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爆弾のある日常――千字選評(1):『あの素晴らしき七年』エトガル・ケレット

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これまでのあらすじ

「読書、映画、その他」と書いてあるのに、「アニメ、映画、その他」みたいな状況になってきたので書評を書く訓練などしたい。ほっとくとだらだら長くなるのでとりあえず千字前後を目標に。

『あの素晴らしき七年』エトガル・ケレット(秋元考文・訳、新潮クレスト・ブックス、2016年4月27日)



 ハイウェイに乗ると、半分はぼくに、半分は自分に話しかけるかのように、運転手は言った。「ホンモノの戦争ですよね、ね?」そして、長いこと間をとったあとで、懐かしむように、「昔みたいに」と言った。


 p. 20, 「戦時下のぼくら



 テロ事件の犠牲者でごったがえす病院で子どもが産まれる話ではじまり、七年後、空襲警報の鳴り響く道路で成長した子どもと一緒に地面に伏せる話で終わる。そのあいだの七年間を描いたエッセイ集だ。

 ひとくちに「日常」といっても、そのリアリティは人それぞれだ。飢餓が日常の人もあれば、爆撃が日常の地域だってある。そうした国では、戦争とは生活であり、ジョークの種であり、ときに懐旧の対象ですらあったりもする。

 イスラエルは建国以来ずっとだらだらと戦争を継いできた。戦争を日常とする国家だ。そんな場所にエドガル・ケレットは住んでいる。イスラエルで生まれ、イスラエルで育った。父親第二次世界大戦を戦い抜いた元レジスタンスで、母親はヒトラーによって故国ポーランドを追われた元孤児。ふたりとも、ホロコーストの真っ只中にいた。ケレット自身も若くして軍に入った。元神童の兄は紆余曲折を経てタイに移住し、超正統派ユダヤ教徒になった姉は弟をハグすることすら許されない厳格な生活を営んでいる。
 イスラエル第一世代の五人家族の末っ子としてのケレットと、第二世代の三人家族の父親としてのケレット、そして国際的短編作家としてのケレットが多層的に折り重なって現れる。通底するのは、どのケレットも「自分はユダヤ人である」という自意識を抱えていること。

 このエッセイ集はもともとアメリカ人読者に向けて書かれたものだから、戦略的に〈イスラエル在住作家〉のペルソナをわかりやすく強調している面もあるにはある。しかし、それ以上に、彼が講演旅行でよく廻るヨーロッパという土地は、ユダヤ人にみずからがユダヤ人であることを思い知らせずにはいられない。なんとなれば、そこいら中にじぶんたちの足跡が残されている。逆説的ではあるけれど、彼にとってイスラエル以外の土地こそ、あるいは放浪そのものこそが故郷なんだろう。ケレットの母親は彼の最初の短編集を読んでこう言う。「あなたは全然イスラエルの作家じゃないわ。国外を放浪しているポーランド人作家よ」。
 彼は母の故郷、ワルシャワに家を買う。ただ刻印することだけを目的にしたような、奇妙な家を。

 エドガル・ケレットは掌編の名手として知られる。エッセイもだいたい四五ページで簡潔に収まっている。自分と自分の置かれている微妙に奇妙な状況をペーソスと諧謔でユーモラスに、しかし堅実な筆致で描くことで、時にファンタジーの領域にすら届く。やさしくなったカフカみたいだ。

(1018文字)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)


あなたが選んでくれた国――千字選評(2):『陽気なお葬式』リュドミラ・ウリツカヤ

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『陽気なお葬式』リュドミラ・ウリツカヤ(奈倉有里・訳、新潮クレスト・ブックス、2016年2月25日)




 ここにいる、ロシアに生まれた人々は、生まれ持った才能も受けた教育も、あるいは単に人間としての素養も、何もかも違ったが、ひとつ共通点があった――みんな、なんらかの事情でロシアを出てきた人々だ。ほとんどは合法的に出国していたが、なかにはもう国に戻れない者もいるし、いちばん無茶な者は不法に国境線を越えてきていた。けれども国を出てきたのだという共通項が、彼らを繋いでいた。いくら考え方が違っても、亡命後の人生が違っても、亡命という一致はゆるぎなくひとつだ――それは越えた国境線であり、途切れた人生であり、また先端の切り落とされた古き根を、成分も香りも異なる新しい土地に貼り直すことである。


 p.117

 画家が死にかけている。1991年、夏、ニューヨーク。彼の容態を聞きつけて、かつての恋人や愛人を含む友人たちがアパートの一室に集う。ロシア正教に帰依している妻は、天に召される前になんとか不信心な夫を改宗させたいと考える。それを夫に伝える。夫は妻の要求を呑むが、正教の司祭といっしょにユダヤ教のラビも呼びたいという。彼は亡命ロシア人でもあり、ユダヤ人でもあるから。「別の可能性を検討させてもらう権利だってあるだろう……」。
 こうして物語の登場人物は増えていき、現れるごとにその人の来歴が語られる。

 イリーナは老画家の元恋人で、サーカス一家に生まれた。彼女はサーカスを脱け出すと、ユダヤ教徒を夫に迎えて二年ほど信仰篤く生きたのち、ここからも脱け出して弁護士になる。彼女は老画家に対して妙な未練を抱いている。悪徳画廊に騙されて困窮している夫婦を陰ながら援助したりもするけれど、無邪気な画家夫婦はそんなこととはつゆ知らず、放埒な生活に明け暮れる。彼女はほのかな嫉妬を燃やす。
 そのイリーナの元夫を介して招かれたラビは、イスラエル建国翌日に生まれてからというもの人生の大半をイスラエルで過ごしてきた生粋のユダヤ人。大学でユダヤ学の講座を受けもつために訪米して、まだ三月だ。ユダヤ教を教えられずに育ったユダヤ人たちが「本物のユダヤ人」たちより多くなった現状を半ば嘆きつつ、「私は生まれたときからユダヤ人だった」と枕元で言う彼に、老画家は「こいつも選択しないで生きてきたのか。なぜ俺には山のような選択肢が与えられてきたんだろう」と考える。
 実はラビにも選択の機会がないではなかった。彼は若い頃に西洋哲学を学ぶためにドイツへ留学し、のちに宗教へ回帰した人物だった。ニーチェマルクスショーペンハウアー、夜の乏しきドイツ哲学は無神論の本場だ。彼はドイツを通過してイスラエルへと帰還し、彼より一世紀前に生まれた哲学者の裔たちはロシアで神なき国を興した。

 あまねく人生は選択の連続であって、その小さな選択の集積が歴史になる。生き死にはどうにもならない事柄だけれども、それでも「どう」生まれたり死んだりするかに関しては各々の裁量に委ねられるところも多い。亡命や逃走や脱出といった行動もまた選択肢のひとつであり、そして言ってみれば、アメリカやニューヨークとは亡命者たちの国だ*1。選択したものたちによる、可能性の国。
 そんな人たちの人生が、老画家の死を中心にして十数人ぶん、ウリツカヤ一流のやわらかなタッチでスケッチされていく。

(1050文字)

陽気なお葬式 (新潮クレスト・ブックス)

陽気なお葬式 (新潮クレスト・ブックス)

*1:まあもちろん、自らの選択によらず連れこられた人々も多いわけだけれど、それはあんまりロシア的な視点ではないんだろう

不可能とアンビバレントによる快楽 ―― ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』/千字選評(3)

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 そろそろお気づきかと存じますが、フフフ、本連載は〈新潮クレスト・ブックス〉全レビュー企画です。フフフ、ウソです。


ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(中嶋浩郎・訳、新潮クレスト・ブックス、2015年9月30日)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)



 ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たないわたしは、世界を、そして机の上をさまよっている。最後に気づくのは、ほんとうの亡命とはまったく違うものだということだ。わたしは亡命という定義からも遠ざけられている。


p.86, 「二度目の亡命」



 『停電の夜に』などで知られるベンガル系アメリカ人作家ジュンパ・ラヒリが、二十七歳で初めて行ったイタリアに魅了され、その後十数年に渡ってイタリア語を学び、四十代で一念発起してローマへ移住した。本書はそんな彼女がイタリア語で書いた初のエッセイ集(と二編の掌編)だ。
 日本人で海外移住して現地語で作品を発表している作家といえば、まっさきに参照されるのは多和田葉子だろう。その多和田でもドイツへ移住したのは作家デビュー前の、二十代前半のときだった。そこへきて、ラヒリはローマに移住した時点ですでに立派に名を成した大作家だった。
 いわば英語という言語のプロなわけで、その彼女がなぜまったく縁もゆかりもない未知の言語を学び、未知の国へ飛びこんだのか。その動機の謎がイタリアでの生活を通じてゆるやかに解きほぐされていく。

 ラヒリは来歴は複雑だ。カルカッタ出身のベンガル人の両親のもとでロンドンに生まれ、幼いころにアメリカへ移住した。両親の言語であるベンガル語を彼女はうまく話すことができず、自分のネイティブである英語を両親はうまく話すことができない。ベンガル人にもアメリカ人にもなりきれない。
 そんな二つの言語と国に引き裂かれたアイデンティティに対する不安が彼女を創作に走らせた、とラヒリは自己分析する。「書くことは長期にわたる不完全さへのオマージュなのだ」と。つまり、小説とは執筆しているあいだは常に未完成なものであり、完成に向かってるはずなのに完成できない感覚を持ちつづけなければならない人生の状態に似ている。小説はいつかは書き終わるものだが、完成したらしたで出来そのものの不完全さを痛感させられる。「ある種の頂点には立てないことを知ることは極めて有益です」とは本書で引用されるカルロス・フエンテスの言葉だ。この世には完璧な小説も完璧な人生も存在しない。

 母語ではない言語の学習も不可能性の点では小説や人生と変わらない。厳密には母語ですら完璧に体得するのは無理なのだけれども、外国語の学習はその不毛さがより際立つ。おぼえても、おぼえても、知らない単語が出てくる。単語や文法のテストで百点を取れたとしても、書いたり話したりするとどうも不自然になる。
 ラヒリはだからこそ、まったく自分に関係のない言語だからこそイタリア語に恋をしたのかもしれない。彼女はその不毛さを愛している。その距離感を愛している。その完成しない不完全さを追い求める熱情がラヒリという作家の動力源なのだろう。

(1025文字)

小路啓之について。

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www.yomiuri.co.jp


 小路啓之が亡くなった。交通事故だった。第一報を伝えた読売新聞の見出しは「漫画家死亡、「リカンベント」型自転車で転倒か」。twitterのトレンドワードに「リカンベント」が浮上し、みなリカンベント自転車についてコメントしていた。小路啓之について言及してる人はそんなに多くなかった。「小路啓之」と「リカンベント」で知名度の比較調査を行ったら、後者が勝つ。デビューから来年でちょうど二十年。小路啓之とは、そういう存在だった。


 ふだんは好きな作家の訃報を聞いても「悲しいけど、まあそんなものか」としか思わない。しかし、小路啓之に関しては、この時期に、この歳で、このクラス(自分にとっての)の人が、これからというときに、とさまざまなファクターが絡み合うせいか、やたらに心乱される。

 出た本はだいたい漏らさず読んできたはずだけれども、これまであまり真剣に小路啓之について考えたことがなかった。

 ひとことでいえば、童貞臭い恋愛話を書く漫画家だ。自意識過剰な男がエキセントリックな女に出会い、まあなんか色々てんやわんやで行きつ戻りつして、最終的に人間的にちょっと成長する。そういうものをポップな絵とサブカル/オタクネタのリファレンスとシニカルな人間観察でかろやかにつなげていく。今風、といえば、っぽいのかもしれない。
 それじゃあ今時ウケするずいぶん爽やかな作風だったんだねといえば、そう簡単にはくくれない。小路啓之の書く「愛」だの「恋」だのは世間一般の基準からすればやや変態的な、ともすれば字義通りの意味で犯罪の域にすら達している。そのねじくれ具合がついにアニメ化なんなりという形で大衆性を獲得し得なかった大きな原因だったのかもしれない。


 たとえば、『ごっこ』。
 三十歳の独身無職である「ボク」が三歳のパワフルな女児「ヨヨ子」を育てる、というガワは『よつばと!』みたいなシングルファザー子育てギャグ漫画だ。しかし、二人が出会うきっかけが狂っている。真性のロリコンである主人公が隣家で日々虐待を受けていたヨヨ子を誘拐し*1、「思いを遂げようと」(原文ママ)するが、ギリギリで「ヨヨ子とずっと一緒にいたい」という願いが湧き「ヤッて男と女の関係になってしまえばもろいが、パパになれば関係を永続できる」と考えて「良きパパ」となろうと決意する。

 ギリギリもクソもなくフツーにアウトな設定なんだけど、反動で本編は穏やかに進んでいくかとおもいきや、ヨヨ子を預けた先の保育園の経営者これまたロリコンのおっさんだという危ない綱渡りをガンガンつっこんでいく。単にコードギリギリのところを突いて戯れるだけなら、倫理チキンレースしかできない三流作家で終わるだろう。が、『ごっこ』のおそるべきはまじめに育児マンガとして知見があったところで*2、オムニバス形式の漫画としても一見はちゃめちゃやっているようで、ひとつひとつが賢くまとまっていた。一部のアングラ作家とは異なり、ギリギリで「こちら側」に踏みとどまれるだけの倫理技術もあった。要するに、マッスルがあった。インテリジェンスがあった。

 フィクション作家には自分の創り出したキャラクターや世界や設定に振り回されてしまう人も少なくないんだけど、小路啓之にかぎってそういうことはなかった。彼ほど、過激なキャラクターや設定を前面に出して、かつそれらを飼いならせる漫画家も稀だった。

 『ごっこ』にかぎらず、『かげふみさん』(殺し屋の協力者)、『束縛愛』(監禁)、『犯罪王ポポネポ』(各種様々)とやたらリアル犯罪者をフィーチャーしてくるし、終盤のモチーフとしてよく死を持ち出す。主人公はほぼ例外なく浮世離れした特技や能力やオブセッションを持つ。絵柄と作風で成り立つギリギリのレベルまで極端さを詰めこむ。
 極端を大盛りにしたのは、たぶん、小路啓之なりのテーマを描きたかったからだろう。テーマとはつまり、愛だ。人と人とわかりあう。通じ合う。誰かのために自らを捧げる。与える。奪う。知る。みんな平等にパラノイアックで病んでいる。
 極から極へ振ることで、小路啓之は愛を遠心分離しようと試みた。
『来世であいましょう』や『メタラブ』では、その高みに触れかけた瞬間が何回かあったとおもう。


 考えてみればただの自転車でも自動車でもなくリカンベントでクラッシュする、というのはいかにも小路啓之の漫画っぽい死に方かもしれない。ただ漫画のような生き方をしている漫画家はおもしろいかもしれないが、漫画家だからといって漫画みたいな死に方をしてもらってもなんだか困る。
 自分の好きな作家はできるだけ死なないでいてほしいと思う。なんか人生がつらいだとか、もう人間やめたいだとか、そういう精神的に自殺をねがうだけの理由があったら仕方ないけど、本人が死ぬつもりもないのにいきなり死なないでほしい。勝手な希望かもしれないが。

 遺作は『ミラクル・ジャンプ』連載の『雑草家族』と『月刊コミックフラッパー』連載の『10歳かあさん』の二作。単行本にまとまるときには、『10歳かあさん』のほうには今年二月に掲載された読み切りも収録されるだろう。
 それでお仕舞いというのも、なんだかさびしいよ。

*1:誘拐当時は二才であるからロリコンというよりはペドフェリア

*2:たぶん実生活で子育てした経験が作品に反映されていたのだろう。こんな設定の漫画にそんなもん反映させていいのかみたいなところはあるけど

光のほうへ――アンソニー・ドーア『すべての見えない光』/千字選評(4)

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アンソニー・ドーア『すべての見えない光』(藤井光・訳、新潮クレスト・ブックス、2016年)

 二千字になっちゃった。



 空気は生きたすべての生命、発せられたすべての文章の書庫にして記録であり、送信されたすべての言葉が、その内側でこだましつづけているのだとしたら。


p.511

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)


 個性的な佳品から誰もが絶賛する傑作まで取りそろえる新潮クレストであるけれども、毎年一冊は「これぞ」という圧倒的な一冊を出してくれる。二〇一六年のそれは『すべての見えない光』だ。


 一九四四年八月、第二次世界大戦末期。ノルマンディーを始めとした欧州上陸に成功した連合軍はドイツ占領下にあったフランスをつぎつぎと奪還し、西フランスでは海岸沿いの小さな町サン・マロを残すのみとなった。
 サン・マロを完全に包囲した連合軍は居残るドイツ軍を追い出すべく、爆撃を開始。激しい砲火にさらされる市街に、十六歳の盲目の少女マリー=ロールと十八歳のドイツ工兵ヴェルナーがいた。
 この二人の少年少女がいかにして一九四四年のサン・マロまでたどりついたか、その足跡を軸に十年に及ぶ鮮烈な物語が語られる。

 本国アメリカでの大ベストセラー、ピューリツァー賞オバマも読んだ! そんなセンセーショナルな売り文句に反して、本書はなかなかにトリッキーな構成をとっている。
 複数の視点人物をおいて基本二、三ページからなるごく短い断章をならべつつ(短編「メモリー・ウォール」でドーアがものにした手法だ)、奇数章で一九四四年八月のサン・マロ、偶数章で一九三四年からはじまる二人の過去話を交互に叙述していく。


 内容は、ありていにいってしまえば戦時下でのボーイ・ミーツ・ガールだ。
 ボーイであるヴェルナーは、ドイツのとある炭鉱町の孤児院育ち。拾いもののラジオから流れてきた謎のフランス語科学教育番組に魅了され、科学者を夢見るようになる。だが、ナチス政権下では、孤児たちはみな十五歳になると鉱山へ送られる運命にあった。そんな彼の人生は、町に赴任してきたナチス青年将校のラジオを修理したことがきっかけで変転する。エンジニアとしての才能を見込まれ、将校の推薦で国家政治教育学校*1という党員養成のためのエリート校へ入れられる。そこで鳥好きの内気な少年と友情を育んだり、数学の才能を発揮して特別な実験に駆り出されたり、凄惨ないじめを目撃したりする。だがいつまでも学園生活は続かない。日を追うごと戦況は悪化していき、彼もまた否応なく戦場へと駆り出されていく。
 一方、ガールたるマリー=ロールは病気で光を喪うが、貝の専門家である博物館の研究員に導かれてこちらも科学に魅了される日々を送る。が、ナチスのフランス侵攻で父子ふたりのつましい生活も一変、金持ちだが精神を病んだ大叔父エティエンヌの住むサン・マロへとおちのびる。
 科学に通じたエティエンヌは読書好きな彼女のためにダーウィンを読み聞かせるなどして距離を縮めていくものの、ある日彼女を絶望へと叩き落とす大事件が起こる。やがてサン・マロもドイツに占領されてしまい、マリー=ロールも対独レジスタンス活動に巻き込まれていく。
 この二人の他にもう一人、定期的に現れる視点人物がいる。死病を患った元宝石職人のドイツ軍下士官フォン・ルンペルだ。彼は「所持者に永遠の命を与えるが、その周囲の人々をすべて奪い去る」という伝説を持つ宝石〈炎の海〉を血眼で追い求める。そして、宝石を所蔵していた博物館の館主がマリー=ロールの父親へそれを託したと知るや、サン・マロへと向かう。
 三人とそれを取り巻く人々の運命が一九四四年八月に交錯し、大きなうねりへ変わる。


 本書をたのしむにあたっては多様な切り口がある。
 ギムナジウムもの、戦争文学、ボーイ・ミーツ・ガール、科学少年少女の成長物語、レジスタンス/スパイ、宝探しのサスペンス。
 そうしたサブジャンル的な枠組みの連続がアンソニー・ドーア的なモチーフ(科学、鳥、貝殻、記憶、古典冒険小説 and etc)と彼一流の叙情的な文体に彩られて読者へと供される。いわば、作家としての集大成的な作品だ。
 とはいえ、『メモリー・ウォール』や『シェル・コレクター』などといったドーアの既作を知っておく必要はない。むしろ、これをドーアの入門編にしたほうがいいぐらいだ。ドーアの作家的感性や特質がいかんなく発揮されつつも、丁寧な描写と訳者の努力のおかげで非常に読みやすく仕上がっている。
 ドーアの特質、といったが『メモリー・ウォール』(新潮クレスト・ブックス)の故・岩本正恵による訳者解説によれば、「科学と文学の融合が挙げられる」ことにあるという。ドーア本人曰く、「ぼくにとって、文学と科学はけっして遠く離れた別々のものではない。どちらも『われわれはなぜここに存在するのか』という問題を扱っているのだから」*2
 ドーアのテーマがもっともよく現れるモチーフは、おそらく「記憶」だろう。本作の終盤でも、記憶が極めて重要な役割を演じる。

 ドーアは技術に詩性を見出す。光も音も文字も記憶もすべて、技術によって伝わり、交わるからだ。神が宿っていない行は一行たりとも存在しない、まごうことなく今年の新潮クレストを代表する傑作。

(1981文字)

10月に観た新作映画の短い感想。

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一ヶ月分をまとめて書こうとすると結構内容忘れますね。



👎『ジェーン(Jane got a gun)』(ギャビン・オコナー監督)


「ジェーン」予告編

 なにかとマッチョな男ばかり画面にあふれがちな西部劇で、ひとつ女性を主題に据えて撮ってみようじゃないかとナタリー・ポートマンの肝いりで作られたらしい。ところが当初監督する予定だった監督が撮影数日前に突如降板してしまい、出演者のジョエル・エドガートンが急遽オコナーをひっぱってきて代打させることに。
 女性を主役に西部劇、といってもジョン・ウェインの魂をそのままポートマンに注入したようなノリではなくて、あくまで当時の女性のリアリティに沿って、どこまで書けるか挑んだもの。そういう意味で志は高い。志は高いけれども、作劇自体は不必要に回想シーンを多様する構成のせいで、なんというか全体に緩慢におちいっているきらいがあります。
 それでもドンパチシーンがしっかりしてりゃあいいかなと思っていると、二人 vs 十数人の包囲戦で、さあ、どうやって無双して逆境にはねかえしていくかとなったときに、庭に仕掛けた火薬やなんかを家のなかから撃って忍び寄るクソどもを炎上させてしまう。マップ兵器を使ってしまう。
 細腕の女性とエドガートンのタッグだとそんなもんですよ、と言いたかったんだろうけど、そこはポートマンなんだから、単騎で十人ぶち殺すくらいの気概が欲しい。っていうか、夫に重傷を負わせたクソやろうどもがやってくると知るや、おやかな妻の装いからシュッと雄々しいガンマンの装いへ変身する序盤のシーン見たら期待するでしょ。クソどもに勝つのもわりとスムースというか、あっさり風味だし。

 それでも、ジョエル・エドガートンがらみのシーンはよかったかな。クソどもの斥候を話術で交わしつつ撃つシーンの緊迫感、逆に広大な平原に潜む姿なき敵たちに撃ち抜かれるときの絶望。オコナーの悪い言い方を緩慢な、良い言い方をすると丹念でエモい演出は総体的にはマイナスだったと思うけれど、こういうところではある種の無常さを醸し出すのに貢献していた。*1
 キャラもいいしね。戦争に行って帰ってくると子どもを亡くし、奥さんを寝どられていた元夫。それが奥さんに懇請されて、奥さんと今の奥さんを助ける羽目になる。もちろん、簡単に呑み込める感情じゃない。最初は、重傷を負って寝込んでいる今の夫に地味な嫌がらせしたりしちゃう。こういう「小物感あるけど根は良い人」を演じさせるとエドガートンはハマる。
 そのエドガートンの特質をよく活かしたのが、『ザ・ギフト』だ。


👏『ザ・ギフト(The Gift)』(ジョエル・エドガートン監督)

映画『ザ・ギフト』 予告篇 スマートフォン版

 今月のベスト。
 プロデューサーとエクゼクティブ・プロデューサーにジェイソン・ブラムとジェイムズ・ワンを迎えたおおよそ間違いのない布陣で、しかも監督はジョエル・エドガートン。長編初監督ですが、短編はいくつか既に撮っていたそう。
 あんまり筋をバラせない系のお話なんだけれども、いちおう説明しとくと、ロサンゼルスの郊外に引っ越してきた夫婦(ジェイソン・ベイトマンレベッカ・ホール)が夫の高校時代の同級生だという怪しい男ゴード(ジョエル・エドガートン)と再会する。高校で生徒会長までつとめた人気者のベイトマンは、陰キャラだったエドガートンのことをよくおぼえていないのか、ひさしぶりの対面にもどこかぎこちない。「あいつは、まあ、良い奴だよ」と妻に紹介するセリフもふわふわしている。
 それをきっかけに、エドガートンは夫妻に対してプレゼントを送ったり、何度も訪問して些事を手伝ったりとやたら親身に接してくる。妻のホールは「ちょっとコミュ障っぽいけど、親切で良い人じゃない」みたいなスタンスなんだけど、夫のベイトマンはそんな彼女に対して「あいつは俺が会社で出ているのを知ってて、昼間にやってくるじゃないか。きっとお前を寝どろうとしているだ」とやたら刺々しい。
「知ってるか? あいつは高校時代『ウィアード・ゴード(キモいゴード)』ってあだ名つけられてたんだぞ」
「ひどいあだ名ね」
「高校生ってのはそんなもんさ。俺だって『シンプル・シモン(アホのシモン)』だった」
 ベイトマンの無神経さがにじみ出ていてなかなか生々しい。
 ともかく、ベイトマンは過剰なまでにエドガートンとの付き合いを拒絶する一方で、ホールは夫がエドガートンを遠ざけようとすればするほど憐れみからか彼に付き合ってあげようとする。
 観客は「ベイトマンはたしかにヤなやつだけど、まあでもリアルでああいう間合いの詰め方するコミュ障にあったら警戒するよな」と漠然と考える。成功したビジネスマンであるベイトマンに比べて、エドガートンはみすぼらしい格好をした正体不明の男。どう考えても無職。傍から見たら、一方的にベイトマンにすりよろうとしているようで、そういう人のキモさってあるじゃない?

 そんなこんなである晩、夫妻はエドガートンに食事へ招待される。ベイトマンはとうぜん行きたがらないんだけど、ホールの押しでしぶしぶ出席することに。教えられた住所に車を飛ばすと、そこに建っていたのはベイトマンや観客が予想もしていなかった豪邸だった……。
 ここから物語がものすごい勢いでドライブしだす。

 ネタバレをさけつつ評するならば、「ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれる」という道徳訓であり、「物語を利用するものを物語に仕返しされる」というビブリオフィリックな寓話でもある。お題目やひとつひとつの要素はシンプルだけど、その「ウソ」の描き方の深度がものすごい。ウソをつく方はどういう戦略にもとづいてウソをつくのか、ウソをつかれるほうはそれがウソだと気づいたときにどういう心情になるのか、それは人間関係にどのような影響をおよぼすのか、そのあたりのゲームを繊細にエドガートンは描いている。

 俺監督俺主演系の映画って、監督が自分の役者としてキャラクターを極端に勘違いしてるか、深く理解できているかのどちらかになるんだけれども、これは圧倒的に後者。
 善人と悪人、異常と正常のあいだを振り子のように行き来するゴードという人物。その得体の知れなさに、エドガートンという役者が完璧にフィットしているし、ひいては『ザ・ギフト』という複雑怪奇な物語に一貫した説得力を与えている。
 そして、なによりその存在感。冒頭の夫妻とブティックだか家具屋だかで邂逅するシーンで、楽しげにショッピングする夫妻の後方、大きなガラス窓の外でぼやけている人影。ほんとうにぼんやり映ってるだけなのに、ひと目で異様な雰囲気な発してるヤツがあそこにいるぞ!!! とわかるんですよね。あれはすごい。
 一歩間違えれば捻りすぎたしょーもないクソ映画になりそうな材料をよくここまで極上にしあげたものだ。ジョエル・エドガートンの才能はいくら賛美してもしたりない。(((まあ元々ぼくがジョエル・エドガートンびいきだという欲目もあるけれども))

 夫妻の夫役であるベイトマンも卓絶している。
 『モンスター上司』にしろ『アレステッド・ディヴェロップメント』にしろ、もとから気弱で受け身な巻き込まれ型なようでいて芯はクレイジーなキャラがうまいという印象はあったんだけど、本作ではそんな魅力を史上最高級に発揮している。ここもキャスティングの妙だとおもう。『ズートピア』に続いて、今年の主演男優賞ものだ。


👏永い言い訳』(西川美和監督)

映画『永い言い訳』本予告

 長い間本を書かずにテレビタレントと化していた小説家(本木雅弘)がスキー旅行へでかけた妻(深津絵里)の不在をいいことに、若い女(黒木華)と倫セックスにしけこんでいたら、突然岩手県警を名乗る男から電話がかかってきて「奥様がバスの事故に巻き込まれたようでして……」と言う。
 バスの事故? テレビのニュースでやってる滑落事故のことか? まさか? 妻は旅行に行くと言っていたけれど、たしか……たしか……どこへ行くと言っていたんだっけ?

