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37歳のネコは親でもおじさんでもなくて、まるで天使のようだ――映画『化け猫あんずちゃん』について

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 さりながら諸君よ、感じやすく、子供のごとく純粋で、おれのように誠実な心の持ち主である諸君よ、いうまでもなく諸君のためなのだ。

 ーーE・T・A・ホフマン、石丸静雄・訳『牡猫ムルの人生観』




www.youtube.com

死んだ母親たち、使えない父親たち、外されたネコ。

 なぜネコに頼むのか、という疑問がある。
 アニメ映画『化け猫あんずちゃん』の話だ。

 片田舎に建つ草成寺にすみつく化け猫・あんずちゃんは、寺の和尚さんから彼の孫である小学生、かりんちゃんの世話を頼まれる。かりんちゃんの父は、声が青木崇高*1であることからも察されるようにまあだらしない父親で、借金取りから逃げまわるあいだ、娘を父である和尚さんにあずけたのだった。
 ここにかりんちゃんを取り巻く三世代ぶんの家族があるわけだけれど、「家族」と呼ぶにはあまりにもやる気がない。なぜなら保護者としての親がひとりも存在しない。

 かりんちゃんの父はねんがらねんじゅう借金とりに追い回され、性格も軽薄で、悪い意味で親としての威厳がない。娘からも「哲也」と名前で呼ばれている。続柄が代名詞になる日本語空間においては、ややおちつかない扱いだ。親しみから親を名前で呼ぶ家庭はあるだろうが、かりんちゃんの場合は侮蔑とまではいわないまでも、あきらかに「敬意を払うに値しないから」という含意が読み取れる。

 その父の父でかりんちゃんの一応の預け先になる和尚さんも、小学生の保護者としてはすこし弱い。
 アウトサイダーばかりの劇中では屈指の常識人として描かれ、かりんちゃんことは気に掛けてやさしくしてはあげている。あげているのだが、存在すら初めて知ったばかりの孫にとまどいを感じているのか、じかに接するとなると、おこづかいをあげて町で遊ばせるぐらいのことしかできない。お話を通しても、あまり保護者という感じがしない。
 では、母と祖母はどうなのか。いってしまえば、どちらも死んでいる。特に祖母は原作では健在であり、生きていればかりんちゃんの保護者となりえたはずの存在だったのだが、映画化にあたって死んだことにされてしまった。
 かりんちゃんの母親は、映画化によって追加されたキャラだ。かりんちゃんはこの母親を恋しがり、何度もその想い出を噛みしめ、ついには再会のために地獄までおもむくことになるのだけれど、まあともかく死んでしまっている。

 父親たちは頼りなく、母親たちは喪われている。そんなかりんちゃんの「めんどうを見る」存在としてあらわれるのが、化け猫あんずちゃんである。

 それにしても、なぜネコなのか。
 フィクションにおけるのネコの表象といえば、自由・無責任・孤高あたりだろうか。
 たとえば、『ヤニねこ』の主人公ヤニねこはヤニを空気のように吸って生きているだけの社会不適合者だが、ネコである。こうしたキャラクターは、他の動物では成立しない。タバコをくゆらせているドーベルマンは警察関係者なんだろうな、という印象を抱かれるだろうし、ペンギンがシーシャを吸っていると潜水能力に影響するのではないか、とハラハラされる。

(にゃんにゃんファクトリー『ヤニねこ』講談社


 実際、『化け猫あんずちゃん』の共同監督のひとりである久野遙子もパンフレットのインタビューでこう語っている。「猫の無責任さって、人の無責任さとは全然意味が違うんです。猫に責任がないのは普通のことだから。そのフラットさがあんずちゃんのキュートなところですね」。

 子どもの世話をする、その保護者になる。それは人類にとり、もっとも重大な責任を課されるタスクのひとつだ。そんな仕事をあえて無責任の象徴たるネコにおしつける。

 しかも、だ。あんずちゃんは、オスである。劇中でもたびたび、たまぶくろが強調されている。オスのネコは、基本的に子育てに参加しないことで有名だ。ますます保護者に不向きすぎる。

 そもそも原作にはかりんちゃんなどという小学生は出てこない。かりんちゃんの母親同様、映画版で追加されたキャラだ。保護者不在の哀しい女の子など、いましろたかしの世界にはいなかった。

『あんずちゃん』にいたるまでの「おじさん」映画の系譜

 本作の共同監督を久野とともにつとめた山下敦弘は、『あんずちゃん』とよく似た映画を以前に撮っている。
 2016年の『ぼくのおじさん』が、それだ。

(『ぼくのおじさん』)


 北杜夫の原作(1972年)でちまたに知られる本作は、小学生である「ぼく」とその叔父である「おじさん」(松田龍平)の交流を描く。
「おじさん」は哲学講師であるのだけれど、受け持つ講義は週に一コマだけで、ほかになにをしているのかよくわからない。「ぼく」の一家の居候として無駄飯を食らい、マンガ雑誌を「ぼく」にたかろうとする。とくに人格的に輝く面を持っているわけでもない。ろくでもない野郎である。

 そんな無為徒食の「おじさん」は、たびたび「ぼく」の親から「ぼく」の面倒をおしつけられるのだけれど、ここでもあまり大人としての保護者力を発揮しない。「ぼく」からは適度にかろんじられていて、どちらかといえば友だち感覚に近い。かといって、小学生である「ぼく」と30前後とおぼしき「おじさん」では完全に対等な友だちということもありえず、なんとも独特な関係を築いている。この距離感は、いかさま、『あんずちゃん』っぽい。


 そして、映画の構成も似ている。この『ぼくのおじさん』は、前半で「おじさん」と「ぼく」の日常描写パート、後半からはガラリと舞台をハワイに移してのわりとしっかりしたドラマパートに分かれている。『あんずちゃん』も前半が日常パート、後半からは黄泉下りだ。 つまり、山下敦弘のフィルモグラフィ上では、「なんかしらんがぶらぶらしている謎のおじさん」と「なんかしらんがぶらぶらしている謎の化け猫」が同一視されている。

 さらに遡るなら、『ぼくのおじさん』で松田龍平演じる「おじさん」とは高等遊民のパロディ、もっといえば夏目漱石の『それから』(1910年)的な明治期の高等遊民のパロディといえる。*2 

『それから』の主人公である代助は、帝大を出ながらも30歳で特に仕事もしない。裕福な家族から就職や結婚といった社会参加への”圧”をかけられてものらりくらりとかわしていく。『ぼくのおじさん』の「おじさん」も、寄生先が富裕でないところ以外、ほぼそうした塩梅である。

『それから』のお見合いを強要されるくだりでは、見合い相手の容貌にいちいちケチをつけるのだけれど、映画『ぼくのおじさん』でもそこもオマージュされている。映画版『ぼくのおじさん』で松田龍平が起用されるにあたり、その父である松田優作森田芳光版『それから』(1985年)で主演を張った事実が意識されなかったはずはないだろう。*3

森田芳光版『それから』。ふとした瞬間の松田優作の顔が松田龍平によく似ていて、やはり親子なのだなと感じる)


あるいは「ネコ=おじさん」映画の系譜。

 ここに高等遊民パロディ映画としての系譜が、『それから』から『ぼくのおじさん』を経由して『化け猫あんずちゃん』へと引かれていく。それは日本の映画史的/文学的なラインなのだけれど、実はもう一本、継承されているモチーフで引けるラインがある。

 ネコだ。映画版『ぼくのおじさん』では序盤から白いネコが出てきて、影のように「おじさん」によりそう。自由で、無責任で、とらえどころのない存在としてのネコ=「おじさん」というわけ。

 そして、「おじさん」がひとなみに恋に落ちていくハワイ編*4で、ネコは姿を消す。『それから』もそうだが、高等遊民は遊民でありつづけることはできない。かれらは恋をし、その恋によって他人に、そしてより大きな枠組みへと関わっていく。ネコみたいな人間は、やがてネコではいられなくなってしまうのだ。

 それはともかくとして、『ぼくのおじさん』の「おじさん」に『それから』の代助という先祖がいたのとおなじく、『ぼくのおじさん』のネコにも参照されるべき先達がいる。フランスの巨匠、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(1958年)に出てくるイヌたちがそれだ。

ジャック・タチぼくのおじさん』に出てくるダックスフント


『ぼくの伯父さん』も戯画的なほどにガッチガチに厳格な両親のもと*5で息苦しくなっている少年を、浮世離れした(しかし日本の「おじさん」と違って洒脱な)「伯父さん」たるユロ氏が逃避へと誘う話なのであり、タイトル的にも『ぼくのおじさん』へ明白な影響をおよぼしている。

『ぼくの伯父さん』は、街をうろつく野良イヌの集団をながながと映すカットから始まる。イヌたちは薄汚いけれど、かろやかに、自由に街をかけていく。やがて、そのうちの一匹、服を着たダックスフントが群れから外れ、フューチャリズム建築っぽい住宅へと入っていく。ダックスフントは、この家の子どもである「ぼく」の飼い犬なのだ。

 このダックスフントと無口な「伯父さん」氏のイメージはふしぎと重なっていき、「伯父さん」が「ぼく」の家に現れるときにもダックスフントが同時に画面に出てくる。そうして犬としての「伯父さん」のイメージが強化されていく。

 もちろん、スタイリストであるジャック・タチのことだから、偶さかにそうした印象ができあがったわけではない*6。映画と同時並行で書かれたノベライズ版を読めば、そのことは疑いようもない。

ぼくが忘れることの出来ないのはダキだ。ダキはダックスフント種の犬で、ちょうどうなぎに四本足をつけたように胴長の犬だ。パパとママがいるときは、ぼくはお行儀よくしていなければならない。あぐらかきで呑気にのおのお出来るのは、伯父さんといるときか、ダキと遊んでいるときだ。もっとも、伯父さんとダキも、はなすことが出来ない仲良し同志。
(中略)
現在にも、未来にも、そして過去にさえ興味や希望の思い出を持たなかった伯父さんは、ときどき、ふうっと自分が宙にういてしまっていたのではないか。時間とともに音をたてないで、流れてゆくいのちを涙ぐんで見つめている動物的な感覚が、伯父さんを自失状態においたのだ。そんなときでも、伯父さんは別に悲しい顔なんかしていなかった。ぼくの犬のダキのような表情が、その瞳にあるような気がした。

 ――ジャック・タチ、秦早穂子・訳『ぼくの伯父さん』三一書房



 イヌは人類のもっとも古い友だちである、とはよくいわれるところ。「ぼく」はそのイヌを最良の友とし、同時にその友の面影を自分の「伯父さん」とダブらせる。閑静で清潔感溢れる「ぼく」の家と、雑然とした下町を自在に行き来するイヌと「伯父さん」は、「ぼく」の息苦しさを救ってくれる。*7

 なにかと世界が狭くなりがちな子ども時代にとって、ここではないもうひとつの世界を見せてくる存在がどんなに貴重なことか。
『ぼくの伯父さん』は、徹底したイヌ映画だ。イヌに始まりイヌに終わる。人ではない、いまここではない出口としてのイヌ。そのイメージは日本の『ぼくのおじさん』にネコへ変換*8されて持ちこまれ、『化け猫あんずちゃん』で人そのものと融合した。
 

 と、このような仕方で山下敦弘は、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』と森田芳光の『それから』を組み合わせて『ぼくのおじさん』を造り出し、それを『化け猫あんずちゃん』へと昇華させていった。そうした流れが、まあ、ある。あるということにする。*9


「おじさん」でも「ネコ」でもあり、「おじさん」でも「ネコ」でもない。

 ところで、代助、「おじさん(松田龍平)」、「伯父さん(ユロ氏)」といったおじさんたちには共通した美点がある。
 つまり、子ども(甥や姪)にやたら好かれる。
 さきほど『ぼくの伯父さん』の話で触れたように、きっちりしたレールの上におらず、大人と子どもの中間のような位置にいる「おじさん」たちは、親類の子どもたちにとって一種のアジールだ。
 しかし、それは責任持って子どもをはぐくむ「ちゃんとした父母」という存在がいて、家庭という枠組みが機能しているからこそ出現する逃避先だ。

