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ビル・コンドン版『美女と野獣』の感想

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 聞くところによればディズニーは長編アニメから十数作ほどを対象に実写リメイクする予定であるらしい。九十年代のいわゆるディズニー・ルネッサンス期の名作群からも『リトル・マーメイド』や『ライオン・キング』、『アラジン』といった顔ぶれが待機作として控えている。
 アラン・メンケンが音楽を、ハワード・アッシュマンが作詞を担当したルネッサンス期のミュージカル群はどれも完璧な魔法に満ちていて、幼少期に体験したならばもはや何者にも代え難いほどの奇跡として私たちの記憶に固着している。
 そもそもアニメーションの原義は命なき者に命を吹き込むことであるはずで、そうした魔術を生身の人間でやり直すこと自体反呪術的というか、無粋であることは決まりきっている。『スターウォーズ』やマーベルが百年帝国を築きつつあるような現代映画界において例えビジネス上の要請で生まれ出た映画であって映画であることには変わりなく、映画である以上は観なければならない。製作側に求められる品性と観客の側に求められる品性はそれぞれ別種のものなのですから。

 で、『美女と野獣』。
 ポール・ウェルズに指摘されるまでもなく、村のファニーガールであるベルは91年版の時点から明白に「男尊女卑と家父長主義文化の犠牲者」*1として描かれているのであって、それでもまだ旧来的なプリンセス・ストーリーの重力に回収されていた91年版を、ビル・コンドンとディズニーはリメイクにあたってより「現代的」な方向へと改変した。
 伊達男ガストンはベルに求婚するさいに村で物乞いに身をやつしている独身女を示し「結婚しない女の末路はあれだ」と脅す。当時のフランスの田舎では、ベルみたいにシェイクスピアを好む読書家の女性が自立して生きる余地など絶無だった。
 この独身女は折々に印象的な活躍をするのだけれど、村におけるマイノリティはベルや彼女だけではない。ガストンの側近ル・フゥもその一人だ。彼のセクシャリティがゲイに変更されたことは大きな話題を呼び、コードが厳格な一部地域では本作の上映自体が禁じられる騒ぎとなった。と、いっても話題の大きさに反して彼のガストンに対するあこがれはあこがれ程度にとどまり、直接的に彼の想いを爆発させる場面はほとんどない。むしろ原作ファンが驚くのは終盤における彼の転身ではないか。
 こうしたわかりやすいキャラ配置だけでなく、メインとなるベルと野獣の恋愛劇にも実は繊細な配慮がほどこされている。もとから四十分も追加されているので当たり前といえば当たり前なのだけれど、二人が恋愛に陥る課程がより丁寧に、より説得的に描かれるのだ。
 追加描写によって強調されるのはふたりの共通点だ。ふたりとも母親を早くに失い、本を友とし、属するコミュニティで外れものとして生きてきた。だからこそ互いの孤独を理解し、寄り添うことができる。
 そう、孤立の解消こそ本作の裏テーマとみるべきだろう。ベルと父親との関係も不在の母親を介して更に掘り下げられている*2し、村人たちと城の住人たちの意外なつながりもおまけ程度であるけれども断絶していた城と村の再結合、一度は憎しみあったはずの人々の和解に一役買っている。

 なのに、だ。肝心要のミュージカル部分で一番輝きを見せるのは、一人だけ孤立したまま結末を迎えてしまうガストン(ルーク・エヴァンス)なのはどういうわけだろう。コンドン(に代表される制作陣)はミュージカルパートでいちいち役者の動きを止めたり、原曲を細切れにして間延びさせたりして力強いテンポを殺してしまっているわけだけれど、ガストンはその肉体的な説得力ひとつでミュージカルのキャラであることを成立させている。ル・フゥのアシストも貢献大だけど、彼の「強いぞガストン」の躍動は原作以上に力強く、逆に原作の醜悪なパロディに墜してしまった「Be Our Guest」と対照的だ。
 原作以上に怪物化し、ある外的な要因のせいでより惨めな最期を遂げてしまう彼だが、キャラクターとしては報われている。

*1:Paul Wells, "Animation and America"

*2:本作で追加されたパートでも最も印象的な、ある「魔法」によってベルが思い出の場所へ誘われるシーンは白眉だろう


良い地獄を待っているーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(1)

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 フィクションを読む、とは、こうした記述の運動を把握し、固有の色彩とマチエールを味わい、複数の動きがあるなら相互の関係を見出し、あるロジックを持つ総体に組み上げ、評価することだ、と、取り敢えずはしておきましょう。
佐藤亜紀『小説のストラテジー』ちくま文庫

 

 イメージこそ事件なんだというのが、ぼくの主張です。
フロベールからルイーズ・コレーへの手紙、ナボコフナボコフの文学講義 上』河出文庫

 

 

 


 矢部嵩による魔法少女文学の最高峰『魔女の子供はやってこない』(角川ホラー文庫)で読書会を主催することになってしまいました。
 つきましては覚え書き的なものが欲しい。物覚えが悪いので、そういうものがないと話したかった細部を忘れてしまいます。*1

 矢部嵩はエモーションの作家である、と概してみなされがちで、かくいうわたしも文体のエモさにやられてファンになったクチです。
 しかし、小説は「なんとなくエモそうな文」を並べれば、そのまま「エモい小説」になるわけではありません。エモい物語におけるエモさとは感情誘導技術の結晶です。
 矢部嵩作品も実は緻密な技術の粋でできています。それを成り立たせているのは特定のイメージの反復と接続です。それらの記述の軌跡を「運動」と呼んでもいいかもしれない。かつて佐藤亜紀は「物語だと我々が思い込んで読んでいるのは、しばしば、「運動」のことである」と宣しました。その運動をこれから一緒にたどっていきましょう。基本的には各話の筋をあたまからけつまで割る方向なので、ネタバレに注意してください。

 

第一話「魔女マンション、新しい友達」

第一章「帰り道で」

『魔女の子供はやってこない』は世界の解像度、あるいは視力についての記述からはじまります。
 

 奥から空が暮れ始めていました。

 


 この簡潔な書き出しはこれから語られる物語が「夜」に属する系統の話であることを宣言しています。が、コンセプト説明の役割を託された第一話に関するかぎりでは、二行のちに続く段落がより重要だとおもわれます。

 

 レンズの端の汚れに気付いて、かけていた眼鏡を外すと町はかすんで、文字のない国にいるみたいでした。眼鏡を拭いてまたかけ直し、暗くなった通学路を私は再び歩き出しました。


 このパラグラフは終盤にエモい形でパラフレーズされます。要素としては眼鏡も「文字のない国」というフレーズも以後の五話にわたって繰り返し反復されていくことになります。ここでは、さしあたって、主人公・安藤夏子が視力に劣った人物であるという属性が示されます。夏子は優柔不断で、ぼんやりした人物です。そのキャラクター設定は物語全体のテーマと深く結びついています。
 そもそもの事件のきっかけも彼女の視力の悪さ、迂闊さからもたらされます。下校途中に家の合鍵をなくして探すうち、ふしぎなステッキを発見する。そこで日常が分岐し、非日常的な物語へと発展していくわけです。
 ステッキを発見する場面はなにげないながらも、第一話の根幹を問う上できわめて興味深い。

 

 何かいいことがないかなと思いながら歩いていると、前方に奇妙なものを見つけました。


 鍵をなくして落ち込んでいる夏子が「なにかいいことがないかな」と「ねがいごと」をして、ステッキがもたらされたように読めます。このステッキは周り回って、最高の親友という夏子が(望んでいると自覚していない)ほしがっていたものに交換されるわけですから、なんとなれば魔女に出会う以前、ステッキを拾う以前から夏子をねがいごとをして、それをかなえてもらっていたのです。
 ラストの構造的仕掛けを考慮するならば、ねがいごとは最初からただしく理解され叶えられる予定であったわけで、それを一般的なことばで表現するとなると、運命と呼ぶにふさわしいでしょう。

 ステッキには魔女の住所が記されています。それで持ち主であるらしい魔女が「自由町」に住んでいることが知れる。「自由町」は「自由帳」に通じることばで、第一話を通してちりばめられている絵画のイメージはここに端を発します。


第二章「拾ったステッキ」

 第二章は第一章の出来事を語った夏子に対する友人たちの反応ではじまります。小学校の教室における夏子とその友人たちの描写は一見なんの変哲もない仲良しグループといった趣ですが、実はすでに破滅へと至る種子がそこかしこに蒔かれています。
 まず、友人五人の名前をみてみましょう。餡子、小倉、ずん田、村雨、そして厳密には三章からの登場になりますが、うぐいす。
 いずれもアンコ由来(餡、小倉餡、ずんだ餡、村雨餡、うぐいす餡)のネーミングです。ここに加わる安藤夏子の「あんドーナツ」は相性が良いに思われます。ところが、よくよく考え視てみると、他が純和製の菓子であるのに対して、あんドーナツだけはドーナツという洋菓子を使用しています。一人だけ、立ち位置が曖昧な名前なのです。この曖昧さはそのまま夏子の性格のどっちつかなさにつながっていて、同時に夏子がなんとなく彼らとのコミュニケーションが不全をきたすであろうことも予言しています。

 仲良し六人組の関係の不穏さは、テスト返却の場面にも漂っています。小学生における強さの指標のひとつである「成績の良さ」がグループ内で均質ではない。小倉くんや餡子が優秀な生徒である一方で、ずん田くんは一度も百点を取ったことのない劣等生なのです。
 また、ずん田くんは初登場時に「痛そうに頭をおさえてい」ますが、なぜ痛がっているのかは特に現時点で読者に説明されません。実は村雨くんがずん田くんをいじめているのですが、視点人物である夏子はその事実を知らず、また気にもしません。

 


第三章「私の友達」
 
 村雨くんから魔女の住所について情報を得て、一行は魔女の住むアパートへと向かいます。この章の第二段落で村雨君と初登場のうぐいすさんがテスト結果を見せ合って賭を精算するシーンが描かれます。テストを通じてキャラ同士の仲の良さを表現するのは第二章でも餡子と小倉くんでやっていたテクニックで、夏子以外の五人のうち、ずん田くんだけがそうした関係の意図から巧妙に外されているのが見え隠れしています。
 また、前章のテストで百点を穫ったずん田くんの「奇跡」がもしかしたらステッキによる「魔法」の効果なのかもしれない、という仮説が小倉くんの口から唱えられます。
 ところでこのステッキ*2。本書が魔女と魔法についての話であるとわかって読んでいるとなんとなく「このステッキには魔術が宿っていて、ずん田の百点もその効果なんだな」と無条件に納得してしまいますが、実は劇中ではステッキ自体になんらかの機能があると説明されていない。夏子がステッキに願ってずん田に百点をとらせてしまったのなら、魔女の存在ぬきで魔法が使えることになってしまいます。それは変です。ステッキは単なるプロップにすぎず、ずん田の百点も偶然だったのでしょう。このステッキは最終話である感動的なエピファニーを媒介することになりますが、あれもステッキがただのブツであるこその奇跡なのだとおもいます。
 してみると、ずん田くんはすくなくとも実力で百点を取ったわけで、小倉くんの物言いはあきらかにずん田くんをバカにしています。なのに村雨くんも「ずん田が自分で取るよかはありうるとおれも思う」と真剣に同意する。魔法のステッキが実在する確率よりも実力で百点を取るほうがありえない、とふたりは考えているのです。当事者であるずん田くんは二人の議論に口をはさみません。
 

 ここでグループのリーダー格である小倉くんの提案により、みんなで魔女のところへステッキを返却しに行く流れになります。ついでに夏子が彼に恋心を抱いていると判明します。
 小倉くんはクラスの人気者ですが「誰を好きなのか知る女子はおらず」、夏子も自分の気持ちを押し込めて友人としての距離を保ったまま曖昧なしあわせに安住します。彼の好きな女子はおそらく自分ではないだろうとわかってはいます。それでも彼のしぐさひとつひとつにかすかな希望を寄せてしまうのが女心。
 片思いとは想像上の相手に過度な妄想や期待を重ねるディスコミュニケーションの一形態です。その一方的な期待が崩れてしまうことを失恋と呼ぶわけですが、この終局は夏子にもやがて訪れます。

 さて、第三章で注目したい表現は他にもあります。魔女のすまう「げろマンション」をはじめて夏子が目にしたときの描写です。

 

 十階建てのげろマンションは壁に当たる夕日が眩しく、書き忘れたみたいに輪郭線が飛んでいました。見上げると壁は傾いて見えて、角度のきつい遠近法でした。

 

「輪郭線」も「遠近法」も絵画の技術的な用語であり、小説ではまず用いられません。ここで矢部嵩本人が絵もたしなむ事実を思い出すのも乙でしょう。
 本編における「絵」のイメージは「魔女」を表しています。そのことを鑑みるに、彼女が住むマンションのファーストインプレッションが絵画的に述べられるのは一貫性の点で当然です。
 げろマンションは同時に夏子のすむマンションと同じ丘の反対側に立地しているので、「この世」に相対する「あの世」でもあるのでしょう。げろマンションがホーンテッドな建築として夏子の目におぞましく映るのはそのためです。

  

第四章「魔女のいるマンション」

 第一話全体の約四分の三を占める最重要パートです。
 一行はマンションに潜入します。ここで餡子が夏子に対して不満めいた忠告を与えます。彼女は小倉くんの提案に唯一反対していました。

 

「夏子さ」餡子がいいました。「みんなで一緒に遊ぶのいいけど、一人でまじめに鍵探したの。一人じゃ何も出来ないんなら、そんなのはよくないと私は思うよ」「怒ってるの」「なんだかなとは思ってるよ。こんな届けものより先に鍵探さなきゃじゃん。学校にもなかったのに」「うん・・」「私あんたのそういうとこやだ。しなきゃいけないことは一人でもちゃんとしなよ。手伝うくらいは別にいいけど、いつも助けてるじゃん私」「うん・・」「別にいいけど、それで一人じゃ何も出来なくなるなら、私のせいみたいじゃん」

 

 夏子はどうやら一人では何もできないタイプのようです。餡子は筋をきちんと通さない夏子にご不満なのですが、夏子はそもそも自分のねがいをよくわかっていない曖昧な人間なので、つい流されてしまう。 

 このセリフからうかがえる餡子と夏子との関係は、助け助けられの友人のようでいて実際には夏子の「すべきこと」を餡子が決めて手を引いている、といったところでしょうか。
 続く餡子と夏子との仲良さげな会話から、ふたりが親友であることが看取できます。が、好きな人についての話になると、餡子の側が夏子の好きな人を小倉であると把握している一方で、

 

「ねえ餡子ちゃんは好きな子いないの」
「何急に。いないっつったじゃん前も」


 とツッパります。うそをついています。餡子ちゃんは小倉くんに好意を寄せているのですが、夏子をおもんぱかってなのかどうか、言おうとしない。この態度がのちに餡子に対する幻想の崩壊をひきおこします。
 
 このガールズトークの直後、夏子は謎の老婆に遭遇します。老婆は合い言葉「地獄は来ない」を教えてもらいます。今後幾度となく反復されるフレーズであり、わかりやすく重要な伏線です。「地獄」が何を指すのかについてはとりあえず措いておきましょう。

 魔女の住まいに到着します。あからさまにあやしい部屋の雰囲気にみなチャイムを押すのをためらい、一番立場の弱いずん田くんにその役目を押しつけます。
 ここで夏子はまたほんのりとねがいごとを発します。

 

 応答を待ちながら私は魔女の部屋というのはどういう感じか想像してみました。家具が菓子かも知れないし、窯や鍋などある気もしました。魔女も年寄りか、あるいは若いのか、怖い系よりは、綺麗な女の子がいいなと思いました。

 

「魔女が女の子なら友達になれるだろうかと考え」もします。そうして、第一話のラストで実際に彼女は「綺麗な女の子」と「友達に」なるのです。 
 ずん田くんの百点は口に出された願いが叶えられたもので、夏子がぼんやりと願ったこのねがいや第一章の「何かいいこと」は彼女の内部で思われたものです。ねがいごとを口に出して画定するのは大変にむずかしい。その難しさが、夏子にはこのあとずっとついてまわります。
 チャイムに応じて出てきたのは、全裸の中年男性でした。夏子たちは男の言われるがままに入場料として八百円を差しだし、廊下の自動改札機をぬけ、電車の内部を模した部屋に入ります。部屋は実際に駆動しだして、一行を魔女のもとへと運びます。
 モチーフとしての鉄道は一般的に人の手にはどうすることもできない運命のメタファーとして特に映画などで使われます。古典小説なら『アンナ・カレーニナ*3、アニメだと『回るピングドラム』ですね。ピンドラでは「電車の乗り換え=運命の乗り換え」でしたが、夏子も不思議な電車に乗ってしまったがために不思議な運命へと変転していきます。電車には、また、往路と復路が存在します。夏子がのちにもう一度この電車に乗ることになるのはそういうわけです。
 電車は魔女の汚部屋に到着します。不審な子供たちに遭遇した魔女の老婆はパニックのあまり銃を乱射し、餡子を射殺してしまいます。このときのやりとりで夏子たちが「絵の具小学校の三年二組」であることがわかりますので、絵画のモチーフとして留意しておきましょう。
 魔女が完璧に異常な存在であるのは、彼女の言動と部屋の様子によってあますところなく描かれます。基本的には汚物描写です。
 誤解は解け、なんとか魔女と打ち解け(?)たものの、彼女はステッキを見せられても「知らない」と言います。ステッキはどこから来たのか、という疑問が生じますが、第一話ではすっとばされます。
 なんにせよ届けものをしてもらったのだからお礼をしたい、と魔女は「願い事を『ひとつだけ』なんでも叶えてあげるよ」と夏子に申し出ます。夏子はさきほど殺されてしまった餡子を生き返らせてくれるようにお願いします。本作における魔女の力は強大で、ねがえば文字通りなんでも叶うのです。
 ところが餡子の蘇生準備中、小倉くんは魔女に出された殺人ジュースを飲んでしまったのが原因で急死します。かなう願いはひとつだけ。餡子を生き返らせてしまえば、小倉くんの復活は不可能です。
 残された四人は餡子か小倉くんか、どちらを生き返らせるかで議論を戦わせます。ここでの取り交わされるロジックはそれ自体なかなか興味ぶかいです。多数決だと人気者の小倉くんに票が集まって公平ではないと懸念した村雨くんくんはくじで決めることを提案するのですが、うぐいすさんは「どうして気持ちを乗せちゃだめなの」と反駁します。どうせ自然の摂理に反した不公平な行為なのだから、論理や公平性を重視するのはおかしい。一理あります。
 この命の優先順位に関する村雨くんとうぐいすさんの議論が、ずん田くんの暗い思考に火をつけてしまいます。
 夏子が「二人とも生き返らせてという一つのお願いじゃいけないんですか」と魔女に問い合わせるとあっさりとOKをもらいます。ルール違反のようですが、魔女としては最初に提示したルールから一歩も外れてしません。
 しかし願う側の子供たちはこの後急速に混乱していきます。
 まず、ずん田くんが魔女の銃を手に取って夏子たちを脅迫し、死んだ自分の母親を生き返らせるように要求します。このとき銃を魔女にうけて撃つと暴発して射手を殺す仕組みであることが語られます。
 うぐいすさんは折れて餡子と小倉くんに加えてずん田くんの母親も生き返らせるようにねがいを変えようともちかけますが、ずん田は言下に拒否します。餡子も小倉くんも嫌いだというのです。彼はバカにされてきたことをずっと恨んでいたのでした。そして、ずん田くんを除こうと動きかけた村雨くんを撃ち殺し、いじめられてきたストレスを爆発させます。第二章でずん田くんが後頭部を押さえていた理由がここで判明します。
 ずん田くんはうぐいすさんによって椅子で殴られて昏倒しますが、今度はうぐいすさんが銃で夏子を脅し出します。「魔女のお婆さん十億円って出せますか」

 

「生き返すとかはいいの?」「あいいですそっちは。ずん田君見てたらそんなに拘らなくてもいいかなと思って」うぐいすさんはいいました。
「死んだばかり過ぎて囚われてたけど、やっぱり人より自分のことかなって」

 

  ずん田くんの凶行がうぐいすさんのエゴを呼び覚ましてしまった。なんでも願い事が叶う好機を得たならば、それは他人のためではなく自分のために使って当然なのではないか。
 うぐいすさん自身にはずん田くんのような今すぐ叶えたい特定のねがいごとはありません。なので、「十億あれば一生のライン引くのにとりあえず十分」と目的ではなく手段を要求します。
 窮した夏子は魔女に「お願いの回数を増やしてってお願い」をし、魔女に容れられます。うぐいすさんは融通のききすぎる魔女にキレます。

 

「だって村雨君死んじゃったじゃんっ。ずん田殴っちゃったじゃん私っ。いっとけば防げたじゃん、なんで後からいいよとかいうの?」
「それは後から願ったからだよ。願ってないことを私は決められないよ。どれも私の願いじゃないもの。私の基準であなたは願うの」
「知らないよ」「そうか。きっと願うのがへただったんだよ」

 

 おなじく願いを無制限に叶える装置である『魔法少女まどか☆マギカ』のきゅうべえはヒト的な利己心ゆえから願いによる副作用を言い落とすという阿漕な真似をやりますけれど、この魔女の場合は逆です。すべて最初に言ったことの範囲内です。なんでも叶うということはなんでも叶うということ。第二話以降、魔女は願い事にルールを設けますが、それは願い事がねがう側とねがわれる側の関係性によって成立するものと彼女が理解したからです。
 しかし第一話の時点では、ねがう側もねがわれる側も漠然としすぎている。子供たちは「願い事のパース」をひけない。選択肢が事実上無限であるために何をねがえば自分のためになるのかがわからないのです。それを指して、魔女は「きっと願うのがへた」と言っているのです。
 最終的にうぐいすさんは「私の願い死ぬまで全部叶えてよ。他の人のは叶えないで」というやはり「手段」の究極に落ち着きますが、実は生きていたずん田くんや村雨くんとすったもんだを繰り広げたあげくにやはり死にます。『レザボア・ドッグス』じみた仲間内での凄惨な殺し合いの末、ねがいごとをする権利は結局夏子の手に戻ってきます。
 夏子は醜くいがみ合ったうぐいすさん、ずん田くん、村雨くんを生き返らせるとまた殺し合いになると危惧し、最初に死んだ餡子と小倉くんの二人を蘇生させます。
 このとき、魔女の儀式の様子が紹介されます。三十六色のクレヨンをとりだし、何もない空間にねがわれたこと(この場合は餡子の姿)を描くするのです。魔女が絵画的なイメージと結びついている、と言ったのはこういうわけです。ねがわれた内容にきちんと輪郭を与えることで、ねがいごとを十全に叶えることができるのです。
 また夏子が餡子のことを「誰と特別仲のいいわけではな」く、「みんなにちやほやされる小倉君に突っかかることさえあ」ると評価していることが明かされますが、それが夏子の観察不足であることは直後に判明します。
 生き返った餡子は小倉くんが毒で死んだと知るや、彼も蘇生中であることを聞かされる前に、すぐに自殺してしまったのです。まるで『ロミオとジュリエット』。夏子は初めて餡子が小倉くんを好きだったんだと理解します。「好きな人はいない」と夏子に明言していたにもかかわらず。
 つづいて小倉くんが蘇ります。が、友人たちのむごい死体を目の当たりにした小倉くんは彼らが魔女に虐殺されたものと早合点し、ろくに夏子の話もきかずに銃を魔女に向け発砲します。しかし、前述したように、その銃は魔女を撃つと暴発する仕様でした。小倉くんは死んでいたので説明を聞いていなかったのです。またもや情報の齟齬によって小倉くんは二度目の死を迎えます。
 ふたたび全滅です。そして、四人が魔女に殺されたと思いこんで義憤から復讐に出た小倉くんの行動から、いままで自分に向けられていたと信じていた小倉くんの優しさはたんなる親切であり、自分など小倉くんにとってなんでもない存在だと夏子は悟ります。
 内心では六人組のみんなを恨んでいたずん田、ずん田を陰でいじめていた村雨、みずからのエゴのために他人の命をふみにじるうぐいす、親友である夏子にぎりぎりで本心を打ち明けなかった餡子、夏子の淡い期待に反して彼女へ好意を寄せていなかった小倉。仲良しだと思っていた六人の幼なじみたちの誰とも夏子はつながっていなかったのです。
 ねがいごとを消費してしまった今となっては、もはや生き返らせることもできません。

 悲嘆にくれる夏子に魔女は「私と友達になろうよ」と提案します。老婆であると思われていた魔女の正体は実はかわいらしい金髪の女の子でした。血と反吐と夜で彩られてきたこれまでの作中世界とは一線を画したブライトで異質な色です。彼女と夏子はものすごい勢いで通じ合います。

 

「うん」よく判らぬまま私は頷いていました。「よろしく」
「こちらこそ」魔女の女の子は笑いました。「じゃあ早速だけど今日あったことは全部忘れてもらうね」「えっ何で」「口封じだけど」「魔法で記憶を消すってこと」「そうそう」「その後で友達になってくれるの」「えっすごい超伝わってんじゃん話」女の子はぱっと笑いました。「いいでしょ安藤さん、私と友達なってよ」「うんいいよありがとう」
 そういうわけで(何も覚えていませんが)私はその女の子と友達になりました。何があったかもう判りませんが、友達が出来るのは嬉しく思いました。

 

 このとき裸の中年男性から「箒の魔女と白いおばけが五匹、月夜を飛んでいる白黒の印刷絵がクレヨンで雑に塗られてい」る画を渡されます。五人の古くてわかりあえない友達が、以心伝心の新しい親友一人に交換されたのです。
 魔女は「塗絵」という名前であると自己紹介します。絵画のイメージのつなぎあわせがここに収斂します。その彼女が名乗ったそのときに、夏子は望みのものを手にするのです。

 

「私は塗絵」私が床に置いた絵を魔女が拾いました。
「合言葉は地獄は来ない。それで扉は開くから」
「地獄は来ない」合い鍵をもらったみたいだなと思いました。「またねぬりえちゃん」

 

 冒頭でなくしたはずの家の合い鍵。それが新しく得られた真の親友のことばと重ねられるのです。「鍵は鉄より言葉で出来ていた方がいいこともある」とは第四話でぬりえちゃんが語るセリフです。鉄の鍵は一人で開閉ができますが、言葉の鍵は二人以上いないと作動しません。人と人との関わりの物語がここから始まります。
 結末部では、始まりの「夜→眼鏡外し」のイメージの推移が逆回しにされます。

 

 吐息でレンズが曇り、私は眼鏡を外しました。何があったか覚えていませんが、すごくどきどきしていた気がし、こんなどきどきがまたあればいいなと思い、夜の空気を吸いこみました。(中略)起こる筈のないことが起きなくす筈のないものをなくし、持っているのは一枚の絵だけ、それでもその日私はどきどきしたまま、病院のベッドで眠りについたのでした。


