たしかに、先月で六歳(人間でいえば六十歳)を迎えた Nintendo Switchのスペックでは到底およびもつかないような精細で豊穣な世界がそこに描出されていた。 ヴィヴィッドな赤色のキノコが林立するキノコ王国は、60年代のヒッピーが見る幻覚のようなピースフルさに満ちている。大量に出演するモブ(ザコ敵)たちにはそれぞれおちゃめな個性が付与されていて、知り合うだけでも愉しい。*2
『美女と野獣』などで監督を務めたカーク・ワイズは「ディズニー・ルネサンスにおいてもっとも重要な役割を果たした人物をひとりだけ上げるなら、アシュマンだ」と述べている。*6実際、制作にまつわるエピソードを見ていると、彼が現場においてほとんど監督と同等かそれ以上の立場の担っていたことが伺える。 アシュマンは歌こそが『リトル・マーメイド』の核を成しているという事実に自覚的だった。『リトル・マーメイド』をめぐる有名なエピソードに「カットされかけた Part of Your World 事件」というのがある。主人公アリエルの地上へのあこがれを歌い上げるこのナンバーは今でこそ作品の象徴だが、スクリーニングでの子供ウケが鈍く、エグゼクティブだったジェフリー・カッツェンバーグによって一度は消されかけた。そのカッツェンバーグに「消すなら俺を殺してからやれ」と強硬につっぱねたのがアシュマンだった。「この手の大作映画には、心を掴む瞬間を与えてくれる曲が必要なんだ。『ピノキオ』の「星に願いを」のようなね」と彼はメンケンに語っていた*7。 アリエルの声優を務めたジョディ・ベンソンによれば、アリエルはそんなアシュマンそのものだったという。 そのことばは、アシュマンの遺したデモテープを聴けば信じられる気がする。
『リトル・マーメイド』の共同監督のひとりであるマスカーは Part of Your World のデモを歌い上げるアシュマンを見て「アリエルになりきっていた」と述べている。
とはいえ、アシュマンはすでにない。そしてリメイクとは、ガス・ヴァン・サント版『サイコ』*8のようにフレーム単位で原作を反復することではない。 実写版で Part of Your World のパートが始まったとき、わたしは「わるくないじゃないか」とおもった。 予告編の感じた「こうして聴くとどうしようもなく”白人の音楽”っぽさが強調されるな」という印象は拭い難かったものの、わるくはない。アニメーションのあの豊かでたおやかなタッチを超えることはさすがにないが、リメイクとはそういうものだ。『ポケットモンスター金銀』でカントー地方を再訪するようなもの。ダウンサイズされた既視感。そこには単なる複製以上の愛嬌が宿っている。
演奏しない魚たち
ところが、Under the Sea は。
あれには唖然とした。
こうも疑いさえした。
「実写版監督のロブ・マーシャルは Under the Sea の歌詞を一度でも目を通したことがあるのだろうか?」
Under the Sea は Part of Your World にならぶ『リトル・マーメイド』の代表歌曲であり、物語上の機能においても対をなす。
Part of Your World でアリエルは地上生活と人間への憧れをダンスにからませて表現する。
あのひとたちが『踊』っているのを見たい/アレを使って歩き回っているのを見たい/アレはなんて言うんだっけ……/ああ、『脚』!/ヒレをばたつかせても遠くへはゆけない/跳ねたり踊ったりするには脚が必要なの 「Part of Your World」
対して、カニの宮廷音楽家兼アリエルのお守り係のセバスチャンが「君はそうやって上ばかり見上げているけれど、人間なんて恐ろしいもんだよ。海は十分に最高だ。ほかに何を望むんだ?」という説得のために歌い上げるナンバーが Under the Sea だ。
イワシがビギン*9を始めれば/それが私にとっての音楽 (中略) どんな小さな貝だって/ここではジャムのやりかたを知っている/海の底ではね *10だって/ここでは踊り方を知っている/海の底ではね 「Under the Sea」
海の底でだって音楽も歌もダンスも揃っている。それなのになぜわざわざ危険を犯してまで地上へ向かおうとするのか? セバスチャンの訴えはこの歌の終盤で抜け出していってしまうアリエルに届くことはない*11のだが、視聴者の心には確かに響き、物語上の説得力へとつながる。 普通だったらこんな愉快な海を抜け出してまで地上に行こうとは思わない。しかし、それでもアリエルの憧れは止められない。それだけ、強烈な想いを彼女は抱いている。
Under the Sea が愉しげで、そこで描かれる魚たちの生活が魅力的であればあるほど、アリエルの望みが際立つのだ。
Part of Your World と Under the Sea では曲のジャンルも対照的だ。特にもともとトリニダード・トバゴ訛りの強いセバスチャン*12が歌い上げる Under the Sea はカリプソ音楽*13やレゲエの影響が色濃い。ここに、海の下=カリブ海/海の上=植民地帝国というポストコロニアルな対立を見出し海の上にピュアに憧れるアリエルに複雑な気持ちを抱くことも可能だが、そこは措く。 重要なのは、Under the Sea の魚たちにはかれらの歌も音楽も踊りもあったということだ。
