方はこちらもチェックするとよろしいでしょう。『絶滅酒場』の方は『北極百貨店』よりもうちょっと扱ってる年代が広くてカンブリア紀の生き物や恐竜が出てきます。


23柱『Do race?』(okama、2巻)

Do race? 1 (ヤングアニマルコミックス)

Do race? 1 (ヤングアニマルコミックス)

 限界は自分では決めない
 決めたのはあきらめないこと

 進めば進むほど重くなる自分を ひとふみひとふみ動かす…勇気を奮い続けること

 迷わない
 ゴールはまっすぐ先にある!!


seiga.nicovideo.jp


 『クロスロオド』以来、ときにカオスなほど美麗さとかわいいがつまった作画で。いつもまっすぐな少年マンガを書いてきたokama先生の最新作。
 「ドレース」と呼ばれる『キルラキル』を『F-ZERO』と合体させたような服飾宇宙レースバトルが盛り上がりを見せている世界。傑出したレーサーの才能を有するものの貧乏な難民という出自のせいで、費用のかかるドレース参入を諦めかけていた少女キュウが、天才レーサー・ミュラに見出されて特別なドレース用ドレスを与えられます。そのドレスは高性能なのですが、「レースに敗北すると爆発する」という仕掛けがほどこされているとんでもない代物。「命が大事なら小さな夢は夢のまま飾り物にしておくことだね」という言葉を残して去るミュラ。果たしてキュウの選択は、といった第一話。

 展開からなにからあいかわらず前のめり極まりなく、打ち切られそうな予感しかありません。
 ですがOKAMA先生のオタクアート画でぶちこまれる、努力あり勝利あり友情ありSF設定あり才能話あり美少女あり覚醒超サイヤ人化ありの熱く燃えたぎる正統派少年マンガマインドはきっとみなさんの童心にも届くはずです。まっすぐにね。
 

24柱『不滅のあなたへ』(大今良時、5巻)

 今は人間の形で歩いている
 さらなる刺激を求めて


www.shonenmagazine.com


 形態コピー能力を持つ謎の球体が宇宙から飛来してきて、地上に生きる動物や人間たちにメタモルフォーゼしつつ、人間たちの営みに触れて変化していくロードノベル的なSF物語。作者は『聲の形』で大ブレイクした『週刊少年マガジン』の秘蔵っ子・大今良時
 
 いまさら「大今良時がいい」なんて説明、いりますかね。
 舞台となる世界は変われど、人間同士の関係性やコミュニケーションのむつかしさをときに荒々しく、ときに繊細に描ききる大今先生の筆致は健在です。ギリギリの絶望で希望を謳うパワフルさに至っては進化すらしています。
 一話目から読者を問答無用にねじふせて物語世界に引き込んでくれるので、読みだしたらあとはすべてを委ねるだけでよいのです。

25柱『凪のお暇』(コナリミサト、2巻)

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

 大島凪 28歳にして悟る
 空気は読むものじゃなくて
 吸って吐くものだ


www.cmoa.jp


 社内の女子政治と恋人のモラハラに耐えられなくなった空気読む系のOL凪さんが破裂して会社を辞め、寂れたアパートで一人暮らしをしながら人間性を回復していく話。元恋人とアパートの住人とのあいだで三角関係もアルよ!

 気の弱さに由来する生真面目さをもっている人はだいたいのところ心を殺しきれるまでは強くなく、常に他人の食い物にされて、どこかで潰れてしまう。そういう人間の心理っていうのは、コンテンツなんですよね。
 そういう小市民的な主人公のコミュニケーションにおける地獄一人相撲を覗くサファリツアー的な愉しみもありますけれど、アパートの住人たちの人間模様でもなかなか見せてくれます。全員に表と裏があって、いちいちキャラが立っている。
 演出とかも結構練られていますよね。元カレが凪の新居を探すときに携帯の地図へ集中するあまり、建設現場のクレーンを見上げてあるく凪と互いにきづかずすれちがうシーンなんかは画的にも二人の関係性を描写する意味でもキマってて、お気に入りです。
 3巻は今月発売。


26柱『時計じかけの姉』(いけだたかし、1巻)

 弟は美しく社交的で
 姉はそのどちらでもありませんでした
 二人はとても仲良しでした

 美しい弟は皆にとても愛され それ故に不幸な死を迎えます

 姉は深く深く それは深く悲しみました
 そして決意します 自らの手で弟をよみがえらすと


www.gentosha-comics.net


 死んだ弟・水と生き写しのセクサロイドを作った姉・晶(職業、街の時計修理屋さん)。なぜ彼女は弟をロボットとして再生しようと試みたのか、そもそもその弟とは何者であったのか。生前、死後の水と晶の謎をめぐるミステリー。
 
 基本的に姉と弟がセックスするマンガはその時点で姉マンガを名乗る権利を失うのが天地開闢以来のしきたりですが、これに関しては例外。
 倫理の底をぶち破ることでミステリー部分に厚みを出すことに成功していますよね。弟に適度に人権がないおかげで、商店街のおっさんたちが全員穴兄弟であったり、ヤクザに3Pを撮影されたり、何かと首がはずれやすかったり、なんとなく軽い。この軽さが重い話を聴くときには読者をちょうどいい温度にととのえてくれるものです。


27柱『とんがり帽子のアトリエ』(白浜鴎、2巻)

 スポーツ選手は生まれた時からスポーツ選手?
 じゃあ宇宙飛行士やアイドルは?
 生まれた時はわからない
 でもじゃあ 魔法使いは?


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 ガールズコメディの名作『エニデヴィ』の作者にして、最近ではアメコミ方面の活躍されている白浜先生待望の新作。その独創的なコマ割りセンスは1巻出た当時にメチャクチャバズりましたね。バズったコマを面白がるだけ面白がって買わないの、先生はどうかと思いますよ。
 
 内容は(少女)魔法学校もの。みんな大好き才能の話でもあります。魔術を発動するための魔法陣回りの設定がやたらめったら理屈っぽく作り込まれており、そういう細部に神の存在を感じます。
 タイトル通りとんがり帽子にマントという装いの少女たちがわちゃわちゃしてるのも目に快いですし、いいんだよ、白浜鴎は、とにかく。そういうのが。


28柱『ひつじがいっびき』(高江洲弥、1巻)

 わたしなんて
 死に続けるしかないんだ。


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 正統派ハルタ一族の有望株。
 小学生のお嬢様が夢の中で自分だけの理想郷を築いて夜毎に逃避するも、その夢に突如巨大なクモのモンスターがわいてお嬢様へ襲いかかる。お嬢様は現実で見かけた喧嘩狂いのヤンキーを召喚することでクモを撃退がするが今度はそのヤンキーに粘着されるようになり……という話。

 ハルタ系統*8によく見られるかわいらしい絵柄でありながらも、時折覗かせる「暴」のにおいにゾクゾクさせられます。序盤は『パンズ・ラビリンス』みたいな少女ダークファンタジーの雰囲気をまといつつ、やがて互いに孤独な高校生男子と小学生女子が「生きること手伝い(by 『聲の形』)のしあいっこになるの残酷な話が苦手な人にもあんしん。


29柱『モキュメンタリーズ』(百名哲、1巻)

モキュメンタリーズ 1巻 (ハルタコミックス)

モキュメンタリーズ 1巻 (ハルタコミックス)

 おまえ自身 本当に
 自分を探していたのか?


 デビュー短編の「ばかねこ」(『冬の終わり、青の匂い』所収)が即漫画史におけるインスタント・クラシックとして絶賛を浴びるも、その後は不遇をかこってきた鬼才・百名先生。本作はそんな百名先生のブレイクスルーになりうるポテンシャルを秘めています。
 フィクションを織り交ぜつつ取材した事実をルポ漫画の形式で語っていく奇妙な作品ですが、これがべらぼうに面白い。
 出演作一作のみを残して忽然と姿を消したAV女優のビデオを買い占める謎の人物、アイドルのコンサート会場を徒歩でめざすオーストラリア人オタクと日本人少女、自分探しに人生を賭ける友人に呼び出されてバングラデシュで生活することになった作者*9……。
 どれも物語に通りよくまとまっているので「ああ、作ってあるんだな」と直感できはしますが、しかしこのマッスルはどうだ。フィクションオンリーでもノンフィクションオンリーでも描きえない、百名先生だけに可能な「縁」の人生ドラマが広がっています。
 この縁に、この再会に感謝しましょう。マンガ業界では現実より人が死にやすい。
 

30柱『保安官エヴァンスの嘘』(栗山ミヅキ、2巻)

「保安官はモテるんだよ」

【みずから実証できていない説である】


websunday.net


 保安官エヴァンスは町一番のガンマン。その腕前と硬派な言動から人々の信頼も篤い。ところが彼には誰にも言えない秘められた願望があった。そう、「モテたい」というーー。
 発した主体の内心と実際に生じた受け手の解釈のズレ、そういうコミュニケーションの行き違いによる笑いは『幼女戦記』などでも描かれていますが、本作はわかりやすくそのギャグに全振りしています。
 この形式が特に活きるのはラブコメをやるとき。同じく見えっ張りな賞金稼ぎの少女とのもどかしいスレ違いはキレッキレの筆運びです。
 気軽に読めるギャグ漫画としてはこれ以上望むべくはない一作でしょう。


10の厄災たち

 30の選には漏れたものの漏らしたことに後ろ髪を引かれる秀作がこちら。

31柱『月曜日の友達』(阿部共実、1巻)

yawaspi.com

ちーちゃんはちょっと足りない』や『空が灰色だから』で全人類をどん底に突き落とした、ドドメ色の青春と絶望を司る漫画神・阿部共実
 最新作ももちろん学校を舞台にしたブラック青春もので、ページを開いて読んでみるとそこにはいつものシンプルでポップな作画の阿部先生キャラがああああうわああああああああああああああああああああああうわああああああああああああああああああああああうわああああああああああああああああああああああうわああああああああああああああああああああああうわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああうわあああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!


 なんでこんなすごくなってんの!?


 なんか背景も陰影を強調したアフタヌーン系っぽい作画になってるし、かつては頼りなかった線の一本一本が自身に満ちてストロング!! しかも話運びまで……え? 阿部共実ってこんな長編するりとかける作家だったっけ? あれ? なんかフツーに青春ものとしてよくない? よいすぎない?? エモが…‥エモが増幅していく……。
 開花、しすぎじゃない?????

 もともと一作ごとにこなれてくる人ではあったんですが、正直どこかで『空灰』の天井におさまる器だと見切っていた節があり、これ読んだときは神を凡人の目で図ろうとした己の狭い見識を恥じて切腹まで考えました。阿部共実は本物です。戦いの中で成長するタイプの天才です。
追記: 二巻完結らしいです

32柱『映像研には手を出すな! 』(大童澄瞳、2巻)

映像研には手を出すな! 1 (ビッグコミックス)

映像研には手を出すな! 1 (ビッグコミックス)

bigcomicbros.net

 高校生がアニメ作る話でまあ『ハックス!』(今井哲也)や『アニウッド大通り』(記伊孝)を思い浮かべてくれたらよいです。
 そんで、その浮かべた想像を今すぐうっちゃれ。

 すっ
 っっっ
 っっっっげえ変な部活動漫画で、舞台となる学校は九龍城めいて入り組んでるし、キャラたちは揃って漫画でもどうかと思うレベルの変人ばかりだし、なぜか吹き出しも発する人物の向いている方向に応じて立体的に傾ぐ仕様。
 それでもなんでかおもしろい。
 ものづくりの正統な喜びがそこにはあるからでしょうか。クリエイター讃歌をてらいなく謳えているからでしょうか。
 ちなみに作者名は本名らしいです。


33柱『リウーを待ちながら』(朱戸アオ、2巻)

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 富士山麓の架空の都市「横走市」を舞台に、静謐に淡々と進行していくアウトブレーク・パンデミックもの。タイトルの「リウー」とはカミュの小説『ペスト』に出てくる登場人物の名です。
 主人公である女性医師が冷静で知的な性格であるおかげか、あんまり派手な展開とかはないんですが、それでも、いやそれが故に怖い。
 罹患したら高確率かつ短期間で死に至るやばい病原体がじわじわと市内に広がっていく焦燥感と、市街ごと日本から切り離されて封鎖される閉塞感が組み合わさって、登場人物と読者の精神をガリガリと容赦なく削ってきます。
 所々で語られる名も無き(まあだいたい名前はついていますが)キャラたちの挿話もいちいち素敵で、物語世界を豊穣にしています。個人的なお気に入りはワイン好きのベテラン医師のエピソード。うつくしいですよ。
 

34柱『シネマこんぷれっくす!』(ビリー、1巻)

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 このところ増えている映画おたくマンガではもっとも上品かつ上質な部類でしょう。
 扱う作品傾向としては『怒りのロードショー』に近いところがありますが。『怒りのロードショー』が荒削りな若々しさに満ちているとすれば、こちらは非常に洗練された「商品」としてのマンガの美徳が詰まっています。物語、自意識、ギャグ、アティテュードの均整がよくとれている。
 映画オタクネタが連発されますが、いちいち丁寧に解説してくれるため、映画にそんなに詳しくない人にも安心な出来です。


