Quantcast
Channel: 名馬であれば馬のうち
Viewing all 264 articles
Browse latest View live

2016年6月注目の新刊三十冊

$
0
0

d.hatena.ne.jp

蓮實重彦『伯爵夫人』新潮社

伯爵夫人

伯爵夫人

世界の均衡は保たれるのか? エロスとサスペンスに満ちた文学的事件! 帝大入試を間近に控えた二朗は、謎めいた伯爵夫人に誘われ、性の昂ぶりを憶えていく。そこに容赦なく挑発を重ねる、従妹の蓬子や和製ルイーズ・ブルックスら魅力的な女たち。しかし背後には、開戦の足音が迫りつつあるらしい――。蠱惑的な文章に乗せられ、いつしか読者は未知のエクスタシーへ。著者22年ぶりとなる衝撃の長編小説。

 例のアレ。蓮實センセが小説を前に書いてたことを初めて知った。

ハビエル・マリアス『執着』東京創元社

執着 (海外文学セレクション)

執着 (海外文学セレクション)

30代の編集者マリアが、毎朝カフェで見る仲のよい夫婦。その夫がホームレスにメッタ刺しにされて死亡。その後、親しくなった未亡人から、夫の親友だったという男を紹介されるが、未亡人仲の良いその男とマリアは関係を持つように……。ある日男の部屋でマリアは、客と男の驚くべき会話を耳にする! 事件は通り魔殺人ではなかったのか? 三角関係の精算? それとも嘱託殺人? 愛とは? 人間とは? 読者を知的妄想に引き寄せる。ミステリ仕立ての愛をめぐる考察。

 なぜか日本で映画化された『女が眠る時』などのスペインの俊英ハビエル・マリアス最新作。

J・M・クッツェー『イエスの幼子時代』早川書房

過去を捨てた男は、少年と出会い、断ち切れない絆を知る――。

初老の男が5歳の少年の母親を捜している。2人に血の繋がりはなく、移民船で出会ったばかりだ。彼らが向かうのは、過去を捨てた人々が暮らす街。そこでは生活が保障されるものの、厳しい規則に従わねばならない。男も新たな名前と経歴を得て、ひとりで気ままに生きるはずだったが、少年の母親を捜し、性愛の相手を求めるうちに街の闇に踏み込んでゆく。
たくらみと可笑しさのつまった、ノーベル文学賞作家の新境地。

あらすじのかぎりでは、キリストのバイオグラフィー的作品ではないっぽい。

『新編・日本幻想文学集成 第1巻』国書刊行会

安部公房 (著), 倉橋由美子 (著), 中井英夫 (著), 日影丈吉 (著), 安藤礼二 (編集), 山尾悠子 (編集), 高原英理 (編集), 諏訪哲史 (編集)

豪華な選者に贅沢な著者、極上のアンソロジー。

『明治深刻悲惨小説集』講談社文芸文庫

死、貧窮、病苦、差別――
明治期、日清戦争後の社会不安を背景に、人生の暗黒面を見据え描き出した「悲惨小説」「深刻小説」と称された一連の作品群があった。
虐げられた者、弱き者への共感と社会批判に満ちたそれらの小説は、当時二十代だった文学者たちの若き志の発露であった。
自然主義への過渡期文学」という既成概念では計れない、熱気あふれる作品群を集成。

こういうゲスの極みみたいなタイトルのアンソロに惹かれないわけがない。

マキシーン・ホン・キングストン『〈村上柴田翻訳堂〉チャイナ・メン』新潮社

チャイナ・メン

チャイナ・メン

19世紀から20世紀にかけてアメリカを目指して海を渡った中国人たちがいた。鉄道建設や鉱山労働に従事し、アメリカの繁栄の礎を築いたが、深い沈黙の向こう側へと泡のように消えていった――。その末裔として生まれた女性作家が、声なき声に顔と名前を与え、想像力と幻想で神話的に紡いだ一族の物語。伝説の翻訳家の訳も冴えわたる全米図書賞受賞作品。『アメリカの中国人』改題。《村上柴田翻訳堂》シリーズ。

例の翻訳堂シリーズ。片っ端から読んどきゃ良い安心感。

ジェシカ・ジュリアス『The Art of ズートピア

ジ・アート・オブ ズートピア: THE ART OF ZOOTOPIA

ジ・アート・オブ ズートピア: THE ART OF ZOOTOPIA

ズートピア』のアートオブ本待望の邦訳。
ディズニー映画のアートオブ本としては異例の速度。ちなみに『アーロと少年』のアートオブ本も同日発売。

池上英洋他『美少年美術史』ちくま学芸文庫

美少年美術史: 禁じられた欲望の歴史 (ちくま学芸文庫 イ 55-3)

美少年美術史: 禁じられた欲望の歴史 (ちくま学芸文庫 イ 55-3)

神々が愛したかわいくエロティックなクピドたち。古代の英雄や皇帝たちを狂わせ、歴史の運命を大きく動かした少年愛のめくるめく世界。中世キリスト教社会で、激しい抑圧のなか密かに紡がれた同性愛的嗜好。そしてルネサンス期を迎え、ふたたび花開く男たちの肉体美―。西洋美術には美少年を描いた傑作が数多く存在する。彼らはなぜこれほどまでに芸術家たちを虜にし、その創造力をかきたててきたのか?ときに勇ましく、ときに儚げに描かれたその姿に、人類のどのような欲望が刻み込まれているのか?アート入門としても最適。カラーを含む200点以上の図版とともに辿るもうひとつの西洋史。

西洋美術解説業池上先生の最新耽美。「美少年」とついてればみんな買うと思ってまたあ。

東禹彦『爪 改訂第2版』金原出版

爪 基礎から臨床まで 改訂第2版

爪 基礎から臨床まで 改訂第2版

爪の基礎的な知見、ならびに現在の爪疾患に関する臨床的知見・治療法をまとめたロングセラーテキストの改訂版ついに刊行! 50年にわたり爪疾患の原因や治療法に関する研究を行う爪のスペシャリストの決定版。陥入爪・巻き爪に対する多くの治療法の登場,治療可能となった厚硬爪や爪甲鉤彎症についても追加し、本邦美容業界のジェルネイルの普及もふまえて解説・文献の追加を行っ。QOLの改善に役立つ、関係者必携の書。

充実した爪解説。

山岡重行『腐女子の心理学 彼女たちはなぜBL(男性同性愛)を好むのか?』福村出版

腐女子の心理学 彼女たちはなぜBL(男性同性愛)を好むのか?

腐女子の心理学 彼女たちはなぜBL(男性同性愛)を好むのか?

「本書は社会心理学とパーソナリティ心理学の観点から、オタクと腐女子を研究した結果をまとめたものである。オタクとはどのような人物なのか、腐女子とはどのような人物なのか、その一端を明らかにすることを目的とする。客観的なデータを収集し、そのデータを統計学的に分析し、その分析結果からオタクと腐女子の心理と行動を考察していくものである」(「まえがき」より) 「腐女子」とは何者なのか? オタクとはどう違うのか? 大学生1万人以上の統計調査をもとに、心理学の方法論でその客観的な姿を描き出す若者文化・サブカルチャー研究。

 こういう系は面白さ的な意味で当たり外れデカいんですが、さて。

ロザリー・L・コリー『高山宏セレクション〈異貌の人文学〉 シェイクスピアの生ける芸術』白水社

シェイクスピアの生ける芸術 (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉)

シェイクスピアの生ける芸術 (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉)

英国ルネサンス最大の作家シェイクスピアの豊饒な文学世界を驚異的な博識と綿密な読解で様々な角度から解き明かした名著、待望の邦訳。

 没後400周年記念ということで各所で地味にシェイクスピア祭りが盛り上がっております。河合先生の『シェイクスピア大図鑑』も要チェキ。

中島隆信『高校野球の経済学』東洋経済新報社

高校野球の経済学

高校野球の経済学

「本書の目的は、高校スポーツの一つに過ぎない高校野球が100年の長きにわたって続いてきた理由について、経済学的思考法を用いて体系的に説明することである。」(本書「はじめに」より)

こういう系も当たり外れデカイんですが、さて。

フランコモレッティ『遠読 〈世界文学システム〉への挑戦』みすず書房

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦

遠読――〈世界文学システム〉への挑戦

西洋を中心とする文学研究/比較文学ディシプリンが通用しえない時代に、
比較文学モレッティが「文学史すべてに対する目の向けかたの変更を目指」して着手したのが、
コンピューターを駆使して膨大なデータの解析を行い、文学史を自然科学や社会学の理論モデル
(ダーウィンの進化論、ウォーラーステインの世界システム理論)から俯瞰的に分析する「遠読」の手法だ。

みすずから出てるわりにむちゃくちゃ胡散臭そうな理論なんですが、そのあやしさが興味を掻き立てる。

今野真二『ことば遊びの歴史』河出書房新社

なぞなぞ、掛詞、折句、判じ絵、回文、都々逸……面白いことばあそびを紹介しながら、日本語という言語の仕組みを解き明かす。

今泉忠明『動物バトル図鑑 DVDつき』学研プラス

動物バトル図鑑 DVDつき

動物バトル図鑑 DVDつき

最強生物たちのド迫力バトルが図鑑になった!
ディスカバリーチャンネルの豪華90分映像がスゴい!

なんか動画付き動物図鑑がブームなのか、今月はやたらそういう本が出てます。
そのなかでもコンセプトがダイレクトアタックしてくるのがこれ。

鈴村和成『〈フィギュール彩〉三島SM谷崎』彩流社

三島SM谷崎(仮) (フィギュール彩)

三島SM谷崎(仮) (フィギュール彩)

三島のマゾヒズム、谷崎のサディズムノーベル賞候補者としてのライヴァル関係を はじめとする深い因縁関係にありながらも、 これまであまり関係性を論じられることのなかった 三島由紀夫谷崎潤一郎。 谷崎作品に重ねられる三島の実生活、 三島作品と谷崎作品に登場する女性の意外な共通性、 福島次郎との同性愛から解く三島像…… サディストの三島由紀夫、 マゾヒストの谷崎潤一郎のイメージを覆す新たな文学論。 S(サディズム)とM(マゾヒズム)の視点から、 文面下に隠された二人の真性を暴き出す!

なかなかどうしてゲスい感じの切り口ですが、ちゃんとした文学者の本です。

永井義男『江戸の売春』河出書房新社

江戸の売春

江戸の売春

吉原、江戸四宿(品川、新宿、千住、板橋)から、岡場所、夜鷹、舟饅頭、比丘尼まで、江戸の性愛の実態。図版多数。

『江戸の糞尿学』『江戸の下半身事情』など下世話な江戸話を多数出版してきた永井先生にようやく時代が追いついてきた。

森達也『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』角川文庫

職業=超能力者。ブームは消えても、彼らは消えてはいない。
超常現象、その議論は「信じる・信じない」という水掛け論に終始していた。
不毛な立場を超え、ドキュメンタリー監督がエスパー、超心理学者、陰陽師、メンタリスト等に直撃!!

佐村河内ドキュメンタリー『FAKE』が話題沸騰中の森達也監督のフェイカーインタビュー集が文庫化。
kindle版の値段が単行本版のときのままなのでさっさとアジャストしていただきたい。

橋本道範『再考ふなずしの歴史』サンライズ出版

再考ふなずしの歴史

再考ふなずしの歴史

日本最古のスシと言われているふなずし。でも本当にそうなのかという疑問を解くため、中世・近世のふなずしに関する文献をつぶさに調べた研究者達。それだけでは納得せず、アジアのナレズシ文化圏の論考から、現在のふなずしの漬け方のアンケート調査、ふなずしの成分分析結果まで収録。ふなずしと聞いただけで、あのにおいと味を思い出す人にはたまらない、まるごとふなずしの本。

ふなずしについて考えるだけでも大変そうなのに、再考となればなおさらに大変そう。

TJイングリッシュ『マフィア帝国 ハバナの夜 ランスキー・カストロケネディの時代』さくら舎

マフィア帝国 ハバナの夜 ―ランスキー・カストロ・ケネディの時代

マフィア帝国 ハバナの夜 ―ランスキー・カストロ・ケネディの時代

バティスタ独裁政権下のキューバの首都ハバナは世界有数の享楽の都だった。豪華なカジノホテル、
華麗なショー、一獲千金のギャンブル、赤裸々なセックスと女、流行のラテン音楽を求めて、世界中
から大勢の観光客やセレブが訪れた。それらの〝ビジネス〟を取り仕切ったのが、ランスキー率いる
アメリカマフィアだ。マフィア随一の頭脳派ランスキーは、この地にマフィアの犯罪帝国を打ち立てた。

バティスタを巨額賄賂で取り込む一方、敵対マフィアを暗殺し権力集中をはかるランスキー。だが、
マフィアたちの野望の前に、バティスタ打倒を掲げるカストロの革命軍が現れた--。

ニューヨークタイムズ・ベストセラー! 1959年のキューバ革命の裏にあったマフィアの策動を描く犯罪
ノンフィクション! 有名マフィア多数登場! 衝撃の口絵8ペーシ゛つき! 『ゴッドファーザーII』の真相が
いま明らかに!

ちょっと古い時代の話ですが、アツそう。

鳴沢真也『へんな星たち 天体物理学が挑んだ10の恒星』ブルーバックス

宇宙には、こんな星たちが実在している!
フィギュアスケートの選手みたいにイナバウアーしている
☆恒星のくせにバカバカしいほど長い尾を引きずっている
★墨を吐いて自分の姿をくらますタコなやつ
蚊取り線香みたいなやつ
遠距離恋愛のカップルが久しぶりに会ったような盛り上がりのペア
☆盛り上がりすぎてついにくっついてしまったペア
★世界中の天文学者が推理バトルを繰り広げた謎の幽霊星 ほか

変な星集。間口が広そう。

ベルンハルト・ホルストマン『野戦病院ヒトラーに何があったのか 闇の二十八日間、催眠治療とその結果』

野戦病院でヒトラーに何があったのか: 闇の二十八日間、催眠治療とその結果

野戦病院でヒトラーに何があったのか: 闇の二十八日間、催眠治療とその結果

ヒトラーは1918 年10月第一次大戦末期ベルギー戦線で毒ガス攻撃に遭い失明し、ドイツ東部のパーゼヴァルク野戦病院に収容される。そこで精神医学の権威エドムント・フォルスター教授に催眠治療を施され回復した。
戦争が終わりミュンヘンに現れたヒトラーは以前の「卑屈で目立たない」男ではなく、異様な目の光を持った政治家・大衆煽動者に変貌していた。
パーゼヴァルクの28日間に何があったのか。独裁者を誕生させた決定的瞬間に光を当て、これまで多くの歴史書が見逃してきた20 世紀最大のミステリーを解き明かす。

一ヶ月に一冊はある、ガチそうな精神医学ノンフィクション枠。

長澤均『ポルノ・ムービーの映像美学 エディソンからアンドリュー・ブレイクまで 視線と扇情の文化史』彩流社

ポルノ・ムービーの誕生から、倫理コードとの知られざる攻防、
いつどこでどのように公的に認められ、
映画史のなかで発展していったのか?
「視線(まなざし)」と「扇情」をキーワードに
その光芒史を体系化する野心作!

なかなか網羅的な研究がなさそうな分野だけに期待も高い。

小山友介『日本デジタルゲーム産業史 ファミコン以前からスマホゲームまで』人文書院

黎明期から現在まで40年におよぶ、日本におけるデジタルゲーム産業の興亡を描き出した画期的通史。アーケードやPCも含む包括的な記述で、高い資料的価値をもつとともに読み物としても成立させた、ビジネスマン・研究者必読の書。

バーニー・サンダースバーニー・サンダース自伝』大月書店

バーニー・サンダース自伝

バーニー・サンダース自伝

アメリカ大統領選挙で快進撃!
庶民や弱者に味方し、大胆な経済政策と政治改革を掲げて全米の若者を夢中にさせているバーニー・サンダース
草の根の民主主義にこだわり、無所属をつらぬいてきた「民主的社会主義者」のユニークな政治家人生を記した自伝。
推薦 荻上チキさん(評論家・「シノドス」編集長)

 結局ヒラリーに負けちゃいましたが、一躍日本でも名をあげたサンダースさんの伝記です。

長谷川裕也『靴磨きの本』亜紀書房

靴磨きの本

靴磨きの本

磨きの基本からトラブル対処まで、靴磨き専門店・Brift H代表 長谷川裕也が教える靴磨きのA to Z

靴磨き指南本自体はそんなにめずらしいもんでもないけれど、「靴磨き界のホープ・長谷川裕也氏」という肩書に何か強い「力」を感じる。

トマス・ペン『冬の王 (仮) ヘンリー七世と黎明のテューダー王朝』彩流社

冬の王 (仮): ヘンリー七世と黎明のテューダー王朝

冬の王 (仮): ヘンリー七世と黎明のテューダー王朝

野望! 権謀術数! 愛と憎しみ、欲望と策謀が渦巻く激動の時代を制した イギリス・テューダー王朝創始者ヘンリー七世の謎めいた生涯! イギリス薔薇戦争(1455-85)を制し、 相争った白薔薇(ヨーク家)と赤薔薇(ランカスター家)を和解させて王座に登極、 国内に安定をもたらしたテューダー朝創始者ヘンリー七世。 中世的国家からの脱却、イギリスという国家の基盤作りなど歴史的偉業をなしながら、 シェイクスピア戯曲でも有名なリチャード三世とヘンリー八世(カリスマ的大悪党! ?)の 時代に挟まれ、これまで謎に包まれた人物とされてきた。 春に戴冠しイギリスを花開かせたヘンリー八世に先行し 「冬の王」とされる彼のミステリアスな性格、スリリングな生涯を新事実もまじえて明らかに! イギリスで発表時に、各メディア(デイリー・テレグラフ、ガーディアン、サンデー・テレグラフサンデー・タイムズ、タイムズ文芸附録、ファイナンシャル・タイムズ、BBCヒストリー)が 「今年の本(ブック・オブ・ザ・イヤー)」(2011 年)に選出した話題の書!

 ブックオブザイヤーという言葉に弱い。
 彩流社の本に「(仮)」ってついてるとちゃんと予定通り出るか不安なんですけれども。

アダム・ハート=デイヴィス『世界の歴史大図鑑 増補改訂版』河出書房新社

世界の歴史 大図鑑[増補改訂版]

世界の歴史 大図鑑[増補改訂版]

人類全史が一冊に収まったオールカラー大図鑑。混迷の現代世界にいる私たちは「歴史」から多くを学びとれる。2007年以降の世界の出来事を含め、全項目を増補・大改訂した決定版!

15000円で人類史が把握できるんなら安い買い物じゃないでしょうか。

エドワード・O・ウィルソン『ヒトはどこまで進化するのか』亜紀書房

ヒトはどこまで進化するのか

ヒトはどこまで進化するのか

脳の増大とともに社会性を発達させ、地球を支配してきた人類はどこへ向かうのか。
ピューリッツァー賞を2度受賞した生物学の巨人が、社会性昆虫の生態、フェロモンによるコミュニケーション、極限環境に棲む微生物から、地球外生命体の可能性、宗教の弊害、意識と自由意志の先端研究までを論じ、「なぜ人間が存在するのか」の謎に挑む。
2014年度「全米図書賞」最終候補作品!

全米図書賞というワードに弱い。似たようなテーマの本が月初めにも出ていた気がする。

モーテン・ストーム『イスラム過激派二重スパイ』亜紀書房

テロ組織の内部事情を最も知る男によるスパイ活動の全貌
デンマーク生まれの鬱屈を抱えた白人青年は、偶然出会ったアッラーの教えに救いを見出し、イスラム過激派に傾倒していくが、やがて民間人の殺害を肯定するジハード主義への拭えぬ違和感から、その「大義」に疑問を抱いて棄教。
その後、情報機関の接触を受け、CIAやイギリス、デンマークのスパイとなり、テロとの戦いの最前線に立つ。過激派の大物たちとの交流、危険きわまりない砂漠での暗殺作戦、情報機関の暗躍、裏切り。スパイ活動の内幕と波乱万丈の体験を赤裸々に語る。

亜紀書房今月の本命。日本でも傭兵として参戦した人の体験記が出てちょっと話題になりましたが、こちらはどっぷりと内部に入ってしかも二重スパイまでやった人の話。


2016年上半期の新作映画ベスト10+10

$
0
0

 2016年も半分過ぎましたね。
 というわけで、今年の上半期に観た新作映画のベスト10です。

表スジ

1.『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清監督、日本)
f:id:Monomane:20160704014524p:plain
 いわゆる「セリフの自然さ」を追求したと謳い事実ナチュラルに撮っている作品がスクリーンに映ってみるとどうもしっくりこない、「リアル」には受け取れない。そういう不思議な地場が映画には働いているもので、では映画のリアリティとはなんだろうみたいな話を考えます。
 一方でリアルさとは反対のところで、紋切り型の陳腐さみたいなものも映画のウソっぽさを際立たせがちです。しかし、善人顔の役者を悪役に配する場合にどこかで説明の時間を取る必要があって、紋切り型がないとフィクションというのはどうも流れが淀みます。
 大体の作品はそのあいだでバランスを取ろうとしたり、あるいは開きなおったりしているわけですが、この作品はそのどちらの道もとっていないように見える。紋切り型が紋切り型であるという事実そのものを利用し、何か別のことを言おうとしているようにも見える。
 それは何か。

 冒頭、サイコパスの連続殺人犯(馬場徹)が西島秀俊演じる刑事に向かってこう言う。
「刑事さん、僕には僕のモラルがあるんですよ」
 直後、取調室から脱走した殺人犯は女性を人質に取る。西島は人質にフォークをつきつける殺人犯に向かって、「おまえにもモラルがあるって言ったよな」と信頼に訴えてかけて説得にかかり、丸腰で近づく。
 殺人犯は「じゃあ、僕があんたに後ろを向けっていったら後ろを向けるんですか?」と問われて、西島はこともなげに「ああ、できるよ」と後ろを向き、途端に腰をフォークで刺される。殺人犯は西島の後輩の刑事(東出昌大)に撃たれ、死ぬ。

 その銃声でもって、「俺たちはこれからルールの話をするんだ」と宣言される。

 日本ではだいたいの人が日本語を、NHKによって統一された標準語を話していて、一見みんなつつがなくコミュニケーションをこなしている。
 ところが、まったく同じ文章や単語が発話者と受け手で百八十度異なる意味を持ってしまうケースも日常生活では多い。人間にはそれぞれ解釈のルールがあって、そのルールは各々で微妙にあるいは大幅に違う。

 『クリーピー』はそんな言葉のルールの支配権をめぐる抗争の話なのだと思います。
 劇中内の言葉には、あきらかに魔力が付加されている。ヒロインの竹内結子は夫である西島と悪役である香川照之のあいだで言葉のパワーゲームに板挟みにされて幽霊のようにさまよう。ある未解決事件の関係者である川口春奈西島秀俊が激しく問い詰めるとき、尋問前までは何の変哲もなかった*1空間が突如としてファンタジーめく。
 西島も香川も自分のオブセッションのために他人を支配しようとします。支配とは、他人に自分の思い通りの言葉を言わせることです。自分の言葉によって画定された世界を無批判に相手に受け入れさせることです。そういうのを無自覚に行えるからこそ、西島も香川も「怪物」と呼ばれるのです。
 冒頭で「後ろを向けるか」と問うてきた殺人犯に対して背中を無防備に晒したのは、彼が性善説を信奉するヒューマニストであるからではないのかもしれません。自分のルールがその場を支配している、という無邪気な傲慢さからです。そうした心性の持ち主だからこそ、もう一匹の怪物・香川の対手足りえるのです。
 山場のシーンで西島が香川に対して「おまえは悲しいやつだな!」というセリフをぶつけます。人間ではない、「怪物」である香川を評して「悲しいやつ」と上から目線で哀れむことでマウンティングしようとしているわけですが、これ自体使い古された、悲しいくらいに陳腐な紋切り型です。しかも、自分を常に最高だと思っている*2香川はまるで意味を捉えられない。
 香川は他人の内面にも自分の内面にも興味が無い。単にある種の人間のどこを押せば、どう動くかについて通暁しているだけです。
 そしてそれは犯罪心理学者たる西島にも通じる。ただ彼は学者として理論に詳しくても、香川のように実地でどう機能するかというエンジニアリングについてはまるで素人です。
 その差が彼等のバトルスタイルにそのまま反映されていきます。
 要するに、最高にアツい格闘映画ってわけです。



2.『ズートピア』(バイロン・ハワード&リッチ・ムーア監督、アメリカ)
f:id:Monomane:20160704014723p:plain
 何かを過剰に突き詰めた作品が好きです。
 作家というものは上手くなればなるほどそうしたものを巧妙に隠したがりますが、やはりディズニーはファミリー向けですね、ヤバさが非常にわかりやすい。
 わかりやすい映画が好きです。
 上の画像は一番好きなジュディのアングルです。

proxia.hateblo.jp



3.『バタード・バスタード・ベースボール』(チャップマン・ウェイ&マクレーン・ウェイ監督、アメリカ)
f:id:Monomane:20160704014929j:plain
 感動を絞りとる系の映画が嫌われがちなのは、エクスプロイテーションとして本気で搾り取ろうと考えられていないからだと思います。
 『バタード・バスタード・ベースボール』は神話を持たない国アメリカの神話であるベースボールでもってそこらへんを真摯に追求したドキュメンタリーであります。

proxia.hateblo.jp



4.『レヴェナント 蘇りし者』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、アメリカ)

 名作マンガ『くまみこ』の映画化です。
 ヒトとクマの触れ合いが描かれていて、とても泣けますね。

proxia.hateblo.jp



5.『人生はローリングストーン』(ジェームズ・ポンソルト監督、アメリカ)

 一夜にして時代の寵児になった人気純文作家(ジェイソン・シーゲル)と彼に内心嫉妬しつつも『ローリング・ストーン』誌の記者として密着取材する記者(ジェシー・アイゼンバーグ)、二人のクズ青年が織りなすステキなロードムービー

proxia.hateblo.jp



6.『ディストラクション・ベイビーズ』(真利子哲也監督、日本)

 映画にあってのみ暴力はいいものですよね。
 ロジカルな暴力であればなお最高です。



7.『ボーダーライン』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、アメリカ)

 だって麻薬戦争ものですよ?

proxia.hateblo.jp



8.『日本で一番悪い奴ら』(白石和彌監督、日本)
 日本で一番ピュアな青春映画。
 絵面としてはどう考えても間違っているけれど、雰囲気的には超感動、みたいな演出に弱い。



9.『ロブスター』(ヨルゴス・ランティモス監督、アイルランド・イギリス・ギリシャ・フランス・オランダ・アメリカ)
 結婚できない人間は動物に変えられる世界の話。
 このコンセプト一行で、ハイ優勝、てなりますよね。
 好きでもないサイコパスの女と付きあおうと頑張るシーンがとても良かったですね。
 『日悪』といい『ディスべ』といい『レヴェナント』といい、人間がその人なりに頑張ってる姿を見てると幸福になれます。

proxia.hateblo.jp



10.『帰ってきたヒトラー』(デビッド・ベンド監督、ドイツ)
 『ボラット』みたいな半突撃ドキュメンタリー方式を取り入れた映画なんですが、主演のヒトラー役の人が真にすごいのは単に「ヒトラー」を演じているのではなくて、「『帰ってきたヒトラー』のヒトラー」を演じているところ。


裏スジ

1.『イット・フォローズ』(デイヴィッド・ロバート・ミッチェル監督、アメリカ)
 単体でもよろしいんですが、監督の前作である『アメリカン・スリープオーバー』と併せてみると二百万倍良くなりますね。



2.『マネー・ショート』(アダム・マッケイ監督、アメリカ)
 「論理的に考えれば確実に世界が崩壊するとわかるはずなのに、誰も理解していない。ポジショントーク的に『理解できないフリ』をしているのではなくて、本当に理解していない」という恐ろしい状況が歴史的な事実としてあった。
 そういう世界で方舟を作り始める男たちの話。

proxia.hateblo.jp



3.『ワイルド・ギャンブル』(アンナ・ボーデン&ライアン・フレック監督、アメリカ)
 『人生はローリング』と並ぶクズ野郎ロードムービーオブザイヤー。ギャンブル狂いで家族を失った男を希代のクズ野郎俳優ベン・メンデルソーンが演じてるだけあって、クズ野郎度ではこちらの方が断然上。

proxia.hateblo.jp



4.『さざなみ』(アンドリュー・ヘイ監督、イギリス)
 元カノを忘れられないおじいさんと元カノを忘れられないおじいさんにヤキモキするおばあさんの話。
 人生において既になされてしまった決定的な選択を、やりなおそうにももう遅すぎる歳になってから悔やみだす。詮ないな、と他人からすれば思うけれども、そういう詮ないことに悶々となってしまうのが老いというものなのかもしれません。

proxia.hateblo.jp



5.『マジカル・ガール』(カルロス・ベルムト監督、スペイン)
 気軽に祈ったり願ったりすると大変なことになるから気をつけようね、というヤクザ映画。

proxia.hateblo.jp



6.『キャロル』(トッド・ヘインズ監督、アメリカ)
 何もかもがグラマラス。

proxia.hateblo.jp



7.『ヘイル・シーザー』(コーエン兄弟監督、アメリカ)
 ジョシュ・ブローリンが頑張ってると観ているこちらも笑顔になりますよね。

proxia.hateblo.jp



8.『COP CAR』(ジョン・ワッツ監督、アメリカ)
 焦ったおっさんが下着姿で必死に走ってる姿をロングショットで撮るとなんだかいい具合になるという発見。



9.『ブリッジ・オブ・スパイ』(スティーヴン・スピルバーグ監督、アメリカ)
 アメリカ人が信じなくなったアメリカの神話についてのおはなしで、これを観てると『ズートピア』とかの理解が容易になります。



10.『タンジェリン』(ショーン・ベイカー、アメリカ)
 人探し映画はいいよね。

proxia.hateblo.jp

*1:まあ、あるんですが

*2:パンフのインタビューで香川照之が言ってた

モーテン・ストーム『イスラム過激派二重スパイ』

$
0
0

寒い国から暑い国へやってきた二重スパイ

 今こそあなたと私は、より政治的に敏感になり、何のための投票なのか; 票を投ずる時に何を得ることを支持するのか; はっきりと理解するときだ。そしてまた、もし我々が投票しないのならば、弾丸が撃たれなければならないような事態に陥るだろう。投票(バロット)か弾丸(ブレット)かどちらかだ。

 ――マルコムX*1

 投票(バロット)は我々を裏切ったことがあるが、銃弾(ブレット)は裏切らない。

 ――アンワル・アル=アウラ*2


 2015年に世界を震撼させたシャルリー・エブド襲撃事件。実行犯たちは同社での銃乱射後、逃走のために市民の車を強奪したさいにこう言い放ったという。

「この殺戮はアンワル・アル=アウラキの復讐だ」。

 アウラキはアメリカ生まれのイエメン人*3イスラム過激派で、ビン・ラディン死後に台頭してきた「アラビア半島のアル=カーイダ(AQAP)」の指導者的存在だった。
 父親はアメリカの大学で学びイエメン政府の大臣も務めたエリート、その息子であるアウラキも幼少期と大学時代をアメリカで過ごした(西洋的な意味での)インテリだ。しかしコロンビア大学在学中から過激派との関係を疑われ、FBIからもマークされていたらしい。2001年の9.11テロ事件では犯行前に実行犯と接触していたことから、米国内での行動を制限されるようになり、ワシントン大学での博士課程を中断して故国イエメンに戻った。帰国してからは大学で教鞭を取りつつ、気鋭の説教師として次世代の過激派での地位を着々と築いていった。
 デンマーク生まれの白人青年モーテン・ストームが、ラディカルなサラフィー主義*4イスラム教徒ムラド・ストームとしてアウラキと出会ったのはそんな折*5のことだった。
 五つ年上であるアウラキのカリスマ性に魅了されたモーテンはアウラキ主催の勉強会に熱心に参加するようになり、アウラキもまた暴走族上がりの変わり種改宗者に深い友愛の気持ちを抱く。

 その五年後、モーテンはCIAの二重スパイとしてアウラキ暗殺に深く関わることとなる。

イスラム過激派二重スパイ』は、デンマークの港町で生まれ育ったチンピラがいかにしてイスラム過激派に傾倒し、その中枢に入り込んで名を馳せ、やがて失望して諜報機関の二重スパイとして働くようになり、かつての師や友を葬り去ったか、その過程が克明に記された愛と裏切りのメモワールだ。

二重スパイの日常系

 断っておいたほうがいいと思うけれども、本書を読んでも「なぜヨーロッパ生まれの若者たちがイスラム過激派に参加するのか」だとか「テロの前線に立っている若者たちが何を考えているのか」だとかは、ポリティカルな事柄はあんまりわからない。ところどころ汲み取れそうな部分がないではないけれど、そういう興味を主眼として書かれた本ではない。
 モーテンが改宗した理由も「二十歳を超えて将来に不安を抱える無学な前科者が図書館でムハンマドについて書かれた本に出会って」という(もともとイスラム系の移民のワルガキたちとつるんでいたという文脈はあったとはいえ)突飛なものだし、棄教するくだりもいささか唐突の感はぬぐえない。特に後者はなにか著者の側でぼやかされているものがあるように思われる。

 本書はあくまで、イスラム過激派組織の指導者の側近として、あるいはヨーロッパとイエメンを股にかける二重スパイとしてのミクロな視点から捉えた日常のディテールを描いたものだ。
 モーテン自身は銃弾の飛び交う最前線で砲火を交えたり、テロを実行したりはしない。基本的にはヨーロッパで過激派をリクルートしたり、アウラキのために雑務をこなす仕事が中心だ。彼の視点からはあまり直接的にエグい光景は映されない。
 それでも全体としてはバレたら一発で即終了な緊迫したサスペンスであるはずなのだが、中盤まではどこかゆるく、節々で妙に笑えるシーンも多い。
 たとえば、モーテンを囲おうと接触してくる二大諜報機関、イギリスMI6とアメリカCIAの縄張り争い。彼等らは英米間のライバル意識からか唯一無二の情報源である彼を取り込もうと互いに接待合戦を繰り広げる。CIAのエージェントはモーテンに渡す報酬が詰まったトランクに番号錠をかけて、その暗証番号を「007」に設定するおちゃめさんだ。CIAの使い走りとして直接モーテンと交渉を持つデンマーク公安警察(PET)の一人はモーテンの作戦会議にかこつけてタイへ出張し、売春ツアーのご乱行。もちろん、国民の金で。
 アウラキ側の人間としても、日々ジハードに精励する一方、「パツキンの西洋人妻(三人目)が欲しい」と言い出したアウラキさんのためにフェイスブックで嫁探しを手伝ったり、それが成功すると今度は外に出られない新しい奥さんの買い物を代行したり。「洋酒風味のチョコレートってムスリム的に大丈夫なんですかね?」「不浄だよ不浄」
 「友人」たちが戦争や自爆テロでどんどん死んでいくので、当然のごとくモーテンも自爆テロに誘われて困ったり、なんて一幕も。
 スパイならではのガジェットも豊富だ。さすがに『007』みたいな突飛なものは出てこないけれども、打ち込んだテキストや撮影した写真が自動的にリアルタイムでサーバにアップロードされるPET特製 iPhoneなどはいかにも「現代」っぽいスパイアイテムで、地味なぶん、それっぽくもある。一方でCIAはやたらに盗聴器を仕込みたがるが、その仕掛けがしょぼいのでモーテンから呆れられてしまう。

 読んでるほうとしては愉快だけれども、現場のモーテンにしてみれば一瞬一瞬が緊張の連続だ。露見の恐怖や、テロリストとはいえ自分を信頼してくれる友人たちの殺害に加担する罪悪感から次第に精神を蝕まれていき、ついには薬物に手を染めてしまう。
 そんな彼の苦悩など意に介さず、諜報機関は容赦なくモーテンに対して無茶な要求を重ねる。

ヒューマン・ファクター

 モーテンの運命はアウラキ暗殺前後から急速にダークさをおびていく。それまではスパイ小説としては牧歌的にすぎる感のあったプロットが、一気に「面白く」なっていってしまう。
 彼が嵌まることになる罠はスパイの末路として古典的ですらある。
 スパイ小説と違うのは、これがノンフィクション、つまり現実である点だ。
 結果としては彼はイスラム過激派と諜報機関の双方に喧嘩を売る行動に出るわけだが、皮肉なことにテロ組織も諜報機関も政府もフィクション内で演じているほどに万能ではないようだ。
 二重スパイとしてマスコミの前に出てきてから四年、伝記を出版してから二年がたった現在でもモーテンは生きながらえている。

 www.cnn.co.jp


 ちなみに2014年に本書がアメリカで出版された当初は『ボーン』シリーズで知られるポール・グリーングラスが映画化する予定だったのだそうだが、続報を聞かない。たぶん頓挫したんだろう。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/The_Ballot_or_the_Bullet

*2:本書 p.19

*3:したがってアメリカとの二重国籍

*4:wikipediaによると「現状改革の上で初期イスラムの時代(サラフ)を模範とし、それに回帰すべきであるとするイスラムスンナ派の思想」。基本的には穏健であるが、一部の過激派は「サラフィー・ジハード主義」と呼ばれ区別される。

*5:2006年

緑の服、緑の店、緑の国――『ブルックリン』について

$
0
0

『ブルックリン』(ジョン・クロウリー監督、カナダ・アイルランド・イギリス・アメリカ合作、2015年)

f:id:Monomane:20160714231506p:plain

 以下、ネタバレを含みます。記事中程の警告部分以降は結末部を含む重大なネタバレがなされていますのでご注意ください。


あらすじ

 1950年代のアイルランド。第二次大戦後の不況にあえぐこの国*1の港町で、雑貨屋の店員として働くエイリシュ(シアーシャ・ローナン)は姉(フィオナ・グラスコット)を通じてNY在住の神父(ジム・ブロードベント)からアメリカでの職を紹介される。
 アイルランドでの生活に生きがいを持てなかった彼女は一も二もなく渡米、NYの移民街であるブルックリンで下宿しつつ、デパート店員として働くようになる。
 しかし、知り合いも友人もいないNYでの生活は彼女を蝕んでいく。ついには寂しさが募ってホームシックにかかってしまう。
 見かねた神父は彼女に「簿記の勉強をやってみないか」とブルックリン・カレッジでの夜間コース受講をもちかける。簿記の資格を得て、姉と同じ事務職に就くという目標ができたエイリシュは徐々に元気を取り戻していき、やがてイタリア人の恋人トニー(エモリー・コーエン)もゲット。だが、なにもかも順調にいきかけていたところに、故郷から衝撃の報せがまいこむ。