実写版では色とりどりの魚やクラゲたちが出てくるけれども、オリジナル版のように楽器も演奏しなければ、セバスチャン以外は歌に参加したりもしない。*14 監督インタビューによれば*15、マーシャルは Under the Sea を演出するにあたって、かつて『ファンタジア』(1940年)でディズニーがバレエ・リュス*16を思い出し、アルビン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター*17のダンサーたちを呼び寄せて海の生き物たちを演じてもらったという。 そうしたわけで実写版の Under the Sea はダンスに全振りしており、振り付けもモダンダンスっぽい。 そうした方向性自体は別のよいのであるけれど、ダンス「しか」しなくなったことで歌詞との矛盾が生じてしまっている。
原詞はすべて魚の名前にからめたダジャレになっていて、オリジナル版の画面では歌詞にあわせて対応する魚たちが楽器を弾く。セバスチャン自身も貝を叩いて演奏に参加する。 ところが実写版ではその歌詞がほとんどまったく無視され、文脈にあまり関係のない映像が流れる。「甲殻類バンド」の姿などどこにもない。踊るだけだ。 ちなみに Kiss the Girl でも同様に「歌詞に乗せてモブの動物や昆虫たちが演奏したり歌ったりする」描写が実写版ではなくなっている。
歌詞はそのままで映像が違う。この改変によってどういう状況が生じたか。 魚たちから音楽が奪われてしまったのだ。 これは Under the Sea のシーンそのものの在り方にも関わる。 セバスチャンの歌う「魚たちの音楽」が比喩でしかないのなら、観客も海の底もいいかも、という気持ちにならない。ましてやセバスチャンを無視して地上へ向かうアリエルの気持ちの強さになど想いを馳せられない。 画的にも魚たちは音楽から切り離されてしまっている。 オリジナル版では魚たちが演奏することで画面内に音源がある状態、いわゆる「インの音」*20として表現されていたのが、実写版では音はすべて画面の外からやってくるものになってしまった。 こうなると視聴覚の体験として、「海の底」にセバスチャンにとっての「音楽」なんてどこにあるの? という印象を持ってしまう。そこで歌われていることがすべてうそになる。 ほんとうに歌詞を読んだ上で、こんな演出に変えたのか? そんなミュージカル演出なんてありえる*21だろうか?
私は最初こう思った。
ロブ・マーシャルは特に深く考えず、「ここはダンスで攻めよう。オリジナルをなぞってもおもしろくないしね」くらいの軽い気持ちで Under the Sea を演出したのだろう、と。
さて、オリジナル版からカットされた歌曲はいくつかあるけれど、そのなかのひとつに Les Poissons がある。 アリエルを追いかけて陸にあがったセバスチャンが、エリック王子のお抱えシェフの調理場で”残酷に”処理されている魚たちを見て震え上がるという場面の歌だ。 ほかのカット曲とは異なり Les Poissons はトラウマティックで印象に残る場面なので、マーシャル監督に対して「なぜ削ったんですか?」と尋ねるインタビュアーも出てくる。 それに対するマーシャルの返答はこうだ。
マーシャルの主張は一定程度は理解できる。 たしかに Les Poissons は本筋そのものとは関係ない場面だ。残酷で子どもに見せるには不適当かもしれないし、削っても問題ない場面ではある。表面上は。 しかし、この曲はきちんと他の場面との関連の上に成り立ってもいる。
Under the Sea の歌詞で歌われていた「海の上なんか行くと魚は食われちまうぞ」という脅しがホラー的に現前する場面でもあるのだ。 調理場にはセバスチャンの親戚のようなカニたちが何匹も並び、彼にとってはまさに目の前で「仲間」が虐殺されていく現場だ。 コメディっぽさのなかに、やはり地上の人間と海の生き物たちは相容れないのでは、という不安を観客に植え付ける。これもまたアリエルと彼女自身の抱く憧れのジレンマを(彼女自身と関係なくとも)高めている。 それが実写版では、「人間たちは魚を食べる」という恐怖は、アリエルがエリック王子の城にもぐりこんだときに歌う追加曲 For the First Time で遠回しに反映*26されるだけになった。
The Stanley Parableはウォーキングシミュレーターと呼ばれるジャンルに属する一本。主人公スタンリーくんに憑依して、3Dのオフィスを一人称視点で歩き回ります。開始時から「ナレーター」による語り、もとい指示が飛んできますが、従うかどうかはプレイヤー次第……といった内容です。もちろん、「ナレーター」が用意した物語に従ってもいいわけですが、愉しいのは徹底して予定調和な流れに反抗していくプレイです*3。とにかくエンディングの数が豊富で、逸脱の数だけエンディングが用意されています。エンディングがあるということはそうした逸脱すらも開発者の用意した物語のうち、というジレンマがあるわけですが、そうしたメタフィクションの原罪さえ気にしなければ非常によく作りこまれたコメディです。ちなみに二〇二二年五月にリメイク版となる The Stanley Parable: Ultra Deluxがリリースされ、大幅パワーアップ。公式日本語も実装。ただ、無印を内包しているとはいえUD版はやはり無印の続編としての側面が強いので、先に無印を別に買ってやったほうがわかりやすいかと思います*4。