 その通り、本木雅弘はクズ野郎だ。
 この映画は本木が美容師でもある深津絵里に髪を切ってもらうシーンからはじまるのだが、そこから観客に本木のクズ男っぷりが余すところなく提示される。
 鏡を見つめながら、耳で自分の出演しているバラエティクイズ番組の音声を聞いていた本木は深津に「観てないんだったら消せよ」と要求する。深津は本木が嫌がっていることをなかば了解しつつ、「え〜観てるもん」と冗談っぽく拒否する。ここまでなら仲のいい夫婦のじゃれあいだが、本木が「俺をバカにしてんだろ」とばかりにマジギレして無理やりテレビを消して、空気がなんとなく不穏になる。
 イライラしながら本木は、「幸雄くん」と自分の本名を人前で呼ぶのをやめるように深津に言う。本木の演じる男のフルネームは衣笠幸雄。元広島カープの「鉄人」衣笠祥雄と漢字違いの同姓同名だ。往年の名プレーヤーを想起させるこの名前が嫌で、小説家としては別にペンネームを持って、それで通すようにしていた。
 「そんなこと言われても、私にとって幸雄くんは昔から私にとって幸雄くんだし……」
 深津は本木と大学時代に知り合い、小説家デビュー以前から本木を支え続けた、世に言うところの糟糠の妻だ。そこも本木は気に入らないらしく、
「俺が食えなかったころに食わせてやってたのは誰だ? って言いたいわけか?」
 と妙につっかかる。
 自分の快不快で妻に対して物事をまかりとおそうとする様子は、亭主関白というよりはむしろ聞き分けのない子どものわがままっぽい。
 そういう印象を受けるのは、本木がブータレているあいだじゅうずっと深津に散髪してもらっているからだ。
 家で誰かに髪を切ってもらうのは、信頼と言うか甘えがないとできない。のちに判明することだけれども、本木は結婚以来ずっと深津に髪を切ってもらっていた。
 結局、本木は肥大化した自意識を深津のお母さん性に丸抱えしてもらっているだけのガキなのだ、彼が本当に関われる(と自分で思い込んでいる)のはと妻だけなのだ、この冒頭の五分そこそこだけで観客に飲み込ませる。

 で、その疑似お母さんを失った四十路の大きなこどもがどうやって社会(西川美和作品のナガレからいえば「世間」)と健全な関係を構築していくか。それを手探りで求めていく話だ。その過程で、妻とは自分にとってどういう存在であったのか、逆に自分とは妻にとってどういう存在であったのかがわかっていく。わかったところで死んでしまっているので、どうすればいいんだよってなるところはなんとも西川美和っぽいというか。

 まあ他にも同じ事故犠牲者遺族であり妻の友人の夫でもあった竹原ピストルの子どものお守りを代行することを通じて「そして父になる」っぽい感じなる筋もあるんだけど、そこでも本木のフェイク野郎感が露呈する瞬間が描かれていて佳い。もっとも、予想していたよりはずいぶん本木に対してやさしい仕上がりになっているけど。
 本木はヤなやつだし、テレビマンは無神経だけど、全体的に悪人がいない系のお話だ。みんながみんなが完璧にオトナや人間やっていけてるわけじゃないけど、でもパーフェクトでないことに絶望する必要はない。要はおもいやりなんだよ。想像力なんだよ。人と人の(適度でわきまえた)関わり合いなんだよ。そういう感じ。


 あと映像的には、テレビドキュメンタリーを撮影してる最中にカメラのまえでキレだした本木に対してタックルをかますマネージャー(池松壮亮)の水平な横運動、ある諍いからリビングを出ていった本木を追いかけるときに椅子を蹴ってガタンと立つ竹原ピストルの垂直方向の縦運動、そのふたつがやたら快楽的に、自分のフェティシズムの在り処がまたひとつわかった感じです。


👍『ディア・ホワイト・ピープル(Dear White People)』(ジャスティン・シミエン監督)


Dear White People (2/10) Movie CLIP - Dining Hall Dispute (2014) HD

Dear White People Official Trailer #1 (2014) - Comedy HD

 ネットフリックスで視聴。
 アメリカの名門大学の学生たちが調子こいてミンストレル・ショー(白人が顔を黒く塗った黒人の装いで行うショー)にちなんだ仮装パーティを開いてめっちゃ怒られた実話をもとにした黒人青春群像劇。
 エスタブリッシュメントを目指して「いい子ちゃん」ヅラするエリート学生、リアリティ・ショーに出演して名声を得ることを目論む Youtuber 女子、「ディア・ホワイト・ピープル」という学内ラジオ番組でえんえん白人をディスりまくるDJ(『クリード』でマイケル・B・ジョーダンの恋人役をつとめ、『マイティ・ソー』シリーズの新ヒロインにも内定しているテッサ・トンプソン)、記者志望のゲイ、といった個性豊かな面々が、学校のダイバーシティ推進方針にもとづいて白人学生も住むようになった元黒人学生寮を中心としてドラマを展開していく。
 かなり黒人差別問題にコンシャスな作品で、当然、ステロタイプに批判的だ。ただ、単純に「こういうステロタイプはよくないよね」と言うだけじゃなくて、「こういうステロタイプはよくないよね」と言明することによって生じるある種のアイデンティティポリティクスのあやうさや、逆にステロタイプジョークの種に使わないと白人社会でサバイブできない哀しさなんかも描かれていて、なかなか一筋縄ではいかない。ここのあたりのバランス感覚は映画としては無類だとおもう。
 白人側(名門大学だけあってガワだけはリベラル)の描写にも「もう十分"譲歩"したじゃないか、これ以上なにが望みなんだ」というポリコレ疲れが反映されていてとても現在的。挙句の果てに「おまえら黒人は本当は公民権運動前が懐かしいんだろ? 戦うべき相手がいるから」などと運動家の学生に言っちゃう。
 映画というメディアの特性か、『フルートベール駅で』やスパイク・リー作品みたいなバリバリ社会派でさえ、日本人から観てて黒人差別のリアリティは伝わりづらいところが多い。スラムを舞台にしたギリギリな状況の作品が多いからかもしれない。そんななかで、中流以上*2における現在的な黒人の肌感覚を憑依させてくれる映画はなかなか貴重だ。

 ちなみに、ネットフリックスはこの映画をドラマ化する予定らしい。監督は同じくシミエン。主演はタイラー・ペリー*3のテレビコメディなどに出演していたローガン・ブラウニングや、歌手のブランドン・ベルなど。こちらもたのしみ。


👍『13th 合衆国憲法修正第13条(the 13th)』(エヴァ・デューヴァネイ監督)

 ネットフリックスで視聴。
 サブタイトルの「合衆国憲法修正第十三条」とは奴隷制を禁止した修正条項のこと。もちろん、黒人奴隷を解放する意図にもとづいた条項で、エイブラハム・リンカーンが1865年に制定した。この憲法修正を議会にどう通すかの駆け引きを濃密に描いたのが、スピルバーグの『リンカーン』だった。
 解放されても差別は残り、残った火種がKKKだったりセグレゲーションだったりして、公民権運動につながっていく。そうした対立の歴史を乗り越えて、2008年、ついに初の黒人大統領が誕生し、合衆国民はいつまでも仲良く末永く暮らしましたとさ、めでたしめでたし……。

 もちろん、嘘だ。差別は残りつづけ、なんとなれば奴隷制が存続してさえいる。
 現代の奴隷制、それは刑務所だと本作は主張する。
 全世界の囚人の25%がアメリカ合衆国国内に収監されており、その大多数は黒人だ。これだけ聞くと「やっぱり黒人は貧しい人が多いから、それで犯罪に走りがちなんだろうなあ」と安易に考えがちだが、話はそう単純じゃない。
 アメリカの抱える超長期的かつ構造的な黒人抑圧の歴史が暴き出され、わたしたちが漠然と抱いていた「黒人差別って要するにこういうことだよね」というイメージが刷新されていく。
  
 アメリカでは早くも今年を代表するドキュメンタリー映画という評価を受けているようだけれど、かなりコントラバーシャルな作品だから『ハンティング・グラウンド』や『ゴーイング・クリア』同様アカデミー賞レースにはもしかしたら絡まないかも。


👍『サイレンス(Hush)』(マイク・フラナガン監督)

Hush Movie Clip 1 - Netflix descriptive video, sign language, and subtitles

 ネットフリックスで観た。
 人里離れたコテージで過ごす聾唖の女性がイカれた殺人鬼に狙われるサイコ・スリラー。
 と言ってしまえは一行でコンセプトの説明はすむけど、結構テンプレを外してきてなかなかにユニーク。
 まず殺人鬼が仮面をかぶって幽霊みたいに現れる。やたら膂力があったり、気づいたらテレポートしてくる系の超人的なサイコ怪物なのかな? と思っていたら、わりあい序盤で仮面を脱いでしまう。
 女性がガラス窓に「私はあなたの顔を見ていない。しゃべれないから通報もできない。見逃してくれ」と書いて懇願するんだけど、それを見た殺人鬼が仮面を外してこう宣言する。
「これで顔を見たな? よし、殺す」
 ここから籠城する女性と攻める殺人鬼のガチバトルがはじまる。

 素顔の殺人鬼は、眼光こそ常ならぬものを帯びているものの、どこかナヨッとしたアンちゃんだ。
 じっさい、体力や筋力もせいぜい平均程度しかないため、女性が必死になって抵抗すると案外手痛い一撃を食らってしまう。
 いちおうボウガンが上手という特殊技能もあるにはあるのだが、そのボウガンと争ううちに女性に奪われる。
 しかも、攻めあぐねていると女性の友人の恋人であるマッチョ男がやってきて、あからさまに殺人鬼を訝しんでくる。
 体格差は一目瞭然であり、正攻法では殺人鬼はマッチョに勝てない。さてどうするのか――。
 と、「殺人鬼がわりと貧弱」という設定を加えるだけで予想外の方向からドラマがつぎつぎと生まれてくる。
 しかし、この殺人鬼も殺人鬼やっているだけあって殺したいという気持ちは人一倍。その殺る気もとい、やる気でもって全力で殺しにくるから迫ってくると超怖いし、緊張感は出る。

 女性側のドラマ描写も丁寧。弱者がいかに絶望的な状況で道を切り開くかというテーマ性のある作劇も両立できている。


👍『ハイライズ(High-Rise)』(ベン・ウィートリー監督)


映画『ハイ・ライズ』特別映像

 いいかげん書くのつかれてきた……。
 トム・ヒドルストンがイヌを焼いて食っていたり、子どもが暴動を起こしたり、マンションの上階から落下してきた男が車のボンネットにつきささる瞬間をウルトラスローモーションで撮ったり、まあそれなりに愉しい。


👎ジェイソン・ボーン(JASON BOURNE)』(ポール・グリーングラス監督)
 今回のライバルはスナイパー! というわけでスナイプシーンが都合三回くらい出てくるんだけど、どれも中途半端というか、『ミッション・イン・ポッシブル:ローグ・ネイション』のカッコよさをすこしは見習って欲しい。
 ただ、ラストのカーチェイスは「そこまでやるか」とわらっちゃうくらい過剰なんで一見の価値あり。


👍『SCOOP!』(大根仁監督)

【映画】SCOOP! 予告集 “特報”

 大人になれない大人たちの青春がグズグズに崩れていくさまはいつ観てもいいものですね。


👍『グッバイ、サマー(Microbe et Gasoil)』(ミシェル・ゴンドリー監督)

ミシェル・ゴンドリー監督の青春ムービー!映画『グッバイ、サマー』予告編

 夏休み映画のあらたなオールタイム・ベスト。
 よく女の子に見間違えられる少年とやんちゃ系少年の二人組がなんと自分らでキャンピングカーをこしらえてフランス横断の旅に出る。
 ミシェル・ゴンドリー映画の夢遊病めいたガジェットがあの年代特有の可能性と全能感に見事にマッチしていて、このうえないグルーヴを生み出している。


👏『淵に立つ』(深田晃司監督)

『 淵に立つ 』HARMONIUM (2016) Clips

 メトロノームにあわせてパーツごとに描出されるタイトルにやられ、夫婦の平穏な不穏さにやられ、浅野忠信のたたずまいにやられる。
 一家三人+浅野忠信のが朝飯を食うところを長回しで撮っているシーンがべらぼうにいい。浅野忠信だけめっちゃ食べるのが早いんですね。この時点では半分伏せられている彼の来歴(でもまあだいたいのひとはなんとなく察している)からすると当然なんだけど、絵面として見せられるとものすごい異物感。なんだかんだで同期している三人のなかに、ひとりだけBPMの違うやつが投げ込まれる。そのフレッシュさ。


👍『粒子への熱い思い(Particle Fever)』
 ネットフリックス。
 CERNによるヒッグス粒子発見を追いかけたドキュメンタリー。
 対立する二つの物理学理論があって、ヒッグス粒子の発見状況如何によってはどっちかが否定されてしまうかもしれない、というところに物語的クライマックスが置かれる。
「もし、あの理論が否定されたら、俺が五十年やってきたことは無駄になるよなー」と嘆息する老教授が印象的。そういうことだよなあ、新発見って。先日謎のカルトが侵入して儀式を行っていたとして話題になったシヴァ神像が、なぜCERNにあるかもわかります。


👍高慢と偏見とゾンビ(Pride and Prejudice and Zombies)』(バー・スティアーズ監督)

 『ランボー怒りの改新』(読んでないけど)みたいなもので、マッシュアップというのはいかに原作Aと原作Bのあいだを違和感なくスムースに行き来できるかにかかっている。そういう意味で、あらゆる事象がフラットに記述される小説という手段は比較的向いていて、逆に映画はそういうのがちょっと難しいのかもしれない。
 観る前はそんな心配をしていたけれど、無用な心配でした。
 ちゃんとゾンビ世界の世界観で『高慢と偏見』をやれている。


👍『ラスト・ウィッチ・ハンター(The Last Witch Hunter)』(ブレック・アイズナー監督)

 現代ニューヨークで生きる魔女たちの生態、というアイディアだけでノーベル『ジョン・ウィック』賞ですね。


👎『アングリーバード(Angry Birds)』(ファーガル・ライリ&クレイ・ケイティス監督)
 昨今の時勢的に(メキシコ系)移民排斥ととられかねないネタのオンパレードは原作要素をそのまま受け継いだせいらしいですが、それはそれとして洋邦ともに稀に見るアニメ映画の大豊作年である今年にあえて劇場へいって観るようなものでもなかったか。
 とりあえず、鳥が投石機から発射されて街を破壊する絵面はおもしろかった。
 破壊・崩落の快楽という点でも『コウノトリ大作戦!』に劣る気がするけれどもともかく。


👍『ドープ!(DOPE)』(リック・ファミュイワ監督)
 

映画『DOPE/ドープ!!』第2弾予告編

 ヨーロッパが『シング・ストリート』なら、アメリカは『DOPE』だ、ということで今年の青春音楽映画の双璧。
 黒人社会で生きるお勉強できる系オタク(九十年代ヒップホップマニア)を今ドキっぽい撮り方で撮る、というのはむしろ正攻法のヒップホップ映画より日本の映画ファンに伝わりやすいかんじがする。
 リック・ファミュイワはエズラ・ミラー主演の映画版『フラッシュ』を撮る予定だったみたいだけど、つい先日降板したそう。次何撮るんだろ。


👍『われらが背きしもの(Our Kind of Traitor)』(スザンネ・ホワイト監督)

『われらが背きし者』予告

 『ナイト・マネジャー』のスザンネ・ビアといい、ル・カレ映画を女性監督に撮らせる流れでも来ているのかしらん?
 内容自体は仁義〜ってかんじで佳いです。
 あと、『スーサイドスクワッド』の後遺症か、ヘリコプターが飛ぶシーンを長めに撮られると不安がはんぱない。


👍『何者』(三浦大輔監督)


『何者』予告編

 こころがいたい。

*1:ノア・エメリッヒが娼館にとらわれたポートマンを救出するシーンもよかった。

*2:黒人の中流家庭というのはイメージされているよりも割合的に多い

*3:本作の劇中では映画館に活動家の学生たちが押し寄せて「タイラー・ペリーもの以外の黒人向け映画を流せ! あんなクソ映画みたかねーんだよ!」と怒鳴り込むシーンがある

『君の名は。』はアカデミー賞を穫れるか? :今年の有力海外アニメ映画の状況

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 結論からいうと、たぶん無理。


『君の名は。』オスカー候補に名乗り!第89回アカデミー賞長編アニメ部門の審査対象作品に - シネマトゥデイ


 この一報を目にしたとき、「正気か?」と関係者の判断を疑った。
「『君の名は。』がオスカー穫れる実力なんてあるわけないじゃん」と言いたいわけではない。
 個人の感想はあるだろうれど、『君の名は。』が今年の日本アニメ界を代表する作品であることは間違いないし、数少ない海外批評家レビューや一般観客の評価でも大絶賛されている。
 世界のミヤザキの後継者筆頭として、例年ならば、受賞は時期尚早にしてもノミネートくらいされていたかもしれない。例年ならば。たとえば、『ベイマックス』が受賞したような年であれば。

 今年は、ヤバい。
 面子がすごい。

 去年が神心会空手の全国大会だとすれば、今年は最大トーナメントに最強死刑囚編と大擂台賽編をあわせたくらいヤバい。


 そういうわけで今年の海外アニメ全選手入場ッ!

アメリカ国内スタジオ組

 もともと激戦は予想されていた。

 なにせアナ雪(2013年度受賞)と『ベイマックス』(2014年度受賞)で二年連続のオスカー獲得を果たし、完全復活を遂げたディズニーが満を持してズートピア(Zootopia)』『モアナと伝説の海(Moana)』という二大大作をぶちこんでくるスケジュール。

『ズートピア』予告編

『モアナと伝説の海』予告編


 絶対王者ピクサーも負けじとオスカー受賞作*1ファインディング・ニモ』の続編、『ファインディング・ドリー(Finding Dory)』へ二度の受賞経験*2を持つベテラン、アンドリュー・スタントン監督を投入。

「ファインディング・ドリー MovieNEX」予告編


 この二大スタジオだけでノミネーション枠五枠のうち三枠は埋まるだろう。
 年度開始時点ではそう予想されていた。そして、実際に『ズートピア』と『ドリー』は記録的なメガヒットを飛ばし、両作とも全世界興収で十億ドルを突破した。十億ドルである。円ではない。ドルで、十億。米国内だけの興収を観ても、現時点で『ドリー』が約四億八千五百万ドルで堂々の第一位。『ズートピア』も『バットマン vs スーパーマン』を上回って約三億四千百万ドルで第六位にランクインしている。
 当然ながら、両者ともに批評家の評価も高い。特に『ズートピア』は全米の映画批評家の実に九十八%が支持*3しており、公開当初は「今年はこれで決まり!」の声も高かった。
 『モアナ』はまだ日米ともに未公開であるが、スタッフからキャストまで『ズートピア』以上の豪華メンツを集め、前評判は相当に高い。今年の上半期に公開したために印象の薄れてしまいがちな『ズートピア』の先行をひっくりかえして、一気に受賞本命となる可能性も大いにありうる。


 ところが、ディズニー/ピクサーのライヴァルたちも今年はなぜか気合が入りまくっている。

 米国内のスタジオとしてはディズニーに肩をならべるノミネート常連であるドリームワークス。
 ドリワはディズニーのハワイアンミュージカル『モアナ』に対抗すべく、歌手のジャスティン・ティンバーレイクアナ・ケンドリックといったミュージカル映画で既に確固たる評判を確立した鉄板俳優を主演声優に据え、名曲カバーとオリジナル楽曲の二正面ミュージカル『Trolls』を制作。
 アメリカではつい先週公開され、マーベルの話題作『ドクター・ストレンジ』に続き二位にランクインした。批評家の反応も上々だ。特にサントラは高評価を受けている。主題歌はアカデミー歌曲賞へのノミネートが有力視されている模様。

TROLLS | Official Trailer #1


 また、ドリワは一月に『カンフーパンダ』シリーズの最新作『カンフーパンダ3(Kung Fu Panda 3)』を公開し、世界興収五億ドル(国内一・四億)を達成。広範に支持を獲得しており、「シリーズ最高傑作」の呼び声も高い。今となってはすっかりかすんでしまった感があるけれどもまあがんばれ。

映画「カンフー・パンダ3」予告1


 米国内スタジオでは過去作すべてでノミネーションを経験しているストップモーションアニメ界の雄、ライカ(『コラライン』や『パラノーマン』など)を忘れてはいけない。
 悲願の初オスカーを狙うライカはジャポネスク趣味に振った渾身の大作『Kubo and Two Strings』を発表。これが元々評価の高かったライカでもずばぬけた会心作として批評家筋で絶賛を受け、オスカー戦線の大本命に躍り出た。ジャポネスクがオスカー戦線で強いのは『千と千尋の神隠し』と『ベイマックス』で証明済み。

KUBO AND THE TWO STRINGS - Official Trailer [HD] - In Theaters August 2016


 新作をリリースするごとに総スカンを食らってきたガッカリの殿堂ソニーも今年は何かが違う。
 そう、現在日本でも公開中の『ソーセージ・パーティ(Sausage Party)』があるからだ。
 アメリカコメディ界で猛威を奮うセス・ローゲン&アキヴァ・ゴールズマンのコンビ(『ディス・イズ・ジ・エンド』等)が初のアニメに挑戦した本作は、そのお下劣ネタの嵐で下ネタ大好きなアメリカ人から賞賛を浴びまくった。

映画 『ソーセージ・パーティー』 予告

 これも日本で現在公開中だが、コウノトリ大作戦!(Storks)』も忘れちゃいけない。
 ピクサーお家芸である疑似家族・子育て系ロードムービーにしょーもないスラップスティックギャグをまぶした正統派家族向けアニメである。こちらもセス・ローゲンらと同じ「アメリカ・コメディ界のゴッドファーザー」(by 長谷川町蔵ジャド・アパトー一派出身のニコラス・ストーラー監督。

映画『コウノトリ大作戦!』本予告【HD】2016年11月3日公開

 ちなみに同じトリネタだと『アングリーバード(Angry Birds)』もあったけど……まあこれは無理か。


 『怪盗グルー』のフランチャンズでヒットメーカーとしてのしあがり、次世代のピクサーの呼び声も高いユニバーサル傘下イルミネーション・スタジオからはキュートな二作品がエントリー。
 このうちペットたちの知らざる日常と冒険を追った『ペット(The Secret Life of Pets)』は国内三・六億ドル(世界八・七億ドル)を稼ぎ、国内興収ランキングでは目下のところ『ジャングル・ブック』を二百万ドルの僅差で抑えて年間三位にランクイン。ディズニー勢の一位二位三位独占を阻んでいる。
 米国屈指のドル箱スタジオであるにもかかわらず、賞レースではあまり恵まれてこなかったイルミネーションだが、『ペット』は作品としての評価も高いだけに期待が持てる。

映画『ペット』吹替版予告編

 しかし、イルミネーションの本命はなんといってもミュージカル映画『SING/シング(SING)』だろう。『銀河ヒッチハイクガイド』や『リトル・ランボーズ』といった実写映画でカルト的人気を博すガース・ジェニングスを監督・脚本に迎え、主演にマシュー・マコノヒー、助演にリース・ウィザースプーンセス・マクファーレンスカーレット・ヨハンソンジョン・C・ライリー、タロン・エジャートン、レスリー・ジョーンズといった超豪華声優陣で同じく有力ミュージカルである『モアナ』や『Trolls』を迎え撃つ。一説には、エドガー・ライトウェス・アンダーソンカメオ出演するとか。本気だ。
 先行レビューでの評判も上々だが、一方でトロント国際映画祭ではあまり評判がよくなかったなどの不安材料もある。

映画『SING/シング』日本語吹替え版 特報


 昨年、『I LOVE スヌーピー(Peanuts the movie)』でゴールデングローブ賞ノミネートを果たした21世紀フォックス傘下ブルー・スカイ・スタジオだが、アメリカの主要スタジオでは唯一元気がない。『アイス・エイジ』シリーズ五作目となる『Ice Age: Collision Course』は批評的にも興行的にも大失敗してしまった。これでシリーズは打ち止めか?

 あと独立プロダクション系は情報少ないのでよくわからないんですが、1966年に起きたテキサスタワー銃乱射事件を描いたアニメドキュメンタリー『Tower』が今年公開された映画全体の中でもトップクラスの評価を受けてます。

www.youtube.com

 ただ、これはアニメ枠じゃなくて長編ドキュメンタリー部門行くかなあ。


ヨーロッパからの刺客

 長編アニメーション賞では「ヨーロッパ枠」とでも呼ぶべきか、毎年必ずヨーロッパ系アニメが毎年一作はノミネートされる。暗黙の了解みたいなものだけれど、大変に意義のある文化的なコンセンサスでまことにけっこうだと存じますが、こういう福祉のせいで『レゴ・ムービー』みたいな作品がノミネートを逃すこともあると思うと結構複雑。
 逆にゴールデングローブ賞みたいにアメリカ作品オンリーイベントみたいな顔ぶれになられてもそれはそれでアレなんですが。


 ヨーロッパの雄フランス勢は2010年代に入ってから『イリュージョニスト(L'Illusionniste)』(2010年)、『パリ猫ディノの夜(Une vie de chat)』(2011年)、『アーネストとセレスティーヌ(Ernest et Célestine)』(2013年)とノミネート作を三作品輩出している。
 あにはからんや、今年はそのフランス勢が史上稀に見る大豊年だ。

 まず有力視されているのが世界最大規模を誇る国際アニメーション映画祭、アヌシー国際アニメーション映画祭で2015年に最高賞に輝いた『April and the Extraordinary World(Avril et le Monde Truqué)』だ。スチームパンクな世界観の十九世紀パリを舞台に想像力豊かかつエレガントに描き出した活劇は、すでにアメリカでも多数の評論家から最高級の支持を獲得している。

April and the Extraordinary World Trailer 1 (2016) - Animated Movie HD


 その『April』を2016年のセザール賞(フランスのアカデミー賞に相当)の長編アニメーション賞で破ったのが日本でも昨年公開された『リトル・プリンス 星の王子さまLe Petit Prince)』だ。サン=テグジュペリの名作寓話を原作にした『カンフー・パンダ』のマーク・オズボーン畢生のプロジェクト。製作国こそフランスだが、俳優は英語圏の有名俳優がずらりとならんでおり、当然劇中で話される言語も英語。
 その評価の高さにもかかわらず、アメリカでは配給元が見つからなかったせいで公開が遅れてしまい、一時はお蔵入りさえ危ぶまれたが、我らが NETFLIXが男気を見せて配給を買って出た。
 そういう経緯もあってか、日本でもNETFLIXで観られるようになっている。

映画『リトルプリンス 星の王子さまと私』日本語吹替版予告編【HD】2015年11月21日公開


 この二作に負けず劣らずの評判なのが2016年のアヌシーで最高賞をかっさらった人形アニメ『My Life as a Zucchini(Ma vie de courgette)』。すでに鑑賞した数少ない批評家のあいだでは『君の名は。』に劣らぬ大絶賛を浴びている。アヌシーの異なる年の覇者が同年度内にぶつかりあう椿事もまた二〇一六年度の魔性ゆえか。

My Life as a Courgette / Ma vie de Courgette (2016) - Trailer (English Subs)


 だが、フランス勢の真打ちはなんといっても日本でも(おもにスタジオ・ジブリ製作と圧倒的な不入りで)話題になった『レッド・タートル』だろう。厳密にはフランスと日本の共同制作だが、監督はフランス人。先のカンヌ国際映画祭ではある視点部門*4で特別賞を獲得。前評判の高さは折り紙付きだ。その息を呑む映像美と映画的表現でどれだけの観客を魅了できるか。

『レッドタートル ある島の物語』予告


 ヨーロッパ勢のダークホースともいえるのは、フランス・デンマーク共同制作の『Long Way North(Tout En Haut Du Monde)』。北極点を目指す途上で行方不明になった祖父を探すため、勇敢な孫娘が旅に出る本作は、東京アニメアワードフェスティバル2016のコンペ部門でグランプリを獲得した。
 アメリカでは九月にひっそりと限定公開され、その独特のタッチと魅力的なアニメーションで高評価を獲得。賞レースの有力なコンテンダーのひとつにかぞえられる次第となった。

Long Way North Official Trailer 1 (2016) - Rémi Chayé Movie


 上記フランス五人衆からすれば格はやや落ちるものの、2015年の東京アニメアワードフェスティバルでコンペ部門優秀賞*5を獲得した『Mune: Guardian of the Moon(Mune, le gardien de la lune)』もあなどりがたい。

Mune: The Guardian of the Moon Trailer (2015) HD


 2011年のアカデミー賞ノミネート作『パリ猫ディノの夜』の監督コンビ、ジャン=ルー・フェリシオリとアラン・ガニョルが放つスーパーナチュラル冒険物語『Phantom Boy』もアメリカですでに公開されて高い支持を得た。*6

Phantom Boy (2015) - Trailer English


 以上、このなかから最低一作は最終ノミネーション入りするものとおもわれる。が、別のヨーロッパ作品(イギリスあたり)や去年みたく南米からという手もあるので油断はできない。最近は中国アニメ(『Monkey Magic』あたり?)もがんばってることだし。乱入者は地下バトルにつきものである。
 カナダでもエル・ファニングデイン・デハーン主演バレリーナ映画『Ballerina』や、ジェイムズ・マーズデン主演のオリジナルスーパーヒーロー映画『Henchmen』の郊外が控えていて、いまのところ評判は一切聞こえてこないもののおもしろそう。

 そういえば、今年は『ウォレスとグルミット』のアードマンスタジオはなにも出さないのかね。

日本代表たち。

 去年まで三年連続で最終ノミネーション入りを果たしていたジブリは死んだ。

 では日本の映画アニメーションもまた死んだのか?