35柱『僕はまだ野球を知らない』(西餅、1巻)

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 圧倒的な機械工作マニアっぷりを土台にしたものづくりの喜びに溢れたマンガ『ハルロック』や演劇マンガ『犬神もっこす』でユニークな印象を読者にうけつけながらも、なーんかいまいち読まれてない感じのする西餅先生の高校野球マンガです。
 簡単に言えば、セイバーメトリクスを含めた最新の野球を弱小校に取り入れて勝つ話。
 高校野球にセイバー導入するのってどうなの? トーナメント方式には通じないんじゃなかったの? という読者の素朴な疑問を持ち前の工学力(というか工作力)で慌てず騒がず地道にクリアしていきます。
 理屈で勝ちましょう系の高校野球マンガはわりと既出ですが、ここまでガッツリセイバーを取り入れたものはなかったはずです。とりあえず、何か新規性のある野球マンガを読みたい向きに。展開自体はわりとこの系統の「王道」を行っている印象ですが。


36柱『銀河の死なない子供たちへ』(施川ユウキ、1巻【上下巻?】)

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 作を経るごとにどんどんヤバさを増していく(『美しい犬』を読むべし)永遠の暗黒成長期作家こと施川ユウキ先生ですが、今回もまあヤバい。なんかもう、ヤバい以外の語彙は評言としてぜんぶ適当でない感じがする。
 一応話を説明しておくと、よくわからない不死身の一家がよくわからない世界で動物などと戯れながら死と生を考える物語で……やっぱりよくわからないな。主人公の女の子はラップが趣味です。よくわからないな。
 こうやって言葉を尽くして語っている身にあっては悔しいものですが、読んで感じるしかないマンガというものも世の中にはあります。
 そんな作品のひとつです。


37柱『あらいぐマンといっしょ』(横山旬、1巻【上下巻?】)

あらいぐマンといっしょ 上巻 (ビームコミックス)

あらいぐマンといっしょ 上巻 (ビームコミックス)

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 結婚直前に雷に打たれて気を失った主人公が目覚めたのは三年後。どういうわけか彼の意識は幼少時代からの宝物であるあらいぐまのぬいぐるみに憑依しておりました。行方しれずになった婚約者をさがすため、流れで共連れとなったマッチョ金髪なバカパンクスと車に乗り込んでさあ珍道中のはじまりです。
 『変身!』で青い性欲とメタモルフォーゼへの渇望をいかんなくふりまいた横山先生。しかしもちろん三巻ぽっちで収まるようなオブセッションじゃあありません。今回もシズル感満載の濃ゆい画風で、暖かくもどこかグロテクスな人間模様を提供してくれます。

 ところで『銀河の死なない子供たちへ』もそうですけど、1巻目の時点で「上巻」って文字を目にすると、こういう記事で紹介するか迷うんですよね。最長でもあと二巻以内に完結するとわかっているわけですから。勝手なコンセプト考えたのはこちらですけれども。

38柱『魔法少女おまつ』(吉元ますめ、1巻)

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 江戸時代で繰り広げられる変則魔法少女ギャグマンガ。1巻目はまるまる契約を欲するマスコットキャラとそれを拒否する魔法少女候補町娘の掛け合いに終始します。

くまみこ』で花開いた吉元ますめ先生ですが、同時並行での新連載となる『おまつ』ではさらなる高みへと挑戦しています。
 恐るべきはあとがきに記してあるエピソード。「とりあえず編集との話あいで『時代劇』をやることだけが決まる(わかる)」→「昭和の絵柄で描いてみたいという欲求が湧く(まあわかる)」→「杉浦茂の本を読む(当然だね)」→「『くまみこ』とはまた一味ちがう新画風を編み出す(よくわからない)」がするりとできてしまう。
 飽くなき開拓者精神こそが作家を進化させ、進化できる作家を人は天才と呼びます。本書は吉元ますめ先生の天才の証明書です。


39柱『アラサークエスト』(天野シロ、1巻)

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 思い出は常にうつくしい。『聖剣伝説 LEGEND OF MANA』での溌剌とした天野シロ先生も記憶にあっては至福の風景です。
 長年に渡る『キングダムハーツ』の折り目正しいコミカライズ生活は、あのころの自由さを天野先生から奪ってしまったのでしょうか?
 答えは本作にあります。
 ジャンルとしては最近流行りのウィザードリィ系ダンジョンリミックスもの。主人公の魔法使いベア(三十二歳、処女)は「若さ」に執着し、若返りの古代魔法「アンチエイジング」(どうだこの直球さ)を求めて、女性だけのパーティを組みます。
 ファンタジーRPG的な雰囲気が基調になっているものの、なぜかベアの部屋が現代的なマンションっぽかったりテレビなどといった文明の利器がひととおり揃っていたりオタクはスウェットを着ていたりSNSもあったりで、わりと世界観はグラグラ。
 大丈夫かコレ? みたいな危惧を抱いて読み進めていくうちに、いや「このテーマ」を描くにはこういう世界観じゃないと、と思い直します。
 その「テーマ」とは「夢への追うこと」。ベアを中心に展開されるのはいずれも「若さ」にまつわるエピソードなわけですが、それは換言すれば、自分の過去と現在を捉え直す話を描くことでもあります。
 過去があって現在の自分がいる。そのことがわかっているはずなのになぜ「若さ」を探求するのか。未来に「失われたはずの過去」を置こうとするのか。
 ベアはあるエピソードでその現実を突きつけられます。ある化粧技術に長けた老婆から「自分もかつてはアンチエイジングの魔法を探したが、結局見つからなかった。あんなものは実在するかどうかわからないのだから、諦めて別の道(化粧など)を極めたほうがいい」と諭されるのです。
 しかし、ベアはその助言を峻拒します。「諦めた方の負け惜しみは聞きたくはありません。あなたの美への探求はすばらしい、だけど私の追求を止める必要がどこにありますか。私はあなたと別の道を行きます」と。
 そのあと彼女の「なぜ自分は『若さ』に固執するのか、本当にほしいものは何か」の吐露がはじまるのですが、そこの語りのなんと感動的でなんと普遍的なことか。この瞬間に本作が現代との折衷的な世界観であること、そもそも本作がダンジョンRPGの形式でなければならかったのかといった疑問が一挙に肯定へと反転します。
 ここまで誠実に「なぜ冒険者はダンジョンで冒険するのか」を自問して解答を出してくるマンガもなかなかないでしょう。
 そしてそれは同時に「『キングダムハーツ』後の天野シロ」の読者に対するアティチュードの表明でもあるのです。あの人はここにいます。


40柱『ど根性ガエルの娘』(大月悠祐子、3巻)

manga-park.com

 いったん角川で出して途絶したものの語り直しなので、新連載扱いでいいでしょう。
 カンブリアのように爆発的に増殖しまくっている毒親体験談エッセイマンガの嚆矢とも(たぶん)言える作品。*10

 作者は70年代にマンガとアニメで大ヒットを記録した『ど根性ガエル』の原作者、吉沢やすみの娘さん。吉沢先生は『ど根性ガエル』以降プレッシャーからスランプに陥って、ギャンブルや酒に溺れるようになり、自殺未遂まで起こすように。90年代に入るとほぼ漫画家としては廃業状態。一家の家計は看護師である母親の肩にかかるようになります。
 父も壊れていけば母もまた壊れます。ギャンブル費用のために娘の金まで盗むようになった父親を母親は必死で擁護し、娘がいくら被害を訴えても認めようとはせず、「嘘をつくな」「全部あんたが悪い」「どうして私が頑張ってまともな家族を取り戻そうとしているのにあんたは邪魔するの」と全面的に娘を責めます。
 こんな状況で思春期を過ごして病まないほうがどうかしているでしょう。短大を卒業するころには大月先生はついに拒食症のひきこもりと化してしまい……というまあ、とにかく機能不全家族の陰鬱な思い出が赤裸々に語られます。体験自体の異常さもありますが、まんがとしてフツーにうまく見せてくるので読んでて抉られます。
 それでも悲惨一辺倒に落ち込まないのは、「現在」における回復した一家の姿を合間合間に挿入してくれるからです。この手の雨は止むとは限らないものですが、少なくとも大月先生は40代になって親と和解し、自分なりの幸福を築くことができました。
 ある種の覗き見的な残酷物語ショーといってしまえばそれまででしょうが、サバイバーの証言というのはどんな時代でも価値を持つものです。
 おなじく漫画家転落物語として、のむらしんぼの『コロコロ創刊伝説』も推しておきましょう。
 

来るべき32の獣たち

 ここからは将来性溢れる作品たちの紹介。このままいくと書いてる方も表示するブログの方もパンクするので、一文二文でおさめるようにがんばっていきたいと思います。けして飽きたとか疲れたとかではないです。けして。

41柱『貧民、聖櫃、大富豪』(高橋慶太郎、2巻)

sundaygx.com

 FGOでキャラデザをやった漫画家がオリジナルで聖杯戦争をやる。ただしいよ、高橋慶太郎先生。あなたは圧倒的にただしい。若干スロースターターの気がありますが、キャラ描写があったまってからが本番。


42柱『漫画の森から女子高生』(美川べるの、2巻)

漫画の森から女子高生 / 美川べるの / まんがライフWIN

 常にマンガの枠組とメタネタに挑戦しつづけるハードコアギャグファイター美川べるの先生が一番輝くのは、もちろん漫画家ネタをやるときでありますな。私は美川べるの作品は何読んでも笑える性分なので、他の人が果たしてマッチするかどうかで正常な判断ができません。


43柱『七都市物語』(原作:田中芳樹、漫画:フクダイクミ、1巻)

七都市物語(1) (ヤングマガジンコミックス)

七都市物語(1) (ヤングマガジンコミックス)

漫画『七都市物語』公式ページ « ヤングマガジン公式サイト|無料試し読みと作品情報満載!

 地軸が傾いてやばいことになり大陸がむっちゃ変形した近未来の地球を舞台にヤン・ウェンリーみたいな智謀の師がひょうひょうとこずるく立ち回る。『銀河英雄伝説』(道原版、フジリュー版ともに)、『アルスラーン戦記』、そして同じく新連載枠である『天竺熱風録』(画・伊藤勢)と、田中芳樹原作にハズレなしのジンクスは健在。


44柱『マッドキメラワールド』(岸本聖史、1巻)

マッドキメラワールド / 岸本聖史 - モーニング公式サイト - モアイ

 ポストアポカリプス人外サバイバル。冨樫義博のデザインするような魔物しか存在しない地獄です。さすがに腹蹴られた衝撃で卵をぼこぼこ吐き出す人外女の絵面見せられたら何もいえねえ。姉漫画かどうかは審議中。
 奇っ怪世界で地獄生物に襲われるSFはつばな先生の『惑星クローゼット』もメンションに値します。


45柱『マグメル深海水族館』(椙下聖海、1巻)

マグメル深海水族館 1 (BUNCH COMICS)

マグメル深海水族館 1 (BUNCH COMICS)

マグメル深海水族館 | コミックバンチweb

 深海生物好きが昂じて水族館で働くようになった青年の成長ロマン。この手のお仕事ものとしては、うんちくとストーリーの塩梅がうまい。ちゃんとキャラ立てにうんちくを従属させている。


46柱『竜と勇者と配達人』(グレゴリウス山田、2巻)

竜と勇者と配達人 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

竜と勇者と配達人 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

[第1話] 竜と勇者と配達人 - グレゴリウス山田 | となりのヤングジャンプ

 剣と魔法のファンタジー世界と中世ヨーロッパの法体系とのマッシュアップ。現実の知識に裏打ちされているぶんだけあって、世界観は骨太。ファンタジー版『大砲とスタンプ』っぽい雰囲気もまとっている。


47柱『私は君を泣かせたい』(文尾文、2巻)

私は君を泣かせたい / 文尾文 - ニコニコ静画 (マンガ)

 コミュニケーションが下手な人たちによる百合。モノローグで考えすぎてしまう系の主人公にあんまハズレはないですよね。


48柱『セレベスト織田信長』(ジェントルメン中村、1巻)

セレベスト織田信長 (1) (SPコミックス)

セレベスト織田信長 (1) (SPコミックス)

セレベスト織田信長 – LEED Cafe

 特濃とんこつ味。野蛮でありつつも洗練されている。系統的には『五大湖フルバースト』みたいなかんじ、と言えばだいたいわかってもらえるはずで、わからない人は別にわからないままでいいです。そういう人生もあるだろう。

 

49柱『1122』*11渡辺ペコ、2巻)

『1122(1)』(渡辺 ペコ)|講談社コミックプラス

 妻公認のもとで不倫を営む夫、ふたりの奇妙で頭でっかちな夫婦生活を描いたマンガ。70年代っぽくてナウいじゃん、などと思っていたら当然すべて綺麗事で進むはずもなく……みたいな。結婚後の男女の性欲をなんとなく情に流すのでなく、統計などを駆使して真摯に向き合おうとするマンガは珍しい。長文のセリフでドライブしていく女子会の様子もよい。


50柱『ドレッドノット』(緋鍵龍彦、1巻)

ドレッドノット / 緋鍵龍彦 - アフタヌーン公式サイト - モアイ

・とりあえず第一話で殴ってくる系なので、とりあえず上のリンクから読んでみてほしい。単なる出落ちにとどまらず、扱ってる題材がちゃんと作劇の手法とリンクしているのが好ましい。


51柱『パンクティーンエイジガールデスロックンロールヘブン』(ハトポポコ、1巻)

パンクティーンエイジガールデスロックンロールヘブン|まんがライフSTORIA´(ストーリアダッシュ)

 この人の四コマにはアクセルペダルとニトロブースト用スイッチしかついていない。だから誰も追いつけない。


52柱『人形の国』(弐瓶勉、1巻)

『人形の国(1)』(弐瓶 勉)|講談社コミックプラス

 第一話でかわいい戦闘少女をを出せばパンピーにもちょう売れるということにやっと気づいた弐瓶勉先生にもはや死角などなく、なんとなれば進化をまだ四段階ほど残している。


53柱『バジリスク桜花忍法帖』(原作:山田正紀、漫画:シヒラ竜也、キャラ原案:せがわまさき、1巻)

漫画『バジリスク〜桜花忍法帖〜』公式ページ « ヤングマガジン公式サイト|無料試し読みと作品情報満載!