The Stanley Parable の作者、Davey Wreden が生み出したもう一つの傑作が The Beginner's Guide。本作で語りかけてくる「ナレーター」はなんと Davey そのひと。彼の友人である謎めいたインディーゲーム制作者 Coda の残した珍妙な作品群を通して、Coda の人柄や苦悩を探っていく……といった内容です。この作品が特異なのは、コンテンツの受け手であるユーザーもまた表現者としての欲を持っているというSNS時代のクリエイター/ユーザーの関係にスポットを当てたところでしょう。余白も多く、深読みを誘うゲームで「真相」を考察したネット記事も多くあがっています。どのように受け取るかはプレイヤー次第ですが、あなたがなにがしかのクリエイター、ないし、日々SNSを利用している人であれば―要するに全人類ですが―ぜひともプレイしていただきたい一本です。日本語MOD有。 The Stanley Parable にはもう一人開発者がいます。その William Pugh がてがけたウォーキングシムが Dr. Langeskov, The Tiger, and The Terribly Cursed Emerald: A Whirlwind Heist 。ながったらしいタイトルやんな。これは呪われたエメラルドを手に入れるために博物館へ潜入するステルスアドベンチャー………になるはずだったゲームが、プレイヤーがプレイする直前に不具合をきたしてしまいます。しょうがなくなったプレイヤーは「ナレーター」の指示に従ってゲームの裏方仕事に回ることに。The Stanley Parable のようなボリュームや The Beginner's Guide のような思弁性には欠けますが、そのぶんライトにユーモアを堪能できます。日本語化MOD有。
逸脱が予定された The Stanley Parable の系譜で代表的なところといえば、ICEYでしょうか。こちらは2Dのメトロイドヴァニアアクション……の体裁で、The Stanley Parable のように「ナレーター」の指示に抗いまくってどんどん逸脱していきます。ゲーム内の世界観とメタ要素が上手くつながっていた The Stanley Parable と違って、やや上滑りなところもありますが、アクションゲームとしてもなかなか作りこまれており、声優も豪華。日本語化MOD有。
The Corridorはシンプルな3Dウォーキングシム。ボタンしかない回廊に放り出され、そのボタンを押すと「二度とゲームを立ち上げるな」と警告されて強制終了されます。それでもめげずに再度ゲームを立ち上げると……といった内容。コンセプト的には Please, Don't Toutch Anything なども想起させますね。三十分程度で終わります。The Stanley Parable の「ナレーター」がゲームであることを強いてくる存在だとしたら、こちらの「ナレーター」はゲームであることを拒絶してくる存在といえるでしょう。日本語版MOD有。
ゲームであることを拒絶してくる「ナレーター」の出てくる作品で近年高い評価を受けたのが There is No Game: Wrong Dimension。 ゲームを開始すると「ここにゲームはない!」とロシアなまりの英語でつっけんどんにプレイヤーを追い返そうとしてきます。やるなと言われると、ゲームをやりたがるのがプレイヤーの性というもの。どうにかこうにかしてゲームを始めると、そこには想像以上に深いストーリーが見えてきます。この手の作品としては極めてウェルメイドで、強いていえばそのウェルメイドさが鼻につくほど。トランスジャンル的な点は The Hex などとも似ています。公式日本語有。
プレイヤーによる反抗とはまた違う味付けでメタとナレーションで戯れているのは Thomas was alone。複数の棒というか長方形を操作して、ステージごとのゴールを目指す、いわゆるプラットフォーマー・パズル・アクションです。それぞれの長方形は特性も名前も性格も異なります。いや、見た目はただの無機質な図形なので個性も人格もないだろ、とおもわれそうですが、それらを肉付けしていくのがプレイ中に挟まるナレーションです。ほとんど実況のような頻度で展開を説明したり、攻略のヒントをくれたり、「トーマスは○○だと思った」といったノリでプレイヤーの図形たちの「気持ち」を教えてくれます。最終的には幾何学的なスクショからは想像できないようなヒューマニスティックな共感と呼び起こしてくれることでしょう。日本ではあまり注目されてこなかった作品ですが、多くのフォロワーやパロディ作品を産んだ古典です。The Stanley Parable やツボおじさんこと Getting Over It with Bennett Foddyなどもそうした文脈に位置づけられる一作といっていいでしょう。残念ながら、日本語版はなし。
The Hex; トランスジャンルなゲームたち
The Hexの話題が出たので The Hex の話をしましょうか。開発者は Daniel Mullins。誰やねん、とお思いの方には Inscryption と Pony Island の作者といえば伝わりやすいでしょうか。ここに挙げたタイトルからもわかるとおり、メタメタなゲームを作りたがるクリエイターです。 The Hex はいうなれば、ジャンルごった煮のオムニバスです。というと、『メイド・イン・ワリオ』のようなカジュアルなミニゲーム集を想像するひともいるかもしれませんが、こちらはもうちょっと内省的です。プラットフォームアクション、JRPG、2Dオンライン格闘ゲーム、トップダウンシューターなどといった六種類のジャンルの主人公たちを操り、かれらの過去、そしてゲーム内で発生すると予告されたある事件の「犯人」を探ります。興味深いのはキャラクターたちのストーリーだけではなく、現代のゲーム文化が批判的にフィーチャーされている点。steam のレビューに左右されるゲームの評価、ユーザーの身勝手な要望によってバランスが崩れていくオンラインゲーム、ゲームをスポイルする動画配信、ゲーム本編をとことん崩壊させていくチートMODなどといったユーザーからすれば当たり前の光景がトキシックで痛々しいものとして描かれます。さきほどふれたジャンル横断的な作りだけではなく、こうしたゲーム文化への批評も There is No Game と共通するところで*5すが、どこまでもウェルメイドさを保つ There is No Game に対して、本作は危ういまでに「個人的」。こうした昏いアングラ感もインディーの魅力です。長らく日本語版はありませんでしたが、二〇二二年にようやく公式日本語化。