 第一話に出てきたフレーズ、モチーフ、アイテムといった各要素は今後展開される五篇において頻繁に反復されます。見落としがちなところで留意しておきたいのは、死んだ夏子の五人の友人たちでしょうか。生きたキャラクターとしては今後一切出番はありませんが、彼らが第一話で残したセリフや行動、問題提起などはちゃんと覚えておきましょう。意外なまでに物語に深く関わってくることになります。(第二話へ続く)

*1:念のために言っておきますが、読書会参加者のために用意したものでももちろんありません。

*2:劇中では「棒」とされたり「杖」とされたりも

*3:「汽車や馬車はこの小説において重要な役割を果たしている(中略)いわばこの物語のなかの旅行業者であり、読者をトルストイの望み通りの場所へ連れて行く」「トルストイの長編では、騒音を発し、蒸気を吐き出す汽車が、作中人物を運んだり殺したりするために用いられ」『ナボコフロシア文学講義 下』河出文庫

地獄にスノードームで勝算はあるのか? ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(2)

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良い地獄を待っているーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(1) - 名馬であれば馬のうち

のつづき

 

第二話「魔女家に来る」  

 第一話は夏子がぬりえちゃんちへやってくる話でした。第二話はぬりえちゃんが夏子のうちにやってくる話です。
二〇一五年に開かれた講演会(関西ミステリ連合OB会『BIRLSTONE GAMBIT』収録)によると第二話は「中耳炎」と題されたぬりえちゃん視点の話になる予定でした。が、「中耳炎」は結局編集部から没をくらいます。*1本編はその没原稿の代わりに書かれたものです。

 

 

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

 

 


*家、あるいは家族という名の地獄


 本書のタイトルである『魔女の子供はやってこない』をキーワード「地獄は来ない」とつきあわせると、どちらも「来ない」存在であると共通項が見出され、「魔女の子供(ぬりえちゃん)は地獄のメタファーである」とこの時点で短絡しえます。ところが第二話では魔女がやってくる。
 第一話でもともとの友人たちを無くした(無くした記憶を消してしまったので元々ぼっちだったということになっている)夏子は、学校の先生から「最近通り魔が出て危ないから友達とペアを組んで下校するように」と促されるものの、組む相手がいないので教室にぽつねんと残されてしまう。
 そこに、紙飛行機が窓から舞いこんできます。唯一の友人であるぬりえちゃんからのお誘いです。夏子はぬりえちゃんとの関係において、常に待つ側です。
 ふたりは一緒に外で遊びますが、内容は公園で本を読むだけ。他に遊び方がわからないので夏子はこういうことをやるのですが、ぬりえちゃんは「一人でできること、どうして二人でするんだろう」と疑問を呈し、夏子の家に遊びに行くことを提案します。このとき、とまどう夏子にぬりえが言う「友達でしょ?」は第一話で夏子の家に遊びに行きたがった小倉くんのセリフと呼応します。旧仲良し六人組は第二話以降姿を消しますが、このようにセリフを反復する形でふしぎとちょくちょく全編に顔を覗かせます。
 夏子は以前からあまり自分のうちに友達を招待しない子供だったようです。それは彼女自身の強い自意識に由来しています*2。彼女は精神を削りながら自室でぬりえちゃんを歓待しますが、内心では「二人でいる時何をすればいいか、せっかく外ではそれを見つけて決められたのに、どうして家で遊ぶんだろう、ずっと外で遊べたらいいのに、そう思」ってしまう。
 外で遊ぶときは外にあるものを使えばいい、しかし自分の家で遊ぶときは何を使っていても自分と関わりのあるものを使わざるをえない。つまり、自分の内面をさらけ出す必要がある。さらにやっかいなことには、さらけ出したもののになかに自分でも認識していない恥ずかしいサムシングを見いだされてしまうおそれがある。一方で規範を共有せずコントロールも効かないのになぜか他人からは自分の一部とみなされる「家族」という制度もあって、この人たちもなにかまずいことをしでかす恐れがある。
 夏子母の引き留めもあり、ぬりえちゃんはずるずる夕食を相伴し、ついにはお泊まりするのですが、この間に夏子は神経をすり減らしていく。はたから見れば些細なことでも、自分や家族の器の小ささを露見させてしまうのではと過剰に心配します。
 夏子の神経衰弱っぷりの他に夕食の様子から読み取られるのは、夏子と家族の断絶です。母親は子どもの客をあしらうのになれないせいか、やたらぬりえちゃんを引き留めてしまうし、傲慢な姉は割り切れない数のチーズ餃子の余分になんの断りもなく手を出してしまう。そして、父親は一応ふつうっぽく振る舞っているけれどいつ怒りっぽい地を覗かせるかわからない。
 どこの家庭にでもあるような他者としての家族の不可解さや理不尽さが夏子の心に負荷を加えていき、母親からぬりえちゃんと一緒に風呂に入ればと薦められたところで沸点に達します。夏子は「絶対嫌だ! 一人で入る!」と泣き叫んでトイレにひきこもります。まさに地獄。

 

「あまり家には呼びたくなかった?」
「怖い」月が眩しく私は俯きました。布団の姉の膨らみが見えました。「嫌われそうで怖い。やなとこいっぱい知られそうで怖い」
「そうなの」
「もっと仲良くしたくてと、ぬりえちゃんはいっていたけれど」垂れる髪の毛の中に私は隠れました。「私にはもう親友だから、これ以上には仲良くしないで欲しい……」
「どうだろう」魔女の声がしました。「安藤さんはさ、人の目が怖いのかもしれないね」

 

*眼球奇譚


 人の目。
 第三話で複数回反復されるモチーフはいくつかありますが、とりわけ重要なのはこの「目」でしょう。たとえばこんなパラグラフがあります。

 

 道端に不審者注意の立て看板があって、黒地に目玉のイラストが描かれていました。その目が苦手と私が言うと、ぬりえちゃんが腹からマジックを取り出して、さっと塗り潰してしまいました。「憂いは断ったね。さあ行こう」

 

   なぜ目なのでしょうか。なぜ夏子は視線を恐れるのでしょう。

 見る-見られるの関係は映画であれば直感的に「スクリーンと観客との緊張関係」という当たり障りのない一言に要約して了解を得られるところですが、小説ではメタフィジカルな言及なしに登場人物が読者を見返すことはまずありえず、よって作品ごとに個別具体的な視線論をでっちあげる必要があります。
 夏子は観察者としての自分にはわりと無頓着です。姉のプライベートが書いてある日記を平気でぬりえに晒したりします。また、ぬりえの応対にあたる家族の一挙手一投足をパラノイアックな視線と解釈を注いでいます。
 そんな彼女が観察されることを過剰に忌避する。見られることで、「嫌われることが怖い。知られるのが怖い」と言う。自己評価の低い彼女は深く立ち入られると自分の醜い部分がバレてしまうと思いこんでいる。だから、自然と浅いつきあいを志向してしまいます。
 つまり、評価されること、判断されることを恐れているのです。後藤明生ふうに言えば「他者の解釈を拒絶」している。
 

 他者を拒絶するということは、他者の目を拒絶することだ。他者の解釈を拒絶することだ。つまり、他者から見られることを拒絶することであり、他者から解釈されることを拒絶することである。
(中略)
 つまり、そこには「見る←→見られる」という、他者との関係が成立しない。その成立を許さない。「見る←→見られる」という他者との関係を拒絶するのが、志賀直哉の「直写」ということなのである。
(「第二章 裸眼による「直写」 志賀直哉『網走まで』『城の崎にて』」『小説ーーいかに読み、いかに書くか』)

 

 見て見られる。判断して判断される。それらは関係の基盤です。コミュニケーション以前の問題です。
 観察がなければ解釈もなく、解釈がなければ言語化もない。そして、言語化しないのなら願いもない。他人に観察されることで再帰的に自己を識るのは、ねがいにパースをひくための初歩です。『魔女子供』において「ねがい」というテーマがなぜディスコミュニケーションや友人といった人間関係の話の上に描かれてるのかといえば、自分を見てくれる他者がいなければ自分のねがいも描けないからです。文字にならないからです。

 

「文字のない町は綺麗だけれど、景色は変わってしまうから。言葉にしないと伝わらないから、言葉で願うことを書いてるんだよ」(第六話)

 

 ぬりえは夏子に視線を恐れるなと諭します。「人の目が怖いのはさ、慣れれば平気になるんじゃないかな。訓練しようよ」と言います。他者に解釈されることを恐れるな、ということです。そして、安藤家を辞去するとき、夏子に人間の目玉の入ったスノードームを渡します。このスノードームもまた第二話で印象的に反復されるアイテムです。

 これは元々餡子が夏子に旅行のおみやげにプレゼントしたもので、夏子の机にかざってありました。最初もちろん目玉など入っておらず、サンタと橇が封入されていただけです。
 ぬりえは夏子の部屋で生まれて初めて見たスノードームに興味を示し、お風呂にもスノードームがあったと主張します。それは中に水の入った輪投げのおもちゃで、スノードームを「中に水が入ったまるっこい物体」としか認知していなかった彼女にはどちらも同じものに見えたのです。「文字のない町」では機能さえ同一なら区別もないのかもしれませんね。
 夜、眠れないふたりはベッドを船に見立てて航海ごっこを始めます。そのとき、夏子は島に見立てた机からスノードームを取ってきて「宝にしよう」とぬりえに渡します。それをぬりえをふたつに割ると、中から大量の液体が流れ出し、やがて部屋を覆い尽くします。のみならず、町全体も海原に変えてしまいました。ふたりはベッドの船で外にこぎ出し、寝と水にしずまった町の様子を「スノードームのよう」に眺めます。『ドラえもん』の「ブルートレインにのろう」*3を思わせるノスタルジックな幻想です。
 そうして、翌朝にぬりえはスノードームを夏子に返却、というか再プレゼントします。追加された目玉の意味は明白ですね。夏子たちがスノードームの中で町の住民を一方的に眺めていたように、町に住む夏子もまた見られる客体である、ということです。ぬりえを見送るために外に出た彼女はもはや他者の視線を恐れなくなっていました。それもこれもぬりえちゃんという他者が夏子の領域に「やってきた」からこその達成なのです。

 


*目玉の正体


 スノードームに追加された目玉は基本的には他の人々からの視線の象徴なのですが、別の可能性としては神などもありえます。
 劇中、何度か監視者のような飛行体が登場します。第一話の二章目の終わりで、村雨くんが魔女の住むマンションを教えてくれたときに「来るのと彼が訊くのにかぶり、教室の飛行機の音が通り過ぎていきました」。第三話で死者蘇生を迂遠に断るぬりえちゃんと気まずくなったときに「窓の方をヘリコプターの音が通り過ぎていきました」。第六話で子供のときの世界を訪れたふたりがげろアパートで夏子と出会う前のぬりえを見つけたときに「遠くでヘリコプターが飛ぶのが聞こえました」。どれも音だけで姿はありません。第三話で夏子は授業終わりに窓から空を見上げて「雲の少ない澄んだ高い空で、神様がいるのならよく見えそうでした」と述べますが、見られる側からは見えない存在です。

 この神はただ見るだけの存在ですから、たとえば人を罰したりはしません。航海ごっこ中にふたりは通り魔の犯行現場を目撃します。夏子は通報したほうがいいのか迷いますが、ぬりえは「(通り魔を)捕まえるためにしたことじやないし」といってスルーしてしまいます。夏子が「このまま二度と捕まらないかも」と言っても、人の法とは別の世界で生きるぬりえは無関心です。
 すべての魔女は地獄へ行きますが、地獄とは行ったり落ちたりやってきたりする人間的な業の生み出す場所なのであって、神とは関係がない。第三話で夏子の先生が「神様しかしちゃいけないことってあるんだと思うよ」と話したのを受けて、ぬりえが「神様とか聞くとちょっと笑っちゃうね。偉けりゃやってもいいんだったら、私は黙ってやっちゃうけどな」と言い放つのは彼女が神的な上位存在とはまた異なる存在だからでしょう。

 地獄行きを決めるのが魔女であり、神様がいるなら見えるはずの空に神様を見いだせないのならば、やはり彼女たちの住む町の空に神はいないのかもしれません。地上の神のほうは五話に出てきます。

*1:「中耳炎」はのちに矢部嵩twitterにアップされ読めるようになりました

*2:彼女の姉も家に友達をあげるタイプではないと書かれているので、家風でもあるのでしょう

*3:てんとう虫コミックス25巻所収

ハロウィンの季節 ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(3)

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第三話「雨を降らせば」

 

地獄にスノードームで勝算はあるのか? ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(2) - 名馬であれば馬のうちのつづき

 

 このエピソードより、「ねがいとは何か」が主題として掘り下げられていきます。

 

 

地獄の季節 (岩波文庫)

地獄の季節 (岩波文庫)

 

 

 


 夏子たちがてづくりのカメラでの撮影に興じていると、夏子の幼稚園児代の友人Mが泣きながら通り過ぎていきます。あとから聞かされたところによると、Mの父親が急死したそう。
 夏子はMの父親を魔法で生き返らせてあげよう、と提案します。が、ぬりえは浮かない顔。

 

「安藤さんはお金って好き?」
「お金?」私は繰り返しました。「好きだよ。小遣いは少ない」
「そっか。私はたまに作るのお金」「お金を作るの?」「すごい難しい牛乳パックみたいもんだよ」「なんで作るの?」「お願いされるからお金欲しいって。十億下さいとか、百億下さいとか」「へえ、すごい」億万長者だなと私は思いました。「え、何の話?」
「やめといた方がいいんじゃない」ぬりえちゃんは困ったように笑いました。「それさ」


  ぬりえちゃんに十億くれ、と要求したのは第一話のうぐいすさんです。死者の蘇生も第一話に出てきた魔法ですね。ぬりえは「そういうこと」を要求されて、夏子の目の前でどういう事態が展開されたよくおぼえていて、それとなく夏子に警告します。覚えていない身の夏子にしてみれば、お金が無限に沸いたり死んだ人が生き返るのは善に決まってる。
 翌日、学校で担任の先生が「明日嫌なイベントがあるとして、自分に雨を降らせて中止に出来る力があったらどうする?」と生徒たちに問いかけます。
 生徒の一人は「水をまく程度なら人も死なないだろうし、いいだろう」と主張します。が、先生は、できた水たまりで滑って転んで死ぬこともある、と説きます。原因が自然や神に属する事象なら問われない罪でも、人の自由意志が介在した時点で罪になる、と。ヒューム的な議論です。
 そして先生は人間の力を超越したことは人間が決定に関わるべきではないと諭します。

 

「プラスの面のあること、しょっちゅう目にすること、他の人なら許されること、しかし自分はやってはいけない、そういうことってあると思うよ。しかし誰かがやった日には悪い都合もあり。毒とかサリンじゃないただの水でもさ」
 みなぼけっと先生の話を聞いていました。何の話か私は掴みかねていました。
「神様しかしちゃいけないことってあるんだと思うよ」そう先生がまとめました。

 

 かたや、先生の訓話を伝え聞いたぬりえは「偉けりゃやってもいいんだったら、私は黙ってやるけどな」とうそぶきます。怪力乱神を操る彼女は神など信じません。同時に彼女自身はあくまでねがいごとを叶える手段でしかなく、ねがう責任、意志する責任はどこまでもねがう側にあります。
  依頼者が引いた線を魔女はぬりつぶして色づけするのです。
 
 だから、「よく叶うためにはよく願うことが必要があるんじゃない」とぬりえちゃんは言います。依頼者にはそのための「体力がいるのかもね」と。ふたりはMの家に「やってき」て、母娘にMの父親を生き返らせる意志があるかどうかを問いにきますが、母娘はほとんどショック状態にあって自分の願いを描くだけの体力はない。
 死んだ人に生き返ってほしいと願うのは単純なことであると夏子は思っているようなのですが、第一話の惨劇を記憶しているぬりえはねがうことの複雑さを理解している。ここでぬりえが長セリフで問いかけるジレンマは、もちろん第一話の反復です。

 

「事故で死んだんだねMさんのお父さん。ただの事故ならよかったけれど。例えばそれが自殺だったら、ただ生き返してもまた死んじゃうかもしれないね。死にたくなった理由も消してあげなきゃ。仕事なら探してあげて、喧嘩なら仲直りさせて、愛されないなら長所をあげて、病気で死んだなら治してあげるの。原因が一つでなきゃ全部直しといてあげるの。車が原因なら新車買ってあげなきゃ。疲れ溜まって事故ったのなら毎日マッサージしてあげなきゃ。恋人死んで後追った人を生き返らせようとしたら、本人も恋人も生き返らせるのかな。恋人の病気も治して。お父さんもお母さんも、お爺さんでもお婆さんでも? ただ巻き戻せばただ繰り返すよね。やり直せば今度はうまくいくのかな。死んだ家族とまた暮らすの。お殿様みたいに。またおいそれと死なないように」
(中略)
「自分からこれしてくれと、いってくるなら簡単なことでも」左折車が停まるのを待って、彼女は会釈しました。「こっちからどこまで何をしてあげるのかというのは、難しいような。遠ざかるような。私の願いじゃないものだから、上手に線をひきかねてしまうよ。願いにくいタイミングもある、いいとか駄目とかじゃなくて、強い願いほど難しい気する。ただ成功しないって話。事故の多い道って話」

 

 しかしそれでもMに何かしてあげたい。そう思ったふたりは「元気になる薬」を飲んで「元気」になり、翌日の通夜に参列しようとおもいつきます。葬儀となったら喪服が必要、というわけでおしゃれと天狗の聖地であり綿棒の特産地でもある原宿へ降り立ちます。
 そこからはケイト・アトキンソンの「シャーリーンとトゥルーディーのお買い物」*1とマシスンの「魔女戦争」*2と『ダンボ』のサイケシーンと原宿を混ぜてガーリーにジャパナイズしたような、ウルトラスラップスティックなトリップが展開されます。
 読むだけならナンセンスのかたまりみたいなシーンですが、「服を買う」というところに物語としての一貫性が隠されている。服を着る、あるいは皮をかぶることで別の誰かになるのは第二話以外のすべてのエピソードに出てくる要素です(第六話は服も皮も出てきませんが、夏子が「魔女を装う」という意味では該当します)。
 この話にも装いがあります。ふたりは十月も末日ということでハロウィンの衣装に身を包み、厳粛な雰囲気に包まれるM家の通夜会場に乱入し、あらんかぎりの傍若無人をはたらく。
 Mはふたりの姿を見て、魔女の仮装をしているとおもい、ぬりえちゃんから「願い事を叶えてあげるよ」と言われてすんなり受け入れます。
 
 願う側に努力が必要なら、願われる側にもある程度努力が求められます。占い師や呪術師が派手なみてくれをしていることが多いのはシャーマニズム的な理由よりも、「そうしたほうが皆信じてやすいから」なのかもしれません。Mはふたりを見てコスプレだとおもったわけですが、それでも魔女の格好は魔女と信じさせるのに効果がありました。そうして、Mも何を願えばいいのかをやっと決められるようになったのです。

 

 

 雨、服、カメラ。第三話における三つの重要アイテムです。これら三つを密*3に絡めて語るテクニカルさは本書でも随一です。
 そもそも夏子がMのお父さんを生き返らせようと言い出したのは、自分が葬式に行きたくなかったからで、なぜ葬式に行きたくなかったといえば「着ていく服がなかった」からです。それがぬりえちゃんとの原宿ショッピングを通過して、はからずも「着ていく服」を手に入れ、葬式に参列できてしまった。そういう心理を読者にはずっと伏せて旧友に対する同情や親切心だとミスリーディングを施した上で、葬式が終わったタイミングで「着ていく服がなかった」のが嫌だったと自白させました。矢部嵩はこういう情報の出し方が実に上手い。Mの願いを叶える話だと思わせておいて、事実そうだったわけですが、夏子のねがいを叶える話であった、という転倒です。ちなみに夏子に喪服がないのは序盤で夏子のお母さんの口にから語られています。フェアですね。

 タイトルにもなっている雨は、「雨が降ればとつい願うのは予定を堰き止めたいからで、どうせ全部が過ぎていくなら嫌な日も最初から来なければいいのにね」というぬりえちゃんの言のとおり、モラトリアム延長への漠然とした希望の象徴です。先に取り上げた先生の倫理たとえ話もここに関わってきます。モラトリアムに永遠はないわけですが、人はそれを願わずにはいられない。進むのが怖い日だってあるでしょう。
 Mもまた雨を願った人間の一人でした。通夜の会場でふたりに出会った彼女はこんなことを言います。

 

「私もこんなの着たくないし、あんまやりたくないもん葬式。今日中止になればいいのにって思ってた、雨超降って、洪水とかなってさ」「へー」
「雨が降っても中止にならないね。やりたくなくてもするんだね葬式は」

 

 父親との思い出を何も持てないまま葬式が終わってしまったら、父親と自分とのあいだにあったはずのものがほんとうに何も残らなくなる。漠然とそうした不安を抱えていた彼女は葬式の中止を願っていたのでした。
 雨が降っても中止にならないイベント。それが葬式であり、死であり、別れです。第三話は読者に「別れ」を意識させる役割も果たします。
 別れがさけがたいことをうすうす予感しているからこそ「いつか来る日で来ないで欲しい日、洪水を待つ他に出来ることってあるかな」とぬりえちゃんは空に向かって投げかけます。
 イベントを延期させるために雨を降らせることが人間に許されないのならば、永遠に別れないこともまた罪になる。彼女たちが地獄に行かねばならないのは、一面ではそういうことです。原宿で本来は堰き止めるためのはずの雨を、流すために使ったのはぬりえちゃんなりの反逆宣言ではなかったのでしょうか。

 

 カメラ。永遠を保存するため人間に許された数少ない技術のひとつです。第三話は牛乳パックを材料に工作したカメラでふたりとブルースが写真を撮ろうとするところから始まります。
 特にフィクションを騙ろうとでもたくらまないかぎり、写真や映像は常に過去を物語ります。記録は映っている風景や人物が実在したことの強力な証拠となり、それが残されたものたちにとっての思い出のよすがとなるのです。
 たとえばグレッグ・イーガンの『ゼンデギ』にこんなシーンがあります。妻を事故で失った主人公のマーティンが一粒種であるジャヴィードの夜泣きに悩まされる。マーティンは息子に妻との思い出の旅行写真を見せる。すると息子はみごとに泣きやみます。

 

 母親の人生は自分がいま知っているのをはるかに超えた過去に続いていることの証拠であるこの写真が、失ったものの小さな一部をジャヴィードに取り戻してくれたかのように。母親がずっと存在しつづけているという感覚、その泉は決して枯れることがないという感じ。
(『ゼンデギ』早川書房) 

 

 ジャヴィードと違い、Mの手元にはお父さんの写真が一枚もありません。そのために魔女にねがうことになるのです。故人が実在した証拠さえ、思い出の確信さえ手に入れば、死を受け入れていきていける。アルバムとはそのために存在します。
 ちなみにこの時点では、ぬりえちゃんに「時間を操作する」魔術は使えません。「プロい魔女」しか扱えない高等魔法であるため、見習いのぬりえちゃんに時間をさかのぼったりするのは無理なのです。彼女が変装などもっぱら現在を粉飾・捏造する技術に終始するのも、そうした制約のためでしょう。時間魔法を使えない事実はラストへの伏線にもなっています。

*1:東京創元社『世界が終わるわけではなく』所収

*2:早川文庫NV『運命のボタン』所収

*3:三つだけに

地獄でなぜ悪い ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(4)

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第四話「魔法少女粉と煙」
 

 

ハロウィンの季節 ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(3) - 名馬であれば馬のうちのつづき。

 

 矢部嵩twitterアカウント名は「konakemuri」といいます。粉と煙。まさに第四話の主要モチーフです。

 

地獄でなぜ悪い

地獄でなぜ悪い

 

 出だし*1はこんな感じ。

 

 春の小虫が付いたのに気付き、掛けていた眼鏡を私は外しました。
 眼鏡を外すと視界は霞み、刺繍の裏地で出来た世界みたいでした。

 

「刺繍の裏地で出来た世界」は、眼鏡外しを含めて、もちろん第一話の「文字のない世界」に呼応しています。今回は皮の裏側から世界を眺める話である、と直接的に表現しているのです。
 今回で初めて自主的な依頼人が現れます。鍔広の帽子とお面で顔を隠した中年女性、タヒチさんです。
 タヒチさんには亡くなった姉妹がいて、その息子であるビルマくんがある難病にかかっている。なるべく速やかに手術を受けない病状なのだけれども、ビルマくん本人が頑として手術を拒んでいる。甥が手術をいやがる理由を究明し、なんとか説得してやってくれないだろうかーー。との次第。
 ぬりえちゃんはビルマくん説得のために、ビルマくんの亡母をひきずりだすことにします。といっても生き返らせるのではなく、本人そっくりのきぐるみを作って夏子に母親を演じさせようというのです。ちなみに着ぐるみはちぎり絵式で作ります。ここにも絵画のイメージですね。
 かくして夏子 in ビルマくんのお母さんはビルマくんのお母さんとして病院へ向かいます。病室に入るとそこは粉の霧が舞う世界。ビルマくんの患った難病とは、ひどいかゆみなのでした。粉とは彼が掻いた皮膚の落屑、煙とはその滓が舞い上がる様を指します。

 他人の皮をかぶった夏子と自分の皮を掻きまくった結果エレファントマンじみてしまったビルマくんとの対峙は、それだけでエキサイティングな光景です。ビルマくんは常識人ですから、いくら本物と見分けがつかない外見をしていてもお母さんがそこに実在しているわけがないと疑います。しかし同時に失った母を想う息子でもありますから、疑いつつもそうであってくれという希望にひっぱられていく。このあたりのプログレッシブな機微のうつろいは非常に洗練されています。
 信じたいビルマくんは夏子をテストにかけます。親戚の名前、ビルマくんの好きなこと嫌いなこと、往事のこまごまとしたエピソード、身体的特徴。外見だけではなく内面の連続性も証明することで、目の前に表れたお母さんが「本物」であると示そうとするのです。
 ここで以前誰かが言った「スワンプマン」ということばが思い出されます。「スワンプマン」がなんであるかは各自で適宜 wikipediaか何かを参照してください。問題は「誰が」スワンプマンと言ったのか。
 ずん田くんです。第一話です。亡くなったお母さんを生き返らせたかった彼は魔女に対してこんな質問をぶつけます。

 

