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2021年上半期でよかった新刊マンガ10選+α

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 アジで勢いつけて真夜中に一気に書き上げないとブログやれなくなった。

 でもこれもいつか癖になんだ
 怖いけど読んじゃう彼岸島
 お化けみたいにいつも思い出すのさ

      ——VaVa「Ziploc


 今日もどこかで新連載がはじまる。ジャンプで。ジャンプ+で。マガジンで。ヤンマガで。イブニングで。モーニングで。アフタヌーンで。good! アフタヌーンで。サンデーで。裏サンデーで。チャンピオンで。ビッグコミックで。スピリッツで。ゴラクで。BELOVEで。なかよしで。ちゃおで。りぼんで。KISSで。feel で。くらげバンチで。LINEマンガで。コミコで。めちゃコミで。アックスで。楽園で。ハルタで。ニコニコ静画で。トーチで。マトグロッソで。KDPで。pixiv で。コミケで。コミティアで。twitterで。ここで。世界で。
 これからはじまるすべての作品が「おれを読め!」と産声で迫ってくる。
 でも、すべてを読破するなんて現実には不可能だ。それにマンガなんて読んでいるとろくなことはない。年に2000冊マンガを読んでいる倫理学者もいるそうだけれど*1、あなたは倫理学者になりたくはないでしょう? 人生は短く、マンガは多い。
 一方で集合知もたよりにならない。次に来るといわれたマンガはだいたいもう来ているし、このマンガがすごいなんて言われんでも知っている。どこで知った? インターネットで。
 そう、あなたの実人生はインターネットの絞り汁でできている。インターネットで読めといわれたものをすべて読み、言えといわれた感想をすべて言う。サバサバ女、ベーグル、1000万金と星5秘書。供給が需要を創出する。そこにあなた自身の欲望が介在する余地など微塵もない。あなたに欲望と呼べるものがあったとして、だけれど。
 だからこそ、あなたはリスト記事を書くべきなのです。それは単なるライフログでもメモでもアフィリエイトの言い訳でもない。インターネットという彼岸島で自分が人間であり正気であることをたしかめるための、たったひとつの手段なのです。
 

レギュレーション

・2021年1月〜6月に発売された漫画単行本で、期間内に第一巻が発売された連載もの、単発もの、短編集を対象する。
・順番に特に意味はない。
・7月6日深夜時点の気分で選んだものなので十選とそれ以外で特に差があったりなかったりする。

十選

切畑水葉『阪急タイムマシン』(BRIDGE COMICS)(単巻完結)

 阪急電車というとまんま有川浩の『阪急電車』が連想されるのですが、そちらは内容をまったくおもいだせない。でもなんか人情っぽかった感触はおぼえている。これもそんな話なのだろうと、手にとってみると、おもったとおりにあたたかくやさしい絵柄で、しかし意外にハードな物語をつきつけてきます。
 主人公・野仲いずみは毎日通勤のために阪急電車に乗っています。てもちぶさたな乗車中の愉しみは、大好きな編み物作家FIKAの作品集を眺めること。おっとりしていて引っ込み思案、職場の同僚たちともなんとなくソリのあわない彼女にとって、編み物は楽しかった子ども時代を思い出させてくれる避難所であり、FIKAはあこがれの象徴でした。
 そして、いつものように電車でFIKAの作品集をながめていると、ちょうど視線の先にFIKAのセーターを来た女性が。いずみは意を決して女性に話しかけます。「FIKAさん、ええですよね!」
 と、実はセーターの女性は幼馴染の編み物仲間で、小学生のころ別れたっきりだったサトウさんでした。
 FIKAの作品がきっかけで昔の親友と再会できたことに運命を感じ、気分が高揚するいずみ。しかし、いっぽうのサトウさんは浮かない顔です。「阪急乗んでええとこやったら、会わずに済んだのに……」

 人生における輝かしい時期は人によって異なります。若い頃が最高で、あとは降るだけどとぼやく人もいるでしょうし、逆に若い頃は暗黒期で今のほうが断然良い、という人もいるでしょう。そしてある人は特定の出来事を強く記憶していて、おなじイベントを共有した別の人はほとんど忘れかけていることもある。
 そういう「子ども時代に対する思い入れ」がまったく異なるふたりがふたたび出会ってしまったことから記憶という名の「タイムマシン」が動き出す、そういう話です。
 人は苦い記憶に蓋をしがちですが、自分にとっては思い出したくはなかったネガティブな出来事でも、あえて向き合うことでひとつ過去にケリをつけ、前に進む契機になる。ハッピーでもバッドでもないけれど、ポジティブな物語はある。そういうバランスのお話をかける作家は稀でしょう。
 絵。絵がいいですね。等身を伸ばしたこうの史代といった趣で、ハードな話を辛すぎない程度にくるんでくれる天与のやさしさがある。
 秀作ファンタジー短編集である『春の一重』(2018年)のころから実力の高さは折り紙つき*2でしたが、『阪急タイムマシン』で現実的な話も達者であることを証明して、今後もどういう作品を見せてくれるのか、いい意味で予想できない作家です。
 

伊奈子『泥濘の食卓』(バンチコミックス)(連載)

前回の記事でちょっとだけ触れたのですが、「リスおねえちゃん」のナカハラエイジが2019年にちばてつや賞で準優秀賞を獲ったときの大賞のひとですね。天才に打ち勝っただけはあり、ルーキーのころから大物感を漂わせる逸材でありました。
 そんな伊奈子先生の初単行本がこちら。『泥濘の食卓』。こいつが、まあ、とんでもねえ。
 セッティングはドロドロ不倫恋愛モノです。
 スーパーで働く25才の独身女性、捻木深愛(すげえ名前だ)は、店長の那須川(中年男性)と不倫関係にあります。
 那須川は精神を病んだ妻に疲れ切っていて、深愛はそんな店長を支えてあげたいと本気で願っている。ところが、那須川はある日、深愛に対して別れを切り出します。妻の病状が悪化しており、ここで踏ん張らないと家庭が崩壊する、などという。前は妻と別れて深愛といっしょになりたいといっていたくせに。
 那須川の幸せを第一に願う深愛は別れ話を受け入れますが、ここからがすごい。
「奥さんの鬱がよくなりさえすれば、私達は元の関係に戻れるはずだ」と考えた深愛は家庭崩壊しつつある那須川の家族を「自分が救わねば」と思い立ち、行動に打って出ます。
 自分は特に具合が悪いわけでもないのに精神科に通って医者から得た知見を参考に、大量のカウンセリング勧誘チラシを偽造。その連絡先をすべて自分のケータイにつなげることで、那須川の妻と直接接触し、自ら彼女をカウンセリングしようと試みるのです。
 狂っています。でも、狂ったひとの話はおもしろい。狂いっぷりに強靭さがあるまんがは信頼に値します。伊奈子を信頼しましょう。
 ちなみに本作には深愛那須川、那須川の妻以外にももうひとり那須川の息子が登場して物語に深く関わってきます。この深愛那須川一家の関係がなんだか見たことないグロテスクさで、いったい自分はこれからどこに連れて行かれるのかというワクワクを喚び起こされますね。
 深愛は25歳という設定ですが、かなり顔立ちが幼く描かれていて、その危うい感じが彼女の前のめりな不安定さとマッチしていて実にすばらしい。
 ただしいか間違っているかでいえば、完全に間違ってしまった恋愛なのですが、でも間違っている人間をエンターテイメントとして楽しめるのがマンガのよいところなのではないでしょうか。よし、まとまった。
  
 

幾花にいろ『あんじゅう』(楽園コミックス)(連載)

 幾花にいろの欲望は、巧妙に秘されているのでも、そもそも存在しないのでもありません。あまりに巨大すぎてわれわれには知覚できないのです。
 だらしないけど凝り性の後輩と、しっかりものでソツのない先輩がルームシェアする生活を描いた日常もの。百合ですか。百合といっていいとおもいます。
 個人的に、細部や機微について語ることは苦手なのですが、それでも本作からでるこの香りが濃厚であることはわかります。硬質な髪の質感、その髪のあいだから覗く耳朶、必ず描かれる鎖骨、しなやかな指のうごき、豊かな表情を帯びる眼、死ぬほど顔のいい女。
 ふたりのあらゆる細部が同居生活を通して接近し、接触し、唯一無二の化学反応を起こすのです。その一瞬一瞬が作品世界を信じるに足るものにしてくれます。ここではすべてウソだが、すべてリアルだ。
 もういっこ、楽園コミックスからは『イマジナリー』が出てますね。こちらもこちらでオススメ。

ナガノ『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』(モーニングコミックス)(連載)

twitterで日々ちいかわの更新を見守って怯えていたいままでのわたしたちでさえ、たわむれにすぎなかった。
・バラバラに読まれ、瞬間瞬間で消費されていたものがきちんと順序づけられて整理され、ひとつらなりの物語になる。そうして、初めてわたしたちはちいかわの真の恐怖を知るだろう。
 聖書が政治的な力そして物語としての磁力を持つようになったのは、バラバラだった説話や詩の断片が一冊の本として束られた瞬間だった。
・不安とは「ここは家(home)ではない」という感覚であり、恐怖とは家だとおもっていた場所が別の様相を呈する時に生じる感情である。ちいかわはホラーである。
・ちいさくてかわいい生き物になりたいという欲望は言語以前の存在、つまりは赤ん坊への回帰の欲望であった。ことばのない初期のちいかわは苦しみのない楽園であり、そこでは食べる喜び、遊ぶ快楽だけが咲いていた。
・言語はキメラが持ち込んでくる。このまんがで初めて言語らしい言語を発するかれは見事に絶望しきっている。「あはっあはっ こんなになっちゃった……」「なっちゃったからにはもう……ネ……」

・喋るものは哀しみを知る化け物である。キメラも、「なんだってんだよ」に詰められて「イヤ」と拒絶を発するちいかわも、ハチワレも。言語が物語をもらたし、物語は悲劇をもたらす。

・ハチワレの初登場回でスフィンクスに言及しているのは象徴的である。『オイディプス王』は最古の悲劇であり、言葉に呪われた人々の物語であるからだ。
・聖書においては光以前から言語があった。かれらの世界が艱難に満ちているのはそのせいだ。そこには外敵がおり、労働があり、貨幣が流通している。すべての悪が、善の顔をして。
・そう、『ちいかわ』とは失楽園なのである。
・ちいかわの世界では家すら安住の場所ではない。そこでは常に外敵の侵入する可能性があり、われわれはさすまたを常備して覚悟を決めておかねばならない。
・もはやだれも安全ではない。
・ナガノ先生は怪物ではない。わたしたちの怪物的な側面を映し出す鏡だ。

熊倉献『ブランクスペース』(ヒーローズコミックス)(連載)

 1月はその年を占う良質なサブカルマンガ(死語)が発売される季節、という通念を『春と盆暗』(2017)で決定づけた熊倉献先生による全サブカルクソ野郎待望の単行本第二作*3
 失恋したばかりの高校生ショーコはひょんなきっかけから、クラスメイトの陰キャである片桐さんが「想像したものを具現化する能力」を持っていることを知ります。そうして、それまで触れ合うことのなかったふたりが交流を持つようになるのですが、ショーコの知らないところで片桐さんは陰湿ないじめを受けており、世界に対する怨念をひそかに育んでおりました。
 やがて片桐さんは銃器や刃物といった武器の「想像」を始めます。片桐さんがだんだんヤバい方へ向かいはじめていることに危惧を抱くショーコ。彼女は片桐さんを説得し、「武器ではなく片桐さんの彼氏をつくろう」、つまり、人間を「想像」しようと提案します。
 
 視ることを第一義に置くメディアであるマンガにおいて、「視えないこと」を視えるようにする大胆さとその作劇を成り立たせる筆力はそれだけで表彰もの。
 SF的な想像力をテコに陰に陽に青春を転がしていく熊倉先生のセンスが本作に極まった、そういえる一作になるのではないでしょうか。そういいたくなるだけの魅力が現時点では詰まっています。シンプルでポップな絵で静かに刻みつつも、節目節目でズドンとくる大ゴマを繰り出してくる。その手管はわれわれを飽きさせず、ストーリー自体もいい具合に予測不能で超気になる。
 カルヴィーノボルヘスといったサクソ(サブカルクソ野郎の略)ごころをくすぐるめくばせもニクい。
 近頃、なにげに良作を送り出しつづけている『ヒーローズ』系列からの新たな期待作です。

町田とし子『交換漫画日記』(マガジンポケットコミックス)(連載・2巻完結)

 なんかここまで「女がふたり出てくるまんが」ばかり紹介している気がしますが、安心してください、これもそれです。
 
 高校のクラスメイトで大親友のアイコとユーカにはふたりだけの趣味がありました。それは交換形式でマンガを共作すること。夢はもちろんプロ漫画家デビューです。クラスの日陰者として、恋愛などとも縁遠いまま二人の世界を突き進んでいくものと思われていましたが、リア充グループに属する大沢と交流を持ったことがきっかけで、運命が、そして交換漫画の内容が変転していくことに……。
 
 このマンガ、なにがいいかって、アイコの描く絵が『彼岸島』(松本光史)なんですよ。『彼岸島』の絵でファンタジー少女漫画やるのってよくないですか? よいですよね。例の丸太っぽいシーンもある。
 そういうフックはさておき、中身は友情と恋愛のはざまで揺れる甘酸っぱい青春もの。ひとつひとつのアクションやエモーションの動かし方が丁寧で、それでいて2巻という短さのわりに余裕さえある。キャラごとの表情が非常に豊かなおかげで、ワンシーンあたりで伝わってくる情報が多いのかな。
 創作によってつながる結束のもろさと強固さが同時に味わえる良作です。
 あと作中作の『武者子さんは戯れる』(こっちは明確に原哲夫リスペクト)、ふつーに読んでみたい。
 

双見酔『ダンジョンの中の人』(webアクションコミックス)(連載)

 なんかここまで「女がふたり出てくるまんが」ばかり紹介している気がしますが、安心してください、これもそれです。(2)
 その日発売されるマンガ一覧を毎日チェックしていると、この世にはもはやBLと百合となろう系異世界ファンタジーとハーレクインコミックしか存在しないのでは? みたいな気持ちになる日もあります。ぶっちゃけた話、RPGベースの異世界ものって量に対して個人的なアタリを引ける確率があまりに低すぎて、たまに好きな漫画家さんがそっち方面のコミカライズに取られたりするとアア〜ッと、明訓高校の方の山岡さんを見たときみたいなモードになるのですが、まあしかし、いいものはある。いいものは常にある。
 一般にはアニメ化された『魔法少女なんてもういいですから。』で知られる双見酔の最新作。
 腕利きのシーフ、クレイは数年前にダンジョンの深部へ消えた父を追い、自らも単身ダンジョンに潜る日々を送っていました。しかし最深部近くでモンスターと交戦中に崩れた壁から「ダンジョンの中身」を見てしまったことをきっかけに、ダンジョンの管理人である女性と邂逅。腕を見込まれ、ダンジョンの運営側として雇われることになる、というお話です。ベースはウィザードリィ系でしょうか。

