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日本で観られるマンブルコア映画一覧

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雑なあらすじとわたし

 余人には内緒だが、映画における雑なあらすじ探しを日々の暇つぶしにしている。wikipediaに載ってるようなあらすじもたいがい雑なのが多いが、金が絡んでるはずのところでも案外手を抜いてたりする。今日も iTunesでこんな雑なあらすじを見つけた。
f:id:Monomane:20160324212603p:plain


 いくらなんでもなげやりすぎる。
 『新しい夫婦の作り方』(Digging For Fire)はジョー・スワンバーグ監督の最新作で、スワンバーグは2013年の『ドリンキング・バディーズ』(Drinking Buddies)以降、2014年の『ハッピー・クリスマス』(Happy Christmas*1、そして2015年の本作とこのところ立て続けに紹介され、昨年には『ハンナだけど、生きていく!』(Hannah Takes the Stairs, 2007)がスワンバーグ作品として初の劇場公開と、これまでのマンブルコア勢の扱いからしてみれば異例ともいえる厚遇を享受している。
 

マンブルコアとはなにか

 マンブルコアといった。ジョー・スワンバーグはマンブルコアに属する作家の代表格とみなされている。属すると言われても所属先自体よくわからない。マンブルコアとはなにか。
 そこらへんは本邦におけるマンブルコアの第一人者である山崎まどか先生の説明に詳しい。
マンブルコア、口ごもる新世代インディ映画作家たち | Romantic au go! go!
『ハンナだけど、生きていく!』とは?“マンブルコア”とは何か? – IndieTokyo

 基本的には同じようなデジカメでかつ低予算で、誰の力も借りずに映画を作っている。つまりお金がないのでみんなで協力しあって、その横の連帯があって「マンブルコア」が確立してきたと。ですので、志を同じくして集まったという訳ではないんです。それに関して、マーク・デュプラスは面白いことを言っています。「インディー映画における中産階級の死」と。中規模のインディー映画はもはや作れなくなってしまったのだと。少し前であればインディー映画はサンダンス映画祭とかでそれなりの俳優を集めて上映をされて、大手の配給会社に注目されて、それで日本にも入ってきたんですけど、そうした流れが途絶えてしまった。そのため、マンブルコアは入ってこなくなった。完全な自主制作・自主配給。正確には、配給ということはほとんどされていません。


 要するにここ十数年のあいだに出てきた自主制作のムーブメントであるらしい。
 まあ、ググれば一ページぶんくらいの記事はヒットします。


 wikipediaにも去年項目が立ち上がっていた。 
マンブルコア - Wikipedia


 見た感じ、二、三作品しか訳されていないように思われそうだが、上述のとおりスワンバーグだけで四作品も紹介済みだ。情報が古い。この一、二年でマンブルコア作品はだれも知らない間に日本へじわじわ進出しつつある。誰も知らないままに事態が進行しているので、ほとんど顧みられていないのが悲しいところではある。かくいう僕も『ドリンキング・バディーズ』とか『Computer Chess』とか買ったまま積んであるのでまるで観ていない。
 ちなみにマンブルコアの派生としてホラージャンルのマンブルゴアというのがあるらしい。こうなると言ったもん勝ちな世界な気がしなくもない。ホラーとか低予算でゴニョゴニョ聞き取りづらいのばっかだろ。


 というわけで、リスト作成もまた趣味であるのによって、現在日本でソフト化済みのマンブルコア(作家)作品リストを監督中心の視点でアップデートしてみた。 *2
 参考:Mumblecore - Wikipedia, the free encyclopedia


マンブルコア

アンドリュー・バジャルスキー(Andrew Bujalski)
・通称「マンブルコア界のゴッドファーザー*3

 『成果』(Results, 2015)*Netflix で独自配信。


ジョー・スワンバーグ(Joe Swanberg)
・日本で一番紹介されているマンブルコア作家。ラブな話が中心の人。弟のクリスもマンブルコア作家。

 『ハンナだけど、生きていく!』(Hannah takes Stairs、2007)*未ソフト化、劇場公開のみ
 『ドリンキング・バディーズ』(Drinking Buddies、2013)
 『ハッピー・クリスマス』(Happy Christmas、2014)
 『新しい夫婦の作り方』(Digging For Fire、2015)


デュプラス兄弟(Mark & Jay Duplass)
・出身こそマンブルコアながら、最近はリドリー・スコットジェイソン・ライトマンのヒキで比較的大きめの製作・配給会社(それでも予算数百万ドルでフォックス・サーチライトとかだけど)で作品を撮っているコメディ畑の兄弟監督。俳優としても『ゼロ・ダーク・サーティ』などに出演。出世頭の地位を利用してマンブルコアっぽいインディペンデンス映画のプロデュースもてがける。ハンナ・フィデルの『六年愛』とか、コリン・トレヴォロウ*4の『彼女はパートタイム・トラベラー』とか。

 『僕の大切な人と、そのクソガキ』(Cyrus, 2010)
 『ハッピーニートおちこぼれ兄弟の小さな奇跡』(Jeff, Who Lives at Home、2011)


エヴァン・グローデル(Evan Glodel)
 『ベルフラワー』(Bellflower、2011)


ノア・バームバック(Noah Baumbach)
・もともとウェス・アンダーソン・ギャングの一員だったバームバックがマンブルコアなんてものに巻き込まれたのは、「マンブルコアのミューズ」グレタ・ガーウィグに惚れてしまったから。グレタと共同監督するまでの仲だったジョー・スワンバーグから彼女を強奪(多分)し、グレタイズム溢れる『フランシス・ハ』を撮り上げてしまった。

 『フランシス・ハ』(Francis Ha、2012)


アレックス・ホルドリッジ(Alex Holdridge)
・日本へ比較的早い時期に紹介されたマンブルコア作家。

 『ミッドナイトキスをする前に』(In Search of a Midnight Kiss、2007)


リン・シェルトン(Lynn Shelton)
・『マッド・メン』や『New Girl』といったドラマの監督回も日本に輸入されているといえばされている。

 『ラブ・トライアングル』(Your Sister's Sister、2011)


ブラッドリー・ラスト・グレイ(Bradley Rust Gray)
・リストに載ってるのはゾーイ・カザン主演の『エクスプローディング・ガール』のみ

  『エクスプローディング・ガール』(The Exploding Girl、2009)*東京フィルメックスでの上映のみ


備考
 ・「マンブルコアのテレンス・マリック」とアダ名されているアーロン・カッツwikipediaのマンブルコアリスト記載作品の紹介はないものの、同じくマンブルコア一派であるマーサ・スティーヴンスと共同監督した2014年の『ミッチとコリン 友情のランド・ホー!』(Land Ho!)がソフト化されている。
 ・ジョシュアとベンのサフディ兄弟は2015年に『神様なんかくそくらえ』が東京国際映画祭でグランプリを獲得し、日本でも劇場公開された。
 ・Medicine for Melancholy をてがけたバリー・ジェンキンスブラッド・ピットの製作会社である Plan B や『エクスマキナ』で高い評価を得たA24などと組んで『Moonlight』という作品に着手する模様。A24 Teams Up With Plan B to Produce Barry Jenkins’ ‘Moonlight’ | Deadline
 ・『Girls』などのレナ・ダラムも長編監督作の『Tiny Furniture』がリスト入り。俳優としてもタイ・ウエスト作品やジョー・スワンバーグ作品に出演している。
 ・The Color Wheel などのアレックス・ロス・ペリーは実写版『くまのプーさん』やクローネンバーグ監督予定のドン・デリーロ原作『The Names』の脚本を担当する予定。監督作も軒並み高評価を受ける、今アメリカで最もアツい若手映画人の一人。
 ・日本語版 wikipediaではデイヴィッド・ゴードン・グリーンの All the Real Girl もマンブルコアとされているようだけれどなんでだろう。俳優陣もマンブってないのに。いちおう彼はアーロン・カッツの『ランド・ホー!』のエグゼクティブ・プロデューサーでもあるけれども。
 


マンブルゴア枠

 wikipediaのリストを観るかぎり、アダム・ウィンガード以後の米英インディペンデント・ホラー界のよさげなやつらを(「マンブルコア」がバズワード化したのをいいことに)片っ端からほうりこんでみました、って感じなのでどこまで信頼できるか。ただ、ウィンガードやタイ・ウエストあたりはマンブルコアとモロに交流あるし、スワンバーグやデュプラス兄弟もホラーをよく撮ってたりする。


アダム・ウィンガード(Adam Wingard)
・いまや押しもオサレもせぬインディペンデント・ホラーの若手ナンバーワン。一時期スワンバーグとツルんでいたらしく、彼と共同監督作品を撮ったり、『ビューティフル・ダイ』に出演させたりしていた。wikipediaでマンブルコア扱いされているのはそのせいなのか*5

 『ビューティフル・ダイ』(A Horrible Way To Die、2010)
 『サプライズ』(You're Next、2011)
 『ザ・ゲスト』(The Guest、2014)


タイ・ウエスト(Ti West)
・マンブルコアとマンブルゴアの結節点。ウィンガードの『サプライズ』に出演したり、スワンバーグとお互いの作品に出演しあったり。TV版『スクリーム』の監督も務めた。

 『キャビン・フィーバー2』(Cabin Fever 2: Spring Fever , 2009)
 『インキーパーズ』(The Innkeepers、2011)
 『サクラメント 死の楽園』(The Sacrament、2013)


パトリック・ブライス(Patrick Brice)
・デュプラス兄弟のプロデュースで『クリープ』を監督。

 『クリープ』(Creep,2014)*Netflix 独自配信
 

リー・ジャニアック(Leigh Janiak)
 『ハネムーン』(Honeymoon、2014)


ジェレミー・ソルニエ(Jeremy Saulnier)
・『ブルーリベンジ』で一躍名を挙げたインディペンデント界の新星。

 『ブルー・リベンジ』(Blue Ruin、2013)


E.L.カッツ(E.L.Katz)
・兄ピーターとともに初期ウィンガード作品のプロデューサーや共同脚本を務めたウィンガードの盟友。アーロン・カッツとはどうやら親戚関係はないっぽい。

 『ザ・スリル』(Cheap Thrill、2013)


ベン・ウィートリー(Ben Wheatley)
・イギリスのインディペンデント・ホラー(といっていいのか)界の鬼才。最新作はバラード原作の『ハイ-ライズ』。

 『キルリスト』(Kill List、2011)
 『サイトシアーズ〜殺人者のための英国観光ガイド〜』(The Sightseers、2012) 


ジェレミー・ガードナー(Jeremy Gardner)
 『スウィング・オブ・ザ・デッド』(The battery、2012)


ショーン・ダーキン(Sean Durkin
 『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(Martha Marcy May Marlene、2011)


ジョン・ヒューイット(Jon Hewitt)
 『バタフライエフェクト・イン・クライモリ』*6(Acolytes、2008)


デヴィッド・ブルックナー、ダン・ブッシュ、ジェイコブ・ジェントリー(David Bruckner, Dan Bush, Jacob Gentry)
 『地球最後の男たち The Signal』(The Signal、2007)
 

 他にも「他作品が日本で紹介されてるけどリストにあるやつは未訳」勢としては、
ゲーム『Until Dawn』をてがけたグラハム・レズニック(I Can See You)、
『ディスコード/ジ・アフター』のパトリック・ホーヴァス&ダラス・ハラム(Entrance)、
インディペンデント・ホラー界の知る人ぞ知る注目株、サイモン・ラムリー(ラムレイとも)(Red, White and Blue)
『モンスター』のジャスティン・ベンソン(Resolution)など


アンソロジー: マンブルゴア勢が大勢共演している。
『ABC・オブ・デス』
『V/H/S シンドローム』(V/H/S, 2012)
『V/H/S ネクスト・レベル』(V/H/S 2, 2013)


調べた雑感

 調べれば調べるほど、「次代のスター監督」と目されている勢がどんどんリンクされて出てくる……特にマンブルゴア。ウィートリーやソルニエなんかとりあえず目立っているので入れてみました感がパないんだけど、信頼してええんやろか。wikipediaの元記事からして、「新聞でマンブルコア呼ばわりされてたのでマンブルコアってことでいいよね」くらいのノリで放り込んでるっぽいし。
 まあ、それだけマンブルコアという用語が浸透している証ではあるんだろうけど。

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*1:ちなみにこの二作の iTunesでのあらすじはすこぶるまとも

*2:参考元のリストを眺めた感じ、2014年以降のラインアップがちょっと追いきれてないような印象。

*3:Wikipediaより

*4:『ジュラシック・ワールド』の監督

*5:マンブルコアの特徴のひとつに「仲間内で互いの作品に出演しあう」というのがある

*6:ひでえ邦題だ


今週のトップ5:『卑しい肉体』、『ニューヨーカー誌の世界』第五話、『くまみこ』、『ボブとデイヴィッドと』、『ナイト・ビフォア』、『成果』、脱走して死んだシマウマ

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読書会までに『涙香迷宮』読めなかったショックで気力がわかない。


イーヴリン・ウォー『卑しい肉体』

 傑作。構図的にも物語的にもかっきりキマって流麗なスクリューボール・コメディ
 愛する恋人との結婚資金を稼ぐべく、純朴なイギリス青年アダムが奮闘する。1920年代のロンドンには海千山千の詐欺師が跋扈していて、アダムを含めた登場人物全員が金をだまし取ったりだまし取られたりする。その軽やかな笑劇を読み流していくうちに、ふと陰鬱な泥沼にハマっていることに気づく。そのウォーの卓抜した手つきがすでにして詐欺師的ですらある。
 

『ニューヨーカー誌の世界』第五話

 Amazonビデオのプライム特典で『ニューヨーカー』が作ったショート映像集が配信されるようになった。ドキュメンタリー、短編映画、映像エッセイ、その他もろもろを一回三十分の尺でのつめあわせ。
 いきなり第五話だけ観たのは、紹介文にミランダ・ジュライの「ロイ・スパイヴィ」の映像化が含まれてますよ、と書いてあったからで、一回雑誌で読んだきりだったので、ああこんな話だったかなあと記憶の糸をシナプスに撚り合わせながら思い出そうとする。まあ、内容は寂しい女の一時の甘い妄想みたいなもの。主人公の女性はたしか原作では「180センチを越す巨体」みたいな設定だったと思うけれど、本編で彼女を演じていた俳優もいいかんじにデカくてモサかった。

 あと、お目当てでなかったけれど、ロサンゼルスの太陽光の秘密に迫った「LAの輝き」もよかった。導入がふるっている。製作者である記者が三十年前、ニューヨークからテレビで逃走中のOJシンプソンと警察とのカーチェイスを観ている最中、ふと涙をこぼしてしまった。娘から「OJシンプソンがかわいそうなの?」と不審げに訊ねられた記者は、首を横にふって「いいや、ロサンゼルスの風景が美しすぎて」と答える。
 彼は、三十年越しにそのカーチェイスを空撮していたカメラマンに会いにロサンゼルスへ出向く。

 ロサンゼルスの独特の光線美は、年中温暖で雨の降らない気候(だからハリウッドが生まれた)と取り囲む山脈によって遮られたガスに反射する太陽光によって醸成されるものらしい。
 そういえば自分もロサンゼルスの光が好きなのかもしれない。、昨年度の新作映画ランキングでベストテンに挙げた映画のうち、『インヒアレント・ヴァイス』、『ナイト・クローラー』と『マップ・トゥ・ザ・スターズ』はハッキリとロサンゼルスものだった。二位に入れている『セッション』もモデルとなっている音楽学校はニューヨークにあるはずなのに、撮影はロサンゼルス。してみれば、一位から三位までがロサンゼルスが舞台だったわけで。

 とりわけ『インヒアレント・ヴァイス』は夢のようだった。掘っ立て小屋を挟んでかいま見えるビーチのやわらかい描線と空気、そのファーストショットから「この世界になら住んでみたい」と思わせられる。 

吉元ますめ『くまみこ』六巻、『くまみこちゃん』、『くまみこアンソロジー』

 学校でのまちがおとなしい優等生キャラに描くのは必然の設定だと思う反面、「そこまでやるか……」的なエグさも感じる。
 『くまみこ』の本編のキャラが誰も彼も二面性を備え、そのことに大なり小なりはがゆさや罪悪感を感じているなかで、いとこのよしおくんだけはそういうのがないうえにナチュラルな策略家キャラでもあるから結果彼だけが突出して怪物化していっていると思います。


『ボブとデイヴィッドと』(w/Bob & David)

 Netflix で配信されてるスケッチコメディ。90年代に放送されてたシリーズが十数年ぶりに帰ってきたぞみたいなノリらしいが、とうぜんこちらもそんなもの観ていないし知らない。それでも海の向こうの新規視聴者を置いてけぼりにしない親切設計である。

 構成が特異。プログレッシブ・スケッチコメディとでも呼ぶべきか、通常スケッチコメディはスケッチ(コント)ごとに独立していて、あるスケッチが終わると次のスケッチが始まり、スケッチ間に連続性はない。イギリスでは『モンティ・パイソン』、アメリカでは『サタデー・ナイト・ライブ』、日本ではまあドリフとかひょうきん族とか笑う犬のなんたらとか。

 ところが『ボブとデイヴィッドと』はちょっと違う。最初のスケッチでギャグとして出てきたものをそのまま転がしていってしまう。
 たとえば、第一回。親しい中年オヤジたちが集まって、互いに「将来の夢」を語り合う。「何事も50歳から初めても遅いということはない」と超ポジティブに「移動法廷の判事」だとか「携帯電話会社の社長」だと「ローマ法王ユダヤ人なのに)」とかいくらなんでも50歳からでは無理すぎる夢をそれぞれ述べ、「実現できるよ」と励まし合うのだが、医者から節制を言い渡されて「肉を食わない」と宣言した男だけは「おまえには無理だ」と否定される。
 「なんでアホなあいつが判事になる可能性より、俺が肉を我慢できる可能性が低いんだよ!」と男はキレるものの、スケッチの最後に届いた宅配ピザの誘惑に負けて肉を食いまくる。そこでいきなり画面が暗くなり、ナレーションが入る。
「◯◯は数年後、見事判事に昇格……」「△△は見事携帯電話会社の社長に」「××はハリウッド映画の監督に」「そして、□□はユダヤ人初のローマ法王に」
 で、肉男は入院しました、というオチがつき、スケッチが切れる。
 
 ふつうなら次から同じキャストでまったく別の設定、キャラのスケッチが始まるはずなのだが、なんとそこから「ローマ法王になった□□が出演しているCM」の話が展開される。さらにその次のスケッチでは「判事になった◯◯の出演しているドキュメンタリー番組」、そして「映画監督になった××のインタビュー番組」と続いていく。
 最初のスケッチで達成された各人の夢が今度はそのままスケッチの設定やネタとして流用されるのだ。
 あんまりアメリカのスケッチ・コメディ事情には明るくないので、『ボブとデイヴィッドと』が初めての試み、というわけでもないかもしれないが、観ていて新鮮だった。ギャグもふつーに楽しめる出来だしね。


ジョナサン・レヴィン監督『ナイト・ビフォア 俺達のメリー・ハングオーバー

 アパトーギャングから独立しつつあるセス・ローゲンもの。もちろんジェイムズ・フランコも出るよ。
 「オトナになりきれないボンクラ男子」系ムービーかつローゲン主演作ではいまのところベストかな。


脱走して死んだシマウマ

 ウマ科は元来誇り高い。シマウマはその中でも最も高貴な動物だ。

 ……そのわりに馬の家畜化は必ずしもかんたんに成功したわけではなかった。およそ九〇〇〇年前頃、西アジアで麦の栽培が開始され、ほとんど同時期に家畜の飼育も始まっている。羊や山羊に比べれば、牛や豚はやや遅れたが、馬はそれよりはるかに遅れて飼育されるようになった。
 馬を家畜化する以前から、人間は家畜動物の扱い方をすでに知っていたはずである。しかし、馬を飼育するには、ほかの動物よりも、かなりの努力と革新が必要であった。
 じっさい、ウマ科動物のなかでも、シマウマは現在でも家畜化されていない。

(本村凌二『馬の世界史』中公文庫)


 シマウマはなぜ縞模様なのか。
 他の縞模様の持ち主たち、シマリスやシママングース、そしてトラといった動物はどれも擬態して天敵あるいは獲物から身を隠すためにシマシマの毛皮を獲得したと言われる。
 だが、シマウマだけはそうではない。土色と黒の縞模様であるトラやシマリスなどとは違い、シマウマのモノトーンはサバンナで目立ちすぎる。擬態の体をなしていない。
 一説には群れをなしたときに個体同士の境目の区別を曖昧にして、捕食者の狙いを定めにくくする効果があるともいう。
 シマウマは自然に身を隠すのではなく、むしろ自分たちの存在を主張することによって生きようとする種なのだ。後ろ蹴りの威力に絶対の自信を持ち、けっしてヒトに飼いならされない。*1

 そんなシマウマを牧場につなごうとしたのがそもそもの間違いだった。


シーナ [DVD]

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 アフリカの奥地に取り残された少女が成長してジャングルの女王となり、シマウマを乗り回すようになる映画。

アンドリュー・バジャルスキ『成果』(Results)


Trailer Alert: Results | Guy Pearce, Cobie Smulders (Kaleidoscope Entertainment)

 マンブルコアに関する記事をまとめといてバジャルスキを一作も見ないのもどうかな、というある種の疚しさから観た。出ている面子が常に無く豪華(といっても落ち目のガイ・ピアースだけど)だし、ルックス的にもそれなりに金をかけているっぽいので、マンブルコアに含めるべきかどうか。
 ロマコメには普段あんまりノレないたちなのだけれど、これはよく出来ている。
 最初はデブの成金(ケヴィン・コリガン)の恋愛話だと思わせといて徐々にデブの通うフィットネス・ジムのオーナー(ガイ・ピアース)の恋愛へとシフトしていくのを、不自然さなく見せていく。ピアースは「人間努力すればなんでもできる」という哲学を極端に信仰している人間で、いちおうまともな社会人ではあるんだけれど、ある事件がきっかけで殴り合って喧嘩したデブに対して別れ際、「でも身体を鍛えることはやめないでほしい。他のジムに通う気はないか?」と言葉をかけるちょっとズレたとこも持っている。
 そんな彼、デブ、そして二人の男の間に挟まれたデブの専属トレーナーの女性(コビー・スマルダーズ)の三角関係、というにはあまりにグダグダでへんてこな関係が観ていて飽きない。

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 いかにもロマコメっぽい説教なのだけれど、これの前後のおかげで流れとしていい味出している。

*1:ここまで『ダーウィンがきた!』知識

iTunes における映画の雑なあらすじ分類

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 基本的に iTunesで販売・レンタルされている映画に書かれているあらすじはきちんとしている。
 どこの馬の骨とも知れないやつが無償であらすじを書く Wikipediaや見放題パックで売りっぱなしの Netflix などとは違って、映画会社もアップルもカネとるために売ってるのだから、すこしでも客のハートにひっかかるように努力するのはあたりまえの話だ。
 
 ところがそんな iTunesにあってさえ、よくわからないあらすじが時たま混入してくる。変なあらすじには iTunesにかぎらず、だいたいのパターンがある。あらすじとして情報量が足りないか、やたらポエムみたいか、変にネタバレしてるか、妙に自信が欠けている*1か、そもそも作品自体の内容がおかしいか、この五つのいずれかだ。
 いくつか例を見てみましょう。

情報量が足りない型

・あらすじとは、一般的に映画のプロットや要点を紹介するものだと思われている。ところが天と地の間には読んでいてプロットも要点もわからないあらすじが多々存在するのである。 


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 本の紹介にしかなってない。*2


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 元カノの人工授精を手伝ったところはまではわかるが、そこからセックスしてなんで「なんと二人とも妊娠することに」なるのか。人工授精後に女性器同士をすりつけあってるともう片方も妊娠したってことなのだろうか。そういうことってあるのか。


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 どうやら映画内映画と(映画内の)現実の二つのレイヤーがある系の作品らしいけれど、その二つのレイヤーをフラットにあらすじっているためなんだかよくわからない説明に。

ポエム型

・とはいえ、iTunesにおけるあらすじは「解説」と称されており、それを狭い意味で受け取れば必ずしも紹介する側にあらすじを述べる義務は生じない。しかし、世の中には「解説」すら拒否したもっと禍々しい紹介文もある。それがポエムあらすじだ。


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 三池崇史の『IZO』を彷彿とさせるサムライ・ワイドスクリーン・バロック感。それにしても宮本武蔵がサムライなのは当然として、なぜヤクザ。


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 本気で何言ってるのかわからない。

ネタバレ型

・あらすじというのは存在そのものがネタバレ性を孕んでいる。といっても物事には限度があるわけで、その間合いを見誤ると大変なことになる。


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 ミステリーであるにも関わらず、解決しないことをあらかじめ謳って売りつける親切かつ斬新な商法。

自信がない型

・映画を紹介するときの常套句として「この作品はきっとあなたを〜だろう」というフレーズがあるわけだけれど、これの使いどころや文脈を間違えると単なる自信のない人と化してしまう。特に、長々とあらすじを語った最後の一文でぶちこむと唐突感とあいまってかなり危険。日本語ってむつかしいね。
 ソフトを販売する側でありながらも、TSUTAYAタワレコほどのフランクさを見せない iTunesの立場の微妙さが伺える。


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 あらすじのあとにワンクッション置いてるため比較的軽傷。とはいえ、もっと自信をもって感動の渦に巻きこんで欲しい。


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 一番危険なパターン。「最高に面白い」と言っておいて最後に「だろう」をつける竜頭蛇尾っぷりが不必要なまでに不安を煽りまくる。

狙ってる/そもそも作品が狂ってる型

 これ系はあげればキリがないんじゃないかと思われそうだけれど、意外とイカれたコメディのあらすじを真面目に詳らかにしている作品って少ないんですよね。ポエム型と親和性を持ちます。


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 あらすじを読んでいるだけで幸せな気分になれるけれど、実際に観てみてもそれ以上の幸福はもたらされないんだろうなあ、という気もする。


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 ノリノリすぎ。


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 比喩ではなく、生産性のないやつは本当に爆発します。


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 処女懐胎はジャンルとしての開拓の可能性に溢れていることを示唆してくれる一本。



 一番最後の「狙ってる型」を除く雑なあらすじに共通するのは、受け手とのコミュニケーションを絶対的に拒否しているところであって、書く方にはもうちょっとまじめにがんばってほしいし、アップルもアップルでちゃんとチェックしてほしいところなんだけれども、まあ、みんな大変だろうし、ほどほどにやってくれればいいよ。
 
 

*1:より大きなくくりでいえば「日本語がおかしい」

*2:IMdbの紹介文をそのまま直訳した節がみうけられる

今週のトップ5:『バットマン vs スーパーマン』、『ドリームホーム』、『マジカル・ガール』、『砂上の法廷』、「Georgia」、アニメ『くまみこ』第一話

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ルーシー・シュローダー「GeorGia」(Vance Joy)

www.youtube.com
「Riptide」以外未見だったヴァンス・ジョイのMVを回っていて見つけた叙述トリックもの。
仕掛け自体はありがちなんだけど、むしろどんでん返しの後が良くて、まるで「そういうもの」に感情移入して喜べるジャンルファンとそれを冷めた眼で「なにが面白いんだこいつら」と眺めやるパンピーとの温度差が戯画化されたよう。

vimeo.com

MVを監督したルーシー・シュローダーは基本的には悪夢系ファンタジックMV路線でやっている人で、人間の住居の一室で所在無げに佇んでるアルパカや、髪を後ろではなく前で編んだため右目以外の顔がほとんど隠れてしまった女や、首だけカール・ラガーフェルドみたいなおしゃれなおっさんの人面でそこから下は小型犬のサウンドエンジニアや、テーブルのうえでエビ反りになって足に挟んだパイにケチャップをかける女や、互いにアゴヒゲがつながった男二人など見ているだけで楽しくなるビジュアルを一つの作品のなかにどんどん盛り込んでくれるインフレ的なサービス精神に長けたMV監督らしいMV監督。

ラミン・バーラニ監督『ドリーム・ホーム 99%を操る男たち』


映画「ドリーム ホーム 99%を操る男たち」予告編 #99 Homes #movie

 自分の好む映画の傾向を考えるに一つ出てくるのが「冷徹でクレイジーな実利主義者(大局的に見ればたいがいは小悪人)がメンター役となって無垢な主人公を地獄へ引きずり込む」系の歪んだ師弟物というべき作品群で、『セッション』を筆頭に『プラダを着た悪魔』、『トレーニング・デイ』、『ウォール街』、『コラテラル』などなどまずハズレない。*1むろんコンセプトだけで百発百中ということはありえないので、『ランナーランナー』なんかは超絶つまんないんですが、さいわいにも『ドリーム・ホーム』はそうした不幸な例外にならずに済んだ。
 こういう系に共通するのは、導かれる側の主人公がメフィストフェレス役の人物に対して「こいつは明白にイヤなやつだけど、実際成功してる、あるいは言ってることが論理的だし、もしかしたら正しいのかもしれない」とちょっと思わせられてしまうところで、それは同時に主人公へ感情移入する観客の思いでもある。おうおうにして社会的な成功と倫理的な正しさは両立し得ない。*2とはいい条、ほどほどに成功してほどほどに善良な人物はいくらでも実在するはずなのだけれど、そういう人間はお話にしたところで面白く無く、エンタメとしては「びっくりするぐらい金持ちで最高にヤなやつ」というくらいでないと観てて楽しくない。映画館とはパッケージ含めてありえない極端さを見られる空間なのだし。

 とはいえ、バイポーラーめいた一かゼロかの状況がまったく現実と乖離しているかといえばそんなこともない。こと近年ではよく貧富の格差や中流層の消滅をどこの国でも見聞きするわけで、『ドリーム・ホーム』の扱っている題材もまさにそれだ。彼らが生きているのは、負けても凡夫としてフツーにつまらない日常を生きられる社会などではなく、勝つか負けるかで負けたら惨めに死ぬしかない社会だ。
 本作でメフィストフェレス役を務める不動産ブローカーのマイケル・シャノンは弁舌さわやかに「アメリカは勝者による勝者のための勝者の国だ。方舟に乗れるのは百人中たったの一人。おれはその一人になる。おまえはどうだ?」と若いアンドリュー・ガーフィールドにかっこつきの「アメリカの現実」をつきつけ、貧乏暮しの惨苦を味わってきたガーフィールドをアジって汚れ仕事をたくみに押し付ける。そもそもガーフィールドはシャノンの思想に同意するか否かに関わらず、この職を喪ったら子供と母親を抱えて路頭に迷ってしまう。

 邦題*3が言っているように家を、それも貸家ではなく持ち家を持つというのは都市化と郊外化を経験した20世紀以降の文明人にとって一つの夢だ。*4ことにアメリカ映画では、家は印象的なモチーフとして頻出する。家は家族にとって絶対不可侵の聖域であり、土足で踏み入られたり、破壊されたりするのはほとんど悪夢に近い。それをとりあげられるということは、アメリカン・ドリームが奪われること、「アメリカ」に住めなくなることすら意味する。
 だからなのか、ガーフィールドは自分が生まれ育って家に執着を燃やす。シャノンの元で苦労して稼いだ金を、とりあげられた持ち家を取り戻すためにつぎこもうとする。母親のために、子どものために、自分のために、そこで育んできた幸福な過去を取り戻すために道徳心を押し殺し、しゃかりきに働く。
 ところがそんなガーフィールドをシャノンは冷笑する。
「家なんてのは」とシャノンはうそぶく。「ただの箱だ」
 彼は家を聖域としてみない。もしかしたら、彼にも家庭と家を直結させていた時代はあったのかもしれない。しかし、リーマンショックを経験して「一介の平凡な不動産業者だった」というシャノンの人生は一変した。あの空前の悲劇を通じて、家というものが思い出を投影先でなく、投機の対象でしかないことを知ってしまった。
 彼はアメリカン・ドリームの消滅とともに生まれた怪物なのだ。しかし、夢なき社会では怪物にならないのでもないかぎり、生きてはいけない。ガーフィールドは怪物になれるのか。


 歪んだ師弟物で興味深いのは、申し合わせたように決まったオチを迎えること。様式美といってもいい。
 つまり、押し付けられた七難八苦を乗り越えて人間的に一皮むけた主人公が「それでもやっぱりあんたは間違っている」と師匠に背を向けて訣別するんですね。
 やっぱり、それまで悪人を魅力的に描いてきた分、どこかで倫理的な揺り戻しをやらなきゃいけないという意識が作り手の心理として働くのか。この手の作品で「色々あったけど、私も師匠も特に改心せず元気にブイブイいわせてます!」なんてのは観ない。余談だけれども、『セッション』が新鮮だったのは、まさにそこの部分。いったん「師匠との訣別」というオーソドックスな手順を踏んでおいて、「その先」を描いた。
 
 

カルロス・ベルムト監督『マジカル・ガール』


映画『マジカル・ガール』予告編

 いきなりシステムの話から始まる。
 数学教師が教え子にこう述べる。「歴史には無限の可能性がありえるが、たとえ我々がいかなる状況にあったとしても2+2は4で変わらない。たとえナポレオンがスペインを占領して、今我々がフランス語で授業しているとしても、2+2は4だ。それが数学というものだ」
 では、『マジカル・ガール』で用いられる方程式とはなんであるのか。

 『魔法少女まどか☆マギカ』の経済原則は、願いと報いの等価交換だった。願い事が大きければ大きいほど、その代償は膨らんでいく。因果応報。ある意味で、非常に倫理的な原理といってもいい。そういう観点でいくと、ベルムト監督はたしかに『まどマギ』をよく観てよく理解している。
 一方で、ノワールやヤクザ映画にも似たような経済原則がある。こちらは物理法則と言ったほうが正しいのかもしれない。作用と反作用。「メンツ」と呼ばれるシステムだ。すなわち、「メンツ」に傷が付けば、傷つけたほうの誰かが殺される。いちばんわかりやすいのは殺したので殺し返すというやつだが、命の等価交換とはかぎらない。一人殺されたのに対して二人殺しかえしたり、十人殺し返したりすることもある。彼らは一般的にはあまり理解されがたい公理で動いていて、定量化しづらい。
 どちらにも共通しているのは、一度動き出したらもう止めようのない暴力的な半自走式の機構であるところだ。ベルムト監督は往路は魔法少女の経済学で、復路はヤクザ映画の経済学で願いと報いの方程式を完成させた。
 魔法を願う白血病の少女の父親の前職が文学教師なのも、願いの対価として登場する男が元数学教師なのもつまりはそういうことで、実のところ漠然とした夢想でしかなかった*5少女の願い(好きなアニメで魔法少女が来ていた服)を父親が金で買える願いに換算したところから悲劇は運命づけられていた。*6

 人は物事を願うときに、その範囲を明確に定められない。矢部嵩ふうに言えば、「パースをひく」作業ができない。それは願いというものが本来叶うはずもないものとハナから措定されているからで、現実的に叶うとわかれば少しはリアリズムに傾くのかもしれないけれど、どうせ叶わないものならば無際限に高望みしてしまうのが人というものだろう。
 父親はこともあろうにそれを聞き届けてしまった。無際限に願われたものに、「本来なら幸せになれないはずの娘を幸せにしたい」というみずからの願いを乗せて叶えようとしてしまった。それは魔法少女の経済的にいえば、無限の代償を必要とする願いだった。
 
 願って報いられる人々は父娘だけではない。バーバラも、元数学教師も、願いゆえに相応のコストを支払わされることになる。極めて魔法少女的な方程式で、極めてヤクザ映画的な方法によって。


 魔法少女経済学原論。
 

コートニー・ハント『砂上の法廷』


2016年3月25日(金)公開 映画『砂上の法廷』予告編

 場面の八割から九割が法廷内で展開する純然たる法廷劇。
 端正なルックスに反して意外と破天荒なプロットで、観ていて飽きない。
 ミステリとしては先が見え過ぎるという意見をよく見るけれど、法廷劇に求めるべきは緊張感と圧迫感のダイナミクスであって、要はリズムさえ心地よければいいのです。


 それにしても顔つるんつるんのキアヌ・リーブスってキアヌ・リーブス感がゼロになるなあ。キアヌ・リーブスの本体はアゴヒゲだったのか……。

ザック・スナイダーバットマン vs スーパーマン

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 ほんとうにひどいやつだよあの三人組は。
 
 まあ個人的には『スーサイド・スクアッド』さえ面白ければDCにはもう何も望みません。『シャザム!』とか『サイボーグ』とか誰が喜ぶねん。

アニメ『くまみこ』第一話。

 『だがしかし』とは逆に、原作→アニメと変換する過程でポルナイゼーション起こしてた。
 

*1:フルメタル・ジャケット』、『冷たい熱帯魚』、『羊たちの沈黙』あたりは三者三様の理由で含めるべきかどうか迷う。

*2:実際大企業の幹部にサイコパスが含まれる率は社会全体におけるそれの値よりかなり高い。rf.マーク・ロンソン『サイコパスを探せ!』

*3:原題は「99 Homes」

*4:「家を所有することは、新たなアメリカンドリームの実現と同一視されるようになった。量産されるハリウッド映画でお馴染みのように、マイホームは達成を、すなわち満足を象徴していた。自信にあふれる父親、颯爽とした母親、ほっぺたの赤い子どもたちはやがて良い学校から大学へ進む。家はアメリカの家族をまとめる役割を果たした」(p.214,デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』ちくま文庫

*5:ラジオで読み上げられる少女の手紙を見よう

*6:冒頭で父親はカミーロ・ホセ・セラの『蜂の巣』を古本屋に売ろうとするが、本の値段を内容や文化的価値でなく、量った重さでつけようとする店員に反撥して売るのをとりやめる。だが、コスプレアイテムを購入しようと決断して、結局は自分の本をすべてその古本屋に売ってしまう。彼がヤクザの領域に踏み込んでしまったのは、実はファム・ファタルたるバーバラに出会ったときではなく、このときだった

2016年四月期、注目の新刊25冊

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2016年4月の新刊チェックリスト - フィララバキシア
*4月9日時点。発売は予告なく延期されるおそれがあります。

『追悼文大全』三省堂

追悼文大全

追悼文大全

共同通信が全国の新聞社に配信した27年間(1989年から2015年まで)の膨大な追悼文を1冊に凝縮。掲載追悼文約770編、筆者約460名。物故者索引、筆者索引、そして故人を知るキーワード索引付き。心に響く1編と出合える、空前の人生の風紋を記録する大事典。

 追悼文文学のマスターピースになるか。
 共同通信の追悼文というのは故人に親しい人間依頼して書いてもらう形式が多いようで、三省堂はこの本のために見た感じいちいち460人の許可をとってあるいてたらしい。
 もって瞑すべし。