 そうではない。そう謳うのは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国』の巨匠・原恵一だ。彼は敬愛する杉浦日向子の原作漫画をもとに大江戸ロマネスク百日紅(Miss Hokusai)』を送り出し、海外のアニメファンたちを江戸の虜にした。現状、日本勢で最終ノミネーション入りが最有力視されているのは本作である。

Miss Hokusai Official US Release Trailer (2016) - Animated Movie


 この予想に待ったをかけたのが我らが『君の名は。(Your Name.)』である。

君の名は。』は最最最終候補五作に残ることができるか?

 冒頭のリンク記事にもあるように、アカデミー賞の対象になるためには期間内、具体的にいえば今年の一月始から十二月末までのあいだにロサンゼルスの劇場で一定期間興行しなければならない。上に挙げた作品、特にヨーロッパ系だとその条件を満たせないものも出てくるかもしれない。

 で、その条件を満たした作品のなかからまず十数作がショートリストとしてしぼられる。去年は十一月の今の時期あたりにショートリストが出ていたような気もするけれど、今年はまだ見ない。

 そして、最終的にその十数作のショートリストから更に五作品を絞込み、二月の本番を迎えるわけだ。

 わたしたちの最大の興味はこの最終五作品にどれが残るか、だ。
 はじめに「『君の名は。』は無理目かも」といったけれど、絶望的に芽がないわけでもない。
 アメリカで受ける日本映画はオリエンタルな要素が強い。長編アニメーション賞の日本勢唯一の受賞作が『千と千尋の神隠し』であることを思い出していただきたい。
 そこへもってきて、『君の名は。』はど田舎の学園風景、TOKYOのゴミゴミとした雑踏、なんだかファンタスティックな神話要素などといったものがとにかく美しく描かれている。僕はアメリカ人じゃないのでアメリカ人の好みをよく知りませんが、なんかアメリカのお菓子とか見てると毒々しいまでにキラキラしてるし、きっとキラキラしたアニメも好きなんじゃないかな。

 このキラキラオリエンタル推しがハマれば、カブトムシの鎧武者とかが出てくる『Kubo and Two Strings』などはいくらアートワークが上等だろうと所詮エセ日本。モノホンのクールジャパンの敵ではないはず。たぶん。
 しかし、モノホンのクールジャパンといえばミス・ホクサイこと『百日紅』も控えているわけで、こちらはチョンマゲ、サムライの時代を扱っているだけあってよりオリエンタル感では強い。ゲエ―ッ、なんということだ、敵は身内にいたのか。

 もっともアートとエンタメがぶつかれば、エンタメが勝つのが長編アニメーション賞の風土だ。見た目にもわかりやすい『君の名は。』は『百日紅』より支持を得やすいことは明らかである。おや、意外と芽があるかんじになってきたぞ。
 こんな感じのノリで、三年連続ノミネートされてきたジブリ枠の浮いたところへ日本代表として滑りこめば意外とノミネートまではいけるかもしれない。
 いやいける。
 きっといけるぞ!
 うおーっ。

わたしの最終ノミネーション予想。

 そういうわけで以下が僕の最終候補五作品の予想です。


 『Kubo and Two Strings』
 『ズートピア
 『ファインディング・ドリー
 『レッド・タートル』
 『APRIL AND THE EXTRAORDINARY WORLD』

    • 次点---

『モアナ』
百日紅
『ペット』
『リトル・プリンス』
『Longways north』
君の名は。
『My Life as a Zucchini』


 受賞をあらそうならエンタメが勝つのが長編アニメーション賞だけど、日本勢に求められているのはアートなのよね……まあでもあっちの人からすれば『君の名は。』は全然アートかもしれない。
 それはともかく、『ドリー』は入るか微妙なんですよね。続編だし。アメリカアニメーション史上最高の興収をあげたからには入れないわけにはいかないと思いますが……。


 受賞は『Kubo』になったらいいなと思います。
 いいかげんライカアニメの日本でのほっとかれ具合がやばいので、受賞でもしてくれないと日本で公開してくれないのでは? という思いがあります。


The Art of Kubo and the Two Strings (The Art of...)

The Art of Kubo and the Two Strings (The Art of...)

*1:2003年度

*2:『ニモ』と『WALL-E』

*3:RottenTomatoes.com調べ

*4:コンペ部門の二部みたいなもん

*5:最優秀賞は『ソング・オブ・シー』

*6:日本でも広島国際アニメーションフェスティバルで上映されたそう。観たかったなあ。

第八十九回(2016年度)アカデミー賞長編アニメーション賞候補のショートリスト

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 が、11日に発表になりました。

www.oscars.org

『アングリーバード The Angry Birds Movie』
『April and the Extraordinary World』
Bilal
ファインディング・ドリー Finding Dory』
『Ice Age: Collision Course』
『Kingsglaive Final Fantasy XV
『Kubo and the Two Strings』
『カンフーパンダ3 Kung Fu Panda 3』
『リトル・プリンス 星の王子さま The Little Prince』
『Long Way North』
百日紅 Miss Hokusai』
『モアナと伝説の海 Moana』
西遊記ヒーロー・イズ・バック Monkey King: Hero Is Back』
『Mune』
『Mustafa & the Magician』
『My Life as a Zucchini』
『Phantom Boy』
『レッド・タートル The Red Turtle』
『ソーセージ・パーティ Sausage Party』
『ペット The Secret Life of Pets』
『シング/SING Sing』
『Snowtime!』
コウノトリ大作戦! Storks』
『Trolls』
『25 April』
君の名は。Your Name.』
ズートピア Zootopia』


 だいたい前の記事で言及していた面子が順当に残った印象。
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 日本勢からは『百日紅』と『君の名は。』のほかに『Kingsglaive Final Fantasy XV』が入っていますが、これは圧倒的に評判悪いし、知名度的にも劣るのでまあ賑やかしでしょう。


 ショートリストのなかで初めてみる顔なのは『25 April』、『Mustafa & The Magician』、『Bilal』と『Snowtime!』。

 なかでもBilalは異色。製作国はUAEで、ドバイにスタジオを構える Barajoun Entertainment が放つアニメ映画の第一作です。
 内容はイスラム教の聖人であるビラール・ビン=ラバーフの伝記映画。
 1000年ほど前のアラブのとある国を舞台に、田舎から攫われて街で奴隷として育った黒人少年がムスリムに改宗して己の運命を知るアドベンチャー大作、らしい。
 注目すべきはその本気度。予算3000万ドルで、アラブの話なのに劇中で話されるのは全編英語。その映像クオリティも米国の大手スタジオと比べてもあまり遜色ありません。
 キャラデザのルックも新鮮ですね。デフォルメされたキャラクターが世界的に主流な時代にあって、『Bilal』はかなりリアル寄り。しかし技術力の高さと隠し味のようにほんのりと施されたデフォルメのおかげで、観客にもかなり受け入れやすいビジュアルになっています。おそるべし、石油マネー。

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 『Snowtime!』はカナダの子供向けアニメ。いちおう原題こそ英語ですが、カナダといってもフランス語圏のケベックのアニメなので、『La guerre des tuques』というタイトルもつけられています。
 内容は子どもたちが集まってキャッキャウフフと雪合戦するだけのお話っぽいです。
 まあこれも本選には絡まないかな。

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 あとヒロインがかわいい。

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 『25 April』ニュージーランド製で、ショートリストに挙がったなかでは唯一のアニメ・ドキュメンタリー作品。第一次世界大戦ニュージーランドが初めて海外に遠征した(そして大敗した)「ガリポリの戦い」に参加した若者たちの群像劇です。
 ガリポリの戦いでは2800人のニュージーランドの若者が失われたそうで、100年経った今でも国家的なトラウマだそうですが、その悲劇性がアメリカ人にどの程度伝わるかは疑問です。
 とはいえ、戦争ドキュメンタリーアニメといえはアリ・フォルマンの『戦場でワルツを』の輝かしい前例があるだけに、仕上がりによってはあるいは……。

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 『Mustafa & The Magician』についてはまったくといっていいほど情報がありません。
 ググるといちおうそれっぽい公式サイトがヒットするのですが……。

Mustafa & The Magician

 予告のビジュアルから公式サイトからとにかく何もかもショボい。
 イラクを舞台にした話であるようなので、製作もイラクなのかな?


11月に観た新作映画

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👍『疾風ロンド』(吉田照幸監督)
👍『エブリバディ・ウォンツ・サム!』(リチャード・リンクレイター監督)
👍『シークレット・オブ・モンスター』(ブラディ・コーベット監督)
👍『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(デビッド・イエーツ監督)
👍『この世界の片隅に』(片渕須直監督)
👎『きんいろモザイク Pretty Days』(天衛監督)
👎『ガール・オン・ザ・トレイン』(テイト・テイラー監督)
👍『溺れるナイフ』(山戸結希監督)
👍『ダゲレオタイプの女』(黒沢清監督)
👎『ぼくのおじさん』(山下敦弘監督)
👍『コウノトリ大作戦!』(ニコラス・ストーラー監督)
👍『手紙は憶えている』(アトム・エゴヤン監督)

11月は『この世界の片隅に』、『エブリバディ・ウォンツ・サム!』、『ダゲレオタイプの女』でスリートップ
次点が『溺れるナイフ』と『手紙は憶えている』ですかね。
『このせか』は人間が物理的にも精神的にも押しつぶされていくのがいいです。
『エブリバディ〜』は人間が物理的にも精神的にもハッピーなのがいいです。
『ダゲレオタイプの女』は人間が階段から落ちる映画です。人間をブツとして、被写物として固定したがるオブセッションは映画監督としての自己批評そのものなのかもしれない。『溺れるナイフ』の緩急というにはあまりにてらいすぎているカット割りの変調が嫌いじゃないし、音楽の使い方にいたっては大好きです。『手紙は憶えている』はもっていき方ですね。オチは予告編見ればまず予想ついて、本篇半分くらいみればほぼ確定するんですが。
『シークレット〜』は期待はずれだと聞かされ観に行くと予想よりも悪くない。トム・スウィートは見目麗しさだけじゃなくて何かたたずまいで持っていきますね。『疾風ロンド』は聞かなくても期待〇で、実際瑕疵も多い(とくに「温度が十度以上になると生物兵器の入ったビンが割れる」という設定はほとんど無視。あと演出の全部)んですが、人情群像劇とコメディとサスペンスをうまい按配でからませる脚本の手筋はインテリジェント。ギャグをそのまま伏線として使える次元までくれば『21ジャンプストリート』の背中が見えるかもしれない。
コウノトリ』ね。全体的にどうとかではないんですが、細かいギャグが好きですね。狼の群体とペンギンとの静かなる決闘

11月はシアターライブ系が好調でしたね。ケネス・ブラナー・シアターライブの『ロミオとジュリエット』もNTLの『戦火の馬』も。

2016年に見た新作長編アニメ映画ベスト24+α

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シーズンですね。今年はやたらアニメ映画を観た気がしました。なんででしょうね。まあいいか。
ベスト24と言っても、今年観た新作アニメ映画が全部で24本というだけです。

ズートピア』と『聲の形』と『ファインディング・ドリー』は三回くらい観たと思います。あとは全部一回ずつでの印象です。
ではまいりましょう。

 長編のベストの前に短篇のベストの紹介を。

神『ひな鳥の冒険』(アラン・バリラーロ監督、ピクサー

 『ファインディング・ドリー』の併映短篇。シギのひな鳥が自力で餌を取れるようになるまでを描く。

 とにかく、神、としかいいようがない。浜辺の砂の一粒一粒、小鳥の眼に揺れる光のひとつひとつ、画面に映るすべてに奇跡が宿っている。あらゆる瞬間が現実以上に生きている。無機物から生命が発生したというのも、この短篇を観たなら信じられる。

ベスト5

☆『ズートピア』(リッチ・ムーア&バイロン・ハワード監督、ディズニー)

 擬人化された動物たちの街で発生した連続失踪事件を、理想主義的なウサギの警官が厭世的な詐欺師のキツネをバディに捜査するクライム・サスペンス。


 言いたいことはだいたいブログ記事のほうで言ったんで、いまさら特につけくわえることもありません。3DCG、アニメーション、ストーリーテリング、映画、おおよそ技術と名のつくものの粋であり、ディズニーアニメ史に残る傑作です。

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2『聲の形』(山田尚子監督、京都アニメーション

 元いじめっ子兼元いじめられっ子の高校生が、昔いじめていた聾の少女に再会してさあどうすんの、っていう青春ドラマ。大今良時の漫画原作。

 これもだいたい言いたいことはブログのほうで言ったような気がする(けど感想的な部分はあんま出してない気もする)。


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 なんだかんだで一番好きなのは、動作のディティールなのかもしれません。
 小学生時代の植野が遊具を伝わせる指。
 将也を追い出した結絃がパイプ椅子に腰掛けながらぼんやりと雑誌のページをいじる指。
 画面が豊かである事実そのものが、作品のテーマにかかわってきます。

3『この世界の片隅に』(片渕須直監督)

 戦時中に広島から呉に嫁いできた若い女性が、だんだんとどん詰まりになっていく日本をかろやかにでも必死に生き抜いていくさまを描く戦時下日常ドラマ。こうの史代の漫画原作。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 戦争の暴力、と聞くと、まあ『プライベート・ライアン』の冒頭みたいに弾丸がガンガンとんできて冗談みたいに兵士が死んでいく戦場を人は連想しがちなものですが、近代戦が総力戦である以上、後方にも暴力は波及してくるわけですよね。それも『アドルフに告ぐ』の峠草平みたいな、いかにも波乱万丈の人生を送っている人間でなくったって、さしあたって思想を表明せず日々洗濯して買い物して掃除して裁縫してメシ作って愛を営んでいる主婦だって、ちゃんと区別なく戦争から殺しにこられます。
 わかりやすいのは空襲ですよね。空が蹂躙される。焼夷弾が降ってくる。みんなの家が燃える。家が燃える、というのは映画では大変なことです。家族、ふるさと、アイデンティティの帰属先、それがいっぺんに失くなってしまうのですから。
 でも、空襲や爆弾ばかりが脅威であるとはかぎらない。怪我や病気、物資の不足、官憲による統制、出征した家族の戦死、それらは主人公のすずに襲い掛かってくる暴力ですが、彼女以外だって、たとえば娼館で働く女性は色街から一生出られない。昭和二十年ですよ。すげえ時代だな、と思います。
 現代と比べるとそりゃあすさまじいというか凄惨な状況なわけですけれど、それでも人間はそこそこに生きている。二重に、すげえ時代だな、と思います。話がちょっと変わりますけど、わたしはミステリ作家や文豪が戦時中につけてた日記やエッセイを読むのが好きで、といってもごくたまに読むくらいですけど、そんなたまの機会に毎回、みんなそこそこに生きていたことに驚かされます。みんな普通に泣いたり笑ったりくだんないことやってたり悪態をついたり怒ったり食べたり死んだりしていて、まあでもよくそういうことを戦争中にできるな、と思う。戦争中に小説とか読んでる場合じゃねえだろう。そう思うんだけど、でも読む人は空襲受けようがなんだろうが読む。どころか、戦地に行っても読んでる。なんか岡本かの子とかスタンダールとか読んでる。読んで、つまんねえよな、とか日記に書く。人が死んでるんですよ。人がわりとイレギュラーな形で死んでるのに、小説を読んでつまんないとか感じて書く。感じられて、書ける。生きてます。大変なことです。
 全然話ズレちゃいましたけど、だから、簡単に死ねる時代に生きてるってすごいんだなあ、という映画です。

4『ファインディング・ドリー』(アンドリュー・スタントン監督、ピクサー

 『ファインディング・ニモ』の続編。健忘症のナンヨウハギ、ドリーが両親の存在を思い出し、再会すべく旅に出る。

 基本的に世間に出しちゃいけないレベルでダメな人に対してやさしい映画に弱いんですけど、これもそういう類で、映画館で泣きました。今年の映画で、他に泣いたのは『マダム・フローレンス!』くらいですね。
 ドリーは『ファインディング・ニモ』のころから病的なまでに忘れっぽいキャラとして描かれてきました。その忘れっぽさはすさまじく、何かを話している最中に数秒前に話していたことを忘れて混乱してしまうほどです。まず、一人(魚だけど)でまともな社会生活を営める人(魚だけど)ではありません。


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 でも、そういうあなたでも、あなたとして、ちゃんと生きていいんだよ、と『ファインディング・ドリー』では言ってくれる。
 理想主義的だけど、絵空事ではないレベルでの地に足のついた(もちろん魚ですから抽象的な感じではるんですけど)処方を用意してくれていて、物語もそのために作りこまれている。『ズートピア』同様、『ドリー』がひとやまいくらの教条的な訓話に堕していないのは、テーマを伝えるために物語面で妥協をしていないからだと思う。ただ『ドリー』の場合は、ちょっとテーマにひっぱられすぎているのは否めないかなあ、とも。
 監督が大御所のスタントンだとピクサーご自慢のブレイン・トラストが十全に機能しないんですかね。

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5『劇場版 探偵オペラミルキィホームズ 〜逆襲のミルキィホームズ〜』(森脇真琴監督、J.C.STAFF

 TVアニメ『探偵オペラ・ミルキィホームズ』の劇場版。あらすじはよく憶えてないけど、またトイズがなくなって気がする。

 思えば、といって思いさえすればなんでも放言してかまわないのではないのだろうけれど、『探偵オペラミルキィホームズ』はシリーズを通じてずっっっっっっと、探偵小説における「探偵」の存在についてラジカルな問いを投げかけてきたアニメだった。問いとは、究極的に、「探偵とは『推理する能力』がなくても、なお探偵でいられるのか?」ということだ。
 この麻耶雄嵩ばりの探偵論物語に、劇場版では回答が出る。
 先んじて言ってしまえば、探偵とは、能力ではない。資格でもない。まして職業などでは絶対にない。
 態度なのだ。
 自分が探偵である、という心意気さえあれば、世界は自然にあなたを探偵にしてくれる。
 私がなにを言ってるのかわからない向きは、是非『劇場版 探偵オペラミルキィホームズ』をご覧になってほしい。それでもわからないなら、それでいい。ミルキイホームズが真犯人を指摘するときに頬を伝うであろうその涙が本物でさえあるのなら、他に何も要らない。*1
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以下それ以外。

基本的には楽しめた順で並べています。降るにつれて雑になっていくのはそのせいです。まあ、作品同士でそんなに差はないですが。観ればだいたい面白いです。

君の名は。』(新海誠監督、コミックス・ウェーブ・フィルム

 あらすじは全国民が知ってるだろうし省略します。

 ぼくの周囲ではロジックで物事を見る人が多いせいか評判悪かったんですが、まあでもエモいからいいじゃん、感情でつながってるからつながってるじゃん、RADWIMPSでアガるからいいじゃん、でいいじゃん、じゃないですか。
 ところで、
 なんでみんなRADWIMPSを憎むのでしょう?
 なんでみんな中高生のころにRADWIMPSを聴いていた記憶を嘘にしたがるのでしょう?
 変質したのは野田洋次郎ではなく、あなたなのでは?
 心が身体を追い越してきたのでは?
 銀河何個分かの果てに出逢えたその手を壊さずにどう握ったらいい?

 あと観たらみんな必ずゆきちゃん先生の話をしますね。ぼくは、ゆきちゃん先生の鬱はまだ治ってない派です。

『ソング・オブ・ザ・シー』(トム・ムーア監督、カートゥーンサルーン

 あざらしの妖精ケルピーのお母さんと人間のおとうさんとのあいだに生まれた兄妹の話。家族の話。

ソング・オブ・ザ・シー 海のうた (オリジナル・サウンドトラック)

ソング・オブ・ザ・シー 海のうた (オリジナル・サウンドトラック)

『ブレンダンとケルズの秘密』のトム・ムーアの映画を観ない、とは選択というよりむしろ敗北主義的な自殺に近くて、公開されたからには観に行かねばならないわけです。観るわけです。当然のごとくすばらしいわけです。
 『ケルズの書』のカリグラフィーを下敷きにした『ケルズの秘密』のスタイリッシュさはさすがにちょっと薄れていたものの、そのぶんアニメーションの快楽が前面に押し出されていた印象(魔女の頭が膨張するシーンとかちょっと宮﨑駿っぽかった)。
 でもまあ、なによりキャラクターのかわいさですよね。ヒロインのシアーシャは跳ねた前髪を直す仕草がいちいちかわいいし、主人公ベンの親友であるイヌ(オールド・イングリッシュ・シープドッグ)もでかくてかわいいし、アザラシたちも最高にキュート。人がアザラシに、アザラシが人にメタモルフォーゼする瞬間はたぶん手塚治虫に観せたら失禁しながら号泣してスケッチとるレベルですよ。
 お話も、きょうだい、父子、母子、祖母と孫、少年と犬といった複合的な家族の関係をあますところなく優しくたおやかに掬い取った物語で、ご家族誰もが愉しめること間違い無し。

KING OF PRISM by PrettyRhythm

 あらすじ:これがプリズムショーかあ〜〜〜〜〜〜。

 感想:これがプリズムショーかあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

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 話としては至極どうでもいい(どうでもよくないんだと主張する勢力も存在しますが、彼らを招き入れてはなりません。悪魔のささやきであり、聞いたが最期で死にます)んですが、映画館で得られる体験としては突出してユニークであり、圧倒的。自分がなにをされているのか、なにを見せられているのか、なにを感じさせられているのか理解できないまま、自失と涜神の六十分が過ぎていく。
 観終わった直後はこの看過しえない体験をノーマライズしようと、自分を説得にかかることでしょう。
 あれは話としてはなんてことないんだ。ああいう仕掛けのアニメはキンプリがはじめてなわけじゃない。ただ、みんなが狂っている狂っているといっているからそう思い込んでしまっただけ。
 やがて人はキャラや設定の話に逃げます。
 あのキャラは変だよね、設定どうなってるんだよ、あのシーンはおかしかったよね。バカだったよね、そうバカな映画だった。ははは。


 全部うそです。逃避です。


 現実を直視なさい。
 キンプリはアニメではない。
 キンプリは映画ではない。
 キンプリは聖書ではない。
 キンプリはあなたが精通したときに左手に握りしめていた安いエロ雑誌ではない。
 キンプリはワンショット六十分の映像ドラッグです。
 脳へダイレクトアタックする人造ウィルスです。それは伝染し、拡散され、やがて地上を覆い尽くします。逃げ場はありません。体験は有限ですが、滅びは永遠です。
 あとに残るのは、廃墟となった京都イオンシネマの七番スクリーンだけなのです。
 観るもののいなくなった大画面に、七夕の夜のプリズムショーが無限にリピートされます。
 一日二十四回、精確に繰り返されます。その光景は、二十四コマで二十四回繰り返される映画一秒あたりの死に一致します。「ということは、映画というメディアはキンプリを上映するために生まれたのか?」

 その問いかけに答える人間は、もう地上のどこにも存在しません。
 あとに残るのは、廃墟となった京都イオンシネマの七番スクリーンだけなのです。
 観るもののいなくなった大画面に、七夕の夜のプリズムショーが、一日に二十四回、一秒に二十四コマ……。



『アノマリサ』(チャーリー・カウフマン&デューク・ジョンソン監督)

 ビジネス書で一山当てた男が講演先のホテルで「運命の女」に出会う。他の人間たちが全員同じ顔見え、同じ声に聞こえていた男の眼には、その女性、リサだけは違う顔、違う声を持っているように見えた……。『脳内ニューヨーク』のチャーリー・カウフマン監督作。

 人形をコマ撮りする、いわゆるストップ・モーションと呼ばれる手法で作られた作品。『ウォレスとグルミット』とか『コララインとボタンの魔女』を想像していただけるとわかりやすいでしょうか。
 人形アニメ部分を担当したデューク・ジョンソンはデューク・ジョンソンで、アメリカTVコメディ界の仕掛け人ダン・ハーモンとの絡みでなかなか興味の尽きない人ではあるのですが、『アノマリサ』はやはりチャーリー・カウフマンの映画と言ったほうがいい。
 おもいだしてください。『マルコヴィッチの穴』のチャーリー・カウフマンです。『エターナル・サンシャイン』のチャーリー・カウフマンです。『存在の耐えられない軽さ』のフィリップ・カウフマンではありません。チャーリー・”『脳内ニューヨーク』”・カウフマンです。
 チャーリーは基本、実写の人ですので、ストップ・モーションという手法をただのんべんだらりと消費しません。人形を用いることで「世界が偽物に見える主人公の視点」に一定の没入感を与えます。
 どういうことかといえば、登場人物たちの頭に不自然な線が走ってるわけですよ。後頭部をぐるりとまわって両の目尻をつなぐように。最初観ているうちは、未熟な技術のせいでパーツとパーツの継ぎ目があらわになってしまっているんだな、と思いますが、あんな高度に繊細なアニメーションを達成できるスタッフが、こんな初歩的なポカをやらかすはずがない。もちろん、仕掛けが眠っているわけです。
 この不自然な継ぎ目以外にも『アノマリサ』はテクニカルな仕掛けに満ちています。
 主人公(デイヴィッド・シューリス)とヒロイン(ジェニファー・ジェイソン・リー)以外の人物の声は、すべてトム・ヌーナンが担当し、それらのキャラは男女の区別なく顔の造作もみんな同一です。
 他にも夢とも現実ともつかない幻想的なシーンに放り出される、世界や建物が変容する、(人形アニメなのに)人形がフィーチャーされる、やたらアダルトなシーンが出てくる……つきなみな言い方をすればカフカ的な現実に、チャーリー・カウフマンファン的にはいつものチャーリー・カウフマン的な現実に、観客は主人公を通してどんどん侵食されていきます。そういう現実崩壊感覚が、そもそもが不自然さだらけであるストップモーションの手触りによくマッチしている。