 ひるがって、あんずちゃんはどうか? 
 子どもであるかりんちゃんは、完全に規範となりうる親を見失っている。母を喪い、父親に見捨てられ(たと感じ)、いままでろくに会ったこともなかった祖父の寺にいきなり預けられ、ろくに知り合いもいない田舎で暮らす。孤児ではないけれど、気分は孤児に近い。山の妖怪たちでなくとも同情して大号泣ものだろう。*10
 そこに登場するのが、あんずちゃんだ。37歳。見た目も仕草もおっさんとネコのハイブリッドだ。

 そして、あんずちゃんはネコであるがゆえに、代助や「おじさん」のように結婚だの就職だのの圧力を受けない。
 そう聞くと『ゲゲゲの鬼太郎』のテーマソングのようでお気楽至極なようだけれど、『あんずちゃん』で描かれるあんずちゃんの日常は、もうすこし陰惨だ。なぜなら、あんずちゃんは社会から拒絶されつつも社会で生きるしかない存在として描かれている。
 和尚さんの扶養の下にあるものの、人間のような図体で人間のようにメシや娯楽を消費するあんずちゃんにはカネがいる。それを稼ぐために、按摩*11や川から鵜を追い払うといった仕事未満のアルバイトをこなしていく。

 だが、バイト帰りにスクーターで走行中、あんずちゃんは警察に捕まる。そして、免許証の不所持をとがめられる。「だめだよ」と警官はいう。「免許は16歳から取れるんだから」
 おかしみに満ちつつも、酷な発言だ。なぜなら、あんずちゃんは30歳を越えてやっとイエネコから化け猫に転化したという設定であり、16歳のときはふつうのネコにすぎなかった。免許など取りようがない。*12

 社会からはじき出されたまま、システムには付き合わなければならない。責任や義務を履行しようにも、その支払い先がわからない。完全なアウトサイダーだ。市民未満であり、人間未満。

 いつもノンシャランとしているあんずちゃんの様子からはわかりずらいかもしれないけれど、かれもどうもそうした状況に対して鬱屈を抱えているらしい。

 その鬱積が爆発するのが、自転車の盗難に遭う場面だ。パチンコの帰りに自転車を盗まれたかれは家に帰るや尋常ならぬ面持ちでぶつぶつ恨みをつぶやきながら、棒に包丁をガムテープでまきつけて即製の槍を作り始める。終始興奮を抑えられず、和尚さんの静止もきかず、四つ足で忙しなくばたばたと廊下を駆け回ったりしながら、自作の槍でふすまを突きまくる。そして半べそをかきながら、「だってだって、くっそ~~~~、俺は悔しいんだよ、おしょうさん!」

いましろたかし『化け猫あんずちゃん』講談社

 自分に向けられた顔のない悪意*13。それは人間からの自分への攻撃的な拒否でもある。あんずちゃんは、そう捉えたのではないか。

 代助や「おじさん」には見られない屈折が、ここにはくすぶっている。生まれたときから人間社会へ包摂される可能性を閉ざされた存在、それがあんずちゃんだ。飲み会にさそってもロクに「つるまない」山の妖怪たち*14に対してあんずちゃんが不満を漏らすのも、そうした孤独からの脱出口を妖怪たちに見出そうとしたからにおもわれる。*15

 だが結局、かれは山では暮らせないし、人間にもなりきれない。もはやネコにも戻れない。えらく半端な境界上の生き物だ。かりんちゃんとの東京行きの直前で和尚さんが指摘するようにあんずちゃんは「大人」ではある。だが、それは「一定の年齢を重ねている」以上の意味を持たない。かれは父親でもなければ、なんらかの地位を持つ社会的存在でもない。


 そんなあんずちゃんが、かりんちゃんの親代わり、あるいは保護者となりうるのか。


 いってしまえば、なれない。映画でも、そうなってはいない。

 かりんちゃんにとって、ケアしてくれる大人は死んだ母親以外に存在しない。かりんちゃんに同情してくれる山の妖怪たちも志だけは保護者マインドなのだが、なさけないまでに惰弱であり、子どもを守る力を持たない。

 けっきょく、かりんちゃんはその母親と決別したあと、父親に対して「早く大人になる」ことを宣言する*16。自分以外に頼れるものがない。それが彼女の生きていくことになる世界だ。


 それでも。


「大人」になるまでの猶予を過ごすパートナーとして、彼女は(父親ではなく)あんずちゃんを選ぶ。
 疑問が反芻される。
 なぜ、ネコなのか?

世界の果てまでつきあって

 劇中でのあんずちゃんは、かりんちゃんに対して保護者らしい行動をあまり取っていない。
 特に、日常の描かれる映画前半パートでは、あんずちゃんはかりんちゃんと別行動していることも多い。「いっしょにやった」といえるのは、鵜を川から追い立てるバイトくらいだろうか。ちょっと距離がある。

 しかし、同時に、あんずちゃんはなんだかんだでかりんちゃんを見捨てない。かりんちゃんが行方不明になれば、めんどくさがりながらも見つかるまで探す。唐突な東京行きにもつきそう。貧乏神がかりんちゃんに取り憑きそうになると、ひきはがそうとする。地獄までもつきあう。
 かりんちゃんの母親を地獄から連れ出して、追っ手である鬼たちから逃げるくだり。あんずちゃんは禁じられているはずのスクーターに乗り込み、かりんちゃん母娘を乗せて爆走する。


「どこまで行くの?」とかりんちゃんは訊く。*17

 あんずちゃんは叫ぶ。

「そりゃあ、世界の果てまで行くんだにゃ~」

 どこまでも連れだってくれる存在。

 それがあんずちゃんの定義だ。



 なにかを与えてくれるわけでもない、戦って勝ってくれるわけでもない、頼りにはまったくならない。ただ、いっしょにいてくれる。
 それはあんずちゃんが人間と異なる種だからこそ成り立つ距離感だ。これがヒトであれば、ほかの「おじさん」たち同様に、多かれ少なかれ人間社会の磁場にからめとられてしまう。


 ネコは自由だ。なにから自由なのか。人間社会の重力から自由なのだ。

 だからこそ、世界の果てまでも、かりんちゃんのそばにいられる。そのことばに真実味を持たせられる。ネコにしか頼めない仕事だ。*18
 ふたたび、パンフレットのインタビューを引こう。山下敦弘はこう述べている。

 終盤あんずちゃんが「ずっとかりんちゃんのそばにいるニャー」というんですよ。でも、それはなにかをしてくれるわけじゃない。ただ隣にいるだけ。それがあんずちゃんと人間の距離感なんです。



 それはまあ、けっきょくところの人間にとって都合のよい動物の搾取なのかもしれない。
 だが、フィクションで動物を描くとき、人間は搾取以外のなにができるっていうんです?
 ともあれ上の山下監督のインタビューに呼応することばが、文学者ドリス・レッシングのネコエッセイ『Particularly Cats』*19にある。今日はこれでしめくくることにしよう。

かれはしずかに私といっしょに座るのを好む。でも、それは私にとって簡単なことではない。書き物や庭の手入れや家事に追われていると、かれとゆっくり座っているひまなどなくなる。かれは子猫のころから、私に注意を要求する猫だった。本を読みながら義務的に撫でているだけでは、たちまちにそぞろな心を見抜かれてしまう。私がかれのことを考えなくなると、かれはそっぽをむいて去ってしまう。
かれと一緒に座りたいならば、私は自分自身をゆっくりと落ち着かさせ、いらだちや焦りを頭から追い払わねばならない。かれもまた、心身を落ち着いている必要がある。そうして私は、かれに、猫に、猫の本質に、かれの最高の部分に近づいていくのだ。人間と猫、私たちは私たちを隔てるものを超えていく。

――ドリス・レッシング『Particularly Cats』



 おつかれまんにゃー。


原作。

共同監督の久野遥子のまんが。傑作。

*1:リメイク版『蛇の道』、『ミッシング』のながれ

*2:現実の明治・大正期における高等遊民たちは、いまでいう高学歴就職難民的な、日露戦争後の社会問題としての側面があり、われわれが『それから』を読んでイメージするほど優雅な存在ではない。『近代日本の就職難物語』(吉川弘文館)参照。

*3:夏目漱石つながりでいえば、『吾輩は猫である』の元ネタといわれるホフマンの『牡猫ムルの人生観』がドイツ的なビルトゥングスロマンのパロディであることも思い出していいのかもしれない。ネコとは、アンチビルトゥングスロマン的な存在だ

*4:ちなみにおじさんが異性と恋に落ちる展開は映画版のオリジナル

*5:1958年に出たノベライズ版『ぼくの伯父さん』の訳者・秦早穂子の解説によると、ジャック・タチは機械中心主義的な近代に対するアンチテーゼとして本作を作りあげたという。

*6:そもそも「偶然」とはジャック・タチの映画から一番遠い言葉だ

*7:映画版では描かれないが、ノベライズ版では「伯父さん」は風邪をこじらせて死んでしまい、「伯父さん」がアトリエを構えて野良イヌたちが遊んでいた古い下町も開発にともなって失われていく。

*8:その変化は「おじさん」とユロ氏との質的な違いにも関係している。ユロ氏は保護者とまではいわないものの、「ぼく」にとっての守護天使的なポジションにいる。イヌはネコよりはやや保護者に近いポジションにいる、というわけだ

*9:もっと山下敦弘のフィルモグラフィを丹念に精査すれば、山下敦弘における「おじさん」たちの扱いについて一定の見解がえられるのだろうけれど、ここでやりすぎるようなトピックでもなく、今はその元気もない

*10:とはいえ、子ども向けフィクションにはよくあるシチュエーションではある。

*11:この職業がかつて盲者、すなわち被差別層の仕事だったことに留意しなければならない

*12:最初から疎外してくるくせに、ショバ代だけはきっちり徴収していく。そうしたシステムへの不信感は高等遊民的というより、原作者のいましろたかしが『釣れんボーイ』などで描いてきた肌感覚に発したものだろう。いましろ的な感覚とは個人的には「大人になりたいという願いはあるのに、自身の抱える(逃避的)衝動のせいでできない」といったジレンマであり、そうしたところを踏まえると彼が「あんずちゃん」お脚本の改変に不満を抱いたのも当然な気もするが、ここではいましろについては論じない。

*13:映画では犯人が出てくるが、原作では結局犯人の正体は不明のまま終わる

*14:そして終盤の展開を見ればわかるように、かれらもまた人間にとってが「役立たず」である。

*15:あんずちゃんは「友だち」に対してはかなり強めの責任感を持つ。よっちゃんに取り憑いた貧乏神との交渉を見よう。

*16:同級生の男子とは結婚の約束までする

*17:母親が訊いてた気もする

*18:ここで、ダナ・ハラウェイ的な伴侶種概念を持ち出すこともできるけれど、あるいはあんずちゃんが「おれ、死なないから、化け猫だから」と言ったことに注目して、むりやり『マルクスの亡霊たち』を結びつけてもいい気がするけれど

*19:邦訳は『なんといったって猫』晶文社


幽霊たちの隠れ場所:『Cloud』、『エイリアン:ロムルス』

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あいまいなの境界の無い

あわいにも揺らいでみる


しろねこ堂「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~

 

 

 

『君の色』を語ることの不可能について


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視ることを語るのであれば。

本来ならわれわれは『君の色』について語り、語り合いつづける義務を負っているわけですが、しかし、それは不可能なことであります。冒頭五分で映画自身で作品外で語られうることすべてを語り尽くしてしまったような映画に、いまさらなにをいえるというのか。公開から一ヶ月経つ今日においても、あの五分間を越える批評は提出されていませんし、これからも出ないでしょう。

それは評者の力量のせいではない。原理的にあり得ないのです。解釈によるあらゆる拡張を受け入れる傑作が存在するように、自らで決めた背丈を絶対に超えられない傑作も存在します。『君の色』とはそういう作品です。

 

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ある程度読める人であれば、その拡張不能性があきらかで、だからこそ京アニ事件という見えている爆弾を果実と勘違いしてもいでしまう。地雷でしかないのに。袋小路でしかないのに。