デニス・ルヘイン『過ぎ去りし世界』ハヤカワ・ポケット・ミステリ

『運命の日』、『夜に生きる』につづくジョー・コグリン・サーガ三部作の完結編。

エナ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』創元社

翻訳できない世界のことば

翻訳できない世界のことば

外国語のなかには、他の言語に訳すときに一言では言い表せないような各国固有の言葉が存在する。本書は、この「翻訳できない言葉」を世界中から集め、著者の感性豊かな解説と瀟洒なイラストを添えた世界一ユニークな単語集。言葉の背景にある文化や歴史、そしてコミュニケーションの機微を楽しみながら探究できる。小さなブログ記事が一夜にして世界中へ広まった話題の書。ニューヨークタイムズ・ベストセラー。世界6カ国で刊行予定。

 原題はもちろん『Lost in Translation』。

ジーナ・ショウォルター『死霊の国のアリス』ハーパーコリンズ

死霊の国のアリス (ハーパーBOOKS)

死霊の国のアリス (ハーパーBOOKS)

少女の泣き声は誰にも聞こえない。その日、わたしの家族は皆殺しにされた。なぜわたしだけ生き残ったの…。わたしの中の声なき声があなたを殺せと囁く。竹中美麗挿絵付血塗られた学園黙示録…。

「怪物が襲ってくる」という妄想に取り憑かれた父親のもとで育てられたアリスは、16歳の誕生日、本物の“怪物”に襲われて家族を皆殺しにされてしまう。ひとり生き残り、罪悪感に苛まれるアリスは、転校先で学園を支配する美貌の不良少年コールに出会う。全身傷だらけのコールは、まるですべてを見透かすように――アリスに怪物(ゾンビ)が見えることを知っているかのように――見つめた。

原作の『Alice in Zombieland』は数年前に出版されたときにそのタイトルのインパクトからちょっとだけ話題になった気がするんだけれど、こんなティーン小説然とした筋だったとは。

深谷裕『加害者家族のライフストーリー 日常性の喪失と再構築』法律文化社

加害者家族の経験を、二項対立的な「善対悪」から「日常性の崩壊と再構築のプロセス」という枠組みにとらえ直す。

 フィクションではよく見るけど報道ではなかなか扱われない加害者家族のリアル。
 アカデミック系っぽいのでライトに読みたいなら数年前に幻冬舎新書から出た『加害者家族』(鈴木伸元)が適当か。

萩尾望都萩尾望都 SFアートワークス』河出書房新社

 萩尾望都です。(萩尾望都です。)

ジョー・マーチャント『「病は気から」を科学する』講談社

「病は気から」を科学する

「病は気から」を科学する

科学も心も「万能」ではない。現代医学に疑いを持つ人も、スピリチュアルが怪しいと思う人も必読のノンフィクション!ホメオパシーには科学的根拠は一切なく、「おしゃれなボトルに入った水や砂糖」だ。だが、最先端科学の現場では「信じる心」を、医療に取り入れる研究が進んでいる。過敏性大腸症候群、がん、自己免疫疾患、分娩まで、臨床現場における「心の役割」を、科学ジャーナリストが緻密な取材をもとに検証。

 いちおうフラットな立場から民間療法や疑似医学を考察するポピュラー・サイエンス本。
 こういうギリギリなところを攻めてくるノンフィクションが好きです。

宮島咲『ダムカード大全集 Ver.2.0』スモール出版

ダムカード大全集 Ver.2.0

ダムカード大全集 Ver.2.0

■「ダムカード」とは?
国土交通省独立行政法人水資源機構などが「ダムのことをもっと知ってもらおう」という目的で作成した、カード型のミニパンフレット。ダムやその周辺施設にて無料で配布されており、ダムを訪れた人が1人1枚だけ入手することができる。表面にはダムの写真と型式や目的、裏面にはスペックなどの基本情報から、ちょっとマニアックな技術情報までが記載されている。現在では、一部の都道府県や発電事業者の管理するダムも加わり、さらなる広がりを見せている。

 ワールドはワイドだわ……。

ニック・デイヴィス『カッコウの托卵 進化論的だましのテクニック』地人書館

カッコウの托卵: 進化論的だましのテクニック

カッコウの托卵: 進化論的だましのテクニック

カッコウは昔から托卵をする鳥として知られていますが、その詳細については写真やハイテク機器を用いて個体の同定や追跡、巣内の観察が行われる最近まで不明でした。観察方法の進歩につれ、どのように托卵し、それに対し宿主がどのように托卵を回避するか、共進化の様相が明らかになってきました。カッコウの托卵行動と子育ての放棄・押しつけは、果たして“進化"で説明できるのでしょうか。

 カッコウの托卵技術の進化「だけ」にスポットライトを当てた一冊。一般人にもわかりやすい叙述がされていると謳ってあるけれど、どんな一般人が買うんだろうか。

ブッツァーティ絵物語』東宣出版

絵物語

絵物語

現代イタリア文学の鬼才ブッツァーティがペンと絵筆で紡ぎ出す奇妙で妖しい物語世界

 『神を見た犬』や『タタール人の砂漠』で有名なブッツァーティ絵物語
 どんな内容かまではよくわからないものの、いつもの幻想譚なんだろう。

今野真二『リメイクの日本文学史平凡社新書

もと歌の書き換え、自作に手を入れ続ける作家たち……「推敲」から「翻案」まで、「書き換え」の諸相に目を凝らし、文学の力を探る。

 一口にリライトというけれど、和歌や古典の本歌取り、明治初期の海外作品の「輸入」、自作品の改稿、大人向けだった作品のジュブナイル化と扱う範囲は広い。

金井美恵子『新・目白雑録』平凡社

新・目白雑録

新・目白雑録

DJポリス、「佐村河内」の発注、裸の王様、反アマゾン法、戦争画東京オリンピック……。
現代日本文学の最高峰にして、当代一のことばの使い手・金井美恵子
世間にあふれる奇妙な言説への、目の覚めるような優雅な批評の技が炸裂する。
2013年~2015年の「一冊の本」で話題の人気連載の書籍化。
また、国立競技場「エンブレム」から聖火台問題までを取り上げた、
最新書き下ろし「まだ、とても書き足りない」収録。

 金井美恵子のエッセイ集。頭が良くて口の悪い人に時評を書かせると何かと面白く、金井美恵子もその一人。

日本蜃気楼協議会『蜃気楼のすべて!』草思社

蜃気楼のすべて!

蜃気楼のすべて!

ここ数年で蜃気楼の研究は大幅に進み、日本各地で新たな蜃気楼が次々発見されている。「蜃気楼とは何か」という素朴な疑問から、どうして見えるか、日本のどこでいつ見られるか、さらには蜃気楼の歴史や、美術・骨董における蜃気楼まで、まさに蜃気楼のすべてを美しい写真とともに一冊で網羅!

 蜃気楼に対してここまで命と情熱をかける人々がいるのだと思うとなんだか地球も捨てたもんじゃありませんね。

イアン・ゲートリー『通勤の社会史』太田出版

通勤の社会史: 毎日5億人が通勤する理由 (ヒストリカル・スタディーズ)

通勤の社会史: 毎日5億人が通勤する理由 (ヒストリカル・スタディーズ)

通勤こそ近代社会を発展させた原動力。19世紀に生まれ、移動・職業選択の自由をもたらし、都市と生活を激変させた通勤の歴史、現状、未来を考察。「通勤大国」日本をはじめ、世界の通勤事情も網羅。

 ヒト・モノ・カネの輸送は文明論の基礎であり我々も当然世界の通勤事情や通勤の未来について思いを馳せる義務があるのである。

ロブ・ダン『心臓の科学史 古代の「発見」から現代の最新医療まで』青土社

心臓の科学史: 古代の「発見」から現代の最新医療まで

心臓の科学史: 古代の「発見」から現代の最新医療まで

 

吉田菊次郎『洋菓子百科事典』白水社

洋菓子百科事典

洋菓子百科事典

お菓子は他の食べ物と同様に多くが農産物加工品であり、それぞれの地の気候や風土に育まれ、習慣や文化とも深い関わりを持ちながら発展してきた。そのような視点から、配合や製法のみならず、お菓子にまつわる歴史やエピソード、社会現象など文化的背景も記述している。またお菓子そのものにとどまらず、原材料・器具・製菓用語・製菓人や料理人など、洋菓子を取り巻く多数の語彙を収録している。
見出し語には対応する原語表記や他の言語での呼称を併記した。写真も多数掲載。巻末には洋菓子の日本史と世界史の年表が付属。
洋菓子のプロやプロを目指す方はもちろん、お菓子作りを趣味とする方、製菓業界に関わるすべての方に。

 なんだかよくわからないが、とにかく気合が入った百科事典だということがうかがえる。

ジュリアン・ハイト『ヴィジュアル版 世界の巨樹・古木』原書房

ヴィジュアル版 世界の巨樹・古木: 歴史と伝説

ヴィジュアル版 世界の巨樹・古木: 歴史と伝説

原書房は毎月ニッチな事典を精力的に出版してくれる優良出版社です。

ローズマリ・エレン・グィリー『悪魔と悪魔学の事典』原書房

原書房は毎月ニッチな事典を精力的に出版してくれる優良出版社です。

本橋哲也『ディズニー・プリンセスのゆくえ 白雪姫からマレフィセントまで』ナカニシヤ出版

ディズニー・プリンセスのゆくえ: 白雪姫からマレフィセントまで

ディズニー・プリンセスのゆくえ: 白雪姫からマレフィセントまで

ディズニー映画の名作に登場するプリンセスたちはどのように変化してきたのか。その表象を読み解き、文化の力学をあぶりだす。

 『白雪姫』『シンデレラ』から『アナ雪』『マレフィセント』に至るまでをカルスタ学者が読み解く。本場のカルスタを学んだ還暦のおっさんの読解なんで、まあそういうことだろう。

ニコラス・ウェイド『人類のやっかいな遺産 遺伝子、人種、進化の歴史』晶文社

人類のやっかいな遺産──遺伝子、人種、進化の歴史

人類のやっかいな遺産──遺伝子、人種、進化の歴史

「世界には、経済発展した豊かな国もあれば、停滞して貧しい国もある。
これはだれの目にも明らかなことだ。でも、どうして発展したところは発展で
きたのか? (…)本書は、それに対して別の答えを出そうとする。
それは、そもそも人間の出来がちがうのではないか、という答えだ。
平たく言えば、資本主義の市場経済を発展させられない連中は、
そのための進化が足りないのでは、というのが本書の主張となる。
――訳者解説より

「資本主義の市場経済を発展させらない連中は、そのための進化が足りない」
 こういうギリギリなところを攻めてくるノンフィクション本が好きです。ちなみにこの「訳者」とはもちろん山形浩生先生のこと。
 いちおう『背教の科学者』とかで実績あるライターのニコラス・ウェイドなのだし、なんらかのエクスキューズは用意してくるんだと思うけれど、そのまま出したら優生学思想アゲインだよなあ。

『海外文学賞事典』日外アソシエーツ

海外文学賞事典

海外文学賞事典

日外アソシエーツは毎月ニッチな事典を精力的に出版してくれる優良出版社です。

『ネット炎上の研究』勁草書房

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

インターネットが普及すれば多くの人が自由な議論の輪に加わり討論の民主主義が社会のすそ野に広がっていくと期待された。しかし論調は暗転し、ネット上での意見交換に悲観的な意見が増えてくる。この論調の暗転の大きな原因になったのがいわゆる炎上問題である。本書はこの炎上について定量的な分析を行うとともに、本書なりにその原因と社会としての炎上対策を示す。

 実のところネット炎上にまつわる本というのはアカデミズム・一般向け両方でそんなに珍しいものでもないんだけれど、これは経済学者の共著ということで分析における視点がちょっと違うっぽい。

『日本「地方旗」図鑑 ふるさとの旗の記録』えにし書房

日本「地方旗」図鑑: ふるさとの旗の記録

日本「地方旗」図鑑: ふるさとの旗の記録

3000を超える都道府県、市町村の旗を掲載した比類なき図鑑。日本47の都道府県旗と1,741の市町村旗のすべてを正確な色・デザインで地図と共に掲載、解説を加える。さらに「平成の大合併」に伴い廃止された1,248の「廃止旗」も旧市町村名とともに掲載。忘れ去られ、消えゆく運命にある旗たちの記録は合併により失われたふるさとのよすがとしても貴重である。

 ただでさえ仕事でやれと言われたらテキトーにやってすませてしまいそうなところを統合廃止された市町村の旗まで網羅するという労作っぷり。こういうのを文化事業と呼ぶんですね。
 ちなみに去年は同じ著者、同じ出版社から『世界の「地方旗」』も出てます。

忠田友幸『下水道映画を探検する』星海社新書

下水道映画を探検する (星海社新書)

下水道映画を探検する (星海社新書)

時に怪物が潜み、時に逃亡者が駆ける映画の名脇役・下水道。映画の中の下水道を徹底解説する『月刊下水道』の人気連載、遂に書籍化!

『女囚さそり』とか『地下水道』とかやろうか。

フリーメイソンの歴史と思想』三和書籍

フリーメイソンの歴史と思想: 「陰謀論」批判の本格的研究

フリーメイソンの歴史と思想: 「陰謀論」批判の本格的研究

本書は、フリーメイソンの運動が始まったイギリスやフランスの歴史分析から出発しているが、その中心はドイツ語地域のフリーメイソンの分析に当てられている。その理由はフリーメイソン攻撃の陰謀論はとくにドイツにおいて展開していったという歴史があるためだ。本書では、自らフリーメイソンであったフリードリヒ2世(大王)から19世紀における陰謀論の成立についての分析、ナチ時代のフリーメイソンの弾圧にいたるまでが解説されている。

 みんな大好きフリーメイソンについての真面目な本。

注目の新訳復刊文庫落ち

大岡昇平『無罪』小学館文庫
レイ・ブラッドベリ『10月の旅人たち』ハヤカワ文庫SF
ロス・マクドナルド象牙色の嘲笑』ハヤカワミステリ文庫
ウラジミル・ソローキン『青い脂』河出文庫
R・A・ラファティ『地球礁』河出文庫
フィリップ・ボール『かたち』ハヤカワ文庫NF
月村了衛『コルトM1851残月』文春文庫
小川鼎三『鯨の話』文藝春秋
伊藤彰彦『映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件』講談社+α文庫
フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』新潮文庫
トマス・ハーディ『呪われた腕 ハーディ傑作選』新潮文庫
伊藤彰彦『映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件』講談社+α文庫

ここ二週間あまりの間でよかったコトとモノ:『ボーダーライン』、『スポットライト』、マジヒス、『タンジェリン』、『ピンフォールドの試練』、『ヴィラネス』、『時間衝突』、他

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門井慶喜の『マジカル・ヒストリー・ツアー』 が推理作家協会賞を受賞。

いわば推理作家協会公認の歴史ミステリーガイドの座についたといっても過言ではないわけで、みんなも買って読もうな。エモいぞ。
d.hatena.ne.jp

ドゥ二・ウィルヌーヴ監督『ボーダーライン』


『ボーダーライン』予告

 最初に邦題を聞いた時はまず失望が先に立った。原題の特徴的で響きの良い固有名詞が『ボーダーライン』などというひとやま幾らのカタカナ一般名詞へと翻訳されてしまった。現代の日本映画界によくある悲劇がまた増えたのだ。そう思っていた。
 ところが、開始五分でその認識が改まる。
 冒頭、主人公(エミリー・ブラント)の所属するFBI誘拐即応班がメキシコ人容疑者のアジトへ車ごと壁をぶちやぶって突入し、圧倒的な武力で制圧する。力をもってボーダーラインを越え、ならずものどもを皆殺す。この上なく古典的なアメリカ式の正義が示される。
 だが、事件はこれで終わらない。家の中にもうひとつの「境目」が存在した。銃撃戦によって穴の空いた壁。そこから「何か」が覗いている。不吉な予感を感じつつ、主人公たちFBIは壁を打ち壊す。その壁がパンドラの箱の蓋であるとは知らない。
 その家には壁という壁、隙間という隙間に移民たちの死体が埋めこまれていた。タフなFBI捜査官であるはずの主人公たちはその死体の量と残酷さに言葉を失い、代わりに嘔吐する。ほどなく倉庫でもう一つの「蓋」が開けられて、爆発が起こる。人が死ぬ。
 このときにはもう、主人公は今まで居た場所とは違うどこかへとさまよいこんでいる。この映画が境界線についての映画であることが瞭然となる。
 かつてボーダーラインとは、彼女たち「が」越える境目だった。壁を一方的にぶちやぶる武力も権利も法的根拠も彼女たちの側にあった。けれど、今では彼女たちも越える一方で向こうからも越えてくる。
 内も外もあちらもこちらもない。アメリカもメキシコもおなじ地獄だ。けれども主人公はまだそれを知らない。

「メキシコの麻薬王が誘拐事件の黒幕だ。同僚の仇をとりたいだろう?」CIAの捜査官(ジョシュ・ブローリン)に誘われて、主人公は対麻薬戦争チームへ移籍する。しかし、作戦内容の全容はなかなか明かされない。チームの一人に身分も担当もよくわからないコロンビア人(ベニチオ・デル・トロ)がまじっているのだが、彼のこともCIA捜査官は詳らかに教えてくれない。
 最初はテキサスのエル・パソへ連れて行かれると聞かされる。が、途中で実はメキシコのフアレスへ行くのだと告げられる。あちらとこちらの混同がここでも行われる。主人公はただ捜査官とコロンビア人たちについていくしかない。
 流されるままに運ばれていくと、そこは荒れ果てた市街だ。橋には首を切断された死体がぶらさがっている。凄惨な光景に唖然とする主人公の耳元でコロンビア人がこう囁く。「フアレスへようこそ」

 そこから主人公はは迷宮的なノワールの暗黒に呑まれていく。
 取り締まる側と取り締まられる側、アメリカ側とメキシコ側はどちらも行使する暴力に質的な違いはない。CIA捜査官は違法な拷問や過激な囮捜査を当たり前のようにやる。
 法の正義を信じる主人公は上層部にチームの不正を報告するが、上司からは「これはもっと『上の人間』たちも承認した作戦だ」と取り合わない。
 アメリカなのに、アメリカの法がアメリカによって尊重されない。彼女たちが立っている場所はアメリカであって、アメリカではない。

 融解する境界線は画面でも示される。影だ。
 冒頭、誘拐犯のアジトへ向かう車中で、主人公は日向から日陰へと取り込まれる。ここでもう主人公の行き先が暗示されている。対麻薬戦争チームに参加してからは、ベッドの上で窓からさす太陽光をじっと見つめる。
 一番象徴的なのは、終盤の作戦遂行シークエンス。
 暮れなずむ夕日をバックに、とある目的地点へ突入するチームの影が、画面の下半分を覆う真っ黒な地平線へと消えていく。最後の一人の頭がすっぽり沈むまで、画面は切り替わらない。
 続いて、チームリーダーのブローリンがナイフを片手に穴の奥へと降り立っていく。闇の心臓部へと。
 主人公を含めたチーム員全員は、このとき一切の個性を剥奪された黒い影としてしか映っていない。彼らは麻薬組織の人間同様、夜の側の人間たちだ。ミランダ警告も宣戦布告もジュネーブ条約も通用しない夜の戦争が、メキシコでもアメリカでもない穴倉で展開される。
 あとはもう、闇の中だ。


トム・マッカーシー監督『スポットライト』


映画『スポットライト 世紀のスクープ』予告編

 ボストンという街、プロテスタント国家アメリカに対して例外的ともいえるカトリック優勢の地域的特殊性*1とそれに伴う閉鎖性という前提がまずアメリカ国外の観客には飲み込みづらく、そしてまさにそのドメスティックさゆえにアカデミー賞*2を獲ってしまうような作品に対して海の向こうの遠い隣人である僕たち私たちがかけてあげられる言葉など「えろうご苦労様どしたなあ」と毒にも薬にもならないねぎらいくらいだと思う。
 やろうと思えばいくらでもドギつく脚色しうる題材に対してトム・マッカーシーという人は限りなく誠実な態度で臨んでいる。
 ゆるやかに、静かに、一直線に、地味に、迷いなく盛り上げていく脚本、はしたなくない程度のカタルシスに徹したテンポのよい演出。
 カソリックでもなければプロテスタントでも、ましてやアメリカ人でもない外野としては「ドぐされド田舎クソコミュニティもの」にありがちな陰湿な地域住民の攻撃を期待してしまうもので、カソリックの腐敗を暴こうとする主人公の家に石か銃弾の一発や二発撃ち込まれてほしかったけれど、この映画はそういうことはしない。そういうのはない。っていうか、ボストンはド田舎ではない。四百万人からの人々が住む大都会だ。
 そう考えると、『ブリッジ・オブ・スパイ』できっちりトム・ハンクス弁護士の家族を姿なき近隣住民に襲撃させたのはスピルバーグのサービス精神だったのか。
 まあどっちも実際の出来事をそのままホンにしただけですって以上に他意はないんだろうけれど、題材に対して誠実*3であるか、チージーなエンタメとしての映画に誠実であるか、映画作る人というのはどちらかを選ばないといけないんで大変なんだなあ、と思いました。

スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪

スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪

 事件そのもののエグさを楽しみたい人は、ネタ元本? のこれを読むといいです。
 

ショーン・ベイカー監督『タンジェリン』

 Netflix で配信。*4
 彼氏(ジェームズ・ランソン)の罪をかぶって出所してきたトランスジェンダーの娼婦(キタナ・キキ・ロドリゲス)が、自分の服役中に彼氏が女と浮気していたと親友であるこれまたトランスジェンダーの娼婦(マイヤ・テイラー)に聞かされ激おこ状態に。
 彼氏を問い詰めるべくロスを歩きまわるというまあ見た目なんでもないような基本コメディなんだけれど、彼女を中心に描かれるはぐれものたち(トランスジェンダー、娼婦、移民)の悲哀がすさまじく鋭利で、胸を抉ってくる。
 皮肉な笑いでコーティングされて口当たりこそソフトなんだけど一皮むけばただただツラい、ツラさだけの連続で、咀嚼してくると気が滅入ってくるところもあるのだけれど、唯一希望として描かれるトランスジェンダーの娼婦同士の友情が絶望に圧し潰されそうなこの映画の背骨をなんとか一本通して立たせていて、そういう意味では良いガールズムービーであるともいえます。
 
 ちなみにiPhone 5sにアナモレンズつけて撮った超低予算映画*5だそうで、たぶん言われなければ気づかないくらいのルックがぱっきりしてる。ちょっとインスタグラムっぽさあるけど。

iPhone Filmmaking Advice by TANGERINE Filmmaker Sean Baker
ショーン・ベイカー直々のiPhoneで映画撮影講座

イーヴリン・ウォーピンフォールドの試練』

ピンフォールドの試練 (白水Uブックス)

ピンフォールドの試練 (白水Uブックス)

 
老年の人気小説家ピンフォールドさんが船旅中に自分に対する陰謀を企む声が聞こえてくるようになって段々おかしくなってくる、というアメリカ人が書きそうなパラノイアキチガイの話なんだけれど、幻聴のなかに自分に恋する若い娘のものが混じっていてその娘と本気になっていくあたりから『蜜のあわれ』っぽい食感に変わっていき、でも終わる時はやっぱりイングリッシュというか、ウォーだなあと感嘆せざるをえないあっさりさ。

勝新太郎三船敏郎の伝記

偶然完全 勝新太郎伝 (講談社+α文庫)

偶然完全 勝新太郎伝 (講談社+α文庫)

サムライ 評伝 三船敏郎 (文春文庫)

サムライ 評伝 三船敏郎 (文春文庫)

どの本も勝新や三船を「気遣いのできる、寂しがり屋な良い人」として親身に描きたがっているんだけれど、本人たちがそういう枠に収まるに気ぃ更々ないのでロデオ大会みたいな状態になっていて笑える。
春日太一の『天才 勝新太郎』も入れ込みっぷりはパなかったけれど、一応評伝に徹していたのでなおさら。

武井宏之『猫ヶ原』一巻

猫ヶ原(1) (マガジンエッジKC)

猫ヶ原(1) (マガジンエッジKC)

猫侍

猫侍

『ヴィラネス』の三巻と『大帝の剣』一巻

夢枕に獏が……。(はやく『真伝・寛永御前試合』の続き書いて漫画再開させろの意)
関口柔心が生物の身体構造に興味を抱くサイコパスゆえに関節技を極められるっていう設定がパーペキにロジカルでいいですね。

大帝の剣 (1) (角川文庫)

大帝の剣 (1) (角川文庫)

大帝の剣』に出てくる宮本武蔵が完全に『ヴィラネス』アフターってかんじ。

バリントン・J・ベイリー『時間衝突』

時間衝突 (創元推理文庫)

時間衝突 (創元推理文庫)

五年くらい積んでたものを『カエアン』復刊にあたって読む。
タイムトラベルものでここまで面白い設定思いつける人はなかなかいないんじゃないかな。
話は東映ヤクザ映画みたいだけど。

あとまあいろいろ読んだり観たりしてたけど私は元気です。
あ、あと麻耶雄嵩の講演会に行きました。
『さよなら、神様』のハートマークは黒塗りにするか白抜きにするかで悩んだそうです。

*1:クッシング枢機卿が死亡した一九七〇年までに、アメリカにおけるカトリック教会の長い成長期間は終焉を迎えていた。その時点で、アメリカ・カトリック教会は、アイルランド人が圧倒的に多かった。清教徒プリマスロックに上陸してすみやかにボストンに移ってから二世紀以上、ニューイングランドの州都は、プロテスタント市民のためのプロテスタントの都だった。だが十九世紀中葉、転機が訪れた。アイルランドのジャガイモ飢饉が起き、英国が植民地の救済措置を拒否したとき、一〇〇万人以上のアイルランド人が移民船に乗りこんだ。ほとんど一夜にして、ボストンの宗教人口は変わり、世紀末には、アイルランド生まれの市長が初めて誕生した。/『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪 』

*2:アカデミー作品賞はアメリカの自意識を反映していればしているほど受賞しやすくて、それはフランス映画である『アーティスト』やイギリス映画の『英国王のスピーチ』ですらそう

*3:『スポットライト』は単に巨悪の腐敗を暴く痛快ジャーリズム万歳映画ってだけではなくて、同じ地域住民として「俺達もまた加害者ではなかったか。無関心ではなかったか」と問いかけを主人公たちや観客にもつきつけるいかにも良心的な社会派映画で、そういうところもまた誠実さの一片であると想う

*4:去年の東京フィルメックスで上映されたらしい

*5:10万ドルくらい

万物のアルケーはクマである。――『レヴェナント:蘇りし者』の第一印象

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f:id:Monomane:20151006052852j:plain

一度、熊を見たことがある。トラバサミの罠にかかっていた。熊は自分の脚を食いちぎり、罠から逃れた。アラスカでのことだ。その一時間後に川でうつ伏せになって死んでいたよ。まあ、いわば自分らしく死ねたわけだ

ドラマ版『ファーゴ』、第八話


 クマーン(挨拶)。
 本感想はトレイラーで明かされている程度のネタバレを含みます。

私はクマを諦めない。


映画「レヴェナント:蘇えりし者」特別映像:Themes Of The Revenant


 開始三十分ほどでクマが出てきて退場する。

 想像していたよりは長く、期待していたよりは短い、その出演シーンが終わるとクマを観に来た我々クマウォッチャーは劇場の暗がりでささやかな後ろめたさと背徳をおぼえながら腕時計をチェックして、残りの二時間をクマなしで過ごさねばならない事実に愕然する。

 クマ映画だと聴かされて来たのにクマが全体の十分の一も出演しておらず、どころか前半で退場するとは。

 あるいは『サイコ』以来の掟破りの構成であるけれども、ヒッチコック以来だからといってジョン・フォード及びマンキーウィッツ以来史上三人目のアカデミー監督賞二年連続受賞者であるイニャリトゥが、先人三名ほどのスペクタクルを、残り二時間クマ抜きで、そうクマを欠いた状態で提供してくれる可能性があるかといえば、これまでのフィルモグラフィから察して期待薄であると言わざるを得ない。

 これから二時間、クマもなしにどういう気持ちで広漠な雪原とボロボロのディカプリオを眺めていればいいのだろう……。
 山か寺にでも篭もれば何かが悟れそうな虚無の境地に至った我々の荒涼たる絶望の岩場に、しかし二十分もしないうちに新たな希望の湧水が噴き出してくる。

 もしかしたら、まだこれはクマの映画なのかもしれない。そう思い始める。
 さらに三十分後には、それが確信へと変わる。
 これは確実に全編通じて疑いようようもなくクマの映画であり、我我はいままさにクマを目撃しているのだ、と。

その透明な熊嵐に混じらず、見つけ出すんだ。

 今、熊がアツい、とむやみに放言したら不謹慎のそしりを免れない時節であるので範囲を絞って名指せば、『くまみこ』アニメ化、山猫がクマに乗れるゲーム『Paws: Shelter 2』、『ズートピア』、そして先日アメリカで公開されたばかりファヴロー版『The Jungle Book』と日本どころか全世界クマにあふれている。世界にクマの嵐が吹き荒れている。

 そのクマ嵐の発生源というか、回転する嵐の静止点に位置しているのが、昨年度アカデミー賞監督賞主演男優賞ゴールデングローブ賞最優秀クマ賞を受賞した『レヴェナント』であることは疑いようもなく、いまやクマはハリウッド映画に欠かせない最重要アクターといえる。換言すればクマこそ現在のアメリカ映画産業を支える巨人アトラスであり、「クマでなければ人間ではない」というクマ至上主義的な言辞がまかりとおっているのもむべなるかな、というか、クマでもなく人間でもなければそれはクマ及び人間以外のいかなる動物でもありうるので油断はできない。


Jonah Hill Presents As The Bear From The Revenant At The Golden Globes 2016!
 ゴールデングローブ賞の授賞式でスピーチする『レヴェナント』のクマの様子


 そういうわけであるので我々は『レヴェナント』を鑑賞するにあたって、クマにしか興味を持たない。
 野生(生命)と文明(道具)が対比される火の使い方や生肉に象徴される生命力など眼中にも入らない。神学などもはや賢しきものですらある。歴史などは一顧だにする必要もない。
 ストーリーはどうでもいい。
 実際のところ、かなりどうでもいい。

 端的に言えば、インディアンである亡き妻との間に生まれた混血の息子を殺されて、雪山に放置されたディカプリオが復活して仇であるトム・ハーディをぶっ殺しに行く、それだけの話だ。

 古典的といえばあまりに古典的なインディアンの使い方にPCに慣れた我々は居心地の悪さを一瞬おぼえるが舞台自体古典的な時代なのでこれでいいのだと安心するものの、それにしても作劇上の観点から言っても愚直なまでキッチュなインディアンの用法に別の意味で大丈夫なのかイニャリトゥと問いかけたくもなるけれど、とりあえずそれもどうでもいい。
 毎度おなじみルベツキの超絶カメラワークだとか、ディカプリオと劣らぬトム・ハーディの熱演だとか、坂本龍一の劇伴だとか、全部脇に置いてしまえ。

 この白銀の野で必要なのは、クマだけだ。
 なぜクマ以外必要ないかといえば、過酷な吹雪の荒野にあって生き残れる動物はクマだけなのであり、クマでなければ生存できない。
 ならば生き残るためにクマ化を選択するのも当然という以上に必然な論理なので、レオナルド・ディカプリオがクマになったとしても驚くにあたらない。
 実際、ディカプリオはクマになる。
 『レヴェナント』はクマになる話だ。

LOVE BULLET & KUMA-YUKI ARASHI

 実際、ディカプリオ=クマであることをイニャリトゥは執拗なまでに印象づける。
 まずディカプリオを襲ってくるクマそのものが直截的にディカプリオと対応する関係にある。
 毛皮ハンターたちの斥候を務めるディカプリオは、偵察行の最中に仔熊と遭遇し、まもなく親熊に襲撃される。
 クマ視点から言えば、つまり、親熊が仔熊を守るために銃を抱えた不審者であるディカプリオを先制攻撃したわけで、その凶暴なまでの親心は今更言うまでもなくディカプリオのそれと重なる。
 ディカプリオはその昔、インディアンの居留地に攻め寄せてきたアメリカ人の軍隊の士官を、息子を守るために殺害した過去を有している。そのときに妻を喪っており、残された一粒種を守るべくディカプリオはどんなことでもやりぬく覚悟を持っていたのだが、覚悟だけですむほど世の中というかトム・ハーディは甘くなく、無念、息子は(色々あって)ディカプリオの目の前で毛皮ハンターの一人であるトム・ハーディに刺殺されてしまう。

 その瞬間、クマなみの親心が暴発し、ディカプリオは復讐の権化となる。そして物語が進むにつれ段々獣じみてくる。
 言葉を失い四ツ足で這うのをはじめとして、臆面なく生肉を喰らい、川魚を素手でつかみ、本能だけでサバイバルのための最善手を選びとる。
 ついでに風貌というか服装も最初はまともなナリだったのが、どこからか毛皮を調達してきて重ね着するようになり、最終的には毛皮からディカプリオの人面だけがひょっこり覗くだけの物凄い感じになる。クマ感だ。
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 はてしなく、クマだ。こいつは。

あの森で待ってる

 クマに復讐という概念があるのかどうかはわからないけれども、このディカプリオの執念と生存本能はとにかく野生動物じみている。
「息をし続けろ」とはディカプリオが劇中で息子に繰り返し語る言葉だ。これがそのままディカプリオの態度に跳ね返ってくる。
 文明的な意味での自己保存、特に金に執着し、インディアンを「野蛮人」と罵るトム・ハーディとはとにかく対照的だ。彼はクマに襲われた直後のディカプリオに対してこう質問する。
「どうして、そんなになってまで生きたがる?」
 彼にはディカプリオの気持ちがわからない。
 息子の復讐のためだけに、瀕死の状態になりながらも零下二十度の雪原を踏破するクマの気持ちが理解できない。

 そして序盤でディカプリオが示した通り、人はクマには勝てない。
 ただし、クマも人を裁けない。

 ディカプリオを襲ったクマは自分の子どもを守るという大義名分があった。
 その守るべき子どもを喪ってしまったディカプリオクマは、トム・ハーディを殺す理由がない。

 だから、そこからは、神の仕事だ。ライフ・ジャッジメントだ。
 シャバダドゥ。




Yuri Kuma Arashi Full Op あの森で待ってる / ボンジュール鈴木
 そういえば『ユリ熊嵐』のOPであるところの「あの森で待ってる」の歌い出しの歌詞が完全に『レヴェナント』なんですが、イニャリトゥは当然ユリ熊を観ているって理解で良いんですかね? 劇中で出てくる「月の森」も七話あたりの各話タイトルのもじりでしょ?*1


レヴェナント 蘇えりし者 (ハヤカワ文庫NV)

レヴェナント 蘇えりし者 (ハヤカワ文庫NV)

原作本。西部劇小説は映画作品にならないと翻訳されないよね。『シェーン』とか『駅馬車』とか。

*1:そういうことばっかり言ってると正気を疑われるのでやめましょう

『ズートピア』スタッフインタビュー記事翻訳:脚本家、プロデューサー編

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逐語訳でも完訳でもない。
原文:http://www.slashfilm.com/zootopia-writers-interview/

インタビュイー:
ジャレド・ブッシュ(共同監督、ストーリー、脚本)
フィル・ジョンストン(ストーリー、脚本)
クラーク・スペンサー(プロデューサー)

インタビュアー:
ピーター・サイレッタ


――制作過程について伺いたいです。といっても、これまで他のインタビューで似たような質問を訊かれて、同じ答えを何度も繰り返してこられたのでしょうけれど……

ブッシュ: いや、今回は新しい答えを用意してるよ!


――(笑)是非おねがいします。冗談はさておき、企画がどうのような経緯で練られていったのか非常に興味があります。どういった感じで立ち上げられたのでしょう? また、どういう風に発展していったのでしょう?

ブッシュ: 一番初めは監督のバイロンのアイディアだった。バイロンは動物映画が――しゃべる動物の出てくる映画が大好きでね。特に『ロビン・フッド』。
 バイロンは最初から動物の世界に住むキツネとウサギのキャラクターを出そうと考えていた。
 僕が企画に参加したときは、スパイ映画になる予定だった。最初の十分間は哺乳類たちの世界で展開して、やがて舞台がいろんなイカれたことが起こる南国の島へと移る。そこから、もっとスパイ映画色が強まっていく。


――つまり、最初の構想にズートピアという街は入っていなかったわけですね。

ブッシュ:そういうことだね。
 ところが、僕が参加した初日にバイロンのもとへ意見を聞きに行くと「スパイ映画はもうやめだ」と言われた。
「じゃあ、どういう映画にするんです?」と僕は彼に尋ねた。
「僕にもまだよくわからない。たぶんキツネとウサギが出てきて、ある街に行くんだよ」と返ってきた。


――スパイ映画のほうにはキツネとウサギは出てこなかったわけですか?

ブッシュ:そうだね。かなり違うタイプの話になる予定だった。謎解きミステリーという枠組みを、次の物語にも残すつもりだった。
 プロジェクトが進行するにつれて、キツネを主人公にしてウサギを対置させる形で置こうと決めた。
 キツネの背景となるバックストーリーを色んなバージョンで書いた。今の『ズートピア』とはかなり違うバックストーリーをね。
 しかし、物語とは、その映画が何を観客に伝えたいかにかかってくる。
 僕たちは「動物たちは互いに先入観を抱いている」というアイディアを中心に据えて、それを軸にすべてを肉付けしていった。


――私がこの映画で好きな要素の一つに世界観があります。まるで本当に存在するかのように感じられるし、行ってみたいとも思わせられる。
 どういった経緯でズートピアという街が設定されたのでしょうか?
 世界観から作り上げたのか、キャラクター先行だったのか、ストーリー先行だったのか……?