視えるグリーン

 色の切り替わりが物語の切り替わりだ。
 『ブルックリン』は物語の進捗に応じて、舞台も移り変わっていく。
 一つ目(序盤)は、主人公エイリシュの生まれ育ったアイルランドの港街エニスコーシー。
 二つ目(中盤)は、エイリシュが移り住むこととなるニューヨークのブルックリン。
 三つ目(終盤)は、再びエニスコーシー。

 監督のジョン・クロウリーFilmmaker Magazine 誌のインタビューに答えて曰く、

 この映画は視覚的に三つの局面に分かれています。
 一つ目の局面はエイリシュがアイルランドを離れる前ですね。フレームは窮屈で、ワイドショットは一切使われていません。エイリシュの顔が重要なんです。
 私たちは(WWII)戦後のアイルランドについて調べました。当時撮られた写真から当時のアイルランドがどういう「色」だったかの知識を得たのです。
 画面を濁った感じにはしたくなかったので、茶色やくすんだ色彩をなるべく避けました。そこで、より緑をくわえるようにしたのです。
 この映画で最初にワイドショットが使用されるのは、エイリシュが旅立ちのために船に乗るシーンです。彼女の地平*2が開ける様子を、文字通り画面上の地平線で示しています。
 ここから色使いがもっと豊かになります。1952年のアメリカは黎明期にあったポップ・カルチャーの最先端でした。終盤でエイリシュの目に映るアイルランドは序盤のそれとは違って見えます。より明るく、カラフルに見えるのです。それは彼女自身と彼女の外見が変化したせいでもあるのでしょう。

第一幕:アイルランドアイルランド

 映画の序盤において、直接的に画面へ「緑をくわえ」ているのは主人公エイリシュの服装だ。
 映画の冒頭、明け方の街へと足を踏みだすファーストシーンから彼女は濃い緑色のダブルブレストコートを羽織っている。
 緑はアイルランドを象徴する色だ。縁起は約千六百年前、キリスト教の伝道師であったパトリキウスがアイルランド島民に対して三つ葉のシャムロック(クローバーなどの葉が三つに分かれた植物の総称)を用いて三位一体の概念を説いたことから、シャムロックが後に聖人パトリックとして讃えられる彼の象徴となり、ひいてはアイルランドの国花とされた。このシャムロックの緑がアイルランドの国の色として結び付けられて、現在世界中で祝われている「聖パトリックの日」のメインカラーとして「アイルランド=緑」のイメージを定着させた。
 そんな緑の国にあって、彼女は一貫して緑系統の服(あるいは暗いところでは緑に見えるエメラルドブルーのニット)を身にまとう。
 エイリシュの愛国心がそうさせるのだろうか? いや、違う。彼女は地元を、アイルランドという国に嫌気がさしている。勤め先の雑貨屋のオーナーは嫌みな因業ババアだし、恋に燃える親友と一緒にダンスパーティーに出てもなんとなく馴染めない。アイルランドに彼女の居場所はない。アイルランドの緑は彼女を囚える鬱屈の緑だ。積極的に嫌っているわけでもないが、ばくぜんと「このままではいけない」と考えている。
 ちなみにファーストルックが薄暗いシーンなので気づきにくいかもしれないが、雑貨屋の外観が緑色なのにも留意しておきたい。のちのち重要な意味を帯びてくる。


f:id:Monomane:20160714230319j:plain


 彼女は緑のコートをしっかりと閉じて、新天地アメリカへと旅立つ。
 その船中で新しい色に出会う。赤だ。三等客室で相部屋になったアメリカ帰りのブロンド美女ジョルジーナが真っ赤なコートとともに彼女の前に現れる。最初のうちは赤い女の押しのつよさに戸惑うものの、旅慣れた彼女のアドバイスに助けられて打ち解ける。
 到着直前、エイリシュは赤い女から入管に際しての助言をもらう。

「検査に備えて、あらかじめバッグを開けたままにしておきなさい。
 あんまり純朴そうに見え過ぎないように。口紅とマスカラを塗っておきましょう。ついでにアイライナーも。
 背筋をピンと伸ばして立ちなさい。靴もちゃんと磨いておくこと。絶対に咳だけはしないこと。*3無作法になっちゃダメ。厚かましくなってもダメ。あんまりビクつくのもダメ。
 自分をアメリカ人として考えるの(Think like an American.)。
 着いたら自分がどこに行くのか知っておきなさい。」


 そして*4、エイリシュは赤い女から「これをつけなさい」とストールを渡される。赤と白のストールだ。
 エイリシュは彼女の助言とストールを例の緑のコートの下に抱き、入管を見事パスする。審査官から「その青い扉へ進みなさい」と言われて、壁一面にさげられたアメリカ国旗のしたをくぐり、緑色の彼女の背中が扉の向こうの光へ吸い込まれていく。
 ストールの赤と白、扉の青。三色揃えば、言うまでもなく、アメリカ国旗の色だ。

第二幕:アメリカのアイルランド

 とはいえ、エイリシュは最初から赤と白と青の国になじんだわけではない。
 下宿先のかしましい同輩たちはキラキラしすぎて控えめな彼女にはとっつきづらいし、勤務先のデパートでも上手に接客できない。勤務の合間に立ち寄った定食屋では店員のあんちゃんから「俺が天国の門をくぐるときは、そのかわいいアイルランド訛りで呼ばれたいもんだね」とセクハラともナンパともつかない軽口を叩かれる。*5店員にとっては軽口でも、エイリシュにとっては刺さる一言だ。アイルランド訛りをバリバリのNYっ子からひやかされて、自分がまだ「Think like an American」に振る舞えていないことを認識せざるをえない。しかも、なお悪いことに、その定食屋は内装から外観まで緑色で統一されていて、彼女はデパートの制服の上に例の緑のコートを着ている。いやが上にも自分がアイルランドから逃れられないのだと思わされる。
 親友と優しい姉がいない孤独を感じるぶん、もしかしたらNYは故郷より悪いのかもしれない。こうなると故郷が懐かしい。

 定食屋のシーンの直後、彼女のもとに姉からの手紙が届く。家族の近況を報せつつ、妹の身を案じる、なんでもないような内容の手紙だが、これがそのなんでもなさゆえにエイリシュのホームシックにとどめをさす*6。心をこわしてしまった彼女は勤務中に泣き出してしまう。
 駆けつけた神父は「すべて私の責任だ。故郷を離れるということがどんなにきついか、忘れていたよ」と詫びてエイリシュに簿記の資格を取るための夜間コースを紹介する。
 「なぜですか?」と問うエイリシュに神父はこう答える。

神父:
 きみのように賢い子がアイルランドでちゃんとした仕事を見つけられないと知っておどろかされたんだ。
 私はアメリカに長く住みすぎた。
 アイルランドで生きるということがどういうことが忘れてしまったんだ(I forget what it’s like in Ireland.)
 だから、きみのお姉さんが手紙できみのことを知らせてきたとき、私は教会で手助けできるかもしれないと申し出たんだ。ともあれ、ブルックリンに住むアイルランド人の女の子が教会として必要でもあったしね。
 ホームシックは他の病気と変わらない。いつかは他の人に伝染って、自分はケロリと治るのさ。


 これもまたなにげないセリフであるけれども、「アイルランドで生きるということがどういうことが忘れてしまったんだ(I forget what it’s like in Ireland.)」というラインは終盤の極めて印象的な場面でリフレインされる。*7

 ともあれ、簿記のクラスは彼女にとって丁度いいきばらしとなる。

 もうひとつ、エイリシュにとって印象的な出来事が起こる。
 クリスマスの晩、教会の慈善活動として恵まれないアイルランド人労働者(というか失業者)たちにクリスマスディナーをふるまう催しに参加するのだが、そこで彼女は年老いたアイルランド人を大量に目にしてショックを受ける。

 エイリシュ:
  この人たちはみんなアイルランド人なんですか?

 神父:
  そうだとも。みんなアイルランド人さ。


 彼らもエイリシュとおなじようにアイルランドから渡米してきて肉体労働者としてニューヨークの建設ラッシュを支えたのだが、ひとたび摩天楼が完成してしまうと放り出されて浮浪者同然になってしまった。故郷であるアイルランドにも移民先のニューヨークにも行き場のない人々。エイリシュは彼らに自らの状況と心情を重ねる。*8
 一方で、苦節をおなじくする先輩たちの姿に触れたことで、彼女は「寂しいのは自分だけじゃないんだ」と逆説的に孤独ではないと知ったのではないか。あるいは、故郷を遠く離れたNYもまたアイルランドと地続きなのだと悟ったのか。
 いずれにしろ、クリスマス明けにはもう彼女のホームシックは完治している。
 目に鮮やかなクリームレモン*9のシャレた服装で街を闊歩する姿は、もういっぱしのニューヨーカーだ。*10

 そして、エイリシュは教会主催のダンスパーティでイタリア人の青年トニーと出会う。
 彼とひとしきり踊ったあと、下宿まで送ってもらうことに。このとき、彼女はジョルジーナを思わせる真っ赤なコートを着用している。これより先、あの緑のコートは退場し、いっさい姿を見せなくなる。孤独の孤独でなさを知り、恋を知った彼女のワードローブは一新され、それまでのおぼこい地味な服装とは様変わりして、ニューヨークで仕入れたとおぼしきコレクションを着て歩く。

f:id:Monomane:20160714231106p:plain


 本作の衣装デザイナー、オディール・ディックス=ミローの証言。

 エイリッシュの服装は、到着して間もない世界に溶け込んで自信を持って成長していく若い女性の物語を飲み込みやすくします。
 だから彼女のワードローブは、アイルランドに居たときのものとニューヨークに住んでからのものとで異なっているんです。このふたつはまったく別の世界ですからね。
 第二次大戦でヨーロッパは甚大な被害を被りましたが、NYは無傷でした。
 なので、エイリッシュがアメリカにいるときは、よりくっきりと力強く見えるように意識したんです。

http://www.instyle.com/reviews-coverage/movies/7-gorgeous-50s-outfits-look-when-you-watch-movie-brooklyn


 以降、トニーとデートを重ねていくが、彼女はいつも赤いコートを身につける。アメリカのコートを。

 しかし、トニーの家族を晩餐をともにした帰り道で彼女は白い地味な服に身を包んでいる。どういうことだろうか、こちらがいぶかしんでいると、トニーが別れ際に「きみを愛してる」と告げる。同じく彼を愛していてもどこかで躊躇ってしまう彼女*11は返事を保留してしまう。
 エイリシュはその夜、人生の先輩でもある下宿先の友人と結婚についての会話を交わしたことで背中を押され、翌日のデートで「わたしもあなたを愛している」と告げる。もちろん、赤いコートを着て。

 こうして大きな一歩を踏み出したカップルは、次なるステップとして海水浴デートに出かける。このときの彼女はエメラルドグリーンのカーディガンを着ているが、全体として占める面積では内に着込んだパールピンクのシャツと花柄のロングスカートの装いが印象的だ*12。さらには可愛らしいポーチをぶらさげた手にピンクのわたがしを持ち、目にはなんと派手なサングラス。すっかりアイルランドの緑をアメリカナイズしてしまっている。このファッションだけでももはやエイリシュが以前の彼女とは違う、自信に満ちた女性へ変化したことが伺える。ちなみに当時としては格段にセクシーな水着も緑色だ。

f:id:Monomane:20160714231258p:plain

 アメリカに溶け込み、恋人もできて、幸せ街道まっしぐらかに見えたエイリシュだったが、そんな矢先にとんでもない悲報がアイルランドからもたらされる。そしてその報せが、彼女の人生をおおきくゆさぶることとなる。




 ここから先は結末部を含む物語の重要なネタバレを含みます。



第三幕・アイルランドのアメリカ人

 エイリシュの姉が心臓の病で急逝した。
 激しく落ち込むエイリシュ。なにはともあれ葬式に参列するために、アイルランドへ帰国しなければならない。トニーはエイリシュを慰めながらも「きみが行ったままアメリカに帰ってこないかもしれないのがこわい」と吐露する。エイリシュは「もう自分に家(Home)があるのかもわからなくなっちゃった」と言う。エイリシュにとって自分をいつも気にかけてくれる姉こそが家の象徴だった。その姉を亡くすということは世界中のどこにも帰る場所がなくなってしまいことと同義だ。
 そんなエイリシュの心情を察したのかトニーは翌日、彼女をロングアイランドへ連れて行く。そこで購入したばかりの空き地を見せて「ここに一緒に住んで、店をやろう。結婚してくれ」とプロポーズ。新しい、自分たちの家をここにつくろうと言ってくれたのだ。エイリシュは申し出を諾う。このときのエイリシュの服装は涙をすべて吸い取ったようなペイルブルーで統一されている。
 ふたりは役所にでかけ結婚の手続きをすませる。しかし、この婚姻はまだお互いだけの秘密だ。
 このとき、エイリシュにとってのNYは単なる下宿先ではなくて、終の棲家と定まった。

 役所の場面から切り替わるともうアイルランドで、姉の葬式は終わっている。
 エイリシュは母を伴って教会から出てくるが、このときの彼女の装いは頭部こそ黒いセパレートのヴェールで覆っているものの、服はNYで買った派手なレモンイエローのシャツドレス。葬式にはどう考えても不釣り合いだが、これも「NYこそが私の家」と無言に主張したい彼女のアティテュードなのだろう。渡米前から懇意だったエイリシュの親友ナンシーはその姿を見るなり、「すいぶんセクシーになっちゃたじゃないの!」と賛嘆の声をあげる。
 彼女はNYから持ち帰ったワードローブを着続ける。今より情報の伝播が遅い時代、しかもアイルランドという保守的な土地ではNYの最新モードは他人からは好奇の対象だ。サングラス姿のエイリシュとすれ違った婦人は「なにあの格好?」と不審げに声をひそめる。

 とはいえ、『ブルックリン』は「都会帰りの女が出戻った田舎で嫉妬混じりのいじめを受ける」系の話ではない。一人の引っ込み思案な女性がまったくタイプの違う二人の男性の間でゆれうごく、ジェーン・オースティンやトマス・ハーディ風の古典的なロマンス劇だ。
 地元に戻って早々、エイリシュはナンシーから、ナンシーの婚約者の友人ジム(ドーナル・グリーソン)を紹介される。ジムは商店を親から継いだばかりの裕福な中産階級だ。NYの下町の移民労働者であるトニーとは対照的に、洗練された穏やかな人物として描かれている。最初は秘密とはいえ夫を持つ身ということで、ジムと彼女をくっつけようと勤しむナンシーのおせっかいをうとましく思っていたものの、亡くなった姉の話題(ジムの母親とエイリシュの姉がおなじゴルフクラブに所属していた)を通じてだんだん打ち解けていき、いつしか強く惹かれていく。
 一方で、亡くなった姉の後釜として、なし崩し的に事務員の仕事もひきうけて、期せずして渡米前には得られなかった「魅力的な恋人」と「相応の仕事」を一挙に手にしてしまう。生前の姉が妹のキャリアアップのためにNYの仕事を神父を通じて手配してくれたように、死後の姉の導きがエイリシュをアイルランドにとどまらせようとしたのだろうのか。*13
 「アイルランドに行く前にあなたに出会えたらよかったのに」とエイリシュは複雑な心境をジムに漏らし、姉の墓に花を供える表情も曇る。

 エイリシュとジムはナンシーと彼女の婚約とで連れ立って海水浴ダブルデートを行う。このときのエイリシュの服装は、トニーと海水浴デートに行ったときと同じサングラス+グリーンのカーディガン+花柄のスカート(と微妙に仕立てが異なるが同じく淡いピンクのシャツ)という出で立ちで、そのうえ水着までブルックリン時代と一緒。
f:id:Monomane:20160714231358p:plain
 渡米直後のときはアイルランドの緑色の忘れられなさが彼女のホームシックを引き起こしたわけだが、今度はNYのヴィヴィッドなファッションが彼女の後ろ髪をひく。本作において、常に「故郷(Home)」はワンテンポ遅れてやってきてエイリシュを引き裂く。
 彼女は夫のある身でありながら別の男性へ惹かれていくことによるトニーへの罪悪感と、夫がいることを隠しながら付き合いを続けてしまうジムへの罪悪感、その二重の重圧につぶされそうで、トニーから絶え間なく送られてくる手紙に返事を書くこともできない。

 それでもやはり物理的に近くにいる存在の方が強いのか、彼女はますますジムに接近していく。ジムの両親にも紹介され、エイリシュの母親もすっかりその気になっている。
 そしてついにダンスホール*14エイリシュはジムから求婚される。しかしエイリシュははっきりと返答できない。

 二つの愛に引き裂かれそうになるエイリシュ。しかしジムの求婚劇の直後、思いもよらぬところから刺客が舞い込んでくる。
 渡米以前に働いていた雑貨屋のオーナーから突然呼び出されるのだ。
 あの人とは切れたと思ったのに、と訝しみつつも雑貨屋までエイリシュは出向く。この時、はじめてまともに観客は雑貨屋の外観を目の当たりにするのだが、日中の店舗は思ったより緑のペンキが濃い。
 彼女はオーナーである老女の私室へと招じ入れられる。日光が窓からわずかにさしこむだけのうすぐらい室内。壁にかかげられた年代物の絵画やアンティークの調度品から、部屋自体が持ち主の老婆のようにここでずっと年月を重ねてきたことがうかがえる。窓際には鉢がいくつも並べられ、緑の植物が植わっている。
 エイリシュは老婆から緑のベルベットのソファーを薦められ、そこに腰をおろす。
 清新なパールホワイトのカーディガンを羽織るエイリシュに対し、老婆が袖を通しているカーディガンは緑色。緑色の店の緑色の古い部屋。
 ここはかつてエイリシュが倦んだアイルランドそのもののミニチュアだ。

 劇中でそれまでさりげなくばらまかれてきた断片が、一挙に寄せ集まって爆発するシーン。それをひとは「クライマックス」と呼ぶ。『ブルックリン』のクライマックスはこの静かな対決だ。

 老婆は雑貨屋の常連客のなかに、ブルックリン在住の親類を持つ人がいるという。
「世界っていうのは狭いものね、え?」
 そういえば、あなたジムとずいぶん仲がいいそうじゃないの。噂によると結婚するとか。でも――その常連さんによると、あなたもう結婚してるらしいじゃない?
 そして老婆は勝ち誇った顔で言う。「あなたが婚姻届を出すところを役所で見たそうよ。なんでも、イタリア系の苗字に変わったとか」
 エイリシュの表情が硬まる。たしかに、役所で結婚手続きするときにたまたま知りあった人の奥さんがアイルランド系で、エニスコーシーあたりの出身だと聞いた気はしたが。
「白を切るのはよして、ミス・ランシー*15。もっとも、今はどんな苗字か私は知らないけれど」
 エイリシュは言う。「忘れてたんです」

 老婆:
  忘れてたですって!? よくもまあ……

 エイリシュ:
  私はここがどんな町だったか、忘れていたんです。(I’d forgotten what this town is like.)
  それで、このあと貴方はどうなさるおつもりですか。
  ジムとの仲を裂きたい?
  アメリカに戻るのをやめさせたい?
  ……きっと貴方自身にもどうしたいのかわからないでしょうね。


 I’d forgotten what this town is like. というセリフは、ブルックリンでホームシックにかかったエイリシュを慰めた神父の「私はここに長く暮らしすぎた。アイルランドで生きるということがどういうことが忘れてしまったんだ(I forget what it’s like in Ireland.)」というセリフと共鳴する。
 故郷からあまり長く離れすぎてしまったがゆえに、彼女は故郷のクソさを、なぜここを離れたいと思っていたのかを忘れてしまった。それは、恋人やまともな仕事などでは償われない、もっと根深く、おそらくは名づけえない昏い感情だった。
 彼女にとってのアイルランドとは、まさに目の前に座っている業突く張りの老婆のような存在だったのだ。ただ目的も思想もなく、歴史と執着のみでもって若者の人生をからめとる濃緑の呪い。

 そしてエイリシュは思い出す。彼女の家はいまやアメリカに、ロングアイランドにある。彼女はそこで仕事を見つけ、恋人を見つけ、自分の人生を見つけたのだ。たとえ、「本物の幸せ」がジムとともにあるのかもしれなくとも、「家」はあそこだ。
 だから、エイリシュは泣きながらこう宣言する。
「私の名前は、エイリシュ・フィオレロです」
 そして彼女はものすごい勢いで店を出て、店の緑の扉を閉め、目を閉じる。大きく肩で息を継ぎながら激しく動悸する心臓を落ち着かせ、やがて閉じた目をゆっくりと開く。アイルランドとの別れを決意する。


f:id:Monomane:20160714232032p:plain
f:id:Monomane:20160714232040p:plain


 彼女は実家に戻るや、母親に結婚の事実を告げ、ジムに置き手紙を残し、アメリカ行きの船に乗る。
 その船上で、アメリカに初めて行くのだという若い女性と出会う。初渡米時のエイリシュの引き写しのように純朴そうな若い女性に。

 女性:
  アメリカに移住しに行くんですか?

 エイリシュ:
  いいえ。

 女性:
  じゃあ、観光?

 エイリシュ:
  もとからアメリカに住んでるの。

 ブルックリンに住む予定だという女性は、傷心のエイリシュにブルックリンがどういった場所かを興味津々で訊ねる。

 女性:
  みんなが言うには、ブルックリンにはいっぱいアイルランド人がいて、まるで故郷(home)みたいなんだって! ホントですか?

 エイリシュ:
  そうね。まるで故郷みたいな場所よ。


 エイリシュは、かつて自分が赤い女ジョルジーナから教えてもらった船上でのサバイバル術と入管の心得を(神父から教えてもらったホームシック対処法も添えて)若い女性に伝授する。
「自分をアメリカ人として考えるの。(Think like an American.)」とアメリカ人になったエイリシュが言う。

「そうして、いつかは過去と何の繋がりもない誰かや何かについて考えるようになる。あなただけの誰かについて。そのとき、気づくの。ここにこそ、あなたの人生があるんだって」

ブルックリン、ニューヨーク

 『ブルックリン』は端的に言えば、女性視点から描いた移民物語、ということになるだろうか。
 最終的にエイリシュは過去=故郷=アイルランドと訣別し、同じく移民であるイタリア人の若者とともにアメリカ国民として、移民国家アメリカの二十世紀へと乗り出していく。
 彼女がなかば属していきつづけるであろうアイリッシュのコミュニティは、アイルランドとつながってはいてもアイルランドそのものではない。このへんの移民の繊細な機微が移民国家の外に住んでいるとわかりづらいところもあるけれど、田舎から都市へ出てきた人間が新しい土地と古い土地のあいだでいたばさみになる上京&帰郷物語として読めばある程度の普遍性はある*16し、実際日本ではそういう読まれ方をされるのだろう。

 まあ、とはいえ、『ブルックリン』は単純なストーリーのようでいていろいろな読み方ができる話だ。
 生まれついた土地などではなく、自分が心から「故郷」と信じられる場所をさがしもとめる魂のクエスト。
 常に後ろから追ってくる「故郷」、外での生活が長くなる内に思い出の糞な部分がそぎおとされてなんとなく美化されるノスタルジーの危険性、そういう過去からいかに逃れるかというエクソダス・ストーリー。
 いくぶん粗野だがワイルドで頼もしいピュアな肉体労働者タイプの男性と、洗練されたオトナな金持ちのあいだでふらふら恋のいたばさみに陥るロマンス。
 ぼんやりとした田舎娘が上京して自己を確立していく成長物語。
 心優しい姉の影に人生を導かれたり、ふりまわされたりする姉妹物語。


 ひとつ『ブルックリン』について確かなことが言えるととしたら、間違いなくシアーシャ・ローナンの映画である、ということでしょうか。



ブルックリン (エクス・リブリス)

ブルックリン (エクス・リブリス)

原作。映画パンフの訳者解説によれば続編(といってもエイリシュは出てこなそう)が近々出るとか。

*1:パンフレットによるとアイルランドは第二次大戦で中立の立場をとったせいでマーシャル・プランの恩恵を享受できなかったそう

*2:horizon には(人の)「視野」や「限界」という意味もある

*3:当時は入管で結核と見なされてしまったら強制送還の憂き目にあったため。ジェームズ・グレイ監督『エヴァの告白』にもそんなシーンが描かれている

*4:時系列的には上記の助言の前だが

*5:とはいえ、ここでエイリシュが発する「Could I have a bill, please?」の一言は本当にやばいくらい可憐なので、店員の気持ちはわからなくもない

*6:手紙を読んでいるあいだに挿入されるモンタージュが見事だ。横断歩道を渡るカットなのだが、色とりどり服装の群衆にあって濃い緑色のコートを着たエイリシュがやけに浮いている。コートの下に着ている薄いピンクのシャツにオレンジのジャケットならおそらくNYに”埋没"できるだろうに、彼女にまとわりつく緑色が境界となって同化を妨害しているのだ

*7:「an Irish girl in Brooklyn」が欲しかったと言う神父に対して、エイリシュが返す「できるならアイルランドに住むアイルランド人の女の子(an Irish girl in Ireland)でいたかった」というセリフも割に重要で、ここからブルックリンが彼女にとっての「故郷」になっていく

*8:ここで労働者の一人がゲール語で歌う印象的な場面があり、町山智浩の解説に詳しい。http://miyearnzzlabo.com/archives/37844

*9:黄色のシャツはこの映画は二種類登場する。胸元がV字に大きく開いたものと、首元でキュッとしまっているののふたつ。よく似ているが微妙に違う

*10:このシーンがどのあたりにくるか実は記憶が曖昧で、もしかしたら婚姻届を出した直後だったかもしれない

*11:古い体質のカトリックであるアイルランド人女性にとって結婚というのは後戻りのできない極めて重要な選択

*12:このコーディネートはもう一つの海水浴のシーン、そしてラストでも繰り返し登場する。カーディガンと花柄のスカートは同一だが、なかのシャツは同じような色合いでいて微妙にどれも違う

*13:余談だけれども、エイリシュの姉は仕事場に妹の写真を飾っていた。姉の死後、エイリシュが仕事を引き継ぐときにその写真立てを見つける。いいシーンだ。いいシーンですよね?

*14:ダンスホールは都合三度ほど本作で繰り返し使用される舞台だ。いずれも恋愛がらみ。一回目は序盤のアイルランドで、ナンシーが意中の男性とお近づきになり、エイリシュが孤独をおぼえるシーン。二回目はブルックリンのカトリック教会のダンスホールでトニーと出逢うシーン。そして三回目がアイルランドでジムに求婚されるこのシーン

*15:エイリシュの苗字

*16:ズートピア』でも田舎から都会に出てきたアニメスタッフのホームシック体験談が反映されているというインタビューを読んだ

『ファインディング・ニモ』のドリーは本当に記憶障害なのか。

$
0
0

本記事の概要

 『ファインディング・ニモ』に出てくるやたら忘れっぽいナンヨウハギのドリーが記憶障害(健忘症)なのかについて検証した英語記事の翻訳。


前説

 『ファインディング・ドリー』を観て、「『ニモ』のときのドリーの忘れっぽさは単なるキャラづけだと思ってたのに、実はガチだったんだね、驚いたよ(笑)」みたいなことを自撮り写真と一緒に twitterにあげたら、多方面のベテラン・ピクサーファン(半裸のシルベスター・スタローンを想起していただきたい。関係はないが)から「いや、そもそもそんなん一作目のときからガチの障碍だってわかってたやろ」「おまえは何を観てきたんだ」「だからおまえはダメなんだ」「俺の足の裏に生えたフジツボより生きる価値がない」「クローネンバーグに頼んでハエにしてもらえ」というきびしいお言葉を賜り、死にたくなったわけですが、ほんとは死ねとも言われてないし、自撮りもあげてません。足の裏にフジツボが生えた不幸な人もいなかった。
 とにかく、そんな感じで作ってるひとらはどれだけ本気でドリーを記憶障碍として描こうとしていたのか気になったわけです。そこで、グーグル先生に「ニモ ドリー 記憶」的な雑なワード(よくおぼえてない)を打ち込みました。

 すると出てきたのはNeuroPsyFi - NeuroPsyfi brain science behind the moviesなるサイト。主に脳科学者や神経医学者の専門家の視点から作品を読み解く系の映画評サイトらしく、そのひとつに『ファインディング・ニモ』時代のドリーについての考察がありました。その内容がわりに面白かったので、ぶっちゃけスタッフの証言とかどうでもよくなりました。満足した。

 以下、その訳です。相変わらず端折ったり適当にいじったりしてますので、原文と参考文献一覧はbrain disorders movie reviews - NeuroPsyFiを参照のこと。
 あくまで『ファインディング・ニモ』のときのドリーについて語ったものですから、『ファインディング・ドリー』での出来事は考慮されていません。


「泳ぎつづけろ――健忘症とたたかうための海のレッスン」ダニエラ・ブリンクマン

「ええと、あなたと一緒にいるとよく思い出せるようになるの」。
 シンプルでありながら、実に切実な思いが込められたセリフだ。


 『ファインディング・ニモ』のメインキャラであるドリーには、パッと見の印象以上に神経心理学的に興味深い洞察が隠されている。本作は劇映画としては健忘症を精確に描写している数少ない作品のひとつとして専門家からも讃えられている(Baxendale, 2004)。のみならず、健忘症患者の記憶能力に良い影響をおよぼしうる、前向きな姿勢やソーシャル・サポート(家族として、友人として、あるいはその両方として)のヒントを示している。


 ナンヨウハギのドリーが初登場するのは、カクレクマノミのマーリンとぶつかる場面だ。マーリンはスキューバダイバーに拐われた息子のニモを助けだすため、ダイバーのボートを大慌てで追っている途中だった。
 ボートを目撃したことを思い出したドリーは、マーリンにその行き先を教えようとする。ところがちょっと泳ぐと、マーリンが何者か、なぜ彼が自分のあとをついてきているのかを完全に忘却してしまう。彼女はあきらかに前向性健忘を患っているか、あるいは新しい物事を憶えるのに問題を抱えている。こうしたハンデをはらみつつ、マーリンとドリーはチームを組み、ニモを探す旅へ出発する。


 この冒険のあいだ、ドリーの記憶障碍はさまざまな実例をもって描かれる。彼女は他者の名前を(特にニモの名前を)憶えることができない。新しい情報を得たはしから忘れていき、数分前に会話を交わした事実さえ覚えられない。そのうえ自分の泳いでいる方角もおぼつかず、ましてや自分が何をしているのか、なぜそれをしているのかなどわかりようもない。
 暗唱――たとえば、オーストラリアのある住所を憶えるシーンを思い出そう――は別のタスクへ注意をそらさないようにするのに効果を発揮する。だが、彼女の集中はすぐに散漫になり、繰りかえし憶えようとしたはずの情報も忘れてしまう。
 新しい情報をインプットするさいに見られるこうした問題の数々は、前向性健忘の特徴でもある。
 ドリーは彼女の症状を「短期記憶喪失*1」と説明している。この言葉は、前向性健忘の特徴である「新しい情報のインプットにおける困難」と結びつけられる。ドリーの健忘症の由来についてはほとんど説明されてないものの、彼女は「家族もみな忘れっぽい」と述べている。*2
 人類における前向性健忘は、ほとんどの場合、前側頭葉部の損傷と関係している。特に海馬と呼ばれる部位だ。若年層の前向性健忘は通常、頭部の怪我による頭部外傷によって引き起こされる。


 彼女の障碍とそれによる困難にもかかわらず、ドリーは常に楽観的で、ポジティブで、粘り強くありつづけ、健忘症がゴールへ向かう彼女を妨げることをゆるさない。困難や課題に直面したとき、彼女は彼女自身(とマーリン)に「泳ぎつづけろ(just keep swimming)」と言い聞かせる。本作でもっとも知られた名台詞のひとつだ。
 事実、ドリーの前向きな態度と屈託のない性分は、彼女をマーリンの相棒として欠かせない存在にしている。ドリー抜きではニモを発見できなかったかもしれない。
 ドリーの健忘症が旅の障害であったことはまぎれもない事実だ。しかし、彼女の楽観主義がそうした障害に打ち克ち、ともに数々の困難へ立ち向かうことを可能にしたのだ。


 かたやマーリンはポジティブでいつづけづらい状況にある。終盤、彼は希望を失い、ニモは死んでしまったと思いこみ家へ帰ろうとする。ドリーは、マーリンと一緒だと家にいるみたいな気持ちになれて記憶力が良くなると告白し、彼に留まってくれるよう懇願する。*3このとき、情緒的に安全で前向きになれる環境と、ふたりで築き上げた関係性が彼女の記憶能力に良い影響を与えることを観客は知る。


 コミカルな子ども向け映画という見かけとは裏腹に、『ファインディング・ニモ』はソーシャル・サポートや親密性の潜在的な有益さに触れ、ポジティブな環境が前向性健忘を抱える人の記憶の維持を刺激し促進しうると示している。このテクニックは「リアリティ・オリエンテーション」として活用されている。
 1966年に Taulbee と Folsom によって首唱されたリアリティ・オリエンテーションは、ある人物が今ある現実に順応することを目的としており、健忘症患者のクオリティ・オブ・ライフを抜本的に向上させる。*4親近感のある物や、音楽、写真、音、におい、健忘症患者の周囲に置くことで、症状を和らげる(De Guise, Leblanc, Feyz, Thomas, & Gosselin, 2005)。
 リアリティ・オリエンテーション認知症アルツハイマーの患者によく使われ、ひろく効果を証明している(Zanetti, et al., 2002)。また、このメソッドは頭部外傷によって引き起こされた外傷後健忘の患者にも有効であることが確認されている(De Guise et al., 2005)。同様に、後天的神経障害の患者にも有効である(Kaschel, Zaiser-Kaschel, Shiel, & Mayer, 1995)。
 ドリーはマーリンに深く結びついた環境を「家(Home)」として認識し、この条件下で記憶能力が良くなると信じている。リアリティ・オリエンテーションのフィクション版が、彼女の記憶喪失を軽減する現実的なアプローチになりえることを示している。


 他方、『ファインディング・ニモ』は健忘症患者に対する介護やソーシャル・サポートについても示唆に満ちている。
 彼女がマーリンに対してフラストレーションを与えているのは確かかもしれないが、ドリーは真にマーリンと一緒に彼女の家となるべき居場所を見つけ、家族的で相互扶助的で協力的な関係を彼と発展させていく。他の状況下での彼女の深刻な健忘症状とは異なり、ドリーはマーリンのことを思い出すのに問題を抱えていないようで、こうした関係こそが「よく思い出すこと」を可能にする源となっているのだと彼女は信じている。
 興味深いことに、家族機能*5や、ソーシャル・サポートを含む介護者の人格が決定的な役割を果たし、外傷性脳損傷の改善に貢献すると研究でも証明されている(Vangel, Rapport, & Hanks, 2011)。おそらく、ドリーは我々が考える以上にこうしたことについて洞察に富んでいるのだろう。


 ドリーをなす最も重要な資質は、ポジティブさだろう。おそらくこのポジティブさこそが前向性健忘に彼女を向きあわせ、癒しているのだ。多くの研究が、不屈の楽観主義や前向きな期待がよりよい健康や幸福や改善に繋がると示している(Lench, 2010; Scheier & Carver, 1987)。
 ドリーはたびたび人生に対する楽観主義を「泳ぎつづけろ」というモットーで表現する。*6ニモを探すための旅の道中のみならず、過去の彼女にもそれが助けとなったのだろう。冒険で直面する難事だけではなく、健忘症で直面する日常的な難事にも彼女の態度は有用だろうか?