 本来”敵”であるダンジョンの運営側に視点を置く、というのは特に新鮮なアイデアでもなくて、古くはゲームなら『ダンジョンキーパー』シリーズ(エレクトロニック・アーツ)、『AZITO』シリーズ(アステックツーワン)、『刻命館』シリーズ(旧テクモ)、『悪代官』シリーズ(グローバル・A・エンターテイメント)と枚挙にいとまがなく*4、調べたかぎり小説投稿サイトでも「ダンジョン運営もの」が一ジャンルを築いているとか。文脈はちょっと違いますが、まんがだと水あさと先生の『異世界デスゲームに転送されてつらい』がありましたね。ダンジョンやデスゲーム等の運営を一種の会社とみなすのなら、むしろ冒険者よりは社会人の感覚に近く(多くは働きながら書いているだろう著者にとっては特に)親しみやすい立場とみなせるかもしれません。
『ダンジョンの中の人』は運営といっても一巻時点では管理人の補佐みたいな役回りで、モンスターの姿を借りて”現場”に降り立って冒険者パーティと相対したりもします。ここでいいな、とおもったのが、モンスター視点を物事を見る事で、冒険者側だったときには気づかなかったことに気づくところ。ゲームなんかでもやっててCPUである敵がこっちの動きを読んで先回りしたような行動をとったりすると、「ズルじゃん!」となじりたくなることがありますが、その「ズルさの感覚」をわれわれのいる現実世界の論理ではなくちゃんと物語世界のなかで処理している。
 根本のアイデアやデザインは借りるけれど、自分の足で立つぞ、という作者の矜持が垣間見えます。
 いつの世でも、良質なファンタジーの条件は変わりません。世界が緻密に豊かに編まれていること。先達のアイデアをうまく取り入れつつも、クリシェに頼りきらずに物語世界を作者のものにしていく。
 ファンタジーの強さとは「自己」の強さであり、内的世界から引き出されるものである、とル・グィンはかつて述べました。ウィザードリィドラクエベースの現代ファンタジーは物語類型を含めたあらゆるアセットが外部に用意されていて、自分を怠けさせようとおもったらいくらでも怠けさせることができる。そこに妥協せずに物語世界の合理と経済を探求できる作家だけが――ふたたびル・グィンのことばを借りるならば――「神話」に届くことができるのでしょう。
 

安田佳澄『フールナイト』(ビックコミックス)(連載)

 SFってあらすじ説明すんの、めんどうだな。サボっていいですか。ダメ?
 気候変動で植物が育たなくなり、人間を植物にしてなんとかする技術ができました。その技術で植物になってくれた人には家族に高額の年金が支給されます。よかったね。植物になったあとも、その人の意識はあるんだか、ないんだか。それにしても、みどりいろのぷるぷるちゃんのじんせいって、いったいなんなの?と、おもったのは、ぼくだけでしょうか?
 最後サボテンくんになっちゃいましたが、まあ、そういう社会なので当然貧しいものは家族を養うために植物化の道を選び、富めるものはそれを搾取する、みたいな構造になるわけです。
 愉快な設定でしょう。こういう世界をおもいついた時点で勝ちみたいなところはあります。資本主義の底辺でうごめくヴィヴィッドなんだか絶望しきってるんだかな野良犬みたいな人間がフィーチャーされるところは、ポスト『チェンソーマン』感もあります。
 展開されるストーリー自体はややオーソドックスに落ちすぎているきらいはあるものの、その分構成はきっちりしていてマンガとしては堅い。
 新人ということもあって、2巻以降でハネる予感を漂わせています。青田を買うなら、今でしょう。

岩田ユキ『ピーチクアワビ』(アクションコミックス)(連載)

 ワイの『映画大好きポンポさん』は、コレや。
 時は2005年。23歳にして国際映画祭*5で栄冠に輝いた映画監督の望月キナコだったが、その次回作でコケてしまい、評価が完膚なきまでに失墜。
 さまざまなしがらみによって自分の思う通りに撮れなかった不満と同世代の監督に抜かれたことの焦りその他から暴発して警察のお世話になってしまう。釈放の身元引受人になってくれたのは知らない人物。
 お礼のためにその人を尋ねると、そこはAV制作会社「ピーチクアワビ」でした。彼女はその社長から「映画を撮ってみないか」と誘われます。一度は躊躇するキナコだったものの、どん底から立ち直るためにあえてAV撮影の現場に飛び込みます。

 オトナどもとの折衝やネゴシエーションに折りたたまれてクリエイターの自由と自信を失っていたキナコが、AV現場の経験を通じて自分の「感覚」への信頼を取り戻す。その過程が軽やかかつ爽やかに描かれます。ポルノ現場ものの側面を持つが画風のポップさもあって生々しさが薄く、読み味も快適。
 ちなみに本作は2007年に岩田ユキ(当時の名義は「はと実鶴」)が原案協力し、渡辺ペコが執筆を担当した『キナコタイフーン』のリブート。岩田ユキは2000年代から長年インディー映画界で活躍し、ぴあフィルムフェスティバル受賞やメジャーどころの映画を監督(山田孝之主演の『指輪のころ』)した華々しい経歴を持ちながら2018年ごろから漫画家としても活動している異色の作家です。
 『キナコタイフーン』当時から映画人としての実体験や感情が反映されていたと察されますが、さらに十余年のキャリアで酸いも甘いも経験した作者がどこまで深く潜れるのか、期待したいところです。

北村薫・原作、タナカミホ・画『空飛ぶ馬』(トーチコミックス)(単巻完結)

 だって、高野文子なわけですよ。原作の表紙は。
 あなたは高野文子が表紙書いてる小説のコミカライズやれっていわれてやれますか。神ですよ。高野文子といったら、ほぼまんがの神です。第二の高野文子といったら『秋津』の秋津が全力で囲い込むレベルです。
 高野文子や神や『秋津』を知らない人でも三国志ならご存知でしょうから仕方なく三国志でたとえますが、曹操からちょっと呂布と一騎打ちして勝ってきて、と頼まれるようなもんですよ。そんな関羽雲長が令和の日本にいるか? いないだろ?

 いた。

 タナカミホ。五六年前に『いないボクは蛍町にいる』で才気をほとばしらせまくったっきり、(すくなくともわたしの観測範囲では)どこかへ行ってしまっていた作家がすさまじい成長を遂げて帰ってきた。

 いわゆる「日常の謎」と呼ばれるミステリのサブジャンルの嚆矢にしてマスターピースとされる北村薫の〈円紫さんと私〉シリーズ。女子大生の〈私〉を狂言回しとして、落語家の円紫さんを探偵役に、彼女らの日常で生じた、小さいながらも底の深い謎の数々を解決していきます。
 本作はその〈円紫さん〉シリーズ第一作である『空飛ぶ馬』のコミカライズです。
 
 ミステリのコミカライズって、けっこう難儀そうじゃないですか。思いません?
 だって、ミステリってほとんど会話と説明から成っているわけです。人が殺される瞬間はあっても謎に伏されるからアクションは描けないし、探偵が聞き込みしたり推理を披露したりするシーンはひたすらセリフが並ぶだけで画面に動きは少ないし。推理時の犯行再現シーンで差別化するって手もありますけど、あれだって「終わったこと」の再現なわけで、物語の盛り上げ手段としては幅がかなり限られてくる。
 じゃあ金田一少年式におどろどろしい装飾的な死体で映゛えようとおもったり、コナン式に謎の組織との暗闘を盛り込もうとおもったところで、『空飛ぶ馬』には死体も闇の組織もでてきません。
 犯人といえば、喫茶店で砂糖壺をせっせといじっているような普通の市井のひとばかり。
 難易度Aのミステリコミカライズという分野でも更に難易度特Aの原作チョイスなわけです。
 にもかかわらず。
 できてしまっている。
 なぜだ。
 わからん。わからねば!(by 漏瑚)

 原作と比較できればいいんですけれど、引っ越しの時に「もういい! ターボ、ミステリやめる!」とミステリを大量に処分した関係で手元に『空飛ぶ馬』がない(ウマだけに)。つーか、北村薫ってほぼ電子化されてないんだね。
 しょうがないので勘でやりやす。
「赤頭巾」とかはわかりやすいんですよね。まんが的に再構成されてるんだろうなあ、というのが。絵本の再現というユニークなレイヤーが混じっている分、メリハリつけて読みやすいのだろうし、絵本的なタッチと物語内の現実が混ざるシーンはわかりやすく技巧的。それはわかる。それはまあ、わかるんだけど。
 にしたって、「砂糖合戦」は。
 それこそ、ほとんど*6卓上での会話なわけですよ。大して派手なことが起こるわけでもない。それなのにめちゃめちゃエキサイティングでおもしろい。円紫さんのキメゴマ、タイトルコールが出るときの犯人のあの表情、その反復、動と静の操作、ラストの切れ味、見せ方、なにもかもが最高。
 どこからどう見ても〈円紫さん〉シリーズだよ、これは。
 オチのうまさや話のおもしろさはもちろん原作に由来するところではありますけれど、それをこんな高精度かつ高純度で再現できるとは。長生きはしてみるものです。最初からこのコミカライズありきだった気さえしてくる。90年代の雰囲気をたしかに醸しだしつつも、この時代のためにリファインされたような清新さ。さっきもいったけれど、表情、表情がいいのかな。人間のささやかでねっとりとした悪意をすくい取ったような犯人たちの造形を、キャラの繊細な表情を止めて切り取ることで再現している。そして、主人公は徹底してその表情を観察する側に置かれている。カメラなんですね。映画だ。映画だからか。

 けっきょくなんだかよくわかりませんでしたね。
 いかがでしたか。
 ひとつだけいえるのは、「砂糖合戦」はミステリ小説コミカライズの歴史に残る一編となるのではないか、ということです。むしろ、北村薫初読者にはここから勧めたっていいのかもしれない。プルトラ。
 
 

他よかったもので今思い出せるもの。

谷口菜津子『教室の片隅で青春がはじまる』(ビームコミックス)(単巻完結)
・いまさら谷口菜津子の天稟についてわたしが述べられるようなことはないと思います。はずれものの少女がモコモコした宇宙人の転校生と結託し、青春時代に逆転ホームランをかっ飛ばそうぜと奮闘する。ドロドロしているけれど前向きで爽快。
・メディアの描き方がいいんですよね。いかがでしたかブログとかいかにもありそう。

吉田真百合『ライカの星』(ハルタコミックス)(短編集)
・イヌSF。みんなライカ犬すきですね。わたしも好きです。人類をきちんと滅ぼしてほしかった。

ネルノダイスキ『いえめぐり』(ビームコミックス)(短編集)
・不足しがちな panpanya成分をお求めのかたはこちら。ポスト panpanyaの枠に収まりきらない良い意味での俗っぽさがある。

ひうち棚『急がなくてもよいことを 』(ビームコミックス)(短編集)

・ビームに求められているテイストにかっちりハマる。

ばったん『まばたき』(トーチコミックス)『いてもたってもいられないの』(FEEL COMICS)(短編集)
・博士(志村貴子学)の織戸久貴大先生によればポスト志村貴子の座を確固たるものにしつつあるらしい*7作家の百合短編集と女の性欲テーマ短編集。トーチから出た『姉の友人』はややトリッキーでポリフォニックな構成だったものの、今度はわりかし正攻法。
・膂力のある作家は真正面から殴りにいってもつよい。

ももせしゅうへい『向井くんはすごい!』(ビームコミックス)(上下完結)
セクシャルマイノリティに関するストーリーをこのバランスで出せてしっかりメジャー感あるのが、令和〜ってかんじ。
・なにげに群像劇を回すのもうまい。最後はやや締まってない印象もある。

高江洲弥『先生、今月どうですか』(ハルタコミックス)(連載)
・『煙と蜜』と同様、ハルタの罪深さは年齢差ポルノがポルノ以上のものに昇華されてしまっていることにある。反省しろ。
・本を周囲にオススメするエピソードがいい。しょせん、レコメンドとは多分に属人的な行為であり、”純粋”に”おもしろい本を紹介”するなんて不可能なだという示唆を与えてくれます。

鎌谷悠希『ヒラエスは旅路の果て』(モーニングコミックス)(連載)
・うめえなあ、とおもったら『しまなみたそがれ』の鎌谷先生だと遅れて気づいた。
・設定は特異なんだけど、ガワそのものは生と死をみつめなおしていくロードムービーなので、そこに拘泥しすぎると平凡になりすぎてしまうおそれがあり、予断をゆるさない。すくなくとも一巻はよい。

早池峰キゼン『テンバイヤー金木くん』(MeDu COMICS)(連載)
・ツンツン系小学生転売ヤー金木くんと金木くんに並び屋として雇われたお人好しのアンちゃんのコメディ・ドラマ。転売というヘイトをあつめそうなヤクいネタかましつつも、ていねいな作劇とキャラビルドで読ませてくれる。かなりよいです。

なるめ『ILY.』(FUZコミックス)(連載)
・全編ピクセルアートという狂気。大丈夫? ひと、死んでない?
・話もひとむかしまえの恋愛ホラーノベルゲーム? 風で、ガラケーが出てきたりとそれなりにドットであることを活かしている。活かしきっている、というかんじはまだしないか。

おぎぬまX『謎尾解美の爆裂推理!!』(ジャンプコミックス)(連載)
・元芸人!30年ぶりの赤塚賞入選!小説家としてもデビュー!みたいな話題性に高さにしゃらくせ〜〜と上げていたハードルを十二分に越えてきた。
・ライバル探偵たちが独特の推理法でギャグをかましてくるんですが、それが単発のギャグに終わらずにちゃんと事件の解決にもからんできてうまい。
・JDCってキン肉マンだったんだな、という気づきを得られた。