ブッシュ:
 この映画は他のとはちょっと異なるやり方でできている。
 僕らはまず何ヶ月もかけて膨大な量のリサーチを行った。
 世界観を構築するまでの間、とりあえずストーリーを考えるのはやめておいたんだ。
 世界観さえ出来上がれば、自然と物語も湧いてくる。
 リサーチを通して、地球上の90%の動物は被捕食者だと知った。被捕食者と捕食者で9:1なんだ。興味深い比率だ。

 次に動物たちがどのようにしてお互い関り合いを持っているのかということを追求しだした。リサーチが物語を大きく動かしたんだ。
 この段階で”ロビン・フッド”を降ろして別のキャラを主人公に据えることにした。シニカルで毒舌なキツネよりも、チャーミングな皮肉屋でかつ皆に好かれそうなキャラが世界観に相応しそうだったからね。
 そして、ウサギならもうちょっと前向きなキャラで行けるんじゃないかということになった。主人公の変更が決まったあとでも、リサーチによってだいぶキャラに変更が加えられたけどね。

スペンサー:リサーチが終わると、街がどういう外観をしているのか、ストーリーはどうなるべきなのか、動物たちをどうやって作り上げればよいのか、どういう技術が必要なのか等々の多種多様な問題が一斉に吹き上がった。
 そうして、ストーリーを作り始めると実際に必要なこと――どんなキャラクターやどんなタイプの動物が物語に必要かわかってきたんだ。

ジョンストン:個人的に言わせてもらえば、物語先行でキャラクターを動かすのは難しいことだと思うね。
 いったんそのキャラクターについて知ってしまえば、特定の状況下でどういう態度をとり、どういう反応を返すか容易に想像できる。出来合いのプロットをキャラに押し付けるのは破滅への第一歩だよ。
 だから僕はまずキャラクターを固めることにした。彼らがどういう欠点を抱えて、どういう乗り越えるべき障害を持っているのかを考えて、それらをできるだけ彼らにとってハードなものにした。


――本作はとてもクレバーに構築されています。すべてのキャラクターに細部があり、すべての背景にも細部があり、多くの引用やオマージュが織りこんである。
 そこでなんですが、30回観るまで気づかないような隠しネタについてお聞かせ願えませんか。

ジョンストン:イースターエッグであれ、映画のテーマであれ、あんまり観客の思考を誘導するようなことは言いたくないんだけどね……。
 まあ、隠しギャグはとにかく大量に仕込んでるよ。

ブッシュ:
 この作品に関わるスタッフはどの部署の人間であろうと、よってたかってネタを仕込みたがる。共同監督として、そういう行為を許していいのかって?
 まあ許容したほうが士気は上がるよね。
 どんな場面であれ、映画をいったん停止させて眺めてみれば、脚本にないジョークが十個は見つかるはずだ。
 スタッフのテンションが上がりまくった結果さ。

スペンサー:
 スタッフには彼らの「持ち分」がある。
 たとえば、劇中登場する看板なんかは脚本家や監督から口を出していない。だからこそ面白いんだ。
 もちろん、“プレイダ”や”ベアーバリー”といった看板を作る上では法務部を通しているがね。

 こういうネタはあまりにささやかなので、一回観ただけじゃわからないかもしれない。これみよがしなジョークではないからね。
 二回、三回、あるいは四回観ないと見つけられないはずだ。もう何百回と観てるはずの僕らですらスタッフの「サイン」を全部発見できているか自信ないよ。
 そういうものがあるというのは、愉しいことだよね。
 僕達が背の高いキャラに注意を惹かれているあいだ、そのキャラの足元ではネズミが「(パソコンの)マウス・ショップ」の前に立っている。そういう、物語を決定づけないような小さなピースをチームの間で「愉しいこと」として共有するんだ。
 ズートピアの世界は、僕らがキャラたちと一緒に愉しむ遊び場なんだよ。

ジョンストン:
 請けあってもいい。まだ映画の中に僕らが見つけてないものがまだ残っているはずだ。

ブッシュ:そうだね。


――あなた方が生み出した膨大なアイディアのになかには、ストーリーや世界観にそぐわないという理由で切り捨てられたものもあると聞きます。そうしたアイディアのなかで、自分が入れたかったのに外されてしまったものはありますか?

[ブッシュとスペンサーがジョンストンを見る]

ジョンストン:何? 僕の「お尻ジョーク」のこと?

ブッシュ:まあね。

ジョンストン:「お尻ジョーク」ね。トレーニング・キャンプでジュディが障害物の壁を乗り越えようとして失敗し、落ちてしまう。その落下先にフリードキンという警官が居合わせていて、落下してきたジュディにぶつかって地面の氷に穴をあけてしまう。
 僕らはこのアイディアについて三時間費やして議論したよ。

[インタビュアー笑う]

ブッシュ:使わなかった場所もいっぱいあったな。もともとニックは「ワイルド・タイムズ」という名の遊興場を経営している設定だったんだ。動物たちが動物に回帰できる場所さ。捕食者が被捕食者のコスプレをした別の捕食者をおいかけて遊んだりできる。*1
 そうやってストレスを解消するわけ。「ワイルド・タイムズ」にはニック考案の安っぽくて楽しげな遊び道具がたくさん設置されていて、まるでカーニバルみたいだった。
 大好きな設定だったんだけど、主軸がジュディの物語にシフトしていくにつれて不要になっていってしまった。

スペンサー:制作していくうえでツラいのは、こうした面白そうな場所を映画に出すのを諦めなければならないことだ。

 ツンドラタウンやサハラスクウェアやバニーバローといった場所を実際に出すと決まっても、ちゃんと物語に沿った形で利用しなきゃいけない。
 特定のエリアに五分使いましょう、というのは簡単だ。しかし、たとえそのエリアを探検するのが楽しかったとしても、そのことでストーリーの焦点がずれてしまう恐れがある。

 どんなに魅力的な世界を構築したとしても、ストーリーを語るに正しい滞在時間のバランスを見つけないことには意味がないんだ。


――もし続編が作られるとしたら、今回出なかった場所を訪れる機会も持てるでしょうか?

スペンサー:今回カットされたシーンやモノはアートブックやDVDに収録されるはずだ。繰り返すけれど、物語が進行する以上、アイディアが切り捨てられていくのも必然なんだ。

ブッシュ:僕の家の壁には使われなかったアイディアを書いた紙がたくさんピンで貼り付けてあるよ。毎晩、二時間くらいその壁を眺めてる。


――本日はありがとうございました。

*1:http://www.matthiaslechner.com/zootopia.html で「ワイルド・タイムズ」がどういう施設だったか、どんな遊び道具があったかを確認できる


『ズートピア』スタッフインタビュー記事翻訳:監督編

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逐語訳でも完訳でもない。
原文:http://www.slashfilm.com/zootopia-directors-interview/

インタビュイー:
リッチ・ムーア(監督)
バイロン・ハワード(監督)

インタビュアー:
ピーター・サイレッタ

スパイ映画だった『ズートピア』

ハワード:まずはじめに……そうだな、ジョン・ラセター*1から新しい映画のアイディアを求められた場合、最低でもアイディアを三つ出さないといけない。彼はひとつの籠にタマゴを全部ほうりこむことを望まないからだ。
 それで僕は(『塔の上のラプンツェル』を共同監督した)ネイサン・グレノと六つほどのアイディアをラセターに提出したんだ。
 どのアイディアにも共通していたのは、擬人化された動物のキャラクターが出てくることだった。
 ラセターはこのアイディアに興奮して、「小さな服を着た動物たちが走り回る映画であれば、どんなものだろうと私は協力を惜しまないよ」と言ってくれた。


――とてもジョン・ラセターらしい台詞ですね。

ハワード:そうとも。彼は「君たちはそこいらの映画とはサムシング違うものを作るんだぞ」とも言った。というわけで、僕らはリサーチに九ヶ月も費やすことになったのさ。


――昨晩のスクリーニングのときも同じことをおっしゃいましたね。ラセターはどういうつもりでその言葉を口にしたのでしょうか?

ハワード:これまでに大量に生み出されてきた動物映画を彼は想定していたのだろう。それらはすでに観客が経験してきた「サムシング」だ。

 既存の映画との差異をいかにして作り出すか、人々にとって既知であるものの向こう側へどうやって行くのか。
 しゃべる動物たちを観客に違和感なく受け取らせるためには、動物たちが現実に進化して作り上げたような世界を創造する必要がある。すると、その外観はどうなる?

 これらの問題をすべてクリアするためには、ストーリーを考える前にまず知るべきことを知っておかなければならない。そういう意味で彼は言ったのだと思う。


――しかし、企画当初はズートピアの話ではありませんでしたよね?

ハワード:うん。動物の世界の話ではあったんだけれどね。ラセターは僕らに徹底を要求した。
 最初はスパイ映画の企画としてスタートしたんだ。


――誰がそのスパイだったんですか?

ハワード:ジャック・サベージというスパイだ。ジェイムズ・ボンド風のジャックウサギだった。MI6みたいなところで働いていて、彼のボスはジュディ・デンチ*2っぽい小さなネズミだ。そこで、『ズートピア』にも見られる動物どうしのサイズの相違が生じてきた。

 冒頭のシーンを動物たちの大都市で繰り広げたあと、サベージは南洋へ向かう予定だった。よって映画のタイトルは『Savage Seas』。こいつは最高にクールだぞと思った。
 シリーズ化の構想すらあった。『Savage Earth』、『Savage Land』、『Savage Times』といった具合にね。実に壮大なプランを持っていたわけだ。

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ムーア:『ザ・サベージ・クロニクル』ってね。

ハワード:『ザ・サベージ・クロニクル』。カッコよくない? すごいいいと思うんだけど。

ムーア: "『ザ・サベージ・クロニクル』は日曜夜、ABCチャンネルで放送中!”

ハワード:これはすごいものができるぞ、と思ってポスターから何から作った。それでみんなに見せて……

ムーア:それが君の驕りだったね。

ハワード:みんな、ポスターを気に入ってくれても、スパイ映画のアイディアは好いてくれなかった。僕は……その……

ムーア:みんなロジャー・ムーア版007は好きじゃない、って感じだったね。*3

ハワード:いいじゃん、僕は好きだよ、ロジャー・ムーア。生意気っぽくてさ。しかしまあ、スパイ映画の構想はさっさと放棄した。だって、みんな口をそろえて「動物たちが住む大都市でやる最初のシーンが一番おもしろい」っていうんだもの。
 だったら全編通してそれでやったら、誰も観たことないようなおもしろいものが作れるんじゃないかと考えた。
 とりあえずスパイものは捨ておいて、アイディアをハードボイルド探偵ものとコップムービーをかけあわせた犯罪映画に移し替えようとした。
 ジュディ・ホップスというウサギとキツネのペアというふたりのキャラからスタートして、企画を練り上げていった。

ディストピア版『ズートピア』

――最初はジェイソン・ベイトマン演じるニック・ワイルドが主人公だったんですよね。その時点でこれはどういう意味があったのでしょうか。

ハワード:ニックはとてもシニカルなキャラクターだ。彼はベイトマンと似たような魅力を具えている。その時点のバージョンでは、捕食者はマジョリティである被捕食者によってとても手ひどい扱いを受けているという設定だった。そういう場所がニックの育った街だったんだ。
 被捕食者が安全で快適な生活を送っている一方で、捕食者は過度に興奮したり乱暴になったときに電気ショックを与える「テイム・カラー」と呼ばれる首輪を身につけなければならない。
 この配置は必然なように思われた。一種のディストピアものだね。



Zootopia "deleted scenes"
 (削除された「テイム・カラー有りバージョン」のシーン。制作がかなり進んでいたことがわかる)


 ニックは「ワイルド・タイムズ」という名のもぐり酒場*4を作って、捕食者たちに秘密のアミューズメント・パークを提供するんだ。そこではある方法によってカラーを外し、あるがままの自分たちを謳歌できるようになる。本能を満たすために追いかけっこもできる。*5彼らのご先祖の生活を楽しめるわけだ。
 とても面白く、必要な設定だと思った。でも、同時にとてもダークで、観客がこの街を好きになってくれないおそれもあった。
 僕らは、とても早い段階から観客がこの映画を好きになってくれるかどうかに気を配っていたんだ。

ムーア:みんなニックを好きになってくれるかもしれない。でも、サン・シティ*6はどうかな?

ムーア、監督す。

――そこでムーアさんが企画に参加されたわけですよね。

ムーア:僕は、初期段階では、物語会議(Story trust)の一員として関わり始めた。

ハワード:そうだね、早い時期からいた。

ムーア:深入りするようになったのはちょうど……


――ピクサーのブレイントラスト(Brain trust)*7的なものですか?

ムーア:そうだね、ブレイントラストだ。でも、頭脳(ブレイン)っていえるほどスマートなわけでもない。だからストーリートラスト。*8僕らは物語が好きだしね。
 エメリービル*9にあるような大きな頭脳ではないけれど、企画のかなり初期の段階からずっと一緒に働いてきた。

ハワード:彼はスパイ映画の案を知っていたんだ。

ムーア:まあね。スパイ映画なんてクールだな、と思っていたところにきて「テイム・カラー」だ。ストーリートラストのサポート・スタッフは、監督のヴィジョンを手に入れるのを助けるために働く。
「代わりにこういうのにすれば?」なんてのはまず言わない。監督の構想を結実させるために全力を尽くすんだ。すごく大変な仕事だ。あの時の場合は、特にね。

 ある時点でハワードがやってきて「君たちはもうニックを主人公として好ましく思ってないのでは」と言った。彼は悲しそうだった。鬱屈としすぎた世界ではベイトマンが輝きを放てないと思ったんだ。*10
 それにジュディも無能に見えた。カラー社会で育った男勝りなメスウサギである彼女をどう扱ったものだろう。人口の半分がカラーをつけている状況に対して、「これでいいの?」と疑問も抱きしていないように見えた。
 そこで勇気を出して「カラーのないバージョンを試す必要があるんじゃないか」と言ってみた。
 主人公をすげかえて、ジュディにしたらうまくいくんじゃないかとね。差別や弾圧や偏見といったものをとりあえず脇において、前面に打ち出すのはやめてみた。
 ジュディが彼女の事件を追っていくうちに、彼女のうちにある差別や偏見といったものの存在に気づく。
 いやはや、これこそ物語に求められていた答えだったんだ。

 そうして、ラセターからそういう方向でやってくれと言われたのが2014年の春だった。公開まであと16ヶ月というところだ*11

主人公の変更

――企画の方向性を修正するにあたって、十分な期間を与えられたと思いますか?

ムーア:いいや。何もかも変わるというのに、一年と数ヶ月しかないわけだからね。

ハワード:作品の生命を根本から作り変えるには遅かったな。

ムーア:そうだ。だって、映画はすでに制作に入っていたんだ。ところがラセターから「この映画に深く関わってきたんだろ? この作品に何が必要がわかるだろ? なら、監督になってみないか」と誘われた。


――あなたにはあなたのプロジェクトがあったんですよね?

ムーア:そう。あった。たしかにあった。だから僕は断固として――「引き受けます」と言った。
 スタジオで働くっていうのはそういうことさ。総力戦になったならば、全員が今やってることの手を止めて、製造ラインの次に控えている映画のために奉仕しないといけない。
 やらなきゃいけないことはたくさんあったけれど、時間は限られていた。これはもう一人の手に余る。二人でやらなきゃいけない仕事だ。期日に間に合わせるためにはね。

監督たちのカメオ出演

――あなた方はどちらも劇中でカメオ出演されてますね。

ハワード:そうだね。


――それで、あなたがたはどのキャラを演じたのですか?

ハワード:えーと、映画をまとめるにあたって、僕たちはおおまかな――

ムーア:気乗りしなかったんだよ。いやいややったんだ。

ハワード:いやいややって、声優たちをイラつかせて……映画をまとめるにあたって、僕たちは実に多くのバージョンのストーリーボード案を試すんだ。スクラッチ・ダイアログと呼んでいる。

ムーア:即席のダイアログってわけさ。もしベイトマンやジェニファーやその他のキャストに何度も同じセリフを繰り返させていると、彼らは疲労困憊してしまう。――僕らが味わったように、ね。

ハワード:そのとおり。

ムーア:どうして同じセリフを何回も何回も言わなきゃいけないんだ? 間に合わせのセリフでベイトマンだか誰だかを真似をしながら、マイクに声を吹き込む。
 あろうことか、僕たちは「刺さる」であろう部分を演じさせられた。

ハワード:「刺さる」ね。笑えるって意味。

ムーア:笑えるか、「なんだこりゃ?」となるかだ。なんで僕たちがそんなパートにキャスティングされないといけない?
 僕らはラセターに対してそう訴えたよ。する彼は「ダメだよ。なんで変えるんだ。いいじゃないか、そのままで」
 「でも僕がやってるんですよ、ジョン」
 「そのままでいいよ。ほんとによくやれてるから」

ハワード:なんとか組合の俳優*12と入れ替わろう画策としたし、実際ダメダメな演技しかできなかった。


――で、結局なんの役で出演なさったんですか。

ムーア:僕はダグ。

ハワード:あのアホな(ネタバレ)ね。

ムーア:そうそう。ダグは(コンプラ)のために(ネタバレ)しまくってるんだよ。

ハワード:ネタバレにならないか心配だな。君は狼のうちの一匹も吹き込んでるよね?

ムーア:そうだね。

ハワード:吠える狼のうちの一匹だ。それに僕と(脚本で共同監督の)ジャレド・ブッシュがバッキーとプロンクという騒がしい隣人をやっている。あのうるさい二人組だ。「黙れよ」「お前が黙れよ」ってやりとりしてたやつら。
 なかなか良い役だった。だから上手く馴染んでいるといいな。笑わせる感じにできたし。
 あれを聞くいつも笑ってちゃうんだ。
 ときどきは上手くいくんだ。『塔の上のラプンツェル』のとき僕は「バケツ頭のならずもの」を演じた。

ムーア:「バケツ頭のならずもの」?

ハワード:頭にバケツをかぶった男で、「俺は金を使うぞ!」と喋る。それが僕のセリフだった。くだらないセリフだけど、僕は――

ムーア:バケツをかぶって演じたわけだ。

ハワード:そーだね。ちなみに僕らは映画俳優組合の会員証も持ってるよ。


――最後にひとつ質問を……

ムーア:バケツ男についてだね。彼はどこからきたの? どういう人生を送ったの?

ハワード:どこの訛りで喋るの、って?

狂騒の現場

――私がグッドウィン、ベイトマンの二人と話していたら、主人公をニックからジュディに変更した際にディズニー側から何も伝えられず、後のボイスセッション中に気づいたと言ってました。これはどういうわけなのか……

ハワード:あー、あのときは修正がとても早く進行していて、変更点がうまくハマるか自信がなかったんだ。ぼくらもプロだから、いったん動いてしまうと、とてもすばやい。
 「トゥー・ハンダー」と呼ばれる手法でね。
 ふたりのキャラが物語の主導権を競い合う。そして、いくつものセリフをやりとりしたすえに、釣り合いのとれるバランスに落ち着く。
 一方で、そうした過程の中で、「ワイルド・タイムズ」やカラーのように映画の大きな部分を占めている要素でさえ、突然に取り払われることがある。だからベイトマンも、いわば……

ムーア:カラーと密接に結びつけられていた?

ハワード:そうだね。

ムーア:ほとんど狂気じみていたよ。みんなあまりにせかせか動きまわっていたせいだと僕は思う。なるべく変更があったら知らせておくようにしていたんだけれどね。完璧なシステムってわけじゃなかった。
 あのときは、たぶん、あまりに急ぎすぎていたせいで、ベイトマンたちに説明する時間がなかったんだろう。まあとにかく遅れてしまった。

 声優陣にはご苦労様でしたと言いたいね。一番イカれてるときの僕らの姿を目の当たりにしたんだから。打ちのめされて、脳死フランケンシュタイン状態な僕らをね。
 そんな状況でも声優陣はよくやってくれたよ。

ハワード:『ズートピア』は、ある意味『トイ・ストーリー』とよく似た構図だといえるね。バズのいないウッディもウッディのいないバズもありえない。
 誰かがウッディの役回りになるなら、別の誰かはバズの役割を果たさなければいけない。その逆もしかり。
 この映画は、二人のチームで成り立っているんだ。彼らの関係の力学が保たれるのか変わるのかというところで観客は物語に引き込まれる。

ムーア:そうだね。誰が脇役という話でもない……。

ハワード:そう、そんな映画じゃない。

ムーア:「あなたのキャラはたった今から三番手に降格したので、あなたのお給料を半分カットします」とはならないね。


――最終的により力強いプロットとより力強いキャラを得られたわけですが、それというのもあなたがたが二人のキャラをどちらも……
ハワード:主人公として扱ったから。

ムーア:ベイトマンをフルパワー状態で使わなかったからこそ、むしろニックが「サムシング」になり得たのだと思う。

 グッドウィンも特別何かが秀でたわけじゃない。
 一度、ふたりの全要素を入れ替えて、やらせてみたことがあった。するとベイトマンのセリフは味わいぶかいものとなり、彼も演じるこつをつかんだようだった。
 ジュディは目を輝かせて自信を持つようになった。
 ふたりともが同時に操舵室にいるように感じたよ。彼らはすばらしい役者だった。


――ありがとうございました。

*1:いわずと知れたディズニー/ピクサーの総帥

*2:ダニエル・クレイグ版『007』のM役

*3:ロジャー・ムーアは三代目ジェームズ・ボンド。『死ぬのは奴らだ』『ムーンレイカー』『ユア・アイズ・オンリー』など

*4:Speakeasy. 禁酒法時代の地下酒場の意味

*5:ジャレド・ブッシュ「捕食者が被捕食者のコスプレをした別の捕食者をおいかけて遊んだりできる。」

*6:南アフリカの観光都市。1980年代に反アパルトヘイト活動が激化したときに中心地のひとつとなった。当時、ミュージシャンであるスティーヴ・ヴァン・ザントが結成したプロジェクトユニット「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」が「サン・シティ」というプロテスト・ソングを発表している。

*7:噛み砕いていえば、社長クラスから末端の社員までが総参加してアイディアを出し合うブレインストーミング的なもの。:ピクサーとディズニーのストーリーの作り方はブレイントラストにあり! - ありんとこ

*8:“ストーリー・トラスト”は、ジョン・ラセターが考え出したシステムなんだけど、もっとも素晴らしい体験だったね。僕はアメリカのTV業界出身で、TV時代にも何人かのクリエイターが集まって意見を出し合うことはあった。それをもっと大きい形で行っているのが、“ストーリー・トラスト”。ディズニー・アニメーション・スタジオが生み出す作品は、すべてのディズニー・アニメーションに影響を与える。ディズニー・アニメーションを特別なものにしたいという気持ちから、担当外の作品であってもみんなが意見を出し合うんだ。http://columii.jp/movie/interview/article-787.html

*9:カルフォルニアに位置する街。ピクサーのスタジオがある

*10:ジョン・ラセター「私はこの世界を愛したかった。しかしカラーのせいで逆に憎むようになっていた。そこで、私たちがこの世界を大好きになれるように考えなおしたんだ」

*11:Q:2014年11月に実施したテスト試写の結果が思わしくないため、主役をキツネのニックからウサギのジュディに変更したそうですね。大幅な変更で現場が混乱することはなかったですか? ジャレドブッシュ:テスト試写と聞くと半分以上出来ていたように感じるかもしれないけど、主に絵コンテを編集したビデオを上映するもので、こういった試写は全部で12回行った。そのうちの6、7回目の段階での決定だったから、混乱はなかったよ。僕にとっては最もエキサイティングな日々だった。当初のニックとジュディのキャラクター設定に納得がいかなかったからね。考え抜いたある日、彼女が欠点を克服する物語に変えれば、彼女を無理なく主役に出来るとひらめいたんだ。 http://columii.jp/movie/interview/article-787.html

*12:ハリウッド映画に出演する俳優は全員、映画俳優組合(SAG)に登録されていなければならない

今週のトップ5:『レヴェナント』、『ズートピア』、『ズートピア』、『ズートピア』、『ズートピア』

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アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『レヴェナント』


映画「レヴェナント:蘇えりし者」坂本龍一さん音楽版予告

 
 イニャリトゥは大して好きでもなかったんだけど、さすがに大した映画だと驚かざるを得ない。

万物のアルケーはクマである。――『レヴェナント:蘇りし者』の第一印象 - 名馬であれば馬のうち

 氷結した水路の両岸から、暗い唐檜の森が渋面を向けてきた。木々は、さきごろ吹いた強風のため、こびりついていた白い霜を剝ぎとられ、たがいにもたれかかるように身を寄せあい、薄れゆく光の中で黒々として不吉に見えた。茫漠たる静寂があたりを支配していた。大地そのものが荒涼として、生気もなく、動きもなく、そのうえ寒さと寂しさとがあまりにもきびしくくて、そこから伝わってくるのは、悲哀といった感情ですらなかった。どこかに笑いらしきものが感じ取れぬでもなかったが、それは、どんな悲しみよりも恐ろしい笑い――いわばスフィンクスのそれのような陰気な笑い、霜のように冷たく、また無謬なるもののいかめしさを帯びた笑いだった。それは、生きるもののむなさしさ、生きるものの努力のむなしさをあざ笑う、永遠なるものの尊大、かつ共有不能な知恵の笑いだった。これこそが〈荒野〉というもの、未開というもの、〈北国の荒野〉というものの本質なのだった。


ジャック・ロンドン深町眞理子訳『白い牙』光文社古典新訳文庫


 監督自身が「ジャック・ロンドンの世界を再現した」と言っていて、単に全編雪景色だとか野生の獣っぽさ以上に、過剰に寄り気味で吐息や眼の機微を捉えるカメラがジャック・ロンドンの文体といえばそれっぽい。
 そもそも映画的記憶なるものが貧困どころかコメ一粒も存在せず、今観ている映画の内容すら三日も経てばろくに思い出せなくなるほどシナプスが出来上がっておらず、タルコフスキーについては『ソラリス』を半分以上眠りながら観ていた記憶しかない僕にとって『レヴェナント』の銀世界はジャック・ロンドンと言われたほうがよほどしっくりくる。
 
 ほとんど接写といっていいほどの距離で撮られたディカプリオはナリや行動とあいまって獣じみていて、演じているはずのディカプリオ自身もあえて獣の世界へ没入しようとしている節が見受けられる。
 それは食事シーンにもよく現れていて、彼の仇であるトム・ハーディや潜在的な敵であるフランス人の小隊が焚き火で肉を炙って「文明的に」食ってるのに対して、ディカプリオは川に入り素手で魚を捕まえては(火を熾せないわけでもないのに)そのままかぶりつく。クマそのものだ。
 決定的なのが途中、とあるインディアンに出会うシーンで、そこでは煌々と大きな火が焚かれて大きな偶蹄類*1の死体が一匹まるごと転がっている。インディアンは火を灯りとしてだけ用いて肉を生で啖っている。彼はディカプリオに獣の肝臓を差し出す。ディカプリオは少しためらいを見せた後、生で食らいつく。

 火も文明の一部であり、人間の証明だ。だが、人間にとっての火が肉を焼いたり暖を取ったりする道具でしかないのに対して、野生の人々の側の火は燃え上がる生命そのものとして扱われる。
 クマに襲われて大怪我を負ったディカプリオをやさしく看護する息子の背後で揺れる穏やかな炎、早すぎた埋葬から蘇ったディカプリオが火打ち石で必死につける弱々しい火、そして上にも挙げたインディアンの激しく大きな火。
 基本薄暗い雪の世界に、煌々とゆらめく火がアクセントになっている。
 ディカプリオは結局のところ、獣にはならない。
 なぜなら彼には神がいるから。

白い牙 (光文社古典新訳文庫)

白い牙 (光文社古典新訳文庫)



バイロン・ハワード、リッチ・ムーア監督『ズートピア』


『ズートピア』予告編

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バイロン・ハワード、リッチ・ムーア監督『ズートピア』

 ただひたすら素晴らしい。
 ハワードは『ラプンツェル』で、ムーアは『シュガーラッシュ』でそれぞれでなりたい自分とそれを押しこめようとする外部からの圧力を描いていたんだけど*3、今まで一方通行的だったその運動を、「なりたい自分になるために、お互いに認め合っていこうよ」という双方向的な回路に(しかもこの上なく洗練された形で)持っていった。
 しかも単にアメリカにおける今日的な人種問題(制度的な差別ではなく、構造的、心理的な差別)や「ガラスの天井」的な性差別に軸足をおきながらも、そういう問題の描き方が弾力性を備えていているので、全世界で普遍的に受け手が自分たちの問題として受け止められる作りになっている。
 まあそういう政治的なネタのバランスのすばらしさは各所で言及されまくっている*4ので今更言うべきこともないんだけど。


バイロン・ハワード、リッチ・ムーア監督『ズートピア』

 『ズートピア』には、特定の動物に対するイメージを逆手に取った叙述トリックがいくつも用意されている。
 叙述トリックでは作者の騙すための詐術も重要だけれど、そもそもとして、読者側に先入観がないと成り立たない。
 女はこういうものだ、とか、◯◯をするのは特定の△△だけだから、という暗黙の了解がネタバラシ時の驚きを担保してくれる。
 
 だから叙述トリックは発動時に読者の先入観や偏見を告発してくるわけで、ミステリの技法の中でもある意味で極めて政治性の高いネタだ。
 
 しかし、これまで叙述トリックの教育効果を意識的に教育に利用とした例はあんまりなかったと思う。叙述トリックとはあくまで読者と作者の駆け引きにおける道具でしかなかった。もともと疑うことを訓練されたミステリ読者には「教育」など不要だったのだろう。
 『ズートピア』は叙述トリックの教育効果を一般向け、子ども向け作品に使うことで最大限増幅した。
 単に驚かせるためではなく、「自分の認識や偏見が事実を歪めることがある」ということを観客に教えた。 


バイロン・ハワード、リッチ・ムーア監督『ズートピア』

 まあなんにせよ、あと最低二回は観ると思うので、まとまった感想はそのときに書きます。


ズートピア (まるごとディズニーブックス)

ズートピア (まるごとディズニーブックス)





 
 
 
 
 

*1:死語

*2:「バイオロジー」という言葉が二箇所出てくるんだけれど、一番最初にそれがどこで出てくるか注意して見てみよう

*3:元はといえばディズニー永遠のテーマだ

*4:ナマケモノの職員は差別ではないのか問題含め

日本語で読める『ズートピア』のインタビュー記事の一覧

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主な人物

バイロン・ハワード(監督*1 Director &ストーリー Story)
リッチ・ムーア(監督 Director &ストーリー Story)
ジャレド・ブッシュ(共同監督 Co-Director & 脚本 Screenplay &ストーリー Story)
クラーク・スペンサー(プロデューサー Producer)
フィル・ジョンストン(脚本 Screenplay &ストーリー Story)


紙媒体

『シナリオ』2016年6月号
『ズートピア』パンフレット(ハワード&ムーア両監督インタビュー)
『Disney ズートピア Special Book』宝島社(ブッシュ、スペンサーのインタビュー)
朝日新聞』2016年4月8日夕刊(ハワード&ムーア監督インタビュー)


WEB

ディズニー最新作『ズートピア』主人公は当初、ウサギのジュディではなくキツネのニックだった! (1) 主人公を逆転させた理由 | マイナビニュース
ハワード&ムーアのインタビュー


Pouchとロゴでコラボしたディズニーアニメ映画『ズートピア』がいよいよ公開! ハワード&ムーア両監督に直撃インタビューしてきたよ! | Pouch[ポーチ]
ハワード&ムーアのインタビュー


映画『ズートピア』バイロン・ハワード監督 & リッチ・ムーア監督 Wインタビュー | SGS109
ハワード&ムーアのインタビュー。「肉食獣が何を食べてるか」についておそらく日本で初めて尋ねた記事。


ディズニー「ズートピア」2人の監督が語った“夢を叶える秘訣”<米アニメーション・スタジオ取材Vol.2> - モデルプレス
ハワード&ムーアのインタビュー


【ズートピア】ニック&ジュディで遊び出す監督たち!? ディズニー2人の天才が送る“奇跡”の映画【来日インタビュー】(1/3) - ディズニー特集 -ウレぴあ総研
ハワード&ムーアのインタビュー


【ディズニー映画】TDSに比べて本家ディズニーはつまらない!? 監督が語る『ズートピア』街の魅力(1/3) - ディズニー特集 -ウレぴあ総研
ハワード&ムーアのインタビュー


2人の監督が語る『ズートピア』の世界 〜現地レポート Part 1〜 | roomie(ルーミー)
ハワード&ムーアのインタビュー


『ズートピア』監督、ディズニーへの就活4回落ちた 夢かなえた根性 - シネマトゥデイ
ハワード&ムーアのインタビュー


ディズニー映画のお家芸 誰も見たことがない動物映画を作る『ズートピア』 | ORICON STYLE
ハワード&ムーア両監督。(来日記者会見?)


全く新しいしゃべる動物映画「ズートピア」のプロデューサーにインタビュー : ギズモード・ジャパン
クラーク・スペンサーのインタビュー。一番網羅的だと思う。


Vol.552 映画プロデューサー クラーク・スペンサー(『ズートピア』) | OKWAVE Stars みんなの知っているあの人へインタビュー!
クラーク・スペンサーのインタビュー


自分を信じる心があれば、いつだって夢に挑戦できる【インタビュー】 | MYLOHAS
クラーク・スペンサーのインタビュー


ズートピア:脚本・共同監督とプロデューサーに聞く「動物の縮尺率は現実に即した」 - MANTANWEB(まんたんウェブ)
ブッシュ&スペンサーのインタビュー


「主人公を含む全てのキャラクターに偏見を抱かせることが、とても重要だった」―映画『ズートピア』:クラーク・スペンサー(プロデューサー)&ジャレド・ブッシュ(脚本/共同監督)ロングインタビュー [T-SITE]
ブッシュ&スペンサーのインタビュー。最重要記事の一つ。


ディズニー映画『ズートピア』の制作者のこだわりがものスゴい! | アニメイトTV
ブッシュ&スペンサーのインタビュー


主役を代えて大ヒット!ディズニー映画の舞台裏を知るジャレド・ブッシュ、単独インタビュー|dメニュー映画×コラミィ(columii)
ブッシュのインタビュー


働く女子はあきらめない。『ズートピア』脚本家に聞いた新しいヒロイン像 | GLITTY
ジョンストンのインタビュー


『ズートピア』監督が明かす、“夢を叶えた”日本人スタッフの存在! | cinemacafe.net
ハワード、ムーア、スペンサーの来日記者会見


ディズニーのアニマル映画『ズートピア』の「毛」の凄さに迫る:コタク・ジャパン・ブロマガ:コタク・ジャパンチャンネル(コタク・ジャパン) - ニコニコチャンネル:社会・言論
『ズートピア』の映像技術について(翻訳元のkotaku.jpが消滅したためリンク先は転載記事)


“進化”した動物を描くディズニー最新作『ズートピア』徹底したこだわりに迫る!|ニュース|映画情報のぴあ映画生活(1ページ)
現地スタッフへの取材


*1:企画者

『ズートピア』におけるハードコア反復/伏線芸のすべて

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 TLで『ズートピア』鑑賞済み人数が『マッドマックス:FR』並に達した(肌感覚)のでそろそろ『ズートピア』のネタバレをしてもいいんじゃないかと思った。


 そういうわけで、本記事は『ズートピア』の重大なネタバレを多数含んでいます。
 っていうか基本的に観た人向けに書かれてます。


チェーホフの機関銃

 「チェーホフの銃」という概念がある。
 ソ連になる直前のロシアで生きて書いて死んだ小説家・劇作家のアントン・チェーホフにちなむ言葉で、「小説や劇において、オブジェクト/アイテムを意味もなく出すな。出した以上はかならずもう一度登場させて使え」という作劇の心得を説いている。本邦では簡単に「MOTTAINAI精神」と訳されたりもする。二文字に略せば、「反復」。

 一方でこの箴言は、「銃を出したら必ずいつかは撃て」とも解される。
 要するに、ただ反復すればいいというものではなく、反復するなら意味や目的をつけてからやれ、ということだ。
 合目的性を持った反復。
 そういうものは一般に「伏線」と呼ばれる。
 一般に呼ぶだけ呼んでいるだけで、実際のところ、そこまで世間的に「反復」と「伏線」の区別が明確にひかれているわけでもない。
 ここでは世間様の基準に合わせよう。曖昧に運用しよう。


 伏線や反復を増やせば増やすほど喜ぶ奇特な人種が存在する。この手の人々は映画や小説で何かが反復されるたび、快楽中枢を刺激されてアハ体験に達し、その麻薬的な快楽を求めてどんどん反復を希求していく。彼らの作品評価は反復のあるなしですべて決まるから、実際に作品が感動的であるとかは関係ない。どうか、そんな気持ち悪いものを見る目でみないでもらいたい。
 で、そういうたぐいの人々にとって、2016年にウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオが発表した『ズートピア』はまさに至高の「チェーホフの銃」映画、否、「チェーホフのマシンガン」映画とも呼ぶべき作品だった。
 反復に次ぐ反復、伏線に次ぐ伏線、一度何かが出てきたらそれは n 分後に必ず再登場する。それも、観客がそのオブジェクトやアイテムを感知できるかどうかに関係なく。


 アメリカ人は伏線と反復に対してパラノイアを抱いている種族のひとつで、特に一部のコメディ映画や子供向け映画でその病疾を発揮する。たぶんコメディやアニメが世界や構図を意のままに作りこみやすいから、というのがあるのだろうけれど、たまにそんな安い説明がふっとぶくらい伏線と反復にこだわるチェーホフのトリガーハッピー映画が出来してしまう。
 有名なところで言えば、フィル・ロード&クリストファー・ミラーのコンビが作る映画なんかがそう。


 しかし、アニメ界には彼らを軽く凌ぐような伏線パラノイアの二大巨頭がそびえている。
 ご存知、ディズニーとピクサーだ。
 ここではいちいち過去作をプレイバックしてる暇がないのでアレなのだけれど、まあディズニーは『ボルト』以降、つまりジョン・ラセターが本格的にディズニー作品に関わりだしてよりこのかた作を重ねるごとに伏線マニアっぷりがひどくなってきている。
 たぶん、ストーリーづくりでピクサーと同じ多人数合議制システムを取り入れた影響だろう。


 そうした症状が極まって生まれた病的な作品が、『ズートピア』だ。本記事ではその『ズートピア』に仕込まれた反復と伏線を可能な限り洗い出して、作劇における効果をなんとなく推察したい。


 先にテーマにかかわる大きな弾から扱っていこう。
 『ズートピア』で反復される重要なエレメンツは四つある。


 寸劇とバッヂとペンと言葉だ。



1. 「肉食獣に襲われるジュディ」の寸劇(構図)

 当然のことながら観客には知らされないわけだけれど、開始一分で極めて重大な弾が装填される。
 幼き日のジュディ・ホップスが、職業選択の自由とズートピアの理想を称える寸劇を演じる場面だ。
 文明開化以前の野生状態の草食獣を演じる彼女は、友人のヒョウ演じる肉食獣に喉元をがぶりとやられ、ぶざまにのたうちながら「血だ! 血だ! ……そして死んだ」と死んだふりを演じる。


 演じる、という動詞が重要だ。
 過去の事実を元にしたドラマであれ、一から作り上げたフィクションであれ、演じられるものは常に今その場にない物語だ。
 現実にウサギを食べるトラが存在しなくなった世界だからこそ、子どもたちは半分ふざけたような劇として過去を上演できる。
 偽物の血、偽物の死。
 それはもはや存在しない死の形態だ。
 文明化されたズートピア世界にあっては捕食者-被捕食者の関係はもはや過去の記憶なのであって、我々にとっての時代劇がそうであるように、もはや演じることでしか追憶できない虚構でしかない。肉食は理性によって克服しうる。忌まわしい野蛮(Savage)はフィクションの中にしか存在しない。文明は勝利した。ハイル・ズートピア。


 ところがほんの数分後、次のシークエンスではそういう呑気さがひっくりかえされる。
 ジュディがいじめっこの仔狐、ギデオン・グレイに「さっきの劇みたいに」襲われるのだ。
 ジュディは友人の手前、気丈に振る舞って立ち上がり「私は夢をあきらめない」と宣言する。けれども彼女は顔に負った以上に深い傷を心に負ってしまっているのは明らかで、そのことがその後の彼女の兎生に大きな影を落とす。*1
 フィクションとして上演されたはずの過去が、現実上で再演されることにより、昔と今が地続きであること、「まだ肉食獣は本性に野生を残していること」をジュディに刻印する。