 『ファインディング・ニモ』からは、前向性健忘では前向きな心がけと協力的な家族・友人関係が重要であることが読み取れる。人生の困難に対して「泳ぎつづけろ」、というメッセージは、驚くべきことではないだろうが、科学的な根拠があったのである。

*1:short-term memory loss

*2:訳注:監督のアンドリュー・スタントンは続編である『ファインディング・ドリー』を作るにあたってこのセリフに沿ってドリーの両親を健忘症的に描こうと試みたが、「忘れっぽい人物が三人そろってしゃべるシーン」が映画として成立しないことに気づいて路線変更した。http://www.slashfilm.com/interview-finding-dory-director/

*3:「こんなに長いあいだ誰かと一緒にいたのは初めてなの。なのに置いていかれたら、置いていかれたら……あなたといると物をよく思い出せるんだ。ほら、P・シャーマン 42……42…….。思い出せるのに。憶えてるのに。知ってるのに。だって、あなたを見てると……感じる(feel)の。あなたを見てると……家にいるみたいで(I’m home)。だから、おねがい……行かないで。私は忘れたくない」

*4:リアリティ・オリエンテーションは日本だと現実当見識訓練とも訳される。リアリティ・オリエンテーションについて知りたい。 | レファレンス協同データベース

*5:family functioning ファミリー・セラピストのエドウィンフリードマンによれば家族機能には情緒機能、社会化と社会付置機能、生殖機能、経済的機能、ヘルスケア機能の5つがある。http://www16.atpages.jp/apr27/kazokuenjoron.html

*6:このフレーズが『ニモ』でも最終盤のピンチを救い、続編『ドリー』でもキーワードとなる。

バカがみるみるそれなりに探偵になるボードゲーム:『インサイダー・ゲーム』

$
0
0

 先日、友人らで集まってウルトラ久々にボードゲームをやったのですが、そこで紹介された『インサイダー・ゲーム』がウルトラ楽しくてエピックだったのでご紹介。


オインクゲームズは、2016年6月19日に名古屋国際会議場で開催される「ファミリーゲームフェスティバル... - News | Oink Games開発元の紹介

インサイダー・ゲーム

インサイダー・ゲーム


概要

『インサイダー・ゲーム』は Oink Games *1から今年六月に発売されたボードゲームだ。
 「うみがめのスープ」に代表されるシチュエーション・パズル(出題者がある物語の頭とオチだけを与え、回答者がそのオチに至るまでのストーリーを考えるゲーム)と『汝人狼なりや?』に代表される「プレイヤー間に隠れている裏切り者を告発する推理ゲーム」を合わせたようなシステムを採用している。
 と、いえば身も蓋もオリジナリティもないゲームのように思われるかもしれないけれど、これがなかなか独特のプレイ感があって、おもしろい。『クルード』、『スコットランド・ヤード』、『藪の中』、人狼、『レジスタンス』と「推理」に焦点を当てたゲームはボドゲ界に綺羅星のごとく瞬いており、言ってみれば推理ゲームでないボードゲームのほうが少数派なんでしょうけれども、ことミステリ的な意味での「推理」ものとして本作は最高傑作に近いのではないでしょうか。

 以下、ルールと流れの説明。他人のキットで遊んだので、公式とくらべて細かい間違いがあるかもしれません。*2フェイズ名とかはこちらで勝手に名付けたものです。


ルールと流れ

パッケージの内容

 ・ルールブック
 ・砂時計
 ・役職(マスター、インサイダー、庶民)の書かれた札
 ・裏面に1~6までの数字、表面に1~6までの数字に対応した「答え」が書かれているカードの山。

役職ごとの役割と勝利条件

 【庶民陣営】
 ・庶民:占める人数が一番多い役職。無能力。ゲームごとに「答え」を探り当て、かつプレイヤー間に紛れたインサイダーを多数決によって告発することで勝利(インサイダーの敗北)。マスターと同陣営。
 ・マスター:いわゆるゲームマスターだが、庶民陣営の一員としてゲームに参加するプレイヤーでもある。「答え」を事前に知ることができる。基本的に質問フェイズ中は発言することを許されておらず、庶民たちが質問してきたときのみ、その質問に対して「はい」か「いいえ」で答えることができる。
 一方で推理フェイズでは自由に発言でき、庶民陣営としてインサイダーを追求することになる。投票権もある。勝利条件は庶民と同一。


 【インサイダー陣営】
・インサイダー:庶民陣営にとって獅子身中の敵。マスター以外(つまり、【質問フェイズ】に参加するプレイヤー)では唯一「答え」を知っている。プレイヤーたちのなかに潜伏し、制限時間内に庶民たちがうまく「答え」にたどり着くように誘導しつつ、インサイダーであることをさとられないように行動しなければならない。
 制限時間内に「答え」を庶民陣営に当てさせ、かつ告発パートでインサイダーとして指名されなかった場合に勝利。


ゲームの流れ

 一【役職決め】
 役職の書かれた札(人数分)を裏面にしたまま、各プレイヤーに配る。
 プレイヤーは他プレイヤーにわからないように自分の役職を確認する。マスターに当たった場合は札を開示してマスターであることを宣言し、以後進行を取り仕切る。それ以外の庶民とインサイダーは、ゲーム終了まで役職を公言してはならない。
 役職のうちわけは基本的にマスター1人、インサイダー1人、それ以外が庶民。バリエーションがあるのかもしれませんが、手元にキットがないのでわかりません。


 二【「答え」の決定】
 マスター以外のプレイヤーたちは目を閉じる。マスターは場の中央に置かれたカードの山から一枚めくり、山の横にオモテ面にして置く。マスターはカードの表面に書かれた6つの「答え」候補と残った山の一番上のカードの裏面に表示されている数字を対応させ、答えを決定する(例:「1. 猫 2.犬 3.狸 4.狐 5.兎 6.猿」と書かれたカードをひき、山の表示ナンバーが「3」だった場合、そのゲームの「答え」は「狸」となる)。もちろん、「答え」を他言してはならない。
 次に、マスターは表示されたカードをそのままにして目を閉じ、インサイダーにだけ目を開けるよう指示する。インサイダーは制限時間(マスターがカウントダウンする)内に「答え」を確認し、ふたたび目を閉じる。
 インサイダーによる確認が終わったら、マスターは再び目を開け、「答え」の表示されたカードを裏にして山の一番上に戻す。*3それが終わったらプレイヤー全員に目を開けるように指示する。


 三【質問フェイズ】
 マスターが砂時計を回し、カウントダウンが始まった瞬間からプレイヤーたちはマスターへの質問を許可される。
 プレイヤーたちは「それは生き物ですか?」「それは食べられますか?」「それは硬いですか?」など質問をしていき、マスターはそれに「はい」「いいえ」「わからない」のみで応答する。発言の順番は自由。*4
 プレイヤーが「それは◯◯ですか?」(例:「それは狸ですか?」)と「答え」(あるいはそれの別称)を名指しして正解したら、砂時計を逆転させて【推理フェイズ】へ移行。
 砂時計の砂が尽きる、すなわち制限時間内に「答え」に辿りつけなかった場合、庶民陣営もインサイダー陣営も共倒れ的に敗北扱いとなる。


 四【推理フェイズ】
 プレイヤーたちは互いに相談しあい、制限時間内にその場にいるインサイダーが誰であるかを推理する。このとき、ゲームマスターも話し合いに参加することができる。
 インサイダーは自分に嫌疑がかからないようにうまいこと振る舞わないといけない。
 逆転させていた砂時計の砂が尽きると【告発フェイズ】へ移行。つまり、【質問フェイズ】に要した時間=【推理フェイズ】に使える時間ということになる。


 五【告発フェイズ】 まず、(最もインサイダー容疑のかかりやすい)正解者がインサイダーであるかの多数決を(マスターを含めた)挙手で取る。決を取ったのち、その結果に関わりなく、正解者は札を開示する。
 このとき、挙手が過半数を超えたら正解者がインサイダーとして指名される。正解者が本当にインサイダーだった場合は庶民陣営の勝利。はずれ(庶民)だった場合はインサイダーの勝利となる。
 挙手者が過半数を超えなかった(正解者をインサイダーとして告発しなかった)場合。正解者の正体がインサイダーであったらインサイダーの勝利。正解者が庶民であったら更にインサイダーを追求するべく、ゲームは続行される。

 正解者がインサイダーとして告発されず、かつ正解者が庶民であった場合にのみ、【告発フェイズ】の第二段階へと進む。投票である。
 プレイヤーたちは自分の考えるインサイダーをめいめいで一斉に指さして指名する。もちろん、このとき、すでに札が開示されているマスターと正解者庶民は投票先から除外される(どちらのプレイヤーも投票権は有する)。
 投票で一番多くの票を獲得したプレイヤーがインサイダーとして告発される。告発されたプレイヤーは札を開示する。それがインサイダーであれば庶民陣営の勝利。庶民であればインサイダーの勝利。

 これで一ゲームが終了。


評価

人狼ゲームの初日吊りの凡庸な退屈さ

 先にも述べたが、プレイの感触としては前半シチュエーションパズル→後半人狼ゲームのバイアスロンに近い。ルールもわかりやすく、一ゲームあたりの所用時間も短いため間口は広い。

 本作で注目すべきは、推理ゲームとしての「推理」の純度がかなり高くデザインされていることだ。
 たとえば人狼ゲームには「初日吊り問題」というのがある。人狼ゲームでは「発言」と「処刑投票の投票先」の二つを大きな推理材料として用いる。だが、前日の処刑を行っておらず、狼の襲撃も無く、よって発言することもなにもないような状況では、事実上、プレイヤーに与えられた推理材料がゼロといっていい。また、こうした推理材料の不足を補うべき能力者の能力も初日では発動しない、あるいは有効でないものが多い。
 初日で唯一有効である推理材料としては、カミングアウトした能力者(多くの場合は直で狼と村人を指摘できる占い師)とその偽者、および彼らが指名した村人が一応の白候補として投票先から除外されるくらい*5だろうか。しかしその場合も、「白っぽい人」が増えてしまうだけで、狼を引き当てるべき投票の材料としては機能しない。
 これらが何を引き起こすかといえば、ゲーム序盤のシステマチックな進行とそれによるプレイヤーの無気力だ。人狼ゲームは「ゼロからはじめて真相へ到達する」というデザインをそのまま打ち出しすぎたがために、かえって序盤の自由を失ってダルい感じになってしまったのである。
 人狼は確定・不確定の材料が増えてくるにしたがって尻上がり的に面白くなる推理ゲームだ。反面、場が暖まらないうちに理不尽に退場するプレイヤーを必然的に生み出してしまう設計であり、しかもワンプレイのゲーム時間が長いため、序盤で退場するプレイヤーの幸福度は低い。*6そうしたスロースターターなデザインが人狼ゲームを厭う人々を生み出す一因となってきた。
 まあ逆にいえば、人狼ゲームはそうした欠点を含んでいてもなお今日の人気を博しているのであり、これはゲーム全体のデザインが秀抜な証拠であろう、とここでは言っておく。

 さて、『インサイダー・ゲーム』は人狼の「初日吊り問題」の欠点を全面的に補ったゲームであるといえる。
 「両陣営にいったんゴールを共有させて、別のゲームをまるまる一回やる」という荒業によって、ゲームの進行度に関わらず盛り上がりを維持しながら、不確定以上・確定未満のちょうどいい具合の推理材料を提供し、発言の内容・タイミング・流れという人狼ではプライオリティの低い情報の価値を高めることに成功した。
 人狼にしろ『レジスタンス』にしろ、プレイヤーに紛れた裏切り者を探す系のゲームは対立陣営の目標を相反するようにデザインされ*7、裏切り者は一見多数はに協調しているようで同時に裏で妨害してる、というアンビバレンツな行動が要求される。とうぜん、その両方を同時に達成するのは無理なので、どこかでネジレやほころびが出てしまう。そのほころびを、多数派は摘発するわけだ。
 ところが『インサイダー・ゲーム』ではどちらの陣営に属していても与えられる勝利条件は【質問フェイズ】終了まで変わらない。「全面的に庶民陣営に協力しても、いや協力するからこそインサイダー側にジレンマが発生して怪しくなる」というのは(まあ僕がボドゲに疎いからというのもあるけれど)フレッシュな視点だ。


庶民、マスター、インサイダー、スパイ

 犯人たるインサイダーが考慮しなければならない要素は多岐にわたる。
 【質問フェイズ】ではノーヒントから「答え」を探し当てないといけない。インサイダーの助けなしに「答え」に到達するのは容易なことではない。かといって、インサイダーがあまりに「カンのいい発言」を連発すると後々あやしまれる。さればとて、ぼんくらな庶民どもにまかせて発言しないようだと制限時間内に「答え」に辿りつけない。
 制限時間も重要だ。先述したように、【推理フェイズ】に費やせる時間は【質問フェイズ】に要した時間に等しい。つまり、「答え」が早く出れば出るほど犯人当てに使える時間は短くなるので、インサイダー有利に働く。だからといって、早い段階で自分で「答え」を言ってしまうのは本末転倒だ。庶民にとっては逆の意味で推理時間を必要としない状況を作り出してしまうかもしれない。
 要するにはインサイダー役の人物は、「答え」から適度な距離をとりつつ庶民がなるべく早期に正解できるようにお膳立てしなければならない。このバランスの舵取りが難しい。

 ゲームマスターが直接参加するボードゲームは珍しいが、それゆえにマスターは【推理フェイズ】において重要な役割を果たす。
 【質問フェイズ】のマスターは単に質問に答える機械ではない。庶民陣営で唯一「答え」を知った状態で、一段高所から場や流れを見渡せる、いわばミステリおける名探偵的なアドバンテージを持った人物なのだ。
 果たして自分がインサイダーだとしたらどうやって「答え」へ誘導していくだろうか、ということを常に念頭に置きつつ、流れを観察していけば、自ずと怪しい人物があぶりだされていく。これはインサイダー探しより「答え」当てに忙しい庶民にはなかなか持てない視点だ。
 【推理フェイズ】におけるゲームマスターの発言には一目置くべきだろう。

 庶民たちは【質問フェイズ】と【推理フェイズ】で異なる役割を要求される。本来なら【推理フェイズ】の材料にするために【質問フェイズ】での各プレイヤーの挙動に目を光らせておきたいところだが、【質問フェイズ】では「答え」探しに汲々としがちでなかなか難しい。
 とはいえ、【質問フェイズ】でインサイダーが無理やりでしゃばるをえない状況を演出するのは庶民プレイヤーたちの器量のうちだ。仮にインサイダーが傍目から見たら違和感なく正解かそれに近いものにたどり着いたような場合でも、それに不自然な飛躍を見いだせるのは凡人探偵として足並みを揃える庶民たちだからこそだ。

 そう、気づきこそがこのゲームのキモだ。
 冒頭で「「推理」に焦点を当てたものとしては最高傑作に近い」と放言したのは、本作がロジックに基づく、ヒューマンな気づきに特化したデザインを採用していることを指している。
 機械的な進行を防ぐために確定情報を最小限にしかしゲームが立ち行く程度に抑える。役職数をぎりぎりまで絞ることでマスターインサイダー含めた全員が探偵として思考しなければならない状況を作る。推理に使える材料を数分間の決定的な会話(と場合によっては投票)に限定することで誰もが平等に探偵として推理に参加できる。*8
 これらの要素がすべて人間の顔をした推理ゲームの完成に寄与している。Swag.


汝、その人を知れ。

 余談になるけれども、『インサイダー・ゲーム』は初対面の人たちとやるとなお「気付き」が増えて面白いかもしれない。
 一般にボードゲームのプレイスタイルにはその人の人格や性格が出やすいものだけれども、『インサイダー・ゲーム』はコミュニケーションに関わるゲームであるため、普段のその人が日常的に(意識的にであれ無意識的にであれ)とっているコミュニケーション戦略が浮き立ちやすい。特にインサイダーになったときはもろにその人となりが出る。
 要するに、「答え」へ誘導するためにどう段取りをつくり上げるか、だ。
 最初っから全力で露骨に「答え」へ誘導する人、乾坤一擲の誘導にかける人、段取りが未完成なのにあからさまなタイミングで「答え」を言っちゃう人、絶対自分では「答え」を口にしない人、そもそも徹底的に誘導を避ける人、誘導するにしても七百八十度くらいひねったような遠回りすぎる質問しちゃう人、どうしても空気がずれてる人……インサイダーで上手い人は後から振り返ってみると致命的で露骨な誘導をしていても、その場では自然に発言したような印象をあたえるのが上手い。そういう人はふだんからそういう場に強いようで、僕が一緒にプレイして上手だった後輩は就活のときもグループ討論で一回しか落ちなかった*9そうです。就活生にもオススメだ。

 基本的にボドゲはゲームを重ねていくほどその人のプレイスタイルが把握しやすくなる。本作は一ゲームが10分〜20分程度なため、どんどんプレイログが溜まっていく。プレイヤーごとの傾向がつかみやすくなる。その人がわかっていく。それどころか世界の真実がわかっていってしまう。どいつもこいつも善人面してても、一皮剥げば皆同じ腐ったオオカミ野郎なんだ。この世に正義なんてないんだ。しょせん食うか食われるか、弱肉強食――と『ディプロマシー』みたいな感じはならない程度のほんわか人間不信ゲームです。

 単純に、楽しくプレイすると仲良くなれるしね。


拡張可能性

 ちなみにゲームの性質上、「答え」の候補を知っている人はどうしても強くなる。といっても、お題のカードは42枚で一枚につき6個候補が書かれているので、252個暗記せねばならない。まあ、気合を入れれば覚えられないものでもないし、ある程度「答え」の傾向を知るだけでもアドバンテージは出る。
 ゲームの習熟具合に応じて、オリジナルのお題カードを作るとよいかもしれない。

 何度も繰り返しているように本作は既存のゲームの合体技なので、前半のシチュエーション・パズル部の「答え」をそのまま別の形にアレンジできるはずだ。
 シチュエーション・パズルといえば『ブラック・ストーリーズ』シリーズ。これは「うみがめのスープ」問題をひたらすら集めたゲーム、というか設問集だ。この『ブラック・ストーリーズ』のカードをそっくり『インサイダー・ゲーム』のものと入れ替えれば、より歯応えのあるプレイ体験をできるのではないか。その場合、もちろん『ブラック・ストーリーズ』はモノではなくストーリーを当てなければならなくてより複雑なので、制限時間を延ばす必要が出てくるかと思う。



*1:他に『藪の中』や『小早川』など小ぶりでシンプルながら知的な戦略が要求されるゲームを作っているメーカー

*2:明日キットが手に入る予定なんで記事の公開を伸ばしてもよかったんだけどまあ

*3:プレイしたゲームではそうしていた。一ゲーム終了したあとにまた新しいゲームを始めるときにうっかり山をシャッフルし忘れて前ゲームと答えが被る事故が発生していたりなんかしてたので、個人的には答えを表示された札を山に戻さず裏に返すか、山の一番下に戻す方がいいと思う。まあ、札の数字とカードごとの「答え」候補を丸暗記してるプレーヤーが存在した場合には「答え」がわかってしまうかもしれないけど、そんなことのできるカード数じゃないし

*4:特に指定はないので順番に質問していくターン制を採用しても面白いかもしれない

*5:パターンとしては占い師が初日に狼を引き当てるものもあるが、確率は低いし、その日の投票先がインスタントに決まってしまうため推理要素という面ではマイナスに作用する

*6:まあ、退場した人間は観戦側に回るため、それが面白いといえば面白いのかもしれないが、やはりゲームである以上は参加して愉しみたいものだ

*7:たとえば『レジスタンス』であれば、スパイ陣営に割り振られたプレイヤーは正体を隠しながらレジスタンス陣営の遂行するミッションを妨害する

*8:とはいえ、人数が増えればその分会話情報も増えて把握しづらくなる。参加人数が八人までとなっているのも、このためだろう

*9:母数は聞いてないので一戦一敗の可能性もある

『シン・ゴジラ』の尾頭さんの苗字問題について。

$
0
0

 『シン・ゴジラ』を公開日に観て、そのときはまあ、おおむね心地のよい映画だな、だと思い、それ以上の感想については考えませんでした。それでマアその後、インターネットやリアル友人間でシンゴジについて語る言説を多量に摂取してくうち、自分のハラにも一つの問題意識が醸成されてきまして、それが市川実日子演じる環境省なんとか局課長補佐・尾頭さんの苗字の読み方問題。

 わたしは「尾頭さん」を「びとうさん」と読む/呼ぶべきだと思います。


『シン・ゴジラ』予告2


 もちろん、公式には「おがしらさん」です。
 しかし不思議と映画本編を熱心に観た人であっても、「尾頭」の読み方を「びとう」と誤解してる人が多い。映画内で「おがしら」「おがしら」と連呼されるのを聞いているはずなのになぜか間違えてしまう。たぶん、映画を鑑賞したあとにネットや何かで「あの人の名前なんだったかな」で検索して「尾頭」という字面が出たのを見て「なるほど、びとうさんだったな」と早合点するせいでしょう。わたしもそうでした。 そういう人は、その後、自分のなかで勘違いに気づいて本当の読みを学習しても、読むにあたってはいったん「びとう」と心の中で発音したあとで「おがしら」と訂正するくせがついてしまう。
 なぜ理性の人、文明人であるはずの我々がこのような愚を犯してしまうのか。これはおそらく我々が本能的に「びとう」と読むのが正しい、と思い込んでいるからだと思う。なぜそんなふうにおもいこんでいるかというと、他のあらゆる本能とおなじく、それが種の生存に必要な戦略だからです。
 つまり、「おがしら」という読みには不都合が潜んでいる。それも決定的に種の生存に不都合な何かが埋伏している。その不都合を避けるために、生きるために我々はまず「びとう」と読んでしまう。しょうがないことなのです。

 では「おがしら」と読むと、どういう不都合が生じるのか。小学生でもすこし考えればわかることと存じますので、ここにわざわざ言明する必要もないのでしょうが、インターネットがインフラとして全国民に浸透しきった昨今、そういう甘えは許されないので説明責任を果たすと、「おがしら」は「おかしら」という語と混同しやすいのです。「おかしら」とはむろん、「お頭」、集団の首領のことです。

 チームを仕切るヘッドの代名詞と取り違えられる可能性のある単語が、こと『たまこラブストーリー』クラスに円滑でスピーディなコミュニケーションを求められる今回の巨災対のような組織の会話に混入するのは大変に危険であると言わざるをえません。
 今回は幸いにもチームの人員に江戸っ子が一人もいなかったからよかったものの(江戸っ子には優秀な人間など存在しない、という関西育ちの監督の差別感情のあらわれでしょうか)、たとえば、江戸っ子かたぎの分子生物学者が登場して、ゴジラの分析と対応におおわらわになっている現場にとびこみ「てえへんでヤンス、おかしら! 蛇行にまじって歩行も混じってるでヤンスから既に自重を支えている状態でえヤンス」と叫んだとしましょう。*1「おかしら」とは当然チームの頭目たる矢口さんを指しています。ところが、気っ風はいいけど滑舌がわるいのが江戸っ子です。尾頭さんは自分を呼んだものと勘違いし、「なにこいつ勝手に私のこと呼び捨てにしてんのバカか死ね」とばかりに眉をひそめ絶対零度のまなざしを投げつけるわけですが、彼女のパーソナリティからしてそう思ったしても口にはださない。彼女は幼い頃から剣術や武術にすごい才能を発揮していたけれども、ここで江戸っ子を殴りつけたりはしない。ただ、すごい目つきで江戸っ子を睨みつけます。見られることに敏感な江戸っ子はその視線の持つ悪意に気づきますが、マゾ気質も備えているのでゾクゾクするものを覚えながらいいように甘受します。同時に、観客も江戸っ子の快感を共有します。監督のサービスですね。
 しかし、すれ違いは解消されない。尾頭さんは江戸っ子のことがだんだん嫌いになっていきます。その不和は周囲にも波及していき、チームの雰囲気も最悪なものに。単純に尾頭さんを呼ぶつもりが矢口が返事したり、矢口を呼ぶつもりが尾頭さんが振り返ったりという事故も頻発して、ますますイライラ度が上昇していきます。こんなことではゴジラともまともに戦えません。

 蕎麦をすする際もズルズル音をたてる無神経な江戸っ子科学者への憎しみを募らせる尾頭さんは、第三形態にフォームチェンジしたゴジラを眺めているときに、前のほうがかわいい感じでよかったななどと考えつつも、江戸っ子を排除するための名案を思いつきます。
 如何様、ゴジラを利用した江戸っ子の虐殺です。
 彼女はチームに黙って密かにゴジラをマインドコントロールする術を開発し、ゴジラを江戸っ子の根城である下町へ誘導します。巨獣の来襲ににげまどう江戸っ子たち。彼らに怪光線をあびせまくるゴジラ。赤々と燃え盛る城下八百八町。ゆらめく焔火が高笑いをあげる環境省の赤猫魔人尾頭さんの顔を凄絶に照らします。「ははは、おもいしったか! 江戸っ子どもめ! 慶喜公を裏切った報いをいまこそ受けるがよい!」。彼女が実は新選組局長近藤勇の生まれ変わりであった、という設定がここで開陳されます。彼女の恵まれた武才や極端な江戸っ子フォビアにはそういう因縁があったのです。
 我々はこのとき、本作が伝えようとしたテーマを、この世界の真理を、100%完璧に読み取って戦慄します。そう、本当に恐ろしいのはゴジラではなく人間だったのだ……。

 ありえた光景です。
 すべては尾頭という苗字を「おがしら」と読んでしまったがために生まれた悲劇です。
 我々が「びとうさん」と読んでしまうのは、「おがしら」が引き起こす悲劇を先験的に知っているからにほかならないのです。悲劇を想像できる力こそが、人間を万物の霊長たらしめる最強の機制であるのです。


 監督の願望とは裏腹に、現実の江戸っ子は有能な人材を多数輩出してきました(勝海舟とか?)。フィクショナルな事態であれ、ノンフィクショナルな事案であれ、江戸っ子が官僚や科学者として対ゴジラチームに参加する可能性は常にあります。上記の虐殺劇が繰り広げられる危険が、尾頭を「おがしら」と読むかぎりつきまとってくるのです。
我々は未来に対する責任があります。監督にだって、あるでしょう。尾頭に「おがしら」とふってしまうことで、人類の生存率が数%、あるいは数十パーセントほど低下してしまう。憂慮すべきエラーです。そしてそれは、人為的なエラーです。フィクション中のキャラの名前は、作者の一存でどうにでもなるものです。
 だったら、どうにかするべきです。
 そういう理由でもって、わたしは「びとう」と呼ぶべきだと、そう申し上げているのです。

*1:語尾のヤンスをつけるのは厳密には吉原の幇間のことばであって、江戸弁とは異なりますが、黙っていれば誤魔化せます。

My life as a pipe:『ファインディング・ドリー』のパイプについて

$
0
0

 『ズートピア』のDVDが届きました。
 『ドリー』のパイプの話を思い出しました。


当記事は『ファインディング・ドリー』の重要なネタバレに触れています。っていうか、もう公開から一ヵ月以上経ってるだろが





「ファインディング・ドリー」日本語吹替版予告編

 『ファインディング・ドリー』ではパイプのモチーフが繰り返し出てくる。
 パイプはドリーを両親の庇護下から引き離した憎むべき敵であると共に、克服すべきトラウマであり、その入り組んだ閉鎖的な構造は彼女の健忘症と彼女の人生そのものを表象している。ここではパイプを切り口として『ドリー』の物語を追っていこう。
proxia.hateblo.jp


ひとつめのパイプ:デスティニーの水槽

 注意深い観客であれば、パイプが「犯人」であることは劇中のかなり早い段階からわかるはずだ。
 序盤でドリーが両親の存在を思い出し、旅に出るきっかけとなるフラッシュバック。そこに、暗い円筒形の空間へと吸い込まれていく幼いドリーの主観視点が一瞬だけ混じっている。
 だが、この時点ではドリーはまだ離別のきっかけに気づいていない。

 次にパイプが登場するのはジンベエザメのデスティニーの水槽だ。
 デスティニーは幼少時のドリーとパイプを通じて交信していたパイプ友達(Pipe Pal)だった。ここでパイプはドリーを攫うだけではなく、仲間と通信する手段でもあるというポジティブな側面が示唆される。
 ここでデスティニーは、彼女の水槽のパイプがドリーの故郷であるオープンオーシャン(でかい水槽)までのつながっていると教えてくれる。しかし、いったんはパイプに入るかけるものの、道連れがいないと道順を覚えられないとすぐに戻ってきて別ルートを乞う。
 ドリーは「一人では」パイプを突破できない。このささやかなシーンは後々の重要な逆転への布石となる。

ふたつめのパイプ:オープンオーシャン

 タコのハンクと協力し、なんやかんやあってオープンオーシャンにたどりついたドリー。
 だが、そこに彼女の両親や他のナンヨウハギたちの姿はなかった。
 彼女は自分がかつて住んでいた家の近くでパイプを見出し、両親と離れてしまったきっかけを思い出す。オープンオーシャンのパイプが引き起こす激流に吸い込まれて、彼女は海まで引きこまれてしまったのだ。

 そしてすぐさまトラウマとの対峙を余儀なくされる。
 他の生物から「ナンヨウハギたちは隔離所へ移送された」と言われた彼女は、意を決してパイプを横断しようと試みる。が、教えられた道順をすぐに忘れ、迷ってしまう。

 左、そして右……待って。
 もう左へは曲がったんだっけ?
 ああ、もう、まただ。
 よし、待てよ。待てよ待てよ待てよ。
 あれ、どっちだっけ?
 思い出せない。ええと、ええと、迷子になっちゃった。
 どうしてもダメだ、思い出せない。
 ぜんぶ忘れちゃうんだ。
 きっと、このパイプに一生閉じ込められるんだ(I’m going to be stuck forever in the pipes.)

 最後のラインはかなり象徴的だ。
 ドリーは単身大海へ放りだされてからニモ・マーリン父子に出会うまで、ずっとひとりで生きてきた。健忘症の彼女にとって他社の助けなく生きることは、パイプの迷路を何のしるべもなしに泳ぐのと同じような不安をかきたてるのだ。ドリーは暗く入り組んだパイプのなかをさまよう子どものまま、この日まで生きてきた。*1
 パイプとは、直接的なトラウマであるだけではなく、彼女の人生そのものを表しているのだ。

 だが、上のセリフの直後、「pipe」という単語から彼女は一条の光明を探り当てる。

 パイプ……パイプ友達……パイプ友達。
 パイプ友達!

 八方に伸びたパイプの路は行き止まりばかりでなく、彼女を助けてくれる仲間にもつながっていた。
 ドリーはパイプ管に声を響かせて、デスティニー(とその友達であるバンドウイルカベルーガ)にガイドを乞う。
 さらにその途上で、水族館の前で離れ離れになったきりだったマーリン父子とも再会する。
「ドリーならどうするだろう、って考えてここまでやってきたんだ」
 共連れさえいれば、パイプはけして脱出不可能の牢獄ではないのだ。

みっつめのパイプ:隔離所

 新旧の友魚の力を借り、ドリーは見事隔離所へ到達する。
 ところがそこで彼女は同族のナンヨウハギたちから衝撃の事実を知らされる。
 彼女の両親は、行方不明になった娘の後を追って何年も前に隔離所へとやってきていたというのだ。そして、そのままオープンオーシャンへは戻らなかった。隔離所へ行った魚がオープンオーシャンに戻らないということは死を意味する。
 自分の親は死んだのか、それも自分のせいで。
 絶望したドリーはそのまま事故的に下水から海へと流されてしまう。
 ドリーの主観視点で描かれるこのシーンは、フラッシュバックで垣間見た幼いドリーがパイプに吸い込まれるシーンと呼応している。彼女はふたたび両親を失ってしまった、というわけだ。

 またもや海でひとりぼっちとなったドリー。
 いったんは自分を見失いかけた彼女だったが、「ドリーならどうするか」で動き、立ち直る。
 そして、自分と両親をつなぐよすがである貝殻を追ううち、敷き詰められた貝殻が収斂するパイプの出口にたどり着き、そこで生きた両親に再会する。
 その場所は彼女を囚えていたトラウマの出口でもあった。

おまけ:Help me

 『ファインディング・ドリー』では「help」が頻出する。
 特にドリーにとって「Help me」はかなり重要なセリフだ。
 前向性健忘で短期記憶に問題のある彼女は、他者の介護を日常的に必要としている。
 親が、家族がいるあいだはまだいい。しかし、親がいなくなったら? そのことを想像して「あの子は社会でやっていけないのじゃないのかしら」とおいおい泣く母親の姿をドリーは劇中思い出す。

 親から離れて一人ぼっちになった彼女は、ずっと他の魚に対して「help me」を連発してきた。*2おせっかいなまでの彼女の親切な態度は、他者の助けを必要とする彼女自身の抱える不安の裏返しでもある。
 隔離所から海へ流され、昂じる不安のあまり健忘症が悪化してしまったドリーは「help me」を連呼する。

 ママ? パパ?
 いやだいやだ。いやだ。
 助けて。
 誰か助けて。
 助けて。私を助けて、おねがい。
 誰か助けて!

 ねえ、あなた、おねがい……(通りすがりの魚に声をかけるが無視される)
 助けて。
 助けてください。
 忘れちゃったんです。
「そうなの?」(他の魚の声)
 私……
「忘れたって、誰を?」
 私、私……
「ごめんなさいね。思い出せないんなら、助けてになってあげられないよ」(泳ぎ去っていく)

 あー……ねえ、私を助けてください。忘れちゃったんです……誰かを。
「うーん、具体的には誰を?」(別の魚の声)
 私の。私の、誰かです。
 誰か、誰かなんです。
 助けて。助けて、お願い。みんな行っちゃったんです!
 いなくなっちゃった。みんな忘れちゃった。
 私は何もできない子なんだ。忘れちゃいけないのに。
 何を忘れたの? 何か。何か大切なこと。それは……何?

 このくだりだけで十回も「Help」と口にする。

 その彼女が終盤、マーリン父子を救助し、ハンクの新しい人生を見つける手助けをする。*3
 誰かに助けられた者が、その助けてもらった誰かの助けになる。
 『ファインディング・ドリー』を Unforgettable な映画にしているのは、まさにそのようなマインドなのだと思います。

パイプクリーナー

パイプクリーナー

*1:段落の最初の文と微妙に矛盾しているようなセンテンスだが、気にするな

*2:タイトル後にある魚の夫婦と出会うシーンを思い出していただきたい

*3:ハンクに対する「海へ帰れ」的説得シーンを唐突すぎると文句をつける人は多い。仕方ないと思うけれど、あえて擁護するなら、ハンクの引きこもり症は彼の本心からの性分ではない、とおさわりコーナーでドリーは見ぬいたのではないか


ウサギ帽子の謎と、絵本作家ジョン・クラッセンはどこから来たのか。

$
0
0

前回までのあらすじ

 半年くらいまえにジョン・クラッセンの紹介記事を書こうとしたが途中で飽きて放置してたけれど、なんかtwitter で盛り上がってるっぽいのでこれはクラッセン・ブームが来るなと思ってがんばって完成させようとした。

どこいったん

どこいったん


ジョン・クラッセンという人

 ジョン・クラッセン。カナダ出身。苗字の語感からするとスカンジナビア系でしょうか。
 絵本作家として大成する以前の彼はアニメーターでした。
 カナダの名門シェリダン・カレッジ*1の卒業生で、彼自身もLAへ移住してドリームワークスへ就職*2。『カンフーパンダ』や『コララインとボタンの魔女*3といった作品に携わり、09年にはかのデイヴィッド・オライリー*4が監督したU2*5のMV「I’ll Go Crazy If I Don’t Go Crazy Tonight」のアート・ディレクターも勤めています。

 しかし彼自身はアニメーター生活に何かフィットしないものを感じていたようで、この時期あるインタビューに答えて「アニメーションスタジオの仕事はちっとも進行しないんだ……ときどき、コップの水を池に注ぎ足す作業と何が違うんだろうって感じることがあるよ」と漏らしていました。

 そんな報われない若手アニメーターの潮目が変わったのが、2010年のこと。
 彼は作画担当として関わった絵本『Cats’ Night Out』*6でカナダの絵本賞を受賞します。
 これにより一躍新進気鋭の絵本画家として評価を高めると、翌年に出版したオリジナル絵本『I Want My Hat Back(邦題:『どこいったん』)』でニューヨーク・タイムズ紙の「2011年の子供向け絵本ベスト10」に選出。さらにはそのシュールでキャッチーな絵面からネットでも認知されて改変ネタが大流行します。*7

 そして、2012年に出版した『This is Not My Hat(邦題:『ちがうねん』)』でアメリカで最も権威ある絵本の賞であるコールデコット賞を勝ち取り、北米における若手ナンバーワン絵本作家としての地位を不動のものとします。2016年には、冒頭のリンク先にもあるように、ロンドンのナショナル・シアターで『どこいったん』が子ども向けに舞台化もされました。*8

 それからは毎年のように絵本賞を受賞、いまや今一番勢いのある絵本作家としてその筋で知らぬものはいない人です。日本だと翻訳家の柴田元幸もファンらしく、自分の編集している文芸誌の表紙アートを依頼したり、インタビューも行っています


 以上がまあ、英語版 wikipediaの記事から読み取れる彼の経歴です。

作品紹介

 ジョン・クラッセンの仕事は「おはなしと絵の両方を担当するもの」と「他人の書いたおはなしに絵をつけたもの(いわゆる挿絵)」のふたつに大別されます。後者の作品で邦訳されているものとしては『アナベルとふしぎなけいと』(マーク・バーネット著)、『サムとデイブ、あなをほる』(マーク・バーネット著)、『木に持ちあげられた家』(テッド・クーザー著)、『くらやみ こわいよ』(レモニー・ス二ケット著)あたり。このうちでオススメなのは『くらやみ こわいよ』でしょうか。子供時代に誰もが抱いていた暗闇や蔭への漠然とした恐怖、そしてその恐怖と表裏一体の誘惑をやさしくもクールに描き出した秀作です。
 ちなみに『くらやみ こわいよ』は英語版が kindle化されていて日本のストアからでも買えます。いい大人だけど子持ちに見られるほど年食ってない微妙なお年ごろだったり、絵本は場所を取るからあんまり買いたくないという方は、ぜひこの電子版を検討あれ。絵本なので、英語も簡単ですしね。

The Dark (English Edition)

The Dark (English Edition)


 それはさておきつ。
 挿絵画家としてスタートしたものの、ジョン・クラッセンの本領は「おはなしと絵の両方を担当するもの」にあります。アニメーターであった彼にとって、ストーリーテリングと絵は不可分なのです。
 2016年9月時点でクラッセンが上梓したオリジナル絵本は二冊、『どこいったん』と『ちがうねん』です。邦題の存在が示す通りどちらも邦訳があって、クレヨンハウスから長谷川義史訳で出ています。
 <帽子シリーズ>とでも呼びましょうか、動物たちがステキな帽子にやたら執着するシリーズです。

ちがうねん

ちがうねん

 絵本を文で説明することの不粋を承知でかんたんにまとめますと、
 『どこいったん』は、大事な帽子を紛失してしまったクマがさまざまな動物たちに「帽子をみなかったかい?」と聞き込みを行う探索行。
 『ちがうねん』は大きな魚からステキな帽子を盗んで逃げる小魚の逃避行。
 この二作で、盗られる側と盗る側の心理に両面から迫っているわけですね。

 水彩のタッチでフラットに描かれる動物たちはどこか異質である反面、いい具合に心ない印象で、その雰囲気が可愛らしさとともにおかしみを誘います。

「クマの目を怒らせようかと思ったんだけど、それだと子どもたちにとってショッキングすぎるかもしれない。ウサギの目ももっと可愛くしようとしたけれど、そうするとラストが残酷すぎる…。だからクマの怒りはページを赤くすることで表現して(映画『キル・ビル』みたいに)、ウサギの目はとぼけていて反省の色が見えないようにしたんだ」
東京国際文芸フェスティバル - タイムライン | Facebook

 オチはどちらも残酷無惨*9。とぼけた雰囲気からの落差もあってなかなかショッキングです。
 系統としては、エドワード・ゴーリーとまではいかないものの、『ねないこだれだ』的な幼子心に爪痕を残しつつもクセになる、心根の捻くれた少年少女を育むうえで欠かせない現代のクラシックですね。

 ちなみにこの<帽子シリーズ>は、2016年10月に三作目が発売される予定です。
 タイトルは『We Found a Hat』。
 二匹のカメが偶然見つけたステキな帽子を取り合う話のようですね。日本に来るのがいつになるかわかりませんが、現状の人気であればお目見えするのもそう遠くはないでしょう。

カナダ帽子の謎

 さて、健全な好奇心を持ったおとなであれば、当然次のような疑問を抱くことかと思います。: なぜ、「帽子」なのか。この「帽子」はどこからやってきたのか。
 この素朴なギモンに答えたインタビューはおそらく日本にはない。*10