二階堂幸『雨と君と』(ヤングマガジンコミックス)(連載)
・かわいい。

Patu『虎鶫 とらつぐみ ―TSUGUMI PROJECT―』(ヤングマガジンコミックス)(連載)
・虎鶫がよい。

鈴木ジュリエッタ『名探偵耕子は憂鬱』(花とゆめコミックス)(連載)
・ミステリとラブコメは両立しない。わたしもそう思っていました。このまんがを読むまでは……。

三浦風『スポットライト』(アフタヌーンコミックス)(連載)
・『メダリスト』のつるまいかだ、『友達として大好き』のゆうち巳くみとならぶ、2020年アフタヌーン大型新人三人衆のひとり……だったのだけれど、『友達として大好き』が惜しくも終わってしまった。アフタヌーンの未来はどっちだ。
・基本的に人間嫌いなのがいいですね。それは人間が好きってことなので。

永田カビ『迷走戦士・永田カビ』(webアクションコミックス)(コミックエッセイ)
・死なないで描いてほしいけれど、描きつづけると死にそうというジレンマがある。

しおやてるこ『変と乱』(ヤングキングコミックス)(単巻完結)
・あまりにむきだしの暗黒暴力百合。
・顔のつなぎはぎこちないのだが、そのぎこちなさがサイコっぽさを際立たせていてたいへんによい。

柴田ヨクサル・原作、沢真・画『ヒッツ』(ヒーローズコミックス)(連載)
・『ブルーストライカー』のタッグふたたび。今度は特にどこともクロスオーバーしてないっぽいけれど、いつものヨクサルワールド。

平庫ワカ『天雷様と人間のへそ 平庫ワカ初期作品集』(BRIDGE COMICS)(短編集)
・基本的に習作集みたいなかんじなので読んで格別おもしろい作品は少ない。ただ表題作は設定の奇想や絵の力強さが群を抜いていて、天稟の萌芽をうかがえる。

西餅『僕はまだ野球を知らない・second』(自費出版)(連載)
・いったん商業で打ち切られても自費出版へ移ってまで継続させようとするレベルで作者が入れ込んでる作品がおもしろくないわけないんですよね。

篠原健太『ウィッチウォッチ』(ジャンプコミックス)(連載)
・ロジックでギャグを組み立てるのがうまい。

仲間りょう『高校生家族』(ジャンプコミックス)(連載)
シットコムがひたすら巧み。

武井宏之・原作、 ジェット草村・構成、鵺澤京・画『SHAMAN KING &a garden』(KCデラックス)(連載)
花組スピンオフ。お嬢様とメイドの百合。

『アンタイトル・ブルー』(BE・LOVEコミックス)(連載)
・タイトルといい題材といい『ブルーピリオド』の二番煎じかとおもいきや、ストレートなサスペンスとして読ませる。

真鍋昌平『九条の大罪』(ビッグコミックス)(連載)
・暴力とは本来楽しいものでもなんでもなくて、怖いものだと読者に教えてくれる倫理的な漫画家は真鍋昌平だけ。

おまけ:五巻以内で終わったマンガ暫定報告五選

山田果苗『東京城址女子高生』4巻完結
ドリヤス工場異世界もう帰りたい』3巻完結
雨玉さき『JSのトリセツ』2巻完結
マクレーン『怒りのロードショー』3巻完結
ゆーき『魔々ならぬ』3巻完結

・ほかにはニャオ将軍、なずなさんなど。
・『スインギンドラゴンタイガーブギ』と『友達として大好き』は七月以降。

*1:学問系の新書で『サタノファニ』ってタイトルだしてもいいんだ……と感心した。

*2:『春の一重』のなかにもたしか編み物の話があって、おそらく作者の慣れ親しんだモチーフなのでしょう

*3:単行本になってない作品はある

*4:やったことあるの『悪代官』だけだナ……

*5:ベロ(ル)リンで新人賞を獲ったという設定。『往生際の意味を知れ!』の主人公もたしかカンヌだったっけ?

*6:とまではいかなくとも半分以上は

*7:とはいえ群像劇志向みたいなものは薄い


予告された死は喜劇か悲劇か問題――『100日間生きたワニ』について

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 映画を観たのだから映画の話をしろ。映画の話をします。

 
 誰が自分自身にこんな誓いに立てるでしょう。「わたしは死を見るにも、喜劇を見ると同じ目で見るだろう……」

 ――セネカ「幸福な人生について」

 死。所詮然し死といふ奴は、語るべきものではないらしい。野々宮は、思つた。まつたくの話が、死といふ言葉は、実感をもつて語られても不思議に空虚なものであるし、まして戯れに語られては、ただただ興ざめた思ひのみ深かめるらしい。

 ――坂口安吾「吹雪物語」


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原作と映画の違いについて

 でもまんがの話からはじめます。当然でしょう。100ワニとは現象であり、インターネットなしにありえなかった現象なのです。

『100日間生きたワニ』の原作である『100日後に死ぬワニ』は当初ギャグまんがとしてはじまり、進行していくにつれドラマに転じました。境目はどこかと問われれば、私は「集中線を使わなくなった時期から」と答えるでしょう。
 初期の100ワニはほぼ毎話のように「ワニのドアップ+集中線」で〆られていました。




 こうした演出は四コマ目のすぐ下に記されているワニの死までカウントダウンと連携してします。
 要するに「こいつは(自覚していないが)○○日後に死にます」というギャグです。観客に周知されている出来事を登場人物だけが知らない、というのはシチュエーションはよくあるギャグの手法です。その「出来事」に「死」を当てはめ、かつインターネットでリアルタイムのコンテンツとして展開したことにきくちゆうきの慧眼があります。 
 すっかり世間に染まったとはいえ、不謹慎さに対する許容度が比較的に高い twitterという場で、死をネタにして笑う。そして、笑ったあとで、ふと我が身にも当てはまることにも気づく。わたしたちはワニ同様、明日にも死ぬかもしれないのに日々を蕩尽して漫然と生きている。ワニのように平気で数ヶ月後の予定なんぞ立てている。良質なコメディとは常にペーソスを孕んでいるものです。だからこそ、笑えるのだともいえます。
 原作における集中線は5日目(ネズミが入院するエピソード)を境に後退していきます。そこから何がはじまるかというと、ワニとバイト先のセンパイの恋模様や友人たちを軸にした日常もの。判断の早さからいって、おそらく既定路線だったのでしょう。100日という時間の流れを描く形式が自然に作劇をドラマ的な方向へ向けたともいえます。あるいは不謹慎ショートコント100連発で保たせるのはさすがに厳しかったとも。

 死は笑える。原作最初期におけるその思想はしかし、映画には受け継がれませんでした。
 当たり前です。映画館で流す作品です。公共の場で、健全な老若男女の目に触れるものです。頭にアルミホイルを巻きつけているユーザーが八割を占めるといわれる twitterなんぞとはわけが違います。
 映画では「死はかなしいもの」としてまっとうに描かれます。
 そうしたアティテュードは開始一分で観客に示されます。
 原作では100日目にあたるエピソード、すなわちワニの死の場面を冒頭に持ってくるのです。
 原作のコメディ性を成り立たせていた要素のひとつに、「ワニがどのように死ぬかはわからない」点があります。死に様がぼやかされているので、彼が死ぬと予告されてもあまりリアリティがなく、だからこそワニの言動を笑うことができた。
 しかし、映画ではいきなりワニが死ぬ。具体的に、こうやって死にますよ、と示される。しかも死の直前に、恋人や友人たちとの思い出の写真をおさめたアルバムなんぞを取り出して眺めたりする。一個の人格が、慕っていくれる仲間のいる人間が(ワニだけど)、死んだんですよ、と突きつけてくる。

 重い。
 シリアスにメランコリックな映画です。100ワニは。他人の死を笑うな。

 原作に路線変更後もちょくちょくあった、ワニがひとりで何もせずに過ごす回をカットしたのも、そのへんが関係してくるのでしょう。このような重い映画で限られた日々を、60分という尺を無駄遣いすることは許されない。 
 映画と原作のトーンの違いが決定的に出ているのは、ワニが横断歩道で車に轢かれそうになったヒヨコを助けるエピソードです。



 原作初期に典型的な構成で、オチのコマは集中線+ワニのアップになっています。ワニの行末や後のトーンを知らない当時の読者からすれば「いや、死ぬのはおまえだろ!」とツッコむ話であり、明らかにそうした反応を誘うようにできている。
 これが映画ではどうなるか。ワニはかなりのオーバーアクション(滑り込んで抱きかかえる)でヒヨコを救助し、めちゃめちゃ心配そうにヒヨコに注意します。冗談事ではないんだぞ、というふうに。そして、そのあいだずっとカメラは引いた視点から動きません。アップも集中線もないのです。そう、死は冗談事ではないのです。

 ひとりの生きた人間(ワニ)としてのワニを印象づけていくこと。それが本作のドグマです。たとえば、原作ではワニの両親は電話越しの声のみの存在で、姿は描かれませんでしたが、映画では後ろ姿だけとはいえ存在を実感できる人物として描く、ワニの実家での両親の生活風景まで映し出されます。
 ワニはだれかの息子であり、だれかの友人であり、だれかの恋人だった。そんなひとの死をあなたは笑えるのですか?

ワニの死後について

 
 映画オリジナルの展開となるワニ死後のストーリーはけっこう技巧的です。
 友人たちの喪失感を生前のエピソードの反復となる場面を描くことで際立たせ*1*2、観客の哀感を盛り上げていく。
 そして、そこに唐突にカエルというオリジナルキャラを投入してくる。
 カエルは根本的に異質な存在として現れます。
 まずひとりだけ喋りのノリが違う。
 映画では原作独特のセリフの間が忠実に再現されています。はっきりいえば映画向きの間とはいえないのですが、それがカエルの登場で活きてくる。カエルはものすごい早口でテンション高めです。そんな彼が故ワニの友人たちの生活圏にことごとく乱入して、ワニの死によってさらに空白が大きくなった空間を音で埋めていく。まさに空気を壊す存在そのものです。
 位置的にはワニのいたポジションにいるのに、空気感だけ全然違う。カエルはネズミたちに対しフレンドリーにグイグイくるのですが、ネズミたちはつい彼を遠ざけてしまいます。まるで「おまえはワニじゃない」とでもいうように。
 さんざん拒絶されたあげく、カエルはこうぼやきます。
「なんか、オレ、ノリ違いますかね?」

 このセリフで、制作側がかなり意図的にカエルを「空気を壊すキャラ」としてデザインしたことが示唆されます。というか、明示に近い。
 
 しかし、ノリが違うからこそ可能なこともある。
 原作由来のキャラは劇中でほぼ泣きません。デッドパンのコメディであること、それが原作のトーンだからです。
 ところがカエルは号泣します。映画オリジナルのキャラだから泣けるのです。そして、泣くという行為がネズミのある感情を誘発します。
 この点において、映画は原作を破壊しているといえます。
 ですが、原作を破壊したからこそネズミたちに(原作のトーンのままだったらありなかったであろう)「喪」を与えられることもできたのです。
 残されたキャラクターの感情の救済。少なくともそれは映画版にしかなしえなかった偉業です。
 それをおもしろいと感じるかどうかは個人によるとしか、いえませんが。

観ないほうがよい人

 本作を絶対に観ない方がいい人もいます。
 仲良しグループの友人を亡くした経験がある人です。
 本作は、主役だったキャラクターが途中で退場し、脇だったキャラがその喪失や戸惑いと向き合ってやがて折り合いをつけ前進していく、という構成をとっています。似たような構造の作品は近年だと『WAVES』がありましたね。
 100ワニでは死んだワニの欠けた場所を埋める存在として、カエルが出てきます。カエルの存在は物語機構的には上記の通り、たいへんテクニカルで興味深い。
 しかし、現実に移し替えるとちょっと問題が出てきます。
 本作ではカエルにワニの行動を再演させたり、彼の後ろ姿を重ねたり、つまりワニのポジションを埋める存在として描いている。すくなくとも、ネズミはそのようにカエルを見ているフシがある。
 ちょっとそれが……許容しがたい。
 死んだ人間は生き返らないし、生きている人間は死んだ誰かの代わりではない。喪失とはそういうものではない。人間はパズルのピースではないのです。
 しかし、どうも作中ではカエルはワニの代替以上の役割を帯びさせられていない。キャラクターそのものはけしてワニにはなりえないパーソナリティを背負わされているにもかかわらず。
 もしかしたら、入口はワニの代わりだとしても、友人関係を継続していけばカエルはカエルとしての人格をグループ内で与えられるのかもしれない。まあ、自然にそうなっていくでしょう。
 でも、映画ではそこまでは描いてくれはしない。
 なので、最近友人を亡くした人は観ないほうがいいです。最後ちょっといやな気分になります。なりました。だいたいそんなところです。


100日後に死ぬワニ(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

*1:映画館でセンパイの隣に見知らぬカップルが座り、かつてワニが起こしたアクシデントを再現するとことか、花束か? とおもった

*2:当ブログで単に「花束」と言った場合はほとんどすべて『花束みたいな恋をした』のことを指します

ひさしぶりだな、俺だ、今 VRChat にいる。おまえはどこに?