What the golf ?は二〇二一年の暮れに RTA in Japan でバズったこともあり、ご存じの方も多いのではないでしょうか。ゴルフのコースをひたすら回るゲームですが、タイトル通り、「これってほんとにゴルフなの?」とツッコみたくなるようなステージがガンガン立ちはだかってきます。このゲームをやり終えるころにはサッカーも宇宙開発も『アングリーバード』もみなゴルフなのだと悟りを得ることでしょう。日本語版有。余談ですが、ゴルフゲームはなぜかと形式を問われがちな伝統があるようで、変形コース(Golf it! 等)は序の口、ミニマルパズルゴルフカードゲーム(Golf Peaks)、終末世界 (Golf Club Waste Land)、RPGとゴルフの悪魔合体(RPGolf)などバリエーション豊か。マリオですら走りながらリアルタイムゴルフアクションをやる時代ですからね。続編の What the Bat?は両手がバットの子どもの人生を追っていく物語で、野球はまったくしません。 tERRORbaneはバグだらけのJRPG風ゲームをお茶目なゲーム開発者とやりとりしながら攻略していくジャンル横断型コメディRPG。グリッチを剥がしてマップを上書きしたり、スクリプトを書きかえてオブジェクトを変更したり、いきなりポケモンやカードゲームになったりと、パロディ面を含めてとにかくやりたい放題です。現実のレイヤーをゲーム内に明示的な形で取り込んでメタフィクション風味をもてあそぶ点では、There is No Game や ICEY の「安全に管理されたメタフィクションゲーム」の系譜に属するかもしれません。これはこれでおもしろいサブジャンルだとおもいます。*6 EVOLAND と EVOLAND 2で越えられていくのはジャンルではなく、グラフィックです。ゲームボーイのようなモノクロ画面から始まり、段階的にグラフィックが向上、世界が豊かな色づいていき、最終的には3Dになっていきます。ゼルダライクでパロディに溢れたゲームはお世辞にも快適とはいえず、ストーリーに厚みはないものの(でも2は頑張ってはいます)、表現面で一見の価値はあるといえるでしょう。1は日本語版ありますが、ローカライズに伴う不具合がやや多かった記憶。2は日本語版なし。
複数のジャンルを往来するゲームもあれば、特定のジャンルの意義を徹底的につきつめるゲームもあります。 undertaleは「RPG」の在り方に愛情深く疑義をつきつけたアンチジャンルの傑作でした。経験値やレベル、そして戦闘といったRPGのシステムが奥底で意味するものを単位露悪以上の深度で物語に組みこんだのです。むろん、そうした問題意識を含んだゲームは undertale が最初ではなかったわけですが、ともかく、undertale はその後のインディーゲームシーン、インディーにおけるメタフィクションへの意識を決定的に変えた一本であることは疑いありません。公式日本語版有。 アンチジャンルにおける steam の古典といえば、Spec Ops: The Line。戦争TPSです。一応シリーズらしいのですが、完全に独立したタイトルです。戦場で気持ちよく無双して敵兵を虐殺すること。戦争を題材にしたゲームにつきまといがちなその背徳的な快感に、このゲームは真正面から問いかけてきます。「それでいいのか」と。その問いかけ内容そのものだけでなく、「どこでどう」問いかけられてくるのかも必見です。無抵抗の市民を虐殺するイベントが物議を醸したCall of Duty: Modern Warfare II (二〇〇九年)の文脈を踏まえると、よりどう時代的な批評性を感じられます。 わりと古めのゲームというのもあり、「steam のインディーでメタ表現」といえば、まず名が挙がる一本です。日本語版有。
昔のコンシューマ機で発売されたゲームは扱うかどうか難しいところですが、大古典(一九九七年発売)として moon は外せないか。元はPS1で発売された作品ですね。プレイヤーである少年がある夜に自分がプレイしていたゲームの世界に吸い込まれてしまいます。その世界では(かつてプレイヤーが操作していた)勇者は勝手に民家に押し入って泥棒はするわ、いたいけな犬をいじめるわ、とにかく悪評紛々たる人物でした。 少年は女神様から”ラヴ”を集めるようにいいつけられ、へんてこ世界に住むへんてこな住民たちと交流していきます。RPG的な世界観を基調にしながらも、戦闘がないのがいかにもアンチジャンル的。undertale を一部先取りしていたといえるでしょう。RPGでいえば、YIIK: A Postmodern RPGも文字通り「ポストモダン」であるそうなのですが、プレイがタルいのでクリアできていません。日本語版有。