 原作には複雑な気持ちが去来するけど、やはりせがわデザインに乗せた瞬間になにもかも許せてしまう。いかつい武士同士のキッスに1ページまるごと割く暴力よ。


54柱『アマネギムナジウム』(古屋兎丸、2巻)

アマネ†ギムナジウム / 古屋兎丸 - モーニング公式サイト - モアイ

 イカれた女が自分で作った球体関節人形たちのギムナジウムで幻想に耽る話。『帝一の國』でシリアスな笑いを完璧に自家薬籠中の物にした古屋先生の職人芸を見物できる。自分で設定したはずの世界や人物にふりまわされてしまう作家的な苦悩がなんと滑稽なことか。関係あるようでないですけど、古屋先生が前にコミカライズしてた太宰の『人間失格』を、今度は伊藤潤二がホラー風味全開でやってますね。


55柱『男爵にふさわしい銀河旅行』(速水螺旋人、1巻)

男爵にふさわしい銀河旅行 | コミックバンチweb

 懐かしい匂いのするスペースオペラ。特に確変とかは起きてないときのいつもの螺旋人先生。


56柱『放課後ていぼう日誌』(小坂泰之、1巻)

放課後ていぼう日誌_読み切り|秋田書店

 女子高生が部活で釣りをする。長崎弁のレベルが高い。絵がいい。リズムがいい。扱ってる対象に一切興味がなくても読ませてくれる日常マンガはそれだけですごいんですよ。活きのいい新人みつけてきたなあ。


57柱『科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌』(KAKERU、1巻)

KAKERU | 科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌 - チャンピオンクロス

 異世界転生人外娘形態考察マンガ。頭で考えた設定を十分になじませきれてないきらいはあるけれど、その性欲は応援したい。社会的生態の考察やエロもあるよ。異世界転生といえば『Dr.STONE』の存在をすっかり忘れていたけれど、リストを作ってしまったあとなのでどうにもならない。


58柱『大蜘蛛ちゃんフラッシュバック』(植芝理一、1巻)

大蜘蛛ちゃんフラッシュ・バック / 植芝理一 - アフタヌーン公式サイト - モアイ

 時間SFマザコン漫画。あいかわらず植芝理一はどんなふうにつきあったらよいのかわかりませんが、これは設定で勝ってる。似てるようで全然似てないけれど、母ものなら押見修造の『血の轍』もありましたね。


59柱『ラッパーに噛まれたらラッパーになる漫画』(インカ帝国、1巻)

LINE マンガは日本でのみご利用いただけます|LINE マンガ

 ラッパーに噛まれたらラッパーになるんですよ。フリースタイルダンジョンの影響か、最近同時多発的にラップ漫画が増えているらしいですが、これはラッパーの監修がついていない点でめずらしい。出落ちかと思いきやゾンビ化を文化ムーブメントとして読み換えることである程度のディティールと強度を生み出すことに成功しています。特にゾンビ仲間からリスペクトを捧げられると死んだゾンビが生き返る(死んでるんですが)くだりが最高。一方で素人目にもこの題材を扱うにはちょっと危うい部分があるのでは、と思ってしまう部分も。エピソード間に挟まってる人物紹介ページがなかなかキテいます。


60柱『ハヴ・ア・グレイト・サンデー』(オノ・ナツメ、1巻)

ハヴ・ア・グレイト・サンデー/オノ・ナツメ - モーニング・アフタヌーン・イブニング合同Webコミックサイト モアイ

 日本人小説家とその息子(日米ハーフ)と娘婿(日本人)とのほんわか同居生活。オノナツメは常に安定しています。この安定っぷりにはもはや枯淡のあじわいすらある。でもマンネリかというと、やっぱりちょっと違うんですよねえ。


61柱『昭和天皇物語』(漫画:能條純一、原作:半藤一利、脚本:永福一成、監修:志波秀宇、1巻)

昭和天皇物語 │ ビッグコミックオリジナル連載中

 昭和天皇を愛でるというよりは昭和天皇の周囲でおろおろしてる偉人たちを愛でるためのマンガ。題材が題材であるためか、制作陣営がなにげに豪華。

62柱『サーカスの娘オルガ』(山本ルンルン、1巻)

サーカスの娘オルガ 1巻 :無料・試し読みも!コミック 漫画(まんが)・電子書籍のコミックシーモア

 サーカスに引き取られた孤児オルガの甘い恋のメロディ。山本ルンルン先生はこうやってときどきやればパンピー向けのものをかけるんだアピールをかかしません。ある程度とんがった独自性みたいなのを保ちつつ、このレベルで話まとめられる作家って、希少ですよねえ。

63柱『ノイン』(高橋ツトム、1巻)

NeuN(1) (ヤンマガKCスペシャル)

NeuN(1) (ヤンマガKCスペシャル)

漫画『NeuN〈ノイン〉』公式ページ « ヤングマガジン公式サイト|無料試し読みと作品情報満載!

 ヒトラーのクローンをいっぱい作ったはいいけどなんか邪魔になったので皆殺すことに決めました、っていうナチス漫画。1巻だとまだジャブ程度しか明かさず、どうやって転がるかの期待感が煽られます。

64柱『北北西に曇と往け』(入江亜季、1巻)

北北西に曇と往け 1巻 入江 亜季:コミック | KADOKAWA

 入江亜季先生待望の新連載はアイスランド漫画。ミステリものは基本的に温まるまで時間がかかるものですが、わりと矢継ぎ早に展開をこなしていくので退屈はしません。というか、入江亜季は絵を眺めているだけで幸福です。


65柱『鉤月のオルタ』(麻日隆、1巻)

鉤月のオルタ(1) (KCデラックス 週刊少年マガジン)

鉤月のオルタ(1) (KCデラックス 週刊少年マガジン)

マガメガ MAGAMEGA | 鉤月のオルタ
 
 このところの歴史冒険ものはいかにニッチな題材を掘り当てるかがキーとなっている感がありますが、わけても十六世紀のオスマン帝国が舞台で、イエニチェリが題材、という本作はさらにめずらしい部類に属するでしょう。中身は少年マガジン風味の貴種流離譚復讐劇。


66柱『異種族レビュアーズ』(原作:天原、作画:masha、1巻)

異種族レビュアーズ / 原作:天原 作画:masha - ニコニコ静画 (マンガ)

 人外娘風俗をクロスレビューする漫画。センス・オブ・ワンダーというのはこんなところにも生えているものなのだなあ、って点ですなおに感心させられます。


67柱『針棘クレミーと王の家』(唯根、1巻)

針棘クレミーと王の家 - pixivコミック | 無料連載マンガ

 ソロモンの指輪っぽいもので動物と会話できる英国紳士とそのペットたち(ハリネズミ、ネコ、犬)との日常。とにかくかわいい。かわいさのメガ盛り丼や。かわいいオブザイヤーを授けましょう。純粋なかわいさ比べでいったらリュウミックスの『恐竜の飼い方』もよい。


68柱『イサック』(原作:真刈信二、漫画:DOUBLE-S、2巻)

イサック(1) (アフタヌーンコミックス)

イサック(1) (アフタヌーンコミックス)

イサック / 原作 真刈信二 漫画 DOUBLE-S - アフタヌーン公式サイト - モアイ

 1600年代のヨーロッパで仇をもとめる日本人銃士が籠城戦します。なにげに史実ベース。緻密な作画で大量の兵士がわちゃわちゃしてるマンガは貴重なので死なない程度にこのクオリティを維持していただきたいものです。

69柱『きみを死なせないための物語』(吟鳥子、2巻)

きみを死なせないための物語 1巻【電子書籍のソク読み】豊富な無料試し読み

 極端に長生きなポストヒューマンが極端に短命な種族を愛してしまったがゆえの悲劇。考えたSF設定を伝えたいあまりにセリフが不自然に先走ってる感があるものの、その生硬さがむしろ道徳&理論優先プチ管理社会のヤクさ描写にプラスに働いています。あとネットにおけるアイドルファンダムの描写がやたら現代的でウケる。
 他にもSFなら田中相の『LIMBO THE KING』も2000年代初頭的なソリッドさがあります。


70柱『青高チア部はかわいくない!』(conix、1巻)

青高チア部はかわいくない! 無料漫画詳細 - 無料コミック ComicWalker

 それぞれ異なる性格や利害を抱えた部員たちがひとところに集まってひとつのことを成す。そのシンクロニシティをな……。意表をつくほどポップな絵柄でありつつも、集団部活ものの快楽は遵守されている。


71柱『魔女と野獣』(佐竹幸典、2巻)

魔女と野獣(1) (ヤングマガジンコミックス)

魔女と野獣(1) (ヤングマガジンコミックス)

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 スタイリッシュトランス魔女狩りマンガ。顔のいい少女とイカれた男を一粒で摂取できてお得。絵がよい。濃い。


72柱『悪魔を憐れむ歌』(梶本レイカ、2巻)

悪魔を憐れむ歌 1巻 (バンチコミックス)

悪魔を憐れむ歌 1巻 (バンチコミックス)

悪魔を憐れむ歌 | コミックバンチweb

 最初は『雪と松』にしようかな、と思っていたんですが、ギリギリで大変重要なBLを思い出して差し替えました。
 暴力、セックス、猟奇殺人。梶本レイカは読者に高負荷を与えて愉しむひどいサディストです。


亜種特異点的ボーナストラック

 上のリストを作り終わったあとに他人様から教えてもらった良作を追記したく。感謝感謝。

Ⅰ『ランウェイで笑って』(猪ノ谷言葉、2巻)

www.shonenmagazine.com

 id:l000saysさんからブコメでご教示いただいた作品。*12
 週刊少年マンガでファッションモデル&デザインの話をやるという食合せの悪さを月まで跳ね飛ばす、実に力強い「「「「「「夢」」」」」」と「「「「「才能」」」」の王道成長物語。構成や見せ方もよく練られていて、読者に対するうんちくのインストールが必要とされる分野にあって、ここまで疾走感を出せるのか、こういうフレッシュさもあったのか、と感嘆させられます。
 これもまた30選に入れたいレベルに好きなマンガなんですけれども、入れ替えるとなったらまた色々考えなきゃいけないので追加ということで。

Ⅱ『少年の残響』(座紀光倫、1巻)

少年の残響(1) (シリウスKC)

少年の残響(1) (シリウスKC)

『少年の残響(1)』(座紀 光倫)|講談社コミックプラス

 男の子で『ガンスリンガー・ガール』をやるマンガ。
 少年! ギムナジウム! 合唱団! 暗殺者! 短パン! 女装! 成長! イノセンスの喪失! とマアとにかく作者の好きな要素全部盛りしたハイテンションな潔さも好感触ですが、癖(ヘキ)のカロリーに反してマンガ作り自体は落ち着きがあって行儀よし。抜群のリーダビリティで、読者のことをちゃんと考慮してあるんだなあという印象。
 そのぶん。もう一声のブレークスルーが欲しいところではあります。が、元々の掲載誌から弾かれて漂流していたらしい(作者twitterによれば移籍先探しは完了した模様)身上が本稿の趣旨と合致いたしましたので、ここで取り上げておきたく存じます。


Ⅲ『摩擦ルミネッセンス』(二宮ひかる、1巻)