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 あっちこっちへ 余計な話が多い

 まるで聞いた話が全部右から左に流れていくように

 興味が持てん


  ――『邦キチ!映子さん』Season 7 第八話 

 はじめに忠告しておくけれど、このテキストは長く、一貫性を欠いており、有益な知見も含まれていない。帰ってくれ。


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Gunkanjimaverse より。軍艦島を原寸大で再現したワールド。



あれは2019年のことだった。

 VRChatがアツい、と聞いたのは二年前の京都の旅館さわやで開かれた京都SFフェスティバルの夜の部でのことだった。錬金術師として巷間に広く知られる xcloche さんがVRchatについて語る企画部屋を建て、そこでVR専用のおもしろ美術展示を開催した人のことや、他人のアバターを乗っ取る荒しや、毎日ヘッドセットを装着することで視力を回復した体験談などを語ってくれた。そんなことがほんとにあるの? といった魅力的かつ魔術的な物語の連続で、まるで大航海時代に信じがたい冒険をした船乗りの報告やマンデヴィル卿の旅行記を聞いている心地だった。同時に、わたしには遠い出来事のようでもあった。わたしは開拓者精神にも冒険心にも薄い。船乗りどころか、社会と経済が許容してくれるのであれば一生家に引きこもっているタイプだ。VRChatは部屋にこもったままで海原へこぎ出せる機会を提供してくれるけれど、機会くらいで生まれつきの怠惰さが解消されるわけではない。ザッカーバーグはわたしのめんどくさがりっぷりをなめないでほしい。
 だいいち、アーリーアダプターたちがひとつかみの勇気と好奇心を携えて集うようなコミュニティは性に合わない。わたしは技能面でも性向としても自分でなにかしらの価値を生み出す有用な人材ではなくて、そういうひとたちがひとところに集まってわいわいしているのを見るとまぶしくて眼が焼けてしまう。

 そういうわけで、待った。

 VRのかがやきが十分に褪せるまで、ぴかぴかの冒険心や好奇心がすり減るまで。先駆者たちが飽きるまで。といえばなにやら作戦っぽいけれど、ようするに日々縦になったり横になったりを繰り返しながらもたもたしていただけだった。
 そうこうしているあいだに Oculus Quest 2 が出た。より正確にいうならば、AirLink機能が追加された。どういうことかといえば、ヘッドセットをパソコンに直接つながなくてもパソコン上で動くVRソフトにアクセスできるようになったのだ。OQも最近ではソフトがちょっとは充実するようになったのだけれど、ゲーム機として考えた場合にはヴァーチャルデスクトップにつなげるかどうかで遊びの幅が十倍は違ってくる。まあ、Steam で売られているようなVRゲームソフトはたいがいOclulusのストアにもあるのだけれど、気持ちとしてはザッカーバーグよりもValveにショバ代を払いたい。どちらもシャブを売っているエグいヤクザではあるのだけれど、ザッカーバーグよりかはValveのほうがまだマシな気がする。

スラムとイヌとビリオネア

 OQ2を購入してすぐにVRChatにつないだ。わたしのtwitterのTL上にいる先輩たちはのきなみオリジナルのアバターを制作していて、そういうものがないと(そういうものを作れる技術がないと)市民権が得られないのかと思っていたけれど、オフィシャルのほうで用意されているアバター(ホットドッグとかバターとか)もあんがい充実していて、とりあえず着るアバターがなくて外に出るのが恥ずかしい、といった事態は避けられる。だが。
 途方にくれてしまう。どこにいけばいいのかわからない。
 VRChatは、なんていうの? ワールド? と呼ばれる島宇宙インスタンスに分かれていて、ユーザーは行きたいワールドを適宜指定して飛ぶ。プレイステーション世代なら『サガ・フロンティア』みたいな感じと説明すれば一発で通じる。それ以外の世代にはどういってあげたものかわからない。とりあえず、今サガフロのリマスター版が steam とかで売ってるから買ってやればよろしいのではないだろうか。おもしろいよ。
 ところで、花が咲くのはVRだからでしょうか。鳥が飛ぶのはVRだからでしょうか。それはサガフロ1ではなく2での問いかけなのだが、わたしはてきとうに選んで入ったワールドで、生まれて初めてVRを介して他者と邂逅し、英語で罵詈雑言を浴びせられている。


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 声はかなり幼い。どうやら向こうのことばでいうところのキッズであるようだ。
 わたしは留学先だったブライトンの学校の校長室から泣きながら母国に「帰りたい」と電話した日から英語が耳に入ると全身が小刻みに震えて吐き気を催し一言も発することができなくなってしまう。つまり英語で話しかけれても返答できないわけで、知ってか知らずか向こうのキッズは「聞こえないのか? もしかして、×××か、テメー?」などと罵りを重ねてくる。


 耐えがたくなって別のワールドに飛ぶと、そこは街一つがまるごとナイト・クラブのような場所になっている。グルーヴィなヴァイブスが心地よい。オフィシャルで用意されたマシュマロ人間みたいなアバターをぶよぶよ揺らしながら、歩き回っていると突然、「おいっ、あそこに変なのがいるぞっ」と四五名の十代?らしき若者グループに追いかけ回されだす。逃げても笑いながら「待てよ~」などと囃されて、追い詰められた末に路地の隅で取り囲まれる。実世界での経験上、英語をしゃべる四五名くらいの十代のグループはランダムに選んだアジア人を特に理由なく追いかけ回してもよい、と考えているのは知っていて、関わるとろくなことにはならないのもわかっていた。もっとも、わたしのガワはぶよぶよ人間なので国籍まではわからないだろうが。
 かれらはなにやらぶよぶよ人間にコミュニケーションを求めている風だったが、わたしのほうとしては逃げる相手を集団で追いかけるようなやつらには恐怖しかおぼえず、震える指でコントローラを操作してなんとかホームワールドへ脱出した。


 三番目に訪れたワールドでは誰にも絡まれることはなかった。
 そこは「陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」と名付けられたワールドで、日本のひとが作ったようだった。行ってみると、なるほど一室だけのスペースしかなく、壁には Youtubeを再生できるスクリーンがあった。ワールドの趣旨からすると、そのスクリーンは陣内智則Youtube動画を流す目的で設置されたのだろう。
 しかし、その画面に映っているのは陣内智則ではなく、Happy Tree Friendsっぽいカートゥーン調のアニメで、数名のキッズたちが床に座ってそれを鑑賞しながら、なにやら英語でささやきあっていた。その反対側では、有名なゲームキャラのアバターを着たなにものかが鏡の前でひとり無言でポーズを取っていた。なにやら縦にした口と目だけでできた奇妙なキャラもいる。わたしの足元には「陣内智則」と書かれたプレートが変死体のように転がっている。もとは壁にでも飾ってあったのだろうか。スラムだな、という感想がわいた。


 このようなプレミアムなファーストコンタクトを経たわたしが「VRChatは知らんガキに絡まれる、治安最悪ろくでもないクソみたいなソフトである」と判断したのは至極当然であった、とご理解いただけることとおもう。OQ2をしばらくは Tetris Effect や Rez:Infinity といったゲームに見せかけた映像ドラッグでたまにキマる用の置物として自室に転がしていた。ちなみに Half-Life:Alyx も買ったけれど、めちゃくちゃ3D酔いする体質なので三十分で放り出した。Vrchat など二度と触るまい。そうおもっていた。


 そんなある日、ひょんな流れからネット上の知人数名と VRChat にログインしておしゃべりすることになった。行ったのは、広いけれど何かおもしろいギミックが用意されているでもない、ふつうのワールド。
 これがめちゃくちゃ楽しかった。
 なにか特別な出来事があったわけではない。特別なトピックの会話が交わされたわけでもない。会話の内容はといえば、Vrchat経験者による初心者へのちょっとしたTips講義、それにワールド内でカーテンを見て「カーテンがある!」とまんま述べるような観光客みたいなはしゃぎかただけだった。
 そんな雑な発話がむしょうにおもしろい。ふだんは Discord 上でやりとりしている無形の存在がエメラルドグリーンの鹿や怪人ミラーボール男やペスト医師に身をやつして動いてしゃべるだけで、なんともいえない愉快さが醸し出されてくる。他人がデジタルに身体あるものとしてたちあがってくると、ひるがえって二足歩行するカエルになっている自分の身体性まで興味の対象となる。
 ここで初めて、OQ2の性能に気づく。OQ2のトラッキング機能は実はけっこうすごくて、腕の位置が精密に反映されるのはもちろん、自分が座れば高低差を感知してVRchat内のアバターも座るし、指も一本単位で動かしてじゃんけんまで可能だったりする。その時接続していた他のユーザーがみなPC組(VRchatはヘッドセットがなくともPCの画面上でプレイできる)だったので、動作のダイナミックさがより際だった。「身体がある」そういう感情、日常生活ではけして確認することのない事実に対する新鮮な驚愕が、わたしのなかに生じた。

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カエルになって火にあたると、ほんとにあたたかくなったかんじがする。


ピクニック・アット・ザの。

 めちゃくちゃ怖いワールドがあるらしい。
 わたしは谷戸(仮名)と織林(仮名)とマンソン(仮名)にそう告げた。三人ともわたしと同時期にVRchatを始めた新米で、Vrchatで目にするすべてがフレッシュにきらめいて見えるお年頃だった。
 わたしは『早稲田文学』のホラー特集号を広げた。もともとマーク・フィッシャーの the wierd and the eerie の抄訳が載ると聞いて購入したもので、さっさと全訳を出版してほしいものであるけれど、それはともかくとして、わたしが示したのはホラーゲーム実況者の座談会の記事だった。実況者たちのなかにVRchatのホラーワールドをめぐっているVtuberがいて、そのひとが「いちばん怖い」だかなんだかの触れ込みで Sad Amelia というワールドを記事中で挙げていたのだ。
 わたしはホラーが好きであるし苦手でもある。ジャンプスケアなどの表現にまるで耐性がなく、たまにホラー映画を観にいって怖くなりそうな場面に出くわすと、席のせもたれにのけぞって薄目がちになってしまう。その上、鑑賞後まで恐懼を引きずり、帰りの夜道や就寝前にくらがりが気になっておびえまくる。家でひとりでホラー映画やホラーゲームを観るなどは考えれない。他の誰かといっしょではないとまずやらない。
 そういうわけで、ひとりでは怖いので、いっしょに Sad Amelia に同行してほしい。わたしは三人にそう頼んだ。
 谷戸と織林はしぶった。かれらもまたホラーが苦手だった。「VRchatのなかで一番怖い」のならなおさらだ。「仕事が忙しい」だの「ワクチンの副反応がつらい」だの理由にもならない理由をつけて煮え切らない態度を取る。
「友だちの一生の願いば聞き届けんで何が親友でごわすか」
 そういいきったのはマンソンだった。マンソンがそういうなら・・・・・・と残りのふたりも同意した。持つべきものは決断力を備えた友である。

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たすけてくれ。


 Sad Amelia で起こった出来事についてはあまり語りたくはない。
 わたしがいえるのは、政府は友人を見捨てて逃げるような輩に対しては150%の所得税率を課すべきである、という政治的な意見だけだ。
 一方で Sad Amelia のゲーム性についてはある程度語ることができる。
 織戸によると、ホラーワールドとは、つまるところ、ヴァーチャルなお化け屋敷である。フィジカルなお化け屋敷と異なって現実の物理法則や予算に縛られないぶんだけ、仕掛けでそうとうな無茶をできる。
 たとえば、Sad Amelia のある場所では天地が逆転する。ユーザーは自分がさかさまになった状態で歩かされるわけで、ホラーとしての効果はともかく、かなりビビる。
 また、ある場所ではアバターを剥奪される。一ユーザーが制作したワールドにそんな権限が付与されていることにも驚かされるが、いきなり自分の外見が強制的にチェンジさせられるのは、すごい。この世界では自分が自分であることすら確かではないのだ。いとも簡単に自己同一性を剥ぎ取ってしまえることはホラーコンテンツにおいて大きなアドバンテージではないだろうか。
 そして、ヘッドセットをつけていることで恐怖は倍加する。
 映画なら顔を背けるだけで画面で起こっている出来事から逃げられる。耳をふさぐだけで制作者の罠を避けられる。だが、VRの世界では逃げ場所がない。これはこわい。かなり、そおっとろしい。実際、途中からコントローラーを握った手にいやな汗がにじんでいた。ずっと、同行者の名前を呼ぶだけの動物になっていた。
 ゲームにしろ映画にしろ(すくなくともアメリカの)エンターテイメントは没入感を第一義に発展してきた歴史があるけれど、没入という点ではこれに勝る体験はなかったようにおもう。
 

 翌る週末、わたしたちは終わらない夏にいた。ぬけるような青い空、やさしい輪郭の入道雲、陽光を跳ね返して うそみたいに SHINY な BEACH……。

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 Project:Summer Flare は謎解き型のワールドだ。ビーチや水族館や神社を巡りながら、夏休み感あふれる世界の秘密を解き明かしていく。
 ホラーワールドがお化け屋敷であるならば、謎解き型のアドベンチャーワールドはさしずめ脱出ゲームだ。そして、ホラーワールドと同じく、脱出ゲームにはない体験がPSFにはついてくる。
 まずはアクションだ。PSFでは折々で飛んだり跳ねたり撃ったり振ったりのゲームゲームしたアクションが求められる。そのアクションが謎解きにもからんでいて、これがなかなかよくできている。
 そして、拡張された演出。これは実際にPSFをやってもらわないことには説明しづらい(ネタバレになるので)のだけれど、大規模な舞台の切り替えなどはデジタルな空間でないとなかなかお目にかかれない。
 しかし、ゲーム的な面でPSFに何よりシビれるのは「VRchatというシステム」そのものを利用したある仕掛けだ。ああしたメタなギミックはその媒体やジャンルがある程度成熟したときにようやく登場するものだけれど、VRchatではもうその域に達しているのか、とその成長速度に驚かされる。
 

 続けて、ヴァリア・ライドへも行った。

www.youtube.com

 世界観や設定についての説明は省くが、ここは要するにディズニーランドやユニバーサル・スタジオにあるようなライド施設を再現したワールドだ。というか、ディズニーやUSJのライドをかなり深く研究しているようで、「それっぽさ」の精度に舌を巻く。そうそう、ライドにはナビゲート役のおとぼけキャラがつくんだよな、とか、そうそう、ライドはこういう展開になりがちなんだよな、という定石を踏まえまくっているのだ。ディズニーランドファンやUSJファンはぜひ試してほしい。

ぐーちょでぱーく。

 わたしはVRchatをアトラクションのハブとして受容した。すなわち、テーマパークとして。
 限定された空間を細部まで高度に精緻にデザインすることで”ここ”ではない世界をもうひとつ造り出す、という発想はそのままディズニーランドの設計思想だ。ウォルト・ディズニーの世界創造は単に静止した空間を切り取るだけでなくて、そこに生える動植物が成長していく時間軸まで視野にいれた、パラノイアックなものだった。*1かれはメインの客層である子どもたちの視点にパーク全体の縮尺を合わせ、世界を見せることに徹底的にこだわった。そのことを示す有名なエピソードがある。ウォルトは毎日のようにおしのびでディズニーランドを訪れ、ひとつひとつの施設をゲスト目線で味わっていた。そんなある日にかれは〈ジャングル・クルーズ〉を訪れたあと、スタッフをこう叱ったのだ。「〈ジャングル・クルーズ〉は七分半の川下りだったはずだ。今回は四分しかなかった。きみは半端にはぶかれた映画を観せられたらどうおもうかね? あのカバをゲストに見てもらうためにどれだけの費用をついやしたかきみも知っているだろう?」*2
 グランドデザインを行ったのはウォルトだったが、パーク内のエリアやアトラクションを具体化させたのは「イマジニア」と呼ばれるひとびとだ。イマジネーション(想像)とエンジニア(技術者)を合わせた造語で、それまでディズニー本体でアニメ映画にたずさわっていたアニメイターなどがイマジニアとして多数登用された。かれらはある空間に生じる世界を、時間を、体験をデザインした。夢としてではなく、現実として。
 ディズニーランドのアトラクションとは大なり小なり、物語を語る自然である。本来の自然は少なくとも理解のたやすい形ではわたしたちに物語らない。難解な他者であるはずの自然を物語るための装置としてパッケージングし、親しみやすいものに造る。
 そうして物語のために造られた自然は、言語では語らない。いや言語を使いはするかもしれない。だが、ある種の映画やゲームが夢見るように、いちばん大事ななにかは言語の外であなたがたへ伝えられる。
 Project: Summer Flare の作者であるヨツミフレームはインタビューでこんなことを述べている。