I (don't) Hate Hentai Puzzlesはアンチジャンルはアンチジャンルでも、マイナーなジャンルに眼をつけた一本。CEOの失踪により滅びかけた Steam(作中では St. EeM)。かつてのような多様なゲームを愉しむ風土はなくなり、ヘンタイパズルゲーム(簡単なパズルを解くとエッチな絵を閲覧できるようになるゲーム)がランキングを独占する地獄の有様になっていました。愛するプラットフォームの惨状を憂えていた主人公でしたが、「これだけ人気ということは、もしかしておもしろいのかも……」とランキングトップのヘンタイパズルに手を出します。これがまあ、クソみたいな出来なんですね。生粋の Steam ユーザーである主人公は怒りの「オススメしない」レビューを投稿します。すると、全 Steam ユーザーがそのレビューに逆上して非難を浴びせてくるのです。はたして、Steam に何が起こっているのか……という陰謀論的ヘンタイパズルシミュレーターADV。ピクセルドットで再現された Steam のブラウザからヘンタイパズルを購入・プレイしたり、他ユーザーと交流を行ったりするインターフェイスもユニークです。雰囲気は非常に良いのですけれど、ボリュームが少ないうえ、やや尻切れトンボ気味で終わるところが玉に瑕。日本語版は今のところありません。
そもそも二〇一〇年代以降のインディーゲームシーンは2Dプラットフォーマー・アクションに対するアンチから始まったといっても過言ではないかもしれません。ジョナサン・ブロウの Braidは、最初は時間巻き戻しギミックをフィーチャーしたパズルアクションとして現れます。主人公の目的は「プリンセスを救い出すこと」。いかにもマリオめいたヒロイックなセッティングですが、ゲーム内で日記の断片を見つけて読んでいくごとにどうも不穏な雰囲気が強まっていきます。ステージをクリアした後にキノピオよろしく登場するぬいぐるみたちにもプリンセスの行方がわからない。そうして、プリンセスの謎がゲームのギミックとも絡んできます。 ゲームは規則によって成り立っています。ゲームを疑うなら、そのゲームを成している規則を疑っていくこと。それが次の世代のゲームを生んでいく。二〇〇九年に発売され、後のインディーゲームバブルの嚆矢となったBraidは、その背中でもってインディーの心意気を後進たちに伝えたのです。日本語版有。 ちなみにブロウはメタが好きというよりは自分が好きすぎる結果創作物も自己言及的になってしまうタイプだと思うのですが、最高傑作といわれる3Dパズル The Witnessもそのうちか。*7
Doki Doki Literature Club!(『ドキドキ文芸部!』) :メタフィクションに向いた職業ーーヴィジュアル・ノヴェル
Doki Doki Literature Club!はアンチ恋愛シミュレーションといった趣のADV。そういうとネタバレになるから難しいですね。さっきのはうそ。かわいい女の子たちとなんのジャンプスケアもなく平和に遊んで暮らすゲームです。グレードアップ版となる有料版が出ていますが、メタ表現的にはむしろ後退しているので、無料版をプレイした方がよいです。満足したら、お布施のつもりで有料版を購入しましょう。追加シナリオもついてるよ。有料版は公式日本語有で、無料版は有志MODだったように記憶しています。
ループに自覚的な人狼モチーフで『レイジングループ』と双璧を成すもうひとつの傑作に『グノーシア』もあります。こちらも『レイジングループ』とはまったく別のアプローチから人狼のゲーム化を成功させた作品です。人狼ファンも、そうでない人にもマスト。日本製。*9 メタ表現を含むミステリアドベンチャーでは、『春ゆきてレトロチカ』も見逃せない一本。ドラマパートはなんと実写で展開されます。しかしそこに流れる血は間違いなくノベルゲーム・ミーツ・新本格。ここまで言ったらネタバレ同然になってしまうのが、ミステリゲーム紹介の難しいところですね。「映像を使ったゲームでしかできない仕掛け」を達成しているのは間違いありません。もちろん、オール日本語。メタ表現から少し離れますが、近頃は実写映像をフルに用いたインディー作品も増えてきたのが興味深い。レトロチカはスクエニですが。っていうかスクエニはあきらかにインディーじゃないですが、ほらスピリットがね。 スクエニの近年のチャレンジングなADVタイトルだと『パラノマサイト』なんかもおもしろかったですね。なにせ、ゲームを起動するとプレイヤー名の入力画面が立ち上がり、入力するとパソコンに登録しているユーザー名のほうで呼ばれます。PS版の Serial Experiments Lainかよ。こういう態度なので伝統芸能みたいな滋味のあるメタネタが歌舞伎のようにキマりまくった感じでお出しされてきます。それらは手なづけられた安全なメタ表現で衝撃に薄いかもしれませんが、テイストとしては十分味わいあるものです。
愛らしいビジュアルが特徴の BAD END THEATERはバッドエンドが運命づけられた少女、悪魔、魔王、勇者の四名の群像劇。視点人物の選択や行動を変えると他の主人公たちの物語展開にも影響をおよぼすいわゆるザッピングシステムを採用しており、『428』や『街 運命の交差点』、そして前述の『パノラマサイト』のスケールをこぢんまりとさせた印象。ストーリー自体もメタい。日本語版有。