 それを探るためには、彼が絵本作家デビューする前に作ったコミックにまで遡る必要があります。
 以下はネタバレ、といいますか。

『The Rabbit Mayor』

 僕がそもそもジョン・クラッセンの名と絵を認識しだしたのは『flight』という英語圏のアニメーターやら漫画家やらが集まって作った同人誌? みたいなアンソロジーを読んだ折でした。
 『Flight』の四巻*11にジョン・クラッセンの『The Rabbit Mayor』という短編が掲載されていたのです。
 『The Rabbit Mayor』は南米マヤ族のおとぎばなし「サンダルを投げたウサギ」が基になってます。あらすじを説明しますと:

 〜たのしいマヤ童話「サンダルを投げたウサギ」〜


 昔々、とある森*12にとにかくみんなから憎まれまくっているウサギ市長*13が住んでおりました。


 ある日のこと、怒り心頭に発した動物たちがウサギをブチ殺すために彼の巣穴をとりかこみ、さっさと外に出てくるように脅しつけました。
 うかうかと出ていけば八つ裂きにされるのは必定。この大ピンチを切り抜けるべく、ウサギは一計を案じます。
 彼は言いました。「わかった。でも外に出る前にサンダルを脱ぎたい。脱いだら先に穴の外に放り出すから、受け取ってくれ。そのあと、俺も出て行く」と外のみんなに告げます。


 動物たちは了解し、放り出された物体をキャッチします。実はその「サンダル」と称されたものこそ、ウサギ自身だったのです。が、動物たちは気づきません。動物たちは「サンダル」をそのまま遠くへ投げ捨ててしまいます*14


 そうして、巣穴を凝視する動物たちを尻目にまんまとウサギは脱出に成功しました。


 サンダルに続いて外へ出てこないウサギを不審に思った動物たちは、蛇に内部の様子を探らせます。が、そこは既にもぬけのから。
 騙されたことを知った動物たちは、その責任をお互いなすりつけあった末、血みどろの殺し合いを始めてしまいましたとさ。


 その様子を見たウサギは高らかに笑いながら勝利宣言をしました。
「いつか、お前らは俺に対して行った犯罪のしっぺがえしをくらうだろう。お前らは俺を殺そうとした。しかし、果たせなかった。お前の身にこれから何が起こるか、座して待っておくことだ」


 なんだこの話は、と言われても困ります。こういうなんだからこういう話です。

 コミック短編「The Rabbit Mayor」は2007年の作品。アニメーター時代に描かれました。どういう経緯で彼がマヤの寓話へ行き着いたかはわかりません(上記のウェブサイトは90年代からあるので何かのきっかけで見ていたとしてもおかしくない)が、ほぼ忠実にマヤの寓話をコミカライズしています。
 この作品中では、すでにして後年の絵本作品の原型も見受けられます。

 1. 狡知に長けたウサギが 2.クマやシカなどの鈍重そうな重量級動物を出し抜く。
 という構図は『どこいったん』そのままです。

 で、肝心の帽子は?
 「The rabbit mayor」に帽子は出てきません。
 ウサギと帽子の縁起はこれの前日譚となる「ウサギとシカの帽子」です。

「ウサギとシカの帽子」

 http://www.kstrom.net/isk/maya/rabbit.html より

 長い話なので、要点だけかいつまんで物語ります。

 〜たのしいマヤ童話「ウサギとシカの帽子」〜

 昔々のその昔、ウサギ市長には王様から下賜された立派な枝角が生えていて、彼はそれを「帽子」(Cap)と呼んでいました。
 彼がある日その「帽子」をシカに対して自慢したところ、ウサギの兄弟であるシカが「ちょっと貸してくれよ。俺のほうが似合うだろ」と言い出して強引に奪い取り、そのままどこかへ去ってしまいました。


 唯一無二の宝である「帽子」を奪われたウサギは泣きながら父でもある王様へ訴え出ました。
「新しい『帽子』をください! あとシカに『ちっちゃいお前にこんな立派な帽子は似合わない』とバカにされました。背も伸ばしてください」
 王様は鷹揚にうなずき、「いいだろう。ただし、わしの申し渡すことをやりおおせたらな」
 王様いわく、ウサギがシカと同じくらいの大きさになるには荷駄十五台ぶんの毛皮が必要だというのです。
「それをもってきたら、おまえを帽子のにあう立派な大きさにしてやろう」
「わかりました」


 ウサギは意気揚々と出かけて行き――その日から、動物たちを震撼させる悪鬼羅刹と化しました。


 ウサギは得意の楽器を弾きはじめました。
 そしてその音色につられてやってきた動物たちを言葉巧みにだまし討し、毛皮を剥いだのです。まず犠牲になったのは蛇でした。ウサギはライオン、ワニと屠っていき、最後にはサルとハナグマの群れを奸計によって一網打尽に虐殺しました。


 そうやって、アルマジロに牽かせた荷駄十五台ぶんの毛皮を調達し、意気揚々と王様の御前へ凱旋しました。
「ごらんください、父さま。お約束の毛皮です。これで私の願いを叶えていただけますよね?」
 王様はおどろきました。
「ほんとうに集めてきたのか……」
 そして毛皮を広げてみると、それはワニの皮、ライオンの毛皮、大きな蛇皮、大量のサルやハナグマの毛皮……。
 王様の顔はみるみる怒りに満ちていきました。
「なんという恥知らずだ。たかだが背を伸ばしたいがために自分の兄弟を手にかけてしまうとは」
「しかし王様、これはあなたの……」
「黙れ。こんな小さなからだでこれだけ殺せるというのなら、今より立派な体格を持ったあかつきには、いよいよ兄弟を殺し尽くしてしまうかもしれん。
 そうはさせん。おまえの胴体ではなく、耳を引き伸ばしてやろう。
 おまえはいまや誰よりも大きい。なにせ、おまえより大きな兄弟を皆殺しにしてしまったのだからな。
 願いはかなったのだから、もう二度とここに姿をあらわすな」


 そうして、ウサギは現在のような大きな耳を、シカは枝角を持つようになったのです。


 理不尽な話です。救いのない話です。

 いったいマヤの人たちはこんな寓話で何を伝えたかったのか?


 この寓話を採取したポーラ・ギースの解釈にもとづけば、こうです。
 ウサギに市長(the mayor)という二つ名がついてることに注目しましょう。
 スペイン統治下のマヤにおいて、現地民の集落(プエブロ)の長は権力側の人間であり、同時にマヤの村々を仕切るスペイン政府の代理人でもありました。つまり、この民話におけるウサギとはスペイン人の総督(=「王様」)の元で働くずる賢いマヤ人のメタファーであり、枝角の帽子はスペイン人から与えられた権力のシンボルなのです。
 彼らは「王様」であるスペイン人に気に入られるためにはなんでもします。「帽子」欲しさに「兄弟」たる同胞たちを殺す、といった出来事もあったのでしょう。しかし、その忠節は報われることはありません。スペイン人にとってはどちらも野蛮な土人にすぎないのですから。
 狡兎死して走狗烹らる、という中国発祥*15のことわざが日本にもありますが、この場合は「走兎烹らる」だったわけですね。

 我々の基準からすれば、あまりに理不尽でスラップスティックにすぎるこの動物譚には、マヤ人たちの声にはできぬ悲しい歴史が織り込まれていたのです。


 まったくの余談ですが、アメリカ合衆国にジャッカロープというUMAがおります。ウサギの身体にシカの枝角が生えたハイブリッド生物で、その由来はさだかでありません。ウサギのボディにシカのツノとは、偶然か否か、「帽子」を盗られる以前のマヤのウサギ市長に姿が似ていますね。ジャッカロープは白人入植後に生まれたUMAと言われていますから、先住民たちがマヤ人たちと似たようなメソッドで考案したか、あるいはマヤから直輸入したのかもしれない。そんな仮説を立てたくなります。


 クラッセンに戻りましょう。
 マヤ人が考えたウサギの寓話はいくつか存在するようですが、「サンダル」の話と「帽子」の話はひとつ続き物のようになっており、他の話より結びつきが強いです。クラッセンが「サンダル」の話だけ知っていて、「帽子」の話を知らなかったとは考えにくい。
 その寓意の含むところまで了解していたかは定かでありませんが、彼が「帽子をかぶったずる賢いウサギ」のイメージを持ったのは十中八九、このマヤのウサギの寓話に起源をもつものと思われます。

 そうしてみると、『どこいったん』のクマや『ちがうねん』の大魚が帽子の奪還に強い執着を持つのも納得がいきます。「帽子」とは権力の象徴であり、一旦獲得した以上は他者によって簒奪されるのは耐え難いものなのです。
 
 とにもかくにも被侵略者であるマヤ人の悲劇を意識的にか無意識的にかわからないけれども、子ども向けの絵本にミームとして混ぜこむクラッセン、おそるべし。


*1:シュレック3』のラーマン・ヒュイ、『ヒックとドラゴン』のディーン・デュボア、『ファインディング・ニモ』キャラデザのダン・リーなどを輩出

*2:彼の twitterでの発言から

*3:ライカ制作。この作品が公開された09年までにはDWから移籍ないしフリーになっていたものと考えられる

*4:一見ザリッとラフな、しかしその実、非常に繊細なモデリングがなされた3DCGキャラによる実験的かつリリカルな作風で知られるアニメ監督。短編『THE EXTERNAL WORLD』(http://www.davidoreilly.com/works/#/the-external-world/)でヴェネツィア国際映画祭において受賞経験も。他に『アドベンチャー・タイム』のゲスト監督やスパイク・ジョーンズ監督『her』のアニメ担当(主人公が遊んでるゲーム)などが日本にも入ってきている。

*5:勝手に人の iTunesに頼んでもない曲を押し込んでくるムカつくバンド

*6:未訳。タイトルでググればだいたいどういう感じかわかる。

*7:I want my hat back でググると画像検索でいっぱいパロネタが出てくる。

*8:来年度のナショナル・シアター・ライブのプログラムに入らねえかなあ

*9:『どこいったん』の日本語版は表現がいくぶん和らいでいます。上のインタビューの記事を読むと、むしろ原作の意図を反映した翻訳のようです。

*10:可能性としては雑誌『MOE』の2013年2月号のインタビューにあるかもしれない

*11:たしか元々は『アドベンチャータイム』のスタッフだったティム・ハーピックの短編「Farewell, Little Karla」目当てで買ったように記憶している。こっちもすごく良いですよ。http://herpich.tumblr.com/post/41622685324/farewell-little-karla

*12:原作では洞窟

*13:the mayor。マヤにはこのウサギが他の動物たちにひどいことをする前日譚があり、そのせいでヘイトが高まっていた。おそらく、スペインの手先となって現地でマヤを支配していたマヤ人行政官を象徴している

*14:原作ではキャッチしたあと、うさぎが巣穴にいないことに気づき、キレて投げる

*15:史記

8月に観た新作映画短観

$
0
0

新しい順。


👍『君の名は。』(新海誠監督)

「君の名は。」予告
 いったい我々の前に何度立ちはだかってくるのだ川村元気(と市川南)。
 こういう系は、主観的な心象世界にどれだけ観客を巻き込めるかにかかっていて、すくなくともそれには成功してるんじゃないかな。
 

 
👍『ミュータント・ニンジャ・タートルズ 影』(デイヴ・グリーン監督)

映画『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ アウト・オブ・シャドウズ(原題)』予告編

 前作同様半年したら内容一ミリも憶えられてなさそうな刹那さが塩梅いい。こういうのを観に行く気力を失ってしまった本格的に人間病んでしまうんだとおもいます。なんの話だ。
 新参の使い走り悪役コンビの最低だけど仲睦まじいバディっぷりと最低の底を抜けたバカっぷりがべらぼうにキュート。アクションは主人公がCGアニメキャラな悲しさか、単に作風なのか、けっこうざっくり。序盤のカーチェイスとかその大雑把さがいい味出してるんですけどね。その脱出法は無理だろ、っていうか。
 大雑把さでいえば、敵の組織が自社の監視カメラの映像を主人公サイドに不利なように
 物語面では亀たちが自らの存在について妖怪人間ベムめいた葛藤を抱きますがまあみんなどうでもいいですよね。みんなアホだから悩んでるようでそんな悩んでるように見えないし。とはいえマイケル・ベイのことだし、これで「最近の黒人差別問題について語っているんです!」くらいはどっかでほざいてそう。

 黒人といえば、天才オタク博士を演じるタイラー・ペリー。wikipediaに載ってるくらいの情報しか知らない(黒人向けコメディ映画作って大儲けしてる人くらいの認識)んですがこの人、ほんとに凄腕のコメディアンだったんですね。思い返せば『ゴーン・ガール』のときも、作品全体のトーンに一番ハマっていたのは彼だったのかもしれない。次の待機作はクロエ・グレース・モレッツ主演の難病もの(またか)らしいですが。


👍『ゴースト・バスターズ』(ポール・フェイグ監督)

映画 『ゴーストバスターズ』予告1

 公開前からひと悶着もふた悶着もマイティボンジャックあった作品ですが、ふたを開けてみるとまあソフトなポール・フェイグ映画。
 開幕おもらしザック・ウッズと職業差別へのカウンター通り越してもはや人間失格レベルのクリス・ヘムズワースが最高にチャーミング。レスリー・ジョーンズとケイト・マッキノンに関しては普段『サタデー・ナイト・ライブ』でのほうがまだはっちゃけて見えた。
 SNLも二人の資質からすると(特にマッキノンは)まだ抑えているだと思うので、R指定作品でどこまでやれるのか試して欲しい。
 レスリー・ジョーンズは『トップ・ファイヴ』観るかぎり、もっと幅のある俳優に思えるんですよね。
 エンディング・クレジットは今年随一。

 
👎『X-MEN:アポカリプス』(ブライアン・シンガー監督)

映画「X-MEN:アポカリプス」予告B

 マグニートーさんがまたいじけて家出したので友人総出で説得しに行く話。いってみればアイマスみたいなもんですよ。グループだしね。事務所の関係で出たり出られなかったりするしね。やめらんないしね。ブライアン・シンガー的には僕の考えた最強のイケメン・パラダイスって感じ。
 スカーレット・ウィッチ(だよね?)の雑すぎる処理からして、もうシリーズ幕引きするつもりなのかな、と思いきやまだ続けるつもりらしいですよ?


👎『バットマンキリング・ジョーク』(ブルース・ティム&サム・リウ監督)

Batman The Killing Joke Official Trailer

 原作読んでからこれ見たら、だいたいみんな『映画秘宝』の柳下毅一郎評とおなじ感想を持つんじゃないんですかね。政治的に正しくあろうとすること自体は間違いではないんですが、その努力の方向を間違えてしまった結果、PC的にもコミック的にも失敗してしまった。ハーレクイン生み出したアニメ版のスタッフですし、むべなるかな。


✊『ジャングル・ブック』(ジョン・ファヴロー監督)

映画『ジャングル・ブック』予告編

 アニメ映画板『くまみこ』。
 シャーマン兄弟とかアラン・メンケンのミュージカルがドメインとして使える時点で、ディズニーは圧倒的に強いんですよね。
 ワーナーで作っているとかいうアンディ・サーキス版はどうなるのか。


👍『ペット』(クリス・ルノー&ヤロー・チェイニー監督)

『ペット』日本語吹替え版予告

 沢城みゆきが完全に『マイ・リトル・ポニー』のキチトワイ。ストーリーや世界観の作り込みではディズニー/ピクサーに勝てないことはわかった上でチージーでスラップスティックなギャグアニメを量産するイルミネーション・スタジオの戦略はそれはそれで応援したいです。
 とはいえ彼らにも人並みの芸術的野心はあるらしく、『銀河ヒッチハイクガイド』の監督を迎えた『シング』はどうなるのか。


👍『殺されたミンジュ』(キム・ギドク監督)
 奴隷はなぜ奴隷であるかを説く資本主義残酷物語。プラス『ヨブ記』。
 かぎりなく意図的であろうチープな画面は見続けるうちに慣れで解決できますが、問題は一本調子な語り口で、ギドクなりにアクセントはつけてくれるもののやはり似たような挿話が六回続く展開は間延びします。が、その素っ気なさや飽和感こそがまさにこの映画の狙うところであって、でなければ同じ俳優を(明らかに物語中では別人なのに)似たポジションに何度も登場させるメタ演出など使わないでしょう。*1


 
 

*1:観てるあいだは「韓国人イケメン俳優って似たような顔ばっかなせいか、見分けがつかないな」などと思ってましたがそれはともかく。

映画監督の名前から入るネット配信海外ドラマ入門

$
0
0

 Amazonの本格参入により戦国時代と化した海外ドラマ……。
 タイトルがあまりに多すぎるために興味はあってもどれから入ればいいかわからない、という人も多いはず。

 まあ、マジで何観ていいかわかんない人は⇡これ読めばよい感じですが、それはともかく。

 ドラマ選びに迷ったときに一つのとっかかりとなりうるのが「監督」の名前。
 映画に親しんでいる人なら自分の知ってる映画監督の名前を探してみれば、それがひとつの品質保証となりうるかもしれません。
 しかし人類の約半分が知ってるスコセッシやフィンチャーがプロデュースしたドラマであれば宣伝する側も堂々と「あの有名映画監督プロデュース!」と打ち出せますが、映画ファンなら誰でも知ってる名前でも一般に訴求しないクラスとなると途端にまるまり尻尾、後でこっちから調べて「え? あのドラマ、この監督がやってたの!?」と驚くことも少なくありません。

 というわけで、こっちで勝手にがんばって一覧表を作ってみました。

 映画監督の名前を知らないと使えないリストなので、何が入門だコラというクレームがつくやもしれませんが、そんなことは知るか、俺だって知らない名前がいっぱいいるんだ!! 普段ドラマ監督でごくたまに映画作ってるやつとか、90年代にちょっと映画作ってドラマ落ちしたやつとか!!!
 抜けも間違いも多いと思います。ご了承ください。



*特に注意書きがない場合、基本的にエグゼクティブ・プロデューサー+第一話監督なことがほとんどです。
*こっちで勝手にそれなりに名の通ってるであろう監督を選んで、太字にしました。
*ドラマはおおむね、クリエイター(企画に相当)>メインのプロデューサー(第一話監督を兼ねる事が多い)>各話ディレクター>ただのプロデューサー(監督回がない場合が多い)の順で作品に深く関わっています。たぶん。


f:id:Monomane:20160907163234p:plain

NETFLIXオリジナル

『ハウス・オブ・カード/野望の階段』(2013〜継続中)→デヴィッド・フィンチャー(『セブン』、『ファイト・クラブ』、『ゴーン・ガール』他)
その他映画人:エリック・ロス(『フォレスト・ガンプ』や『ベンジャミン・バトン』などの脚本家*1)、ボー・ウィリモン(本作の事実上の責任者であるクリエーター。映画界では過去にジョージ・クルーニー監督作『スーパー・チューズデー〜正義を売った日〜』の原作・脚本を務める)

『センス8』(2015〜継続中)→ウォシャウスキー姉妹(本作の共同クリエーター、第一話をはじめとしてシーズン1の七話分を監督。『マトリックス』シリーズ等)

『Love』(2016〜継続中)→ジャド・アパトー(『40歳の童貞男』、『ステキな人生の終わり方』他)

『リッチー・リッチ』(2015〜同名ドラマのリメイク)→ブライアン・ロビンズ(本作のクリエーター。『シャギー・ドッグ』『陽だまりのグラウンド』他)

『ナルコス』(2015〜継続中)→ジョゼ・パジーリャ(『エリート・スクワッド』、『ロボコップ(2016年版)』他)
その他:クリエーターはクリス・ブランカトー(『スピーシーズ2』の脚本家)やダグ・ミロ(『プリンス・オブ・ペルシャ』、『魔法使いの弟子』の脚本家)

『ストレンジャー・シングス』(2016〜継続中)→ショーン・レヴィ(『ナイト・ミュージアム』シリーズ、『リアル・スティール』他)

『ゲットダウン』(2016〜継続中)→バズ・ラーマン(『ロミオ+ジュリエット』、『ムーラン・ルージュ』、『華麗なるギャツビー』他)
 その他:キャサリン・マーティン(『ムーラン・ルージュ』『華麗なるギャツビー』の衣装デザイナー)、NAS(本作でリリックを担当。ラッパー。たまにセガール映画とかに出てる)

『ヘムロック・グローヴ』(2013〜2015)→イーライ・ロス(『ホステル』、『ノックノック』、『グリーン・インフェルノ』他)
その他:デラン・サラフィアン(エグゼクティブ・プロデューサー、複数話監督。『ガンメン』、『ターミナル・ベロシティ』他監督)

『Splatter』(2009、日本未配信)→ジョー・ダンテ(全話監督、『グレムリン』シリーズ、『ピラニア』、『スモール・ソルジャーズ』他)

他社制作なものの配信はネトフリ限定

『デレク』(2012-2014)→リッキー・ジャーヴェイス(クリエーター、全話監督・脚本・主演。『ウソから始まる恋と仕事の成功術』、『スペシャル・コレスポンデンツ』など)

『ボルジア 欲望の系譜』→バリー・レヴィンソン(監督回はなし。『レインマン』など)

『ウーナとババの島』→トム・ムーア(『ケルツの秘密』、『ソング・オブ・ザ・シー』)

『スクリーム』(同名映画のドラマ化)→ウェス・クレイヴン(監督回はなし。最近亡くなりましたんで、そらね。R.I.P.
 備考:タイ・ウエスト、ティム・ターナー(両者複数回監督。→『ウェイワード・パインズ』を参照)

『シャドウハンター』→マックG(『チャーリーズ・エンジェル』シリーズ、『ターミネーター4』など)

フロム・ダスク・ティル・ドーン』(2014~、日本未配信、同名映画のドラマ化)→ロバート・ロドリゲス(クリエーター。『デスペラード』、『マチェーテ』、『シン・シティ』シリーズなど)

『Southcliff』(日本未配信)→ショーン・ダーキン(クリエーター、全話監督。『マーサ、あるいはマーシー・メイ』)

予定

『Godless』(2016)→スティーヴン・ソダーバーグ(本作の共同クリエーター。『トラフィック』、『オーシャンズ11』シリーズ、『エリン・ブロコヴィッチ』他)、スコット・フランク(本作の共同クリエーター。『誘拐の掟』、『ルックアウト 見張り』の監督。元は脚本家で『アウト・オブ・サイト』や『マイノリティ・リポート』、『ウルヴァリン:SAMURAI』などを担当)

『Green Eggs and Ham』(2018、ワーナー、アニメ)→デイヴィッド・ドプキン(『シャンハイ・ナイト』、『ジャッジ 裁かれる判事』)
 その他:エレン・デジェネレス(本作のクリエーター。『ファインディング・ニモ』のドリーの声優)

『Anne*2』(2017)→ニキ・カーロ(一話監督のみでプローデュースはしない? 『スタンドアップ』、『マクファーランドUSA』他)

『The Crown』(2016)→ステファン・ダルドリー(第一話監督のみ?、『リトル・ダンサー』、『めぐりあう時間たち』、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』他)
 その他:ピーター・モーガン(本作のクリエーター。『クイーン』、『フロスト/ニクソン』の脚本家)

『Dear White People』(2017)→ジャスティン・シミエン(クリエーター。2014年の同題映画作品のドラマ化)

『Easy』(2016)→ジョー・スワンバーグ(本作のクリエーター。『ドリンキング・バディーズ』他)

『Friends From College』(未定)→ニコラス・ストーラー(本作のクリエーター。『ネイバーズ』、『あこがれのウェディング・ベル』他)

『Gypsy』(未定)→サム・テイラー=ジョンソン(第一話+二話監督。『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのアイツ』、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』)

『Lost in Space』(未定、同名映画のリメイク)→ニール・マーシャル(第一話監督? 『ディセント』、『センチュリオン』等)

『Maniac』(未定)→キャリー・フクナガ(本作のクリエーター。『ビースト・オブ・ノーネーション』、『ジェーン・エア』等)
その他:ジョナ・ヒルエマ・ストーン(どちらも本作の主演でエグゼクティブ・プロデューサー)

『Mind hunter』(2017)→デヴィッド・フィンチャー
 備考:シャーリーズ・セロン(本作のエグゼクティブ・プロデューサー。俳優。『マッドマックス 怒りのデスロード』『ヤング≒アダルト』など)、ジョー・ペンホール(本作のクリエーター。『Jの悲劇』、『ザ・ロード』の脚本)

『Ozark』(2017)→ジェイソン・ベイトマン(本作ではエグゼクティブ・プロデューサー、監督、主演の三役を兼任。主に俳優だが、監督としては『バッドガイ 反抗期の中年男』など)

『Santa Clarita Diet』(2017)→ドリュー・バリモア(主演も兼任。俳優・プロデューサーが主だが監督しては『ローラーガールズ・ダイアリー』)

『Paranoid』(2016)→マーク・トンデライ(一話監督? 『ボディ・ハント』、『監禁ハイウェイ』)

『Watershed Down』(2017、アニメ、『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』のリメイク)→ノーム・ムロ(監督のみ? 『300/帝国の逆襲』など)

f:id:Monomane:20160907163426p:plain

Hulu

日本未配信

『Up to Speed』(2012)→リチャード・リンクレイター(クリエーターも兼任? 『ビフォア』シリーズ、『スキャナー・ダークリー』、『六歳のぼくが大人になるまで』他)

『Resident Advisors』(2015〜)→エリザベス・バンクス(監督や脚本などは担当していない。チョイ役で出演も。『ピッチパーフェクト2』)

『カジュアル』(2015〜継続中、日本ではAmazonの配信サービスで販売中)→ジェイソン・ライトマン(S1とS2の一話二話監督も兼任。『ジュノ』、『マイレージ、マイライフ』、『ヤング≒アダルト』他)

『The Confession』(2011)→キーファー・サザーランド(クリエーターと主演も兼任。主に俳優だが、監督としては『要塞監獄 プリズナー107』)

『11/22/63』(2016)→J.J.エイブラムス(監督回はなし。『スーパー8』、『スター・ウォーズ:フォースの覚醒』、『M.I: III』他)
 備考:ケヴィン・マクドナルド(第一話監督のみ。『ラストキング・オブ・スコットランド』、『ブラック・シー』など)、ジェイムズ・フランコ(主演と第六話監督。俳優が主だが、監督としては『Child of God』など)

『A Day in the Life』(2011、ドキュメンタリーシリーズ)→モーガン・スパーロック(『スーパーサイズ・ミー』等)

予定

『The Warriors』(未定、映画『ウォリアーズ』のドラマリメイク)→ルッソ兄弟(クリエーター? 『キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー』、『シヴィル・ウォー/キャプテンアメリカ』等)


f:id:Monomane:20160907163354p:plain

Amazon Prime

『ハンズ・オブ・ゴッド』→マーク・フォスター(一話二話監督兼任。『007/慰めの報酬』、『ワールド・ウォーZ』など)

モーツァルト・イン・ザ・ジャングル』→ロマン・コッポラ(クリエーターと複数話監督兼任。『チャールズ・スワン三世の頭ン中』等監督。『ダージリン急行』や『ムーンライズ・キングダム』等で脚本)
備考:ジェイソン・シュワルツマン(クリエーターとちょい役も兼任。俳優)、ポール・ワイツ(第一話二話監督。『アバウト・ア・ボーイ』、『アメリカン・パイ』、『アドミッション -親たちの入学試験-』などを監督)

『Betas』(2013-2014)→マイケル・レーマン(第一話を始めとした複数回監督。『ヘザース』、『アップルゲイツ』、『好きと言えなくて』など)

『レッド・オークス』(2014〜)→デイヴィッド・ゴードン・グリーン(S1第一話、第二話、最終話監督も。『スモーキング・ハイ』、『セルフィッシュ・サマー』など)
 備考:スティーヴン・ソダーバーグ(共同クリエーター。同作での監督回はなし。)、グレゴリー・ジェイコブス(共同クリエーター。全話で共同脚本。映画監督としては『マジック・マイクXXL』)

日本未配信

『The Man In th High Castle』→リドリー・スコット(監督回はなし。『ブレードランナー』、『エイリアン』、『オデッセイ』等)
 備考:ブラッド・アンダーソン(第七話監督。主にテレビ監督だが、映画には『マシニスト』など)

予定*3

『One Mississippi』(2016)→ディアブロ・コーディ(共同クリエーター。映画監督作は日本未公開の『Paradise』。脚本家としては『ヤング≒アダルト』、『ジュノ』、『ジェニファーズ・ボディ』ほか)

『Crisis in Six Scenes』(2016)→ウディ・アレン(クリエーター、脚本、監督、主演。『アニー・ホール』、『ブルージャスミン』、『マッチポイント』他多数)

『Sneaky Pete』(未定)→セス・ゴードン(『モンスター上司』、『ヤバイ経済学』ほか)

『ザ・ラスト・タイクーン』(2017)→ビリー・レイ(クリエーターと複数回監督兼任。映画監督としては『ニュースの天才』、『シークレット・アイズ』。脚本家としては『ヴォルケーノ』、『フライトプラン』、『キャプテン・フィリップス』、『ハンガーゲーム』ほか)

『Tom Clancy's Jack Ryan』(未定)→マイケル・ベイ(『トランスフォーマー』シリーズなど)

『Buckaroo Banzai』(未定)→ケヴィン・スミス(『クラークス』、『チェイシング・エイミー』、『Mrタスク』など)

『The Departed』(未定。映画『ディパーテッド』のドラマリメイク、つまり『インターナルアフェア』のリメイクのリメイク)→マーティン・スコセッシ

他にパイロット版が多数あるんだけど、多すぎてめんどくさい。

ケーブルTV系列(めんどくさいので2010年以降かつ上記三つの日本版VODで観られるもののみ)

『ナイト・マネジャー』(2016、BBC&AMC、Amazonで視聴可)→スザンネ・ビア(全話監督。『ある愛の風景』、『未来を生きる君たちへ』、『真夜中のゆりかご』など)

ウォーキング・デッド』(2010〜、AMC、Huluで視聴可)→フランク・ダラボン(クリエーター。『ショーシャンクの空に』、『ミスト』など)
 備考:ジェニファー・リンチ(複数回監督)

『THE TRUE DETECTIVES』(2014〜継続中、HBO、Huluで配信中)→キャリー・フクナガ(S1全話監督)
 備考:ジャスティン・リン(S2一話二話監督。『ワイルド・スピード』シリーズ、『スター・トレック:ビヨンド』など)ジョン・クロウリー(S2第五話ならびに最終話監督。『BOY A』、『ブルックリン』など)、ミゲル・サポチニク(S2第六話監督。『レポゼッション・メン』)、ヤヌス・メッツ(S2第三話監督。『アルマジロ アフガン戦争最前線基地』)

『エンパイア:成功の代償』(2015〜継続中、FOX、amazonで購入可)→ダニー・ストロング(共同クリエーター、複数回監督・脚本。監督として『Rebel in the Rye』、脚本家としては『大統領の執事の涙』、『ハンガー・ゲーム FINAL』、『ゲーム・チェンジ 大統領選を駆け抜けた女』など)、リー・ダニエルズ(共同クリエーター、複数回監督・脚本。『プレシャス』、『大統領の執事の涙』など)
 備考:ジョン・シングルトン(S1第五話監督。『ボーイズ’ン・ザ・フッド』、『ワイルド・スピード2』など)、サナー・ハムリ(複数回監督。『旅するジーンズと19歳の旅立ち』、『恋のスラムダンク』など)、クレイグ・ブリュワー(S2第三話監督。『ハッスル&フロウ』など)、シルヴァン・ホワイト(S2第七話監督。『ラストサマー3』、『ルーザーズ』など)

『ホロウ・クラウン/嘆きの王冠』(2012〜、BBC、huluで配信中)→サム・メンデス(監督回はなし)
 備考:ルパート・グールド(S1『リチャード二世』全話監督。『トゥルー・ストーリー』)、リチャード・エア(S2『ヘンリー四世』全話監督。『あるスキャンダルの覚え書き』など)、シア・シャーロック(S3『ヘンリー五世』全話監督。『世界一キライなあなたに』)、ドミニク・クック(S4『ヘンリー六世』、S5『リチャード三世』全話監督。17年にイアン・マキューアン『初夜』が原作の『On Chesil Beach』で映画監督デビュー予定)

『プリーチャー』(2016〜、AMC、Amazonで配信中)→セス・ローゲンエヴァン・ゴールドバーグ(共同クリエーター、第一話二話共同監督および共同脚本。ローゲンは主に俳優だが、ゴールドバーグとタッグを組んだ共同監督作に『ディス・イズ・ジ・エンド』や『The Interview』などがある)

『ボードウォーク・エンパイア』(2010-2014、HBO)→マーティン・スコセッシ(『グッドフェローズ』、『キング・オブ・コメディ』、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』ほか)
 備考:テレンス・ウィンター(クリエーター。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』などの脚本)

ウェイワード・パインズ 出口のない街』(2015〜継続中、FOX、複数サイトで配信)→M・ナイト・シャマラン(『シックスセンス』、『アンブレイカブル』、『ヴィジット』ほか)
 備考:ジェームズ・フォーリー(S1第五話監督。『ハンニバル』、『コンフィデンス』など)、ティム・ハンター(S1第八話監督。『ザ・コレクター』、『コントロール』など)、タイ・ウエスト(S2 最終話含む複数話監督。『キャビン・フィーバー2』、『サクラメント 死の楽園』など)、ジェニファー・リンチ(S2第八話監督。『ボクシング・ヘレナ』、『サベイランス』など。デヴィッド・リンチの娘)、ジョン・クロキダス(S2第三話監督。『キル・ユア・ダーリン』など)、ブラッド・ターナー(S2第二話監督。『スピーシーズ3』など)、ヴィンチェンゾ・ナタリ(S2第六話監督。『キューブ』『カンパニーマン』)

『ファーゴ』(2014〜継続中、FX、複数サイト)→コーエン兄弟(監督回はなし。同名の監督作のドラマ化。『ノーカントリー』、『トゥルー・グリット』、『ビッグ・リボウスキ』など)

ダウントン・アビー』(2010-2015、ITV、複数サイト)→ジュリアン・フェロウズ(クリエーターと全ての回で脚本。映画界では『孤独な嘘』などを監督、脚本家としては『ゴスフォード・パーク』など)

『ザ・ラストシップ』(2014〜継続中、TNT、複数サイト、huluなど)→マイケル・ベイ(監督回はなし)

『ブラック・セイルズ』(2014〜継続中、huluなど)→マイケル・ベイ(監督回はなし)

『シリコン・バレー』(2014〜継続中、HBO、Huluで配信)→マイク・ジャッジ(共同クリエーター&複数回監督・脚本。『ビーヴァス&バットヘッド ザ・ムービー』、『26世紀少年』など)

スパルタカス』(2010〜2013、Starz、今はどこも配信してない?)→サム・ライミ(監督回なし。『死霊のはらわた』シリーズや『スパイダーマン』シリーズなど)

『アメリカン・ホラー・ストーリー』(2011〜、FX、複数サイトで視聴可)→ライアン・マーフィー(クリエイター、S1とS4第一話監督。『食べて、祈って、恋をして』など)*4
 備考:ジェイムズ・ウォン(S2S4で脚本とエグゼクティブ・プロデューサー。『Dragonball Evolution』『ファイナル・デッドコースター』など)、マイケル・レーマン(複数シーズンで複数回監督)、アルフォンソ・ゴメス=レホン(複数シーズンで複数回監督。『僕とアールと彼女のさよなら』)

死霊のはらわた リターンズ』(2015〜、同名映画の続編、Starz、Huluで配信中)→サム・ライミ

ガールフレンド・エクスペリエンス』(2015〜、同名映画のドラマ化、Starz、アマゾンで配信中)→スティーヴン・ソダーバーグ(監督回なし)
 備考:エイミー・サイメッツ(クリエーター、全話脚本、複数回監督。映画監督作はいくつかあるものの、いずれも日本未紹介。俳優として『サプライズ』などに出演)

『コミ・カレ!』(2009〜2016、amazonで購入可)*5*6ルッソ兄弟(複数回監督)
 備考:ジム・ラッシュ(複数回監督、レギュラー出演も。『プールサイド・デイズ』監督。脚本家として『ファミリー・ツリー』でアカデミー脚本賞受賞)、ジャスティン・リン(複数回監督)、デューク・ジョンソン(ストップモーションアニメ回を複数回監督。『アノマリサ』の共同監督)、セス・ゴードン(s1第十話監督)

ストレイン 沈黙のエクリプス』(2014〜、FX、amazonで購入可)→ギレルモ・デル・トロ(『パシフィック・リム』、『パンズ・ラビリンス』など)

『シャナラ・クロニクルズ』(2016〜、MTV、amazonで購入可)→ジョン・ファヴロー(監督回なし)
 備考:ジョナサン・リーベスマン(第一話監督。『世界侵略:ロサンゼルス決戦』など)、ブラッド・ターナー(複数回監督)

未配信、未定枠

『The knick』(2014〜、日本未配信)→スティーヴン・ソダーバーグ(全話監督)

ツイン・ピークス』(2017〜、同名ドラマの続編)→デイヴィッド・リンチ(『インランド・エンパイア』、『マルホランド・ドライブ』など)

『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件』(2016〜、FX、日本ではスターチャンネルで放送予定なのでその後VODに?)→ライアン・マーフィー(クリエイター、S1第一話と最終話含む複数回監督)
 備考:スコット・アレクサンダー&ラリー・カラゼウスキー(エグゼクティブ・プロデューサーと複数回脚本。『エド・ウッド』、『ビッグアイズ』などの脚本家コンビ)


余談

・あらすじやキャストなどは各自でググッてください。だいたい、「この監督がやるならこういう感じの話なんだろうな」のイメージの範囲内だと思います。たまーにショーン・レヴィがレトロなホラー(『ストレンジャー・シングス』)やってたりなどしていますが。


・脚本家ドリヴンだと『ゲームズ・オブ・スローンズ』のデヴィッド・ベニオフ、『スリーピー・ホロウ』のアレックス・カーツマンとかがクリエイターやってますね。


・もちろん日本に入ってきてないやつで映画監督がプロデュースしてるのはまだあって、個人的に一番観たいのはフィル・ロード&クリストファー・ミラーの『Brooklyn 9-9』(2013)と『The last man on Earth』(2015)ですかね。