 文明的で理知的な生活を送っているように見える彼らでも、一皮むけば……。


 三度目の再演はクライマックスで決定的な役割を果たす。
 ベルウェザー(副市長と呼ぶべきか、市長と呼ぶべきか、当時の市長と呼ぶべきか)の策略によって、クスリを撃ちこまれ*2野生化したニックがジュディを追い詰め、その喉元に食らいつく――ものの、実は彼らはドッキリの仕掛け人。彼らはベルウェザーを逆に罠に誘うために、わざとクスリが効いて野生化したように装っていたのだった。
 ジュディは冒頭の寸劇でのセリフ、「血だ! 血だ! そして、死んだ」を繰り返して死んだふりを演じる。


 やはり、演じるという動詞が重要だ。
 ギデオンによって顕現してしまった野蛮な肉食獣(キツネ)という神話*3を、ジュディは芝居気たっぷりに、できるだけ馬鹿らしく演じることで「キツネに食われるウサギ」という構図そのものを再度、虚構化してしまった。


 この場面が単にベルウェザーを欺瞞する以上の意味を帯びているのは明らかで、ジュディはニックとの寸劇を通じて「肉食獣が草食獣を今でも襲うという神話」と「キツネが自分を脅かす存在であるという個人的体験」、マクロとミクロのトラウマをいっぺんに解消した。
 それはつまり、ジュディの個人的な物語がズートピアそのものの物語と一致したことでもある。


 ちょっとびっくりするくらい技巧的、と評さざるをえない。


 『ズートピア』並にトラウマ解放のカタルシスと、表面上起こっている出来事(アクション/サスペンス)のカタルシスをかくまでにキレイに一致させた脚本は、近年だとシャマランの『ヴィジット』が真っ先にあがる。あれはよかった。あれはいい。



2. 録音機能付ペンと警察バッヂ

 なぜこの二つ(精確に言えば三つ)をまとめるかといえば、これらがどちらもジュディとニックの連帯と離散を表すアイテムだからだ。


 警察バッヂがまず先に登場する。
 ジュディが警察学校を卒業し、バッヂを受け取る場面。
 このときのバッヂはジュディの夢やあこがれそのものの象徴で、この「夢の達成」を開始十分で持ってくるところに『ズートピア』が「めでたしめでたしのその後」の物語であることが伺える。


 かなえられた夢だとしても警察が職業である以上、常に剥奪される危険があるわけで、肉食獣大量失踪事件の捜査にあたってジュディを快く思わないボゴ署長からバッヂ返還の圧力がかけられる。
 最初は、カワウソのオッタートン夫人による夫の捜索願を勝手に聞き入れたジュディに対して、ボゴが「48時間以内にオッタートンを見つけ出さなかった場合は辞職しろ」と迫る。このときはまだ言葉上での脅迫にすぎない。
 しかし、ジュディたちがレインフォレスト地区でジャガーを取り逃がすと、ボゴははっきりと彼女のバッヂを剥奪しようとする。
 彼女の夢が潰えようとした瞬間、もう一つの警官バッヂをつけたニックがジュディの免職について異議を唱えだす。


 このニックのつけたバッヂはどこから出てきたのか。


 オッタートン夫人の依頼以前に時間を巻き戻す。
 ジュディはゾウさんのアイスクリームパーラーでニックとフィニックの偽装親子に遭遇する。彼らが詐欺師であることをまだ知らぬ彼女は、赤ん坊を演じるフィニックの胸に、警官バッヂを模した子供用のシールをつけてやる。
 このシールは、ジュディがニックに捜査協力を強いるために一計を案じた場面で、ジュディのずるがしこさに感心したフィニックから「お前らおにあいだよ」とばかりにニックへ譲られ、以降ニックが身につけることとなる。
 このとき、バッヂシールをつけることでニックが「仮の警官、パートタイムのバディ」であることが示される。
 嫌々ながらに警官に協力させられている人間ではあるけれども、警官そのものではない。微妙な立場だ。
 なにはともあれ、これで彼らがチームになったことが示される。


 そうして、事件の捜査を進めていくうちに、ジュディとの間に友情が芽生え始める。
 クリフサイドのアサイラムを摘発し、ライオンハート市長を逮捕するシーンでは、ニックは彼の両脇にいる警官たちへ、これみよがしにバッヂシールを誇って無言でアピールする。「おれが捕まえたんだよ」といわんばかりに。
 このときのニックはもはやジュディの奸計に騙されて無理やり協力させらている詐欺師ではない。立派なジュディのバディだ。*4
 そして、ジュディは晴れの舞台である事件解決の報告を行う記者会見の直前に、ニックへ例の録音機能付きのペン(後述)と一枚の用紙を手渡す。婚姻届かな? と観客が想像を逞しゅうしているとどっこい、警察学校への志願書である。
 これを申しこめば、ニックも今つけているの「仮のバッヂ」ではない本物のバッヂを手に入れられ、ジュディの本当のパートナーになれる……。
 はずだった。が。
 会見に臨んだジュディが肉食獣への致命的な偏見を世間にばらまいてしまい、彼らの仲も決裂してしまう。
 そのときにニックはくしゃくしゃに丸めた申込用紙とともに、バッヂシールも剥がして床に放り捨てる。
 チームの解散、「警官」であるジュディとの訣別を無言で表現した非常にスマートなシーンだ。実はペンを持ち帰っているところも含めて。


 ニックとの別れのあと、ズートピアの英雄にまつりあげられたジュディだったが、彼女もまもなくバッヂの返上を決意する。
 彼女にとって警官とは「世の中をよりよくする」ための手段であり、バッヂは警官という職業の象徴というよりは、彼女の崇高な目的の象徴であるはずだった。
 ところが、実際に警官となった彼女はズートピアの人々を分断し、対立を煽ってしまった。*5
 自分は世界をよりよくするどころか、より悪くしてしまっている。
 そんな自らに対する失望から、彼女は自分がバッヂを身につけるに値しないと判断し、職を辞したのだった。
 どうでもいいけれど、俺の正義は警察みたいなクソ組織にはおさまんねー、とばかりにバッヂを投げ捨てたダーティーハリーさんとは対称的ですね。


 チームの証明であるバッヂを両者とも捨ててしまった。
 もうジュディとニックをつなぐよすがはないのか。彼らをつなげることのできる絆はないのか。


 ある。人参型のペンだ。
 ここで、録音機能付きのペンが再会のための重要な役割を演じる。


 もう一度時系列を遡る。
 このペンの初登場シーンはジュディがニックを捜査に引きこむシークエンスの冒頭部だ。
 彼女はなんの変哲もない筆記用具と見せかけておいて、ニックの脱税の告白を録音し、それを脅迫の材料に捜査協力を得る。


 ニックは当初、ペンが返却されるかどうかだけを気に病んでいて割と事件などどうでもいい。
 一方のジュディもペンを交渉の道具として徹底的に使い潰す。


 ヌーディストクラブでオッタートンの乗った車*6のナンバーをつきとめたジュディは、しかし警察署で登録ナンバーを調べる権限を持たないため、ペンの返却をせがむニックをうまくあしらって協力を継続させる。


 こうして得た登録情報を元に、ツンドラタウンの駐車場までたどりつく。が、時刻は深夜で駐車場はとっくに閉鎖されていた。私有地なので無理やり入るわけにもいかない。
 ここでもジュディはニックを捜査を進展させる道具としてペンを用いる。「ペンを渡す」と言って敷地内へ投げ入れ、「なんとこどもっぽい」と呆れながらフェンスを越えたニックを追う形で自分も敷地に入る。不審者を追跡するであれば、無許可で警官が私有地に侵入しても許される、という屁理屈だ。
 ペンは当然先んじて回収しており、この時点でまだジュディの手中にある。


 ペンの持つ意味合いが変わりだすのは、先述のジュディが記者会見前にニックへ警察学校の願書とともにペンを渡すシーンでだ。
 ペンと一緒に申込用紙、というのが心憎い。
 ここで単にペンを渡すだけなら、ジュディは単に契約を履行しただけにすぎない。使うものと使われるもの、それ以上ではなかったはずだ。
 しかし、ここでペンと用紙を同時に渡すことで、ペンは脅迫の材料が詰まった録音機としての機能よりも本来的な筆記用具としての役割のほうが重視される。
 ペンとして使うことで、ニックはジュディの真のパートナーとなる第一歩を踏み出すことができる。
 筆記用具と録音機能、一つのペンがふせ持った二つの機能のどちらを使用するかで彼らの関係が更新される、というのは興味深い。


 もっとも、ニックが筆記用具としてペンを使うことはない。
 彼はジュディの記者会見での言葉に失望し、バッヂと申込用紙を投げ捨てて警察署を後にする。


 しかし、ペンは持ったままだ。
 彼がその後の展開を予測していたかは定かではない。詐欺師としての長年の性が取らせた無意識の手癖でもあったのだろうが、それ以上にジュディとの思い出を完全に捨てきるまでに思いきれなかったのだろう。ともかくも、彼はギリギリのところでジュディとのつながりを保った。
 そして、その忘れがたきペンがジュディをニックの元まで呼び戻す。


 肉食獣凶暴化の原因に気づいたジュディは隠遁していたクソ田舎から飛び出して、おんぼろトラックを駆ってズートピアへと舞い戻る。
 そうして、水の抜かれた川にかかった石橋のたもとでくつろいでるニックを探しだす。
 顔をそむけるニックの背中に、ジュディは泣きながら謝罪する。
「私が全部間違っていた。ほんと、なんてマヌケなウサギなのかしら……」
「”なんてマヌケなウサギなのかしら”」
 ジュディの耳に聞こえてきたのは自分の声だった。
 ニックはペンを振ってこう告げる。「心配すんな。四十八時間たったら消してやるよ」


 ここで反復されている行為は、そう、「脅迫」だ。
 なんとまあ美しい脅迫だろう。
 ニックはここでペンが元々脅迫の道具であることを観客に思い出させ、ジュディに(戯れに)脅迫を仕返す(のを演じる)ことで二人の間に貸し借りがないことを示した。
 言うまでもなく、この脅迫劇は構図を反転した儀式にすぎない。
 普通の作劇ならば、不信を生じた二人の仲を取り戻すためには何かしらの劇的なイベントを挿入するのだろう。
 しかし、ディズニーのストーリー制作者たちはジュディにただ「ごめんさい」を言わせた。
 これは決裂したきっかけがそれだけ根深いものであることの裏返しでもある。単なる誤解やすれちがいではなく、あのときあの瞬間、決定的にジュディは差別しており、「間違ってい」た。*7
 間違いに対しては、謝るしかない。そして、反省は行動で示すしか無い。その点でもディズニーはかぎりなく誠実な作劇を行っているといえる。そして、その「ただ謝る」の効果を最大限高めるために極めて映画的なシチュエーション(橋の下、光と影)をえらび、最高に気の利いたダイアログと儀式を書いた。


 最後にペンはもう一度、重要な役割を果たす。
 これも先述しているが、博物館でのクライマックスとなる寸劇の後、調子に乗ったベルウェザーのくっちゃべった悪事を録音する、その道具としての大役だ。
 このときペンはいつのまにかニックから返却され、ジュディの左手に握られているが、そんなことはどうでもいい。留意すべきは二人がガッチリと肩に手を回しあって繋がっていることで、ペンはジュディの手に握られていたとしても実際上は二人の共有物なのだ。
 それまで片方がもう片方をだまし討するための道具でしかなかったペンが、二人が協力して共通の敵を倒すための必殺の武器と化す。すごい。*8


 ペンは二人のあいだでやりとりされる唯一の目に見えるアイテムと言っていい。「目に見える」とつけたのは、彼らは言語上で極めて活発な交換を行っているからで、その解説は後項に譲る。


 バッヂを忘れていた。
 いや、ほんとうは忘れていない。


 捕物劇の後、ジュディは復職し、バッヂを取り戻す。
 そして、ニックも警官学校へ入学し、卒業時にジュディから本物のバッヂを受け取る。
 これで、一度壊れかけた「真の相棒になる」という夢が象徴の面でも達成される。
 そして、物語は相棒同士となったニックとジュディの日常へと移る。
 夢がかなって「めでたしめでたし」の後は、いつだってその後の現的な日常が待っている。そして、現実とはかならずしもカカオ100%である必要はない。


 かくのごとく、バッヂとペンは有機的に二人の関係のダイナミクスを表している。


3.Hustler, Sly Fox, Dumb Bunny and Biology.

カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学 (ブルーバックス)

カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学 (ブルーバックス)

 有形のアイテムやオブジェクト以上に反復されるのが言葉だ。
 ミスター・ビッグの「氷漬けだ!」みたいな細かいセリフまで拾っていったらきりがない。
 しかるによって、ここではジュディとニックの間で反復される言葉のみにフォーカスしよう。


 概説から入ると、ジュディとニックのセリフには反復が多い。それも、ジュディの使った言葉をジュディが繰り返すのではなく、ジュディの使った言葉をニックが、逆に、ニックが使った言葉をジュディが繰り返すというパターンが多い。
 そうやって語彙を交換していくことによって二人の親密さを描くのと同時に、何かと取りざたされるポリティカル・コレクトネス的な観点から言えば、二人の間に横たわる種族差、性差、格差などを均す作用もあるんではないかと思われる。


3.1 Hustler - わかちあうためのキャラクター
 たとえば、詐欺師(Hustler)という単語。
 これは、謀られたことを知ったジュディにニックが投げつける言葉だが、真面目一辺倒でまっすぐなジュディの生活範囲のボキャブラリーには(辞書的な意味は知っていても)ないワードだ。
 法の外側の人間であるニックにその何たるかを不本意ながら教育されることで、ジュディはその言葉と付随するキツネ的な狡猾さを体得し、後日ニックをペテンに掛け返す。*9
 そのときに、ジュディはニックに対して「詐欺師って呼んで」と意趣返しを行う。警官学校でのトレーニングでも垣間見えるが、一見強情にも見える彼女は意外に目的を最短距離で達成するための柔軟な合理性を具えている。
 いっぽうで、彼女はニックの詐術を真似る内に、ニックという人間(キツネ)を理解するための縁に手をかける。

 「詐欺師って呼んで」というセリフは、はジュディの口を通じて、実質的には二人からベルウェザーに対してもう一度繰り返される。
 ジュディへ一回、ニックへ一回、そしてベルウェザーへ一回。三度繰り返すのは反復の基本である。

 こうしてニックの語彙であった「詐欺師」は真似という名の反復を経て、最終的に二人の共有の辞書に登録される。


 3.2 Sly Fox, Damn Bunny - ステレオタイプから自由になるための交換
 こうした語彙の中で最重要のフレーズといえば、「ずるがしこいキツネとお馬鹿なウサギ a sly fox & a damn bunny」だろう。
 どちらも英語の慣用表現(sly as a fox で「キツネのように狡猾」、damn bunny は「おばかさん」)でそれがそのまま『ズートピア』ではそれぞれの種のイメージにはめこまれている。
 ニックはジュディに対して、「ズートピアではなりたい自分になれるなんてウソだ。自分は自分でしかない」と言ってこのフレーズを引く。*10彼自身、「狡猾」という世間的なキツネのステロタイプを演じて恥じる様子がない。

 ところが、実のところ、その「狡猾なキツネ」の姿は、彼が積極的に望んだ自己像ではなかった。
 彼は幼少時のあるトラウマから、「世界がキツネをずるくて信用出来ないと決めつけるなら、何をしても意味は無い」*11と悟り、捨て鉢半分自己防衛半分でそうしたイメージを演じていたに過ぎない。

 終局的にはニックは世界から決めつけられたキツネのイメージを拒絶し、幼い日の夢だったレンジャー隊の亜種ともいえる警官に就職する。
 そして、パートナーとなったジュディにこんな言葉をかけられる。
「頼んだわよ、おばかなキツネさん(Dumb Fox)」。
 ニックは微笑んで「ずるいウサギ(Sly Bunny)」*12と返す。
 このときの彼は押し付けられたイメージから自由だ。
 「警官なんて無理だ」「重大事件を解決するなんて無理だ」と「愚かなウサギさん」としてさんざん可能性を否定されてきたジュディもまた、世界の押し付けを回避している。
 お互いに、形容詞を交換することによって、望んだ自分を生きられる。二人がパートナーである意味は、こんなところにも見受けられる。


3.3 Biology - 言語による差別の構成プロセス
 さらにもう一つ、作品のテーマに係る重要な単語がある。*13
 Biology あるいは Biological だ。

 この言葉は都合五カ所で発される。
 一番最初は開幕早々のジュディによるナレーション。
「太古の肉食獣たちは抑えがたい、本能的な衝動(Biological urge)によって……」草食獣たちをズタズタに食いちぎっていた、という。

 より重要な用例はジュディがバニーバローからズートピアへ旅立つ駅構内で母親からかけられるセリフだ。
 愛娘がギデオンにてひどい扱いを受けたこともあり、両親はキツネに対してあまり良い感情を抱いていない。

ストゥー(父親)「そして最悪なのがキツネどもだ」
ボニー(母親)「実際、あなたのお父さんは正しいことを言ってるわ。それが彼らの本能(their biology)なのよ。ギデオンがあなたに何したか覚えてるでしょう?」

 ジュディは表面上は両親の偏見に対して渋い顔をして、「あいつみたいなキツネばかりじゃない」と反論する。
 しかし、彼らの言葉はしっかりと彼女の深い部分に刻み込まれてしまっている。

 言語が思想を規定するかどうかは今でも議論が分かれるらしいが、環境は間違いなく言語を規定する。ジュディの両親は悪人ではない。むしろ、世間的には善人の部類に属する。*14しかし、彼らが日常的にキツネを含めた肉食獣へ向ける無意識のバイアスがそのまま語彙へと影響し、トラウマ持ちのジュディを蝕んでいったのは想像に難くない。
 ボニーの使う biology というのが英語圏で日常的に使われる言い回しなのかはわからないけれども、わりあい遠回しな表現であり、彼女なりに気を使っていることも窺い知れる。
 それだけになおさら、というところもある。
 娘を思いやっての善意から発される言葉だけに、ジュディのほうでも抗しがたい。


 三箇所目はクリフサイドのアサイラムライオンハート市長(当時)とマッジ博士の会話を盗み聞きするシーンだ。

博士「市長、彼ら(凶暴化した肉食獣たちのこと)の本性(biology)を考慮にいれるべき時かもしれません」
市長「なんだと? "本性"とはどういう意味だ?」
博士「凶暴化しているのは肉食獣だけです。私たちはいつまでも秘密を隠し通せなどしません。公表すべきです」

 これで決定的にジュディの脳に「凶暴化する=肉食獣」の図式がインプットされる。もともと緩く(頭では正しくないとわかっていても)バイアスに支配されていた彼女はこれでもう後戻りできなくなる。


 かくして、四度目の「Biology」は記者会見の場でジュディ自身の口から発される。それが悲劇の引き金となる。

ジュディ「何が起こっているのかは私たちでもまだ把握していません。しかし、おそらくこれには彼らの本性(biology)が関係しているかと」
記者「どういう意味でしょうか?」
ジュディ「生物学的な理由(biological component)です。ええと、DNAにまつわるものです」

 「DNA」もまた彼女に刻印された言葉であることを思い出したい。
 ギデオンに襲われる直前、彼の口から「DNA」という言葉が飛び出していた。それがジュディにトラウマ体験の一部として、肉食獣への無意識の不信と関連付けられた語として刻まれていたとしても不思議ではない。

 記者会見が終わっても、浮ついたジュディは自分がどれだけ重大な失言をしたか気づいていない。
 ニックに難詰されてようやく自分の過ちに気づく。

ニック「 "明らかに生物学的な理由がある”だって? 肉食獣はみんな野蛮な原始時代に戻るってか? 正気か?」

 「昔はそうだったんだから、今もそうだろう」という安易でリニアな接続を彼女は田舎の善良な両親との日常の中で育み、事件の決定的な瞬間を通じて決定的に固着させてしまった。
 それまでジュディなら信じてもいいと思わせていたニックすらもドン引きさせるほどのナチュラルな偏見。

 差別や偏見が形成されていくプロセスを辿ったものとして、これほど周到でリアリスティックなものは他に類を見ないと過言じゃないだろう。

 『ズートピア』が「政治的な正しさ」の鋭さをもって称揚されるべき点があるとしたら、まさにこの「Biology」の使い方をもって銘されるべきなのではないだろうか。


 五番目の biology を忘れていた。
 博物館でのクライマックス。
 ベルウェザーが凶暴化麻薬(本当はブルーベリー)をニックに打ち込み、ニックが凶暴化する(ふりをする)シーン。
 文字通り目つきが豹変したニックを見て、ジュディは怯える。「やめて!」
 ベルウェザーは二人を高みから見下ろして哄笑する。

「あら、でもやめられないんでしょう? だって、肉食獣は”生物学的(biologically)"に野蛮なんだもの!」

 語調からして明らかにジュディの記者会見の引用である。
 彼女は自分で作り上げた悪夢のつけを払わされることとなった――かに思われたが、それがお芝居であったことは周知のとおり。

 あえて、悪役のベルウェザーに「Biology」という呪われた単語を使わせ、それに打ち勝つことで、ジュディに焼き付けられた刻印を取り除いた脚本の妙。


4.その他の反復たち。

  なんかいい感じの話になってきたがとんでもない。本記事はディズニー内部に巣食う偏執的な反復狂いを告発するために立てられたのである。以下、そういうものを列挙していきたい。

 あらかじめて端的に言ってしまえば、
「『ズートピア』において一度出てきたものは、すべて、全部、なにもかも、漏らさず、あまさず、必ず、オールウェイズ、後で再登場する。
 また、いきなり出てきたように見える場合でも、必ず以前どこかにこっそり顔を出している」
 ということだ。


4.1. ブルーベリー

 本作の騒動の元凶となる精製麻薬はブルーベリーのような外見を有している。
 初登場はどこか。
「ニックとジュディが仲直りした直後のトラックで」
 と答えたあなたは五十点。

「ジュディが田舎で野菜を売ってる時の荷台」
 と答えたあなたは七十点。

 正解は、
「ニックとフィニックに騙されたと知ったジュディがニックを見つけて、二人して歩きながら会話するシーン」だ。
 このくだりにおいて、ニックは露天のくだもの商からブルーベリーをくすねて口に入れている。
 ニックがブルーベリーに目がない事実はここで既に示唆されている。

 トラックの中で、ニックはほくほく嬉しそうにハンカチにブルーベリーを包む。
 そして、そのブルーベリーを博物館での逃走中に床にぶちまけてしまう(よく電車でのアクションのときにぶちまけなかったものだ)。
 足を怪我して走れないジュディは「私を置いて、証拠品を持って警察へ行って」とニックに懇願するが彼は「そんなことができるわけない。なんとか方法を考えなきゃ」と慌てる……そして、その視線は床に散らばっているブルーベリーに向けられている。

 こうして、クライマックスでメリウェザーが麻薬入りと思い込んで撃った弾は、ニックがすり替えておいたブルーベリーだったという展開に至る。


4.2 たまねぎのような植物
 麻薬の原料となるのが長ったらしい学名を持つたまねぎのような植物だ。
 ウィーゼルトンが麻薬ラボのダグに渡すために花屋からバッグに詰めてかっぱらおうとして、ジュディに逮捕されて失敗。ボゴ署長が署長室でバッグの中身をぶちまけて、「たまねぎを守るためにあんな大捕り物を演じたのか?」と皮肉を言うシーンで初出。
 ジュディは「これはたまねぎじゃありません。うちは農家だから知ってるんですが、ちゃんと名前があって……」と言う。
 このセリフからジュディの実家でも栽培している、という事実がわかり、そして後々(ジュディが依願退職して田舎へひっこむところ)、実際にその様子が出てくる。
 そして、ギデオンのセリフから、ジュディはこのたまねぎのような植物こそが麻薬の原料であり、肉食獣凶暴化の原因であると見ぬくのだった。


4.3 沈黙する羊たち
 『ズートピア』の黒幕は羊のメリウェザーを首魁とする羊の一派である。初期設定資料集を見てみると、どうやら羊たちはKKKだかフリーメーソンだかっぽい秘密結社を結成しているようで、そうなると劇中に登場する羊たち、特に目が「➖」になっている羊たちはダンチに怪しい。
 見直すときにはこういう羊たちの暗躍に注意を向けてみると面白いかもしれない。


 4.3.1 ダグ
 たまねぎのような麻薬の原料をヤミで大量に仕入れているのが麻薬製造ラボの作業員兼狙撃手の羊、ダグだ。*15要するに、事件の実行犯。
 彼は地下鉄の廃墟のラボが初登場シーンなように思える。ところが、実はとっくの前に彼の姿を我々は目撃している。

 ニックとフィニックが初登場するシーンで道路から車を出そうとして「邪魔だ! どけキツネ!」と声をあらげる冷凍車に乗った羊がいる。これが実はダグだ。
 もちろん、その時点で気づけという方が無理な話なのだが。

 ちなみにダグという名前も、彼の再登場以前に我々の視界に入っている。
 副市長室でCCTVにアクセスするさいに、メリウェザーの机が出てくる。やたら付箋だのマグネットだの市長のプロマイドがベタベタはってある乱雑な机だが、そのなかのポストイットのひとつに「ダグ」という名前と彼の電話番号「805-555-0127」が書いてある。らしい。(disney.wikia 情報であり、実際にこの目で確認したわけではないので自信がない)

 まあこれもそのとき気づいたからといってどうもこうもない要素ではある。


 4.3.2 羊の新聞記者

 記者会見のシーンは一見自然な流れでああいう雰囲気が醸成されたように見える。
 だが、よくよく見直すと「絵図をひいた」人物が存在したりする。

 記者会見において、ジュディが「これまで凶暴化したのは全員肉食獣でした」と答えたのを受けて「つまり、肉食獣”だけ”が凶暴化するということですね?」と質問した記者がいた。
 これが羊の記者だった。一説にはダグであるという説もある。
 ジュディはその言葉が持つ意味の重大性を考えもせず、「そうですね、それが精確……精確な表現だと思います、はい」とお墨付きを与えてしまう。
 こうして「肉食獣だけが凶暴化する」という方向へと会見は誘導されていく。


 4.3.3 無害な羊?

 「➖」目の羊がすべて悪人かといえば、そういうわけでもなさそうだ。
 本編の冒頭の幼ジュディの寸劇を観覧する人々の中に、一匹だけ「➖」目の羊が紛れ込んでいる。
 そのあとギデオンにいじめられているのが羊の子どもたちであることを考えると、彼らのうちの親のひとりだろうか。
 なんにせよ、ジュディが子供の頃(十五年以上前)なので事件との関わりはなさそう。

(以下、基本的にキャラクターそのものは対象から外す。セリフ付きのキャラで二度以上出てこないキャラはヌーディストクラブの会員たちなど除いてほとんどいない)



 4.4 「素敵な髪型ね」
 ズートピアの裏社会の顔役、ミスター・ビッグの愛娘フル―・フル―に対してジュディがかける言葉。
 ウィーゼルトンがローデンシアで逃げている最中に、巻き添えを食らってあやうく命を落としかけたところを救われる。

 再登場時、ミスター・ビッグの燗気に触れて処刑されそうになっているジュディの姿を認めて、フルー・フル―はすんでのところで助け返す。そのときにジュディはリフレーズする。
「すてきなウェディングドレスね」


 4.5. ドーナツ
 ZPDの受付係クロウハウザーのアイテム。
 初登場時からめっちゃ食ってる。
 ローデンシアでの捕物劇で、ジュディはおおきなドーナツの模型を縄がわかりにウィーゼルトンを捕縛し、クロウハウザーの前でゴロゴロと転がす。

 ちなみにクロウハウザーが資料室勤務から受付に復帰した時も同僚がドーナツを箱ごと差し入れている。


 4.6 電車
 ローデンシアでのウィーゼルトンとの追いかけっこの時に登場。
 そのときの電車はネズミサイズ相応のミニチュアだが、後にフルサイズの電車の中でアクションする羽目に。


 4.7 ゾウの鳴きマネ
 赤ん坊を装うフィニックを、ニックが「こいつゾウの鳴きマネが好きなんだよ」と言う。そのときジュディもついゾウの鳴きマネをしてあげてしまい、後でニックからバカにされる。

 地下電車でのアクションシーンで電車をのっとった際、ニックは「昔からの夢だった。ゾウのパオパオしていいかい・」と言って電車の汽笛を鳴らす。


 4.8 ボイラールーム。
 メリウェザーの副市長室はボイラーのある地下室に設置されている。
 クロウハウザーの左遷先の資料室もボイラーの横。


 4.9 親からの携帯電話コール
 勤務初日、ニックにさんざんバカにされたあと両親からジュディへ電話がかかってくる。

 クリフサイドのアサイラムで、身を隠している最中に両親からの電話の呼び出しがなってしまい、隠れていたことがバレる。


 4.10 便器
 警官学校時代、ジュディは肉食獣サイズの便器で足を滑らせて落下してしまう。
 その体験がヒントとなり、アサイラムで追い詰められたときに、下水を通って外部へ脱出するアイディアを思いつく。


 4.11 ボゴ署長の朝礼
 ジュディ着任時。
 ニック着任時。
 反復することでジュディたちに対する親密さの変化を表している。


 4.12 ミスター・ビッグの冷凍庫
 一回目はジュディとニックが放り込まれそうになる。
 二回目はウィーゼルトンから証言を引き出すため、ジュディとニックがミスター・ビッグに頼んでウィーゼルトンを吊るしてもらう。
 これも反復することで関係の変化を表している。


 4.13 ガゼルのアプリ
 一回目はクロウハウザー。
 二回目はボゴ署長。
 クロウハウザーみたいな頭の軽いやつが喜ぶアプリを硬派なボゴ署長も使っている、という笑いのシーン。
 アメリカのコメディ番組のいちシーンからの引用という説もある。


 4.14 ニュース番組
 一回目は凶暴化した肉食獣とそれに伴う都市の不安を報じる内容。
 二回目は事件の解決と状況改善を報じる内容。
 ニュース内容のトーンの違いが際立つ。
 それにしても雪豹のキャスターのお姉さんが超絶美人ですね。


 4.15 キツネ撃退スプレー
 ジュディのキツネに対する根源的な恐怖を象徴する重要なアイテム。
 一回目はズートピア出立時に両親からジュディへ渡されるとき。
 二回目は初出勤時に携帯して出ようかどうか迷うとき。
 三回目は不審げな初登場ニックをみかけて尾行するとき。
 四回目は記者会見の後ニックから「気づいてないと思ったのかそのスプレー! 最初から気づいていたさ!」と指摘されるとき。


 4.16 メリウェザーの頭のふわふわ
 一回目は、副市長室でのCCTVアクセス時にパソコン作業にいそがしいメリウェザーのあたまをニックが触りまくる。
 二回目は、エンディングでメリウェザーの両隣に座った囚人が彼女の頭をさわりまくる。


 4.17 パウシクル・アイス
 一回目、ニックがゾウのアイスを溶かして製造販売しているところをジュディが目撃
 二回目、オッタートン失踪事件のてがかりに
 三回目、ラスト、なぜかパトカーに乗ったニックが舐めてる。


 4.18 「ウサギ」「にんじん」
 ニックがジュディを呼ぶ時のアダ名。
 「ジュディ」と呼ぶのは滝壺に落ちたときの一回だけ。


 4.19 ニックのサングラス
 アサイラムで肉食獣を開放した直後、ジュディが仲直りにしにきた時、ニックの警官学校の卒業式、ラストのパトカー。
 まあ警官といえば、これ、なイメージはある。


 4.20 オオカミの遠吠え
 一回目はCCTVに映ったとき。
 二回目は一回目を踏まえてジュディがその習性を利用したとき。


 4.21 警察学校の卒業式
 一回目はジュディの、二回目はニックの。


 4.22 「90%は草食動物」
 一回目はジュディがメリウェザー昇格後の市長室に呼びだされた時にメリウェザーが、
 二回目は博物館でメリウェザーが再び口にする。


 4.23 「質問には質問で返して自分で答えろ」
 某氏*16に言われるまで気づかなかった。

 記者会見時にニックが緊張するジュディへ送ったアドバイス。実際に記者会見で使用するもすぐに場の雰囲気に呑まれてしまう。
 このテクニックがラストでも再利用される。
 パトカーでニックが運転席のジュディに「俺のこと大好きなんだって、お前自分でわかってるんだろ?(Do you know you love me?)」と訊ねると、ジュディは「私がわかってるか、って?(Do I know that?)」と疑問形で返し、「Yes, yes i do.(うん。わかってる)」と自分で答える。
 精確に言うとニックが教えたテクニックは質問された内容に含まれていないこと(単語)について自問して答える、という形式なので、ラストのやりとりと微妙に違うのだけれど、論点を巧妙にはぐらかす(「そうだね」は直截的には「Love」ではなく「Know」にかかってる)点では一緒なので、反復に含まれると思う。


 さがせばもっと出てくるんでしょうけれど、もう疲れた。


かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

チェーホフは晦渋でよければ青空文庫にだいたいある。

*1:決定的なのは記者会見のシーンにおける用語と親から渡されるキツネ撃退用のスプレーであるけれども、これらについては後述

*2:誤字ではない

*3:そういうわけでこのラストシーンにつなげるためにはギデオンと和解する場面を描くことが不可欠だった。

*4:脚韻

*5:こうしたズートピア全体の不和は、ジュディとニックの個人的な対立と同調していて、ここでも1で述べたマクロとミクロのシンクロが行われている

*6:今思ったのだけど、ミスター・ビッグ曰くオッタートンと家族ぐるみの付き合いだったのなら、オッタートン夫人が夫の仕事先を知らないのはおかしくないか? オッタートンは根っからはミスター・ビッグを信頼しておらず、家族には付き合いを隠していたのだろうか。

*7:そしてニックもジュディがその間違いを自覚し、悔恨していることは重々承知していた

*8:録音機が声を囚えるツールであると解釈した場合、ニックは仲直り時にジュディの声を捕獲することで遠回しに「おまえは俺のもんだぜ」と愛の告白をしたという解釈も可能だが、いささか古風すぎる気もする。

*9:ジュディがニックを捜査に勧誘するシーン

*10:"All right, look, everyone comes to Zootopia thinking they can be anything they want. Well, you can’t. You can only be what you are. Sly fox, dumb bunny.” - 「みんな成りたい自分になれると信じてズートピアに来る。だが、なれない。自分は自分にしかなれないのさ。ずるいキツネ、間抜けなウサギ」。このセリフを受けてジュディは「私はマヌケなウサギじゃない」と即レスする

*11:原文は “If the world’s only gonna see a fox as shift and untrustworthy, there’s no point in trying to be anything else.” - 「もし世界がキツネをずる賢くて信用出来ない存在としてしか捉えないのなら、「別のなにか」になろうなんて努力は無駄さ」

*12:クリフサイドのアサイラムに狼の習性を利用するシーンで、ニックはジュディのことを「Clever」と褒めている。たしかこれも前にジュディが言ったセリフのはず

*13:単語単位で言えば、tryなども重要なんだけどまあ

*14:因縁あるギデオンを受け入れ、ビジネスパートナーになるという寛容さは並大抵ではない

*15:ちなみに声を当ててるのは監督のリッチ・ムーア

*16:https://twitter.com/simiteru8150/status/727159969733206016

『ズートピア』の制作史、および『ズートピア』のテーマは「差別」であるのか?

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 当ブログの最新記事一覧が『ズートピア』で埋め尽くされてて『乙嫁語り』のパリヤさん顔で「うへえ」となりそうな今日このごろですが、もうちょっとだけ『ズートピア』の話をしたいと思います。

 今回はズートピアの制作過程について、です。ガイドブックや各種インタビューを読んだ人は漠然とながら掴んでるようなことだと思います。

 ネットで読めるインタビュー漁ったのを主観的に再構成したものなので詳細不明な部分*1も多く、あるいは間違いがあったり、誤訳や誤解してる部分があったりするかもしれません。お気付きの場合はご指摘いただけると幸いです。

 さしてネタバレはないですが、基本的には観た人向きです。


鈍行列車じゃ too late

 『ズートピア』の終盤、ジュディとニックが暴走した機関車に乗ってアクションを繰り広げるシーンが展開される。
 目の前から対向車が迫ってくるが、彼らの乗る機関車はブレーキがきかない。
 このままだと衝突してお互い四散してしまう。
 さて、どうする――かは、映画を既にご覧になった向きにはご存知であろうと思う。

 実はあのシーン、実話だ。
 暴走する機関車に乗せられて、迫り来る大惨事へのタイムリミットをどう回避するか。
 それはまさしく『ズートピア』の参加スタッフ自身が体験した出来事のメタファーだった。


このズートピアを作ったのは誰だ

 誰が、いつ、どのようにして『ズートピア』を作ったのか?