「生き返ったそれはどれくらい小倉なんですか。家族が見ても小倉に見える?」「完璧同じにするよ」「それは不可能でしょうどんだけ同じでも似せて作れば偽物ですよ」「例えばお金なら見て触って機械で読めてあらゆるシチュエーションで流通相成れば本物として使えるでしょ。これ本物だオッケーという基準があってそれを通れば本物でしょ」「がわが一緒でも精神と歴史はどうなるんです」「スワンプマンは考えだから物作りに持ち出すとただのブランド志向だよ。あなたに観測できないものでも要るというなら実装するし、持つ持たないを問題にするなら要るものはちゃんと持たせるけれど、とにかく超あるよじゃ駄目?」


 チューリング・テストもフォークト=カンプフ検査もアウトプットさえ完璧なら腸や脳が機械だろうがなんだろうが人間として認めてくれます。信じたい者にとって必要なのはそうした判定結果です。
 もちろん一から十まで生き返りを信じてくれたわけではありませんが、それでもビルマくんは夏子のことを「お母さん」と呼ぶようになってくれました。ところがそれでも手術は受けないと粘る。「それに勘違いしてるかも知れないけど、かゆいの掻くのも決して嫌ではないんだ」と主張します。
 ここから滔々と披露される長広舌はいちいち全文引用していたらほぼ違法コピーレベルの代物になってしまいます。私なりにかみ砕きましょう。
 掻くことはかゆみへの対症療法であり、治療行為であると彼は説きます。根治をねがうのは罠です。根治をねがってしまえば詐欺じみた治療法にすがるしかなくなる。「願いは病気を増悪するんだよ」。ほんとうにかゆみを無くしたいのなら、早期に地味で健全な生活を送るべきだった。母親が魔法みたいな奇跡に行き当たりばったりで頼った結果、手遅れになってしまった。なのに今更魔法なんてまた奇跡を持ち出してどうするのか。願うな、掻かせてくれ。
 夏子は伝染したかゆみにさいなまされながらも、お母さんの立場にたって「願うのがそんなに悪いことなのか」と反駁します。
 ビルマくんは「当事者でない人間がきれいごとを言うなよ」的なことばで再反論します。ここからのビルマくんのセリフは約めてしまえば嘘になるので、全文引用しましょう。

 

「判るだろ。全部自分でしてんだ。掻かなきゃいいだけなのに、我慢一つできないんだぜ。爪痕全部瘡蓋全部自制できない心の証だ。鏡に映る体のどこに意志がある。かゆみの奴隷、皮膚のいいなりだ。胸で物なんか考えない、胆や脊髄に何も宿らねえよ。気持ちも思考もいつでもこの皮膚の上の上っ張りで、浮かぶたびに自分で掻き消しているんだよ。
 高潔でありたいだろ。自分で駄目にしてんだ。優れていたいだろ。日ごと卑屈になるんだ。集中したいだろ、没頭したいだろ、本も映画も、何見ててもかゆいんだ。心打たれた台詞にさえ自分の皮が落ちてる。音の海で何聴いてもぼりぼりぼりぼり骨から聞こえるんだよ。二十四時間全身を虫に覆われてる奴がすてきな物語に涙流すの? そういう人見てあなた感動したことあるの? 闘病も糞もない、意志の弱い奴に誰も憧れないし、絶えず曝され続ける惨めな自分は、磨くことも積み重ねることも出来ない。
 結局優れた創作物なんかで上っ面だけの自分が真実救われないはしないと知るんだ。安い幻滅を繰り返す内強い意志とか優れた物の見方だとかが自分の中に育まれることがないと知るんだ。結論が出る、生きてすることで自分を掻き壊すより大事に扱える物事が自分に作り得ないと、優しくありたい。嫌われたくない。気色の悪いことなど口にせず、快い言葉を人のために綴りたい。強い意志が挫けず叶う話をしたい。誰かのことを思って生きたい。人だぜ。当然だよ。だけど薄弱な意志と上っ面の心で、出来ないだろうそんなこと。ただ気持ち悪い上辺の感覚ばかり、浅い心にストックされていく。
 結局自分の思いや人格が幾らでも湧いて剥がれ落ちるこの皮のような物だと知るんだ。怒りも重いも乾いて剥がれて落ちていく。この部屋を見ろ。おれそのものだ。うすっぺらい自分が粉になって積もったものが、今ここにいるおれなんだよ」

 

 人生の話です。ここまでくれば、どんなに鈍感な人でもわかるでしょう。ビルマくんは人生について極めて直截に話している。*2
 生きて、そのときどきでかゆいところを自制できずに掻きむしるうちに自分の形を保つ皮膚が崩れていき人間でなくなってしまう。すこしずつすこしずつ人から外れていき、やがて美しい人たちが感動するような美しい世界に属する資格がないのだと識る。それがビルマくんの人生です。矢部嵩が「粉煙」ということばに託した寓意です。あ、要約できるじゃん。

 

皮と粉

 

 第三話の「服」と同様、「皮」は本短編集全体に通底するモチーフです。安藤夏子と最初の五人の友人たちはみな「アンコ」関連の名前でした。第一話で初登場したぬりえちゃんは当初、老婆の皮をかぶっていました。第二話は家という皮膜にぬりちゃんがずかずかと入り込んでいく話で、そういえば餃子をめぐる葛藤もありましたね。第三話ではMの父親の皮を加工して押し花を作りました。第五話では奥さんの皮をかぶった夏子が仮初めの主婦として奮闘します。第六話では夏子が魔女という「皮」をかぶって魔法を起こそうとします。
 第四話は少し逆説めいていて、皮をかぶれなかったこその悲劇であるわけです。ビルマくんは言います。「なりたい自分も装った自分も最後は自分の手で引ん剥いてしまうんだ。変わりたいと幾ら念じても信じても結局駄目な自分のまま。違う誰かなどにはなれない。嘘の自分は必ず剥がれて一番醜い自分が出て来る」。
 皮の変化の否定、変身の否定はすなわち旧友たちを失って以降装いを変えつづける夏子に対する否定でもあります。キャラクターの対比ですね。ビルマくんは変身を否定することで魔法を否定する。では生*3の自分をどうやって守るのか。
 そこで四話では「皮」に加えて、「粉」なるタームも出てきます。皮と粉です。大福です。タヒチさんが依頼に表れたときの会話を思い出してみましょう。

 

「大福のこの粉って苦手だな。のどごし苦しいもの。水大福だとまだ楽だけど、何故つけるんだろおいしくないのに」「餅を守っているのでは。くっつかぬよう乾かぬよう」「餅の皮みたいなもんか」「皮は餅でしょ」

 

 粉は餅を守る存在である。ビルマくんは皮膚を掻きますが、皮そのものは彼のオブセッションではない。粉です。

 

「粉めいたこの部屋にいると壁や床の粉と自分とどこが境界か判らなくなる。掻きすぎて気持ちよくて何も考えらんない時意識がぼんやりして霧か煙の中にいるようになる。頭で感じる容量全部が皮膚の話で埋まるんだ。本当に何も見えなくなるんだ。この粉と煙の中で、一体何が見定められるんだ。何一つ透き通らない覆い包まれたこんな地獄の中の、どこに正しい道があるんだ」

 

 粉ははげ落ちた自意識であると同時に、拡張された思考であることが示唆されています。とすると、第四話でもっとも読者の印象に残るであろうルビ芸*4も粉による保護と拡張という文脈にあることが理解されてきます。
 カントはかつて日本語の書き言葉を「音読みが訓読みを注釈する」「焼きたてのゴッフル」とたとえましたけれども、矢部嵩の場合は日本語とは大福です。ビルマくんは皮膚を激しく掻きながら生前の母親の失敗を難詰する。彼の台詞には端から端にわたって「ぼりぼり」というルビがふられるます。掻痒によって剥がれた粉が夏子にも映り、夏子はかゆみにロジックで反論します。ここの地の文が「ビルマ君のお母さんが泣き出しました」と書かれているのは単なる綾ではありません。泣きながらビルマくんに語りかけているのはアンコである夏子ではなく、粉によってビルマくんとリンクしたお母さんの皮です。先ほど「夏子が反論した」と書きましたが厳密には間違いですね。
 しかし拡張したり感染したりするのはあくまで思考の部分であって、身体ではありません。だからこそ、別れ際に「抱きしめて」と願うわけです。粉は防壁だけれども、隔離壁でもあるから。

 ビルマくんは最後には手術を受け入れます。装った夏子が母親であることを否定し、たとえ彼女が本物の母親であったとしても手術を受ける気はないと断言した彼がなぜ魔法を信じたのでしょうか。
「手術を受けたらお母さんはずっと君の側にいるよ」という嘘を信じたかったからです。法月綸太郎のウィズネス概念にも通じますが、『魔女の子供はやってこない』において「共にいること」は一つ強力な魔法です。そして、夏子とぬりえちゃんの間柄においてはそれこそたぶん地獄への道程という言葉で言い表される。 
 嘘にすがったビルマくんは永劫の苦しみに落ちます。芽生えた希望を摘めず、粉にも頼れず、素の自分を曝すしかない。願ってしまったことに対する罰です。
 

 

お願いシンデレラ


 どこかで言及しようと思って結局できなかったモチーフがあります。
 シンデレラです。矢部嵩はこの童話を巧妙に操ってストーリーテリングをなめらかにしている。筋は誰でも知っているでしょうからいちいち説明は付けません。羅列します。
 ぬりえちゃんは変身した夏子を送り出すときにこう言い含めます。「帰りも遅くはならないように。魔法はいつか解けるのだから」。十二時に解ける魔女の魔法です。
 そして、夏子は馬車で病院まで向かいます。ビルマくんの演説を聞くうちにかゆみが伝染してしまった夏子は皮を掻きますが、そのせいで変装が崩れかけ、焦ります。ビルマくんが「手術は受けない。治さない」と鋼鉄の決意を口にした直後、病室のテレビから「舞踏会の喧噪」が鳴り出します。あわてた夏子は粉ですべって転んでしまい、靴が脱げてしまいます。

 

「靴脱げたよ」ビルマ*5がかがんで禿げた頭が見えました。「ほら、足出して」
 私は涙を拭い、足裏を払い、ビルマ君の持つ靴に、右足の先を差し込みました。
 入りませんでした。


 原典である『シンデレラ』において、王子様の差し出した靴に足が入らなかったのはシンデレラの義姉たちです。それまでシンデレラをトレースしていた夏子が実は「偽物」の側だったと露見してしまう。まさにそれがきっかけでビルマくんは目の前の母親が本物ではないことを看破するのです。おとぎばなしのモチーフは次の第五話にも出てきます。

*1:最初のエピグラフめいた長文をのぞくと

*2:ここで小説において思想や人生をストレートな形で演説することについての是非については問いません。技巧の範疇だとは思いますが

*3:

*4:ブログ媒体でお伝えするのは難しいですが、ビルマくんと夏子の長台詞に「ポリポリ」とか「かゆい」とかいったルビがカギかっこの端から端までリピートされている

*5:原文ママ

今一番期待されている映画作家、ジェレミー・ソルニエとメイコン・ブレアについて

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 どこで期待されているかって言ったら、私の心のなかで……。

ジェレミー・ソルニエが欲しい


Blue Ruin Trailer



 今一番新作が観たい作家を三人挙げろ、と言われたら、まずウェス・アンダーソン。次にポール・トーマス・アンダーソン。そして、ジェレミー・ソルニエ。だが、ジェレミー・ソルニエは2017年現在までに長編を三作品しか発表しておらず、日本で見られるのは最近二作だけだ。ソルニエ分が足りない。ベン・ウィートリー? たしかに興味深い作家ではあるし、作風も似ていなくもないが、あれはもうちょっとブリティッシュに複雑だ。

 で、そんなソルニエ飢饉へもってきて忽然とソルニエと同じ血をわける映画作家として登場してきたのが、ソルニエ監督作『ブルーリベンジ』主演俳優であるメイコン・ブレアだ。
 ブレアは初監督・脚本作である『世界に私の居場所なんてない』(ネットフリックスオリジナル)を今年のサンダンス映画祭で発表し、同映画祭でもっとも栄誉あるドラマ部門の審査員グランプリを獲った。同賞の歴史的に鑑みて、コーエン兄弟トッド・ヘインズブライアン・シンガートッド・ソロンズカリン・クサマ、ライアン・クーグラー、デイミアン・チャゼルらと同じクラスの評価を受けてデビューしたわけで、つい四年前の『ブルーリベンジ』以前はたいした芸歴もなかった四十代の冴えないおっさん俳優にしては破格というか、比類のないほどの期待をかけられている。

 メイコン・ブレアとジェレミー・ソルニエを同一視することは乱暴にすぎるだろうか? メイコン・ブレアは確かにソルニエと幼馴染でずっと彼と映画を作ってきた。長編三作(Murder Party、『ブルーリベンジ』、『グリーンルーム』)にはすべて出演しており、うち『ブルーリベンジ』では主人公を務めている。しかし、すくなくともクレジット上はソルニエ監督作はどれもソルニエの単独脚本でブレアの関わった痕跡はなく、逆にブレア初監督作『世界に私の居場所なんてない』や脚本作『スモール・クライム』にソルニエが噛んだというような話は聞かない。


 にもかかわらず、ブレアとソルニエの作家性はほとんど血を分けた兄弟を呼んでさしつかえないほどに共通している。

 まずどちらも主人公が致命的なまでに頼りない。
 両親を殺した男が出所したと聞き復讐に立ち上がるホームレス、ネオナチに楽屋に監禁されてしまったパンクバンド、自宅に押し入った窃盗犯を捕まえるべく奔走する中年の看護師、職や家族といったすべてを失い出所した元汚職警官。
 どの作品もバイオレンスでエクストリームな状況に置かれがちなのにも関わらず、アクション・スターみたいに腕っ節一本で苦境を切開なくなんて明らかに期待できそうもない面々ばかりだ。
 ソルニエ映画で唯一スター俳優主人公っぽいポジションだった故アントン・イェルチンにしても、『グリーンルーム』での華のないバンドメンバー四人のなかで更にびっくりするくらい華がなくて、中盤になるまでなかなか主人公っぽい雰囲気が出ない。何も知らずに観せられて、序盤に「この俳優、『スタートレック』に出てますよ」と教えられたら、チョイ役で? と返しそうなものだ。もちろん、中盤以降の存在感はやはりスターの素質があったんだな、と思わせるだけの演技を見せていて、いまさらながら早逝が惜しまれる。
 
 こうしたキャラ配置は当然意図されたものだ。
 本来バイオレンスやアクションの主役になりそうにないキャラを主人公に据える。その采配についてソルニエはインタビューで以下のように語っている。

――『グリーンルーム』は『ブルーリベンジ』や Murder Party といったこれまでの作品と同様に、しばし無能なキャラクターたちが悲劇と喜劇の両方を起こしますね。普通の映画ではまず生き残れそうにないキャラたちです。


ソルニエ:Murder Party ではわかりやすくアホなキャラばかり出して笑わせようと意図しました。『ブルーリベンジ』のドワイトは明らかに主人公に向いていない人間ですが、しかしけしてバカではない。単に不向きなだけです。悲しいまでに主人公に相応しくない。だからこそ切ないし、コメディチックな瞬間も状況から自然に生まれます。
 『グリーンルーム』もそうです。バンドメンバーはアホではありません。ただリアルな人々であるというだけです。ニュースなどを見ていればわかります。極端なプレッシャー*1や泥沼のカオスに囚われてしまった人々はどう見てもバカげた行動をとってしまうものなのです。
 私たちは有能な映画キャラに慣れきっています。映画の中の彼らは伝統的なヒーロー/ヒロインへと一足飛びで成長し、ある種の跳躍を行います。そういうものだと当然視してしまっている。
 しかし、人間を人間としてあるがままに描けば、めちゃくちゃなバカ騒ぎ*2になる。それは、単に真実味があるだけではなく、より喜劇的でより悲劇的であるという点でエキサイティングです。
 スクリーンに観客である自分と重なるキャラの姿を見出したとき、より深いレベルでの信頼が生まれるのです。キャラクターを窮地に追いやれば、衝撃は倍になります。私は深みから抜け出すための出口をキャラに用意して、彼らがもがく姿を眺めるのです(笑)。


An Interview With Green Room Director Jeremy Saulnier


 ソルニエ映画のキャラクターたちは平凡さをもって極限状況と対峙する。それは主人公のみならず、対置される「悪役」の側も変わらない。
 『グリーンルーム』でのパトリック・スチュワート演じるネオナチの親玉を思い出してほしい。彼はなにしろプロフェッサーXなので面構えだけはデキる感を醸しているが、バラックの楽屋に閉じ込められた無力なバンドメンバー四人+女一人に対して二十名を超える部下に銃火器と戦力差で圧倒していたにも関わらず、場面場面での判断を誤り、拙劣な戦力の逐次投入と失敗を重ねてしまう。
 これがヒーロー映画だったら「いくらなんでも悪のくせに無能すぎる」と白けてしまうところだ。*3しかしソルニエ的にはこれが「人間としてのリアリティ」なのだ。有能も無能も悪も正義も、すべて「人間」の平凡さの範疇内でおさまってしまう。その事実、世界観自体がたまらなく残酷だ。南部の山奥で蠢いてドラッグ密造で稼ぐネオナチは、そうした地に足の着いた野蛮の姿だ。だから、情けなくもあるけれど、同時にすごくおそろしい。
 そして、映画的シチュエーションは悪役の側にも主人公の側にも常に非凡さを要求する。一般的なアクション映画であれば、二時間の冒険と葛藤を通じてヒーローはソルニエが言うところの「成長と跳躍」を遂げて平凡から非凡へと脱皮する。
 だが、ソルニエ映画のキャラたちはどうしようもなく平凡なままだ。
 非凡さが要求される事態において凡庸を貫こうとするとき、惨を極めた破局がもたらされる。

『世界に私の居場所なんてない』

 そんなソルニエ的世界観の体現者だったメイコン・ブレアもまた、監督脚本を務めた『世界に私の居場所なんてない』で凡庸な主人公と卑小な悪役を描いた。


I Don't Feel at Home in This World Anymore - Trailer HD


 主人公はホスピス病棟に務める中年の看護助手。日々、枯れて死んでいく患者たちを看取りつつ、ファンタジー小説を慰めとして孤独に暮らしている。
 その彼女がある日家に戻ると、家が荒らされていた。パソコンやおばあちゃんの形見である銀食器を空き巣に盗まれた彼女は警察に駆け込むも「鍵をかけ忘れたあんたがわるい」とむしろ警官から責められてしまう。
 彼女は手裏剣の達人であるけったいな隣人トニーの助けを借り、盗品の行方を追う。PCは彼女にとっての貴重な財産だし、銀食器は家族の思い出の品ではあるが、実のところ彼女にとって重要なのはモノの価値や所縁ではない。
 正義だ。彼女は自分はこの世界に必要とされていないと感じていて、居場所を見いだせないでいる。タイトルの『世界に私の居場所なんてない』もつまりはそういう意味だ。生まれて三十年か四十年のあいだずっと独身であり、おそらくこれからも独身でありつづけ、友だちどころか近所付き合いすらなく、家の庭には毎日何者かが犬のフンを残していく。*4そういう生活の延長線上にあるのはただ終点、つまり死のみであって、だから彼女は死ぬのを異常に怖がり、唐突にその恐怖をトニーへ吐露する。

主人公「死にたくない……」
トニー「死なないよ、今はまだ」
主人公「死んだらただの無になるんだわ」
トニー「ならないって」
主人公「なるわよ、トニー。まるでテレビを消すように、フッとなっておしまい」

 
 彼女は世界を正そうとする。他人の家に勝手に忍び込んで物を盗むのは間違っている。その盗品を売るのは間違っている。彼女が独力で突き止めた証拠を無視して盗人を捕まえようとしない警察は間違っている。悪いやつが大きな面してのさばっている世界は間違っている。
 映画の後半で盗人の正体がヤクザ的金持ちのドラ息子だったと判明する。その父親によれば、ドラ息子にはもともと最高の教育環境を与えてやったという。本来盗みなどする必要のない家に生まれた人間がレールを外れて無軌道に暴れまわり、彼女の人生を侵害する。
 彼女はその歪みを正そうとするが、多くの「正しくあろうとする人々」を描いたフィクションとおなじく、なぜかそこでとんでもないバイオレンスが意図せず発生してしまう。
 ラストはソルニエ作品を彷彿とさせるある「等身大の悪役」との直接バトルになる。目をみはるようなアクションも、ツイストの利いた機転も、引用符でくくりたくなるようなクールな名台詞もない。ひたすら地味で、鈍重。だからこそ陰惨さが際立つ。暴力とは本来凄惨ではなく陰惨なものだ。そういうことを思い出させてくれる。

 『世界に私の居場所なんてない』がソルニエ映画と異なるのは、地に足の着いたイヤさの一方で、地に足の着いた救いをも用意してくれている点だ。もっともブレアが脚本をてがけた『スモールクライム』ではその救いが同種でより強力な磁場をもつものに絡め取られてしまうのだけれど。


*1:in pressure cooker envrionment 圧力鍋的環境

*2:a flailing clusterfuck

*3:実際ラスト周辺の油断はやりすぎなようにも見えた

*4:その犬の飼い主が前述の手裏剣マスターで、彼女が犬の飼い主をつきとめて文句を言いに行くところから関係が生じはじめる

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈5〉:『終わりの感覚』ジュリアン・バーンズ

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『終わりの感覚』(The Sense of an Ending) 原・2011 訳・2012年12月 訳者・土屋政雄


終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)


 これまでの人生で二度だけジュリアン・バーンズの名を他人の口から聞いた経験があり、そのうちの一回は法月綸太郎だった。
 ある講演会*1で法月が『終わりの感覚』を「海外文学における本格マインドを持った作品」というふうに評していた、ように記憶している。法月なのでもう少し明晰なことばで語っていたのはずだけれど、記憶のみを頼りにしなければならない場合の引用の正確さにあまり自信がない。でも、それに続いたセリフのほうはよく覚えている。「ま、日本だと先に泡坂妻夫がやっていたんですけどね」
 泡坂妻夫ジュリアン・バーンズを同じ皿の上に乗せて語る贅沢をできる国は少ない。『終わりの感覚』が多少ミステリの側に「歩み寄った」作品*2であることや、法月がジョン・バースなどに強烈な影響を受けた作家であることを抜きにしても、だ。

 私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る。人生が長引くにつれ、私が語る「人生」に難癖をつける人は周囲に減り、「人生」が実は人生でなく、単に人生についての私の物語にすぎないことが忘れられていく。それは他人にも語るが、主として自分自身に語る物語だ。(p.117)
 


 本作は記憶と時間と物語についての物語に貫かれたホワイダニットの話だ。
 語り手のトニー(アントニー)・ウェブスターは人生も終わりにさしかかった老人で、おそらくは著者のバーンズとおなじ一九四六年生まれ。
 平凡な人生を過ぎ、平凡な余生を送るようになった彼のもとに、あるとき弁護士から妙な報せが届く。四十年も前に別れた昔の恋人ベロニカの母親が亡くなり、その彼女の遺言に「トニーに遺産を贈りたい」とあったのだ。
 別れたあとはほぼ一切連絡も取ってなかった昔の恋人の、しかも一度しか会っていない母親から? ますます妙なことにその遺産とは些少のお金、それとトニーの死んだ旧友エイドリアンの日記だという。
 トニーとエイドリアンは中学時代からの親友だったのだが、大学時代にトニーと別れたあとでベロニカの恋人となったのが原因で彼とも絶縁状態にあった。そして、その後間もなくしてエイドリアンは不可解な自殺を遂げていた。
 思慮深く誰もよりも知的だったエイドリアンを敬愛していたトニーは自殺の謎が隠されているかもしれない日記を読みたがる。ところが、ベロニカはなかなか日記を引き渡そうとはしない。往年の恋人とギクシャクした折衝を繰り返すうち、トニーはエイドリアン、ベロニカ、そして自分自身についての「真相」に触れる。


 トニーはいわゆる「信用できない語り手」という技法に当てはめられる主人公ではある。しかし、彼はある種のミステリ*3に見られる語り手のように、明確な意図をもって騙ろうとしているわけでも、認知が病的に歪んでいるためにそうなってしまうわけでもない。
 自分自身でいうようにあらゆる面において「平均的な」人物である彼は、凡庸であるがゆえに「信用できない」のだ。
 彼は継ぎ接ぎだらけの記憶から過去を再構成し、その過程においてある人物や瞬間については美化し、別の人物や瞬間については無意識の悪意でもって貶める。記憶が完全でないことを自覚しつつも、自分は自分の人生についてなんでも知っているのだとわかった気になっている。何も特別なことではなくて、誰しもにとっても日常的な営為だ。
 
 信用できるにしろできないにしろ、語り手に求められる資質とはなんだろう。おそらくそれは、雑多で間歇的な情報の山を整理し、空白を埋め、ひとつらなりの絵として語ることのできる能力なのだとおもう。物語化の才能、それと、その原動力となるわかりたがりの欲求
 自らの平凡さをくどいまでに自嘲するトニーは、実は探偵の才能というこの一点において卓抜している。たいして話したこともない他人をキャラクタナイズし、不確かな記憶をもとに自分の人生のイベントに意味付けを行い、伏線を回収し、自らの人格や人生を明瞭に定義できる。彼の才能は百八十ページ足らずの本作の緊密な構成にそのまま反映されてもいる。あらゆる要素が意味をもち、物語へ奉仕する。小説だ。
 そして、その小説家的唯才がトニーの陥穽となる。物語終盤、彼はベロニカからこんなことばをつきつけられる。「あなたはまだわかっていない。わかったためしがないし、これからもそう。わかろうとするのをもうやめて」
 輪郭のはっきりしないものをきちんと描こうとすると、どこかでウソをつくことにする。そこに探偵の失敗が生じ、後悔のタネになる。
 ミステリの解決編は事件が起こってしまった後にもたらされるものだ。事件発生以前には(すくなくとも読者は)盲人に等しく、名探偵は訳知り顔の奇人でしかない。悲劇は事件が出来した時点ではなくて、事件の真相が暴かれたときに起こる。隠されていた物語、犯人と被害者との関係が開示されて、だからこんなことになったのだ、と探偵は言う。結果が先に来てしまっているのだから、そこで「あのときあの人がああしておけばこんなことには」と悔やんでも意味がない。 
「悔恨の主たる特徴はもう何もできないことだ」とトニーは言う。彼自身はその言に抗おうとするけれども、事件は既に起こってしまった。やっとわかってみたところで、もう遅い。



The Sense of an Ending Official Trailer 1 (2017) - Michelle Dockery Movie
ちなみに今年映画化もされた。

*1:たぶん2013年12月の大谷大学での講演会

*2:バーンズはダン・カヴァナという別名義でミステリを書いてもいる

*3:ネタバレにつき

あなたのフレンズの物語

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映画『メッセージ』本予告編



 あなたのおともだちがわたしにある質問をしようとしている。これはわたしたちの人生におけるもっとも大事なひととき。運命のような十二話と、奇跡のような十二・一話が終わった後の真夜中。春アニメをめでようと、わたしたちはネット民のつくった新作アニメ一覧表に目を通していた。そのとき、あなたのおともだちがこう言う。