摩擦ルミネッセンス / 二宮ひかる - ニコニコ静画 (マンガ)

 id:tokoroten999さんからのご紹介。ありがとうございます。
 二宮ひかる初体験だったんですがええ姉漫画どすなあ。
 クラスの問題児のうちへ家庭訪問にやってきた高校教師が、そこで出会った生徒の姉とねんごろになってしまう。生徒はそのことをネタに奨学金の推薦を強請ってくる。最初は「ハメられた」(二重の意味で)と悔やんでいた教師だったものの、生徒の姉とつきあっていくうちにだんだんと複雑な家庭事情に触れていき……というかんじ。
 ファム・ファタールたる姉のキャラクターが絶妙。病んだブラコンであり、すっかり彼女に依存しきった弟をみかねた教師から「姉離れ」を薦められるものの、言下に拒否。
「私とあの子を引き離そうとなんかしたら許さない。
 殺しちゃいます。」
 とまで宣言します。
 ああ、良い姉ですねえ、などと浸っていると、男性教師は男性教師で「僕はこのときはじめて ほんとうに彼女のことを好きになったかもしれない」などと抜かす。
 誰もが病んでいる世界だ。すばらしいな。


Ⅳ『剣姫、咲く』(山高守人、2巻)

剣姫、咲く(1) (角川コミックス・エース)

剣姫、咲く(1) (角川コミックス・エース)

剣姫、咲く 無料漫画詳細 - 無料コミック ComicWalker

 @simiteru8150 さんから肉を食ってるときにご紹介いただきました。百合にくわしいね。
 女子剣道マンガです。サイコパスめいた天才めちゃつよ剣道至上主義新入生が強豪校の剣道部に道場破り同然で入部。暗い過去をもつ努力家のチビ剣士とともにやたら芝居がかった女子剣道界でサクセスしていくやつです。『武装少女マキャヴェリズム』と『ヴィラネス』を足して『咲』で割ったシブい味わいだと言えば、何かがつたわるようで何も伝わりませんね。
 スポ根マンガの正道で、当然、才能の話を中心に展開していくわけですが、物語の中心となる「壊れた天才」の描き方が実に丁寧でなめらか。こういうのはただ壊せばいいというもんじゃないんですよ。いかに愛されるように壊すかなんですよ。
 肝心の試合シーンも躍動感があって見せ方に長けている。安心して読めるキチガイバトルマンガです。


Ⅴ『斑丸ケイオス』(大野ツトム、2巻)

斑丸ケイオス 1 (ヤングアニマルコミックス)

斑丸ケイオス 1 (ヤングアニマルコミックス)

斑丸ケイオス 1話試し読み / 大野ツトム - ニコニコ静画 (マンガ)

 オオカミ書房さんの紹介記事で知りました。
 最強の女忍者・白夜に捨て駒にされた弟子・斑丸が、女忍者のもとに戻るために敵である妖怪的存在「ヌシ」と手を組み彼女を追うファンタジー時代物。
 裏切られたにもかかわらず百夜を慕いまくる斑丸の犬っぷりがプロットにアクセントを加えていて、いい意味で一筋縄ではいかない。敵味方のキャラクターがよく立っていて、それだけで読ませてくれる魅力を有しています。
 

漫理の終わりに

 いかがでしたでしょうか。
 雑誌やジャンルごと視野に入ってない作品群があるうえに、完全に趣味と嗜好で選んでしまったので、アレが入ってないコレが入ってないといったご意見もあろうかと存じます。そもそも何を存続させて何を存続させないのか、私の一存で決めるのは無茶なのではないかと。


 なればこそ、あたらしきマスター。
 あなたがあなた自身の命題を発見するのです。
 そのKindleに、未知の作霊(サーヴァント)を召喚しましょう。
 福袋ガチャを回す金でマンガを買いましょう。
 そうしていつか、あなただけのヨムデアを完成させましょう。
 連載継続保障機関ヨムデアにようこそ。
 わたしたちは、あなたを歓迎します。
 
 

*1:実在の出版社、団体とは何の関係もございません

*2:twitterによれば有馬先生は新作を執筆中とのことですが

*3:文字通りというか、においに結び付けられた表現がなされている

*4:生物学的知識の正誤というよりは物語世界に馴染んでいるかどうかという意味

*5:稀に倫理的にやばい感じのエピソードが入るのはともかく

*6:翻訳元のレッテルです

*7:使ってみて初めて気付いたが、実に怖気をもよおすワードだ

*8:ハルタの新人は主に「入江亜季っぽい絵」と「森薫っぽい絵」に大別され、高江洲先生は前者です

*9:作中では「百野」と名前が変えてある

*10:追記:元祖は田房永子の『母がしんどい』らしいです。ほー。https://twitter.com/kurapond/status/948614316416155648

*11:修正:すいません、タイトル間違えてました。ご指摘ありがとうございます

*12:来世と倫理については既読。うまいのはうまいんですけれども趣味でなかったので弾いてました……大仰なタイトルつけてはおりますが、究極的には個人的なファブリストなんでもうしわけない

2017年の映画ベスト20選と+αと犬とドラマとアニメと

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目次

proxia.hateblo.jp

 年末のベスト作品選定はゆーすけさんのおっしゃるとおり「本当に自分がつまらない人間だと確認する作業」で、それなりに観たはずなのに好きなものを選んでみると自分でも他の誰でも良いような、節操と個性と信念と一貫性のないセレクションができあがってしまい、俗だなあ世間だなあこんなんで自由意志を持った人間だと証明できるのかなあと泣きたくなるわけですが、まあそれはしょせん個人の問題なので、選んだ作品のおもしろさには関係ない。おもしろいものはおもしろい。公共は選者の自意識などどうでもいいのです。
 というわけで2017年に公開された映画、ドラマ、アニメのベスト。

映画部門

 なんか選んでみればアメリカ映画ばかりですね。ミニシアターあんまし行かなかったせいでしょうか。それともアメリカがおもしろい年だからでしょうか。


映画ベスト20作

1『20センチュリー・ウーマン』(マイク・ミルズ監督、米)

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 母子&疑似姉カミングエイジ映画。映画というものは現実には絶対ありえない完璧な空間を二時間の空き瓶、あるいはガラス玉にとじこめた何かであって、そういう観点において『20センチュリー・ウーマン』は紛うことなき幸福の完成形。俳優、ストーリー、プロット、スタイル、セリフ、演出、美術、画調、ネコ、なにもかも、そう、なにもかもだよ。

proxia.hateblo.jp


2『お嬢さん』(パク・チャヌク監督、韓)

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 レズビアンやすりムービー。ときおり強大な怪物じみた作品に出会って為す術なく喰われてしまうことがあり、そんなときはしゃーないとあきらめるしかないです。あなたはあきらめましたか?


3『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』(ノア・バームバック監督、米)

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 クソ家族映画。大人になってもわかったりわからなかったり許したり許せなかったりを繰り返すんだ私も君も。それを家族と呼ぶのですね。これも『20CW』と一緒で「どんなに親しくなったつもりでも、やはり自分と他人との間には決定的な隔絶がある。それが肉親であったとしても」という点が癖(ヘキ)です。犬がいいです。


4『ノクターナル・アニマルズ』(トム・フォード監督、米)

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 読書人映画大賞。読むという行為は慢性の多動症に罹った映画の運動においてもっとも鈍重かつ無粋な、忌避すべき運動であって、撮るにあたって最も困難を極める主題のひとつです。たとえば濱口竜介の『ハッピーアワー』なんかもその壁に対する挑戦でした。まさかトム・フォードが超克するとはね。

5『ベイビー・ドライバー』(エドガー・ライト監督、米)

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 繊細で傷つきやすい童心をハッピーな音楽とスタイルで包んだやさしいファンタジー。こういう自分だけの閉じた世界に耽溺するピュアな魂がゆさぶりをかけられるサンドボックスめいたお話は好きですね。つうか映画で好きなのはそんなんばっかだ。

proxia.hateblo.jp


6『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』(ギャヴィン・フッド監督、英)

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 ドローン爆撃サスペンス。2017年のわりと早い時期に観てむっちゃいいなと思った感触だけは残っているけれど、よそさまの年度ベストにはあんま入ってきてないっぽいところを見ると自分の感覚を疑ってしまいますよね。ともかく、視線による監視と官僚的な事務手続きにおける駆け引きという二つのサスペンスがエキサイティングに混ざりあった良いエンタメです。


7『パターソン』(ジム・ジャームッシュ監督、米)

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 退屈な瞬間が一つもない偉大なる倦怠。物語的な指向性をもたない反復をライミングとして機能させるマジックはどこからどうして生まれたんだろう。犬がいいです。

パターソン [Blu-ray]

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8『ローガン・ラッキー』(スティーヴン・ソダーバーグ監督、米)

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 ド田舎ケイパー映画。登場人物が「カントリー・ロード」を歌い出す映画は名作(rf. 『キングスマン:ゴールデン・サークル』)。今年もアメリカ人はアメリカ論映画をいっぱい作りましたね。そのなかでも白眉がこの一作。


9『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明、日)

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 おれたちにとってのカントリー・ロードであり、森見登美彦は日本のジョン・デンヴァー。後天的に京都を獲得する才能がなかったきみにはわかるまいが。

proxia.hateblo.jp


10『三度目の殺人』(是枝裕和監督、日)

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 法廷ミステリ。法廷をゲームのフィールドの作品として見なす作品は多いんですけれど、そこに「ムラ社会としての法曹界」という視点を持ち込めるのはさすが是枝。そのことがちゃんとミステリ劇のエンタメ性に貢献してますしね。
 ところで『凶悪』もそうだったんですけど、こういう映画で登場人物の口からテーマというか構図の企みみたいなのを語っちゃうのは日本映画の悪癖だと思います。


11『コクソン』(ナ・ホンジン監督、韓国)

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 呪術師や犬や素っ裸の國村隼が出てきて隕石のように存在を刻むだけ刻んで帰っていく。凄まじさだけでいったら今年ナンバーワン。そして映画とは凄まじさだけを体感するための装置であるので、実質今年の裏ナンバーワンであるといえます。犬がいいです。


12『ドリーム』(セオドア・メルフィ監督、米)

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 黒人女性がNASAで働いてロケット飛ばす映画。清く輝く恒星のような作品であることはたしかで、それをもって忌避する向きもあるようだけれど、それはまああくまで題材の問題でしかなく、たとうべきはその観客の快楽スイッチを知り尽くした演出の妙なのです。  


13『美しい星』(吉田大八監督、日)

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 変なSF。ネームドキャラはもちろん、画面の端に写っているモブを含めて「生きている」感がにおいたつ映画も希少で、その一点だけでも吉田大八は信頼に値します。

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14『グリーン・ルーム』(ジェレミー・ソルニエ監督、米)

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 ネオナチに閉じ込められて殺される映画。この敵も味方もほんとうにもうどうしようもなく頼りない感じがソルニエ映画の醍醐味で、三十分に一秒くらいは真理の端に触れているのかもしれないという錯覚を抱かせます。犬がいいです。

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15『ナイス・ガイズ』(シェーン・ブラック監督、米)

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 ライアン・ゴズリングが少女のように泣き叫ぶ映画。ブルータルなノリながらも、底に流れる善良さはある種の人間讃歌なのだとおもいます。あとやかましいガキが作劇の足をひっぱらない珍しい映画。


16『ラビング 愛という名のふたり』(ジェフ・ニコルズ監督、米)

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 50年代のヴァージニアで黒人と白人が結婚することになってもちろんひどい目に合わされる映画。わたしの脳みそでは、「いいなあ」とおもった細かい演出の記憶が経時揮発していく仕組みになっていて、よってそういうものの集積であるところの本作も今となっては「なんかめっちゃよかった」の残滓しか残っていないのですが、そのよすがさえ忘れてなければ善く生きていけるのではないでしょうか、人間は。
 あとまあジョエル・エドガートンは常にいいですね。『ジェーン・ゴット・ガン』や『ブライト』といった作品単位ではダメなものでも、彼はいい。

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17『帝一の國』(永井聡監督、日)

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 原作ファンだったのでとりあえず観に行ったんですけれど、ぜんぜん期待してなかった映画が思ったよりおもしろいとお得感倍増ですよね。原作のアホらしさはしっかり汲みつつ、アクの強すぎるところは抑え、その穴を気の利いたオリジナルのギャグで埋め、原作を解釈することでいい感じにテーマ性を付加し、かつ十巻分の話を無理なくちゃんと映画としてまとめ上げた、最高峰の国産漫画原作映画のひとつでしょう。*1
 野球場で殴り合うシーンで泣きかけた思い出がある。

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18『ジョン・ウィック:チャプター2』(チャド・スタエルスキ監督、米)

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 『アトミック・ブロンド』もよかったっちゃよかったんですが、やっぱりキアヌ・リーヴスじゃないとニューヨークは暗殺者という名の恋人たちの街にならないんですよ、甘犯ですよ。
 犬が前作よりパワーアップしてロケットランチャー食らっても死なないボディになっていました。

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19『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(ジョン・リー・ハンコック監督、米)