人間は『言葉』というプロトコルを用いてわかりあう生き物であり、同時になにかと「言葉」に縛られる生き物だと思います。VRChat のワールドにせよ、本来はVRChatはUnityを動かすオンラインプラットフォームのようなものなので、文字通りなんでもできるはずなんです。…(中略)…これまで存在した概念を壊し、これまで存在しなかったものを造りたい。そういう思いから、「言葉を壊す」というフレーズが出てきています。


「言葉」を壊した先にあるもの――VRChat「PROJECT: SUMMER FLARE」で過ごした夏 | Mogura VR



 ゲームの分野には、環境(型)ストーリーテリングというタームが存在する。*3ストーリーを主に言語によらず、シーンに配置されたオブジェクトや風景などによって受け手に能動的な読解をしてもらう手法だ。
 たとえば、あなたが誰かの部屋に入るとする。そこには部屋の主はいないが、部屋の主が所有しているモノや活動の痕跡が残されている。たとえば、机に教科書や参考書が積まれていたら、あなたは部屋の主は学生であろう、と推測するかもしれない。その横に古ぼけたクマのぬいぐるみがあって、室内には他にぬいぐるみが見当たらなかったとしたら、あなたは「このクマはきっと部屋の主の思い出の品、あるいはライナスの安心毛布なのだ」などと、不在であるぬいぐるみ所有者のパーソナリティについて思いを馳せることもできる。そもそも、なぜ部屋の主は不在なのだろう? 学校に行っているのか? とおもってふと壁にかけられたひめくりカレンダーを見れば、一ヶ月前でストップしている。毎日めくるのをおっくうがったのだろうか? だが、一月から始めて十月の途中で突然日課をストップするとは考えにくい。もしや、かれの身に、その日なにごとかがあったのではーー?
 こうした受け手の想像を触発するデザインは多かれ少なかれゲームや映画に取り入れられている。極端にいってしまえば、RPGなんかでどこかの街に入り、街をすみずみまで散策する、街の住民と挨拶を交わす、それだけでもう環境ストーリーテリングだ。特にオープンワールドとよばれるジャンルではこうした細部のデザインがプレイ全体の体験の深さに関わってくる。
 環境ストーリーテリングそのものを全面に打ち出したジャンルもあって、ウォーキング・シミュレーターと呼ばれるジャンルがそれだ。プレイヤーは視点人物となるキャラクターに視点を憑依させ、一人称視点で3Dの世界を探索する。
 作例として挙げるなら『GONE HOME』。視点人物(=プレイヤー)の実家を舞台とする。ひさしぶりに帰省してみると、両親も妹もなぜかいない。プレイヤーは家のなかを探索してかれらの生活の断片を拾い集めることで、家族それぞれの人生の物語を知る。『GONE HOME』においては物語やテーマを要約して語ってくれるようなキャラクタ、あるいはナレーターは存在しない。*4バラバラに配置されたてがかりや風景からプレイヤーが脳内でファミリー・ポートレイトを独自に描き出す必要がある。ちなみに『GONE HOME』に限らず、ウォーキング・シムには「そこにいるはずの人々が何らかの理由で失踪している」シチュエーションが多い。それは単に一家族ないし街まるごとひとつぶんのキャラクターを配置するのが大変だという労働リソース上の制約もあるかもしれないけれど、環境ストーリーテリングの手法がそうした状況においてもっとも引き立つから、という理由もあるだろう。VRChatにおけるワールドも、どういう技術的制約があるのかは知らないが、NPCが配されているものは少ない。そうした点ではウォーキング・シム的なゲーム性と親和的であることは理解される。

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『GONE HOME』より


 現代のゲーム、すくなくともアドベンチャー的な要素を含む作品で「環境」について配慮されていないものはまずあり得ない。『Outer Wilds』の作者アレックス・ビーチャムはのちに同作のブループリントとなった学位論文で『Outer Wilds』の目的を「好奇心駆動型の冒険(curiosity-driven exploration)」と定義した。



これらの定義(「冒険」と「好奇心」という好奇心駆動型の冒険を構成する二大要素)をもちいれば、好奇心駆動型の冒険とは、あるひとが自分の知識や理解を拡充させることを主目的として(現実であれバーチャルであれ)じしんの環境を探索することを選択したシチュエーションと説明できます


「訳文;「"好奇心駆動型の冒険"とでも言うべき特殊なタイプの冒険に報酬を与えるゲームをつくりたい、それが『Outer Wilds』の主目的です」A・ビーチャム氏の論文より」―『すやすや眠るみたくすらすら書けたら』
https://zzz-zzzz.hatenablog.com/entry/2020/09/21/215800


 
ビーチャムの論文を翻訳したブログ「すやすや眠るみたくすらすら書けたら」では、環境ストーリーテリングという語の起源についても触れている。それによれば、確認しうるかぎりでゲームの文脈における「環境ストーリーテリング」の最古の用例はディズニーのイマジニアであったドン・カーソンの論考「Environmental Story Telling: Creating Immersive 3D Worlds Using Lessons」であるらしく、そこでは「環境ストーリーテリング」はまずディズニーランドをデザインするための思想として用いられている。
 あるエンターテイメント空間の環境設計においてゲーム開発者とディズニーのイマジニアが見る夢が似ているというのは、あまり驚くべきことでもないかもしれない。たとえば、ATARIの創業者であるノーラン・ブッシュネルはゲーム会社を立ち上げる以前は、ディズニーランドへの就職を希望していた。のちにATARIが経営難に陥った際には、会社をディズニーへ売ろうとまでしていたという*5
 ゲームにおける空間設計や建築の重要性は「す眠す書」を参照してもらうとして、VRによってディズニーランド的なイマジニアリングとゲームの世界構築がさらに接近していった印象がある。
 それがただちにメタヴァースの進歩の方向性を規定することになるかはわからない。これは局所的な現象にすぎず、失われたカリフォルニアン・イデオロギーの理想の復活にすがりつくひとびとや、メタヴァースにサード・サマー・オブ・ラブ(何度目だ?)を待望するヒッピーのなりそこないたちとも関係なく未来は更新されていくのかもしれない。
 わたしは世界を作る側の人間ではない。いい魔法使いにもわるい魔法使いにもなれない。くちばしを開けて待つことしかないフリーライダーであり、きみらが憎んでいる「一般人」あるいは大衆そのものだ。お仕着せのレディメイドのアトラクションで遊ぶことしかしないしできない。究極的に欲しているのはめまいを誘ってくれるアシッドな映像ドラッグだ。そんなわたしはとりあえず今はVRChatがたまらなく楽しいけれど、いつかは飽きるんだろうな、とはおもう。アトラクションであるかぎりはコンテンツには賞味期限がつく。*6賞味期限のないプラットフォームのことをわたしたちはインフラと呼ぶ。なぜひとは Facebooktwitterに入り浸るのか。インフラになってしまったからだ。おどろくべきことに mixiにすら住民が残っている。あの核戦争後の終末のような mixiにさえ。インフラになってしまったからだ。なりはててしまったからだ。賞味期限がないからといって、不朽や防腐まで保証してくれるわけではない。

心地よく秘密めいた場所

 マンソンはあの mixiのさびれぐあいが好きだという。かつて人が居て、今はいなくなった空間のさびしさが好きだという。
 わたしは同じ理由で VRChat の非アトラクション的な個人制作のワールドが好きだ。たいていは過疎で、万人に向けて開放されている Public のインスタンスにすら自分以外の訪問者がいない。mixiと違うのは、そこにはかつても人が居らず、現在もいない、という点だが、ふしぎに「かつて人が居た」感覚を嗅ぎ取ってしまう。
 名付けが大好きなわたしたちのインターネットはそうした感覚にもとっくに名前をつけている。Liminal Sapace(s).

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適当な liminal space のスクショがフォルダになかったから、筆者のリミナルアトモスヒア原体験である『クロックタワー2』の画像でも見てくれ。


 リミナル・スペースの概要やホラー性やノスタルジーオントロジーについては fnmnl で木澤佐登志が述べた記事があるのでそれを読めばいいとして、VRChat はワールド自体のクオリティの高低にかかわらず、どこもそんな雰囲気に満たされている。ホラーワールドがコズミックホラー的なインターナルな恐怖だとすれば、誰も居ない寂れワールドを歩くことはHGウェルズの「白壁の緑の扉」的なエクスターナルな不安かもしれない。
 たとえば、ワールド名を忘れてしまったが、わたしはあるとき「美術館」を名乗る過疎ワールドを訪ねた。「美術館」の概要文にはアート作品が飾られているということだったが、壁に掲げてある作品はいずれも英語圏のネットミームでよく使われるキャラたちを雑にコラージュしたもので、中には縦にした口と目だけの気色悪いホラーめいた、知らないキャラまでいた。だがあくまで人を驚かせたり怖がらせたりする意図で置かれたものではないようで、作品の大半はまったくおもしろくないネタ画像の域をでないものだった。建築としても凝ったところはない。ただ間取りがすこし美術館っぽいかな、という程度。
 「美術館」を見て回っていると、だんだん用意した作品が足りなくなったのか、アートの飾られていないスペースが広くなっていく。壁は壁だ。そこには白い地肌しか見えない。
 到着から十分ほどが経過して、わたしは突如としてそのワールドから出たくなった。
「ワールド」タブからてきとうに「陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」を選び、逃げ出すようにして「GO」ボタンを押した。
陣内智則の動画を24時間流すだけの部屋」では、Happy Tree Friendsのパロディのような動画が流れていて、数名の子どもたちがささやきあいながらそれを観賞していた。かれらから目を離して横をみやると、あの縦にした口と目だけの怪物がいた。怪物は動画のほうを向かず、背後のミラーのほうも見ず、なにもないほうの壁をただ茫洋と見つめて立ち尽くしていた。

 そう、それと壊れている世界が好き。フォトグラメトリの手法で造られたワールドはリアルである一方で、一部が崩れたり歪んだり浮いたり壊れたりしている。

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 ヴァーチャルな世界が傷ついているさまはいい。しょせんヴァーチャルがリアルのコピーにすぎないから劣化していて当然、というわけではなくて、2021年のリアルワールドもおなじように崩れたり歪んだり浮いたり壊れたりしているからで、ただしく世界の有様を写し取っている。ここも世界なんだという気がしてくる。なんか記事の文字数が1万字越えてめんどくさくなったので、このへんは別の機会にまた語りましょう。ね?


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vanilla sky, anal hospital.



 ね? とわたしはマンソンにいい添えた。
 マンソンはわたしの話すことにたいして興味をそそられなかったようで、あいまいな相づちを打ちながら聞き流していた。そして、話が終わると、Magic Heist なるワールドが今アツいらしい、というようなことをいう。今度行ってみよう、とどちらからともなく提案される。いつもの四人で。きっと楽しいよ。そうかもな。






Oculus Quest 2—完全ワイヤレスのオールインワンVRヘッドセット—128GB
サガフロンティア 裏解体真書 (ファミ通の攻略本)

*1:ウォルト・ディズニーは晩年には実際に街を文字通りまるごと一つ造り出そうとした。その試みはかれの死によって頓挫することになる。映画版の『トゥモローランド』はウォルト最後の野望の残り香めいた作品であるといえるかもしれない。

*2:うろおおぼえだが『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯』から

*3:ゲームの分野では、といっても私の知る限り日本でこのタームを批評用語として頻用しているのはIGN JAPANのクラベ・エスラくらいしか存じ上げない

*4:ただ、「本筋」のようなものはあって、それはかなり直接的に語られたりはする。

*5:結果的にはワーナーの傘下へと収まることとなる

*6:わたしはゲームとメタバースの区別がついていないのだろうか。おそらく、そうだろう。

同じ人が書いたSFを読む。――『圏外通信 2021裏』『〈未来の文学〉完結記念号 カモガワGブックス vol.3』

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「本の話をしよう。お前の書いた小説を読もう。」


 江波光則『密葬 -わたしを離さないで-』



「まず、おたがいに本音で話しあおう」とホロ映像がいった。「だれだって本を読むのは好きじゃない。そうだろう?」


 トマス・M・ディッシュ浅倉久志・訳「本を読んだ男」




”まえがきや序文というのは誰も読まないらしい。”

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高江洲弥『先生、今月どうですか』

 知らない他人の話を聞くのがあまり得意ではない。おそらく同じ理由で同人誌を読むのも苦手である。そもそもプロの作家がプロの編集者と組んで出した小説でさえ七割がた何いってるのかよくわからないのに、これが同人になるとわからなさが平均九割に跳ねあがり、それがSFだと二倍になる。十八割わからないのはたいへんだ。わたしも人間それ自体や物語は好きなのであるし、わかりが可能ならわかりたいのであるが、近年のわたしはモチのベーションがモチモチしている上に、死んでいるテキストはリアルタイムでの応答が不可能でここがよくわからないからといって問いただしても何も答えてくれない。自分でどうにかするしかなく、自分でどうにかした結果、作者の意図とかけ離れた解釈なりあらすじ理解をひねりだしてしまう。バカなのか?
 モデル読者には一定の知性と精神的安定が求められる。作者にも質の良い読者を求める権利はある。だが現実は瀬名秀明の某短編でいうと読解力最低ランクの小説しか与えられないような読者ばかりで、何を隠そうわたしもその一員だったりする。
 読まれない小説は不幸だが、読みきれない読者を得た小説もまた不幸だ。だが小説と読者は本来関係ないもの同士なのであって、互いに互いが不幸であるか幸福であるかなどノンオブマイビジネス(闇夜に影を探すようなもの)だ。小説に読者を幸福にする義務がないように、読者もまた小説を幸福にする義務はない。
 そう考えるとすこしは他人の小説を読むのが楽になる。
 だが、所詮は屁理屈であり、現実に雑に読まれたら作者は傷つく。でも人間は雑な生き物なので傷つくことは防げない。人の心はインヒアレント・ヴァイス、傷ついた人の心は傷ついた人のほうの問題として、傷つけてしまうことで傷つくわたしの心はどうケアするべきなのか。
 さいわいにも歴史は人類創世以来のあらゆる欺瞞と悪徳に通暁している。罪悪感を和らげる方法は、虐殺と屠殺に学べばよろしい。
 距離をとろう。場所を不可視化し、自分たちが殺しているという直接の感覚さえ避けられれば、わたしたちは自分が善き存在と信じたまま死ぬことができる。
 つまり?
 twitterをやめろ。
 twitterをやめろ。
 二度も言ってわからないなら、あなたは永遠にあなたのままだ。

