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37歳のネコは親でもおじさんでもなくて、まるで天使のようだ――映画『化け猫あんずちゃん』について

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 さりながら諸君よ、感じやすく、子供のごとく純粋で、おれのように誠実な心の持ち主である諸君よ、いうまでもなく諸君のためなのだ。

 ーーE・T・A・ホフマン、石丸静雄・訳『牡猫ムルの人生観』




www.youtube.com

死んだ母親たち、使えない父親たち、外されたネコ。

 なぜネコに頼むのか、という疑問がある。
 アニメ映画『化け猫あんずちゃん』の話だ。

 片田舎に建つ草成寺にすみつく化け猫・あんずちゃんは、寺の和尚さんから彼の孫である小学生、かりんちゃんの世話を頼まれる。かりんちゃんの父は、声が青木崇高*1であることからも察されるようにまあだらしない父親で、借金取りから逃げまわるあいだ、娘を父である和尚さんにあずけたのだった。
 ここにかりんちゃんを取り巻く三世代ぶんの家族があるわけだけれど、「家族」と呼ぶにはあまりにもやる気がない。なぜなら保護者としての親がひとりも存在しない。

 かりんちゃんの父はねんがらねんじゅう借金とりに追い回され、性格も軽薄で、悪い意味で親としての威厳がない。娘からも「哲也」と名前で呼ばれている。続柄が代名詞になる日本語空間においては、ややおちつかない扱いだ。親しみから親を名前で呼ぶ家庭はあるだろうが、かりんちゃんの場合は侮蔑とまではいわないまでも、あきらかに「敬意を払うに値しないから」という含意が読み取れる。

 その父の父でかりんちゃんの一応の預け先になる和尚さんも、小学生の保護者としてはすこし弱い。
 アウトサイダーばかりの劇中では屈指の常識人として描かれ、かりんちゃんことは気に掛けてやさしくしてはあげている。あげているのだが、存在すら初めて知ったばかりの孫にとまどいを感じているのか、じかに接するとなると、おこづかいをあげて町で遊ばせるぐらいのことしかできない。お話を通しても、あまり保護者という感じがしない。
 では、母と祖母はどうなのか。いってしまえば、どちらも死んでいる。特に祖母は原作では健在であり、生きていればかりんちゃんの保護者となりえたはずの存在だったのだが、映画化にあたって死んだことにされてしまった。
 かりんちゃんの母親は、映画化によって追加されたキャラだ。かりんちゃんはこの母親を恋しがり、何度もその想い出を噛みしめ、ついには再会のために地獄までおもむくことになるのだけれど、まあともかく死んでしまっている。

 父親たちは頼りなく、母親たちは喪われている。そんなかりんちゃんの「めんどうを見る」存在としてあらわれるのが、化け猫あんずちゃんである。

 それにしても、なぜネコなのか。
 フィクションにおけるのネコの表象といえば、自由・無責任・孤高あたりだろうか。
 たとえば、『ヤニねこ』の主人公ヤニねこはヤニを空気のように吸って生きているだけの社会不適合者だが、ネコである。こうしたキャラクターは、他の動物では成立しない。タバコをくゆらせているドーベルマンは警察関係者なんだろうな、という印象を抱かれるだろうし、ペンギンがシーシャを吸っていると潜水能力に影響するのではないか、とハラハラされる。

(にゃんにゃんファクトリー『ヤニねこ』講談社


 実際、『化け猫あんずちゃん』の共同監督のひとりである久野遙子もパンフレットのインタビューでこう語っている。「猫の無責任さって、人の無責任さとは全然意味が違うんです。猫に責任がないのは普通のことだから。そのフラットさがあんずちゃんのキュートなところですね」。

 子どもの世話をする、その保護者になる。それは人類にとり、もっとも重大な責任を課されるタスクのひとつだ。そんな仕事をあえて無責任の象徴たるネコにおしつける。

 しかも、だ。あんずちゃんは、オスである。劇中でもたびたび、たまぶくろが強調されている。オスのネコは、基本的に子育てに参加しないことで有名だ。ますます保護者に不向きすぎる。

 そもそも原作にはかりんちゃんなどという小学生は出てこない。かりんちゃんの母親同様、映画版で追加されたキャラだ。保護者不在の哀しい女の子など、いましろたかしの世界にはいなかった。

『あんずちゃん』にいたるまでの「おじさん」映画の系譜

 本作の共同監督を久野とともにつとめた山下敦弘は、『あんずちゃん』とよく似た映画を以前に撮っている。
 2016年の『ぼくのおじさん』が、それだ。

(『ぼくのおじさん』)


 北杜夫の原作(1972年)でちまたに知られる本作は、小学生である「ぼく」とその叔父である「おじさん」(松田龍平)の交流を描く。
「おじさん」は哲学講師であるのだけれど、受け持つ講義は週に一コマだけで、ほかになにをしているのかよくわからない。「ぼく」の一家の居候として無駄飯を食らい、マンガ雑誌を「ぼく」にたかろうとする。とくに人格的に輝く面を持っているわけでもない。ろくでもない野郎である。

 そんな無為徒食の「おじさん」は、たびたび「ぼく」の親から「ぼく」の面倒をおしつけられるのだけれど、ここでもあまり大人としての保護者力を発揮しない。「ぼく」からは適度にかろんじられていて、どちらかといえば友だち感覚に近い。かといって、小学生である「ぼく」と30前後とおぼしき「おじさん」では完全に対等な友だちということもありえず、なんとも独特な関係を築いている。この距離感は、いかさま、『あんずちゃん』っぽい。


 そして、映画の構成も似ている。この『ぼくのおじさん』は、前半で「おじさん」と「ぼく」の日常描写パート、後半からはガラリと舞台をハワイに移してのわりとしっかりしたドラマパートに分かれている。『あんずちゃん』も前半が日常パート、後半からは黄泉下りだ。 つまり、山下敦弘のフィルモグラフィ上では、「なんかしらんがぶらぶらしている謎のおじさん」と「なんかしらんがぶらぶらしている謎の化け猫」が同一視されている。

 さらに遡るなら、『ぼくのおじさん』で松田龍平演じる「おじさん」とは高等遊民のパロディ、もっといえば夏目漱石の『それから』(1910年)的な明治期の高等遊民のパロディといえる。*2 

『それから』の主人公である代助は、帝大を出ながらも30歳で特に仕事もしない。裕福な家族から就職や結婚といった社会参加への”圧”をかけられてものらりくらりとかわしていく。『ぼくのおじさん』の「おじさん」も、寄生先が富裕でないところ以外、ほぼそうした塩梅である。

『それから』のお見合いを強要されるくだりでは、見合い相手の容貌にいちいちケチをつけるのだけれど、映画『ぼくのおじさん』でもそこもオマージュされている。映画版『ぼくのおじさん』で松田龍平が起用されるにあたり、その父である松田優作森田芳光版『それから』(1985年)で主演を張った事実が意識されなかったはずはないだろう。*3

森田芳光版『それから』。ふとした瞬間の松田優作の顔が松田龍平によく似ていて、やはり親子なのだなと感じる)


あるいは「ネコ=おじさん」映画の系譜。

 ここに高等遊民パロディ映画としての系譜が、『それから』から『ぼくのおじさん』を経由して『化け猫あんずちゃん』へと引かれていく。それは日本の映画史的/文学的なラインなのだけれど、実はもう一本、継承されているモチーフで引けるラインがある。

 ネコだ。映画版『ぼくのおじさん』では序盤から白いネコが出てきて、影のように「おじさん」によりそう。自由で、無責任で、とらえどころのない存在としてのネコ=「おじさん」というわけ。

 そして、「おじさん」がひとなみに恋に落ちていくハワイ編*4で、ネコは姿を消す。『それから』もそうだが、高等遊民は遊民でありつづけることはできない。かれらは恋をし、その恋によって他人に、そしてより大きな枠組みへと関わっていく。ネコみたいな人間は、やがてネコではいられなくなってしまうのだ。

 それはともかくとして、『ぼくのおじさん』の「おじさん」に『それから』の代助という先祖がいたのとおなじく、『ぼくのおじさん』のネコにも参照されるべき先達がいる。フランスの巨匠、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(1958年)に出てくるイヌたちがそれだ。

ジャック・タチぼくのおじさん』に出てくるダックスフント


『ぼくの伯父さん』も戯画的なほどにガッチガチに厳格な両親のもと*5で息苦しくなっている少年を、浮世離れした(しかし日本の「おじさん」と違って洒脱な)「伯父さん」たるユロ氏が逃避へと誘う話なのであり、タイトル的にも『ぼくのおじさん』へ明白な影響をおよぼしている。

『ぼくの伯父さん』は、街をうろつく野良イヌの集団をながながと映すカットから始まる。イヌたちは薄汚いけれど、かろやかに、自由に街をかけていく。やがて、そのうちの一匹、服を着たダックスフントが群れから外れ、フューチャリズム建築っぽい住宅へと入っていく。ダックスフントは、この家の子どもである「ぼく」の飼い犬なのだ。

 このダックスフントと無口な「伯父さん」氏のイメージはふしぎと重なっていき、「伯父さん」が「ぼく」の家に現れるときにもダックスフントが同時に画面に出てくる。そうして犬としての「伯父さん」のイメージが強化されていく。

 もちろん、スタイリストであるジャック・タチのことだから、偶さかにそうした印象ができあがったわけではない*6。映画と同時並行で書かれたノベライズ版を読めば、そのことは疑いようもない。

ぼくが忘れることの出来ないのはダキだ。ダキはダックスフント種の犬で、ちょうどうなぎに四本足をつけたように胴長の犬だ。パパとママがいるときは、ぼくはお行儀よくしていなければならない。あぐらかきで呑気にのおのお出来るのは、伯父さんといるときか、ダキと遊んでいるときだ。もっとも、伯父さんとダキも、はなすことが出来ない仲良し同志。
(中略)
現在にも、未来にも、そして過去にさえ興味や希望の思い出を持たなかった伯父さんは、ときどき、ふうっと自分が宙にういてしまっていたのではないか。時間とともに音をたてないで、流れてゆくいのちを涙ぐんで見つめている動物的な感覚が、伯父さんを自失状態においたのだ。そんなときでも、伯父さんは別に悲しい顔なんかしていなかった。ぼくの犬のダキのような表情が、その瞳にあるような気がした。

 ――ジャック・タチ、秦早穂子・訳『ぼくの伯父さん』三一書房



 イヌは人類のもっとも古い友だちである、とはよくいわれるところ。「ぼく」はそのイヌを最良の友とし、同時にその友の面影を自分の「伯父さん」とダブらせる。閑静で清潔感溢れる「ぼく」の家と、雑然とした下町を自在に行き来するイヌと「伯父さん」は、「ぼく」の息苦しさを救ってくれる。*7

 なにかと世界が狭くなりがちな子ども時代にとって、ここではないもうひとつの世界を見せてくる存在がどんなに貴重なことか。
『ぼくの伯父さん』は、徹底したイヌ映画だ。イヌに始まりイヌに終わる。人ではない、いまここではない出口としてのイヌ。そのイメージは日本の『ぼくのおじさん』にネコへ変換*8されて持ちこまれ、『化け猫あんずちゃん』で人そのものと融合した。
 

 と、このような仕方で山下敦弘は、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』と森田芳光の『それから』を組み合わせて『ぼくのおじさん』を造り出し、それを『化け猫あんずちゃん』へと昇華させていった。そうした流れが、まあ、ある。あるということにする。*9


「おじさん」でも「ネコ」でもあり、「おじさん」でも「ネコ」でもない。

 ところで、代助、「おじさん(松田龍平)」、「伯父さん(ユロ氏)」といったおじさんたちには共通した美点がある。
 つまり、子ども(甥や姪)にやたら好かれる。
 さきほど『ぼくの伯父さん』の話で触れたように、きっちりしたレールの上におらず、大人と子どもの中間のような位置にいる「おじさん」たちは、親類の子どもたちにとって一種のアジールだ。
 しかし、それは責任持って子どもをはぐくむ「ちゃんとした父母」という存在がいて、家庭という枠組みが機能しているからこそ出現する逃避先だ。

 ひるがって、あんずちゃんはどうか? 
 子どもであるかりんちゃんは、完全に規範となりうる親を見失っている。母を喪い、父親に見捨てられ(たと感じ)、いままでろくに会ったこともなかった祖父の寺にいきなり預けられ、ろくに知り合いもいない田舎で暮らす。孤児ではないけれど、気分は孤児に近い。山の妖怪たちでなくとも同情して大号泣ものだろう。*10
 そこに登場するのが、あんずちゃんだ。37歳。見た目も仕草もおっさんとネコのハイブリッドだ。

 そして、あんずちゃんはネコであるがゆえに、代助や「おじさん」のように結婚だの就職だのの圧力を受けない。
 そう聞くと『ゲゲゲの鬼太郎』のテーマソングのようでお気楽至極なようだけれど、『あんずちゃん』で描かれるあんずちゃんの日常は、もうすこし陰惨だ。なぜなら、あんずちゃんは社会から拒絶されつつも社会で生きるしかない存在として描かれている。
 和尚さんの扶養の下にあるものの、人間のような図体で人間のようにメシや娯楽を消費するあんずちゃんにはカネがいる。それを稼ぐために、按摩*11や川から鵜を追い払うといった仕事未満のアルバイトをこなしていく。

 だが、バイト帰りにスクーターで走行中、あんずちゃんは警察に捕まる。そして、免許証の不所持をとがめられる。「だめだよ」と警官はいう。「免許は16歳から取れるんだから」
 おかしみに満ちつつも、酷な発言だ。なぜなら、あんずちゃんは30歳を越えてやっとイエネコから化け猫に転化したという設定であり、16歳のときはふつうのネコにすぎなかった。免許など取りようがない。*12

 社会からはじき出されたまま、システムには付き合わなければならない。責任や義務を履行しようにも、その支払い先がわからない。完全なアウトサイダーだ。市民未満であり、人間未満。

 いつもノンシャランとしているあんずちゃんの様子からはわかりずらいかもしれないけれど、かれもどうもそうした状況に対して鬱屈を抱えているらしい。

 その鬱積が爆発するのが、自転車の盗難に遭う場面だ。パチンコの帰りに自転車を盗まれたかれは家に帰るや尋常ならぬ面持ちでぶつぶつ恨みをつぶやきながら、棒に包丁をガムテープでまきつけて即製の槍を作り始める。終始興奮を抑えられず、和尚さんの静止もきかず、四つ足で忙しなくばたばたと廊下を駆け回ったりしながら、自作の槍でふすまを突きまくる。そして半べそをかきながら、「だってだって、くっそ~~~~、俺は悔しいんだよ、おしょうさん!」

いましろたかし『化け猫あんずちゃん』講談社

 自分に向けられた顔のない悪意*13。それは人間からの自分への攻撃的な拒否でもある。あんずちゃんは、そう捉えたのではないか。

 代助や「おじさん」には見られない屈折が、ここにはくすぶっている。生まれたときから人間社会へ包摂される可能性を閉ざされた存在、それがあんずちゃんだ。飲み会にさそってもロクに「つるまない」山の妖怪たち*14に対してあんずちゃんが不満を漏らすのも、そうした孤独からの脱出口を妖怪たちに見出そうとしたからにおもわれる。*15

 だが結局、かれは山では暮らせないし、人間にもなりきれない。もはやネコにも戻れない。えらく半端な境界上の生き物だ。かりんちゃんとの東京行きの直前で和尚さんが指摘するようにあんずちゃんは「大人」ではある。だが、それは「一定の年齢を重ねている」以上の意味を持たない。かれは父親でもなければ、なんらかの地位を持つ社会的存在でもない。


 そんなあんずちゃんが、かりんちゃんの親代わり、あるいは保護者となりうるのか。


 いってしまえば、なれない。映画でも、そうなってはいない。

 かりんちゃんにとって、ケアしてくれる大人は死んだ母親以外に存在しない。かりんちゃんに同情してくれる山の妖怪たちも志だけは保護者マインドなのだが、なさけないまでに惰弱であり、子どもを守る力を持たない。

 けっきょく、かりんちゃんはその母親と決別したあと、父親に対して「早く大人になる」ことを宣言する*16。自分以外に頼れるものがない。それが彼女の生きていくことになる世界だ。


 それでも。


「大人」になるまでの猶予を過ごすパートナーとして、彼女は(父親ではなく)あんずちゃんを選ぶ。
 疑問が反芻される。
 なぜ、ネコなのか?

世界の果てまでつきあって

 劇中でのあんずちゃんは、かりんちゃんに対して保護者らしい行動をあまり取っていない。
 特に、日常の描かれる映画前半パートでは、あんずちゃんはかりんちゃんと別行動していることも多い。「いっしょにやった」といえるのは、鵜を川から追い立てるバイトくらいだろうか。ちょっと距離がある。

 しかし、同時に、あんずちゃんはなんだかんだでかりんちゃんを見捨てない。かりんちゃんが行方不明になれば、めんどくさがりながらも見つかるまで探す。唐突な東京行きにもつきそう。貧乏神がかりんちゃんに取り憑きそうになると、ひきはがそうとする。地獄までもつきあう。
 かりんちゃんの母親を地獄から連れ出して、追っ手である鬼たちから逃げるくだり。あんずちゃんは禁じられているはずのスクーターに乗り込み、かりんちゃん母娘を乗せて爆走する。


「どこまで行くの?」とかりんちゃんは訊く。*17

 あんずちゃんは叫ぶ。

「そりゃあ、世界の果てまで行くんだにゃ~」

 どこまでも連れだってくれる存在。

 それがあんずちゃんの定義だ。



 なにかを与えてくれるわけでもない、戦って勝ってくれるわけでもない、頼りにはまったくならない。ただ、いっしょにいてくれる。
 それはあんずちゃんが人間と異なる種だからこそ成り立つ距離感だ。これがヒトであれば、ほかの「おじさん」たち同様に、多かれ少なかれ人間社会の磁場にからめとられてしまう。


 ネコは自由だ。なにから自由なのか。人間社会の重力から自由なのだ。

 だからこそ、世界の果てまでも、かりんちゃんのそばにいられる。そのことばに真実味を持たせられる。ネコにしか頼めない仕事だ。*18
 ふたたび、パンフレットのインタビューを引こう。山下敦弘はこう述べている。

 終盤あんずちゃんが「ずっとかりんちゃんのそばにいるニャー」というんですよ。でも、それはなにかをしてくれるわけじゃない。ただ隣にいるだけ。それがあんずちゃんと人間の距離感なんです。



 それはまあ、けっきょくところの人間にとって都合のよい動物の搾取なのかもしれない。
 だが、フィクションで動物を描くとき、人間は搾取以外のなにができるっていうんです?
 ともあれ上の山下監督のインタビューに呼応することばが、文学者ドリス・レッシングのネコエッセイ『Particularly Cats』*19にある。今日はこれでしめくくることにしよう。

かれはしずかに私といっしょに座るのを好む。でも、それは私にとって簡単なことではない。書き物や庭の手入れや家事に追われていると、かれとゆっくり座っているひまなどなくなる。かれは子猫のころから、私に注意を要求する猫だった。本を読みながら義務的に撫でているだけでは、たちまちにそぞろな心を見抜かれてしまう。私がかれのことを考えなくなると、かれはそっぽをむいて去ってしまう。
かれと一緒に座りたいならば、私は自分自身をゆっくりと落ち着かさせ、いらだちや焦りを頭から追い払わねばならない。かれもまた、心身を落ち着いている必要がある。そうして私は、かれに、猫に、猫の本質に、かれの最高の部分に近づいていくのだ。人間と猫、私たちは私たちを隔てるものを超えていく。

――ドリス・レッシング『Particularly Cats』



 おつかれまんにゃー。


原作。

共同監督の久野遥子のまんが。傑作。

*1:リメイク版『蛇の道』、『ミッシング』のながれ

*2:現実の明治・大正期における高等遊民たちは、いまでいう高学歴就職難民的な、日露戦争後の社会問題としての側面があり、われわれが『それから』を読んでイメージするほど優雅な存在ではない。『近代日本の就職難物語』(吉川弘文館)参照。

*3:夏目漱石つながりでいえば、『吾輩は猫である』の元ネタといわれるホフマンの『牡猫ムルの人生観』がドイツ的なビルトゥングスロマンのパロディであることも思い出していいのかもしれない。ネコとは、アンチビルトゥングスロマン的な存在だ

*4:ちなみにおじさんが異性と恋に落ちる展開は映画版のオリジナル

*5:1958年に出たノベライズ版『ぼくの伯父さん』の訳者・秦早穂子の解説によると、ジャック・タチは機械中心主義的な近代に対するアンチテーゼとして本作を作りあげたという。

*6:そもそも「偶然」とはジャック・タチの映画から一番遠い言葉だ

*7:映画版では描かれないが、ノベライズ版では「伯父さん」は風邪をこじらせて死んでしまい、「伯父さん」がアトリエを構えて野良イヌたちが遊んでいた古い下町も開発にともなって失われていく。

*8:その変化は「おじさん」とユロ氏との質的な違いにも関係している。ユロ氏は保護者とまではいわないものの、「ぼく」にとっての守護天使的なポジションにいる。イヌはネコよりはやや保護者に近いポジションにいる、というわけだ

*9:もっと山下敦弘のフィルモグラフィを丹念に精査すれば、山下敦弘における「おじさん」たちの扱いについて一定の見解がえられるのだろうけれど、ここでやりすぎるようなトピックでもなく、今はその元気もない

*10:とはいえ、子ども向けフィクションにはよくあるシチュエーションではある。

*11:この職業がかつて盲者、すなわち被差別層の仕事だったことに留意しなければならない

*12:最初から疎外してくるくせに、ショバ代だけはきっちり徴収していく。そうしたシステムへの不信感は高等遊民的というより、原作者のいましろたかしが『釣れんボーイ』などで描いてきた肌感覚に発したものだろう。いましろ的な感覚とは個人的には「大人になりたいという願いはあるのに、自身の抱える(逃避的)衝動のせいでできない」といったジレンマであり、そうしたところを踏まえると彼が「あんずちゃん」お脚本の改変に不満を抱いたのも当然な気もするが、ここではいましろについては論じない。

*13:映画では犯人が出てくるが、原作では結局犯人の正体は不明のまま終わる

*14:そして終盤の展開を見ればわかるように、かれらもまた人間にとってが「役立たず」である。

*15:あんずちゃんは「友だち」に対してはかなり強めの責任感を持つ。よっちゃんに取り憑いた貧乏神との交渉を見よう。

*16:同級生の男子とは結婚の約束までする

*17:母親が訊いてた気もする

*18:ここで、ダナ・ハラウェイ的な伴侶種概念を持ち出すこともできるけれど、あるいはあんずちゃんが「おれ、死なないから、化け猫だから」と言ったことに注目して、むりやり『マルクスの亡霊たち』を結びつけてもいい気がするけれど

*19:邦訳は『なんといったって猫』晶文社


幽霊たちの隠れ場所:『Cloud』、『エイリアン:ロムルス』

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あいまいなの境界の無い

あわいにも揺らいでみる


しろねこ堂「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~

 

 

 

『君の色』を語ることの不可能について


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視ることを語るのであれば。

本来ならわれわれは『君の色』について語り、語り合いつづける義務を負っているわけですが、しかし、それは不可能なことであります。冒頭五分で映画自身で作品外で語られうることすべてを語り尽くしてしまったような映画に、いまさらなにをいえるというのか。公開から一ヶ月経つ今日においても、あの五分間を越える批評は提出されていませんし、これからも出ないでしょう。

それは評者の力量のせいではない。原理的にあり得ないのです。解釈によるあらゆる拡張を受け入れる傑作が存在するように、自らで決めた背丈を絶対に超えられない傑作も存在します。『君の色』とはそういう作品です。

 

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ある程度読める人であれば、その拡張不能性があきらかで、だからこそ京アニ事件という見えている爆弾を果実と勘違いしてもいでしまう。地雷でしかないのに。袋小路でしかないのに。

でも、わたしはかれらを恥知らずとは批難しません。むしろ、シンパシーをおぼえます。わたしもまた、そうした地雷を踏んででもあれを語りたくなる人間だからです。

そう、やはり、この2024年9月において視ることについていうのであれば、『君の色』を避けることはありえなかった。避けることこそが恥知らずと糾弾されるべき怯懦です。

だから、これは敗退の記録なのです。

わたしは今日も『君の色』については語りません。

 


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パソコンの画面とは魂をとらえる異界:『Cloud』

幽霊とはぼやけた世界に走る裂け目に現れるものであり、かつてはそこかしこに棲まっていました。映像機器の性能が悪かったせいです。写真技術の初期において、心霊写真とはぼやけた像のあわいに生じるものでした。*1

 

ゲームの夢、映画の魔――『IMMORTALITY』について - 名馬であれば馬のうち

 

ですが、いまや世界は鮮明になりつつある。

かつては10万画素程度の能力しかなかった携帯電話もいまや1000万画素にも達していて、あまりに隙間がせまくなったので、幽霊たちもすべりこめないようです。

幽霊たちの生存圏は日々、狭まりつつある。そんな絶滅危惧種をなんとか保護しようと奮迅している数少ない作家が、黒沢清です。*2

蛇の道』はブラウン管テレビとビデオ映像の不吉さをどこまでも追いもとめた映画でした。

リメイク版『蛇の道』でも彼はなおスクリーン越しの画面の不吉さを諦めませんでした。ラストシーンでは全身全霊をそそいでパソコン通話画面に幽霊を召喚しようとした。さらに中篇『Chime』では、幽霊の住処を玄関用のドアカメラに見出しました。涙ぐましい努力です。

 

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そして、『Cloud』。冒頭、つぶれかけた町工場からあやしげな健康器具を大量に仕入れた転売屋の菅田将暉がそれをフリマサイトに登録して売り捌くシーン。2023年にしてはおどろくほど粗い画面に並んだアイテムが、謎めいたフリマサイトの謎めいた挙動によって売り捌かれていく。それは取引であるけれども、売る方にも買う方にも人間はいない。菅田将暉が売り主では? とおもわれるかもしれませんが、しかし映画の画面上ではかれはただフリマサイトの映る画面を凝視し、ただ売れろと強く念じる存在でしかない。すべては自動的であり、魔術めいている。

黒沢清の興味が現代のインターネットをリアルに描くことではないとは各所で証言されているとおりではありますし、そんなもの読まなくても映画を観れば一発でわかるのですが、ではこの不気味さはなんなのか。

転売屋の菅田は事業拡大にあたり、アルバイトとして奥平大兼を雇いいれます。奥平は菅田の仕事に興味津々で、菅田のパソコンを覗き込んでいやがられます。ついには奥平は菅田の不在時にパソコンをいじり、それが菅田に露見します。菅田は「信頼関係が壊れた」と告げ、奥平をクビにします。

ここで注目すべきは奥平の菅田に対する執着ではなく、菅田がなぜそこまでパソコンに触れられるのをいやがるのか、ということです。

菅田にとってパソコンとは転売屋という彼のアイデンティティの源泉であり、インターネットとは人生における物事が動く唯一の場所です。かれはそこで無貌の幽霊として、人間のいない資本主義の現場に居合わせている。非常に希少な、サイバー資本主義で暮らせる幽霊。