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 マクドナルドの「創業者」の伝記映画。わたしの大好きなジャンルである「アメリカン・ドリーム残酷話(夢見るクズが成り上がって破滅したりしなかったりする系の話)」ものは2017年も豊作で、『ウォードッグス』や『バリー・シール』も銘記されるべき収穫物でしたね。
 アメリカン・ドリームでサクセスするためにはアメリカン・ドリームそのものを売らなければならない、という本質のつきかた(ではアメリカン・ドリームとは何か、という問いかけ含め)が冴えている。それを成り立たせるためのマイケル・キートンの気迫とハンコックの演出も。


 

20『この世に私の居場所なんてない』(メイコン・ブレア監督、米)

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 絶望的な人生であがく系映画。メイコン・ブレアは今年の新人王(監督)。
 ジェレミー・ソルニエの盟友だけあってダメな小市民がダメなプチ悪役相手に奮闘する情けない物語ですが、それでもかすかでも人間としての尊厳と希望をつかもうとするメラニー・リンスキーと、ニンジャマスター・イライジャ・ウッドのすがたにわれわれは滂沱の涙をながすわけです。メイコン・ブレア関連では『スモール・クライム』も要チェック。

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+5

『沈黙 サイレンス』(マーティン・スコセッシ監督、米)
 『デ・パルマ』と入れ替えました。信仰の話に弱いですね。


『バリー・シール アメリカをはめた男』(ダグ・リーマン監督、米)
 アメリカ残酷話。それまで状況に流されるしかなかったトム・クルーズが他人に利用されてされてされ尽くして切り捨てられた果てにやっと自分の「声」で語りはじめるのが最高にアツいんですよ。その顛末を含めてね。
 ダグ・リーマンは2017年にもう一本公開されていて、『ザ・ウォール』もなかなかいい具合にアメリカに対して辛辣でした。

 
『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』(テレンス・デイビーズ監督、英)
 詩人エミリ・ディキンスンの伝記映画。全編に渡ってセリフが、それこそ詩のように美しく、ときにウィットがきいていてここちよい。
 とにかくこれみよがしに扉を閉ざす演出を使いまくるのでなんでかな、と思ってたらまさかあのオチに使うためとは。いかにもアートハウス系映画っぽいようで、なかなかゴリラみたいなマッチョな一面もふせもちます


『はじまりへの旅』(マット・ロス監督、米)
 大家族ロード・ムーヴィ。深い森の奥でサバイバル生活を営んでいたり、娘の『ロリータ』の読解をテストしたり、クリスマスの代わりにチョムスキーの誕生日を祝ったり、とにかくエキセントリックなヴィゴ・モーテンセンおとうさんを観ているだけで楽しい。
 内容は陽性でありながらもわりあいビターで、オトナはオトナやってるけどそれはかならずしも完璧な人間って意味じゃないんだよ、とやさしく教えてくれる映画です。
 ラストカットがめちゃくちゃ好き。


『俺たちポップスター』(アキバ・シェイファー&ヨーマ・タコンヌ監督、米)
 『ブルックリン・ナイン・ナイン』のアンディ・サムバーグ(と彼の率いるコメディバンド「ザ・ロンリー・アイランド」)による音楽モキュメンタリー。
 とにかく出演陣がめちゃくちゃ豪華。現在のアメリカ音楽界のトップティアーに位置する人たちが勢揃いといった様相です。そんな豪華メンツに何させるかといえば、アンディ・サムバーグ扮するクソ歌手をひたすら褒め称えさせる。あるいはオオカミに喰わせる。すごいね。すごいよ。


映画作品各部門賞

アニメーション映画ベスト

☆『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督)
 『夜明け告げるルーのうた』(湯浅政明監督)
 『レゴ(R)バットマン』(クリス・マッケイ監督)
 『モアナと伝説の海』(ロン・クレメンツ&ジョン・マスカー監督)
 『カーズ クロスロード』(ブライアン・フィー監督)
 『ガールズ&パンツァー最終章 第一話』(水島努監督)

『ルーのうた』はタイトルクレジットの出方で泣くでしょ。本エンドのベストオープニング・クレジットです。
『レゴバットマン』は、みんな言ってることではありますけど、バットマン映画として一番誠実な作り方をしている。

ドキュメンタリー映画十選

☆『デ・パルマ』(ノア・バームバック&ジェイク・パルトロー監督)
 『テキサスタワー』(キース・メイトランド監督)
 『くすぐり』(デイビッド・ファリアー&ディラン・リーブ監督)
 『ストロング・アイランド』(ヤンス・フォード監督)
 『イカロス』(ブライアン・フォーゲル監督)
 『覗くモーテル』(マイケル・カネ&ジョシュ・クーリー監督)
 『リュミエール!』(ティエリー・フレモー監督)
 『ぼくと魔法の言葉たち』(ロジャー・ロス・ウィリアムズ監督)
 『ジム&アンディ』(クリス・スミス監督)
 『目標株価ゼロ』(テッド・ブラウン監督)


 2017年のドキュメンタリーは「私達の眼の前で語っているこの人物のことばは『真実』なのか?」といった問いかけを投げかける作品が印象的でした。『デ・パルマ』の怪しさ全開のデ・パルマじいさんは感触レベルとはいえ、『ストロング・アイランド』や『覗くモーテル』などははっきり「うそ」がテーマになるし、ジム・キャリーのドキュメンタリー『ジム&アンディ』に至っては虚構と現実の境界がどこにあるのかさえわからなくなってくる。
 あるいはエスカレートしていく世界の闇。自転車レースでのちょっとした実験から世界を巻き込んだロシア・スポーツ界ドーピング疑惑の渦中へと巻き込まれていく『イカロス』、大の男たちがくすぐりあいっこをするという奇妙ではあるけれども一見無害そうな謎の動画から底なしの悪意を垣間見る『くすぐり』はホラーとしても一級でしたね。

 『ストロング・アイランド』については、個別に付言しておく必要があるでしょう。この作品はNYに住むある黒人女性が白人とのトラブルから銃殺された兄についての真実を追っていくという内容で、ネットフリックスに溢れる黒人受難系のドキュメンタリーのひとつ。
 しかし、終盤明かされる「ある情報」が本作をシンプルな人種差別告発問題とは異なるパースペクティブを提示するのです。ある種叙述トリック的な仕掛けであるのですが、それは観客を劇映画的に驚かせようとするため、というよりは監督自身の懊悩と誠実さの発露として顕れるものであって、この仕掛けがあるからこそむしろ告発がより力強さを増すのだといえます。
 語りの虚構性、作為性に言及した映画はドキュメンタリーにかぎらず近年増えているように感じますが、語り手の気持ちの揺れがミステリ的なトリックとして表出してしまう映画はめずらしいですね。


ソフトスルー部門

☆『ウォー・ドッグス』(トッド・フィリップス監督)
 『ライフ・ゴーズ・オン』(ケリー・ライヒャルト監督)
 『ハーフネルソン』(ライアン・フレック監督)
 『ハント・フォー・ザ・ワイルダーピープル』(タイカ・ワイティティ監督)
 『疑わしき戦い』(ジェームズ・フランコ監督)


 『人生はローリングストーン』や『アメリカン・ミストレス』で殴られた2016年度と比べるとインパクトに欠けるメンツ(そもそも本数あんま見てなかったせい)ですが、どれも一癖二癖あってなかなか粒ぞろいです。長年放置されてきたR・ゴズリング主演の『ハーフネルソン』が出たのは嬉しかったですね。『ラ・ラ・ランド』さまさまです。ヤクでへろへろになった情けないゴズリングさんの姿が見られます。さすがにクズ野郎映画の手練、フレック&ボーデンコンビ。
 上記のメンツで唯一『疑わしき戦い』だけはダメなかんじのやつですが、まあ来年の『ディザスター・アーティスト』公開への伏線ということで。


ネットフリックス・オリジナル(独占配信)作品10選

☆『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』
 『この世に私の居場所なんてない』
 『ストロング・アイランド』
 『ザ・ベビーシッター』(マックG監督)
 『マッド・バウンド 悲しき友情』(ディー・リース監督)
 『ギャンブラー』(ジョー・スワンバーグ監督)
 『イカロス』
 『ジェラルドのゲーム』(マイク・フラナガン監督)
 『オクジャ』(ポン・ジュノ監督)
 『マインドホーン』(シーン・フォーリー監督)

 ネトフリ・オリジナルはいい具合に玉石混淆といった様相を呈してきて、ポン・ジュノを起用したりマイク・フラナガンをやたら厚遇したりマックGを復活させたりメイコン・ブレアをデビューさせたりしてくれる一方で、『ブライト』とか『デスノート』とか『ホイールマン』とかではしっかりガッカリさせてくれました。アダム・ヴィンガードもデイヴィッド・エアーもフツーにファンなのに、なんてことだ。
 一つこの場で言及するとしたら『ザ・ベビーシッター』でしょうか。甘酸っぱい疑似姉ものの良作です。『20センチュリー・ウーマン』とコインの裏表とまで言ってしまうのは……さすがに過言でした、謝罪します。


ベスト犬映画

☆『ノー・エスケープ』(ホナス・キュアロン監督)
 『グリーン・ルーム』(ジェレミー・ソルニエ監督)
 『ワイルド 私の中の獣』(ニコレッテ・クレビッツ監督)
 『トッド・ソロンズの仔犬物語』(トッド・ソロンズ監督)
 『パターソン』(ジム・ジャームッシュ監督)
 『コクソン』(ナ・ホンジン監督)

 戌年を前にして2017年もいい犬映画がそろいました。
 とりわけ『ノー・エスケープ』における犬と人間の結びつきには心打たれるものがありましたね。愛犬家は涙なくして観られないとおもいます。犬の口に発煙弾打ち込んで殺すようなクソ野郎どもはみな死ぬべきなのです。われわれは犬を失ってしまえば、孤独になるしかないのですから。
 ちなみにリストでは『ぼくのワンダフル・ライフ』がノミネーションされてませんが、まあ、そんなに悪い映画ではありません。しかし、犬映画としては、犬を人間の恋愛の道具として使うのを看過できませんね。*2
 『マイティ・ソーラグナロク』のおおきいわんちゃんや『マイヤーウィッツ家』のワンポイント犬もなかなか乙でした。

ベスト姉映画部門

☆『ウィッチ』(姉弟)(ロバート・エガース監督)
 『マイティ・ソーラグナロク』(姉弟)(タイカ・ワイティティ監督)
 『マイヤーウィッツ家の人々[改訂版]』(姉弟
 『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー2』(姉妹)(ジェームズ・ガン監督)
 『静かなる情熱』(姉妹)(テレンス・デイビーズ監督)
 『プラネタリウム』(姉妹)(レベッカ・ズロトヴスキ監督)

 特につけくわえることはない。実姉ではない疑似姉部門でも『20センチュリー・ウーマン』や『ザ・ベビーシッター』がありましたね。


私的ブレークスルー俳優

 アダム・ドライバー(『ローガン・ラッキー』、『パターソン』、『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』、『マイヤーウィッツ家の人々』)
 ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ(『ゲットアウト』、『バリー・シール』)
 アニヤ・テイラー・ジョイ(『ウィッチ』、『スプリット』)
 エル・ファニング(『ネオンデーモン』、『20センチュリー
・ウーマン』、『夜に生きる』)
 エズラ・ミラー(『ジャスティス・リーグ』、『ファンタスティック・ビースト』)
 
 アダム・ドライバーはほんとにいいサブカルクソ野郎俳優へ成長しましたね。
 注目しておきたいのは2018年公開作では『スリー・ビルボーズ』にも出演するケイレブ・ランドリー・ジョーンズ。次世代のクズ野郎役俳優のホープとして着々と足場を固めております。

ドラマ、テレビアニメ

ドラマ十五選

☆『ハノーバー高校落書き事件簿』
 『アメリカン・クライム・ストーリー:O・J・シンプソン事件』
 『シリコン・バレー』S4
 『アトランタ』S1
 『マスター・オブ・ゼロ』S2
 『ビッグ・リトル・ライズ』S1
 『ウエスト・ワールド』S1
 『アメリカン・ゴッズ』S1
 『ナイト・オブ・キリング 失われた記憶』
 『ファーゴ』S2
 『ブラック・ミラー』S3
 『伝説の映画監督 ハリウッドと第二次世界大戦
 『グッド・プレイス』S1&2
 『マインド・ハンター』S1


 ミステリドラマの当たり年。
 特に『ハノーバー高校落書き事件簿』は探偵論ドラマとしても秀抜。法廷劇なら『アメリカン・クライム・ストーリー』と『ナイト・オブ・キリング』。SFやファンタジーにおけるミステリ的仕掛けなら『ウエスト・ワールド』(ノーラン弟らしい細工)や『グッド・プレイス』(ループものをまさかこう使うとは)。正攻法でありつつもフレッシュな新味を残した『マインド・ハンター』と『ビッグ・リトル・ライズ』にも乾杯を。
 コメディでいったら『アトランタ』と『マスター・オブ・ゼロ』の年。ダイバーシティですね。『シリコンバレー』も安定のおもしろさ。
 基本的に上記の十五作品はどれも傑作級に、ちょっと考えられないレベルでおもしろい。いよいよといいますか、もう完全にアメリカのコンテンツ業界はドラマにシフトしてしまったなあ。
 特に意味もなく選外になってしまいましたが『十三の理由』や『ストレンジャー・シングス』S2や『またの名をグレイス』、『ミスター・ロボット』S3も当然最高ですよ。勢いの落ちた『ハウス・オブ・カード』のS5でさえ圧倒的なパフォーマンスだった。  
 ちなみに2017年配信開始じゃないですけど『TRUE DETECTIVE』や『ミルドレッド・ピアース』も今年観ました。


アニメ十選

『ボージャック・ホースマン』S4
『リック・アンド・モーティ』S3
『Just Because!』S1
『アニマルズ』S1
『ビッグ・マウス』S1
少女終末旅行』S1
宝石の国』S1
フリップフラッパーズ』S1
『ネオ・ヨキオ』S1
『ラブ米』S1&2

 国産のやつは原作好きなやつか、他人から教えられた作品しか観てないな……。『ラブ米』はほんとうに革命だとおもいました。
 アメリカ産アニメのニューフェイス組は『ビッグ・マウス』のイカれっぷりと、『アニマルズ』の意外な端正さが心に残りました。




今年はもうちょっと逐次的に記録をつけていきたいですね。
よろしくお願いします。
今年は戌年なので犬映画の年になるとおもいます。
犬映画の年になるといいですね。

*1:https://twitter.com/nemanoc/status/860465739370700802

*2:だったら『101匹わんちゃん』もダメじゃん、と言われそうですがそれはそれなんだよ!!!