「十三話はまだかな?」

 このお話の結末がどんなふうになるかはわかっている。そのことの始まり、つまり深夜放送帯に死んだアプリのアニメが出現し、あちこちのちほーにおかしなフレンズが出演したときのこともよくよく考えているし、あのとき、政府はそのことに関してろくすっぽなにも言わなかったけど、twitterはありとあらゆる可能性を書きたてていた。
 そんなとき、ヴィルヌーヴが新作を発表して、わたしは映画館への参観を要請されたというわけ。
 あなたが『メッセージ』を観たら、きっとけらけらとわらったでしょうね。ホークアイが科学至上主義的なセリフをはいて、ヘプタポッドコンビの愛称は「フラッターラズベリー」から「アボットとコステロ」へとかわっていた。まるで映画おたくの映画みたいに。
 国際ポリティカル・サスペンスとスリラーっぽさがふえて、ずっと低温なのりだった原作がエンタメっぽくしあがっていた。あれはあれで好きよ。みていてたのしくなきゃ、映画じゃないわ……。



 奇妙な邦題だった。
「『メッセージ』?」
「そうだ」と配給のソニー・ピクチャーズ大佐はうなずいた。
 映画の原題は「到着」を意味する英単語で……なんといったか。そして原作となったテッド・チャンの短編は the Story of Your life。ハヤカワから出た翻訳のタイトルもそのまま「あなたの人生の物語」だ。
 各国の製作会社や配給会社の思惑が交錯した結果、実に優美な屍骸が出来上がったというわけか。
 それはまあいい。問題は中身だ。
「これを観てくれ」とソニー・ピクチャーズ大佐はドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の過去作が焼かれたDVDを何枚かとりだした。ここ七年間の作品、『灼熱の魂』から『ボーダーライン』まで。
「これらの作品から、なにかを推測できるかい?」
「たいして。”かれ”が独特のビザールさと大衆性を破綻ぎりぎりで両立させることのできる稀有な作家なのは誰の目にもあきらかでしょう。でも、常に次回作の成功が確約されるほど信頼を得てるわけじゃないし」
「なにか――ほかになにか、話してもらえることはあるかな?」とソニー・ピクチャーズ大佐。
「CGの使い方からみて、巨大のクモの幻覚にフェティシズムを感じているだろうということぐらいね。あとライティングがいつも暗め」
「女性受けの悪い、シリアスな社会派作家だと?」
マーケティングの世界ではどうだか知らないけど、シリアスな社会派がいつも女性受けしないってわけじゃないわ。ボコボコの血まみれになったポール・ダノはいつだって扇情的。ついでにいえば、SF的な資質もあると目されているみたい。『ブレードランナー』の続編も任されているのがいい証拠」
「単刀直入に訊ねるが、きみは『メッセージ』を鑑賞するつもりはあるか?」
 わたしはうなずいた。
「好きな原作者に好きな監督。しかも脚本のエリック・ハイセラーは姉ホラーの名作『ライト/オフ』の脚本家よ。あんまり役者の映画ってかんじはないけれども、観ない手はない。音楽のヨハン・ヨハンソンはここのところずっとヴィルヌーヴ監督と組んできて前作の『ボーダーライン』でも――」
「たしか」とソニー・ピクチャーズ大佐が早口でまくしたてるわたしのオタクトークを遮る。「メキシコ麻薬戦争映画だったな」

 

 わたしは『ノー・エスケープ』(ヨナス・キュアロン監督)を観ている。犬と祖国を愛する老人が、不法に国境を犯したならずものどもを追うヒーロー映画だ。


『ノー・エスケープ 自由への国境』予告編


 ワイドなスクリーンにふもうなさばくちほーの風景が映る。気温40度、湿度0%。このかこくな環境・・・・おれはきおくがフラッシュバックした。いっぱつでわかった。それはつまりMEXICO・・・。おれの体温は高まり、内なる獣がめざめあがり、生存本能が高まっていった。
 軟弱なおまえはけだるい午後の仕事帰りに、ただ暗黒の安寧をもとめて映画館にすいよせられる。もはやスマッホをいじる気力もなく、逆噴射文体をコピーする元気もうしない、死者の日明けのゾンビーのように「うあー」「うあー」とうめている。
 こころもからだもなにもかも会社と資本主義社会に売り渡してしまったおまえは、ほとんどめくらの状態で券売機へと寄りかかり、てきとうなボタンを押しまくっててきとうなチケットを買う。そのあとに続くのは二時間の祝祭ではなく、二時間のそうしつだ。おまえはそうやって、そうして観るべき映画を観たにもかかわらず観ておらず、観るべきでない映画を観てやはり観ていなくて・・・・やがてすべてを観て何も観ないまま老いて死ぬ。それはキンメリアから届いた警告の声だ。
 
 そんなおまえにとって『ノー・エスケープ』はサンチョ・パンサだ。観ることで完全にかくめいされる。
 圧倒的になにもないさばくちほーで、絶望的なまでになにも持たないめひこちほーのふほー移民たちが、暴力する意志である老人と犬にやく五十時間ものあいだ追跡をうけ、ハントされていく。
 ただそれだけでおまえは尻穴の奥まで蹂躙される。魔法のように眠れない九十分が過ぎていく。最終的に壮大なエンディング画面を観たおまえはあるなつかしい歌のフレーズを思い出す。「けものはいても のけものはいない」……。
 それはかつて合衆国憲法で謳われた文句だ。ハミルトンやワシントンの理想だ。だがいまや? たしかにけものがいる。そして、のけものはいない。なぜなら、みな『マチェーテ』のロバート・デ・ニーロのようなクソやろうに殺されたからだ。
 げんじつの合衆国にダニートレホは存在しない。いや、存在するが、ロバート・デ・ニーロをナイフやマシンガンで地獄へ叩き落としてくれるダニートレホはいない。いたとしても、せいぜい『ブレイキング・バッド』で生首になるのがせきの山だ。先生はけして認めやしないだろうが。
 そうだ、先生のことばを思い出す。
「おまえが好きな映画とか作品にいちゃもんつけくるやつは、全員あほなので、きにするな。そいつらはどうせメキシコで死ぬ」
 『ノー・エスケープ』の登場人物たちはみなメキシコとアメリカの間で死ぬ。
 『ノー・エスケープ』が盛り上げりにかける平坦なアクション映画だと dis ったやつらも、地獄と煉獄の間で死ぬ。
 それがめひこちほーだ。Welcome to ようこそ地獄パークへ。きょうもどったんばったんおおさわぎ。

 ああ、なんてこと。『ノー・エスケープ』はけもフレじゃないの……。



 ソニー・ピクチャーズ大佐はウィンドウズ・ペイントを立ち上げて、図表を描いた。

f:id:Monomane:20170521210752p:plain

「オーケイ、これはけもフレと視聴者とのコスモロジーを表した図だ。Aは「どうぶつ Animal」のA。Bは「ぼく Boku」、つまり視聴者だな。両者の間に惹かれた直線はパソコンやテレビの画面だ。そして、空気と水があるだけ。完璧な理想郷といえる」
 わたしはうなずいた。
「もちろん。ところでなんでAとBを結ぶ線が屈折しているの?」
 彼はくびをかしげた。
「ぜんぜん、わからん……でもこうすれば」彼はその図表に破線を一本つけくわえた。

f:id:Monomane:20170521210810p:plain

「三角形になるくない?」
「なるけど。それが?」
 数十秒の沈黙があった。
「……キリスト教には三位一体という概念がある」
「いま、ちょっと考えたでしょ」
「父と精霊と子。父とは要するに神で、子はわれわれ人間だな。精霊はこの二者を橋渡ししてくれる存在だ。だが本当は、父がフレンズであり、子がわれわれだとしたら?」
「じゃあ、あのアルファベットが振られていない三つ目のカドは? テレビが精霊ってこと?」
「惜しい。テレビは直線。正解のカドは『けものフレンズ』という番組そのものだ。これは無二なようでいて代替可能な要素で、けもフレがアプリや漫画といった多様なメディアで同時的に展開されたのと同じように、実は『けものフレンズ』という番組でなくても成り立つ。どんな媒体を通したとしても、AとBの関係は不動なわけだ。これを増えるママの原理という」
 わたしは胸のうちで考えた。点B、つまり、わたしたちは視聴する番組を選べるようになる前に、最終的に視線が到達する地点を知っている。どんなアニメや映画であったとしても、そこ現れるのは常にフレンズたちなのだ。


 あなたはかしこい。かしこいので、アニメ『けものフレンズ』全十二話が円環であることを知っている。十二話を観た人間は第一話へと戻り新たな発見を得て、また第十二話までをたどる。けもフレ視聴は二百四十分でひとまとまりのループを構成する。文字通りの意味で、永遠に等しい二百四十分。
 それはあなたがけもフレを観てないときにもつづいている。映画を観ているときのあなたにも。ごはんを食べているときのあなたにも。動物園へ行ってサーバルキャットの檻の前ではしゃいでいるときのあなたにも。

 

 シャマランは、ともすれば、『シックス・センス』のときからけもフレを知っていたに違いない。わたしはほとんど確信に近い信仰を得る。


『スプリット』本予告

 シャマラン映画の真髄とはなんだったか。
 けもフレの神髄とはなんだったか。
「見た目は違っていても、わたしはあなたである」
 『スプリット』もまたけもフレであることは、疑いようもなかった。
 姿かたちも十人十色で、「だから」惹かれ合うのだというのならば、二十三の姿かたちを持つジェイムズ・マカヴォイ演じる多重人格者はどれほど魅力的なのだろう。



「やばんちゃん、『メッセージ』の原題ってなんだったっけ?」
 わたしは、Hulu で配信されていた今期の覇権アニメ『アニマルズ』の第二話を移していた画面から目をあげる。
「たしか、『到着』って意味の単語だったとおもうけれど」
「それがわからないと困るの。ディープウェブでコピーを探すときにつかうから。原題がわからなきゃ、サーチもできないでしょ」
「残念だけど、わたしにもわからないわ。マーベル映画にしたらどう? マーベルなら原題と邦題がそんなに違わないし、それに……」
 あなたはぷりぷりして、ニコニコちほーで「アライさんがうどんを打つシリーズ」の新作探しに戻っていくでしょう。



 ジェームズ・ガンという監督が、予想外のヒットを飛ばした『ガーディンズ・オブ・ギャラクシー』の新作をひっさげてやってきた。わたしたちは公開初日に映画館へ殺到して、彼の新作に目と耳をかたむけた。


映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』日本版予告編


 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の一作目は、宇宙の孤児たちが互いにいがみ合いながらも友情を築き、ついには新しいフレンズ――家族を形成する話だった。二作目では主人公に「実の家族」が現れて、フレンズたちのファミリーが揺れる。だが、その実の父親というのが……。
 アメリカ人は実の父をどうしてここまで憎めるのだろう。オイディプスの御代から連綿と伝わるメンタリティやキリスト教文化というだけでは説明できない。
 もっと深いレベルで根付いている憎悪……そういうことに思いを馳せたとき、わたしは彼らの建国の父が、なぜアメリカにやってきたかのを思い出す。
 そして、ピルグリムの父たちの後に続いた第二、第三の移民たちがなぜアメリカにやってきたのかを。
 黒人奴隷たちは例外かもしれないが、彼らは現地で別の父親を与えられた。現在アメリカに棲まう黒人たちの名字のほとんどは彼らの元「主人」から与えられた名字であり、それとは別に彼らの血には少なからぬ割合で「主人」の血が混じっている。旦那様のお手つきだろうとなんだろうと、奴隷女から生まれた子どもは奴隷だった。
 そんな子どもたちが、どうして父親を愛せるのか。本当の愛はどこある?
 血の繋がった父親など必要ない。欲しいのは、同じ由来を持ち、気持ちを理解してくれ、ただしく導いてくれるメンターだ。
 そうだろう、ロケット・アライグマ?
 くたびれたゴミパンダが画面の向こうでうつむきがちにつぶやく。
「なんでもかんでも俺にやっかいごとを押し付けやがって。気楽なもんだよな。そうやって、なんでもアライさんにお任せしていればいいのだバーロー……」



「アライ……バーロー……アライバル……」
「なんて?」 あなたはUターンして、ニコニコからログアウトしてくるでしょう。
「『メッセージ』の原題。Arrival。Arrive の名詞形ね」
「すごーい!」とその語をノートに書きつけながら、あなたは言う。「ありがとう、やばんちゃんってあたまいいんだね!」



「大丈夫か?」
 ソニー・ピクチャーズ大佐がわたしの肩を揺さぶった。
「感動のあまり気絶していたようだが」
 あたまがかすががったようにぼんやりしている。周りを見渡すと、エンディングのスタッフロールがはじまったというのに誰も席をたたない。マーベル映画のシアターと間違えて入ってしまったのだろうか? 今の時代はみなマーベル映画のようなエンディングを期待している。最後に続編を予告する二分間のおまけがつくエンディングを。次の二時間のための、二分。次の次の二時間のための二分。「つづく」の文字はフランチャイズを永続させるためのトリガーだ。
「そうね」わたしは大佐に応えた。「いいアニメだったわ」
「アニメ?」大佐は首を傾げた。
「まあ、たしかにブルーバックで大体撮影してそうだしな」
 あらゆる映画を通してわたしたちは『けものフレンズ』を観る。だが、ある映画を観ることと、そこに二重写しにされた『けものフレンズ』を観ることははたして両立しうるのだろうか?
 両立しえない、というのが通常の答えになる。そして、その事実は自由意志の問題にもかかわってくる。あらゆるコンテンツ、あらゆる景色、宇宙の至る場所にけもフレが強制的に見出されてしまうとしたならば。
 三位一体。父、精霊、子。フレンズ、コンテンツ、わたし。あなた、それ、わたし。
 『メッセージ』のエンディングが終わっても、次の二時間のための二分間のオマケ映像はこない。
 いや。
 そうなのだろうか?
 ほんとうに?
 大佐はずっとわたしを見つめている。ともだちに送るような、親しみのこもった視線だ。わたしたちをヨハンソン作曲のエンディングテーマ「Kangaru」の旋律がやさしくつつむ。
「大佐、質問が」とわたしは言った。
「めずらしいな。いつもは私が質問する側なのに」
「大佐は、いや『監督』は〈トリガー〉を引いたことが――視聴者に破壊コマンドをつかったことはありますか?」そのセリフを吐き終える前から、わたしは特殊な破壊コマンドを生成するために必要なものの計算にとりかかっていた。
 ソニー・ピクチャーズ大佐の顔がゆがみ、きしみ、はがれおち、本性であるたつき監督のそれが覗く。崩壊はながく続かない。ふたたび表情がプログラムされる。再構築された表情筋の表層に浮かんでいたのは――笑顔だ。
 人さし指を上方にあげて、彼が言う。可視域ぎりぎりの声(フォント)で。

「つづく」

 最初は、なにも感じない。やがて、喜悦が全身を満たす。彼は、たんなる「12・1話」として12・1話を設計してはいなかった。感覚的トリガーでもなかった。それは記憶のトリガー。永劫へといたるメッセージ。一秒一秒は無害な知覚物のつらなりからなるアニメーションで、時限爆弾のようにわたしの脳内に植えこまれていたのだ。ワンクールアニメのひとつの結果として形成されていたはずのそれらの心的構造物が、いまはわたしの永遠を規定するゲシュタルトを形成しつつある。わたしはみずから、その「アニメ」を直感している。
 わたしの心がかつてなく速く働きはじめる。わたしの意志に反して、致命的なアナロジーの了解がひとりでに提示されてくる。わたしはその観念連合を阻止しようとするが、けもフレの想起を押しとどめることはできない。
 それは地獄なのか、天国なのか、はたして現実なのか。
 地獄の住民の大半にとって、そして天国の住民の大半にとっても、地球とそれほど違っているものでもない。けもフレと地獄がそれほど違わないように。
 


 第一話の放送日にサーバルをながめているときのことが心に浮かぶ。あなたはあたまのわるいセリフをくちにして、どうぶつのまま画面をはねまわるでしょう。それを観たわたしたちの大半は「なんと退屈なアニメだろう」と嘆くでしょう。でもそれでも観つづける。
 それで第三話を過ぎたころからわかる。わたしとあなたのあいだにはかけがえのない絆があるんだって。あなたを観る前から、わたしはおおぜいの冬アニメのなかからあなたを見分けることができた。あれはちがう。ううん、これもそうじゃない。待って、あそこのあの子がそうよ。
 そう、そのアニメ。そのやさしいアニメがわたしのフレンズ。



 『メッセージ』を観たことで、わたしの人生は変わった。
 そもそものはじめから、わたしはどの映画もあなたであることを知っていたし、当然のものとしてそのアナロジーを利用したりもした。けれど、わたしが目指しているのは歓喜の極致なのか、それとも苦痛の極致なのか? わたしは父と子のどちらになるのだろうか?
 いずれにせよ、あなたはずっとわたしのそばにいる。これからもあなたを観つづける。
 誰かがわたしを映画に誘ってこう言う。
けもフレの第七十四話をみにいきたいかい?」
 で、わたしはほほえんで、こう答える。
「ええ」
 そして、わたしたちは手をつないで映画館にはいって、スターウォーズの新作のチケットを買い、ともだちにあうの。つまりはこれからもどうぞよろしくね。



引用文献

テッド・チャン『あなたの人生の物語』ハヤカワ文庫SF
「理解」公手成幸・訳
「あなたの人生の物語」公手成幸・訳
「地獄とは神の不在なり」古沢嘉通・訳


逆噴射聡一郎(ダイハード・テイルズ)
「【日報】おまえはSNSばかりやっていないでホットYOGAで肩こりと腰痛をなおせ」https://diehardtales.com/n/nc1953bb1f6f4?gs=a8df537ae2fe
「コナンが、おれの道を教えてくれる」https://diehardtales.com/n/ndd3aa2b70958
 


地獄に落ちた少女ども――『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(5)(終)

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第五話「魔法少女帰れない家」



 第五話では本書を貫くイメージのひとつである「絵画」のモチーフが前面に打ち出されます。
 ゲストキャラクターである奥さんこと奥様子は元画家の主婦。結婚した夫とのあいだに一男一女をもうけて、夏子たちの目からすると幸せそうに見えます。
 ある日、奥さんのもとに美大時代の旧友から結婚式の招待状が届きます。参列するべきかどうかで迷う奥さんに、夏子とぬりえは助力を申し出て背中を押してあげます。結婚式に出るための準備期間が一週間欲しい、と言う奥さんにその間の身代わりを申し出るのです。
 かくして夏子は奥さんに変装して主婦の役割を引き受けます。が、小学生の彼女に一家四人分+αの家事は重すぎました。客人として眺めれば理想の一家でも、子供は母親をリスペクトしてくれず、夫はまるで化け物。疲弊していく彼女に追い打ちをかけるかのように、奥さんにまつわる不可解な矛盾が徐々に露呈していきます。約束した一週間が過ぎても奥さんは戻ってこず、夏子は壊れかけますが、手抜きを学ぶことでなんとか持ちこたえます。
 出立から二週間たって奥さんはようやく帰宅を果たします。主婦業の大変さとともにその意義を学び、自分なりに体験を総括しようとする夏子に、奥さんはぶちぎれます。「この家のどこに私があるの?」と。奥さんは夏子に自分の描いた絵を見せます。それはこの二週間を費やして描かれた絵でした。平凡以下の絵でした。家のなかで夏子が一度だけ目撃した昔の奥さんの絵とは似ても似つかない下手な絵でした。「これが私だよ。駄目になった! この家に吸われて大事な物全部なくなってしまった! 食われてく、この家の奴らに、全部。持っているもの全部。私全部」
 ぬりえちゃんは毎度の手続き通り、奥さんの記憶を消します。
 家に戻った夏子は衝撃的なニュースを目にします。奥さんが出席する予定だった結婚式で新郎新婦が惨殺されたのです。犯人は明らかに奥さんでした。夏子は自分が二重に謀られていたことを悟りますが、奥さんには夏子の作った二週間ぶんのアリバイがあり、また本人は記憶消去により事件を起こしたことも憶えていません。奥さんは親友を殺されたことで真実泣いてさえいました。
 呆然と夏子は問います。「私たちだけが覚えているの? この人が何をしたかを、私たちが何をしたかを」
 ぬりえちゃんは答えます。「疑われないよ。彼女は家にいたのだもの。願いは叶えられたんだよ」

 
 「願いは叶えられた」。最初から奥さんは二人を殺すことをこそ望んでいたのでした。絵を描いていたのは往年の夢が取り戻せるという希みを抱いたからではなく、自分の絶望を確認する儀式にすぎませんでした。凶器や変装道具を家からあらかじめ持ち出していた事実がその計画性を証拠づけています。
 願いがそもそも歪んでいるのだから、叶える道具であるぬりえちゃんには救えません。夏子は奥さんが帰ってきた直後に「二週より長い時間をあげられていたら。別の原因を取り除けたなら。ちゃんと力になれていたなら。よりよい結末があったかもしれないし、更に悪い結果になっていたかも知れませんでした」と第二話の繰り返しのように魔法の失敗を悔やみますが、虐殺のニュースを聞いて最初から彼女が自分たちを騙すつもりだったのだと悟ります。
 ねがいごとはねがう本人が決めます。基本的には叶える側は介入できない。介入できないのはいいにしても、何故オリジナルな奥さんの願いを事前に夏子たちは把握できなかったのか。。れは彼女たちの知る奥さんが、家を離れて事件を起こした奥さんとは文字通りの意味で全く別の存在だったからです。鶴だったからです。

 第四話では『シンデレラ』がモチーフとして使用されていましたが、第五話でも童話といいますか、昔話が引用されています。それが『鶴の恩返し』です。
 奥さんが昔描いたとおぼしき「海辺と鳥の絵」を家の一角から発掘した直後、夏子は『鶴の恩返し』について思いを馳せます。

 例えば考えるのは鳥のことでした。奥さんが本当は大きめの鳥で、飛び去って帰ってこないような想像でした。鳥が家に帰らないのなら、それは自然という気がしました。
 昔の鶴でもたくらみの個室があてがわれ、隠れる場所がなければ鶴は何もしなかったのか。その家で手も足も出なかったら、自分の正体を鶴はどうしていたのか。

 
 まさしく奥さんは隠れる場所を持たない鶴だったわけです。家族の視線に晒され、家事に忙殺されて、機を織る場所も暇もなかった。奥さんと旦那さんとのあいだにあったであろう恩返しの「恩」は劇中で語られることはないのですが、ともかくも人間に化けた鶴であるところの奥さんは鶴に戻って機を織るタイミングを見失ったまま昔鶴であったことさえ忘れてしまった。ここでいう鶴とは単に恩情と義理の深い動物ではなくて、昔の、絵を描いていたころの奥さんです。
 なぜ結婚式で惨劇で夏子の作った不出来な鶴のマスクをかぶったのか、もはや明らかですね。彼女は鶴に戻って、鶴のなすべきことをしたのです。
 鶴は人間になった今の奥さんとまったくつながりのない生き物ですから、テレビで鶴のマスクを見ても「アハハ」と笑える。隠れ場所を、家から離れた場所を夏子たちが提供してしまったがゆえに鶴としての面を思い出してしまったわけで、夏子たちは彼女の家で奥さんに会うかぎりは鶴としての奥さんの顔を知り得ません。
 結局、夏子たちにはどうしようもできなかったのです。

次回予告

 どうしようもないこと、とりかえしのつかないことは我々の人生においても常に生起します。
 たとえば、本連載。
 最終回となる第六回ではいよいよ本書を貫く「地獄」とは何か、について迫っていきたいと思っていましたが、一ヶ月くらい考えていい感じの結論がでなかったのでこれでおしまいです。おわびとして自転車に乗るサーカスのクマのクリップをもってかえさせていただきます。

www.youtube.com

 サーカスのクマの動画はどれもクマがあきらかにやる気ない感じで趣深いですね。

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈6〉:『マリアが語り遺したこと』コルム・トビーン

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『マリアが語り遺したこと』(コルム・トビーン、とち木伸明・訳、著2012→訳2014)


マリアが語り遺したこと (新潮クレスト・ブックス)

マリアが語り遺したこと (新潮クレスト・ブックス)

 わたしが真実を語るのは、真実が夜を昼に変えるよう期待するからではない。真実の力によって、昼がその美しさを永遠に保ち、老い先短いわたしたちにくれる慰めを永遠に保つようしむけるのが目的ではない。わたしが語るのは、わたしにそれができるから。理由はそれだけだ。すでに起きたたくさんのできごとを語れる機会は、今だけかもしれないと思っているから。(p.106)


 半神半人の英雄たちで溢れていた神話の時代はいざしらず、歴史上の偉大な人物たちはみな母親から生まれてきた。自分の息子がナポレオンだったり、ヒトラーだったり、ガンジーだったりするのはどういう感覚だろう?
 ましてや、それが何億人もの人間から「神の息子」と崇められる人物だったら?