かれはインターネットに取り憑かれているのではなく、かれがインターネットに取り憑いている。そうした意味において、菅田を襲撃しに来るひとびとはそれぞれ経路は違えど幽霊としての菅田将暉に取り憑かれて呪われたひとびとであるといえるでしょう。かれらは狂気の解消のために菅田将暉を襲うのではなく、呪いを祓うために菅田を滅しに来たのです。*3

スクリーンを一心に見つめるということで、スクリーンの向こう側の世界に同化する。それはあらゆる鑑賞という営みもおなじことで、わたしたちを映画を、インターネットを真剣に見つめることで幽霊になれる。*4

あるいは、もう、なっているのかもしれない。

 

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リアルタイム・ファウンドフッテージレトロフューチャーSFホラー:『エイリアン・ロムルス

 

廃墟と化したデトロイトを舞台にどんづまりの若者たちが盗みに手を出し、とんでもない"モンスター"に逆襲されるデビュー作『ドント・ブリーズ』とおなじ手つきでもって、フェデ・アルバレスは廃棄された宇宙ステーションを舞台にどんづまりの若者たちが盗みに手を出してエイリアンに襲われる『エイリアン:ロムルス』を撮りました。

少年時代に『エイリアン2』を観てそのホラー性に魅了され、「ホラー版スターウォーズ」としてシリーズを受容してきた*5アルバレスは、なるほどホラーとして『ロムルス』を撮っている。しかし、やや特異なのは物語前半部分では主人公たるケイリー・スピーニーはステーションにドッキングした宇宙船のなかで、モニターを通してステーション内部に潜入した仲間たちを見守っているところ。

この中継のスクリーンが妙に粗い。全体的にこの世界では一部のテクノロジーが1980年代から止まったようで、映像機器の画面はブラウン管のままで、コンピュータはDOSプロンプトで動きます。登場人物のひとりが遊んでいる携帯ゲーム機はワイヤーフレームで描画されており、機械類はやたらごつごつしている。

そうしたレトロフューチャーのテイストは単なる趣味に留まらず、リアルタイム・ファウンドフッテージホラーとでと呼べるような、なんとも矛盾した名称の新ジャンルを成立させてもいます。

 

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スピーニーが船内で見つめる中継画面の、2000年代初頭の初期のファウンド・フッテージ・ホラーのような、あるいは心霊投稿ビデオのような解像度。美術家の原田裕規は論考「アンリアルな風景」のなかで、本来は自然さやリアルさを印象付けるために使われる3DCGをあえてその虚構性を強調する形で使う「レンダリング・ポルノ」という概念を紹介し、その特徴を「CGを「非現実のもの」だと思わせる(=自白する)」ことにあると述べました。

そうした意味において現実の鮮明さと一致しないブラウン管テレビ的な画面は、その粗さによって非現実性が強調されることで「この世のものではない」幽霊たちや不吉さが宿りやすいのかもしれません。

 


さて、スクリーンの向こうにいる仲間たちに異変が起こると、スピーニーも船内から出て、自分が見ていた画面の中の世界へと入り込んでいきます。ここから『ロムルス』という映画は「扉と開くことによる恐怖」というホラー映画の鉄板ともいえるモチーフを追求していくことになり*6、ここも『Cloud』と比較すると興味深いところですが、時間もありませんし、ここでは触れるのみにとどめておきましょう。

おもしろいのは画面を見ることをやめたスピーニーが画面の向こう側と格闘するようになるところです。彼女はあるキャラの映る画面に向かって発砲し、エイリアンとのラストバトルではヘルメットのバイザー越しに闘いを繰り広げます。

キャラクターはいつから画面の向こうの怪異を殴れるようになったのか、といえばこれも映像が明瞭になり、怪異の輪郭をはっきりさせてくれたおかげです。『ロムルス』という映画自体の流れもそのようにできています。

というのも、最初、ブラウン管のぼやけた画面を眺めているときはエイリアンの"予感"しか映らず、そのものは姿を現しません。スピーニーがブラウン管を撃ち抜くとき、画面に映るあるキャラの姿は機器の能力並にぼやけています。予感とは戦えないし、幽霊は撃ち殺せない。それが鮮明でないホラーの世界のルールです。

しかし、ラストバトルでヘルメット越しに襲いかかってくるエイリアンは確固たる明らかさでスピーニーと対峙します。このとき、はじめて画面の向こう側の存在を殺せるようになるわけです。

正体が明らかになると恐怖が霧消してしまう、とはホラーでよく言われるところです。*7つまり、恐怖を克服するには輪郭を定めればよい。暴力とは自他の境界を侵す行為でありますから、線をはっきりさせるのは大事です。形あるからこそ壊せる。それを認識したら、もはや恐怖ではなくなります。

 


このようにかつては幽霊を克服することは真剣に見るものの特権でありました。いまや、世界の鮮明さはからなずしも真剣さを要件とはしなくなり、幽霊たちは無差別に喪われつづけています。

まあしかし、そもそもフィクションのプロダクトにおいては天然物の幽霊など存在しません。ブラー、グリッチ、ノイズ。すべては人工的な技術であり、世界の表面に傷をつけ裂け目から幽霊たちを呼び出そうとする意志です。事故を模倣することでしか事故を語れない。倒錯ですね。儀式ですね。あらゆるフィクションがそうであるように。

 

もう時間がありません。今日はここまでです。またいずれ。

 

f:id:Monomane:20241001211515j:image

 

 

 

 

 

 

*1:「心霊写真に映っている(と言われる)霊魂の顔は、いずれもボケた感じがしている。ボケとは何か。レンズの焦点距離から外れた像だ。これこそ、映像のキャメラで表現出来る霊の姿ではないか。」小中千昭『恐怖の作法 ホラー映画の技術』

*2:「この「ぼんやりとした姿」といった幽霊像は、数年後、黒沢清監督が『回路』(2001) で全面的に導入し発展させた。ボケた幽霊の姿は動き、肉体有る人間と「芝居」をし、それを捉えるキャメラも移動していく。これだけのことをビデオで簡易にやるのは不可能であり、ましてやフィルムでは気の遠くなる様なプロセスが必要なのだが、CGIを用いた革新的な手段によってこの像を獲得した。」小中千昭『恐怖の作法 ホラー映画の技術』

*3:菅田をおびやかす存在がまずガラス窓をぶち壊して彼の日常に侵入してきたという点は重要です。彼を襲いに来た岡山天音がすりがらすの向こう側に映っていたことも。

*4:石井岳龍の『箱男』もまた映画のメタファーである映画でしたが…………

*5:https://remezcla.com/features/film/interview-fede-alvarez-talks-alien-romulus-more-spanish-than-english/

*6:「「なぜ開けるだけが出来ないんだ!」というあるキャラのセリフはこの作品のすべてを要約しています。開けることによって地獄へつながってしまうこと。エイリアンの身体すらその表現のうちに入ること。

*7:それをたとえば平山夢明は「人間は見えているものより見えないもの、すなわち、恐怖よりも不安に畏怖の念をおぼえる」(『恐怖の構造』)と表現した

元気で大きいペンギンの赤ちゃん:メルボルン探訪記

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メルボルンにも、生命はあるでしょうよ」
 一同は大きく眼をみはった。
「どんな生命が?」と、ピーターは訊いた。


  ーーネヴィル・シュート、木下秀夫・訳『渚にて



 指令はいつも十五桁の英数字で届く。そのコードをsteamのコード有効化ページに打ち込み、リディームする。あがないredeem。それは原義的には罪を償還し、赦しredemptionを得る行為を指していた。





 そのゲームをまともに購入しようとすると、50万2634ドルかかる。だが、コードをリディームすれば無料。贖罪とはそういうものだ。何事にも裏口はあり、恩寵は平等ではない。それが幸福な恩寵であるとして、だけれど。神からの愛はいつだってふたつの意味で致命的だ。

 償還が済み、降臨ダウンロードし、再生プレイされる。ポップしたウィンドウには、典型的なというかサンプルから一切いじってなさそうなRPGツクール製のスタート画面が現れる。

〈ニューゲーム〉〈コンティニュー〉〈オプション〉。

〈ニューゲーム〉を選ぶと画面が暗転し、黒背景に画像が表示される。ペンギンの写真だ。幼鳥のようで、茶色い体毛に包まれている。飛べもしないのに羽ばたこうとしている姿を見て、傍らの飼育員らしき女性が微笑んでいる。その背後には何羽かのおとなのペンギンたち。


https://media.cnn.com/api/v1/images/stellar/prod/pesto-gender-reveal-with-michaela-smale.jpg?c=16x9&q=h_653,w_1160,c_fill/f_webp


 異常な点がひとつだけある。
 赤ちゃんペンギンのサイズだ。デカい。背後のおとなペンギンたちと同等かそれ以上くらいの背丈に見える。錯覚だろうか。遠近法のあやだろうか。それともペンギンの赤ちゃんとは、もともとこのようにおおきいのか。
 呆然とする。自失すらする。文字どおり、眼をうばわれてしまう。
 下部にメッセージボックスが出た。姿なき発話者が告げる。


メルボルンに行け。


*ペンギンの赤ちゃんをつれてこい。


*本物を手に入れろ。


 異論はない。指令はつねにわたしの欲望と一致する。


 しかし、メルボルンとは?


 メルボルンと聞いて連想できるものは、ただひとつしかない。ネヴィル・シュートの『渚にて』だ。そこでメルボルンは「世界で一番南方にある主要都市」と表現されていた。
 『渚にて』の世界では核戦争により北半球は壊滅し、残りの土地も放射能汚染によってじょじょに死につつある。メルボルンは天国あるいは地獄にもっとも近い街だった。「われわれが一番最後に近いわけです*1
 たしか映画版(1959年のモノクロ版ではなく2000年のオーストラリア版)も観たことがあって、伊達男が車で爆走して路上のビルボードにつっこんで自殺するシーンをおぼえている。あの映画のメルボルンはなんだかブライトンみたいなぼんやりした港町だった。あそこに行くのか。そう思いながら、本棚の『渚にて』を開くと、「メルボルンまでは列車で三十分ほど」と書いてある。

 宇治へ行くのとそう変わらない。みどりの窓口にいる駅員に訊くと、実際メルボルンは宇治の向こう隣にあるらしかった。赤道を越えるのがこんなにも手軽だったとは知らなかった。南の海がこんなにも近いなんてのも知らなかった。ひきこもって暮らしていると、地理感覚が破綻してしまう。まこともって恥じ入るばかりです。

(京都ステーション)


「ペンギンですか」

 唐突に駅員がそんなことをいうので、ハア? と呆けた声を出してしまう。

「あなたも、ペンギンですか」と駅員は繰りかえす。

 わたしはペンギンではありません、とまっとうに返すと、駅員はあきれたように首を振り、スマホを取り出して、例のペンギンの赤ちゃんの写真を見せる。ウェブに載った新聞記事だ。「大バズりですわ」

 曰く、いまやメルボルンに向かう客の大半はこの巨大赤ちゃんペンギン目当てらしい。メルボルンへこんなに大勢が殺到するのは、1851年のゴールドラッシュ以来だとか。

 駅員はわたしに切符とビザを渡しながら、こうぼやく。「別にわざわざメルボルンまで行かなくても、ここでこうして見られるのにね。おれはね、こうずっと窓口に座ってよそにはいかないけれど、世界のいろいろな驚異を見てきたよ。京都水族館のXXLサイズのオオサンショウウオ、三匹のヒグマが経営するティーハウス、フリードリヒ・ヴィルヘルムの黒い軍勢、ファタ・モルガーナ・ラネズの猛吹雪、月の裏側のひみつきち、ブエノスアイレスぐらぐら岩エドラ・ムーベディサ。いまや、てのひらにおさまるこの黒い窓からなんだって覗けるのに、どうしてわざわざ高価いカネを払って南の果てまで行くんだい?」

 そうだね、しかしたとえば、コナー・オー・ブリーンはこういった。

"みずから目にすることなくして、だれがペンギンを信じられようか!"*2


 三十分の旅程のあいだ、電車に揺られながら、巨大赤ちゃんペンギンについて調べる。
 生後十ヶ月。
 体重は二十二キログラム。親鳥の体重の二倍らしい。さらに一日に二十四キロの魚を食べる。
 身長は約九十センチメートル。これも親鳥より高いらしい。
 メルボルンの水族館で今年唯一孵化した雛であるらしい。
 名前はペスト。黒死病ではなく、パスタなどに用いるイタリアの調味料にちなむ。つまりはペースト。バジリコなどからできている、この緑色のペーストが茶色い赤ちゃんペンギンとどのようなつながりを持っているかはまったくもってさだかでない。
 TikTokでは、よちよち歩くペストにノリノリな音楽を乗せたり、水族館の職員がペストの後ろでへたくそなダンスを踊ったり、同時期に話題となったタイの動物園のコビトカバの赤ちゃんと怪獣映画風アニメで対決したりととにかくまあ大忙し。
 ペンギンの赤ん坊がデカいというだけで、そんなにもうれしくなるものだろうか? なる。わたしもメルボルンが近づくにつれてうきうきしてくる。こころがメルボルンになりつつある。眼もだいたいメルボルンだ。わたしのメルボルンのイメージは、もう大きなペンギンの赤ちゃんと一致している。これは倒錯でも顛倒でもない。事実として、世界はそのように、イメージのコラージュとしてできている。現代メディアのエコシステムは個人とイメージのあいだの空間を圧縮しつくした。わたしと赤ちゃんペンギンを隔てるものはなにもない。



 一枚の写真に、ぐっと引きこまれる。突然、そこに映しだされた情景に、自分自身が臨場する。肉体を欠いた視線となって。対象と自分を隔てる時間、隔てる空間は、ぺしゃんこに潰れ、ゆがみ、蒸発する。われわれにとって、世界は写真だ(とりあえず)。
 これを「世界写真」の仮説と呼ぼう。ぼくらは世界を写真の集積として体験している、ということだ。そのように「見て」いるのというのではなく、そのように「体験」している。…(中略)…人間に有機的に経験できる空間範囲は、限られている。人間はひとりでは、世界について、何も知らないに等しい。だがそれでもどこかに世界(という全体)が、たしかに自分とはある間隙によって隔てられたものとして、あると考えざるをえない。それは実在だが、実在として世界そのものに触れることはできない。バルトが「アメリカ」にそれを見たような、映像により構成された空間が、われわれの「世界」だ。
      ーー管啓次郎「映像的ウォークアバウト」



世界。あなたの網膜に取り憑き、たびたび呼び起こされ、しかし決して触れることのできない幽霊たちの集まり未満の集まり。それについて、それに向かって、それとともに語ることが、あるいは語らせることができないもの。つねにあなたからゼロの距離にあるもの。すなわち、世界。

 今はペンギンの赤ちゃん。

 そこになくてもすぐそこにあるのなら、わざわざメルボルンにまで行かずとも、視線をスマホの画面へ永遠に凝らせておけばよいのでは? とあなたはいうかもしれない。わたしもすこしはそうおもう。でもやはり、違う。
 見ることは信じることではない。信じるからこそ見るのだ。証すために見るのだ。「使徒トマスも、見ないうちは信じないと誓ったが、いよいよ見たときには、『わが主よ、わが神よ!』と言った。これは奇跡が彼を信じさせたのであろうか? おそらくそうではなかろう。彼はただ信じたいと望んだがために信じえたのであろう*3
 幼いころ、キリストの降誕劇で羊飼いの役をやったことがある。羊飼いにしろ東方の三博士にしろ、twitchを開いてナザレのヨセフのチャンネルで配信されている出産実況を観るだけに満足せずイエスとの対面お誕生日会に出向いたのは、当時の貧相なインターネット環境(UStreamくらいしかなかった時代だ)のせいではない。
 知識と経験を、信仰と現実を、みずからの知覚の範囲において一致させること。それが見るという行為だ。

みやこ路快速

 
 みやこ路快速で宇治の次、メルボルンで降りる。さむい。そりゃそうだ。阪急の南のほうは今は冬。気温は10度ほどで、凍えるというほどでないにしても、半袖で歩くと乾燥とのコンボで気管支をやられる。
 それにしても、あらゆるものがデカい。ビルは軒並み京都タワーなみに高く、ヒトはみなsattouの描く肖像画のようだ。きっかりと縦横に交わる通りは京都に似てなくもないが、右京区の感覚で「ちょっと一ブロック向こうに足を伸ばそうか」などと無策に出ていくと、ハーフマラソンの距離を歩かされるハメになる。ガリバーの旅したブロブディンナグ国とはここのことだろうか。

(巨人たちはあまりに無法なので道端に電車を突き刺したりする)

 うかつに歩くと小腹が空くけれど、ここでレストランに入るのも、やっぱりうかつな判断だ。料理の量は京都の五倍。値段は十倍。味は駄菓子のポテトフライを牛丼にしたようもので、たいへんに美味である。支払いのために財布から紙幣を取り出すと、店員から野蛮人を見る眼で見られる。労働者の権利のために闘争し続けて二百年、資本主義を超克したメルボルンではスマホやプラスチックのカードを示すだけで支払いが免除される。仕組みはよくわからないけれど、しちめんどうな交換や商取引の習慣から解放されるのはよいことだとおもう。

(中華街の店で出てくるつけあわせのスープはどれも日清のカップ麺のスープの味がする。うまい。)


  ペンギンのいる水族館は街の南に位置しているという。下っていく。遠い。水族館が遠い。Instagramでワンタップの距離がどこまでも遠い。
 大通りは中華料理屋、アメリカンなバーガーショップ、地元発っぽいドーナツ屋、日本風オタクショップ、プリクラハウス、ベトナム料理屋、カンボジア料理屋、博物館、台湾とベトナムを合体させたような趣味のワッフル屋、本場イタリアの味を謳うジェラート屋、一風堂、『美女と野獣』が上演されている劇場などなどが整然かつ雑多に建ちならぶ。ありとあらゆる文化がここに混淆している。なるほど、「一番最後に近い街」にふさわしいありさまかもしれない。こうして、スヴァールバルの世界種子貯蔵庫のように世界中の文化を保存しておけば、世界が滅びかけたさいにはここが復興の拠点となるだろう。
 ひとびともナイスだ。店のひとたちはみな必ず「今日は良い日ですか?」と訊いてくる。
「良い日です」とわたしはかならず返す。

「なぜ?」

「ペンギンを見るから」

 ああ、とカフェの店員は苦笑気味にうなずき、イングリッシュ・ブレックファストのカップをわたしつつ、こちらに背後を見るようにうながす。
 ふりかえると、店の外に人間の行列ができている。通りの南方へずうっとつづいている。

「あなたのお仲間ですよ」と店員はいう。「あの赤ちゃんペンギンがバズってから、ずっとあんなですね」

 メルボルンでひとが行列をなす施設はふたつしかない、とその店員はいう。ひとつは博多ラーメン屋。もうひとつは Lune というクロワッサン屋。

「ここはクロワッサンとコーヒーの国ですから」

 わたしはお茶とベーグルの人間であり、ラーメンはあまり好まないのだけれど、そういうことを口にしないだけの社交性はあった。代わりに「宇治にもいいパン屋がありますよ。たま木亭という。わたしは行ったことがないのだけれど。宇治ですから」
「宇治ですからねえ」と店員はうなずく。「あの行列もときどき、最後列が宇治に達します。並ばないんですか」


 並ぶ。

(平日の朝から長蛇の列)


 待っているあいだに入場チケットを手に入れる。
 水族館では、受付で現金を支払うなどという甘ったれた資本主義はゆるされない。入場できるかどうかは魂の清らかさにかかっている。ウェブサイトで入場したい時間帯(三十分刻み)を指定し、あとはVISAとかAMEXとか呼ばれる謎の札、おそらくは免罪符の子孫かなにかだとおもわれるカードに祈る。十分な数の天使がわたしのカードの上にとまっておりますように、と。
 水族館の入場口にはアメリカの入国審査官のような鋭い目つきの女(ジェシー・プレモンスによく似ていた)が座っていて、いわれるがままにパスポートを渡すと、ねぶるようにわたしの顔とパスポートの写真を見比べ、「英語で答えろ。できるな? できるだろ。どこの出身だ?」と問い詰める。キョート、と英語でも日本語でもどちらもでいいような単語を答えると、なにが気に入らないのか、あからさまな舌打ちをする。

「目的は?」

 ペンギンを連れだしに来た、とは口が裂けてもいえない。

「観光」

「ペンギンか?」

「はあ」

「ペンギンなら」と女は出入り口の付近を指さす。やせぎすのキングペンギンがよたよたと外に出ようとしていた。「あそこにもいる」
「あれじゃなくて」とわたしはいう。

「ペンギンはペンギンだろ」  

 わたしの欲しいペンギンは、赤ちゃんでなくなっていく赤ちゃんペンギンだ。あと一、二ヶ月で茶色い体毛が抜け落ち、体重が減り、まだ巨大ではあるだろうけれど、他のおとなペンギンたちとたいして差異がなくなっていく、その前段階にいるペンギンだ。今この瞬間にしか収穫できない、新鮮で無垢なミームの権化だ。いったでしょう? 世界そのものだって。 などとは、結局いわなかったけれど、審査官は入場許可のハンコを捺してくれた。

「みんなあのペンギンめあてで来るよ」と彼女はいう。「この水族館に来る客、全員だ。この水族館はイコールあの巨大な赤ちゃんペンギンで、あの巨大な赤ちゃんペンギンがこの水族館。いや、水族館だけじゃない。メルボルン来るヤツみんな赤ちゃんペンギンモクだ」


 ふりかえって列を構成している面々をながめると、なるほど、みやこ路快速の車内で見かけたような顔ばかりだ。ちなみに先ほどのペンギンはだれの注目もこうむらないまま出入り口を抜け、脱走に成功しつつあった。

「このメルボルンがかぎりなく巨大赤ちゃんペンギンと等しいのなら」と彼女はいう。「あの赤ちゃんペンギンが赤ちゃんじゃなくなったとき、どうなるんだろうね」

 悲観することはありませんよ、とわたしはパスポートを受けとりながらやさしくいう。メルボルンには他に見るべきものがたくさんあります。

「たとえば?」と彼女はするどく返す。

 わたしは返答に窮してしまう。いや、あるはずなのだ。ガイドブックを読めば、Googleで検索すれば、だれかに訊けば。しかし、今この瞬間、わたしのなかのメルボルンにいるのは巨大なペンギンの赤ちゃんだけだ。おまえは中華料理屋に行きたいか? いいえ。アメリカンなバーガーショップには? べつに。地元発っぽいドーナツ屋は? ミスドで十分だし……。日本風オタクショップ? 京都には美しい四季とオタクショップがある。
 じゃあ、プリクラハウスは? ベトナム料理屋は? カンボジア料理屋は? 博物館は? 台湾とベトナムを合体させたような趣味のワッフル屋は? 本場イタリアの味を謳うジェラート屋は? 一風堂は? 『美女と野獣』は?


 いらない。それらはメルボルンではない。わたしの想像したメルボルンでは断じてない。巨大な赤ちゃんペンギン以外は、メルボルンではない。

 何秒、何分経っただろうか。わたしは口を半開きにしたままポカンと阿呆のように、実際阿呆以外なにものでもなかったのだけれど、立ち尽くしていた。


 審査官はつまらなそうにしばらくこちらを眺めていたが、きゅうに弾けたように笑いだした。

 なにがおかしいのか。まったくわからない。

 困惑していると、彼女はカウンターの上に登り、入場審査待ちの列をつくっているひとびとに呼びかけた。


「みなさん、どうぞご自由に入場してください! 当水族館はたったいまから、だれでも、望むがままに出入りできるようになりました! しちめんどうな審査は撤廃です! おめでとう」

 それを聞いた客たちが、わっ、と歓声をあげて押しよせ、通過ゲートへと殺到していく。ほかの係員たちが押しとどめようとするが、すでに遅い。人のうなりは怒濤となり、わたしもまた押し流されていく。

 業務を抛擲した彼女はカウンターであぐらをかき、たからかに歌っていた。



 このいやはての集いの場所に
  われら ともどもに手探りつ
  言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう
 
 かくて世の終り来ぬ
  かくて世の終り来ぬ
  かくて世の終り来ぬ
 地軸崩れる轟きもなく ただひそやかに*4



 列待ちのあいだに公式サイトで調べた情報によると、水族館は十五のエリアに分かれていて、ペンギンは最後のエリアに展示されている。移動は不可逆であり、一度別のエリアに進めば、もう二度と前のエリアの魚には再会できない。クラゲとか。ムツゴロウとか。タスマニアキングクラブとか。
 そんなものには、だれひとり、目もくれない。

無人水族館)


 解き放たれた人の波は最初の十四のエリアを三分ですっ飛ばし、万物をひとつの建物で把握しようとする十九世紀の博物学的欲望を彼方へと葬り、十五番目のエリアに到達する。いなや、みなスマホを取りだす。茶色いふわふわの大きな赤ちゃんを探す。透明なケージのなかのキングペンギン二十羽はいずれもおとなだ。違う。赤ちゃんは。どこだ? どこだ?