 最終的には、愛の話です。ハードでにがい、愛の話です。
 色んな意味で、大人向けのアニメですね。

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『ペット』(クリス・ルノー&ヤーロー・チーニー監督、イルミネーション・エンターテイメント)

 ジャック・ラッセル・テリアのマックス🐶は飼い主の女性がだーい好き❤。しかし、ある日、デュークという名のデカくてイヤミな雑種犬👿が現れ、幸せだった日常は思わぬ方向に転がり始める……。

 『怪盗グルー』フランチャイズの大成功により、売上的にはディズニー/ピクサーに互する有力スタジオに成り上がったイルミネーションですが、内容はといえばピクサーの模倣から逃れきれていませんでした。
 そんなイルミネーションに対する私の見る目が変わったのは、『ミニオンズ』からでしょうか。*2ピクサーお家芸である「深くてイイ話」を諦め、ほとんど露悪スレスレのスラップスティックギャグ路線へ舵を切ったのです。その結果『ミニオンズ』は映画史上でも稀に見るイギリス国辱映画として批評的に敗北しますが、ともかくこれ以降のイルミネーションが吹っ切れたことはたしかです。
 全然的はずれなことを言いますが、ピクサードラえもんだとすれば、イルミネーションはクレヨンしんちゃんでしょうか。

 で、『ペット』ね。『ペット』ですよ。かわいいよね。かわいい動物がいっぱい出てきてカーワイー*ଘ(੭*ˊᵕˋ)੭* ੈ✩‧₊みたいな……すいません、ウソつきました。そんなにかわいくないです。ひょうたんみたいな顔の主人公、ブサイクの極みのような雑種、ほとんど円形のめつきわるいネコ、劇中で可愛いキャラとされているウサギでさえなんというか……何? ノリをまいてないおにぎりってなんて呼ぶんだっけ? おむすび?
 どいつもこいつも握りつぶしたくなるような憎ッたらしいツラしてんスよ。
 そいつらがマアひどい目にあったり、ひどい目にあわせたりする。そういうギャグがいちいち極まっている。もちろん擬人化されているんですが、そのへんの動物アニメよりも、ああ、こいつら畜生なんだなあ感が強い。
 ただギャグがちょっと面白いってだけなら『コウノトリ大作戦!』とそんなに変わらない好きさ(あれ? けっこう好きだぞ?)なんですが、この映画を一段上に押し上げたのはなんといってもポメラニアンを演じる沢城みゆき
 このポメラニアンがね、頭おかしいんですよ。主人公のこと大好きで大好きでしょうがない夢見る乙女です。が、テレビで毎日観ているテレノヴェラ(スパニッシュ系の昼メロ)に影響されて、愛する主人公が窮地に陥ったと知るや情熱的に物事を解決しにかかる。愛ゆえに強い。愛ゆえに最強。暴力で愛を通そうとすらします。
 挙動もいちいち完璧で、チョコマカ動いて躁気味に喋る。自分の内部の論理で納得して素早く行動する。そこへきてCV.沢城みゆきとくれば、全人類の普遍的な記憶として蘇るのが、『マイ・リトル・ポニー』の主人公トワイライト・スパークル。シーズン2の第3話『トワイライトがピンチ!(Lesson Zero)』ですよ。キチトワイですよ。切羽詰まって煮詰まった感のあるときの沢城みゆき演技を正味一時間くらいのあいだ堪能できる。それだけで『ペット』は吹き替えで観る価値がある。

 とまあさんざん他人に伝わらない形で褒めましたが、大筋のストーリーは『トイ・ストーリー』のパクリです。その点だけとれば劣化コピーといってもいいと思います。ですが、『白雪姫』以降のディズニー/ピクサー二重帝国のウェルメイドな「良きアニメ」的な作劇に対して、ワーナーアニメのルーニー・テューンズに代表される「わるいアニメ」の道統がイルミネーションにはたしかに受け継がれている。
 現在のアメリカアニメ映画界の最前線を張っている作品のひとつであることは間違いありません。イルミネーションの次の作品は『シング/SING』。見逃すなかれ。

『モンスター・ホテル2』(ゲンディ・タルタコフスキー監督、ソニー・ピクチャーズ)

 人間と結婚して一児のママとなったドラキュラ娘、メイヴィス。彼女はクレイジーなモンスターが集うモンスター・ホテルで子育てをつづけるべきか、夫の故郷である人間界で「まともな」子どもを育てるべきか悩み出す。

 前作のヒロイン、それもどう観たってティーンエイジャーみたいな見た目だったヒロイン(ドラキュラなんで数百才オーダーだけど)が開始一分で人妻となり、五分で妊娠し、十五分で五歳児の母親になる衝撃。こんな子供向けアニメ映画は初めてやで。
 そして、新ジャンル、腹ボテこうもり。

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 まあ内容は前作にひきつづきシングルファーザーである父と娘の和解といいますか。前作と違うのはお互い子を持つ親になったことですね。子持ちの親子同士の相克を描くアニメ映画はめずらしい。ソニーなりに苦心して独自の路線を見出そうとしているのがうかがえます。ギャグもストーリーもそこそこにバランスがよろしくて、なによりキャラデザがあいかわらずキュート。愛嬌だけでいったら今年トップクラスかもしれません。

 この作品の持つもう一つのアングルは、テレビアニメ界の逆襲、でしょうか。監督は、『デクスターズ・ラボ』や『サムライ・ジャック』といったカートゥーン・ネットワークで育った人間にとっては涙の出るほど懐かしいタイトルを生み出した英雄、ゲンディ・タルタコフスキー。第一作から継続しての起用です。大物とはいえ、テレビアニメとアニメ映画で(すくなくとも監督クラスの)人材の住み分けがハッキリしているアメリカアニメ界では、めずらしい抜擢でした。
 たとえそれがアダム・サンドラー映画であったとしても、タルタコフスキーが長編を撮る、というのは米国アニメ界における事件なわけで、とりあえず観る義務が生じます。*3
 現在でもアメリカTVアニメ界の主流は2D*4なわけですが、そういうところの第一線級を走り続けてきたひとが3Dを舞台にするとどういう風にアニメーションをアニメートしていくのか。そういう興味で観てるとやはり『ドリー』や『ペット』と何かひとつひとつの所作やショットが違う気がする。気がするだけかもしれないというか、むしろ作家性に還元されるべき差異なのかもしれませんが、なんだか新鮮に観える。
 とくにクライマックスのバトルシーン。テンポや構図が『パワーパフガールズ』っぽくて、眼福。

『同級生』(中村章子監督、A-1 Pictures

 男子高校生二人が恋愛関係になるんだけど、ふたりのあいだにエロカッコイイ教師がからんできてたいへ〜ん💦みたいな感じだった気がするけど、あってる?

 原作のストーリーほとんど忘れた状態で鑑賞して、今となっては映画のストーリーもほとんど忘れてしまっていますね。ちゃんと明日美子的な透明なエロスが再現されていて良かったなあ、という感触だけが残っています。
 これを書くために予告編を観ていてちょっと思い出しかけましたが、二人の距離感の表現がすばらしいですよね。間合いのとり方、肉体的な接触の詰め方、ショットの切り方、なんかね、いいなあと。

ガールズ&パンツァー劇場版』(2015)(水島努監督、アクタス

 学校のお取り潰しを回避すべく、高校生戦車乗りたちが大学生戦車乗りたちと戦う。

 今年になって観ました。バカスカ撃ち合う戦車を観てて、楽しくならないわけがない。たまらなく巨大な自走砲の砲身をリアルな存在として信じられたなら、それで十分なんじゃないでしょうか。
 関係ないですが、一週間くらい前にアンチョビは頭悪いから大学進学できなさそうでかわいそうだなあ、という話を他人にしたらその人から、まあ意外と勉強はできそうだし、第一戦車推薦があるだろうから進学するくらいは大丈夫だろう的なことで説得されました。よかったなあ、アンチョビ。

『アーロと少年』(ピーター・ソーン監督、ピクサー

 建築や耕作といった文明生活を営む恐竜たちの世界で、自分のミスで父を失った少年恐竜が、野蛮な「動物」である人間の子供と出会うロード・ムーヴィ。

 巷では「ついにピクサーが駄作を作った」と騒がれていたようですが、本当にこの作品を観て言っているようならその目ン玉の方がクソでできているのでしょう。たしかにピクサー作品としては、ストーリーの力強さに欠けるのは否めませんが、そのぶん表現にポイントを振っています。テクスチャのリアルさと官能は『ファインディング・ドリー』までを含めたピクサー史上最高クラスでしょう。
 古き良き西部劇へのリスペクトにあふれた雄大な自然美です。
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コウノトリ大作戦!』(ニコラス・ストーラー&ダグ・スウィートランド監督、ワーナー・ブロス・アニメーション)

 かつて世界中に赤ちゃんを配達していたコウノトリたち。現在では赤ちゃんの配送をやめ、普通の宅配会社として営業している。しかしある男の子のねがいによって産まれてしまった赤ちゃんが、大騒動をひきおこす。

 配給会社としてはともかく、制作会社としては『レゴ・ムービー』によって一躍アメリカ・アニメ映画戦国時代に版図を築き上げたWAGですが、この『コウノトリ大作戦!』で『レゴ』の成功がフロックでなかったことを見事証明しました。
 この作品も『ペット』的なスラップスティックギャグ寄りのカラーなわけですが、やはり「第二のピクサー」への野心が捨てきれないのか、とってつけたような人情ドラマも展開されます。とってつけたような、といってもそこは2016年のとってつけですから、そこそこバランスがとれていて、物語的にも強度がある。だからフツーに観られるし、フツーに感動できる。
 ですが、この作品はなんといってもギャグでしょう。オオカミたちの集団メタモルフォーゼ芸や、ペンギンたちとのサイレント格闘シーンは出色の切れ味で、瞬間最大風速的には本年度最高のギャグアニメ映画といってもよいかもしれません。

 WAGはこの調子でどんどんオリジナル企画を出していけばいいと思います。が、次の四年で制作予定だという『レゴ・ムービー』の続編を含めた五本、どれもレゴだったりスクゥードゥービーだったりと既存のIPの使い回しになるっぽい。五本のうち唯一オリジナル企画はイエティを題材にした『smallfoot』のみ。
 ヴァラエティ誌の報道を読むと、原案は『怪盗グルーの月泥棒』でストーリーを担当したセルジオ・パブロス、脚本は『フィリップ、君を愛している!』や『フォーカス』といった実写方面で活躍するジョン・レクーアとグレン・フィカーラのコンビ、監督はディズニー出身で『クルードさんちのはじめての冒険』(ドリームワークス)で作監を務めたライアン・オルリン。ずいぶん寄せ集め感の強い面子ですが、むしろ新進の気概をこそ買うべきでしょうか。

『レッド・タートル ある島の物語』(マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督、プリマ・リネア・プロダクションズ)

 無人島に一人取り残された男が、たまたま見かけた赤い亀をひっくりかえして殺したら、なんか美人の嫁ができてかわいい子供にも恵まれました、というお話。ほんとうにそういう話。

 今年のアカデミー賞長編アニメーション部門ノミネート最有力作品です。全編がサイレント。アート映画ですね。抜けるような南洋の空と清澄な海、たおやかな木々、そして亀たちといった自然の空気感がスクリーンを通して強烈ににおってくる。そうした自然は美麗であると同時に脅威でもあって、ある瞬間に猛然と襲い掛かってきたり、かとおもえば気まぐれに恵みを与えてくれたりもします。一種のサバイバル物語といえばそうなんですが、多数の漂流もの映画とおなじく、人生が濃密に凝縮された寓話でもあります。
 他のサバイバルものと一線を画しているのは、後半からの展開でしょう。孤独に生きのびるだけだと思われていた主人公に、たまさかのプレゼントが贈られます。そこからは、もう、本当に人生ですね。
 鈴木敏夫がプロデューサーとして、高畑勲がアーティスティック・プロデューサーとして関わっている、といえば(それが日本向けプロモーションの一環とはいえ)ある程度の傾向は事前に予想できるのではないでしょうか。

カンフー・パンダ3』(ジェニファー・ユウ監督、ドリームワークス)

 ウーグウェイ導師のライバルであったカイが「魂の国」(死後の世界的な場所)から蘇った。力を渇望する彼は中国全土のマスターたちの能力を奪い、ウーグウェイに対する復讐のためにポーたちを襲う。一方、ポーのもとに自分の父親を名乗るパンダが現れて……。

 『2』で主人公ポーのアイデンティティ問題を解決したのでもうそういうのはやんないのかなー、と思ってたけど、よく考えたら過去の問題が全部明らかになっていたわけではありませんでしたね。
 今回は親子テーマ。どっちかというと親寄りの描写が多いですね。ポーの前に実の父親が現れるんですが、育ての親であるラーメン屋の鳥がポーを取られるんじゃないかとやきもきしたり、逆に生みの親のほうが距離のとり方に失敗したり。子どもであるポー自身については板挟み的な状況にあまり思い悩んだりはしません。
 生みの父親と育ての親が直接対話するシーンは白眉ですね。
 親も一個の人間だから間違ったりもするんだよ、と濱口竜介の『ハッピーアワー』と似たようなセリフも出てきますが、『ハッピーアワー』が人間を突き放すためのセリフであったのに対して、『3』はむしろ親である人々に対するいたわりというか、おもいやりから出ています。
 ここまで親向けに振って大丈夫かな、と心配してしまうほどのバランス。

 子どもたちにはおなじみカンフー描写でサービスします。
 今回はスケールといいカメラワークといい、ちょっとドラゴンボールっぽくすらありますね。これはこれでいい。

『マイ・リトル・ポニー:エクエストリア・ガールズ - フレンドシップ・ゲーム』(アイシ・ルーデル監督、DHX&ハズブロ

 人気テレビシリーズ映画版第三弾。今度は運動会でフレンドシップ・イズ・マジック。

 おまえらには一生わからないだろうし、こっちもわかってもらおうとは思わない。
 あと Netflixは神。

『父を探して』(アレ・アブレウ監督)

 昨年度のアカデミー賞ノミネート作品。ブラジルの作品ですね。抽象的でカラフルなタッチのアートアニメ。

父を探して

父を探して

 きちんと観ればとてもすばらしい作品だと思います。きちんと観られれば。
 不幸なことに、私は上映時間の半分くらい寝てしまっていたので。

『預言者』(ロジャー・アレーズ監督、ヴェンタナローザ他)

 レバノン人作家ジブランの大ベストセラーのアニメ映画化。父親を失って唖になってしまった少女、アルミトラと政治犯として軟禁状態にある詩人ムスタファとの交流、そしてムスタファの含蓄ある幻想詩世界を描く。

預言者 [DVD]

預言者 [DVD]

 いちおう長編アニメではあるのですが、詩人ムスタファが折々で詩を紡ぐと、アラーズとは別の監督によるファンタジックなシークエンスがはじまり、美しい言葉に乗せて蠱惑的な映像詩が展開されます。
 どのパートもすばらしいのですが、やはりベストは『ソング・オブ・ザ・シー』のトム・ムーア担当パート。愛についての詩に沿って、グラフィカルに完成された短篇が流れます。
 監督のロジャー・アレーズは、90年代にディズニー第二次黄金期を支えたレジェンド。『ライオンキング』を共同監督したロブ・ミンコフも最近ドリームワークスで『天才ピーボ博士』という良質の作品を残しましたね。

きんいろモザイク Pretty Days!』(天衝監督、Studio五組

 あらすじ:綾ちゃんがしのに愛されようとがんばる!

きんいろモザイク (1) (まんがタイムKRコミックス)

きんいろモザイク (1) (まんがタイムKRコミックス)

 宗教映画の傑作。
 なぜ俺は神から愛されないのかと悩むカルト宗教の信者の寓話。さも悩みを解消するために端緒になりそうな感じで思い出される過去のエピソードが、結局悩みの原因が発生するより前の出来事なため、思い出したところで何も慰めにもならないという脚本上の欠陥を抱えるものの、物語的にも観客的にも問題とされないためオッケーみたいな。
 神の愛は一方的で気まぐれだが、信者は気持ちの持ちようでポジティブに生きられる。そういうお話。まあ現代のヨブ記みたいなもんです。ヨブは途中でキレるけど。
 今年はこれと『フリップフラッパーズ』で鬼才、綾奈ゆにこ先生を知りました。いまさらでしょうが。

名探偵コナン 純黒の悪夢』(静野孔文監督、TMS)

 もちろんコナンが事件を解決しようとがんばる。

 人間記憶装置に対するなんだその雑な条件付けは、だとか、いくらなんでも黒の組織潜入に捜査官いすぎだろ、ほとんど潜入捜査官じゃん、だとか、ウォッカとジンがドイツで黒の組織に潜入したスパイを処理したあと「日本に飛ぶぞ」と言うシーンで、こいつら、この服装のまま飛行機乗るんだろうなあ、と想像したりだとか。
 あと、そうですね潜入捜査官の一人がカナダのタワーで観光ガイドみたいなことやってたんだけど、黒の組織にしろカナダの諜報機関にしろ、そんなところで仕事させて何を期待していたのか……。あと裏切り者とはいえガイドツアーの真っ最中に殺すなんてめんどくさいことしなくても……。
 だとか。
 随所にしこまれたおかしみを味わうだけで時間があっという間にすぎていく、優良なコメディであります。

 次作は『福家警部補』シリーズの大倉崇裕先生が脚本を担当されるそうで、まじめに期待してます。

『アングリーバード』(クリス・ケイティス&ファーガル・レイリー監督、ロヴィオ・アニメーション&ソニー・ピクチャーズ・イメージワークス

 怒りっぽい鳥が島を侵略してきたブタどもに対して怒りを爆発させる。

 移民問題の露骨な寓話(原作であるスマホゲームからまんま持ってきた)なのはともかくとして、全体的にダルい。とはいえ、クライマックスであるアングリーバーズ発射シーンは『この世界の片隅に』ほどではないにしろ破壊のスペクタクルに満ちていた。

バットマンキリング・ジョーク

 名作アメコミの映画化。あいかわらずひどいことをするジョーカーを、バットマンがしばこうとがんばる。

 原作の性差別的な部分を糊塗しようとして前より性差別的になってしまう悲劇。そこをのぞけば、そこそこ原作に忠実な映画化。

番外編:実写+アニメ系映画

パディントン』(ポール・キング監督):クマがいいですね。
ジャングル・ブック』(ジョン・ファヴロー監督):クマがいいですね。
『ピートと秘密の友達』(デイヴィッド・ロウリー監督):クマもいいけど、ワンコみたいなドラゴンもね。

*1:私は泣きませんでしたが

*2:その前の『怪盗グルーのミニオン危機一髪』から好きといえば好きだったのですが

*3:前作に参加していたレベッカ・シュガー(『スティーヴン・ユニヴァース』)は残念ながら今回未参加

*4:もちろん作業はほとんどこんぴーたーでやってるわけですが

2016年に観た新作映画ベスト25とその他

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ベストといいますか、この一年書いた感想のまとめといいますか。
今年は去年ほど映画を観ない気がします。

映画トップ10

1.『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清監督)

 ホラーやサスペンスに共通して重要な要素に「不吉さの予感」がある。人がただ歩いているシーン、談笑しているシーン、食事しているシーン、そういうなんの変哲もない日常が次の一瞬にはもう粉々に砕け散っているかもしれない、そういう破壊的な恐怖がホラーをホラーに、サスペンスをサスペンスにならしめている。人間の一挙手一投足あるいは感情ですらも、すべて暴力的な所作になりうる空間があるとすれば――あるのか? ある。『クリーピー』は、それを作り出した。

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2.『ズートピア』(バイロン・ハワード&リッチ・ムーア監督)

 仮想敵を立てるのは卑怯だと承知してはいるけれど、言わせてほしい、世間には『ズートピア』みたいなウェルメイドな作品を指して「完璧すぎてつまらない」という人がいる。いい子ちゃんすぎるというのだ。われわれは異常なものを観に映画館に来ているのであって、健常なものなんか映画館に溢れているじゃないかと。
 大きな間違いだ。「完璧すぎる」というのは、そもそもが異常な事態だ。人や物事には、ふつう、なにかしら欠落がある。去年の映画でいえば、『スティーヴ・ジョブス』(ダニー・ボイル監督)を観た人ならわかるかもしれない。完璧さを徹底して追求する人、追求できてしまう人は何かがおかしい。
 我々が『ズートピア』に惹かれてやまないのは、この映画が無限に汲み尽きない狂気の鉱脈だからだ。それはディズニーというブランドそのもののコンセプトでもある。完璧な狂気。

ズートピア カテゴリーの記事一覧 - 名馬であれば馬のうち

3.『ハッピーアワー』(濱口竜介監督)

 五時間半ある。二度の休憩を挟んで、六時間。個人的には三時間以上の尺を持つ映画を映画と呼びたくはないのだけれど、まあ実際に映画として公開されている代物だし、映画的なモーメントに満ちているし、なによりものすごくものすごくものすごく面白いのだから、個人的な定義などいくらでも曲げてよくないか?
 なぜおもしろいのか。コミュニケーションとディスコミュニケーションをテーマにしたサスペンスだからだ。この組み合わせは、超々長尺の作品を撮るにあたっての最適解といえる。コミュニケーションが切れたり繋がったりするのは下世話な僕たちの本性を捉えるし、そこにハラハラドキドキのサスペンス性が加わればもう時間なんてものはなくなったに等しい。画面にかぶりついたまま光陰が矢のごとく過ぎていき、気がつけば陽はとうに暮れている。*1

4.『ドント・ブリーズ』(フェデ・アルバレス監督)

 とてもとてもとてもおもしろい、の一言に尽きる。

5.『バタード・バスタード・ベースボール』(ウェイ兄弟)

 Netflix限定。
 カーク・ダグラスのお父さんがかつて所有していたマイナー野球チームの伝説を負ったドキュメンタリー。ベースボールがアメリカの神話であることがよくわかるし、そういう意味ではフィリップ・ロスの『素晴らしきアメリカ野球』やケン・カルファスの『喜びと哀愁の野球トリビア・クイズ』、あるいは映画*2『フィールド・オブ・ドリームズ』にも比肩する。

 まあ詳しくは以下。

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 それにしても、このころはキチガイみたいな文章量書いてましたね。キチガイだったんでしょうか。

6.『人生はローリング・ストーン』(ジェームズ・ポンソルト監督)

 めんどくさいワナビとめんどくさい作家のロード・ムービー。
 インディーズの監督には人間のめんどくささを描く人も多いけれども、自分にはジェームズ・ポンソルトのそれがしっくりきます。

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7.『ファインディング・ドリー』(アンドリュー・スタントン監督)

 アイデンティティの喪失による孤独を描写した作品としてはあらゆるフィクションのなかでも最高峰。
 
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8.『ディストラクション・ベイビーズ』(真利子哲也監督)

 人が人を殴る。とりあえず殴る。なにがなんでも殴る。そういうものが最高なのはしょうがないんです。映像は暴力を映すのに適したメディアなんですから。
 

9.『映画 聲の形』(山田尚子監督)

 山田尚子という闇を、人類が超克できる日は来るのだろうか。
 
聲の形 カテゴリーの記事一覧 - 名馬であれば馬のうち
 

10.『ミストレス・アメリカ』(ノア・バームバック監督)

 なんだかよくわからないけどパワフルでクズな義姉(予定)についていって、それをネタに小説を書こうと目論むクズの話。去年は劇場公開された『ヤング・アダルト・ニューヨーク』もあったけど、バームバックの最高傑作はこっちだと思う。そうですね、アメリカの神話みたいな話ですよ。ゴッドではなく、ゴッデスの。
九月に観た新作映画短観 - 名馬であれば馬のうち

+10

11.『レヴェナント 蘇りし者』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)

 クマに襲われたディカプリオがだんだんクマになっていくところがよかった。

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12.『ザ・ギフト』(ジョエル・エドガートン監督)

 クズ野郎映画の傑作。「実際にいそう」なクリーピーさでは『クリーピー』に優るし、物語を悪用するのは物語によって復讐されるという説話の構造も巧い。

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13.『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(スティーヴン・フリアー監督)

 こういうダメ人間同士が支え合って世界を構築する話を観ると自動的に泣く。

14.『ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド監督)

 語り口のテクニカルさでは群を抜いている。法廷ドラマに「人間要素」を持ち込んで、しかもそれがロジカルに成功する点でも斬新。*3
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15.『ブルックリン』(ジョン・クローリー監督)

 ミア・ワシコウスカ映画を観るのは義務であるが、シアーシャ・ローナン映画を観るのは権利である、とルソーも言っている。*4
 一人暮らししてる人はだいたい感動するんじゃねえかなあ。あと、服飾が抜群にキュート。

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16.『淵に立つ』(深田晃司監督)

 クリーピーな隣人映画その三。道具立ては『聲の形』に近い。でも、冒頭のメトロノームに象徴されるように、テンポの映画ですね。一家四人の食卓で、浅野忠信の早メシ芸をフルレングスで見せるその心意気。

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17.『この世界の片隅に』(片渕須直監督)

 玉音放送を聞いた皆が「あー戦争終わった終わった」モードに入るなか、すずさんだけが「一億総玉砕するんじゃなかったのかよ! だったら、最後までやれよ! みんな死ぬまでやれよ!」とキレるシーン良かったですよね。こういうキレかた好きです。

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18.『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』(リチャード・リンクレイター監督)

 永遠ではない永遠を永遠にするために映画はあるのだ、と気づいた最初の人類なんじゃないかな? リンクレイター。

19.『スロウ・ウエスト』(ジョン・マクリーン監督)

 新人としては今年最大の収穫。ウェス・アンダーソンっぽく西部劇をやる、とそれだけ聞いたら Youtubeでよくみかけるパロディ映画以上のクオリティにはならないな、と思うんだけど、ちゃんとどう語れば映画になるのかを監督が熟知しているのでおもしろい。
 ウェス・アンダーソンフォロワー映画といえば、昨年は『僕とアールと彼女のさよなら』がありましたね。こちらもなかなか観せてくれる。

20.『神聖なる一族 24人の娘』(アレクセイ・フェドルチェンコ監督)

 寒い土地で性にまつわる益体のない寓話を24篇垂れ流すだけで極上の時間を過ごせるという新発見。

+5

『DOPE ドープ!』
『さざなみ』
『ロブスター』
サウルの息子
『日本で一番悪い奴ら』

各部門賞

(自分の中で)ブレイクスルー俳優

ジェシー・プレモンス - 『ブラック・スキャンダル』、『ファーゴ』S2、『疑惑のチャンピオン』、『ブリッジ・オブ・スパイ』 
 ドーナル・グリーソン - 『エクスマキナ』、『ブルックリン』、『ソング・オブ・ザ・シー』、『ブラックミラー』S2、『レヴェナント』
 シャメイク・ムーア - 『DOPE』、『ゲット・ダウン』
 テッサ・トンプソン - 『ディアー・ホワイト・ピープル』、『ボージャック・ホースマン』
 ジェニファー・ジェイソン・リー - 『ヘイトフル・エイト』、『アニマリサ』
 ベン・キャロラン - 『シング・ストリート』
 トム・スウィート - 『シークレット・オブ・モンスター』

 あくまでの僕のなかでブレイクした俳優なので……『ナイト・オブ』観てりゃあリズ・アーメッド(『ローグワン』)も入ってたかも。ベン・ウィショー(『ロンドンスパイ』、『パディントン』、『ロブスター』、『白鯨との闘い』、『リリーのすべて』)も迷ったけど、やはり去年の『ホロウ・クラウン』S1だよな、ということで。

歌曲部門

☆シング・ストリート「Drive it like you stole it」(『シング・ストリート』)

Sing Street - Drive It Like You Stole It (Official Video)