 ディズニーが、五年かけて、頑張って作りました、で済むならZPDはいらない。それで「なぜ『ズートピア』はあのような作品になったのか」に答えていることになるか? いいや、ならない。

 私たちは書かれてあることを信用する。
 映画の制作者について知りたければ、まずは何よりも信頼できる情報源として、映画本編のスタッフ・クレジットを参照する。

 『ズートピア』には監督として三人の名前がクレジットされている。バイロン・ハワード、リッチ・ムーア、そして共同監督(Co-Director)としてジャレド・ブッシュ。
 アニメ映画界において、二人以上の人物が監督の任につくのはさして珍しい現象でもない。ディズニーでもここ十年九作品のうち監督クレジットが単独なのは『ルイスと未来泥棒』(07年)と『シュガー・ラッシュ』(12年)だけで、残り七作はみなペア監督の仕事だ。

 それに輪をかけて大家族なのは物語・脚本の方面。
 ズートピアにはクレジットされているだけでも七人ものスタッフが名を連ねているけれども、彼らは「ヘッド・オブ・ストーリー」と称されるストーリー制作班の首班だ。クレジットされていないストーリー・トラストの人間まで含めるとおそらく関係者は二桁を軽く越える。*2
 さらにはドキュメンタリーや各種インタビューを見るかぎり、クリエイティブ・ディレクターであるジョン・ラセターが大きなイニシアチブを握っていたのは間違いなく、こうなってくるといよいよめんどくささがマッドマックスで「みんなでがんばって作りました」でいいじゃんと済ませたくなってくるが、それならこうして記事として立てるまでもない。
 もうすこし、がんばろう。大事なのはくじけない意志だ。

 『ズートピア』は五年の歳月をかけて制作された。
 と、聞くと「さすがは天下のディズニー。六十ヶ月もかけてじっくりコトコト煮込んできたからこそのあのなめらかな舌触り、透明な喉越し、ディズニー映画はウェルメイドの宝石箱や! と叫びたくなってくるだろうし実際叫んでいる御仁も多かろうし彦麻呂が現在もそのフレーズを使っているのか知らないのだが、実際はそんな単純な話ではない。
 ズートピアの辿った道程は一言でいえば、紆余曲折。それも最終カーブが殺人ヘアピンの難産だった。


『ズートピア』の製作時期はざっくり三つに分けられる。

 初期、立ち上げからサベージというウサギを主人公にしたスパイ映画をハワードが構想していた時期(2011~12年?)
 中期、『ズートピア』のアイディアに転換して、ニックを主人公にストーリーを練っていた時期(2012~2014年11月)
 後期、主人公をニックからジュディへと変更し、今の『ズートピア』が完成するまでの時期(2014年11月〜2015年10月)


初期 - 007風映画は死ぬ

発端

 始まりは2011年。『塔の上のラプンツェル』が終わった直後だというから、1月か2月くらいだっただろう。
 きっかけはハワードがクリエイティブ・ディレクターのジョン・ラセターに提出した物語のアイディアだった。

バイロン・ハワード(監督・企画者):
 僕は(『塔の上のラプンツェル』を共同監督した)ネイサン・グレノと六つほどのアイディアをラセターに提出したんだ。
 どのアイディアにも共通していたのは、擬人化された動物のキャラクターが出てくることだった。
 ラセターはこのアイディアに興奮して、「小さな服を着た動物たちが走り回る映画であれば、どんなものだろうと私は協力を惜しまないよ」と言ってくれた。


『ズートピア』スタッフインタビュー記事翻訳:監督編 - 名馬であれば馬のうち


 「動物が喋ったり、二本足で歩いたり、人間の洋服を着たりしているディズニーのアニメーションが大好き」*3ジョン・ラセターだったが、そのような要件を完全に満たすディズニー映画は『くまのプーさん』のリメイクを除けば*4、2005年の『チキン・リトル』以降、作られてこなかった。*5ラセターがディズニーにカムバックしたのは06年だから、事実上「ラセターのしゃべる動物」は存在しなかった。
 なんという手落ちだろう。


 ラセターの意を受けて、ハワードはさっそく喋る動物映画の構想をねりはじめる。
 『ボルト』、『塔の上のラプンツェル』と監督経験こそ豊富だったが、この二作品は06年のラセターのクリエイティブ・ディレクター就任に伴う混乱で降板した元々の担当監督たち(『ボルト』はクリス・サンダース*6、『ラプンツェル』はハワードの師匠筋にあたるグレン・キーン*7)の代役にすぎなかった。
 『ズートピア』はハワードにとって、やっと訪れた「一から十まで携われる初めてのプロジェクト」*8だったという。


監督・アナザー・デイ

 草創期のチームには、脚本・ストーリー・監督補を務めることになるジャレド・ブッシュ、キャラクターデザイン部の新入社員でまだ訓練生だったニック・オルシなどの名前が見える。

 最初にハワードが思いついたのは、『007』風のスパイ映画だった。

ジャレド・ブッシュ(監督補・ストーリー・脚本):
 私がバイロンと最初に会った頃、本作はスパイものだったんだ。私はスパイ映画が大好きだし、『007』シリーズを見て育ったから、「すごい作品になるぞ!」と思っていた。その後、スパイ版の大まかなストーリーを書いたメモを受け取ったんだけど、スパイ版ではズートピアにいるのがたった10分だけで、あとは南国の島を舞台に、スパイ映画的な物事が展開されることになっていた。


「主人公を含む全てのキャラクターに偏見を抱かせることが、とても重要だった」―映画『ズートピア』:クラーク・スペンサー(プロデューサー)&ジャレド・ブッシュ(脚本/共同監督)ロングインタビュー [T-SITE]


 ハワードはシリーズ化を視野にいれるほど『サベージ』にノリノリだったものの、「ロジャー・ムーア版007っぽい」などとスタッフの評判は芳しくなく*9、御破算となる。


ズートピアに行こうよ

 しかし、ハワードのビジョンは全否定されたわけでもなかった。最初の「たった十分」間に出てくる都市のビジョンだけは誰もがこぞって褒め称えたのだ。

クラーク・スペンサー(プロデューサー):
 私を含む全員が思ったよ。「この哺乳類の街は素晴らしい。全てのストーリーはここで展開されるべきだ。だって、この街は今まで誰も見たことがないものだから」ってね。そこで私はバイロンに、「皆はこの街でストーリーが展開されるべきだと思っている。スパイ映画というアイディアもいいけど、ミステリーが隠された警官モノにすれば、この街を舞台として、自然な形でストーリーを展開できるんじゃないかな?」と提案したんだ。


「主人公を含む全てのキャラクターに偏見を抱かせることが、とても重要だった」―映画『ズートピア』:クラーク・スペンサー(プロデューサー)&ジャレド・ブッシュ(脚本/共同監督)ロングインタビュー [T-SITE]


 それと前後して? 動物に関するリサーチが終了。*10
 ハワードたちは「哺乳類の世界では90%が被捕食者、10%が捕食者」というデータに注目し、それを都市「ズートピア」の社会状況と結び付けられるのではないかと考えた。

ハワード:
 動物を1年くらい研究していく中で、哺乳類の中では捕食する側が1割、捕食される側が9割ということに気付いたんです。この自然界の事実をもとに、時として対立関係にある2つのグループが進化して一緒に社会を築いていった場合、もともとあったお互いに対する恐れや不信感は心の中に残っているといったストーリーを思い付きました。


ディズニー最新作『ズートピア』主人公は当初、ウサギのジュディではなくキツネのニックだった! (1) 主人公を逆転させた理由 | マイナビニュース

『ズートピア』の作品テーマとは何か

(この節の話は最後にまたするので、ひとまず飛ばしても問題ありません。)

 描きたい絵が先か、テーマが先か、で言ったら『ズートピア』は前者先行で生まれた作品だ。
 『ズートピア』に関する評言でよく見られる語に「差別」がある。たしかに、映画を見てみると明らかに言い逃れようもなく差別を扱った映画であるとしか言いようが無い。
 けれども、監督たちのインタビューを見てみると、「差別」や「レイシズム」といったことばが慎重に避けられている。

――ー政治的な映画を作ったと御自分でお考えですか?

ハワード:
 僕たちは何か知的な主張をしたり、政治的な傾向のある映画をやろうとして企画を立ち上げたわけじゃない。
 ます初めに膨大なリサーチを行って、哺乳類の九十パーセントは被捕食者で、十パーセントが捕食者だという興味深い比率を知った。
 これを映画に使えば、マジョリティとマイノリティの関係を核として多様な物語が生まれる素地が作れると考えたんだ。


Interview: Zootropolis Directors Rich Moore And Byron Howard Contemplate Social Politics, Bullying And The Human Condition - Bleeding Cool Comic Book, Movie, TV News

ハワード:
 偏見(bias)についてのストーリーを作るつもりでした。



 特にもう一人の監督、リッチ・ムーアの方は作品のテーマについて問われると、ジュディの前向きさを強調することが多い。

リッチ・ムーア(共同監督):
 ジュディは失敗して、自分自身を見つめなおし、できるだけ良い人間になろうとする……というより、できるだけ良いウサギになろうとするんだ(笑)。自分たち自身を最良の人にしようと努力する時、僕らは世界を変えられるんだと思うよ。それはとてもパワフルなメッセージだと思うな。


2人の監督が語る『ズートピア』の世界 〜現地レポート Part 1〜 | roomie(ルーミー)

ムーア:
 この映画の美点は、前向きさを描いていることです。しかし、観客に希望を信じさせるためには、作る側も相応の努力を払わなければなりません。理想を実現させるために困難を乗り越え、ひたむきに頑張る。それが私の考える前向きな映画です。「願えば何でも即座に叶う」ような安易な前向きさなど願い下げです。


Zootopia: Byron Howard, Rich Moore on Their Animated World | Collider


 「良い人間になろうとする前向きさ」とは、ムーア監督の前作『シュガー・ラッシュ』で描かれたテーマそのものでもある。
 一方で、ハワード監督の『ラプンツェル』は(自身のオリジナル企画ではなかったとはいえ)自分の可能性を他者やシステムから抑圧されて閉じ込められている人物が主人公だった。

 二人の監督が描きたかった物語の核とは実のところ、「差別はよくないからやめよう」という大上段かつ漠然とした社会正義ではなくて、それぞれの作家としての個人的な資質だったのではないか。それらが微妙にからまりあった結果、『ズートピア』は今日の『ズートピア』になったのじゃないか。
 そうしたピクサー/ディズニーの合議制思想とは一見相反する作家主義的なものが『ズートピア』に宿っていたとしたら、面白いな。そういうバイアスのもとに色々調べ始めたわけですが、物事というのはこの社会のようにそんな単純でもない。

 ジョシー・トリニダッド(ストーリー担当首班):
 しかし私たちは徐々に動物たちにまつわる固定観念を扱う方向に傾倒していきました。誰だって、なにかしらの固定観念と戦っているものですからね。客席の誰もが心から理解できるものです。


『ズートピア・ビジュアルガイド』角川書店


 この話はひとまず宙吊りにしておいて、とりあえず軸を制作過程に戻そう。


中期-ニック主人公期

キツネと踊れ

 さて、様々な種の動物たちが暮らす都市ものへと制作の舵をきった時点で、主人公がニックと決まった。『サベージ』から都市のアイディアとミステリーというジャンル要素を継承し、陰謀をめぐるバディムービーとして本格的なディベロップメント作業へと移行する。

 主人公がニックに定まった理由はよくわからない。
 しかし理由のひとつとして、バイロンが擬人化されたキツネを主人公とするディズニー映画『ロビン・フッド』の熱心なファンだったことが挙げられると思う。

ハワード:
 僕は『ロビンフッド』を観て育った。『ロビンフッド』はディズニー映画のなかでも一番人気の作品ってわけじゃないけれど、子どもの僕にはものすごく印象的だったんだ。だから、『ズートピア』にも『ロビンフッド』のDNAがいっぱい入っている。


Interview: Rich Moore and Byron Howard for 'Zootropolis'

ムーア:
 バイロンは元々ロビンフッドが大好きで、そもそもこの作品のアイディアもロビンフッドの映画から得ているんだ。


【ズートピア】ニック&ジュディで遊び出す監督たち!? ディズニー2人の天才が送る“奇跡”の映画【来日インタビュー】(2/3) - ディズニー特集 -ウレぴあ総研


 2013年の5月にはジェイソン・ベイトマンが主演声優を務めることが発表された。つまり、このすくなくとも時点で「ニックが主人公の『ズートピア』」でゴーサインが出ていたとみなしてよい。

 『ズートピア』自体がアナウンスされたのは、2013年8月のD23エクスポ(公式ファンクラブ「D23」の会員向けのイベント)のことでである。
 このとき公表されたコンセプト画は、無数のウサギ(人間味のない)に取り囲まれたニック、という構図で、ジュディらしきキャラの姿は見えない。
 とはいえ、かなり早い段階からジェニファー・グッドウィン演じるジュディがニックの相棒として起用されていたことは疑いなく、制作中期における初期段階のコンセプトアートにもニックとジュディの二人が仲良く同じフレームに収まってる画が多く見受けられる。

ブッシュ:
 当初から、バイロンはウサギをストーリーに登場させたいと考えていた。バイロンはウサギのように、一般的に言って可愛いものが好きなんだ。そして彼は、自然界におけるウサギの敵で、一緒にいると衝突するであろうキツネを、自然な流れ(=既存の警官モノで描かれているような流れ)で相棒にした。


「主人公を含む全てのキャラクターに偏見を抱かせることが、とても重要だった」―映画『ズートピア』:クラーク・スペンサー(プロデューサー)&ジャレド・ブッシュ(脚本/共同監督)ロングインタビュー [T-SITE]

Green isn’t Your Color.

 さて、プロジェクト中期、『ズートピア』としては初期に属するこの段階において構想されていたのはダークな雰囲気のディストピア陰謀劇だった。

 多種多様な種の動物たちが平和に共存する理想郷、ズートピア。
 しかし、その「共存」は明確な差別思想の元に築きあげられた偽りの平和だった。
 その根幹を支配していたのが「テイム・カラー(Tame Collar)」と呼ばれる首輪だ。

 ハワード:
 その時点のバージョンでは、捕食者はマジョリティである被捕食者によってとても手ひどい扱いを受けているという設定だった。そういう場所がニックの育った街だったんだ。
 被捕食者が安全で快適な生活を送っている一方で、捕食者は過度に興奮したり乱暴になったときに電気ショックを与える「テイム・カラー」と呼ばれる首輪を身につけなければならない


 この時期に作られたストーリーボードにはこんなシーンがある。
 子ども時代のニックとフィニックが小学校の一室で教育用フィルムを観ている。*11
 教師(ウマっぽいが具体的な種族は不明)が子どもたちを、首輪をつけたグループとそうでないグループに分けてこう言う。
 「私たち哺乳類は二つのグループに分かれています。サメのような歯をもつ捕食者と、ひらべったい歯をもつ被捕食者の二つです。
 私たちが『お友達』ではなぜでしょう、フィニック?」
 フィニックは答える。「えーと、食べ物をわけてあげられないからですか?」
 先生は「なぜなら、捕食者は私たちを食べちゃうからです!」

 こうしてズートピアの子どもたちは幼いときから「捕食者と被捕食者は違う」「捕食者はほっとくと被捕食者を襲う」と教育されて育つ。
 人口の90%にとっては安全安心な理想郷だが、残りの10%にとっては監獄のような社会。
 こんな世界でニックが素直で善良な一市民として成長するはずもない。

ハワード:
 (ニックが主人公の頃は)観客はニックの過去について知りたくなるはずだった。なぜ彼はそんなにシニカルなのか? 彼の目標はなんなのか? 何と戦っているのか?
 だから僕はキャラクター理解のために、彼に暗い過去を与えた。その過去が映画全体を暗く重いものにしたんだ。そうなるとニックのエッジの効いたジョークも精彩を失った。ジェイソン・ベイトマンも彼のキャラをつかむのに相当苦労したと思うよ。


Zootropolis: Rich Moore and Byron Howard interview | Den of Geek


 彼は長じて、ズートピアに反抗する擦れたアウトサイダーになる。
 禁酒法時代の地下酒場風のバーに偽装し、「ワイルド・タイムズ」という捕食者たちのための脱法アミューズメントパークを経営する。

ブッシュ:
 動物たちが動物に回帰できる場所さ。捕食者が被捕食者のコスプレをした別の捕食者をおいかけて遊んだりできる。
 そうやってストレスを解消するわけ。「ワイルド・タイムズ」にはニック考案の安っぽくて楽しげな遊び道具がたくさん設置されていて、まるでカーニバルみたいだった。


『ズートピア』スタッフインタビュー記事翻訳:脚本家、プロデューサー編 - 名馬であれば馬のうち


 環境アートディレクターであるマチアス・レクナーのサイトから「ワイルド・タイムズ」がどういう施設だったか、どんな遊び道具が設置されていたかを確認できる。
 余談になるが遊具の一つに『ピノキオ』に出てくるネコ、フィガロを模したものがあるのが面白い。『ズートピア』の街並みは『ピノキオ』に影響をうけたもの*12らしいけれども、そういえば、子ども時代のジュディを虐めるキツネ、ギデオンも『ピノキオ』に出てくる悪者のキツネの腰ぎんちゃくである山猫と同じ名前だ。こういうところにもディズニーの先達に対するリスペクトが垣間見える。*13


ダークでないと

 それはさておきつ。
 このニック主人公&ディストピア案はラセターの許可も受け、制作をかなりの段階まで進めていたらしい。

 ストーリーの詳細は明かされていないのだが、ビジュアルブックや制作ドキュメンタリーの断片などから掴める内容としては、自由人ニックと新米警官ジュディがひょんなことからチームを組んで事件を捜査することになるうちにある巨大な組織の陰謀に気づき始める……という、アレ? そんなに変わんなくない?*14

 しかし、現行のものと比べて見ると、やはりというかトーンがかなり異なる。ニック主人公案はシチュエーションもロケーションもダークで重いものが多く、「これ本当にディズニーでやっていいの? 『コルドロン』*15か?」とも思ってしまう。


 作品の空気を特に重たくしているのは主人公ニックの存在そのものだった。

「偏見(bias)についてのストーリーを作るつもりでした。しかし、主人公であるニックの目から眺めたズートピアはとっくに『壊れた街』だったのです。彼はズートピアを好いてはいませんでした」



 ニックのキャラクターを観客に理解させるために用意された彼の過去話はどれも差別や虐待を受けた経験だった。
 ジュディはジュディで「きれいなズートピア」を信じて疑わないガサツで無能な警官にしか見えなかった。

 果たして、このドギツく暗澹とした社会的弱者の物語を子どもたちは喜んで受け入れてくれるだろうか?

 現場でも薄々やばいことに感づいてはいたらしい。
 ジャレド・ブッシュなどは「当初のニックとジュディのキャラクター設定に納得がいかなかった」などとぶちまけている。
 ディズニーではストーリーボードや未完成のシーンなどをつなぎあわせて、とりあえず仮の完成版を作ってスクリーニングで出来を観る。最初の数回のスクリーニングは反応がかんばしくなかった。

 しかし、もうラセターのGOサインは出ている。監督のハワードの意志も固い。そもそも今更一からやり直せるタイミングは過ぎ去っていた。
 ストーリーや設定を練るディベロップメントの段階は既に終わりかけ、いくつかはもう実際にアニメーションをつけるプロダクションの工程に突入している。
 声優もスタッフの割当も出揃い、『ズートピア』は2014年の秋にはもはや止まらない止まれない暴走特急と化していた。
 全米公開は2016年3月6日。公開まで後一年半。天下のディズニーの面目にかけて、その期日は一日たりとも延ばせない。

 もはや後戻りできない段階にさしかかっていた。
 誰もがそう思っていた。

 ところが2013年11月、その暴走特急を止めようとする人物が現れた。


あるいは、いかにしてピクサーのレジェンド監督がウォーリーするのをやめなかったか。

ハワード:
 主人公の交代が決まったのは、五回目のスクリーニングが終わった時だ。


Zootropolis: Rich Moore and Byron Howard interview | Den of Geek


 その日のスクリーニングはいつもと様子が違っていた。
 普段は来ていない、「よそもの」がいたのだ。いや、どちらかといえば「普段は遠くに離れて暮らしている実家の親」に近いか。
 ピクサーの社員たちである。

 ディズニー wikia の制作過程にはこう書かれている。

 「テイム・カラー」のコンセプトは既にプロダクションの大きな部分を占めていた。ラセターでさえ、このアイディアに認可を下していた。ところがピクサー社員のチームを招いてスクリーニングを行った際の反応が思わしくなかった。


Zootopia - Disney Wiki - Wikia


 このことが主人公交代劇の決定的な契機となる。

 この不遜な「ピクサー社員」とは誰のことか。
 別のインタビューには詳しく名指しされている。

ムーア:
 ピクサーの人々を迎えてのスクリーニングで、アンドリュー・スタントンがこう言った。

「俺はこの世界を好かないな。ニックに対してあまりにも手ひどい。観客はニックを通してこの世界のすべてを見る。だから、俺はニックにこの街を離れてほしくなるよ。
 ニックの人生を辛くしている世界になんて、誰が住みたいと思う?」


Zootropolis: Rich Moore and Byron Howard interview | Den of Geek


 アンドリュー・スタントン
 ピクサーのオリジナル・メンバーの一人で『バグズ・ライフ』や『ファインディング・ニモ』、そして『ウォーリー』の監督。ピクサー、いやアニメ界のレジェンド中のレジェンドだ。

 その彼に異見されてしまったことでハワードの心も折れた。
 自分たちはズートピアという世界を観客に愛してもらいたくて映画を作っている。しかし、観客にとってのズートピアとは、感情移入先であるニックをいじめる酷い世界だ。そういう世界をどうして観客が愛してくれるというのだろう?
 スタントンの意見は正鵠を射ていた。

ムーア:
 そして、ハワードがやってきて「君たちはもうニックを主人公として好ましく思ってないのでは」と言った。


『ズートピア』スタッフインタビュー記事翻訳:監督編 - 名馬であれば馬のうち


 ムーアを始めとしたストーリー・トラスト(物語の内容を討論するための会議。ストーリーにクレジットされている七人はその主要な面々)の人々も、ジョン・ラセターもスタントンに同調した。

 いまや暴走特急は大きくレバーを入れて、路線変更を試みようとしていた。


one Moore time, once more chance

 ニックを主人公から降ろす。ではその代わりは?
 相棒のジュディだ。
 ジュディを主人公として、観客の感情移入のガイド役として改めて眺めてみると、実に具合が良かった。
 田舎から上京してきて、まっさら目でズートピアの素晴らしさ、きらびやかさに魅了される。努力を惜しまず、正義感は人一倍な一方で、どこか偏見から抜け出せない。ジュディとは観客そのものだ。

バイロン
 『私たちはこの映画を通じて何を言おうとしているのか?』
 偏見について語ろうとしているのなら(私たちが認めたがらないにしても、必ず誰の心にもあるものです)、皆親切で温かい環境からやってきた純粋なジュディこそ、そのメッセージを伝えるのに一番相応しいキャラクターだと気付きました。
 そして、世界の嫌な面を知るキャラであるニックは彼女と衝突し、互いに学び合う。これは以前より良いアイディアのように思いました。



 主人公が変われば、ストーリーも当然変わる。
 本来なら一からジュディの物語を組み立てなければいけない。
 だが、時間がない。一からストーリーを立て直すには、致命的なまでに遅すぎる。
 いっそ公開日を延ばすか? いや、それは許されない。

 ジョン・ラセターはそれまでハワード単独監督だった『ズートピア』に、もう一人の運転手を投入した。
 それが共同監督のリッチ・ムーアだった。
 ムーアは数年内に公開予定だった映画のプロジェクトを抱えていたが、それをなげうって『ズートピア』の監督を引き受けた。

 ムーア:
 スタジオで働くっていうのはそういうことさ。総力戦になったならば、全員が今やってることの手を止めて、製造ラインの次に控えている映画のために奉仕しないといけない。


『ズートピア』スタッフインタビュー記事翻訳:監督編 - 名馬であれば馬のうち


 ハワードは、ムーアが『ズートピア』に向いていた理由としてこんなことを語っている。

 ハワード:
 リッチは『シュガー・ラッシュ』を監督した経験があった。壮大な世界観を持つ作品で、五つの異なる世界が一つの映画のなかに詰まっているんだ。この経験が『ズートピア』でも生きたんだと思う。


Byron Howard and Rich Moore on Building Zootopia


 このことがラセターの念頭にあったかは定かではない。

 ともかく、リッチが新たに全体を差配する人物に昇格することで、意思決定のプロセスが劇的に短縮されることとなる。
 「普通なら二年かけてやらなきゃいけないことを、僕たちは一年でやった」とはムーアの言だが、監督を二倍に増やしたからと作業期間を半分にカットできるとは、簡単な算術なようでいて、そうとうトチ狂っている。
 でもそれをやるのがディズニーという会社だ。


後期-ジュディさん主人公期

 ムーア:
 スケジュールが大いに詰まっていたもので、とにかく早く、早く進行しないといけなかった。もはやディベロップメント(内容を練る)に使う時間なんてなかったんだ。ストーリーの書き換えとプロダクションを同時にこなさないといけなかった。
 だから、スタッフの質問や疑問に答えられる人物が二人いるということは制作を停滞させないためにも重要だったんだ。なんとしてでも2016年3月4日の公開に間に合わせる必要があった。


Byron Howard and Rich Moore on Building Zootopia


 現場は混乱した。

 この時点でリッチ・ムーアが新たに監督に迎い入れられたことは公式にアナウンスされていなかった。
 そのせいでもないだろうが、なんと主演声優であるジェニファー・グッドウィンとジェイソン・ベイトマンに主役の交代を伝えるの忘れるという失態を犯してしまった。二人が変更に気づいたのは、新しい台本を渡されてのボイスセッションの途中であったという。
 このエピソードだけ見ても、いかに現場が狂騒の渦中にあったかがうかがえる。

 それでも彼らは少しずつ、大急ぎで作業を進行させた。
 ムーアとリッチは時に協働し、時に分担することで効率的にひとつひとつ問題を解決していった。

ムーア:
 共同監督として、僕たちは一緒に多くの作業*16にあたった。いかんせん、スケジュールがきつかったから、時々は分担して作業をすることもあったけどね。

 ハワード:
 リッチは編集面を握り、僕はライティング*17やエフェクト等に注力した。今回は分担と協働のハイブリッドって感じだったな。(『ボルト』をハワードと共同監督した)クリス・ウィリアムズと組んだときは分担することが多かったけど、(『塔の上のラプンツェル』を共同監督した)ネイサン・グレノとやったときは一緒に作業することが多かった。『ズートピア』ではこの二つの中間のスタンスをとったんだ。
 僕たちは時間さえあえばいつでも協働したし、スタッフにもそのことを理解してもらった。映画を立て直すために、関係者全員が同じゴールを見据えているんだと確認したかったんだ。だから仕事の偏りはそんなになかったはずだよ。


Byron Howard and Rich Moore Talk ‘Zootopia’ | Animation World Network

 脚本は絶えずアップデートされつづけ、脚本担当のフィル・ジョンストンによれば「400回も」脚本を書き直したという。*18
 没になったストーリーボードやシーンを見てみると、現行本編でも一部改変されて流用されている箇所も多い。
 あらかじめ作り上げていた背景やエピソードが主人公変更後も活きたのだ、といえば聴こえはよろしいか。

 ムーアが共同監督に、ブッシュが監督補として正式にアナウンスされたのは2015年の3月だった。
 5月にはベイトマンとグッドウィンが担当するキャラクターの名前が公表される。

 そうして、完成五ヶ月半前の6月。ようやく最初のティーザーが『インサイド・ヘッド』の全米公開に合わせる形でお目見えする。

www.youtube.com


 このティーザーには現行の本編に登場するキャラクターがほぼ全て揃っており、しかもジュディは駐禁取り締まり用のジャケット、ニックはおなじみの緑のシャツを着用している。
 つまり、この時点で大方の設定やビジュアル、筋はほぼ出来上がったと見ていい。

 かくして、2015年10月29日。
 ムーアは自身の twitterで完成を報告する。


 「主人公変更」という重大な決断から僅か一年たらずでの出来事だった。


主人公変更によって物語はどう変わったか。

 いささか人物によった見方になるけれど。

 バイロン・ハワードにとって『ズートピア』は一貫して「偏見 bias」を語るための物語だった。これにゲイとしての自身の人生が反映されていない、と言えばウソになるのではないだろうか。
 世界から否定され、抑圧され、踏みにじられてきたニックは彼の一部であったはずだ。『ズートピア』のメイキングを描いたドキュメンタリー「Imaging Zootopia」でもそのことに触れられている。
 主人公がニックからジュディに変更されたことで、『ズートピア』はハワードのニック的な面よりもジュディな面を引き出すようになった。

バイロン
 この物語では、ウサギのジュディが、周りの人たちからウサギだからとバカにされ、勇ましい警官にはなれないだろうと見られてしまいますが、その彼女が主人公であることによって、偏見や先入観からいろいろな障害や困難を経験した人たちに理解してもらえるものになると考えました。


ディズニー最新作『ズートピア』主人公は当初、ウサギのジュディではなくキツネのニックだった! (1) 主人公を逆転させた理由 | マイナビニュース


 元々彼はディズニーでの仕事を夢見て、アニメの専門がない大学を卒業してから何度もディズニーの入社試験に挑戦し、二年通算五回目の挑戦でようやく採用を勝ち取った苦労人だ。

ハワード:
 ある意味、ジュディには共感を覚えるよ。
 かつての僕はアニメーション部門に入ることを夢見ていて、応募すればすぐに入れるものだと思っていた。でも、実際はディズニーに入るのに2年かかったんだ。5回も応募して拒絶され続けた。
 僕はそれでも諦めなかったし、今では入るのにそれだけ長くかかったということをとても誇りに思っている。
 だって、これから始めようとしている人に、「僕は1回目の応募で入れたよ」なんて言ったら、圧倒されてしまうし、そんな期待に応えるのは大変だろう? でも僕らはみんな人間で、誰もが失敗するし、物事はいつも思う通りには進まない。そういうことを示せれば、人はもっと勇気づけられると思う。だから、僕はずっとトライし続けるジュディを尊敬しているよ。


2人の監督が語る『ズートピア』の世界 〜現地レポート Part 1〜 | roomie(ルーミー)


 ハワードはジュディの不完全さに人間味を、そして希望を見出す。

 ハワード:
 そして、「完璧であろうとするな」と言いたいよ。ジュディには欠点があって、完璧なキャラクターでないのと同じようにね。常に、正しくあろうとしない方がいいと思う。誤りを犯すことも予想して、その誤りで自分をこうだと決めつけないことだ。


ディズニー「ズートピア」2人の監督が語った“夢を叶える秘訣”<米アニメーション・スタジオ取材Vol.2> - モデルプレス


 世界が完璧でないのと同様に、人間もまた完璧ではない。
 だからこそやり直せる。仲直りできる。再挑戦できる。
 まさにそのようにして、『ズートピア』という映画は完成した。
 素朴な理想と夢から始まり、てさぐりのまま大きな挫折を二度も経験し、その果てに『ズートピア』の大ヒットをつかみとった。
 『ズートピア』の物語の心臓は、ハワード自身の物語と奇妙に呼応している。


 リッチ・ムーアもまた『シュガー・ラッシュ』で偏見と抑圧を描いた人物だった。

 『シュガー・ラッシュ』の主人公であるラルフはテレビゲームの悪役キャラ。しかし、素顔は心根のやさしい、さびしがりやの大男だ。
 彼はゲーム世界の隣人たちと仲良しになりたいと願っているが、しかし「悪役」という偏見のせいで拒絶される。
 ラルフはゲームの悪役たちが集うミーティングでこんなセリフを聞かされる。
「俺たちは悪役だけど、悪人ってわけじゃないだろ?」

 根が善人の悪役は、世界からの決め付けを乗り越えて「正義の味方」になれるのか。それが『シュガー・ラッシュ』という作品だ。『シンプソンズ』出身の監督らしい、若干シニカルでありつつも温かいオチが待ってる。

 その彼が『ズートピア』の監督に加えられるにあたって、本編に注入したのが(先述したが)「前向きさ」、オプティミズムだ。
 ハワードのそれが個人の絶望に抗するための、再挑戦のための努力なら、ムーアの前向きさは世界を革命するため、つまり「世界をよりよくするため」にある。

ムーア:この映画の美点は、前向きさを描いていることです。しかし、観客を希望を信じさせるためには、相応の努力を払わなければなりません。理想を実現させるために困難を乗り越え、ひたむきに頑張る。それが私の考える前向きな映画です。「願えば何でも即座に叶う」ような安易な前向きさではダメなのです。
 ジュディには心から信じている理想があります。

ムーア:
 ジュディの旅の目的は、世界をより良い場所にすること。
 僕自身、若いころにこの業界や自分の世界をより良い場所にしたいと思っていたことを覚えている。僕が学んだレッスンで、劇中のジュディも学んだことがあるんだ。
 それは、世界をより良い場所にするための最善の方法は、自分自身を見つめるべきだということ。
 必ずしも外側を変えるのではなく、内側に目を向ける必要があるんだよ。ジュディは失敗して、自分自身を見つめなおし、できるだけ良い人間になろうとする……というより、できるだけ良いウサギになろうとするんだ(笑)。自分たち自身を最良の人にしようと努力する時、僕らは世界を変えられるんだと思うよ。それはとてもパワフルなメッセージだと思うな。


2人の監督が語る『ズートピア』の世界 〜現地レポート Part 1〜 | roomie(ルーミー)


 ミクロとマクロ。個人の変革と世界の革命。
 差別と偏見は確かに存在する。だが実のところ問題はそれらが存在することそのものではない。
 そうした世界の歪みにいかに立ち向かうか、だ。
 大事なのは、くじけない意志だ。
 それこそが『ズートピア』で何より最重要のテーマなのだと思う。

 ムーアとバイロンの二人の資質とディズニーの制作環境がかっきり咬み合うことで、『ズートピア』という前代未聞の作品が爆誕した。めでたしめでたし。



proxia.hateblo.jp
proxia.hateblo.jp
top.tsite.jp
columii.jp
制作経緯について割と書かれてる感じの日本語、翻訳記事。


io9.gizmodo.com
主役交代劇にスポットを当てた英語記事


disney.wikia.com
ざっくりと制作過程について書かれている wikia

*1:特に精確なタイムライン

*2:IMdbにはクレジットされていないストーリー担当としてダン・フォーゲルマンの名前も書かれている

*3:角川書店『ズートピア ビジュアルガイド』

*4:そもそもあいつらぬいぐるみだし

*5:「しゃべる動物が主人公」というだけなら08年の『ボルト』がある

*6:主な監督作に『リロ・アンド・スティッチ』。ディズニー退社後はドリームワークスで『ヒックとドラゴン』シリーズを立ち上げ大成功を収めた

*7:ディズニーを代表するアニメーターの一人。80年代から90年代にかけてのいわゆる「ディズニー・ルネッサンス」期の作品群のほぼ全作品で主人公級キャラのアニメーションを担当した。80年代にはラセターと組んで『かいじゅうたちのいるところ』を3D作品として作ろうとするなど先見の明もあった。が、ラセターがディズニーに戻ってきたタイミングで体調不良を起こし、自身初の監督作になるはずだった『ラプンツェル』から身を退き退社。彼の弟子であるアーロン・ブレイズがハワードの直接の師匠

*8:http://www.awn.com/animationworld/byron-howard-and-rich-moore-talk-zootopia

*9:余談だがおそらくスパイ映画案のまま企画が成立していたら、2015年のスパイ映画の大攻勢――『キングスマン』、『ミッション・インポッシブル』、『007 スペクター』、『SPY』、『コードネーム U.N.K.L.E』――を受けての戦いを強いられたはずで、今ほどの評価を享受しえたかは疑わしい

*10:九ヶ月、証言によっては八ヶ月、あるいは十八ヶ月かけたとされる動物リサーチだが、時期があまりはっきりしない。プロジェクトが立ち上がってすぐにリサーチをかけたならばスパイ映画案にはならなかったはずで、かといって一旦スパイ映画が頓挫した後にリサーチを始めるのも「まずリサーチから」というディズニーの信義に反する

*11:このフィルムの内容はそのまま現行の本編の冒頭シーンとして流用されている

*12:http://ure.pia.co.jp/articles/-/54141?page=2

*13:本編で一番目立っているのは『バンビ』と『南部の唄』へのオマージュだろう。ジュディがボゴ署長から駐禁取り締まり100枚のノルマを課せられたときに片足をトントンさせるのは、『バンビ』のとんすけの癖だし、終盤にはバンビそのものを模した子鹿の模型が出てくる。ジュディが私服を着ているシーンにおけるピンク色のシャツとジーンズのコーディネートは『南部の唄』のうさぎどんの服装そのまま。ジュディはディズニーを代表するこの二作品のウサギ、灰毛でほっぺたがぷにぷにしているカントリー・ラビットの血統なのだ。

*14:まあそもそも都市型ノワールのプロットなんて大してかわんない。みんな『チャイナタウン』とジェイムズ・エルロイが好きすぎるせい

*15:85年に公開されたディズニーのアニメ映画。不必要なまでに暗すぎるトーンと内容で公開当時から長らく「ディズニー・アニメ最悪の失敗作」と評された

*16:meeting togeter

*17:writing ではなく、lighting のほう

*18:プロデューサーのクラーク・スペンサー「私が思うに、これまで多くの脚本家たちは、個人で脚本を書くプロセスを楽しんできた。しかし、私たちの脚本はとても協力的なプロセスを踏んで完成されたんだ。脚本家や監督、ストーリー・アーティスト、そしてラセターにはそれぞれの視点があって、これらが融合して最終的なストーリーが完成したけれど、脚本家たちはそれぞれの視点に応じて、全ての会話を書かなければならなかった。脚本家は、脚本が常に前進と後退を繰り返しながら進化していくということを、理解していなければならなかったんだ。」http://top.tsite.jp/news/cinema/i/28566791/

今週のトップ5:『リック・アンド・モーティ』、『アノマリサ』、『シビルウォー』、『ロブスター』、『さざなみ』、『ミラクル・ニール!』、『天声ジングル』発売、『貴婦人として死す』読書会

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 『ズートピア』バブルも一段落ついたので、ぼちぼち通常営業に戻ります。

ダン・ハーモン、ジャスティン・ロイランド『リック・アンド・モーティ』

『コミ・カレ!(Community)』のダン・ハーモンと、その愛弟子ジャスティン・ロイランドがクリエーターを務めた大人向けアニメ*1。日本では今のところ Netflix 限定配信。


Film Theory: Rick's True Crime EXPOSED! (Rick and Morty)



 要約すれば、『ドラえもん』のドラえもんが十秒に一回えずく自己中な天才科学爺さん(リック)になって、のび太であるところのダメな孫(モーティ)をあっちこっちのふしぎワールドへ引っ張り回す一話完結型スラップスティック・コメディ。
 っていうかほんと『ドラえもん』っぽい。
 出てくるおじいちゃんの発明品もどこかドラえもんひみつ道具っぽいし、モーティの服装(いつも黄色)や時々見せる(・3・)フェイスも完全にのび太

f:id:Monomane:20160510110707p:plain


 たまにそのことを指摘してるファンも見かけるけど、しかしクリエーター自身が言及している記事はないので、本当に影響を受けているのかはわからない。


 ともあれ、そこはやはり群像劇コメディの傑作『コミ・カレ!』のダン・ハーモン、一筋縄ではいかない。

 構成は『コミ・カレ』に似ている。メインである五人のキャラ(『コミ・カレ』の場合は自習仲間、本作の場合には家族三世代)を二チームに分けて、同時並行的に物語を進行させつつ最終的に一点に収斂させてオチをまとめる。これをたった二十分間に過不足なくやってのける手際はまさに熟練の域。

 そして一話完結型であるにはあるけれど、その話でリックとモーティが行ったことはリセットされず、なんとなく次回以降に引き継がれる。そして、彼らは毎回わりととんでもない蛮行をやりまくるので、一シーズン全十一話が終わるころにはかなりとんでもない事態に発展している。
 そこにどう決着をつけるのか。祖父と孫の愛憎の、夫婦の倦怠期の、ティーエイジャーの姉の反抗期の、それぞれの問題の行末はどうなるのか。
 間違いなく今アメリカで一番面白いコメディ番組クリエーターが作った今アメリカで一番おもしろいコメディ・アニメ番組。


チャーリー・カウフマン、デューク・ジョンソン『アノマリサ』

 で、ダン・ハーモンが『コミ・カレ』でストップモーション(人形)アニメ回をやるために『リック・アンド・モーティ』でもプロデューサーを務めているジョー・ルッソ二世*2らと立ち上げたのがアニメ会社スターバーンズ・インダストリーズ*3
 そのスターバーンズ・インダストリーズにとって初めての長編作品となったのが、アカデミー長編アニメ賞にもノミネートされた『アノマリサ』だ。
 監督脚本は"あの"チャーリー・カウフマン。ハリウッドの鬼子、『マルコヴィッチの穴』や『脳内ニューヨーク』の、あのチャーリー・カウフマン