 いた。


 ペストだ。岩場の向こう。顔だけが覗いている。世のすべてを拗ねたような、つめたい目。その視線をあびたい一心で、数千いや数万の客たちは子育て期の南極のペンギンたちのようにエリアにひしめいている。
 歓声があがる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」わたしも連呼に加わる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」見知らぬ膨大な他者たちと視線や声を一にすると、独特の高揚が生じる。まるで2000年代後期みたいな気分だ。
 茶色いふわふわの頭がのっそりと動きだす。歓声がなおも高まる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」わたしも……いや、もう〈わたし〉などはいない。〈わたしたち〉だ。
 わたしたちは高さ五メートルはあろうかという水槽用強化ガラスに群がり、張りつき、すこしでもペストに肉迫しようとする。いっぽうペストは悠揚と岩場をいきつもどりつしながら、こちらをみやったりみやらなかったりする。彼からの視線を欲望して、同期していたはずのわたしたちも分裂する。「こっちを向いて!」「いやこっちだ!」「いやこっちを!」心が数万ある。だがいまだに一つだ。

 十分ほどやいのやいの騒いでいると、ようやくペストが岩場から降り始める。わたしたちの興奮と歓声がいっそう高まる。よちよちとあぶなかっしく歩行するさまはやはり赤ちゃんで、そばにはいつも寄り添うように二匹のペンギンがついてまわる。親だろう。親であるはずだ。親であるに決まっている。
 わたしたちは一人残らず聖なる親子に涙する。一つのユニットとしてのある家族への視線を共有する信仰が生じつつある。わたしたちは羊飼いだ、メルキオールだ、バルタザールだ、カスパールだ。いかなる現実も美しく粧い、世界を摩耗させていく写真の使徒だ。

 ペストがわたしたちのもとまで降り立つ。





 クチバシをあげ、あのふきげんそうな眼でわたしたちひとりひとりをねめる。たまらない。この眼を前にして、なにかやるべき使命があった気がするけれど、もはやそんなことはどうでもいい。なぜなら天国にいるのですから。
 わたしたちはペストの眼の前のガラスにはりつく。上から下から横から。遮られた視線もリレーされ、わたしたちはひとつの塊となってペストを見つめる。だれもが至福だった。平和だった。満たされていた。



 みしり、とおおきな音がした。

 そこからは早い。崩壊はいつも一瞬だ。
 五十センチ厚の水槽用アクリルガラスがわたしたちの重さと熱に耐えきれず、砕け散る。視線をこちら側とあちら側で分けていた境がなくなる。
 ペンギンたちがけたたましく鳴きながら脱走をはじめ、わたしたちと交錯する。わたしたちをひとつにしていた意志は注意とともに霧消してしまい、単位としてのわたしはわたし自身へと返還される。自我を取り戻していったのは他の人もおなじなようで、個々の生存本能を働かせて、みな、この混沌に対して絶叫と暴力をもって対処しようとしている。混乱が加速しつつある。その隙間をぬって、ペンギンたちが駆けていく。驚くほど迅速に。
 熱狂が撹拌されて覚めてひいていき、ふと意識の間隙にこんな考えがすべりこむ。
 これが終わりのはじまり
 そうおもいながらなんとなしに視線を横にすべらせて。
 
 眼があった。

 ペストと。赤ちゃんペンギンと。あの不機嫌な眼と。

 ほかのおとなペンギンたちとは違い、じっと立ち尽くしたまま、こちらを見つめている。


*本物を手に入れろ。


 とっさに彼を抱きかかえ、走りだした。
 渚まで。


渚にて

 摂氏十度である。

 十月のメルボルンの海岸で、泳ごうなどと考えるやつはまずいない。

 なとど勝手に決めつけていたら、海面がぬわりともりあがり、水着姿の大柄な中年女性が這い上がってきた。そして、たまたまそこにいたわたしに「今日は良い日?」と訊く。

 世界は複数の驚異にあふれている。

 さしあたって手近な世界がわたしの傍らにいて、ペストだ。巨大な赤ちゃんペンギンは広大な海と砂浜にたたずむと、なんだかそこそこ大きいくらいで、さして世界に見合うサイズではない気がする。大きさなど、ペスト自身は気にもかけていないのだろうけれど。
 




 しばらく、ペンギンと一緒に滅びから遠い海をながめる。日が暮れかけたあたりで、だれかに肩を叩かれた。
 見やると、シベリアンハスキーをつれた男がいる。タンクトップに短いパンツをはいた、心身ともに非常に健康そうな人物だった。シベリアンハスキーも劣らず精悍な顔つきだ。


「このビーチはイヌは禁止ですよ」とわたしはいう。

 
「ペンギンは」とイヌが問う。「どこですか」


 わたしはペストを見る。あいかわらず、茫洋と波を見つめつづけている。潮風に吹かれて、茶色い毛がところどころ抜けかかっている。おとなになる準備をしているようだった。




 すこし迷ってから、イヌにこう告げた。



わたしがペンギンです*5




*1:木下秀夫・訳『渚にて

*2:上田一生『ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ 増補新版』

*3:フョードル・ドストエフスキー米川正夫・訳『カラマーゾフの兄弟

*4:T・S・エリオット

*5:アンドレイ・クルコフ沼野恭子『ペンギンの憂鬱』

どうしてドナルド・トランプはわたしをファックしないのか:大統領選下シアトル滞在記

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 長いよ。今回は。


 アメリカを訪れるたびにわたしは、本当の「アメリカ」はマンハッタンやシカゴの街路にも中西部の農場町にもなく、ハリウッドランドスケープやメディアの景観によって創り出された幻想のアメリカのなかにこそあると、よく感じる。

 ーーJ・G・バラード、南山宏訳『ハロー、アメリカ』1994年版序文より



 そして、読みとおしたとしても、あなたが今の情勢についてなにか気の利いたことをいう助けにはならない。

狂気とは一体何なのだろう? そもそもいろいろな意味で、狂っていない人なんているのだろうか? パッと見てわからなくても、みんなおかしな勘違いをしていたり、どこかしら狂っている。まあ俺以外はね。
  ーーリン・ディン、小澤身和子訳『アメリカ死にかけ物語』



 そうね、だから⋯⋯はじめましょう。

11月5日午前9時 ベルビュー





 エリオット・ベイに蒸気船で上陸して数日が経った。ホテルのテレビはCNNもFOXもMSNBCもABCもNETFLIXYoutubeも平等に映す。なにかについて話しているようだけれど、なんなのか、まるでわからない。外に出る。徒歩三分で芝生の広がる公園へたどりつく。みなランニングしているか、デカいイヌを連れているか、デカいイヌといっしょにランニングしている。ほんとうに、この三パターンしかない。信じてくれ。
 遊具には子どもたちが群がり、人工の川ではカモたちがぐわぐわと遊び、高級というよりは小綺麗という意味で身なりの良い親たちがおだやかに談笑している。実に心地よい。実に正気だ。青空の州(ブルー・ステイト)ワシントン。シアトル近郊のベルビューは、その日も平穏だった。




 わたしは公園のベンチに座って朝食をとっていた。コーヒーチェーンで買ったクロワッサン・アマンドとロンドンフォグ、そしてメイシーズの洒落た店舗で買ったタロイモウベ味のココナッツプリン。計32ドル。約5000円。はっきりいって5000円の味じゃない。クロワッサン・アマンドは、烏丸の文博横のPAULで買ったほうが断然うまいし安い。ロンドンフォグは歯を溶かすほどに甘く、ココナッツプリンにいたっては、なんというか、ココナッツプリンだ。




 哲学者の三浦哲哉は『LAフードダイアリー』で訪米当初アメリカの食べ物に期待していた要素として伝統から断絶した「不自然さ」と人工的な「実験性」を挙げていたけれど、このクロワッサンとココナッツプリンにはそのどちらもなくて、ただ自然で保守的な、味わいのなさだけがある。*1

 でも、高価いとはおもわない。実際に日常的に買えるかどうかは別にして、この街ではおそらくだれもがこれを妥当な値付けとおもっているのだろう。食べ物の値段に反映されるのは原材料費と人件費だけとはかぎらない。安全、安心、健康、正気、この街をたいらかに保つあらゆる魔法の値段も含まれている。

かもかもかもかもかもかもかもかもリバー


 しばらくぼんやりイヌやカモを眺めたのち、西側から吹く潮風にさそわれて、散歩へ出かける。すぐ背の高い街路樹に抱かれた瀟洒な住宅街に入る。どの家もデカい。そして造りがいい。わたしは京都市水族館の水槽のなかにしか住んだことがないので高級な家というのがどういうものかわからない(わたしみたいなものが京都の東山に侵入しようとすると棒でつつかれて追い出される)けれど、まあ、なんか高価な家なんだとおもう。どれもひらべったい。敷地がじゅうぶんに広くて、屋を重ねる必要がないのだ。
 これまで見た住宅街のなかでも、もっとも美しい景観だ。ベルビュー(「美しい眺め」)という地名に恥じない。実際ここはアメリカでも四番目に住宅価格の高価い一帯として知られている。名だたるテック系の大企業が本社を置く街としても知られる。
 空気もいい。アメリカの街としてはびっくりするくらい車が通っておらず、植物も多いので酸素が濃くすずやかだ。湿っぽすぎず、乾きすぎてもいない。「呼吸ができる」というのは、こういう場所でこそいうのだろう。開放感もすごい。ここに比べたら、東京は海の底にひとしい。わたしなんか、潰れてしまうよ。

 そして、もちろん、みなイヌを連れている。デカいイヌを。林立するビル群のふもとに広がる芝生のうえや、整然とした石畳の歩道で、イヌたちをのびのび遊ばせている。道端にはイヌ用のエチケット袋を無料で配布するポストが建てられていて、街そのものがイヌを飼うことを奨励しているようだった。




 イヌの街、とでも呼ぶべき場所があるのだとおもう。イヌは、特にデカいイヌは、地域の治安のよさと住環境のよさを表す。幸福度の指標にもなる。リードにつながれた善いイヌたちが暮らす地上の楽園。それがここだ。こういうのが「イヌを飼う」ということであるなら、狭苦しい日本の都市部でイヌを飼うのはもれなく虐待なのかもしれないとすらおもわされる。


無限にイヌが遊べる空間がある



 この安寧はなんだろう。外国に行くと、いつも「ここは日本じゃないな」と感じるはずなのに。ひとびとが異国語をしゃべっているからではない。通貨や食べ物が違うからでもない。安全を実感できないからだ。治安の話じゃない。治安はもちろん含まれるが、そういうことじゃない。「自分の日常的にいる場所」ではない、という感覚だ。たとえ車に轢かれようと、近くの弁当屋がにぎりめしの代わりに大麻を売っていようと、闇バイトで雇われた若者が強盗に押し入ろうと、自分にとっての「ふつう」であるかぎりは、自分が排除される異物でないと確信できるかぎりはそれは安心と安全の境地へとむすびつく。その感覚は、外務省の危険安全レベルにはあらわれない。というか、なんなら東京ですら「日本じゃない」。あんなに自分が異物でしかない街もない。

 ところがベルビューはなんというか、日本だ。日本にこんな整った住宅地はおそらく存在しないけれど、日本だ。言語も気候も違うけれど、日本だ。こんな場所で育った記憶は一切ないけれど、曇りなく穏やかに過ごせる。それは自分とベルビューがおなじだからではない。自分は攻撃されたりや排除されたりしないだろうという絶対的な確信が持てるからだ。




 根拠はない。でも、そう感じる。だれもが銃を持っている可能性のあるこの国で「そう感じ」られるのは、とてつもないことだ。
 歩きつづけて、ワシントン湖沿いの別の公園にたどり着く。ここもまた良い公園だ。真新しい遊具が設置してあり(ベルビューの公園はどこでもたっぷりと小綺麗な遊具がある)、歩道も歩きやすく均されている。当然のように景色もよい。この街には雑で見苦しいところはひとつもないのか?

海沿いの公園



 公園の歩道をさらに行くと、だんだん傾斜がかっていき、やがて山道めいた坂の入口にさしかかる。鬱蒼とした木々がそれまでのほがらかな陽光を遮り、やや異質な薄闇でみずからの内を閉ざしている。




 どうしよう⋯⋯と迷っていると、魚が話しかけてきた。そう、魚、いまにも死にそうな、陸の魚だよ。その魚はゼエゼエと喘鳴しながら、かすれた声で、いう。

「つれてってくれ」

 どこに?

 墓に。

「あの方はもう一度アメリカを偉大な国にしたがっておられます」
「それはきみもじゃね、ウェイン。わしもそうじゃ。もっとも、最終目標についてはだれの意見も一致しているが、手段についてはもっと議論を重ねる余地がある……いや、それをいうなら、いったい、"アメリカ”という言葉が厳密には何を意味するのか、じゃ。これは情緒的なシンボルでな、ウェイン、一九八〇年、九〇年代に流行遅れになって、だれにもアピールしなくなったもので……」
  ーーJ・G・バラード、南山宏訳『ハロー、アメリカ』


11月5日午後1時 シアトル・キャピトルヒル地区





 もちろん、ここにもイヌはそこいらじゅうにいる。
 魚を脇に抱えてUberを降りると、赤いジャケットにバッヂをジャラジャラつけた髣髪髭面の男性に呼び止められる。
「気をつけたほうがいい」
 気をつける?
「この街は変わっちまったよ。いつもは善き隣人たちの街なんだ。今日は違う。気をつけなよ」
 男はそう警告を発して、乱杭歯を剥いてニッと笑い、ひたすら困惑するわたしたちを残して去っていく。

 信じてくれ。


 ほんとうに、そんな男と会ったんだ。


 わたしたちは警戒しながらキャピトルヒルを歩いた。この街のカラーを知るのにさして時間は要さない。五十メートルごとに虹色と遭遇する。レインボーフラッグをかかげた店、レインボーカラーに塗られた横断歩道、レインボーカラーのユニコーン⋯⋯。真っ黒な服装に身を包んだ、どう見ても中高生ぐらいの子どもたちが、やはり真っ黒な小さなライブハウスの前で列をつくっていた。その斜向かいにはポップアート志向のサブカルファッション・グッズショップがあった。アートと若者の街にありがちなヒリツイた空気はあるものの*2、髭バッヂ男の警告に反して、身の危険らしい危険は感じられない。

キャピトルヒルのジミー・ヘンドリクス像



 シアトルはグランジの発祥の地だという。マーク・フィッシャーによると、カート・コバーンは資本主義リアリズムの絶望をもっとも能く体現したミュージシャンなのだそうだ。ジェイムソンのいうところの『もはやスタイルの革新が不可能で、想像の博物館の中で死んだスタイルを模倣することしかできない世界』の中に自分がいることを見出し、反抗することそれ自体が産業にあらかじめ取り込まれた見世物だと了解しながらも、それが耐え難いほどに陳腐だと知りながらも、反抗の態度を貫かざるを得なかった男。
既に確立された『オルタナティブ』や『インディペンデント』という文化圏を見てみよう。そこでは、まるで初めてであるかのように、古い反抗や異議申し立ての身振りが延々と繰り返されている。『オルタナティブ』や『インディペンデント』は、主流文化の外側にあるものを指し示すのではない。むしろ、それらは主流の中でのスタイル、実際には支配的な様式なのである。」( Mark Fisher," Capitalist Realism: Is There No Alternative?")
 わたしたちは『インディペンデント』や『オルタナティブ』だったものが主流文化に取り込まれているさまを実際に目の当たりにすることができる。「想像の博物館」などではなく、現実の博物館で。シアトルには〈ポップカルチャー博物館〉という音楽・映画・ゲームなどのサブカルチャーを扱った施設*3があり、そこではニルヴァーナを特集した展示も設けられている*4。かれらの愛用した楽器、レコードのジャケット、ポートレイト、ライブのフライヤー、そして生涯がガラスケースの向こうで陳列され、かつて蔑まれていた文化に正統性を与えている。尊いことだ。入場料は30ドルほど。ウェブサイトから予約する場合は曜日とタイミングによって価格が変動するらしい。株価のように。

ポップカルチャー博物館



 ちなみにこのポップカルチャー博物館でのニルヴァーナの展示は、つい最近、ある物議をかもしたカート・コバーンについての解説板に「彼は27歳で"un-alived himself"した」と書いたのだ。
 un-alive とはインターネットのスラングで「自殺」を指す。
 2020年以降、コロナ禍で病みやすくなったユーザーの精神を救うために、プラットフォームの側が検索において特定のネガティブな単語を検閲するようになった。「自殺」もそのひとつだったのだけれど、まあしかし、インターネットで自殺について語らないなんて不可能だ。ユーザーは禁止された単語を別にワードに置き換えるようになった。それが、un-live 。
 こうしたネットにおける検閲逃れのテクニックを英語圏では、アルゴリズムによるフィルタリングに適応した言語という意味でアルゴスピーク(Algospeak)と呼ぶ。そうしたものをポップカルチャー博物館のキュレーターは「メンタルヘルスとの闘争のために悲しくも命を落とした人々への敬意のしるしとして」使ったらしい。奇妙ではあるが、文脈としては通らなくもない。
 ところが、一部のひとびとがその言い換えに反発した。かれらが引き合いに出したのはジョージ・オーウェルの『1984年』だった。『1984年』で描かれる管理ディストピア社会では、市民を馴致するためにアルゴスピークならぬニュースピークなる語法が幅を利かせている。要するに語彙をシンプルに変えていくことで市民の思考の幅を絞ろうとするのだけれど、そのうちのテクニックのひとつとして、接頭辞にun-をつけることで(主に政府批判に使えそうなネガティブな)反対語を大幅に削減するというものがあり、un-liveはそれを想起させる⋯⋯というのが博物館批判派の主張だ。

 結局、博物館側が折れて「died by suicide」という一般的な表現に修正されたらしい。
 皮肉な騒動だ。アルゴリズムによる統制に抗って生まれたアルゴスピークが博物館という権威に回収され、自殺という悲劇を無痛化するために用いられた。おそらく、キュレーターにはコバーンの死を消費したくない、という個人的な願いがあったのかもしれない。しかし、インターネット上での力なきひとびとの抵抗手段を博物館のキュレーターという立場から振るった結果、インターネット文化からのディストピア的悪夢めいた収奪と化してしまった。フィッシャーにいわせれば、これこそニルヴァーナ的な現象だろう。
 オルタナティブでありたい、自由でありたいと願うわたしたちの精神はすきあらば盗まれ、無害化され、取り込まれ、換金されていく。そこから逃れることはできない。

 I’m out for Presidents to represent me. (Say What?)
 I’m out for Presidents to represent me. (Say What?)
 I’m out for dead Presidents to represent me.

俺を代表してくれる大統領なんていない
 俺を代表してくれる大統領なんていない
 俺が求めている大統領は 札束に印刷された死んだ大統領だよ
 ーーNas、池城美菜子訳「The World is Yours」


11月5日午後3時 エリオット・ベイ・ブック・カンパニー


生まれながらにして土地の名を腹部に縫い込まれた哀しき獣



 魚があいかわらず墓場に行きたいとだだをこねるので、書店に入る。書店は墓場以外でもっとも墓場に近い場所だ。いまは亡い人間が死んだ紙に失われてしまったことばを綴るのが本であり、書店ではそうした墓碑を粛然と並べている。
 書店はエリオット・ベイ・ブック・カンパニーと名乗っていた。公式サイトにはこうある。
エリオット・ベイ・ブック・カンパニーは、キャピトル・ヒル地区の心臓部に位置する総合書店です。地域最高レベルの15万冊以上の新刊書コレクションに加え、大量の既刊本も取り揃えています。さらに、年間を通してすばらしい著者たちによる朗読会やイベントを実施しています。
1973年にウォルター・カー氏によって創業された当店は、パイオニア・スクエアのメイン・ストリート109番地にインディペンデント系書店として設立されました。その後、著者朗読会用のイベントスペースやシアトル初の書店併設カフェを加えながら、店舗の拡大と変遷を重ね、2010年にシアトルのダウンタウンに隣接するキャピトル・ヒル地区に移転しました。私たちは独自の書籍セレクション、杉材を用いたオリジナルの本棚、そして知識豊富なスタッフと共に移転し、これまでと変わらない温かい雰囲気、カスタマーサービス、品揃えを維持しています⋯⋯
 そして、「Thank you for supporting this woman and queer owned business.」という一文で締めくくられている。




 二階建ての、すばらしく雰囲気のいい本屋だ。質量ともに充実していつつも、インディペンデント系らしく店としての趣味や政治性*5を反映したセレクトも並ぶ。YA、絵本、マンガといった子どもたちのためのスペースも贅沢に取っていて、そういうのを見るだけでも豊かな心地になれる。
 誘われるようにSF&ファンタジーのコーナーに行くと、新刊棚にパオロ・バチガルピの新作『Navola』(内容はまだ知らない)やレヴ・グロスマンの『The Bright Sword』(内容はまだ知らない)、20世紀初頭の満州を舞台にしているらしいヤンシィー・チュウの『The Fox Wife』(やっぱり内容はまだ知らない)などが面陳されている。その裏に回ると、慣れ親しんだ、死んだ作家たちがたくさんいた。

 そのなかにJ・G・バラードの『ハロー、アメリカ』があった。
 コンラッドの『闇の奥』を下敷きにエネルギー枯渇と財政破綻と劇的な環境変動によって滅んだあとのアメリカ合衆国*6を舞台にしたSFだ。滅亡から一世紀ほど経ったところで、ヨーロッパに離散していたアメリカ人の子孫*7が蒸気船アポロ号に乗ってマンハッタン島へ上陸し、その船にこっそり潜んで「密航した21歳の青年(もっとも偉大な西部劇俳優と同じ名前の「ウェイン」)は、自分がこの国の新しい支配者、第45代大統領となることを夢見るが⋯⋯」*8。かつて合衆国を覆っていた資本主義と車とパラノイアが幻想的かつ鮮烈なイメージとして矢継ぎ早に展開されていく、いつもどおり美しくどうかしているバラード作品だ。「優れたアメリカ論フィクションは往々にしてアメリカ人以外の手で描かれる」という法則*9に、この本もまたのっとっている。
「第45代大統領?」
 と、魚は、ない首をかしげる
「今は第何代だっけ⋯⋯?」
『ハロー、アメリカ』が出版されたのは、1981年のことだ。古いSFの描く近未来は、わたしたちの生きる現在に追い越されることがある。それが昔はいやだった。今は、ちょっと、いいかもしれない。
 ググると一発で出る。1789年ジョージ・ワシントンから数えて45代目(58期目)のアメリカ合衆国大統領は、2017年に誕生した。見たことのある顔だった。ホテルのテレビが絶えずその顔を映していた。
『ハロー、アメリカ』に出てくる”もうひとりの第45代大統領”がどんな名を名乗っていたか。おもいだすべきではないのか。
 

レーガンの個性(パーソナリティ)。この大統領選候補者の深遠な肛門性は、将来において合衆国を支配すると予想されよう。⋯⋯(中略)⋯⋯サディズム傾向をもつ精神病質者たちにレーガンをともなう性的妄想を生みだすよう求める実験がさらにおこなわれて、大統領職にある人物たちはもっぱら生殖器の観点から認識されているという見込を裏づける結果となった。

 J・G・バラード法水金太郎訳「どうしてわたしはロナルド・レーガンをファックしたいのか」


11月5日午後5時 シアトル・ボランティアパーク


 



 書店で手に入れた『Nintendo Power』誌*10に載っていた地図をたよりに、墓へ向かう。シアトルのレイクビュー墓地には、ある偉大なスター俳優が葬られている。
 ブルース・リーだ。十八歳で香港からシアトルに渡った李小龍青年は六年のあいだ肉体*11と精神*12を磨き、それからカリフォルニアへ移ってジークンドーを創始した。ついでに映画スターにもなった。と、いうのが Wikipediaで語られるところのブルース・リーとシアトルの由縁で、しょうじきブルース・リー映画をロクに観たことのないわたしには、なぜ死んだカンフースターが魚にとってそこまで深甚な意味をもつのか、わからない。
 あらゆる死への道がそうであるように、墓場までの道のりもまた遠い。ANTIFAが集会を計画しているともボンクラどもがLARPを開こうとしているとも噂されているボランティアパークを横目に、やたら人間に対してイキりたっているリスのガンつけに怯えつつ、住宅街を過ぎていく。よくアメリカの映画なんかで見るかんじの「郊外の一軒家」然とした家が多い。適度な広さの芝生に、トム・ソーヤーがペンキ塗りをしていそうな塀に、年老いた南部人が安楽椅子を漕ぎながらライフルの手入れをしてそうなポーチ。ハロウィンのかざりつけが残っている家も多い。そして、もちろん、路上にはリードで人間と並走しているイヌたち。

激しく動いて人間を威嚇する、凶暴なリス



 ベルビューより手ごろかもだけど、だとしても生活費がべらぼうなんだろうなあ、などと世知辛いことを考えながら、坂をのぼっていく。夕方の風が冷たい。冬に近づきつつある。あるいは死に。
 住宅街を抜けると、また別の公園だ。なんかもう、シアトルの公園の多さと豊かさにはびっくりする。どこも歩くだけで心地よくて、たちまち土地に対する愛が芽生えてしまう。I ♡ Seatle。

「シアトルのつづりは、Seattle。tはふたつだ」
 と、魚がテンションの下がることをいう。
「それは先住民の酋長の名だった。彼は入植者たちと交渉しつつ、彼のひとびとを守る方策を探った。平和主義者と、いまならいえるだろう。でも、その姿勢が妥協と見られて、彼のひとびとから反発もされ、その一部が入植者と戦争を起こした。結局、彼のやさしさは報われなかった。あの悪名高いポイント・エリオット条約が結ばれ、彼のひとびとは先祖代々の土地を失い、アメリカ各地へと散らばった。平和とはなんだろうね、オオサンショウウオ? 交渉とは? ひととひととが交わることとは? 英語でtがひとつだから、ふたつだから、それが英語でないことばを話していたひとびとにとってなんなんだ?」

 魚は視点の定まらない眼を泳がせ、顎をパクパクさせながら、早口でそんなうわごとを口走る。息を吸い吐きするたびに、腹部の鱗に藍色の夕闇にきらめきの波を立たせる。いや、もう、夜だ。


 魚は死にかけている。


 どうしようかと、顔をあげると、視界に黒い穴がとびこんだ。よく見ると、表面がたゆたっている。貯水池だ。
 魚を池に放さねば、と焦るのだけれど、池の周囲に網と有刺鉄線が張り巡らされており、侵入できない。
 ふと、池のそばに目をやると、高い塔があった。あの塔の最上階から魚を池へ落とせば、有刺鉄線の壁を越えられる。これだ。わたしは塔に突撃した。

 



 これだ、ではなかった。
 死ぬほど死んだ。
 塔のなかは強敵だらけで、『ダークソウル』の城下不死街みたいになっており、いや城下不死街より適切なたとえが『ダークソウル』にはあるのかもしれないがわたしはそこより先に進めておらず、ともかくも永遠に出られない死地なのだった。
 篝火から篝火に移動しようとしては、休憩ごとに復活するスケルトン兵たちの襲撃に耐えきれず、もとの篝火へと撤退する。乾坤一擲で無理に突破をはかると、死ぬ。どうにもならない。
 途中の踊り場で出会った商人の話によれば、塔のなかは全三十の階層に区切られており、フロアごとにボスが配置されている。屋上にたどりつくには最低でも30くらいまでレベルをあげておかないときびしいらしく、それもまともなプレイスキルがあっての話だった。わたしの腕なら50でもちょっと苦しい。

 結局、塔の攻略は断念せざるを得なかった。わたしたちは塔を離れ、ふたたび墓地を目指した。寒風に逆らいつつ、ひいひいと坂をのぼる。魚は目に見えて衰弱していく。だんだんと、鱗の波が凪いでいく。
 開けた丘のような地点に出た。なにやら立派な博物館が建っている。ウィング・ルーク博物館だ。アジア系移民の歴史に特化した展示を行う博物館らしい。すこし惹かれたが、とうに十七時を過ぎて閉館している。




 その博物館の正面に展望台があった。ドーナツ型の謎のオブジェの向こうに、シアトル中心街の夜景が広がっている。きれいだね。疲れ果てた身体からはそんなシンプルなことばしか出ない。墓地はまだまだ遠いようだった。
 ほら、きれいだよ、とよく夜景が見えるようにと抱えていた魚を上に持ちあげる。反応が薄い。なにもいわない。

 魚をおろして、その呼吸をたしかめる。

 息が絶えていた。



 この土地では他人の同情心なんかをあてにしてはいけないのだ。カールはアメリカのことを本で読んでいたが、この点ではまったく正しかったわけだ。ここではただ幸福な人々だけが周囲の無関心な顔にはさまれながら、めいめいの幸福をほんとうに享楽しているように見えた。

 ーーフランツ・カフカ、中居正文・訳『アメリカ』



11月5日午後7時 シアトル・某所


出口。ほんとうに?