 RADWIMPS「前前前世」(『君の名は。』)
 クリストファー・ウォーケン「I wanna be like you」*5(『ジャングル・ブック』)
Sia「unforgettable」*6(『ファインディング・ドリー』)
 仁科カヅキ、大和アレクサンダー「EZ DO DANCE -K.O.P. REMIX-」*7(『劇場版 KING OF PRISM』)
 中田ヤスタカ「NANIMONO (Feat. 米津玄師)」(『何者』)
 コモン, ビラル &ロバート・グラスパー「Letter to the Free」(『13th ――合衆国憲法修正第十三条――』)
 リンジー・スターリング(ft. アンドリュー・マクマホン)「Something Wild」(『ピートと秘密の友だち』)
 コトリンゴ「たんぽぽ」(『この世界の片隅に』)
 

作曲部門

☆Disasterpeace 『イットフォローズ』
 小野川浩幸『淵に立つ』
 エイドリアン・ブリュー「ひなどりの冒険」
 ブルーノ・クーレイス&キーラ『ソング・オブ・ザ・シー』
 カーター・パーウェル『キャロル』
 牛尾憲輔『聲の形』
 坂本秀一『溺れるナイフ

クマ映画オブザイヤー(Kumamiko d'Or)部門

☆『レヴェナント』
 『ジャングル・ブック
 『パディントン
 『ディズニーネイチャー/クマの親子の物語』
 『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』(DVD発売)

長編アニメーション部門

☆『ズートピア
2『聲の形』
3『この世界の片隅に
4『ファインディング・ドリー
5『劇場版 探偵オペラミルキィホームズ

アニメ映画ついてはだいたいこちらで書きました。
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あと『ひな鳥の冒険』を讃えるために短篇アニメ部門もやろうとしたけどノミネーションするほど数足らなかった。
ケヴィン・ダートのこれとかいいですよ。

Netflixでしか観られないでしょう部門

☆『バタード・バスタード・ベースボール』
2『タンジェリン』
3『最後の追跡』
 『13th ――憲法修正第十三条――』
 『サイレンス』
 『ディヴァイン』
 『ディアー・ホワイト・ピープル』
 『カンフー・パンダ3』
 『マイ・リトル・ポニー:エクエストリア・ガールズ - フレンドシップ・ゲーム』
 『粒子への熱い想い』

Netflix is 神。
『タンジェリン』はiPhoneで撮影した低予算映画。トランスジェンダーの売春婦が刑務所から出所してきて元カレを探す話。アツい友情話です。
『最後の追跡』は Netflixオリジナル映画で、アメリカでは各紙の年度ベストテンにランクインしてますよね。「奪ったものもまた奪われゆくのだ」という無常さが佳い。
『13th』は『グローリー(Selma)』の監督がとった黒人差別についてのドキュメンタリー。あらゆる意味で、観るべき映画です。『ディアー・ホワイト・ピープル』とセットでね。
 特に推したいのは『サイレンス』。スプラッタホラー版『聲の形』ですね。ぜんぜん違うぞ。監督のマイク・フラナガンは間違いなく今後のアメリカホラー界を代表する人物になる(というか、もうなっている)ので、『オキュラス』と伏せてよろしくお願いします。

ソフトスルー部門*8

☆『人生はローリング・ストーン』
2『ミストレス・アメリカ』
3『スロウ・ウエスト』
 『ワイルド・ギャンブル』
 『遥か群衆を離れて』
 『愛しのグランマ』
 『ミニー・ゲッツの秘密』
 『アノマリサ』
 『ナイト・ビフォア』
 『僕とアールと彼女のさよなら』

『ワイルド・ギャンブル』はクズ野郎俳優ベン・メンデルソーンのクズ野郎っぷり(ダメ人間方面)が遺憾なく発揮されたクズ野郎映画。お相手はデッドプールさんことライアン・レイノルズだから二度クズ美味しい。
『遥か群衆を離れて』はトマス・ヴィンターベア待望の新作。名作文学を映画化した恋愛文芸映画なんですが、ほとばしる変態性が止まらない。特に男がフェンシングの剣をヒロイン(キャリー・マリガン)に素振りするシーン。メタファーにしてもはしたなすぎです!『愛しのグランマ』、佳作とはこういう映画を指すのでしょう。

シアターライブ部門

☆『人と超人』
2『戦火の馬』
3『ロミオとジュリエット
 『ジ・エンターテイナー』
 『ハムレット
 『冬物語

映画館通いを怠けているとすぐに上映が終わるナショナル・シアター・ライヴ。今年はケネス・ブラナーがはじめたKBTLもはじまりましたね。
今年はなんといっても『人と超人』。不朽なるバーナード・ショーの人間観察に万歳。

このクズ野郎俳優がすごい!

ベン・メンデルソーン - 『ワイルド・ギャンブル』、『ローグ・ワン』、『スロウ・ウエスト』
 『ザ・ギフト』のあいつ(ネタバレにつき)
 マイケル・シャノン - 『ドリームホーム 99%を操る男たち』
 ベン・フォスター - 『疑惑のチャンピオン』
 ホアキン・フェニックス - 『教授のおかしな妄想殺人』
 アダム・ドライバー - 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』
 アレクサンダー・スカルスガルド - 『ミニー・ゲッツの秘密』
 佐藤健 - 『何者』
 シャーリーズ・セロン - 『ダーク・プレイス』
 本木雅弘 - 『永い言い訳


 昨年に続き、ベン・メンデルソーンが連続受賞。『ワイルド・ギャンブル』の情けないギャンブル依存症の男と、『ローグ・ワン』の哀しい中間管理職役が光りました。

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 『ドリーム・ホーム』のマイケル・シャノンや『疑惑のチャンピオン』のベン・フォスターはクズはクズでもアメリカン・ドリームの狂気の化身って感じである種の崇高さがありました。その点でいえば、『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のカイロ・レンことアダム・ドライバーも現代のアメリカが生んだ新手のクズみたいな感じでしたけど、まだこっちは良心ない系のサブカルクズ野郎として卑俗な普遍性があったかな。
 ホアキンは、まあいつものウディ・アレン映画のクズ。六十や七十になってニーチェドストエフスキーをひきずっているのもどうなんだと思わないでもないですが、こういう芸風なのでしょうがない。
 『ミニー・ゲッツ』のアレクサンダー・スカルスガルドは付き合っているシングルマザーの娘(まだ中学生かそのくらい)と関係を持つという、まあこれだけでクズとわかるクズですが、グダグダと責任のがれをしたがる様もなかなかポイント高い。
 『何者』の佐藤健、この人のクズさはユニバーサルさではダントツなので、誰も逃れられないでしょう。反面、本木雅弘は元祖日本のめんどくさいクズ男子といった趣。
 『ダーク・プレイス』のセロンさんは原作よりクズさが薄まっていた気がしますが、やはり一家惨殺事件に同情したひとたちの寄せてくれた募金でニート暮らしをするインパクトは一級品。

クズ野郎映画アンサンブル賞トップ10

☆『日本で一番悪い奴ら』
 『アンフレンデッド』
 『ミストレス・アメリカ』
 『クリーピー 偽りの隣人』
 『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』
 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』
 『人生はローリング・ストーン』
 『人と超人』
 『淵に立つ』
 『何者』

 基本的にここに挙げた映画に出てくるキャラは漏れなくクズです。でもまあ一口にクズといっても色んなタイプがあって、『日悪』のクズたちは犯罪者だけど犯罪者である点さえなければ気のいいアンちゃんばかりなのでほのぼのします。犯罪者なんですけどね。
 『アンフレンデッド』の人らはホラー映画に出てくる典型的なクズティーンなんですけれど、そのクズっぷりの演出が半端じゃない。胸くそ悪いクズどもが無残な目にあってスカッとしたいアンチクズ野郎映画ファンにもオススメです。
 『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』の人たちはクズっていうか、大学内では割りとエリートなんですけれど、まあ愛嬌のあるクズで、むしろバカと言ったほうがいいのかな。『日悪』と似ていないこともない。

姉映画賞

☆『ライト/オフ』(姉弟)
 『ブルックリン』(姉妹)
 『ミストレス・アメリカ』(義姉妹)
 『ブレア・ウィッチ』(姉弟)
 『ドント・ブリーズ』(姉妹)
 『この世界の片隅に』(姉妹・小姑)
 『スーサイド・スクワッド』(姉弟)

 姉映画はやはりホラー映画が強いわけですが、直球の姉弟愛を見せてくれた『ライト/オフ』に栄冠を。
ホラー姉映画といえば、姉はだいたい味方サイドに位置することが多いわけですけど、『ブレア・ウィッチ』は敵対サイド(厳密には違う気もするけど)に立っていて興味深い。
 『ドント・ブリーズ』のどこが姉映画だ、という意見は多いかもしれません。しかし、考えてみてください。物語後半で大金を手に入れた主人公(姉)が異常なまでに金に執着するあまり、脱出の選択を間違えてしまう。傍から見ると、単に金に汚い女の自業自得です。が、ここに姉映画という視座を導入することによってシーンの意味合いが変わる。そもそもなんで主人公に金が必要かというと、最悪な家庭環境から妹を救い出すためなわけです。つまり、彼女にとって老人の金とは妹の命や未来とイコールなのです。そういう目で観てみると、醜悪な狂態が崇高な愚行に見えてきませんか。見えませんか。ならいいです。
 『スーサイド・スクワッド』はラッキー姉映画(姉映画と期待してなかったのに姉映画だった姉映画のこと)でしたね。弟が倒されると一気にヘナヘナとしおらしくなる魔女姉さん、百点。

ドラマ

☆『シリコンバレー』シーズン1〜3
 『ファーゴ』シーズン2
 『ストレンジャー・シングス』シーズン1
 『ゲットダウン』シーズン1(半分)
 『ハウス・オブ・カード』シーズン4
 『Empire 成功の代償』シーズン2〜シーズン3途中
 『レディーダイナマイト』シーズン1
 『ロンドン・スパイ』
 『Veep』シーズン1
 『ホロウ・クラウン 嘆きの王冠』シーズン2

アニメ

☆『リック・アンド・モーティ』シーズン1〜2
 
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 『ボージャック・ホースマン』シーズン3
 『アドベンチャータイム』シーズン5
 『シンプソンズ』シーズン27
 『フリップフラッパーズ』第一期
 『ぼくらベアベアーズ』シーズン1
 『くまみこ』第一期
 『宇宙パトロールルル子』第一期
 『ユーリ!! ON ICE』第一期
 『FはFamilyのF』シーズン1

*1:ここでいうサスペンスとは、つまりウソや隠し事がバレるかバレないか、というハラハラドキドキのことだ。人は誰しも致命的な秘密を抱えながら、そしらぬ顔で他人と会話に興じている。致命的な秘密、といっても何も人を殺したとか実は狼男だとか、そんな大層なものでなくていい。
たとえば、さっき勢いでナンパした主婦と偶然飲み会で一緒になって、その場の流れで自分が相手の不倫で離婚する羽目になったバツイチだと告白する羽目になるだとか。夫である編集者との不貞が疑われている女性作家が、その妻の前で不倫と関係あるようなないような短篇を朗読するだとか。  観客は登場人物たちの抱えたささやかで致命的な秘密を神の視点から把握し、その秘密が露呈する一歩手前のハラハラを楽しむことができる。『ハッピーアワー』が卓抜しているのは、観客が知れるのはその秘密のガワの部分だけで、核心部のところは巧妙に隠されている点だ。
さっきのたとえでいえば、ナンパした主婦とバツイチの男は飲み会のあいだじゅうアイコンタクトっぽい視線を交わすが、そこのあたりの二人の本心はわからない。朗読劇にしても、本当にその編集と作家が一線を越えてしまっているのかについては、妻と観客には伏せられている。
各自の「行為」までは覗き見できても、「心」までは覗けない。この作劇のバランスが、テーマとも合致して、本作を豊穣な群像ドラマに仕立てている。

*2:原作は小説だけど

*3:たいていまあ挑発で相手の失言を誘って大勝利、みたいなガッカリ展開が多いじゃないですかそういうの

*4:言ってない

*5:元曲は1967年版から

*6:元曲はナット・キング・コール

*7:元はTM

*8:限定公開・特集上映含

映画『ラ・ラ・ランド』の感想――夢を夢見て。

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『ラ・ラ・ランド』(La La Land, 2016年、米、ダミアン・チャゼル監督)


 引用が引用であることそれ自体に意味を持つような状況が成立するのは、どのような場合なんだろうか。それはおそらく、物語のあらゆる要素が「過去」で構成されている場合にちがいない。引用が主題ではなく、同種の要素の一部に埋もれていくような場合であるにちがいない。『ラ・ラ・ランド』とは、そういう映画だ。



「ラ・ラ・ランド」本予告



 失われていくものへの愛惜というのはどこにでもあるもので、『ラ・ラ・ランド』では、それがジャズ・映画館・ミュージカル・青春と多層的に塗り重ねられていく。
 オールドなフリースタイルジャズを志向するジャズピアニスト、セブ(ライアン・ゴズリング)には自分の好きなジャズを演奏して稼げる場所を持てずにいて、旧友であったキース(ジョン・レジェンド)に誘われてやっとジャズをできるようになるんだけれども、彼のバンドの曲は「一般受け」するようにアレンジされたものだった。


 不満顔のセブに、キースは言う。「おまえが古き良きジャズをやりたがってるのはわかるよ。でも、ジャズは現に死につつある。おまえらみたいなのが殺しつつあるんだ。おまえはジャズバーでピアノを弾いていたけど、客は老人ばかりだっただろ? 子どもや若者が聞かない文化は滅びる。おれたちの曲なら、子どもや若者が聴いてくれる」
 セブは何も言い返さない。黙って、彼のバンドに従ってツアーに参加する。
 適者生存が科学的に正しいとはかぎらない。でも、結果的に適応したものが残るのは確かで、変わらないものは滅んでいく。そういうものだ。
 ここで、セブが墨守しようとしているジャズは本当に「古き良きジャズ」なのか、「古き良きジャズ」などそもそも実在するのか、といった疑問が湧くかもしれない。が、措いておこう。ジャズの内部事情などジャズの人にしかわからない。映画は視覚と視野をフレーミングするメディアだ。その矩形の内部では「映画」以外のあらゆる文化・芸術・歴史が相対化され、陳腐化され、ステロタイプ化される。そして、発信力と訴求力ででっちあげた「真実」で他のメディアを圧倒的に凌駕しうる。



 監督のダミアン・チャゼルはそうした暴力性でもって、画面のそこかしこに失われていく文化を愛すべきものとして刻印している。ハリウッド・スタジオ、シネコン以前の映画館、オープンなアメ車、タップダンス、ファッション、古典映画(『理由なき犯行』)、フィルム、プラネタリウムイングリッド・バーグマン、そして、ひたむきに夢を追う青春時代と愛。
 ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優志望のカフェ店員だ。彼女も過去からやって来た。
「なぜ、女優をめざそうと思ったの?」とセブは訊く。
 ミアは「叔母も女優だったの」と言う。
「巡業劇団のね。私は通りの向こうに小さな図書館がある家で育った。ネヴァダのボウルダー・シティ――どの家もまったく同じ見た目をしていた。十歳のときには、もう何がなんでもこの街から出なきゃ、って思うようになってたわ。そんなある日、叔母が街にやってきたの。彼女は図書館から古典映画を借りてきて、私に見せてくれた。ふたりで一日中映画を観まくったの。『赤ちゃん教育』、『汚名』、『カサブランカ』……世界があんなにも広いんだって、初めて知った。」

 
 ミアとセブ、ふたりの夢は常に過去にある。
 本作の重要な引用元の一つである『雨に唄えば』がサイレント映画からトーキーへの、過去から未来への変化に夢を託したのとは対照的だ。
 現実世界では古きものに拘ったり憧れたりするのは失敗のもとだ。だから、ふたりとも壁にぶつかってしまう。女優として、ミュージシャンとして、行き詰まってしまう。夢を追えなくなってしまう。二人の残された選択肢は、夢見た理想をごまかして妥協するか、夢そのものをすっぱり諦めてしまうか、の地獄の二択だけ。どちらを選んでも、夢見た過去を諦めることになる。

 
 わかっている。
 過去に未来はない。
 過去にある夢とは懐かしむための夢想であって、新しい自分を切り開くタイプの夢とは別物だ。


 しかし、しかしだ。
 そもそも映像とは過去を現在に夢見るためのツールではなかったか。
 何かを撮影し、記録し、再現する。どれだけ技術が発展しても、その要諦は百五十年前から変わらない。劇映画は記録された過去を現在や未来として詐称するけれども、展開される光景は常に過去のいずれかの地点で撮られたものだ。
 さらに言うならば、何かを志向するという意志は過去に起こったものを摂取したから生じるのであって、本作に即して言うならミアは古い映画を見たから今の映画をやりたくなった、セブは古い音楽を聴いたから今の音楽をやりたくなった。
 使い古された後藤明生の名言を今更繰り返すのもちょっとした勇気を要するけれど、何故小説が書かれるのかといえば、作家が「小説を読んでしまったから」なのであって、それは小説、創作のみならずあらゆる営為に当てはまる。読んでしまったから。
 ダミアン・チャゼルも過去に書かれた夢を読んでしまった一人なのだろう。それも、過剰に読んでしまった人なんだろう。
 夜観る夢と物語は本人の想像、つまり自分の見たものの範疇でしか描かれえないという点で似ている。だから、チャゼルは「観たもの」を自分の夢に出しまくる。
 結果、『ラ・ラ・ランド』は不必要なまでに古典ミュージカル映画の引用に埋め尽くされることとなる。不必要なまでに、というか事実、ストーリーテリング的にまともに機能している引用は少ない。
 過去を再現するための夢めいた引用は、たいていの場合、悲惨な結果に終わる。
 夢の文脈は純度百パーセントで本人に依るもので、他人から聞かされる「おもしろかった夢の話」が常に退屈なのはそういう文脈を理解できないからだ。


 だけど、チャゼルはこの夢のジレンマを強引に解決してしまった。
 自分の夢を、登場人物と観客それぞれの脳みそにむりやりぶち込んでしまったのだ。映画の暴力性を利用して、自分の夢で画面の内から観客席までを憧れで染め上げてしまった。
 それを私たちはラストの十分に観る。
 私たちはありえたかもしれない過去を、夢として観る。夢とわかって、観ます。このバランス。その夢が短いピアノ曲一曲のなかに凝縮されています。
 思います。あ、これって映画なんだ、と。これも映画なんだ、と。限定された時間に濃縮された夢を追体験し、共有すること、そういうのって、とっても映画なんじゃないか、って思うんです。だからこそ、美しいんです。画面で展開されている原色の『雨に唄えば』もどき以上に、現に映っているライアン・ゴズリングエマ・ストーンのダンス以上に、綺麗なんです。
 それはどちらの夢でもあるから。
 夜見られる夢であると同時に、未来に浮かぶ夢でもあるから。

『ラビング 愛という名前のふたり』の感想

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『ラビング 愛という名前のふたり』( Loving 、ジェフ・ニコルズ監督、2016年、米)



映画『ラビング 愛という名前のふたり』予告


光と影のヴァージニア

 個別の愛自体になんら「特別さ」などなく、愛は常に普遍的で、だから『ラビング』は二人の出会いや生立など語らない。いきなり、黒人女性ミルドレッド(ルース・ネッガ)が白人の恋人リチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)に対して「妊娠したの」と告げるところからはじまる。
 舞台は1950年代のヴァージニア。白人と黒人はそれぞれ違う場所で、交わることなく生活している。
 だが、そんなことは意に介さず、ふたりの幸せは柔らかい陽光にくるまれてトントン拍子に育っていく。
 妊娠から間もなくリチャードはミルドレッドを雑草が伸び放題になっている空き地へ連れていき、「ここに僕たちの家を建てよう。結婚してくれ」とプロポーズ。二人の和合を象徴するかのような黒と白のツートンカラーに塗り分けられたフォードの1957年式フェアライン・クラブ・ヴィクトリアを飛ばし、ワシントンDCの役所でつつましい結婚式を挙げる。
 そうして新居に婚姻証明書を掲げ、ラビング夫妻の蜜月生活がスタートする……はずだった。


 不幸は、深夜、新居のドアをぶちやぶって侵入してくる。
 何者かの通報により*1地元の保安官が現れ、「ヴァージニア州では異人種間結婚は法律違反だ! ワシントンでの結婚証明書? そんなものは無効だ!」とふたりを乱暴にしょっぴいていく。
 牢獄で不安な一夜を過ごしたのち、夫のリチャードだけが先に保釈される。彼に照りつける東部の太陽が眩しい。もはや太陽は彼らの味方ではない。もはや昼間に安息はない。それから二人は夜へと逃げ込むことが多くなる。


 さらなる勾留期間と保釈金を積み、ミルドレッドも牢屋から解放される。夫婦に言い渡された刑は執行猶予のついた一年の懲役、そして、二十五年の州外追放。
 ふたりはワシントンで暮らすミルドレッドの親戚を頼って、緑豊かな故郷を離れ、街で*2暮らすことになる。
 途中で出産のためにヴァージニアに舞い戻って再逮捕されるなどのアクシデントを経たものの、三人の子宝の恵まれて、夫婦はワシントンでの慎ましい平穏を手に入れる。彼らの生活空間には光が溢れ、もはや日陰の身ではない。ツートンカラーだったヴィクトリアも、黒人街での生活に馴染んだ一家に呼応してか、黒一色の車に換わった。
 ところが、ミルドレッドには何かがひっかかっていた。狭くて危険も多い黒人街は小さな子どもを育てるのに適していない。緑多く、温かい彼女の実家のある故郷ヴァージニアでのびのびと育って欲しい……。そんな思いが募っていたある日、彼女はテレビで公民権運動のニュースを観る。もはや理不尽な不平等に縛られる時代ではない――ニュースに刺激されて、彼女はロバート・ケネディ司法長官に自分たち夫婦の苦難について手紙を出す。これがきっかけで、ふたりは全米を揺るがす憲法裁判の当事者となっていく。



レンガを積んで家を建てる男

 劇中、何度も繰り返されるモチーフがある。
 工事現場で働くリチャードがモルタルを塗ってレンガを積み上げていくシーンだ。レンガを積み上げるのは東部の白人男性たる彼の生業であると同時に、「家庭を妻に任せて、外で仕事をする夫」の姿であり、家を自力で築き上げる理想的で男らしいアメリカの男性像でもある。
 積まれるレンガは、どんな場面でも常にせいぜい四五段積まれた程度の低い状態だ。それは不器用で口下手で堅実な彼のキャラクターをよく表している。
 聡い妻が家でテレビを観て時流を敏感に察知し、手紙を書き、テレビのインタビューに答える一方で、彼は朴訥にレンガを積みつづける。
 だが、外で「変化」に直接晒されるのは夫のほうだ。ヴァージニアへ出戻り、ふたりの「犯罪」の見直しを迫る裁判が始まると、仕事場に停めたリチャードの車からミルドレッドの写真に包まれたレンガが発見される。白人の同僚による、あきらかな脅迫だ。しかも、仕事場からの帰路で、不審な車からあとを尾けられたりもする。彼は妻にはそういうことを報告せず、夜、ライフルを握りしめてバルコニー立ち、周囲を警戒する。ふたりを引き裂く侵入者は、夜におとずれるものだから。
 ミルドレッドはミルドレッドで、自分や夫だけでなく子どもや全米の黒人たちの未来を背負っている自覚を持っているので、マスコミの取材に積極的に応えようとする。夫の方はその取材のせいで妻の身が危険にさらされていると知っているので、頭ごなしに止めようとする。妻は口下手な夫の不機嫌の理由がわからない。
 微妙にすれちがっていく二人の愛情が観客からすればはがゆくもあるが、それでもやはりまあ愛は愛なので、落ち着くとこへ落ち着くことだろう。


 彼の築き上げようとしている「家」とはなんなのか、という問いは*3ラストシーンであざやかに効いてくる。
 夫は妻のために、二重の意味で「家」を建てたのだ。



余談

 雑誌のカメラマン役のマイケル・シャノンが取材のために夫婦の家を訪れるシーンがあって、この人とジョエル・エドガートンが同じカットにおさまっているのを観ると、みょうな感動が湧きます。シャノンはジェフ・ニコルズ監督のお気に入りらしく前作『Mud』にも出演していましたね。
 日本では三月にソフトスルーされる同監督のSFジュブナイル『ミッドナイト・スペシャル』でもこのふたりが共演するらしい。楽しみです。

*1:劇中、「誰かがチクらなければバレなかったのに」という冷静に聞いてみれば割りとトンデモない発言が出てくる。当時のお隣さんからすれば目立つことこのうえないであろう異人種間夫婦が白昼堂々同居生活を送っていても、特に悪意をもった人物に密告されないかぎりは平穏にすむ可能性が高かった、ということだ。アメリカのド田舎の治安事情が垣間見える。

*2:街――おそらくはスラムで暮らしている黒人たちをミルドレッドが車のなかから初めて眺めるシーンで、汚らしい浮浪者たちがゴミを漁る野良犬のイメージと重ねられているのが興味深い。

*3:まあ最初から九割がたわかりきったものであるけれどそれでも

『モアナ』はいかにしてプリンセスという名の呪縛に打ち克ったか

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*公開初日かつコンセプトの話が主なのでストーリーの話はほぼしてませんが、「こういうオチにはならない」と明かしている点においてはネタバレです。

モアナ「あのね、わたしはプリンセスじゃない。族長の娘だよ」
マウイ「いいや、プリンセスだね。ドレスを着て、動物の相棒をつれてるんなら、プリンセスだろ。ナビゲーター(Wayfinder)にはなれない」


映画『モアナと伝説の海』日本版予告編


 先に『モアナと伝説の海』(原題: Moana)の核心となる革新性*1について触れておきます。


 『モアナ』は、プリンセス物語ではない初めてのディズニー・プリンセスものです。


 どういうことか。
 ディズニーのプリンセスものを構成する二大要素がございまして、つまり、「お姫様」と「愛」です。これらに「歌」と「動物」を加えて四大元素といきたいところですが、まあ今回はさておいておきます。今回は「お姫様」と「愛」のみに注目しましょう。

プリンセスいじりの歴史

 90年代にディズニーは新たな可能性を模索するなかで、この二大要素のうち「お姫様」の見直しに着手します。その結果生まれたのが、『アラジン』のジャスミン(アラブ系)や、『ポカホンタス』(アメリカ先住民)のポカホンタスといったマイノリティ人種のプリンセスたち。中国を舞台にした『ムーラン』のムーランは単にマイノリティというだけではなく、男たちに混じって戦争に加わる「戦う」プリンセスでもありました。
 しかし、彼女たちも結局ラストでは「王子様と末永く幸せに暮らしましたさ」で終わるハッピー・エヴァー・アフターの重力に取りこまれます。そこがディズニーをして長らく「なんだかんだで旧来の女性像を押しつけているだけじゃないか」と批判される要因となってきたのです。

 2008年にピクサーを合併してジョン・ラセターとエド・キャットムルがディズニー作品を仕切るようになってからも「プリンセスはいじるけど、お定まりの結婚エンド(とそれに付随する恋愛)はいじらない」という姿勢はさして変わりませんでした。
 2010年の『塔の上のラプンツェル』は、批評的成功と商業的成功の両面でついにディズニープリンセス・ミュージカルを復興したという点においてエポックメイキングでした。が、この作品においても冒険を通じて相棒役の男性キャラとの愛情が育まれ、最後は結婚して終わります。

 そして、2013年の『アナと雪の女王』。アナ雪の何がディズニー的に画期的だったかといえば、「疑うべきは「お姫様」の形態ではなく、「愛」のあり方だったのでは?」と気づいた点に尽きます。それまでディズニーアニメで描かれてきた「愛」とは主に男女間の恋愛(初期には結婚そのもの)であり、それが女性としての幸せに直結していました。
 でも、愛ってそれだけなの? もっと愛って色んな種類があるんじゃないの? ――そうした疑問*2がアナ雪をあのユニークな結末へと導いたわけです。プリンセスものという形式にあえて則ることで、その批評的な再解釈の効果を最大化したのですね。