でも、わたしはかれらを恥知らずとは批難しません。むしろ、シンパシーをおぼえます。わたしもまた、そうした地雷を踏んででもあれを語りたくなる人間だからです。

そう、やはり、この2024年9月において視ることについていうのであれば、『君の色』を避けることはありえなかった。避けることこそが恥知らずと糾弾されるべき怯懦です。

だから、これは敗退の記録なのです。

わたしは今日も『君の色』については語りません。

 


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パソコンの画面とは魂をとらえる異界:『Cloud』

幽霊とはぼやけた世界に走る裂け目に現れるものであり、かつてはそこかしこに棲まっていました。映像機器の性能が悪かったせいです。写真技術の初期において、心霊写真とはぼやけた像のあわいに生じるものでした。*1

 

ゲームの夢、映画の魔――『IMMORTALITY』について - 名馬であれば馬のうち

 

ですが、いまや世界は鮮明になりつつある。

かつては10万画素程度の能力しかなかった携帯電話もいまや1000万画素にも達していて、あまりに隙間がせまくなったので、幽霊たちもすべりこめないようです。

幽霊たちの生存圏は日々、狭まりつつある。そんな絶滅危惧種をなんとか保護しようと奮迅している数少ない作家が、黒沢清です。*2

蛇の道』はブラウン管テレビとビデオ映像の不吉さをどこまでも追いもとめた映画でした。

リメイク版『蛇の道』でも彼はなおスクリーン越しの画面の不吉さを諦めませんでした。ラストシーンでは全身全霊をそそいでパソコン通話画面に幽霊を召喚しようとした。さらに中篇『Chime』では、幽霊の住処を玄関用のドアカメラに見出しました。涙ぐましい努力です。

 

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そして、『Cloud』。冒頭、つぶれかけた町工場からあやしげな健康器具を大量に仕入れた転売屋の菅田将暉がそれをフリマサイトに登録して売り捌くシーン。2023年にしてはおどろくほど粗い画面に並んだアイテムが、謎めいたフリマサイトの謎めいた挙動によって売り捌かれていく。それは取引であるけれども、売る方にも買う方にも人間はいない。菅田将暉が売り主では? とおもわれるかもしれませんが、しかし映画の画面上ではかれはただフリマサイトの映る画面を凝視し、ただ売れろと強く念じる存在でしかない。すべては自動的であり、魔術めいている。

黒沢清の興味が現代のインターネットをリアルに描くことではないとは各所で証言されているとおりではありますし、そんなもの読まなくても映画を観れば一発でわかるのですが、ではこの不気味さはなんなのか。

転売屋の菅田は事業拡大にあたり、アルバイトとして奥平大兼を雇いいれます。奥平は菅田の仕事に興味津々で、菅田のパソコンを覗き込んでいやがられます。ついには奥平は菅田の不在時にパソコンをいじり、それが菅田に露見します。菅田は「信頼関係が壊れた」と告げ、奥平をクビにします。

ここで注目すべきは奥平の菅田に対する執着ではなく、菅田がなぜそこまでパソコンに触れられるのをいやがるのか、ということです。

菅田にとってパソコンとは転売屋という彼のアイデンティティの源泉であり、インターネットとは人生における物事が動く唯一の場所です。かれはそこで無貌の幽霊として、人間のいない資本主義の現場に居合わせている。非常に希少な、サイバー資本主義で暮らせる幽霊。

かれはインターネットに取り憑かれているのではなく、かれがインターネットに取り憑いている。そうした意味において、菅田を襲撃しに来るひとびとはそれぞれ経路は違えど幽霊としての菅田将暉に取り憑かれて呪われたひとびとであるといえるでしょう。かれらは狂気の解消のために菅田将暉を襲うのではなく、呪いを祓うために菅田を滅しに来たのです。*3

スクリーンを一心に見つめるということで、スクリーンの向こう側の世界に同化する。それはあらゆる鑑賞という営みもおなじことで、わたしたちを映画を、インターネットを真剣に見つめることで幽霊になれる。*4

あるいは、もう、なっているのかもしれない。

 

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リアルタイム・ファウンドフッテージレトロフューチャーSFホラー:『エイリアン・ロムルス

 

廃墟と化したデトロイトを舞台にどんづまりの若者たちが盗みに手を出し、とんでもない"モンスター"に逆襲されるデビュー作『ドント・ブリーズ』とおなじ手つきでもって、フェデ・アルバレスは廃棄された宇宙ステーションを舞台にどんづまりの若者たちが盗みに手を出してエイリアンに襲われる『エイリアン:ロムルス』を撮りました。

少年時代に『エイリアン2』を観てそのホラー性に魅了され、「ホラー版スターウォーズ」としてシリーズを受容してきた*5アルバレスは、なるほどホラーとして『ロムルス』を撮っている。しかし、やや特異なのは物語前半部分では主人公たるケイリー・スピーニーはステーションにドッキングした宇宙船のなかで、モニターを通してステーション内部に潜入した仲間たちを見守っているところ。

この中継のスクリーンが妙に粗い。全体的にこの世界では一部のテクノロジーが1980年代から止まったようで、映像機器の画面はブラウン管のままで、コンピュータはDOSプロンプトで動きます。登場人物のひとりが遊んでいる携帯ゲーム機はワイヤーフレームで描画されており、機械類はやたらごつごつしている。

そうしたレトロフューチャーのテイストは単なる趣味に留まらず、リアルタイム・ファウンドフッテージホラーとでと呼べるような、なんとも矛盾した名称の新ジャンルを成立させてもいます。

 

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スピーニーが船内で見つめる中継画面の、2000年代初頭の初期のファウンド・フッテージ・ホラーのような、あるいは心霊投稿ビデオのような解像度。美術家の原田裕規は論考「アンリアルな風景」のなかで、本来は自然さやリアルさを印象付けるために使われる3DCGをあえてその虚構性を強調する形で使う「レンダリング・ポルノ」という概念を紹介し、その特徴を「CGを「非現実のもの」だと思わせる(=自白する)」ことにあると述べました。

そうした意味において現実の鮮明さと一致しないブラウン管テレビ的な画面は、その粗さによって非現実性が強調されることで「この世のものではない」幽霊たちや不吉さが宿りやすいのかもしれません。

 


さて、スクリーンの向こうにいる仲間たちに異変が起こると、スピーニーも船内から出て、自分が見ていた画面の中の世界へと入り込んでいきます。ここから『ロムルス』という映画は「扉と開くことによる恐怖」というホラー映画の鉄板ともいえるモチーフを追求していくことになり*6、ここも『Cloud』と比較すると興味深いところですが、時間もありませんし、ここでは触れるのみにとどめておきましょう。

おもしろいのは画面を見ることをやめたスピーニーが画面の向こう側と格闘するようになるところです。彼女はあるキャラの映る画面に向かって発砲し、エイリアンとのラストバトルではヘルメットのバイザー越しに闘いを繰り広げます。

キャラクターはいつから画面の向こうの怪異を殴れるようになったのか、といえばこれも映像が明瞭になり、怪異の輪郭をはっきりさせてくれたおかげです。『ロムルス』という映画自体の流れもそのようにできています。

というのも、最初、ブラウン管のぼやけた画面を眺めているときはエイリアンの"予感"しか映らず、そのものは姿を現しません。スピーニーがブラウン管を撃ち抜くとき、画面に映るあるキャラの姿は機器の能力並にぼやけています。予感とは戦えないし、幽霊は撃ち殺せない。それが鮮明でないホラーの世界のルールです。

しかし、ラストバトルでヘルメット越しに襲いかかってくるエイリアンは確固たる明らかさでスピーニーと対峙します。このとき、はじめて画面の向こう側の存在を殺せるようになるわけです。

正体が明らかになると恐怖が霧消してしまう、とはホラーでよく言われるところです。*7つまり、恐怖を克服するには輪郭を定めればよい。暴力とは自他の境界を侵す行為でありますから、線をはっきりさせるのは大事です。形あるからこそ壊せる。それを認識したら、もはや恐怖ではなくなります。

 


このようにかつては幽霊を克服することは真剣に見るものの特権でありました。いまや、世界の鮮明さはからなずしも真剣さを要件とはしなくなり、幽霊たちは無差別に喪われつづけています。

まあしかし、そもそもフィクションのプロダクトにおいては天然物の幽霊など存在しません。ブラー、グリッチ、ノイズ。すべては人工的な技術であり、世界の表面に傷をつけ裂け目から幽霊たちを呼び出そうとする意志です。事故を模倣することでしか事故を語れない。倒錯ですね。儀式ですね。あらゆるフィクションがそうであるように。

 

もう時間がありません。今日はここまでです。またいずれ。

 

f:id:Monomane:20241001211515j:image

 

 

 

 

 

 

*1:「心霊写真に映っている(と言われる)霊魂の顔は、いずれもボケた感じがしている。ボケとは何か。レンズの焦点距離から外れた像だ。これこそ、映像のキャメラで表現出来る霊の姿ではないか。」小中千昭『恐怖の作法 ホラー映画の技術』

*2:「この「ぼんやりとした姿」といった幽霊像は、数年後、黒沢清監督が『回路』(2001) で全面的に導入し発展させた。ボケた幽霊の姿は動き、肉体有る人間と「芝居」をし、それを捉えるキャメラも移動していく。これだけのことをビデオで簡易にやるのは不可能であり、ましてやフィルムでは気の遠くなる様なプロセスが必要なのだが、CGIを用いた革新的な手段によってこの像を獲得した。」小中千昭『恐怖の作法 ホラー映画の技術』

*3:菅田をおびやかす存在がまずガラス窓をぶち壊して彼の日常に侵入してきたという点は重要です。彼を襲いに来た岡山天音がすりがらすの向こう側に映っていたことも。

*4:石井岳龍の『箱男』もまた映画のメタファーである映画でしたが…………

*5:https://remezcla.com/features/film/interview-fede-alvarez-talks-alien-romulus-more-spanish-than-english/

*6:「「なぜ開けるだけが出来ないんだ!」というあるキャラのセリフはこの作品のすべてを要約しています。開けることによって地獄へつながってしまうこと。エイリアンの身体すらその表現のうちに入ること。

*7:それをたとえば平山夢明は「人間は見えているものより見えないもの、すなわち、恐怖よりも不安に畏怖の念をおぼえる」(『恐怖の構造』)と表現した

元気で大きいペンギンの赤ちゃん:メルボルン探訪記

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メルボルンにも、生命はあるでしょうよ」
 一同は大きく眼をみはった。
「どんな生命が?」と、ピーターは訊いた。


  ーーネヴィル・シュート、木下秀夫・訳『渚にて



 指令はいつも十五桁の英数字で届く。そのコードをsteamのコード有効化ページに打ち込み、リディームする。あがないredeem。それは原義的には罪を償還し、赦しredemptionを得る行為を指していた。





 そのゲームをまともに購入しようとすると、50万2634ドルかかる。だが、コードをリディームすれば無料。贖罪とはそういうものだ。何事にも裏口はあり、恩寵は平等ではない。それが幸福な恩寵であるとして、だけれど。神からの愛はいつだってふたつの意味で致命的だ。

 償還が済み、降臨ダウンロードし、再生プレイされる。ポップしたウィンドウには、典型的なというかサンプルから一切いじってなさそうなRPGツクール製のスタート画面が現れる。

〈ニューゲーム〉〈コンティニュー〉〈オプション〉。

〈ニューゲーム〉を選ぶと画面が暗転し、黒背景に画像が表示される。ペンギンの写真だ。幼鳥のようで、茶色い体毛に包まれている。飛べもしないのに羽ばたこうとしている姿を見て、傍らの飼育員らしき女性が微笑んでいる。その背後には何羽かのおとなのペンギンたち。


https://media.cnn.com/api/v1/images/stellar/prod/pesto-gender-reveal-with-michaela-smale.jpg?c=16x9&q=h_653,w_1160,c_fill/f_webp


 異常な点がひとつだけある。
 赤ちゃんペンギンのサイズだ。デカい。背後のおとなペンギンたちと同等かそれ以上くらいの背丈に見える。錯覚だろうか。遠近法のあやだろうか。それともペンギンの赤ちゃんとは、もともとこのようにおおきいのか。
 呆然とする。自失すらする。文字どおり、眼をうばわれてしまう。
 下部にメッセージボックスが出た。姿なき発話者が告げる。


メルボルンに行け。


*ペンギンの赤ちゃんをつれてこい。


*本物を手に入れろ。


 異論はない。指令はつねにわたしの欲望と一致する。


 しかし、メルボルンとは?