 死んだ魚を抱えて、Uberの運転手にてきとうなバーへ向かうように頼んだ。禿頭の運転手は自分のことをAmazonのCEOだと思い込んでいる狂人で、自分もこのあたりに住んでいるのだといった。
「このへんはいいところだよ。みな穏やかで、犯罪もない。隣人はみな親切だ」
 と、運転手はいう。
 わたしは昼間に遭遇した赤いジャケットの予言者からもらった警告について考えた。
 運転手は一方的に喋る。
「バーに行きたいのか? こんな日に? へんな人だね。まあ、いいんじゃないか。この街ではなにかが起こっても、なにも起こらない」
 バーは混んでいた。なにやらパーティのようなものが開かれているせいだった。色とりどりの風船が飛び、スーツを着た女性のパネルが設けられ、大きなプロジェクタ用スクリーンにMSNBCの特別ニュース番組が映し出されている。




 スクリーン前に群がったひとびとは、「Harris/Walz」と書かれた帽子やバッヂをつけ、談笑しながら光をながめていた。
 番組の画面が切り替わって、青背景をバックにパネルになっていた女性が映し出され、「ヴァージニアで勝った」と報じられる。バーの客たちから歓声があがる。直後、赤背景をバックに金髪の老人が映し出され、「サウスカロライナで勝った」と出る。ブーイングがあがる。
 なにをやっているのか、と訊ねる勇気はなかった。たぶん、スポーツ観戦かなにかだろう。あるいは、ビンゴ大会。

Dang Dang 混み合う



 わたしはバーの前に停まっていたフードトラックに死んだ魚を調理してくれるように頼んだ。すると、たいそう見栄えの良いフィッシュ&チップスをこしらえてくれる。フードトラックのシェフがこう訊ねる。
「友だちだったのかい?」
 わたしは答える。
「たぶんね」
 ほんとうは「そうだったらよかったね」といいたかったのだが、わたしは英語でどういえば起こり得なかった過去についての願望を表現できるのかわからない。

別のハンバーガー屋のテレビ



 バーのなかから歓声が響いた。また青い女性が勝ったらしい。
 チップスをつまみながらバーに戻ると、出入口横の空間にステージらしき台座がこしらえられていた。ギターやベースを持ったひとびとが音合わせをしている。マイクスタンドもできていた。ライブをやろうとしているらしい。でも、バーのひとたちの視線はスクリーンに注がれていて、だれもステージとバンドの出現に気づいていないようだった。

バーにも、イヌ。



 今度はブーイング。見ると、金髪の老人ではなく、壮年の別の男性が映っていた。テキサス州でSENATEというのを勝ち取ったらしい。ここでは赤ければ、みんな敵であるようだった。
 バンドが演奏をはじめた。ボーカルが三人フロントに立ち、耳慣れたなつかしいサウンドに乗せてラップをはじめる。Rapper's Delight であるようだけれど、わたしの知っている歌詞とは違う。どういう歌詞かわかればよかったのだけれど、フィッシュ&チップスをたらふく食べてお腹があったまり、ねむくなっていたわたしには、マイクを通して撹拌されバーの喧騒に融けていく声をうまく聴きとれない。まどろみのすきまを縫って、となりに座っていた客が別の客にこうこぼしているのが聞こえる。「なんて混沌だ。恥だよ。なんとも、恥ずかしい⋯⋯」




 そういえば、ベルビューのショッピングモールを散策しているときも、聴こえてくる音楽は絶妙にチージイで懐かしかった。トゥー・ドア・シネマ・クラブの「Undercover Martyn」、マルーン・ファイヴの「This Love」、ダニエル・パウターの「Bad Day」。”あのころ”のヒットナンバーばかり。やはり混沌としていたけれど、今よりはそうでなかった”あのころ”。ベルビューのメイシーズはそんな時代に留まっているかのようだった。なんたって、バーンズ&ノーブルとかいう大手書店チェーンが新規開業するモールなのだ。2024年なのに。本を、しかも紙の本を読む人間なんて地上のどこにも残っていないはずなのに。*13なのに⋯⋯なのに⋯⋯⋯⋯Zzzz....。

〜かわいイヌ〜



 さいきん観た映画でシアトルが舞台だったものはあっただろうか? あった。リチャード・リンクレイターの『バーナデット ママは行方不明』だ。シアトルの郊外に住む裕福な家庭の主婦であるバーナデット(ケイト・ブランシェットが演じている)が近所付き合いや子育てに疲れはてて壊れ、建築家というかつての夢に逃避して南極へと向かう物語。彼女の夫はマイクロソフト社員で、マイクロソフトの本社はもちろんシアトル近郊のレドモントンにある。「資本主義の何が問題かというというと、誰にも好まれないものを供給するということです。資本主義と選択の話をすれば、「マイクロソフト」、そのひとことにすべてが凝縮されています。誰もほしいとおもっていないのに、みんな持っていないとダメなものです。チェーン店も同じです。チェーン店の大ファンなんているのでしょうか? ほとんどいないとおもいますが、わたしたちはみなそこに行く羽目になるのです*14⋯⋯。
 幸福であるように見えることも「誰もほしいとおもっていないのに、みんな持っていないとダメなもの」のひとつだ。幸せな家庭を築き、それを近所に福々しく見せなければならない。そうした見た目の幸福はマイクロソフトAmazonスターバックスから配られる。ここシアトルから輸出される。みなそこに行く羽目になる。

 そういえば、昨日はスターバックスの一号店に行った。海辺のピアにある小さな店舗で、店内に飲食用のスペースはなく、半分はカウンター、もう半分はマーチャンダイズに割り振られていた。




「みんなここでしか手に入らない商品ですよ」と一号店の店員はほがらかにつげる。京都に帰ってからそれを■■■■に話すと、「京都のスターバックスでも京都限定のグッズが売られている」と教えてくれた。御当地ハローキティのように規格化された差異という、矛盾した商品がいともかんたんにわたしたちの現実に流通する。わたしたちはみなあらゆる場所へ行く羽目になる。
 一号店のコーヒーには一号店限定の豆が使われていた。飲むと、たしかにおいしい。でも、ふだんスターバックスに行かないわたしには、その味が他店とどう異なるのかわからない。

〜かわいイヌ〜



 椅子から転がり落ちかけたところで、目が覚める。よだれをふきふきあげた視線が、プロジェクタの画面に定まる。画面の両端からそれぞれ赤いバーと青いバーが表示されていて、赤いバーのほうが長い。来たときから、ずっとだ。
 客の数が減っていた。残ったひとたちもEXITと掲げられたサブの出入り口から帰りはじめている。みな、憮然とした表情だ。怒りや悲しみといった激烈さはなく、ただただ無表情になにかを諦めているようすだった。
 バンドはティアーズ・フォー・ティアーズの「Everybody Wants to Rule the World」を口ずさんでいる。本気か? 『Mr.Robot』じゃあるまいし。今年は『ネクスト・ゴール・ウィンズ』でも『怪盗グルー』の新作でも聴いた気がする。*15ウクライナでの戦争開始からこのかた、ずっと流れている曲な気がする。いや、2016年からだったか? それよりもっと前から? 「光の届かない部屋がある/壁が崩れ落ちる中で手を取り合って/その時が来たら、私はすぐ後ろにいる」⋯⋯。*16

 だれも歌を聴いてはいなかった。ステージの前は不自然なまでにきまずい空白ができていた。みなプロジェクタを凝視するか、帰路につくかしている。ひとりを除いて。
 



 赤いジャケットの髭バッヂ男だった。あの予言者がいた。

 バンドの演奏にただひとり反応し、踊り狂っている。

 ボーカルのひとりが「Recount!」と叫び、あたらしい曲がはじまる。

 ますます髭バッヂ男のダンスがはげしくなる。

 彼の存在に気づいた一部の客たちはなんともいえないかんじで彼をながめていた。

「あの男、おれは好きだな」とだれかがつぶやくのが聞こえた。




 信じてくれ。

 これはほんとうにあったことだ。
 
 11月5日に、わたしが目撃したすべてだ。

「それで、どこへ?」トムはさけんだ。「ぜんたい、どこへ行くつもりなんだ?」
「わからない」と彼はいった。「いや、そうだ。アメリカへ行くんだ!」
「いや、やめろ」トムは煩悶しながら、さけんだ。「行くな。お願いだから行かないでくれ。もう一度、よくよく考えてみてくれ。そんな向こう見ずなことはしないでくれ。アメリカへは、行かないでくれ」

 ーーチャールズ・ディケンズ『マーティン・チャズルウィット』


11月6日午前8時 ベルビュー





 朝の風景はおだやかだった。なにひとつ変わったようにはおもわれない。イヌはあいかわらずそこいらじゅうにいて、ヒトは走っている。安全がつづいている。
 ふたたび、ワシントン湖沿いの公園に来ていた。あのとき、魚に呼び止められて入れなかった薄暗い坂道の前に立つ。




Alan Wake 2』の冒頭に出てくる森のようで、かすかにいやな予感もよぎったけれど、いやここはベルビューなのだし、”日本”なのだし、と一歩を踏み出す。あしもとの枯れ葉がくしゃりと乾いた音をたてる。くしゃり、くしゃり、とそんな音を響かせながら、だれもいない茂みをゆく。
 おもったとおり、ここもまた気持ちよくウォーキングが楽しめる道だ。傾斜はやや急だが、適度に脚に負担がかかるところがまた心地いい。入る前におぼえたいやな予感など、とっくに忘れてしまっていた。
 静かだった。住宅街のど真ん中にあるはずなのに、どこかの山の中腹みたいに人気がない。こんな場所を街なかに造れるだなんて⋯⋯ベルビューでは驚かされっぱなしな気がする。

 と。


 背後に気配を感じた。その感覚に、低いエンジン音が追いついてくる。
 振り返ると、うしろからシアトル市警のパトカーがのろのろと迫っていた。

 2023年1月、と魚が昨日教えてくれた事件をおもいだす。
 インド系の23歳の大学院生、ジャーナビ・カンドゥラが横断歩道を渡っている最中にパトカーに轢かれて死亡した。シアトル市警は最初その事実を隠蔽しようとしたという。その後、別の警官がカンドゥラの死を茶化している動画が公開された。録画されたその映像で、警官はこういっていた。
「彼女はなんでもない人間だったんだよ⋯⋯11000ドルだっけ? 小切手を切ればいい。どうせ26歳なんだし、そんな価値のある女じゃなかった⋯⋯」

 パトカーはゆっくりとわたしを追い越し、十メートルほど先で停車する。

 
 なんだ?


 ここはなにもない坂道だ。歩いているものも、わたし以外に存在しない。
 わたしか? わたしに用があるのか?

 心臓が高く強く打つ。脳の髄が焼けつく感覚をおぼえる。寒さにかじかんでいた指先が火照る。

 ここはアメリカだ、とわたしは今まで忘れていた事実を思いだす。
 だれかが銃を持っているかもしれない国だ、という事実を。
 というか、確実に持っている。相手は警官なのだから。
 入国審査官のねちっこい、疑わしげな視線をおもいだす。
 あの赤いジャケットの髭バッヂ男をおもいだす。
「気をつけろ」

「おまえはひとりだ」



 動揺を押し殺しながら、パトカーの横を通る。
 呼び止められるか、とおもったが、パトカーのなかからの反応はない。警官が車内でなにをしているのか気になったが、こわすぎて運転席を一瞥すらできない。

 ある程度パトカーに先行したところで、速歩きになる。歩道へはみ出した茂みがパトカーからの視線(「射線」だ、とそのときは捉えていた)をさえぎってくれるところまでくると、小走りに駆け出す。坂をあがりきり、住宅の並ぶ通りへ飛び出す。

 パトカーが追ってくる様子はなかった。

 だが、恐怖は止まらない。


 わたしは走りつづけた。走って走って、道を下り、車道を横切り、ダウンタウンを越え、地下へと潜り、京都市営地下鉄の車両に飛びこんだ。
 慣れた灯りに照らされて、ようやく一息をつくが、呼吸は荒れたまま落ち着かない。鼓動も全身を揺らしつづけていく。
 扉が閉まり、車両がゆっくりと動き出す。そして、国際会館を経由して烏丸御池まで⋯⋯京都までわたしを運んでいく。

なんか京都駅にちいかわポップアップストアができてた。



proxia.hateblo.jp

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*1:ベルビューの名誉のためにいっておくと、ダウンタウンにあるRoyal Bakehouseのクロワッサン・アマンドは過剰な甘さでおいしかった。コーヒーチェーンのクロワッサンより安いにもかかわらず、大きさは3倍ほどあった

*2:キャピトルヒル地区はブラック・ライブス・マターの時期に抗議運動を過熱させた末、シアトル市警を追い出して自治を行ってもいた。Capitol Hill Occupied Protest - Wikipedia

*3:創設者はマイクロソフトの共同創業者でもあるポール・アレン

*4:Nirvana: Taking Punk to the Masses | Museum of Pop Culture

*5:とはいえ受けは広く、見間違えでなければバーニー・サンダースなどの本と並んでオルトライトの論客であるマイロ・ヤロプロスの本まであった。

*6:ついでになぜか日本も滅んでたはず

*7:そもそもアメリカ人自体がいろんな国からの移民で構成されているので、彼らは「故郷」に戻っていただけだったともいえるが

*8:創元SF文庫版表紙あらすじより

*9:ゲームだと『Death Stranding』もそうだし、『Life is Strange』もそうだ。そういえば、『Life is Strange 2』はシアトルから始まって米墨国境の「壁」に至るロードストーリーだっだ。それをわたしはあるプロラブコメディアンから指摘されて、はじめて気づいた。というか、調べてみると、シアトルはLISシリーズ通して出てくる定数であり、一部ファンのセオリーでは「”力”の発現に関係あるのでは」とささやかれている。らしい。

*10:アメリカで発行されていた任天堂公式のゲームマガジン

*11:詠春拳をベースに道場を開いた

*12:名門ワシントン大学の哲学科に入った

*13:これはわたしの物知らずだ。バーンズ&ノーブルは近年は店舗ごとに地域に合わせた品揃えを展開し、シアトルにかぎらず全国的に拡大傾向にあるらしい。https://www.honest-broker.com/p/what-can-we-learn-from-barnes-and

*14:マーク・フィッシャー、セバスチャン・ブロイ&河南瑠莉・訳「「未来を創造しなければならない」ーーマーク・フィッシャーとの未公開インタビュー(2012年)」

*15:『マエストロ』では「Shout」も流れてたっけな。

*16:個人的には『ハンガー・ゲーム』の主題歌としてロードがカバーしたバージョンが好きだ

2024年に観た新作映画ベスト10+10+犬+コッポラの『メガロポリス』

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「それって、味の感想じゃないですよね?」


 ーー『悪は存在しない』(濱口竜介監督)


proxia.hateblo.jp
(上半期公開映画分の感想はだいたいこっちにあります)


 朽ちつつあります。
 12月は『モアナ2』*1と『ライオンキング:ムファサ』を観て激怒したわけですが、しかしその怒りをしたためるほどの気力がない。寒いせいでしょうか。老いたせいでしょうか。いや、すべてが滅びつつあるせいです。チャーリー・カウフマン脚本の『オリオンと暗闇』で言われたとおり、いまや「サンダンス映画祭の出品作の半分よりも暗闇のほうがおもしろい」。
 ディズニーの続編/実写化路線をいまさら批判したところでディズニーを救えるわけでもなく、ジャウム=コレット・セラの映画を毎年スクリーンで観られたあの黄金の日々が戻ってくるわけでもありません。われわれはどうにかやっていくしかないのだから、毎日にささやかな喜びを見出していきましょう。イーストウッドやリンクレイターやリドリー・スコットやシャマランや山田尚子やグァダニーノの新作を観られることを言祝ぎましょう。ヨーロッパからやってきた新しい才能を歓迎しましょう。たいして興味のなかったシリーズの続編やプリクエルのおもわぬ楽しみを享受しましょう。世界の残酷さを捉えたドキュメンタリーから学び、現世を憂えましょう。いうではないですか、芸術は加点法で採点すべきだと。美点にだけ光をあてるべきだと。加点法であれば、『ムファサ』だって名作です。

 そんなわけあるか。

 なめてるのか。

 ふざけてるのか。

 何も見えていないのか?

 映画に点数をつけるな。
 順位をつけるな。年末になどまとめるな。
 ことばにほんとうなどはなにもない。本物が欲しければ、さびれた海岸の町に建つ、「帝国」という名の劇場を買い取って、そこでかつてはみなに観られていたのに、いまはだれからも忘れられてしまった映画をかけなさい。真理も信仰もその光のなかにしかありません。
 映画から見れば、人類なんて全員0点だよ。

2024年の新作ベスト10

1.『I Saw the TV Glow』(ジェーン・シェーンブルン監督)

 120点の映画ですね。技術が20点で、気持ちが100点。
 ひとことでいえば、藤近小梅の『隣のお姉さんが好き』をダークで陰鬱にしたような話で、幼少期からずっとフィクションを摂取してきた人間たちにとっては終着点というか、とどめの一撃のような映画です。
 十年前にハリウッドを席巻したインディーの波は今や凪ぎ、A24さえもかつて薄暗さを失いつつある昨今、この『I Saw the TV Glow』は死ぬ前に見る走馬灯です。誰の? あなたの。わたしの。まだ根性悪く続いている20世紀の。

2.『ソウルの春』(キム・ソンス監督)

 こんなグダグダなクーデター映画観たことないって感じで新鮮でした。戦争にしろクーデターにしろ、歴史上の出来事の勝者の側ってなにかと最適なムーブして勝ちましたみたいなイメージで語られがちですけれど、実際はけっこうミスったり抜けてたりするんですよね。実際のところ、スポーツやゲーム以外の勝負事の八割は、「勝った側が相手より賢かった」というより、「負けた側が相手よりアホだった」という理由で決着がついているのだとおもいます。そもそも最適解ってルールや法則がかっきり決まってる場だからこそ出せるものですし。
 そして、クーデターは正規に組織化された戦争よりもよほど曖昧なギャンブルで、敵も味方もミスりまくる。それって、はたからみるとコメディに近くて、たとえば『日本のいちばん長い日』なんかもそういうとこありますよね*2
『ソウルの春』はそうしたクーデターのコメディに自覚的で、だからこそおもしろくて恐ろしい。
 特にファン・ジョンミン演じる全斗煥*3と、彼に同調する軍高官たちの温度差の描写がいい。首謀者の全斗煥はクーデターが失敗したら即人生ゲームオーバーだからフルベットするんですけど、仲間たちは失敗してもあわよくば生き延びようと両睨みなので少しでも不利になると腰がひけてしまう。
「このプロジェクトメンバーでマジでやる気あるの、もしかして私だけ!?」という話で、そういう意味ではいちばん近い映画って実は『トラペジウム』なんですよね。一つのことに全賭けする以外の選択肢を持てないリーダーと、そのリーダーにちょっと引いちゃうメンバーの話。
 どうしても鹿爪らしい顔で語るしかない事件を、ドエンタメとして描くことができるところは韓国映画の強さ。

3.『ゴッドランド/GODLAND』(フリーヌル・パルマソン監督)

 上半期のベスト。「ちょっとアイスランドまで行って教会建ててきてよ」と命じられた神父が単身アイスランドに乗り込むんですが、人はいるにはいるけど雪と火山と氷と動物の死骸しかない不毛の地なので当然神父は狂っていきます。アイスランド版『ゼア・ウィルビー・ブラッド』みたいな話です。そうかな?
 人を拒絶した土地で人間的な営み(文明、と言い換えてもいいかもしれない)を試みようとする映画はいつだって迫力あっていいですよね。TWBBしかり、『フィッツカラルド』しかり、本作しかり。カメラの三人称的な距離は、人間の卑小さをつきはなした形で、この上なく残酷に切り取ります。
 銀盤写真がいいアクセントに使われていて、映画の全体としても視線の扱いに自覚的。視線が丁寧な映画はすべてよい映画です。

4.『アイアン・クロー』(ショーン・ダーキン監督)

 毒親プロレスファミリーもの。仲睦まじかったプロレスラー兄弟たちがトキシックな父親のせいでプロレスラー兄弟たちが、どんどん狂って死んでいく。善良なものであれ悪きものであれ、映画においてホモソーシャルとは崩壊させるために用意されます。その陰惨な崩壊美には誰にも抗えない。

5.『ドリーム・シナリオ』(クリストファー・ボルグリ監督)

 編集だけで勝っている映画ってそんなにないんですけれど、『ドリーム・シナリオ』はコメディとしてカットの切り替わるタイミングといいテンポといい完璧で最高でした。だれが編集やってるんだとおもったら監督自身だった。夢を扱った映画としても夢と現実のルックのバランスがちょうどよい。『シック・オブ・マイセルフ』のときはそこまで評価できなかったんですが、なんかここまで勘のいい監督だったとは。
 アリ・アスターの推す新人は『オオカミの家』のレオン&コシーシャといい、逸材が多い気がする。もしかして、プロデューサーの才能あるのか? アスターがエグゼクティブ・プロデューサーをつとめる『サスカッチ・サンセット』もすこぶるおもしろいとの評判なので、来年五月の公開が楽しみ。

6.『チャレンジャーズ』(ルカ・グァダニーノ監督)

 過去と現在を往還する語りとゼンデイヤを挟んで揺れる三角関係を、テニスのラリーと重ねて描いた時点でハイ大勝利って感じ。物語と感情と運動を一致させる超技巧。グァダニーノ映画は、最高傑作でないときでさえ、他の映画を優越します。

7.『きみの色』(山田尚子監督)

 あなたは今ここにある世界がうつくしいと断言できますか? ありのままの世界を肯定できますか? イエスと答えたとして、テレビをつけてBBCやCNNのワールドニュースを十分間観た後でもなおその返答を覆しませんか?
 できないでしょう。
 今あるこの世界を直視に値する美しいものとして心の底から信じているひとは、とくに創作者であれば、おそらくほとんどいなくて(だってそもそも創作とは今ある現実を変えようとする試みなわけですし)、それってまあ例外的な狂気だよねとおもうわけです。山田尚子は、その超希少な狂人の一人。『平家物語』に至っては悲劇的な死すら、ありのままの世界の一部として肯定しようとしている。そこまで狂える人はいません。だからこそ特別で、だからこそ毎作が傑作なんです。
『きみの色』はそうした山田尚子映画のマニフェストです。マニフェストであるがゆえに、原理主義的であり、自己充足的であります。だから、ヒットはしませんし、これが山田尚子の最高傑作だというひともあまりいないでしょう。
 しかし、聖典であり、正典であることは疑い得ません。

8.『ヒット・マン』(リチャード・リンクレイター監督)

 今年はだれの年であったか。と問われれば、心ある映画ファンの98パーセントは、「グレン・パウエルの年」であったと迷いなく答えるとおもいます。『恋するプリテンダー』、『ツイスターズ』、そして、『ヒットマン』。たった一年で「2020年代のロマコメの帝王」の座を確立してしまいました。
 ロマコメはその古式然とした規範の濃さーーいってしまえば、異性愛規範や恋愛至上主義といったところ*4が近年のハリウッドの価値観とずれてしまっており、ちょくちょくそのズレをどうにかしたいな〜みたいな暗闘を繰り広げていたジャンルです。個人的には古典的な型をハズす革新のフレッシュよりは、様式の美を求めがちなジャンルであるので、なかなかそのへんの兼ね合いがむずかしかったのですけれども。いっそピクサーの『マイ・エレメント』みたいに非人間化したほうがやりやすいのかもなどと考えていました。
 そうしたジレンマをグレン・パウエルは、たたずまい一発で解決してしまいました。なんでしょうね、あのクラシックなマッチョっぽいイケメンではあるんだけど、笑うとちょっと抜けるというか、アホっぽい善良さが漏れ出してくる安心感。でもどこか陰もある。あの笑顔がラブコメにおいてはハズしとして機能していて、なんなら批評性さえそなえているのがすごい。グレン・パウエル以外にはない資質です。スターかくあるべし。
 で、今年は『恋するプリテンダー』と『ヒット・マン』のどっちをベスト10に入れるかで悩んでいたわけですが、映画としての出来のよさで『ヒット・マン』かな、ということになりました。意外にクセのあるリンクレイターのオフビートさを乗りこなせる俳優はあまり多くないですが*5、グレン・パウエルがこれがまあ合いまくる。
 特にクライマックスの"ダンス"シーンの気持ちよさはマ〜ジで最高。とにかくヌケがよい。

9.『ゴジラ×コング 新たなる帝国』(アダム・ウィンガード監督)

 映画という枠組みは強固なようで脆弱で、脆弱なようでいて強固なものです。ときどき『スパイダーマン:ファー・ウェイ・フロム・ホーム』のような作品をなげつけられて揺らぐかとおもえば、なんだかぜんぜん大丈夫だったりもする。
 『ゴジラ×コング』はバカのふりをして全力でそうした枠を殴りつけてくる映画の耐性テストのような作品で、そうした映画独特のえもいわれぬ不安定さが気持ちいい。

10.『Talk to Me/トーク・トゥー・ミー』(ダニー&マイケル・フィリッポウ監督)

 オーストラリアはたまにというか、謎にホラー分野で快作を生みだします。以前だったら『ババドック』、今年は『悪魔と夜ふかし』。そういえば、わたしたちはジェームズ・ワンリー・ワネルがオーストラリア出身であることを忘れがちです。
 ロードキルで轢く動物がカンガルーであること以外にオーストラリア性というのがあるのかもわかりませんが、『トーク・トゥ・ミー』は近年のあの大陸から出てきたホラー映画でいちばんの作品です。
〈境界〉を飛び越えるときにはなにかアクションが欲しい。それを「手を握る」ことにした時点でもうしびれっぱなし。

+10

11.『恋するプリテンダー』(ウィル・グラック監督)

 やはりエンドクレジットが最高ですね。映画館で一回観たあとも、飛行機の中で何度もあのシーンだけ繰り返し再生しました。

12.『夜明けのすべて』(三宅唱監督)

もう日本の映画ってたぶん冬の光陰以外に撮るべき対象ってなくなっていて、それはまあ『ぼくのお日さま』とかもそう。それにもののやりとりや乗り物の往復運動を乗せれば、まあ映画になる。なってしまう。ゴダールは車と女があれば映画は撮れるみたいことを言っていたような気がしますが、別に車じゃなくても自転車で、女じゃなくても巨大な猿とトカゲでもよい。それが映画100年の発展なのだとおもいます。

13.『トラップ』(M・ナイト・シャマラン監督)

 シャマラン最高傑作では? ジャウム・コレット=セラの『セキュリティ・チェック』みたいにひたすら「犯人」側がグダっていく映画は好き。

14.『ホールド・オーバーズ 置いてけぼりのホリディ』(アレクサンダー・ペイン監督)

 このクラシカルなやさしさには抗いがたい。

15.『化け猫あんずちゃん』(山下敦弘監督)

 ホールドオーバーズとは別のアングルでやさしい映画。
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16.『ぼくのお日さま』(奥山大史監督)

 これも冬の光陰の映画ですね。光と運動を撮れる映画監督はそれだけで貴重です。

17.『シビル・ウォー』(アレックス・ガーランド監督)

 これ観た翌日にアメリカ行ったら大統領選当日だったんですよね。それはともかく、「撮ること」「目撃すること」のロードムービーとして上質。

18.『システム・クラッシャー』(ノラ・フィングシャイト監督)

 マジもんのアウトサイダーは救い得ないのだ、という現実を容赦なくつきつけていく点ではホールドオーバーズやあんずちゃんとは逆の映画と言えますね。現地ドイツでは19年公開作で、監督のフィングシャイトは2024年に『The Outrun』というシアーシャ・ローナン主演映画を撮って、結構評価されています。これは日本でも今年公開?