ノベルゲームというジャンルそのものをメタ的に捉えた海外の作品としては、milk inside a bag of milk inside a bag of milk があがります。お母さんからスーパーにミルク(舞台がロシアなのでミルクがプラ製のバッグに詰められている)を買うようにお使いを頼まれた少女が行って帰ってくるまでを描いた掌篇です。特異なのは主人公である少女の現実認識で、彼女は自分の見る世界を「ビジュアルノベル」と捉えています。そのメタっぽさを自覚しているのが複雑なところです。プレイヤーはイマジナリーフレンドとして召喚され、彼女から「読者」の役割を与えられます。そうして選択肢で彼女にささやきかけていくわけですが、あまり彼女にプレッシャーをかけるような選択ばかり行っていると「あなたはいらない」と存在を消されゲームオーバーになってしまいます。キャラクターがプレイヤーに反逆するメタ表現の一種とも捉えられますが、それ以上の奥行きと屈託を感じさせる怪作です。後日譚にあたる続編の Milk outside a bag of milk outside a bag of milk も是非。オープニングで Milk inside~のあらすじが Serial Experiments lain風のアニメーションでおさらいされます。そうしたスピリットの流れを汲む作品です。どちらも日本語版有。
ここからは、DDLCよりホラージャンルへと向かいましょう。ホラーもまたメタフィクション表現に向いたジャンルです。なにせ、「メタホラー」という呼称があるくらいです。プレイヤーを怖がらせるための表現ですからね。平気で虚実の境を越えてきます。ちなみに筆者はこのジャンルも全然得意ではないです。怖がりなので。ヴィジュアルノベルも避けてきてホラーも苦手、メタフィクションに向いてなくないか? DDLCのお家芸といえばPCのディレクトリへ介入してのファイルいじり。これを最初に試みたのは1997年に発売されたPCゲームの Virus: The Game といわれています。先駆性はともかく、かなりのクソゲーだったようで、評判は激烈に悪いですが。こうした表現は Nightmere などのスケアウェア(たとえば Nightmere では感染すると五分ごとに恐ろしげな頭蓋骨の絵が表示される)などからも想を得ているそう。
Dere Evil.Exe はオーソドックスなプラットフォーマー・アクション……見せかけたメタホラーアクション。進行するにつれ世界が狂っていき、難易度も鬼畜めいてきます。そのころには「Dere」がなにを意味するかも理解できてくるでしょう。本作を制作した AppSir Games は同一ユニバース上でホラーを作り続けている異色のチーム。Steam では他に HopBound という Dere Evil.Exe の続編となるメタホラーもリリースしています。世界観やモノにも凝るタイプのようで、シリーズ作中に出てくる「呪いのゲーム」をスーファミのカートリッジで再現したりしているのだとか。現実を不安にさせてやろうとする気概を感じさせます。
the magic circleはメタフィクションゲームではインスタントクラシックと見なされている作品です。プレイヤーは「未完成作である一人称視点ファンタジーRPGの主人公」となり、テクスチャもろくに貼られていない灰色の世界を行きます。その道中で開発者たちの内輪もめを延々を見せられて……といった内容。特徴的なのはハッキングシステム。遭遇した敵のコードを書き換えて、自分にダメージを与えられないようにしたり、同士討ちさせたり、とやりたい放題できます。重要作なのですが、日本語版はありません。
お手軽なところでは、I hate this game 。これはわかりやすくぶっとんだアクションゲームです。 ステージごとに画面の左端にポップした主人公を右端のドアに連れていくだけ、というだけのシンプルなプラットフォームアクションなのですが、全百ステージからなる本作は「左から右に行くだけ」に、とにかく凝ったバリエーションを繰り出してきます。ゴールであるドアが移動したり、突然3D画面になったりなんてのは当たり前。進行するごとにどんどんひねった(そしてメタな)解法を要求されます。日本語版はありませんが、特に英語力を必要としません。ステージ名がヒントになっているので、そこに注意すればいい程度か。
・自らがゲームであることを認め、プレイヤーに語りかけるゲーム。 ・ゲーム側がプレイヤーに対して自らの虚構性を認めるときに顕れる。 I.e. ゲーム中のキャラがプレイヤーに対して「私たちのゲームへようこそ、プレイヤーさん! 楽しんでいってください!」などとメッセージを発する。メニュー画面やチュートリアルは含まれない。
*12:ゲーム内PC画面表現については、Orwell, Kingsway、DUM-DUM, Everything is going to be OK, Secret Little Haven、Hypnospace Outlaw、餓史シャチの幸、GAME.EXE、NEEDY GIRL OVERDOSEなど枚挙に暇無し。スマートフォン画面を模したものも Replica や SIMULACRA シリーズを代表として勢力を築いている。
as it never fully breaches the fourth wall でおそらく重要なのは never "fully" breaches の部分で、完全に第四の壁を破壊するものではないにしても、ある程度は揺らいでいる。その一時的なハレーションにプレイヤーは「メタさ」を感じるわけで、結果的にはくすぐりに終わるとしても、「物語世界は拡張されている」のではないでしょうか。おまえもそう言いたいんだよな、ジェイムズ? 違ったらすまない。