「『スリー・ビルボード』は本当にフラナリー・オコナーなの?」を考える。

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『善人はなかなかいない』を読む人

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

 フランシス・マクドーマンド演じる中年女性ミルドレッドが看板広告を出すために、レッドという青年(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)が経営する広告会社を訪問する。
 初登場シーンでレッドは椅子に座り、本を広げている。本のタイトルは『善人はなかなかいない』。アメリカの作家、フラナリー・オコナーの短編集だ。


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 映画評論家の町山智浩が『スリー・ビルボード』とフラナリー・オコナーを関連付けてくれた影響かどうかは知らないけれども、ちくま文庫がながらく絶版だった『フラナリー・オコナー全短編』を復刊し、ネットでもフラナリー・オコナーと『スリー・ビルボード』を結びつけて語る言説が多く見られるようになるなど、本邦における本作の評価はフラナリー・オコナーの名と分かちがたいものとなりつつあるように思われる。
 そんななかでフラナリー・オコナー/『スリー・ビルボード』論でも優れた映画評がふたつ出た。劇場用パンフに掲載されている町山智浩のものと、ライターの将来の終わり氏がブログに載せたものだ。

lovekuzz.hatenablog.com


 どちらもフラナリー・オコナーの読解から『スリー・ビルボード』を解釈する内容で、フラナリー・オコナー未読者にもわかりやすく、一読の価値がある。


 むろん、フラナリー・オコナーと『スリー・ビルボード』を結びつけるのは何も日本固有の現象ではない。
 アメリカのネットを管見しても、レビューの公開が解禁された2017年11月から多くの『スリー・ビルボード』評がフラナリー・オコナーに触れている。

 昔から南部を舞台にしたイヤなかんじの話はフラナリー・オコナーだねと言われがちなきらいはあるけれど、本作の場合は印象以上の理由がある。劇中ではっきりとめくばせがされている――わざわざ短編集の表紙を登場させているのだ。
 映画に出てくる小道具に意味のないものはほとんどない。
 引用するのがこれほどの作家であるからには、何かしらの意図があってしかるべきだ。

 
 ところがである。
 本作の監督であるマーティン・マクドナー自身のほうで『スリー・ビルボード』とフラナリー・オコナーを直接に関連させた発言はほとんどない。せいぜいインタビューで「好きなアメリカ人作家のひとり」として挙げる程度で、フラナリー・オコナーを意識したとまでは言っていない。*1

 劇中に登場させているフラナリー・オコナーの短編集についての解説もしていない。

 マーティン・マクドナーはインタビューで絵合わせをしてくれるタイプではないところも大きいとはいえ、評論家たちの盛り上がり具合に比べて、この距離感はなんなのか。*2


脚本ではどうなっているのか


Three Billboards Outside Ebbing, Missouri (English Edition)

Three Billboards Outside Ebbing, Missouri (English Edition)


 そこで脚本ではどうなっていたのか、とKindleでリリースされている本作のスクリプト*3をチェックしてみると、ない。


 「『善人はなかなかいない』をレッドが読んでいる」シーンなど、どこにも存在しない。


 代わりに脚本の1ページ目に書かれているのはこんなシーンだ。



場所:ウェルビーのオフィス、エビング広告社――日中

メインストリートと警察署に面したレッド・ウェルビーのオフィス。クールな見目の若者レッドは〈ペンギン・クラシック〉(a Penguin Classic)の何かを読むふりをして、パメラというキュートな服を着たホットな事務員を眺め回している。ミルドレッドがオフィスにやってくる。

〈ペンギン・クラシック〉、あるいは〈ペンギン・クラシックス〉というのはイギリス発祥の権威ある文学叢書。日本における岩波文庫みたいなものを想像しておいてください。いわゆる古典が網羅されていて、イギリス人の家に行くとだいたい読まれた形跡のない感じで置いてある。

 厳密に調べて行くと〈ペンギン・クラシック〉と〈ペンギン・クラシックス〉で微妙に違うっぽいんだけれど*4マーティン・マクドナーがどちらのつもりで指定したにしろ、フラナリー・オコナーはラインナップに含まれていない。*5

 脚本というのは出回っているものと実際の映画を比べてみると異なる箇所が多かったりするものだけれど、本作の場合はプロットはもちろんのこと、セリフや動作、配置された小道具までほぼそっくり映画と一致している。映画版に限りなく近い版であることは間違いない。

 ここまでだと将来の終わり氏の映画評の追記部分をなぞっただけに終わるので、もう少し考えてみよう。


脚本をもっと読んでみる。

 マーティン・マクドナーは脚本・監督・製作を兼任している。映画制作における前・中・後、いずれのプロセスにおいても強い権限を握っているものと見るべきだろう。ある小道具や演出に対して意図を込めているならば、脚本段階から反映させるはずでは?

 たとえば、劇中で直截的に示されるのことない(示唆レベルだが大半の観客は気づく)あるキャラクターのある属性についての手がかりとなるABBAの「チキチータ」という曲。この固有名詞に関してはきちんと脚本段階から明示されている。*6
 あるいは歯医者の体型。ミルドレッドが歯医者のことを「デブ」と罵るセリフがあるためか、ト書きでもこの歯医者は「fat」と書かれ、実際映画でもふくよかな体型の役者が演じている。

 逆に劇中でさして明確な役割を持たないシリアルについては「シリアル」と書かれているのみだ。銘柄も特に指定されていない。

 では、レッドの読んでいる本はマクドナーにとってシリアルやうさぎの置物程度の意味しかなかったのだろうか?
 

 ここでヒントとなりそうなのが、主要人物の一人、ディクソンが愛好しているコミックブックだ。
 脚本では彼の読むコミックは「コミックブック(a comic book)」として書かれていない。

 しかし、slashfilmのインタビューで、マクドナーはディクソンのコミックブックについてこんな発言を残している。


 ディクソンはぜったいに本を読むようなタイプではない。じゃあ何を読むんだろう、と考えたときに、それはコミックだろうということになったんですね。でも私は彼に読ませる本をマーベルやDCのような大手のものにしたくはなかった。私が子どもの頃に読んでいたインディペンデント系のコミック・ブックにしたかったんです。

 ディクソンのような人物がインディーコミックにハマることは本当にあるものでしょうか? たぶん、ないんじゃないんでしょうか。でも、わたしはマーベルやDCのものより、インディー系のコミックを映画に出したかったんです。

 
http://www.slashfilm.com/martin-mcdonagh-interview/


 劇中でディクソンが読みふけっている『Incorruptible』(Boom!Studios、日本未発売)はヴィラン(悪役)がヒーローの役目を強いられる話で、作品を読み解くうえで重要なキーとなっている。*7

 こうした重要な設定が「後付け」であるならば、追加されたタイミングで軽重を判断するのはよろしくない。むしろ、監督が撮影している最中に「これは作品を説明する要素になるな」と思いついて付け加えられたっぽい要素であるぶん、重要ですらある。

「脚本を書いている最中は特段にフラナリー・オコナーを特段に意識してなかった。が、撮影するときに実際にどんな小道具を置くのかを決める段になり、物語全体を俯瞰してみると、実にフラナリー・オコナーっぽいと自分で思った(好きな作家だし影響は否定できない)。なのでケイレブ・ランドリー・ジョーンズに『善人はなかなかいない』をもたせた」というあたりが妥当な線だろうか。これならインタビューでのマクドナーのフラナリー・オコナーに対する微妙な間合いも説明がつく。
 映画のプロダクション過程については無知なのだけれど、脚本→撮影に移行していく中で作中世界の解像度があがっていくのが伺えてなんだかよい。


 やはりフラナリー・オコナーを通して『スリー・ビルボード』を語ることは、なんら見当ハズレではない。あとは「どのくらい重要か」の話になってくる。そこはもう語る人の意志に左右されてくるんだろう。絶対に欠かせないわけではないが、ちゃんと深ったならば確実に「何か」が出てくる鉱床。それが『スリー・ビルボード』におけるフラナリー・オコナーであり、その「何か」をいかにして磨き上げるかが評論であり批評なのだとおもいます。



もう一人のマクドナーとフラナリー・オコナーの関係について

 余談になるけれども、フラナリー・オコナーと縁深い「マクドナー」がもう一人いる。
 マーティン・マクドナーの兄で、同じく映画監督でもあるジョン・マイケル・マクドナーだ。

 彼のこれまでに発表した長編映画三作中二作(『ザ・ガード 西部の相棒』と『ある神父の希望と絶望の七日間』)はブレンダン・グリーソンを主演にアイルランドで撮ったものだった。ジョン・マイケルは『ある神父の〜』公開時のインタビューで、「アイリッシュ」三部作を締めくくる作品として、やはりグリーソン主演で「The Lame Shall Enter First」というタイトルの作品を制作するつもりだと述べている。曰く、「このタイトルは私の大好きな作家の一人であるフラナリー・オコナーからのいただきだ」と。

「The Lame Shall Enter First」はちくま文庫の『フラナリー・オコナー全短編』に「障害者優先」という邦題で収録されている。インタビューで語られている内容を見るかぎり、あくまで題名を借りるだけでフラナリー・オコナーのものとは違うものになりそうだ。
 とは言い条、借りてきたタイトルをわざわざそのまま使うのだから、相当好きな作家なのだろう。あるいはマーティンがフラナリー・オコナーを好きなのも、ジョン・マイケルの影響だったのかもしれない。
 ジョン・マイケルはもともと本好きらしく、映画でもニーチェバートランド・ラッセルゴンチャロフ、ベルナノス、さらには2010年にフランス出たばかりだったローラン・ビネの『HHhH』までが引用される多分にブッキッシュな脚本を書いている。マーティンも読書家ではあるようだが、引用芸でいえば映画の比重が大きいように思われる。

 ジョン・マイケル・マクドナー作品には、たしかにフラナリー・オコナー的な雰囲気が流れている。『ある神父の希望と絶望の七日間』(2014年)はアイルランドの田舎に棲む善良な神父が懺悔の場でいきなり「俺は七歳のころに神父からレイプされて心に深い傷を負った。その神父は死んだが、代わりにお前を一週間後に殺してやる」と殺害予告を宣言されて、その後の七日間、村人たちに接しながら神と信仰についてずっと悩み続ける話だ。理想(信念)と現実のはざまで思いがけない苦難や暴力にさらされる善人像、そしてそうした世界を覆い尽くすカトリック的な世界はフラナリー・オコナー作品と通底している。*8
 『ある神父の〜』の終盤、主人公の神父は過去に自殺未遂を起こした娘*9とこんなやりとりを交わす。


「罪の話はもうたくさんだろう。徳についてもっと話すべきだ」
「そうだね。お父さんの考える一番の徳って何?」
「赦し(Forgiveness)だろうな」



 やはり兄弟なのだな、と『スリー・ビルボード』を観た観客ならうなずくかもしれない。


*1:フランス語圏のインタビューでもフラナリー・オコナーについて触れているインタビューがあったようだけれども、フランス語が読めないので具体的に何を言ってるのかはよくわからない。それもあまり大したことは語っていないようだけれど

*2:そもそも作者の意図など読解のうえで顧慮する必要などなく、ただスクリーンで展開される表層的な運動のみを注視すべきなのだというテクスト論的な態度をとる向きもいるだろうし、それはそれでわたしも美しいとはおもう。作者自身が証言していることだって勘違いがあったりウソをついたりで全面的に信頼できるものではないし、そもそも作者の意図通りにしか物語を読めないのであるならそんなにさびしいことはない。それにも同意だ。けれど、小説にしろ映画にしろなんにしろフィクションというのは読者と作者のコミュニケーションでなりたっているのだし、だとするならば読者側としては相手=作者のコンテキストをできうるかぎりは知っておきたい。というか、そういうことを調べるのに快楽がある。