19.『オーメン:ザ・ファースト』(アルカシャ・スティーブンソン監督)

 ホラー映画に自分が求めるものってショッカーや怖さより、「へんな絵面」なのかもしれず、そういう点でこれは満たされまくりました。冒頭のチャールズ・ダンスの笑顔で最高の映画だとわかります。

20.『どうすればよかったか?』(藤野知明監督)

 日本的な家父長制って別に怒鳴ったり殴ったりはしてこないんですよ。ただ、「祟り神」と化したあなたを恐れ、怯え、閉じ込め、目を逸らしながらやりすごそうとする。人間ならそれでいつか死んで終わりなのですが、では、人間でないものの場合は?

他良かった作品

『悪は存在しない』(濱口竜介監督)、『メイ・ディセンバー』(トッド・ヘインズ監督)、『Chime』(黒沢清監督)、『エイリアン:ロムルス』(フェデ・アルバレス監督)、『インフィニティ・プール』(ブランドン・クローネンバーグ監督)、『リンダはチキンがたべたい!』(キアラ・マルタ、セバスチャン・ローデンバック監督)、『セキュリティ・チェック』(ジャウム・コレット=セラ監督)、『トランスフォーマー/ONE』(ジョシュ・クーリー監督)、『ビー・キーパー』(デヴィッド・エアー監督)、『ミッシング』(吉田恵輔監督)、『フュリオサ』(ジョージ・ミラー監督)、『ザ・バイクライダーズ』(ジェフ・ニコルズ監督)、『DUNE PART2』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)、『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督
)、『ゴールドボーイ』(金子修介監督)、『落下の解剖学』(ジュスティーヌ・トリエ監督)、『ダム・マネー ウォール街を狙え!』(クレイグ・ギレスピー監督)、『哀れなるものたち』(ヨルゴス・ランティモス監督)、『僕らの世界が交わるまで』(ジェシー・アイゼンバーグ監督)、『ビートルジュースビートルジュース』(ティム・バートン監督)、『枯れ葉』(アキ・カウリスマキ監督)
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リマスター/再上映では『カンフーマスター!』(アニエス・ヴェルダ監督)と『美しき仕事』(クレール・ドニ監督)、『テルマ&ルイーズ』(リドリー・スコット監督)。特に『美しき仕事』はベスト。

アニメ映画:よかった順

『きみの色』
『化け猫あんずちゃん』
『リンダはチキンが食べたい』
トランスフォーマーONE』
ウマ娘プリティーダービー 新時代の扉』
『ルックバック』
『オリオンと暗闇』
『数分間のエールを』
『ロボット・ドリームズ』
『トラペジウム』
ムーミンパパの思い出』
『FLY!/フライ!』
『めくらやなぎと眠る女』
インサイド・ヘッド2』
『ねこのガーフィールド
名探偵コナン 100万ドルの五稜星』
『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』
『モアナと伝説の海2』
『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』
機動戦士ガンダム SEED FREEDOM』
(『ライオンキング:ムファサ』はほぼほぼアニメなのですが、ディズニーが超実写版と言い張っているので実写枠です)

イヌ映画オブジイヤー

☆『落下の解剖学』
 『DOGMAN』
 『関心領域』
 『エターナル・ドーター』
 『ゴッドランド』
 『枯れ葉』
(『ロボット・ドリームズ』は入りません)
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ドラマ

『The PENGUIN』と『私のトナカイちゃん』がよかったよ。あと『地面師たち』はあんだけ転がして引っ張ってくれたんだから文句ないのだけれど、世の中そうじゃない人が多いようで、ちょっとビックリした。

フランシス・フォード・コッポラの『メガロポリス』のおもいで。

 メルボルン行ったときに観ました。ミニシアターみたいな小劇場に満員のお客さんがつめかけており、さすがコッポラの威光は南の果てでも燦然と輝いておるのだな、と感心しながら観はじめたんですよね。
 観始めて数分経つあいだにわたしは「え、これ⋯⋯これは、なんの⋯⋯なに???」みたいなかんじになってしまったのですが、オーストラリアの観客はなんだかやたらノリが良く、ところどころでドッカンドッカン爆笑する。コッポラは笑わせるつもりで撮ってなかったとおもいますが、なんかもうコメディ映画でもこんな笑わんやろってぐらいみんな笑う。
 で、この映画ってだれも予想しないような異様なラストカット(どんでん返しとかそういうんじゃなくて、とにかく絵面が異様)で終わるんですけど、あまりの異様さにさしものオーストラリア人もあっけにとられて沈黙⋯⋯したのかとおもいきや、エンドクレジットに入って「監督:フランシス・フォード・コッポラ」と出た途端に万雷の拍手、場内大喝采。「愛してるぜ! フランシス!」とみんな叫びます。嘘みたいですが、マジです。
 なんかカルトポンコツ映画の応援上演みたいな雰囲気でした。実際、五年もしたら愛されカルトポンコツ映画になるのかもしれません。
 それはそれとして、映画館から出ようとしたらなんか出入口がめっちゃ混雑して出られないんですよ。ぎゅうぎゅう詰めで。単に人数が多いのもあるんですけど、みんな出入口付近で立ち止まった隣の人と感想トークとかしまくってるんですよ。夜十時に。
 家に帰ってからやれよ、とおもったんですけど、後ろから知らんあんちゃんに「いやあ、最高だったな!」と話しかけられて、あ、こいつら、知らん者同士で感想トークしてるんだ、と納得しました。
 ”巨匠コッポラ”を認識しつつ、その身代をなげうって作った大作をシニカルに消費し、鑑賞後即みんなで感想を語り合う。映画リテラシー高すぎだろ。そりゃ、リー・ワネルとジェイムズ・ワンもメルボルンから出てくるわ。そうおもったね。 
 そのあと、そのあんちゃんとは特に盛り上がらず、まだ開いてたハンバーガー屋でハンバーガーを買い、ホテルに戻ったとさ。

*1:『モアナ1』の監督をロン・クレメンツとともに務め、2018年に引退したジョン・マスカーは、今度行われる『モアナ』の実写リメイクにも、続編商法にも否定的なコメントをしています。https://english.elpais.com/culture/2024-05-18/the-director-who-shook-up-disney-and-hollywood-animation-with-a-mermaid-a-genie-from-a-lamp-and-a-polynesian-princess.html

*2:リメイク版はそこを見誤ってシリアスな人情に振ったからつまんなくなってしまった

*3:映画では偽名にされている

*4:とはいえスクリューボールコメディの時代からその時代時代で「旧来的な価値規範に捉われない新しい男女像」に挑もうとしてきた功績も忘れてはなりません。

*5:『バーナデット ママは行方不明』のケイト・ブランシェットはがんばってたのですが、ついに噛み合わなかった

2024年のベストゲーム10選とその他愉快だったゲームたち

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I thought I heard you say
I wanna play with you, I wish you did too
I wanna play with you, I wish you did too
I wanna play with you, I wish you did too
I wanna play with you, I wish you did too

――んoon「Forest - feat. ACE COOL」



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(2023年分)

・ゲームの内容の話はだいたい別の場所で書いているので、ここではそれ以外のことについて書きます。「それ以外のこと」以外、要するに実のありそうなことを書き出したら、この記事書くの飽きてきたんだなとおもってください。
・最終的にめちゃ長くなったんで、上の目次から興味の有りそうなタイトルやトピックへ飛ぶよろし。まあ2位以下はわりとノリとつないでいるので、順位自体はあんまり参考にせんでもらっておくと。
・基本的には2024年にリリースされたゲームが多いですが、別に新作に限定していません。単に24年に遊んだゲームが対象。


 では、参りましょう。

2024年のゲームベスト10

1.『Keylocker』(Moonana/Serenity Forge)


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 ユーザーが「インディーには”尖った””アート”が欲しい」というとき、基本的には大嘘で、ほんとうは端正さと真正さを求めています。マクドナルドでアンケートを取ったら客たちが「もっとサラダみたいな健康的なメニューを出してほしい」と答えるようなものです。で、なければ、『Balatro』のようなウェルメイドの極致のような出来の代物が「今年最高のインディー」だと称えられるはずもありません。
 とすれば、わたしたちが求めているものは製品のように装った異形、あるいは異形のように装った製品なのかもしれません。それこそ、『Balatro』のように。
 だれもが正気を欲する世の中です。しかしどうすれば正気でいられるのかは、だれにもわからない。
『Keylocker』はただしい狂い方を教えてくれます。たとえば、ほとんどすべてのオブジェクトやモブに固有の会話が設定されている。ロック観が今どきピュアすぎて逆にエッジが効いている。ストーリーテリングカットシーンの切り替わりが唐突すぎる。QTEベースの戦闘が初見殺しすぎかつムズすぎる。設定が多すぎる。音楽の力を信じすぎている。すべてが真剣に作られすぎている。頻発するバグにすら生真面目さがある。あらすじ? 聞きたいですか? どうやら我々の知る土星ではない土星ギリシア神話をベースに神々的存在が人類を創造した後なんやかんやあって破綻した人類をやりなおすぜということで生まれた人類型アンドロイド(だいたい対になるドッペルゲンガーと呼ばれる双子的存在を持ってできる)たちだったが神々の住む天上から遠く隔たった下層のスラムで惨めに暮らしておりそんな腐った世界に生まれ落ちた天性のロッカーにして脱獄囚BOBO-Chanが音楽の禁止された世界で専制的階級社会をぶっ壊すためにハッカー占い師ジャンク屋サムライ娘被差別階級のアシカガスマスクをかぶった関西弁の少女禁断のジューボックスメカ脱税専門ドッペルギャングなどを率い各地でコンサートを開いて人々に「声」を与えるのだけれど手をこまねてみている支配者たちではなく鯨を神聖視する教会と結びついてBOBO一派な行く先々で妨害を……

https://pbs.twimg.com/media/GX3MU8TaUAA5Xtj?format=jpg&name=large


 おわかりのとおり、とても開かれた作品ではない。

 インディーゲームとはなにかと聞かれたら、わたしは「個人的な記憶のパッチワークでできた夢」と答えるでしょう。どのような芸術形態であれ、個人・少人数制作の作品にはその人の見てきたことや体験してきたコンテンツの断片が、わりあい無造作にデコボコと置かれがちです。製品にする、ということは、そうしたデコボコを複数人での合意のもとで均す作業でもあります。たまにたったひとりで製品であることを可能にする、ある意味で怪物のような作者もおり、2020年代はそういう天才的な怪物たちの時代なのだとはおもいますが、それはともかく。

(よくわからないけど頑固でかわいいサムライ。ロマンス対象キャラでもある)

『Keylocker』は、まさしく誰かの見た夢です。『LiEat』に出会った衝撃から右も左もわからない状態でRPGツクールに手を出し、『Virgo versus the Zodiacs』という傑作を作り出したMoonanaはわれわれのより親しんできた意味での怪物であり、異形です。
 本作の戦闘システムに『マリオ&ルイージRPG』の影響があることは明白ですし、論理の回路はともあれ、納得もすることでしょう。音楽に旧ソ連ポスト・パンクアヴァンギャルドメタル、日本のビジュアル系が混ざっていることも理解できるでしょう。RPGとしての雰囲気の影響がもっとも強いのは『女神転生』シリーズ、なるほど、そうだろうな。そして、『MOTHER』。『MOTHER』の影響を受けていないインディーRPGなんてありうるでしょうか? 
 そのうえで、スキルツリーのシステムは『Grim Dawn』だという。わかるよ。わかるけど、そこで『Grim Dawn』ですか。
 こうした孤独な脈絡の無さこそが夢であり、狂気であり、インディーであるわけです。その結果できたゲームは製品として、どうか。
「上手くない」のひとことに尽きます。
 いや、グラフィックはアニメーション含めて完璧な出来だし、キャラやセリフは立ちまくってるし、戦闘も難易度が理不尽なだけでシステムとしては悪くないし、音楽は言うまでもなくよいし、設定や世界観はとっつきずらいものの綿密に構築されています。一つ一つの要素は、非常にレベルが高い。にもかかわらず、それらを有機的につなげる手管がドヘタです。だれよりも筋肉ムキムキで出来上がった肉体を持っているのに活躍できないスポーツ選手みたいなものでしょうか。
 端正さを旨とする商業の論理では許されない存在です。

(こういう主人公)

 しかし、ここに在る。在ってしまう。そういうたぐいの奇跡として、『Keylocker』は2024年のベストゲームであるわけです。正気なものとカロリー過多でジャンクなもの以外も許されるという世界の豊かさの証明として、そこにいてくれているのです。福音です。
 本作が完全に閉じられず、幾分開かれたものになっているとしたら、それはテキストの力です。このゲームはテキストがとにかく強い。そして、それを日本語に訳した翻訳者のおかげでしょう。日本語訳の水準が少しでも落ちていれば、本邦における『Keylocker』の体験は無惨に破綻していたはずです。もしかすると、自分は英語版でやるより深い体験を得られたのではないかという気すらしてくる。買いましょう。

(このゲームのこと)


2.『Balatro』(LocalThunk/Playstack)

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 中毒性の高いゲーム*1は憑物落としといいますか、悪魔祓いなのだとおもいます。呑まれたようにそれだけしかやらなくなり、その正体を見極めた時点で解放される。
 悪魔との賭けで張られるのは金ではありません、時間です、命です。ゲームが可処分時間を争奪する賭け事なのだとしたら、罪は『Balatro』だけにあるのではない、『Apex Legends』にもありますし、『Final Fintasy VII Remake』にもある。どれだけ長くテーブルの前に座らせられるか、それがカジノとビデオゲームの共通の目的であり、究極的にはプレイヤーとデザイナーとのあいだに遊ばれているゲームです。
 だから、ゲームを見たときに「クリアまでの所要時間」を気にするようになった時点であなたはゲームをする人間としては死んでいる。毎週末に特定のGIレースに1000円だけ賭ける、今日は5000円までと決めたパチンコを本当に5000円で切り上げる、チャラになった南郷さんの借金300万をそっくり差し馬に乗せてもう一戦打たずそそくさと帰る。人間としてはただしいし、賢いでしょう。でも、終わっています。ゲームは、芸術でもスポーツでも物語でも活動でも社交でもメッセージでもアゴンでもイリンクスでも儀式でも信仰でもありません。純粋な無為です。蕩尽される命のかがやきであり、滅びの予感です。
 そうした原義を『Balatro』は教えてくれる。あらゆるソシャゲやMMORPGやオンラインバトロワが甘く取り繕って隠匿しようとしてきた真理を教えてくれる。まっすぐでまっとうなゲームです。
 そのために『Balatro』はポーカーという古臭いゲームを分解して組み直し、デッキ構築ローグライトの型を極限まで削り、快楽のサイクルを最速で回転させるにはどう作ればいいかの極限を追求しました。と、すれば、これにもっとも近いゲームは『Into the Breach』ではなかったか。
 わたしは悪魔が好きです。いっしょに夜ふかしして踊ってくれる悪魔が好き。買いましょう。

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3.『INDIKA』(Odd Meter/11 bit Studio)


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 悪魔のささやきがずっと聴こえるゲームもある。『INDIKA』です。
「悪魔」の声が聴こえる流され系修道女インディカさんが架空歴史19世紀ロシア(ちょっとスチームパンクっぽい)を舞台に、隻腕の傷痍軍人をお供に、試される大雪原マザーロシアを蒸気バイクで爆走したり、超巨大キャビア缶詰工場に潜入したりしつつ、信仰を試されまくるお話。
『INDIKA』は掛け値なしに映画のように撮られたゲームです。カメラワークからカットの切り方、演出、演技まで、その質感がそんじょそこらのAAAよりめっちゃ”映画”してる。
「映画のようだ」といわれるゲームはFFVIIやMGSからこのかたナンボもございましたし、FMVと呼ばれる実写取り込みのゲームは太古の昔より存在しましたし、なんとなれば映画そのものを題材にした『Immortality』なんかも近年ではありました。しかし、心底映画っぺえ〜、東欧のインディー映画っぽい〜と思えるのはなかなかありません。
 じゃあ、映画でやれよ、という話にもなるのでしょうが、そこを『INDIKA』は「ゲームであること」に過剰に自覚的になることで巧妙に回避しています。その詐術が、意図してのものかどうなのか、最終的には「信仰とはゲームである」という批評を完成させてしまいます。これはすごい。
 某所でも書きましたが、GuardianやApp2Topのインタビューによれば*2、開発スタジオのOdd meterはロシア・ウクライナ戦争でロシアからカザフスタンアルマトイに移住すること*3になったそうで、創設者のドミトリー・スヴェトロフ曰く、ロシア正教会は「プーチン政権のプロパガンダ機関」と化し、若者たちに「祖国のために戦い、死んで、天国へ行け」と奨励しているのだそう。幼い頃から信心深い家庭に育ち、一時期は修道院で過ごしたのちに信仰を捨てた*4彼がそのような有り様を唾棄すべきものと捉え、『INDIKA』の底なしのニヒリズム*5へとつながったのは疑いえません。
 本来なら積極的な信仰とは無縁に生きているわたしたちには本来伝わらないはずの途方もない絶望が、映画とはまた違った角度から伝わる。結果的に、『INDIKA』はゲームそれ自身を含めた既存メディアのどれにも達成できなかったことを実現しています。買いましょう。

4.『SANABI』(Wonder Potion/Neowiz)


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 フィクションの角度はさまざまな条件によって制約され、その範囲はわれわれの想像よりもはるかに狭小です。そのために、映像的演出の仕方は各メディアごとにはもちろん、各ジャンルごとにバリエーションがあります。プラットフォーマーメトロイドヴァニアのような2Dサイドビューアクションにさえ、ユニークな演出は存在する。あるいは芽吹きつつある。
 『SANABI』はそのストーリーや演出を映画から借用しているのは疑いえないところですが*6、しかしカットシーンとインゲームをよどみなく繋いで2Dサイドビューのスタイルをたもったままプレイヤーに感動的な物語体験を与える手腕はユニーク以外のなにものでもありません。端的にはトメとズームとエフェクトですが、それにしても、考えてもみてください。大部分を三頭身ほどのドット絵で展開されるキャラクターたちに多くの人々が感情移入し、泣いているのですよ。想像力に溢れた平成人(絶滅して久しいと言われます)ならいざしらず、『Last of Us』や『Life is Strange』の存在するこの2020年代に?
 それはつまりタペストリーから映画への転換が2Dプラットフォーマーメトロイドヴァニアの世界で生じつつある。『hollow knight』や『Ori』シリーズほどのリッチな(アニメーション寄りの)アニメーションでなくても、画面の静と動だけで語る技術がこのジャンルに育ちつつあるのではないか。小品ですが、『sheepy』などもその良い傍証となることでしょう。買いましょう。


5.『The Fermi Paradox』(Anomaly Games/Anomaly Games、Wings)


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 二度と取り戻すことのできない過去を夢見ることのできる人間は幸いである。なにものにも汚されることのない永遠を抱きながら生きられるのだから……。
 そうかな? わたしはずっとあのすばらしき黄金の日々、すなわち『歴史隆々』の後継者を求めてきました。その過程で「意外と自分はテキストアドベンチャーRPGが好きなのだな」と発見があったのはともかく、思い出は二度と手に入らない。いや、今でもVectorで『歴史隆々』を買うこと自体は可能なのですが、さすがにOSとの兼ね合いがね⋯⋯。
 ある種のひとびとは『歴史隆々』欲をコロニービルドシムでその欲望を代替できるようですが、わたしはできません。パラドゲーをオブザーバーモードで観戦する毎日です。『Crusader Kings III』は家系図を引いてくれるのでマジでいいですよ。
 で、去年は『ファンタジーマップ・シミュレーター』が出ましたね。レビュー欄で「『歴史隆々』を彷彿とさせる!」という文言を書いてるひとが多く、こんなに『歴史隆々』ファンがネットの大海に潜んでいたのかと胸がいっぱいになりましたが、肝心の『ファンタジーマップ・シミュレーター』自体はこれまであった放置系ゴッドシム/ライフゲーム系放置シム(『WorldBox』は結構好き)とさして代わり映えのしなくて、あの『歴史隆々』の情報の物量、すなわち歴史感がもっと欲しい! とおもっているユーザーには不足でした。
 で、『Thee Fermi paradox』ですよ。2021年にアーリーアクセスが開始されて未だにフルリリースしていない。いま、ver.0.7くらいだったかな? まあ未完成です。その未完成具合に夢がある。アンビルドの夢です。
 内容? 聞きたいですか。壮大ですよ。各惑星に「生命の種」を撒き、そこから生まれ出ずる種を愛でてつつ文明の発展を見守っていく。惑星間で戦争もします。人類は宇宙規模で愚かです。興りも滅びもなにもかもが、ほぼ文字だけで編み上げられている。それをなんと呼ぶか。歴史です。
 単線的な史観の発展段階ごとにある程度枠組が決まっていて、そのバリエーションの乏しさに窮屈になることもあるんですが、でも全然想像が入る余地がある。その隙間でわたしたちは妄想します。英雄を、政治を、社会を、カギカッコつきでの「歴史」を。
 あの思い出は変わらず戻ってはきません。でも、代わりに海棲サイバーパンクポルノクラシー文明が砂漠ガラス文明を滅ぼしたりします。それもまたすてきな銀河です。買いましょう。

6.『DICEOMANCER』(Ultra Piggy Studio/Gamera Games)


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 わたしはデッキ構築型ローグライトが好きなのではありません。世界をなんとなく律していた枠組が、その世界がもともと内側に有していた論理によって、まったく正当に、けれどもめちゃくちゃに破壊されるその瞬間が好きなのです。それが特によくあらわれる裂け目がデッキ構築型ローグライトというだけなのです。
 で、『DICEOMANCER』。カードゲームです。あなたはダイスをふります。目が出ます。その出目でもって、画面上のあらゆる数字を操作できます。そう、あらゆる数字を。敵味方のHP、敵の攻撃力、手札の上限枚数、マナプールの最大値、所持金、敵の予告行動までのターン数、アセンション数、カードに記されたあらゆる数字⋯⋯ゆくゆくはイベントやショップやルールブックさえも、あなたはサイコロによって書き換えることができるようになるでしょう。
 デッキ構築型ローグライトはよく「運ゲー」というワードでもって良し悪しを測られますが、運のゲームを運によって塗り替えていく、これほどの快楽はありません。
 惜しいのは、開発側自身がその威力に臆して二の足を踏んでしまっていることです。もっとなにもかも破壊していいのに。なんなら、すべて崩壊させてもいいのに。
 なにげにアートワークとアニメーションまわりが唯一無二のすばらしさ。買いましょう。

7.『Leap Year』(Daniel Linssen/Daniel Linssen, Sokpop Collective)


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 謎解きで一番気持ちの良い瞬間は「答えが最初から自分のそばにあったことを知る」ときです。具体的にも、抽象的にも。
 それでいえば、『Leap Year』は快楽の連続でした。すべての可能性は与えられている。わたしたちはそれに気づいていないだけ。跳びさえすれば届いたのに、どうせ自分はなどと見切って諦める。
『Leap Year』は無言で、しかも物語もなしに語られる人生讃歌です。気づきの連続こそが教訓であり、テーマです。こういうものこそが美しい。
 アビリティの解放をエリア間のゲーティングに用いるというメトロイドヴァニアの暗黙の前提を逆手に取ったsokpop一世一代の快作。あれ、sokpopは今作に関しては開発はしていないんだっけ? なんでもいいや。買いましょう。

8.『The Life and Suffering of Sir Brante』(Sever/101XP)


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 去年はさまざまなRPGに手を出しました。『warsim』、『caves of qud』、『roadwarden』……が「手を出した」程度でどれも止まっております。と、いうのも、テキスト量多いのに日本語化されてない。まあ、そうですね。そういうものです。単純なワード数だけでいってもメガノベル級の翻訳量を要求されるアドベンチャーRPGは訳されないのが当然なジャンルです。特にファンタジーだと独自の用語とか言い回しとか多いからなお手間が余計にかかるしね。
 比較的抑えめの規模だった中世ファンタジーテキストRPG『The Life and Suffering of Sir Brante』も、当初は日本語でのプレイを絶望しされていました。ところがまさかの公式からの日本語版実装のアナウンス。これだけの実質有志のボランティアとして、一年八ヶ月かけて50万ワードのテキストをコツコツ翻訳した Bliz氏は英雄だとおもいます。ちなみにこのかたは『Suzerain』の有志訳もなさったかたです。あと『Where the water tastes like wine』や『Stasis』やJoe Richardsonのゲームとかも。ヤバすぎ。
 それはともかく、『Sir Brante』。これは架空の中世ファンタジー的世界で新興貴族の家庭の次男坊に生まれた男の物語です。この「新興貴族の次男坊」というスタート地点が絶妙で、ふつうであれば、没落した名家の後継ぎの俺がその事実を知らずに貴種流離譚とか、スラムのガキからキング・アーサーとかをやりたがるところじゃないですか。でも、本作の主人公は祖父の代に成り上がった貴族の家系だからそんな地位が高いわけでもありません。むしろ、必死に藻掻かないとたちまち家格が落ちてしまうし、っていうか自分自身がどんなに頑張ったところで次男坊だからまともに栄達することは困難で、せいぜいそこそこの官僚とか坊さんとか革命戦士とかに落ち着くしかなく、それでもなお家長になりたいなら目の上のたんこぶである兄をどうにかするしかない。
 どのようなルートをたどるにしろ、政治感覚というのは絶対に必要とされいて、体制側のお偉いさんに取り入ってスパイみたいなことをやったり、逆に反体制側におもねったり、神秘的な貴族のご令嬢の愛人になったり、ときには自分の親友を謀殺した憎き卑劣漢の靴を舐めるなんてことさえやらなきゃいけません。
 要するに、魔王を討伐したり、ドラゴンを撃ち落としたり、ラダーン祭りに参加したりといった勇者じみた行為とは一切無縁の泥臭い「剣と魔法の中世ファンタジーRPG」というわけです。
 え? 「魔法」がどこにあるか? って、まあ、いろいろありはするんですが、いちばんわかりやすいのは「三回までは死んでもOK!」なところでしょうか。なんか世界を支配する神のおかげで全人類死んでも復活します。やばいね。このロマンあふれる設定を上述したようなヤダみ溢れる泥臭中世になげこむと「高位の貴族が戯れに使用人を殺して生き返らせる」とか「高位の貴族軍人が庶民である部下に難癖をつけて決闘を繰り返し申し込み、いたぶりまくって殺す」とか「高慢な爺さんがムカついた孫を蹴り殺す」とかろくでもない用例しか出力されてきません。
 よいファンタジーの条件とは世界を実感できることです。ありものを使うことはかならずしも悪いことばかりではないですが、そのものがなぜそこにあり、どのように機能しているのかを感じさせる奥行きが欲しい。矛盾はあってもいいのですが、信じられるだけの質量が欲しい。
 アーシュラ・K・ル=グウィンは「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」でこう述べました。「怠惰な精神の産物である使い回しのお定まりの設定ではなく、ほんものの空想によって生み出された社会や文化を舞台とするファンタジー作品を見つけると、わたしはいつも、花火を打ち上げたくなります」
 わたしもまた『Sir Brante』のために花火を打ち上げましょう。世界の成り立ち、宗教、社会や生活のディティール、魔法の要素、キャラの言動、それらすべてにおいて信じたいとおもわせるだけの力がこのゲームにはあります。
 ちなみにスタジオはこのユニバースを拡大させるらしく、こちらもまた独自架空歴史テキストヘビイアドベンチャーRPGのユニバースを拡張させつつある『Suzerain』とおなじく興味津々で注視しております。

9.『LOK DIGITAL』(Letibus Design, Icedrop Games/Draknek and Friends)

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 わたしはそれなりにパズルが好きですが、パズルのほうはわたしのことを激烈に嫌いな模様です。ろくにクリアさせてもらった経験がない。『Baba is you』、『Patrick’s Parabox』、『Understand 』、『Curesed』、『Void Stranger』、『Witness』、『A Monster’s Expedition』、いずれも傑作と肌感ではわかりますが、その精髄まで嘗めている気がどうもしない。
 知性と根性のどちらか、あるいは両方が足りないのだといわれればそれまででしょう。ゲームは差別的です。かれらは属性によって差別するのではありません、力量によってふるい落とすのです。
 『Everything is going to be OK』などで知られる実験的ゲーム/ソフトウェア開発者のalienmelonことナタリー・ロウヘッドはマストドンでこんなことをトゥートしていました。*7

「ゲームはアートだ」と主張したがる人々が、実際にそのセリフを口にするとき、決まっていつも「まあ、自分はそんなにゲームが上手じゃないけれど⋯⋯」というためらいがあとにつく。
映画を楽しむのに「上手」である必要があるだろうか?
アートを楽しむのに「上手」である必要があるだろうか?