・2010年以前の、ちょっと前のドラマを観ていると、今は一線級で活躍している映画監督の下積み時代やベテラン監督の余技みたいなんがゲスト監督として出てきたりしてます。そういうのを楽しみしていってもいいかも。
 ブレイキング・バッド(どこでも観られる)のライアン・ジョンソン(『ルーパー』、『スター・ウォーズ:エピソード8』)とか、『ザ・オフィス』(ちょっと前までhuluで観られたのに今はどこにもなくて悲しいね)のポール・フェイグ(『ブライズメイズ』『ゴースト・バスターズ(2016年版))やケン・クワピス(『ロング・トレイル』)やハロルド・ライミス(『恋はデジャ・ヴ』、『アナライズ・ミー』など)やマーク・ウェブ(『(500)日のサマー』、『アメイジングスパイダーマン』)やジェイソン・ライトマンジョス・ウェドン(『アベンジャーズ』シリーズ)やJJエイブラムスやジョン・ファヴロー(『アイアンマン』、『ジャングルブック』など)とか、アレステッド・ディベロップメント(ネットフリックスで観られる)の二番手三番手のレギュラー監督としてルッソ兄弟やポール・フェイグやグレッグ・モットーラ(『スーパー・バッド 童貞ウォーズ』『宇宙人ポール』など)とか、なんかコメディばっかだな。


 そうそう、出世魚コメディといえばもはや90年代だけど『フリークス学園』(ネットフリックスで観られるようになりました)を忘れちゃいけません。
 クリエーターにポール・フェイグ、プロデューサーにジャド・アパトーを迎えたこの作品はケン・クワピスやジェイク・カスダン(『セックステープ』や『ジュマンジ(2017年版)の監督。ちなみにスター・ウォーズ脚本家のローレンス・カスダンの息子)らが複数回監督を務め、俳優陣からはジェイムズ・フランコセス・ローゲンジェイソン・シーゲル、リジー・キャプラン(四話くらいだけど)、マーティン・スター、ジョン・フランシス・デイリー(『モンスター上司』の脚本や『おバカンス家族』の監督脚本)、ベン・フォスター(一話だけだけど)、ジェイソン・シュワルツマン(一話だけだけど)、シャイア・ラブーフ(一話だけだけど)といった今30〜40代でノリにのってる人々を多数輩出。ベン・スティラーもちょっとだけ出てるよ。
 『フリークス学園』から発生? したのがジャド・アパトーを中心とする「アパトー・ギャング」で、今や米国コメディ映画界は彼らによって支配されているといっても過言ではないわけですが、そこらへんは長谷川町蔵の『21世紀アメリカの喜劇人』に詳しいです。

 

*1:『ハウス・オブ・カード』での脚本担当はなし

*2:モンゴメリーの『赤毛のアン

*3:いくつかは日本でパイロットを放送済

*4:っていうかこの人は『glee』の人ですよね。世間的には

*5:厳密には2010年代開始ではないのでルール違反だけど、今のルッソ兄弟を語るのに欠かせないドラマなのでいれといた

*6:っていうか、『コミカレ』のクリエーターであるダン・ハーモンとその派閥については後述のアパトーギャングに匹敵するくらい重要だと思うので、どこかでまとめたいですね

ヤングアダルト小説家に転向したアメフト選手と『Ballers/ボウラーズ』の話。

$
0
0

『Ballers』

 現在 Hulu で絶賛配信中のドウェイン・ジョンソン主演『Ballers/ボウラーズ』がおもしろい。
 アメリカン・フットボールの元スター選手が引退後に投資会社の下っ端営業(現役フットボーラー狙い)に身をやつして四苦八苦する30分コメディです。アメフトとか全然知らないんですけどね。

海外ドラマ『Ballers/ボウラーズ』予告編

 NFLといえば、世界のアスリートの年収ランキング上位百人において四大スポーツ(野球、バスケ、アメフト、アイスホッケー)のうち最多である三十人を輩出する花形競技*1であり、平均年俸二百万ドル*2、トッププレイヤーともなれば年千万〜五千万ドルはざらに稼ぐ世界です。

 『Ballers』に出てくる選手たちの生活もめちゃめちゃリッチ。プールやホームシアター付きの豪邸に住み、高級車を駆り、意味もなく象を買ったり、サメを買うための巨大水槽を設置したり、セクシーな美女たちをはべらせてパーティ三昧したりと毎日がお祭り騒ぎです。
 そこへきて、彼らに群がるいわゆる「取り巻き」連中に毎日おこづかいをばらまくようだと、いくら収入があっても足りません。現役時代に五千万ドル稼いだプレーヤーでも、引退するときにはスッカラカンなんてことも珍しくない。


 『Ballers』ではそんなNFLプレーヤーたちの光と影が描かれます。
 主人公のドウェイン・ジョンソンからして、現役時代にそういう無茶な生活をしていたのか、預金口座には2000ドルも残っていないという有様。しかも「ラインバッカーの50%がかかる」*3と言われる脳震盪の後遺症にも悩まされています。*4

 彼の元同僚は金にこそ困っている様子はないものの、車の販売員という退屈な日常に耐え切れません。むなしさから、ついつい行きずりの女との不倫に走ってしまいます。

プロスポーツ選手の第二の人生

 スポーツ選手のセカンドキャリアはたびたび日本でも話題にのぼりますね。
 日本代表歴のある元サッカー選手がメロンパンの移動販売をはじめたりとか、巨人軍の中継ぎエースだった選手が修行してさぬきうどん店を開いたりだとか、200勝を達成したメジャーリーグの大投手がゲーム会社を立ち上げてあっというまに倒産したりだとか、高卒新人のシーズンホームラン記録を樹立したバッターが覚せい剤で捕まったりだとかシャブで捕まったりだとか白い粉で捕まったりだとか。
 ある程度活躍したプレーヤーであれば、コーチやスポーツニュースの解説者を目指すのが日米問わず、どんなスポーツでもポピュラーなようです。


 日本のプロスポーツだと一番高給取りのプロ野球選手でも引退後の生活は安泰とはいかないの現状みたいです。が、アメリカの四大スポーツのレギュラーなら『Ballers』みたいに無駄づかいさえしなければ(一部の選手は蕩尽してさえ)、その後一生働かずとも食うに困りません。

 しかし、問題は金ばかりじゃない。一日一日が火花を散らす刺激的な勝負の連続であった日常から解放されて、ふとオフが日常になってみれば、何をやってみたらいいのかわからない。
 テレビをつければ、つい数カ月前まで自分がプレイしていたはずのフィールドで、顔なじみの友人たちがいきいきと激闘を繰り広げている。なぜ自分は今そこにいないのか。いるべきなのに。いられたはずなのに。それまで属していた社会やシステムから切り離されたときに、ふとおぼえる孤絶感。


 NFLの元選手トレヴァー・プライスは『ニューヨーク・タイムズ』紙に、そうした引退後の生活についての髀肉の嘆めいたエッセイを寄せました。

 愛する現役生活から私は退いた。行きつけレストランの指定席みたいに心地よいスタジアムからも退いた。なにより、NFLの同志愛から引退した。さよならだ。いまや、よそものの気分だ。


 Log In - The New York Times

カエルの冒険ファンタジー小説を書くアメフト選手

 で、そのトレヴァー・プライスの話です。
 身長198センチ、体重130キロの堂々たる体躯の現在四十一歳。

f:id:Monomane:20160910100650p:plain

 若い頃から将来を嘱望され、クレムゾン大とミシガン大を経て1997年にNFLドラフト一位*5デンヴァーブロンコスに入団。そこでディフェンシブ・エンドとして二年目からレギュラーを勝ち取ると、守備の要として1999年と翌2000年のスーパーボウル(要するにアメフトの全米チャンピオンシップ)二連覇に貢献します。その後、移籍先のボルティモア・レイヴンズでもリーグナンバーワンの守備陣を築き上げ、2010年のオフシーズンに引退。
 オールスター・ゲームに相当するプロボウル*6にもキャリアを通じて四度選出されました。立派なスタープレイヤーといっていいでしょう。デンヴァーボルティモアの英雄として、スポーツニュースの解説役に収まる資格は十分あったはずです。


 ところがトレヴァー・プライスは第二の人生に作家の道を選びました。ただの作家ではありません。彼は少年少女向けの、いわゆるヤングアダルト小説を書き始めたのです。
 
 それが先日 Netflixで配信が開始されたアニメ『クリパリ:カエルの戦士』の原作、『Kulipari: Army of Frogs』です。

Kulipari: An Army of Frogs, a Netflix Original Series trailer

 オーストラリア大陸を舞台にアボリジニ文化を反映した、ちょっと個性的なこのファンタジー冒険物語は、2013年に出版されるや話題を呼び、現在までに十万部を売り上げるベストセラーに。すでにモバイルアプリやおもちゃも売れまくっていて、なぜかアンダーアーマーで公式Tシャツまで販売されています。
 アニメのファースト・シーズン十三話放映後には、続編となるコミックが出版される予定だとか。もはや立派なフランチャイズですね。

NFLのスターが小説家になるまで

 私は Netflixで『クリパリ』を知り、後からその原作者であるプライスの存在に行き当たりました。
 彼の経歴を知るにつけ、素朴な疑問が頭をもたげます。

 なぜ、NFLの選手がヤングアダルト作家になったのか。
 もちろん、セカンドキャリアとしてメロンパン屋になろうがメロンパンナちゃんになろうがそれは個人の自由で、ましてやプライスは『Ballers』のドウェイン・ジョンソンと違って現役時代の莫大な年俸の資産運用に成功しているようですから、選ぶだけならなんだって選べたはずです。
 にしてもなぜカエルの話なのか。アメフトから一番遠いところにありそうな、子ども向けファンタジー小説なのか。


 もののインタビューによれば、現役時代の元同僚たちからはこの転身を意外には思われなかったそうです。元来クリエイティブな面があって、プライスもそれを隠さなかったらしい。
 ホントかよ、とまゆにつばのひとつもつけたくなりますが、根拠がなかったわけではありません。
 もともとプライスは現役時代から自前のレコード会社を立ち上げており(現在では手放している模様)、エンタメ産業への志向を示していたのです。
 古巣デンヴァーブロンコスからボルティモアへ移籍した06年ごろから、彼はハリウッドに映画の企画を持ちこみはじめます。ソニー・・ピクチャーズに提案したという「ふしぎな光を浴びた男が、歩く百科事典と化す話」をはじめとした複数の企画をプレゼンしたものの、ハリウッドの知的エリートたちの反応はひややかでした。「脳みその足りないジョックス風情が何をしにきたんだ」とばかりに門前払いを食らわせられます。
 そんな連戦連敗の果てに、唯一生き残った有望そうな企画が『クリパリ』だったのです。フロリダですごした少年時代、姿なきカエルたちの絶え間ない鳴き声に恐怖をおぼえたプライスの体験にインスパイアされたカエルの物語でした。


 当初、プライスは『クリパリ』を映画化するつもりだったそうです。
 が、ハリウッドではどうやら勝ち目がなさそうだ、と悟ったエージェントが小説として出版社に売り込んだことから運命の出目が変わります。
 すぐにテレビアニメ化も決まり、当初の目論見からは外れたもののプライスは「映画にはならんかもしれないが、本とアニメにはなる。すごいじゃないか!」と喜び、執筆にいそしみます。

スーパーボウルを連覇したときを回想して)「あのときのブロンコスには僕以外のクォーターバックもいたし、攻撃陣も活躍した。でも、『クリパリ』は僕だけだ。僕が物語におけるあらゆる決定を下さなきゃいけない。だから、『クリパリ』こそ僕の人生で最高の達成だと言えるわけだ」

Former Raven Trevor Pryce to debut kids series 'Kulipari' on Netflix - Baltimore Sun

 かくして、元アメフト選手によるヤングアダルト・カエル格闘ファンタジー『クリパリ』は世に出たのです。


 元プロスポーツ選手で小説家に転身した成功例となると、まずまっさきに浮かぶのは障害競馬のリーディング・ジョッキーからエドガー賞ミステリ作家へと華麗な変貌を遂げた故ディック・フランシスでしょう。プロスポーツからエンタメ産業へ、というもっと大きな枠で捉えると、俳優として成功した面々が挙げられますが、そういえば、ドウェイン・ジョンソンも元はWWEの名物プロレスラーでしたね。

 プライスがD・フランシスやロック様なみの成功をおさめるかどうかはまだわかりませんが、『クリパリ』の成功を受けてどんどんテレビやコミックの企画が舞い込んでいるようで、夢だったエンタメ産業でのセカンドキャリアを順調に築きつつあるようです。よかったですね。



*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/NFL#.E7.B5.8C.E5.96.B6

*2:参考までに日本のプロ野球の平均年俸は約3700万円。http://jpbpa.net/news/?id=1398668941-847877

*3:劇中でジョンソンの妻がいうセリフですが、ギャグではなく、割りとリアルな数字なようです。http://www.afpbb.com/articles/-/3083666

*4:このへんは昨今のNFLで大問題として騒がれているようで、『コンカッション』というウィル・スミス主演の映画にもなりました。原作のノンフィクションはハヤカワ文庫NFから出ています。

*5:全体二十八位

*6:NFLの一チームあたりのシーズン保有登録選手数は53人で、チーム数は32。そのうちプロボウルに選出されるのは88名なので、全体の約0.05%の選手しか出場できないことになる。

映画『聲の形』と漫画『聲の形』、それぞれのカタチの違いについて。

$
0
0

 『たまこラブストーリー』のころから「山田尚子の闇*1とどう向き合っていくか」という、半径半クリック領域内で共有された問題意識があり、どうしてもそれを無意識に前提として話してしまうので、山尚について何を語っても狂人の妄言めきやしないかという不安があります。
 ともあれ、以下は軽度から強度のネタバレを含みます。

 「では刃ヶ谷先生、永束君の映画の観想をお願いします」

  ――大今良時『聲の形』七巻


映画『聲の形』 ロングPV

贖罪の物語としての漫画版『聲の形』

 映画が始まる。ほとんど不意打ちに近い抽象的な開幕*2から、橋の欄干の上に立ち川へ飛び込もうとする制服姿の主人公、そして小気味の良いモンタージュによって小学生時代を活写したオープニング・シーケンスへ移り、その終わり、主人公たち三人組のなかよし小学生グループ(当時)が大空に向かってスローモーションで飛び上がる快楽的な躍動に満ちた画面に『聲の形』とタイトルが表示される。ここまでほとんどセリフはない。より精確に言えば、モノローグを欠いている。


 あらすじを説明する必要があるので、いちおうあらすじ立てておくと、『聲の形』は小学生時代に耳の聞こえない転校生をいじめて再転校に追い込んだ少年・将也が、聾の少女・梢子をいじめたことを咎められて今度は逆にクラス中からいじめの標的にされ、友人を無くし、少女に対する罪悪感に苛まされながらぼっちとして高校生になり、彼女と再会し、付き合いをふかめていく話。

 約めてしまえば、贖罪の話だ。原罪の話だ。少年は罪悪感から自殺を実行しようとし、少女と再会してからはもはや取り戻せない幸福なはずだった彼女の小学生時代の穴埋めをやろうとする。
 自分が存在することで世界をより悪い場所にしてしまっているのではないか。自分は生きるに値しないどころか、生きていてはいけない人間なのではないか。いますぐ死ぬべきではないのか。そう思い詰めているのは少年だけではなく、少女も同様で、というか、出てくるサブキャラクターも突き詰めればだいたいそんな悩みを抱えている。そんな彼ら彼女らがどうすれば「生きていい自分」を手に入れられるのか。おおかたそういう話であると理解される。大今良時の描いた原作は。

 山田尚子と吉田玲子の監督脚本家コンビが脚色した『聲の形』は、どうも様子が違う。
 冒頭の四分の一を占める小学生時代のパートの演出にまず面食らってしまう。躍動感あふれるオープニング・シーケンスの速度をそのまま殺さず、ピュアな悪意で彩られたいじめのシーンを手早くノリよく処理していく。いじめっ子だった主人公が、いじめられる側に立つと構図が反転するあたりなどは儀式的でありつつもどこか合理的だ。非常に映画的、言ってしまえば、オシャレでポップでさえある。
 原作を読んだ身であれば、そのポップさにとまどう。
 原作『聲の形』の一巻は全体のトーンとくらべても突出して重い。そもそも本作が巷間で認知を得たのは、のちに第一巻のもととなるパイロット版の読み切りが微に入り細を穿つ凄惨な「小学校でおこるいじめの現場」をモノローグを織り交ぜつつ実に実にエモく描ききったからだった。そして、以降はその重すぎるその一話で犯してしまったことをどう償っていくかでキャラクター個々の物語が展開していく。
 いわば、第一巻=小学生時代は贖罪の物語としての『聲の形』の大黒柱ともなるべき超重要シーンだ。映画化にあたっては当然あらゆる手管を駆使して漫画に負けないエモーションの魔術を見せるのであろうと、そう予想されていた。っていうか、原作未読者でも予告編程度のあらすじをあらかじめ聞いていれば、まあそうなるだろうな、と考えるとおもう。
 ところがそうはならない。セリフは必要最低限にとどまり、モノローグもほぼない。原作がいちいち描いていたエピソードを、かろやかにすっ飛ばす。主人公のいじめがクラス会議で告発される段にさしかかってようやく腰を据えて描かれるかと思いきや、やはりあっさり処理されてしまう。*3
 この淡白さはなんだろう。いや、ちゃんといじめのシーンを描いているといえばそう言えるし、あくまで尺の都合でカットしただけだと言われればなるほどそうなのかもしれない。
 担任の先生の傲慢な責任回避っぷりや学級委員長の川井の「どうしてみんななかよくでないのォ」といった、第一巻で印象的だった名シーン名ゼリフが悉くオミットされているのも、サブキャラのサブプロットを一律に削ぎ落とした結果であるのかもしれない。
 小学生時代にかぎらず、メインの二人以外のキャラの描写は軒並み削られている。筋だけ見れば、映画版『聲の形』とは「漫画『聲の形』のエッセンスを伝えるために精妙に限界まで肉抜きされたダイジェスト版」だ。

コミュニケーション縁起としての映画『聲の形』

 でも本当にそうなのか? 本当に映画版は「原作のダイジェスト版」、薄味『聲の形』にすぎないのか?
 違う、何かが違う。原作のプロットをほぼそのままに山田尚子お得意のマテリアルなモチーフ(というか水と橋と落下と花)の反復や反転、そして脚や手元といった身体の部位を極端なクローズアップとときどきロングショットで回していく演出。岐阜にある有名な美術館がモデルになっているシーンとか、オリジナルの場面がないではないけれども、このままいけば大今良時の器量内におさまりそうな――。

 と、終盤、ヒロインの少女に対して、彼女と終始対立関係にある*4元いじめっ子グループの女子があるアクションを行う。原作には描かれていないアクションだ。

 ヒロインへ「バカ」という意味の手話を行うのである。これにヒロインは喜んで? 応じる。おなじく「バカ」と手話で返して。

 映画版『聲の形』で描かれようとしてきたのは贖罪ではなかったのだ、とこの瞬間はじめてわかった。山尚と吉玲が描こうとしてきたのは、コミュニケーション。

 最初から念頭にはあった。コミュニケーションは『たまこラブストーリー』でも『けいおん!』でも重要な位置を占めていたというか、それをどう視覚的に映画的に観客へ伝達するかといった意味ではテーマに等しかった。
 ただ、たまこにしろけいおんにしろ、インフラがある程度整備された状態でキャラたちはコミュニケーションを取っていた。一般的な意味での「コミュニケーションの欠落」は山尚世界にはありえず、『たまこラブストーリー』ではむしろ「情報量が多すぎてコミュニケーション回路がショートした」状態によってある種のディスコミュニケーション状態が出来した。

 ところが、『聲の形』ではそもそも伝達のための手段が器質的あるいは精神的に奪われた状態からスタートする。ヒロインは耳が聞こえず、うまくしゃべれない。主人公は小学生時代のパートが終わるあたりで、社会の関係が「切れた」ことを象徴するために挿入される糸の切断が表しているように、つねに俯きがちで人を顔のある人間として正常に認識できない。最初から糸電話でつながっていた『たまこラ』の二人とは対照的だ。


(注意:以下、映画版と漫画版の両方のラストに言及してます。)


 糸の切れた関係を結い直す物語、といえば『聲の形』はパッケージからして当然主人公とヒロインとの恋愛コミュニケーションの成立を主眼にするはずだろう。ところがle_grand_juran氏の指摘したとおり、そこは見逃せない一部ではあったとしても重点が置かれているようにはみえない。彼の言うように、(いくら尺の切り詰めに迫られていたとはいえ)「主役二人の恋愛的関係の構築」をメインとするなら原作通り主人公がヒロインの手を引いて「あの扉の向こうに何が待っているのかはわからないが、二人ならきっと乗り越えられる!」的なラストに終着したほうがオチとして明確だったはずだ。

 にもかかわらず、映画ではラストを文化祭に置いた。周囲の人間の顔に「☓」印をつけて*5コミュニケーションを拒絶していた主人公が、初めて顔をあげ、耳を澄まし、周囲の人々を人間として直視する。それが映画版のラストシーンだ。それまで比較的感情面では抑え気味だった演出を思いっきりエモへ振り、「世界が拓ける」主人公の感覚を観客へ一瞬で伝播させた監督の手腕は賞賛に値するとおもう。
 あらゆるコミュニケーションは相手を人間として認識することからはじまる。換言すれば、これまでクラスでまともなコミュニケーションを一人だけとってこなかった主人公は人間ではなかったわけで、これはやはり最終的に「人間になる」話なんだろう。
 どうやったら生きていい人間になれるのか、という点では実は原作版との問いに違いはないのかもしれない。*6ただ、原作では各キャラクターが過去のトラウマや自分の人格のダメな部分に向き合って克服する、というサブストーリーが盛り込まれていた。映画版では尺の都合でカットされている部分だ。そうしたサブキャラのサブストーリーを排除することで、物語の焦点はメインの二人に絞られる。
 違和感のあった小学生時代の描写の相対的な薄さもいまならわかる。
 「贖罪」は映画版の主題ではない。

 世界との関係修繕、そしてメイン二人間のコミュニケーションを、映画版では徹底してアクションによって彫琢する。
 小学生時代、主人公がヒロインのノートを溜池へ投げ捨て、それを彼女が拾いに行く。びしょ濡れになった彼女に言い表しきれない感情*7をおぼえながら、主人公はその濡鼠姿に魅入られる。そして次の瞬間には溜池でびしょ濡れになってノートをぶちまけられているのは自分自身になっている。観客すらも気づかぬ間に「ヒロインのいじめっ子時代」から「主人公のいじられっ子」へと飛んでいる。
 構図の反転による重ね合わせ、それも水=鏡による反射といういかにもアレですが、これがひいては冒頭の「自殺を試みる主人公」と花火の日での「自殺を試みるヒロイン」につながってくる。あのシーンでベランダから飛び降りようとしているのは、ヒロインであると同時に主人公自身であって、それを救うことが自分を見殺しにしないことでもある。
 図像的にしろ物理的にしろ肉体の合一は最強のコミュニケーションです。わからない? 『君の名は。』は見ましょう。ひとつの肉体を共有することは、それだけでコミュニケーションであり、恋愛なんです。セックスという見方もありますね。

 そうした類はまあ、あくまで図式的なものにすぎない。もっと直截的な交換描写もある。たとえば、主人公がヒロインと意思疎通するために手話を覚える。手話で話しかける。これは原作の方に明示的に描かれているけれども、他者のことばを半分以下の精度でしか聞き取れないヒロインにとって、ヴァーバルなことばよりも手話のほうがなめらかであたたかい「ことば」として感受される。自分の領域である目(光)をつうじて手話で話しかけてくる健聴者は彼女へ寄り添ってくれる存在だ。
 コミュニケーションは他者理解の基本であり、会話とはコミュニケーションの基礎だ。だが、会話は両者が共通する言語で喋らないとつうじない。相手の言語を学んで話しかけてくる人、というのはそれだけでコミュニケーションを取りたいという態度を示していることになる。だからヒロインは嬉しい。だからヒロインは「好き」といういちばん大事なことばを、相手の領域である言葉(音)によって伝えようとする。
 道具である言語の交換、これもまた同一化の一つのかたちだ。*8メイン二人の間では、コミュニケーションを取ろうとする態度そのものがコミュニケーションとなり得ている。

いろんな形

 この領域侵犯的なコミュニケーションはメイン二人以外の間でも見られる。
 先述した元いじめっ子女子による手話の「バカ」もそうだ。彼女は「ヒロインのことが嫌いだし、たぶんそれは直らないだろう」という旨を宣言している。だから、(ある程度照れ隠しや本人が意識していない好意が混っているにしても)彼女の「バカ」は、字義通りの意味での悪口だ。
 でも、それがヒロインにはちょっと嬉しい。
 元いじめっ子とヒロインはその前に観覧車での決闘じみた対決があった。そこで元いじめっ子は筆談のために差し出されたノートを拒絶して「私はちゃんとゆっくり話してあんたに伝える」と言う。あくまでの自分の領域である声(音)に留まる。さらにいえば、小学生時代にクラス会でヒロインのためにみんなで手話を習いましょう、という運びになったときに一人立ち上がって「あの子は手話のほうが楽かもしれないけど、私は筆談のほうがいい」と敢然と主張した過去もある。彼女は、ヒロインには消して聞こえない声でさんざん悪意をぶつけてきた。
 その彼女が、手話でヒロインに話しかけた。ヒロインの言葉で話した。相手の言語で悪口をぶつける、というのは、現実世界にはなかなか還元しづらいだろうが、しかし『聲の形』ではポジティブな行為として受け止められる。すくなくともヒロインはポジティブなものとして受け止めた。コミュニケーションである、と。
 こうしたシーンをオリジナル描写として挟んでくるところに、今回の映画版スタッフのアティテュードがうかがえる。

 もう一つの例。漫画版と映画版に共通するサブストーリーの一つに「主人公の母親とヒロインの母親との和解」がある。ヒロインの親は娘の人生を破壊した主人公を、ひいては主人公の親をも憎んでいた。原作ではなんやかんのあった末に、母親同士で酒を飲み交わして打ち解けるという梁山泊三国志みたいな描かれ方をしたのだが、映画版ではより「アクションによるコミュニケーション」に拘った。
 主人公の母親は美容師である。彼女の言語はハサミだ。だから、美容師である主人公の母親が客であるヒロインの母親の髪にハサミを入れているシーンをさりげなく挿入した。信頼していない相手には、髪という身体の一部を切らせないだろう、というわけだ。これまでは一方的に誰かを殴りまくるだけだったヒロインの母親の縄張りに、主人公の母親は進出する許可をもらったのだ。
 特に何かわかりやすい和解の描写があったわけではない*9。それを一発で「あ、こいつら仲良くなったんだな」とビジュアルで嫌味なく了解させる。山尚マジック。
 状況説明・心情説明的なモノローグを徹底的に排した映画版だからこその演出だろう。ここまで徹底的されると逆に無声映画というか、アート映画の領域に達しているとおもわんでもないけど。


『聲の形』=『たまこラブストーリー』前日譚説

 こうしたゴッデス山尚のなみなみならぬ深謀遠慮によって「ちゃんと目を見て、話せる」コミュニケーション能力を手に入れた主人公の石田くん。彼とヒロインである梢子がどうなっていくかといえば、これはもう『たまこラブストーリー』ですね。まちがいない。
 原作『聲の形』で終盤に入ってたヒロインの東京行きのエピソードを映画では(主に尺の都合で)カットしました。(主に尺の都合だったんでしょうが)このカットにはある作為が見られます。入院騒動が起こったあとの東京行きといえば? そう、『たまこラブストーリー』です。
 『聲の形』で本来あったはずの「東京行き」エピソードを削るということは、つまり「私たちの『聲の形』は『たまこラブストーリー』へ続きますよ」という映画製作人からのアツいメッセージだったのではないでしょうか。
 要するに、『聲の形』は『たまこラブストーリー』のプリクエルなのです。この二作は合わせて三時間半の前後編なのです。
 切れた糸は繋がって、輝く糸電話での会話が可能になった。
 完全なコミュニケーションの世界。超電導なコミュニケーションの世界。私達のハーモニー。
 ありがとう山尚、ありがとう吉田玲子。山尚をヤマショーって読むと、山風っぽくてステキですよね。
 えらいよねスタッフ。まともに『聲の形』映画化しようとしたら確実に大今良時の器に飲み込まれてしまっていたと思う。それを骨組みはそのままに、自分たちの映画にしてしまった。脚色とは、本来こういう仕事のことを指すのではないでしょうか。
 そのあたりとか、もっと話したいことは尽きません*10が、映画を観終わった興奮をそのままに妄想をつらねるのもなんなので、パンフやインタビューを読んでからにします。

*1:この話について僕に訊かれても困ります

*2:ラストで反復される。「音」と「光」、メイン二人を表象する領域

*3:クラスの副担任? であったはずの喜多という女教師が障害者支援施設からの出向みたいなよくわかんない立ち位置になっていて、それにともなって担任との一部やり取りをカットされている

*4:原作では主人公に好意を描いている設定になっているが、映画では明示的に描かれていないためわかりづらいかもしれない。こういうの、たまこマーケットとたまこラのときにもあったよなあ。もしかして、意識的に摘んでいるのかなあ

*5:これは漫画でも映画でも視覚的に字義通りに表現されている

*6:というかそもそも原作の時点でコミュニケーションを軽視していたかといえばそんなことはなくて、重要な主題のひとつとして組み込まれているとは思う。アプローチの違いなのかもしれない

*7:劇中でキャラたちが催す様々な感情が、まず彼ら自身の口で説明されることはない

*8:同じ言語を喋る人間同士にもこうした交換は起こりうる。「Aが発したあるセリフを、Bが別の場面でそのまま繰り返す」という方法だ。

*9:土下座はしていたけれど、あれはむしろ距離をとらせるタイプのものだろう

*10:特に石田くんのキャラ造形とか、水と落下の反復とか。

「上」か「下」かで生き直す、映画『聲の形』

$
0
0

 『聲の形』の話をするのは二回目ですね。
 本編のあらすじは各種サイトで確認していただけると幸いです。

 以下、かなりヘビーな映画『聲の形』のネタバレを含みます。

 フォーリンラブに至るプロセス
 フォーリンラブに至るプロセス
 ごめん 何にも聞こえません
 空回りから のたうち回り

 ――group_inou『HEART』


 映画『聲の形』についてはつい先日、
 
proxia.hateblo.jp

 で書いたけど、どうも文章のだらりとした散漫さ以上に当を得ていない気がする。
 どうも悔しい。


 感想というのは、極言すれば、すべて私的な復讐戦です。それは必ずしもイヌが出てきて哀れに死んだから悲しく思いました、などといった単純な機構をとらない。作品外の情報や条件が関わってくる場合もある。人にはその立場なりの視点があり、視点の数だけ復讐の火元がある。
 こちらとしては映画版の『聲の形』が私の皮膚にどういう形状の火傷痕を残したのか、その輪郭を知りたい。
 映画『聲の形』のだいたいは、上昇と落下(下降)、見上げと見下ろし、水と橋、声(音)と眼(光)で出来ている。他にも反復されるエレメントやアイテムは数限りないのだけれども、とりあえず今回は置いておこう。

小学生編――見上げる石田、見降ろす硝子


The Who - My Generation

 オープニングからザ・フーの『My Generation』が鳴って小学校編へと切り替わり、そこから西宮登場まではほぼカメラは水平に置かれる。後に何度も出てくる「川への飛び込み」も引いたカメラで横から捉えている。仲良し三人組(石田、島田、映画版では名前出ないけど広瀬)が並んで歩く姿も平面的に描かれる。

 文字通り世界が揺らぐのは、西宮硝子の転向当日だ。予告編にもあったシーンだが、石田が教卓の横に立つ硝子を初めて認識した瞬間、世界が少し傾ぐ。*1シャープペンの芯を必要もなくカチカチと出している様子から、小学生の石田が暇を持て余した落ち着きのない子どもであることが伺える。


 小学校編で目につくのは、石田と硝子の位置関係。関係性でいえば、抑圧者であるいじめる側が被抑圧者であるいじめられる側を見下げる画になるのが自然だと思う。しかし、印象的なシーンではいじめる側である石田がいじめられる側の硝子を見上げることが多い。

 さきほどの転入初日のシーンでも、はっきりと見上げているわけではないものの、机に頬杖をついた状態でふしめがちにシャーペンをカチカチ鳴らしている石田が、立って自己紹介をしている硝子をみやる。

 その後で、川井らが硝子とコンタクトをとっていると、教室の後方でプロレスごっこをしていた石田が机の上にギリギリ目が覗くぐらいの位置にひょっこり頭を出し、硝子を窃視する(この挙措は後に高校生編で長束と一緒に手話教室を訪問したときに再演される)。

 より明確になるのが校庭で「友達になろう」と手話で話しかけてきた硝子に対し、石田は「キモいんだよ」と砂をぶつけるところ。*2このときも石田はしゃがんでいて、直立する硝子を見上げる形になっている。

 数少ない石田が硝子を見下げる構図となる黒板のいたずら書きのシーンでも、途中まで石田が教壇に腰掛けていたのが、硝子が現れるや降りてまた同じくらいの視線の位置に戻る。*3

 石田が本格的に硝子をいじめ出すと、位置関係的にわりとフラットな構図が中心になる。しかし、石田を糾弾する学級裁判を経て、石田へのいじめがはじまった直後、机に書かれた落書きを消そうとしていた硝子の行動を誤解して彼が硝子をど突くも逆にやりかえされ、「わたしだって頑張ってるんだ!」とマウントをとられる。弱い、弱いぞ、石田。ここではもはや言い訳のきかないくらいに石田は硝子を見上げる存在であることが決定的となる。*4


 段階的に視点が下がっていって、最終的に尻もちをつくはめになる石田。

 これが小学校編のクライマックス、島田たちに(かつて石田が硝子のノートを投げ入れた)池へ突き飛ばされるシーンへと集約される。時系列的には硝子にマウントポジションを取られる前だが、石田が地べたに這いつくばって「落ちる」男であることを示す象徴的なシーンだ。

 同時にここはいじめられっ子として硝子と石田の立場と感覚がシンクロする場面でもある。しかし思い出してもらいたい。池に入った硝子はあくまで腰をかがめてノートを探すだけだったけれども、石田は完全に転倒していた。体験的には似ているようでいて、やはりここに至っても格差がある。*5彼がもはやどん底まで行ってしまった人間であることがこうした位置関係のゆるやかな変化からも示されているわけだ。


 再転校直前、石田が母親とともに西宮母娘に公園へ謝罪に行くシーンで、人工滝の裏に設置されたベンチで硝子はハトに餌をまいている。そこでようやく石田が硝子を見下ろす形になる。だがおそらくはそれが小学生時代の石田が硝子に会う最後の機会だ。

高校生編――見下ろす石田、見上げる硝子

 小学生時代の二重の意味で苦い経験から、高校生になった石田は社会との接点を切り*6うつむきがちなぼっちライフを送る。

 自然、視線も下方へ向く。クラスメイトである川井がグループ課題の相談にきても(立っている川井を座っている石田が見上げる主観視点だ)、顔を直視できない。彼は別の友人と会話する川井のセリフを心のなかで忖度し、ヴォイス・オーヴァーで自分が否定されていると思い込む。

 自分は生きるに値しない人間だと思い込む。というか死ぬべきだと。そのためにバイトをはじめ、かつて自分の母親が硝子をいじめた賠償として硝子の母に支払った慰謝料*7を母親へ返済するためにしゃかりきでバイトをやり、持ち物を売り払う。そうして溜めた大金を母親の枕許に置く。文字通り、「精算」だ*8。死ぬ前に、もうひとつの精算を済ますために、手話教室にいる硝子へ会いに行く。


 そこで彼は硝子と再会する。が、自己紹介もままならないうちに硝子は逃げ出し、階段を下る。このときカメラは駆け降りる硝子を石田の肩からナメている*9。その彼女を追いかけて、もう一度捕まえて、手話で「友達になれるかな」と話しかける。
 下方へ降った硝子を、石田が上から追いかけて捕まえる。これは小学校時代の位置関係と逆転している。なぜこの逆転は起こったのか。


 監督・山田尚子が映画化にあたってどこに軸を置いたか。インタビューからひいてみよう。

山田 何を削って何を残すかのバランスが難しくて、時間がかかってしまいました。でも、その中でも、最初に固めた芯はブレないように気をつけました。


──芯というのは?
山田 やっぱり将也ですね。将也がちゃんと生きていくための産声を上げられることです。


──小学生の時の行為をすごく後悔したまま止まっている将也が、自分を認めて、もう一度生まれ変わる?
山田 そう。将也さえ、ちゃんと生まれることができたら、周りの人のこともどんどん見えてくると思っていたので。それが一番コアなところでした。


映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(1/4)



 要するに、「石田の生まれ直し」が監督の考える映画『聲の形』の「コア」だ。

 生まれ直すには、一度死ななければならない。

 漫画『聲の形』は西宮硝子という中心を取り巻く人々の人生模様を描く群像劇的な側面が強かった。それを映画では「石田の物語」*10へ焦点を絞ったわけだ。単に原作をそのままやったら尺が足りなくなるという消極的な理由ではなく、削るにあたって物語のテーマ自体を再編するという合理性のもと、脚色がなされたわけだ。ここを見落とすと原作と映画を両方通過した観客は映画そのものを見誤る。


 ともかく、「生まれ直し」の面からもこの後の展開に描写レベルでも死がついてまわることになる。終盤で硝子を自殺から救うときに、単に救助するだけで代わりに仮死状態に陥ってしまうのも、「生まれ直し」のためだ。

 そうした観点で言えば、執拗に繰り返される上・下/上昇・下降の構図及び運動も、人間の生死と結びつく。つまり、「下」とはかくりよ、冥界のことだ。そこへ降った硝子を石田が追いかけるということは、イザナギイザナミの黄泉比良坂であり、オルフェウスの冥府くだりだったんだよ!ナンダッテーと短絡的に俗流神話解釈へ走りたくなる*11が、この映画はそう真正直な一対一対応の判じ物の形式をとらない。

 とりあえず高校生編では、「下=硝子の住む世界」、「上=一般の人々が生きている世界」と名指すに留めておこう。


 再会後、二人はある橋の上で小川の鯉に餌を与える。劇中で最も反復される意味深い場所である。「鯉にエサを橋から投げ落として『鯉に落ちる』ってかガハハ」というオヤジギャグがどこかから聞こえるが、無視しておこう。後に「床に落としたパンを鯉にやる」というシーンが出てきて「『鯉に落ちた』パンをやる」というより精度の高いダジャレが出てくるけれども、やはり目をそらしておこう。