アノマリサ


 舞台は2005年だから、iPodも懐かしのホイール式だ。

 人気ビジネス本の著者であるマイケル(デヴィッド・シューリス)には全ての人間が、家族ですら、同じ顔で同じ声(トム・ヌーナン)をしているように映り、そのせいで非常な孤独感を抱えていた。
 物語は、彼が講演会のスピーカーとして招かれたシンシナティに降り立つところから始まる。
 妻子と住むロサンゼルスを離れたところで彼の視覚的聴覚的異常が癒えるはずもなく、相変わらず同じ顔と声ばかり。いらだちと慢性的な疲労感のあまり、送迎のタクシーから滞在先の高級ホテルに至るまで話しかけてくる人々に対してつっけんどんな態度をとりまくる。
 「寂しい」「孤独だ」を連発し、現地に住む元カノと連絡をつけて再会するものの、彼女とも結局険悪な雰囲気となって喧嘩別れしてしまう。

 そんな散々な彼の前に、他とは違う声、違う顔を持つ女性リサ(ジェニファー・ジェイソン・リー)が現れる。
 運命を感じたマイケルは彼女に対しアプローチをかけていく。


 実写には実写でしか、アニメではアニメでしか表現しえないことがある。この作品はストップモーションアニメだけれど、確かにストップモーションでしか達成されえない表現に満ちている。
 あらゆる他人が人間ではない人間に見える。
 自分でさえも、人間ではない何かに思える。
 妄想じみた孤絶感と愛情への飢餓感はチャーリー・カウフマン作品に特有の強迫観念であるけれども、それを希釈すれば普遍的な不安にも繋がる。


 みんな人間ではないかもしれない、ひょっとすると自分すらも人間でもないのかもしれない。そんな素朴なパラノイアを描写するにあたって、実際に人間ではなく人形を用いる媒体は『アノマリサ』の物語をセリフより何より雄弁に語っている。
 ストップモーションアニメでリアルな人間に寄せて造形しようとする作品は少ない。『ひつじのショーン』や『ウォレスとグルミット』のアードマンスタジオは動物がメインだし、『コララインとボタンの魔女』や『パラノーマン』などのライカも人間主人公であるけれどもやはりアニメ的に誇張されている。
 『アノマリサ』に出てくる人形は精巧でリアルだ。人間のような彫りの深い顔で、人間のように微細な表情の変化を見せる。
 しかし、リアルであればあるほど「これは本物でない」感じがする。

 その違和感は不気味の谷を越えられない製作側の努力不足、というよりはかなり作為的なものだ。
 『アノマリサ』の人形の顔には目もとから顔を一周する太い線が施されていて、最初は表情を切り替えるための継ぎ目なのかな、と観ているこちらは思う。しかし、そんな技術程度の会社が『アノマリサ』のような豊穣な作品を作り得るわけがない。
 つまり、意図的でないとこの「継ぎ目」はない。
 事実、この「継ぎ目」は劇中でも重大な意味合いを帯びていて、そのことが後々の展開で明かされる。
 けれども、ストーリーテリング以前の問題として、観るものに異質な印象を与え、人形がリアルに振る舞えば振る舞うほどに非人間的に思えてしまう。
 実写でも手描き・CGアニメにも不可能な、ストップモーションならではのバランスと、それに見合うだけのストーリー。
 極めつきの異色作だ。


ルッソ兄弟『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ

 

「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」あのヒーローが参戦!最新USトレーラー

 ルッソ兄弟のキャリアは紆余曲折あったとはいえ、『コミカレ』で一皮向けたのは間違いなく、限られた尺内で複数人数の一人ひとりのバックストーリーを如才なく観客に飲み込ませていく手腕はテレビ監督の本領と言ったところ。そういう意味では大河シリーズ化するマーベル・シネマティック・ユニバースのまとめ役としては適役なんだろう。そういえば、ジョス・ウェドンも元々はテレビドラマ出身だった。
 とにかもかくにもこのところ、観るもの聴くものみんなダン・ハーモン帝国の支族ばかりで『コミカレ』万歳という感じだ。ルッソ兄弟もその自覚があるのか、『ウィンター・ソルジャー』にはダニー・プディが、『シビル・ウォー』にはジム・ラッシュが、『コミカレ』まんまの役柄でカメオ出演している。ここまで出世したか、とファンには感激もひとしおだ。内容はもはやどうでもいい。
 

 実際、プロットはかなりどうでもいい。
 悪役の陰謀によってヒーローたちが分断され、たがいに醜く相争う構図は先日公開されたばかりの『BvS』とさして変わらない。
 ただ、BvSが実質それ一作だけでヒーローの不和を創りださなければならかったのに対して、さすがにこちらは積み上げてきた作品数が違う。
 『シビルウォー』ではスーパーヒーローの圧倒的な力に対する制約を受け入れるか否かに加え、個人的な人間関係や友情が絡まり合い、かなり錯綜した大げんかになっているものの、その糸が混線している印象は受けないし、決別が決定的となる瞬間もセリフではなく映像一発で説明していてとてもスマート。
 それまでマーベルがキャラクターを、シリーズを、全体図を丁寧に彫琢してきた結果の産物であり、またその豊穣な実りを効率的に収穫できるルッソ兄弟のディレクティングの賜物だ。


 まあ、第一、アベンジャーズって毎回喧嘩してるようなもんだし、今更チームに別れて殴りあったところでどうせ最後は幸せなキスをしておしまいなんだろう? と観ているこちらも踏んでいるので今更物語の深みを重視するわけでもないし、むしろ重要なのはキャラそのものの輝き、キャラ同士の関係性、それらを表現する場としてのアクションシーンであって、その点では今回は『エイジ・オブ・ウルトロン』に比べてよほど愉しかった。

 単にアベンジャーズ同士の内輪もめならシリアスで陰鬱にならざるをえないところを、アイアンマン側にスパイダーマントム・ホランド)、キャップ側にアントマンポール・ラッド)というヨソものを加入させることでほどよい軽薄さに仕上がっている。そのせいか知らないけれども、これまでお固い感じだったウィンター・ソルジャーもコメディチックな面を見せてくれる。
 公開前は正直興味をいっこも持てなかったブラックパンサーですらも超カッコいい。チャドウィック・ボーズマンってスポーツ選手役が多かったとはいえそんなゴツゴツした印象はなかったんだけれども、ブラックパンサーの重量感溢れるアクションシーンは(まあ全身タイツなんで当然スタントとCGなんだけど)これまでのアベンジャーズには意外になかったフレッシュさを提供してくれる。敬遠しかけていた単独映画『ブラックパンサー』が楽しみになってきた。

 
 やっぱり、スーパーヒーローには殴りあって対話してほしいし、説得も反駁も拳でやってほしい。アクションで物語や関係性を語って欲しい。
 ママの名前なんてもので通じあってる場合じゃなくてね。


ヨルゴス・ランティモス『ロブスター』

 
 独身者はホテルに収容されて、そこで一定期間内に結婚相手を見つけられなければ動物に変えられてしまうという世界の話。


『ロブスター』予告

  
 どうせ出落ちだろ、と値踏んで実際に観ていると意外とそれなりにおもしろいのがヨルゴス・ランティモスという人の作品で、特に『ロブスター』は主人公(コリン・ファレル)がぼんくら仲間(ジョン・C・ライリーベン・ウィショー)とともに結婚相手を探そうと頑張る(最初はあんまり頑張ってるようには見えないけど)前半部がべらぼうに愉しい。
 
 イケメンベン・ウィショーが自分を尻目にさっさと相手を見つけたのに焦ってコリン・ファレルもホテル内で孤立しているサイコパス女(ランティモス作品の常連で『籠の中の乙女』では長女役だったアンゲリキ・パプリア)に近づくんだけど、なぜよりにもよってサイコパス。 
 ホテル内では「自分と共通点のある人物を相手に選びましょう」というルールめいたものがあるらしく、ファレルもサイコパス女に通じるために薄情なサイコパスを演じるんだけれども、彼女を口説くシーンがオフビートなコメディすぎて非常に笑える。こういうコミュニケーションできない人たちがコミュニケーションしようとして結果シリアスなギャグを産んでしまうコメディがもっと増えればなあ、と思います。

 
 あと、ひどい目にあう動物が出てくる。
 シェットランド・シープドッグだと思うのだけれど、この犬はもともとファレルの兄で、結婚できないために犬にされてしまったため、ファレルが飼うはめになってしまった。
 この犬があるシーンで凄惨に蹴り殺されてしまう。
 殺害シーンは直接描かれないものの、死体ははっきりと映される。内臓が飛び出ていてとてもエグい。
 
 どの国の映画であれ、犬が直接的にひどい目に会う描写というのは避けられる傾向にある昨今にあっては希少なカットだ。まあ、案の定、イヌをひどい目にあわせるやつにはしっぺ返しがくるのだけれども。


アンドリュー・ヘイ『さざなみ』


アカデミー賞主演女優賞ノミネート!『さざなみ』予告編

 仲睦まじい老夫婦が結婚四十五周年の記念パーティを前にして、ある危機に直面する。夫(トム・コートネイ)の元カノの遺体がスイスの山中で氷漬けになって発見されたのだ。五十年前の、若い姿のままで。
 その遺体を見に来ないかと誘う手紙に夫は動揺する。
 妻(シャーロット・ランプリング)も心穏やかではない。結婚する前の恋愛とはいえ、恋人は恋人だ。自分以外に愛していた人物がいたとは。
 しかも、いまや老いてしまった自分とは違う、昔の美しい姿のままで現れるとは。

 遺体を見に行きたいと願う夫。それを必死で止める妻。

 老境に入り、穏やかに凪いでいたはずの夫婦生活が、静かにさざなみ立つ。

 
 この作品にも犬が出てくる。いかにもアホそうなシェパードだ。この犬があるシーンで印象的な使われ方をする。

 夫は昔の写真やスクラップブックやフィルムを自宅の屋根裏に置いていて、例の一報を聞かされてからというもの夜な夜な妻に隠れて屋根裏に登り、昔の恋人の思い出をなつかしむ。
 妻はそれがわかっていながら、なかなか屋根裏に踏み込めない。ハシゴの渡されていない状態の屋根裏への入り口を床からじっと見つめる妻の構図が卓抜している。
 
 ようやく屋根裏にのぼる決心をし、ハシゴをのばして足をかける。
 すると隣で犬がわんわんと妻に吠えかける。登るな、と警告しているかのように。
 あまりにしつこく吠えるので、つい妻は「黙って!」と叫んでしまう。そして制止をふりきって屋根裏へ入る。
 そこで彼女は、夫が美しかった時代の、美しいままに保存されている恋人の思い出を垣間見る。
 
 ある日、妻は夫に言う。
「写真をもっと撮っておけばよかったわね」
 
 しょせん写真など記憶に敵わない、というのは若者のロマンであって、人間の記憶というものは老いるごとに失われていくようにできている。
 その老いをも楽しめるようになれば仙人の境地に達することができようものだがけれども、実際のところ、日々切り捨てられていく細かやな体験などは思い出せなければそもそも愛でられさえしない。
 そして、写真は追憶の手段として時に記憶に勝る。
 それがもう二度と戻ってこない青春の一枚であれば、なおさらだ。


テリー・ジョーンズ『ミラクル・ニール!』


犬のデニスの質問にキャストが答える/映画『ミラクル・ニール!』インタビュー


 犬映画といえばこれも。

 宇宙の支配者的宇宙人から地球人類が生き残るにふさわしい種族かをテストすべく、アトランダムに「振って願えばなんでも叶う手」を授けられたワナビのおっさん(サイモン・ペグ)が大騒動を巻き起こす藤子・F・不二雄手塚治虫みたいなロマンティック・すこしふしぎ・コメディ。
 このサイモン・ペグの愛犬が雑種(おそらくテリアの血が混ざっている)で、ペグの願いによって喋れるようになる。故ロビン・ウィリアムズの声で。
 で、このロビン・ウィリアムズ犬が終盤、サイモン・ペグの手の価値に気づいた悪役に犬質に取られるんだけれども、ここでサイモン・ペグは恋焦がれていた女性かロビンウィリアムズ犬かの究極の二択を迫られる。
 
 そう、いわゆるところの、『少年と犬』問題である。

 少年は犬と女の子の両方を手に入れることはできなくて、どちらか片方だけを選ばないといけない哀しい宿命があるのだ……なんということはなくて、サイモン・ペグは両取りするんですけどね。


相対性理論『天声ジングル』発売

 

天声ジングル

天声ジングル

 はやくデジタル音源を出版してください……。
 カセット版とか出してる場合か……。


『貴婦人として死す』読書会

何喋ったかよく覚えてない。

*1:アダルトスイムという、カートゥーン・ネットワークの大人向け枠で放映された

*2:キャプテン・アメリカ』シリーズの監督で、『コミカレ』でも多数回監督を務めたルッソ兄弟のジョセフ・ルッソとは別人

*3:由来は『コミカレ』に出てくる星形のもみあげをもつ脇役

ディズニーのキツネ史:『ピノキオ』から『ズートピア』まで/前編

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目次

Twentieth Century Foxes in Disney

 『ズートピア』については

『ズートピア』におけるハードコア反復/伏線芸のすべて - 名馬であれば馬のうち

 で作品内情報から組み立てたミクロな記事。

 
『ズートピア』の制作史、および『ズートピア』のテーマは「差別」であるのか? - 名馬であれば馬のうち

 で作品の縦糸をたどった記事を作ったわけですが、そうなってくるといっちゃんマクロな記事が欲しくなってくる。

 『ズートピア』という作品がこれまでのディズニーアニメ史のなかでどのようなポジションを占めているのかが気になる。具体的にはジェネラルなアニメーション史よりもモチーフの変遷が気になる。キツネが気になる。キツネが。

 というわけで。
 この記事では、ディズニーがいかにしてキツネという動物を描写してきたか、その変遷を簡単にたどり、積み重ねられてきたイメージが『ズートピア』でいかにして活用されたのかを見ていきつつ、『ズートピア』を歴史的な文脈に位置づける感じで満足を得たい。

 よって、以下の作品のネタバレを含みます。
 『ズートピア』、『ピノキオ』、『南部の唄』、『ロビン・フッド』、『きつねと猟犬』、『チキン・リトル』(2005年版)、「チキン・リトル」(1943年版)、「きつね狩り」、「ドナルドのきつね狩り」

 
 あと前編は作品ごとのアウトラインをなぞる感じなので、作品鑑賞済みなら大体あらかじめわかります。
 『ズートピア』と上記作品群との関連を手っ取り早く参照したい場合はすっとばして後編へどうぞ。

proxia.hateblo.jp

 結論だけ言っとくと、『ズートピア』のニックは恵まれないディズニーのキツネたちの魂を救済するために現れたヒーローだったのです。


1930年代:ディズニーのキツネ前史

キツネ狩り」(The Fox Hunt、1931年、ウィルフレッド・ジャクソン監督)

 あらゆるものに前史があるように、ディズニーのキツネにも「『ピノキオ』以前」が存在する。1931年に短編シリーズ〈シリー・シンフォニー〉の一篇として発表された白黒フィルム「キツネ狩り」がそれだ。

 上映時間は七分。ストーリーは相応に素朴だ。


 大勢のハンターたちが、たった一匹のキツネを狩るため、猟犬や馬を駆ってよってたかって追いかける。キツネはとにかく突っ走り、犬も馬も追いつけない。しかし、多勢に無勢。キツネは、中が空洞になった倒木まで追い詰められ、まわりを完全に包囲される。
 ハンターが倒木の節目へ手をつっこみ万事休す、かとおもいきや、出てきたのはスカンク。ハンターたちは恐れをなして一目散に遁走する。
 倒木からゆっくりキツネが出てきて、してやったり、スカンクと握手するところでハッピーエンド。


 この記念すべき「ディズニー最初のキツネ」はいかなるキツネだったか、といえば、「ただのキツネ」としか表現しようが無い。
 最後に入れ替わりトリックをしかける頭の良さを備えてはいるものの、基本的には人間たちから追われる可哀想な野生動物だ。作画もフラットで、擬人化されている様子はない。あくまで、一介の動物として描かれている。動物は動物であり、善も悪もクソもない。
 1931年時点のディズニーのキツネは、そういう存在なのだった。


「ドナルドのきつね狩り」(The Fox Hunt、1938年、ベン・シャープスティーン監督)

 ところが、ディズニーのキツネ観はわずか七年後には一変する。ベン・シャープスティーンドナルド・ダックシリーズの九作目として1938年にリメイクした「ドナルドのキツネ狩り(The Fox Hunt)」を見てみよう。

 ハンターが人間からドナルド・ダックグーフィーに入れ替わっただけで、31年版とあらすじはほとんど変わらない。
 ただ細部を眺めてみると、キツネのずる賢さがより強調されているのがわかる。31年版では逃走一辺倒だったが、ドナルド版ではドナルドをちょっとした奸計にかけておちょくるシーンが追加されている。

 キツネの顔つきも白面に吊り目といったいかにも「策士顔」で、さらには舌なめずりする癖まで追加され、あきらかに「ずる賢いキツネ」として描かれている。ラストシーンもスカンクと入れ替わるところまでは一緒だが、スカンクと握手を交わすシーンは削られていて、なんとなく異なる印象が後をひく。
 そう、1931年版と1938年(ドナルド)版で決定的に異なるのは、キツネにある種の性格が付与されている点、言い換えれば擬人化がなされている点だ。

 この擬人化された「ずる賢いキツネ」像をシャープスティーンは自らの監督作で発展させていく。
 1940年、ディズニー長編アニメ第二作、『ピノキオ』だ。


1940年代:「悪人としてのキツネ」確立期

『ピノキオ』(Pinocchio、1940年、ベン・シャープスティーン&ハミルトン・ラスク監督)

 動物を擬人化する発想は長編第一作『白雪姫』の時には見受けられなかった。『白雪姫』の冒頭、いたいけな少女であるスノウホワイトが歌うと鳥やウサギといった森の獣たちが吸い寄せられように集まってくるが、彼らはしょせんスノウホワイトの純粋さを強調するだけの存在にすぎず、喋りもしなければ一個の存在として意思表示することもない。人間と獣が完璧に二分された世界だった。

 「人間と獣で住む場所を分ける」というのは、ディズニーの長編アニメにおいてほぼ一貫したルールだ。

 動物たちが人間のようにふるまい口を利く作品であってすら「動物の世界は動物の世界、人間の世界は人間の世界」とリアリティは分断されている。しゃべる動物たちが人間と言語的なコミュニケーションをとる機会はまずありえない。同族の前では弁舌さやわかな動物たちも、人間を前にすると「わんわん」だとか「にゃーん」だとかしか鳴けなくなってしまう。*1


 翻って、ピノキオは現在の視点からしても不可思議な世界観を持っている。
 いちおう我々の知る人類の世界であるらしいけれども、洒落者のコオロギが喋り、クジラや金魚が感情豊かにふるまい、服を着たキツネが街を闊歩する。かと思えば、二本足で歩くネコがいる一方で、まったく言葉を解さない動物としてのネコも同時に存在する。
 そうした境界の曖昧さが『ピノキオ』一流のファンタジー世界を成立させる一助となっているわけだけれども、さて、キツネの話だ。

 『ピノキオ』に出てくるキツネは”正直(オネスト)”ジョン・ワシントン・ファウルフェローという大層な名前の詐欺師で、ディズニーの悪役商会たる〈ディズニー・ヴィランズ〉にも名を連ねている。

 ファウルフェローはディズニーのキツネ史上でも屈指にうさんくさい顔貌を有する。「ドナルドの狐狩り」のキツネから引き継いだとおぼしきつり上がった眼、極端に濃い眉毛、とっちらかって貧相なヒゲ、大きく裂けた口。これにぼろぼろの着物とやたら芝居がかったオーバーアクションを加えればファウルフェローの出来上がりだ。

 彼(と相棒のネコ、ギデオン)は都合二度ほど劇中に登場する。
 そのどちらも世間知らずのピノキオを舌先三寸で騙して怪しげなおっさんへ売り飛ばす、という、まあ、ろくなものじゃない。*2

 キツネが『ピノキオ』に配役された理由は単純かつ明白だ。彼は原作となるコッローディの童話『ピノッキオの冒険』にも出てくるキャラで、そのときからキツネだったのだ。
 もっとも、原作と映画では微妙に悪っぽさが違う。原作のキツネとネコは名無しのならずもので、ピノキオをアグレッシブに殺そうとしたり、「金のなる木が生えてる場所に案内してやる」といって金貨を奪ったりとかなり野蛮で荒削りな面が強い。

 かたや、我らがファウルフェローは暴力を振るわないスマートな紳士(と自分では思っているの)であり、あくまで穏やかかつ強引にピノキオと「交渉」する。
 こうした改変は、原作の時代と映画の時代とでのそれぞれにおける「世間で遭遇しうる悪」の違いが反映されているのだろう。
 1800年代のヨーロッパでは野盗や追い剥ぎがまだまだリアルだったのに対して、1940年のアメリカでは世間知らずな坊やをペテンにかける都会の詐欺師のほうがより身近で現実的な脅威だった。


前史の前史:キツネはいつから悪者であったのか。

 『ピノッキオ』(原作)は十九世紀のイタリアで生まれた。
 この事実は、すくなくともその頃までに、フィクション中の動物の役回りとして「キツネ=ずるい、悪い、詐欺師」という定形概念がヨーロッパに膾炙していた事実を示唆する。
 ではいつからキツネは「ずるがしこい悪者」扱いされていたのか。

 最初からだ。

 紀元前4世紀ごろに古代ギリシアの哲学者*3アリストテレスが著した『動物誌』にキツネの性格に関して以下のように述べられている。良識ある読者は動物に性格もクソもないとおもうだろうけれど、なにぶん2000年以上前の人の言うことなので許してあげてください。*4


 ……また、キツネのように、ずるくて、悪さをするもの、……


p.28、『動物誌』アリストテレース、島崎三郎・訳、岩波文庫



 紀元前におけるキツネのステロタイプイソップ寓話でより特徴的に出ている。イソップ寓話でキツネが表題に入っている寓話は二十八ある*5といわれ、狡猾に立ちまわって利益を得るか、そのしっぺ返しを喰らうかするパターンが多い。
 たとえば、肉を咥えたカラスをおだてまくって肉をせしめる「カラスと狐」や井戸に落ちて困っているところにのこのこやってきた純朴なヤギを騙してハシゴがわりに使う「狐とヤギ」などは前者、鶏を謀ろうとするも逆に騙されて鶏の友人である犬に食い殺される「雄鶏と犬と狐」などは後者に分類される。基本的に、イソップのキツネは騙しにかかってくる詐欺師だ。
 イソップ寓話の起源は紀元前七世紀から六世紀にかけて生きた古代ギリシアの奴隷アイソーポス(英語読みでイソップ)であったというけれども、当然アイソーポスが現存する寓話をなにもかもこしらえたわけではない。とはいえ、キツネがかなり文明史のかなり早い段階から「ずる賢い」というイメージで語られていたことがわかる。
 そうした動物寓話が中世に結実していわゆる『狐物語』が生まれるわけだけれども、これについては『ロビン・フッド』と絡めて後述する。

 で、じゃあなんでヨーロッパ人が歴史的にそんなキツネに負のイメージを押しつけていたといえば、要は害獣だからだ。害獣のなかでも、悪目立ちする害獣だったからだ。
 キツネは家畜を襲い、農作物を荒らす。鳥やネズミなどと違って体格も大きいため目につきやすく、頭も良いため人間側が対策を講じてきてもやすやすと破ってしまう。
 また、キツネは野生動物であるけれども、比較的人間に近いところを生活圏にしている。野生と文明との間に立つ、近くて遠い存在、それがヨーロッパにおけるキツネという生き物だった。


 ネコにもイヌにも似ており、狩猟の対象であるが食べられはせず、境界上の生き物である。
 つまり、柵のならび、森の周辺、小屋の前庭、野原のはずれ、そして昼と夜の境目の生き物である。彼はわれわれの約束事を破るものであり、それゆえに、のがれるすべもなく、退屈で、固定した予測可能な生活にとらわれていると感じるものたちの秘密のアイドルなのである。


 p.222、『動物論―思考と文化の起源について』、ポール・シェパード、寺田鴻訳、どうぶつ社



 いくら神秘的とはいえ、害獣であることに変わりない。時代がくだるにつれ、ヘイトをためていく。ついには「ギリシア人はアルヒロコス以来狐の八六〇の悪業を知っているが、セム人は既にそれよりもっと多くの悪業の数々を知っている」*6などとdisられ、おそろしい魔女や悪魔*7と結び付けられる始末。
 中世までの民衆におけるキツネのイメージは、聖書や博物学者のコメントをまとめた古代博物譚『フィシオログス』に能く要約されている。


 フィシオログスはキツネについてこう語る。キツネはまったくずる賢い。メギツネが空腹になってえさがないと、彼女は抜け目のない計略をたてる。……(中略)……悪魔もまた、その業はすべて、悪賢い。その肉に加わるものは死ぬことになる。悪魔の肉とは、わいせつ、強欲、売春、好色、殺人である。どうしてヘロデはキツネに譬えられたのだろう。あのキツネにいえ、こう主は言われたのだ。*8


p.47、『フィシオログス』、オットー・ゼール、梶田昭・訳、博品社



 ヘロデとはキリスト生誕当時のユダヤ人の王だ。『マタイによる福音書』では「新しい王」であるイエスが生まれたと聞いて怯え、ベツレヘムで二歳以下の男児を全て殺害させたとされる。
 そんな新約聖書最大の悪役と重ねられるくらいだから、キツネがいかにヤな印象を持たれていたかが知れる。

 もともと作物や家畜を盗み食いするので迷惑がられていたところに、動物を擬人化することによって教訓を語る「寓話」という説話形態が現れたので、みんなよってたかってキツネの性格=ずる賢い、悪い、詐欺師というステロタイプをべたべた貼り付けていった、という、まあそんな認識でさして間違ってないんじゃないかと思う。思う程度なので、本当のところを知りたい人は専門家をさがすかものの本を読んでください。
 そして、この「キツネ=狡猾な悪役」のイメージが『ズートピア』のニックにまで連綿と保存されてきた。
 けれどそれはあくまで一般レベルでの現象であって、『ピノキオ』から『ズートピア』に至るまでずっとキツネの株価が横ばいだったといえば、そんな簡単でもない。


チキン・リトル」(Chicken Little、1943年、クライド・ジェロニミ監督)

 さて、ここでもう一つ短編を挟む。
 『チキン・リトル』という題名を聞くと、2005年の凡作長編『チキン・リトル』を思い出す人が多いとおもうけれども、あれは1943年に発表された本短編のリメイクだ。
 といっても、あらすじはだいぶ違う。他の有名作とは違ったあまりに知られていない短編なので、アタマからケツまで筋を割ろう。


 あるうららかな午後、キツネのフォクシー・ロクシーが農場で飼われている鶏たち(なぜか人間のように文明化されている)に目をつける。
 ところが農場は堅固だ。柵で囲われている上に、下手すれば農場主に銃で撃ち殺される恐れがある。
 そこでフォクシーは心理学の本をヒントに一計を案じる。いかにものろまそうなヒヨコ、チキン・リトルに目をつけると、神のお告げを騙り、「空が落ちてくるぞ!」と囁く。
 チキン・リトルは驚倒して「みんな逃げろ!」と農場に触れ回るものの、鶏たちのリーダー、コッキー・ロッキーの論理的な演説によってたちまち混乱は終息する。

 コッキーを難敵と見たフォクシーは、さらなる謀略を練る。
 柵に空いた節穴を利用して鶏たちに「コッキーは全体主義者だ」などとありもしない流言を吹きこみ、リーダーに対する不信を煽ったのち、チキン・リトルに再び語りかけ、「コッキーにとって代われ、おまえが真のリーダーとして皆を導くのだ!」と吹き込む。
 すっかりその気になったリトルは皆の前で「僕についてこい!」と一席ぶつが、コッキーは「『空が落ちてくる』なんて大ぼら吹いたあいつについていくのか?」と論難する。
 そこに星の絵が描かれた板が柵の外から飛んできて、コッキーの頭にぶつかる。もちろん、キツネが投げ入れたゴミだ。
 ところが、何も知らないニワトリたちは「本当に空が落ちてきた! リトルは正しい!」とパニックに陥り、リトルの信奉者になる。

 しかし、空が落ちてくるとして、どこに逃げればよいのか。
 フォクシーはリトルに「ほらあなに逃げ込め」と吹き込み、リトルはみなを柵の外にあるほらあなまで先導する。
 ニワトリたちが一匹残らずほらあなに入りきったところで、フォクシーは「さて、ディナーの時間だ」*9とナプキンをクビに巻く。
 このまま、ずる賢いキツネが勝利してしまうのか?
ナレーターは「心配ありませんよ。お話の結末はハッピーエンドと相場は決まっているものです」と視聴者に語りかける。

 が、次のカットでは腹を膨らませて満足そうに骨をしゃぶるフォクシーの姿が映る。ニワトリは全滅したのだ。
 ナレーターは驚愕し、「こんなの間違ってる! こんなオチは僕の脚本にないよ!」と文句をつける。
 キツネは葉巻をふかしながら心理学の本に肩肘をつき、不遜な顔で、「おや、そうかい? 本に書いてあることを何でも信じるもんじゃないぜ、兄弟!」とうそぶき、ジ・エンド。


 1943年版「チキン・リトル」は擬人化された動物のイメージ利用の極致だ。
 というのも、フォクシー・ロクシーはあきらかにヒトラーを指示している。政治利用である。
 2004年に出たDVDのコメンタリーによれば、劇中に登場する心理学の本(表紙に「心理学(Psychology)」と書かれている)は当初ヒトラーの著書『我が闘争(Mein Kampf)』が予定されていたらしく、事実フォクシーが読み上げる一文は『我が闘争』からの引用だ。
 その上、フォクシーがニワトリたちに吹き込む流言の内容も「コッキーは全体主義者だ」などとやけに政治的で具体的だったりもする。
 本作が枢軸国と激戦を繰り広げていたアメリカの銃後における情報戦や思想戦の注意喚起を呼びかける内容であることは一目瞭然だ*10。あるいはナチスに踊らされて食い物にされるドイツ国民や親独国家へのあてこすりという面もあったかもしれない。*11

 とにもかくにも、ウォルト・ディズニー(「チキン・リトル」ではプロデューサーとしてクレジットされている)は長年築き上げられてきたキツネの負のステロタイプを史上最悪の虐殺者と連結させる、という戦争犯罪を犯した。しかし彼もまた世界第八位の海軍力を擁する軍事国家の独裁者だ。*12我々には裁きえない。
 フォクシー・ロクシーは『ピノキオ』のフォウルフェローに輪をかけて凶悪な顔つきをしている。ワニのようにするどい牙をむき出しにニヤリと微笑むカットなどからはフォウルフェローに残っていた道化的な愛嬌などかけらもない。


『南部の唄』(Song of the South、1946年、ハーブ・フォスター監督)

ウサギどんキツネどん―リーマスじいやのした話 (岩波少年文庫 (1003))

ウサギどんキツネどん―リーマスじいやのした話 (岩波少年文庫 (1003))



 ラバのことを知りたいからって、何もラバの脚に蹴られる必要はない。それはワシがリーマスだってことと同じくらい確かなことさ。
 ブレア・ラビットやブレア・フォックスの物語は人間の世界にも当てはまる。
 でも、動物の話なんか役に立たんと思う人は耳を傾けようとはしない。
 忙しいというより、悩みに気を取られて余裕がないんだなあ。


 『南部の唄』冒頭のリーマスおじさんによるナレーション



 終戦後からの長い期間、いわゆるディズニー・クラシックスの映画にキツネは出てこなかった。
 その間に、ディズニーは動物擬人化によって人種や差別問題を隠喩的に描きつつ子どもも楽しめるエンタメの手法を確立した。たまにカリカチュアが過ぎてマイノリティから反発を喰らうことがあったにしても、だ。

 たとえば『おしゃれキャット』(1970年)のミュージカルシーン「みんなネコになりたいのさ」に登場するピアニスト兼ドラマーのシャム猫*13は明らかに中国人(に代表されるアジア人種)のコメディチックなステロタイプにのっとったキャラクターだ。*14
 彼には箸でジャズ・ピアノを弾きながら「ホンコン、シャンハイ、エッグ・フー・ヤン*15! フォーチュン・クッキーはいつもハズれ!」と歌うパートまで割り当てられていたのだが、九十年代にリリースされた『シングアロング-ソング』ビデオシリーズ*16やサウンドトラック・コンピレーション・シリーズ『Classic Disney: 60 years of Musical Magic』ではそのパートがカットされている。近年のコンピレーションやサントラで聴けるのは、この短縮ヴァージョンのみだ。*17
 劇中で使用されたミュージカル曲をフルレングスで収録したことがウリだった2015年の『The Legacy Collection』シリーズで『おしゃれキャット』が出された時も、シャム猫のパートから歌が消え、ピアノの伴奏だけに編集されている。ここまで徹底的にサントラからシャム猫を排除しておきながら、現行のソフトではまだ残されているのがよくわからない。

 しかしまあ、『おしゃれキャット』などは、まだ幸せな方だった。ディズニー映画の中にはあまりに抗議の声が高まったために、フィルモグラフィから事実上抹消された映画すら存在する。
 終戦の翌年、1946年に公開された『南部の唄』だ。

 『南部の唄』を観るすべは現状存在しない。90年前後に二度LDとビデオ*18が発売されたきりで、BlurayどころかDVDも出ていないし、本国アメリカでも86年に再公開されたきりでソフトはビデオ時代から今日に至るまで一本も発売されずじまいだ。
 原因は全米黒人地位向上協会(NAACP)によるクレームを受けての自主規制、と一口にいえば簡単だけれども、これ自体論じると本が一冊できるくらいのアレになるらしく、実際アメリカでは二三冊、『南部の唄』封印問題についての本が出ている。


ディズニー映画「南部の唄」"SONG OF THE SOUTH"とスプラッシュマウンテン

<第15回> 『クーンスキン(Coonskin)』と 『南部の唄(Song of The South)』 « なぜ『フォレスト・ガンプ』は怖いのか ― 映画に隠されたアメリカの真実 ―


 まあ要するに、「奴隷制の時代が舞台なのに、主人の白人と奴隷の黒人があたかも対等であるように描いているのは歴史の歪曲だろが」ということだ。*19
 かならずしも人種描写云々が問題視されたいうわけでもなく、実写とアニメの混成した手法の特殊性によって、『南部の唄』は〈ディズニー・クラシックス〉のナンバリングからは除外されている。*20よって厳密には、本作は「ディズニーの長編アニメ作品」ではない。
 ないけれど、キツネは出てくる。それこそが我々唯一の興味だ。

 さて、キツネはどこに出てくるか。
 『南部の唄』は二つのパートに分かれる。
 一つは南部の白人少年ジョニーが近所に住む少女ジミーや黒人のストーリーテラーリーマスおじさんと交流を深める実写パートで、もうひとつはリーマスおじさんが語るブレア・ラビットの物語を再現したアニメパートだ。
 後者のお伽話パートでブレア・ベアとともにブレア・ラビットを狙う悪役こそ、我らがブレア・フォックスだ。力任せにラビットを狙う脳みそ筋肉野郎ベアとは対照的に、フォックスは知性派だ。計画を練り、罠をはる。
 フォックスのラビット捕獲作戦は100%うまくいく。『南部の唄』に挿入される小話は都合三つだが、そのいずれにおいてもフォックスはラビットを欺瞞して捕獲することに成功している。三回目など、捕獲の経緯をすっとばしていきなりラビットを捕まえた状態からはじまるほどだ。

 裏を返せば、捕まえたあとの段階で必ずラビットに逃げられているわけだ。
 絶体絶命の状態でラビットは自らの舌先だけを頼りに窮地を脱する。フォックスは罠を張るのは上手いが、ディズニーの他のキツネほどには舌が回らない。まんまとラビットに逃げられ、相棒のベアと一緒にひどいしっぺがえしを受けてしまう。*21

 ここで描かれているフォックスとラビットの関係性はハンナ・バーベラの『トムとジェリー』、あるいはワーナー・ブラザーズバッグス・バニーとエルマーのものに近い。
 力に勝る強者である悪役が弱者である善玉を追い回すが、最終的には善玉の機知にやられてこっぴどい目にあう、というパターンだ。

 『南部の唄』は手法とメッセージが一致した作品だ。アニメパートだけに着目するといささか平坦に見えるものの、興味深いのは寓話の持つ効力が各所で讃えられる点で、いわば本編全体が一種の寓話論として織られている。
 実写パートの主人公である白人の少年ジョニーは近所に住むクソガキ兄弟から目をつけられている。そして、いよいよいじめられそうになったその時に、リーマスおじさんから聞かされたお話を思い出し、ブレア・ラビットのメソッドを応用することでクソガキどもの因果に応報をキめる。
 「腕力で敵わないなら、頭で勝負するんだ」という少年のセリフはリーマスおじさんのお伽話におけるブレア・ラビットの態度そのものだ。いじめっこたちの造形もフォックスとベアの鏡写しになっていて、少年=ブレア・ラビットの印象が強化される。*22
 少年は寓話から教訓を学び、人生の知恵を手にする。それはイソップ以来の正しい寓話の用法だ。
 ラストのアニメーションと実写が混在し融け合う感動的なシークエンスは、寓話の世界(アニメーション)が現実世界(実写)と地続きであることを示している。

 そしてその感動は同時にキツネへの風評被害をもたらす。
 寓話における動物は、人間の持つキャラクターの一側面を増幅した形態をとる。『南部の唄』のキツネは、もちろん、いじめっこのメタファーだ。
 ブレア・フォックスは『ピノキオ』のフォウルフェローの舌足らずの後継者であり、「善良でか弱い人間」を食い物にする悪意ある詐欺師として描かれる。

 ここまでが、ディズニーにおけるキツネの受難期だ。
 寓話における伝統的なイメージが反映された原作(『ピノキオ』も『チキン・リトル』も『南部の唄』も原作アリ)から「あくどいキツネ(sly fox)」をそのままひっぱってくることで現代におけるキツネのイメージを決定づけた。

 その後、四半世紀以上に渡ってディズニーのキツネは沈黙し、身をひそめる。
 次に大々的に登場するのは、ウォルト・ディズニー死後、1970年代に入ってからだ。

 「大々的に」でなければ、約20年後に登場する。
 60年代におけるふたつの作品でのキツネは、それまでの伝統的なキツネ観に沿ったささやかな脇の脇役だった。


1960年代:チョイ役のキツネ二匹。

『王様と剣』(The Sword in the Stone、1963年、ウォルフガング・ライザーマン監督)

王様の剣 [DVD]

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 主人公アーサーのメンターである魔術師マーリンがライバルの魔女マダム・ミムと魔法による変身対決を行う。
 ウサギに変身したマーリンに対して、マダム・ミムが変身したのがキツネだった。彼女は倒木へとウサギのマーリンを追い詰める。

 古典的な「魔女の化身としてのキツネ」のイメージだ。


メリー・ポピンズ』(Mary Poppins、1964年、ロバート・スティーヴンソン&ハミルトン・ラスク監督)