ジェイムズに関してひとつ言えるのは、タイトルが“The Four Types of Metafiction in Videogames”で文中でも“the kinds of metafiction that games can possess.”とも言われており、メタフィクションをジャンルではなく表現技法として用いているところだとおもいます。*10 だから、Internal metafiction や External Metafiction のように多くが一時的かつ可逆的な表現だったとしても彼にとってはメタフィクションに該当するのではないでしょうか。
手広く受ける立場をとると「単なる入れ子構造や自己言及」もメタフィクションにとして捉えがちになってしまうとは思います。 まあでもこのへんは自分でもなにか違うだろみたいな感覚があるのが正直なところです。実はストフィクに載せた記事からブログへ流し込むにあたって、いくつかタイトルを減らしていて、再帰型パズルのPatrick’s Paraboxなんかがそう。再帰型パズルの分野は見ていて破壊的でおもしろく、メタフィクション的な官能があるのですが、言語化するときにそれがメタフィクションに一致するかというと微妙なところがある。Patrick’s Paraboxの再帰性はあくまで作品世界内におさまる範囲*12なので、削る決断は簡単にできたのですが、じゃあこれが作品外まで波及していったときにどう扱っていたかはどうなるんだろう。このへんまだよくわかっていません。
BABA IS YOU なんかもたしか削った組ですが、やはりどう扱うべきなのか微妙なところ。
*10:「witch という語は賢さ(wise)、曲げること(to bend)、ねじること(to twist )、回すこと(to turn)、コントロールすること(to control)、変えること(to change)などに由来します。ウィッチクラフトとは、変革の術なのであり、テクノロジーの別の形なのです」Leliah Corby, "How to Form Your Own Coven," Green Egg, November 5, 1975
*11:ちなみにフォルトゥーナに関していえばゲーム開始時の行動からまさに「魔女」であることが示されています。渡良好一の『魔女幻想』によれば、16世紀後半のイングランドにおいては witch とは「悪魔や悪霊と契約したもの」を指しました。欽定英訳聖書におけるの「出エジプト記」の thou shalt not suffer a witch to live. (ウィッチを活かしておいてはならない)における「ウィッチ」もそうした用法です。ゲーム冒頭でベヒモスを呼び出すフォルトゥーナはまさにこの意味においても witch なのです
キャラクターたち3Dの身体を持ってややアニメーション的な誇張が使いづらくなって以降も、ラプンツェルやエルサは彼女たち自身の躍動感と(時には文字通りの意味での)魔法によって、耳だけではなく眼も愉しませてくれた。 ところが『ウィッシュ』では映画的な、あるいはアニメーション的な映像のマジックがさほど信じられていないように思われる。 劇中歌のそれぞれの曲調や場面ごとのトーンはあるにしても、基本的には暗めの画面でキャラがうろうろしているだけだ*12。喋れるようになった動物たちが乱れ狂う「I’m A Star」や、地下レジスタンスたちが団結する「Knowing what I know now」がわずかにグルーヴを感じられる程度だろうか。 どの曲もそれなりに良くはあるのだけれど、既視感も強いし、どこかで突き抜けるものがない。まあ個人の感想です。
「願い」を独占している悪とは誰か
そもそも、人々固有の「願い」を吸い上げて独占するヴィラン、というのもなんのつもりなのか。 一代で王国を築き上げたマグニフィコは、伝統的な王族というよりも大企業のエグゼクティブ的にふるまう。見た目はスマートだが、その裏に隠された本性は傲慢で、気ままで独善的。道徳心も薄く、自分の思いついたことは誰のいうことも聞き入れず実行しようとする。妻である王妃のことも軽んじる。昔とは形を変えた家父長制のメタファーのようでもあり、そういう意味では現代的な悪役なのだろう。「愚民どもはいつも努力もせず、他人に自分の夢を託して怠けようとする」とはいかにもこの時代の成功者がとりそうな態度だ。そうだね、イーロン、あんたのことだ*13。月イチで行われる「願い」を叶える儀式がIT企業の製品お披露目会みたいなのも印象的だ。*14 そんな彼がひとびとの「願い」を吸い上げて王城でほぼ飼い殺しにしている。この「願い」をマグニフィコは何度も My Wish と呼び、所有権を主張する。なぜ管理しているかは説明ゼリフが多い本作のわりになんだかぼんやりしているのだが、どうもひとびとの「願い」が自分にはアンコントローラブルなのに耐えられず、どこかで支配からの逸脱を目論んでいるのではないかと不安になっているらしい。彼が叶えてあげる「願い」は「王様に尽くす騎士になりたい」とか「王国のために美しいドレスを織りたい」とか、王国=自分の利益になるものばかり。
The Cosmic Wheel Sisterhood、最初なにをいっているのかよくわからないが聞き取れるようになるとかなりヤベーやつだと判明sるうフクロウの魔女や、ヤベー独裁体制を裏で支えていた樹の魔女や、とても親切なのだがさらりと主人公にヤベーもの仕込むシカの魔女などの善き魔女がぞろぞろ出る pic.twitter.com/IfTiGDBayV