『圏外通信 2021裏』(反重力連盟)

hanjuren.booth.pm



 私はSFにおけるFuckの部分には興味があるが、Shitの部分には一切興味がない。ーエイブラハム・リンカーン



・反重力連盟の二冊目。執筆陣を見るに、京都大学SF・幻想文学研究会のメンバーが大半を占めている。これ以上の事情はよく知らない。これの前に裏じゃないほうが創刊号として出ていて、そちらも愉しい。

「巻頭言」庭幸千

君の銀の庭
ヴァージニア・ウルフは女性が小説を書くのに必要な場所として「自分一人の部屋」*1を挙げたが、この巻頭言も「私が守る、私だけの領域、"庭"」を名指している。種を蒔き、やがて重力に抗って樹が伸びる庭を作ろうとする密やかな試み、それこそが本書であると謳っている。そして、そうした試みが常に失敗含みであることも示唆されており、その上で失敗にすら意味があるのだというようなことが書かれている。基本的に小説は不毛の媒体であり、物語は不稔の運命を課せられている。だが、種を絶えず播き、守り育てていくのなら、いつか芽生える光もあるのだろう。
・p.2 五段落目と六段落目の一字下げ。

「窓の時代」巨大建造

・川に棲みながら水棲生物を貪食している主人公がひさしぶりに勤めている会社へ出社するとデスク三つ分を占拠する頭だけの同僚マヌ岡から「窓の時代がやってくる」と告げられる。
 マヌ岡は「巨頭者」と呼ばれる種族だか役割だからしく、その言葉には予言的な力があるらしい。しかし、「窓の時代」とはなんなのか。
 主人公は水中駄菓子屋を営む夢を見て、これが「窓の時代」ではないかと考える。そうして最後に川の時代がくればよいと。
 だが、マヌ岡は否定し、「今日この日から窓の時代なんだ」といって、開くそばから死滅していく窓の映った画面を見せる。
 そうして世界が崩壊していく。どうやら崩壊していくっぽい。

 巨大建造の作品は常に象徴に満ちており、抽象度が高い。昇天や滅びのイメージを好んで用いる傾向にあるように見受けられ、そこにある種のノスタルジーや詩情を見出すことができる。本作もその例にもれない。
 二段組二ページ半ほどの掌編であり、筋らしい筋もないため読者としては散りばめられたイメージを拾い集めるほかはない。
 主人公が住まう川(水)のイメージとそれに呼応するかのように終盤描かれる虚空のイメージ。なにかが朽ちて失われていく感触。なぜか散発的に登場するイヌ。ラストは「黒い大きなイヌが飼い主を呼んで鳴いた。それからの二千年間は夜が続く。わたしは悲しい。」とメランコリックに締めくくられている。黒いイヌといえば憂鬱症のメタファーとして用いられることが多いけれど、本作も憂鬱の心象風景といえばそんな感じもする。

「老い縋る未来」庭幸千

 ・幼熟児(ネオテニアン)。成熟とともに失われる人体の神経生物学的性質をうまいこといじって幼児期の知的成長をブーストした結果、子どもたちは大人よりも遥かに賢くなり、ついには法的社会的な面でも成人を凌駕するようになった。大人は子どもを「持つもの」ではなく、子どもに「持たれる」存在となり、成人を映したポルノ画像は子どもを映したものよりも卑猥で反倫理的なものとされるようになった。
 そんな世界で30を越えたセキは、健康診断の帰りに、かつてクリプキ型生物研究所という施設で同僚だったアスカという女性に再会する。かつて誇り高かったアスカがすっかり”被保護者”として落ち着いていることをセキはショックを受けつつも、その出来事を呼び水として研究所の創設者で稀代の天才だったマキのことを追憶する。
 他のネオテニアンすら圧倒する知性によって研究所を円滑に(かつマニピュレイティブに)運営していたマキのもと、子どものころのセキは人間の認知を高次元のレベルへと拡張する研究に従事していた。
 ”卒業”間近であることを認識しながら意識拡張研究に追われるセキだったが、知らず、天才マキのとある発明に触れることとなり……といった話。

 本書中随一に魅力ある設定。子どもが特殊な条件下で大人の模倣のような権力や組織を持つという物語はヴェルヌの『十五少年漂流記』をゆるい原型としていくつか存在し*2が、「老い縋る未来」は大人と子どもの権力関係が完全に逆転した社会を描く点でフレッシュだ。
 そうなるとよくあるミラーリング的な社会風刺の寓話が展開されるのか、と思いきや、舞台は研究所内にほぼ限定され、マキというミステリアスな中心についてのミステリーへと絞られていく。*3
 また、アドレッセンスの喪失ものとしての側面も見逃せない。この世界では18歳ごろを境に知能が急激に低下し*4、失職して二度とまともに働かなくなる*5のだが、このタイムリミットが本作での「今しかない」感を演出している。
「大人になって何かが失われてしまう」という感覚は学園ものや青春ものと共通しているわけで、ピーキーな設定で専門的な術語にあふれていながらも、そこのあたりで意外に口当たりがよく読みやすい。そうした下地に人に対する人への感情がうすく乗ったりする。
 ハイブラウな神経医学SFと、それによって引き起こされる社会的変化についての描写、そしてマキを軸にした人間模様と要素的にはかなり欲張りに詰めこんだ一本であり、14、5ページという枚数に対してカロリーが高い。その分やや終盤は感情面で急ぎすぎた印象もあるけれど、シンプルな奇想を科学的に理屈づけるゴテっとしたまさにSF!な力技を見られるというので満足が得られる。

「原始創造性喪失:車輪の発明の困難性について」xcloche

・論文……というか、科学エッセイ形式で綴られている。
 古代の世界ではいたるところで「ころ」(複数の丸太を下にしいて重いものを運搬するアレ)の技術が発生したが、車輪を発明したのはメソポタミア文明ただひとつであった。
 なぜ他の場所で「ころ」が車輪に発展しなかったかといえば、ふつうに思われるよりこれらはかなり構造の隔たった代物であり、連想的に生み出すには飛躍が必要とされ、かつ十分に発展した「ころ」は十分に運送の役目を果たしていてそれ以上の技術が求められなかったからである。
 ”このように、原始創造性喪失とは「既存技術が十分に発達してしまうと、代替技術はどんなに効率的で構造が単純であっても、発明が困難になる」という現象である。”(p.24)
 こうした現象は輸送技術のみならず文明の至るところ、そして生物の構造にさえ発見される。
 どこかでなにかがボトルネックになって文明の発展を阻害しているかもしれない。「ころ」より効率的な車輪をメソポタミアに至るまで誰も発明できなかったように、車輪より単純で効率的な何かをわれわれが発見できないでいる可能性は大いにある。
 そこで世界シミュレーションの分野において考案されたのが「文明焼きなまし法」だ。天災や気候などのパラメータをいじることで、「より車輪が発明されやすい」環境を作り出す。
 さらに複数の世界をシミュレートしたときにどの世界でも発生する「普遍発明」と、特定の世界にしか発生しない「特殊発明」を観測比較するアプローチなどもあり、まあそんな感じでお茶目な事が書かれています。

・ハヤカワの『異常論文』の一篇として紛れ込んでいても違和感がない。
 最初に「なぜ車輪はメソポタミアでしか生まれなかったのか」という大見得をカマすのが痛快だ。その後も説得的で愉しい論考が続いていく。論文や論考に見えて実はびっくりどっきりな仕掛けを持っていた、というのはこの手のものによくあって、本作もその例に漏れない。しかし、それがあまりにシレッと書かれているのが憎らしいとううか、オタクの好きなやつである*6
 ホラ話はデッドパンにて語るべきだとおもう。語り手がすくなくとも当然視している状態を装っていないと、話されるほうも信じない。要するに詐欺師に倣えということで、本作はまごうことなく詐欺を完遂している。
・ラストは(作品世界内の)現状を前向きに肯定するみたいなノリで、このとってつけた感もそれっぽいというか、もしかして(作品世界内での)予算を分捕ってくるために書かれた文章なのか???と勘ぐってしまう。
・あと図がいっぱいあってうれしい。

 
 

「黎明」脊戸融

・ある惑星に入植した地球人たち、しかしそこはカエルラという歩行する森に支配されていた。あらゆるものを貪欲に飲み込むカエルラの影響で地球由来の植物は大地に根付かず、植民は難航。技術局に勤める「私」は上司である九谷主任設計官と共に不毛の惑星に立ち向かう。一方で、その記憶と並行する形で「私」と翠という謎めいた少女との交流が描かれる。果たして「私」と移民たちを待ち受ける運命とは。
・テーマは百合です。
・カエルラというギミック生物を中心とした生態系が緻密に描かれる。カエルラは仮足で移動したり、触れた生き物を片っ端から捕食したりする巨大なアメーバみたいなやつなのだが、九谷によって遺伝資源として移民たちの糧として利用されるようになった。この敵であり共生相手でもあるカエルラと人類とのギリギリの関係が魅力的だ。
・人間の話としては最初にも言ったように、百合です。
・p.34 上段 "私はカエルラ採れた原料で作ったパスタを〜"→"私はカエルラで採れた〜"?
・同ページ 下段 "そのことなんだけど〜"→一字下げ

「ペコとかまどのオカルトごはん! スカイフィッシュ・タコスと釜揚げスカイフィッシュ」赤草露瀬

・メキシコはアマゾン。さすらいの料理人・御厨かまどと神出鬼没のハンター・ペコは、コロ介みたいな語尾で喋る現地ガイドのアントニオをお供に今日も幻の食材を狙う。今回のターゲットはあの超高速UMAーースカイフィッシュ
・"「観光か(sightseeing)?」「ううん。ご飯だよ!(NO. Combat.)」"(p.38)
 コンバットだよ、ではないが、コンバットだよ、では。
・タイトルとセットアップでだいたいわかるとおもうけれど、主として描かれるのはスカイフィッシュハンティングとその調理。特に調理と食事シーンに比重が割かれており、グルメSFとしての興味が強い。漫画界では昨今の異世界ファンタジー流行りで、*7空想生物料理マンガも多いが、まあだいたいそんな感じ。
 スカイフィッシュの調理法は、タイトル通りタコスにしたり釜揚げにしたり刺身にしたりとバリエーション豊か。食感はボイルイカに近いらしい。
 収録作中でも最も語り口がライトで、アクションやギャグもふんだんに散りばめられていてするりと読める。オチもなんか「もうこりごりだよ〜」と叫んでぴょーんと跳びアイリスアウトする感じで終わる。跳んだりはしていなかったかもしれない。

「」巨大建造

・タイトルは入力忘れではなく、実際に空白になっている。空白になっているだけでついていないということではない。ネコの男性器のような言い草と思われそうだが、どういうわけかは読めばわかる。
・独特の用語と節回しに溢れていて筋はよくわからない。末土クレーターと呼ばれる半径一キロほどのクレーターの地権者であるサヴォ島トヲは二十三歳になるが、このほど大学を中退して無職である。手から砂を出せる魔法を使える。*8実家に帰ってからは義理の妹であるアメなどとつるむなどしていたが、あるとき市役所所属の騎士サー・漁人マルコ従六位の訪問を受け、「末土の危機」を防ぐためにの協力を要請される。たぶんそんな感じ?
キリスト教や神話のモチーフが豊富に投入され、それらをファニーな言語センスとオフビートな会話が彩る。50ページ弱は収録作中最長。長ければ長いほどカオス感が増していくので、そうした酩酊感を楽しむのが正しい用法かもしれない。


『〈未来の文学〉完結記念号 カモガワGブックス vol.3』カモガワ編集室

hanfpen.booth.pm



 トリビュートより、鳥貴族。――サミュエル・ジョンソン



国書刊行会から出ていた〈未来の文学〉叢書がこの度『海の鎖』を持ってめでたく完結したことを受け、その全レビューを行うことを主目的とした同人誌。「絶対読んどけ!」な本と「別にこれは読まんでも…」な本の差がうちのイヌ(故犬)のテンションの上下より激しい叢書であるけれど、本書の全レビューを読んでいるとなんだか全部大傑作におもえてくるから不思議だ。エッセイの寄稿陣も豪華。
 それはともかくこの記事で扱うのは付属しているトリビュート創作コーナーの作品群。
 トリビュート小説は書く方も大変だろうが、読む方も大変である。なぜなら、書く方はまずトリビュート元を読んだものとして書く。だが、読む方はトリビュート元を読んでいるとは限らない。読んでいない状態で読むとどうなるかというと、読みながら常に目の前の展開や人物や語彙ひとつひとつに「これには元ネタがあるのではないか」という強迫観念をおぼえる。不安である。そうなるともう読むどころではない。じゃあ、〈未来の文学〉全巻読んでからおとといいらっしゃい、という話になるのだけれど、いや、だって、『ダール・グレン』とか完読するのダール・グレン*9じゃないですか……。というか読んだものすらだいたい忘れるのが読者であって、そうなるとトリビュート短編を読む直前にトリビュート元の本を読み、記憶が新鮮な状態で挑むというのががいちばん正しいことになるのだが、それができれば苦労はせず、このブログ記事も土曜日の朝9時のキマった精神状態でアップされることもない。朝イチでラストナイトインソーホーを観に行く予定がおじゃんで、これじゃあ、ラストナイトインソーホーじゃなくてラストナイトイントホホ〜だよ。


「世界の穴は世界で」茂木英世



「でもその分私には角があるわ。それって胸に穴がなくて角がない人と何が違うのよ」(p.66)