アナ雪以後の作品としての『モアナ』

 企画自体はアナ雪の完成以前から立っていた『モアナ』ですが、観客はやはり「アナ雪以後のプリンセス物語」と位置づけて観ます。
 第一印象として、『モアナ』はまた「お姫様いじり」に退行したかのように見えます。モアナはポリネシアンとしては初めての「プリンセス」です。南太平洋を舞台にしたディズニー映画は『リロ・アンド・スティッチ』があります(『モアナ』でも非常に目立つ形でオマージュが捧げられています)が、作品内容とリロの幼さ(五歳)から公式であれ非公式であれ、まずディズニープリンセスに含まれることはありません。
 何より、モアナの隣に控えているのは逞しい筋肉ムキムキの半人半神の男性マウイ。これまでのスマートでハンサムなプリンス像からはかけ離れていますが、観客は「ああ、このベビーフェイスのマッチョマンといい感じになるんだろうな」とある程度予期します。

 
 ところがどっこい、本作には恋愛要素がほぼ出てきません。もっぱら、モアナとマウイのコンビによる冒険と自己探求が描写されます。もちろん、物語が信仰するにつれ、二人の絆は深まっていきます。が、それが恋愛感情へと昇華されることはありません。二人はあくまで相棒(buddy)なわけです。


 ジョン・マスカーとロン・クレメンツのディズニー最年長監督コンビは、インタビューでこう答えています。

マスカー:ジェンダーに左右されないお話にしました。ロマンスもなし。
クレメンツ:彼女はこの映画のヒーローであり、英雄的な旅に出て、海とつながったスーパーパワーを持っています。そういう意味でも、やはりスーパーヒーローなのです。彼らは仲間(buddy)であり、だからこそ助け合う。
http://www.denofgeek.com/uk/movies/moana/45647/ron-clements-john-musker-interview-moana-disney-animation

 

ジョン・マスカー:私たちはモアナは新しい種類のプリンセスであると想像しました。冗談まじりにですが、「バッドアスなプリンセス」としてキャラ付けしたんです。私たちは彼女を冒険アクションのヒーローと考え、青春成長譚(coming-of-age story)として物語を作ったんです。
http://www.denofgeek.com/uk/movies/moana/45647/ron-clements-john-musker-interview-moana-disney-animation

 
 アナ雪でさえ主眼に置いていた「愛」からプリンセスを解き放とうとしたわけです。いくら冒険しようが、いくらおてんばで男勝りな性格に設定しようが「愛」がプリンセスを縛ってしまう――と考えたかどうか。
 「愛」ではなく冒険重視の姿勢はクライマックスの改変からも伺えます。当初考えられていたエンディングはモアナがあるキーアイテムをある場所に埋めこむために海の中へダイブして、そこで閉じ込められてしまい、マウイが救助にかけつける、というものでした。ところが、この案は「あまりにマウイがヒーロー的になりすぎる」という理由で却下され、完成版のモアナが主体的に活躍する案へと変更されたのです。
 そうして『モアナ』は、Time 紙の Eliza Berman が指摘するように、プリンセス物語やラブ・ストーリーというより自己発見の物語となりました。

 別のインタビューで監督たちは作品のテーマは「内なる声を聴け。すべてはそこにある」であるとも言っています。*3
 どうすれば幸せを手に入れられるか、というよりも、自分は何をやりたいか、何をすべきなのか、自分は何ものなのか、どこからやってきて、どこへ行くのか、そういった過去と未来のアイデンティティを探ることこそが本作のキモなのです。
 そのことがよく表れているのがミュージカル部分。それらはすべて「自分(たち)について」の歌です。人物紹介ソングはミュージカルの基本ではありますし、近年のディズニープリンセスものでアイデンティティがらみの歌が出てくることもさして珍しいわけでもなかったのですが、それにしても『モアナ』は多い。アナ雪でさえ、「扉を開けて」があったのに。*4
 そして、「自分とは何者なのか」という問題意識の点でマウイとモアナは相似していて、それが二人の間に結ばれる絆のきっかけとなります。
 

 本作は旅と冒険のスペクタクルに溢れています。しかし、エンディングの先にあるのはハッピー・エヴァー・アフター式の落ち着いた幸せではなく、さらなるスペクタクルと探求の日々です。
 ある人にとってはディズニー映画がアナ雪でさえ描かれていた「愛」を捨てたように見えるでしょう。ある人にとってはディズニー映画がこれまでとは別種の「愛」を獲得したように思えるでしょう。
 一方で、モアナはプリンセスでありつづけます。しかし、それはお城で着飾って王子様とダンスする、という意味でのプリンセスではありません。人々の行くべき未来を示し、道を果敢に切り拓いていくリーダー的存在、劇中での言葉を借りるなら、「族長(チーフ)」です。
 最初に「プリンセス物語ではない初めてのディズニー・プリンセスもの」だと言ったのは、そういう意味です。なんか書いてくうちに、最初の意図と違ったような感じになったかもですが、まあ、ともかくもそういう感じです。


*1:not ダジャレ

*2:まあアナ雪が実際にそうした問題意識でもって制作されたかどうかはまた別にして

*3:また別のインタビューではプロデューサーも同様の趣旨の発言をしているので、チームとしての共通見解なのでしょう

*4:そう、「扉をあけて」はラブソングです。思えば、ディズニーミュージカルのド定番は「A whole new world」にしろ、「Can you feel the love tonight」にしろ、「Beaty and the Beast」にしろラブソングばかりですね。ラブソングであればプリンセスとプリンスのデュエット曲になるのでそこに感動的なケミストリーが生じますし、主演同士が揃いぶむというので映画のクライマックスにも据えやすい。プリンセス・ミュージカルのパロディを志向するアナ雪にとって、「扉を開けて」は避けては通れない道であり、これがあるからこそプリンセスが孤独に歌う「Let it Go」が活きるのです。

救おうとするから救えない――模造クリスタル『黒き淀みのヘドロさん』

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 模造クリスタルは常に世間や他人から廃棄された人間を描く。

黒き淀みのヘドロさん 1 (it COMICS)

黒き淀みのヘドロさん 1 (it COMICS)

(作者のサイトで三話目まで読めます。http://www.mozocry.com/hedrosan/01.html

 
 ここにも廃棄されかけた人間がいる。無表情なお嬢様に仕える執事の少年シャンプーボムだ。彼は、お嬢様からあまりに冷淡に扱われているので自分の人生の意味の無さに絶望しかけていた。
 そこに彼のクラスメイトであるお節介焼きの黒魔術少女レーンちゃんが現れて、少年に「人々を助ける『白馬の騎士』を一緒に作ろう」ともちかける。材料はオホーツク海のヘドロ。理屈は曖昧だけれども、このヘドロに魔術書を用いてマニュピュレートした「人間らしさ」を与えるとヘドロ人間ができあがる、らしい。要はホムンクルスみたいなものだ。
 こうして完成したのが、超ポジティブポンコツ人造ヘドロ少女、ヘドロさんである。
 ヘドロさんは自分を作ったマスター(レーンちゃん)の命令どおり、人助けのためにがんばる。
 この漫画は、概ねそういう枠組みで進んでいく。


王様になる夢を十二時間見る職人は、職人の夢を十二時間見る王様と見分けがつかない

 なんやかんやあってお嬢様と執事の件は落着、というかうやむやにされて、第一巻の後半からは「りもん先生編」がはじまる。

 りもん先生はシャンプーボムやレーンちゃんの通う学校の有名人である。とてもきさくなキャラクターで、学校の先生・生徒からの人望も篤い。学校に通い始めたヘドロちゃんにも優しく接し、学校を案内するなどしてくれる。

 だが、その実体は、自分のことを教師だと思いこんでいる近所のアホである。

 彼女の扱いに困った校長は、レーンちゃんに対して「わけのわからんヘドロ生物の通学を認める条件として、りもん先生の身元を調査しろ」と取引を要求する。
 りもん先生が頭のおかしい無害なアホであればよし、何か裏があるようなら善後策を講じなければならない。 
 が、それは学校の事情である。りもん先生を慕うレーンちゃんたちはヘドロちゃんの人間生活のためとはいえ、気がすすまない。レーンちゃんは言う。
 

「りもん先生が先生じゃないのはみんな知ってる。知らないのは、りもん先生だけ。りもん先生だけが知らない。だから、うまくいってる。だから、この事件を解決する必要はないんだ…」(p.152)

 
 りもん先生の認知が歪んでいるからこそ、まるく収まっている。彼女が正気を戻ってしまったら、認知が他の「まとも」な人と合致してしまったら、誰も幸せでなくなってしまう。レーンちゃんはアメリカ皇帝を自称した狂人ジョシュア・ノートンのエジプト版みたいな挿話を紹介しつつ、その危険性を指摘する。にもかかわらず、探偵行をきっぱりやめようとはしない。妄想狂の幸福な世界は、崩壊に向けてまっしぐらへとつきすすむ。


 前述のように、ヘドロちゃんは人助けのために生み出された白馬の騎士だ。ヘドロという悪から生み出された善である(というように作中では言われる)彼女はまったく裏表なく、純粋な善意と熱意でもって皆を助けようとする。
 その行為は歪みを矯める、という意味において治療ともいえるかもしれない。
 彼女自身が悪から善へと変換されたように、彼女は「間違った状態」にある他人を「正しい状態」へと(彼女自身意図する意図しないにかかわらず)戻してしまう。その過程で歪みの膿みたいなものが表出してしまい、トラブル化する。
 
 「お嬢様編」では、お嬢様と執事との閉鎖的で異常な関係に初めての健全な他者として現れた結果、お嬢様を狂わせてしまうし、「りもん先生編」では、先生の異常性を追求することが先生を追い詰めていく。
 人助けのはずが、介入することや解決することそれ自体が不幸を引き起こしてしまう。それは模造クリスタルの代表作である『金魚王国の崩壊』で見られた、虐待されたバッタを救おうとして結果的に不幸なバッタをふやしてしまう主人公みかぜちゃん的なジレンマだ。あるいはこの救いのない無常さこそ模造クリスタル的世界観のキモと言い切ってしまってもいいのかもしれない。


 人間は、どうすれば。
 
 

模造クリスタルという人

 『金魚王国の崩壊』というメンタルの弱った人に人気のウェブ漫画クラシックがあり、さっき引いたバッタの話でいえば、小学生男子がバットの肢をもいで作った肢なしバッタを自然を愛する少女が買い取り、まもなく死なせてしまい、むなしくなっていると翌日に同じ男子からまた肢なしバッタを売りつけられそうになりキレるみたいな、病的な内容です。倉橋由美子はかつて、中井英夫の小説を病気のときに読むといいのはそれが病的な小説だからなのではなく脳に刺激を与える知的な喜びにあふれた小説だからだ、的なことを言ってたと記憶してますが、中井英夫中井英夫でまあいいとして、病的なフィクションも病人には効くんだと思います。ほら、ホメオパシーって疑似科学、あるじゃないですか。

 で、そんなメンタルに効くレメディである『金魚王国』の作者が模造クリスタル先生です。ネットやコミティアで精力的に活躍したのち、四年くらい前に『ビーンク&ロサ』なるキテレツな作品で商業デビューを果たしました。で、第二冊目の単行本として今年出たのが今回紹介した『黒き淀みのヘドロさん』(it COMICS)というわけです。
 amazonで名前を検索すると panpanya(『動物たち』『足摺り水族館』)や派手な看護婦(『魔女団地』)などの漫画家たちがついでにヒットしますが、まあ、そういう感じの漫画家です。
 ここはいい所ですね。なんて世界は目新しいんでしょう。すべてが光って見えますよ。


ラーメンのたまごをどう食べればいいのか問題

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 たいして美味い食い物でもないどころか一食あたりベーコン七枚分ほどの寿命を減らす反滋養食にもかかわらず、ラーメン屋という帝国はなぜだか繁栄を極めており、いっこうに滅びる気配がない。
 ことさら嫌いな文化なわけでもなし、滅びないなら滅びないで結構。しかし、もし近々に滅びる予定があるのなら、せめてたまごの食べ方を教示してから滅んでほしいとおもいます。

 ラーメン屋のたまごはむずかしい。まず「たまごください」と頼むと、頼むのは大抵店員にではなく券売機のなかに入ったイルカに対してだが、ともかく頼むと無条件に半熟たまごが提供される。この時点でもうむずかしい。一般に「たまご」といった場合、全人類の半数が想起するのは生たまごであり、残りの半数が想起するのはゆでたまごだ。なぜ「たまご」と言っただけで、半熟が出てくるのか。あるいはイルカの常識ではたまご=半熟なのかもしれないけれど、イルカは胎生の哺乳類であって、たまごが身近にある動物ともおもえない。
 
 食べるときも困る。食べるときが一番困る。
 半熟とは、ようするに半分しか熟してないたまごである。だから、あつあつのスープにつけるとたちまち熟してない側の半分が溶け出てしまう。このとき、不健康なオレンジ色の卵液が油のように豚骨スープと混ざるさまをもちもちぼんやり眺めていると、ラーメン屋のおやじから怒号が飛んでくる。うちのスープはバラの骨だけで取ったピュアな味わいが売りなのに、さっそく一個百円のたまごと混ぜるとは何事か、と。ラーメン屋のおやじというのは別に自分がラーメンを作ってるわけでもないのにやたらラーメンの食べ方にうるさい。でも、店主だけあって客を怒鳴りつける権利だけは一丁前に保証されていて、怒鳴られた方はその日いろいろつらいことがあったのもあって感情が溢れてしまい、もう泣くしかない。おまえごときが泣いたところで、ラーメン屋のおやじは許さない。鬼である。鬼はおまえの涙が枯れるか、耐えきれなくなって金を払って(すでに券売機で支払っているので二重請求である)遁走するまで怒鳴りつづける。濃厚な甘い豚骨スープのはずがこぼれおちた涙ですっかり塩ラーメンのあじわい。
 
 ではどうすればいいのか。
 取りうる方策はひとつしかない。
 スープに浮かんだたまごの黄身に麺をつけて食べるのだ。
 いってみれば、つけ麺の応用だ。半分こに切られて断面を上にしたたまごを椀に、黄身をつけ汁に見立てる。ラーメン椀のなかでラーメン的な行為をエミュレーションするマインクラフト精神に満ちた処理法であるが、言うほど簡単にはいかない。
 半熟卵の黄身はねばりけがつよい。さきほどのようにうっかりもちもちしていると麺を黄身につけた拍子にたまごの舟が転覆してしまい、乗客たる黄身は全員溺死あるいは行方不明。洞爺丸転覆事故以来の惨事として責任者たるおまえは遺族やイルカやそして何よりラーメン屋のおやじからはげしく糾弾され、そのせいで心身を病んで退職し、残りの人生を精神病院のベッドのうえで「どうすればあの悲劇を防げたのか」という逆『ハドソン川の奇跡』的な後悔に苛まされながら生きることになり、のちに中井英夫がその事故を題材にミステリを書いて江戸川乱歩賞に送ろうとするが、第一部までしか書かれてなかったのでさすがに受賞はできない。ようやく塔晶夫名義で講談社から出版されるころには、おまえはすでに死んでいる。なにもかも報われない。でもそれが人生ってもんじゃないか? すべてはおまえの肉体と精神が脆弱だったせいだ。

 なので、おまえは、身体を鍛えだす。筋肉を鍛えたら、健全な精神もしぜんについてくるだろうと無根拠に盲信し、ジムに通う。いちばん大事なのは指先の筋力、そして箸運びの繊細さだ。おまえは練成する。おまえは練達する。誰よりもビルドアップされた肉体と、巧緻極まる箸使いを獲得する。もうラーメン屋のおやじに怒鳴られても泣きべそをかいたりしないだろう。おまえはつよい。おまえは最強だ。

 おまえは憂いも躊躇いもなくラーメン屋に入る。ラーメンを頼む。もちろん、たまごつきで。券売機のなかのイルカが何かを警告するように、きゅう、と鳴くが、慢心したおまえに届くことはない。というか、超音波なのでそもそも聞こえない。
 ほどなくラーメンが収穫されてカウンターに供され、おまえは驚く。
 
 たまごが割られていない。
 
 普通は、切る。二つに割る。そして、平面をを上にし、湾曲した尻をスープに濡らして、ふたつのミニつけ麺汁が出てくる。そのはずだった。だが、目の前にあって至福の二次曲面を具えるその完全なる楕円体は、高潔なまでに浅黒く、淫靡な黄身をどうしても晒そうとしない。おまえは二十年前の淡い初恋をふと思い出しかけるが、今思い出してみたところでなんになる? 甘美な懐旧ではなく、現実からの逃避にしかならない。
 事ここに至っては、もはや熟練の操箸技術も頑健な筋肉も無為無益だ。モミの木から削り出したと称する店特製の割り箸は、つるりとしたたまごの表面をむなしくすべるばかり。焦りは恐ろしい勢いで時間と精神を蝕んでいき、もはやおまえはラーメン屋のおやじの怒号どころか、コンビニの店員の「袋はお分けしますか?」という問いかけにすら泣き出すだろう。
 もうだめだ。
 なにもかもだめだ。
 頭が割れそうだ。
 鼻の上のあたりがじんじんと痛む。

 なぜ、誰も教えてくれないのだろう。みんなどうやっているのだろう。
 みんなどうやってラーメンのたまごを食べているの? なぜ、ラーメン屋にはラーメンの食べ方マニュアルが置いてないの? 言われなきゃわかんないじゃない? こういうの、教えてくれなきゃできないじゃない? じゃなかったら、券売機だけじゃなくて、食べるところまで全部オートメーション化してよ。
 

 そんなとき、 
「お困りですか」
 と、声をかけてきたのが隣に座っていたテッセクラトである。
 われわれより高次元なからだを持つこの正八胞体は、他人をおもいやるこころまで高次にできているらしく、堅牢な白身に守られたたまごの食し方について実に有用なアドバイスをくれた。

「卵だけ、手でつまみ出して口にいれればいいんですよ」
 
 まさにコペルニクス的転回。四次元存在にしかできない、革命的な発想である。そうして、おまえのなかでパラダイムがひとつシフトした音がなり、おまえは無思慮に指をスープに突っ込む。

 熱い。

 おまえは椅子から転げるようにずりおち、のたうちまわる。客たちの視線がいっせいにおまえへ注がれる。ラーメン屋のおやじはもちろん激怒する。
 テッセクラトは他人のふりをしている。だが、彼は最初から他人であったし、むしろ他人でなかった瞬間など毫もなかった。おまえはその認識不可能な横顔に、四次元をサバイブするものの冷徹さを知る。いくら精神を鍛えようと、けして及ばぬ領域があるのだ。そして、それは。

 ラーメン代を二重徴収されて店の外へ放り出されたおまえはもはやイルカにも劣る生き物だ。引退して余生を過ごすなどもう許されない。おまえは人間としての尊厳を、生きる資格を取り戻す必要がある。つまり、おまえが死ぬか、ラーメンが死ぬかだ。
 おまえがラーメン文化の撲滅を決意したのはまさにこのときだろうと言われている。厳密に史料に照らすと、前後数日のスパンで複数の説が入り乱れていて、学界では今も論争の的であるらしいが、おおよそ大衆に信じずるところの「歴史」というものはわかりやすく劇的でチージーなものだ。
 いまだにラーメンのたまごのただしい食べ方はわからないけれども、殺すべき対象だけは精確に識別できる。 


 麺類のモンテ・クリスト伯と化したおまえは、敵側のやわらかい脇腹にまず食らいつく。イルカだ。券売機のなかで一日四時間二交代制時給三千六百円の奴隷労働を強いられているイルカは賃金が払われている時点で厳密な意味での奴隷にはあたらないかもしれないが、その悪辣な資本の論理は間違いなく現代の奴隷を意図しているであろう旨を強く主張し、おまえの復讐に力を貸す。
 イルカが券売機のボタンの灯りを利用したモールス信号で言うには、ラーメン屋のおやじは実はラーメンを作っていない。ラーメンというものは、ラーメンのたまごからできるものであり、麺はたまごの黄身、スープは白身の部分なのだそうだ。ラーメンを作るにあたっては、ただ器のなかにラーメンのたまごを割って落とせば良い。

 ラーメンがたまごからできると言うのなら、その親はなんなのだ、とおまえは尋ねる。
「わたしたちです。わたしたちフジツボ・イルカの無精卵がラーメンのたまごになるんです。
 ジェラル・ド・バリことジラルドゥス・カンブレンシスは1187年にわれわれについてこう書き残しています。
『当地にはベルナカと呼ばれるイルカがたくさんいる。自然に逆らって生まれる、まことに不思議なイルカである。バンドウイルカに似ているが、少し小さい。海に投げられたたまごから産し、メスは十分に成熟すると陸にあがってモミの木のような形へ変化する。その木とオスがつがい、ベルナカのたまごが成る。たまごは熟すと自然に木から離れ、海へと転がっていく。
 孵化しなかったたまごを割ると、しなやかでつるつるしたツタのような黄身が出てきて、これを白身と一緒に煮ると美味である。こうしたことからアイルランドのいくつかの地方では、司教や牧師が斎日にこの鳥を何のためらいもなく食している‥…』
 マンテヴィル卿やヘリット・ド・フェーアといった名だたる冒険家たちもたびたび著書でわれわれについて言及しています。
 おそらく、アイルランドでほそぼそと食されていたわれわれの無精卵に目をつけて、テッセクラトたちが日本にラーメン食を持ち込んだのでしょう」

 そう。
 券売機で働くフジツボ・イルカたちこそ、ラーメンの原材料だったのだ。
 われわれは彼らのこどもたちをすすっていたのである。
 倫理とは……。

 では、ラーメン屋のおやじにどういう役割が与えられているのかいえば、何も与えられていない。彼らはみな近所の狂人であって、きままにラーメン屋のキッチンにやってきてはてきとうに小麦粉の麺をゆがいたり、使ってもない器を洗ったり、麦飯を盛ったり、客を怒鳴りちらしたりしている。実際の業務をやっているのはテッセクラトたちで、彼らはわれわれ三次元生物には見えない空間でラーメンのたまごを器に落としたり、器を洗ったりしている。
 
 するってえとあれだな、とおまえは鼻先を意味もなく親指で拭いながら言う。あまねく四次元空間をぶっとばしちまえばラーメンは終わる。
 
「そして、われわれイルカたちも解放される。理論上は、そうなりますね。理論上は」
 
 そんなに難しいことなのか、とおまえは訊く。

「少なくとも、人間の物理理論では彼らの領域に攻め入る方法は存在しません。」 

 じゃあ、どうする。

「人間のがダメなら、イルカのがあります。
 いいですか。テッセクラトに支配された食べ物屋は何もラーメン屋だけではありません。
 和食、イタリアン、中華、フレンチ、インド料理、ハンバーガー、ケバブ屋、回転寿司……まあとにかく外食産業はどこもテッセクラトに蚕食されてしまっているんです。そしてどの分野でもイルカとカッパが奴隷として酷使されている。
 そんなテッセクラトの陰謀ネットワークの頂点に位置しているのが『ミシュラン』と呼ばれるガイドブックです。
 彼らはそのガイドブックを通じて人間の食欲を支配し、自分たちに都合のいい店に誘導している……そうそう、『ミシュラン』のマスコットキャラがいるでしょう。
 タイヤが重なった姿と言われていますがあんなのは大嘘で、その正体はテッセクラトたちの王――十六次元存在の戯画化された姿です」

 なんということだ。そんなやつらに勝つ方法があるのか。

「勝算は五分といったところですが……
 われわれはこう考えました。
 相手がガイドブックで人間たちの食欲を都合よくマニピュレートしているのなら、こちらも同じ手段で彼らの『フランチャイズ』から人間たちを引き離せばいい。
 つまり、あたらしいレストランガイドの創設です。
 われわれは何年ものあいだ、そのたまごを温めつづけてきたました。すっかり熟して復讐を受肉するまでね。そして今、あなたが現れて時が満ちました。
 
https://tabelog.com

 『食べログ計画』が今こそ孵化するときです。」

 食べログでやつらのラーメン屋の評判を落とせば……。

「テッセクラトたちの野望は潰える。彼らの目的がなんなのかはよくわかっていないんですが、まあそれはどうでもいいですね。さっそくとりかかりましょう」


 おまえたちは手動でテッセクラトたちの店のレビューを入力する。
 アタックをかけはじめてやっと、なぜイルカたちがおまえの登場を待ったのかが判明する。
 フジツボ・イルカたちのヒレはキーボード入力に向かず、スマホを介したフリック入力も流暢とはいえないのだ。なので、いやがらせの主力はおまえだ。イルカと人類の最後の希望。

「まずい」「うんこのあじがする」「スープの中にコンドームが入っていた」という定番disはもちろんのこと、「味は悪くないけど、料理が出てくるのに十分もかかったので星ひとつです」「店員のツラがむかつく」「そもそもラーメンというのが気にいらない」などの難癖も縱橫に駆使して、テッセクラトたちの店をじわじわと追い詰める。
 攻撃開始から三ヶ月も立つ頃には、潰れる店も出てきた。
 その一ヶ月後には二軒。
 その一ヶ月後には七軒。
 一件潰すたびに、イルカたちが総出でおまえのことをほめてくれる。
 おまえの惨めな人生にはついぞなかった幸福だ。
 おまえは勢いづく。
 ドミノだおしのように店が潰れまくる。あらたに解放されたイルカたちの歓喜の声が大波のようにうねる。カッパたちもおおよろこびだ。三軒に一軒はイルカもカッパも出てこないが、調査管理部は誤差の範囲内であると回答している。

 さらに半年後には一週間で七十三軒。
 市内からラーメン屋のみならず、外食屋という外食屋が消えた。


 その日、イルカたちの様子がおかしい。
 みな挙動不審で、おまえをみると皆目をそらす。
 おまえは不安にかられる。

 なにかまずいことをやってしまったのか?

 また、なにか間違えてしまったのか?

 また、ひとりぼっちになってしまうのか?