The Game Awards の配信を某動画サイトで観ていたのですが、その冒頭で流れた本作の新作続編CMに対するコメントが「なにこれ?」といったような戸惑いの反応ばかりだったのを見て去年イチ悲しくなりました。The Case of the Golden Idol をご存知ない? なにも失ったことがないなら、それでいいけど*5。 ひとことでいえば、『Return of the Obra Dinn』を2Dにして歴史改変SFにしてユーモラスで気持ち悪いおじさんたちを大量に投入した推理パズルADV、といったかんじでしょうか。「大量のユーモラスで気持ち悪いおじさんどもって、それ、要るやつ??」という疑問をおもちの向きもあるかとはおもいますが、断言しましょう、必要です。 ストアページのスクショやムービーを見てわかるとおり、この独特の絵からみなぎってくる謎のパワー、それそのものが本作の世界を織りなしているのです。 推理パートは理不尽すぎず簡単すぎないほどよいバランスで、それを解き明かす過程自体も愉しいのですが、謎を埋めていくことによって物語がプレイヤーのなかで読み取られていく過程のほうもまたエキサイティング。ここのあたりが『Return of the Obra Dinn』フォロワーの面目躍如たる部分でもあるでしょう。RotOD作者のルーカス・ポープ御大(埼玉県在住)絶賛も納得です。ちなみにエンディングのあとに全ストーリー解説もついてくるという親切仕様。 翻訳は有志のMODですが、これも凝っていてすばらしい仕事です。
あの伝説のミステリアドベンチャー The Return of the Obra Dinn の再来とも言われる The Case of The Golden Idol をはじめました。開幕一秒で見せられる画がこれ。 pic.twitter.com/tr7f5SUNeI
翻訳といえば、22年の『7 days to end with you』みたいな翻訳ゲーム*8を23年の新作でやりたい向きにオススメなのが『Chants of Sennaar』。他人のしゃべっている言葉や店の名前などがまったくわからない状態で、会話や探索で拾った記号から単語を推測していくパズルADVです。『7 days~』と似たようなシステム(推測まわりのインターフェイスは『Return of the Obra Dinn』あたりを参考にしてるっぽい)ではある。このゲーム自体のローカリゼーションまわりで地味にがんばっているのは、単語単位で確定させていくと、やがて他人の話しているセリフもちゃんとなめらかな文章として均されるというとこ。たとえば、「イヌ」「ネコ」「吠える」という単語をそれぞれ確定させたとして、そのままだと他人のセリフも「『イヌ』、『吠える』、『ネコ』。」とぶつぎれでカタコトっぽい文になりそうですが、ちゃんと「『イヌがネコに吠えていますね。』」という自然な文章にコレクトしてくれる。ここらへんが「外国語を学習して上手くなっている」感を演出できていて、いいなあ、と感じました。
わたしは欲望に忠実なので、事前の期待との落差でゲームに対する評価を決めてるところあるんですけれど、それでいえば2023年では『Starfield』と『Sea of Stars』の赤字がひどかった。この記事を書く前はその恨み言を1万字くらいぶちまけようかという勢いだったのですが、なんかここまでノンストップで記事を書いてきて色々疲れたのでやめておきます。
【余談4:ループもので苦しみを描くことについて】
『In Stars and TImeをやったときにループものについて考えさせられました。映画とかアニメとかの映像作品のループものって、ループ毎に繰り返されるルーチンをカットしたり、あるいはそこまでしなくてテンポよく編集して視聴者をいらつかせないようにするじゃないですか。去年は『リバー、流れないでよ』という例外も出ましたけど。 ゲームもジャンルとしてループものをやる場合は、結構ルーチンをカットできたりもしますよね。 でも、ループもののクリシェとして「終わりのないループに苦しんで狂っていく主人公」的なやつがあって。そういうのって、主人公の主観ではまさに毎回お定まりのルーチンを省略できないからこそ病みが積みかさなっていくじゃないですか。 つまり、視聴者と主人公の感覚をシンクロさせるには視聴者にも主人公のループを余すところなくリアルタイムに味わわせておくべきで、まあふつうのループものはそんな情動に主眼置かないわけですけど、『In Stars and Time』ではおそらくエンディングから逆算した結果意図せずうっかり置いてしまって、その結果大変なことになってしまったんですよ。 ここのあたりの「ループをあえてリアルタイムで繰り返すこと」について、『minits』や『Twelve Minutes』や『リバー、流れないでよ』あたりと比較しつつ考えておきかったんですけれど、そろそろ1月2日の1時を超えそうなので、今回はやめておきます。
冒頭部のインタビューでも触れられていたように、『未解決事件』では韓国人作家のキム・ヨンス(金衍洙)の「「젖지 않고 물에 들어가는 법(ゲーム中の日本語訳では「濡れずに水に入る方法」)」も直接の引用として出てきます。:「他人に理由もなく優しくしたとき、存在しなかった物が新たに作り出されて今までの人生のプロットが変わります」 この小説はキム・ヨンスが23年に出したばかりの短編集である『너무나 많은 여름이(「あまりにも多くの夏が」といったような意味らしい」)』に収録されている作品で、現状未邦訳であり、当然読めません。 どうもコロナ禍の状況が強く反映された作品集であるらしく、おなじくコロナ禍が思索の起点になったという『未解決事件』と通じるところがあるようです。 キム・ヨンス自体は日本でも近年の韓国文学ブームを受けて著書がものすごい勢いで訳されまくっているので*12そのうち、この短編集も出るといいなあ。