 メルボルンと聞いて連想できるものは、ただひとつしかない。ネヴィル・シュートの『渚にて』だ。そこでメルボルンは「世界で一番南方にある主要都市」と表現されていた。
 『渚にて』の世界では核戦争により北半球は壊滅し、残りの土地も放射能汚染によってじょじょに死につつある。メルボルンは天国あるいは地獄にもっとも近い街だった。「われわれが一番最後に近いわけです*1
 たしか映画版(1959年のモノクロ版ではなく2000年のオーストラリア版)も観たことがあって、伊達男が車で爆走して路上のビルボードにつっこんで自殺するシーンをおぼえている。あの映画のメルボルンはなんだかブライトンみたいなぼんやりした港町だった。あそこに行くのか。そう思いながら、本棚の『渚にて』を開くと、「メルボルンまでは列車で三十分ほど」と書いてある。

 宇治へ行くのとそう変わらない。みどりの窓口にいる駅員に訊くと、実際メルボルンは宇治の向こう隣にあるらしかった。赤道を越えるのがこんなにも手軽だったとは知らなかった。南の海がこんなにも近いなんてのも知らなかった。ひきこもって暮らしていると、地理感覚が破綻してしまう。まこともって恥じ入るばかりです。

(京都ステーション)


「ペンギンですか」

 唐突に駅員がそんなことをいうので、ハア? と呆けた声を出してしまう。

「あなたも、ペンギンですか」と駅員は繰りかえす。

 わたしはペンギンではありません、とまっとうに返すと、駅員はあきれたように首を振り、スマホを取り出して、例のペンギンの赤ちゃんの写真を見せる。ウェブに載った新聞記事だ。「大バズりですわ」

 曰く、いまやメルボルンに向かう客の大半はこの巨大赤ちゃんペンギン目当てらしい。メルボルンへこんなに大勢が殺到するのは、1851年のゴールドラッシュ以来だとか。

 駅員はわたしに切符とビザを渡しながら、こうぼやく。「別にわざわざメルボルンまで行かなくても、ここでこうして見られるのにね。おれはね、こうずっと窓口に座ってよそにはいかないけれど、世界のいろいろな驚異を見てきたよ。京都水族館のXXLサイズのオオサンショウウオ、三匹のヒグマが経営するティーハウス、フリードリヒ・ヴィルヘルムの黒い軍勢、ファタ・モルガーナ・ラネズの猛吹雪、月の裏側のひみつきち、ブエノスアイレスぐらぐら岩エドラ・ムーベディサ。いまや、てのひらにおさまるこの黒い窓からなんだって覗けるのに、どうしてわざわざ高価いカネを払って南の果てまで行くんだい?」

 そうだね、しかしたとえば、コナー・オー・ブリーンはこういった。

"みずから目にすることなくして、だれがペンギンを信じられようか!"*2


 三十分の旅程のあいだ、電車に揺られながら、巨大赤ちゃんペンギンについて調べる。
 生後十ヶ月。
 体重は二十二キログラム。親鳥の体重の二倍らしい。さらに一日に二十四キロの魚を食べる。
 身長は約九十センチメートル。これも親鳥より高いらしい。
 メルボルンの水族館で今年唯一孵化した雛であるらしい。
 名前はペスト。黒死病ではなく、パスタなどに用いるイタリアの調味料にちなむ。つまりはペースト。バジリコなどからできている、この緑色のペーストが茶色い赤ちゃんペンギンとどのようなつながりを持っているかはまったくもってさだかでない。
 TikTokでは、よちよち歩くペストにノリノリな音楽を乗せたり、水族館の職員がペストの後ろでへたくそなダンスを踊ったり、同時期に話題となったタイの動物園のコビトカバの赤ちゃんと怪獣映画風アニメで対決したりととにかくまあ大忙し。
 ペンギンの赤ん坊がデカいというだけで、そんなにもうれしくなるものだろうか? なる。わたしもメルボルンが近づくにつれてうきうきしてくる。こころがメルボルンになりつつある。眼もだいたいメルボルンだ。わたしのメルボルンのイメージは、もう大きなペンギンの赤ちゃんと一致している。これは倒錯でも顛倒でもない。事実として、世界はそのように、イメージのコラージュとしてできている。現代メディアのエコシステムは個人とイメージのあいだの空間を圧縮しつくした。わたしと赤ちゃんペンギンを隔てるものはなにもない。



 一枚の写真に、ぐっと引きこまれる。突然、そこに映しだされた情景に、自分自身が臨場する。肉体を欠いた視線となって。対象と自分を隔てる時間、隔てる空間は、ぺしゃんこに潰れ、ゆがみ、蒸発する。われわれにとって、世界は写真だ(とりあえず)。
 これを「世界写真」の仮説と呼ぼう。ぼくらは世界を写真の集積として体験している、ということだ。そのように「見て」いるのというのではなく、そのように「体験」している。…(中略)…人間に有機的に経験できる空間範囲は、限られている。人間はひとりでは、世界について、何も知らないに等しい。だがそれでもどこかに世界(という全体)が、たしかに自分とはある間隙によって隔てられたものとして、あると考えざるをえない。それは実在だが、実在として世界そのものに触れることはできない。バルトが「アメリカ」にそれを見たような、映像により構成された空間が、われわれの「世界」だ。
      ーー管啓次郎「映像的ウォークアバウト」



世界。あなたの網膜に取り憑き、たびたび呼び起こされ、しかし決して触れることのできない幽霊たちの集まり未満の集まり。それについて、それに向かって、それとともに語ることが、あるいは語らせることができないもの。つねにあなたからゼロの距離にあるもの。すなわち、世界。

 今はペンギンの赤ちゃん。

 そこになくてもすぐそこにあるのなら、わざわざメルボルンにまで行かずとも、視線をスマホの画面へ永遠に凝らせておけばよいのでは? とあなたはいうかもしれない。わたしもすこしはそうおもう。でもやはり、違う。
 見ることは信じることではない。信じるからこそ見るのだ。証すために見るのだ。「使徒トマスも、見ないうちは信じないと誓ったが、いよいよ見たときには、『わが主よ、わが神よ!』と言った。これは奇跡が彼を信じさせたのであろうか? おそらくそうではなかろう。彼はただ信じたいと望んだがために信じえたのであろう*3
 幼いころ、キリストの降誕劇で羊飼いの役をやったことがある。羊飼いにしろ東方の三博士にしろ、twitchを開いてナザレのヨセフのチャンネルで配信されている出産実況を観るだけに満足せずイエスとの対面お誕生日会に出向いたのは、当時の貧相なインターネット環境(UStreamくらいしかなかった時代だ)のせいではない。
 知識と経験を、信仰と現実を、みずからの知覚の範囲において一致させること。それが見るという行為だ。

みやこ路快速

 
 みやこ路快速で宇治の次、メルボルンで降りる。さむい。そりゃそうだ。阪急の南のほうは今は冬。気温は10度ほどで、凍えるというほどでないにしても、半袖で歩くと乾燥とのコンボで気管支をやられる。
 それにしても、あらゆるものがデカい。ビルは軒並み京都タワーなみに高く、ヒトはみなsattouの描く肖像画のようだ。きっかりと縦横に交わる通りは京都に似てなくもないが、右京区の感覚で「ちょっと一ブロック向こうに足を伸ばそうか」などと無策に出ていくと、ハーフマラソンの距離を歩かされるハメになる。ガリバーの旅したブロブディンナグ国とはここのことだろうか。

(巨人たちはあまりに無法なので道端に電車を突き刺したりする)

 うかつに歩くと小腹が空くけれど、ここでレストランに入るのも、やっぱりうかつな判断だ。料理の量は京都の五倍。値段は十倍。味は駄菓子のポテトフライを牛丼にしたようもので、たいへんに美味である。支払いのために財布から紙幣を取り出すと、店員から野蛮人を見る眼で見られる。労働者の権利のために闘争し続けて二百年、資本主義を超克したメルボルンではスマホやプラスチックのカードを示すだけで支払いが免除される。仕組みはよくわからないけれど、しちめんどうな交換や商取引の習慣から解放されるのはよいことだとおもう。

(中華街の店で出てくるつけあわせのスープはどれも日清のカップ麺のスープの味がする。うまい。)


  ペンギンのいる水族館は街の南に位置しているという。下っていく。遠い。水族館が遠い。Instagramでワンタップの距離がどこまでも遠い。
 大通りは中華料理屋、アメリカンなバーガーショップ、地元発っぽいドーナツ屋、日本風オタクショップ、プリクラハウス、ベトナム料理屋、カンボジア料理屋、博物館、台湾とベトナムを合体させたような趣味のワッフル屋、本場イタリアの味を謳うジェラート屋、一風堂、『美女と野獣』が上演されている劇場などなどが整然かつ雑多に建ちならぶ。ありとあらゆる文化がここに混淆している。なるほど、「一番最後に近い街」にふさわしいありさまかもしれない。こうして、スヴァールバルの世界種子貯蔵庫のように世界中の文化を保存しておけば、世界が滅びかけたさいにはここが復興の拠点となるだろう。
 ひとびともナイスだ。店のひとたちはみな必ず「今日は良い日ですか?」と訊いてくる。
「良い日です」とわたしはかならず返す。

「なぜ?」

「ペンギンを見るから」

 ああ、とカフェの店員は苦笑気味にうなずき、イングリッシュ・ブレックファストのカップをわたしつつ、こちらに背後を見るようにうながす。
 ふりかえると、店の外に人間の行列ができている。通りの南方へずうっとつづいている。

「あなたのお仲間ですよ」と店員はいう。「あの赤ちゃんペンギンがバズってから、ずっとあんなですね」

 メルボルンでひとが行列をなす施設はふたつしかない、とその店員はいう。ひとつは博多ラーメン屋。もうひとつは Lune というクロワッサン屋。

「ここはクロワッサンとコーヒーの国ですから」

 わたしはお茶とベーグルの人間であり、ラーメンはあまり好まないのだけれど、そういうことを口にしないだけの社交性はあった。代わりに「宇治にもいいパン屋がありますよ。たま木亭という。わたしは行ったことがないのだけれど。宇治ですから」
「宇治ですからねえ」と店員はうなずく。「あの行列もときどき、最後列が宇治に達します。並ばないんですか」


 並ぶ。

(平日の朝から長蛇の列)


 待っているあいだに入場チケットを手に入れる。
 水族館では、受付で現金を支払うなどという甘ったれた資本主義はゆるされない。入場できるかどうかは魂の清らかさにかかっている。ウェブサイトで入場したい時間帯(三十分刻み)を指定し、あとはVISAとかAMEXとか呼ばれる謎の札、おそらくは免罪符の子孫かなにかだとおもわれるカードに祈る。十分な数の天使がわたしのカードの上にとまっておりますように、と。
 水族館の入場口にはアメリカの入国審査官のような鋭い目つきの女(ジェシー・プレモンスによく似ていた)が座っていて、いわれるがままにパスポートを渡すと、ねぶるようにわたしの顔とパスポートの写真を見比べ、「英語で答えろ。できるな? できるだろ。どこの出身だ?」と問い詰める。キョート、と英語でも日本語でもどちらもでいいような単語を答えると、なにが気に入らないのか、あからさまな舌打ちをする。