 ストーリーのレベルでは、石田も硝子もまだ恋に落ちているとは描写されない。*12


 石田は定期的に硝子と会う口実を欲していた。そのきっかけ探しに悩んでいる彼の足元に、どこからかパン屋のクーポンが舞いおちてくる。このクーポンを使えば、パンが手に入る。パンが手に入れば、鯉のエサとして使える。口実になる。そう考えた彼は腰をかがめて、クーポンを掴み取ろうとする。原作でもクーポンは出てくるが、石田が得るのは街頭で配布されているものだった。

 漫画ではわざわざ「下に落ちているものを拾う」シーンに書き換えたのだ。しかも、その拾おうとするとひらひらと風に乗って石田の手元からすり抜けていく。彼は数秒の奮闘ののち、苦労してクーポンをつかむ。


 硝子の妹である結絃に妨害されたのち、友人となったクラスメイトの永束が結弦の妨害を排除してくれてようやく硝子と再会する。*13

 ここで視点が石田から永束・結絃へと移り、この二人が手話教室の入っているビルのベランダから例の橋の上で話し合っている石田と硝子を見降ろすシーンになる。下の世界で通じ合っている二人に、上の世界にいる二人はまじれない。

 ただ結絃は姉の門番であり、その名前が示す通り姉と外部(主に石田)の関係性の糸を結える*14存在だ。彼女は趣味であるカメラのファインダーごしに二人の会話(手話)を覗き見し、それを永束や観客と共有する。*15

 結絃がカメラで見降ろすものといえば、動物のロードキル(路上の死体)だ。彼女は道端に転がる「死」を撮りまくって、家の壁に貼ることで、姉が抱いている希死念慮を打ち消せると信仰する。ここでも見降ろすものと死の世界の結びつきがちらつく。

 ともあれ、このシーンでは「下」の世界を共有する関係になった石田と硝子(とそこから切り端された外部としての「上」)が描かれるわけだ。


 そして二人は川に落ちる。落下というモチーフを見る上で、水は重要な要素だ。というのも、石田が落下する先には小学生のころから常に水がある。ここでも、川に落ちたノートを拾いにいった硝子を追いかけて、石田は川に飛び込む。鯉の住む川に落ちて、「恋に落ちる」ってかガハハ。

 ここで二人の何かが決定的になる。


 当初、結絃は石田を忌み嫌っていた。姉から遠ざけようとした。

 そのために「ネズミ」を陥れようとして、ノートを拾いに川に飛びこんだ石田の姿をネットで晒し、停学に追い込んだ。が、その奸計がバレて姉から叱られ、家出することになる。*16

 結絃はいったんは石田の家に保護されるものの、夜、雨の降りしきるなかを傘もささず裸足でまた出奔する。先述の「路上で頓死したカエルを見下ろしてカメラに捉える」シーンはここに挿入される。

 すぐに石田が追いかけてきて、靴を履かせ、持ってきた傘に彼女を入れてやろうとする。*17


 この傘と靴は原作にはないアイテムだ。原作では雨下を石田と結絃が飛び出すのは、家出した硝子を探すためなのであって、ふたりとも最初から傘をさしていないし、靴はちゃんと履いている。

 傘はまだわかるが、なぜ結絃が靴を忘れ、それを石田が履かせるというプロセスまで追加したのか。それはやはり、石田が「下」に気づきやすいからだろう。自分のお下がりの靴*18を履かせることで、結絃との距離感が若干ながら縮まる。

 それでも結絃は同じ傘に入ることを拒否しようとする。俺は姉のように安易におまえと同じ世界に入る気はしない、というか、そもそもおまえは姉の世界から出ていくべきだ、という態度だ。

 彼女は石田が小学校時代に硝子をいじめていたことを知悉していて、石田にたいして不信感を抱いている。しかし、石田が正直な気持ちを語ったことで、結絃は心を開き、同じ傘に入る。そして最終的に「一本しかない傘」は結絃に譲られる。石田は硝子とだけでなく、結絃とも地平を共有する関係を築いたわけだ(これが後の観覧車盗撮動画鑑賞会につながる)。ちなみに、この傘の構図はそのまま石田が昏睡状態に陥ったときの硝子の関係者行脚で、植野と硝子の間で反復される。


 硝子が司る「下」の世界にいきなり加入できた人物が、石田の他にもう一人存在する。

 小学生時代に硝子へ歩み寄って手話を習い、そのせいでクラスからハブられて不登校になった佐原だ。

 彼女もまた小学校卒業後は硝子や石田と疎遠になっていたが、硝子が小学校時代のクラスメイトでまっさきに会いたい友人として名前をあげ、川井の仲介で再会することとなる。*19

 原作では佐原とは電車内で再会するわけだが、ここでも映画は上下の構図にこだわる。佐原の通う学校の最寄り駅に降りた石田と硝子はいったんタラップに降りて、改札口へつながる降りエスカレータに乗る。その途中で、昇りエスカレータに乗っていた佐原とすれちがい、硝子に気づいた佐原がいったん昇りきったあと、慌てて降りエスカレータに乗り換えて「下」にいる二人のもとへ駆け寄る、という手順をとる。

 かくもたやすく「下」へ降りてこられる彼女は、もともと友人であった硝子とすぐに打ち解ける。

 佐原に関する上昇と下降の運動で印象的なのはもうひとつあって、遊園地でのジェットコースターで石田と相席になったときだ。彼女は「昔は怖くてジェットコースターに乗れなかったけど、考え方を変えてみた。怖いかどうかは乗ってから決める」と石田に語り、ジェットコースターのフォール時に両手をあげて全身で風を感じ、愉しむ。一方でこのときの石田はビビってうつむている。激しい上昇と下降を乗りこなす人物が佐原なのだ。彼女は、かつて自分をハブった植野という少女とも、デザイン学校に入ってからは良好な関係を築いている。*20


 その遊園地のくだり。もといじめっ子の植野、川井、川井の想い人である真柴、佐原、永束、結絃、硝子、石田の八人で集まって遊園地で遊ぶわけだが、そこで不倶戴天の二人である植野と硝子が観覧車に同乗するシーンがある。

 精確には遊園地で解散したあとに結絃が盗撮した観覧車内での映像を結絃と石田で観る。石田と硝子の再々会のときのように結絃はファインダーを介して姉と自分の知らない誰かとの会話を覗き見る。それを光景を彼女自身が他の誰かのために仲介する。

 硝子のくびにぶら下げたカメラのビデオ機能を利用した映像であるため、対面の植野の顔は映らず、終始彼女の半身だけが映る。これだけでも意味深だが、観覧車もジェットコースターほどの激しさを持たないにしても上昇と下降の乗物だ。その上、回転という属性もつく。輪転する運命の含意もあるだろう。

 そこで植野は小学校以来の敵意をあらいざらいぶちまける。おまえが嫌いであるとはっきり告げる。硝子もまた、自分のことが嫌いでたまらないと吐露する。そんな会話を見て、結絃は「どう思う?」と問いかける。石田は「俺は西宮には西宮のこと好きになってほしいよ」としか言えない。


 一見和気あいあいと過ごしたようでありつつも不穏なものを孕んで遊園地遊びは終わる。その不穏さが直後に爆発する。あることがきっかけで川井が真柴と永束(およびクラスメイト全員)に「石田がかつて硝子をいじめていた」事実を暴露し、それが延焼した末、八人グループのあいだで硝子へのいじめというトラウマをめぐる醜いいざこざが起こる。例の橋の上でだ。

 いざこざは、石田が植野、川井、永束、佐原、真柴を一人ずつdisって決裂するという幕切れに終着する。この連続disでずっと石田は一人うずくまって下を向いており、最後に真柴が話しかけてきたときだけ、顔をちょっとあげて「部外者のくせにでしゃばるな」と言う。

 その後、残った硝子を見上げ、「夏休みだし遊びに行こうか」と誘う。
 硝子を見上げる石田という位置関係は、小学校時代以来だ。そう、仲良し(になりかけた)グループが破綻してしまったことで、また石田は小学校時代の暗黒に戻ってしまった。


 そうした構図は、直後の美術館めぐりのシーンで強化される。

 美術館にはすり鉢状の場所が設置されていて、石田はそこで足をすべらせて転んでしまう。蟻地獄にはまったアリ状態の石田に対し、硝子は上から見上げて彼にある言葉をなげかける。「私がいると、みんなを不幸にしてしまう」。石田が見上げる硝子の顔は太陽の逆光を受けて、輪郭がぼけていく。死が予感されている。


 登場人物の心情に関して、映画では常に「おそらく」がつきまとうのだけれども、おそらく硝子は橋の上での瓦解とその後の石田の哀しい空元気を見て自殺を決意したのだろう。

 クライマックスとなる花火の夜の飛び降りの前に、西宮一家のおばあちゃんの葬儀が挟まる。

 この日、鯉にエサをやるためにいつもの橋の上へ石田が行くと、あるべきはずの硝子の姿が見当たらない。橋の上から硝子が消えるシーンはここだけだ。代わりに、川と橋の間にある人工滝の裏手(小学生時代に石田の母親が西宮母娘に謝罪に行くシーンで硝子がいた場所)*21に制服姿の結絃が立っている。それを石田は見下ろす形で視認する。

 結絃が川を見つめているところもそうなのだが、ここから徹底的に水のイメージが冥界と結びつく。葬儀場の館内には溜池のような水をたたえたオブジェがあり、そのオブジェを画面に手前に据えてその向こう側に佇む結絃、というショットがある。そこで結絃と硝子のあいだを蝶々が飛びまわるそのまんまといえばあまりにそのまんまな描写も出てくる。

 このあたりで一つ興味深い改変は、石田が結絃を葬儀場まで見送るところだ。

 原作の結絃は葬儀場の前まで来ると「ここまででいいよ」と石田から離れるのだが、映画ではいったん離れたあと、「やっぱ怖い」と石田に同行を求める。仲介者だった結絃が、仲介を求めるというのが切ない。


 そして、クライマックスとなる祭りのシーン。
 祭りを楽しみ、花火を二人して「見上げて」ひとしきり見物したあと、硝子は「勉強があるから」とはやめの辞去を同行の石田に申し出る。ここでも川べりに腰をおろした石田が硝子を「見上げる」イメージが継続されている。

 ここでも結絃が石田と硝子をつなぐ。石田は自宅にカメラを忘れた結絃に頼まれる形*22でいったん別れた硝子を追いかけるように西宮家へ行く。そこで、自殺しようとベランダのてすりに立つ硝子を目撃してしてしまう。

 空に咲く花火と川を眼下に縁に立つ自殺シーンは、冒頭での石田の自殺試しと完全な再現だ。

 飛び降りるギリギリで石田は硝子の腕をつかむ。この瞬間、梢子に対する石田の「見上げ」のイメージが再び反転し、また「下」へ落ちる梢子に追随する形となる。それは高校生編最初の再会の(彼が手話で「手を握って」いたことを思い出してもらいたい)、そして再々会でノートを取るために川へ飛び込んだシーンの再演でもある。さらにいえば、梢子が落ちたはずだった水辺に、石田が落ちるのは、小学生時代にノートが投げ入れられたシーンの反復だ。

 そう、反復という観点でいえば、それまで映画で石田と梢子の間で交わされてきたあらゆる動作(主に「手を握る」)と構図が一点に収斂するシークエンスである。このブログでは、『ズートピア』のときにも言ったと思うが、映画全編にまぶされた要素が最も集中する象徴的な場面をクライマックスと呼ぶ。しかし、本記事において反復は主題でない。別の機会に解説を回す。


 見るべきは、落下だ。石田は梢子を引きあげたのち、身代わりのようにして落下し、水面へ叩きつけられる。意識を手放しかけている彼を周囲を遠巻きに鯉が泳ぐ。母親の説得により取り下げた川への投身*23が、皮肉にもここで達成されてしまう。

 しかし、それは同時に英雄的な自己犠牲の行為でもある。*24彼はこれまで小学生時代に梢子につけた傷*25について謝罪もせず、過去と真正面から向き合わず、のらりくらりと「友達ごっこ」*26をつづけてきた卑怯な自分からここで脱する。そうしていったん仮死状態に陥ることで、山田尚子の言う「石田の生まれ直し」がはじまる。

『聲の形』と『光の形』

 この時点で位置関係の問題に関してはある種の解消を見る。石田の昏睡から橋の上での再会を通じて、二人の関係は完全に(この言い方が正しいかはわからないが)正常化される。

 終盤で重点がおかれるのは、音と光だ。冒頭で示される二つの英題(『The Shape of Voice』と『A Shape of Light』)*27が提示しているようにこの二つは劇中を通じて同程度に重要な役割を果たしている。それをいちいち拾っていくと多分あと4万字費やしても足りないので、なんとなれば費やすべきなのだろうが、置いておくとして(これの一つ前の記事で断片的に説明している)、ここでは石田の「生まれ直し」に重要なものだけを拾おう。


 まず梢子の髪型に注目したい。彼女は初登場*28時から耳の隠れたボブカットで小学生時代を過ごし、高校生になってからはロングヘアーでほぼ通している。どちらも彼女のつけている補聴器を完全に隠す髪型だ。

 そんな彼女が劇中、三回、補聴器を晒したポニーテールになるときがある。シンゴジでいえばビームを出す形態である。一回目は石田に告白するとき。二回目は夏祭り、三回目は石田が昏睡している最中に植田を始めとした関係者を行脚するとき。

 彼女にとって耳を露出することがどういうことなのかといえば、主に「自分の耳で聞きたい」「自分の声で伝えたい」ときなのだ。

 自分の「言語」である手話での対話を峻拒してまで、石田の「言語」である声で好意を伝えようとする。*29それが一回目のポニーテールなのだが、彼女は伝達に失敗する。石田は梢子の「言語」で喋っても過不足なく伝わるのに、梢子が石田の「言語」を用いたらコミュニケーションの齟齬をきたすという二人の関係の非対称性が浮き彫りとなる。あるいは、梢子の声が届かず、光=視覚のおぼつかない石田が月を錯覚する、という石田の不全を表しているのか。


 ともかくも、この失敗により梢子の髪型はふたたび長髪に戻る。

 二度目は夏祭り。ここの梢子は特に声にこだわらない。花火の振動を全身で感じるための形態であると捉えるべきか。既に自殺を『Undertale』のジェノサイドルートなみに固く決意した梢子はほぼ一切声を出そうとしない。石田との別れ際に、ここまで劇中で繰り返されてきた「またね」の手話を返さず、「ありがとう」という意味の手話を返す。

 声を聴き、喋るためのポニーテール・フォームだからこそ、彼女の決意の悲劇性が際立っているのがこの二回目のポニーテールだ。


 三回目は、精確には二回目からの継続であるが、石田が昏睡状態に陥ったときに「石田くんが築いてきたものを壊してしまったこと」を謝りたいと、石田と決裂していた川井、植野、真柴、佐原らのもとへ面会に行くくだり。*30

 特に重要なのが佐原。彼女は梢子と話しながら「私は変われない」と弱音を吐きそうになる。が、こことで梢子は佐原の手話の手を握って止めて、自分の「声」で「そんなことはない」は伝える。

 相手は違うものの、今度は、梢子の「声」が通じる。

 彼女の「the shape of voice」はここで確定され、覚醒した石田との橋の上での再会に繋がった。

 西宮硝子個人の物語は映画が終わるまえに完結したと言ってもいい。


 が、何度も言ってきたように、映画『聲の形』は石田の生まれ直しの映画だ。

 彼は高校生編の冒頭で示されるように人の顔を直視できないし、周囲の雑音から耳を塞いでいる。『the shape of voice』と『a shape of light』がどちらも完成していない状態なのだ。

 彼は覚醒直前、不思議な夢を見る。幸福な小学生時代の主観視点。だが、それは小学生時代の石田の視点ではない。硝子のカメラだ。*31

 石田が硝子というレンズを通して世界との正常な関係を手に入れられるかもしれない(そしてその逆も)可能性がここで提示されている。まあしかし、可能性は可能性であってまだ成就していない。

 ビジュアル的意味での生まれ直しは覚醒後の橋の上での硝子との再会でいちおう成立するし、退院直後にも彼の母親は「将ちゃんはね、死んで生き返ったのよ」と言われる。だが、彼が硝子に「生きるのを手伝ってほしい」と言うように、真に解決されるべき問題はまだ解決されていない。


 だからこその学園祭エンドなのだ。硝子の命を助けて復活してみたところで(彼自身が言うように)性根が変わったわけではない。彼は相変わらずクラスメイトとまともに視線を合わせられない。

 だが、そんな彼を硝子は先導してくれる。硝子だけではない。永束も助けてくれる。そうして、人の溢れる校庭に出たとき、石田はそれまで精神的に閉じてきた耳を澄ます。周囲の音を拾う。ここで観客は、それまで周囲の雑音が、特に祭りや遊園地といった人の溢れている場所でほどカットされていたことに気付かされる。今までせき止めていた音の奔流に、石田は身を委ねる。

 そして見る。劇的な引きのロングショット。劇的にエモーショナルな音楽。

 映画に登場してきた主要キャラクターたちが彼と地続きの地平に立っていることが、連続したカットで示される。そのキャラクターたちと周囲の人々もまた同じ高さに立っているのだ。

 光と音を手に入れる。ここで石田は本当に世界とつながる。ここで本当に生まれる。

 彼が号泣するのは、そのためだ。

 人間は誰しも、産声をあげるときに泣くのだから。*32

後記

 とまあ、主に今回は落下(見下ろし)と上昇(見上げ)、あとちょっとだけ光と声とについて触れました。構図や要素の反復*33についてはまだ拾えてない部分が多いので、たぶんまた次の機会にでも。


小説 映画 聲の形(上) (KCデラックス ラノベ文庫)

小説 映画 聲の形(上) (KCデラックス ラノベ文庫)

*1:顎を手でついていることの表現でもある

*2:映画オリジナルのシーン

*3:このへん記憶が曖昧なので後で直すかも

*4:あと階段を降りてくる植野と川井をちらりと石田が見やるカットがある。このカットに硝子は映っていないが、まだいじめられる前なので、また前後のシーンの流れ的にも二人のあとにくっついてた可能性が高い。

*5:小学生時代の石田が唯一他人から見上げられる場面がある。池に押し倒されて帰宅し、階段で自分の部屋へあがろうとすると母親から呼び止められるシーンだ。

*6:これ文字通り「糸が切れる」ことで表される

*7:原作では石田が破壊した補聴器の賠償だが、映画でそこ明示するシーンなくなかった?

*8:原作では自殺を試みるシーン自体は描かれていない。映画の初めに映る橋の上に立つシーンはそこで自殺を試みようとしたとも受け取れるが、カレンダーの件を鑑みるに、おそらくはちょっとしたシミュレーションのつもりだったのだろう

*9:原作では階段を駆け降りる硝子を正面から描いている

*10:前の記事で僕は「メイン二人の物語」と言ったと思うけれど、実のところ硝子すらレンズの後景なのかもしれない。

*11:山田尚子と吉田玲子のコンビの映画には意識的に神話的なモチーフ(というより映画が好んで使う神話学というべきか。本作に出てくる水と橋もそうだ)が使われているおぼしき箇所が多々見られるが、それを証明するエビデンスを僕は持たない。友人が「どっかで山尚がそういうこと言っているのを見たような」と言っていたので、探せば見つかるのかもしれないが

*12:というか石田がはっきり恋愛感情を持っていることは劇中では描かれない。ベランダから落下する直前に「まだ気持ちを伝えていなかったな」と九割がたそれらしいことを言いかけるのだが、言明はされない。

*13:永束が結弦に食いかかって騒ぎを起こし、それを石田が止めようとするのだが、この時の石田と硝子の視線が会う構図は先述したとおり、小学校時代のあるジーンの再演だ

*14:小学校編から高校生編へ切り替わった直後に挿入されたモノローグの場面を思い出して欲しい。そこで石田と社会の関係が切れるメタファーとして「糸が切れる」様子が描かれている

*15:ここで永束が「落ちるなよ、少年」と結絃に声をかけるところが印象的だ

*16:映画において結絃の家出理由はかなり読み取りにくい。家出にいたる経緯はほぼすっとばされ、結絃の回想としてちらっと激怒する硝子の姿がフラッシュバックされるだけである。僕もある原作未読者と本作を観に行ったさい、家出の理由がわかったかどうかを問いただしてみたけれど、やはり「わからなかった」と言っていた。

*17:どうでもいいが、靴、傘、雨による相互理解を描くアニメ映画といえば新海誠の『言の葉の庭』を想起する。ただ、映画的なアイテム使いと身振りの力学により石田と結絃の和解を謳い上げた本作に比べて、『言の葉の庭』は逆に「ひとつ屋根の下でくっちゃべっただけで互いに分かり合えると思ってたら大間違いだ!」という皮肉を言葉によって告発する。要するに、山尚は映画的なエモーションが映画内の真理を規定すると信じるいわば表現主義的映画原理主義者なのであって、新海誠はそうではない、という作家性の違いなのだろう

*18:なぜ家にあったはずの結絃が履いてきた靴をもってこなかったのかは知らない

*19:石田が川井に佐原の連絡先を聞いたわけだが、このとき石田が最初みたいに川井を見上げる体勢ではなく、立ち上がって川井のほうへ近づいて対等な目線から話しかけている。

*20:原作ではデザイン学校に入って互いの才能をリスペクトする関係になったからであるが、映画ではそのへん一切説明されない

*21:実は橋の映るシーンでは常に背景で注いでいる

*22:考えてみれば、家出時に靴を忘れてもカメラだけは手放さなかった結絃がカメラを放置するというのは不思議だ

*23:言い忘れていたが、映画冒頭の投身自殺のイメージも映画オリジナルだ

*24:「(ヒロイズムの)倫理的な目的は、民衆を救うこと、またはだれかの命を救うこと、またはある思想を支えることです。英雄はなにかのために自分を犠牲にする――これがその倫理性です」 ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』(ハヤカワ文庫NF)、no.3338

*25:物理的な傷跡であるが、精神的なものでもある

*26:原作での物言い

*27:後者はサントラのタイトルでもある

*28:小学生時代編の転入初日、といいたいところだが、実はその前に石田の母親の美容室に髪を切りに来店している姿がちらっと映っている

*29:再開時に石田が手話で梢子に話しかけていた、という前段階がある。交換である。

*30:原作での代償行為は「映画のつづきを作る」ことであるため、この謝罪行脚のシーンはない。

*31:ああ、また「入れ替わり」の反復。『君の名は。』かよ。

*32:このセンテンス書いたときにふと新生児って生まれてすぐ涙流すのか? と疑問に思って調べてみたけれど、涙は流したり流さなかったりするっぽい。

*33:アイテム単位で言えば、握る手、傘、空中に浮かぶ乗物、ノート、花火、クマの人形がささった棒、「またね」の手話、橋、川、水、花、他

じゃあ、『聲の形』の原作者と監督はなんと言っているのか。:原作者・大今良時編

$
0
0

 普段はあんまりこういうことには口を差しはさまないんですが。


togetter.com

 『聲の形』が晒されている倫理的な批判はだいたい以下の二点に切り分けられます。:「いじめ被害者がいじめ加害者を好きになる、というプロットが加害者側にとって都合良すぎる」「聴覚障害を題材にした映画であるのに、十分な量の字幕上映がなされていない」

 前者は作品の内容面での問題、後者は作品外部の問題、と色分けされると思います。で、今回は前者、つまり、作品内容の倫理について触れます。
 具体的には「漫画作者(大今良時)と監督(山田尚子)は『どういうつもり』で『聲の形』に取り組んだ」かです。インタビューを中心に二人の発言を拾っていき、私なりの脚本にそって並べていこうと思います。

 もちろん、「作者がこう意図している、と言ってる」からといって、それがそのまま百パーセント読解として受け取られるべきとも思われません。作者がそのつもりで何らかの理由でも作品自体にうまく反映されていない場合もあるし、意図を完璧に再現したものであっても受け手によって解釈が異なる場合もあるし、ともすれば作者がインタビューで嘘やごまかしを言ってる可能性もないわけではない。発言を「編集」している私に対する信頼性の問題もある。
 それでも作者の作品に対する態度について耳を傾けることは、作品を理解するうえで何がしかの材料になるでしょう。「作者なんて一から十まで関係ぇねえ! 作品がすべてで、すべてが作品だ」と考えている極左テクスト論者でもないかぎり。

 映画も漫画も、不親切で一方的なメディアです。ターン制バトルのメディアです。週刊連載の漫画ならまた違うでしょうが、基本的にはただ作品をポンと出されて読者はそれを黙って受け取るしかない。そして作者の側も、それを読んだ読者が垂れ流す意見や感想に対して反応できない。
 なぜなら作者と読者で「どういうつもりでそんなことを言ったのか」「どういうつもりであんなことをやったのか」と相互的に対話できるプラットフォームが存在しないからです。*1

 そのような中にあって、作者インタビューという代物は作者-読者の殺伐とした関係に、擬似的なコミュニケーションの場を拓いてくれます。
 それを読んだ上で『聲の形』をどうジャッジするかは、あなた次第です。

漫画版作者・大今良時

 まずは漫画版作者・大今良時の証言から見ていきましょう。
 漫画『聲の形』を描くにあたって大今がどこで何をどう考え、どういうつもりでそうしたのか、については、講談社から発売されている『聲の形 公式ファンブック』に詳しく載っています。ここまで説明していいのかってレベルで載ってます。ぶっちゃけ、公式ファンブックさえ買えばこの記事はたぶん読む必要ないです。


『聲の形』のタイムライン

 原作者・大今良時が『聲の形』の原型となる第80回(2008年)週刊少年マガジン新人漫画賞受賞作を描いたのは十八才、高校卒業後すぐ(2007年?)のことでした。*2センセーショナルな内容に尻込みした編集部は異例の「入選作掲載見送り」を決定。
 その後、大今は2009年*3冲方丁SF小説マルドゥック・スクランブル』(『別冊少年マガジン』)のコミカライズでデビューします。*4
 『聲の形』がようやく世に出たのは、2011年になってからのことです。このときは『別冊少年マガジン』での掲載でしたが、2013年に全面的な改稿を施された読み切り『週刊少年マガジン』に載り、その年のうちに連載が始まりました。つまり、都合『聲の形』の小学校時代編は三ヴァージョンあるわけです。そのうち二つ(入選したときのヴァージョンと、『週刊少年マガジン』掲載時のヴァージョン)は現在発売されている『聲の形 公式ファンブック』で読めます。
 連載が完結したのは2014年の暮。大今良時は足掛け約七年かかって『聲の形』の物語を完成させたわけです。

『聲の形』のテーマと文体

 さて、大今はこれまでも繰り返し「『聲の形』のテーマは『人と人との関わりの難しさ』、『コミュニケーション』である」と主張してきました。

大今:私が大事にしていた『ことばだけでは伝わらないものがある。そういうものにこそ価値がある』という思いや、主人公の石田のテーマである『相手の気持ちに気づく』という課題を、アニメでも大事にしてほしいとお伝えしました。
……(中略)『聲の形』というタイトルが象徴している、『しゃべってること、手話、文字、そういう"ことば"だけじゃない、隠れたメッセージも感じ取ろう』ということが、私がこの作品に込めた思いです。そして、どれだけ読者に伝わってるかはわからないけど、コミュニケーションの多様性に気づいてもらえればと。


NEWTYPE』2016年10月号


大今 この作品は「人が人を知ろうとすること、関わろうとすることの尊さ」がテーマでした。その行為はたとえ成功しなくても、尊い。バラバラに、それぞれの事情を抱えて、勝手に生きている人たち。それがテーマだからこそ、多面的なキャラクター描写、わからない部分も作るようなかき方はやらないと意味がないと思ってました。


聲の形このマンガがすごい!2015WEB版8Pインタビュー大今良時<漫画6巻ネタバレ画像注意>: アイテム宝庫777


大今 最初は、「嫌いあっている者同士の繋がり」を描こうとしていただけなんです。そのふたりの間を思い浮かべると、たまたまいじめが挟まっていた。だから描いた。いじめを「売り」にしようとしていたわけではありません。描きたかったものを描くためには、いじめという行動が、発言が、その時の気持ちが、必要だったんです。


和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの - 大今良時×荻上チキ (1/3)



 しかし、あまりに「いじめ」「聴覚障害」がフィーチャーされることへの反発からか、『公式ファンブック』では危うい感じのことばが出てしまいます。

大今:「いじめがテーマ」とシンプルに語られることに、少し違和感を抱いているところはあります。自分としては「いじめ」や「聴覚障害」を主題にしたつもりはなくて、「人と人とが互いに気持ちを伝えることの難しさ」を描こうとした作品です。だから、『聲の形』というタイトルにしても、「コミュニケーションそのものを描いた話」なんだよ、という想いを込めています。硝子の耳が聞こえないのは、あくまでも彼女を構成するもののひとつでしかないですし、この作品でのいじめはコミュニケーションが引き起こした結果のひとつなんです。


p.170, 『聲の形 公式ファンブック』



「硝子の耳が聞こえないのは、あくまでも彼女を構成するもののひとつでしかない」し、「いじめはコミュニケーションが引き起こした結果のひとつ」だと強調するのは、信念としてそう考えているのもあるでしょうが、あまりに「いじめ」や「聴覚障害」といったわかったようなワード(とそれに付随する「感動物語」)で語られがちになっている自作の現状に対するいらだちもあったのではないかと推察します。


 というのは、インタビューを管見するかぎりにおいて、大今良時は非常にことばに対してコンシャスな作家だからです。
 そもそも作中で使われる「いじめ」という言葉からして、彼女はかなりテクニカルな意味を持たせています。主人公の石田は自分が硝子に対して行ったことをけして「いじめ」だとは言わない。『公式ファンブック』のインタビューによると、それは自ら行った行為から目をそむける無意識の防衛機制であり、逆に石田を「いじめっ子」と呼ぶ当時のクラスメイトたちは彼をそう呼ぶことで自らの責任から逃れようとしているのです。
 こうした紋切り型を峻拒する態度は作品の端々にまで及んでいます。

大今:私としては「因果応報」を大事な要素としてはとらえていません。「因果応報」という言葉が取り立てて重要視されるのは、この言葉を使うことで、読者も「すっきりする」からかもしれません。「因果応報」とか「罪と罰」「勧善懲悪」といった言葉や構図はストーリーにとてもよく馴染みますし、「何か悪いことをしてしまった登場人物は、罰せられるべきである」と期待されている読者もいらっしゃるとは思うのですが、そこはあまり意識しないようにしていました。


p.172『聲の形 公式ファンブック』


大今 そうなんですよー。恋愛漫画として描いたら捗ると思います(笑)。やっぱりわかりやすいものが求められてもいるとは思うので。誰と誰がくっつくか考えながら読むのは、面白いに決まっていますよね。ただそういう話じゃないと示しているつもりです。読者サービスもいれたりはしますが……。


和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの - 大今良時×荻上チキ (1/3)


大今:ただ、これははっきり言っておきたいのですが、川井だけではなく、竹内(小学校時代の担任)や硝子の父親家族(映画には未出演)にしても、決して「悪者」として描いているつもりはありません。……(中略)各キャラクターにはそれぞれの言い分があって、出てくるセリフや態度はそれらのキャラクターの偽らざる気持ちの現れだし、現に私だって身体障害者の方についてまったく理解できていなかったら、同じような言葉を口にしていたかもしれない。深刻な問題をつきつけられて選択を迫られたときに、「これはタブーかもしれないけど、それでも本音を言うよ?」と。


p.173 『聲の形 公式ファンブック』



 ことばひとつひとつの用法に、キャラひとりひとりの内面に、ひとつひとつの表現に根本から向きあう。世界を割り切れないものとして扱う。そんな大今が『聲の形』を描くにあたって選んだのは「将也の一人称」という視点でした。

大今良時: 主人公の将也が知りえないことは読者には知らせない、将也が気づいていないことは取りあげない、つもりでした。


――物語の途中で「こういう人だ」と断定されるのは怖くありませんでした?


大今良時>怖いです。読者の方や、私の周囲の人が「こいつはこういうヤツだ」と言ってくれるんです。
 それはありがたいことなのですが、そのキャラクターの印象もまた、その読者のフィルターを通した人物像でしかないんで。


聲の形このマンガがすごい!2015WEB版8Pインタビュー大今良時<漫画6巻ネタバレ画像注意>: アイテム宝庫777



 このダシール・ハメットばりの「主人公の将也の知り得ないことは読者には知らせない、将也が気づいていないことは取り上げない」文体が一部で「硝子には内面がない」と捉えられる最大の要因となります。

 特に「なぜ、いつ、どのようにして硝子が将也のことを好きになったのか」というあたりは漫画を読んでいてかなりわかりにくい部分です。『公式ファンブック』のインタビューで大今はそれを「◯◯巻◯ページ◯コマ目で好きになった」と恐るべき緻密さで言い抜いたりするわけですが、そこまで言ってしまうとアレなので、知りたい人は『公式ファンブック』を買ってください。

 ここでは、硝子のキャラクターと、内面の機微について見ていきましょう。

西宮硝子という女

 大今良時の描く西宮硝子に徹底しているのは自己評価の低さです。

――では、いじめにあっていた硝子はどう感じていたんでしょう。


大今:硝子は被害者ではありますが、自分に対する周囲の振る舞いは、自分がクラスメイトに迷惑をかけているからこそ、つまり硝子自身に原因があるというひどい自己嫌悪があります。硝子がなにされても起こらないのは、「自分が悪いんだから仕方ない」と思っているからです。将也だけでなく、硝子もまた加害者意識が強いんです。
 硝子を「可哀想な子」だと思うのは、彼女を外から見る基準に照らした話でしかありません。彼女にとっては、からかわれたり、疎外感を味わったり、一人でいることはあたりまえ。マイナスでもなくプラスの状態でもなくゼロの状態です。


p.179『聲の形 公式ファンブック』



 将也たちの水門小学校に転入してきた硝子は筆談ノートを通じて周囲と健全な関係を築こうと試みます。
 そうした中で、将也が最初から目立つ存在だったわけではありません。

Q. 硝子は最初から将也と仲良くなりたかったの?


大今:そういうことはありませんね。将也の目線で物語が描かれているので、将也とのやり取りが目立っていますが、硝子は将也以外のみんなともおんなじように仲良くなろうと話しかけています。最終的に取っ組み合いの喧嘩をすることで、硝子にとって将也は水門小学校でいちばん嫌いな相手として記憶されることになります。


p.130, 『聲の形 公式ファンブック』



 映画の宣伝でも「一番嫌いだった相手が会いに来た〜」的な文句が打たれていましたが、まさに印象最悪な状態で硝子は将也と別れたのです。
 硝子にとって、筆談ノートは、他者と繋がれる希望を象徴したアイテムです。*5そのため、ノートの喪失がコミュニケーションに対して期待を抱くことへの諦めそのものを引き起こしてしまいます。*6自分がいると、自分も周囲のみんなも不幸になってしまう。傷つけてしまう。そう考えたのです。コミュニケーションを諦めることが、結局は自分自身を守ることになる、と。

 硝子は生まれてから「自らの壊したものをずっとカウントして」いました。*7水門小学校で筆談ノートを失うと同時に、コミュニケーションへの期待を手放し、同時にカウントも停止します。
 しかし、時を経て、高校生になった将也が筆談ノートを伴って現れたときに「カウント」が再びはじまります。

Q.自分をもっとも嫌いだったはずの将也が会いに来た時、硝子は何を思ったの?


大今:自分が健聴者とのコミュニケーションへの期待を込めていた筆談ノート。それを将也が持って会いに来たのは、硝子とって驚くべき出来事でした。硝子は将也のことを、自分を叩く「アンチ」みたいな存在だと思っていたので、びっくりしてどんな顔していいかわからない。それで「そんな将也がなんで自分にそこまでこだわるの?」と知りたくなったんでしょうね。まさに「どうして?」と。将也を敵だと思っているからこそ、逆に彼の心情を知りたいという防衛本能が働いたゆえの反応であったかと思います。


p.134, 『聲の形 公式ファンブック』


――筆談ノートを失っていた間は、カウントは止まっていた?


大今:はい、止まっていました。将也は筆談ノートと一緒に硝子に希望を持ってきてくれましたが、同時に「周りを不幸にする自分」を思い出してまた苦しい思いをする。硝子と将也の二人は、近づけば近づくほど傷つき、死にたくなるのです。


p.176『聲の形 公式ファンブック』



 読んだ人ならわかるかと思いますが、『聲の形』は、いじめてた人間といじめられてた人間が再会即和解し、恋愛モードへ突入する*8、というような単純な構造をとりません。

 それは硝子から見た石田との関係も同様です。
 石田はたしかに硝子が諦めた他人とつながる希望をもう一度開いてくれるかもしれない人物です。しかし一方で、同時に小学校時代のような破綻を招いて「自分のせいで」関係してくれた人たちを不幸にしてしまうかもしれない危険も孕んでいる。
 石田は両極端な結果をもたらす、アンビバレントな可能性の象徴として現れました。コミュニケーションという知恵の実を齧ってしまったせいで有限の命を背負ってしまう、失楽園的なジレンマを最初から抱えていたのです。そういうものを私たちは「原罪」と呼んでいます。

当事者性について。

 漫画『聲の形』を読んだ人なら誰もが「この作者は実際にいじめを経験したんだろうか?」という疑問、あるいは興味が湧きます。『聲の形』のいじめを「リアリティがある」と評する人もいれば、その逆のことを言う人もいる。
 連載が半分終わったくらいの段階で受けたインタビューで、大今はこんなことを言っています。

荻上 大今さんがこの漫画を描くと決めたときから、そういった(注:障害者を題材として扱うことについての反発的な)反響があるとは、想定はしていましたか?


大今 いえ、なにがそんなにヤバいのかまだよくわかっていないです。


和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの - 大今良時×荻上チキ (1/3)


荻上 ちなみに、ご自身はいじめの経験はありますか?