 処女懐胎で知られる聖母マリア。彼女自身、宗教的に重要な人物にもかかわらず、聖書中で言及されることは少ない。
 この「聖母」を、アイルランド出身の作家コルム・トビーンは一介の母親としての命を吹き込んだ。
 イエスの死後、その弟子であった男たちに半ば保護、半ば監視されるようにして暮らすマリア。彼女は彼女の見てきたイエスについて語りはじめる。
 聡明な、しかしふつうの少年だったイエス。故郷を出て戻ってきた彼は、多数の弟子を従えた超然的な宗教者になっていた。母親に対してよそよそしい態度をとる息子に戸惑いつつも、マリアはイエスが起こすいくつかの奇跡を間近で目撃する。
 そのうちの一つがラザロの復活だ。健康的な若者であったラザロが急死してしまい、彼の姉たちは嘆き悲しむが、イエスは「自分がラザロを生き返らせてやる」と宣言し、まさしくその言葉通りのことを実行する。
 死者を蘇生するのは奇跡のなかでも最高クラスの奇跡だ。自然が定めた死という法を破壊して、あらゆる法則を思うがままにする。まさしく、神のみわざだ。革命家イエスの前では、死すら例外なく転覆される。しかし、既存の秩序を破壊する彼の行為が、保守的な勢力のうらみを買っていることもマリアは知っていた。
 死者を生き返らせ、水をワインに変え、周囲の人々から畏敬されている姿を見ても、マリアにとってイエスは自分の息子だ。彼女は「あの男が力を振るうのを見ていたらどういうわけか、無力だった頃よりも愛し、助けてやりたい気持ちが強くな」る。

いつまでも彼を子ども扱いしたいわけでもなかった。ただわたしはひとつの力が、それ自体としてまぎれもなく立ち上がっているのを目の当たりにした。どこから来たのかわからない力をこの目で確かめたわたしは、日中も、夢を見ているときにも、なんとかしてその力を守ってやりたいと思うようになった。そうするに足る強い愛を、自分は持っていると感じたのだ。息子がどれほど変わったとしても受け止められる、不動の愛を。(p.65)

 
 やがて、イエスは捕縛され、エルサレムで処刑されることになる。マリアは命を賭して、ゴルゴダの丘へと向かう。
 イエスが十字架にかけられたときにやってしまった(というより、やらなかった)ことが彼女を苦しめる。「そうしてさえいれば、少なくとも今のように、とめどなく悩み続けることはなかったはずなのだ(p.94)」と。それはつまり、母親としての愛情を示す行為をできなかった、ということだ。そして、マリアにとって後悔に値するその愛の欠如が、皮肉にも彼女の息子の聖性を高め、人類の罪を一身に背負って孤独に死んだ愛の人イエスのイメージを作り出すことになる。
 愛情深い母親の腕の中で息絶えるイエスの図は、それはそれで宗教画の魅力的なモチーフになったかもしれないけれど、最期に「救われてしまった」感じが出てしまう。イエスはあまねく人類に愛を与えるために、(神である)父と母から見捨てられなければいけなかった。


 本書は「イエスの母親」の話ではなくて、「たまたま子どもがイエスだった母親」の話だ。いくつになっても親にとって子どもは子どものままで、愛情と保護の対象だ。それは時代・宗教・民族を超越した普遍的な関係なのかもしれない。


 作者のコルム・トビーンは前述したようにアイルランド出身。彼のバックグラウンドにはカトリック教文化が深く根ざしている。映画化もされたアイルランド移民の少女の物語、『ブルックリン』(白水社)にもそのあたりがよく反映されている。
 文体の面だけとっても卓抜している。やわらかく、詩情に富んだ筆致を操る一方で、人間の細やかな悪意や不穏さをたくみにすくい取る。

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈7〉:『人生の段階』ジュリアン・バーンズ

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『人生の段階』(Levels of Life、ジュリアン・バーンズ土屋政雄・訳、著2013→訳2017)


人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)


 小説なのかノンフィクションなのか判別がつかない。*1奇妙な書物である。『イングランドイングランド』や『フロベールの鸚鵡』を書いたジュリアン・バーンズを「奇妙」と評すほど無意味なことはないけれど、そんなバーンズ作品でもとりわけ異色であることには間違いない。


 本書は二つの国と三つのチャプターから成る。

 第一章「高さの罪」では、十九世紀の気球ブームにまつわるエピソードが気球乗りにして写真家のナダールことフェリックス・トゥルナションを中心に記述される。
 章題が指すのはイカロスの寓話だ。神に近づくことを夢見た人間イカロスは、その傲慢さを咎められて飛行中に偽の翼を焼かれ墜死する。爾来、ヨーロッパ人は飛行を禁忌としてきたわけだが、気球の登場がその「罪」を克服し、人類を新時代の冒険へと誘った。同じく近代を象徴するツールであるカメラを携えたナダールはその象徴というわけだ。


 第二章「地表で」では、第一章でもそれぞれ気球乗りとして言及された英国人冒険家フレッド・バーナビーとフランス人女優サラ・ベルナール恋物語が綴られる。
 どちらも実在の人物だ。バーナビーはヴィクトリア朝を代表する冒険家で、伊藤計劃の遺作『屍者の帝国』(で円城塔が引き継いだパート)では豪放磊落な人物として描かれているが、本作ではむしろ繊細な青年といった印象。ベルナールはベル・エポックを代表する女優で、ユゴーオスカー・ワイルドとも交流を持ち同時代の文化に大きく貢献した。
 ベルナールは恋多き人物として知られているが、バーナビーと付き合っていたという史料はおそらく存在しない。第一章とは打って変わって、この章はバーンズの創作だ。
 だから、冒頭に宣言される「これまで組み合わせたことのないものを、二つ、組み合わせてみる」は第一章とまったく同じだけれど、続くセンテンスが違う。「うまくいくこともあれば、そうでないこともある。」
 続く文章は気球の技術についてのもので、つまりバーンズは愛とその行く末を気球になぞらえている。

 実際に、地に這いつくばる人間がときに神々の高みに達することがある。ある者は芸術で、ある者は宗教で、だがほとんどは愛の力で飛ぶ。もちろん、飛ぶことには墜落がつきものだ。軟着陸はまず不可能で、脚を砕くほどの力で地面に転がされたり、どこか外国の鉄道線路に突き落とされたりする。すべての恋愛は潜在的に悲しみの物語だ。(p.46)


 悲しみの物語であるところの恋愛はそのまま第二章のベルナールとバーナビーの顛末を暗示すると同時に、第三章のバーンズ自身の物語を予告する。


 第三章「深さの喪失」では、妻を病気で失ったバーンズの彷徨が描かれる。人生の半分を共に過ごした伴侶を亡くした老小説家は、世界に対する関心をなくし、友人や知人たちの言葉や態度に反発し、妻を想起させるあらゆる出来事に涙し、やがては希死念慮を抱くようになる。
 妻の死は彼の趣味すら変える。以前は興味を抱けなかったオペラがきゅうに理解できるようになる。彼は『オルフェオとエウリディーチェ』を観劇しにでかける。イカロスと同じくギリシャ神話に材を取ったオペラで、オルフェウスという男が喪った妻を取り戻しに冥界まで降り、妻の手を引いて現世へ戻ろうとするも、「冥界から脱出するときは決して振り返っていけない」という禁忌を破って妻のほうを振り向いてしまったために再度妻を失ってしまう話。
 最初、バーンズはオルフェウスをバカげた愚か者と考える。絶対ダメと念を押されたはずのルールをなぜ破ってしまうのか。結果がわかりきっているのに、なぜ、と。しかし『オルフェオ』を観たバーンズは一転してオルフェウスに共感する。

 どうして見ずにいられよう。「正気の人間」なら決してしなくても、オルフェオは愛と悲しみと希望で正気をなくした男だ。ほんの一瞥のために世界を失うようなことをするか。もちろん、する。世界は、こういう状況で失われるためにある。(p.115)

 
 墜落するとわかっていてもやめられない。その物語が今のバーンズには納得できる。
 ギリシャ神話、写真、オペラ、愛のメタファーとしての気球、バーナビーとベルナール、イギリスとフランス……反復はパターンを構成する。そしてパターンによって人生は物語化される。バーンズは言う。「たぶん、悲しみはすべてのパターンを打ち壊すだけでなく、パターンが存在するという信念を破壊する。だが、私たちはその信念なしには生きていけないと思う」

 壊れてしまったパターンを直すために断片的な事柄から要素を見出し拾いあつめること。それこそが作家としてのバーンスが行わずにはいられなかった自己セラピー、作中のことばを借りるなら「グリーフ・ワーク」だ。それはそのまま小説を書く作業でもある。本を読み、文豪たちの名言を引き、気球や写真について調べ、ひとつの組織された虚構を著述する。
 その結果として、本書が生まれ、ジュリアン・バーンズはなお生きている。

(2064文字)
 

*1:英語版 wikipediaの作者ページでは「Nonfiction, memoir」にカテゴライズされている

『20センチュリー・ウーマン』に関する覚書

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今年ベストクラスの映画です。
気になったところでまとまりそうなところを箇条書きで。



「20センチュリー・ウーマン」予告編

海(辺)と土と空

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上が『20センチュリー・ウーマン』の、下が『ザ・マスター』のファーストカット。



20センチュリー・ウーマン』は波打つ海を直下に眺めたショットからはじまる。ここでわたしたちはポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』をひきあいに「ファーストカットが波打つ海な映画は大名作」という法則を謳うこともできる。けれども、思い出してほしい。『ザ・マスター』で波状していたのは船による航行の結果であって、『20センチュリー・ウーマン』での何者にも妨げられない本物の波とは違う。
 『ザ・マスター』は「船」に乗っているひとびとの物語だった。かたや『20センチュリー・ウーマン』の登場人物たちは波打ち際であるサンタバーバラに封じこめられている。もちろん、若者たちが過半数を占めるこの映画においてそんな束縛は一時的なものでしかないのだけれど、既に五十の坂を越した母親(アネット・ベニング)にとっては終着点だ。
 そこは何かにつながる場所でもある。日本では主に文字通りの彼岸として用いられがち(最近だと『武曲』)な浜辺は、『大人は判ってくれない』以来の文脈だと行き詰まりであると同時に本当の行き止まりでないところ。船出の場、外から何かが運ばれてくる場。
 だからかもしれない、彼女は息子(ルーカス・ジェイド・ズマン)の育て方に行き詰まったときは決まって浜辺に行く。エル・ファニンググレタ・ガーウィグに「子離れ」の協力を頼む直前も、それを取り消そうと息子を説得する前も極めて短い浜辺のシーンが挿入される。彼女は押し寄せてくる息子の成長という荒波に、彼女なりに対処しようと奮闘しているのだろう。

 では、ベニングはやはり『ザ・マスター』と一緒で船長的な存在なのか。海の人なのか。違う。『ザ・マスター』のファーストカットと『20センチュリー・ウーマン』のファースト・カットで決定的に異なる点がある。視点の高さだ。つまり、『ザ・マスター』があきらかに船の後尾(くらい)の高さから撮影したものであるのに対し、本作は高高度から波を捉えている。眼は空にある。
 本作を最後まで観た人ならおわかりだろうけれど、最後にベニングは子供の頃の夢だった「飛行士」になる。彼女は空の人だ。
 だからなのか、ガーウィグに大地の神秘を語り、母なる地球と合一する瞑想を好み、のちに趣味が高じて陶芸家になる土の人、居候のウィリアム(ビリー・クラダップ)とはやはりくっつかない運命にある*1。雲の高きに舞う鳥は、地上で羽根を休めてもまた飛びだっていくものだ。だからこそのラストカット。最初のカットとは対になるものであると同時に、答え合わせでもある。


マイク・ミルズにおけるネコとイヌ

20センチュリー・ウーマン』では主人公家の飼い猫が優雅な存在感を放っている。
 ネコとくればイヌ。マイク・ミルズのイヌといえば前作『人生はビギナーズ』における主人公の忠犬アーサー(コズモ)が思い出される。これには単なる偶然以上の作為を見出さざるをえない。
 なぜなら、『人生はビギナーズ』はミルズの父親がモデルの、『20センチュリー・ウーマン』はミルズの母親がモデルの、どちらも半自伝的映画なのだから。
 『ビギナーズ』のアーサーは死んだ父親と主人公自身の曖昧な弱さを具現化した存在だ。元は父親の飼い犬で、父の死後に主人公へ引き取られた。彼はとても寂しがりやだ。主人公がパーティへ出かけるために他人へ預けようとすると、切なく喚いて結局主人公を呼び戻す。
 一方的に主人公へ依存しているかといえばむしろ逆な面もあって、主人公のほうでもアーサーの「声(主に人生に関する助言)」が聴こえてきたり過剰な擬人化をほどこすなど依存の兆候が見え隠れする。
 物語上でも、アーサーとの別離が亡き父親に引きずられてきた生活に対する一区切りとなる。アーサーは映画本編全体でも『20センチュリー・ウーマン』のネコに比べてかなり大きな比重を占めているので、詳しい活躍は本編をご覧になってほしい。

 父親と息子を半々で分け合っていたのが『ビギナーズ』のアンニュイなイヌだったが、『20センチュリー・ウーマン』の自由奔放なネコは100パーセント母親だ。
 ネコは常に母親を伴って出現する。大抵は、ベニングが物思いにふけっているシーンだ。そして彼女が思案しだすや、ネコはぴょんと飛んで画面外へと消えてしまう。ネコはベニングの奔放さを表すと同時に、その胡乱さや迷いをも示唆している。
 ネコが彼女の思考と連動する存在であることは、家族に断りを入れずにロサンゼルスへ出かけた息子が帰ってくる直前、ベッドの上で彼女がネコをさわって話しかけるところによく描かれている。ベニングは他人としてネコではなく、自分の分身に言い聞かせるように話すのだ。
 
 イヌであるところの父親とネコであるところの母親、(生物学的にはまったく対立する必要がないのだが文化的には)対立する(しているということになっている)ふたつの種がなぜ結婚してしまったのか。最初から離婚は目に見えていたのではないか。
 この疑問に対する解答は既に『20センチュリー・ウーマン』の劇中でベニング自身の口からなされている。

「あの人が左利きだったからよ。
 私は右利きで、だから朝に二人で新聞を読みながら株価をチェックするときに、彼は左手で値を書きながら、右手で私のおしりを掻いてくれた」
「それだけ?」
「それが好きだったの」

 まったく対照的な二人だったからこそ、なのだろう。


エル・ファニングの階段。

 十五歳のズマンの部屋に毎晩、二歳上のエル・ファニングが泊まりにくる。ふたりのあいだに、いっさいの性的な接触はない。ただ同じベッドで眠るだけだ。
 エルファに恋心を寄せる思春期少年ズマンはこの中途半端な関係に悶々とした毎日を送っているわけだけれども、ところで彼女は二階に位置している少年の部屋までどうやって侵入するのか。
 あらかじめ、彼の部屋に通じるハシゴが設置されているのだ。なぜハシゴがそこにあるのか。家が普請中だからだ。古い屋敷を戦後に買い取ったため、ベニングがクラダップの助けを借りて、毎日ツナギに身をつつんで改装工事を行っている。

 家、家、家。またアメリカ人の映画に家が出てきた。
 しかも、工事中の家だ。さすがに『許されざる者』に出てくる保安官の家のような邪悪さはないけれど、未完成であることはそのままベニングの未完成の家庭状況に対応している。
 そうした未完成な家に住む未完成な家庭の未熟な子どもの心のすきまにハシゴをかけて、毎晩エル・ファニングは少年をふりまわしにやってくる。イレギュラーな訪問手段*2を使うのは彼女も少年とどうなりたいのかよくわかっていないからで、だから一緒にモーテルへ連れ立って一対一の生身の人間として接したときに、それまでの仮初の関係が崩れ去る。そのコテージに出入りするための扉は一つしかない。
 

突然出来た友だち以上義姉未満の存在としてのグレタ・ガーウィグ

(ここにシチュエーションがよく似ているといえなくもない二作、姉弟版であるところの『20センチュリー・ウーマン』と姉妹版であるところの『ミストレス・アメリカ』のそれぞれにおけるグレタ・ガーウィグについて書くつもりだったが既に記事が長くなってしまったので、まあまた今度ということで。) 

*1:ベニングのキッチンが鮮やかなレモンイエローで、クラダップの寝室が青で染められそれぞれ「色分け」されているところにも注目したい

*2:このイレギュラーな訪問手段の使い方が最上級に上手いのが『アナザー・カントリー』

1930年代から2000年代までの各10年ごとの映画ベスト10

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はじめに

 他人がなんか楽しくワイワイしながら盛り上がってるさまを眺めるのはとてもくやしいものです。わたしだってワイワイしたい。
 最近の twitterでのワイワイ案件としては「◯◯年代映画ベスト10」があります。年代ごとにベストな映画を10本挙げるとかいうやつです。それをここでやります。やりたくなるまでお気持ちの変遷については省きます。
 ちなみに twitterでベストを挙げた方々はそろって「年代ごとに10本しか選べないのキツすぎだろ」とおっしゃってます。私のほうはといえば、今まで観た映画の半数弱? くらい*1が2010年代の作品で、裏を返せばそれ以前の映画はあんまり齧っていません。人間には「知らない分野のことほど気軽に大きなことをいいやすい」という性分があります、よって2010年代以前なら出来心で10本挙げやすい。雑誌なんかのベスト本に妙にラインナップが似通うのもそのせいです。こういうのは選者の人となりがわかる一本の筋の通ったものが読んでておもしろいんですが、まあ、マスに巻かれるのが私のパーソナリティです。
 で、140文字制限のあるところだとタイトルを挙げるだけでギュウギュウになるのですが、せっかくそういう縛りのないブログでやるからには何故選んだかの理由を書きたい。付加価値によるプレミアム感というやつです。
 とは言い条、私はだいたい観た映画の内容の99%を忘れる人なんで、細かくどのシーンのどれがよかった、というよりは「ふわっと」とか「ぐんにょり」とかいったオノマトペが頻出することとなるでしょう。そこらへん、ご寛恕いただけると幸いです。
 
 以下、年代ごとの10選です。選ぶにあたって独自に「アニメは別枠で各年代ごとに一本選ぶ(ただしストップモーションアニメは一般枠)」、「ドキュメンタリーは含めない」といったルールがもうけられています。どういった深遠な理由に基づいてそういうルールが課されるのか、といったご質問については残念ながらお答えできません。わたしにもはっきりとわからないからです。

 では、はじめましょう。おおむね番号順が好きな順です。カッコ内は監督の名前。

1930-40年代

1.『桃色の店(街角)』(エルンスト・ルビッチ
2.『ニノチカ』(エルンスト・ルビッチ
3.『マルタの鷹』(ハワード・ホークス
4.『祇園の姉妹』(溝口健二
5.『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ
6.『駅馬車』(ジョン・フォード
7.『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(小津安二郎
8.『極楽特急』(エルンスト・ルビッチ
9.『レベッカ』(アルフレッド・ヒッチコック
10.『狐物語』(ラディスラフ・スタレヴィッチ)

A. 『バンビ』(デイヴィッド・ハンド)


 たぶん、通して観た長編映画で一番古い作品はルビッチの『山猫ルシカ』(1920年)で、そこから30年間くらいの映画はあんまり観ていません。要するにサイレント時代の作品をほとんど観てないわけで、そういう教養を持ってないのはどうかな、とも思うのですが人は教養のために映画を観ているのではないのでしょうがなくない?
 この年代の映画は事故的に出会うといったことがあんまりなくて、しぜん、気に入った監督の作品を掘る過程で摂取していくわけで、そうなるとやはり名前が偏る。つまりはルビッチ、ルビッチ、ルビッチ。
 でもルビッチはどの年代に生まれたとしても最低三作品は入れてたと思う。
 なんなら『生きるべきか死ぬべきか』や『生活の設計』なんかもぶっこんでよかった。ルビッチは神です。ワイルダーも小津もそう言っている。
 個人的にはルビッチのいわゆるスクリューボールコメディのテンポと所作が非常に大好きで、『生活の設計』の出会いのシーンや『桃色の店』の郵便局のシーン、なんでみんなああいうのやんないんだろうとも思う。まあやれないからなんですが。ウェス・アンダーソンは『グランド・ブダペスト・ホテル』で頑張っていた。
 『市民ケーン』だいぶ昔に観ましたね。わりによく覚えています。ときどき『市民ケーン』て今観てもいうほどおもろいか? みたいなご意見を目にしますが、十二分におもろいでしょう。キチガイがアメリカン・ドリームを実現するためにがんばってやがては幻滅ないし破滅する話は普遍的に面白いです。フィッツジェラルドの時代からずっとそうです。だから私たちは今でも『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ナイトクローラー』といったキチガイ成り上がり映画を見に行く。ジョーダン・ベルフォートもナイトクローラーさんも幻滅はしないところが21世紀ですが。

 アニメ枠は『バンビ』。
 常々言ってることですが、『バンビ』を観たこともない人はもちろん、小さい頃に『バンビ』を観てなんとなく忘れかけてる人もぜひもういちど『バンビ』を観直すべきです。ビビるから。
 アニメーションのうごきがとにかくものすごい。「ぬめぬめ動く」という形容はこれのために用意されたといっても過言ではなく、のみならず動物の毛皮がふんわり膨れ上がるところとか……とにかく官能的、そうエロいんです。この動作のエロさは今現在ディズニーを含めたどこのアニメスタジオも達成できていない。ロストテクノロジーです。オーバーテクノロジーです。アトランティスです。『アトランティス 失われた帝国』じゃなくて。この快楽はたぶん言葉では伝えきれないと思います。



1950年代

1.『幕末太陽傳』(川島雄三
2.『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー
3.『恐怖の報酬』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
4.『イヴの総て』(ジョセフ・L・マンキーウィッツ)
5.『七人の侍』(黒澤明
6.『ぼくの伯父さん』(ジャック・タチ
7.『近松物語』(溝口健二
8.『大人は判ってくれない』(フランソワ・トリュフォー
9.『現金に体を張れ』(スタンリー・キューブリック
10.『大いなる西部』(ウィリアム・ワイラー

A.『眠れる森の美女』(クライド・ジェロニミ *総監督)


 当然のごとくあんまり観ていない。現代っ子なもので。わたしが子どものころはみんな映画なんか観ずにエロゲをやっていました。
 『幕末太陽傳』はこの世でいちばんおもしろい時代劇だと思います。ちゃんばらとかはないんですけど、短いエピソードを細かくテンポよく刻んでいって、最後にフッと哀しいけどどこか爽快な後味を残してくれる。聞けば、元は落語の寄せ集めだそうですが、これと同じ手法で何かまた映画作ろうとしても、そうそう上手くいかないんじゃないかな。川島雄三の演出とフランキー堺の佇まいがとにかくキレまくってる。
 『イヴの総て』と『サンセット大通り』はキチガイがどんな手段を使ってでも成り上がるアメリカン・ドリーム破滅物語のビフォアとアフターって感じで、私の中では二本でワンセットですね。
 『恐怖の報酬』はいつ爆発するかもわからない爆薬を輸送する男たちの話ですが、とにかく観客へのストレスのかけかたが尋常じゃない。ほとんどイジメに近いですよ、これは。しかも、オチな。オチが……。
 時代のわりには全体的に雰囲気やライティングの暗い映画が多いですけれど、『大いなる西部』はカラッと晴れやかな画面で、ガンマンたちは最後は素手で殴り合う古典芸能ってかんじで、同時代の西部劇では好きな方。

 アニメ枠は実質ディズニーからどれを選ぶかの問題。50年代のディズニーではどの作品にもあまりパッションをおぼえないんですが、スタイリッシュさが光る『眠れる森の美女』でここはひとつ。
 
 

1960年代

1.『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー
2.『反撥』(ロマン・ポランスキー
3.『アパートの鍵貸します』(ビリー・ワイルダー
4.『切腹』(小林正樹
5.『殺しの烙印』(鈴木清順
6.『プレイ・タイム』*2ジャック・タチ
7.『日本のいちばん長い日』(岡本喜八
8.『ミトン』(ロマン・カチャーノフ
9.『裸のキッス』(サミュエル・フラー
10.『地下鉄のザジ』(ルイ・マル

A.『101匹わんちゃん』(ウォルフガング・ライザーマン)


 フランス映画ばかりですね。それとアメリカン・ニューシネマ。時代に流されやすい人だよ。ほんとうは『気狂いピエロ』も下三つと甲乙つけがたいかんじだったのですが……短編(ストップモーション)の「ミトン」と入れ替えても……いや、でも「ミトン」はほんとほんとほんとにヤバいので。短編アニメでマジ感動したのはこれと最近の「ひな鳥の冒険」(アラン・バリラロ)くらいでしょうか。いやストップモーション短編ならもっとあるな。
 『プレイ・タイム』と『日本のいちばん長い日』は一見題材からジャンルまで正反対の映画に見えますが、過剰なまでの段取りへの意識という点で非常に似ているとおもいます。ジャック・タチは段取り魔ですね。犬を(たぶん)演技させずに完璧に段取らせることのできた史上唯一の監督だとおもいます(『ぼくの伯父さん』のオープニングのこと)。この段取り力をデイミアン・チャゼル先生も見習ってほしい。
 演出ではタチですが、脚本のソリッドさならやっぱり僕らのビリー・ワイルダー。『アパートの鍵貸します』は元祖反復伏線芸映画と申しますか、特にコンパクトミラーの使い方が神がかっています。
 ポランスキーはこの頃が一番好きかなあ。『袋小路』とかもいいですよね。『反撥』はナーブスリラーなのに、なんの脈絡もなく路上ジャズ・バンドを出現させて主人公につきまとわせたりする茶目っ気が好きです。オープニングが目ン玉のドアップだと名作の法則を確立した一作。
 
『101匹わんちゃん』、俗に犬を映画に一匹出すごとに自乗して傑作になっていく、といいますが*3、その伝でいくと仮に5つ星だとして5の101乗の星が輝く大名作ということになります*4。ライザーマン時代のディズニーはタッチがすばらしいですよね。今観てもモダンでフレッシュ。『バンビ』の官能とはまた別の快楽がある。
 

1970年代

1.『ナッシュヴィル』(ロバート・アルトマン
2.『ジャッカルの日』(フレッド・ジンネマン
3.『ロング・グッドバイ』(ロバート・アルトマン
4.『仁義なき戦い』シリーズ(深作欣二
5.『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル
6.『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー
7.『地獄の逃避行』(テレンス・マリック
8.『チャイナ・タウン』(ロマン・ポランスキー
9.『サスペリア』(ダリオ・アルジェント
10.『デュエリスト』(リドリー・スコット

A.『フリッツ・ザ・キャット』(ラルフ・バクシ


 他の年代は割と序列がはっきりしてますけれど、70年代はあんまりそういうのがないというか、上にも下にも飛び抜けたものがありません。
 でもやっぱり『ナッシュヴィル』は特別かな。群像ドラマとしては後の『ショートカッツ』とか、弟子のポール・トーマス・アンダーソンの初期作のほうが洗練されてますけれど、『ナッシュヴィル』はラストがね、ラストがほんとうにいいんですよ。もともとダメだったものたちが本当に完膚なきまでになにもかもダメになってしまったけれど、みんなそれに目を反らして生きていくんだな、という諦念と前向きさとの間にあるような不思議なかんじは唯一無二。それに歌がいい。総体的にも歌がいい。

 それにしても孤独な男がひとりでトボトボ歩いている映画が多いですね。二人でなんとかやっている作品は『地獄の逃避行』くらいでしょうか。しかも、あんまりみんな胸を張っているイメージではない。『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド、『チャイナタウン』のジャック・ニコルソン、『デュエリスト』のハーヴェイ・カイテル……みんなくだびれていてさびしげです。ベトナム戦争を経て、アメリカの男たちはみんな疲れてしまったでしょうね。そんな中で南米から飄々とやってきたホドロフスキージョン・レノンを筆頭としたアメリカ人たちに熱狂的に迎えられたのも、ある種の逃避だったのか。
 『サスペリア』は『2』にするかどうかでかなり迷ったんですよ。どちらもベクトルの違うおもしろさで、そもそもシリーズですらありませんが。

 『スティング』いいですよね。なんかどこかでシネフィルだか秘宝読者だかにコケにされてましたが、なぜあの手の方々(主語)は『ニュー・シネマ・パラダイス』だとか『レオン』だとか『ライフ・イズ・ビューティフル』を貶すんでしょうか。どれも良い映画じゃないですか。
 