 「キツネ狩り」を髣髴とさせるキツネ狩りのシーン。貴族的なハンターたちが大量に猟犬を放ち、キツネを追いかける。そこにメリー・ポピンズの親友であるバートがメリーゴーランドポニーに乗って現れて、キツネを救出し、垣根を越えて競馬場へとつっこむ。

 『メリー・ポピンズ』に出てくる名も無きキツネ(いちおう喋る)は、30年代の「きつね狩り」に見られるような、「人間から追われる弱者としてのキツネ」の系譜に属する。
 彼はディズニーのキツネたちのなかで最も貧弱な体つきをしており、四肢が非常に細い。しかし、お調子者な面も持ち合わせていて、バートに助けだされて自分が有利になったとみるや、追ってくるイヌたちの鼻面を殴ったりもする。

 初登場シーンで石塀の上に佇んでいるのが印象的だ。バートのポニーに乗って、垣根を飛び越えるシーンも。キツネとはやはり境界を行き来する動物なのだ。


1970~80年代「キツネ・ルネサンス」期

ロビン・フッド』(Robin Hood、1973年、ウォルフガング・ライザーマン監督)

 終戦から三十年近くが経った。巨人ウォルト・ディズニーはすでに亡く、アメリカではカウンター・カルチャーが隆盛を迎え、確実に変化の局面を迎えていた。
 公民権運動、ウッドストック、フリーセックス、ヒッピーカルチャー。既存の価値観への異議申し立ての時代。
 キツネの立ち位置も受難期から一変する。
 なんと今度は主役だ。
 ヒーローだ。
 『ロビン・フッド』。


 十三世紀のイングランドで悪王ジョンに立ち向かった英雄ロビン・フッドの物語は世界的に有名であるけれども、動物たちの世界には動物版の「ロビン・フッド」がある――そんなナレーションで映画がはじまる。
 賢君である兄リチャードが十字軍のため遠征へ出ている隙に、プリンス・ジョンはイングランドを乗っ取ってしまう。
 実権を握ったジョンは国民に対し苛税を敷き、宰相のヘビ、ヒスやノッティンガムの保安官を務めるオオカミなどを使嗾して容赦なく税を取り立てる。民衆は反感を抱くが、ジョンの強大な権力の前に為す術もない。
 そこに現れたのが、シャーウッドの森を根城にするキツネの義賊、ロビン・フッドだ。
 彼は相棒のクマ、リトル・ジョンと共に巧みな変装術と知恵でジョンを謀り、大金を巻き上げて重税にあえぐ民衆に配ってまわる。
 やがて、一向に捕まらないロビン・フッドに業を煮やしたジョンはロビンに味方にする民衆をかたっぱしから牢屋に入れ、彼を誘い出そうと画策するが……というお話。


 さて、『ロビン・フッド』はこれまでディズニーのキツネたちが持ち得なかったある問いを孕んでいる。
 「なぜ、キツネでなくてはいけなかったのか?」という疑問だ。
 ロビン・フッドは伝説の英雄をモデルにしており、もとは人間だ。『ピノキオ』も『チキン・リトル』も『南部の唄』も原作がキツネだったから映画にもキツネが出てきたわけで、『ロビン・フッド』にはそうした正当性の根拠が見当たらない。
 原作にキツネが出てこないのに、なぜロビン・フッドはキツネでなくてはいけなかったのか。

 実のところ、答えは『ピノキオ』のときと大差ない。
 「"元々の原作”の主人公がキツネだったから」だ。

 話は『ロビン・フッド』制作以前に遡る。1960年代、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオはある古典物語の映画化を考えていた。
 その物語の名は『狐物語』。中世ヨーロッパで成立した諷刺物語で、主人公の狐レナード*23は世をすねたトリックスターだ。王様のライオンをはじめとした他の動物達を次々と計略に陥れてとことん馬鹿にし、快楽を極めつくす。*24そんな姿が王権や教会といった既成権力に反感を持つ民衆のあいだで人気を博し、フランスでは「ルナール」といえば狐を指す代名詞にまでなった。
 ウォルト・ディズニーはレナードを主人公をすることに難色を示した。いくらなんでも他人の女を寝どったりするアンチ・ヒーローをディズニー映画の主人公に据えるわけにはいかない。そこでレナードを敵役に配置換えし、『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者として有名なエドモン・ロスタンの戯曲『東天紅(Chanticleer)』*25の雄鶏カンテクレール*26を主人公に『カンテクレールとレナード(Chantecleer and Reynard)』という作品を構想する。
 しかし、結局スタジオは競合案である『王様の剣』(1963年)のプロジェクトをすすめることを決め、レナード狐の企画は頓挫してしまう。*27

 『狐物語』とりやめになったものの、そのマインドは70年代の『ロビン・フッド』へと継承された。
 ケン・アンダーソン*28は『ロビン・フッド』のキャラクター・デザインを担当するにあたり、レナード狐の企画からそのままデザインを流用したのである。*29

 たとえば、ロビン・フッドはレナード狐から、悪役であるオオカミの保安官はレナードのライバルであるアイゼングリム狼*30から、そしてプリンス・ジョンはライオンの王様から、といった具合に。*31ロビン・フッド』におけるロビンのキツネ顔は、悪役時代のディズニーのキツネたちに特徴的な長いマズルがぐいっと引っ込み、より親しみやすいすっきりした造作になっている。どちらかといえば、ネコに近いか。

 一見正統派ヒーローであるロビン・フッドと欲深いアンチ・ヒーローであるレナード狐とでは水と油に見える。けれども、両者とも「王権に反抗し、搾取する側から逆に盗む市井の知恵者」という点では一致する。
 先述したように『狐物語』は王様や教会といった権力に抑圧されまくっている一般民衆の憂さ晴らしが含まれていて*32、それは後に「欠地王」として大国イングランドの栄華を墜落せしめたジョン王の痴政*33に対して草の根の英雄ロビン・フッドを夢想した*34イングランド国民とも軌を一にしている。

 要は民衆の願望が投影された庶民派アウトサイダーという点では変わらないわけで、レナード狐をロビン・フッドに重ねたケン・アンダーソンの慧眼は特筆に値する。

 何度も繰り返すようだが、キツネは野生と文明のはざまにたゆたう境界線上の動物だ。そのキャラクターの複雑さがキツネを悪漢とヒーローの間を行き来する存在へと仕立てあげる。
 本人たちにもその自覚があったようで、物語冒頭、相棒のリトルジョンがロビンフッドに「俺たちって良い人間なのかな、悪い人間なのかな?(Are we good guys or bad guys?)」という疑問を投げかける。「貧しい人たちに分け与えているとはいえ、盗みは盗みだし」
 ロビンは「盗んでないよ。借りてるだけさ」とはぐらかす。
 彼の「正義」はそこで棚上げされる。
 権力によって執行される正義は、その権力が正統である場合はまだいい。だが、その権力が正統性を欠き、間違った統治を行っている場合は?
 顛倒した権力を前にした抵抗もまた、顛倒した形で顕現する。目には目を、詐欺師には詐欺を。

 ロビン・フッドは弓の腕前こそ一級品だが、あまり腕っ節は強くない。彼の真の武器はキツネ伝家の宝刀、口八丁の狡知と逃走だ。
 『ロビン・フッド』には変装のシーンが頻出する。保安官やプリンス・ジョンなどのヴィランの前に現れるときはほぼ何らかの変装を行っている。
 序盤にたいそうな大名行列を従えて練り歩くジョンから大金や財宝を騙し取るシーンでは、ロマの女占い師に化けてジョンに近づき、庶民から保安官が税金を強制的に絞りとるシーンでは盲目の乞食として登場する。
 彼が真の姿を晒すのは庶民やヒロインであるマリアン姫の前だけだ。
 兄王をたぶらかすことで本来自分が握る権利のない支配者の座を手に入れたジョンは国民に対して常に自らを偽った状態にある。そうした王を装う王への礼儀として、ロビンも本来の自分ではない姿でジョンに拝謁するわけだ。
 逆に、正直に生きる民衆やマリアン姫の前ではロビンも正直な自分を晒し、ジョンを打倒し、すべて本来通りに恢復された暁にはロビンもまた変装する必要がなくなる。

 また、彼はほとんど戦わない。常に逃げている。クライマックスともいえるジョンとの直接対決のシーンでさえ、焦点となるのは「ロビンが逃げ抜くことができるのかどうか」だ。これは他のディズニーヒーローたちとは趣味が異なる点だ。
 弓矢という武器のチョイスも、彼が蛮勇とは無縁であることを証している。暴力による支配に対して非暴力的な手段で抗う。
 ロビン・フッドは間違いなくカウンター・カルチャーから生まれたヒーローだった。

 余談になるが。
 『ロビン・フッド』とおなじく『狐物語』に多くを負いながらも他の作品を直接の原作とするアニメ映画が存在する。
 2009年のウェス・アンダーソン監督『ファンタスティック Mr.Fox』だ。このストップモーションアニメはストーリーの部分はロアルド・ダールの『父さんギツネバンザイ』を元にしつつ、ストップモーションアニメとしての血統はポーランドの伝説的アニメーション監督ラディスラス・スタレヴィッチの『Le Roman de Renard』(1937年)に起源する。『Le Roman de Renard』の英題は『The Tale of the Fox』。そう、『狐物語』の映画化だ。
 ウェス・アンダーソンはこの事実に自覚的であったように思われる。というのは、『ファンタスティック Mr. Fox』には『ロビン・フッド』の劇中歌「Love」が流れる一幕があるからだ。キツネ映画の先達として、『ロビン・フッド』にオマージュを送ったのだろう。

 『ファンタスティック Mr.Fox』は『ロビン・フッド』の血を継いでいる映画であって、『ズートピア』とはいとこみたいな関係にある。そんなわけで『ファンタスティック Mr. Fox』と『ズートピア』を比べてみると色々と面白いわけだけれど、本記事はディズニーのキツネたちについて述べる場であって、残念ながらジョージ・クルーニー演じるイケメンナイスミドルキツネのための席は用意されていない。


『きつねと猟犬』(The Fox and the Hound、1981年、アート・スティーブンス&テッド・パーマン&リチャード・リッチ監督)

 ウォルト・ディズニーからディズニー王国を託されたウォルフガング・”ウーリー”・ライザーマンを筆頭とする伝説的なアニメーター集団「ナイン・オールドメン」は60年代から70年代にかけてウォルト不在のスタジオを支え、ディズニーのブランドに不滅の名声と信頼をもたらした。
 ナイン・オールドメンが引退し方向性を見失った80年代は一転してディズニーの暗黒期とみなされる事が多い。*35

 そんな過渡期に生まれたのが1981年の『きつねと猟犬』だった。本作はライザーマンら旧世代の引退作である一方で、ティム・バートン*36、グレン・キーン*37ブラッド・バード*38、ロン・クレメンツ*39ジョン・ラセター*40、マーク・ディンダル*41、マーク・ヘン*42、マイク・ガブリエル*43、ケリー・アッシュビー*44、クリス・バック*45などの新世代の台頭も予感させるフィルムとなっている。*46

 本作はつまるところキツネと猟犬、本来ならけして交わることのないふたりの禁断の愛を描いたBLであるわけですが、そろそろ自前であらすじ書くのがめんどくなってきたので、ウィキペディアから引用します。

 母を殺され、人間に育てられた子ギツネ・トッドと、その隣人の猟師の元へやってきた、猟犬の子犬・コッパー。2匹は、将来敵同士になるとも知らず、親友となります。月日が流れ、大人になったトッドは森へ帰り、コッパーは立派な猟犬へ。もはや敵同士となって再会した2匹。しかし、そんな彼らの前に、巨大なクマが現れ……。

 サンキューウィキペディア。と言いたいところだけど、いくらなんでも雑い。なんだそのクマは。唐突すぎるだろ。っていうか、あらすじ直下の登場キャラ紹介のところで「クマ:恐ろしい巨体クマ。キツネのトッドと猟犬のコッパーの戦いで敗れた」とか書いてんじゃねえよ。

 で、補足すると、コッパーにはチーフという猟犬の師匠がいて、その彼がトッドを追ううちに鉄道事故に遭って不具になってしまい、そのことでコッパーはかつて親友だったトッドにヘイトを向けるのです。

 それはさておきつ、『きつねと猟犬』の主軸になっているのは「生まれの違うもの同士の友情」だ。ほとんど『ロミオとジュリエット』的とも言ってもいい。憎しみ合う二つの家系に生まれた二人が愛し合ってしまったがばっかりに悲劇にまきこまれてしまう。
 友情ではなく恋愛に対象に拡げれば、ディズニー映画における「身分違い」や「生まれの違い」は枚挙にいとまがない。戦前戦中のディズニー長編でそもそも恋愛をまともに描いたのは『バンビ』くらいだったが、プリンセスものとの相性の良さもあいまって戦後には「身分・生まれ違い」の恋愛が増えていく。

 嚆矢はやはり、1950年長編第12作『シンデレラ』(ベン・シャープスティーン監督)だろう。その後も1955年第15作『わんわん物語』(ハミルトン・ラスク監督)、1970年第20作『おしゃれキャット』(ウォルフガング・ライザーマン監督)、そういえば『ロビン・フッド』のロビンとヒロインのマリアン姫も身分違いだった。
 80年末代末以降のいわゆる〈ディズニー・ルネサンス期〉に入ってくるともはや身分違いでない恋を探すほうが難しい。1990年28作『リトル・マーメイド』(ジョン・マスカー監督)、1991年第30作『美女と野獣』(ゲイリー・トゥルースデイル監督)、1992年第31作『アラジン』(ジョン・マスカー監督)、1995年第33作『ポカホンタス』(マイク・ガブリエル監督)……。
 特定の作品*47を除き、身分・生まれ違いの恋愛は常にハッピーエンドで終わる。この点はどの作品でも共通している。原作が悲恋に終わる『リトル・マーメイド』すらもハッピーエンドに書き換えられていた。

 ところが『きつねと猟犬』の結末はハッピーエバーアフター主義のこれらの作品と一線を画す。ハッピーエンドといえば一応ハッピーエンドであるものの、どこか苦い余韻を残すものとなった。見てみよう。

 終盤のクライマックス。猟犬のコッパーはトッドを追う途中、クマに襲われる。キツネのトッドは恋人のキツネとともに一旦は逃れかけるが、絶体絶命のピンチに陥っているコッパーを見て舞い戻り、身を挺してクマを撃退する。
 その直後、コッパーの飼い主である猟師のスレイドが姿を表わす。
 何も知らない彼はトッドに銃を向け、その前に立ちはだかっているコッパーにどくように命じる。が、コッパーは動かない。命がけで自分の命を救ってくれたかつての友を、自分もまた守ろうとする。
 飼い犬の頑なな態度に何かを悟ったスレイドは、銃を下ろす。
 コッパーとトッドの友情が復活する。
 しかし、もはや以前と同じように、とはいかない。仔犬時代のような密な付き合いをするには、お互い違う時間を生き過ぎていた。
 コッパーは猟犬として人間と共に生きなければならない。トッドは野生動物として妻とともに森で生きなければらない。
 ふたりは笑顔を交わし、無言で別れを告げる。

 ラストシーン、トッドの元飼い主である老婦人に甲斐甲斐しく世話をやかれて不面目そうな猟師を見やりつつ、師匠のチーフとともに犬小屋で穏やかにまどろむコッパー。カメラが引いていくと、その彼を、遠く、森の入口から眺めるトッドとその妻の影が映る。
 もはや二度と交わらないものの、ふたりの友情は永遠であろうことがそのショット一発で示される。

 叙情感とエモさだけでいえば、ディズニー史上トップクラスと言っていいラストだ。これで涙しない人間は人間ではない。
 ところで、なぜ、ふたりは離れ離れにならなければいけなかったのだろう。なぜ、『わんわん物語』のレディとトランプのように、『おしゃれキャット』のダッチェスとオマリーのように、仲良く暮らす結末にならなかったのだろう?


 IMdbのトリビア集を信じるならば、原作となったダニエル・マニックスの小説ではそもそも二人は友達ですらなかった。チーフも映画ではトッド追跡中の不幸な事故による骨折、という描かれ方がしていたが、原作ではおもいっきり故殺されている。トッドはそれぞれ二匹いた妻と仔をハンターに殺され、自身もコッパーとの追跡劇の果てに射殺されてしまう。
 しかし、コッパー自身も介護施設送りとなった飲んだくれのハンターの手で「置いてけぼりにするよりは」と撃たれて殺されてしまう。
 救いというものがまるでない話だ。ディズニー映画基準では暗い方に分類される『きつねと猟犬』も、原作に比べれば大甘な味付けといえる。
 これは監督のアート・スティーブンスが映画で「死」を直接的に描くことを嫌った結果でもある。もともとの脚本では、チーフは原作同様死ぬ予定だったが、彼によって変更が加えられたという。*48

 幾分原作の残酷さが希釈されたものの、それでも「トッドが猟師のうちに迎えられて、いつまでも二人仲良く暮らしました」とはならかった。むしろ、「狡兎死して走狗煮らる」エンドな原作とは別な方向での救われなさが際立つようになってしまった。
 猟犬は猟師のもとでキツネを狩るのが生業であり、キツネは人に飼われず森に暮らすのが本性だからだ。そのふたつはけして共存できない。


 仔犬時代にこんなシーンがある。
 トッドがいつもどおりコッパーのもとへ遊びに出かけると、コッパーが犬小屋に縄でつながれている。猟犬として本格的に仕込むべく、猟師がコッパーを拘束したのだ。
 コッパーはぼやく。
「つまらないよ。どこにもいけないんだ」


 それまでキツネと猟犬の垣根なく、ふたりでどこへでも自由に遊びに行けた。しかし、猟犬としてトレーニングを積むならそれも叶わなくなってしまう。
 大人になる、ということの残酷さがここに描かれている。
 犬はキツネを狩り、キツネは犬に狩られる。犬は文明の側にあり、キツネは野生の側にある動物だから。
 野生の動物とはどういう生き物か、といえば、それはつまり童心を保ったまま大人になったもののことを指す。猟犬とは、自分を殺して社会へと組み込まれる文明側の大人だ。
 「野生=自由」「文明=順応」のイメージはウェス・アンダーソン監督の『ファンタスティック Mr. Fox』などにも現れている対立だ。だが、『きつねと猟犬』は価値観の優劣の話はしない。
 ただ、(人間によって措定された)体制が野生の自由を許さない、その冷徹さを淡々と描いている。
 私とあなたでは「違う」から、どんなに想い合っていても別々の場所で生きるしかない。戦後アメリカの国民統合の中心理念だった文化多元主義の挫折と時代的にシンクロするこの結末は、あるいは制作現場におけるライザーマン要する旧世代派と新世代の衝突を反映したものだったのか。

 本作に描かれているキツネは、上記で紹介した短編「きつね狩り」における猟犬に追われる弱者としての系譜にあり、他のディズニーのキツネたちのような狡猾さはあまり発揮しない。むしろ、純真な存在だ。
 そして、ここでもやはり「境界上の存在」だ。トッドは野生に生まれながら物語序盤を優しい老婦人の「飼いキツネ」として過ごし、後半からは森で野生動物として逞しく生きる。
 しかしどちらかといえば、やはり野生の存在なのだ。キツネというのは。

 40年代に悪人・詐欺師として擬人化されたディズニーのキツネは、60年代の不遇を経て、70年代の反動でロビン・フッドとしてまず悪役としての汚名を返上し、80年代に『きつねと猟犬』で四ツ足で歩く一介の動物としての本性を取り戻した。

 だが、それでキツネの世間一般的な詐欺師的イメージや悪評が払拭されたか、といえば、そんなことは全然なかった。


1990年代:幻のキツネ

ライオン・キング』(The Lion King、1994年、ロジャー・アレーズ&ロブ・ミンコフ監督)

 『ライオン・キング』にはブハティなる名前のメスのキツネが登場するはずだった。
 彼女は子ども時代のシンバとナラの遊び友達であり、「ずる賢い悪友」だったらしい。
 しかし、彼女はディベロップメント作業のいずれかの時点でナラの弟ムヒートゥと共にカットされた。*49

 90年代のディズニー長編アニメ10作品いずれにもキツネの姿はない。


2000年代:ますます遠くなるキツネ

チキン・リトル』(Chicken Little、2005年、マーク・ディンダル監督)

 この映画自体が語るに値しないのと同様に、この映画に出てくるキツネもまた論ずるに値しない。いや、しかし、好き嫌いで飛ばすわけにもいかない。とりあえず、トライしてみよう。

 本作はもちろん1943年版「チキン・リトル」と同じくイギリスに伝わる寓話『ヘニー・ペニー』を基にしている。
 ただ、内容は1943年版とまったく別物だ。

 『サザエさん』の花沢さんの声でしゃべるムカつくニワトリの子供(白く換毛してとさかまで生えているのでヒヨコではない)チキン・リトルがある日「空が落ちてくる」と騒いで街を大混乱に陥れたものの、結局勘違いだったということで以後オオカミ少年扱いに。
 ホラ吹き野郎呼ばわりされつつチキン・リトルは惨めな学園ライフを過ごしていたが、ある日宇宙人が街にやってきてので「空が落ちてくる」のは夢だけど夢じゃなかったと判明。おかげで微妙な関係だった父親のバック・クラックとも和解して恋人もできて映画化もされて毎日がウハウハです。

 登場するキツネは短編版「チキン・リトル」に引き続き、フォクシー・ロクシー。Foxy という単語が女性を連想させるからだろうか、性別が女に変わっている。悪役ではあるけれども、事実上の主役といってもよかった短編版からは役割がかなり縮小している。
 フォクシーはチキン・リトルの通う学校のクラスメイトで、いじめっこ。他人を馬鹿するのが趣味の性格最悪暴力女で、ことあるごとにチキン・リトルとその友人(アヒルと金魚とルーニートゥーンズに出てきそうなブタ)をいびりまくる。
 スポーツ万能で地元の弱小少年野球チームのスターでもあるが、リーグ優勝をかけた最終戦でヒーローの座をチキン・リトルに奪われてしまい、街中が勝利に湧く中「あんなのまぐれよ!」と一人だけキレる。特に和解とかはない。
 その後、宇宙人が街に出現したさいは無謀にも立ち向かってアダプテーションを食らい、そのショックで頭がおかしくなる。
 騒動解決後、それまでシャツにサスペンダーといったワルガキルックからなぜか縦ロールの金髪かつらにフリフリのお嬢様ドレスといった装いで傘を指して蝶をおいかけるヤバいキャラに。
 改心した宇宙人が「おや、治してあげないと」と申し出るが、そのお嬢様ヴァージョンに惚れたリトルの友人のブタが「このままでいい! 彼女は完璧だ!」と治療を拒否し、彼女と交際をはじめる。
 クソみたいだが大体こんな流れだ。


 長編版『チキン・リトル』の数多ある欠点の一つに「キャラクターの薄っぺらさ」が挙げられ、フォクシーにはそれが最悪な形で表出してしまっている。
 彼女は背負うべきドラマを何も与えられず、ただ理不尽にリトルを抑圧する存在として立ちはだかり、最後には精神が壊れてよかったね。なにをどうすればこんなキャラを愛することができるのか。どこをどうすればディズニー長編アニメにこんなキャラを出せるのか、責任者はどこか。
 そのうえ、これまで良きにつけ悪しきにつけ脈々と綴られてきたディズニーのキツネたちの記憶がまるごと欠落してしまっている。
 『ロビン・フッド』における名誉回復は忘れ去られ、さりとてフォウルフェローや短編版のフォクシーのような悪漢としてのおちゃめなチャーミングさをふりまいてくれるわけでもない。それはイソップの語るキツネですらない。テクスチャが貼り付けられた無だ。まるで1930年代以前どころか石器時代へ退化したみたい。

 ピクサーがディズニーによって買収され、ジョン・ラセターがクリエイティブ部門のトップにつくまでの2000年代のディズニーは興行的にも批評的にも散々な戦績を重ね、よく「低迷期」だとか「暗黒期」だとか*50呼ばれた。
 『チキン・リトル』はジョン・ラセター以前の最後の作品にあたる。
 疲弊しきったディズニーの喘鳴が、そのまま練りきらないキツネのキャラクターに響いてしまったわけだ。

 それから十年が経過する。

2010年代:キツネの神

『ズートピア』(Zootopia、2016年、バイロン・ハワード&リッチー・ムーア&ジャレド・ブッシュ監督)

 いわゆる結論部分にあたるわけだけれど、ここまでであまりに文字数が膨れ上がりすぎたので別記事を立てます。

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*1:例外的に『ジャングル・ブック』や『ターザン』などでは、主人公である人間がクマやゴリラなどといった動物たちと会話するが、これは主人公が動物によって育てられた野生児であるため。

*2:ヴィランではあるものの、ファウルフェローは「お仕置き」をうけない。ピノキオをコーチマンに引き渡してそのまま映画からフェードアウトする。もともとは彼らになんらかの罰がくだされる予定だったらしいが、尺の都合により脚本段階でカットされたらしい。

*3:今でいうところの無職

*4:古代のヨーロッパにおける最も有力な博物学者といえばプリニウスだろう。が、彼の『博物誌』では驚くほどキツネについての叙述に乏しい。象については十数節を割くほど熱中してるくせに、キツネは立項すらされていない。アリストテレスもそこまで詳しくキツネのことを記述したわけではないけれど、紀元後のローマは紀元前のギリシャより都市化が進んでキツネとあまり遭遇できなかったのだろうか?

*5:p.52、可知正考『日独の民俗・諺にみる動物比較 序論』鳥影社

*6:『ドイツ俗信中辞典』

*7:「民間信仰では、狐は変装した悪魔、あるいは古い異教の神と見られていた」――可知『日独の民俗・諺にみる動物比較 序論』

*8:"ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。 そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。”――『(口語訳)ルカによる福音書』第十三章より。

*9:にもかかわらず、ほらあなの入り口に「ランチ中!」という看板を立てる

*10:アメリカにもナチスドイツに賛同する勢力は少なからずあったし、アメリカ人の方にも敵国の血をひく人々への不信感や警戒感があった

*11:戦時中のディズニーがプロパガンダに注傾していたのはよく知られた事実だ。アカデミー短編アニメーション賞を受賞したドナルド・ダック・シリーズ短編「総統の顔」ではより直接的な形でヒトラー東条英機といった人物を諷刺している

*12:ソ連のフルシチョフ首相が一九六〇年にアメリカを訪れたとき、ディズニーランド行きを希望したが、警備が困難という理由で実現しなかった。フルシチョフ首相と同様、ウォルト・ディズニーもがっかりしたという。完成したばかりのアトラクションの潜水艦八隻をずらりと並べて、「首相、これがわがディズニーランドの潜水艦隊でありまして、世界で八番目の規模を誇っています」と自慢したかったからだ」――粟田房穂, 高成田享『増補版 ディズニーランドの経済学』

*13:シュン・ゴンという名前がついている

*14:アジア原産種であるシャム猫黄色人種を象徴させるのは『わんわん物語』でも行っていて、こちらは完全な悪役である。

*15:中華風オムレツ、芙蓉蛋のこと

*16:ディズニーのミュージカルシーンにカラオケ用字幕が入って一緒に歌える子供向けシリーズ

*17:日本で比較的手に入りやすい『マイ・ファースト・ディズニー』や07年版『おしゃれキャット』サントラなどもこのヴァージョン

*18:あとベータ

*19:この要約だけ読んで「また自主規制厨か〜」とほざくような人はその手の問題を論じるのに向いてないので、レゴブロックでも買って知育に勤しんだほうがよい。

*20:同じ手法で描かれた『メリー・ポピンズ』や『ロジャー・ラビット』も同様の扱い

*21:ただし、フォックスはベアと違って学習できるほどには知性があるため、三度目の挿話のときはラビットのほら話を最初から看破する。

*22:推測だが、リーマスおじさんはあらかじめワルガキどものキャラを知ったうえで、作為的にフォックスとベアに反映させたのではないか

*23:英語読み。フランスではルナール、ドイツではライネケと読まれる

*24:とはいえ、常に勝利していたわけではない。後述のカンテクレールのように弱者を騙そうとするときは逆にいっぱい食わされるケースが多い。そういう意味では『南部の唄』のブレア・フォックスもレナード狐の血を継いでいるといえる。

*25:堀口大學の訳題。日本で現状『東天紅』を読むのは困難だが、子供向けに翻案した劇を絵本化した『カンテクレール キジに恋したにわとり』が2012年に朝日新聞学生社から出ている

*26:もとは『狐物語』に出てくるニワトリ

*27:英語版ウィキペディアの「Reynard」より。

*28:長編第一作『白雪姫』の頃から77年の『ピートとドラゴン』までの長きに渡り美術監督や脚本を中心として多くの分野で活躍。ディズニーランドでもファンタジーランドのアトラクションやEPCOTセンターに携わった。91年にディズニー社によって〈ディズニー・レジェンド〉に列せられる

*29:https://thedisneyproject.wordpress.com/2012/07/03/robin-hood-1973/#more-553

*30:フランス語読みではイザングラン

*31:ロビン・フッド』のキャラクターデザインには、1945年に出版されたアメリカ版『狐物語』であるハリー・J・オーウェンズ『The Scandalous Adventures of Reynard the Fox』のキース・ワードによる挿画からの影響が指摘されている。http://willfinn.blogspot.jp/2007/07/robin-hood-confidential-pt-2-keith.html

*32:岩波文庫狐物語』の解説より

*33:まあ史実ではそんなに悪い王様でもなかったらしいけど。文句ならリチャード三世ともどもシェイクスピアに言ってくれ

*34:最近では実在説も強いらしいが

*35:クリストファー・フィンチ『ディズニーの芸術』

*36:バットマン』シリーズや『ビッグ・フィッシュ』などで今やハリウッドを代表する監督の一人

*37:〈ディズニー・レジェンド〉の一人。『リトル・マーメイド』や『塔の上のラプンツェル』などのキャラクターデザインなど

*38:アイアン・ジャイアント』監督後、ピクサーに加わり『ミスター・インクレディブル』や『レミーのおいしいレストラン』を監督。その後は『ミッション・インポッシブル:ゴースト・プロトコル』や『トゥモローランド』など実写映画にも活躍の幅を広げている

*39:『リトル・マーメイド』や『アラジン』などを監督。ディズニーのアニメーターでも現役最長老で、2016年公開の『Moana』の監督も務める

*40:ピクサーの総帥

*41:ラマになった王様』及び『チキン・リトル』の監督

*42:『ムーラン』の作画監督

*43:ポカホンタス』監督

*44:シュレック2』などの監督

*45:『ターザン』の監督

*46:一方で制作中の対立でドン・ブルースなどの人材も失っている

*47:ネタバレになるので明言はしない

*48:http://disney.wikia.com/wiki/The_Fox_and_the_Hound

*49:http://disney.wikia.com/wiki/Bhati

*50:ディズニーの歴史研究で博士号を取ったクリス・パラントは『Demystifying Disney: A History of Disney Feature Animation』のなかでのこの時期を「Neo-Disney」と呼称している


ディズニーのキツネ史:『ピノキオ』から『ズートピア』まで/後編

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からのつづき。

『ズートピア』他のネタバレを含みます。 

ズートピア (ディズニーアニメ小説版)

ズートピア (ディズニーアニメ小説版)

『ズートピア』(Zootopia、2016年、バイロン・ハワード&リッチー・ムーア&ジャレド・ブッシュ監督)

 『ズートピア』のキツネ、ニックは人生を諦めている。
 世間でキツネは「ずる賢い詐欺師」としか見られず、その視線に抑圧された彼は自分を見えない天井の下に押しこめ、そのステロタイプ通りにずる賢い詐欺師としてふるまう。

 そのキツネに対する負のイメージはアリストテレス以来、ヨーロッパが2500年かけて培ってきた呪いだ。ディズニーもまたその強化に一役買ってきた。

 『ズートピア』の監督、バイロン・ハワードは呪いからキツネを救い出すにあたって、『ロビン・フッド』をモデルに選んだ。幼いころから『ロビン・フッド』を観て育った彼にとりキツネとはヒーローであり、世間が抱くキツネに対する間違ったイメージに内心忸怩たるものを抱えていた……かはわからないけれども、『ズートピア』がこれまでディズニーがキツネに対して押し付けてきた負債をサンプリングしつつ償う作品に仕上がっている。


 ほんとうか?
 ほんとうに?
 では、たしかめるために一作ずつキツネ系長編と『ズートピア』の関連を紐解いていこう。


『ピノキオ』:Green is the new Black.



 バイロン・ハワード:
 子どものころに観た『バンビ』は恐ろしかったけれど、とても感動的だった。そして、『ピノキオ』も怖くてダークだったが、同時に美麗ですばらしかった。


 Zootopia Pushes Beyond Stereotypes - Busy Moms Helper



 リッチ・ムーア:
 僕はジュディをピノキオのようなキャラだと考えている。「ディズニーの古典のなかで『ズートピア』と結び付けられる作品があるとすれば?」という質問を訊かれたとしたら、僕は『ピノキオ』と答えるよ。
 ピノキオはとても魅力的なキャラクターだ。しかし、一方で物凄く間違いを犯しやすい。


Interview: Zootropolis Directors Rich Moore And Byron Howard Contemplate Social Politics, Bullying And The Human Condition - Bleeding Cool Comic Book, Movie, TV News



 環境アートディレクター、マティアス・レクナーが公開した初期コンセプトスケッチによると、初期案でニックが経営してる遊興場「ワイルド・タイムス」には『ピノキオ』の仔猫フィガロ*1を模したアトラクションが用意されていた。
 リッチ・ムーアも街並みについては「「子どもの時に観た『ピノキオ』が『ズートピア』に影響した」*2と語っており、幼少期のジュディを虐めていたキツネの名、ギデオンは、『ピノキオ』で詐欺師フォウルフェローに侍っていた唖のネコ、ギデオンを想起させる。
 ところがフォウルフェロー自身へのリファレンスは巧妙に避けられている。
 なぜか。
 それはニック自身がフォウルフェローを演じる人物だからだ。

 リッチ・ムーアは純真無垢なジュディをピノキオに譬えた。
 その彼女がド田舎から「街」に出て、「詐欺」にひっかかるのがゾウのアイス屋のシーンだ。「詐欺師のキツネ」は「物言わぬ相棒」を従えて、ジュディを意のままに操り、金銭的な利益を得る。
 そしてその後で報されるわけだ。ズートピアは「喜びの島」などではないと。

 ちなみにフォウルフェローは緑を基調としてダサい個性的な服装に身を包んでいるが、ニックも同じく緑のシャツを着ている。
 ニックはディズニーにおける古典的な「詐欺師としてのキツネ」のイメージを背負って登場するのだ。


『南部の唄』: Ain’t No Mountain High Enough



 ピーター・デブルージ(映画批評家):
 多くの点において、『ズートピア』は忘れられた人種差別的作品である『南部の唄』の修正版だ。


 ‘Zootopia’ Review: Disney’s Latest Animal Kingdom | Variety



 バイロン・ハワード:
 擬人化された動物たちの映画で素晴らしい点は、たとえばお役所や、新しい街への移住や、家族といった私たちの世界にも共通してあるような事柄を扱いつつ、それらを全く新しい視点から捉え直せることだ。それが動物たちを主役に据える意味だよ。
 現実世界において愉快であったり、悲劇的であったり、挑戦的であったりする問題や事柄を新しい枠組みのなかで扱えるんだ。


Zootopia: Byron Howard, Rich Moore on Their Animated World | Collider



 緑の服を着たキツネといえば忘れてはいけないのが『南部の唄』のブレア・フォックス。
 ブレア・フォックスのライムグリーンの簡素なシャツは、ファウルフェローのものよりもさらにニックに近い。
 それよりも更に重要なのがウサギであるジュディとの関係性だ。

 『南部の唄』でさんざんブレア・フォックスを出し抜く、賢いブレア・ラビットのシャツのピンクのシャツにジーンズという装いは、『ズートピア』後半のシーンであからさまに引用されている。
 ブレア・ラビットは策略家たるブレア・フォックスの上をゆく元祖「賢いウサギ(Sly Bunny)」だ。
 『南部の唄』では徹底的に対立していたキツネとウサギが、『ズートピア』では対立を乗り越えかけがえのないパートナーとなる。

 そして、何より、『南部の唄』は差別問題によって封印された、ディズニーで最も呪われた作品で、他方『ズートピア』はディズニー史上最もあけすけな形で差別問題を語った作品だ。
 ジュディにブレア・ラビットの服を着させることでディズニーは『南部の唄』の語り直しを行おうとした。
 語り直されるのは差別問題の部分だけではない。『南部の唄』でリーマスおじさんによって語られた「動物の寓話は現実の反映」というマインドを、『ズートピア』はその作品でもって実践しようと試みる。
 かくて、ジョニー少年たる観客は、スクリーンで語られる寓話から人生の知恵を吸収するのだ。ジッパ・ディー・ドゥー・ダー。
 『ズートピア』はディズニー自身によるリベンジマッチであり、贖罪だ。

 ついでにいえば、「田舎から何がなんでも飛び出してやる」という意志を持ったウサギという点では、ブレア・ラビットもジュディも同じだった。ブレアのほうは、簡単に諦めてしまうけれど。


ロビン・フッド』: Fox News

 そもそも、『ズートピア』の企画が始まったのは、監督のバイロン・ハワードが「喋る動物の映画」を作りたがったからだ。そしての、そのとき念頭にあったのは彼の愛する『ロビン・フッド』だった。


ハワード:
 僕は『ロビンフッド』を観て育った。『ロビンフッド』はディズニー映画のなかでも一番人気の作品ってわけじゃないけれど、子どもの僕にはものすごく印象的だったんだ。だから、『ズートピア』にも『ロビンフッド』のDNAがいっぱい入っている。


Interview: Rich Moore and Byron Howard for 'Zootropolis'



 ここでもキツネは緑色をしている。
 ロビン・フッドの衣服も緑だ。
 しかし、その役割はファウルフェローやブレア・ラビットと正反対だ。
 ニックが羽織る緑色は、ファウルフェローに通じる詐欺師の緑であると同時に、ロビン・フッドに由来するヒーローの緑でもある。

 40年代から詐欺師のレッテルを張られてきたディズニーのキツネは、持ち前の狡猾さをそのままに、70年代にロビン・フッドという名のヒーローとして生まれ変わった。
 それはそのままニックが『ズートピア』劇中でたどってきた道程でもある。彼は詐欺師として始まり、民衆の危機を救う正義の味方として結着する。

 ニックは間違いなく、ロビン・フッドの直系だ。
 暴力には頼らず、窮地は知恵で脱する。
 間違った支配、間違った抑圧に抗うためにヒーローとしてはイレギュラーな「詐欺(Hustle)」という手法で悪を懲らしめるのだ。
 ロビンはブレア・フォックスのように肉食同士、クマと付き合いもするし、ウサギに代表されるような被捕食獣にもやさしい。彼は自然界の捕食、被捕食の関係とは無縁だ。

 あと、細かいところでいえば、『ロビン・フッド』のヴィランであるプリンス・ジョンはライオンで、『ズートピア』で市長を務めるライオンハート市長もライオンだ。だからなのか、ライオンハート市長は完全なる悪役ではないにしても、あまり良い人物として描かれない。
 ところでプリンス・ジョンはオスライオンにもかかわらず、なぜかたてがみがない。これは当初、プリンス・ジョンをトラとして描こうとしていたからで、キャラクター・デザインを担当したミット・カールがプリンス・ジョンの兄であるリチャード王に「獅子心王」の異名が奉られていることを考慮して、その弟であるジョンのデザインから縞模様を抜いたのだ。*3
 「獅子心王」の原語は「The Lion Hearted」。そう、ライオンハート市長の直接のモデルはリチャード王のほうだ。デザインを比較すればよくわかるだろう。

 似ているといえば、ラストの類似も興味深い。
 『ロビン・フッド』ではラストでプリンス・ジョンを始めとした悪党どもは獄に繋がれ、正統なる王であるリチャードが帰還する。そして、打倒ジョンのヒーローであるロビン・フッドは王族であるマリアン姫と結ばれ、リチャードから「やれやれ、無法者(outlaw)が親類(in-law)になるとはな」*4というジョークをもって祝福される。
 法の外に生きていた人間が秩序の恢復とともに体制へと組み入れられる。これは脱税や詐欺を繰り返してきた犯罪者野だったニックが、法を守護する警官へと転身する『ズートピア』のラストとかぶる。もっとも、ロビン・フッドが士分に取り立てられた描写はないし、ニックとてジュディと結婚したわけではないが。

 とはいえ、『ロビン・フッド』がマリアン姫とロビンが乗った馬車の後ろ姿で終わることを鑑みるに、やはり「同じ車に乗る」『ズートピア』のラストシーンにも穿った含蓄を与えたくなる。*5


『きつねと猟犬』: Foxcatcher



ジャレド・ブッシュ:
 キツネは、とても順応性が高く、寒い土地から暖かい土地、また、都市圏や自然界にも住んでいる。そのキツネを天敵とするのがウサギ。その2人が仲よくなるという意外性が面白いと思ったのです。


ズートピア:脚本・共同監督とプロデューサーに聞く「動物の縮尺率は現実に即した」 - MANTANWEB(まんたんウェブ)



 ファウルフェローにはギデオン、ブレア・フォックスにはブレア・ベア、ロビン・フッドにはリトル・ジョン、フォクシー・ロクシーにはグーシー・ルーシー、そしてトッドにはコッパー。
 主役であれ、脇役であれ、善玉であれ、悪役であれ、ディズニーのキツネに常にパートナー役が存在するのは興味深い。
 『きつねと猟犬』以前にキツネたちが相棒に選んできた動物はネコ、クマ×2。アリストテレスによるとキツネはヘビと仲がいいらしいし、『狐物語』ではほぼ全世界を敵に回しつつもアナグマのグランベールを莫逆の悪友にしている。

 しかし、イヌは(元をたどれば同族といえ)キツネの敵だ。しかも猟犬ともなれば、狩る-狩られるの関係であって、通常友情は成立しない。その垣根を越えたのが『きつねと猟犬』の物語だった。
 自然界での狩る-狩られるの関係を越えた友情は『ズートピア』でのニックとジュディにそのまま引き写されている。『きつねと猟犬』とはあべこべに、ここではニックが「狩る側」ではあるが。

 『きつねと猟犬』の悲劇的な結末は当記事の前編で話したとおりだ。
 所詮、私とあなたでは「違う」からいくら愛情を感じたとしても別々の道を歩まなければいけない。それが大人の生き方というものだ。それが『きつねと猟犬』の結論だった。

 本当に正しかったのだろうか。
 私とあなたではたしかに「違う」かもしれない。しかし、その「違い」は実は他人から押し付けられたイメージにすぎなかったなら? 仮に私たちが憎しみ合う歴史を経てきたとしても、理性さえあれば境界を乗り越えて握手できるのでは?
 そもそも、アメリカとはいかなる理念のもと建国されたのであったか?