 おまえは何ヶ月かぶりに泣きそうになりながら、イルカたちの用意してくれたドミトリーへと戻る。
 真っ暗な部屋に入った瞬間、電源にふれてもないのにパッと灯りがつき、複数の乾いた破裂音がさして広くもない空間に響いた。
 色とりどりのリボンがおまえのからだにまとわりついている。
 おまえはわけがわからない。
 眼をあげると、イルカたちの嬉しそうな顔、そして、天井につりさげられた「お誕生日おめでとう!」の垂れ幕。


 おまえはながらく自分の誕生日など忘れていた。


 おまえは、そこで、やはり泣いてしまうのだ。
 イルカたちが心配そうな顔つきでかけよってきて、
 おどろかせてごめんなさい、
 とすっかりおまえも聴き取れるようになったやさしい超音波で語りかけてくるが、ちがう、そうじゃない、そうじゃないんだ。
 おまえはなにかを言おうとするけれども、それらはすべて目もとから溢れる涙に絡み取られて、けっきょく何もことばにならない。
 だが、イルカたちには伝わっている。
 おまえたちは共鳴している。


 おまえはいまだにラーメンのたまごの正しい食べかたを知らないだろう。
 だが、自分が何者であるかを知っている。
 それで十分だ。


動物たち

動物たち

奇怪動物百科 (ハヤカワ文庫 NF (299))

奇怪動物百科 (ハヤカワ文庫 NF (299))

擬人化されたネコのアニメが出てくるMVは名作の法則10選

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これまでのあらすじ:

 近頃巷は「擬人化されたネコのアニメが出てくるMVはどれも名作である」といううわさで持ちきりだとか。
 本当でしょうか?
 そこでわれわれは擬人化されたネコのアニメが出てくるMVを10本みつくろって検証してみました。ヴァイラルサイトのクソ記事みたいな書き出しですね。


Lone Digger - Caravan Palace

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 たぶん現状世界でいちばん有名な擬人化ネコアニメMV。

Shoot Him Down - Alice Francis

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 エレクトロ・スウィングはやたらネコをフィーチャーしてくる印象がある。

Opposites Attract - Paula Abdul

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 擬人化アニメネコMVといえばポーラ・アブドゥル

Skat Strut - MC Skat Kat featuring Paula Abdul

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 ポーラ・アブドゥルといえば擬人化アニメネコMV。

I'm Not Yours - Angus and Julia Stone

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 叙情的。

When I'm Around U - BURNS

www.youtube.com
 映像ドラッグ感が一番強い。

Harlem Shuffle - The Rolling Stones

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 ローリング・ストーンズも擬人化ネコアニメMVを鋭敏に取り入れていた。さすがの慧眼である。

けっこう毛だらけ猫灰だらけ - ねこね、こねこね。

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 美大バンド臭がしますが美大バンドです。

Asleep In The Deep - Mastodon

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 ストップモーション枠。

あんこくねこぐんだん - アンディーメンテ

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 不朽の名作。


検証の結果、

 擬人化されたネコのアニメが出てくるMVは名作であることが証明されましたね。
 今後も擬人化ネコされたネコのアニメに期待しましょう! (おわり)
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『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』(ジョン・ロンソン、光文社新書)

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 ツイッターは、かつては何気なく、深く考えずに自分の考えをつぶやくことのできる場だった。ところが今では、常に不安を感じながら、慎重に物を言わねばならない場に変わってしまった。*1


www.ted.com

(本書に関連したロンソンのTEDトーク。ウィンドウ右下のタブから日本語字幕が選べます。)

あらすじ

 ノンフィクション作家のジョン・ロンソンはある日 twitterで自分を騙る botアカウントに遭遇する。彼は、削除に応じようとしない bot制作者に対してネットでいわゆる「晒し」行為を行いアカウントを取り下げさせるのだが、この件の成功に酔いしれ、「悪と闘うために、悪人を晒し者にするという手段」に興味を抱く。

 まもなく、ポピュラー・サイエンスの人気ライターであるジョナ・レーラー(日本でも『一流のプロは「感情脳」で決断する』と『プルーストの記憶、セザンヌの眼』の二冊が訳出されている)が自著のなかで引用していたボブ・ディランの引用の捏造が発覚し、大スキャンダルに。ロンソンは捏造を暴いたジャーナリスト、そして炎上当事者であるレーラー本人に取材を敢行する。

 若くして名声を得ていたレーラーだったが、この事件をきっかけにてがけた記事の不正がつぎつぎと発覚し、ほとんど一夜にしてポピュラー・サイエンス界の寵児からパブリック・エネミー・ナンバーワンへと転落してしまう。職を失い、ジャーナリストとしての未来も断たれた。このあたりの経緯が映画『ニュースの天才』(ビリー・レイ監督、二〇〇三年)の題材になったスティーブン・グラス事件*2と重ねられるのは興味深い。ただ、一から記事を捏造したグラスに較べて、レーラーの「捏造」はディランの言い回しにちょっとしたつけたしを行ってせいぜいニュアンスを変えた程度だ。なのにグラスと同等か、それ以上の恥辱がSNS社会から与えられていることにロンソンは違和感を持つ。

 なにもかも失ったレーラーは、起死回生のためにあるカンファレンスでの講演の依頼をひきうける。彼は公の場で謝罪することで反省の意を世間に示し、ジャーナリストとしてのキャリアを復活させる緒をつかもうと考えた。
 はたして、カンファレンス当日。謝罪公演の模様はインターネットでストリーミング中継され、壇上の彼の背後にはリアルタイムに twitterでの反応を表示するスクリーンまで用意された。打ちひしがれた様子で頼りなく反省のことばを吐くレーラーに、最初はネットの住民たちも好意的な反応を示し、講演は成功するかと思われたが――。

 レーラーへの取材後、ロンソンはネットで炎上した一般人たちにインタビューを試み、炎上の本質やその対処法を探っていく。

著者とそのスタイル

 ジョン・ロンソン*3ウェールズ出身のノンフィクション/ドキュメンタリー作家。既訳書には『サイコパスを探せ!』などがある。映画ファンにはドキュメンタリー『キューブリックの秘密の箱』(ジョン・ロンソン監督、二〇〇八年)、ジョージ・クルーニー主演の『ヤギと男と男と壁と』(グラント・ヘスロヴ監督、二〇〇九年)の原作、およびドーナル・グリーソン&マイケル・ファスベンダー主演の『FRANK』(レニー・アブラハムソン監督、二〇一四年)の原作脚本でなじみがあるかもしれない。ちなみに次の脚本作はなんとポン・ジュノ監督の韓国-アメリカ映画『Okja』。
 英語版 wikipediaによるといわゆるゴンゾ・ジャーナリストを自称しているようで、著書の視点も俯瞰して物事を観察する、というより、現場や当事者に直接突撃してその目線からみずからの思考をぶつけていく、というのが中心のスタイルをとる。 

 そういうわけで、本書の大部分は著者が行ったインタビューのやりとりで占められ、その様子が克明に記録されている。この対話というか、著者のキャラクターがおもしろい。
 彼の書きっぷりはアイロニカルかつ明け透けだ。地の文では場面ごとに自分の感じたこと、思ったことが事細かに書かれており、時にふてぶてしい。イングランド人の皮肉な笑いがウェールズ人の血にも宿っているのだろうか。たとえば、こんなやりとり。
 

 彼(注・レーラー)は何度もこう言った。 「僕のことは本に書かないでください。僕は、あなたの書く本にはふさわしくない」  私の方も何度も同じことを言った。
「いえ、ふさわしいと思うので書かせてください」  
 彼が何を言っているのか、よく理解できなかった。私はまさに彼のような人について書こうとしていたからだ。レーラーは虚偽の文章を書くという罪を犯し、公の場で恥をかかされるという罰を受けた。まさに私の本のテーマにふさわしい人だと思っていた。*4


 取材でも思ったことをすぐに口するタイプなため、たびたび取材対象に対して苦言を呈したりするが、それでもインタビュイーから敬遠されないのは人徳だろうか。
 一方で人への取材だけに頼らず、炎上・ネットリンチ現象の根源を調べるために多くの国で近代まで存在した羞恥刑の歴史をひもといたりもすることも忘れない。題材が題材だけあって、巻末の参考文献リストは細心の注意が払われ、充実している。

さまよえるウェールズ

 『サイコパスを探せ!』でサイコパスへの理解が深まるにつれて「自分もサイコパスではないか?」という不安に陥っていったロンソンだが、本書でも炎上当事者と似たような言動をしていた自分の迂闊さを思い出して冷や汗をかき、逆に「晒し」行為に加担していた過去を悔やむ場面が出てくる。
 彼は悲惨な炎上事例に触れるたびに、正義感から煽動していた twitterでの晒し上げに思いを馳せるものの、個別の被害者については「数が多すぎて名前を思い出せない」と言及を避ける。だが、中盤になってついに「どうしても忘れられない相手がいる」と具体的な名前を白状する。ほんとうは憶えていたのだ。
 その人の名はA・A・ギル。コラムニストの彼は、ある日「見知らぬ何者かを撃つのというのはどういうことか、体験してみたくてサルを撃ってみた」と雑誌のコラムに書いた。この記事をロンソンが twitterで告発すると、たちまち「霊長類殺し」ギルに対する非難の声が拡散し、新聞なども便乗してちょっとした騒ぎになった。人道の勝利である。
 ところが、ロンソンには自分の動機が真に正義感から発したものではなかったことを知っていた。「A・A・ギルの動向に私が注目していたのは、彼がいつも私の手がけたテレビ・ドキュメンタリーをけなしていたからだ。何か言い返したくて、そのきっかけを待っていたようなところもある。」*5

 ジョン・ロンソンというおもしろおじさんを主眼に読むならスリリングな一瞬だが、もちろんこれは特殊な事例だ。彼が晒してきた他の人たちは、おそらく、ロンソン自身とは直接なんのかかわりもなかった人ばかりだっただろう。

 私(注・ロンソン)はこれまで何人もの人を公開羞恥刑にした。うっかり本音を言ってしまった人、普段かぶっている仮面をほんの一瞬、うっかり脱いでしまった人、そんな人をめざとく見つけては、多くの人達に知らせる。そういうことを何度も繰り返してきたのだ。今はその相手のことをほとんど思い出せない。確かに怒っていたはずなのに、怒りのほとんどを忘れてしまっている。*6


 そして、大抵の炎上はロンソンのような善意の人たちによって起こる。

 本書に出てくる炎上当事者たちはみな程度の差はあれ、「愚か」とレッテルに貼られてもしかたないの言動を犯したかもしれない。「自分は白人だからエイズにかからない」という自分では自虐的なジョークのつもりなことをつぶやいた人、米軍墓地の「静かに、そして敬意をもって」と表示された標識の前で中指を立てた写真を撮り Facebookにアップした人、ITカンファレンスの聴衆席で女性蔑視的な卑猥なジョークを友人と囁きあっていた人、そのジョークを飛ばしてた二人を写真に撮り twitterに「女性の敵」として晒し上げた人。
 これら全員が、何百何千という見知らぬ人たちからともすればひどい暴言(ともすれば炎上者の発したものより差別的な)を投げつけられ*7、人格を否定され、個人情報を暴かれ、職を失った。
 彼らの名前でグーグルを検索すると炎上事件関連がヒットするようになり、そのせいで次の職にもなかなかありつけない。人生を徹底的に破壊されたのだ。すくなくとも、誰一人として法を犯さなかったにもかかわらず。
 それは世間による私刑だ。罪を犯した人物を、名も無き個人たちが執拗に追跡し、実況し、追い詰め、滅ぼし、消費する、デイヴ・エガーズの小説『ザ・サークル』みたいな監視ディストピア社会。

 ロンソンは疲労困憊し、人生に倦み疲れた炎上当事者たちの姿を直接かいま見ることで感化される。
 直接に利害や怨恨があるにせよないにせよ、人間のうっかりした瑕疵や失言を責めてその人の人生を破壊する権利などあるのだろうか? 人間だれしも弱みの一つや二つを隠しているものだ。その弱みが何かの拍子で引きずり出されて、世界じゅうから非難の的にならないなんて、誰が断言できるだろう?
 彼は、終盤、「炎上しても立ち直る方法」を探す旅に出る。それはやがて「恥とは何か」の探究へと発展していく。
 
  

たったひとつの冴えた炎上回避策

 基本的に文章を書いて公共の眼に晒す行為は常に賭けをともなうわけだけれども、現在のSNSで行われるそれはほとんど『カイジ』の鉄骨渡りに近い。自分でもなんでもなく思っているような発言がどこぞの誰ぞに拡散されて炎上し、リンチを受けないのは奇跡のたまものだ。
 本書に出てくる炎上した一般人はある共通項を有していた。それは「自分の周囲でこういう行為(わるふざけ)は容認されていた」という油断だ。気心の知れた知り合いなら、多少不愉快で品の悪い冗談で気分を害しても「まあそういう人間だしな」程度で済む。ところがそれが第三者によって拡散され、世間という異なる文脈に乗せられたとたん、発言者は生まれてきたこと自体呪われるような鬼や悪魔のあつかいを受けてしまう。
 
 この文脈の越境がやっかいだ。SNSで発言するとき、私たちは多かれ少なかれ読者を意識する。その読者とは、友人であり、理解者であり、私たちに対して寛容でやさしい人たちだ。趣味や志向や倫理基準も似通っており、TLという実体を伴った空気を共有している。
 ところがSNSは閉じたコミュニケーション空間の構築を強要する一方で、リツイートだのシェアだのでかんたんに文脈の越境を生じさせてしまいもする。一見、誰の眼から見ても同じような意味にしかとれないように思われることばでも、シマが移れば空気の組成も変わり、笑いや共感とは別の感情を誘爆してしまう。たまにそういう誤配の現場を実見すると胸がざわつきますね。

 だったら、いつも常識に注意を払い、気をつければいい。そうかもしれない。世間で共有されているらしい倫理の最低限のラインさえ守れば、たまに異なる文脈を持つ他人を傷つけることはあっても、一万人が憤怒する大炎上にまで至ることはないかもしれない。
 しかし二十四時間三百六十五日常に注意深くいられないのが人間という生き物で、そのせいで今日もどこかで誰かが車に轢かれている。人間の認知もまた完璧でなく、もしかしたら、自分では交通法規を守っていたはずなのに通行人を轢いていた、なんてことも起こりうるかもしれない。
 
 結局のところリアルな個人情報と細い糸一本でもひもづけた状態で発言するかぎり、「気をつけた」ことにはならない。
 もっとも確実かつ安全な炎上自衛策とは、ロンソンの友人であるステケルマンが実践した方法だろう。

 ステケルマンはもうツイッター上にはいない。彼の最後のツイートは、二〇一二年五月十日のものだ。「ツイッターは人間がいられるような場所ではない」と書いていた。*8


ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ザ・サークル

ザ・サークル

*1:loc. 5477

*2:九十年代にIT関連の報道で人気を博していた若手記者スティーブン・グラスによる記事捏造スキャンダル

*3:ロンスンとも

*4:loc.608

*5:loc.2669

*6:loc. 2658

*7:余談だが男性の炎上者には見られず、女性の炎上者だけに見られる現象として、「レイプ予告で脅迫すること」が指摘されているのは興味深い。

*8:loc.5477

映画『夜は短し歩けよ乙女』の感想というか体験談

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夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督、日本、2017年)

『夜は短し歩けよ乙女』 90秒予告


わたしたちは森見登美彦被害者友の会である。

 だれもが森見小説を愛していた。『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』にあこがれて京都へやってきた。京都には夢があるのだとおもっていた。魔法が息づいているのだと信じていた。

 そして、裏切られた。

 実際の京都には夢も魔法も存在しない。あるのは二通りの現実だけで、つまり魔法めいた現実か現実めいた現実のどちらかだ。下鴨神社の古本祭りを徘徊するのは野獣のような眼光を湛えた古本極道たちと森見登美彦を読んでやってきたサブカルクソ野郎ども、木屋町をうろつくのはポン引きと川に吐瀉物をぶちまけるスーツ姿のおっさんたち。金閣寺、御所、寺町、伏見稲荷、名前のついている名所史跡はいつでも三百六十五日、クラッシャー帽をかぶった観光客たちで埋めつくされている。どうしようもなく世間だ。*1
 そんな惨状を目の当たりにしても、意外に失望は湧かなかった。最初からうすうす勘付いていたのだ。「そんなもの」は最初からないのだと。
 やがて、わたしたちは森見登美彦を信仰しなくなった。あるいは最初から信仰などしていなかったのだろうか?
 書店には森見登美彦万城目学のフォロワーとしての京都小説が積まれるようになり、いつのまにかストロングホールドな一大エクスプロイテーション・ジャンルが築かれた。森見と違って魔術師の才能に恵まれたものは多くなかったようだったが、それでも商業的には成功を収めた。
 京都は売れた。京都は金になった。京都はそうやって、いつからか夢も魔法も内在させていないことを隠さなくなった。
 それから、七百年がすぎた。

湯浅政明が『夜は短し歩けよ乙女』をアニメ映画化する

 という真偽定かならぬ噂を聞き、わたしたちは二条のTOHOへ、三条のMOVIXへ、京都駅前のTジョイへと向かった。このうちMOVIXへ行ったものは現地で『夜は短し』の上映が行われていない事実を知り、寺町のアニメイトをひやかして帰った。
 幸運にもチケットを購入しえたものはもぎりのお姉さんの脇を抜け、重くてたいそうな扉を開き、映画館の暗闇へと身を沈める。


 Tジョイではシアター9だ。
 TOHOではスクリーン1だ。


 席を埋めている人々はみなわたしたちだ。学校帰りの高校生も、早くも講義もサボってやってきた大学生も、若いカップルも、見た目から仕草から型どおりに典型的なオタクも、父親がIT企業で働いてそうな見た目の親子連れも、よく映画館で見かける孤独そうな老人も、誰もが森見登美彦を信仰し、裏切られた末にここにやってきた。
 半券に指定された席に座ると周囲の闇からささやく声が聞こえる。
 ”おまえは森見登美彦を読んだことがあるか。『夜は短し歩けよ乙女』を知っているか。”
 知っている。『四畳半神話大系』も『太陽の塔』も『ペンギン・ハイウェイ』も、思い出の彼方、胸の奥に眠っている。だが、あれからもう七百年も経ってしまって、眠ったままだよ。たぶん、もう二度と目覚めないかもしれない……。

 苦笑いで吐いたそんな予言が上映開始三分で覆される。
 おそろしいほど甘美なテンポ。
 かぐわしいほどにキュートなアニメーション。
 すさまじい勢いで発動していく湯浅政明一流の魔術で、わたしたちの知っている京都の景色が塗り替えられていく。いや、すり替えられていく。
 目が覚めてしまう。
 信じてしまう。
 今、この瞬間、この眼に映っている京都こそがほんものの京都なのだと、信じ込まされてしまう。
 わたしたちはこの感動的な詐術に既視感を持つ。森見の、原作小説を読んだときにも味わった感覚と同質の酩酊をひきおこしていることに気づいてしまう。あの饒舌な原作が大幅にカットされて純粋に湯浅政明のアニメーションになっているにも関わらず。なぜ同じなのか?

速度。

 そう、速度だ。あの原作小説の声の速さがそのまま映画のBPMに変換されている。だからこんなにも心地が良い。すべてが愛らしく、その愛さしさが減衰されないまま、ただひたすら愛しいままに90数分間をつっきってしまう。
 この速度の前では絵面と星野源の声のマッチしなさ*2など顧みられない。現実の京都の空の曇り模様など消し飛ぶ。憂いなど、まるでこの世界のどこにも存在しないかのようだ。
 花澤香菜演じる乙女が酒を一杯飲み干すたびに、わたしたちはこれまでの七百年を思い起こす。そういえば、アニメなら『四畳半神話大系』もあった。『有頂天家族』もあった。どちらもすばらしいアニメシリーズだったじゃないか? っていうか、『四畳半』のキャラが本作にも出てるんだけど。
 だが、映画版『夜は短し歩けよ乙女』はスウィートさで言うのなら、その二作を圧倒する。理由は単純で、尺が短いからだ。何度も言うように、必要なら何度でも言うけれど、速いからだ。
 

 映画『夜は短し歩けよ乙女』は一年のできごとを一晩の夢酔に圧縮した物語である。そういうフレームで捉えると、本作が『四畳半』のようなアニメシリーズではなく一本の映画になったのは必然であるように思われる。ゆっくり長大に語るのではなく、遠大でありつつも迅速に語る。そのスタイルにこそマジックが宿る。
 夢には夢の職人がいるもので、世界一の夢職人である湯浅政明はその点において最も本作に人材だ。こういう請負仕事に*3「『マインドゲーム』以来のマスターピース」と言ってしまうのはさすがに湯浅ファンの怒りを買いそうだけれど、でも事実そうなんだからしかたがない。

 劇中、「時計」がモチーフとして繰り返し用いられる。年齢によって経つ時間の速さが異なる時計だ。若ければ分刻み、老人は年刻みで光陰が過ぎ去っていく。
 時間の体感速度が違えば体験の質もまた違う。そのせいで老人たちは人生を味気ないものと感じて日々を過ごしていくが、黒髪の乙女という強力な地場が経過する時間と体験の質を等質化してしまう。 
 そうして、観客にとっても映画の登場人物たちにとっても、ほんとうの意味で夢のような一時間半が過ぎていく。そのあいだだけは、この京都はあの日夢見たはずの京都だ。

*1:よく言われるように鴨川の向こう側とこちら側では流れる時間と世界が違う。

*2:念の為に言うが星野源の演技が下手なのではない

*3:ただ一点、学園祭のミュージカルパートは湯浅本人も「気が進まなかった」(公式パンフより)せいもあってか全体のテンポを削いでしまっているのが残念。

ポスト・トゥルース時代のミステリと高井忍の歴史ミステリと。

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0. これまでのあらすじ

 昨晩に孔田多紀さんが、ある人の「ポスト-トゥルースな昨今、多重解決による真実の矮小化を倫理的に簡単に肯定できなくなったよね」的なオピニオンにからめて、歴史ミステリのアティチュードに関する連続ツイートを投稿なさっていた。

 僕個人としてはポスト-トゥルースやオルトファクトといった単語をミステリやフィクションにからめて語ることについてはあんまり興味がない感じなんだけれども*1、それはさておいて、
 歴史ミステリ、特に多紀さんが「資料型」と呼ぶタイプ*2サブジャンルのナイーヴさ*3については最近どこかで考えたな―と思ってたら、そういえば最近出した同人誌『BIRLSTONE GAMBIT』の高井忍特集で書いていたじゃありませんか。えっ、同人誌なのに amazonでも買えるの?*4

 

BIRLSTONE GAMBIT

BIRLSTONE GAMBIT

(最近まで売り切れ状態だったけど、また入荷したみたい)

 ミステリ作家・高井忍は基本的に歴史・時代ミステリを書く人物で、題材として偽史や歴史ミステリへのメタ的な批評をよく扱います。詳しい作歴は wikipediaで……といいたいところですが、よくわからない荒らしユーザーに粘着されているらしく、見るに耐えない感じのページになっちゃってる。
 で、そういう痛ましい現況をいくぶんかどうにかしたい意図もあって、『BIRLSTONE GAMBIT』で高井忍作品の全短編レビューを担当させていただきまして*5、そのための序として前説というか概説というか高井忍の作風紹介的な長文を載せたわけですが、実はこれの前に全没にした文章がありました。
 去年の10月ごろにだいたい出来上がったものなんですけれど、未読者向けのざらりとした作風紹介として書きすすめるうちについネタバレ全開になっちゃって、その後新刊が二冊も発売されたり*6御本人に直接インタビューする機会を持てたこともあり*7、なんとなく特集全体の内容にそぐわなくなったりした*8ので12月あたりに全編書き直しちゃったんですよね。一応、前のやつも新しいのに一部再利用してます。

 で、同人誌が出された文フリから三ヶ月? くらい経ってタイミングもよろしいことですし、ここに没原稿を供養したいと思います。
  
 どういった内容かともうしますと、「高井忍はみてくれこそ『新説』や『歴史の真実』を唱える系の歴史ミステリを書いてるように見えますけれど、実はむしろそういう系の作品を批判的な視点からするどく批評していて独特かつ面白い重要な作家なんだよ。現在の歴史ミステリシーンを理解するうえで欠かせない作家だよ」って感じです。本誌掲載版は「独特かつ面白い作家だよ。不可欠の作家だよ」の部分だけを抽出して紹介に徹したものに直したように記憶していますが、自分にそんなプロめいた根性があるとも思われないので、やっぱりそんなに変わっていないかもしれない。*9

 おおむね内容は没に決めたときからいじっていないですが、ブログに載せるにあたってネタバレにすぎる部分は削除してありますので、たぶん未読書にも既読者にも比較的やさしくなり、作品レビューとしてもそれなりに機能しているかと存じます。たぶん。
 

タイトル:「歴史ミステリの墓標にして道標――高井忍の歴史ミステリ作品群について」

1.略歴

 ミステリ作家、高井忍。
 一九七五年京都府生まれ。立命館大学卒。
 二〇〇五年に短篇「漂流巌流島」で第二回ミステリーズ!新人賞を受賞し、デビュー。
 以降、二〇一六年十二月までに『漂流巌流島』(二〇〇八年、東京創元社)、『柳生十兵衛秘剣考』(二〇一一年、創元推理文庫)、『本能寺遊戯』(二〇一三年、東京創元社)、『蜃気楼の王国』(二〇一四年、光文社)、『柳生十兵衛秘剣考 水月之抄』(二〇一五年、創元推理文庫)、『浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽』(二〇一六年、文芸社)、『名刀月影伝』(二〇一六年、角川文庫)と、文庫落ちを除いて七冊の単行本を著している。

2. 作風

 高井忍は一般に「歴史ミステリ」の書き手として認識されている。

 では歴史ミステリとは、具体的にどのように定義されるサブジャンルなのか。

 門井慶喜の歴史ミステリ評論本『マジカル・ヒストリー・ツアー』(幻戯書房)によれば、歴史ミステリは二種類に大別されるという。ひとつは「主人公が『当時の人』である小説」、そしてもうひとつは「主人公が『現代の人』である小説」。特にミステリの分野において峻別する場合、前者は時代ミステリとも呼ばれ、後者は歴史ミステリと呼ばれる、と個人的には定義したいところではあるが、「現代/過去」という二項の他にも「扱う事件が架空のものか/実際に起こったものか」というパラメータもあって色々ややこしい。

 そうでなくともミステリの人たちは基本的に雑なので、歴史要素があったら歴史ミステリだろ的な雑な認識でなんでもかんでも「歴史ミステリ」とくくられてしまう傾向にある。

 まあしかし、一般に「歴史ミステリ」と呼ぶ場合は、「現代の人たち(or 当時の人たち)が実在する『歴史の謎』を解く」ものを指すことが多い。

 ここではとりあえず、「現代人、あるいは当時の人物が歴史上に実在する事件の謎を解く」ものを歴史ミステリ、「当時の人物が(現代では)伝説や風説とされる事件の謎を解く」ものを時代ミステリと仮に定義しよう。なぜなら、高井忍の作品群がその二つに分類されるからだ。


 さて、門井が述べたように、時代ミステリが歴史的イベントをリアルタイムで追うことが可能で小説的に展開しやすいのに比べ、歴史ミステリはどうしても散文的な歴史議論に終始しがちで、小説というよりは評論的な体裁になる。

 そのためか歴史ミステリは、作者読者両方にとって敷居の高いサブジャンルとみなされる。歴史ミステリの元祖である『時の娘』は歴史の謎一本で勝負したが、現在の歴史ミステリではそうした作劇を選ぶ作品は稀である。北森鴻*10〈蓮丈那智〉シリーズや高田崇史の〈Q.E.D〉シリーズなどでは歴史の謎解きに並行する形で、題材に絡んだ殺人事件なども扱い、読者の興味の持続を図っている。

 付随的事件のない、純粋に歴史の謎解きに絞った歴史ミステリとなると、海外では前述のジョセフィン・テイ『時の娘』、国内ではテイに触発された高木彬光の『成吉思汗の秘密』や鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』シリーズ程度にかぎられるだろう。*11

 
 高井忍の作品群は、この「時代ミステリ/歴史ミステリ」の区分で綺麗に二つのラインに分かれる。

 歴史ミステリのラインとしては、デビュー作『漂流巌流島』からはじまり、『本能寺遊戯』、『蜃気楼の王国』、『浮世絵師の遊戯』の四作品。

 時代ミステリのラインは、『柳生十兵衛秘剣考』、『柳生十兵衛秘剣考 水月之抄』、『名刀月影伝』の三作。来年度には『ジャーロ』で連載中の〈妖曲〉シリーズが加わるから、歴史ミステリと時代ミステリで半々になる。

 ちなみに現在に至るまで発表された作品はすべて短篇であり、長編は一作も存在しない。『名刀月影伝』は表紙に「書き下ろし時代長編」と銘打たれてはいるものの、内実は連作短篇である。


 このように腑分してみると、高井忍という作家はいかにもオーソドックスな歴史/時代ミステリ作家であるように思われる。だが、作風の変化を通しで見ていくと、本質的に先鋭的というか、ジャンル破壊的な性格もかなり強いことが見えてくる。

 歴史ミステリの正統派でありつつもアンチ正統派でもある――一見矛盾した特性をふたつながらに具えているのが、高井忍作品の魅力といえる。


 以下本エッセイでは高井忍による歴史ミステリのライン――『漂流巌流島』、『本能寺遊戯』、『蜃気楼の王国』にスポットライトを当てて作風の発展を概観しつつ、高井忍のユニークさを紹介していきたい。


3. 作品個別紹介

3-1.『漂流巌流島』――Like a Virgin.