1980年代

1.『ロジャー・ラビット』(ロバート・ゼメキス
2.『アリス』(ヤン・シュヴァンクマイエル
3.『笛吹き男』(イジー・バルタ)
4.『アナザー・カントリー』(マレク・カニエフスカ)
5.『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック
6.『狂い咲きサンダーロード』(石井聰互)
7.『ホワイト・ドッグ』(サミュエル・フラー
8.『食人族』(ルッジェロ・デオダート)
9.『終電車』(フランソワ・トリュフォー
10.『動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー

A『となりのトトロ


 屈指の激戦区。実質アニメ作品が三本くらい入ってるようにも見えますが、気にせんといてください。『ロジャー・ラビット』は半分は実写だし、『笛吹き男』には実写のネズミが、『アリス』の主人公は実際の女の子だからセーフというルールです。
 『ロジャー・ラビット』はおそらく映画史に残る傑作というわけではないでしょうし、ライブアクションと2Dアニメの融合という意味では『メリー・ポピンズ』はもちろん下手すればジョー・ダンテの『ルーニー・テューンズ/バック・イン・アクション』にすら勝ってるかどうか怪しいんですが、まあアニメキャラがわちゃわちゃ出てきてアホくさくてとにかく楽しいんです。楽しいって大事ですよ。エンタメですからね。
 楽しいという基準で行けば『笛吹き男』なんか最高に楽しくない映画の一つでしょう。「ハーメルンの笛吹き男」を題材にしてストップモーションアニメでまあとにかく暗いのなんの。画面が暗いし話もドス暗い。人間は絶望するしかないんだなって思う。ソ連とかチェコとかの旧共産圏のアニメってマーケティング的にはかわいさで売ってるくせに、なんか暗澹たる雰囲気のもの多いですよね。でもベクトルがプラスにしろマイナスにしろ、圧倒的な迫力で押し切られたら降伏するしかありません。
 『アリス』、『フルメタル・ジャケット』、『アナザー・カントリー』、どれもカット単位のエロティックさがヤバいです。それぞれ質的に異なる手触りですが、物語だとかテーマだとかそういうものとは別のところで永遠に観続けられるアレがある。
 『ホワイト・ドッグ』は犬映画を語る上では欠かせない一本です。別にここでは語りませんが。『食人族』とセットで観ると明日から「人間は野蛮なのだ……
わるい文明なんだ……」というアルテラさん気分で生きていけます。滅ぼしましょう。
終電車』、作品要素的にも螺旋階段だとか電話だとかトリュフォー映画の集大成みたいなものです。トリュフォーのなかでは一番好きかもしれない。そういえば『動くな、死ね、甦れ!』の感触は『大人は判ってくれない』に似てる気がします。
 ヘルツォークの『フィッツカラルド』が最後まで粘っていたんですが、内容あんま覚えてないし、『食人族』に負けました。メッセージはナレーションで入るくらいわかりやすいほうがいいですね。そのおかげで作ってるほうも絶対こんなおためごかし信じてるわけないと知れますから。
 『狂い咲きサンダーロード』は元祖ウテナ。人間がバイクになります。
 
 アニメ枠はいよいよ選ぶのが難しくなってきましたね。ディズニーは斜陽期ですが日本勢が元気で、『ビューティフル・ドリーマー』、『AKIRA』、『ニムの秘密』、『ドラえもん のび太の大魔境』、宮﨑駿、どれもいいような気もするし、どれでもいいような気もする。でもコンサバなので、『トトロ』で。


1990年代

1.『エド・ウッド』(ティム・バートン
2.『約束 ラ・プロミッセ』(ドニ・バルディオ)
3.『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(ヘンリー・セリック
4.『コルチャック先生』(アンジェイ・ワイダ
5.『許されざる者』(クリント・イーストウッド
6.『フルスタリョフ、車を!』(アレクセイ・ゲルマン
7.『ブギーナイツ』(ポール・トーマス・アンダーソン
8.『ファーゴ』(コーエン兄弟
9.『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー
10.『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(ロバート・ロドリゲス

A.『少女革命ウテナアドゥレセンス黙示録』(幾原邦彦


 日本映画が入ってませんが、単に絶望的なまでに観てないだけです。
 1~4までは他の年代だったらどれもトップに置いたでしょうね。『ラ・プロミッセ』はかなり昔に一回観たっきりなので思い出補正入ってるとおもうんですが、それでもやはりラストシーンのエモさは屈指だと思います。エモいラストシーンといえば『コルチャック先生』も。なんか最後でエモくなればオッケーになる病気だな、というのはうすうす自覚しているところでもあります。
 っていうかまあリストの上半分はエモい作品ばかりです。下半分はなんというか……人が死んでますね。いや、『ファイト・クラブ』は死んでないけど、精神的にさ。
 『ファイト・クラブ』はとても哀しいお話です。それはそれとしてブラピやジャレッド・レトと殴り合うエドワード・ノートンはいいものです。
 『フロム・ダスク・ティル・ドーン』は何が良かったのか今となってはまったく思い出せないんですけど、鑑賞当時の自分のメモを観てみると「100点!」とあるので100点だったんだと思います。過去の私に免じてエモと人死にが高度に結びついた傑作であるところの『プライベート・ライアン』を押しのけて10枠に滑り込みました。イイ話だな。
 『エド・ウッド』もね、ほんとにイイ話なんですよ。要約すると「どんなに下手の横好きであろうと、自分の好きを貫くことが尊いんだ(報われないけどね)」というお話で、要するに『ユリ熊嵐』ですね。そうか? キチガイにやさしい数少ないアメリカ映画。父親と若いして以降のティム・バートン映画はどれも(『ビッグフィッシュ』とかね)好きです。


 アニメは『もののけ姫』か『ウテナ』か『ライオンキング』か。90年代はいつのまにか「エモさ」がテーマになっているようなので、エモ成分の一番強い『ウテナ』でいきましょう。

2000年代

1.『ファンタスティック Mr.FOX』(ウェス・アンダーソン
2.『コラテラル』(マイケル・マン
3.『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ
4.『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン
5.『その土曜日、7時58分』(シドニー・ルメット
6.『カンフーハッスル』(チャウ・シンチー
7.『ノー・カントリー』(コーエン兄弟
8.『エレクション』二部作(ジョニー・トー
9.『ミュンヘン』(スティーブン・スピルバーグ
10.『かいじゅうたちのいるところ』(スパイク・ジョーンズ

A.『千年女優』(今敏

 まあ迷いますよね。2000年以降はね。現代っ子ですからね。
 オールタイムベストの『ファンタスティックMr.FOX』は揺るがないとして、あとはどう選んだものか。コーエン兄弟とかPTAとか他で入れたんだからエドガー・ライトとかサム・メンデスとかハネケとかに目を向けるべきではないのか。
 それでも欲望のおもむくままに選ぶとこういう感じになってしまう。業ですな。
 なんか色んな意味で説教映画が多い気がします。みんな説教してもらいたいんでしょう。ある日あなたの前に殺し屋のトム・クルーズや殺し屋のハビエル・バルデムやナチぶっ殺し隊のブラッド・ピットが現れてあなたに説教をし、そして殺す。ブラピは特に説教せずに殺してるだけだったな。あとダニエル・デイ=ルイスがおまえのミルクセーキを吸いに来る。
 『Mr.Fox』、『コラテラル』、『その土曜日』あたりは「なんとなくそれなりに生きてるけど、おれの本当にやりたかったことなんなのかなあ……」映画でもあります。どれも大惨事になりますが。『その土曜日』のフィリップ・シーモア・ホフマンフィリップ・シーモア・ホフマン然とした情けなさでいい感じですが、2000年代のフィリップ・シーモア・ホフマンなら『カポーティ』も良い。ハマりすぎて逆にフィリップ・シーモア・ホフマン感ないですが。
 『カンフー・ハッスル』は生まれて初めて映画館で二度観た思い出の作品です。イイ話枠。
 ジョニー・トーはマジ迷いますよね。『エグザイル』、『ブレイキング・ニュース』、『柔道龍虎房』……別に1から10まで全部ジョニー・トーで埋めてもよかったんですが、コンサバなのでそういう冒険はできないタチのです。しょうがないので人が一番死ぬ作品を選びました。
(追記:『フィクサー』を『ミュンヘン』と入れ替えました。)

 『千年女優』はアニメ映画のなかでもマイオールタイムベスト。今敏、生き返らねえかなあ。


2010年代

 あと二年半くらいあるけど、すでになんか各年代の三倍くらいパンパンで選べなくなってる……。


90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

*1:自分的にはけっこう衝撃的な割合で、自分は映画が好きというより映画館に居るために映画を観てるのかな……などとドン・デリーロの小説みたいなことを考えました。

*2:ただし観たのは「新世紀修復版」のほう

*3:今考えた

*4:作中では101匹より多いから本当はもっといく

2017年上半期の映画ベスト20とベストな犬

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トップテン

1.『20センチュリー・ウーマン』(マイク・ミルズ監督、アメリカ)

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 佐々木敦は腐す意味で「オシャレなアメリカ文学みたい」と評したけれど、逆にオシャレなアメリカ文学みたいな映画以外にこの世に何があるっていうんだろうか。
 わたしたちはオシャレなアメリカ文学みたいな家族に囲まれたオシャレなアメリカ文学みたいな青春時代をオシャレなアメリカ文学みたいなカットバックやヴォイス・オーヴァーで振り返りたかったし、そもそも憧れるためにアメリカ映画を観るのであって、そこにオシャレがなければ憧れもないんじゃないの。
 それはそれとして、オシャレであるかどうかは別にして、個人的にああいう語り口に弱いのはたしかです。ああいうの、というのはつまり、不意に入ったナレーションで登場人物が未来の自分自身の死について語るようなやつ。フィクションでしかつけないウソです。
 すがすがしいルックのわりには終わりはわりと「けっきょく人間無理なことは無理なんだよ」的なビターさで、そのへんは存外『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の手厳しさに似ている。ある種の前向きさも含めて。
 あと、カリフォルニアが舞台ってだけで陽光で勝てるからいいですよね。
 

2.『お嬢さん』(パク・チャヌク監督、韓国)

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 劇場版ウテナ。松田青子もそう言っている。
 サラ・ウォーターズ原作でパク・チャヌクが撮る、と聞いたときは、どう考えても変な映画しかできないけど大丈夫か? と危惧したものだけれど、実際とてつもなくへんてこな映画ができちゃって微笑ましいことです。
 基本、フェティッシュですね、フェティシズムですね。こまやかなものも、おおざっぱなものもぜんぶひっくるめて。
 前者の最高峰は風呂に入ったお嬢様の歯を侍女である主人公がヤスリで削るシーンで、あの耽美さは誰にも真似はできない。
 

3.『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督、日本)

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 中村悠一のキャラデザと森見登美彦の物語が湯浅政明の特質に最高にマッチしているのは『四畳半神話大系』ですでに証明されていたわけであって、そういう意味では安心して観られるファンタジー。快楽しかない。

4.『哭声/コクソン』(ナ・ホンジン監督、韓国)

 もちろん真っ裸で生肉を食う國村隼のビジュアルもちょうおもしろいんですが、それがけして出落ちに終わらなくて『お嬢さん』とおなじくエクストリームな新天地へ観客をいざなってくれる。方向はぜんぜん違うけど。
 最初は韓国映画によくあるど田舎刑事ものっぽいかんじではじまるんですけど、途中から白石晃士みたいな呪術師合戦(「殺を打つ」というとてもいいワードが出てくる)となり、最後は不吉なリドルストーリーで終わるんで、やっぱキリスト教をバックグラウンドに持ってる国は強いなあ、とおもいます。

5.『アイ・イン・ザ・スカイ』(ギャビン・フッド監督、イギリス)

 サスペンス映画としては今年一番じゃないかなってくらい、とにかくサスサスしてる。中東のテロリストたちを見張る現場が直接的なスパイサスペンスである一方で、それを見守る政治家たちがテロリストを爆撃するしないの判断にきゅうきゅうとするところもまたサスペンスであって、まあ、色んなレイヤーで色んな種類のサスペンスがたのしめてお得感あります。
 そういう緊張感を支えるうえで古典的な「見る-見られる」のドキドキ演出が作劇に一本筋を通していて、とても骨太なエンタメにしあがっています。

6.『美しい星』(吉田大八監督、日本)

 話自体は箸にも棒にもかからないんだけど、だからこそというべきか、オーバーな演出がうまくハマっている。モブにちゃんと表情があって動いている映画はいい映画ですよね。 

7.『グリーン・ルーム』(ジェレミー・ソルニエ監督、アメリカ)

 密室に閉じこめられた若者たちに満腔の殺意をもってハゲどもが襲い掛かってくる尺にしてだいたい90分のよくあるサバイバルスリラーかと思いきや、そこは『ブルー・リベンジ』のジェレミー・ソルニエ、クライマックスがおそろしくフレッシュ。
 イヌの使い方もちゃんとこころえている。

8.『沈黙/サイレンス』(マーティン・スコセッシ監督、アメリカ)

 「なぜそうまでして信仰を貫かなくてはいけないのか」というのはアメリカ映画の永遠のテーマで、その根底にはイエス・キリストの生涯がある。
  人間が自分なりに信仰を発見していくのはいいものです。ガーフィールドが神の声を聴くシーンはなんどみてもいい。

9.『セールスマン』(アスガー・ファルハディ監督、イラン)

 構成やモチーフ(ドアや密室)の使い方は『別離』や『ある過去の行方』とぶっちゃけ大差ないんだけど、作を重ねるごとに洗練されてきているとおもう。
 キャラクターごとの情報コントロールの繊細さは高度に発達した日米のエンタメ業界にも観られないレベルであって、アメリカあたりでちょっとミステリ映画撮ってもらいたいものだけれど、監督のキャラ的に無理かなあ。

10.『ラビング 愛という名の二人』(ジェフ・ニコルズ監督、アメリカ)

 ジェフ・ニコルズは今年はDVDスルーで『ミッドナイト・スペシャル』も出ましたね。そちらもなかなかいいかんじです。
 しかし、どちらかというと『ラビング』か。ジョエル・エドガートンをはじめとした役者陣のたたずまい(べんりなことばだ)もよろしいんですが、演出面でも非常に(アメリカ映画的な意味*1で)筋が通っていて、安心して観られる一本です。 
 

+10

11.『レゴ(R)バットマン ザ・ムービー』(クリス・マッケイ監督、アメリカ)

 DC映画のなかではいちばん好き。バットマンの重要要素のひとつである「孤独」についてとことんつきつめた作品でもある。

12.『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(ケネス・ロナーガン監督、アメリカ)

 観た直後はそんなでもないんだけれど、日が経つにつれてあれこれ考えてしまう系。やはり最後のキャッチボール。

13.『帝一の國』(永井聡監督、日本)

 こういう観客をバカにしていないコメディがちゃんと評価されてちゃんと興収を稼いでいるのは健全でいいなあとおもいます。

14.『ハクソー・リッジ』(メル・ギブソン監督、アメリカ)

 三幕構成というか実質四幕なんだけれど、最近の映画でここまでちゃんとパッキリ構成を割っているのもめずらしい。

15.『ナイスガイズ!』(シェーン・ブラック監督、アメリカ)

 コメディセンスがツボに入った。ちょっと長いけどね。事件に巻き込まれるガキが無能でない点で珍しいハリウッド映画。

16. 『はじまりへの旅』(マット・ロス監督、アメリカ)

 家族映画。ラストカットがとにかくいい。

17.『パトリオット・デイ』(ピーター・バーグ監督、アメリカ)

 銃撃戦がいいと聞いて観に行ったらたしかに銃撃戦がよく、その他の点でもソリッドな出来。

18.『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、アメリカ)

 SF映画でこのルックが実現できればまあ勝ち戦ですよね。しかしヴィルヌーヴっておもしろいはおもしろいんだけど、いつもアメリカでの評価から-10点されたくらいな印象なのはどうしてなのか。

19.『夜明けを告げるルーのうた』(湯浅政明監督、日本)

 映像ドラッグという観点からはちょっと惜しいところを残した。

20.『ジョイ』(デイヴィッド・O・ラッセル監督、アメリカ)

 O・ラッセルのなかではいちばん好きかも。


その他良作メンション:

『22年目の告白 私が殺人犯です』(入江悠)、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー・リミックス』(ジェームズ・ガン)、『テキサスタワー』(キース・メイトランド)、『くすぐり』(デイヴィッド・ファリアー、ダイアン・リーヴス)、『この世に私の居場所なんてない』(メイコン・ブレア)、『スモール・クライム』(E・L・カッツ)、『ジョシーとさよならの週末』(ジェフ・ベイナ)、『ノー・エスケープ』(ホナス・キュアロン)、『人生タクシー』(ジャファール・パナヒ)、『スウィート17モンスター』(ケリー・フレモン・クレイグ)、『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス)、『フリー・ファイヤー』(ベン・ウィートリー)、『ラ・ラ・ランド』(デイミアン・チャゼル)、『エリザのために』(クリスティアン・ムンジウ)、『こころに剣士を』(クラウス・ハロ)、『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』(ティム・バートン)、『ワイルド 私の中の獣』(ニコレッテ・クレビッツ)、『無垢の祈り』(亀井亨)、『王様のためのホログラム』(トム・ティクヴァ)、『モアナと伝説の海』(ロン・クレメンツ、ジョン・マスカー)、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(ジャン=マルク・ヴァレ)、『ジャッキー ファーストレディ 最後の使命』(パブロ・ラライン)


ベスト・ドッグ

1.『ノー・エスケープ』のベルジアン・シェパード・ドッグ・マリノア
 国境でメキシコからの不法移民をハントするじじいに飼われている忠実なトラッカー。ジジイとの別れのシーンは涙なしでは見れず、観客はみな凶悪なメキシコ不法移民への怒りをあらたにするだろう。


2.『ワイルド 私の中の獣』のオオカミ
 職場でのストレスからメンタルの狂った女に拉致監禁されるかわいそうなオオカミ。換金された部屋で暴れてウンコを垂れ流すオオカミと女との駆け引きが見もの。


3.『コクソン』の黒いイヌ
 韓国の名も無き村へやってきた謎の異邦人、國村隼の飼い犬。連続殺人事件を調べに来た刑事を撃退するなどの活躍を見せるも、最期は逆ギレした刑事に撲殺される。以て瞑すべし。


4.『夜明けを告げるルーのうた』のワン魚
 捨て犬が人魚に噛まれて半イヌ半魚になっちゃった。劇場でこれのワッペンがついたペンケース買いました。


5.『グリーン・ルーム』のシェパード
 ネオナチのパトリック・スチュワートに使嗾されて主人公たちをおいつめるイヌ使いの飼い犬。なぜか劇中でイヌ使いのイヌに対する愛情がこまかに描写されたりもする。

*1:家というモチーフに家族の絆を託すところとか

Brigsby Bear、ならびに監禁映画と毒親マンガの流行

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今観たい映画ナンバーワン

 wikipediaに載っているあらすじをそのまま訳すと以下のようになる。


 ジェイムズ・ポープは赤ん坊のころに病院から誘拐され、以来子供時代から大人になるまでずっと地下シェルターで『ブリグズビー・ベアー』以外のことを一切知らずに生きてきた。『ブリグズビー・ベアー』とは両親になりかわった誘拐犯夫婦によって制作された架空の子供向けTVショーのことだ。
 ある日、ジェイムズはシェルターから助け出される。現実世界へと放り出された彼は『ブリグズビー・ベアー』が実際の子供向け番組ではなかったと知る。
 他にも色んな出来事につぎつぎと直面し、困惑極まってしまうジェイムズ。彼は『ブリグズビー・ベアー』の映画版制作を決意し、この現実世界で学んだことを映画によって語ろうとするが……。


 なんのあらすじかって、今月末に全米で公開される新作映画『Brigsby Bear(ブリグズビー・ベア)』のあらすじだ。
 監督はデイヴ・マッカリー。主演兼脚本のカイル・ムーニーとは幼馴染らしく、人気コメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』時代もムーニーはコメディアンとして、マッカリーは番組の監督*1としてキャリアを積んできた。そのためか、アンディ・サムバーグをはリーダーとする人気コミックバンド「ロンリー・アイランド」やミシェラ・ワトキンズといったSNLの人脈がプローデューサーやキャストに活かされている。
 そしてプロダクションを担当するのはフィル・ロードクリストファー・ミラーの制作会社「ロード・ミラー・プロダクション」*2。さらに音楽を担当するのはジェフ・ニコルズ(『ラビング』、『MUD』)の盟友デイヴィッド・ウィンゴーと聞けば、この座組だけで傑作の予感しかしない。
 映画批評家の評価を集計する映画情報サイト Rotten Tomatoes でも今のところ評価は上々だ。
 

 しかしまあなんといっても、私たちの乙女ごころをくすぐるのはストーリーと設定だ。
 聞いてるだけでワクワクするような展開で、ティーザー予告に出てくる「こんなプロット観たことねえ!」という賞賛コメントはけして過褒ではない。総体としては。


www.youtube.com


 あくまで、総体としては。


誘拐され、監禁され、奪われて

 部分部分はどこかで最近見たおぼえがある。*3
 地下シェルターに監禁されて誘拐犯からとんでもない法螺を吹き込まれた子どもがエキセントリックな人物に成長してしまうのは、TVドラマアンブレイカブル・キミー・シュミット』(2015-)だし、
 生まれたときから外の世界との接触を禁じられフィクションだけを見て育ったこどもが、はじめて触れた現実世界のカオスを映画制作によってセラピー的に乗り越えようと試みる展開はドキュメンタリー『ウルフ・パック』(2015、クリスタル・モーゼル監督)だ。
 監禁ものだとアカデミー賞にもノミネートされた『ルーム』(2015、レニー・アブラハムソン監督)なんてのもあった。
 いずれもここ一、ニ年の作品だ。
 
 これら三作は共通して、長期間の監禁生活を強いられたこどもたちを描いている。*4しかし、『隣の家の少女』(2007、 グレゴリー・M・ウィルソン監督)のように監禁生活そのものの描写をメインとはせず、むしろ監禁から脱したあとのこどもたち(あるいは元こどもたち)がどう社会に適応していくかを主眼に置いている。つまりは、青春を理不尽に奪われ、他者と関わることが一切なかったピュアな人々が、どうやってサヴァイブしていくのか、だ。



アンブレイカブル・キミー・シュミット予告編 - Netflix [HD]

 14歳からの15年間の監禁生活を経て社会復帰した『キミー・シュミット』のキミーはニューヨークという世界でも有数の最先端都市で、トランスジェンダーの黒人デブとルームシェアしながら少しづつ現代社会を学んできて、数々のトラブルを引き起こしながらもNY生活に馴染んでいく。



映画『ルーム』予告編

 『ルーム』の主人公ジョイは誘拐犯にレイプされて子どもを産み、5歳になった彼の助けを借りて監禁部屋からの脱出に成功する。幼い息子は大した苦労もなく常識のギャップを埋めていき、すぐに世間に適応するのだけれど、24歳のジョイにはそれが果てしなく困難だ。マスコミを含めた世間からの好奇の目、野蛮な犯人から「傷物」にされてしまった娘に対する親の視線、その犯人の子を産んでしまったこと……そうしたストレスにジョイは圧しつぶされそうになる。



The Wolfpack | Trailer | New Release

 『ウルフ・パック』では親からようやく外に出ることを許された兄弟たちの長男坊がいさんで働きに出る。しかし、子どものころから他人との会話を映画でしか学んでこなかった長男の喋り口はどこか芝居がかっていて不自然だ。まともな若者同士の会話ができない。そのため彼は徐々にバイト先で疎外感をおぼえだす。
  

 wikipediaのあらすじを読むかぎり、Brigsby Bear もこれら三作品のような「世間との齟齬」にさらされるのだろう。


なぜアメリカ人は適応の物語を描くのか

 なぜこうした「監禁から解放&適応」ものが近年立て続けにアメリカで撮られるようになったのだろう。


 理由はいくつか考えられる。

 まず思いつくのは、「社会とのディスコミュニケーションと適応は普遍的なテーマだから」だ。
 長期間の誘拐監禁という一見過激で極端な設定に何かと眼を奪われがちになってしまうけれども、そこを抜きにして眺めれば「ルールがわからないまま社会に放り出されて、それでもそこでコミュニケーションをとって生きなければならない」という誰でも経験する社会化のプロセスが浮き上がってくる。
 映画のキャラクターたちは常に観客のディサビリティやコンプレックスが増幅した形で現れる。だからこそ感情移入の対象となりやすく、設定そのものが現実離れしていたとしても共感を呼ぶのだ。
 ちなみに「それでも生きなければならない」という課題は、同じく監禁・偽の物語・解放を扱ったディストピアSF『アイランド』マイケル・ベイ監督)や『わたしを離さないで』マーク・ロマネク監督)における「それでも死ななければならない」という課題とは真逆の問題設定だ。現実世界は死を強制してくるがゆえにおそろしいのではなくて、生存を強制してくるがゆえにむずかしい。


 もうひとつは、逆に「長期間の誘拐監禁にこそ普遍性がある」という観方。

 日本でもこのところエッセイ漫画の分野で『カルト村で生まれました。』(高田かや)や『ゆがみちゃん』(原わた)といった、いわゆる「毒親」によって子供としての大事な時期や青春を奪われた人々の体験記が人気を博しており、『みちくさ日記』(道草晴子)などの精神病闘病記もなどを含めて人生サバイバルエッセイとでも呼ぶべきサブジャンルを形成している。

 病んだ家族や共同体によって可能性を奪われてしまうこどもの話は昔から映画でもよく描かれてきた。サブジャンルの「機能不全家族」もののさらにサブジャンル」といったところだろうか。
 「毒親」概念に最も近い作品といえば、古くは実在の人気女優による児童虐待をもとにした『愛と憎しみの伝説』(1981、フランク・ペリー監督)、最近では昨年のアカデミー賞にノミネートされた『フェンス』デンゼル・ワシントン監督)あたりだろうか。どちらもフォーカスしているのは親のほうではあるけれど。*5

 むしろ日本の「毒親」エッセイまんがに近いのは『フェンス』をおしのけてアカデミー作品賞を果たした『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス監督)なのかもしれない。
 まさに「毒親」とゲイを抑圧する世間に挟まれて青春を喪失し、過去の傷を抱えながら独り立ちする男の話だ。*6


ブラッド・ピット製作総指揮!映画『ムーンライト』予告編



 日本の「毒親」ものと監禁&解放もの(呼び方がコロコロ変わるな)の共通点は「根深いトラウマを植え付けられたうえに、一般的な常識や教育を欠いたまま大人になって社会へと放り出される(自分の意志で脱出する)」点だ。
 悲しいことに似たようなトラウマを背負ったこどもたちはたくさんいて、あるいはトラウマとまではいかずともどこかで他者に自分の可能性を理不尽に奪われたという記憶を抱える人たちもいて、だからこそ「毒親」ものや監禁&解放ものの子どもたちに感情移入してしまう。