「目的は?」

 ペンギンを連れだしに来た、とは口が裂けてもいえない。

「観光」

「ペンギンか?」

「はあ」

「ペンギンなら」と女は出入り口の付近を指さす。やせぎすのキングペンギンがよたよたと外に出ようとしていた。「あそこにもいる」
「あれじゃなくて」とわたしはいう。

「ペンギンはペンギンだろ」  

 わたしの欲しいペンギンは、赤ちゃんでなくなっていく赤ちゃんペンギンだ。あと一、二ヶ月で茶色い体毛が抜け落ち、体重が減り、まだ巨大ではあるだろうけれど、他のおとなペンギンたちとたいして差異がなくなっていく、その前段階にいるペンギンだ。今この瞬間にしか収穫できない、新鮮で無垢なミームの権化だ。いったでしょう? 世界そのものだって。 などとは、結局いわなかったけれど、審査官は入場許可のハンコを捺してくれた。

「みんなあのペンギンめあてで来るよ」と彼女はいう。「この水族館に来る客、全員だ。この水族館はイコールあの巨大な赤ちゃんペンギンで、あの巨大な赤ちゃんペンギンがこの水族館。いや、水族館だけじゃない。メルボルン来るヤツみんな赤ちゃんペンギンモクだ」


 ふりかえって列を構成している面々をながめると、なるほど、みやこ路快速の車内で見かけたような顔ばかりだ。ちなみに先ほどのペンギンはだれの注目もこうむらないまま出入り口を抜け、脱走に成功しつつあった。

「このメルボルンがかぎりなく巨大赤ちゃんペンギンと等しいのなら」と彼女はいう。「あの赤ちゃんペンギンが赤ちゃんじゃなくなったとき、どうなるんだろうね」

 悲観することはありませんよ、とわたしはパスポートを受けとりながらやさしくいう。メルボルンには他に見るべきものがたくさんあります。

「たとえば?」と彼女はするどく返す。

 わたしは返答に窮してしまう。いや、あるはずなのだ。ガイドブックを読めば、Googleで検索すれば、だれかに訊けば。しかし、今この瞬間、わたしのなかのメルボルンにいるのは巨大なペンギンの赤ちゃんだけだ。おまえは中華料理屋に行きたいか? いいえ。アメリカンなバーガーショップには? べつに。地元発っぽいドーナツ屋は? ミスドで十分だし……。日本風オタクショップ? 京都には美しい四季とオタクショップがある。
 じゃあ、プリクラハウスは? ベトナム料理屋は? カンボジア料理屋は? 博物館は? 台湾とベトナムを合体させたような趣味のワッフル屋は? 本場イタリアの味を謳うジェラート屋は? 一風堂は? 『美女と野獣』は?


 いらない。それらはメルボルンではない。わたしの想像したメルボルンでは断じてない。巨大な赤ちゃんペンギン以外は、メルボルンではない。

 何秒、何分経っただろうか。わたしは口を半開きにしたままポカンと阿呆のように、実際阿呆以外なにものでもなかったのだけれど、立ち尽くしていた。


 審査官はつまらなそうにしばらくこちらを眺めていたが、きゅうに弾けたように笑いだした。

 なにがおかしいのか。まったくわからない。

 困惑していると、彼女はカウンターの上に登り、入場審査待ちの列をつくっているひとびとに呼びかけた。


「みなさん、どうぞご自由に入場してください! 当水族館はたったいまから、だれでも、望むがままに出入りできるようになりました! しちめんどうな審査は撤廃です! おめでとう」

 それを聞いた客たちが、わっ、と歓声をあげて押しよせ、通過ゲートへと殺到していく。ほかの係員たちが押しとどめようとするが、すでに遅い。人のうなりは怒濤となり、わたしもまた押し流されていく。

 業務を抛擲した彼女はカウンターであぐらをかき、たからかに歌っていた。



 このいやはての集いの場所に
  われら ともどもに手探りつ
  言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう
 
 かくて世の終り来ぬ
  かくて世の終り来ぬ
  かくて世の終り来ぬ
 地軸崩れる轟きもなく ただひそやかに*4



 列待ちのあいだに公式サイトで調べた情報によると、水族館は十五のエリアに分かれていて、ペンギンは最後のエリアに展示されている。移動は不可逆であり、一度別のエリアに進めば、もう二度と前のエリアの魚には再会できない。クラゲとか。ムツゴロウとか。タスマニアキングクラブとか。
 そんなものには、だれひとり、目もくれない。

無人水族館)


 解き放たれた人の波は最初の十四のエリアを三分ですっ飛ばし、万物をひとつの建物で把握しようとする十九世紀の博物学的欲望を彼方へと葬り、十五番目のエリアに到達する。いなや、みなスマホを取りだす。茶色いふわふわの大きな赤ちゃんを探す。透明なケージのなかのキングペンギン二十羽はいずれもおとなだ。違う。赤ちゃんは。どこだ? どこだ?

 いた。


 ペストだ。岩場の向こう。顔だけが覗いている。世のすべてを拗ねたような、つめたい目。その視線をあびたい一心で、数千いや数万の客たちは子育て期の南極のペンギンたちのようにエリアにひしめいている。
 歓声があがる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」わたしも連呼に加わる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」見知らぬ膨大な他者たちと視線や声を一にすると、独特の高揚が生じる。まるで2000年代後期みたいな気分だ。
 茶色いふわふわの頭がのっそりと動きだす。歓声がなおも高まる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」わたしも……いや、もう〈わたし〉などはいない。〈わたしたち〉だ。
 わたしたちは高さ五メートルはあろうかという水槽用強化ガラスに群がり、張りつき、すこしでもペストに肉迫しようとする。いっぽうペストは悠揚と岩場をいきつもどりつしながら、こちらをみやったりみやらなかったりする。彼からの視線を欲望して、同期していたはずのわたしたちも分裂する。「こっちを向いて!」「いやこっちだ!」「いやこっちを!」心が数万ある。だがいまだに一つだ。

 十分ほどやいのやいの騒いでいると、ようやくペストが岩場から降り始める。わたしたちの興奮と歓声がいっそう高まる。よちよちとあぶなかっしく歩行するさまはやはり赤ちゃんで、そばにはいつも寄り添うように二匹のペンギンがついてまわる。親だろう。親であるはずだ。親であるに決まっている。
 わたしたちは一人残らず聖なる親子に涙する。一つのユニットとしてのある家族への視線を共有する信仰が生じつつある。わたしたちは羊飼いだ、メルキオールだ、バルタザールだ、カスパールだ。いかなる現実も美しく粧い、世界を摩耗させていく写真の使徒だ。

 ペストがわたしたちのもとまで降り立つ。





 クチバシをあげ、あのふきげんそうな眼でわたしたちひとりひとりをねめる。たまらない。この眼を前にして、なにかやるべき使命があった気がするけれど、もはやそんなことはどうでもいい。なぜなら天国にいるのですから。
 わたしたちはペストの眼の前のガラスにはりつく。上から下から横から。遮られた視線もリレーされ、わたしたちはひとつの塊となってペストを見つめる。だれもが至福だった。平和だった。満たされていた。



 みしり、とおおきな音がした。

 そこからは早い。崩壊はいつも一瞬だ。
 五十センチ厚の水槽用アクリルガラスがわたしたちの重さと熱に耐えきれず、砕け散る。視線をこちら側とあちら側で分けていた境がなくなる。
 ペンギンたちがけたたましく鳴きながら脱走をはじめ、わたしたちと交錯する。わたしたちをひとつにしていた意志は注意とともに霧消してしまい、単位としてのわたしはわたし自身へと返還される。自我を取り戻していったのは他の人もおなじなようで、個々の生存本能を働かせて、みな、この混沌に対して絶叫と暴力をもって対処しようとしている。混乱が加速しつつある。その隙間をぬって、ペンギンたちが駆けていく。驚くほど迅速に。
 熱狂が撹拌されて覚めてひいていき、ふと意識の間隙にこんな考えがすべりこむ。
 これが終わりのはじまり
 そうおもいながらなんとなしに視線を横にすべらせて。
 
 眼があった。

 ペストと。赤ちゃんペンギンと。あの不機嫌な眼と。

 ほかのおとなペンギンたちとは違い、じっと立ち尽くしたまま、こちらを見つめている。


*本物を手に入れろ。


 とっさに彼を抱きかかえ、走りだした。
 渚まで。


渚にて

 摂氏十度である。

 十月のメルボルンの海岸で、泳ごうなどと考えるやつはまずいない。

 なとど勝手に決めつけていたら、海面がぬわりともりあがり、水着姿の大柄な中年女性が這い上がってきた。そして、たまたまそこにいたわたしに「今日は良い日?」と訊く。

 世界は複数の驚異にあふれている。

 さしあたって手近な世界がわたしの傍らにいて、ペストだ。巨大な赤ちゃんペンギンは広大な海と砂浜にたたずむと、なんだかそこそこ大きいくらいで、さして世界に見合うサイズではない気がする。大きさなど、ペスト自身は気にもかけていないのだろうけれど。
 




 しばらく、ペンギンと一緒に滅びから遠い海をながめる。日が暮れかけたあたりで、だれかに肩を叩かれた。
 見やると、シベリアンハスキーをつれた男がいる。タンクトップに短いパンツをはいた、心身ともに非常に健康そうな人物だった。シベリアンハスキーも劣らず精悍な顔つきだ。


「このビーチはイヌは禁止ですよ」とわたしはいう。

 
「ペンギンは」とイヌが問う。「どこですか」


 わたしはペストを見る。あいかわらず、茫洋と波を見つめつづけている。潮風に吹かれて、茶色い毛がところどころ抜けかかっている。おとなになる準備をしているようだった。




 すこし迷ってから、イヌにこう告げた。



わたしがペンギンです*5




*1:木下秀夫・訳『渚にて

*2:上田一生『ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ 増補新版』

*3:フョードル・ドストエフスキー米川正夫・訳『カラマーゾフの兄弟

*4:T・S・エリオット

*5:アンドレイ・クルコフ沼野恭子『ペンギンの憂鬱』

どうしてドナルド・トランプはわたしをファックしないのか:大統領選下シアトル滞在記

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 長いよ。今回は。


 アメリカを訪れるたびにわたしは、本当の「アメリカ」はマンハッタンやシカゴの街路にも中西部の農場町にもなく、ハリウッドランドスケープやメディアの景観によって創り出された幻想のアメリカのなかにこそあると、よく感じる。

 ーーJ・G・バラード、南山宏訳『ハロー、アメリカ』1994年版序文より



 そして、読みとおしたとしても、あなたが今の情勢についてなにか気の利いたことをいう助けにはならない。

狂気とは一体何なのだろう? そもそもいろいろな意味で、狂っていない人なんているのだろうか? パッと見てわからなくても、みんなおかしな勘違いをしていたり、どこかしら狂っている。まあ俺以外はね。
  ーーリン・ディン、小澤身和子訳『アメリカ死にかけ物語』



 そうね、だから⋯⋯はじめましょう。

11月5日午前9時 ベルビュー





 エリオット・ベイに蒸気船で上陸して数日が経った。ホテルのテレビはCNNもFOXもMSNBCもABCもNETFLIXYoutubeも平等に映す。なにかについて話しているようだけれど、なんなのか、まるでわからない。外に出る。徒歩三分で芝生の広がる公園へたどりつく。みなランニングしているか、デカいイヌを連れているか、デカいイヌといっしょにランニングしている。ほんとうに、この三パターンしかない。信じてくれ。
 遊具には子どもたちが群がり、人工の川ではカモたちがぐわぐわと遊び、高級というよりは小綺麗という意味で身なりの良い親たちがおだやかに談笑している。実に心地よい。実に正気だ。青空の州(ブルー・ステイト)ワシントン。シアトル近郊のベルビューは、その日も平穏だった。




 わたしは公園のベンチに座って朝食をとっていた。コーヒーチェーンで買ったクロワッサン・アマンドとロンドンフォグ、そしてメイシーズの洒落た店舗で買ったタロイモウベ味のココナッツプリン。計32ドル。約5000円。はっきりいって5000円の味じゃない。クロワッサン・アマンドは、烏丸の文博横のPAULで買ったほうが断然うまいし安い。ロンドンフォグは歯を溶かすほどに甘く、ココナッツプリンにいたっては、なんというか、ココナッツプリンだ。




 哲学者の三浦哲哉は『LAフードダイアリー』で訪米当初アメリカの食べ物に期待していた要素として伝統から断絶した「不自然さ」と人工的な「実験性」を挙げていたけれど、このクロワッサンとココナッツプリンにはそのどちらもなくて、ただ自然で保守的な、味わいのなさだけがある。*1