大今 見聞きするほどのひどいことは経験していないですね。悪口くらいなら言われていましたしイヤでしたけど、自分に原因があると思っていたのでしょうがないというか……。心の中で文章にできない感情を残したまま成長して、卒業して、とくに和解のやりとりもなく、その子たちといつもの関係に戻る。仲の良い子たちだったので、言ったり言われたりすること自体がありふれていて特別なイベントだとは思わなかったです。そんなことより、イヤなやつとか敵に意識が向いていました。


和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの - 大今良時×荻上チキ (1/3)



 先述したように大今にとって「いじめ」は主題ではない。それは彼女が当事者性を欠いていることを示しているのでしょうか?
 ここで留意しておきたいのは、大今はむしろ「実体験」に意識的な作家だということです。そもそも舞台が大垣市なのも、彼女が上京するにあたって「今しか描けないもの」をということで、それまで中世ヨーロッパが舞台にしていた投稿作から打って変わって地元を描いた結果です。*9メイン二人を含めた登場人物のキャラの名前や性格には、中高時代の知人友人のそれが反映されています。*10
 「聴覚障害」についても、母親が手話通訳者だったため彼女にとって身近なテーマでした。*11
 肌で感じられる距離に問題が存在したからこそ「いじめ」や「聴覚障害」を作品に取り入れたのではないでしょうか。

大今:『聲の形』は、実体験に基づく要素がとても大きく影響しています。あの子の声をちゃんと聞けなかった、気づけなかった後悔が、「ちゃんと見る」、「ちゃんと聞く」という石田が抱える課題に影響を与えています。きっかけとなったその友達の耳が聞こえなかったわけではありませんし、自分にとっては、硝子の聴覚障害は作品のテーマを読者に気づかせるためのモチーフのひとつであって、描くべき『本題』ではなかったんです。


p.171、『聲の形 公式ファンブック』



 彼女が声を聞けなかったという「あの子」とその出来事について、詳しいことはわかりません。ただ、直接的に大今の身にふりかかったのではないにしろ、その周辺で「何か」はあった。そして、その「何か」は大今に後悔を背負わせる結果に終わった。
 その出来事が、『聲の形』を彼女に描かせるモチベーションの一つになったであろうことに疑いはありません。「いじめ」そのものが主題でないと話すのは、実体験を、後悔を経たからこそ、個人的な問題意識――「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」が立ち上がったからなのです。*12


 ちなみに大今自身も不登校を経験しています。

――大今さんは中学生のころ不登校だった時期があるそうですが、どんな理由があったんですか?


不登校というか、単にサボっていただけなんです。*13途中で学校が楽しくなくなってしまったので。それで天秤にかけたんです。学校に行って頭に入らない授業を聞くのがいいのか、家で好きな絵を描くのがいいのかって。


【独占インタビュー】作者・大今良時氏に聞く。FC岐阜とコラボ、異色の作品『聲の形』はどのように生まれたのか?(フットボールチャンネル) - goo ニュース



 この時期に、大今は作品テーマや硝子の抱える悩みの根幹に関わる、ある体験を経るのですが、それはまあ、実際に『聲の形 公式ファンブック』(p.180)を読んでのお楽しみとしておきましょう。作者・大今良時の叫びが『聲の形』ともっともよく共鳴する重要で物語性溢れるポイントです。

次回予告

 長くなりました。なるべく『公式ファンブック』をスポイルしないように、記事の趣旨に関わる部分だけを引用したつもりですが、それでもあんまり大丈夫な気がしません。
 ……みんな!!! 『聲の形 公式ファンブック』買ってね!!!!! 絶対おもしろいから!!!!!


 次回は映画版の監督・山田尚子の証言を見ていきましょう。

*1:そして、「作意」の伝達精度の曖昧さこそ、芸術のある種の美点でもあるのでしょう

*2:【独占インタビュー】作者・大今良時氏に聞く。FC岐阜とコラボ、異色の作品『聲の形』はどのように生まれたのか?(フットボールチャンネル) - goo ニュース

*3:wikipediaでは「2010年に創刊された『別冊少年マガジン』」とあるが精確には2009年

*4:硝子が自殺する行動に出たのは『マルドゥック・スクランブル』のバロットの影響、と『聲の形 公式ファンブック』では語られています

*5:p.174

*6:p132, 公式ファンブック。

*7:p.176、『公式ファンブック』

*8:そもそも石田は恋愛感情を抱いていない、と大今は断言しています。

*9:NEWTYPE』2016年10月号より

*10:『公式ファンブック』のキャラ紹介ページより

*11:合唱で硝子がハブられるエピソードも母から聴いた実話を取り入れたそうです。http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130806/E1375724255410.html

*12:もちろん、当事者だからえらい、ある種の問題は当事者にしか描けないということではありません

*13:『公式ファンブック』によれば、p.80「クラスメイトが嫌で学校に行かなかった」


じゃあ、『聲の形』の原作者と監督はなんと言っているのか。:監督・山田尚子編

$
0
0

proxia.hateblo.jp
の続き。今回は映画版・山田尚子編です。ちなみに今回は『聲の形』に関してのインタビューのみを扱います。


 ちなみに監督を含めた俳優・スタッフのインタビューやメディア露出は映画公式サイトにまとめられています。ありがてえありがてえ。

メディア露出情報:ニュース | 映画『聲の形』公式サイト



「『聲の形』でいちばん好きな登場人物は誰ですか?」



  大今「うーん……みんな嫌いです」


大今良時「みんな嫌いです」最終回を迎えた『聲の形』とアニメ化決定へのとまどい - エキレビ!(1/2)




 山田「私は『聲の形』に出てくるみんなが好きなんです」


クイックジャパン Vol.127』




原作・大今良時と監督・山田尚子の態度のちがい


 『聲の形』の映画化するにあたって、作品テーマであるとかキャラの造形であるとか、基本的な方針は大今と製作スタッフの間で共有されています。
 この二人に決定的な違いがあるとすれば、世界に対する肯定感の差なのだと思われます。


 それを念頭おいて、とりあえず『聲の形』に関する山田尚子監督の証言を探っていきましょう。

テーマ・コンセプト


 原作者大今良時は『聲の形』が「『いじめ』や『聴覚障害』を主題にしたつもりはなくて、『人と人とが互いに気持ちを伝えることの難しさ』や『コミュニケーション』を描こうとした作品」である、と主張しています。映画版監督である山田尚子のスタンスも、このテーゼにおおむね沿っています。


「障害、いじめ、手話といったものが出てくるが、軸は『わかり合いたい』という普遍的な思い」と山田。


「約束」の手話、絡めた指に“表情” マンガ「聲の形」アニメ映画化 山田尚子監督:朝日新聞デジタル


山田監督「いじめや障害を描いている作品ではあるんですが、実際にこの作品に触れてみると、そのことだけがすべてではなくて、もっとその根っこにある、相手を知りたい思いとか、わからないものに対して手を伸ばしてみるような、すごく不器用だけれども人を知ろうとする、つながろうとする心が大切に描かれている作品だなと思いました。それで、とてもやってみたい題材だなと感じました。


映画『聲の形』:文部科学省


「表面的なイメージだとこの作品って「聴覚障害へのいじめ」とかシリアスで重たいものを扱っているものだと思うかもしれない。……(中略)撮り方によってはいじめにフィーチャーしたハードな作品にできるかもしれないけど、そうしたくないというか。今回は精神的な作用がある作品だと思うので、色とか音とかで不快な精神作用を起こすものをなるべく排除しています。二時間のあいだじゅう、きれいで美しい――それを大事にしているかなと。



『クイック・ジャパン Vol.127』


 「いじめ」や「聴覚障害」についての態度、およびテーマとしての「わかり合うこと」「コミュニケーション」における両者の一致はおそらく脚本段階から、スタッフと大今良時が密にセッションを重ねていたことですり合わせられたものと思います。*1
 映画化の企画が立ち上がった段階では、まだ監督は決まっておらず、山田尚子は監督を依頼されて初めて原作に目を通したといいます。そうしたフラットな地点からスタートして、脚本家の吉田玲子や原作者の大今と熱心に打ち合わせを重ねていきました。


「原作者の大今(良時)先生もたくさん話し合いに参加して教えてくださったので、より純度の高いものに仕上げるための取捨選択をしていくことができました。大今先生ご自身、作品に思い入れがあるので、お話いただける情報の量もすごいんですよ。その情報の海の中から、どこを拾っていくのが正解なんだろう、というところでかなり熟考しました」


「映画『聲の形』」特集 山田尚子監督インタビュー “存在している”彼らを通して伝わるもの (1/4) - コミックナタリー Power Push

 

 特に大今は、「毎回、打ち合わせに来る」ほど熱心に映画へコミットしていた様子が伺えます。



 『聲の形』に対してアツい想いを抱いている原作者・大今が同じくアツい人である山田尚子に、作品の方向性に関して直截的な影響を与えたことは否定できないでしょう。

主人公・石田将也


 ただ、漫画をそのまま映画化することは不可能でしたし、映画監督・山田尚子の矜持にも反しました。七巻分の原作を二時間の映画に脚色するにあたり、山田は映画を「石田将也に寄り添った物語」にしようと志向します。


 (漫画と)同じ文法で映画を作ってしまうと、ただの引き写しだし、ただのダイジェストになってしまう。そこに映像化の意味がなくなってしまうと思うので、私たちにお仕事をいただけたからには、ちゃんと1本の映像作品として石田将也に寄り添った物語を作る必要がありました。そのうえで表面的な表現方法が変わっているシーンもありますけど、たぶん芯に流れている解釈は変わっていなくて。


「映画『聲の形』」特集 山田尚子監督インタビュー “存在している”彼らを通して伝わるもの (1/4) - コミックナタリー Power Push


 前の記事でも紹介したように、原作でも石田は主人公であり、視点人物である彼の目撃していない情報が描かれることはあまりありませんでした。その形式を山田尚子はさらに突き詰めます。
 サブキャラクターやサブストーリーを原作から徹底的に切り詰めることで、将也の物語に一切の焦点が絞られるように仕立てたのです。
 その「将也の物語」とは何か。


 高校生の将也は、小学生時代の自分が硝子にしてしまったことを罪だと思いこんでいる。確かに「何の罪もない」とは言い切れないかもしれないが、それ以上に彼が犯してしまった罪は「周りの世界を見なくなってしまったこと」だと言う。


月刊ニュータイプ 2016年10月号』


山田 何を削って何を残すかのバランスが難しくて、時間がかかってしまいました。でも、その中でも、最初に固めた芯はブレないように気をつけました。


──芯というのは?


山田 やっぱり将也ですね。将也がちゃんと生きていくための産声を上げられることです。


──小学生の時の行為をすごく後悔したまま止まっている将也が、自分を認めて、もう一度生まれ変わる?


山田 そう。将也さえ、ちゃんと生まれることができたら、周りの人のこともどんどん見えてくると思っていたので。それが一番コアなところでした。


「約束」の手話、絡めた指に“表情” マンガ「聲の形」アニメ映画化 山田尚子監督:朝日新聞デジタル


 「将也の生まれなおし」、すなわち「周りの世界を見られるようになること」。それが映画『聲の形』固有のコンセプトです。そこを見誤ると、映画全体を読み間違ってしまう。

 山田は「石田がどうすれば世界を愛せるようになるのか」「どうすれば観客に石田を愛してもらえるようんなるのか」に腐心します。


「聲の形」は“石田将也”という男の子が生まれるまでの作品という側面もあると思ったので、彼のことをちゃんと描いて、皆さんと石田将也にシンクロしていただきたいなと考えていたんです。
「映画『聲の形』」特集 山田尚子監督インタビュー “存在している”彼らを通して伝わるもの (1/4) - コミックナタリー Power Push


「いちばん大事にしたのは”石田将也”をきちんと描けるかどうかというところ。逆にいえば、将也が描けたら映画として成り立つだろうと思ったので、そこを失敗しないように気をつけました。……(中略)なので、将也という存在を揶揄するような描き方だけはしたくなかった。見ていただいて、将也をちょっとでも好きと思っていただけたらいいのかなと思っています」


月刊ニュータイプ 2016年10月号』


「将也の人となりに納得してほしいと思っていました。観てくださる方が、将也が反面教師になって、自分のことも嫌いになってしまったらイヤだなと。将也に寄り添うということを、すごく大事にしました」


聲の形のニュース - 山田尚子監督、モットーは「セオリーを作らない」『聲の形』ヒロインは“天使じゃない” - 最新芸能ニュース一覧 - 楽天WOMAN

 観客には、石田に寄り添ってもらいたい。
 だから、自分も石田に寄り添って映画を作る。
 山田の将也への感情移入はときに原作の枠を超えた域にまで達します。


Q.今回の作品には、いじめる側(がわ)、いじめられる側(がわ)が両方描かれているんですが、こういうテーマについてはどのように向き合われたのでしょうか。


A.山田監督「今回に関して言えば、将也という男の子のセンセーショナルな出会い、この子が見たことないもの、感じたことのないものに対する興味っていうところが入り口だったので、そこに打算とかがあるようには描きたくなくて、すごく純粋で無垢(むく)なものだったのかなと思います。そうするしかなかった、というか。もっと触りたかったし、もっとしゃべりたかったし、「あなたに対して興味があるんです」ということを伝えたかっただけなんだろうなというふうに思いました。」


映画『聲の形』:文部科学省

 

 原作を読んだ人なら、小学生時代の将也は「もっと触りたかったし、もっとしゃべりたかったし、『あなたに対して興味があるんです』ということを伝えたかっただけなんだろうな」とはまず思わないでしょう。

 彼は最初、転入してきた硝子を日々の退屈を晴らす道具としか見なしていなかった。将也によるいじめが本格化するシーンで彼は「これが西宮硝子の正しい使い方だ!」と言いますが、これは明らかに硝子をモノ扱いした見方です。
 

 しかし、山田はそうした醜いさではなく、あくまで打算のない無垢で幼い人間性の発露を取る。


 それはおそらく、山田がものごころのついていない時分の、狭い世界しか見ていない子どもたちに対して深いシンパシーを抱いているせいもあるでしょう。そして、原作『聲の形』に「そのつもりもなかったのに失敗、断絶してしまったコミュニケーションの物語」を見出したからでもあるのでしょう。


 そのあたりの山田監督のオブセッションがよく出ているのが、文部科学省とのタイアップ企画でのインタビューです。ちょっと長いですが、山田尚子のエモさがストレートに伝わってくるいいインタビューなので略さず引用します。

山田監督「特に義務教育のときは世界が本当に狭くって、自分が見えているものしかなくて、だから隣にいる友達がいきなり敵になるっていうか、いきなりそっぽ向いたりすることもあるし、それが世の中の全てだと思ってるからすごく悩んじゃったりして、ふさぎ込んだりしたこともいっぱいありましたし、全然、引いた目で物事を見られなかった。


 もちろん子供だからそうなんですけど、そういうときの気まずかった気持ちとか、悲しかったこととかが、この作品にはすごく描かれていて、そういう思いをしていたのは自分だけじゃなかったと救われたんですよね。


 人に対して羨ましがったりとか、全然うまく伝えられなかったりとか、言い方が悪くて失敗しちゃったりとか。全部自分にとっての恥の部分で、これを持っていることが自分としては罪深いなと思っていることがあったので、原作ではそれを全部、すっと開けてきて。


 周りのお母さんや、愛のある人たちもちゃんと描いていて、「あなたを無償で愛し続けますよ」って言う人のことまで描いていて。本人を求めてくる子たちもいて。


 自分が当事者で、世界が狭かったときに、全然気づけなかったところもちゃんと描いていてくれていて、本当に救われた気がしたし、ちょっと人の目を見てしゃべれる勇気をもらえたというところがあるなと思いました。それで、それをちゃんと映画にして伝えていけることができたらなと思いました。「そこだけじゃないよ」って、みんな悩んでいるし、みんな不器用ながら、なんとかして生きていこうとしてるし、次の朝を向かえようとしてるし。少し視点を変えてみると、全然まだまだ良いことっていっぱいあって、愛してくれてる人もいて、っていうことがちゃんと伝えられればなと思いました。」


映画『聲の形』:文部科学省


Q.「最後に、タイアップポスターなんですが、フキダシの中に言葉は入れていなくて、見たお子さんが、自分なら誰にどんな言葉を伝えようかなっていうことをイメージしてほしいという意図なんですが、山田監督でしたら、どのような相手をイメージして、どういったことを伝えてみたいですか。」


f:id:Monomane:20160925152033j:plain


A.山田監督「まさに今言ったようなことになりますが、上手くいかなかった友達とかに、「本当に好きなだけだったんです」、「もっと喋りたかっただけでした」、っていう感じでしょうか。「もっと喋りたい、あなたともっと喋りたいです」っていう感じです。」


映画『聲の形』:文部科学省


 「もっと喋りたい、あなたともっと喋りたいです」は、山田尚子の作家的な欲望がもっともよく反映されたフレーズであると思います。


 ついでに「許す」という本来なら作品中で使われるべきワードを、監督が自分自身に向けているところも興味深い。


「この映画を作るときに、いろいろなことを考えたんですけど、一番の本音を言うと、"許されたい”と思ったんです。もう目もあてられないような失敗とか、人を傷つけたこととか、過去の過ちの呪縛から逃れられずに悩んでいる人が、そこから目をそらさずに後悔の先の未来を創るきっかけになれたら、嬉しいです」


エンタミクス 2016年10月号』


 山田尚子が感じる将也の人間の臭さこそ、彼女が観客に愛してほしいと考えている部分なのかもしれません。私たちはかつて(おそらく、いまでも)みんな将也だったんだよ、と。まず、そこから目をそらさず、でも完全に否定しきらないところからはじめようよ、と。


山田 将也にとっては、硝子との出会いがとてもセンセーショナルだったのだと思います。将也のやったことは「すごく悪いことで汚いことだ」とだけ描いてしまうと希望も何も無くなってしまう。将也の感じた気持ちは多かれ少なかれ、誰にでもある感情のはずなので、それをすべて完全に否定したくはないなと思いました。


「聲の形」山田尚子監督に聞く。気をつかったり同情したり、何なら可哀想だと思ったりするのは大間違いだ - エキレビ!(2/3)

西宮硝子について。

 一方でヒロインの西宮硝子。
 硝子をことさらに「聴覚障害」の面を扇情的に扱わず、一人の「女の子」として描きたい、という山田尚子の意志は一貫しています。


Q.今回の作品の中で、要素として障害というものが織り込まれている中で、どのような思いで作品に向き合われたのですか?」


A.山田監督「人と人として向き合うために、必ず知っておかなければいけない相手の状況や状態があると思うんですけど、それに対して同情するということではなくて、その人個人をちゃんと尊重して、お互いが尊重できるというか、ただただ人と人が出会うだけの根っこの部分をちゃんと見ていければとは思います。

映画『聲の形』:文部科学省


「原作者の大今先生から、“硝子は天使じゃないから”という言葉をいただいて。それが突破口になりました。硝子に対して変な気遣いはしたくないなと思い、普通の一人の女の子として冷静に見つめるようにしていました


聲の形のニュース - 山田尚子監督、モットーは「セオリーを作らない」『聲の形』ヒロインは“天使じゃない” - 最新芸能ニュース一覧 - 楽天WOMAN


山田 実は硝子に対しては、そんなに難しいキャラクターだと思った事はないんです。耳が聴こえないことは、硝子という人物の一つの個性であって。それに対して硝子は、試行錯誤しながらも一生懸命生きているんですよね。だから、そんな硝子を描く時、私たちが「そのことを触っちゃ駄目かな」と気をつかったり同情したり、何なら可哀想だと思ったりするのは大間違いだと思うんです。一人の女の子として、どういう風な目線で物事を考えるのかなと考えました。


「聲の形」山田尚子監督に聞く。気をつかったり同情したり、何なら可哀想だと思ったりするのは大間違いだ - エキレビ!(2/3)

 

――では、硝子という女の子の性格については、どのように捉えていますか?


山田 すごく生きてるなと思いました。一見、可愛らしい感じで、いつも微笑んでいて天使みたいな子なのかなと思われがちですけど。彼女の行動を一個ずつ紐解いてみたら、自分の本能にすごく忠実に動いているんです。ダイナミックだし、すごく負けず嫌いだとも思います。そのあたりは少し羨ましいなと、憧れる気持ちもあります。原作者の大今先生からは、周りのことをすごく気にして、自分はこうあるべきだということをすごく考える子だとお聞きしたのですが、それにプラスして本能で動く部分もあると思うんですよね。その両極端さがすごく魅力的で惹かれました。


「聲の形」山田尚子監督に聞く。気をつかったり同情したり、何なら可哀想だと思ったりするのは大間違いだ - エキレビ!(3/3)


 硝子に対する山田への視線は、将也に対するそれとは違い、あくまで「障害当事者ではない他人」からの視線です。自分を他者として認めた上で、どうやってコミュニケーションをとっていくのか。山田尚子の軸はそのあたりにあるように思われます。


 そうした態度自体は、彼女の実経験によって培われたものです。


山田監督「硝子について知っておくべき情報としては耳が不自由ということですが、それに対して何か気をつかうような描き方をしたいと思わなかったので、まず一人の女の子、女性として向き合おうと思いました。私が大学生のときに特別支援学校に一週間行ったことがあって、実際に自閉症の子や聴覚障害がある子に接したのですが、お話したり、触れ合ったりすることが楽しかったですし、そのときの感覚がすごく残っていて。なんというか勝手にこちらが何かを慮(おもんぱか)って、勝手に距離をとる、というようなことが不自然だな、とその時の自分に対して感じたことがあったので。


映画『聲の形』:文部科学省


 将也に感情移入する一方で、硝子は他者である、というスタンスだからといって、山田が彼女の内面をまったくののっぺらぼうに考えていたかといえば、それは違います。むしろ、逆です。彼女は西宮硝子が(理想化されていない)主体的な一人の人間として、どう世界を感じ、何を考えていたかを追求しました。


 西宮硝子の人としてのスタンスもちゃんと描く必要があると思っていて。ただやられっぱなしになっている対象なだけではないというか、硝子もちゃんとしたたかな思いがあって生きているという、そのいじらしい部分もちゃんと描きたかったんです。


「映画『聲の形』」特集 山田尚子監督インタビュー “存在している”彼らを通して伝わるもの (1/4) - コミックナタリー Power Push

 それはテクニカルな面にも反映されています。


「ヒロインの硝子の耳が聞こえないことをフィーチャーするつもりはなく、特別扱いするような描き方はしていないんですけど、彼女が生活しているうえで「音ってどういう形のものなのかな」ということはすごく考えました。……(中略)「音を聞く」じゃなくて「感じる」ものとして描いていこうと。


『クイック・ジャパン Vol.127』


 音による西宮硝子の世界観描写は、『キネマ旬報』などに掲載されている音楽担当・牛尾憲輔のインタビューの領分ですので、ここではあまり深く立ち入りません。
 注目したいのは、将也が背景の色味などの視覚的な「光」と結ばれるキャラクターであるのに対し、硝子が「音」と結ばれるキャラクターであることです。そうしたモチーフでプロットを舗装することで、物語のエモーショナルな部分をドライブさせたのですね。

山田尚子の描きたかった世界


 大今良時は『公式ファンブック』のインタビューに答えて、「読者からは悪役と見られがちなキャラクター(小学校時代の担任や、硝子の父親家族)を、自分は悪人だとは考えていない」との旨を表明しています。


 これはシニカルな物言いです。大今がそうしたキャラクターを善人として描いているわけではもちろんありません。あくまで「自分たちも下手すればこうなってたかもしれないし、現実にこういう人間は厳然として存在するよね」という諦めというか、「仕方ない」とニヒリスティックに突き放した発言であるといえます。


 大今は今ある世界をあまり肯定的なものとして捉えていません。前記事で紹介した「因果応報」に対する向き合い方もその一面でしょう。


 それに『聲の形』はあくまで将也の視点から描かれる話なので、将也が良きにつけ悪しきにつけ特別扱いされているように見えるかもしれないけれども、作者的には「硝子は将也を含めたみんなと平等に仲良くなりたがっただけ」「いじめっ子としての将也も、似たようないじめを色んなところで受けてきた硝子にとっては自分に辛い思いをさせた『その他大勢』の一人」*2なのです。


 だから、最終話の時点になっても「あの時点で二人は恋愛関係にない」*3と言い、ラストの手をつなぐシーンを第一巻の二話(つまり、高校生になってからの初再会の場面)で将也に拒絶された「仲直りしよう」というジェスチャーのやりなおしでしかないものと語ります。*4


 いじめっ子といじめられっ子が恋愛関係になる、どころか、あそこまでゴタゴタやっても「握手する」ところまでしか行けない。


 一歩進むことすらハードな世界が、大今良時の考える今ある世界です。彼女はそこに実のところ、何も期待しない。期待するとしたら、個人個人の「学び」*5くらいなのでしょう。


 かたや、山田尚子は今ある世界を、人間を*6、非常にポジティブなものとして考えています。ちゃんと顔をあげ、耳をすまし、目を開けば、自分がそういう態度でさえとれれば、そこには美しい世界が広がっているはずだと。ちゃんと話して通じ合えば、みんなイイ人達である、と。


 映画『聲の形』とは、その美しい真の世界をうつむいてばかりの将也に垣間見せるための物語です。それを指して、山田尚子は「将也が生まれ直す」と言っているわけです。

この作品では、“世界が美しくあること”というのは特に意識しました。みんなとても真剣に悩んでいるし、明日の一歩を踏み出すのすら辛そうな子たちばかり。でもすごく一生懸命に生きている。そんな彼らの悩みを肯定したいと思ったし、たくさん悩みがあっても、世の中には青空があるし、花も咲く。彼らを包む世界は、美しく優しくあってほしいと思ったんです」。


聲の形のニュース - 山田尚子監督、モットーは「セオリーを作らない」『聲の形』ヒロインは“天使じゃない” - 最新芸能ニュース一覧 - 楽天WOMAN


 作品の性質上、なんとなくシリアスな話として受け取られがちなのかもしれないと思ったんです。それに将也たちはみんなそれぞれ悩んではいるけど、世の中や世界までは悩んでいない。だからその世界はお花も咲くし水もキレイだしっていうところを描きたくて。あとは些細なものでいいので、お花みたいに美しいものや儚いものを挟んでいくことで、彼らが生きている世界をいろんな情報で形成していきたいなと考えていました。


「映画『聲の形』」特集 山田尚子監督インタビュー “存在している”彼らを通して伝わるもの (1/4) - コミックナタリー Power Push


 だから、将也の周りの世界はそんなに悪い世界じゃないんです。そこに気づいていないところが、将也のいちばんの罪であるといえるのかもしれません。


月刊ニュータイプ 2016年10月号』

 
 「今ある美しい世界を直視すること」がキモなわけですから、当然監督は背景のロケーションから色彩設定に至るまで委細凝らして世界を作り上げます。映画を観た人であれば、監督がそうした美術面や演出に心血を注いだであろうことを今更強調するまでもないでしょう。


 そして、人間もまた愛すべき対象であると考える山田尚子はキャラクターの描写や作画にも労を惜しみません。


山田 基本的に、どのキャラクターも肯定していこうと思っているので、植野のことも分からないということはあまりなかったですね。


映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(1/4)


「アニメーションって「こういうポーズをしたら、怒っている」みたいなおきまりの表現があるんですけど、ふと「そのキャラクターの性格上、出てきた動きなのかな?」と考えると、違うから。それぞれくせがあるだろうし、人にものを伝えるときの振る舞いは誰ひとり同じじゃないだろうし、私は「普通」という言葉を疑っていて。みんな目線がそれぞれあって、同じものは一個もない。


クイックジャパン Vol.127』


 キャラクターや背景などの技術面での努力については、各インタビューで詳しく触れられているので(ソフト化されたときにもコメンタリやメイキングが収録されるでしょうし)、興味ある人は直接そちらへ当たってください。


 ともかくも、「主人公にこの世界を愛してもらいたい」「その主人公の視点を通じて、観客にこの世界を愛してもらいたい」。その「愛してもらう」目的のためにあらゆる映画表現、アニメーション技術、ストーリーテリングの技法を総動員する。


 そうした愛されるための努力に妥協を許さない姿勢は、ピクサージョン・ラセターにも通じるところがあります。


 人間はその人のいうことを聴こうとしなければその人を知れないし、世界を見ようとしなければその世界を永遠に見ることはできません。

 山田尚子は今ある美しい世界の仲介者、いわば正しく世界を捉えるためのカメラのレンズであろうとしていると思います。*7
 彼女の見せようとする景色を、我々は共有しうるのでしょうか。
 それは観客の判断に委ねられるところではあります。



クイック・ジャパン127

クイック・ジャパン127



インタビューとか全然読まずに書いた感想的なもの。
proxia.hateblo.jp
proxia.hateblo.jp

*1:山田が元から大今に近い意識を抱いていた節はあって「『聲の形』という作品について語られる時、聴覚障害を持った子へのいじめなどのシリアスな部分を取り上げられる事が多い印象もありました。でも、私はあまりそういう作品だとは思わなかったというか、そこはこの作品の本質では無いと思ったんです。」「聲の形」山田尚子監督に聞く。気をつかったり同情したり、何なら可哀想だと思ったりするのは大間違いだ - エキレビ!(2/3) とも言っています

*2:「あくまで初めは」という注がつきます。転校直前に取っ組み合いの喧嘩をしたことで「将也にとって一番嫌いな相手として記憶されることとなります」(大今良時)『公式ファンブック』より

*3:ただし「まったくそういう感情がないとは言い切れない」らしい

*4:『公式ファンブック』より

*5:『公式ファンブック』で「なぜ主人公が硝子ではなく将也なのかを指して、大今は『将也の学びを描きたかった』と発言。

*6:「基本的に、どのキャラクターも肯定していこうと思っているので、植野のことも分からないということはあまりなかったですね。」 映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(1/4)

*7:その現状肯定的な姿勢は、ともすれば保守的で体制よりな態度と映るかもしれません。

九月に観た新作映画短観

$
0
0

 年ベスト級が三つ。豊作です。



👍『ライト/オフ』(デヴィッド・F・サンドバーグ
 

「ライト/オフ」予告編

  姉映画。


👍『アメリカン・レポーター』(グレン・フィカーラ


アメリカン・レポーター

  全然前に進めない人生を革命するためにイラク戦争中のアフガニスタンに飛んだ女性レポーターの話。アドレナリンどばどばでる土地で思わぬ大手柄や愛人をゲットしてやったぜアフガンサイコーみたいなノリになるんだけど、でもあなたの食べて祈って恋をしての裏では人が死んでるんですよ、という事実をつきつけられて鬱になったりする。
 いかにもアメリカ人っぽい業にまつわる寓話です。


👎『死への招待状』(アンソニー・ディブラシ) 

 角帽の板の部分がするどい刃物になっていて、投げると手裏剣みたいに被害者のクビを断ち切るサイコ・ホラー。あるいはスラッシャー。
 前半、妙にテレンス・マリックというかデヴィッド・ロウリーというか、そういう風味のフォトジェニックな画が挿入されて変な心地になるんですが、後半はそんなことなど忘れたかのような即物的なつなぎになる。


👎スーサイド・スクワッド』(デヴィッド・エアー
 

映画『スーサイド・スクワッド』日本版予告編3

 なにはともあれ、エンチャントレスですね。途中から、キレエナネエチャンデスに変わってすごくがっかりしたんですが、終盤でまたエンチャントレスに戻ってくれるのでよかった。
 でもいちばん観たかったのは、デイヴィッド・エアーの映画だったんですけどね。


🙌『聲の形』(山田尚子


映画『聲の形』 ロングPV

 窮極的には、人間未満の存在が人間になる(なろうとがんばる)話が好きなんだなあ、と思います。山尚ってもしかして冥土を理想視してんのかな。

proxia.hateblo.jp

『聲の形』については⇡で四つ記事を書きました。


👍『レッドタートル』(マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット


『レッドタートル ある島の物語』予告

 浦島太郎が竜宮城で亀をドツきまわしていじめてたら何故か乙姫様と結婚できることになってラッキー、みたいな映画です。なにをいってるんだ、と思われそうですが、だいたいそういう話です。
 そういう話なんですが、絵と画の力がずばぬけている。何をどうしたらこんなアニメーションができあがるのか。カメがカメらしいのも好感触ですね。

 今年のアカデミー賞フランス枠は昨年度のアヌシー受賞作である『Avril et le Monde Truqué(April and the Extraordinary World)』と、デンマークとの共同制作で今年の東京アニメアワードフェスティバルを獲った『Tout en haut du monde(Long Way North)』、そして本作の三つ巴(言語は英語だけど、『リトルプリンス 星の王子さま』も入れたら四つ。本年度のアヌシーウィナーである『Ma vie de Courgette』まで含まれるとしたら五つ。)と見られているんですが、indiewire などの映画情報誌の予測によれば『レッドタートル』が頭一つ抜けてるようです。候補になったとして、今年はその後が大変な年なんですが。


🙌ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド
 

C・イーストウッド監督×トム・ハンクス主演『ハドソン川の奇跡』予告編

 いままで120分とか140分かけてやってきた話を90分台につめこんだイーストウッド作品がおもしろくないわけない。構成といいますか、事故の場面を多視点的に語る技術に舌を巻く。


🙌『ミストレス・アメリカ』(ノア・バームバック


MISTRESS AMERICA: Official HD Trailer

 サブカルクソ野郎映画オブジイヤー。バームバックのベストは『フランシス・ハ』だったんですが、余裕で超えてきた。快楽的なまでにテンポの良いカットはそのままに、とにかくキャラ同士の関係性で刻んでくる。


👎真田十勇士』(堤幸彦
 これを『スーサイド・スクワッド』のあとに観ると、スースクが傑作におもえてくるからオススメ。


👍ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK The Touring Years』(ロン・ハワード


「ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years」本予告

 ビートルズがライブツアー続きでウルトラ大変だった時期のドキュメンタリー。当然、ビートルズの曲が悪いわけないし、ウーピー・ゴールドバーグシガニー・ウィーバーがティーンのグルーピーに戻ってはしゃぐさまや、四人が仲良しな様子はそれなりに観ててハッピーなのだけれども、「リンゴ・スターがMI6のスパイだった」みたいな衝撃の新事実がいまさら出てくるわけもなく、淡々としている。
 あとビートルズはライブを画面越しに観てもそんな愉しいタイプじゃないですね。


👍『マン・アップ! 60億分の1のサイテーな恋のはじまり』(ベン・パーマー)
 

マン・アップ! 60億分の1のサイテーな恋のはじまり

 サイモン・ペグとロリー・キニアのあいだで板挟みなる映画と聞いて。下衆だが下品ではないロマコメ。本来なら打ち捨てられるような脇キャラにまで愛が行き届いてますね。
 ロリー・キニアは変態役だとあの高音が情けない印象になるんでしょうけど、NTLの『オセロー』やホロウクラウンの『リチャード二世』を通過した身だと高貴さしか醸し出されなくて、いっちょんつらい。


👎『ガール・ライク・ハー』(エイミー・S・ウェバー)


A GIRL LIKE HER - Final Theatrical Trailer

 手法はドキュメンタリー番組とPOVとフッテージの混合。ある意味でファイク・ドキュメンタリーのごった煮みたいな。この分野のいじめの加害者側にスポットライトを当てたつくりは『聲の形』に似ているけど、あーアメリカの社会派インディペンデント作品ではこう処理してくんですかー、って印象。

2010年代のカートゥーン・ネットワーク・アニメの様相というか作品リスト

$
0
0

というわけで目次

『アドベンチャー・タイム』が終わる。『レギュラーSHOW』も終わる。『おかしなガムボール』も終わる。2010年代のカートゥーン・ネットワーク、ひいてはアメリカのTVアニメ界を牽引してきた名作たちが立て続けに終了していく。
 果たして、今、何が起こっているのか。
 カートゥーンの、アメリカTVアニメの現在地点はどこにあるのか。

 というわけで、参考資料としてアメリカ本国のカートゥーン・ネットワークで2010年代に放映開始されて現在も放送継続中の番組と、そのクリエイターの経歴を簡単にまとめたリストを作りました。可能な限り、公式で配信してる無料エピソードも添えたよ。置いてなかった場合はクリップ映像。

『アドベンチャー・タイム (Adventure Time)』, 2010-

www.youtube.com

 ・Pendleton Ward(1982年生、カルアーツ*1
  主な参加作品:「アドベンチャー・タイム(パイロット版)」(監督)*2→『The Marvelous Misadventures of Flapjack』(脚本、ストーリーボード:シーズン1のみ)→『アドベンチャー・タイム』(クリエイター)→『Braves Warriors』(クリエイター)→『映画 アドベンチャー・タイム』(監督)


 ペンドルトン・ウォードはカリフォルニア芸術大学で『レギュラーSHOW』のJGクインテルや『怪奇ゾーン グラビティフォールズ』のアレックス・ハーシュなどと机を並べて学んだのち*3、在学中に制作した短編『Barrista』がフレデレイター・スタジオの副社長の目に留まり、2005年から同社で仕事をするようになる。

www.youtube.com 

 2007年にニコロデオンの姉妹局であるニックトゥーンズで放映された短編「アドベンチャー・タイム」がネットで話題を呼び、08年にフレデレイターのオムニバスシリーズ『Random! Cartoons』(ニックトゥーンズ)で再放送される。同番組では09年に「Bravest Warriors」の短編も放映された。
 フレデレイター・スタジオとウォードはそのままニコロデオンでの『アドベンチャー・タイム』シリーズ化を狙うが、失敗。その企画をカートゥーン・ネットワークが拾い、2010年にシリーズ化された。
 『アドベンチャー・タイム』は数々の賞を受賞し、一話あたりの最高視聴者数が300万人に達するなどアニメ界の一大ムーブメントに成長する。だが、シーズン5の途中からウォードは精神的な疲労を訴えるようになり、シーズン6ではショーランナーを降板。現在は映画版『アドベンチャー・タイム』の企画に専念しているという。

『レギュラーSHOW(Regular Show)』, 2010-

www.youtube.com

 ・J. G. Quintel(1982年生、カルアーツ)
 主な参加作品:『キャンプ・ラズロ』(脚本、ストーリーボード)→『The Marvelous Misadventures of Flapjack』(クリエイティブ・ディレクター*4、各話監督、脚本、ストーリーボード)→『レギュラーSHOW』(クリエイター)


 JGクインテルはかなり早い段階からその才能を認められていた。カリフォルニア芸術大学在学中に制作した「 The Naive Man from Lolliland」という短編で数々の賞を総ナメにし、フレデレイター・スタジオの創設者フレッド・セイバートからは「将来が期待されるオリジナルな才能」と絶賛される。

www.youtube.com

www.youtube.com
(学生時代に制作した短編「The Naive Man from Lolliland」と「2 in the AM」。どちらの作品にも後に『レギュラーSHOW』のメインを務めるキャラが出演している)