こんなことをいうのも(ゲームの分野でアーティストとして活動する)自分に、つねにつきまとうトピックだからだ。
なぜ、ゲームを享受するのにスキルの問題がそんなにも取りざたされるのだろうか?
「上手」でなくても楽しめるゲームを、私はいくらでも挙げることができる。けれど、「本物のゲーム」の理想というのは商業性の強いメインストリームの作品によって左右されがちで、それはアートフォームとしてのゲームについてのひとびとの理解を今でも規定している。こうした固定観念からぬけだすのは容易ではない。
Nathalie Lawhead (alienmelon): "“games are art” but then you hear comments from p…" - Mastodon



 ロウヘッドが実質的にメディア・アーティストであることや、「映画やアートを楽しむのにスキルはさして入り用ではない」という見方にいくぶんかの留保はつくであろう*8にしても、「まあ、自分はそんなにゲームが上手じゃないけれど⋯⋯」とつぶやくひとたちの気持ちはよくわかる。ことゲームにおいてはアクセシビリティの問題は、実はだれでも大なり小なり抱えている。「後期高齢者が『バイオハザード』や『ELDEN RING』をクリアした」といったほのぼのニュースが流れてくるとき、それが話題になるという事象の裏側に含まれているものはなにか。
 動体視力、勘、反応速度、音感、論理的思考能力、パターン記憶、物語把握、ジャンルや様式への順応、その他さまざまな種類の認知能力。あなたは好き嫌いを得意不得意と混同してゲームを選んでいるとき、実はゲームに選ばれている。
 そして、あなたが共有しているかはわかりませんが、わたしには人生を貫くひとつの欲望がある。この世のすべての傑作に触れたい。けれども、ゲームは篩からこぼれ落ちたものには触れることすら許さない厳格さがある。気がする。私はなぜ あらゆる人 あらゆる場ではないのか!*9
 
『LOK DIGITAL』はもしかしたら夢多き無能者の見た末期の幻覚なのかもしれません。
 Thinkyという比較的最近に確立されたジャンルがあります。『A Good Snowman Is Hard To Build』や『A Monster’s Expedition』などで有名なパズルゲーム作家 Alan Hazelden*10が提唱した概念で、「迅速な反射神経や器用さではなく慎重な推論がすべて」とされるゲーム群のことです。Thinkyなゲームを紹介するサイト、Thinky Gamesによれば「論理ゲーム、探偵(推理)ゲーム、ミステリーゲーム、ストラテジーゲーム、数学的ゲーム、アドベンチャーゲーム」といった広範なジャンルを横断するそうです。要するにこれまであまりに指す範囲が広すぎた「パズルゲーム」のくくりから、『テトリス』などの反射神経やゲーム的アクションが要求されるサブジャンル(主には落ちものパズル)を切り離し、より純粋な思考と解決の快楽を重視するジャンルです。ジャンルと言ってもこの漠然とした扱いづらさは首唱したHazelden自身の認めるところで、「でもみんな使っちゃってるからしょうがないんだよな〜」とインタビューで言ってました。
 で、『LOK DIGITAL』はそうしたThinkyゲームの最新の例のひとつとして取り上げられます。
 ブロックのマス目に浮かんだ文字をつないで、特定の単語を作りマス目を塗りつぶしつつ、その単語の持っている固有の効果によってマスをさらに塗りつぶす。で、マス目をすべて塗ったらステージ完了。ざっくりと説明するとなんのこっちゃみたいなゲームですが、やってみると、これがよくできている。
 そして、意外にThinkyすぎはしない。
 漠然とした推論をもとに、マウスをドラッグしながらうねうね文字をつなげながら、ああこれは違うのか、これも違うのか、と感覚的なトライアル・アンド・エラーを繰り返していると、なんとなくできてしまう。
 わたしにやさしいThinkyなゲームとは、『Return of the Obra Dinn』系列の「間違いが3つ以下だと『惜しい』と教えてくれるシステム」しかり、ニアピンまでの寄せ方がご親切です。『LOK』は設問を見たときの「うへえ〜〜、わけわかんないよ、無理だよ〜〜」という気持ちから「手筋はわかってきたけど、詰めがわからない」までの距離が意外と近く、そこからちゃんと「これを発見したおれって天才じゃない?」までの気づきをきっちりキャリーしてくれる。とっつきづらいようでいて、親しめるところの多いあんちゃんです。
 ついでに、ビジュアルもいいし、音楽もいい。

10.『Mouthwashing』(Wrong Organ/Critical Reflex)


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 ローポリホラーの波が来ている来ている来ています! というのは占わずとももはや誰もが知っていて、『Crow Country』と『Mouthwashing』がバカ売れしているところからもわかるわけですけれど、ではローポリホラーであることとはいったいなんなのか。
 過去の世代に属する美学のリバイバルというのは多くの場合、甘いノスタルジーを伴い、ときにはその甘美さが目的化されるといわれます。*11
 しかし、マーク・フィッシャーのいうようにその回顧への欲望が「新自由主義的な資本主義が連帯や治安を破壊したことが、その埋め合わせのようにして、価値の定まったものや慣れしたしんだものへの渇望をもたら」*12されたものであったとすれば、ローポリホラーをめぐる状況はいささか奇妙であるといわざるをえない。ローポリホラーに内在しているものは安定した過去の日々ではなく、不確定で崩れやすい不安のこころだからです。
 ホラーに出てくる怪物が「人間の出来損ない」である点はしばしば指摘されるところです。ある程度までは人間に近い形態であるからこそ、非人間的なおぞましさが際立つのですね。
 そうすると、ローポリ人間たちは、たとえ劇中で真正の人間として描かれていたとしても見た目には人間未満の感覚がずっとつきまとう。PS1〜2世代のプレイヤーたちは、(たとえどんなに明るい内容のゲーム出会ったとしても)旨の奥底でつねにこの感覚のもよおす不安に憑かれてきたのです。
 人間がまがい物なら、世界もまがい物です。現実に似ようとするが現実になりきれていない。そこに歪みが生じます。そこにホラーが吹き出します。
 懐かしさは甘さだけではない、ということです。記録メディアはここ百年常に鮮やかさを更新しつづけているため、過去の映像はつねにどこか傷ついて見えます。今撮られている映像でさえそうです。そこにはなにかが入り込む間隙がある。
 そこまでであれば、どんな無自覚なローポリホラーにも含まれているおぞましさです。
『Mouthwashing』のすばらしさは、そうしたローポリの「出来損ない」や「不鮮明さ」の不安を演出面で徹底して磨き上げたところです。たとえば、画面の切り替わりでよくディゾルブや音飛びが生じるのですが、これが傷ついた過去や混沌とした記憶を語る物語のエモーションと連動している。単に趣味やフィーリングとしてグリッチやバグ的な表現が取り入れられているわけでなく、きちんとストーリーテリングの文脈に理屈づけられているのです。
 ローポリホラー作品は表層に浮き出るインスタントな不穏さでそのまま押し切ろうとしてしまうきらいもありますが、『Mouthwashing』ではあらゆる細部が物語やキャラやモチーフに奉仕し、ひとつの強力な体験を作り上げています。『How Fish is made』のようなピーキーな不条理ホラー(でもよく見たらテーマは『Mouthwashing』と通底している)を作っていたWrong Organがこんなストロングスタイルのホラーを出して評価されるだなんて、うれしい驚きです。
 2024年はパブリッシャーであるCritical Reflexの年でもありました。『Buckshot Roulette』、『Arctic Eggs』、『THRESHOLD』、そして『Mouthwashing』。なぜタワーディフェンスやら高速アクションプラットフォーマーやらゴキゲンなゲームを出していたキプロスのパブリッシャーが、唐突にローポリホラー界のゴッドファーザーと化したのかはわかりませんが、まあ今後もひとつよろしくおねがいしたい。

 そういえば、Critical Reflexの『Arctic Eggs』についてはここでも取り上げました。
booth.pm


メンションしたい良かった作品たち(エンドクレジットまで見たか、ある程度十分に遊んだとおもったもの。順不同)

・基本的には印象に残った順で並んでいるようなそうでないような。
・スクショはビジュアルを気に入ったゲームのみ


『Sorry, We are Closed』(à la mode games/Akupara Games)
・これもローポリホラーの部類に入る。けど傾向としては『バイオハザード』とか『パラサイト・イヴ』あたりのアクション性が高いもの。
・ビジュアルのセンスだけでいったら『Keylocker』や『Diceomancer』とならぶくらいに好き。須田51先生のフォロワーらしいん。個人的には須田ゲーそのものはそんなにマッチしない一方で、須田ゲーフォロワーは刺さるのが多い。村上春樹そのものは好きじゃないけど、春樹フォロワーには好きな作家が多いみたいなのといっしょですね。いっしょか?
・話としては失恋して人生どん底のコンビニ店員のミシェルという女が「公爵夫人」と名乗るめちゃつよ悪魔に見初められて「第三の目」が開き、悪魔や天使といったこの世ならざるものが見える体質になってしまう。なんとか「公爵夫人」を求愛をはねつけるために魔界じみたダンジョンで自分とおなじように「公爵夫人」の食い物されて哀れな末路を辿った人間のたちの「目」を回収していく。ノリとしては近いのは『ペルソナ』シリーズだろうか。シリーズ初期と後期を足して二で割ったかんじ。
・ちなみに「目」が開いてみると、地元の住民(友だち含む)の半分以上は悪魔か天使で、レコード店に至っては客が全員悪魔という日もあるくらい。
・ぶっとんだ設定でありつつも、なにげに主題である「愛」の在り方へ丁寧にフォーカスしているという点で物語的にも見るべきものがあり、ベスト10リスト作りでは『Mouthwashing』とどちらを採用するか迷った。でもパブリッシャーのナウさで『Moutshwashing』に軍配があがった。Akuparaもね、好きですけど。『The Darkside Detective』シリーズ日本語化してくれたら、もーっとスキになるかな。
・そういえば、『Sorry, We are Closed』でもう一点特筆したいのが、音楽。24年で一番ですね。基本的にはムーディーでダークなシンセっぽいBGMなんですけど、ボス戦ではいきなりボーカル付きでこんなんが流れます。
www.youtube.com

・サントラが良かったゲームで今年ナンバーワンです。次点は『LOK DIGITAL』。いちばん聴いた(聴かされた)の『Balatro』のアレ。TGAでオーケストラアレンジが流れたときはまじめに感動しました。

『The Rise of the Golden Idol』(Color Gray Games/Playstack)
・一枚絵的なシチュエーションから穴埋めパズルの方式で登場人物や事件の真相を当てるミステリADV『the case of the golden idol』の続編。当初は『return of the obra dinn』フォロワーとして扱われていましたが、いまや類似作は『the golden idol』のフォロワーたちと呼んだ方がいいような状況*13。『the duck detective』とかね。
・ミステリゲームって日本人がわりと真剣に考えてきた分野だとおもうんですが、本格ミステリの呪いというべきものが強かった。それは「究極的には真相とはダイアログと地の文で物語的に語られるべき」ということで、つまりは小説であることの呪縛です。そうしてすべてのミステリはノベルゲームやポイントアンドクリックに囚われ続けることになった。
・しかし、「推理」の体験とは物語を自らの手で再構築することではなかったか、と考えたときに、アメリカ人やラトビア人がナラティブのくびきをいとも簡単に放り出して新ジャンルを作り出してしまったのは転回でした。
・その新しい道が最終的にどこへ向かうのかはまだわからないのですが、『the rise of〜』では明確に途中経過を示してくれます。ウミガメのスープです。デジタルでインタラクティブな推理ゲームをつきつめた結果、ウミガメのスープの行き着く。おもしろすぎる。
・Playstackは2024年はこれと『Balatro』を出したからえらい。それはそうと翻訳⋯⋯。




『未解決事件は終わらせないといけないから』(Somi/Somi)
・では、小説的なナラティブに囚われたミステリゲームが出口なしなのかといえば、そんなことはなくて、韓国のSOMIはそのセンスでもってやすやすとハードルを越えてきました。システム的にもストーリー的にもそんなに新味があるかといえば微妙ですが、なにがなんでも二時間の体験をなめらかにしようとする執念と作り込みがすさまじい。そして、この浪花節。アジアですね。
・開発者のSOMIは日本のミステリを結構読んでいるらしくて、影響元として道尾秀介東野圭吾連城三紀彦らを挙げています。*14すごい。ザ・2010年前後のミステリオタクだ。好みの傾向が「家族」というのもわかりやすい。

proxia.hateblo.jp


『Momodora:月影のエンドロール』(Bombservice/Playism)
・人気メトロイドヴァニアMomodoraシリーズ完結作。特にゆるすぎもせず厳しすぎもせず、なめらかで心地よい手触りのいつものMomodoraという感じで、最終作だからといって特にどんでんがえしや演出盛り盛りだったりするわけでなく、あくまで古き良きインディー作品として静かにたたんでいく慎ましさが好ましい。
メトロイドヴァニアにはドッヂさえあればいいのです、あのたおやかなドッヂの感触さえあれば……



『Felvidek』(Jozef Pavelka, Vlado Ganaj/Tutto Passa)
・現在のスロバキアでアル中の騎士と巻き込まれ体質の僧侶が、フス派の残党やオスマントルコの手先などと小競り合いしつつ、謎教団の陰謀を解き明かすツクールベースの中世舞台RPG。昔から外国人はツクールを使ってへんてこなRPG*15を作りまくっているんですが、だいたいは『ゆめにっき』とかの影響下にあるところ*16、『Felvidek』はマジで他に類を見ないキテレツさを誇ります。とにかくコメディのセンスがキレている。
・ところで本作に関しては日本語訳がクソ問題というのがあり、一般レビュアーがそれでも訳してくれただけ感謝!というのはよいのですが、業界に対して責任あるひとびとがそれを看過したらあかんだろ、とおもいます。ローカライズは作品の一部なのだから。日本語にするだけならpcotでもできる。翻訳はその先にあるものです。
・とはいえ、最近フィードバックを受けて翻訳が改善したらしい。検証する気にはなりませんが。ゲームは多く、人生は短い。ユーザーは無償のデバッガーではない。っていうかこっちが金払ってるからむしろマイナスです。アーリーアクセスにもいえることだけれども。
・このまとめ記事においてはこのほかにも幾度か翻訳・ローカライズの質に言及したとおもいます。しましたね? 
 不幸にも、ゲームにおいて翻訳はあまりに顧みられることの少ない分野です。特に絶対的に人手の足りず、(「依頼人が知らないあいだに孫請けの孫請けに出していた」という『SANABI』の例のように)粗悪な翻訳業者の横行するインディー分野においては、まともな翻訳者/ローカライズ担当者というのは存在がすでにして神です。もっと称えられるべきではないか。わたしの知るかぎり、日本のいかなるゲーム賞にも「翻訳部門」はないのですが、文芸に「日本翻訳大賞」があるのだから「日本ゲーム翻訳大賞」だってあってよいのでは。



Alan Wake 2』(Remedy Entertainment/Epic Games Publishing)
・『1』より好き。REMEDYは『コントロール』を経て、映像的な演出にさらに磨きがかかったといいますか、誤解を恐れずいえばもっとも映画っぽいゲームを作る会社だとおもいます。とにかく、変てこな演出がほとばしっています。
・実写映像の使い方が特によい。虚と実の境目をゆるがせる作品テーマにどこよりも本気。思い返すだに傑作です。
・『1』と『2』の怪奇表現のテイストの違いに注目するとおもしろくて、ここ十年でホラーは世界的にスティーブン・キング式のモダンホラーからSCP的なるネットホラーへと転換したんだとわかります。そして、それはメディアの変化と密接にむすびついている。『Alan Wake 2』のユニークさは、現代的なネットのテイストを取り入れつつも、ちゃんとスティーブン・キング的なテレビ時代に軸足を残しているところ。



『1000xResist』(Sunset Visitor/Fellow Traveller)
・90年代の香りを濃厚に漂わせつつも同時に2020年代でしかありえないSFアドベンチャー。謎の宇宙人が謎の宇宙ウィルスをばら撒いたせいで人類が滅亡した地球が舞台なんですけど、その世界に唯一免疫を持った女の子が生き残って、海底に自分のクローンで王国みたいなのを作るんですね。そこで起こる政争と痴話喧嘩が主に問題となって、まあこれだけ聞くと大味なSFっぽくて実際そうなんですけど、一方で本作は「香港」というのがひとつキーワードになってきます。
 と、いうのも、最初に言った「宇宙ウィルスパンデミックで唯一生き残る女の子」が香港系のカナダ移民二世なんですね(学校生活描写はいかにも「北米のアジア系」というか、『butterfly soap』あたりを想起します)*17。しかも、両親が20年ごろの民主化運動に参加した咎で追放されて移民したひとたちなんです。この「香港の記憶」が本編にもうまい具合に絡んで、絶対に他では出せない味を出している。
 ちなみにディレクターは舞台芸術出身の現代アーティストでもあって、あんまり高級とはいえない3Dのアセットをあの手この手で演出してきて、そこに振り回されすぎてる感がないでもありませんが、ユニークです。問題意識としては『keylocker』と通底していますが、語り口としてはこちらのほうが洗練されているか。
・ちなみに、百合です。
・ところで、『Mouthwashing』のときにもおもったのですが、実はゲームって、物語のボリュームが大きくなればなるほど、リニアな語り口って向かなくなる気がします。たしか『Mouthwashing』の開発者がどこかのインタビューで「プレイヤーを飽きさせないことを目的にシーンを構成していったら、自然とああいうノンリニアな語りになった」と証言していましたが、操作という名のけだるく散漫な手続きを要する以上、「順繰りの説明すること」の有効性って他のメディアに比べると薄いような⋯⋯あくまで感触ですが。



『(the) Gnorp Apologue』(Myco/(Myco))
・生産と回収が分かれているタイプの放置型クリッカー。この形式が最近流行ってるのか、『Idle colony』とかもそうでしたね。正直なんでなめらかな体験曲線が身上のクリッカーにめんどくさ要素持ち込むんだよ、とおもわないでもないんですが、Gnorpはビジュアルから世界観までよく作り込まれていてよい。
クリッカーでは『Digseum』も好きだった。24年はクリッカーづいて他にもいろいろ試してみたのですが、最終的に時間と人生の価値に向き合わねばならず、虚無に陥りがちなこのジャンルはおいらのポッケには大きすぎらあ、といった感じだった。あと、個人的な性向として、「放置系」といっても起動しているとついつい用事がなくてもウィンドウを見ちゃうのも精神衛生上よくない。短めの放置型クリッカーがもっとあればよいのですが、ジャンルからいって矛盾しているので、なやましいね。『Rusty Retirements』もアニメーションのセクシーさに感銘を受けたれど、結局ガ―っとやってバーっと飽きてしまったし。
https://shared.fastly.steamstatic.com/store_item_assets/steam/apps/1473350/ss_23d0c9603b8e07b1c63ebcc2cf98dcb1313a75fa.1920x1080.jpg?t=1718997922


『Spell Disk』(Sunpeak Games/Sunpeak Games)、『マジッククラフト』(Wave games/bilibili)
・どちらもジェネリック『noita』系魔法連鎖アクション見下ろしローグライク。『the binding of isaac』×『noita』といえばわかりやすいか。
・前者と後者でそんなに出来に差はない(もちろんそれぞれに個性はある)のだけれど、レビュー数では二桁くらい違う。それは『マジッククラフト』がbilibiliパブリッシングで、中国人ユーザーの心をがっちり掴んでいるから。wukongをsteamのgotyにしたり、言語対応要求にぼやく開発者をレビュー爆撃したり、良くも悪くもこの層を味方にするかどうかでsteamというのは戦略が違ってくるのだな、と実感します。
・どちらもある程度テキトーにやっていてもなんとかなるんですけれど、比較的『Spell Disk』はマップも魔法のバリエーションもこじんまりとしていて連鎖の計算がある程度しやすい。『マジッククラフト』はだらりと長くて魔法デッキの構成に冗長性がある。また『Spell Disk』はやや『Vampire Survivor』を意識しているっぽく、っていうかおまけにヴァンサバパロみたいなゲームモードがある。
・好みはどちらかというと、『Spell Disk』かな。でもやっぱり甲乙つけがたいな。っていうか『noita』もやりなおしたくなってきましたね。


『Utopia Must Fall』(Pixeljam/Pixeljam)
・タイトルがいいですよね。レトロモダンなゲームばかり作ったりパブリッシュしている零細パブデヴpixeljamの最高傑作。
・いまどき、『asteroids』っぽいワイヤーフレーム画面で『スペース・インベーダー』っぽいアーケードシューティングゲームつくるやつおる? おるんですな。ここに。しかも、おもしろい。
・宇宙から来襲してくる侵略者たちや隕石を、「new new york」や「neo tokyo」みたいなイカした名前の最終防衛ライン兼都市に設置したミサイルやレーザーで防衛していきます。ステージごとに兵器のアップグレードがあり、それをうまくやりくりしていく。人類の最終戦争においては恒久アップグレードなどという甘ったれた概念は存在しません。わかりやすいシステムと練られた学習曲線とピカピカしたビジュアルでついつい遊んでしまいますな。

https://shared.fastly.steamstatic.com/store_item_assets/steam/apps/2849680/ss_66330977cd6e7523f3745c346f8fbf64a7bcb871.1920x1080.jpg?t=1734382813


Citizen Sleeper』(Jump over the age/Fellow Traveller)
サイバーパンクテキストRPG。よくできています。よく書かれています。しかし行儀がよすぎるといいますか、どこかで「”サイバーパンク”って”こういうもの”だよね」という折り目の正しさに束縛されすぎているきらいもあって、まあそれは『サイバーパンク2077』にも感じられたことですが、あるジャンルでやる以上は、もっと新規性が欲しい。あるいは『Keylocker』みたいな混沌が。
・まあしかし、SFのゲームってビジュアルが強ければそれでいい気もする。
・おもしろかったことには変わりないので、続編も楽しみです。



『Neva』(Nomada Studio/Devolver Digital)
・さすがに『Gris』に戦闘くっつけるのは蛇足でしょ……絶対失敗するパターンだわ……とおもってたら、きっちりその部分も楽しかった。アートだけじゃなく、きちんとメカニックも作れるスタジオだったんだな、という印象。それでも『Gris』の鮮烈さを超えてはきませんが。これが games for impact? ここ十年寝てたのか?
・なにはともあれ、とにもかくにも、イヌがよい。よすぎ! 巨大な犬、きょだいぬがいます。犬ゲームオブザイヤーです。



『Buckshot Roulette』(Mike Klubnika/Critical Reflex)
・1人用のゲームとしてはこぢんまりとしていますが、かなりよく作り込まれていて、400万本の大ヒットもむべなるかな。


『Monument Valley III』(Ustwo Games/Netflix Games)
・まさかのネトフリ独占。
・3作目いうて、もうやることなかやろ……とおもっていたら、きっちり新規性のあるものを出してきてうれしかった。



『Awaria』(vanripper/vanripper)
・『Helltaker』の人の新作。倉庫番あんまり得意じゃない勢としては、こういうアクションよりのほうが助かる。
・そろそろなんかデカいゲーム作ってくれよ、とはおもうけど、作風的にむずいのかな。


Football Manager 2024』(Sports Interactive/SEGA
・わたしの中では放置ゲーその二。なんとなく今年は買わないでいる方向かな〜とおもってたらいきなりEpicがタダでくれた。Epic大好き! いちばん好きなゲーム販売プラットフォームです! ゲイブの野郎なんかやっちゃってくださいよ!!
・たぶん今年EPICでまともに遊んだゲームはこれと『Alan Wake 2』と『Prince of Persia the Lost Crown』(序盤で止まっている)くらいだけど。


『Spin Hero』(Sphere Studios/Goblinz Publishing, Maple Whispering Limited)
・デッキ構築型ローグライトスロット。『幸運の大家様』をファンタジーRPG風の世界観でバトルっぽく味付けしたもの。『大家様』よりとっつきやすい。深みはそんなないけれど、この手のものに深みを求めてもなというところはある。


『Ballionaire』(newobject/Raw Fury)
・デッキ構築型ローグライトパチンコ。24年は『Balatro』(ポーカー)を筆頭に、先の『Spin Hero』(スロット)、『Dungeons & Degenerate Gamblers』(ブラックジャック)など、ギャンブルを材に取ったデッキ構築型ローグライトが個人的には目についた年でした。そのなかではよくできていたほう。サイケなビジュアルもよい。
・そういえばこれとバンドルにされて売られていたデッキ構築型ローグライトクレーンゲーム『ダンジョンクロウラー』のようはやったはやったけど、NextFesのときにデモ版をやり尽くしてしまっていたのでなんか盛り上がらなかった。デモで大盤振る舞いしすぎるのもよしあしですね。


『滅ぼし姫』(Steppers' Stop/Steppers' Stop)
・2024年最大のニュースは「ステッパーズ・ストップがSteamに初上陸!」だとおもいます。


『スルタンのゲーム(デモ版)』(Double Cross/2P Games)
・もっともオリエンタルで、もっともフェティシュで、もっとも正式リリースを楽しみにさせるゲームです。