 でも、高価いとはおもわない。実際に日常的に買えるかどうかは別にして、この街ではおそらくだれもがこれを妥当な値付けとおもっているのだろう。食べ物の値段に反映されるのは原材料費と人件費だけとはかぎらない。安全、安心、健康、正気、この街をたいらかに保つあらゆる魔法の値段も含まれている。

かもかもかもかもかもかもかもかもリバー


 しばらくぼんやりイヌやカモを眺めたのち、西側から吹く潮風にさそわれて、散歩へ出かける。すぐ背の高い街路樹に抱かれた瀟洒な住宅街に入る。どの家もデカい。そして造りがいい。わたしは京都市水族館の水槽のなかにしか住んだことがないので高級な家というのがどういうものかわからない(わたしみたいなものが京都の東山に侵入しようとすると棒でつつかれて追い出される)けれど、まあ、なんか高価な家なんだとおもう。どれもひらべったい。敷地がじゅうぶんに広くて、屋を重ねる必要がないのだ。
 これまで見た住宅街のなかでも、もっとも美しい景観だ。ベルビュー(「美しい眺め」)という地名に恥じない。実際ここはアメリカでも四番目に住宅価格の高価い一帯として知られている。名だたるテック系の大企業が本社を置く街としても知られる。
 空気もいい。アメリカの街としてはびっくりするくらい車が通っておらず、植物も多いので酸素が濃くすずやかだ。湿っぽすぎず、乾きすぎてもいない。「呼吸ができる」というのは、こういう場所でこそいうのだろう。開放感もすごい。ここに比べたら、東京は海の底にひとしい。わたしなんか、潰れてしまうよ。

 そして、もちろん、みなイヌを連れている。デカいイヌを。林立するビル群のふもとに広がる芝生のうえや、整然とした石畳の歩道で、イヌたちをのびのび遊ばせている。道端にはイヌ用のエチケット袋を無料で配布するポストが建てられていて、街そのものがイヌを飼うことを奨励しているようだった。




 イヌの街、とでも呼ぶべき場所があるのだとおもう。イヌは、特にデカいイヌは、地域の治安のよさと住環境のよさを表す。幸福度の指標にもなる。リードにつながれた善いイヌたちが暮らす地上の楽園。それがここだ。こういうのが「イヌを飼う」ということであるなら、狭苦しい日本の都市部でイヌを飼うのはもれなく虐待なのかもしれないとすらおもわされる。


無限にイヌが遊べる空間がある



 この安寧はなんだろう。外国に行くと、いつも「ここは日本じゃないな」と感じるはずなのに。ひとびとが異国語をしゃべっているからではない。通貨や食べ物が違うからでもない。安全を実感できないからだ。治安の話じゃない。治安はもちろん含まれるが、そういうことじゃない。「自分の日常的にいる場所」ではない、という感覚だ。たとえ車に轢かれようと、近くの弁当屋がにぎりめしの代わりに大麻を売っていようと、闇バイトで雇われた若者が強盗に押し入ろうと、自分にとっての「ふつう」であるかぎりは、自分が排除される異物でないと確信できるかぎりはそれは安心と安全の境地へとむすびつく。その感覚は、外務省の危険安全レベルにはあらわれない。というか、なんなら東京ですら「日本じゃない」。あんなに自分が異物でしかない街もない。

 ところがベルビューはなんというか、日本だ。日本にこんな整った住宅地はおそらく存在しないけれど、日本だ。言語も気候も違うけれど、日本だ。こんな場所で育った記憶は一切ないけれど、曇りなく穏やかに過ごせる。それは自分とベルビューがおなじだからではない。自分は攻撃されたりや排除されたりしないだろうという絶対的な確信が持てるからだ。




 根拠はない。でも、そう感じる。だれもが銃を持っている可能性のあるこの国で「そう感じ」られるのは、とてつもないことだ。
 歩きつづけて、ワシントン湖沿いの別の公園にたどり着く。ここもまた良い公園だ。真新しい遊具が設置してあり(ベルビューの公園はどこでもたっぷりと小綺麗な遊具がある)、歩道も歩きやすく均されている。当然のように景色もよい。この街には雑で見苦しいところはひとつもないのか?

海沿いの公園



 公園の歩道をさらに行くと、だんだん傾斜がかっていき、やがて山道めいた坂の入口にさしかかる。鬱蒼とした木々がそれまでのほがらかな陽光を遮り、やや異質な薄闇でみずからの内を閉ざしている。




 どうしよう⋯⋯と迷っていると、魚が話しかけてきた。そう、魚、いまにも死にそうな、陸の魚だよ。その魚はゼエゼエと喘鳴しながら、かすれた声で、いう。

「つれてってくれ」

 どこに?

 墓に。

「あの方はもう一度アメリカを偉大な国にしたがっておられます」
「それはきみもじゃね、ウェイン。わしもそうじゃ。もっとも、最終目標についてはだれの意見も一致しているが、手段についてはもっと議論を重ねる余地がある……いや、それをいうなら、いったい、"アメリカ”という言葉が厳密には何を意味するのか、じゃ。これは情緒的なシンボルでな、ウェイン、一九八〇年、九〇年代に流行遅れになって、だれにもアピールしなくなったもので……」
  ーーJ・G・バラード、南山宏訳『ハロー、アメリカ』


11月5日午後1時 シアトル・キャピトルヒル地区





 もちろん、ここにもイヌはそこいらじゅうにいる。
 魚を脇に抱えてUberを降りると、赤いジャケットにバッヂをジャラジャラつけた髣髪髭面の男性に呼び止められる。
「気をつけたほうがいい」
 気をつける?
「この街は変わっちまったよ。いつもは善き隣人たちの街なんだ。今日は違う。気をつけなよ」
 男はそう警告を発して、乱杭歯を剥いてニッと笑い、ひたすら困惑するわたしたちを残して去っていく。

 信じてくれ。


 ほんとうに、そんな男と会ったんだ。


 わたしたちは警戒しながらキャピトルヒルを歩いた。この街のカラーを知るのにさして時間は要さない。五十メートルごとに虹色と遭遇する。レインボーフラッグをかかげた店、レインボーカラーに塗られた横断歩道、レインボーカラーのユニコーン⋯⋯。真っ黒な服装に身を包んだ、どう見ても中高生ぐらいの子どもたちが、やはり真っ黒な小さなライブハウスの前で列をつくっていた。その斜向かいにはポップアート志向のサブカルファッション・グッズショップがあった。アートと若者の街にありがちなヒリツイた空気はあるものの*2、髭バッヂ男の警告に反して、身の危険らしい危険は感じられない。

キャピトルヒルのジミー・ヘンドリクス像



 シアトルはグランジの発祥の地だという。マーク・フィッシャーによると、カート・コバーンは資本主義リアリズムの絶望をもっとも能く体現したミュージシャンなのだそうだ。ジェイムソンのいうところの『もはやスタイルの革新が不可能で、想像の博物館の中で死んだスタイルを模倣することしかできない世界』の中に自分がいることを見出し、反抗することそれ自体が産業にあらかじめ取り込まれた見世物だと了解しながらも、それが耐え難いほどに陳腐だと知りながらも、反抗の態度を貫かざるを得なかった男。
既に確立された『オルタナティブ』や『インディペンデント』という文化圏を見てみよう。そこでは、まるで初めてであるかのように、古い反抗や異議申し立ての身振りが延々と繰り返されている。『オルタナティブ』や『インディペンデント』は、主流文化の外側にあるものを指し示すのではない。むしろ、それらは主流の中でのスタイル、実際には支配的な様式なのである。」( Mark Fisher," Capitalist Realism: Is There No Alternative?")
 わたしたちは『インディペンデント』や『オルタナティブ』だったものが主流文化に取り込まれているさまを実際に目の当たりにすることができる。「想像の博物館」などではなく、現実の博物館で。シアトルには〈ポップカルチャー博物館〉という音楽・映画・ゲームなどのサブカルチャーを扱った施設*3があり、そこではニルヴァーナを特集した展示も設けられている*4。かれらの愛用した楽器、レコードのジャケット、ポートレイト、ライブのフライヤー、そして生涯がガラスケースの向こうで陳列され、かつて蔑まれていた文化に正統性を与えている。尊いことだ。入場料は30ドルほど。ウェブサイトから予約する場合は曜日とタイミングによって価格が変動するらしい。株価のように。

ポップカルチャー博物館



 ちなみにこのポップカルチャー博物館でのニルヴァーナの展示は、つい最近、ある物議をかもしたカート・コバーンについての解説板に「彼は27歳で"un-alived himself"した」と書いたのだ。
 un-alive とはインターネットのスラングで「自殺」を指す。
 2020年以降、コロナ禍で病みやすくなったユーザーの精神を救うために、プラットフォームの側が検索において特定のネガティブな単語を検閲するようになった。「自殺」もそのひとつだったのだけれど、まあしかし、インターネットで自殺について語らないなんて不可能だ。ユーザーは禁止された単語を別にワードに置き換えるようになった。それが、un-live 。
 こうしたネットにおける検閲逃れのテクニックを英語圏では、アルゴリズムによるフィルタリングに適応した言語という意味でアルゴスピーク(Algospeak)と呼ぶ。そうしたものをポップカルチャー博物館のキュレーターは「メンタルヘルスとの闘争のために悲しくも命を落とした人々への敬意のしるしとして」使ったらしい。奇妙ではあるが、文脈としては通らなくもない。
 ところが、一部のひとびとがその言い換えに反発した。かれらが引き合いに出したのはジョージ・オーウェルの『1984年』だった。『1984年』で描かれる管理ディストピア社会では、市民を馴致するためにアルゴスピークならぬニュースピークなる語法が幅を利かせている。要するに語彙をシンプルに変えていくことで市民の思考の幅を絞ろうとするのだけれど、そのうちのテクニックのひとつとして、接頭辞にun-をつけることで(主に政府批判に使えそうなネガティブな)反対語を大幅に削減するというものがあり、un-liveはそれを想起させる⋯⋯というのが博物館批判派の主張だ。

 結局、博物館側が折れて「died by suicide」という一般的な表現に修正されたらしい。
 皮肉な騒動だ。アルゴリズムによる統制に抗って生まれたアルゴスピークが博物館という権威に回収され、自殺という悲劇を無痛化するために用いられた。おそらく、キュレーターにはコバーンの死を消費したくない、という個人的な願いがあったのかもしれない。しかし、インターネット上での力なきひとびとの抵抗手段を博物館のキュレーターという立場から振るった結果、インターネット文化からのディストピア的悪夢めいた収奪と化してしまった。フィッシャーにいわせれば、これこそニルヴァーナ的な現象だろう。
 オルタナティブでありたい、自由でありたいと願うわたしたちの精神はすきあらば盗まれ、無害化され、取り込まれ、換金されていく。そこから逃れることはできない。

 I’m out for Presidents to represent me. (Say What?)
 I’m out for Presidents to represent me. (Say What?)
 I’m out for dead Presidents to represent me.