 どこかで監禁され、レイプされ、何かしらの可能性を奪われてしまった子ども時代の感覚。その責任を実際問題として他者に求めることに正当性があるかどうかは別にしても、感じてしまう心はどうしようもない。
 負った傷を癒す方法はいくつか存在する。
 フィクションを描く、というのもそうした手段のひとつであり、だから Brigsby Bear の主人公も映画を撮ることになるのだろう。たぶん。観てないのでわからんが。観ないとわからないよ、そういうことは。
 というわけで、ソニー・ピクチャーズさんはすみやかに本作を日本に持ってくるように。DVDスルーでもいいからさ。


ムーンライト スタンダード・エディション [Blu-ray]

ムーンライト スタンダード・エディション [Blu-ray]

カルト村で生まれました。

カルト村で生まれました。

*1:全体のディレクターではなく、スケッチと呼ばれるコント単位での監督

*2:ロードとミラーはプロデューサーも兼任

*3:wikipediaに書かれたあらすじはおそらく導入部かせいぜい中盤までの展開にすぎないだろうし、もしかしたら終盤に「みたこともない」衝撃の展開が待ち受けているのかもしれない。ここで言及するのはプロット全体の話ではなく、あくまで上記の wikipediaの記述部

*4:『ウルフ・パック』は劇中で明言されないが、あきらかにヒッピーの親が強制的にこどもたちを監禁状況に置いている

*5:書き終わってから『塔の上のラプンツェル』も毒親と監禁の話だったよなあ、と思い出した。そういえば、ギリシャにも『籠の中の乙女』なんて珍品があったけれど、あれは色々特殊すぎるので……

*6:もちろん喪失しっぱなしではなく、回復こそ重要になってくるのだが、そこを書くとネタバレになるので


『ジョン・ウィック:チャプター2』について:ギリシャ神話・背中・亡霊・犬

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ジョン・ウィック:チャプター2』("John Wick: Chapter 2"、チャド・スタエルスキ監督)


『ジョン・ウィック:チャプター2』予告編 #John Wick: Chapter 2



(以下は『ジョン・ウィック2』を既に観た人向けの完全にネタバレなやつです。
 まだ観てない人は、7月21日現在そろそろマジで上映が終わりそうなので、
 映画館で今すぐ『ジョン・ウィック2』を観ましょう)



強いオルフェ

 監督のチャド・スタエルスキは大学生の時分、ギリシャ神話にハマっていたそうで、パンフレットでは前作『ジョン・ウィック』を「冥界を旅する」物語だと明言しています。*1
 妻を亡くした男が冥界をさまようギリシャ神話のエピソードといえば、オルフェウスです。冥界へと下ったオルフェウスは、幽世の王ハデスと交渉して亡き妻をいったんは取り戻します。しかし、そのときにハデスと交わした「冥界から地上へ戻るまでの途上で決して(後ろを歩く)妻の方をふりかえってはならない」という約束をやぶってしまったがために、契約は破棄され、二度と妻に会うことはかなわなくなりました。
 

 この「振り返ってしまう男である」、という点においてオルフェウスと〈ジョン・ウィック〉シリーズの主人公ジョン・ウィックキアヌ・リーヴス)は共通しています。特に今回取り扱う『ジョン・ウィック2』では「背後」にまつわるアクションがそのままストーリー・テリングの重要な一要素をなしているといってもいい。


 まずストーリーから見ていきましょう。
ジョン・ウィック2』の前半部はどういう話か。過去から逃げようとするジョンと、その後ろ髪をつかんでひきずり戻そうとする過去の話です。


過去と言う名の運命に捕まる(by クリント・イーストウッド

 本作の冒頭部は前作の直後からはじまります。前作で妻の遺した犬を殺し、大事な車を盗んだロシアン・マフィアどもを皆殺しにしたジョン・ウィックは、車を取り戻すためにぶちころしたロシアン・マフィアのドンの弟が率いる別のマフィア組織へカチコミをしかけます。
 そこでなんやかんやあって車を取り戻すわけですが、取り戻したといっても車体はボロボロ。犬と車(が象徴する亡き妻)のために始めた復讐戦だったのに、終わってみれば犬は入れ替わり、車は廃車同然です。
 いったん戦いはじめたら引き返せないし、いったん失ってしまったものは前とおなじ状態では戻ってこないのだ、つまり妻とともにあった平穏な日常は二度と帰ってこない。そんなことが実に即物的な形で観客に示されます。


 ジョンはうすうすその事実に気づいているはずですが、しかしあらがおうとする。日常に回帰しようとふるまう。ベッドに寝そべって、妻の写真を眺めながら犬と眠る。そんな平穏な日々が可能だと思いたがる。
 まず彼は、ジョン・レグイザモ演じる車の修理工を呼び、車の修理を依頼します。
 さらに前作で家の地下室に封印されていたのを掘り起こした武器やコンチネンタルのコインの類を再び埋め、入念にセメントで塞ぎます。地味ながらも暗殺者時代には絶対戻りたくない、というジョンの強い意志が伝わってくるシークエンスです。


 ところが、セメントを詰めおわって一息つくかつかないかというところでさっそく過去が追ってくる。チャイムがなります。玄関に行くと扉には男のシルエット。来客は昔の彼の雇い主、ダントニオ(リッカルド・スカマルチョ)でした。
 彼はジョン・ウィックが忘れたい「過去」そのものの具現です。引退する時に交わした血の誓約をもちだして、ジョンに仕事を強要しようとしてくる。ジョンは繰り返し拒絶します。そして言う。


「俺はもう昔の俺じゃない。(I’m not that guy anymore.)」


 ダントニオは返します。


「おまえはいつだって変わらんさ、ジョン(You are always that guy, John.)」


 誓約とダントニオが存在するかぎり、ジョンはいつまでも that guy のままです。
 ジョンはダントニオの要求をはねつけきります。ダントニオはあきらめたのでしょうか? とんでもない。ダントニオはロケットランチャーでジョンの邸宅を木っ端微塵に破壊します。ジョンが大切にしていた妻との思い出の写真もごうごうとあがる火の手に包まれ灰となっていく
 ジョンの家はいわば、妻との思い出のよすがとなる最後の場所でした。ここを奪われてしまえば、もうジョンに戻る場所はなくなってしまいます。
 そしてジョンは暗殺者としての彼と繋がる場所ーーすなわちコンチネンタルへと帰還するのです。
 

 コンチネンタルのマネージャー、ウィンストン(イアン・マクシェーン)から誓約を守るよう諭されたジョンは、しぶしぶながらダントニオの依頼を引き受けます。ダントニオの目の上のたんこぶである姉をイタリアで葬る仕事です。
 彼はホテルのコンシェルジュ(ランス・レディック)に犬を預け、ユダヤ人の貸金庫屋(質屋?)に託してあった箱からパスポートと拳銃とコインを請け出します。そこで彼は慟哭するのです。結局戻ってしまった、と。
 ちなみにこの箱は二重底になっていて、しかけを外すと拳銃とコインが出てくる仕組みになっています。これが自宅での武器の隠し場所だった地下室のミニチュアであることは言うまでもありません。彼は常に忌むべき過去をを自らの手で掘りださなければならない。だから、苦痛を感じ苦悶をおぼえ、心がさけびだしもするんだ。
 

 イタリアにて「恐るべき幽霊」を意味する「ブギーマン」へ回帰したジョンは、地下=冥界へと戻ります。その地下世界がカタコンベ(地下墓所)であるとはなんと念の入った演出でしょうか。「地下より地上へ現れるブギーマンとしてのジョン・ウィック」はイタリア編を含め、都合三度ほど劇中で反復されていきます。
 オルフェウスと同じく妻(とともにあった穏やかな日々)を取り戻すために彼は地下を旅し、任務を実行します。実行後にはターゲットの護衛であったカシアン(コモン)の反撃やダントニオの裏切りに遭いながらも、満身創痍でなんとかコンチネンタル・ホテルまで戻ります。
 そして部屋で携帯を取り出すと、画面が割れて使用不可能になっています。その携帯は、ただの携帯ではありません。妻との大切な思い出の映像が記録された代物です。
 ここでもまた徹底してジョンの美しい過去が奪われてしまうのか……などと感傷に浸る間もなく、ふたたび醜い過去からの呼び鈴が鳴ります。ホテルの黒電話のベルです。ダントニオからです。ほとんどジョークみたいな宣戦布告。
「もしもし、ジョン。きみが怒るのは理解できる。個人的にも同情する。しかし、実の姉を殺されたのに復讐もしないとなれば、私も男としてのメンツってもんがたたないわけだしさ」
 こうして彼は地獄めいた過去へと本格的にひきずりもどされるのです。


背中に向かって声、弾丸、車

 プロット的には「過去をふりはらおうとして逆に引きずり込まれる」が前半部で三度(最初のダントニオの訪問、コンチネンタルのマネージャーによる説得、イタリアでのダントニオからの電話)描かれているのがわかりました。
 
 では細部やアクション面ではどうでしょう。
 劇中、ジョン・ウィックは何かと後ろからモノを浴びせかけられます。
 浴びせかけられるモノは、友好的な人物であれば声であったり、敵対的な人物の場合は銃弾や車のボンネットであったりするわけですが、どちらにせよジョンを過去へと引っ張る忌まわしい力であることに変わりはありません。
 見ていきましょう。


呼び止められる男

 まずジョンが武器やパスポートを請けだすためにユダヤ人の貸金庫を訪れるシーン。武器を携えたジョンは店を出ようとしますが、その背中に店主が「良い狩りを、ジョン」とヘブライ語でなげかけます。ジョンは立ち止まり、しばしののち、店主の方を振り返ります。そして沈黙したまま頷き、去っていく。ジョンにとってはいかに好意的なものであれ、暗殺者としての過去からの声であることに変わりありません。


 次に背後からジョンを呼ぶ人物はコンチネンタル・ホテルのローマ支店のマネージャー、ジュリアスです。彼はコンチネンタル・ローマの受付に姿を表したジョンを呼び止め、久闊を叙しつつも、きゅうに英語からイタリア語に切り替えシリアスな面持ちでこう訊ねます。「教皇に会いにきたのか?(Are you here for the Pope.)」
 このセリフには色々な解釈が可能だと思いますが、個人的には、ジュリアスは本気で言葉通りの意味で訊ねたのだとおもいます。ジョン・ウィックならばどんな殺しでもやってのける。たとえ、標的が大統領であろうと教皇であろうと彼はためらわない。そう信じるからこそ彼は至極真面目に敬愛する教皇の身を案じたのです(おそらく彼自身敬虔なカトリックなのでしょう)。それは同時にジュリアスがジョンを深く観察し、力量を知悉してきたことの証左です。彼もまた暗殺者としてのジョン・ウィックの証言者なのです。
 

 そして、みんな大好きイタリアのコンチネンタルで銃ソムリエに銃器をみつくろってもらうシーン。


 ここでも立ち去り際、ジョンが背中を向けるとソムリエが「ミスター・ウィック?」と呼び止めます。ジョンが振り向くと「パーティを楽しんできてください」と言う。ずらりとライトアップされてならんだ銃器に囲まれたソムリエがこのセリフをいうところは、ちょっと異世界感があるといいますか、彼もまた奈落の住人なのでしょう。ジョンはまた無言で頷いてソムリエの武器庫を去ります。*2


 彼を背後から呼び止める四人目の人物は、敵です。イタリアにおけるジョンのターゲットの護衛をつとめる男、カシアン。


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 ターゲットを仕留めて現場から脱しようとするジョンはすれちがいざまにカシアンの姿を認め、一瞬表情をこわばらせたのち、通り過ぎようとしますが、カシアンが数歩進んだところでジョンの背後から「ジョンか?」と呼び止められます。ジョンを諦めたように、あるいは意を決して振り向き「カシアンか」と応じます。あくまで表面上は旧知の人間と再会したときの会話です。しかし、カシアンの表情からはジョンがたったいま行ったことを見抜いたような、冷たい緊張感がみなぎっています。「仕事中か?」「ああ。おまえもか?」「そうだな」「楽しんでるか?(Good night?)」「おまえには悪いが、そうだな(Afraid so.)」「そうか、残念だな」
 二人を銃を抜き、真正面から撃ち合います。本格的な銃撃戦がはじまる*3象徴的な場面です。


 以後、全アサシン界が敵にまわり、彼を呼び止めるものはいなくなります。

 
 しかし、ダントニオに復讐を果たし、残骸となった家に犬とともに戻り、灰のなかから妻のネックレス(妻にまつわるものは一つ残らず失われていたとおもったのに)を発掘し、平和へのかすかな希望が芽生えかけたところで、もう一度だけ背後から名前を呼ばれます。
 声の主はコンチネンタルのコンシェルジュ、彼はジョンをウィンストンのもとへ送ります。そこでジョンは終わりなき地獄を宣告されるのです。コンチネンタルのルールを破った彼にもう平穏は訪れず、妻はもどらない。それはハデスとの約束を守れなかったオルフェウスが課せられた苦しみとおなじ罰です。


背中を撃たれる男の美学

 ジョンはよく後ろから撃たれる男でもあります。横から轢かれる男でもあります。


 冒頭のロシアン・マフィアとのカーチェイスシーンでは愛車の側面に敵の車をぶつけられること二度、ついに運転席から放り出され、素手による近接戦闘を強いられます。そして三度目の衝突としておそいかかる車を回避して難局を切り抜けます。

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 カタコンベを抜けたあとのカシアンとの戦闘でも横から車で轢かれていましたね。敵にとっては呼び止めるより、撃ったり轢いたりするほうが礼儀作法にかなった挨拶なのです。
 その証拠に、ニューヨークでの暗殺者勢のひとり、路上ヴァイオリニストの女は最初の弾丸をジョンの背中に見舞います。それより前だとカタコンベの戦闘の後半部でも雑魚に後ろから撃たれて当たっていましたね。*4無敵の防弾スーツを着用しているジョンだからこそ可能なコミュニケーションです。*5
 

 そうした暴力に対して、やはり彼は「振り向」かざるをえません。背後から発される暴力は彼を常に暴力そのものへと引き戻します。


カシアンという男の特異性

 常に背中を見せる男だからこそ、ジョンが最初から正面切って視線を交わす人物は貴重です(コンチネンタルのウィンストンでさえ、本作ではじめてジョンと会うシーンでは視線がすれちがっていたことを思い出しましょう)。そうした人物というと、コンチネンタル関連の人々(特にコンシェルジュシャロン)、ローレンス・フィッシュバーン演じるホームレスの「キング」といった面々が挙がりますが、しかしなにより本作でジョンとの視線のやりとりが印象的なキャラといえば、カシアンでしょう。
 最初こそすれちがいかけた二人ですが。互いに敵と認めあってからは編集的にもカシアンの視線が強調されます。
 特にNYでの駅前の噴水をはさんで互いに長い間見つめ合うシーンは舞台を含めてほとんどメロドラマ的なエモーションすら感じます。そして、駅構内のひそやかな撃ち合い、プラットフォームを挟んでの凝視合戦、からの電車内での格闘……これらのシークエンスのあいだ、二人が互いに視線を外す瞬間はほとんどありません。カシアンは視界からジョンが消えたら群衆をかきわけてジョンを探し、ジョンは自分を探すカシアンを見出します。なんというロマンス。なんというリレーションシップ。


 カシアンは亡霊を直視することができるからこそ、ひとやまいくらの雑魚暗殺者とは異なり、ジョン・ウィックのライバルたりえるのです。
 そう、ジョン・ウィックを殺せる角度は〇度のみ、真正面から対峙したときのみ、互角の戦いが可能となります。
 それをできるのは『ジョン・ウィック2』ではカシアンと、現代美術館の鏡の間で扉をあけて登場したさいの西宮硝子(ルビー・ローズ)だけですね。カシアンも硝子も最終決戦にナイフで挑み、ふたりとも同じような部位をさされて敗北しました。刺したあとの扱いの差に、ジョンの愛情格差が垣間見えます。

亡霊は常に階下から

 さきほど、ジョンのことを「亡霊」と呼びました。なぜ彼は亡霊なのでしょう。それは設定やセリフによってではなく、行動と演出によって定義されます。

 劇中で「暗殺」を行うとき、彼は地下を経由します。イタリアではカタコンベを通過し、ターゲットであるダントニオの姉に近づきました。
 ニューヨークではやはり地下から美術館へと現れてダントニオに接近しました。
 もうひとつ、「下から上がってくる」画があって、それはラストのウィンストンとの最後の話し合いが終わってからNYの街へ出る時のシーンです。それまでは地下鉄やカタコンベのように地下こそが地獄であったのに、コンチネンタルを追放されてからは地上も地獄に変わってしまう。いっそう彼の依るべなさが際立ちます。

 ジョンが亡霊であることを示す演出はもうひとつあります。鏡です。
 前項でジョンに向けられる視線の話をしましたが、ジョンに殺される人物ーーダントニオとダントニオの姉ーーはどちらも鏡を介してジョンの姿を視認します。直視ではありません。心霊写真等が示すように、幽霊や怪異とは古今東西、人間の眼よりは鏡やレンズといって無機質な物質にこそ投影されるものだという信仰があります。*6ジョン・ウィックが直視できない存在だとしたら、それを視るためには鏡を利用するしかない。クライマックスでの美術館鏡屋敷コーナーでの戦闘は非常に多義的な意味を持つとおもいますが、一面ではそこが唯一亡霊を捉え、殺せる場であるからかもしれません。*7


 一方でジョンはNY篇から徹底して「一方的に視られる」側の存在にもなります。しかし見えるからといって殺そうとしても殺せない。逆に殺されてしまう。彼自身視られることをあまり気にしてるふうではありません。

 しかしラストシーンでウィンストンと別れて公園の階段をあがると、彼はものすごく他人からの視線に怯えるようになっている。
 それまでのジョン・ウィックには、なにもかも失ったように見えて、なんだかんだでコンチネンタルというラストリゾートが存在しました。彼はそこのVIPであり、庇護される貴種だったのです。カシアンとジョンとローマでの戦いに描写されているように、コンチネンタルとはある種の秩序でした。
 しかし、掟をやぶった彼にはもう家どころか羽根をやすめる休息所すらない。秩序なき世界で、四六時中ぶっつづけで戦いつづけなければいけないのです。
 彼は、だからこそ、犬を連れて行く。


亡霊と犬

 〈ジョン・ウィック〉シリーズにおける犬とは何を意味するのでしょう。
 第一作では間違いなく亡き妻との思い出の象徴でした。しかしその犬はむざんにも殺されてしまいます。第一作のラストで手に入れた新しい犬は、亡き妻とは縁もゆかりもない犬です。


 ではなんなのか。


 いわせてもらえるならば、第二作目の犬はジョンの帰るべき場所ではないのでしょうか。


 ジョンはイタリア行きを決断する前に、コンチネンタルのコンシェルジュに犬を預けます。彼の考えうるなかで最も安全なところに愛犬を置いたわけです。それは金庫屋に預けた武器類とは違い、また引き取りに戻るための保護でした。この時点で、彼の旅は、犬のもとから離れまた犬のもとへ戻る、という道程がひかれたのでした。
 大冒険へ出た主人を待つ犬、という構図は、ギリシャ神話に照らすならば、オデュッセウスを二十年のあいだ待ちつづけた忠犬アルゴスを彷彿とさせますね。


 かくしてサントニオをぶち殺し、血みどろの戦いが終結した同時にコンチネンタルからの追放が確定的になり、コンシェルジュから犬を引き取ります。そこからはずっと犬と一緒です。


 コンチネンタルを失ったジョンにとって、犬を置ける場所はもはや自分の身の回りしかない。『少年と犬』以来、男の子の旅の道連れは犬であると相場は決まっています。いってみよう、ぼくらといま、アドベンチャーの国へヘイ! ( ߀ ඨՕ) 人|(ㆆ_ㆆ) |


 いまや一介の野良犬となったジョン・ウィック


 さよう、〈ジョン・ウィック〉とはキアヌ・リーヴスが犬になる物語なのです。*8
 次は神犬ライラプスとなって、痛み分けに終わったカシアン=テウメーッソスの狐を追いかけるのでしょうか。いや、その場合は狐と犬が逆か。

 だいたいそんなところです。


犬にしてくれ 初回盤(CD+DVD)

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*1:ジョン・ウィック2』パンフレット

*2:余談ですが、この武器調達シーンの一幕である仕立て屋のところで「ボタンはいくつ?」「ふたつ」「ズボンは?」「細身のものを」「裏地はどうします?」「実戦用のを」というやりとりがありますが、原文では「How many buttons?」「Two.」「Trousers?」「Tapered.」「How about the lining?」「Tactical.」と、ジョンの受け答えがすべてTで頭韻を踏んでいます。だから何だと言われたらそれまでですが

*3:冒頭のロシアン・マフィア戦のメインはカーチェイスと体術でそた

*4:正面からラリアットかましてきた山本山はえらい

*5:背後から追われるのでいえば、NYの駅構内でアジア系の暗殺者二名によってはさみうちされるシーンも含まれるかも

*6:どこかの本でそう言ってた気がするが、ソースは忘れた

*7:そうした観点でいくと、鏡屋敷で雑魚が鏡に移ったジョンの姿を誤射してしまうところは意味深ですね

*8:『レヴェナント』のときに使った論法の使い回し

「なぜあなたはFGOのガチャを回すのですか」

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 不自然な弁明ではなく、解明すること。これが与えられた使命である。


   ――シュテファン・ツヴァイク、『マリー・アントワネット』(下巻、角川文庫、中野京子・訳)



 一度羽生に訊ねたことがある。


 なぜFGOをやるんですか、と。


 羽生がなかなか答えないので、きまずくなって質問をつけ足した。「マロリーとおなじ理由ですか」


 二十世紀初頭の偉大なソシャゲーマー、ジョージ・マロリー(1886〜1924)。ヴィクトリア朝課金スタイル最後の継承者と謳われた彼は「なぜFGOをやるのか」と訊かれ、こう答えたという。〈そこに物語があるからだ〉。
 FGOのシナリオを褒め称える人は数多い。たしかな構成と想像力に支えられた物語こそが凡百のソシャゲと一線を画し、iTunesのランキングで五指に入った原動力である、そんなふうに誰もが認めている。
 だから、漠然と羽生もそうなのだと考えていた。彼もシナリオがあるから、FGOをやるのだろう、と。

 だが、羽生は首を横に振った。
「違うよ。そこに物語があるからじゃない。そもそも〈そこ〉に物語なんてない。あるのはシナリオだけだ」
 素朴な疑問が湧いた。物語とはシナリオのことではないのか? だから問うた。
「じゃあ、なぜ」
 そこで初めて羽生の双眸がわたしをまっすぐに見据えた。自他両方に対する冷厳さに満ちた、ベテランソシャゲーマー特有の眼のかがやき。うっすらと開いたくちびるのあいだから、水着イベントのザリガニを思わせる、硬く、重い響きが漏れた。
「おれがガチャを回すからだ」


 羽生はその一週間後、十八体目の星五サーヴァント宝具五にアタックをかけ、行方知れずとなった。
 生きた人間は星五サーヴァントをどれだけ宝具五にしても伝説にはなれない。死んではじめて伝説となり、英雄となる。

 英雄になることとは、つまり物語そのものになることだ。他人の口から物語られるエピソード、それが伝説の定義なのだとわたしは定義したい。
 今や伝説になった彼の物語は日を追うごとに膨れ上がっていく。行方不明になる直前、前人未到と言われた宝具五サーヴァント宝具五の十八体目を達成していたらしい。どころか十九体目も達成していたらしい。無記名霊基を百基あつめたらしい。1・5章の第七部をクリアしたらしい。
 わたしは、根も葉もない噂には興味がなかった。羽生がやったかやらなかったかわからない事蹟よりも、羽生がたしかに言ったことのほうが気になった。「おれがガチャを回すからだ」。


 わたしたちは最初の十連をおぼえているだろうか。
 アプリをダウンロードし、チュートリアルをこなし、☓☓を死なせ(わたしはあの悲劇を思い出すたびに胸が切なくなり、死者をもてあそぶリヨをにくむ)、序章をクリアし、かならず特定の星4サーヴァントの含まれた十連を、最初のガチャを回す。
 その十連は、わたしたちにとって想起することのできる最初の誕生の記憶だ。羊水から浮上して産道を通り、人生で最初の賭けを張る行為をわたしたちはヴァーチャルに再演する。
 だが、そうやって生を得たあたらしいわたしたちは哺乳類ではない。鳥類だ。目が開き、世界が暗闇から光へとうつろって、そこで最初に見た人物を「親」だと認識する。その人物をわたしたちは「初期星4」と言い換えてもいい。呼び方は自由だ。わたしとしては「運命」と呼びたい。

 そう、運命だ。

 わたしにとっての「運命」はマリー・アントワネット[ライダー]のすがたをとって現れた。人生における諸々の致命的なイベントと同様に、マリー・アントワネットが現れたときにはそれが「初めて見たきんぴかのカード」以上の何かを意味しているとは思われなかった。あまりにも、なんでもなかった。

 そのなんでもなさに、わたしは愕然としてしまった。最初のきんぴかカードは、もっと特別な存在だとどこかで思い込んでしまったいた。
 ギンカの筆によって描かれたマリーはなるほどかわいい女の子ではある。戦力的な観点から言えば、クセの強いサーヴァントではあるが、育てれれば随一のねばりを発揮する。だから? それが? わたしは絵や暴力を求めてFGOをダウンロードしたわけではなかった。物語が欲しくてゲームをはじめたのだ。

 だから、彼女にむりやりに物語を見出そうとした。マリー・アントワネットをフィーチャーした第一章が、コンビニで売っている安物のテーブルワインのように薄いお話であると判明し、幕間の物語もそれ以上ではないと知るや、史実に、シュテファン・ツヴァイクに、遠藤周作に、ソフィア・コッポラに、惣領冬実に、たすけを求めた。文字で書かれたものにこそ物語がやどるのだ。そんな無垢な信仰があった。
 だが、そうしたものにマリー・アントワネットの物語は含まれていなかった。いや、精確に言えば、小説や映画や伝記に描かれたマリー・アントワネットは1793年にフランス革命で処刑された現実のひととしてのマリー・アントワネットなのであって、FGOのマリー・アントワネットではなかったのだった。
 FGOの延長線上のマリー・アントワネットを求めるならば、二次創作などを漁るという手もあっただろう。でも、それはそれで「わたしの」マリー・アントワネットではない。わたしの運命ではない。わたしの運命でなければ、わたしの物語ではない。



 ゲームを進めるにつれ、扱いにくいマリー・アントワネットは主力パーティから外れるようになった。高レベルな敵を打倒するには、お姫様の攻撃力はあまり心もとない。わたしの手札には雷神の化身ニコラ・テスラがおり、殺す意志をもった打ち上げ花火アーシュラがおり、ゲーム中でも一二を争う破壊衝動クー・フーリン[オルタ]がいた。攻撃力がすべてだった。暴落する株価、堕落する議会政治、混迷を極める日本社会、暴力が世界を支配していた。地面から生えた手が金色の種火を落とすたび、わたしのこころは荒んでいった。フレポガチャを回さなくなった。シナリオを読み飛ばすようになった。運命や物語を信じなくなった。親愛度が七で止まったまま、マリーを忘れた。



 そんな時期に羽生と出会い、別れた。
 羽生との短い友人生活を送るあいだに、わたしは諸葛亮孔明[ロード・エルメロイIII世]を引き、エレナ・ブラヴァツキーを引き、ナーセリーライムを引いた。クラス別のきんぴかカードでは、キャスターが最多となった。
 第一部をクリアした。羽生は帰ってこなかった。
 新宿を終え、CCCコラボイベントを終え、アガルタを終えるころになっても羽生は消えたままだった。


 そうして、二〇一七年七月三十日だ。
 わたしはおぼえている。
 よく晴れた日曜日だった。ほどほどに暑く、ほどほどに湿気ていて、なんにせよ合唱するセミを殺してまわりたくなる憎悪はわかない休日だった。

 福袋ガチャの日だった。

 細かい部分を省いて説明すると、福袋ガチャでは四千円払えばタダで星5のサーヴァントが手に入る。ふだんの星5サーヴァントがたった一枚のきんぴかと引き換えに魂や人としての尊厳を要求してくることを考えれば、実に良心的なおねだんだ。なにせ、タダなのだから。

 わたしは特になにも願わずに、回した。
 欲しかったサーヴァントがいなかったわけではない。ただ、五十分の一の確率に願を掛けるほどのピュアさを保てていなかっただけだ。
 倦怠期のカップルが義務で行うセックスみたくけだるい虹色につつまれて、星5確定演出がはじまる。きんぴかのカードの背面はそれがキャスターであることを示していた。

 またキャスターだ。

 かすかな失望でこころが濁る。

 星5キャスターに強力なサーヴァントが多いのは事実だけれど、暴力性の点においては他クラスに劣る。わたしが欲しいのは暴力だった。
 しかしそれもまた人生だ。回ってしまったものは変えようがない。気持ちを切り替える。はたしてどれが来るのだろう。どれが来てもいい。
 二枚目の孔明? 不夜城? 三蔵? 玉藻? それともダ・ヴィンチちゃん? 
 マーリンが当たるとは思っていなかった。それはあまりに都合がよすぎる。ことソシャゲに関して、夢を見る趣味はない。


 だが、マーリンだった。


 マーリンか、と思った。
 ありがたくはある。トップクラスに便利な魔術師だ。声も櫻井孝宏だし。櫻井孝宏だし? でも、特別な感慨は浮かばない。わたしのなかに、マーリンにまつわる物語は用意されていない。
 彼は単なるNPと毎ターン回復を生む道具だ。


 育成用の種火と集めないといけない。
 あと輝石も。
 ああもう。どうしてこんなに術の輝石が不足してるんだ。うちには魔術師がおおすぎる。こんなにキャスターだけ多くてもどうしようもないのに。
 ええい、せっかくだから全員キャスターのパーティでも組むか?