「おまえはいったいどこからいろんなお話をこしらえてくるの、オーリャド?」


 ――浅倉久志・訳「ファニーフィンガーズ」



ラファティトリビュート
・頭にツノを生やし心臓あたりに穴の空いた十二歳の少女、マーガレット・タイニーデビル。町一番の噂の娘。彼女は街へ繰り出しておかしな住民たちの家々をめぐる。ヴァルハラに帰りたくて毎日めそめそ泣いている巨人、素数しか口にしない女ロボット、そのロボットを開発した街の発明おじさん、そのおじさんの次なる発明品である未完成の虎、魔法使いに科学を習ったと噂の医者もどき……なにかしらの欠落を抱えたかれらを少女は満たして世界の均衡を救えるのか?
ラファティほんとに好きなんだな、というかんじの詰め込みっぷり。
・で、わたしのほうはラファティは好きかといわれると微妙なところがあって。このまえ出たラファティの短編傑作選を読んでビックリしたのだけれど、昔読んだやつをほぼきれいさっぱり忘れていた。内容や印象や感触を忘れたならまだしも読んだという事実すら忘れてしまい、なんかこれおもしろかったな〜と感じた短篇の初出を見て初めてあれおれこれとっくに読んでたはずだが?? と愕然とする。まあそうした事象がラファティに特有かと言えば別にそんなことはなくジーン・ウルフやディッシュも平等に忘却しているわけなのだけれど、ふつうのSF作家に比べてラファティを忘れることについての罪悪感は小さい。ほら話だからだ。話は変わるが、ほら話と噂話が異なる生き物であることをご存知だろうか。ほら話には理屈があって脈絡がない。噂話には脈絡があって理屈がない。
「世界の穴は世界で」はいちおう噂話と規定されている。けれど、欠落とその解消という点では筋があり、ほら話的である。要するにはラファティ的。しかし、トリビュートもので漠然と「○○(元ネタ)っぽい」と述べるほど怠惰で責任回避的な物言いはないのであって、読者もどこかで虚空を踏んで落下するリスクを負わねばならない。
・マーガレットは軽やかである。胸の穴の心配を母親からされていても、代わりにツノが生えているんだから差し引きゼロだ、というようなことを強弁する。しかし穴は穴であり、ツノはツノだ。局地においてはそれらはどうみても欠落であり、余剰だったりする。けして平坦な地面とおなじ役割は果たさない。穴は呑み込み、ツノは穿つ。そうやって世界に波乱を起こして行くわけで、町に広がる噂もそうした波風にすぎないのかもしれない。
 信仰がある、というのは良いことだ。
・収録五篇中、この作者だけは初顔合わせ。また良い書き手が出たなあ、という印象。


「返却期限日」鷲羽巧



ディケンズは好きか?」(p.85)



「……ディケンズは好きか?」
 ――江波光則『密葬』



・ウルフトリビュート。「返却期限日」がどういう話か、というかどういう趣向であるかは『ジーン・ウルフの記念日の本』を読んでもらったほうが早いけれど、ひとついえるのは”ジーン・ウルフの「返却期限日」”とは「読まれないことを前提にして書かれた(フリをしている)」話であるということ。
・目の悪い伯父からこづかいをもらってSF小説を読み聞かせしていた少年ブーク氏。古本屋を営むその伯父から誕生日プレゼントとして好きな本を選べと言われた彼は余白に「さようなら、いままでありがとう」と書かれた短編集(『ジーン・ウルフの記念日の本』)を貰い受ける。彼は最後の収録作から逆順に一日一編短編を読み、最初の収録作である「返却期限日」まで進む。ところがページがくっついていて開けない。勝手に切り開くのは伯父の主義に反すると判断したブーク氏は伯父の意見を伺いに古本屋へ向かう。しかし到着するや質問をする前に「おまえがこの前もっていった本を読んでくれ」と頼まれ、仕方なく「返却期限日」の物語を捏造する。彼はその後、同じタイトルの別の話をいくつも創る。
 ブーク氏は成長していき、大学を中退したのち軍に入隊し、従軍、暗号解読の仕事に就く。そのあいだに伯父は亡くなっていた。やがて故郷に帰り、すっかり中年になった彼は亡き伯父の古本屋を継ぐ。あるとき、彼は自分の「返却期限日」を元に小説を書き始め……といった話。
後藤明生「なぜ小説を書くのか。小説を読んでしまったからだ」という有名な箴言がある。本作はまさにそういう話で、読書と創作と解読と翻訳がすべて同一の地平にある行為として捉えられており、さらに「読まなかった」という体験すら取り込んでいる。読んできたもの、読まなかったもの、読むはずだったもの、それらは本に生きる人間にとってニアリーイコールで人生であり、本作はそうしたビブリオフィリックな人々に捧げられた物語であるといえる。
 作者は本書における〈未来の文学〉全レビューコーナーで、『ケルベロス第五の首』と本作の直接のオマージュ先となった『ジーン・ウルフの記念日の本』のレビューを担当している。しかし、マインドとして本作にいちばん近いとおもわれる『デス博士の島その他の物語』のレビューからは外れている。実際のところは事情はわからないし、真実に興味はない。本当にない。ただ、本作が作者なりの『デス博士』論だとするとしっくりくる気がする。こんな妄想が芽生えるのも「読んでしまった」からかもしれない。

「イルカと老人」呉衣悠介



そこには「イルカがせめてきたぞっ」という文句とともに、火炎放射器のような装備を持ち、陸上にあがって尾びれで立ち上がったイルカが、後期高齢者を焼き殺す姿があった。「これに見覚えはあるか?」(p.104)



 ぼくをここに閉じこめている張本人は、人間に違いない。要するに、ふつうの人々だ。


 ――伊藤典夫・訳「リスの檻」



バドワイザーウイルス脳炎という感染症が蔓延する近未来の日本。この脳炎にかかるとモラル的な志向がゆるやかに変化していき、最終的に感染前とは正反対の政治的・思想的なグループへと属するようになる。たとえば、リベラルだったハリウッドもこの感染症の影響ですっかり右翼愛国的な映画に席巻されていた。
 転職のタイミングでおりあしく脳炎にかかってしまった主人公・平山は、就職のために"後遺症"が残っていないことを証明しようと病院で検査を受ける。脳炎の影響によってSNSなどでのトラブルが増えたため、雇う側も慎重になっていたのだ。
 ところが平山の結果はクロ。再就職に窮した末に平山は審査を要しないスーパーのアルバイトに就く。あるとき、そのバイト先の同僚に誘われて反ワクチン派のイベントに出る。そして、それをきっかけにさまざまな集まりに出席するようになる。レイシストの集会、反フェミニズムの集会、動物愛護、反出生主義、右から左でも何でも。
 特段、政治に積極的でなかった平山だったが次第に「見ているよりも参加する方が楽しい」と考えるようになり、自分がシンパシーを持てる相手にメンバーに固定して「政治的に自由な発言ができる」ような交流を持つ。ある夜、その集会で脳炎の影響で転職に失敗したことを告白し、同僚(最初に平山を集会に誘った人物)からスーパーの本部で法務部の枠が空いているのとを聞かされ、うまいこと本社勤務におさまる。
 コンプライアンスが重要視される本社では集会でのような政治的発言は抑制していた。その裏で、彼はとあるウェブアプリの開発にかかわるようになる。そのアプリの内容というのが……という話。
・コロナ禍と政治の分断というかなりアクチュアルなテーマを濃厚に反映した一篇。感染症の後遺症によって政治思想や人格が変化していくというギミックが仕込まれていて、主人公が最終的にどんな"思想"に帰着するかというところでもサスペンス・スリラー的な興味がある。
・映画や文学のリファレンスが多く登場する。特にラストにディッシュのある小説*10*11を小説を紹介していたのは誰か、というのは本作のトーン&マナーに通じていてエキサイティング。そこのあたりとは別にマクロな社会のたゆたいやすいイデオロギーに翻弄される個人を描くという点では小松左京っぽい*12し、まったく趣意の異なる集会を渡り歩いたり男たちでちょっとアンダーグラウンドな結社めいたものを作り上げたりするところはパラニュークっぽくもある。
SNSでは右左問わず、あるいは一般的な政治性そのものから離れていようがいまいが、ラジカルなものほど声が大きく響き、そのコミュニティもデカく見える。そういう場所に身を置いているといつのまにか自分も変質していく。そんな感覚(ボディホラーならずイデオロギーホラーとでもいうのか?)は現代的でリアルな恐怖といえばそうで、そこを意識的に掬い取ろうと挑むのはただしくホラー的な態度ではないだろうか。いや、これ自体はホラーじゃないんですけどね。
アメリカン・サイコは最初から狂った人間として現れているけれど、ジャパニーズ・サイコは朱に交わって赤くなった水の底から這い出してくるものなのかもしれないね。

「ピンチベック」巨大建造



「大丈夫、お前が心配することじゃない。
 おれは金輪際、ゴールデンなのだから」(p.136)



「宇宙の支配者になるのってさあ、そんなにカンタンじゃないんだよな〜〜」


 ――林田球『大ダーク』



ディレイニートリビュートと思われる。思われるというのはわたしが『ドラフトグラス』*13も「ベータ2のバラッド」も読んだことがないからだ。
・外銀河を旅する宇宙船の船員の三代目にしてルナ・リプロという星間企業の一員として働くカナエ・アガタ。以前、航宙中に宇宙生物に襲われた結果すさまじい負債を負う羽目になった彼は「先生」という老人に付き合いながらグズグズな生活を送っていた。さまざまな事情から太陽系出禁になっていた彼らだったが、あるときアガタは"郷帰り"をすることになり……という理解で正しいのかはわからない。
・はからずも短期間で同作者の作品を三作品も読む事態となったが、例に漏れず脳みそを掻き回したようなグルーヴ感である。基調はスラップスティックでしょーもないパロディを好き放題やっている。「天の光はすべて噴射炎だ」ではないんだよ。このしょーもなさが最終的には壮大なスケールにまで到達するのだから侮りがたい。

「衣装箪笥の果てへの短い旅」坂永雄一



 衣装箪笥を旅するもののあめの手引(ワードロープ・トラベラーズ・ガイド)より、一項。
 衣装箪笥のなかへ入るものは多いが、出るものはいない。(p.138)



「あのう、森からぬけ出る道を教えてくださらないかしら?」


 ――ルイス・キャロル、河合 祥一郎・訳『不思議の国のアリス



・いきなりC・S・ルイスの『ナルニア国』の引用から始まる。ルイスって〈未来の文学〉おったっけ? などと思ったら、「ジーン・ウルフやラファティら、カトリック系SFF作家へのささやかなトリビュート」であるらしい。なるほど……あたしゃ『ナルニア国』を読んだことも映画を観たこともないけれど、キリスト教的なイメージが配置されているとどこかで聞きかじったな……などとおもいながら wikipediaを確認するルイスはイングランド国教会系の信徒であったとある。いやならカトリックじゃないじゃん、とおもって更に調べたら、河合祥一郎「『ナルニア国』に出てくるアレゴリーってカトリックっぽいねんで」と話してる記事が出てきてへえ〜〜〜〜となった。
・老境にさしかかりつつあるスーザン・ペベンシーがある夏の終わりの日、衣装箪笥からコートを取り出そうとして誰かの指に触れた。侵入者を捕まえようとして衣装箪笥に入り込むと、そこには広大な冬の世界が広がっていた。その世界には衣装箪笥に十二年間棲まう少年やつぎはぎのコートを羽織った大熊がいて、スーザンはかれらを頼りに衣装箪笥からの脱出の旅へ出る。だが、一行を影でつけねらう得体の知れない怪物がいた。はたしてスーザンの運命はいかに。
・スーザン・ペベンシーとは『ナルニア国物語』に登場する主人公きょうだいたちのうちの一人だ。そう、『ナルニア国』トリビュートなのである。そんなのアリ?  そのことが明示されるのは終盤になってから*14だが、そのとき彼女と彼女のきょうだいが辿った「末路」に、エッ!? あれってそんな展開になるの!? とビビってしまった。途中からどこまでナルニアでどこまでそうではないのかが気になりまくって注意が散ってしまった感があり、そのへんはナルニア履修後に改めて立ち戻りたい。
・スーザンの旅路の合間に「衣装箪笥を旅するもののための手引き」と称してエンサイクロンペディア的な語りが挿入される。それは衣装箪笥の世界の構造や神話や文化につての語りで、かなりホラ話感が強い。一方でスーザンの筋は「ページを開けばまた会えるんだよ」的なノスタルジーを予感させつつもちょっと悪夢っぽい。
・終盤に立ち上がってくる世界観と問題設定はもろにキリスト教的ではある。ここに至ってそういえばキリスト教徒であることとSF・ファンタジーの創作者であることとはどう両立するのだろうという素朴な疑問が立ち上がってくるのだけれど、あるいはそういうこと自体が問題意識に含まれているのかもしれない。
・諸々の元ネタがわからなくとも、不思議の国のアリス的なファンタジックで不条理な世界に迷い込んだ女の話として読めるので、あまり構える必要もないのかもしれない。いさましいちびの鼠とかかわいいですよ。

追伸

*『無花果の断面』は12月11日までに入手できなかったため、感想をつけられませんでした。各自で買って読め。
booth.pm

*1:と十分なお金

*2:最近だと藤田祥平の『すべてが繋がれた世界で』で病原体的ナノマシンによって人類が22歳までしか生きられず、政府を含めたあらゆる政治・社会機能を子どもたちが担うといった世界が描かれていた

*3:「外部」を描くのが結構大変な設定だとは思うので、そこは戦略的な側面を含んでいるのかもしれない

*4:といっても現在の標準的な大人の知能レベル

*5:それまでに形成した資産で暮らしていく

*6:そういえば、前に作者が書いた掌編に似たような趣向のものがあったような気がするけれど、記憶が曖昧。

*7:ダンジョン飯』を筆頭に

*8:五十嵐大介の「すなかけ」みたいに

*9:ミステリにおける「『樽』はタルい」に匹敵するおもしろギャグ

*10:読んだことはないけれど非SFに分類される作品であると思う

*11:ちなみに終盤には『人類皆殺し』も出てくるけどこれはちょっとしたイースターエッグだろうか

*12:私の小松左京観は貧弱なのであってるかは知らない

*13:あるいは『時は準宝石の螺旋のように』

*14:まあ最初からスーザン・ペベンシーといってるし、序盤でもさりげなくそれっぽいことは混ぜてあるので、ナルニア既読者はもちろん少々勘のいい未読者でも気づくだろう

黒い太陽の中心を制御する黒い太陽の中心――『stikir』、『OMORI』、『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』、『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』

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 眠りに落ちる前の最後の九分間がいちばん好きだった。
 現実と幻想が交錯する瞬間を待ち望んでいた。その一瞬のために起床し、一日を生き抜く。私のいちばんの夢は一日じゅう眠ることだった。実現したらなんとすてきだっただろう! 
 でも、その夢はゆっくりと、しかし確実に、失せていった。まるで誰かが私の頭の中をあさるように、何も残らなくなるまで、すこしずつ……。
 今また私は眠らなければいけない。眠る必要なんてもう感じていないのに。鏡に自分の顔を映し終わり、私はいつもの錠剤に手を伸ばした。妙な話、いつも無心でまとめて飲み込んでしまうので、個別の薬がどのように作用しているのか、私はわからない。
 なんだか錠剤をもっとよく眺めたくなってきた。触りたい。指のあいだに挟んで、噛んでみたい。少しでも時間を稼げるならなんだってする。なめらかに隆起した赤いカプセルが私を見つめている。半透明の濁ったフィルムに覆われているものの、中身は視認できる。
 何が入っているんだろう……?