*3:劇作家出身だけあってマーティン・マクドナー作品は映画も含めて脚本が手に入れやすい

*4:もしかしたら現地人はクラシックスの愛称でクラシックと呼ぶことがあるのかもしれない。詳しい人おしえてください

*5:ちなみに〈ペンギン・クラシックス〉ならマクドナー監督の過去作にも出てくる。デビュー作の『ヒットマンズ・レクイエム』でブレンダン・グリーソンが読んでいる本だ。このときグリーソンがどんな本を読んでいるか、具体的なタイトルは視認できないが、ネットに流れているスクリプトだとK.K.Katurianの『The Death of Capone』ということになっている。Katurianとはマクドナー監督の戯曲『ピローマン』に登場する人物で、この本も架空のものなのだろう。ネットで見つかる脚本はどの版かわかりにくいことが多いので、なるべくなら『ヒットマンズ・レクイエム』も出版されたやつで読みたかったけれど、書籍化されてはいるもののKindle化されていない。未Kindleは悪ですね

*6:kindle版位置984あたり

*7:imdbトリビア集より。http://www.imdb.com/title/tt5027774/trivia

*8:アメリカにおけるカソリック神父の児童虐待事件は『スリー・ビルボード』でも言及されていた。前々回のアカデミー作品賞受賞作である『スポットライト』に詳しいこの事件は、遠く離れたイギリスやアイルランドにあってもショッキングな出来事だったのだろう。

*9:カソリックの出家は生涯独身が信条だが、彼の場合は結婚後に教会に入ったため娘がいる

二月に読んでおもしろかった新刊マンガまとめ

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これまでのあらすじ

 なにもかもめんどくさくなっていたが、滝本誠トークショーを聴いてハッピーを得、やる気が出た。

完結情報(不完全版)

『彼方のアストラ』、『ムシヌユン』、『一人交換日記』、『てーきゅう』、『あれよ星屑』、『嘘食い』、『斑丸ケイオス』などが完結*1。『ストレンジ・プラス』、『ディエンビエンフー TRUE END』は次巻で完結。


今月の十選

『あんたさぁ、』(ルネッサンス吉田、単発長編、ビッグコミックスペシャル)



・今月のベスト姉漫画。理解不能な対象としての姉が最高密度で描かれている。姉のコンデンスミルク。
・あとがきで「今回は自分と違う人間を描こうとしたけど、結局自分になってしまった」的なことを述懐していましたけれど、さよう、ルネッサンス吉田先生はずっと同じまんがを繰り返し描きつづけているといえます。そして繰り返すごとに洗練と先鋭の度がましていく。今回はもうガチッガチですわ。ダイヤモンドですわ。強くなければダイヤモンドではない。
・文学作品の引用、過剰で晦渋なモノローグ、不安定な自意識、売春、虐待的近親相姦、絶望的な男性嫌悪と自己嫌悪、希死念慮、相互的な人物観察、主人公が作家などなど要素要素(一言でまとめると非人間感)はこれまでのルネッサンス吉田作品にも頻出してきたものばかりですが、ともすれば暴走しがちだった過去作に比べ、今回はとにかく緩急のコントロールが最上等。ただひたすら読んでいて心地が良いです。
・ただ手をつなぐ、同じ小舟に乗る、それだけでギリギリ生きられてしまうというのは希望のようでもあり、罪なようでもあります。


『いざなうもの』(谷口ジロー、短編集、ビッグコミックスペシャル)

谷口ジローの遺作。最後の最後まで天才だった。
・やはり表題作でしょう。ここまで完璧な「未完の絶筆原稿」は見たことがない。話の佳境でペン入れが途切れ、枯淡な線だけの世界へと切り替わる瞬間に、得も言われぬ開放感をおぼえます。この体験は唯一無二でしょう。本年度のベスト短編候補。



『ヴラド・ドラクラ』1巻(大窪晶与、ハルタコミックス)

・吸血鬼ネタのせいで何かと東西のフィクションで異能をふるわされつづてきたワラキア公ヴラドさんを生身の、一個の歴史上の人物として扱って真っ当な歴史ドラマをやろうという試み。コロンブスの卵だ。
・当時のワラキアにおける複雑怪奇な権力構造(臣下であるはずの貴族が言うことをきかないどころかカジュアルに反乱を起こしてくる)や王権の脆弱さ、不安定な国際関係を権謀術数でハックしつつ力を蓄えていく若きヴラドさんにドキドキします。
・ステージをクリアしていくごとに心強い仲間が増えていくのも王道といった感じ。ハルタはまた良い歴史マンガを産んだようです。
 

『とんがり帽子のアトリエ』3巻(白浜鴎、モーニングコミックス)

・ここまで真摯に「魔法とは何か」について考えた漫画があっただろうか。その問いかけを高度にジュヴナイルと融合させたファンタジーがあっただろうか。


『骸積みのボルテ』1巻(まつだこうた、バーズコミックス)

骸積みのボルテ (1) (バーズコミックス)

骸積みのボルテ (1) (バーズコミックス)

・まつだこうた先生ネヴァーダイ。姉・ケモ・チェビー・サガフロ2シュトヘルが全部盛りにされていて先生の意気込みと好みがうかがえる。
・もともと割りと技巧的なヒトではあったけれど、今回はずばぬけてトリッキーな作劇をしかけていて、今のところ成功している印象。ブレークスルーの可能性を秘めた期待作。


BEAST COMPLEX』(板垣巴留、短編集、少年チャンピオン・コミックス)

・理想的なファンタジーの描き手の条件はなにか。まあ、いくつかあるんでしょうけれども、普遍的な情感によりそいつつも、細部においてはその世界でしかありえない表現や感覚をロジカルに切り取ることができる、というのは個人的には確実にその一つに挙がります。
 板垣(巴)先生にもともとその才覚があることは、『ビースターズ』ですでに証明済みだったわけですが、短編だとさらに際立ちますね。*2
 どの収録作もシンプルでさらりとしたプロットなんですが、たとえば「孤独な男がミステリアスな女性に出会って一夜を共にする」なんて使い古された話がその形式を維持したまま、ちゃんと「被食者の男と捕食者の女」でしかありえない言語表現によって支えられている。
 このセンスですよ。


三ツ星カラーズ』5巻(カツヲ、電撃コミックスNEXT)

・カラーズには過去がない。だから後悔もない。ゆえにうつくしい。
・その人は、チェスタトン読書会のアフターで『三ツ星カラーズ』はチェスタトンであると唱えた。
・きみはKindle時代にはKindle時代の幸福を発見するだろう。途中からいつまでも読みつづけられるような気がしてくるまんが体験もそのひとつで、ページをめくって唐突に奥付が表示されたときの衝撃と喪失感は下手な叙述トリックより世界が反転する。指先で尺を無意識に感覚する紙の時代にはありえない体験だ。
 わからない? 『三ツ星カラーズ』の五巻を読めばわかる。


『一人交換日記』2巻(永田カピ、ビッグコミックスペシャル、完結)

・『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』から続くつらい系エッセイまんがの傑作。永田先生は愛されないすべての人間たちの原罪を背負ったキリストみたいな方です。
・自分を語ることばのチョイスからしてクレバーな人だなというのはわかっていたんですが、そういう人が「周囲のひとをネタにしてまんがを書くことの罪」に気づいて、それに向き合ってしまうのがほんとうにエグい。
・乱高下していく不安定な感情の波をここまで明晰につまびらかに掬い取ってことばに、絵にできるのはすごい。そのセンスを孤独な自身との徹底的な対峙に振ってしまわざるを得ないのは時代が産んだ不幸と申しますか、しかし、おかげでわたしたちはこの名品を読めるわけで、なんとも複雑です。マンガ界はこの人にちゃんとしたまんがを描かせてあげて、つぐなうべき。
・っていうか、巻末でわりに抜けのいいウェルメイドなフィクションも書けるのだなということもわかる。
・『みちくさ日記』とかと並んで売り物にできるギリギリのラインだな……と思っていたら軽々とヤバさのハードルを越えてくるやつが現れた。フィクションですが『アスペルカノジョ』も商業連載化されるようで、時はまさに大メンタルヘルス時代です。


HUNTER×HUNTER』35巻(冨樫義博ジャンプコミックス

・やるぜ新章、行くぜ新大陸ッ! とぶちあげられたときにまさか豪華客船内で疑心暗鬼の王位継承念獣デスゲームがはじまるとは誰が予想したでしょうか。冨樫先生はこの幕間をいつまで続けるつもりでしょうか。先生がご存命中に暗黒大陸へ到達できるのでしょうか。
 疑念は尽きませんが、ただひとつ、べらぼうにおもしろいという事実がすべてを免除するのです。


『スナックバス江』1巻(フォビドゥン澁川、ヤングジャンプコミックス)

スナックバス江 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

スナックバス江 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

・コマ単位でのちゃぶ台返しと集中線芸で読者を幻惑しておいて伏線回収でオチを華麗にしめる、登場人物の面相と意地がきたないまんが。面相は過去作に比べて比較的汚くはなくはある。



オンゴーイング

乙嫁語り』10巻(森薫ハルタコミックス)

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

・本筋といえばすべてが本筋なわけですけれど、ようやくといいますか満を持して幹の部分に戻ってきた。あとは横綱相撲ですよ。



あれよ星屑』7巻(山田参助、ビームコミックス、完結)

・おたくはすべての発端が最後に回想される形式に弱い。



『剣姫、咲く』3巻(山高守人、角川コミックス・エース)

剣姫、咲く (3) (角川コミックス・エース)

剣姫、咲く (3) (角川コミックス・エース)

・戸狩のターン。
・あたらしい強キャラが大量投入されるとなんとなく打ち切りのにおいを感じてしまうんですが、大丈夫ですよね? 「剣道マンガは続かない」のジンクスはこれに限ってないですよね? なんとか言ってよ、カドカワ



『僕はまだ野球を知らない』2巻(西餅、モーニングKC)

・「チームメイト同士のぶつかりあい」は高校野球ものでよく描かれるイベントですが、西餅先生に手になると、かくも理知的でさわやかに。このすがすがしさをミス・ブレナンは好ましくおもいます。



金田一少年の事件簿外伝 犯人たちの事件簿』2巻(船津紳平、週刊少年マガジンコミックス)

・ついに禁断の『悲恋湖』へ……。
・犯人と探偵の手に汗握るコミュニケーション、という点では前にも言ったかもだけど、倒叙の快楽に通じるところがある。



Dr.STONE』4巻(原作・稲垣理一郎、漫画・Boichiジャンプコミックス

・トーナメントがはじまりました。ジャンプだなあ。
・目先のクエストを明確に立てつつ、同時にマクロな対立構図も盛り上げていく腕力はあきらかにジャンプ五十年の歴史によって培われたものの反映であり、大手の強さをこういうところで実感する。



『いのまま』(オカヤイヅミ、芳文社コミックス、エッセイ集)

いのまま (芳文社コミックス)

いのまま (芳文社コミックス)

・エッセイ要素と料理要素を塩梅してまんがにするのが抜群にうまい。正道な食エッセイまんがのようでいて、このレベルで達成できている作品のなんと稀有なことか。



銀河英雄伝説』9巻(原作・田中芳樹、漫画・藤崎竜ヤングジャンプコミックス)

・アムリッツァ星域会戦。
・「正史」で無能バカとされたひとたちの再評価が目立つコミカライズですが、フォークはフォークでした。まあ変えようがないし、変えたら複雑になりすぎるし。



『BEASTERS』7巻(板垣巴留少年チャンピオン・コミックス)

・イケメン新入部員はともかく、ここで警備員役にメスのヘビを投入できるクソ度胸がすごい。



『決闘裁判』2巻(宮下裕樹ヤングマガジンコミックス)

・一癖ある系の悪役キャラが出てきましたが、彼の仕掛けた悪事の「事実はここまでこいつの仕業でした」の開示がテンポ含めて完璧。明かされるごとにやばさが増幅していく感覚。キャラ造形のうまさとは、こういうものですね。



『はじめアルゴリズム』2巻(笠原和人、モーニングコミックス)

・ライバルと挫折者が出てくるとやはりまんがとしての熱量が格段に上がります。



ストレンジ・プラス』19巻(美川べるのゼロサムコミックス)

・定番ネタをこなしつつもチャレンジすることを諦めない美川べるの先生の姿勢には進化の袋小路に立たされた人類として見習うべきところがあります。いや、みかべる先生も人類ですが。
・しかし次巻で完結するっていっても初期のシリアス伏線とかもうほとんどなかったことにされてるし……



『彼方のアストラ』5巻(篠原健太ジャンプコミックス、完結)

・シンプルかつ古典的なSFのアイディアにキャラ個別のストーリーを巧みにからめる。伏線とは物語をなめらかにするためにあるのだと教えられます。


『ナポレオン〜覇道進撃〜』14巻(長谷川哲也ヤングキングコミックス)

・ロシア地獄のはじまりはじまり
・これまでは噛み合わなくてもなんとかなっていた歯車が、いよいよ噛み合わなくてダメになるばかりで、英雄や組織が崩壊するときとはこういうものかというダイナミズム。



『蟇の血』(近藤ようこ、ビームコミックス、単発長編)

蟇の血 (ビームコミックス)

蟇の血 (ビームコミックス)

田中貢太郎の同名ホラー小説の漫画家。惚れた女を取り戻すためによくわからんけど怖い屋敷に突入する学生の話。
・最近の近藤ようこってそういう、オルフェウス的というか、冥界下り的な話が多い気がする。昔からか?