 水着イベ終了で不要になったパーティセットを解散させ、空白となった枠にあたらしいサーヴァントを配置しようとする。
 手持ちのサーヴァント一覧画面を開く。
 サーヴァントはレベルの高い順に並んでいて……孔明、ジャンヌ[ルーラー]、マシュ、アンデルセェン……。
 ふと、ひらめく。

 
 これなら自前でアーツ耐久パを組めるんじゃないか?
 

 わたしは、いわゆる耐久パーティをきらっていた。耐久パを勧める人間もきらっていた。
 100ターン200ターンかけてちまちまと敵の体力ケージを削ることに快楽をおぼえるような人間には、きっとなにかしら欠陥があるに違いない、と思ってもいた。おはしをちゃんと持てないとか。twitterで会話するときはいつもポプテピピックの画像で返すクセがあるとか。かわいそうな人たちだ。


 だが、気がつけば、わたしのカルデアには耐久パに最も適したメンツがそろっていた。意識しないうちに、耐久パ用のメンツを鍛えあげてもいた。
 それなりに育ったマシュと、それなりに育ったジャンヌ。その二枚にそれなりに育てたマーリンを加えて前線に並べれば、FGO一退屈で頑丈な耐久パーティができあがる。どんな敵であろうとボスであろうと寄り切れる無敵パーティだ。最強だ。
 できあがってしまった。
 なんの予告もなく、唐突に、わたしのカルデアはここで戦力的に完成してしまった。
 ガチャを回してしまったがために。
 だが、やはりそこに物語など――。


 そのとき、わたしはまだ手持ちサーヴァント一覧画面を見つめていた。
 視界の焦点が吸い込まれるようにマリーへ合った。
 羽生のことばを思い出した。「物語はシナリオにはない」。
 最初に回した十連を思い出した。
 運命を思い出した。

 史実でも小説でもなく、FGOにおけるマリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。
 戦闘中に発揮できる彼女のスキルは三つ。一つ目は敵を〈魅了〉状態にして一ターンのあいだ行動させない能力。二つ目は、自身に敵の攻撃を三回も無効化できる〈無敵〉状態を付加し、かつ毎ターンHP回復状態にする能力。三つ目はHPを大回復させる能力。
 いずれも生き延びることに特化したスキルだ。先述したように、こと生存能力に関して彼女はゲーム中でもずば抜けている。耐久することに長けたキャラである。


 マリー・アントワネットとはどういった運命であるのか。


 わたしが最初の十連を引いたときから、彼女は予言していたのだ。
 いずれわたしが彼女のようなパーティに終着するであろうことを。
 彼女のようにしぶとく、彼女のようにやさしく、彼女のようにしたたかな六枚。それを組むことこそがわたしのFGOにおける運命なのだと。
 そして、そのパーティにマリー・アントワネット自身のすがたはおそらく、ない。魔術師たちと聖女によるアーツカードのチェインをつなげるには、クイック偏重の彼女のカード構成は邪魔になる。でも、かなしくはない。そうだろう? わたしたちは? だからこそ、だろう? だからこそ、なのだろう? それは?


「それ」はわたしの物語だ。運営の書いたシナリオでも、他人の描いた二次創作でもない。最初の十連を、さっきの十連を、ガチャを回したからこそ生じたわたしだけの物語だ。
 もう暴力は必要はない。これからもテスラやアーシュラを使いつづけるだろうが、彼らが何本手を焼いたとてわたしの魂が落ちぶれることはない。
 わたしのFGOは既に完成したのだ。


 そして完成はかならずしも終わりを意味しない。

 わたしたちは常につぎのガチャを回すことができる。つぎのつぎのガチャを回すことができる。無限にガチャを回しつづけ、無限に物語を生成できる。もちろん、金さえ払えばなにもかもタダだ。自由だ。


 つぎはどんな運命が回るのかな。
 そんなことを考えながら、わたしたちは今日もガチャを回す。
 わたしのマイルームで、レベル100の新宿の犬が、うおんとちからづよく鳴いた。
 羽生もどこかで、聴いているだろうか。



神々の山嶺(上) (集英社文庫)

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

Baby, Please Drive me. ――『ベイビー・ドライバー』の感想

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(Baby Driver, エドガー・ライト監督, 2017, 米)


 音楽が鳴っているあいだはきみも音楽。


 ――T・S・エリオット*1


 パンフレットにも載ってある「カーチェイス版『ラ・ラ・ランド』」という惹句に尽きる。ミュージカル的な快楽の点ではララを越えてさえいるのかもしれない。
 思えば常にエドガー・ライトの映画は音楽と共にあった。いまさら、『ショーン・オブ・ザ・デッド』でクイーンの「Don’t Stop Me Now」をかけながらゾンビをビリヤードのキューでたこなぐりにするシーンや、『ワールズ・エンド』でザ・ドアーズの「Alabama Song」がかかるシーンのミュージカル性を指摘するのも恥ずかしいくらい。『ホット・ファズ』でも『スコット・ピルグリム』でもエドガー・ライトはずっとビートを刻んできた。音楽は彼の映画そのものだ。


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 『ベイビー・ドライバー』の主人公、逃がし屋のベイビー(アンセル・エルゴート)にとっては音楽も車も逃避の手段であり、同時に彼自身だ。幼いころに歌手だった母親を父親ともども車の事故で亡くして以後、彼は耳鳴りを抑えるため常時イヤフォンを耳にはめ、アクセルペダルを踏んできた。

バディ 「耳鳴りを抑えるために音楽を聴いてるって、ほんとか?」
ベイビー「うん、まあね。ついでに物事*2も考えずにすむ。
バディ 「つまりは逃避だな。なるほど」
ベイビー「速く動けるようにもなる。音楽のおかげでなにもかも上手くいくんだ」

――本編より

 彼にとっての世界とは、プラスチックのイヤフォン越しに聴こえ、車のフロントガラス、あるいはサングラス越しに見えるものだ。


 グラスとイヤフォン。ベイビーはこの二つのアイテムによって世界を拒絶している。直に触れるにはあまりにハードすぎるから。イヤフォン越しでなら強盗集団のボスであるドク(ケヴィン・スペイシー)が垂れる犯罪計画(本来のベイビーは正直な正義漢だ)も聞ける。
 聴くことを視ることを拒む、というのは裏を返せば、聴かれることも見られることを嫌いだということにもなる。
 映画の後半で、ドクに命じられてイヤフォンとサングラスをオフにしたまま、郵便局に入るシーンがあったことを思いだそう。彼は耳鳴りに苛まれ、監視カメラに怯える。あるいはヒロインのデボラ(リリー・ジェームズ)に出合うまで唯一の「家族」だった里親のジョー(CJジョーンズ)が聾唖であったのを思いだそう。
 そして、なにより彼は寡黙だ。自分の言葉をほとんど持たない。デボラとジョー以外の前ではほぼ音楽や映画の引用で喋る。*3
 

 つまり音楽はベイビーと世界との関係を象徴しているわけで、 エドガー・ライトは劇中で実にさまざまな角度から音楽を使ってベイビーと外部とのつながりを描く。
 たとえば、彼はドクに秘密で周囲の人々の”イイセリフ”を録音する。その録音をもとに何に使うかといえば、カットだのヒップホップななんだのをやって独自のミックステープを作成する。そうやっておっかないギャングや通りすがりのウェイトレスといった他人を音楽化することで、自分の世界へと取り込む。*4音楽でなければ彼の世界には入れない。なぜなら彼にとって人間とは音楽、歌う母親が原型としてあるからだ(一番大事なテープには「Mom」と書かれていて、中身は母親の歌声だ)。


 
 音楽で他人と繋がる手段は他にもある。曲の共有だ。ジョーとは同じ曲を聴いてコミュニケーションをとるし、デボラや郵便局のおばさんなんかとは音楽おたくトークで親愛度を上げる。
 でも、一番映画っぽいのは、犯罪集団でベイビーの兄的な存在になっていくバディ(ジョン・ハム)とのひとときだろうか。バディはベイビーがクイーンの「ブライトン・ロック」を好きだと聞いて、左耳のイヤフォンを借りて「ブライトン・ロック」をベイビーとシェアする*5。画としても美しいし、物語的にも後にこの構図が反復されることでその場面のエモーションが高まる。*6
 

 音楽はベイビーの世界観なので、音楽がズレるときに彼の世界も崩れだす。そのズレは撮影時に起きたちょっとした手違いに発している*7のだけれども、奇妙なぐらい映画的なストーリーテリングにマッチしている。映画にも音楽にも愛されないと、こういう偶然は生まれない。


 山田尚子は映画版『聲の形』を「伏し目がちな主人公が顔をあげて世界のうつくしさにちゃんと向き合うまでの物語」と定義したけれど、『ベイビー・ドライバー』にもそんなところがある。ブレーキを踏んで車のキーを投げ捨て、イヤフォンを外し、裸の眼できちんと「うつくしいもの」を捉えることで、傷ついた孤独なこどもはようやく車から人に戻り*8、音楽そのものになる。




 
 

*1:ベイビー・ドライバー』のファースト・ドラフト巻頭に書かれていたとされるエピグラフ

*2:stuff

*3:ドクに対しては『モンスターズ・インク』を使う。

*4:パンフレットによるとベイビーが大量に所有しているiPodはすべて盗んだ車に残されていたもの、という裏設定があるそう

*5:ここで「兄貴もクイーンが好きだった」とバディ言わせているのは重要だ。ベイビーに兄弟めいた情を感じている証拠なのだから

*6:「ひとつのイヤフォンをわけあう」構図だけでなく、「ブライトン・ロック」そのものや「killer track」というフレーズもまた別の場面で反復される。そう、本作でも反復は実に効果的に使用されている。「バナナ」とかね。序盤でジョーと一緒にテレビをザッピングしているときに『ファイト・クラブ』などと共にチラッと『くもり、ときどきミートボール』が映るけれども、エドガー・ライトもまたミラー&ロードの反復伏線芸に感動したクチだろうか

*7:その音楽のズレを生み出すのが誰か、と考えたときに、その人物がベイビーから「テキーラ」を盗むんだことも思い出すはずだ

*8:ここでもちろん私たちは、「人間が車になる物語」である劇場版『少女革命ウテナ』へのオマージュである『スコット・ピルグリム』をエドガー・ライトが映画化した事実を忘れてはいけない

奔るゾンビ映画――『新感染 ファイナル・エクスプレス』の感想

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(原題:부산행、ヨン・サンホ監督、2016、韓国)



「新感染 ファイナル・エクスプレス」予告編

走る列車、トレインするゾンビ

 感染が拡がる、まるで新幹線の速さで。
 などという地口が、場当たり的なノリでなく、しんじつ映画としての速度にマッチしているものだから、一見いかにも二秒でおもいついたようなB級のかおりがぷんぷんする邦題も実は考えに考え抜かれてつけられたものなのだと、心ある観客ならば開始二十分で気づく。


 とにかく列車も映画も止まらない。

 ZPM(Zombeat Per Minutes)は200を超えているだろうか、めちゃくちゃ機敏なゾンビたちが時には波のように、時には滝のように*1、そして時には獣のように人間に襲いかかり、その数を増していく。
 ゾンビ映画にありがちな「噛まれた人間が徐々にゾンビ化していき、蝕まれていく人間性とのあいだでコンフリクトを起こす」なんていうぬるい描写は(一部を除いて)ほとんどない。動脈を噛まれればまず秒でゾンビ化する。本当に秒だ。ウワーッと噛まれて振り向いた瞬間にはもうゾンビ。シャーッと元気に飛び跳ねる。このスピード感、この物分りの良さには走るゾンビ否定派も屈さざるを得ない。R. I. P. ジョージ・A・ロメロ。あなたも草葉の影から、あるいは天国の無人ショッピングモールからごらんになっているでしょうか。
 

銃社会でのゾンビ・マナー

 本作はオールドスクールなゾンビ作法にのっとりつつも、要所要所ではオリジナルな切れ味を発揮している。
 ゾンビの造形に関してひとつ、アイディアだなと感じたのは、その弱点だ。伝統的なゾンビ映画のゾンビにおける絶対確実な弱点として「頭をぶち抜かれると死ぬ」があるわけだが、しかしよく考えてみたら、これ、弱点か? 頭を打ち抜くなんてのは基本的に銃が身近に存在し、銃を失っても素手やバットで頭をストライクできるマッチョなステロイド国家でこそ成り立つ「弱点」であり、憲法で武装する権利を認められていない一億総ウィンプ国家である日本や韓国では到底現実性がない。ましてや強靭な肉体を持った走る系のゾンビを前にすれば、貧弱な東洋人などゴミムシも同然である。
 で、そうした問題を逆手にとって、そのあたりをどうクリアしてゾンビをぶち殺すか、といった興味が日本のゾンビものではひとつ頭のひねりどころだったわけだけれど、ヨン・サンホ監督はそもそもの前提を覆した。

 弱点がないなら、作ればいいじゃん、と。

 本作のゾンビは視覚と聴覚に頼って人を襲う。どちらかといえば、視覚が中心だ。とはいえ、ゾンビたちは感染したとたんに白内障のようなものにかかって視力が低下してしまう。他のゾンビ作品のように視覚と引き換えに嗅覚や聴力が跳ね上がったりはしない(というか、たぶん五感はすべて生前より鈍くなってる)。それでも眼に頼るしかないのが堕落した野生動物の悲しさ、つでいに彼らは思考能力がゼロなのでぼんやり眼についた人間に片っ端から突っ込む。


 といわけで、視界を塞げば無力化できる。

 その方法のバリエーションは実際に本編を観てほしいのだけれど、この特性を応用することでひとつの空間をまるまる安全地帯化できたりもする。さらには、その特性が「列車内で繰り広げられるドラマ」ともマッチするから、監督の作劇センスには舌を巻く。
 

 

韓国映画とゾンビ

 さっき、オールドスクールなゾンビ作法、と書いたけれど、オールドスクールなゾンビ作法といえばゾンビに込められた社会風刺だ。ロメロが『ゾンビ』でショッピングモールに集まるゾンビを描いたのは消費社会批判だった、なんてのは今では『ウォーキング・デッド』をカウチでポテトチップス食べながら見ている太ったガキが空で言えるほど手垢のついた決まり文句で、むしろゾンビと社会風刺をそんなに不可分にしてしまったらゾンビ映画の純粋なエンタメ性を削いでしまわないか? と思ったりしないでもないけれど、こと『新感染』に関してはそうした懸念はあたらない。というより、社会風刺とゾンビがうまいこと相乗効果を生み出して、作品を何倍もおもしろくしている。

 監督が社会問題に対してセンシティブなのは諸々のインタビューでも明らかになっている。近年で階級闘争とエンタメを織り交ぜた列車の映画を撮った韓国人監督といえば、ポン・ジュノだろう。『ニューヨーク・タイムズ』の映画評での「階級闘争を補助線に引いた公共交通機関ホラー映画」という言からもわかるとおり、英語圏のメディアで本作はよくポン・ジュノの『スノーピアサー』と比較されている。
 なるほど、監督自身が抱えている現代資本主義社会に対する問題意識をブロックバスターに耐えうるエンターテイメントに乗せることができる才覚は似ている。*2そういう意味でヨン・サンホはポン・ジュノの後継者なのかもしれない。
 しかしまあ韓国映画のエンタメ大作が社会に対する独特の緊張感をはらんでいるのは何もヨン、ポンのふたりに限った話ではなくて、たとえば最近でも「トンネル、父と娘、極限状況でのサバイバル」といった道具立てが本作と共通しているキム・ソンフン監督の『トンネル 闇に鎖された男』も積極的に韓国のメディアや行政批判を取り込んでいる。しかし、『トンネル』が本編でのサバイバルと社会風刺があまり有機的に成功おらず、ぎこちない印象を与えている一方で、『新感染』の処理は流麗だ。


 たとえば、主人公パーティの一人にホームレスのおっさんがいる。このホームレスは最初薄汚い恰好でわけのわからないことをぶつぶつつぶやいている気味の悪いアンタッチャブルとして登場して、ゾンビ騒動に巻き込まれるうちになし崩し的に主人公たちと行動をともにすることになる。
 特に役立つスキルやドラマティックな過去を持っているわけでもない、そこらへんの浮浪者だ。ふつうのゾンビものなら、あんまりメインキャラとして据えたりはしないだろう。
 そこをあえて起用した理由を、ヨン監督はこう語っている。

――今作でも、その前日譚である『ソウル・ステーションパンデミック』でも、ホームレスのキャラクターがキーになっていますね。


ヨン:『ソウル・ステーションパンデミック』はソウル駅が舞台ですが、ソウル駅というのは経済発展の象徴であり、その経済発展の道からはみ出してしまった人がホームレスになって、ソウル駅にいるのです。ソウル駅に行くと、一般の人はホームレスの人が見えていても見えていないふりをします。ゾンビの身なりや歩き方はホームレスに似ているものがあります。だとしたら、ソウル駅でホームレスを無視していた一般の人達は、ソンビが現れたときに果たしてその存在に気付くのか、というところからアイデアが広がっているのです。
『新感染~』でもホームレスのキャラクターは非常に大切な存在でした。ホームレス以外の登場人物はみな普通の人々です。公権力から阻害されている一般の人達がいて、ゾンビではないけれど一般の人でもないホームレスがいる。そういった状況で、果たして一般の人はホームレスを受け入れられるのか、また、それによってホームレス側の態度がどう変わっていくかを描きたかったんです
『新感染 ファイナル・エクスプレス』ヨン・サンホ監督インタビュー 「クラシカルなゾンビ映画であり、誰でも楽しめる普遍的な物語」 – ホラー通信|ホラー映画情報&ホラー系エンタメニュース


 ゾンビとして出てきたホームレスがゾンビ騒動を通じて人間性を回復していき、やがては「人間」的な行動に出る――彼の物語がヨン監督のいう「一般人」がつぎつぎとゾンビ化していく本編の展開との逆行ヴァージョンになっているのはおもしろい。
 最初薄かった人間味を取り戻していく、という点では主人公もまた同じなのだけれど、ホームレスや主人公とは逆に「一般人」たちはゾンビ化をまぬがれても極限的な状況にさらされて、人間性を喪失していく。
 生存者同士のいがみあい。ゾンビ映画にはよくある「ゾンビより人間がこわい」というやつだ。しかしその描きかたも大雑把なようでいて実は繊細で、彼らの変質もまた恐怖というまさに人間的な感情から発したものだという視線を監督は常に忘れない。
 それに本作における一番の悪役であるバス会社の重役(キム・ウィソン)によく象徴されている。彼は自分が生き延びたい一心で、とんでもない行為を数々やってのけるのだが、そんな彼がなぜ繰り返し「釜山行き」に終着するのかが、終盤に非常に悲劇的な形で明かされる。ド外道である彼もまた人間であったのだと、観客はそこで知るのだ。
 

 
 見えてなかったものをあぶり出す。それがドラマになる。
 夏休み映画になるには一日遅れてしまったが、夏休みを延長してでも見逃せない逸品だ。



ご冥福をお祈りします。

*1:列車内では難しい「縦のアクション」も、ちゃんとある舞台で用意されている。心憎い。

*2:未見だけれど、監督の過去作であるアニメーション作品『豚の王』『我は神なり』も韓国における階級を意識した点があると監督自身がインタビューで語っている

私たちは悪魔と取引してデザインされた死を遊んでいる

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 『ゆゆ式』を思い出そう。『終末少女旅行』を思い出そう。


 あなたはいつだって、「この問題」を無敵の少女たちに押しつけてきた。
 その罰として、あなたは今、悪魔と契約したコップに成り果てている。
 


Cuphead Launch Trailer



 人生では一回しか体験できず、ゲームでは何度でも味わえるものの一つに死がある。
 ゲームにおいて前提となる要素はかならず洗練されていなければならず、つまり死が前提となるゲームではいかに死という体験を洗礼していくか、そんな話になる。
 中世の王たちが生ではなく死をもって人々を統治したように。


 Cuphead。


 そこにはデザインされた死の体系がある。
 ちょっとした油断、ささやかな操作ミス、初見ではよくわからない敵ボスの当たり判定、結果として明らかに回避不可能となってしまったが事前にもうすこし考えて動いていれば出来していなかったはずの殺し間。

 プレイ動画を観た人間は誰もが「かわいそうに、理不尽に殺されているよ」とプレイヤーをあわれむことだろう。

 だが、プレイヤー本人は「理不尽」とは感じていない。

 彼にはなぜ自分が死んだのかが見える。

 ステージ開始から一分四十三秒後に死んだのなら、その百三秒の一挙手一投足すべてで積み上げてきた因果の結果として死に捕まったのだと知っている。動線が見える。死神の動線が、彼にだけ見える。


 だから、わかってほしい。


 すべてには順序と理由がある。私たちは順序と理由を求めてゲームを遊ぶ。あのときのたったワンフレームの誤操作、あのときのたった一度のライフ喪失。死因は積み重なる。
 やがて訪れるであろう、たった一度の本物の死をそうやって準備するのだ。

 だが、今は三十分のあいだに四十回死ぬ。
 ボクシンググローブをはめたカエルの兄弟、お菓子の城の女王様、カーニバルを支配する変幻自在のピエロ、野菜の形をしたザコ、見えるもの、触れ得るものすべてが冗談みたいにおまえを殺す。悪夢。
 プロメテウスは人類に火を与えた罰として、タンタロスは神々に自分の息子の肉を供した罰として永遠の苦悶を課せられた。おまえの罪はなんだ?
 そんなことを自問しながらフルアニメーションで描かれる美麗な作画に見とれているうちに、おまえのライフはゼロに達している。


 そう、壊れやすい陶器のコップである私たちは、百回の死のチャンスに対してライフを三つしか持っていない。
 これはゲームなので寿命を伸ばすことができる。ライフを四つ、あるいは五つにしたらグンとステージクリアの確率があがるだろう。武器を変更してもいいかもしれない。オススメは追尾弾だ。ただ撃つだけで自動で敵を追ってくれる。おまえは逃げるだけでいい。気分はまるでコロンバインだね。
 cuphead の本質は敵を倒すことじゃない、避けることだ。それは資本主義社会の本質でもある。ある日とつぜん降ってくる死などない、すべてには理由がある、という嘘に支えられた宗教だ。そこではアイテムを買い占めて、細心の注意をもって、踊るように、怯えるように過ごせば死を先延ばしできるはずだった。


 だがいくら眼を背けても、ないふりをしようとしても、完全に逃げ切ることはできない。
 七十回のコンティニューの果てにボスをギリギリで倒す。その瞬間はなにかが……なにかが報われたような気がする。救われた気分になる。
 その幸せは三秒程度しか持続しない。なぜなら、あなたの信仰はすでにリニアなひとつらなりの生にではなく、反復される死に対して捧げられている。「つましく小さなひとつの幸福を抱きしめる――それを「帰依」と呼ぶ。だがそうしながら早くも、新しい小さな幸福を流し目で盗み見ている」*1
 激戦地で九死に一生を得た兵士たちが次の死地に赴くように、マーリンを引いたFGOプレイヤーが宝具レベル2を目指すように、私たちは幸福を抱きしめる権利をかんたんに放棄してしまう。
 そういうふうに、私たちの欲動は、きらら四コマのごとき精密さで完璧にデザインされている。いったんコントローラー(ロジクールのやつ)を握ってしまえば、最低二時間はその慣性に追従しつづけるだろう。


 次の死のために、次の次の死のために。


ゆゆ式 9巻

ゆゆ式 9巻

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