『SUMMERHOUSE』(Friedemann/Future Friends Games)
・圧倒的な「夏」に「家」を建てるゲーム。ゲームというか、箱庭というかジオラマビルダーというか。
・近年は『Tiny Glade』や『Townscaper』や『Dystopika』みたいな「特に制約もなく家を立てていくだけ」のゲームがちょくちょく出ていますね。ローファイな雰囲気でチルしたいけど、手先を動かしておきたいみたいな。
・開発者は元はGrizzlyGames(『Thronefall』や『Superfilight』のスタジオ)の人で、あそこはもともと三人で立ち上げられて今は二人でやってるらしいんですが、オリジネイター三名それぞれがソロディベロッパーとしてヒット作(『Will You Snail?』や『The Ramp』など)を持っているヤベー才能集団です。
https://shared.fastly.steamstatic.com/store_item_assets/steam/apps/2533960/ss_d6b4d74ce348f5a286005ca254269d1282101fd0.1920x1080.jpg?t=1734252880


『Maiden & Spell』(mino_dev/mino_dev, Maple Whispering Limited)
・24年は夏くらいまでシューティングづいていて、『斑鳩』をやったり東方にチャレンジしたり、まあいろいろ遊んでみたりしておったのですわ。そのなかでいちばん性にあっていたのが『Maiden & Spell』。キャラもかわいいし音楽もいいし何よりちゃんと最後まで遊べる。すべてがほどよい。続編の『Rabbit and Steel』はそこまでハマらなかったですけど。




『Paratopic』(Arbitrary Metric/Serenity Forge)
・ローポリホラーウォークシム。ローポリホラー短編の中でもギザついた印象を残す。『Mouthwashing』同様に、ローポリはこうした傷ついて混乱する過去の断片を語る時にもっとも映える。


『The Invincible』(Starward Industries/11 bit Studios)
スタニスワフ・レムの『ザ・インヴィンシブル』のゲーム化、っつっても前日譚みたいな内容。
・SFウォーキングシムとしてはそれなりに広がりがあってそこそこ良い体験だった。レトロフューチャーなSF的意匠の数々が素敵。



スナフキンムーミン谷のメロディ』(Hyper Games/Raw Fury)
・よく憶えていないのだが、途中からスナフキンムーミンの幻影をひたすらおいかけていく、カヴァンの『氷』みたいな幻想執着LOVEストーリーになっていった気がする。



『Windblown』(Motion Twin/Motion Twin, Kepler Ghost)
・『Dead Cells』のとこの新作。アーリーアクセス。見下ろし3Dローグライトアクション。3D版『Dead Cells』というとちょっと違う*18んだけれど、でも他人に説明するときはめんどくさいからそれですましてしまうかも。
・おもしろいんですよ。おもしろいんですけどね。やっぱりこう、一戦一戦に命をかけられないというか、恒久アップグレードをアンロックしていくことが目的化してしまうというか、それでいえば『Hades』はうまくやってたんだなあ、とおもいます。
・そういえば、『Hades II』もちょっとやったネ。こっちもアーリーアクセス。なんかもうアーリーアクセスばかりで、正式リリース版待ってていいですか、って気持ち。


『Hauntii』 (Moonloop Games/Firestoke)
・「良かった」かといえばかなりギリギリなラインで、ビジュアルはね、すごい良いんですよ。他に代えがたい魅力なんですよ。でも、それが発揮されるのは最初の十数分がピークで、あとはなんか砂を噛むような無味なプレイが続きます。
・開発側もやる気がないわけじゃなくて、他のゲームにもあるようなミニゲームや要素や演出をいろいろ詰め込んではいる。でも、それがどれも淡白すぎるというか、全体に有機的にむずびついていないというか、なんかバラバラな印象。すべてをすこしずつ掛け違えているようで、なんだか惜しい。あと10時間のゲームではない。
・でもこのビジュアルはマジでいい。




『BLUE ARCHIVE』
・取材についていくというのでやった。
・騒がれるだけあってエデン条約編はよかったですね。ぬいぐるみの使い方が好き。


『学園アイドルマスター
・端的にいえば、おもしろい。
ライトノベルの対する「ラノベ」呼びみたいなところであたしはずっとソシャゲをソシャゲと呼び続けていくんでしょうけれど、それはともかくあるゲームジャンルやメカニクスを取り入れて作られるソシャゲというのは、そのゲームシステムの部分がどんなにうまく作られていたとしても、ソシャゲの無制限なリプレイ性やデイリーミッションという名の義務感によってスポイルされ、腐っていきます。それは落ちものパズルであろうと、JRPGであろうと、デッキ構築型ローグライトであろうと、パワプロのサクセスであろうと、そしてノベルゲームであろうと変わりません。それは制作現場の努力がどうとか工夫がどうとかいうレベルの話ではなくて、今の産業の構造下でガチャを中心にした運営型のゲームを作ろうとすると不可避的にそうなってしまうのであって、わたしたちは実った果実の黒ずんだ部分を無視してかじって、おいしいね、と笑うふりはできる。まわりにみんながいてくれるからね。そうね、基本無料のソシャゲの最大のいいところは、ゲームのソーシャル機能とはなんら関係ところで社交的であることなのかもしれません。友だちがやっているから、おもしろい。それはおもしろさの一部です。
・だとしても、日常に組み込まれた無為はいつか、前触れもなく破裂して、あなたに虚脱感をもたらすでしょう。そこからあなたがふたたび立ち上がるとして、立ち上がらせるものはなにか。わたしの場合はスピンオフコミカライズの『学園アイドルマスター GOLD RUSH』で見かけたイヌみたいなマユゲの女でした。


『Pokemon TCG Pocket』
・「”最強”なのだった。」→「もう無理だって、ルールとかぜんぜんわかんないだからさアッ!」の繰り返し。


『webfishing』(lamedeveloper/lamedeveloper)
・”まったり”なのだった。
https://shared.fastly.steamstatic.com/store_item_assets/steam/apps/3146520/ss_d1fdc753a7dc005896e239ea5ea055618a744bb6.1920x1080.jpg?t=1728673229


信長の野望 出陣』
・ハマったけど、途中でこれなしで歩いたほうが早いことに気付いた。
proxia.hateblo.jp

オンゴーイング

『Crusader Kings III』
・わたしの中では放置ゲー。神。出まくるDLC、かわらない味。
・HoIもたまに回してます。


『雀魂』
・毎週末にイツメンで打っており、愉快です。metacriticで15000点あげてほしい。野良では打ちません。


Lumines Remasterd』
・成長曲線が2年くらい前から一ミリも上向いてないけれど、愉快です。


Cookie Clicker』
・もはや盆栽に近い。愉快です。

途中でプレイが止まってるけれどクリアしたいな〜とおもっているゲームたち

『Planescape:Torment』(Beamdog/Beamdog)
ファミ通に載った九井諒子先生のインタビューを読んで「CRPGって難易度イージーでも遊んでいいんだ!」という開き直り的啓示を得て、わたしもいろいろやるようになりました。これクリアしたら次は『Divine Divnity』を進めたいとおもいます。
・やってみるとめちゃくちゃいい。自分の選択によってちゃんと物事が動いているんだ感と、自分の選択なんて他者や世界の前では些末なことなのだという冷たさがほどよいバランスで同居している。そして、やっぱりテキストだよテキスト。ユーモアが今でもおもしろいというか、全編趣味のわるいコメディみたいな感じなので楽しいよ! 酒場はいるといきなり全身燃えて苦しんでる男が出てきてですね、なんでも得てるんだっていったら調子こいてた魔術師が別の魔術師たちからシメられて全身を煉獄に通じる「扉」にされちゃったせいだっていうんですよ、いいですよねえ。クリアまではしたいですね。



『Animal Well』(Billy Basso/Big mode)
・ネコに追いかけられるところで一生詰まっていてみなさんが恐れおののいている「その先」をおそらくまだ見られておらんのですが、謎解きメトロイドヴァニアとしては手触り含めた出来がすばらしい。
・そういえば、『Animal Well』は有名なYoutuberがパブリッシングを務めたゲームらしいのですが、有名Youtuber自身がゲームを作っている例もいくつかあってトルコの人気Youtuberが作っている『Anomally Agent』はそこそこ楽しかったですね。ホラゲの『Indigo Park』なんかも去年話題になりましたけれど、これはやってない、ホラーなので。そうしたラインで変わったところだと、みんな知っててパクってる有名ゲーム批評チャンネル『Game Maker’s Toolkit』が『Mind over magnet』というパズルプラットフォーマーを出しました。こっちはちょっと触ってこんなかんじか〜〜となった。



『九日ナインソール』(RedCandleGames/RedCandleGames)
・1時間半くらいやった時点でいろいろ忙しくなって止まっています。最初からやり直したい。


『Minishoot’ Adventure』(SoulGame Studio/SoulGame Studio, IndieArk)
・全方位ツインスティックシューター×初期ゼルダ。好感触だったのだけれど、2時間半ほど遊んだところでもろもろ忙しくなって止まっています。これは別に最初からやりなさなくてもいいからクリアしたい。


『Decarnation』(Atelier QDB/Shiro Unlimited, East2West Games)
・23年からわりに楽しみにしていたのだけれど、ローカライズがしょっぱくて止まっています。でもモノはよさそうだから、なんとか無理矢理にもクリアはしたい。


『The Void Rains Upon Her Heart』(Veyeral Games/The Hidden Levels)
・ローグライト横スクロールシューティング。世界観や物語がかなり独特で、それなりの難易度でも続けたくなる魅力がある。なんとかクリアまではしたいですね。


『Punch Club 2』(Lazy Bear Games/tinybuild)
・6時間ほどプレイしたところでまあだいたいいいかなという気分になって止まった。クリアはしないとおもいます。でも、その瞬間まではそれなりに楽しんだよ。Lazy Bearっていつもそうよね。


聖剣伝説 VISIONS of Mana』(Square EnixSquare Enix
・わたしは『聖剣伝説』シリーズに恩義という名の無限の負債を負っていて、聖剣伝説シリーズである以上は発売前から微妙なんだろうなとだいたいわかっている状態でも買わねばならない返済の責務があります。
・でもこれは、発売前の期待の低さからすれば、かなりがんばってるほうだった。
・作ってるひとたち、きっとめっちゃ『聖剣伝説』シリーズ好きだったとおもうんですよ。特にレジェマナ。その愛をプレイヤーにも分かち合ってほしかったとおもうんですよ。その思いは伝わってくる。そして、わたしにはそれを否定できない。
・しかし、実際の愛情表現の仕方としてあらわれるのは必要に薄い過去作との接続であり、過去作のキャラの脈絡のない引用であり、要するに老いたプレイヤーを接待する老人介護。というか、開発者もたぶんおんなじくらい老いてるので老老介護
 ままでもなんとかクリアまではしたいですね。


『Thronefall』(GrizzlyGames/GrizzlyGames)
タワーディフェンスをもうちょっとストラテジー寄りにしたようなゲームで、一〜三週間に一ステージほどのペースぐらいでコツコツやっておる。


『メタファー:リファンタジオ』(Atlas/SEGA
・八時間くらいやったとおもいます。「ああ、これ『ペルソナ5』なんだな」と感じた時点で挫けそうになり、いや、しかしそれでもやらないとと奮起しようとしたのですが、そのタイミングで会った先輩、私が審美眼を信じる数少ない存在であるその人が「『メタファー』はつまんなかった」「『ペルソナ3』→『4』→『5』→『メタファー』と右肩下がりに劣化していっている」「そんなことよりミラン・クンデラを読め」「『不滅』はインターネットの話だぞ」「読書会やろう」「おれってどうすればいいのかな」と言ってきたのでもうやる気ゼンレスゼロゾーンになってしまいました。『不滅』もまだ読んでません。


『My Lovely Empress』(Game Changer Studio/Neon Doctrine)
・『My Lovely daughter』だの『My Lovely Wife』だのエグめで背徳的な物語が特徴のパラメータ管理型アドベンチャーのシリーズを出しているGame Changer Studioの最新作。相変わらずキャラデザはいいのですが、いい加減ワンパターンというか、変に複雑にしようとして単にめんどうになっているだけというか……。


『Library of Ruina』(ProjectMoon/ProjectMoon)
・開発元への取材についていくというので『Limbus Company』ともどもけっこうやりました。わりとやったんですよ。でも、長くて終わってない。そしてシステムが異常にめんどくさい。しかし、シナリオはおもしろくて、ぼつぼつは終わりまで続けていきたい。

セールで買って積んでるのでこれからやりたいゲームの一ダース*19

『Lorelei and the Laser eyes』:識者がみんな絶賛してるが一番気になるのがモチーフが『去年、マリエンバートで』ということ。
『Starstruck 時をつなぐ手』:これも話題だったけど、結局触らずじまい。
『Crow Country』:デモやったときはめんどいな〜と感じたんですが、リリース後のあまりの評判の高さに買ってしもうた。
『十羽の死んだ鳩』:これもローポリホラーとしてもっぱらの評判。リリース時点で「近日日本語版実装予定!」とアナウンスしていたようにおもうけれど⋯⋯?
『Osteoblasts』:Moonanaの旧作。有志翻訳アップデート!
『Cryptmaster』:The Horror Game Awards 観てて気になったので買おうとしたら、すでに買ってあった。こういうホラーはよくあります。
『Beastieball』ドッジボール題材のゲームってしょっぱい評価のが多いんだよな⋯⋯という前評判を覆してめっちゃ好評
『Until Then』:日本語化アップデート!二代目A Space for the Unboundっぽいオーラを漂わせているが、どうなのか。
『空と海の伝説』:Thinky界隈で評価が高い。
『Threshold』:安心と信頼のCritical Reflexパブリッシングのローポリホラー。あと、遅れて日本語訳された『LUNACID』もネ。
『Wukong: the Black Myth』:まじめなので一から『西遊記』を読んでいます。いま斉天大聖が神通力を得て修行から戻ったとこ。『悟空道』とか、『三獣士』とか、あと、小島剛夕小池一夫コンビの孫悟空がどうしても菅原文太にしか見えない版『西遊記』とかは読んでるから、履修済みってことにしておいていいですか。だめ?
『Still Wakes The Deep』:「博多弁で炎上したゲーム」という程度の認識しかなく無意識にスルーしていたのですが、よく見たら開発があの The Chinnese Room、そう、ウォークシムの元祖『Dear Esther』のThe Chinese Room!
 なんか色々やろうとしてコケて紆余曲折あって『Little Orpheus』出したあたりまでは知っていたんですが、その後はウォークシムというジャンルごと死んだのかな〜くらいに考えてたら、ここに来て復活。しかも、某氏から「SWtDはかなりウォークシムですよ」と教えられてこれはもう買うしかない。悲しみの弔鐘はもう鳴り止んだ。君は輝ける人生の、その一歩を、再び踏み出す時が来たんだ。


 ほかにもいろいろ書けるゲームや書きたかったゲームがあった気がしますが、なんだか飽きたしお正月も終わったしわたしにだって日々の暮らしというものがあるので、ここまでにいたしとうございます。
 あ、あと去年はIndie Intelligence Networkというところで海外にいろいろ行ってインタビューの記事化をやったりしてたよ。韓国編はもう公開されてるけど、春先からもいろいろ出てくる予定です! よろしくね。

whysoserious.jp

*1:システムドリヴンの

*2:あんまり作品には関係ないのですが、スヴェトロフはインタビューで「11 bit Studioは東欧のAnnapurnaになろうとしている!」と語っていて、ほんまかいなとなった。

*3:「リリース後に事態が好転しなければさらにスペインへ移るだろう」とも語っている。

*4:たしか『Night In the Woods』のメインクリエイターもアメリカ人だけどそんな生い立ちだった

*5:ニヒリズムの起源がニーチェ以前にツルゲーネフの『父と子』にあったことをわたしたちは思いだすべきでしょう。INDIKAの開発元がブルガーコフゴーゴリドストエフスキーといったロシア文学の後継を僭称していたことも。

*6:ディレクターも映画マニアを自認しています。https://news.denfaminicogamer.jp/interview/240719a_jp

*7:似たような疑義はゲームに関するいくつかの本で呈されているのですが、ここで彼女のトゥートを引用するのは単に直近で見かけた例だからです

*8:まあ技術というより様式に親しんでいるかという問題であり、ゲームに関するスキルの話の六割くらいも実は様式の会得の問題なのだとは感じる

*9:フェルナンド・ペソア「断章」

*10:Draknek & Friendsというスタジオで、開発とともパブリッシングも行っています

*11:「ジェイムソンの主張するところでは、「ノスタルジー・フィルム」に属する映画は過去を正確に再現することを目的とせず、代わりに特定のスタイルを思わせる要素を用い、より現代的な方法論を駆使してそれらの要素を意図的に再利用するのだという。」https://proxia.hateblo.jp/entry/2019/05/29/235641

*12:『我が人生の幽霊たち』

*13:『Obra Dinn』のルーカス・ポープは「四年半費やしてリリースした時点でもう飽き飽きしていた。続編はない」と明言しています。https://www.youtube.com/watch?v=a8IMDfnLULI

*14:あとジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』も引用されますが、あれは法月綸太郎によると実質泡坂妻夫なので泡坂妻夫です

*15:『OFF』、『space funeral』、『oneshot』、『Lisa』、『mothlight』、『Hylics』、『Virgo versus the Zodiacs』あたり

*16:そういえば、『OFF』のリマスターがsteamで出るらしい。正気か?

*17:ちなみにカナダは『Venba』といい、「移民の家族」が主題のゲームが目立ってきている印象

*18:今後は変わるのかもしんないけれどとりあえず今はギミックなどを使ったメトロイドヴァニア感は薄い

*19:際限なく挙げようとしたらきりが無くなったので12個に絞った

英語のゲームをゆっくり訳してみたよ。〜『Clinical Trial』編

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 辛いよ 辛い もう現実と
 理想の境目で ぼくらの


 ASIAN KUNG-FU GENERATION無限グライダー



あらすじ

・いまめちゃめちゃ人気な『Clinical Trial』というフリーゲームを翻訳した。
・ゲームの翻訳は初めてだったので、ここに覚書を残しておく。

翻訳MOD導入方法

ゲーム本体の場所

homieshouse.itch.io
・↑からゲーム本体(無料)を入手。WinでもMacでもパッチは動作するはず。しなかったら、教えてね。

日本語化パッチの場所

nemnema.itch.io

・基本的にはゲームの本体フォルダに、パッチ内で用意されたフォルダ(data, js, img, fonts)を上書きするだけ。
・詳しい導入手順はパッチに同梱されたテキストファイルに書かれてます。



・本作はテストプレイヤーとして、鍵入たたら氏、フマノヒト氏、nilgiriam氏に多大な尽力をいただきました。感謝。
・作者のhomie氏ともメールでのやりとりを通じて、技術的支援と多くの有益な示唆をいただきました。感謝。
・パッチにまつわる誤字や不具合がありましたら、こちらのフォームまで

『Clinical Trial』ゲーム内容紹介

どんなゲームか(公式配布ページの紹介文より)

カネ目当てで精神治療薬の治験に参加することと、医療提供者と患者間の関係について描くサスペンス・ストーリー。

RPGツクール製のストーリー重視ゲームです。キャラを歩き回らせることができるノベルゲームあり、現実検証シミュレーターでもあります。

成人向け。ホラー的な要素や不穏なテーマを含みます。

想定プレイ時間は二時間半ほど*1。エンディングはふたつです。

トリガー・ウォーニング(ネタバレ。ハイライトで表示):ドット絵で表現されたゴア描写。性的暴行についての言及。



どんなゲームか。(初級編)

・舞台はアメリカ。主人公のエンジェル*2ADHDの新薬の治験に参加するために、とあるクリニックを訪れる。そこでリーという生真面目な職員と出会い、不器用ながらも交流を深めていく⋯⋯といったお話。ネタバレ厳禁系。
・基本的に、ストーリー運びは静謐で地に足がついている。現実のアメリカ社会・文化がベースであり、超常的だったり、ファンタジー的だったりする要素などはない。
・テーマのひとつは医療。アメリカの医療制度まわりが詳細に語られていて、他で見ない味を出している。あと、ADHDや、それにプラスして複合的なマイノリティ属性を持っている人々の苦難も。
・2つあるエンディングのうちの片方は、人によって拒否感を催すかもしれないので注意。
・ストーリーは漠然と場面ごとに展開されているように見えて、ほとんどのセリフやモチーフに後の展開を暗示する要素やキャラの背景を示唆する要素が含まれており、実は無駄が一切ない。ストーリーテリングがうまい。
・音楽の挿入のタイミングがね〜〜〜、めちゃうまい。
・基本的には事前情報はこれくらいでプレイしてほしい。
・クリア後にはおまけがあります。詳しくはパッチ公開ページ参照。



以下は翻訳って大変だな〜というのと、ゲームのネタバレについてのとりとめのない文章なので、特に読まずともよい。


個人的な感想

使った翻訳ツール

・Translator++
 ・RPGツクールシリーズほかRen’pyとかにも対応しているすぐれもの。
 

初めてゲームを翻訳した感想

・大変だった。数万ワードはあったとおもう。数万でこんな大変なんだから、100万ワード級訳してる人たちは、いや10万ワードでも、どんだけ大変なのか。しかもツクールはなんだかんだビルドの確認がやりやすいほうだろうし。翻訳者に対する敬意が上がった。
・基本的にゲームの翻訳というのはテキストを翻訳してハイ終わり、ではない*3、とは聞いていたけれど、ほんとうに「テキスト以外」の部分が大変。
 ・文末の禁則処理をしてくれない*4、フォントが日本語に合わない、フォントのサイズが日本語に合わない、メッセージボックス内のフォントサイズを調整すると今度はネームボックス(名前表示欄)で表示される名前のサイズとのアンバランスが気になる、ネームボックスの名前のサイズを調整すると位置が微妙にズレる*5、メッセージボックスで表示可能な以上のテキストを入れると一応自動でページを分けてくれるのだけれど読み味に影響するのでいちいちひとつのボックスの最大表示文字数*6の範囲内に調整する*7、「okay.」などの簡単なセリフが稀にデータ上で複数回異なるキャラから参照されることがあり口調がズレる、Translator++上で訳しているときに想定していた場面と実際のゲーム上の場面が自分の勘違いでズレてる、画像部分のテキストを翻訳するために作者のTwitterで公開されてた画像データをもらってきたはいいもののゲームに適用するためにはツクール独自の暗号化が必要→ちょうどhumble bundleでツクールMZがセールになってたので買う→よく見たらMVだった*8→泣く泣くMZを買いなおす→よく探したら無料でツクール暗号化画像をデコード&エンコードできるサイトがあった→じゃあこのMVと MZなに???、 Macで動かない原因を探るためにいろいろいじってたらゲーム全体がぶっこわれかける→最終的に作者さんのほうでMacバージョンをデプロイしてもらう*9、その他諸々。
 ・システムまわり(フォントとか)のいじりかたが最初ようわからんかったのですが、Chatgptに訊いたら全部解決した。すごい。
  ・それでも解決できなかった問題も多く、やっぱり自分でもRPGツクールいじっとく経験が必要だったかもしれない。
 ・訳やコードをいじるたびにビルドを確認せにゃいけない。それで「ここは誤訳だな」「見栄えが良くないな」で修正を加えると、今度は修正した箇所で別の誤訳や醜さが生じる。いたちごっこ
・拙い英語で作者さんとやりとりするのも大変だった。今回は作者さんから非常に良くしてもらい、得るところも大きかったので、やりとりできたこと自体は良かった。
・アドベンチャーの文章を送るという行為は基本的にプレイヤーの操作に委ねられており、時間操作の感覚的には映画よりも小説に近いのかな、と考えていたのだけれど、すくなくとも本作はスクリプトなどで結構細かくウェイトなどを打ってきて、ガンガン読みのペースを握ろうとしてくる。
 ・ソシャゲなどをやってておもうのだけれど、ゲーム、それも二、三行しか詰め込められないメッセージボックスを細切れに読まされるというのはどうしたって読書的な体験にはならない。とするなら、メッセージボックスの文章には小説あるいは散文の文章とは異なる戦略が必要になってくるはずで、テキストドリヴンのゲームはつねにそういうのを考慮しなければならないから、作るにしても訳すにしても大変なんだな、っておもった。

翻訳のいいところ

・作品の理解度がアップする。
 ・英語プレイ時に「なんとなくわかるようなわからないような」で読み飛ばしていたりフツーに誤読していたところも翻訳作業を通じてわかるようになる。あと強制的に精読モードにさせられることにより、プロット上の伏線や反復やモチーフなどといった作者の意図への理解も向上する。
 ・理解の曖昧な単語は調べなければならなくなるので、当該分野に対する理解がすこし深まる。本作の場合は医療用語など。基本的にアメリカの知識なので使い所がないが。
 ・文化や風俗についても調べなきゃならなくなるため、理解が深まる。
 ・山形浩生が『翻訳者の全技術』で、「翻訳とは翻訳者の作品解釈をおすそわけするようなもの」的なことを言っていて、まあこれも私の解釈のおすそわけです。
・翻訳者や翻訳作業の大変さがわかる。
 ・近ごろはゲーム翻訳を憂う石動雷十太と化して色んな翻訳にケチをつけてたので、ちょっと反省しました。でも、許せねえ。
 ・大量のテキストを訳しているうちにどんどん自分の脳みそがゆだってきて、初歩的な表現でもありえない誤訳をやらかす。
・あんたらもゲーム翻訳、やったほうがええで。
 

翻訳のダメなところ

・他のゲームで遊んでいる時間がなくなる。
 ・作業中はNubby's Number Factoryしかできない身体になってしまった。
 ・作業自体の実時間もそうなんだけど、翻訳作業から離れてるときもずっと「あれはああしたけど、やっぱこうすべきなんじゃないか」とか考えてしまって脳のリソースを取られまくる。
・自分のクセとして、推敲や校正の段階で「文章の細かい表現をやたら気にするくせに、実際的な誤字脱字の類は見落としがち」というのがあり、これが致命的に翻訳作業と相性が悪かった。
 ・なんとか見られるものになっているとしたら、協力いただいたテストプレイヤーのみなさんのおかげです。
・疲れる。けど、やったほうがええで。