俺を代表してくれる大統領なんていない
 俺を代表してくれる大統領なんていない
 俺が求めている大統領は 札束に印刷された死んだ大統領だよ
 ーーNas、池城美菜子訳「The World is Yours」


11月5日午後3時 エリオット・ベイ・ブック・カンパニー


生まれながらにして土地の名を腹部に縫い込まれた哀しき獣



 魚があいかわらず墓場に行きたいとだだをこねるので、書店に入る。書店は墓場以外でもっとも墓場に近い場所だ。いまは亡い人間が死んだ紙に失われてしまったことばを綴るのが本であり、書店ではそうした墓碑を粛然と並べている。
 書店はエリオット・ベイ・ブック・カンパニーと名乗っていた。公式サイトにはこうある。
エリオット・ベイ・ブック・カンパニーは、キャピトル・ヒル地区の心臓部に位置する総合書店です。地域最高レベルの15万冊以上の新刊書コレクションに加え、大量の既刊本も取り揃えています。さらに、年間を通してすばらしい著者たちによる朗読会やイベントを実施しています。
1973年にウォルター・カー氏によって創業された当店は、パイオニア・スクエアのメイン・ストリート109番地にインディペンデント系書店として設立されました。その後、著者朗読会用のイベントスペースやシアトル初の書店併設カフェを加えながら、店舗の拡大と変遷を重ね、2010年にシアトルのダウンタウンに隣接するキャピトル・ヒル地区に移転しました。私たちは独自の書籍セレクション、杉材を用いたオリジナルの本棚、そして知識豊富なスタッフと共に移転し、これまでと変わらない温かい雰囲気、カスタマーサービス、品揃えを維持しています⋯⋯
 そして、「Thank you for supporting this woman and queer owned business.」という一文で締めくくられている。




 二階建ての、すばらしく雰囲気のいい本屋だ。質量ともに充実していつつも、インディペンデント系らしく店としての趣味や政治性*5を反映したセレクトも並ぶ。YA、絵本、マンガといった子どもたちのためのスペースも贅沢に取っていて、そういうのを見るだけでも豊かな心地になれる。
 誘われるようにSF&ファンタジーのコーナーに行くと、新刊棚にパオロ・バチガルピの新作『Navola』(内容はまだ知らない)やレヴ・グロスマンの『The Bright Sword』(内容はまだ知らない)、20世紀初頭の満州を舞台にしているらしいヤンシィー・チュウの『The Fox Wife』(やっぱり内容はまだ知らない)などが面陳されている。その裏に回ると、慣れ親しんだ、死んだ作家たちがたくさんいた。

 そのなかにJ・G・バラードの『ハロー、アメリカ』があった。
 コンラッドの『闇の奥』を下敷きにエネルギー枯渇と財政破綻と劇的な環境変動によって滅んだあとのアメリカ合衆国*6を舞台にしたSFだ。滅亡から一世紀ほど経ったところで、ヨーロッパに離散していたアメリカ人の子孫*7が蒸気船アポロ号に乗ってマンハッタン島へ上陸し、その船にこっそり潜んで「密航した21歳の青年(もっとも偉大な西部劇俳優と同じ名前の「ウェイン」)は、自分がこの国の新しい支配者、第45代大統領となることを夢見るが⋯⋯」*8。かつて合衆国を覆っていた資本主義と車とパラノイアが幻想的かつ鮮烈なイメージとして矢継ぎ早に展開されていく、いつもどおり美しくどうかしているバラード作品だ。「優れたアメリカ論フィクションは往々にしてアメリカ人以外の手で描かれる」という法則*9に、この本もまたのっとっている。
「第45代大統領?」
 と、魚は、ない首をかしげる
「今は第何代だっけ⋯⋯?」
『ハロー、アメリカ』が出版されたのは、1981年のことだ。古いSFの描く近未来は、わたしたちの生きる現在に追い越されることがある。それが昔はいやだった。今は、ちょっと、いいかもしれない。
 ググると一発で出る。1789年ジョージ・ワシントンから数えて45代目(58期目)のアメリカ合衆国大統領は、2017年に誕生した。見たことのある顔だった。ホテルのテレビが絶えずその顔を映していた。
『ハロー、アメリカ』に出てくる”もうひとりの第45代大統領”がどんな名を名乗っていたか。おもいだすべきではないのか。
 

レーガンの個性(パーソナリティ)。この大統領選候補者の深遠な肛門性は、将来において合衆国を支配すると予想されよう。⋯⋯(中略)⋯⋯サディズム傾向をもつ精神病質者たちにレーガンをともなう性的妄想を生みだすよう求める実験がさらにおこなわれて、大統領職にある人物たちはもっぱら生殖器の観点から認識されているという見込を裏づける結果となった。

 J・G・バラード法水金太郎訳「どうしてわたしはロナルド・レーガンをファックしたいのか」


11月5日午後5時 シアトル・ボランティアパーク


 



 書店で手に入れた『Nintendo Power』誌*10に載っていた地図をたよりに、墓へ向かう。シアトルのレイクビュー墓地には、ある偉大なスター俳優が葬られている。
 ブルース・リーだ。十八歳で香港からシアトルに渡った李小龍青年は六年のあいだ肉体*11と精神*12を磨き、それからカリフォルニアへ移ってジークンドーを創始した。ついでに映画スターにもなった。と、いうのが Wikipediaで語られるところのブルース・リーとシアトルの由縁で、しょうじきブルース・リー映画をロクに観たことのないわたしには、なぜ死んだカンフースターが魚にとってそこまで深甚な意味をもつのか、わからない。
 あらゆる死への道がそうであるように、墓場までの道のりもまた遠い。ANTIFAが集会を計画しているともボンクラどもがLARPを開こうとしているとも噂されているボランティアパークを横目に、やたら人間に対してイキりたっているリスのガンつけに怯えつつ、住宅街を過ぎていく。よくアメリカの映画なんかで見るかんじの「郊外の一軒家」然とした家が多い。適度な広さの芝生に、トム・ソーヤーがペンキ塗りをしていそうな塀に、年老いた南部人が安楽椅子を漕ぎながらライフルの手入れをしてそうなポーチ。ハロウィンのかざりつけが残っている家も多い。そして、もちろん、路上にはリードで人間と並走しているイヌたち。

激しく動いて人間を威嚇する、凶暴なリス



 ベルビューより手ごろかもだけど、だとしても生活費がべらぼうなんだろうなあ、などと世知辛いことを考えながら、坂をのぼっていく。夕方の風が冷たい。冬に近づきつつある。あるいは死に。
 住宅街を抜けると、また別の公園だ。なんかもう、シアトルの公園の多さと豊かさにはびっくりする。どこも歩くだけで心地よくて、たちまち土地に対する愛が芽生えてしまう。I ♡ Seatle。

「シアトルのつづりは、Seattle。tはふたつだ」
 と、魚がテンションの下がることをいう。
「それは先住民の酋長の名だった。彼は入植者たちと交渉しつつ、彼のひとびとを守る方策を探った。平和主義者と、いまならいえるだろう。でも、その姿勢が妥協と見られて、彼のひとびとから反発もされ、その一部が入植者と戦争を起こした。結局、彼のやさしさは報われなかった。あの悪名高いポイント・エリオット条約が結ばれ、彼のひとびとは先祖代々の土地を失い、アメリカ各地へと散らばった。平和とはなんだろうね、オオサンショウウオ? 交渉とは? ひととひととが交わることとは? 英語でtがひとつだから、ふたつだから、それが英語でないことばを話していたひとびとにとってなんなんだ?」

 魚は視点の定まらない眼を泳がせ、顎をパクパクさせながら、早口でそんなうわごとを口走る。息を吸い吐きするたびに、腹部の鱗に藍色の夕闇にきらめきの波を立たせる。いや、もう、夜だ。


 魚は死にかけている。


 どうしようかと、顔をあげると、視界に黒い穴がとびこんだ。よく見ると、表面がたゆたっている。貯水池だ。
 魚を池に放さねば、と焦るのだけれど、池の周囲に網と有刺鉄線が張り巡らされており、侵入できない。
 ふと、池のそばに目をやると、高い塔があった。あの塔の最上階から魚を池へ落とせば、有刺鉄線の壁を越えられる。これだ。わたしは塔に突撃した。

 



 これだ、ではなかった。
 死ぬほど死んだ。
 塔のなかは強敵だらけで、『ダークソウル』の城下不死街みたいになっており、いや城下不死街より適切なたとえが『ダークソウル』にはあるのかもしれないがわたしはそこより先に進めておらず、ともかくも永遠に出られない死地なのだった。
 篝火から篝火に移動しようとしては、休憩ごとに復活するスケルトン兵たちの襲撃に耐えきれず、もとの篝火へと撤退する。乾坤一擲で無理に突破をはかると、死ぬ。どうにもならない。
 途中の踊り場で出会った商人の話によれば、塔のなかは全三十の階層に区切られており、フロアごとにボスが配置されている。屋上にたどりつくには最低でも30くらいまでレベルをあげておかないときびしいらしく、それもまともなプレイスキルがあっての話だった。わたしの腕なら50でもちょっと苦しい。

 結局、塔の攻略は断念せざるを得なかった。わたしたちは塔を離れ、ふたたび墓地を目指した。寒風に逆らいつつ、ひいひいと坂をのぼる。魚は目に見えて衰弱していく。だんだんと、鱗の波が凪いでいく。
 開けた丘のような地点に出た。なにやら立派な博物館が建っている。ウィング・ルーク博物館だ。アジア系移民の歴史に特化した展示を行う博物館らしい。すこし惹かれたが、とうに十七時を過ぎて閉館している。




 その博物館の正面に展望台があった。ドーナツ型の謎のオブジェの向こうに、シアトル中心街の夜景が広がっている。きれいだね。疲れ果てた身体からはそんなシンプルなことばしか出ない。墓地はまだまだ遠いようだった。
 ほら、きれいだよ、とよく夜景が見えるようにと抱えていた魚を上に持ちあげる。反応が薄い。なにもいわない。

 魚をおろして、その呼吸をたしかめる。

 息が絶えていた。



 この土地では他人の同情心なんかをあてにしてはいけないのだ。カールはアメリカのことを本で読んでいたが、この点ではまったく正しかったわけだ。ここではただ幸福な人々だけが周囲の無関心な顔にはさまれながら、めいめいの幸福をほんとうに享楽しているように見えた。

 ーーフランツ・カフカ、中居正文・訳『アメリカ』



11月5日午後7時 シアトル・某所


出口。ほんとうに?



 死んだ魚を抱えて、Uberの運転手にてきとうなバーへ向かうように頼んだ。禿頭の運転手は自分のことをAmazonのCEOだと思い込んでいる狂人で、自分もこのあたりに住んでいるのだといった。
「このへんはいいところだよ。みな穏やかで、犯罪もない。隣人はみな親切だ」
 と、運転手はいう。
 わたしは昼間に遭遇した赤いジャケットの予言者からもらった警告について考えた。
 運転手は一方的に喋る。
「バーに行きたいのか? こんな日に? へんな人だね。まあ、いいんじゃないか。この街ではなにかが起こっても、なにも起こらない」
 バーは混んでいた。なにやらパーティのようなものが開かれているせいだった。色とりどりの風船が飛び、スーツを着た女性のパネルが設けられ、大きなプロジェクタ用スクリーンにMSNBCの特別ニュース番組が映し出されている。




 スクリーン前に群がったひとびとは、「Harris/Walz」と書かれた帽子やバッヂをつけ、談笑しながら光をながめていた。
 番組の画面が切り替わって、青背景をバックにパネルになっていた女性が映し出され、「ヴァージニアで勝った」と報じられる。バーの客たちから歓声があがる。直後、赤背景をバックに金髪の老人が映し出され、「サウスカロライナで勝った」と出る。ブーイングがあがる。
 なにをやっているのか、と訊ねる勇気はなかった。たぶん、スポーツ観戦かなにかだろう。あるいは、ビンゴ大会。

Dang Dang 混み合う



 わたしはバーの前に停まっていたフードトラックに死んだ魚を調理してくれるように頼んだ。すると、たいそう見栄えの良いフィッシュ&チップスをこしらえてくれる。フードトラックのシェフがこう訊ねる。
「友だちだったのかい?」
 わたしは答える。
「たぶんね」
 ほんとうは「そうだったらよかったね」といいたかったのだが、わたしは英語でどういえば起こり得なかった過去についての願望を表現できるのかわからない。

別のハンバーガー屋のテレビ



 バーのなかから歓声が響いた。また青い女性が勝ったらしい。
 チップスをつまみながらバーに戻ると、出入口横の空間にステージらしき台座がこしらえられていた。ギターやベースを持ったひとびとが音合わせをしている。マイクスタンドもできていた。ライブをやろうとしているらしい。でも、バーのひとたちの視線はスクリーンに注がれていて、だれもステージとバンドの出現に気づいていないようだった。