ハクメイとミコチ』6巻(樫木祐人ハルタコミックス)

・出たの1月ですね。もう月にこだわるのはやめます。年内に出ればすべて新刊だ。
・キャラの種を十分播いて育てたのであとは収穫するだけモードに入りました。強い。これが強い。
・38話のファッションショー回のラストページのフィニッシング・ストローク。40話のアナグマ姉弟回の関係性。



ディエンビエンフー TRUE END』2巻(西島大介、アクションコミックス)

・ティムとはなんだったのか。
・3巻でたたまなきゃいけないとはいえ、この虚ろなあっけなさばかり目立つスピード感はどうなんだろう、と思いますが、ページ単位では(特にアクションシーンは)最高なままなのでおもしろかった枠です。


可能性を感じる第一巻

『どるから』1巻(原作・石井和義、漫画・ハナムラ、バンブーコミックス)

どるから (1) (バンブーコミックス)

どるから (1) (バンブーコミックス)

・2月のダークホース。
石井和義元受刑者が釈放直後にトラックに轢かれて死亡。同時期に自殺した空手女子高生の身体に転生し、傾いた道場の経営を立て直していくお話。
・石井式格闘技ジム経営術(そりゃ知りたい人はには便利だろうけど……)で経済的に無双していく展開……かとおもいきや、途中から「半端な実力でプロ格闘家になってしまった人間のリアル」が描かれてそれがすごいエモい。そいつの心を石井館長 in 高校生がへし折る瞬間の演出も決まってる。



ひねもすのたり日記』1巻(ちばてつやビッグコミックスペシャル)

ちばてつやの回想録的なやつ。ちばてつやは回想録をわりと出してる作家のようなので、満州脱出の凄絶さやら全盛期にヤバいクスリを打ちながら仕事してたエピソードやら手塚治虫の死がきっかけで立ち上げられたゴルフ会やらはファンにはおなじみなんでしょうか、わたしは初耳なので新鮮でした。
・雰囲気的には水木しげるが亡くなる直前に描いていたエッセイまんがと重なりますね(水木しげるの訃報が入ったときの話もある)。功成り名遂げた大作家がひょうひょうと日々と過去を受け流しながら、卓抜した漫画力でさらりと語っていきます。すごみがある。



『トマトイプーのリコピン』1巻(大石浩二ジャンプコミックス

・サンリオ風のタッチでエグいギャグをやる。それはただの『ジュエルペット』では、だとか、『おねがいマイメロディ』では、だとかいうものいいは一切受け付けません。まあ実際方向性が違う。
・時事ネタの取り込み方に頭一つ抜けた手管を感じる
・一話を試し読みで読んだときはそんなでもなかったんですけど、単行本でまとめて読んでみるとなかなか。天丼も十回やればおもしろくなるんで継続は大事だなと思います。



『バカレイドッグス』1巻(原作・矢木純、漫画・青木優、ヤンマガKCスペシャル)

バカレイドッグス(1) (ヤングマガジンコミックス)

バカレイドッグス(1) (ヤングマガジンコミックス)

・裏社会でワケアリの患者たちをサスペンスフルに手術して助ける闇医者兄弟の話。巻数単位での構成がわりとスマートで、「『主人公イズいい人』なわけじゃないですよー」で落としてダークさを演出した直後に似たような展開を振ってさらにひとひねりを加え、読者を翻弄します。とはいっても、医者兄弟を完全な悪漢には振れない空気ができあがってしまったので、ここからどう攻めるのか。



『GREAT OLD 〜ドラゴンの作り方』1巻(伊科田海、少年チャンピオン・コミックス)

・いわゆる魔法学校もの的な展開をにおわしておいてか〜ら〜の〜?
秋田書店じるしといいますか、全体的に大振り気味なのが不安の種ですが、次巻が気になる漫画であることはまちがいありません。

*1:腐女子のつづ井さん』や『月曜日の友だち』もだけど、Kindle版は来月配信なのでカウントしない

*2:ビースターズ』の購買にたまごを売っているめんどりの話みたいな

『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』の短いレビュー

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(Killing of a Sacred Deer、ヨルゴス・ランティモス監督、英&アイルランド、2017)


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 開胸手術が施されている最中の心臓のアップではじまる。脈打つ心臓は脂肪に包まれていて、存外に白い。手術を終えたふたりの医師が、病院内の廊下を画面奥から向かって画面手前へと、雑談を交わしながらまっすぐと手前へと歩いてくる。片方は心臓外科の執刀医で、もう片方は麻酔医だ。新しい腕時計を欲しがる執刀医に麻酔医は彼の元患者が経営する時計屋を勧める。
 心臓外科医はある少年とダイナーで待ち合わせする。少年はチキンを注文する。つけあわせのフライドポテトに手をつけない少年を見て、心臓外科医は訊ねる。「きらいか?」
  少年は答える。「好きなものは最後にとっておく主義なんです」
 心臓外科医は車を停めてある海辺で麻酔医推薦の腕時計を少年に手渡す。少年は感謝のことばを述べ、心臓外科医にハグしていいかと訊ねる。おずおずと心臓外科医はうなずき、少年は抱きつく。
 心臓外科医と少年のあいだには不穏なぎこちなさが漂っている。

 少年は心臓外科医につきまとう。まず仕事場である病院に連絡もなく何度も押しかける。心臓外科医の家を訪問したり、逆に心臓外科医を自宅に招待したりする。 その過程でどうやら、少年の父親は心臓外科医の執刀中に死亡していたらしい、ということが提示される。
 観客にはまだ映画の意図がつかめない。
 ある朝、心臓外科医が息子を部屋まで呼びに行くと、息子は「歩けないんだ」という。
「足が動かないんだ」
 そして、地獄がはじまる。



映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』予告編



「われわれは真っ当なコメディやホラーやスリラーの作り方を知りません。」――ヨルゴス・ランティモス



Yorgos Lanthimos: 'I don't know how to make a straightforward film' - interview with The Killing of a Sacred Deer director | The Independent

 変な話を取りがちなヨーロッパの監督たちにあって、『籠の中の乙女』、『ロブスター』などでずばぬけた奇天烈さを発揮するヨルゴス・ランティモスの最新作です。


 とにかく俳優がすばらしい。
 まず、元凶となる少年のたたずまい。演じるバリー・コーガンは『ダンケルク』にも出演した新鋭です。あやうい輪郭に底知れない力強さを湛えた瞳を具えており、『ファニーゲーム』のフリッシュ&ギーリングのコンビや『クリーピー』の香川照之をほうふつとさせる、絶妙に話の通じない異物感を発揮しています。セリフや演出も彼のただならさを高めることに奉仕していて、たとえば、古典的な「扉を開いたり角を曲がったりすると(なぜか)そこにいる」という登場手法を多用することで、彼のホラー存在っぽさを高めているのもグッド。
 心臓外科医(『ロブスター』に引き続き主演を張るコリン・ファレル)も心臓外科医で、常識人に見えてけっこう変な人です。優しい妻(ニコール・キッドマン)と快活な二児の父親、学界でも尊敬される専門医、という社会的なイメージとしてはわかりやすい「成功者」なのに、どこかつかみどころがない人物です。特に異質なのが、妻とのセックス。妻は「麻酔患者になるわ」と言って、死体のようにベッドに身体を投げ出します。死姦趣味、というわけでもなさそうなのですが、ここに心臓外科医が他人を扱う態度についてのヒントがあるのかもしれません。
 彼は少年と頻繁に会うのに気がのらない様子です。なのに、ストーキングされるに至ってもあんまり強く出られません。割と序盤で「どうやら少年の死んだ父親の執刀医だったらしい」程度の情報は看取できるのですが、ふつうそれだけの理由で他人の子どもと親しくするでしょうか。この不思議な関係性のひっかかりをけっこう長いあいだ疑問として観客は抱きつづけなければいけません。少年との関係にずるずる引きずり込まれていく心臓外科医の押しの弱さは、後半の展開における「解決の手段は明示されているのになかなか決断できない優柔不断さ」の仕込みにもなっています。
 コーガンにしろファレルにしろニコール・キッドマンにしろ、ランティモス作品の特徴である平坦で感情の揺れが少ない演技に徹しつつも、けっして薄っぺらくはありません。累積していく激情をこらえつづけることで物語のエモーションが高まっていく、そんな印象さえ受けます。


 そして、卓抜したサスペンスの手際。
 設定的には二段構えのタイムリミットサスペンス的な要素がありまして、メジャーなレイヤーでの「呪い」とマイナーなのレイヤーでの「呪い」を同時進行させることで主人公の心臓外科医にとてつもない負荷をかけます。
 そのうえ、両方のレイヤーで、あらかじめ「この『呪い』には『三段階目』がある」と予告しておいて、三つ目の発生をひきのばし、常に「いつ三つ目の、そして決定的な『呪い』が発動するかわからない」緊張を保ちます。
 かとおもえば、『呪い』が一時的にふっと解ける瞬間もあります。しかし、それは観客に一時の安心を与えるためではなく、不安を増幅させるために用意されたものです。静謐なルックに反して、とにかく観客と主人公に圧をかけまくる演出はとてもエキサイティングで、いっときも画面から目を離せません。 


 画作りはキューブリックの一点透視図法的な撮影とよく比較されているようです。しかし、本作の場合はシンメトリーというよりは、画面上に奥行きのある三角形を作り出すことに重点が置かれているように見受けられます。開放感にある構図に一〜三人しかいない画面というのはそれだけで作品の異常な雰囲気づくりに貢献していますけれども、最終盤にまさしく「奥行きのある三角形」に人物を配置してきて、そこもまたたまらない。


 ジャンルに当てはめられることを峻拒しているランティモスですが、それでもあえて本作をジャンル分けするならば、スリラー/ホラーのあたりでしょうか。心臓外科医たちが見舞われる厄災はほとんど超常現象的です。では、呪術だったり魔法だったりするのかといえば、そういう理屈付けすら行われていない。「犯人」は怪物的に描かれますが、怪物そのものではありません。刺したり撃ったりすれば死ぬであろうことは劇中でも示唆されています。
 では何があるのか。ただ純粋な「等価交換の原理」「目には目を、歯に歯を」*1のオートマティックな力学だけがある。その点の印象でいえば、カルロス・ベルムトの『マジカル・ガール』に近いものを感じます。トリックもない。魔法もない。しかし、誰かが死ねばカウンターパートの誰かも死ぬ。死ななければならない。
 「呪い」に関するロジカルな設定や説明をほとんど放棄している*2にもかかわらず、本作や『マジカル・ガール』がリアルな重みをもって観客に迫ってくるのは、それが、暴力のプロセスを言い当てているからかもしれません。一度発動したら、設定条件を満たすまで止まらない。心臓のように、個人の意志では止めたり動かしたりはできないのです。


 イヌ。イヌの使い方もいいですね。そんなに目立つ存在ではないといいますか、ほとんどのシーンで画面から外れていますが、出てくる場面では意味ありげな使われ方をしています。
 初めて登場するのは心臓外科医一家が食卓を囲むシーンです。みなが楽しげに談笑している横で、ほとんど死んだように四肢を投げ出して寝そべっています。カットが切り替わる直前に立ち上がりますが、このイヌの「モノ」な感じは後の展開の不吉さを暗示させます。
 そして皮肉なことに、イヌが元気に歩き回るようになるのは、心臓外科医の息子から歩行の自由が奪われてからなのです。飼い主である人間の家族がどんな災難に直面しようが、イヌはイヌで関係なく生きている。ここのあたりにランティモス監督のいじわるさが出ているように思います。


 監督の次作として控えているのはエマ・ストーン主演の『The Favourite』。イギリスのアン女王時代を舞台にした政治の内幕もので、ランティモスがこういう仕事をやるのは意外の感がありますね。脚本にも関わっていないようだし、どうなることやら。


*1:劇中で目と歯(型)から血が吹き出すのも、ハンムラビ法典を意識してのことでしょう

*2:タイトルにも引用されているギリシャ神話のアガメムノンとイーピゲネイアの逸話や、あるシーンの天井に投影されている十字架(子どもを人身御供にささげるなら聖書にもアブラハムがいます)もこの点の読解にはほとんど用をなしません

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