****作品のネタバレ部分についてのメモ****



クリアしてない人は読まないでください。



主人公のセクシュアリティについて
・具体的にはFtXのノンバイナリー。
・明示的に語られていないとはいえ、描写やセリフなどからのほのめかしは多い。


翻訳上の戦略
・人間と人間の関係の話なので、1)キャラクター描写と2)関係のプロセスを重要視した。
 ・キャラクターごとの戦略
 ・エンジェル。
 ・「主人公のセクシュアリティについて」で書いた諸々を加味し、会話文での一人称代名詞を徹底して排した。これは消極的な印象の誘導であり、この翻訳版における唯一のギャンブルでもあるといえる。
   ・ある意味では、現実に即した判断ではなかったとは思う。まともに生活を送っているのなら、どうしても一人称を使わざるを得ない場面が出てくるからだ。ノンバイナリー関連の本を漁っているうち*10、あるFtXの当事者の書かれたnoteで「公的な場ではいろいろこじれるから『私』で通しているが、ほんとうは『僕』や『俺』を使いたいこともある」というのを見て*11、序盤では「私」にしといてリーと親密になるにつれて「僕・俺」にしようかとも考えないではなかったけれど、そういうバランスって言語的にも社会圧的にも日本的だし、そもそもエンジェルはそこまでそういったバランスに気を払わなそうなので、やめておいた。
  ・どうしても一人称や所有格がないと不自然、といった場面では「自分」を使った。実際にこれで通している人もいるらしい。ただフィクションの文脈だと、多用させすぎると軍人っぽくなっちゃうのよね。
  ・さまざまな一人称を混在させるという手もあったが、創作物というのは読者との甘い犯罪で成り立っており、あんまりピーキーなことやって混乱させるのもよくないとおもった。作者が意図せざるものにもなってしまうだろうし。
  ・ルートがふたつあるので、それぞれで一人称を変えてもおもしろそうだな、っておもったけれど、他人の創作物でやることではない。
・リーとの信頼関係ができる後半にいくにつれて言葉遣いを気持ち柔らかくしていった。
  ・全体の作風としてもそうなのだが、特にエンジェルはUh…とかUmm…とか言い淀みがかなり多い。エンタメ的な翻訳の作法としては、可読性を考えて切るべきだったのかもしれないけれど、これも作者の作為ではあるので、わりと残した。
 ・それはそれとして、エンジェルの口調の制御は難しかった。「女性っぽさ」を薄めるためにぶっきらぼうだったり乱暴にしすぎると、トランスマスクなのかと受け取られる恐れもあるし、かといってニュートラルな語尾などを用いているとどうもズルズルと「女性的」な印象に寄っていってしまう。発話者の性別をバイナリ的に判断するようとする無意識のバイアスの力というはすさまじいものだとおもうし、なんにつけ「色」を持ってしまうのが日本語なのだと実感する。そこでなんとかしようとセリフをいじるとキャラがブレる。
 ・そう、キャラがブレる。仮にエンタメ的(産業的)な作品でなかったとしても、基本的にはキャラクターというのは一貫していたほうが望ましく、そのキャラの一貫性を保証してくれるのは行動部分でも表面的な口調だったりもする。つまり、口調やセリフのトーンは統一されていたほうがよい。ところが現状の型にハマらない属性の人間を型にハメようとすると、どうしても齟齬ができる。その齟齬を解消し、物語的に動かしやすくし、読者の喉越しをよくするために、属性ごとのステレオタイプというのが生まれる。
  ・キャラクターや物語についての理解というのは、作品と読者とのあいだのどこかで妥協的に調停されるものだけれど、ではそのために誰とどうコミュニケーションをとればいいのか?
  ・一人称代名詞を排してもおおむね苦労は少なかったのだけれど、一箇所だけどうしても「一人称代名詞がほしい」と痛切に願わざるを得ない場面があった。エンジェルが自分とリーを並置して「(わたし)と(あなたが)が〜」言う場面。
    ・一人称代名詞とは社会や場に対する距離感への言明なのだけれど、相手が社会や場であれば自分という存在を隠せる。しかし、個別の人間を相手にするなら、自分もまた姿をさらさなければいけない。
      ・これが並置でなく対置なのであれば、本作の翻訳でもそうしたように、主語を「あなた」にして非難させればいい。でも、眼の前の人間と共に生きる、という話になったときにはどうしても「(あなた)と(わたし)」になる。ならざるをえない。


・リー。
 ・硬い言い回しを心がけた。特に序盤は官僚的というか、説明書や辞典が喋ってるイメージ。漢字二字の熟語をよく使うように心がけた。可読性は下がったけれど。
 ・エンジェルと打ち解けていくにつれ、彼なりに言葉が崩れていく。特に第二部以降はかなり意識的に(それまでの彼と比較して)崩した。
  ・それでも最後までエンジェルに対しても敬語のフレームは崩さない。そういうタイプの人だとおもったので。*12
  ・もっとも深い部分での一人称は「ぼく」だと思う。父親への言及に比して母親への言及が圧倒的に多く、また、母親に束縛されているような節が見え隠れする。
  ・奇妙な例え話をするクセがあり、やや苦労した。

・アドリ
 ・ギャルだな、とおもったが、あんまりコテコテにしすぎても、なんかウソくさくなって困る。アドリはアドリでリアルに生きているひととして描かれているとはおもうので。
 ・例え話というか、隠語的なセリフが多く、単体ではリー以上に苦労した。そもそもの分量が少ないからそこまで負担にはならなかったけど。
  ・たとえば、「ここには塩(salt)とバー(bar)をもらいにきてんの」的なセリフがあった。当然クリニックに塩もチョコバーもないわけで意味がわからないだけれど、前後の「リーのことを薬の売人(dealer)と呼んでいる」というのを踏まえるとどうもなにかしらの精神治療薬のことを指しているっぽい。
   ・言われているエンジェルも意味わからなくて困惑している場面だったので、あえて余計な解説や当て推量はせずに訳でも単に「塩とバー」で通した。

・ブランドン
 ・キャラとしてはあれだけれど、一番訳しやすかった。アドリもそうだけど、ずっとメインふたりのダイアローグ劇でやっているところに、たまにモードの違うキャラが挟まると会話のリズムに波ができるというか勢いがつくというか、こういうのもあるんだなっておもった。


設定年代とキャラの年齢の謎
・作中には年代を直接特定できるセリフは出てこない、はず。
・保険証によるとエンジェルは1987年生まれ。つまり、2025年時点では38歳くらいになる。ところが、作中ではそんなに歳がいっているように見えない。
・出てくる携帯電話にしてもエンジェルもリーも折りたたみ式。
・リーが「世紀の変わり目に『Snake』(ヘビゲーム)が出てきたときは斬新だった」という発言をしている。『Snake』の原型は、1976年の『Blockade』*13とその派生作品でかなりレトロなゲームなのだが、1998年になってからノキアNokia 6110を売り出すさいにプログラマーのタネリ・アルマントーによって同梱され、世界的な知名度を得た。携帯電話向けゲーム最初期の名作のひとつ。ちなみに、フィンランド発のヒット作品としてはレメディの『マックス・ペイン』に先んじてもいる。
・また、続けて「自分はポケベルから携帯電話に切り替わった時期に病院で実習を行っていた」と発言している。リーは90年代には少なくとも20代であった可能性が高い。
 ・とすれば70年代生まれであり、25年には50歳前後なはずで、しかしいくら老けているといっても、こちらもそこまでいってるようには見えない。
・一方でクリニックの待合室にある雑誌は「いちばんあたらしいので2002年」なので、それ以降ではある。
 ・エンジェルは大学中退なので、飛び級もしていないようだし、すくなくとも18歳以上ではある。そして「大学には1年半通った」そう。
・途中で出てくる「DSM精神疾患の診断・統計マニュアル)の全巻揃い」の最新の版がDSM-IV-TR(2000年)。2013年に第V版が出ていることが、こちらは作中に出てこない。
・となると2000年代後半あたりを舞台設定と想定したほうが妥当か。
・初代iPhoneの発売日とが2007年1月。スマホに対する言及がないから察して舞台は2006〜8年あたり? エンジェルが20歳前後でリーが30前後。
・なぜそのような年代設定にしたのかは謎。
 ・2020年代だとテクノロジー的にこれができなくなって困る、といったような部分はあんまりないように見受けられる*14
 ・短文SNSが発達したあとだと、エンジェルが「孤独」じゃなくなってしまうから?

*1:実質〜三・五時間だと思う

*2:名前。英語圏では男性名にも女性名にも使われ、スペイン語圏では主に男性名に使われる

*3:https://automaton-media.com/articles/newsjp/20220620-207490/

*4:膨大な時間をかけて一文ずつ直そうとしたが、最終的に諦めた

*5:諦めた

*6:今回の場合は17字×3行=51字

*7:一部、意味を通すほうが大事だとおもったところははみ出させたままにしている

*8:キーコードでの購入なのでおそらく返品不可

*9:これは最終的にはどうも本体の古いバージョンで翻訳作業を行っていたのが原因っぽかった。もともと普通にWin/Mac両方で適用できるっぽい

*10:書籍では明石書店から訳されている『ノンバイナリー――30人が語るジェンダーアイデンティティ』や『ノンバイナリーがわかる本 ――heでもsheでもない、theyたちのこと』といった本を参考にした。

*11:割り当てられた性別とは逆に位置する一人称で相対的な「中性」感覚を得るのかなと思った

*12:橋本治が言ってたとおもうけど、敬語っていうのは他人と距離をとる手段であって、根本的にありとあらゆる対象と距離を取らざる得ない人というのはいる。

*13:82年の映画『トロン』に出てくるバイクのゲームの元ネタ

*14:唯一携帯電話まわりでテクノロジーの発達に関係してそうな部分があるのだけれど、これも今でもできるといえばできそうな気がする

勅撰!カスの嘘集 〜よりぬき100選〜

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カスの汁こと、粕汁


 カスのウソが溜まってきた。


 あなたがたの疑問を先取りして言っておくと、答えは「はい、そうです」だ。
 カスのウソは日々、溜まっていく。あなたがたがDuolingoで目付きの悪いエモガールの叔母の好きな食べ物を憶えたり、積立NISAを積み立てて積立YONROKくらいにしたり、つきたてのおもちを食べたりしているあいだにも、われわれはせっせとカスのウソをこしらえている。


 次なるあなたの質問もわかっている。答えはこうだ。
「いかにも。われわれは複数人である。複数でもって、カスのウソを生産している」
 以下がその証拠である。


 このツイートからわれわれ*1は、約半年にわたりDiscord上でひたすらカスのウソを産みつづけ、アメリカ合衆国憲法に逆らって毎日をエイプリルフールにしている。


 なぜそんなことを?
 わからない。今のところ、これをASMR化してDLsiteで売る予定はないし、コミカライズする予定もない。まるでない。コミカライズなら幾花にいろ先生を希望します。

(ちなみに上のDiscordでのもうひとりのカスのウソラーである、皆月蒼葉氏のカスのウソ保管庫はこちら。こちらのあるのは本記事同様すべてウソであります。*2

growi.bi3.jp


 ひたすら無差別・無分別・無目的にウソをつきつづけると、ウソの知見や経験も溜まってくる。すると、よりウソがうまく、精巧に、カスでなくなっていってしまう。こうした洗練がカスのウソの本義に背くというジレンマを抱えつつ、われわれはそれでもカスのウソを希求しつづけ……
 というのはウソで、ひたすら手癖でつきつづけるものだから、特に上達などしない。だいたい人のつけるウソにはある程度傾向があって、意外と幅がない。つらいのはやはり自分のつくウソのパターンがわかってしまうこと。出せるバリエーションを見切ってしまうと、途端に冷めてしまう。飽きる。向上心も別にわかない。プロの誇りなどない。カスとは心の所作である。
 
 しかし、冷めたピザでも回せば増える(トスカーナのことわざ)*3ってなもので、惰性でつきつづけたウソがDiscordでどんどん数だけは溜まる。ひとつのウソごとにレイヤーが重なっていって、まるで地層のようだね。のちのなにがしかの知性がこの年代の地層を掘ると、カスのウソばかり出るものだから、しまいには「粕嘘世」と呼ばれることになるだろう。
 
 そのようなわけで、ここにカスのウソdiscordチャンネルからよりすぐった勅撰カスのウソ百首を読み上げる。だれからの勅かは問わない。勅とはすなわち天の意志であり、考えなしに住所欄にテキトーな番号を埋めたやつらのせいで毎日迷惑DMが大量に送られてきて困っているかわいそうなおじいさんの意志ではない。

 以下がカスのウソをつくにあたっての基本的ルールである。
 
・ウソのためにあまり調べ物をしてはいけない。
・三〜十秒は信じられるウソでなくてはいけない。
・一瞬でウソだと看破できるものはカスのウソではなく、カスである。
・末永く信じてしまうようなものはカスのウソではなく、ウソである。
・事実であってはいけない。
・なにがしかの真理を指さしてはいけない。
・なるべく文は簡潔に、短く保つ。
・シリーズものは作らない。
・以上は別に守らなくてもいい。


 ところで、わたしには特に自身に課すべき(カスだけに)ルールなどないのだが、カスではないあなたがたにはある。権利というよりは、現代インターネットの倫理的な問題によるものだ。以下、上記リンクにある皆月氏のカスのウソ保管庫からまるまるパクる。*4


・本記事のカスのウソを(特にSNS上などに)転載するのはダメです。
・URLを記載する(リンクを張る)のOKですが、すべて嘘であることを説明の上でお願いします。


 以上。
 では、始めましょう。
 難波津に咲くやこの花冬ごもり。

カスのウソ百選

1.すべてのカニは実は前に歩ける。裏表をひっくりかえして一分ほど押さえつけたあと、また元に戻してやれば、前方に向かって歩き出す。

2.法的な区分上、モスバーガーは出そうと思えば酒類を販売できるが、マクドナルドは絶対にできない。

3.一匹の猫の体毛に発現する色は最大五色まで。

4.日本で最後に公的な機関に届け出が受理されて切腹が行われたのは、昭和3年のこと。

5.paypayという名称は、生前のスティーブ・ジョブスからの提案。

6.線路は法的には車道なので、歩くと怒られるが、車や自転車で走った場合には怒られる根拠がなくなる。

7.羊羹はヒツジのフンに似ていることから当初「羊糞」と呼ばれていたが、それではあんまりだということで「羊羹」に置き換えられた。

8.ある時期までイギリス国王はウニを食べるのを法律で禁止されていた。

9.オルゴールという単語はオランダ語

10.天皇が公営賭博の投票券(馬券)を購入することはできない。

11.「とろ」とは原則的マグロに固有の部位を指すため、「とろサーモン」などの表現は誤用。

12.昔気質の泥棒は「余計なアシがつかないように」とイカやタコのたぐいを避ける。

13.「アメリカ産のお米は美しい」というフレーズをベトナム華語に直すと回文になる。

14.「かしわもち」は、もともと「とりもち」を指す語だった。

15.岐阜県の一部では、かしわもちのことをとりもちと呼び、とりもちのことをかしわもちと呼ぶ。

16.デンショバトはれっきとした生物学的分類上の種のひとつ。

17.大分県都道府県名を冠した犬種を持たない唯一の県。

18.カラスミは無味。カラスミソースの味は塩とオリーブオイルの味。

19.フレンチトーストは、フランスでは『アメリカ人の朝食』という意味の語で呼ばれている

20.味覚のうち、「酸っぱさ」だけは錯覚だとされている。

21.勅撰和歌集の編纂に失敗して天皇から死を賜った人物がいる。

22. 『美味しんぼ』は連載初年度は『美味しんBOY』というタイトルだった。


23.新聞にテレビ欄が登場したのは1970年代になってから。それまではテレビの地位が著しく低かったため。登場のきっかけは『8時だヨ!全員集合!』(1969〜)

24.「見ると死ぬ絵」がルーブル美術館の倉庫に眠っている。ネット上の電子カタログで閲覧可能。


25.リヒテンシュタインのシャーン・ファドゥーツ駅では、ウィーンから来た乗客の時差ボケ防止のために、特定の乗り場の時計を一時間遅らせてある。

26.オリンピックの父、クーベルタン男爵の「男爵」位は自称。

27.表千家は右手で、裏千家では左手でお茶を立てるのが作法。

28.茶道の千家は、公式には断絶したのも含めても百四十三家までしかない。

29.1960年代の大リーグの公式戦において、対戦した両チームがキャッチャーを欠いた状態で試合を行ったことがある。

30.イギリスのプロ野球リーグでは、ピッチャーのことをボウラー(bowler)と呼ぶ。

31.規格通りに生産されたマスクを四枚以上重ねると窒息死する

32.「青天井」の語源は賭博好きだった西太后の迎賓用の宮殿、青晶宮の天井。青水晶で覆われていたという。

33.「新幹線」は厳密には線路のみを指す単語であり、鉄道関係者は車両に対しては使わない。

34.ゴルフの7番アイアンの長さと野球のバットの長さは、それぞれルールブックに定められているところによると、ミリ単位で同じ。

35.国連加盟国前193ヵ国のうち73国の国名は、現地の言語で「(我が)国」という意味。

36.海苔でまいただけの握り飯を「おにぎり」、寿司を「にぎり」とそれぞれ呼ぶのは、加工された海苔が魚介類より希少だったころの名残り。

37.鯖は哺乳類ではなく、厳密には爬虫類。

38.原子爆弾の素を牛乳に混ぜてよく練ると、プリンの味がする

39.一部の国では、クイズは(金品を賭けていなくとも)行為自体賭博に該当するとして禁止されている。

40.「鉄火巻き」は本来、鉄火場=賭場でつままれる鮨全般をさした呼称であり、マグロ以外のネタでも成立する。とはいえ、当時安価だったマグロが賭場で多く供されていたのは事実。

41.ウミガメのスープなる料理は実在しない。*5

42.「紛争」と「戦争」は死者の数によって分けられる。1000人以上から「戦争」。

43.京都の烏丸という地名は、三国時代に魏に敗れて大陸から日本に逃れてきた烏桓(烏丸)族がそこに住みついたことにちなむ。

44.リンゴはバラ科だが、ナシはウルシ科。

45.市販されているカニカマのほとんどは本物のカニを含んでいる

46.「ロンドン」という地名はフランス語由来

47.ホットドッグはもともと作り置きで冷えた状態で供された「ドッグ(犬が食うようなもの、という侮蔑的な意味)」がもと。これをできたての状態で出すのが特別視され「ホットドッグ」と呼ばれた。

48.イカとタコを人工的に交配させてできた「イコ」という種があり、イカから滑り感を抜いたような味だという

49.サンショウウオサンショウウオ科だが、オオサンショウウオはメダカ科。

50.エストニアのプロサッカーリーグは頑なにオフサイドの導入を拒んだため、欧州サッカーリーグ協会から除名されている。(いわゆる、エ式サッカー)

51.ノルウェー固有のサッカーにおいては、各フィールドプレイヤーは三回まで手を使うことが許されている。(いわゆる、ノ式サッカー)

52.日本にはノ式サッカー部を設置してる大学が関東に8校あり、全日本大学ノ式サッカーリーグを形成している。

53.エストニアという国は現存しない。

54.地図上でエストニアとされている一帯は、正式にはノルウェー王国エストニア

55.東京大学出版会は、異世界転生ものの小説を出したことがある。*6

56.カキフライに使われるカキと生食できるカキとは実は別の種のカキ。

57.うさぎの語源は「右左喜」。祝宴の席に出されると「右に座っているひとも左に座っているひともみな喜ぶ」ほどおいしいから。

58.キッコーマンがヨーロッパで製造している醤油にはバナナが含まれている。甘みを調整するため。

59.アメリカの一部では「ピカチュウ」という単語はドラッグ取引の隠語として用いられる。もともとすでに存在していた隠語「Pick a Shoe」(スニーカーを電柱などにぶらさげてドラッグの取引場所を示すサインとしていたことにちなむ)と発音が似ていたため。

60.「社食」ということばが使われはじめたのは実は60年代から。松下幸之助が「社稷」とかけて松下電器社内で使いはじめ、その後全国に広まった。もともとは単に「食堂」か略さずに「社内食堂」と呼ぶのが一般的だった。

61.「うんこ」は放送禁止用語だが、「うんち」はそうではない。NHK教育を毎日観ていればわかる。

62.イギリスではたとえポテトフライがついていなくても(揚げた魚だけでも)「フィッシュアンドチップス」と呼ぶ。

63.「カスの嘘」というワードの初出は唐沢俊一の『トンデモ!ウソの世界2』(2001年、宝来出版)

64.『サザエさん』のノリスケはバツイチ。イクラは前妻との子。

65.ほうじ茶はもともと「神に奉じる製法で作られた茶」という意味で。焙じる、という漢字はあとからあてられた。

66.順番はすこしづつ飛ばしているため、実は今は71個目のカスのウソ。

67.最近では「運ゲー」は「運命のゲーム(=神ゲー)」の意味で使われることが多く、旧来の「運任せのゲーム」の用法は廃れてきている

68.韓国では2000年以前に生まれたひとびとを表す呼称として「19世代(1900年代生まれという意味)」というのがある。あまり良い文脈で使われない言葉なので、使う時は気をつけよう。

69.虫のハエは写真投稿SNSで「映え」ることからそう呼ばれるようになった。

70.「シャケ」という語はフランス語由来。昔は燻製サーモンを作るときに定期的に回転(=sciac)させていたのだが、それを見た明治時代の日本人が「あれはなんだ」と指さして訊いたときにフランス人が「Sciacしてるんだね」と答えたのを魚の名前だと勘違いした。明治以前はみな「マス」と呼ばれていた。*7

71.大根は、食べると死んで(Die)で永遠(久遠)になれるほどのうまさなので「ダイクオン」と呼ばれ、それが転訛して「ダイコン」になった。

72.日本語の「すばらしい」の語源はサンスクリット語の「スバーシテー(善き言葉)」であり、寿司(スシ)と語源をおなじくしている。

73.タコさんウインナーの発祥はドイツ。現地では「薔薇切り」と呼ばれる。

74.聖徳太子の有名な肖像画聖徳太子の両隣に描かれている子どもは、聖徳太子と一切縁もゆかりもない。そのへんで捕まえて着飾らせただけの庶民のガキ。

75.「メリーさんのひつじ」に出てくるひつじは、メリーさんの父親の所有なので、法的には「メリーさんのひつじ」ではない。歌詞にもその旨が描写されている。

76.紫蘇は美味い。

77.不良のことを「跳ね返り者」と呼ぶのは、「反社(=反射)」にかけたシャレ。

78.カスのウソには呪われた禁止ワードがいくつか存在し、たとえば「違法」という単語を使うと五秒後に額が割れて血を吹き出して死ぬ。

79.宮内庁では、フリーハンドで完璧な真円を筆書きできる人材をかならず一人は本庁に常駐させている。

80.縦4.25:横3.0の比率の楕円は「真楕円」と呼ばれ、古代ギリシャで尊ばれた。

81.ピサの斜塔は、ガリレオが落下実験を行うために傾けられた。実験後は取り壊される予定だった。

82.鍋料理「水炊き」の名の由来:鶏肉が禁制だった博多藩において、ある下級藩士が鶏鍋を隠れて食べていたところを朋輩に咎められ、「いや、これは炊いた水を飲みたくて鍋にしてるんだ。鶏はたまたまそこにあっただけ」と苦しい言い訳をしたことから。

83.大阪ではエスカレーターが人間の上を歩く。

84.中三元は本来責任払いの役。

85.コーヒーは先物取引で特に価格が乱高下しやすかったことから、相場師たちがリスク低減のために共同で購入する(co-fee)ことが多く、それがいつしか豆そのものを呼ぶ言葉となった

86.滋賀県の大津は酸素(O2)の濃度が高いことが地名の由来。

87.このうちひとつだけChatgptに考えさせたカスのウソがある。

88.「国道に面している」はもともと右翼の慣用句。

89.厚紙の色紙は、もともと遊郭で遊女と飛ばして遊ぶために生み出されたもの。

90.総合化学メーカーの帝人の社名の由来は「帝国」ではなく、創業者である太田帝人(本名・太田佐雄、1876〜1963)から。太田は児玉誉士夫と並んで戦後の二大フィクサーと呼ばれた。

91.昭和天皇は朝が弱いことで有名で、侍従や側近に「朕はテイ(帝)血圧でネ」とよく冗談を飛ばしていたという。

92.カニブロッコリーの仲間だが、エビはカリフラワーの一種。

93.レーズンはブドウよりもマスカットに近い。

94.ブドウには中枢神経系はないが、マスカットにはある。そのため、マスカットは痛覚をもっているとする説が近年では有力。

95.特撮の戦隊ものスーパー戦隊もの)の原点である『秘密戦隊ゴレンジャー』の直接のインスピレーションもとは、『笑点』。

96.中島みゆきはデビューまもない時期に、笑点の特別ゲストとして座布団運びをやったことがある。

97.笑点初放送時の1960年代末には、生活様式の西洋化にともなって座布団がほとんど廃れかけていたのだが、笑点ブームによって大復活を遂げた。

98.ロキソニンというポケモンがいる。

99.愛は不滅。

100.実は日本だけでなくフランスでも白いクロワッサンのことをシロワッサンと呼ぶ。

思ったこと。

・50個くらいだろうとおもってたらなんか110か20くらいあり、まじかよ……と戦慄しながら選定した。いうほど選り抜いてはいない。
・ひとつごとに元ネタの解説などをしようとおもったが、無粋、というよりは単にめんどくさいのでやめた。
・だいたい元ネタの型があって(たとえば「カラスミは無味」はかき氷シロップ)、それが尽きると一気に弱くなる。首脳陣や強化部と相談し、今後の課題としていきたい。
・ジャンルも偏る。これはふだんから意識しないとなりがち。
・定義のはっきりしている分野は短時間で検証しやすいので使いやすい。たとえば、法律、語源、歴史、生物の分類、スポーツのルール。
・そのときどきの時事が反映されがち。
・後半になるにつれやる気が薄れてきており、たるんどるぞ! とおもった。
・基本的に自分は意味のないホラをふくときは「○○は△△だとおもわれがちだが、実は✗✗である」という構文をつかいがちなのだけれど、「カスのウソ」という枠組みでは簡潔さを欠くため、あんまり採用しないんだなって。
・1/4くらいは厳密に検証したらウソではないかもしれない。
パスカルも「カスのウソは思考の澱を掃除するようなものだ。一種の健康法である」と説いている。ウソだが。
・検証不能故にウソともホントとも確定しないものは果たしてどうなのか。「カス」という歯切れのよさに反しているから「カスのウソ」ではないのだろうか。
・紫蘇と大葉は嫌い。
・カスのウソとはなにか。カスみたいなウソのことである。ウソの時点でカスであるので、それをさらにカスとしていくのは気合いを要する。しかし、ウソをカスにするために気合いを入れるのはやはりカスのウソの理念に反する気がする。だご、そもそもカスのウソに理念などあるのか? あっていいのか? そうした無間の苦しみに苛まされつつ、われわれは今日もカスのウソをつくりだしていく。


*1:上記のツイート主の皆月蒼葉を主魁とし、本件にまつわるあらゆる法的・道義的責任の一切は彼に帰する

*2:混ざるとよくないのでカスのウソについては各自で保存することになった。ので、今この記事がある。

*3:ウソ

*4:技巧派のカスのウソラーである皆月氏に比べて、わたしのは一手でウソだと見抜けるものが多いため、別にこういういらないんじゃないかという気がするけれども、まあ形式というのは大事だ。

*5:近代デジタルライブラリーで検索したらいっぱいレシピ本がヒットした記憶がある

*6:続く内容は「内容は「異世界転生をした男子高校生が平和な異世界に突如として蔓延しだした疫病に立ち向かい、コロナ禍を通して知った疫病対策を広めながら各女性キャラクターと懇ろとなっていく」といったもの。比較的平易な文章で書かれた中高生向けの衛生学啓蒙書であるが、「疫病の発生源が地球世界から未知の病原体を持ち込んだ主人公自身だったと判明し、主人公が火山口に身を投げる」というショッキングなオチが一部で物議を醸した。著者は東京大学医学部附属熱帯医学研究所の副所長(当時)であった刈谷弘。2022年刊。」であったが、あまりに長いため選から漏れた

*7:ちなみにsciacに「回転する」という意味はない。構成要素がすべてウソみたいなネタが好き。


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