バーにも、イヌ。



 今度はブーイング。見ると、金髪の老人ではなく、壮年の別の男性が映っていた。テキサス州でSENATEというのを勝ち取ったらしい。ここでは赤ければ、みんな敵であるようだった。
 バンドが演奏をはじめた。ボーカルが三人フロントに立ち、耳慣れたなつかしいサウンドに乗せてラップをはじめる。Rapper's Delight であるようだけれど、わたしの知っている歌詞とは違う。どういう歌詞かわかればよかったのだけれど、フィッシュ&チップスをたらふく食べてお腹があったまり、ねむくなっていたわたしには、マイクを通して撹拌されバーの喧騒に融けていく声をうまく聴きとれない。まどろみのすきまを縫って、となりに座っていた客が別の客にこうこぼしているのが聞こえる。「なんて混沌だ。恥だよ。なんとも、恥ずかしい⋯⋯」




 そういえば、ベルビューのショッピングモールを散策しているときも、聴こえてくる音楽は絶妙にチージイで懐かしかった。トゥー・ドア・シネマ・クラブの「Undercover Martyn」、マルーン・ファイヴの「This Love」、ダニエル・パウターの「Bad Day」。”あのころ”のヒットナンバーばかり。やはり混沌としていたけれど、今よりはそうでなかった”あのころ”。ベルビューのメイシーズはそんな時代に留まっているかのようだった。なんたって、バーンズ&ノーブルとかいう大手書店チェーンが新規開業するモールなのだ。2024年なのに。本を、しかも紙の本を読む人間なんて地上のどこにも残っていないはずなのに。*13なのに⋯⋯なのに⋯⋯⋯⋯Zzzz....。

〜かわいイヌ〜



 さいきん観た映画でシアトルが舞台だったものはあっただろうか? あった。リチャード・リンクレイターの『バーナデット ママは行方不明』だ。シアトルの郊外に住む裕福な家庭の主婦であるバーナデット(ケイト・ブランシェットが演じている)が近所付き合いや子育てに疲れはてて壊れ、建築家というかつての夢に逃避して南極へと向かう物語。彼女の夫はマイクロソフト社員で、マイクロソフトの本社はもちろんシアトル近郊のレドモントンにある。「資本主義の何が問題かというというと、誰にも好まれないものを供給するということです。資本主義と選択の話をすれば、「マイクロソフト」、そのひとことにすべてが凝縮されています。誰もほしいとおもっていないのに、みんな持っていないとダメなものです。チェーン店も同じです。チェーン店の大ファンなんているのでしょうか? ほとんどいないとおもいますが、わたしたちはみなそこに行く羽目になるのです*14⋯⋯。
 幸福であるように見えることも「誰もほしいとおもっていないのに、みんな持っていないとダメなもの」のひとつだ。幸せな家庭を築き、それを近所に福々しく見せなければならない。そうした見た目の幸福はマイクロソフトAmazonスターバックスから配られる。ここシアトルから輸出される。みなそこに行く羽目になる。

 そういえば、昨日はスターバックスの一号店に行った。海辺のピアにある小さな店舗で、店内に飲食用のスペースはなく、半分はカウンター、もう半分はマーチャンダイズに割り振られていた。




「みんなここでしか手に入らない商品ですよ」と一号店の店員はほがらかにつげる。京都に帰ってからそれを■■■■に話すと、「京都のスターバックスでも京都限定のグッズが売られている」と教えてくれた。御当地ハローキティのように規格化された差異という、矛盾した商品がいともかんたんにわたしたちの現実に流通する。わたしたちはみなあらゆる場所へ行く羽目になる。
 一号店のコーヒーには一号店限定の豆が使われていた。飲むと、たしかにおいしい。でも、ふだんスターバックスに行かないわたしには、その味が他店とどう異なるのかわからない。

〜かわいイヌ〜



 椅子から転がり落ちかけたところで、目が覚める。よだれをふきふきあげた視線が、プロジェクタの画面に定まる。画面の両端からそれぞれ赤いバーと青いバーが表示されていて、赤いバーのほうが長い。来たときから、ずっとだ。
 客の数が減っていた。残ったひとたちもEXITと掲げられたサブの出入り口から帰りはじめている。みな、憮然とした表情だ。怒りや悲しみといった激烈さはなく、ただただ無表情になにかを諦めているようすだった。
 バンドはティアーズ・フォー・ティアーズの「Everybody Wants to Rule the World」を口ずさんでいる。本気か? 『Mr.Robot』じゃあるまいし。今年は『ネクスト・ゴール・ウィンズ』でも『怪盗グルー』の新作でも聴いた気がする。*15ウクライナでの戦争開始からこのかた、ずっと流れている曲な気がする。いや、2016年からだったか? それよりもっと前から? 「光の届かない部屋がある/壁が崩れ落ちる中で手を取り合って/その時が来たら、私はすぐ後ろにいる」⋯⋯。*16

 だれも歌を聴いてはいなかった。ステージの前は不自然なまでにきまずい空白ができていた。みなプロジェクタを凝視するか、帰路につくかしている。ひとりを除いて。
 



 赤いジャケットの髭バッヂ男だった。あの予言者がいた。

 バンドの演奏にただひとり反応し、踊り狂っている。

 ボーカルのひとりが「Recount!」と叫び、あたらしい曲がはじまる。

 ますます髭バッヂ男のダンスがはげしくなる。

 彼の存在に気づいた一部の客たちはなんともいえないかんじで彼をながめていた。

「あの男、おれは好きだな」とだれかがつぶやくのが聞こえた。




 信じてくれ。

 これはほんとうにあったことだ。
 
 11月5日に、わたしが目撃したすべてだ。

「それで、どこへ?」トムはさけんだ。「ぜんたい、どこへ行くつもりなんだ?」
「わからない」と彼はいった。「いや、そうだ。アメリカへ行くんだ!」
「いや、やめろ」トムは煩悶しながら、さけんだ。「行くな。お願いだから行かないでくれ。もう一度、よくよく考えてみてくれ。そんな向こう見ずなことはしないでくれ。アメリカへは、行かないでくれ」

 ーーチャールズ・ディケンズ『マーティン・チャズルウィット』


11月6日午前8時 ベルビュー





 朝の風景はおだやかだった。なにひとつ変わったようにはおもわれない。イヌはあいかわらずそこいらじゅうにいて、ヒトは走っている。安全がつづいている。
 ふたたび、ワシントン湖沿いの公園に来ていた。あのとき、魚に呼び止められて入れなかった薄暗い坂道の前に立つ。




Alan Wake 2』の冒頭に出てくる森のようで、かすかにいやな予感もよぎったけれど、いやここはベルビューなのだし、”日本”なのだし、と一歩を踏み出す。あしもとの枯れ葉がくしゃりと乾いた音をたてる。くしゃり、くしゃり、とそんな音を響かせながら、だれもいない茂みをゆく。
 おもったとおり、ここもまた気持ちよくウォーキングが楽しめる道だ。傾斜はやや急だが、適度に脚に負担がかかるところがまた心地いい。入る前におぼえたいやな予感など、とっくに忘れてしまっていた。
 静かだった。住宅街のど真ん中にあるはずなのに、どこかの山の中腹みたいに人気がない。こんな場所を街なかに造れるだなんて⋯⋯ベルビューでは驚かされっぱなしな気がする。

 と。


 背後に気配を感じた。その感覚に、低いエンジン音が追いついてくる。
 振り返ると、うしろからシアトル市警のパトカーがのろのろと迫っていた。

 2023年1月、と魚が昨日教えてくれた事件をおもいだす。
 インド系の23歳の大学院生、ジャーナビ・カンドゥラが横断歩道を渡っている最中にパトカーに轢かれて死亡した。シアトル市警は最初その事実を隠蔽しようとしたという。その後、別の警官がカンドゥラの死を茶化している動画が公開された。録画されたその映像で、警官はこういっていた。
「彼女はなんでもない人間だったんだよ⋯⋯11000ドルだっけ? 小切手を切ればいい。どうせ26歳なんだし、そんな価値のある女じゃなかった⋯⋯」

 パトカーはゆっくりとわたしを追い越し、十メートルほど先で停車する。

 
 なんだ?


 ここはなにもない坂道だ。歩いているものも、わたし以外に存在しない。
 わたしか? わたしに用があるのか?

 心臓が高く強く打つ。脳の髄が焼けつく感覚をおぼえる。寒さにかじかんでいた指先が火照る。

 ここはアメリカだ、とわたしは今まで忘れていた事実を思いだす。
 だれかが銃を持っているかもしれない国だ、という事実を。
 というか、確実に持っている。相手は警官なのだから。
 入国審査官のねちっこい、疑わしげな視線をおもいだす。
 あの赤いジャケットの髭バッヂ男をおもいだす。
「気をつけろ」

「おまえはひとりだ」



 動揺を押し殺しながら、パトカーの横を通る。
 呼び止められるか、とおもったが、パトカーのなかからの反応はない。警官が車内でなにをしているのか気になったが、こわすぎて運転席を一瞥すらできない。

 ある程度パトカーに先行したところで、速歩きになる。歩道へはみ出した茂みがパトカーからの視線(「射線」だ、とそのときは捉えていた)をさえぎってくれるところまでくると、小走りに駆け出す。坂をあがりきり、住宅の並ぶ通りへ飛び出す。

 パトカーが追ってくる様子はなかった。

 だが、恐怖は止まらない。


 わたしは走りつづけた。走って走って、道を下り、車道を横切り、ダウンタウンを越え、地下へと潜り、京都市営地下鉄の車両に飛びこんだ。
 慣れた灯りに照らされて、ようやく一息をつくが、呼吸は荒れたまま落ち着かない。鼓動も全身を揺らしつづけていく。
 扉が閉まり、車両がゆっくりと動き出す。そして、国際会館を経由して烏丸御池まで⋯⋯京都までわたしを運んでいく。

なんか京都駅にちいかわポップアップストアができてた。



proxia.hateblo.jp

proxia.hateblo.jp


proxia.hateblo.jp

*1:ベルビューの名誉のためにいっておくと、ダウンタウンにあるRoyal Bakehouseのクロワッサン・アマンドは過剰な甘さでおいしかった。コーヒーチェーンのクロワッサンより安いにもかかわらず、大きさは3倍ほどあった

*2:キャピトルヒル地区はブラック・ライブス・マターの時期に抗議運動を過熱させた末、シアトル市警を追い出して自治を行ってもいた。Capitol Hill Occupied Protest - Wikipedia

*3:創設者はマイクロソフトの共同創業者でもあるポール・アレン

*4:Nirvana: Taking Punk to the Masses | Museum of Pop Culture

*5:とはいえ受けは広く、見間違えでなければバーニー・サンダースなどの本と並んでオルトライトの論客であるマイロ・ヤロプロスの本まであった。

*6:ついでになぜか日本も滅んでたはず

*7:そもそもアメリカ人自体がいろんな国からの移民で構成されているので、彼らは「故郷」に戻っていただけだったともいえるが

*8:創元SF文庫版表紙あらすじより

*9:ゲームだと『Death Stranding』もそうだし、『Life is Strange』もそうだ。そういえば、『Life is Strange 2』はシアトルから始まって米墨国境の「壁」に至るロードストーリーだっだ。それをわたしはあるプロラブコメディアンから指摘されて、はじめて気づいた。というか、調べてみると、シアトルはLISシリーズ通して出てくる定数であり、一部ファンのセオリーでは「”力”の発現に関係あるのでは」とささやかれている。らしい。

*10:アメリカで発行されていた任天堂公式のゲームマガジン

*11:詠春拳をベースに道場を開いた

*12:名門ワシントン大学の哲学科に入った

*13:これはわたしの物知らずだ。バーンズ&ノーブルは近年は店舗ごとに地域に合わせた品揃えを展開し、シアトルにかぎらず全国的に拡大傾向にあるらしい。https://www.honest-broker.com/p/what-can-we-learn-from-barnes-and

*14:マーク・フィッシャー、セバスチャン・ブロイ&河南瑠莉・訳「「未来を創造しなければならない」ーーマーク・フィッシャーとの未公開インタビュー(2012年)」

*15:『マエストロ』では「Shout」も流れてたっけな。

*16:個人的には『ハンガー・ゲーム』の主題歌としてロードがカバーしたバージョンが好きだ

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