『ズートピア』は動物を題材にした作品であるにもかかわらず、「わたしたちは動物ではない」と主張する。かつて捕食者と被捕食に分かれて喰ったり食われたりしていた時代、そこに「わたしたち」はいないと言う。「わたしたち」は『ズートピア』以前の歴史とは隔絶した存在なのだ。専制君主どもの都合で殺したり殺されたり擦る血塗られたヨーロッパの歴史とは違う、新しい歴史を創る。新しい国を造る。

 動物でなければなんなのか。人間だ。互いを慮り、いたわり合い、間違いや欠点を自覚して許し合う、理性と思いやりの社会化された生き物だ。「違う」もの、敵同士とされたもの同士が共に寄り添って生きることができる。
 イヌではない。猟犬ではない。ここはクリケットの国ではなくベースボールの国だ。*6キツネ狩りなどというヨーロッパ貴族のスポーツに乗る必要はどこにもない。
 その都市には貴族も平民もいない。
 自分の意志によって、押し付けられたステロタイプや役割から自由になれる。それがズートピアという理想郷だ。なりたい自分になれる場所。

 『ズートピア』はトッドとコッパーの愛憎を三十年越しに贖った。
 「追われるもの」だけでなく、「追うもの」も救おうとした。


チキン・リトル』: Only God Forgives



 安心しろよ、ハリウッドだぞ!
 こんないい話、絶対ダメにするわけないだろ!


 チキン・リトル』より



 『チキン・リトル』には何もない。
 よって、『ズートピア』によって償われるべき罪も存在しない。

 短編版との比較で言えば、『ズートピア』の訴える理想とはアメリカのリベラルな理想であるわけで(いくら万国向けのパッケージングをしたところでアメリカでアメリカ人が作ってんだからそりゃそうなる)、見ようによっては短編版と同じく「プロパガンダフィルム」であるといえなくもない。まあそもそもそんなこといったら思想的でない映画がどのくらいあるか、なんて話にもなってくるんだけれど。
 結局のところ、そこで提示される価値観に同意できる否かだ。
 『ズートピア』を観て泣くか、『民族の祭典』を観て泣くか、『殿、利息でござる!』を観て泣くか、『食人族』を観て泣くか、泣いた後作品に流れる思想に賛同するか、ここは自由の国なのだからまったくフリーであって、それぞれの作品で流される涙の成分は同じであるのか、といったことを検証するのは当記事の目的ではないので置いておく。


おわりに

[asin:4003750144:detail]

 歴史的にヨーロッパはキツネに対して悪逆なイメージを刻印しつづけ、ディズニーもまたその流れにタダ乗りし、悪印象を強化してきた。
 一方で人間に一番近い野生動物、そして狩りの対象となる獲物でもあった。
 結果的にディズニーのキツネたちは二つの血脈に分岐する。「詐欺師のキツネ」と「狩りの獲物としてのキツネ」に。前者は擬人化されたキツネの姿で、後者は動物のままのキツネの姿で描かれる。

 そのような流れの中で戦後カウンター・カルチャーの波に乗って突然変異的に現れたのが『ロビン・フッド』のヒーローとしてのキツネであったものの、同時代の多くの運動と同じく、その後忘れ去られる運命を辿った。

 しかし、『ロビン・フッド』公開当時四歳だったバイロン・ハワード少年はヒーローギツネを忘れなかった。彼は四十年後、ロビン・フッドを現代に蘇らせ、偏見や差別の問題と絡めることで、ロビン・フッドのみならず、過去に不当に遇されてきたディズニーの歴代のキツネたちを救済した。それぞれの意匠を借りることで。

 『ピノキオ』のファウルフェローからは街を往く詐欺師としての振る舞いを学んだ。『南部の唄』からは寓話の効用と社会的テーマを、『ロビン・フッド』からはキツネのありうべきヒーロー像そのものを、『きつねと猟犬』からは立場や種を越えた友情を、『チキン・リトル』からはええとまあ色々と。*7

 『ズートピア』でニックが辿る遍歴が、そのままディズニーのキツネたちが歩んできた道のりと一致するのは偶然だろうか?
 もちろん、偶然ではない。
 筆者がそのように本記事の筋道を作ったのであるからして、偶然であるわけがない。
 まあ、だとしても、私とあなたの間では無辜のキツネたちが成仏したのだから、いいじゃないか。*8



ディズニーの芸術 ― The Art of Walt Disney

ディズニーの芸術 ― The Art of Walt Disney

 意外とディズニーアニメ作品の通史ってないんだよなあ。

ピクサー 早すぎた天才たちの大逆転劇 (ハヤカワ文庫NF)

ピクサー 早すぎた天才たちの大逆転劇 (ハヤカワ文庫NF)

 おもしろい。

*1:最初は『ピノキオ』でゼペットじいさんの飼猫として登場し、後にディズニーの短編でミニーの飼猫という設定になった

*2:http://ure.pia.co.jp/articles/-/54141

*3:http://disney.wikia.com/wiki/Prince_John

*4:余談だが、同じジョークは『塔の上のラプンツェル』でもリフレインされる。『ラプンツェル』の監督もバイロン・ハワードだ。

*5:ちなみに『ズートピア』のラストで最も強く意識されているのはニック・ノルティエディ・マーフィが主演したウォルター・ヒル監督の『48時間』だろう。

*6:フィニックの武器を思い出そう

*7:どうでもいいけど、ディズニーのキツネはマズルが長ければ長いほど悪がしこい説を提唱したい。 https://twitter.com/nemanoc/status/734795859112529921

*8:まだディズニーのテレビ番組(『ジャングル・ブック』のスピンオフ『talespin』など)に出演しているキツネたちが残っているといえば残っているけれども、テレビと映画では色々違うし正直めんどくさい

今週のトップ5:『ヘイル、シーザー!』、『マクベス』、『ドン・キホーテの消息』、『大転落』、『日曜はあこがれの国』、『ザ・カルテル』、『ナイト・スリーパーズ』、『殿、利息でござる』

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思い出せるだけ。

コーエン兄弟ヘイル、シーザー!


映画『ヘイル、シーザー!』予告編

 シネアスト讃歌。
 ところでコーエン兄弟のコメディを下に見る人達の気持ちがよくわからなくて、だってフツーに面白くない?
 無駄に豪華でハイクオリティだけど、そのまま二時間観るのはキツイかもしれない劇中劇を矢継ぎ早に繰り出されるだけでも面白くない? ジョシュ・ブローリンが無駄に艱難辛苦に晒されまくって毎日懺悔室行くの面白くない? 編集のテンポがそこまでいいわけでもないけど、なんとなく見られちゃうのすごくない?
 ウィキペディアによるとジョシュ・ブローリンが役名と同じエディ・マニックススカーレット・ヨハンソンエスター・ウィリアムズチャニング・テイタムジーン・ケリー、アルデン・エーレンライクはカービイ・グラント、ジョージ・クルーニーロバート・テイラーティルダ・スウィントン姉妹はヘッダ・ホッパーとルエラ・パーソンズ、ヴェロニカ・オゾーリオはカルメンミランダにそれぞれ対応してるらしくて、でもそんなこと言われたってほとんど誰だかわかんないわけじゃないですか。僕らは宗教的リファレンスに乏しく、ユダヤ教となるとなおさらじゃないですか。それでもそこそこ愉しめるってすごくない?

 イヌはチャニング・テイタムの飼い犬として出てくる。彼は愛犬とあるものの二者択一を迫られる。もちろん、選ぶまでもない選択だ。

ジャスティン・カーゼル監督『マクベス


映画『マクベス』予告編

 ただでさえデカいエリザベス・デビッキが中世人としては異常な丈の巨人と化しているだけでも面白かったし、『コード・ネーム U.N.K.L.E』ですら見せなかった絶望絶叫の表情を見せてくれたのでお得感あった。
 まあしかし『マクベス』って基本的に映画より本のほうが面白いですよね。舞台は観たことない。まあ、同じ監督主演コンビの映画版『アサシン・クリード』の予行練習なのかな。
 とはいえ、魔女の解釈はファンタスティックで良かったと思います。抗えない運命としての属性が強調されてて、それに対するファスベンダーマクベスの吹っ切れも清々しかった。

樺山三英ドン・キホーテの消息』

ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテの消息

現代に復活したドン・キホーテドン・キホーテに行く話。
アナクロニズムに寄せたギャグはわかりやすいようでいて読者に複雑なリテラシーが求められてけっこうムズいのだから、そこらへん殊能将之は偉大だったんだなあ、と今更のように惜しまれる。

シミルボン

 この宣伝コラム、最初はどこかの書評サイトが広告打ってあげてんのか、やさしゅうおすなあ、などと不況が叫ばれる出版業にあって一筋の光明と人情を見た気持ちになっていたけれど、どうやら読書メーターみたいな登録制SNSらしい。
 ふだんは普通に書評やってる模様。無料で。ロハで。

 こんだけのクオリティなんだから、SFマガジンは無理だとしても、HONZあたりがお金出してあげればいいのにと思う。

円居挽『日曜は憧れの国』

 円居挽最高傑作なのでないか、と言うとファンからは殴られるんだろうしまあ過言だよなとは思う。けれど、このくらいのリアリティレベルで日常の謎的なものを量産していただいたほうが肌に合う。
 思春期の少年少女(ほぼ少女しか出てこないけど)の過渡期的な機微や不安を描くにあたって、「あのころ」を今でもひきずりながらカメラをがっつり寄せてヴィヴィッドに泥臭く書くでもなく、かといって、大人になりきってしまった元子どもの視点に振りきるのでもなくて、その中間の、割り切れないあたりの塩梅こそが円居挽という作家の稟質ではないか、とたまに思うし、『日憧』は印象として「書けてしまった」感すら受けるけれども、だからこそのバランスなんだな。

ドン・ウィンズロウ『ザ・カルテル

 濃密なBLである。
 『犬の力』から『ザ・カルテル』上巻にかけてまでは存在していたエンタメ的に綺麗な構造やストーリーテリングを投げ捨ててまでああいうめちゃくちゃなものを書きたがるウィンズロウの問題意識は相当なもんだと思う。
 やる気が出れば単独で記事を立てたい。

ケリー・ライヒャルト監督『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』

 クソ田舎に住むジェシー・アイゼンバーグダコタ・ファニングピーター・サースガードの三人組がエコテロリスト気取りでダム爆破計画を立てるがちょっとした手違いから爆破がムダに。ダムだけに。あっはっは。

 パフォーマンス的にやったつもりのことでも行為に質量と慣性が伴う以上は当たれば人が壊れるわけで、そういう系の暴力を犯してしまった人に対して「想像力が足りないよね」と責めるのは簡単だけれど、実際には精神的に類似したことを日常的にみんなやってるよね。

イーヴリン・ウォー『大転落』

大転落 (岩波文庫)

大転落 (岩波文庫)

 イーヴリン・ウォーは、だいたいワクワクするような出だしに、ゆるゆるオフビートでたまにかったるくなる中盤、「あのキャラがなぜか再登場!」でなんとなく良さ気な感じで締められる終盤で構成されていることがわかりかけてきた。のはいいけど、よほどの古本か再読に手をださないかぎりはもう新しく読めるものが『ブライヅヘッドふたたび』しかなくなった。昔は『回想のブライヅヘッド』と違う本だと思ってたよね。どっちでもいいから kindleで売って欲しい。

甲鉄城のカバネリ』七話まで

 スチームパンク×江戸という理解しようと思えばわからないでもない食合せにゾンビと美樹本キャラをぶっかける、という挑戦的なシェフの気まぐれ。食べてみたら意外とイケる。

 そういえば『カバネリ』レベルに特殊な世界観設定のゾンビものってちょっと作例を思い出せなくて(伝統的なポストゾンビカリプト的状況が既にして特殊な世界だという意見はあるにしろ)、まあ、そもそもゾンビものって僕たち私たちの日常が崩壊するからホラー足りえるのであって、月面基地にジェイソンやフレディやゾンビが現れてもギャグとして笑えるだけでなんだかな、って気分になりますよね。
 そういう世界を全体の状況をよく把握できてない一個人のドキュメンタリックなカメラから映すからゾンビ特有のコクのある絶望が出るんだ、というロメロなメソッドにだいたいの作り手は乗っかっていて、『カバネリ』もその例に漏れない。(『World War Z』のマックス・ブルックスはそこで乗っからなかったからこそ新しかったのかもしれない。個人の一回的な体験としてではなく、ティップスや歴史に還元できるロングショットの物語として。)
 けれども、特殊な世界観設定だと個人レベルで何が起こってるかわからない以前にその世界がぜんたいなんなのかがよくわからない、という問題があって、ゾンビが襲ってくるシーンならばとりあえず目の前のゾンビ撃つのをキャラも視聴者も視覚的に楽しんでりゃいいわけだけど、物語には起伏というものが必要で、戦場を離れた日常シーンだとどうしても世界観やキャラ関係の説明をやんなきゃいけない。ここらへんが作ってる人ら的にはめんどうだし23分×12話? 13話? の尺にテンポを殺さず収まるかどうかムズいとこなんだろうけど、自分で選んだ道なのだから、信じてどうにか成しとげてほしい。ゾンビの可能性を切り拓いてほしい。

 イヌ: 雑種っぽいイヌが死ぬシーンがある。その遺骸を抱いて泣く飼い主の少女を見た半人半ゾンビ戦闘兵器少女がシンパシーの欠如ゆえに「死んでよかったね。長生きすると苦しむし」と悪気なく声かけちゃうんだけど、あとでそういうことを言うのよくないと気づいて謝罪する。どうでもいいけど、『進撃の巨人』みたいな要塞化されたゲーテッド・コミュニティに住んでる人たちなので、ペット用の動物は高級品扱いなんだろうな。

世界の果てから手紙が届く

陽気なお葬式 (新潮クレスト・ブックス)

陽気なお葬式 (新潮クレスト・ブックス)

 twitterでいつものようにホンワカパッパしていると世界の果てから「おまえは最近翻訳小説をなまけている」という旨のDMが送られてきた。
 何を言ってるんだお前は、世界の果てがtwitterをやっていて、あまつさえお前と相互フォロー関係をむすぶわけないじゃないか、と思われる医師のかたがたも多いかもしれないが、ちょっとまってほしい。
 twitterをやっているなら、誰にでもその人にとっての世界の果てを持っているのだ。TLをのぞけば行動をときに縛り、ときに指向させ、ときに露骨に誘導する有形無形の神々が見えるはずだ。
 
 かくして一晩解釈に悩みぬいた結果、自分の罪悪を真摯に受け止め、書店で本年度分で未読のクレスト・ブックス新刊をすべて購入し、文字通り罪を贖った。
 そのせい、というわけでもないが、翌日に金難に見舞われるはめにおちいったのだけれども。
 
 

中村義洋監督『殿、利息でござる』


映画『殿、利息でござる!』予告編

 これまでのあらすじ:『ヘイル、シーザー!』と『マクベス』と『マイ・フェア・レディ』を観に行くつもりが映画館の前で財布を忘れたことに気づいたので急遽後輩へSOSコールを発信し、五千円の援助を獲得、マーシャル・プランなみにメルシーな政策を英断した彼をこのまま手ぶらで帰すのも道義的にナンだということで当初の予定を変更し、彼が唯一興味を示した『殿、利息でござる!』を観に行く方向で妥結した。

 最初の一時間が退屈かつ説明的かつ平坦でたまらないものの、後半一時間になると加速度的に盛り上がっていき、ついには緻密で華麗な構図の反転まで見せてくれてフツーに感動するので、映画とは最後までわからないもんですね。
 根底に流れる思想としては「いいことは黙ってやれ。死んでも黙ってろ。自慢するな」というもので、それだけでも寄付文化のやる気を削ぐしどうなんかなあ、と思っているところに「黙ってやれないやつが出てきたので、決まり事を作って縛ろうと思います!!」と言い出すやつが現れて見事なまでにラ・ジャッポーネ村社会。本当にそこらへんは至極クソだと思うんですが、それでも技巧で感動まで持っていかれるし、映画とは本当に最後までわからないもんですね。兵器だよね。そりゃ洗脳されるよ。リーフェンシュタール観て「すげー」と思うようなもん。
 っていうか、思いっきり映画化してるんで黙ってるも何もないんですけどねその時点で。

レントゲン

 キニャールの『さまよえる影』的な体験ができるはずだったが、フランス人でも詩人でもないので検査のあいだずっと子どもの頃に読んだ大塚製薬文庫のヴィルヘルム・レントゲン博士の伝記を思い出しながら技師の人に身体をうどん粉みたく伸ばされたり丸められたりしていた。

静野孔文『名探偵コナン 純黒の悪夢

 トロントCNタワーのてっぺんで観光客の案内してたおっさんって、組織や政府にとってどんな有用性があったの?

『デッドプール』と人間の條件

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Deadpool、ティム・ミラー監督、レット・リース&ポール・ワーニック脚本、2016


 君たちに問う!! 君たちは人間か!!


 『人造昆虫カブトボーグV×V』


あんまりまとまった感想がおもいつかないし、映画の『人間の條件』とは関係ない。



映画『デッドプール』予告編

感想その一:TJミラー最高説。

 TJミラーのクズっぷりとコロッサスのバカっぷりがすばらしい。みんなも『シリコンバレー』観ような。


感想その二:ヒーローにやりますか、人間やめますか。

 幻想は挫折をともなう。
 マーベル・シネマティック・ユニバースにおけるキャプテン・アメリカもアイアンマンも、アメリカン・ドリームを体現し、そしてことごとく打ち砕かれてきた。

 デッドプールはアメリカなどという大きな単位に幻想を抱かない。不幸な境遇から9.11後の戦場へと身を投じた彼は、最初からアメリカが何も施してくれず、「ヒーロー」という御仕着せの称号になど何の意味もないことを知っている。
 デッドプールになる前の「ウェイド・ウィルソン」としての彼は、やや粗暴で壊れた感性の持ち主であるものの、自分にできる範囲で弱きを助け強きを挫く、等身大のヒーローだった。
 そんなウィルソンは不死身の超人となりマスクをかぶりデッドプールへと変身することで逆にヒーローではなくなってしまう。笑いながら雑魚をいたぶり、冗談半分で拷問を加える。

 彼の目的は正義ではない。

 願いはただひとつ、元の顔に戻ること。仇役エイジャックスによる超人改造手術の影響でフリークスと化した顔面を元の美男子に整形し、愛する恋人のもとへ帰ること。つまりは、人間に戻りたい。裏をかえせば、今の自分を人間だとは看做してはいない。


 だから、自分の身体をモノとして扱う。
 鋼の肉体を持つ男コロッサス(彼の身体もやはりマテリアルだ)を殴りつけようとして腕が折れ、折れると知っても左腕で殴りつけて両腕を折り、さらにダメ押しとして右足で絶望的な蹴りをいれてやはり折れる。
 片手を手錠につながれてコロッサスに連行されそうになると、自由なほうの手でナイフを取り出して手錠につながれた手首を切りおとし、ゴミ収集のトラックへとダイブする。モノどころか、ゴミだ。
 雑魚との戦闘中も避けることはほとんど考えず、ケツに被弾するのは日常茶飯事。
 他人の身体に至っては、もはや数に過ぎない。何人殺したか。銃弾何発分か。*1

 ライバル・エイジャックスもなかなかひどい。彼もまた自分の身体を人間のものとして考えていない。不死身能力こそないものの、デッドプールと同じ手術を受けた影響で、異常な反射能力と引き換えにあらゆる感覚を失ってしまった。
 戦闘中、デッドプールの愛刀によって劇中、何度も串刺しの目に合うのだが、そのたびにおよそ常人ばなれした手段で危機を脱する。

まだ人間じゃない

 多くのヒーロー映画がそうであるように、エイジャックスもまたデッドプールと鏡写しの存在だ。
 ではデッドプールとエイジャックスを分かつ点はどこか。
 人間であろうとする意志だ。

 エイジャックスはデッドプールに何度も「俺の名を言ってみろ」と詰問する。エイジャックスの本名はフランシス・フリーマンという。超人化後に人間でなくなった自分に順応した彼は、人間時代の名を捨て去ってエイジャックスの名に誇りを持つようになる。
 ところがひょんなことからデッドプールに本名を知られ、以後彼だけからは「フランシス」呼ばわりされてしまう。それがエイジャックスには気に入らない。
 まるで高校デビューした男子が中学生のころのアダ名で呼ばれるとキレるみたいなノリだが、まあ心性としては変わらないと思う。
 人間を超えたはずの自分を人間として扱うなど、許せない。
 エイジャックスは、だから、「エイジャックス」としての自分をデッドプールに認めるように終始しつこく要求する。
 何が何でも人間に戻ろうとするデッドプールとは対の対照的なところだろう。逆にデッドプールはエイジャックスに対して「顔を戻せ」と何度も要求する。


 ところで人間になるとはどういうことだろう。現実にあっては議論がいろいろあるんだけれども、本作におけるそれは、「互いに直視しあうことのできる存在である」と定義される。
 人が怪物を見ることを嫌うのではない。怪物が人から見られることを嫌う。ゆえに、デッドプールは盲目のヤク中ババア、アルを同居人に選んだ。
 彼が仮面*2を外し、そして誰かから外してもらうという行為には、それだからこその意味がある。自分から外すだけでは不十分だ。
 そう、誰かが、やさしく、ジェントルにムいてあげないと……ん?

 あれ? 途中までいい話ダッタンダケドナー??



デッドプール/パニシャー・キルズ・マーベルユニバース (MARVEL)

デッドプール/パニシャー・キルズ・マーベルユニバース (MARVEL)

デッドプールパニッシャーさんがマーベルヒーローを殺しまくるだけの漫画です。

*1:皮肉なことにと、言うべきか。人間を人間として扱わない本作だからこそ、「顔を持った人間」が強調して現れる瞬間がある。本来顔を持たない雑魚敵がウェイド・ウィルソン時代の戦友だったと判明する瞬間がそれだ。他のマーベル映画ではなんの斟酌もなしにぶち殺されまくる雑魚にも子どもや妻が、家族がいるのだと描写される居心地の悪さが心地よい

*2:まあ観た人は意味がわかる

今週のトップ5:『ゼロヴィル』、『ワイルド・ギャンブル』、『デッドプール』、『サウスポー』、『神様メール』、『夢酔独言』、『マコちゃんのリップクリーム』、『ごっつぁんです』、『ドリフターズ』五巻、『おかか』二巻

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スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』

ゼロヴィル

ゼロヴィル

 おもしろすぎて何を言えばいいのかすらわからない。

アンナ・ボーデン&ライアン・フレック監督『ワイルド・ギャンブル』

 ベン・メンデルソーン演じるギャンブル狂いの中年クズ野郎とライアン・レイノルズ演じるアイオワに落ちてきた天使が一発逆転人生を目指してアイオワからニューオリンズまで旅するBL(「ボーイズがロードムービーする」の略)映画。元ネタはほぼ確実にアルトマンの『ジャックポット』。

 メインの題材であるギャンブルを活かして、二人の表情の読み合いとごかまし合い(騙し合いでないのがにくい)に映像の時間的リソースをつぎこんだ結果、ベン・メンデルソーンの繊細な表情演技を愛でるベン・メンデルソーン映画になってしまった。
 そういうところが良し悪しで、僕なんかベン・メンデルソーン大好きで生きているわけですからたいそうな傑作だななどと思うわけですが、世間的にはベン・メンデルソーンを小汚いおっさんとしか認識していないらしく、映画感想サイト界隈での評価は展開のオフビートさもあいまって絶望的に低い。
 仔猫を後生大事そうに扱うベン・メンデルソーンなんてこの先で生きているうちに観られるかどうかわからないカットなのだし、そういう可能性を素通りしてどうして映画なんか観ていられるのか理解に苦しむ。

ティム・ミラー監督『デッドプール

proxia.hateblo.jp

 ジョージ・ミラーベネット・ミラー、クリス・ミラー(『シュレック3』)、クリス・ミラー(『21ジャンプストリート』)ときてティム・ミラーと来たもんだ。『We're the Millers』*1。平均すればアンダーソン一族より強いんじゃないか?

真利子哲也監督『ディストラクション・ベイビーズ


映画『ディストラクション・ベイビーズ』予告編

 ときたまこっ恥ずかしくなるショットも散見されるけれども、理由もなく人を殴りまくる映画はいいものです。

アントワーヌ・フークア監督『サウスポー』


ジェイク・ギレンホール驚異の肉体改造!『サウスポー』予告編

 こっちは家族のため、というちゃんとした理由で人を殴りまくる映画。
 そんなに悪い作品でもない。ただ、多すぎる要素を削って30分短くするか、あるいはもう30分長くして説明を付け足すかしてほしかった、という松江哲明の言葉がこのうえなく正しくはまるのも確かなわけで。
 全体的に散漫な物語をジェイク・ギレンホールが『ナイトクローラー』にひきつづき破格の迫力でなんとかつなぎとめているけれども、いかんせんカメラが彼の熱演を十全に捉えきれてなくて、もっとなんというか、肉の生々しさとかみずみずしさを活かしてほしかったな。ボクシング映画ってそれでしょう。特訓シーンの儀礼的なモンタージュなどではなく。

ジャコ・ヴァン・ドルマル監督『神様メール』


映画『神様メール』予告編

 大筋としては聖書をリベラルで現代的な観点からアップデートしたいなあ、みたいな話で、いまさらそういうこと言ってみたってはじまらないんじゃないのと思わないでもないんだけれども、まあ別に何を語るかは監督の自由なのでいいんじゃないかと思います。

勝小吉『夢酔独言』

夢酔独言 (講談社学術文庫)

夢酔独言 (講談社学術文庫)

 幕末版の『ディストラクション・ベイビーズ』みたいな勝海舟のオヤジの自伝。

尾玉なみえマコちゃんのリップクリーム

 いつのまにか全巻 kindleに落ちてたのでガバッと買ってガバッと読んだ。
 姉漫画でしたね。姉フィクションを何が姉フィクションたらしめているか、というのはあんまりみんな考えなくてほとんど感性に頼るから、シスコンとマザコンを取り違えた母性姉漫画が氾濫しているわけですが、尾玉なみえ先生はちゃんとそこの手続きを踏んでいる。ケヴィン・ウィルソンの「今は亡き姉ハンドブック」に値する作品を描きうるのは日本どころか世界で尾玉なみえ先生だけというこの現状。

 ところで、この人は意外にシリアスな恋愛を描くのがべらぼうに上手い。『よい子のための尾玉なみえ童話集』は何も偶発的な事故ではなかったんですね。

ドリフターズ』五巻

 だんだん状況が『クルセイダー・キングス』のモンゴル帝国来襲みたくなってきた。

 それにしてもほとんど密室での会話劇ですよね。
 なんか人とか吸血鬼とかがめっちゃ死んでるんで平野耕太は基本的にアクションの人だと思われているふしがあるけれども、どちらかといえば、シェイクスピア的な長台詞を中心にリズムを組み立てていく作風で、舞台劇ならともかく、そういうのをアニメ化するのってナチュラルなようでいて案外キッツイんじゃないかなあ。

まつだこうた『おかか』二巻

おかか(2)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

おかか(2)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

 完結してしまった。
 大人のための夏休みノスタルジー漫画というポジションに落ち着いた感はある。

岡村賢二『ごっつあんです』

ごっつあんです(1) (ニチブンコミックス)

ごっつあんです(1) (ニチブンコミックス)

相撲版『グラゼニ』。
野球と違って相撲界の経済ってあまり知らないので、「へー知らなかったなー」と感心することしきり。
意外と複雑な年金積立制度とか。

*1:ローソン・マーシャル・サーバーの『なんちゃって家族』の原題

自分の好きなコンテンツの何が好きのかがわからない、という話

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 結局、自分の好きなコンテンツとはなんなのか。好きなコンテンツがあったとして、どんなところが、何が好きなのか。

 おおむね重曹みたいにふんわりとした生きざまをさらして歩いてる動物でも、歳をとればコンテンツの好みがはっきり確定して『へうげもの』の千利休みたいにハードコアで渋い趣味人になれるだろうと漠然と想像していたけれど、どうもそういう事態にはならないようで、未だに自分の好みがよくわからない。
 自分でもよくわからないことは他人にも判じかねるらしい。コンテンツを勧めたり薦められたりするコミュニティに属しているにもかかわらず、「あなたが好きそうな本を見つけた」といって来る人があまりいない。そんなもんだ。別の可能性として、僕が知人友人から嫌われ敬遠されている、というのがあり得るけれど、そういうことを考えだすとこわいのでやめましょう。


 物心つかないころは、好みなんてものは「タグ」だとか「属性」だとかとイコールだと思っていた。
 好きな作品を要素に分解して、複数の作品間で最大公約数的に共通する要素を抽出すればそれが己の「好み」になる。そう無邪気に信じて、自分のベスト作品を百ほど選定し、要素を抜き出すと、どうやらヤクザと喋るイヌが出てきていっぱい死人の出る作品が「好み」とするところであるらしいと占われる。*1
 ハハアン、なるほど、つまり『イノセンス』だな、と雑に合点して早速ビデオ屋で借り、DVDプレーヤーにかけてみる。案の定、全体の四分の三を寝てすごし、喋るイヌやヤクザが出てきたとしても見逃してしまう。円盤を吐き出すDVDプレーヤーに手を伸ばしつつ思い返せば、そもそも押井守の映画をおもしろいと感じた記憶がない。


 ヤクザと喋るイヌが共演する小説なり漫画なり映画なりが市場的に枯渇している以上、消費者としてはヤクザか喋るイヌか、どちらかが片方の出演のみで我慢するしかない。
 ヤクザかイヌか。どちからといえば、ヤクザよりイヌのほうに好意を持つ。昔、イヌを飼っていたせいだと思う。不幸にして、ヤクザを飼う経験には恵まれてこなかった。
 ところが喋るイヌの出てくる作品は希少だ。子供向けの作品だとよく口をきいたりするが、求めているのはそういう類のイヌじゃない。もっと致命的なのは、喋るイヌの出てくる作品は人死が出るとはかぎらない点だ。まともな文明国でまともな文明的生活を営んでいるまともな人々にとって、いままさに死なんとしている人間は喋るイヌやヤクザ並に遭遇率の低い生き物(死につつあるが)であって、その生命が暴力的な手段で奪われるのであればなおさらレアい。
 そこへくると、ヤクザの出てくる作品はどういうわけか人がよく死ぬ。だから自然ヤクザ作品に傾斜しかかるのだけれど、ヤクザという人種そのものが好きなわけではないから、噛んでるうちにいらいらしてくる。
 そういう幾多の苦難を乗り越えて、やがては八割から九割がた自分の「好み」の要素をおさえた神的な作品を発見するわけだけれど、実際に読んでみるとどうも何か違う。何かが足りない。文体? 絵柄? カメラ? セックスアピール? それとも何かしら未確認の新しい要素?

 この時点で労力を注いで構築した要素/属性データベースが壮大なガラクタであったことをようやく悟る。


 好みの作品をあらかじめ用意されたデータベースから導出できないのであれば、漠然と選んだり出逢ったりした作品群をえんえんと選り分けるしかない。要素や属性の抽出を放棄し、ただタイトル名だけをならべる。その配列に、自分や他人はなんらかの文学的な意味か変態的なフェティシズムをなんとなく見出す。
 それが21世紀人のやることか、とも思うが、しょうがない。現実にみんなそうしているようだし、そうしているみんなはちゃんと21世紀人だ。
 ところが、この方法もこの方法で問題がある。漠然とセレクションしたものを曖昧と摂取するせいで、あいかわらず自分の本質的な好みがわからない。『虚航船団』と『ゆゆ式』と『NieA_7』と『プロ野球チームをつくろう』と『仁義なき戦い』が好きな人間がいるとして、まあそんなおぞましい奴はいないと思うがとにかく存在すると仮定して、提出された以上のリストからわかるのは、そいつが虚無に吸い寄せられる傾向にあるか虚無そのものの権化であるかということくらいだ。
 ならじゃあ自分というものをちゃんと持ってしゃんと選別に望むべき、というきびしい御指摘があるかもしれない。しかし、カッコたる自分を持たないから自分の好みがわからないわけで、しゃんとしようと思ってしゃんとできるならハナから苦労ない。
 というかそもそも、ぼんやりしすぎてるせいか、目の前で綴られている物語を自分が好きになっているのかどうかすらもわからない。コンテンツの皮膜に接して得られる感情は好悪だけではないことくらいこっちも承知しているけれども、そういうレベルの話ではない。人間の話をしているのではない。文字を読める動物の話をしているんだ。
 文字を読める動物が、あるコンテンツに接して好きにも嫌いにも感情を賭けられないのなら、すわなち、コンテンツか自分かのどちらかが即座に死ぬべきであることを意味する。そうした賭博のテーブルの外にあって何も感じないというのなら、それはもう動物ですらなく既に死んでいるのだろう。

 しかし死にたくはない。しかし手詰まりだ。では、どうすればいいのか。


 ひとつの対処法としては、諦めるという選択肢がある。
 諦める理由はいくらでもある。問題設定からして間違えていたのだと認める、とか、人間は複雑な機構で成り立っており好き嫌いの二元論で世界を捉えるようにはできていないとうそぶく、とか、その場その場のコンディションで決定されるコンテンツに対する評価を不変不動のものとして後生大事抱えることになんの意味があるのかと主張する、だとか。
 そういう言い訳で自分を納得させる。総体として何を好きなのか、そのイデアを追求することをやめて、上流から流れてくるコンテンツをえんえん「好き」の箱と「好きじゃない」の箱に選り分ける人生を送り、喋るイヌかヤクザを飼い、最期には可愛い孫と娘夫婦と飼い若頭に見守られながらベッドに横たわって天へと召される。幸せな人生だ。カマキリのクソみたいだな。

 もうひとつの選択肢としては、諦めないというのがある。
 これは方法ですらない。諦めないと決めたところで、問題がはじめに戻るだけで何も解決しないし何も進まない。不可能だとわかっていながらも不断に挑戦することに意義あるのだという宗教めいたアジを飛ばす向きもあるけれど、それはキチガイの美意識というもので、論じられているのが人類の理想であるならばいざしらず、こういう個人的なテーマにはフィットしないと思う。
 個人的には解決したい問題なので、解決の方法を知りたい。ならば新しい方法を探る必要がある。要素抽出をやり直し、データベースをより精緻に再構築するという手もある。うまくいくかはわからない。
 どうすればいいのかなあ。
 などとつぶやいてると、「自分で作ればいい」などと軽々に口走るとんちんかんが出てくる。何もわかっていない。自転車を買いたがっている人に自動車のほうが速くて遠くへ行けるしカッコいいよ、と薦めるようなものだ。そういう人の相手をするのは大変につかれる。つかれるだけで何もいいことはない。こういう仮想敵は増やそうと思えばいくらでも増やせるけれども、藁人形を編むのも一仕事なので、やはりつかれる。つかれたところで詮ないことを考えるのはもうやめます。


 要約すると、あなたがたにはもっと、あなたがたの考える僕の好きそうなコンテンツを推薦してほしい、ということです。

*1:実際のところはもっと細分化され、グラデーションのついた結果が出たのだけれど、ここで長々棚晒しするものでもないので割愛する

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