漂流巌流島 (創元推理文庫)

漂流巌流島 (創元推理文庫)

 高井忍は二〇〇五年、第二回ミステリーズ!新人賞を「漂流巌流島」で受賞した。同作が同年の『ミステリーズ! vol.13』に掲載され、デビューを果たす。ミステリーズ!新人賞は創元推理短篇賞を前身とする東京創元社の公募新人賞で、第一回は受賞者なしであったから、ミステリーズ!新人賞としては高井忍が初めての受賞者だった。

 その「漂流巌流島」は、宮本武蔵佐々木小次郎の対決で有名な「巌流島の決闘」を題材に据えた歴史ミステリである。

 本短編集は『時の娘』へのオマージュ要素が強い。第二話の「亡霊忠臣蔵」では『時の娘』のエピグラフが引かれているほどだ。第一話「漂流巌流島」でもまず、冒頭で「巌流島」のあらましが詳細に語られる。これは『時の娘』で同じく小説冒頭にて薔薇戦争の概要を述べられたのを彷彿とさせる。

 しかし、「漂流巌流島」で要約された「巌流島の決闘」のあらすじは、講談などで親しまれてきたテンプレからかけ離れた要約になっている。そう、巷間に流通している「巌流島」は史実ではないのだ。

 そもそも開始の一行からしてふるっている。「――巌流島というのは、俗説にあるようにこの島に命果てた剣士の名を採ったものではない。流儀の呼称を採ったものである。」(loc.22, 『漂流巌流島』) 

 なんとなれば、俗説や稗史に対する高井の姿勢は初めから明確に示されていたのである。


 ともあれ「漂流巌流島」の主眼は文献史料の信頼性をメタ評価しつつ、より史実に近い「巌流島の決闘」を導いていくことにある。その役割を担うのが主人公である若手シナリオライターと映画監督の三津木だ。前者は史料文献の調査や収集を行う役割で、後者は史料をもとに解釈を組みたてていく、いわば安楽椅子探偵である。これも『時の娘』のグラント警部と彼の部下を彷彿とさせるキャラ配置だ。

 彼らはテーブルを挟んで、史料の検討およびディスカッションを深めていく。これだけでも一般になんとなく認知されている宮本武蔵や「巌流島」の知られざるディティールがつぎつぎと提示されて意外性に富んでいるのだが、もちろんこれだけで読み物としてのミステリにはならない。

 
 需要の高さにもかかわらず、歴史ミステリが、特に歴史の謎解き一本に絞った歴史ミステリがメジャーになりきれない点もここにある。
 いってしまえば、歴史ミステリはみせものとして本質的に退屈なのだ。人物や場面がほとんど移動せず、ある一室内でのダイアローグだけで構成されがちだ。一般の時代劇小説ならチャンバラなどの活劇、時代ミステリなら聞き込み捜査などでメリハリをつけられる。だが、現代を舞台とする考証劇だとそう軽々に人物を動かせない。結果的に掛け合いと考証そのもの(つまりミステリにおける推理開陳パート)のおもしろさだけでしのぐことを要求される。

 さらに言えば、のちのちサプライズにつながる伏線をさりげなく忍びこませるのにも苦労する。歴史的事件である以上、その大部分は事実として確定していることが多く、作者の一存で都合よくねじまげられないし、劇中で新史料が手に入ったなら逐次オープンにされていかねばならない。伏線のために使用できる空白が限定されすぎている。*12


 さしあたって、高井は物語的構成を工夫した。史料レベルで読者の先入観にもとづいた俗説の転覆をいくらか繰り返したのち、より高いレイヤー、史料を検討しているキャラたちにもひねりを加えた。すなわち、それまで歴史に無知であると自称し、弁が立つもののどちらかといえば主人公の集めてきた史料と彼の推理に耳を傾ける立場だった三津木監督が、それまでの前提をひっくり返す意外な一言を発して主導権をさらっていく、という反転だ。昼行灯が実は、という講談のパターンである。
 以降、「冒頭で歴史的事件のあらすじ要約→史料を集めてディスカッション→三津木の意外な一言で反転→解決後、三津木が事件にまつわる有名な作品を引用して感慨を述べる」の組み立ては短編集を通じた黄金則となる。

 また本書には、以後の高井忍歴史ミステリを卜するにあたって見逃せないある傾向も潜んでいる。個別に詳述するとネタバレになるけれども、要は「歴史の大きな流れから独立していたように見えた事件が、実は藩や国レベルの政治的な動きを背景にしていた」という傾向だ。「漂流巌流島」でいえば、日本史でも最強レベルと認識される剣豪すらも、政治のレイヤーでは陰謀のための道具にすぎない、というように。こうした政治レベルに接続される真相は本短編集に限らず、『本能寺遊戯』や『蜃気楼の王国』といった歴史ミステリのライン、ひいては『柳生十兵衛秘剣考』シリーズでも頻出することとなる。


 歴史的事件の意外な真実をつきとめるのが、歴史ミステリのキモではある。だが、その快楽は本質的に次のようなジレンマをはらんでいる。: 本当に学術的に検討に値する新発見であるなら、小説などにせず、論文として発表するべきではないのか?

 この問に対する高井忍の態度は『本能寺遊戯』で明かされることになる。 


3-2.『本能寺遊戯』――Girls Just Want to Have Fun.

本能寺遊戯 (創元推理文庫)

本能寺遊戯 (創元推理文庫)

 『本能寺遊戯』(東京創元社、のち創元推理文庫)が単行本として出版されたは二〇一三年二月、二〇一一年の『柳生十兵衛秘剣考』を挟んで三作目、歴史ミステリとしては『漂流巌流島』以来五年ぶりとなる。

 コンセプトとしては右のようになる。蓮台野高校二年C組の仲良し歴史好き女子三人衆、扇ヶ谷姫之(通称ヒメ)、朝比奈亜沙日(通称アサ)、アナスタシア・ベズグラヤ(通称ナスチャ)は歴史エンタメ雑誌で懸賞論文を公募しているのを発見する。募集内容は各話ごとに「本能寺の変でなぜ明智光秀が裏切ったのか?」(第一話「本能寺遊戯」)、「ヤマトタケルの生涯と死の真相」(第二話「聖剣パズル」)、「春日局はなぜ江戸幕府において絶大な権力を手にできたのか?」(第三話「大奥番外編」)、「道鏡皇位簒奪計画は真実か? そしてその野望を阻止した宇佐八幡神託事件の真相とは?」(第四話「女帝大作戦」、第五話「『編集部日誌』より」)。高額賞金や歴史作家のサイン本につられた三人は、とっておきの仮説を考え出すべくディスカッションを開始する……といったもの。


 本作も机上で歴史的事件の真相を複数のキャラが議論しあう。その点では、『漂流巌流島』に似た趣向であるともいえる。が、本作が決定的に『漂流巌流島』と異なるのは議論におけるキャラの機能性だ。

 『漂流巌流島』におけるメインの二人、シナリオライターの主人公と映画監督の三津木はそれぞれ史料文献係兼助手と安楽椅子探偵という役割を分担していた。彼らは一致団結して一つの事件に取り組むチームであり、三津木が物語上の要請として意外な隠し玉を放つシーン以外においては思考様式等にさほど差はなく、対立もあまりなかった。

 かたや『本能寺遊戯』の三人組はそれぞれが独自の信条を持つ歴史マニアであり、その態度が探偵としての質的な相違として浮き上がってくる。

 特に、ヒメこと扇ヶ谷とアサこと朝比奈は(ライヴァルと呼ぶにはあまりに仲良しすぎるものの)二項対立的に描かれる。 

 扇ヶ谷は劇中の朝比奈が言うところの「実説至上主義」。歴史フィクションが嫌いなわけではないが、史実を面白おかしくねじまげる俗流解釈は一切許さないハードコア歴史オタクである。「偽史や俗説、裏づけの乏しい憶測のたぐいには冷淡、というより、あからさまに蔑んで」(loc.1378)おり、一話に一回は安易な歴史俗解や「新説」に飛びつく人々を苛烈ともいえる調子で非難する。

 たとえばこんな具合。

「史実通りに歴史を楽しめない、可哀想な人がたくさんいる。それだけの話。何でそんな人たちの好みに合わせて、現実の歴史をいじらなくちゃならないわけ? いっておくと多数決で決めていいなら、堅気の歴史家や真っ当な歴史ファンは、裏も表もない光秀の謀叛を支持する人が大多数よ。けれども、当たり前の話はいまさら話題にならない。犬が人に嚙みつくのは珍しくない、あべこべに人が犬に嚙みついたらちょっとした騒ぎになる。興味本位のろくでもない珍説ばかりが持て囃されるのも、分かりやすくいったらそんな理屈」*13

歴史に興味があるなら、謎とか、真相とか、この手のセンセーショナリズムに首を突っ込んだらいけないよ。面白いかつまらないかじゃなくて、地道な事実の積み重ねが大切なの。初めは史実を押さえるところから。それが楽しくないなら、楽しめるように心のスイッチを切り替えないとね*14


 いっぽう、朝比奈は「史実や考証に対してあまりこだわりがない」。俗説やフィクションを信じようが、空想は空想として楽しんだらよい。本気にするのは当人たちの自己責任である。「そんな考えの亜沙日だから、異説、奇説、トンデモ説に抵抗感はない*15

 この二人の歴史解釈に対する考え方の違いが、安楽椅子探偵あるいは歴史のストーリーテラーとしての思考法の違いとして出てくる。朝比奈は派手な結論(自分でも信じてない大きなウソ)をこしらえて、それを裏付ける証拠を探してくる陰謀論タイプ。扇ヶ谷は文献などの裏付けがある小さな材料をコツコツ積み重ねていき、やがて気宇壮大な結論をみちびきだす実証家タイプ。

 彼女たちの興じる懸賞ゲームでは史実ではなく、魅力的な物語を作り出すことが志向される。果たして歴史探偵として、創作者としてすぐれているのはどちらか――。

 本作は歴史の真実を探求するミステリというよりは、歴史ミステリなるサブジャンルについての一種創作論的な面を具えている。そうした点において第二話「聖剣パズル」は、優れた探偵像と優れた歴史解釈はイコールなのだとダイナミックかつロジカルに提示し、歴史と本格ミステリを理論的に合致させた他に類を見ない傑作であろう。*16


 彼女たちは作家なのである。史実にロマンなどない、最初からそんな冷めたスタンスで実利のためだけに論文を構想する。タイトル通り、新説解釈とは遊戯(ゲーム)なのだ。

 たとえば、第三話「大奥番外編」で扇ヶ谷はそもそも公募に設定された問い自体が成り立たないと言い出す。春日局が大奥を仕切り、幕政にまで容喙していたという俗説はあくまでフィクションのなかだけの話であって、現実には大奥総取締に応分の権力しか有しておらず、大奥内ではともかく男たちの支配する政治に関与する余地などなかった。
 したがって、問いに対する模範解答は「春日局は絶大な権力など握っていなかった」になる。

 それでは面白くない。面白くなければ、懸賞は獲れない。しかし受賞できるほど面白い解釈となれば――しぜん、史実から離れざるを得なくなる。

 それは、歴史ミステリというジャンルそのものにも当てはまる話だ。

 本作のあとがきで、高井忍の歴史ミステリ観があけすけに語られている。引用しよう。

 歴史ミステリというジャンルの小説は、実にへんてこな、喩えていえばヌエのような存在である……(中略)歴史の上の実際に起こった重大事件や実在した人物を採り上げて、謎解きを謳い、隠された真相の追求をかかげ、まことしやかに推理を展開してみせる。建前である。これらは視聴者や読者の興味を惹くことが初めから狙いで、何かしら話題になるような題材を選び、センセーショナルな結論を持ち出そうという企画なのである。何しろ謎解きや真相が大前提なのだから、建前とはあべこべに歴史の真実なんて本当はどうでよくて、むしろ歴史を否定し、引っくり返すというところから始まっている企画だとすらいえる。歴史を極めるだとか、歴史を再解釈するといいつつ不毛な空説が持て囃されるのはそれが話題になるからだ。


 だから、近年のミステリファンには、歴史ミステリとは『猫間地獄のわらべ歌』(幡大介著)や『虚構推理 鋼人七瀬』(城平京著)のようなものだと説明しておけば理解が容易だろう。『丸太町ルヴォワール』(円居挽著)もここに並べておこうか。ただ、これらの諸作が架空の事件を扱い、それぞれ何らかの要請で虚構の真相を捻出する事態に陥るのとは違い、歴史ミステリは現実の出来事を対象として、謎解き、真相を作ることが自体が目的になっている。*17


 ここで本格ミステリ作品である『虚構推理』や『丸太町ルヴォワール』が挙げられているのは、注目に値する。両作は共通して真相とは別の推理をでっち上げ、オーディエンスを説得するというコンセプトを有する。真実とやらが果たしてそんなに大層なものなのか、ともすれば名探偵がもっともらしく言いくるめれば、どうあれ真相になるのではないか。

 高井忍作品の恐るべきは、そうした相対主義的な*18ニヒリズムの機構が歴史ミステリというジャンルそのものにビルドインされていたことを看破した点にある。実証過程における精緻さや証拠の信頼性や議論の積み重ねではなく、結論の突拍子のなさがなにより重視されるエンターテイメントとしての偽史を、どう誠実に物語化していくかという試み。特に歴史ミステリには本格ミステリと違い、明確な敵役としての犯人が存在しない。探偵が真相をつきとめて滾々と推理を披露したところで、膝を屈して追認してくれる人間がいないのだ。*19

 したがって、真相の信頼性の判断はほぼ全面的に読者へと委ねられる。しかし、先述したように歴史の真実を本気で知りたいのであれば、小説などではなく、その筋の研究書に手を伸ばすはずだ。歴史ミステリに求められているのは、あくまで物語としての面白さである。脇を固める証拠類は壮大な新説に「もっともらしさ」をあじつけするための調味料にすぎない。歴史ミステリを読むのは、端から歴史に対して怠惰で不誠実な行為なのである。

 読者にとって歴史ミステリのもっともらしさは、それこそ「らしさ」程度で十分だ。「現代においてはむしろ、歴史は消費者の期待に応えてメディアが提供するものである、と定義するほうが正しいように筆者には思えてならない」と語るあとがきの結びは歴史ミステリと、新解釈を謳う諸種の歴史本に対する極めて的確で苛烈な批評となっている。

 このような視点から再読したならば、『漂流巌流島』で主人公コンビが歴史エンタメ映画の監督と脚本家という「メディア」に属する人間たちだったのも相応の必然性を帯びてくることだろう。


 高井忍の歴史ミステリ作家としての認識(それが諦観なのか、矜持なのか、当人の内心でどちらに属するのかはわからない)は、『本能寺遊戯』の最終話「『編集部日誌』より」で文字通り大人である歴史エンタメ雑誌の編集者の視点を導入することによって描かれる。

 この編集者は「歴史の謎を解くことと、歴史の謎解きは違う」と主張したうえで、高校生三人組に現実を説く。

「それではお訊ねしますが、比留間さんは興味がありますか? 噓偽りなしに歴史上のミステリーといっていい、姉小路公知広沢真臣の暗殺事件の真相に」
 私が訊ねると、真昼嬢は両腕を組み、うーんと唸った。
「正直な話、よく知らないんですよね。ちらっと聞いた覚えがある程度で。それとも読んだ覚えだったかな」
「比留間さんでその程度でしたら、歴史の話題に熱心なわけでもない、平均的な視聴者、読者の反応がどんなものか、おおよその見当はつきますね。歴史の謎解きや真相を売り物にするなら、世間の注目を集めることができる題材というのが条件の第一になるんです。そうでないなら本が売れない。だから、時々、史実のままでおかしなところもないような事件が抜け抜けと謎解きのテーマに選ばれることがあるでしょう? それどころか、とても史実とは認められない、噓臭い巷説のイメージでそのまま出題されたり……」
「分かっててやってたんだ!」
「どうして坂本龍馬の暗殺事件が歴史の謎として盛んに採り上げられ、いろいろな真相が飛び交うのか、おおよその事情はこれでお分かりですね?」
 確認の口吻で私は訊いた。
「世間のニーズですか、ひと言でいって」*20

 真昼嬢は何度も頷いた。
「目的は謎を解くことじゃなくて、謎解きそのもの。世間さまの興味を惹くような、センセーショナルな真相を作ること。どこが謎なのかはわりとどうでもいい。ちゃんとした検証なんてものは世間のニーズと一致する場合にだけ採用してもらえる――」*21

 こうして気ままにおもしろおかしく歴史や偽史と戯れてきた子どもたちは、人々を楽しませる、エンタメとしての歴史ミステリ作家の態度を手に入れる。本作は歴史ミステリ論ミステリであるのと同時に、アマチュアがプロへと羽化する青春成長譚でもあるのだ。
 

 ところで、本節では朝比奈の「先にセンセーショナルな結論をぶちあげて、あとづけで証拠を探していく」スタイルを陰謀論的と呼んだ。じっさい、『本能寺遊戯』で提示される主人公たちの解釈は『漂流巌流島』同様、政治レベルを巻き込んだ(『漂流巌流島』と違って題材そのものが政治性が高いというもあるが)陰謀論が多い。

 元々陰謀論的だった『漂流巌流島』から何がアップグレードされているか、といえば、そのスケールである。陰謀論はその規模が大きければ大きいほどウケやすい。『漂流巌流島』や本作の前半では政治といってもせいぜい国内政治の範疇であったが、第四話「女帝大作戦」に至っては日本を越えた国際的陰謀を俎上に載せる。

 そして、このエスカーレーションが『蜃気楼の王国』で炸裂する。


3-3.『蜃気楼の王国』――Everybody Wants To Rule the World.

 『蜃気楼の王国』(光文社)は『本能寺遊戯』につづく、高井忍にとって第四作目の短編集である。発売は二〇一四年二月。これまでの三作はデビュー元である東京創元社から出ていたが、本作は光文社から出版された。そのためか、『漂流巌流島』や『本能寺遊戯』のように現代を舞台に固定された面子で歴史的事件をディスカッションする連作短編形式からも離れ、それぞれ異なる時代に生きる人々が同時代あるいはその時代より前の歴史的事件の真相についてディスカッションするオムニバス形式をとっている。

 本稿の冒頭で掲げた定義に沿うならば時代ミステリの範疇に入るし、見方によっては『柳生十兵衛秘剣考』シリーズのほうへ近いのだが、やはり有名な歴史的事件についてのディスカッションが主としているためこちらのラインへ入れさせてもらった。

 本作のコンセプトを一言で説明するならば、「歴史上の有名人が探偵役の歴史ミステリ」であろうか。東郷平八郎秋山真之からはじまり、シーボルト、加藤宇万伎(美樹)、遠山左衛門尉(金四郎)、ベッテルハイムと錚々たる面々が各短篇の探偵役として名を連ねる。

 本作におさめられた五篇はいずれも歴史ミステリではあるものの、歴史ミステリとはかぎらない。おおまかに、歴史的事件の真相を扱う短篇と、架空の事件を扱う短篇に分かれている。前者に属するのが「琉球王の陵(レキオのみささぎ)」(源為朝琉球王説)、「蒙古帝の碑(モンゴリアのいしぶみ)」(源義経清朝皇帝元祖/ジンギス・カン説)、「槐説弓張月」(源為朝琉球王説アゲイン)の三つで、後者に属するのが「雨月物語だみことば」と「蜃気楼の王国」だ。

 さらに劇中年代もバリエーションに富んでいる。「雨月物語だみことば」(一七七六年)、「槐説弓張月」(一八一一年)、「蒙古帝の碑」(一八二六年)と「蜃気楼の王国」(一八五四年)は江戸時代、「琉球王の陵」(一九〇五年)はぐっと下がって明治時代を舞台とする。一冊で百三十年を実地にひとまたぎするのは独立短編集ならではというか、これまでの連作短編集路線からは考えられないスケールである。


 ことほどさように前二作のフレームで捉えようとすると一筋縄ではいかないのが『蜃気楼の王国』であるのだが、一篇一篇はつながっていなくとも、核となるモチーフは存在する。琉球(沖縄)だ。「琉球王の陵」、「蜃気楼の王国」では沖縄を舞台にし、「槐説弓張月」では源為朝琉球王朝開祖説を扱う。

 だが、琉球はあくまでモチーフであり、モチーフとはテーマを語る道具にすぎない。

 『蜃気楼の王国』の主題とはなにか。

 「偽史は”なぜ”作られるのか」という問いかけである。


 このホワイダニットの問いにおいて、『漂流巌流島』や『本能寺遊戯』で扱ってきた陰謀論的な真相やエンターテイメントとしての歴史解釈論が一つ上の小説的ステージへと昇る。ネタバレにならないギリギリの範囲で具体的に言えば、国際政治の力学が偽史作者たちに偽史をつくることを要求するのだ。しかし『蜃気楼の王国』における偽史作者たちは、それこそ陰謀論に出てくるような全能の黒幕などではない。姿すら定かではない敵におびえ、何かを積極的に動かすためというよりは、それまでの安寧を墨守するために、とにかく事なかれ主義をつらぬこうとしているだけの小人たちだ。

 なので偽史の内容の壮大さや突飛さとは対照的に、彼ら自身の固陋さや矮小さがなおさら哀しく浮きたつ。自分の身の丈のうちでしか物事を考えられない想像力の偏狭さが歴史をねじまげてしまう。うそをつける小説だからこその痛烈な偽史批判だ。


 近代のあけぼのを迎えて、どうしても世界を意識せざるを得なかった日本と、その近代以前から日本と中国のはざまに挟まれて外交的な綱渡りを強いられてきた琉球。これら大小二つの王国が自らに向ける自意識に、グローバルな西洋人からの、あるいは開化的な同時代人からの批評的なまなざしが重ねられていく。

 特に「蒙古帝の碑」では「その歴史的事件の『真相』は真実か?」という検証の話を進行させるとみせかけておきながら、探偵役がその真相が偽物であると看破したうえで「稚拙な偽史に対してより精巧で利用価値の高い偽史を提案する」というかなりトリッキーな構成を取る。これもまた『本能寺遊戯』からの発展系であり、オッカムの剃刀理論にもとづく最短経路での合理的解決を理想とする、探偵小説な物語理論とはパラレルな価値体系でゲームが行われていることを示唆している。

 真実の価値が失効してしまった反探偵小説的な世界観において、真実を追求する行為はどんな意味を持ち、真実を手にしてしまった人間はどうすればいいのか。歴史ミステリの極北まで行き着いてしまった高井忍があえてそうした世界観を保持したまま、本格探偵小説的なる事件を持ち込み、フィードバック実験を試みたのが最終話にして表題作「蜃気楼の王国」だ。

 ペリー艦隊が停泊する那覇で起きた米国人水兵殺害事件。あるいは事故かもしれない一見単純なこの事件の「犯人」が白日のもとへ引きずり出されたとき、探偵たるベッテルハイム医師は「犯人」からある選択を託される。司法の枠をとびこえて、犯罪者を裁くべきか裁かざるべきの選択を委ねられた探偵はミステリの歴史にも数多い。だが、ベッテルハイム医師の場合は善悪ではなく政治や歴史といった、一個人が背負うにはあまりに重すぎる事柄について選択させられる。

 本来のプレイグラウンドではない場でのゲームを強いられた場違いな本格探偵、それが「蜃気楼の王国」のベッテルハイムなのである。


4. まとめ

 かくして、一見素朴なディスカッション歴史ミステリ『漂流巌流島』にはじまった高井忍の歴史ミステリのラインは、『本能寺遊戯』での歴史ミステリというサブジャンルに対する内省的な自問自答を経て、『蜃気楼の王国』で歴史ミステリどころか本格探偵小説という大枠すら揺るがしかねない自己破壊的な彼岸に行き着いた。

 この発展の過程で重要なのは、歴史の謎解きの対象となる「物語」の変化だ。

 デビュー作『漂流巌流島』は素朴な意味での歴史ミステリに近かった。文献を突き合わせて真摯に考察すれば、歴史に隠された史実を垣間見ることができるかもしれないというプリミティブな希望が読者の側に与えられていた。 

 しかしそうした文献学的な態度は『本能寺遊戯』においては物語化・娯楽化された歴史に対しての徹底した懐疑と分析へと変容し、エンターテイメントとして消費される歴史とアカデミズムで日々蓄積されていく歴史との摩擦を浮き彫りにした。楽しみのために歴史を無邪気に物語として消費してよいものなのか?

 レトリックをこねるなら、歴史もまた物語の範疇である。だが、ファクトを説明するために物語があるのであって、物語のためにファクトを用意するのは歴史ではない。ファクトをあと付けした物語とは、偽史だ。ならば、「面白さ」という大義のために物語先行でファクトを集める歴史ミステリというジャンルはそもそも歴史に対する大罪を背負っているのではないのか。 

 そうした自省が『蜃気楼の王国』では偽史形成のホワイダニットという、相当程度メタかつテクニカルな形での批評的視座に繋がる。人はなぜ物語を事実として信じたがるのか、そもそもなぜ歴史を、物語を必要とするのか。

 高井忍の一連の歴史ミステリは、偽史陰謀論、歴史エンタメ、あるいは自分たちが歴史と信じこんでいる何かに淫する我々に対しての皮肉な文明批評でもある。果たして、このユニークな作家が「漂流」の果てにたどりつくのはどこか――今後も注視していきたい。*22



浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽

浮世絵師の遊戯 新説 東洲斎写楽

(歴史ミステリのラインの最新作。写楽の謎に迫るというか、写楽の謎の迫りたい人たちの謎に迫る連作短編集。偽史好きな人に特におすすめ。小谷部全一郎とか出てきてスーパー偽史作家大戦をやるぞ。FGOだ。)

柳生十兵衛秘剣考

柳生十兵衛秘剣考

(とはいうものの各読書サイトの評判をつら眺めるに、『漂流巌流島』以降の高井忍の歴史ミステリは一般読者にウケが悪い。歴史ミステリや歴史探偵のパロディであると知らずに歴史ミステリだと思って読むから当然の有様*23なのだけれど、読者にそこまでのリテラシーを求めるのは酷だろう。
 というわけで、高井忍初心者におすすめなのがこちらのちゃんばら時代本格ミステリ。高井忍が本格ミステリ作家として「ふつうに腕がいい」ことがわかる作品だ)

*1:実際にイデオロギーによって指向される真実というのは非常に多重解決、あるいは討論型ミステリによくマッチしているので、こうしたワードでもって作品を語ること自体が間違っているとは思わない。自分個人がミステリと現実空間それぞれにおけるオピニオンの複数性を分析することに情熱を持てないだけです

*2:僕は基本的に「時代ミステリ」との区別で「歴史ミステリ」、特に強調したい場合には「考証劇ミステリ」と呼んでいる

*3:誤用。

*4:あたかも多紀さんのおかげでたまたま思い出したとでもいうふうにふるまっているが、実は宣伝の機会を虎視眈々と狙っていた私の深謀遠慮が冴えている

*5:楽しかったけど本当にキツかった。もう短編ごとの全レビューなんて二度とやらぬ決心である

*6:『浮世絵師の遊戯』と『名刀月影伝』。特に『本能寺遊戯』の後継であり「歴史ミステリ」のラインに属する『浮世絵師の遊戯』が致命的だった

*7:インタビューも『BIRLSOTNE GAMBIT』で読めます

*8:あとわりと既存の文献をあまり参照せずにざっくりしたテーマでざっくりしたことを語っているので、エッセイといえどこのまま金取る本に載せるのは憚られるなー、とも思い

*9:手元に本誌がないので最終稿が確認できない

*10:民俗学ではあるが

*11:「現代の人物たちが歴史の謎に迫る」という条件を緩めて、「当時の人物たちが〜」も含めるようにしてもジョン・ディクスン・カーの『エドマンド・ゴドフリー卿事件』などがある程度。

*12:そこで高井はミステリに必須である「意外な伏線」を仕込むためにあるトリッキーな術策をあみだす。Birlstone Gambit 掲載の全レビュー参照のこと

*13:loc.166、「本能寺遊戯」

*14:loc.188、同上

*15:loc.1378

*16:傑作である理由については、特にここでは解説をはさまない。詳しくは実際に読むか『BIRLSTONE GAMBIT』のレビューを読んでくれ

*17:loc.4878

*18:本エッセイの初稿では「後期クイーン問題的な」と形容していたように覚えている

*19:陰謀論や歴史の新説本に対する高井忍の懐疑的な態度は『BIRLSTONE GAMBIT』掲載のインタビューで詳しく語られているぞい

*20:loc.4536、「『編集部日誌』より」

*21:loc.4574、同上

*22:とくにまとめきれなかった場合になんとなくいい感じで終わらせたいときに使うフレーズ

*23:俗説を史実で潰す高井忍式歴史ミステリのスタイルは、必然的に文献の引用が多くなる。それが読者には退屈に映るのだ

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