 彼はカートゥーン・ネットワークインターンとして入社し『スターウォーズ:クローン戦争』に関わると、大学卒業後はそのまま同社のプロジェクトに参加するようになる。
 『キャンプ・ラズロ』で経験を積み、若干26歳にして『The Marvelous Misadventures of Flapjack』の立ち上げに関わる。そして、大学同期であり『Flapjack』の同僚でもあったペンドルトン・ウォードの『アドベンチャー・タイム』*5と同じ2010年に自身の企画である『レギュラーSHOW』が放映開始。大ヒット。本作では自身を投影した主人公であるモーデカイの声優も担当している。
 『レギュラーSHOW』は現在放送中の第8シーズンをもって、シリーズ完結となる予定。

『おかしなガムボール(The Amazing World of Gumball )』2011-

www.youtube.com

 ・Ben Bocquelet(1983年生)


  ベン・ボクレーはフランス生まれのフランス系イギリス人。
  イギリスの映像制作会社である Studio AKA で働いたのち、ロンドンのカートゥーン・ネットワーク・スタジオに入社。そこで『おかしなガムボール』の企画をCNに提案する。
  当初、『おかしなガムボール』は「没になったアニメのキャラたちが通う特殊学級が舞台」という設定であったが、それではあまりに暗すぎると案じたプロデューサーによるいったんはポシャりかけるが、ボクレーは陽性のシットコム的なテイストを取り入れたヴァージョンを再提案する。
  かくして2008年にパイロット版を放映したのち、2011年から本シリーズ開始。以降、シーズン3第10話の「The Vacation」を除いたすべてのエピソードでボクレーは脚本を執筆する。2017年の第6シーズンをもって完結予定。

ティーン・タイタンズ GO!(Teen Titans GO!)』2013-

www.youtube.com

 ・Michael Jelenic(1977年生)
 主な参加作品:『ジャッキー・チェン・アドベンチャー』(脚本)→『ザ・バットマン』(脚本)→『ワンダーウーマン(ビデオ映画)』(ストーリー、脚本)→『バットマン:ブレイブ&ボールド』(ディベロッパ*6)→『ThunderCats(リメイク版)』(ディベロッパー)→『ティーン・タイタンズ GO!』(ディベロッパー)→『Be Cool, Scooby-Doo!』(スーパーバイジング・プロデューサー)


 ・Aaron Horvath(1980年生)
 主な参加作品:『Mad』(各話監督)→『ティーン・タイタンズ GO!』(ディベロッパー)→『Critters』(ディベロッパー)


 イェレニックもホーヴァスもDCコミック原作アニメを担当するワーナーの社員監督であるようだが、経歴に関する情報が少ない。

 『ティーン・タイタンズ GO!』は元はDCのクロスオーバーコミックである『ティーン・タイタンズ』を三等身のちびキャラ・カートゥーンにアレンジしたもの。
 ティーン・タイタンズはその名の通り、十代のスーパーヒーローたちが結成したチームで、60年代の最初期にはロビンやキッド・フラッシュなどが所属していた。
 その後、何度かリブートを繰り返し、2003年にカートゥーン・ネットワークとワーナーが共同で『ティーン・タイタンズ』としてアニメシリーズを展開。このときにロビン、スターファイアー、サイボーグ、レイヴン、ビーストボーイといった『GO!』まで続くレギュラーのメンツが固定化される。
 2016年10月から第4シーズンを放送予定。ちなみに主題歌はPUFFY

『おっはよー! アンクル・グランパ(Uncle Granpa)』, 2013-

www.youtube.com

 ・Peter Browngardt(1979年生、カルアーツ)
 主な参加作品:『フューチュラマ』(キャラクターレイアウト)→『チャウダー』(脚本、ストーリーボード)→『The Marvelous Misadventures of Flapjack』(脚本、ストーリーボード)→『Secret Mountain Fort Awesome』(クリエイター)→『アンクル・グランパ』(クリエイター)


 カリフォルニア芸術大学出身。『チャウダー』で初めて脚本とストーリーボードを担当し、後輩のペンドルトン・ウォードやJGクインテルと同じく『The Marvelous Misadventures of Flapjack』を経たのち、『Secret Mountain Fort Awesome』でクリエイターとしてデビュー。アナーキーを通り越してグロテスクの域にまで達したギャグが批評家筋から高い評価を得て複数のアニメ賞にノミネートされるも、2シーズンで打ち切り。
 この作品のスピンオフとして2013年から始まったのが『アンクル・グランパ』である。もともとパイロット版は『SMFA』以前の08年から存在していたが、なかなかシリーズ制作にまでこぎつけられず、『レンとスティンピー』のジョンKこと John Kricfalusi がキャラクターをリデザインしてようやく企画にゴーサインが出た。
 現在第4シーズンが放送中だが、次の第5シーズンで完結予定。

 彼は後進の育成にも熱心なようで、2013年には『Paranormal Roommates』(『レギュラーSHOW』の主要ライターであるベントン・コナー監督)を始めとした若手によるパイロット版のスーパーバイジング・プロデューサーを務めた。その中から出てきたのが、『クラレンス』と『スティーブン・ユニバース』。そんな縁もあってか、両作とも後に『アンクル・グランパ』とのクロスオーバー・コラボを果たしている。

『スティーブン・ユニバース(Steven Universe)』2013-

www.youtube.com

 ・Rebecca Sugar(1987年生、スクール・オブ・ビジュアル・アーツ)
 主な参加作品:『アドベンチャー・タイム』(ストーリーボード、ソングライター)→『モンスター・ホテル(映画)』(ストーリーボード)→『スティーブン・ユニバース』(クリエイター)


  単独としてはカートゥーン・ネットワークで初の女性クリエイターにして、現代アメリカTVアニメ界で最重要プレイヤーの一人。
 
www.youtube.com
 (09年に作った短編「singles」。すでに大器の片鱗が迸っている)

  カートゥーン・ネットワークで初めての仕事が開始されたばかりの『アドベンチャー・タイム』のストーリーボード・リビジョニスト*7。その才気が見込まれてすぐにストーリーボード担当に昇格し、第2シーズン第一話で脚本・ストーリーボードと挿入歌を担当。以降、2013年まで物語と歌曲の両面でシリーズの主要メンバーとして活躍。*82012年には『フォーブス』誌で「エンタメ業界における三十歳以下の三十人」に選出される。
  彼女の Tumblrにわかりやすいのだけど、『ウテナ』や『セーラームーン』や90年代の日本産学園アニメに濃厚な影響を受けた人で、『アドベンチャー・タイム』時代から主人公にセーラームーンのドレスを着せたり予告アートが完全にウテナだったりとまあやりたい放題だった。

  そして、2013年に満を持して『スティーブン・ユニバース』を開始。パイロット版を2013年7月に放送してから12月の本放送までわずか四ヶ月で、CN上層部からの期待も高かったことが伺える。内容はどうみてもウテナ。完全にウテナ。サンキュー。
  本作には女性の同性愛要素も混じっており、2016年にはシュガー自身もバイセクシュアルであることをカミングアウトした。

『ぼくはクラレンス!(Clarence)』2014-

www.youtube.com

 ・Skyler Page(1989年生、カルアーツ)
 主な参加作品:『Secret Mountain Fort Awesome』(ストーリーボード・リビジョニスト)→『アドベンチャー・タイム』(ストーリーボード)→『ぼくはクラレンス!』(クリエイター)


 史上最年少でカートゥーン・ネットワークのクリエイターに昇りつめた天才にして、業界最大の闇。

www.youtube.com
www.youtube.com
(カルアーツ在学中に制作した短編 Girl’s Wallet と The Crater face)

 カリフォルニア芸術大学卒業後、『Secret Mountain Fort Awesome』でストーリーボード・リビジョニストとしてキャリアをスタートさせる。『アドベンチャー・タイム』では早くもストーリーボードに昇格し、主要なエピソードを担当。
 2013年に発表した『クラレンス』のパイロット版がその年のエミー賞にノミネートされて話題となり、2014年に本放送開始。この時、ペイジは若干24歳*9レベッカ・シュガーを超えてカートゥーン・ネットワーク史上最年少のクリエイターとなった。

 しかし順風満帆かに見えたペイジをスキャンダルが襲う。
 2014年、『クラレンス』でストーリーボード・リビジョニストとして従事していた女性スタッフからセクハラで告発されたのだ。このとき彼は精神的に病んでいたらしいのだが、セクハラの言い訳になるはずもない。子ども向け番組としてはあまりに致命的なスキャンダルであり、カートゥーン・ネットワークは即刻ペイジの解雇を決める。将来を嘱望されたアニメ界のワンダーボーイの声望は、一夜にして地に落ちたのである。
 番組はペイジの盟友でクリエイティブ・ディレクターを務める Nelson Boles へと引き継がれた。
 以後、彼の行方は杳として知れない……かと思われていたが、コメディ・セントラルの『TripTank』なるお笑い番組のアニメーション担当監督してひっそり復活していた。

トムとジェリー・ショー(The Tom and Jerry Show)』, 2014-

www.youtube.com

  ・Bob Jaque(??年生)
 主な参加作品:『The Care Bears Movie』(アニメーター)→『イウォーク物語』(キャラクターレイアウト)→『The Adventures of Teddy Ruxpin』(キー・アニメーター)→『レンとスティンピー』(各話監督)→『The Baby Huey Show』(クリエイター)→『アンクル・グランパ』(各話監督)


  ボブ・ジャックは80年代からTVアニメーションの第一線で活動してきたベテラン・アニメーター。彼のことはよくわかんないんですが、『ポパイ』とフライシャー兄弟の作品のマニアで個人的に研究ブログもやってる、おそらくおもしろいおっさん。
  本作では同じくベテランである Darrell Van Citters(1956年生、『ルーニー・トゥーンズ』や『HiHI パフィー! アミユミ』などを監督)が全話監督を務めている。

  こういう作品がやっていると、もともとはハンナ・バーベラの子会社だったカートゥーン・ネットワークの出自が思い出されたりなんかします。そのハンナ・バーベラはワーナーに吸収合併されたわけで、DCとワーナーのコラボヒーローアニメをCNでやっているのはそんな事情も絡んでたりする。

『Mighty Magiswords』, 2015-

www.youtube.com

 ・Kyle A. Carrozza(1979年生、アート・インスティテュート・オブ・フィラデルフィア
 主な参加作品:『Fanboy & Chum Chum』(ストーリーボード・リビジョニスト)→『Danger Rangers』(ストーリーボード)→『スイチュー! フレンズ』(ストーリーボード)→『劇場版スポンジ・ボブ:海のみんなが世界を救Woo!』(キャラクター・レイアウト)→『Mighty Magiswords』(クリエイター)


 アニメーションはもちろん、声優・作曲・3Dモデリングまでこなす多才の人。高校生のころからスタジオに出入りして『アニマニアックス』を手伝ったりしていたそう。あまり、アニメーターとして王道を歩んでおらず、最初に入社したスタジオがアニメ制作をやめたせいでクビになったり、ディズニーやニコロデオンなど数社を渡り歩いてストーリーボードを担当したり、コミックを作ったりととにかく掴みどころがない。
 本作は中世ファンタジーの枠組みでナンセンスギャグをやるノリっぽい。

『ぼくらベアベアーズ!』,2015-

 ・Daniel Chong(1978年生、カルアーツ)
 主な参加作品:『ボルト』(ストーリー・アーティスト)→『カーズ2』(ストーリーボード)→『ロラックスおじさんと不思議な種』(ストーリーボード)→『怪盗グルーのミニオン危機一発』(ストーリーボード、クレジット無し)→『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』(ストーリーボード)→『ぼくらベアベアーズ』(クリエイター)


  ほぼ同年代の苦労人カロッツァとは対象的にダニエル・チョンはディズニー、ピクサー、イルミネーション・スタジオというアニメ映画トップクラスのスタジオで仕事をしてきた超エリート。『インサイド・ヘッド』にも関わったという。
  そんな彼がピクサーに在籍していた2010年にブログで発表した web コミックが『The Three Bare Bears』。
 
The Three Bare Bears

  このコミックを原型として2014年にパイロット版が作られ、2015年から『We are Bare Bears』として本放送開始。ゆるい作風がウケたのか、クリエイターの毛並みに対する信頼性からかはわからないが、翌年にはNHKのBSでも放送がスタートした。

『バッグス! ルーニー・テューンズ・プロダクション(Wabbit)』, 2015-

www.youtube.com

Erik Kuska
 主な参加作品:『ヘラクレス』(アニメーター)→『プリンス・オブ・エジプト』(アニメーター)→『スピリット』(アニメーター)→『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』(アニメーター)→『ザ・シンプソンズ・ムービー』(キャラクター・レイアウト)→『アメリカン・ダッド』(ストーリーボード)→『バッグス!』(クリエイター)


 タイトルの通り、『バッグス・バニー』のリブートというかリメイクというかリ・イマジネーションというか。ともかく「ルーニー・テューンズ」シリーズの最新作。

 クリエイターのクスカは90年代から活躍してきたベテラン。キャリア最初期にはディズニーの『ヘラクレス』に携わったものの、斜陽のディズニーに見切りをつけたのかさっさとドリームワークスへ移籍して『プリンス・オブ・エジプト』などに参加。
 TVアニメ業界では『アメリカン・ダッド』の主力ストーリーボード・アーティストとして名を挙げ、本作へ繋がる。

 カートゥーン・ネットワークでは完全新作を若い世代に賭ける一方で、こういう昔からある鉄板IPについては熟練した職人に任せる傾向にあるようだ。

『Bunnicula』, 2016-


Bunnicula | Bitten By Bunnicula | Boomerang UK


 ・Jessica Borutski
 主な参加作品:『レンとスティンピー』(アニメーター)→『ルーニー・テューンズ・ショー』(キャラクターデザイン)→『Shazam!』(各話監督)→『バッグス!』(キャラクターデザイン、各話監督)→『Bunnicula』(クリエイター)


www.youtube.com
(2006年の自主制作短編「I Like Pandas」)

 「ルーニー・テューンズ」プロジェクトにおける主要人物で、ルーニー・テューンズ系のキャラクターデザインを担当している。
 『Bunnicula』は80年代のリメイク作品であるが、やはり「今のルーニー・テューンズ」っぽい絵柄。

パワーパフガールズ(The Powderpuff Girls)』2016-

www.youtube.com

 ・Nick Jennings
 主な参加作品:『ロッコーのモダンライフ』(アートディレクター、脚本、背景ペインター)→『ブレイブ・リトル・トースター(映画)』(背景ペインター)→『スポンジ・ボブ』(ディベロッパー、アート・ディレクター)→『The Marvelous Misadventures of Flapjack』(背景ペインター)→『アドベンチャー・タイム』(アートディレクター、スーパーバイジング・プロデューサー、タイトルカード・ペインター)→『レギュラーSHOW』(背景ペインター)→『パワーパフガールズ』(エグゼクティブ・プロデューサー、監督)


 TVアニメ界の巨魁、ニック・ジェニングス。「『スポンジ・ボブ』の立ち上げに参加し、『アドベンチャー・タイム』と『レギュラーSHOW』で背景やってるのだいたいこの人」といえばその偉大さの一端が伝わるだろうか。
 それこそ2000年代後半のカートゥーン・ネットワークの画調と雰囲気を決定づけたマクラッケン亡き後(死んでないけど)の『パワーパフガールズ』は総監督のジェニングスを始めとした多頭体制で仕切るようですが、どう転ぶのか。
 Wired の記事によると、ジェンダー的な要素が増しましされたポリティカルな内容になるっぽい。『スティーヴン・ユニバース』を睨んでのことか。
 
パワーパフガールズが帰ってきた──最高のタイミングで!|WIRED.jp




DVD出してくれるぶんだけ『アドベンチャー・タイム』はありがたい……神のようだ……。

*1:カリフォルニア芸術大学

*2:Random Cartoon! というオムニバス作品のうちのひとつ

*3:彼らとはカートゥーン・ネットワークの『The Marvelous Misadventures of Flapjack』で一緒に脚本・ストーリボードとしてまた机をならべることととなる

*4:クリエイターの代わりにシリーズ全体を監督する役割

*5:インテルは『アドベンチャー・タイム』の脚本も書いている

*6:原作付きの場合のクリエイターに相当

*7:作監のコンテを直す補助みたいな役割

*8:『スティーブン・ユニバース』後も歌曲を提供しつづけている

*9:IMDBでは1987年1月生まれとされているが、彼のブログなどを確認するかぎり1989年10月生まれが正しい

海外TVアニメの若手クリエイターたちにおける傾向と対策

$
0
0

proxia.hateblo.jp
 でカートゥーン・ネットワークで2010年代に始まって継続中の番組をリスト化したわけですが、つらつら眺めて見るに、80年代生の若手クリエイターが多い。
 彼らはいったいどういう人種なのか。
 何を食ったらああいうものが出来上がるのか。
 傾向を探っていきたい。
 対策は特にありません。
 あと「海外TVアニメ」っつっても主にアメリカだけです。
 アメリカっていうかカートゥーン・ネットワーク関係についてです。

 

80年代生まれのアニメ・クリエイターたちの特徴:

1. 『ザ・シンプソンズ

「こどものころ好きだったアニメ番組は?」という問いに対してほとんどのアニメーターが「『ザ・シンプソンズ』」と答えています。『ザ・シンプソンズ』の放送開始は1989年。彼/女らはまさに直撃世代です。(同時に、ディズニーにおける80年代の低迷と90年代の復活を体験した世代でもある)
 単純に視聴者数が多かったのもあるでしょうが、テンポの早いスラップスティックなギャグやクリクリと飛び出気味の丸い目玉に黒丸瞳というキャラクターデザインなどに確かに『ザ・シンプソンズ』の作風が多くの作品に反映されています。

f:id:Monomane:20161005030457p:plain
(『シンプソンズ』)

f:id:Monomane:20161005030807p:plain
(『レギュラーSHOW』)

f:id:Monomane:20161005031024p:plain
(『アンクル・グランパ』)

f:id:Monomane:20161005031216p:plain
(『ぼくはクラレンス』)

f:id:Monomane:20161005030647p:plain
(ディズニーだけど『グラビティ・フォールズ』)


参考までに2014年からやってる『トムとジェリー・ショー』のトムとジェリーはこんな感じ。
f:id:Monomane:20161005031717p:plainf:id:Monomane:20161005031720p:plain


 虹彩に色がついてたり、まつげが描かれていたりと一手間かかっているのがわかります。
 『シンプソンズ』は「目」の表現を完全に記号化してしまったんですね。

 そう考えると、眼球という概念すらとっぱらってしまった『アドベンチャー・タイム』がいかに革新的だったか。

2.日本アニメ・ゲームの影響:

 ジブリは当然の教養であるのでさておいて、この世代のフェイバリットとしては、『AKIRA』(全米公開は89年末)もよく名前があがります。アキラたちがバイクで夜の東京を集団暴走するピーキーなシーンは、国内外問わずよくパロディのネタにされています。(リンク先のgif集には入ってませんが『スティーブン・ユニバース』でも)

 しかし、この世代の、特に女性のクリエイターたちに多大な影響を与えた日本産アニメといえば、幾原邦彦がてがけた『セーラームーン』(北米では96年にビデオリリース)と『少女革命ウテナ』(北米では98年にビデオリリース)ではないでしょうか。

f:id:Monomane:20161005032535g:plain
(『スティーヴン・ユニバース』の有名なウテナオマージュ回。他のシーンや元ネタとの比較はこちら

http://rebeccasugar.tumblr.com/post/28606878442/utena-fan-art
rebeccasugar.tumblr.com
http://rebeccasugar.tumblr.com/post/108618153348/troffie-when-i-was-working-on-alone-together
rebeccasugar.tumblr.com
http://rebeccasugar.tumblr.com/post/29598934300/all-new-adventure-time-lady-and-peebles-monday
rebeccasugar.tumblr.com
(『スティーヴン・ユニバース』クリエイター、レベッカ・シュガーによるウテナのファンアートとウテナパロ。シュガーは『アドベンチャー・タイム』の監督回で主人公に『セーラームーン』のドレスを着せたりもしてる)

f:id:Monomane:20161005033802p:plain
(『Bee and the PuppyCat』のアンソロジーに寄稿された Anissa Espinosa のアート。本作は『ウテナ』を想起させる要素や描写が多く、影絵演出なんかも挿入されたり)


 若手世代を代表するアニメーターであるレベッカ・シュガー(『スティーブン・ユニバース』)を始めとしてナターシャ・アレグリ(『Bee and the puppy cat』)などが「凛とした騎士のような戦う女性像」や「日常で地続きの謎異世界でのバトル」などが反映されています。男性でコミック・アーティストですが、『スコット・ピルグリム』のブライアン・リー・オマリーもその影響下にある一人ですね。*1
 ちなみに『スティーブン・ユニバース』は女性の同性愛を扱っており、子ども向けアニメとしてはエポックメイキングな一作です。*2クリエイターのレベッカ・シュガーも自身をバイセクシュアルとカミングアウトしています。

 男性作家にはアニメよりむしろ、ゲームの影響が強いでしょうか。ここらへんはTRPG文化や『ウィザードリィ』なんかも混じっているのでむしろ多国籍感と言ったほうが正しいのでしょうが、『アドベンチャー・タイム』や『レギュラーSHOW』にはファミコン世代(アメリカでの発売は85年)の古き良きゲームへのノスタルジーが強くにじみ出ています。

3. カルアーツ出身クリエイターの隆盛と『The Marvelous Misadventures of Flapjack』

 別に北米アニメ界では今に始まった現象ではないのですが、カリフォルニア芸術大学(通称カルアーツ)出身クリエイターの活躍が近年のTVアニメ界、特にカートゥーン・ネットワークで目立ちます。

 『ぼくはクラレンス!』本放送の決定を報じる2012年の記事を見てみますと、「『クラレンス』のスカイラー・ペイジは、『The Marvelous Misadventures of Flapjack』のサーロップ・ヴァン・オルマン、『アドベンチャー・タイム』のペンドルトン・ウォード、『レギュラーSHOW』のJGクインテルにつづき、近年では四人目となるカルアーツ出身クリエイター」とあります。
 スカイラー・ペイジはこの後すぐさまセクハラ事件でクリエイターの座を追われるわけですが、この四作品のうち『Flapjack』以外は現在も継続中です。
 これらに加えて、2016年時点では、『アンクル・グランパ』のピーター・ブラウンガート、『ぼくらベアベアーズ』のダニエル・チョンが番組をもっていますので、計五番組がカルアーツ出身者によって占められていることになります。
 面白いのはワーナー・アニメーション(DCヒーローもの、旧ハンナ・バーベラ組、ルーニー・テューンズ)が噛んでる番組とCNオリジナル企画とで、はっきりと非カルアーツ組とカルアーツ組が色分けされるところ。
 「新しくて冒険的な企画は優秀な若い才能に任せるべきだ」というCNの方針が暗黙裡に示されているように思われます。

 カルアーツは、ウォルト・ディズニーがディズニーで働くアニメーターを養成するために創設した*3芸術大学です。アニメーション学校としては世界でも最高峰とされています。そのためか現在でもディズニーとの結びつきが強く、ここから毎年ディズニーやピクサー、あるいは他のアニメ会社へたくさんの若い才能が旅立っていきます。
 もちろん、ディズニーやピクサーの選考から漏れたり、そもそもテレビ業界で働きたがる人たちもいるわけで。

 なかでもペンドルトン・ウォード、J.G.クインテル、そしてアレックス・ハーシュ(ディズニーXDだけど『グラビティ・フォールズ』)の80年代生まれ三人衆は年齢も近く、共にサーロップ・ヴァン・オルマンの『The Marvelous Misadventures of Flapjack』で経験を積んで独り立ちしたグループ*4で、彼ら三人の番組から新しい才能が次々と生まれています。

 他に2010年代に番組を立ち上げたカルアーツ出身者としては、『Long LIve The Royals』の Sean Szeles*5、『Over the Garden Wall』の Patrick Machale *6、『Sym-Bionic Titan』の Genndy Tartakovsky、Bryan Andrews、Paul Rudish(この人たちの場合はまあ別格なんですが)、『Secret Mountain Fort Awesome』*7の Peter Browngart、そしてやはりこれも例外的ですが『ヒックとドラゴン』の Chris Sanders*8らがおります。

4. 80年代〜90年代カルチャー

 『レギュラーSHOW』なんかには80年代の音楽カルチャーが深く反映されているわけですが、あんまりそのへん詳しくないので割愛。いつか調べる。
 それにしても、『レギュラーSHOW』にしろ、『アドベンチャー・タイム』にしろ、『スティーブン・ユニバース』にしろ、微妙なレトロ・ローテク感、90年代の「当時はすごい便利になったと思ってたけど、今からするとまどろっこしいテクノロジー使ってた感じ」に対するノスタルジーがある気がします。
 『クラレンス』も90年代を意識して作られたそうだし。 


その他カートゥーン・ネットワーク組を見てて思ったこと

5. なぜかみんなウェス・アンダーソンが好き。

 ジェシカ・ボルツキ(『Bunnicula』)、カイル・カロッツァ(『Magisword』)、そして誰より『レギュラーSHOW』の劇中で『天才マックスの世界』をパロるJGクインテルと、ウェス・アンダーソン作品を好きな実写映画にあげているクリエイターが多い。この人達は共通して80年前後の生まれです。
 そういう目で観てみると、レトロ感のあるシックな画調にスタイリッシュな構図の作品が多いし、ウェス・アンダーソンの影響といわれればそうなのかもしれない。

6. ワーナー系のコンテンツはベテランに、新企画は若手に。

 3で言ったこととわりあいかぶるんですが、旧ハンナ・バーベラ系(『トムとジェリー・ショー』、『パワーパフガールズ』)やワーナー・アニメ(『バッグス』)やDCヒーローもの(『ティーン・タイタンズ』)といった、ワーナー傘下のコンテンツのリメイク/アニメ化はそれぞれの筋で経験を積んだベテランに任せる傾向があります。
 一方で、カートゥーン・ネットワークのオリジナル企画(『アドベンチャー・タイム』、『レギュラーSHOW』、『ぼくはクラレンス』、『スティーブン・ユニバース』、『おかしなガムボール』)には業界に入って日も浅い20代の若手をばんばん抜擢しています。

 手堅い企画は手堅い筋に任せ、冒険的な企画は冒険的な筋に賭ける。この硬軟織り交ぜた起用が2010年代のカートゥーン・ネットワークの好調をささえていたわけですね。


まとめ

 特にありません。
 ある時期に大人気だったコンテンツは、それを観て育った子どもたちが業界に入る約二十年後にモロリスペクトされる形で表出するんだなあ、とか、そういうありきたりなアレです。

*1:スコット・ピルグリム』のヒロインは大学時代に自分の部屋に『ウテナ』のポスターを貼っていた

*2:『アドベンチャー・タイム』も公式かどうか微妙なラインですが、声優が「マーセリンとバブルガムはデートしたことがある」と発言して話題を呼びました

*3:ただしくは古くからあった芸大を買い取った

*4:同作には背景ペインターとしてニック・ジェニングスも関わっており、『アドベンチャー・タイム』や『レギュラーSHOW』での彼の起用もその縁か

*5:『レギュラーSHOW』の主要スタッフ

*6:『アドベンチャー・タイム』の主要スタッフ

*7:『アンクル・グランパ』はもともとこの番組のスピンオフ

*8:元々はディズニーで『リロ・アンド・スティッチ』などを作っていた監督

「カートゥーン・アニメキャラの指はなぜ四本か」を取り巻く言説

$
0
0

 別にカートゥーンアニメブログでもないのに、カートゥーンネタが三つ続きますね。なんでかな。

ミッキーマウス・クラブの子どもたち

 昔から巷間でよく話題にのぼるものの結局なんだかわからない問題の一つに「なぜカートゥーンの指は四本なのか?」がありますね。
 人間にしろ、動物にしろ、ミッキーマウスにしろ、『シンプソンズ』にしろ、『グラビティ・フォールズ』にしろだいたい全部四本指。さすがに作画がリアルよりな『キング・オブ・ザ・ヒル』だと五本指ですが。
 最近の子供向けカートゥーンだと『ぼくはクラレンス』や『スティーブン・ユニバース』なんかで五本指が試みられてますが、まだまだ四本指優勢な状況です。

 では、なぜ、カートゥーン・アニメのキャラはみな四本なのか。

 この答えは簡単で、「ミッキーマウスがそうだったから」です。「蒸気船ウィリー」でデビューしたときから一貫してミッキーは四本指です。

 そうなると、次の疑問が派生します。
 なぜミッキーマウスは四本指で生まれてきたのか?

ソースは手塚治虫

 この疑問について、日本でよく聞くのは「昔の作画技術が未熟だったせいで五本指にデザインするとブレて六本指に見えることがあったから」という説。このセンテンスはだいたい尻尾に「と、手塚治虫がディズニー関係者から聞いた話として言っていた」と、ヒレがつきます。

 ミッキーマウスは指が4本なので、鉄腕アトムもミッキーと同じように指を4本にしました。その後、手塚治虫先生がミッキー関係者と会った時に、ミッキーの指が4本の理由を聞いたら以下のような回答が。

「5本の指を描いてアニメーションにすると、動いているときに6本に見えるからだ。」
 その後、アトムの指は5本になりました。


世にも奇妙な指6本物語



f:id:Monomane:20161013040713p:plain
アニメ初期のアトムも四本指だった。

 この話はインターネットでは人口に膾炙していて、知恵袋系ではもはや定説と化していますが、たいてい大元のソースが明示されていません。
 何かとデマの多いのがインターネットです。疑ってかかる必要があります。
 あろうことか上記を「手塚治虫ウォルト・ディズニーから直接聞いた」とまで断言している知恵袋回答者もいます。これはありえない。ウォルト・ディズニー手塚治虫が対面したのはたった一回だけ、1964年のニューヨーク世界博でのことで、このとき交わされた会話はせいぜい社交辞令程度でした。*1

 では、ディズニー関係者から聞いたというのもデマか、といえばどうやらこちらは本当のよう。

 みなさんみてもらうとわかるけど、ミッキーマウスドナルド・ダック、それから、ミニーとかいろいろ、ホーレスとか、いろんなディズニーのキャラクターってのは、人間以外みんな指が四本なんです。人間も四本だったんです。
 なぜ四本かっていうことは、ぼくが大人になって、アニメーション作り出してからはじめてわかったんだけど。ディズニースタジオに行って聞いてみたら、四本で描かないと、あれ、動いてるでしょう、アニメっていうのは、動いてるけど、スムースに動かない。ぎくしゃく動くってわけなんだけど、指が五本に見えるんだそうです。四本でちょうど五本に見えるんだって。
 それで、五本描きまして動かすと、六本に見えるときがあるそうです。アニメーションっていうのは、連続してる絵じゃなくて、一枚一枚描きますからこうぎくしゃく動くんだけど、残像現象で、前の指が残ってて、ちょっと動いた指がまた目に映って、というような形で、ずーっとつづけて映像を見ると、五本が六本に見える時があるんだ。それで四本描くと、動いてると、ちょうど五本に見えるってこと聞いたことがある。そういう意味で、「レオ」なんか、四本指なんです。


「わが人生・わがマンガ」(1988年、『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社



 この「ディズニー・スタジオに行った」のが具体的にいつだったのかは調査不足により特定できません。ウォルト死後の1979年にフロリダ旅行でディズニーランドへ寄ったときと思しいのですが、「スタジオ」のあるカリフォルニアは西海岸で、「ワールド」のフロリダは東海岸、正反対のロケーションです。日程的にやや無理があるし、ちょくちょくアメリカ旅行に出ていた手塚治虫のことですから、また別の機会があったのかもしれません。

 いずれにせよ、インターネットはデマばかりでないことが判明してよかったですね。インターネット最高! 頼りにしてます! 最高の友人です!

ウォルト本人は何と言ったか。

 とはいえ天下の手塚治虫の証言といえど又聞きであることには変わりない。ミッキーマウスを作ったウォルト・ディズニーやアブ・アイワークスは四本指について実際なんと言っていたのか。
 ここはインターネットをいくら掘っても出ない領域で、こういうところがインターネットマジで頼りになんねえなと思うのですが、先日、科学ノンフィクション作家サイモン・シンが『シンプソンズ』の数学ネタを解説した『数学者たちの楽園 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち』をのんべんだらりと読んでいたら事故的に出遇ってしまいました。

 『ザ・シンプソンズ』の世界で指が八本になったのは、アニメ映画の草分けの頃に起こった突然変異のせいである一九一九年にデビューした『フィリックス・ザ・キャット』では、片手に四本ずつしか指がなかったし、一九二八年に登場したミッキーマウスもそうだった。この擬人化された齧歯類の指が一本足りない理由を尋ねられて、ウォルト・ディズニーはこう答えた。
「デザインとして見たとき、ネズミに指が五本というのは少し多すぎる。バナナの房のように見えてしまうからね」
 ディズニーはそれに付け加えて、手を簡略化することにより、アニメーターの負担を減らそうとしたとも述べた。
「金銭的なことを言えば、六分半の短いアニメを構成する四万五千枚の作画について、すべて手から指を一本減らせば、スタジオとして数百万ドルの削減になる」
 こういう理由により、アニメのキャラクターは、動物であれ人間であれ、八本指が標準になったのである。


 p.268-269, サイモン・シン青木薫・訳『数学者たちの楽園 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち』新潮社



 この「バナナの房」発言はアメリカのネットでは古くから流通していたらしく、ソースはどこだと思ったら、おそるべきことに『数学者たちの楽園』はこのあたりの参考文献を示していない。
 引用されているウォルト・ディズニーの発言は、 ほぼ wikipediaに掲載された文章と一致しますから、シンはおそらくこれを読んで書いたのかな?
 しかし、 wikipediaでもそもそもの発言ソースがあげられていません。
 まあ、権威あるサイエンス・ライターの書いてることですし、「ミッキーマウスの指が四本になった理由」についてはこのあたりで妥協しましょう。

四本指キャラの始原

 もちろん、サイモン・シンはアニメ専門のライターでなく、『数学者たちの楽園』はアメリカ・アニメ史の本ではないため、アニメーション黎明期の解説についておろそかになるのもしかたない。
 そもそもオットー・メスマーの筆によるフィリックス・ザ・キャットも最初から四本指だったのか、といえば、なかなか一筋縄ではいきません
 フィリックスのデビュー作「Feline Follies」(1919)*2では人間は五本指*3。それまでのアニメーションでも人間=五本指が通例でした。いっぽうネコたるフィリックスはというと、箆みたいな腕でそもそも指が見当たりません。


f:id:Monomane:20161013040141p:plain
Feline Follies」より。人間は五本指。



 「Felix in Hollywood」(1923)になると箆から一歩進化して、親指が生えます。ところがその後数年は、新聞を読んでる指の数が左右で異なったり、思いっきり五本生えてたり、判然としない時代が続きます。


f:id:Monomane:20161013040239p:plainf:id:Monomane:20161013040301p:plainf:id:Monomane:20161013040307p:plain
左から「Felix in fairy land」(1923)、「Romeo」(1927)、「Felix the Cat in Sure-Locked Homes」(1927)

 フィリックスの指がはっきり四本と定まるのは、原作のプロデューサーであるパット・サリヴァンの手を離れてヴァン・ビューレン・スタジオで1936年にカラー化されたときです。

f:id:Monomane:20161013081815p:plain
Felix the Cat: The Goose That Laid the Golden Egg」(1936)

 

 一方のディズニーも最初から四本指主義を戴いてはおりませんでした。ミッキーマウスの前身として知られる「しあわせうさぎのオズワルド(Oswald the lucky rabbit)」は実質上のデビュー作「trolley troubles」(1927)の時点では五本指。四本指に変わったのは後のことです。


f:id:Monomane:20161013040422p:plain
「trolley troubles」のオズワルドさん


 そうして、1928年、ミッキーマウスが「蒸気船ウィリー」でお披露目されます。このときのミッキーはコマによって四本指になったり五本指になったり忙しいのですが、基調は四本指です。
 なぜミッキーマウスがことさら四本指を強調されるようになったかといえば、それは彼の服飾センスのせいでしょう。すなわち、手袋です。
 ミッキーはオズワルドやフィリックスのような黒いボディの持ち主です。が、ふたりと違って真っ白い手袋をはめています。*4当時の画面は白黒で背景のほとんどは灰がかった白で占められていました。こうした白い世界に白い手袋を持ち込むと、背景に溶けてしまうおそれがある。そのため、キャラと世界との境界を描くという意味で、指の数をはっきり示しておく必要があったのでないでしょうか。*5

 以上を踏まえると、だいたいトーキー元年の1927年を境にディズニーが覇権を握るにつれ、徐々に「カートゥーン・アニメキャラ=四本指」の図式が確立されていったものと推測されます。

現代アニメーションにおける指の数の活用

 現代のアメリカ・カートゥーン・アニメの作家たちは無批判に百年来の伝統に従っているわけではありません。
 『シンプソンズ』にも自分たちの指の数をネタにしたギャグがやまほど出てきますし、『アドベンチャー・タイム』に至っては指の数を、謎めいた世界観を読み解く上でのキーとして使用してします。
 その一方で、冒頭で言及したように、あえて五本指を当然のものとして描く作品も目立ってきています。
 そう簡単にカートゥーンの指は増えないでしょう。しかし、こうした多様化が何をもたらすのか、どうアニメ界の勢力図を変動させていくのか、今後も頭の片隅において見ていきたいですね。


数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

*1:文藝春秋』1967年5月号「ニューヨークのディズニー」

*2:wikipediaでの邦題は『フィリックスの初恋』。大塚英志の『ミッキーの書式』では「仔猫のフォリーズ」だとかそんなタイトルが与えられていた気がする。

*3:メスマーのデビュー作「How a Mosquito Operates」(1913)ではちゃんと五本指の人間(指のシワがちゃんと描きこまれていてリアルっぽい)が出てきます。彼に影響を与えた『リトル・ニモ』のウィンザー・マッケイからして五本指派です。

*4:むろん初期は手袋をしていないことも多かった。しかし、手袋自体は「ウィリー」のタイトルカードの時点から出てきています。

*5:このあたりアニメーション黎明期の特徴であったメタモルフォーゼの多用がすたれていったのと関係があるのではないかとも思う

Viewing all 264 articles
Browse latest View live