 ――『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』



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 他人の不安を追体験させられることが増えた。


それはおまえの Depression じゃんよ。

 いまやビデオゲーム市場はメンタルクリニックの待合室のようだ。*1*2
 そこでは制作者が直面した憂鬱や病や困難が吐露され、主として「『MOTHER』シリーズに影響を受けた奇妙なビジュアル」*3の形式で打破されたり抱擁されたりする。憂鬱はアートとなり、不安は商品になる。この世界ではあなた固有の絶望はあなたに固有のものではない。「個人的なことはすべて政治的なことである」という現代アクティヴィズムの魂は狡猾に収奪され、末尾に不可視の一文を書き添えられた。「そして、なにより、商業的なことでもある」と。
 振り返ってみればインディーゲームの歴史は、常にメンタルヘルスと象徴的な関連を有していた。初期インディーバブルの里程標となった braidは「囚われのプリンセスを助けに行くヒーロー」というクラシックなプラットフォーマー・アクションの枠組を援用しつつ、陰鬱なまでの喪失と後悔の物語が綴っていった。2010年代のインディーシーンを決定づけ、devolver digital を業界を代表するインディーパプリッシャーに押し上げた hotline miami の開発者は恋人との別れがきっかけで心を病んでしまい、施設のなかから開発を続けていたという。そして、ゲーム業界における近年最大の騒動であるゲーマーズ・ゲート事件の発端となったのは Depression Quest という作者の個人的なうつの経験をもとにした、メンタルヘルス啓蒙のためのインディー作品だった。この作品の開発者であるゾーイ・クインは Night in the Woods の開発チームに起きた、これまたメンタルヘルスがキーとなった、ある出来事にも絡むこととなる。

 
 なぜインディーゲーム開発者はメンタルヘルスや固有の憂鬱について語りたがるのか。それは単純にかれらがそうしたものを抱えているからだ。
 ゲーム業界人のメンタルヘルスの改善に取り組む団体 Take This を支援しているマイク・ウィルソンは、前述のインディーパブリッシャー devolver digital の共同創設者のひとりでもある。*4かれは前述の hotline miami の開発者だけではなく*5、支援していたインディー開発者たちが数年のあいだに四人も精神疾患で入院していく有様を目撃していた。
 インディー開発者は常に不安にさいなまされている。会社づとめをしているものは多くはない可処分時間を費やして命を削っていき、開発に専念するためにフリーになったものは経済的な不透明感な脅かされながらやはり命を削っている。*6「最初は一年や二年程度で完成する予定だった」作品の開発期間が四年や五年に延びることはよく聞く話で*7、それだけの労力を費やしたところで完成する保証はどこにもない。ようやくリリースにこぎつけたところでまったく売れず話題にもならず、残ったのは借金だけ、という残酷物語もそこかしこに溢れている。いや、割合でいえばそちらのほうが圧倒的だ。*8こんな状況で病まないでいられるほうがおかしい。ただでさえ、アメリカは六人に一人がなにかしらの精神的な疾患を抱えている社会なのだし。


 要するに、不安はクリエイターにおいて最も身近なトピックなのだということだ。しぜん、かれらの一部はゲーム制作における不安を吐露しようとする。ダニエル・ミューリンズの『The Hex』などもその範疇だろうし、ドキュメンタリーでいえば『Indie Game: The Movie』にも描写されているが、ここでまず取り上げたいのは『stikir』だ。

『stikir』――ゲームを作るためのコーヒーを入れるための水を探しに行く。


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『stikir』のストア紹介文にはこうある。
「このゲームはこのゲームを作ることについてのゲームです」

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「六ヶ月以内にゲームを制作すること」がこのゲームの目的だ。


 ゲームを開始すると透過レイヤーめいた模様の主人公を操作することになる。かれをあやつり、次々とアクション系のミニゲームをこなしていく。ミニゲームに脈絡はない。出てくるキャラも巨大なシカだったり、謎の半魚人だったり、歯並びと血色の悪い口だったり。
 未完成なのだ。この世界は。
 主人公は自分の家でゲームを作ろうとする。ところがパソコンの前に座れない。なぜか。コーヒーを飲まないと気分が出ないから。


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 かれはコーヒーに必要な水を手に入れるべく、家の外の世界へ冒険に出ることになる。


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道中で出会う愉快な仲間たち


 ドラゴンなどの強敵を倒して帰ってくると、三ヶ月が経過している。
 なにもしないままに、三ヶ月。
 ゲーム制作に着手するためのコーヒーを淹れるための水を持ってくるためだけに、三ヶ月。
 何かをやる、というのは、こういうことだ。わたしたちはやるべきことをやらないことについての言い訳すら上手にできない。


「だって、道路を渡っていたんです。そこには車がびゅんびゅん走っていて……」
「だって、ドラゴンと闘っていたんです。大きくて長くて、強くて……」


 理由にならない。
 これは「このゲームを作ることについてのゲーム」だ。
 なぜゲームを作らない?
 なぜやるべきことをやろうとしない?
 なぜ……?


『stikir』は30分か40分程度のゲームプレイで、実にゲーム的なほのめかしによって、わたしたちの不安の核心をついてくる。だが、逃げても「ゲーム」はあなたを追いかけてくる。どこまでも。

『OMORI』――逃避の作法。

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 わたしたちのアジールは、アサイラムは、どこだろう。
 チャトウィンとサンドラールにはパタゴニアがあった。*9あの時代よりもさびしさはずっと広大になって、わたしたちの”パタゴニア”は逃避先そのものではなく、逃避先で使用可能とされる寝袋やキャンプ用具を売る商人になった。しかしテントや簡易コンロを購入したところで使う機会などない。外に出るなと誰もが命じている。
「自己について絶望すること、絶望して自己自身から脱け出そうと欲すること、これがあらゆる絶望の公式である」というキルケゴールのことばを思い出す。あのデンマーク人は結局なにをいいたかったのだろう。
 

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ようこそ、ホワイト・スペースへ

 白と黒に支配された無窮の空間には、電球が吊るされている。電球のなかは黒いなにかで満ちている。憶えていてほしい。その電球こそ、主人公である OMORI にとっての"黒い太陽"だ。
『OMORI』は二つの世界を行き来するRPGだ。片方はファンシーとファンタジーで賑々しい、甘くかわいらしい世界で、そこでは悲劇など一切生じない。もう片方はゲーム内世界の基底現実だ。主人公は引っ越しを数日後に控えていて、そこに旧友が尋ねてくる。どうやら主人公(OMORIと姿形がよく似ているが、違う名前がつけられる)は昔起こったある出来事を境にひきこもりがちになり、よく遊んでいた仲良しグループも解散同然になってしまったようだ。


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 これら二つの「現実の世界」と「幻想の世界」ではそれぞれ出てくるキャラやオブジェクトが共通している。ほとんど陰謀論的なまでの記号と象徴に溢れている。だがふたつの世界の間をつなぐ関係の糸は微妙にズレている。あちらで親友として出てくるキャラはこちらでも親友であることもあるし、あちらで親友だったキャラが不倶戴天の敵になっていることもある。

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ファンシーな幻想パート
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イヌを撫でることができる現実パート


 なぜ、二つの世界はおなじなのに違うのか。*10
 幻想の世界のほうも安穏と過ごせるユートピアであるかといえば、微妙に違う。裂け目のようなものがそこかしこにあり、そこからは恐ろしい魔物めいた眼が潜んでいる。その魔物は現実世界にも出現する。なにかが不穏である。この不穏さはどこからやってくるのか。それがこのゲームにおけるミステリーの核心となっていく。

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どこまでも追ってくる「眼」。凝視してくるなにか。


 OMORI はホワイト・スペースから幻想の世界へも現実の世界へも行ける。ただアクセスの方法が決定的に異なる。
 幻想の世界に行くには、設置してある扉を開くだけでいい。だが、現実の世界へ行くには特殊な手段を取る必要がある。自傷だ。ナイフで自分の胸を刺し抉る。かれにとって現実と向き合うことは、それくらいの痛みを伴う。だが、その痛みは序の口にすぎない。目をそむけていた”真実”を直視すること、視ること、自分を視ていた眼を見つめ返すこと、そういうことにこそ真の勇気を必要とする。

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 やはり、ここにも逃げ場などない。なるほど、OMORIは最終的にかれ固有の不安と向き合い、解決していくかもしれない。だが、それはかれの不安だ。わたしたちのは?

『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』、『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』――ゲームのキャラとして振る舞うゲームのキャラとして

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『OMORI』の主人公は現実をRPG的に捉え、RPGの戦闘のメソッドを用いて世界に抗していく。
 それをさらに意識的に行うキャラクターがいる。
『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』、そして続編である『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』の主人公だ。

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通称 Milk-chan


『Milk〜』シリーズはアドベンチャーとして特異な語りの構造を取っている。
 基本的には、主人公である少女(ゲーム内で特定の名は与えられていないが、ファンたちからは Milk-chan と呼ばれている)の一人称で語られる。なので彼女の語り(思考)は地の文でもある。
 じゃあ、プレイヤーはこの主人公の視点に憑依して進行していくのか、といえばそうではない。
 プレイヤーは主人公によって創造され、呼び出される、一種のイマジナリーフレンドとして登場する。そして主人公からは Reader 、すなわち読者と呼ばれる。なぜかといえば、主人公は彼女の世界を「ビジュアルノベル・ゲーム」として捉え、そのように振る舞うからだ。

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 プレイヤーは彼女によって創造された存在ではあるけれど、彼女自身の意のままになるとはかぎらない。途中で出てくる選択肢はプレイヤー自身の意志によって選ばれる。その選択には主人公には不快に響くこともある。一作目となる『Milk inside〜』のほうでは、あまりに主人公の耳に痛いことばかり選択していると、「別のにする」といわれて Reader =プレイヤーの存在は抹消され、ゲームオーバーになってしまう。


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 ゲーム画面に映るのは彼女の眼を通した世界だ。赤い。赤と黒のみで染まっている。彼女はある出来事をきっかけに世界が赤く見えるようになったという。彼女の家にはおそろしい怪物が棲んでおり、彼女の腕に毒を打ち込んでくる。街に出るとクマが闊歩していて、スーパーマーケットを行き交うひとびとはすべて異形の怪物だ。この離人感。

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本作における他人はすべてモンスター


 プレイヤーは彼女に助言を与え、歪んだ認知をメタ視点から是正したりしなかったりしていく。彼女もまた OMORI のように過去の真実を直視するのが怖い。だが、『OMORI』のプレイヤーはあくまでプレイヤーとして一種膜を隔てた存在としての OMORI に接していく一方で、『Milk〜』シリーズでのプレイヤーは主人公の一部であると同時に別個の他者として彼女に直に接し、関係を育んでいく。彼女の不安はあなたの不安でもあるが、同時にあなたの不安ではない。あるいは、あなたの不安は彼女の不安かもしれない。
 それはまるでミルクが入った袋の中にミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルクが入った袋の中に入ったミルク*11




 主人公は母親のいいつけでミルクを買いに、ひさしぶりの外出をする。そして、スーパーマーケットでミルクを買い、家に帰る。これが『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』のプロットのすべてだ。『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』は前作の帰宅直後から始まる。ちなみに二作目のOPでは serial experiments lain感あふれるアニメーションで前作のあらすじを描いてくれる。




 主人公は就寝前に薬を服む必要があったのだが、急な不信感に見舞われ、「この薬がもたらしてくれる眠りは私の欲しい眠りじゃない、偽物だ、ぜんぶ偽物!」と発作的に薬を捨ててしまう。そうして、Reader であるプレイヤーを再び呼び出す*12。その説得に促されて彼女は薬を服み*13、床に就こうとするのだが、寝る前に整理しようとしていた思考がホタルとなって*14部屋じゅうに散らばって隠れてしまう。

 彼女はホタルをすべて回収するまでは眠れない、といいつのる。

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"Take control"することは彼女にとって重要な強迫観念だ。


 プレイヤーは彼女の部屋のオブジェクトをひとつずつあらためてホタル探しに協力することになる。
「今度はポイント&クリック・アドベンチャーね」と彼女はいう。
 ポイント&クリック方式のアドベンチャーゲームは日本ではあまり馴染みがないが、海外では特にPCゲームの分野では現在でもそこそこ勢力をもっている。*15日本で馴染みのあるタイトルだと『ポートピア連続殺人事件』や『クロックタワー』シリーズなどだろうか。いわゆる脱出ゲーム系もこの範疇に入る。室内に存在するオブジェクトを主にマウスのカーソルなどで指示(クリック)して調べ、必要なものや情報を拾い集めていくジャンルだ。
 プレイヤーは使われていないパソコンや壁に貼られたメモやノートなどをクリックし、これはなんなのかと主人公に尋ねる。主人公はそのものの来歴について語り、それを通して自らの過去にも触れる。
 繰り返すが、このゲームにおけるプレイヤーは主人公によって想像され、主人公にしか認知されない存在だ。

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助けてあげてください。


 ケンダル・ウォルトンはフィクションへの没入感を「ごっこ遊び」と形容した。ゲーム研究の分野では「魔法円に入る」*16ともいわれる。架空の物語であると認識しつつ、人はその架空の物語に感情移入し、泣いたり笑ったりできる。
 本を開く、映画館に入る、イヤフォンを耳に入れる、ゲーム画面を立ち上げる、それらはすべて「魔法円」に入るための儀式だ。特にゲームはジャンルや作品ごとに固有の画面様式を持っている。たとえば、『ドラゴン・クエスト』には誰でもひとめで「ドラクエっぽい」と感じる画面の感触があり、メトロイドヴァニアと呼ばれるジャンルには一定の共通したシステム*17がある。
 本シリーズもそうした様式に従っている。『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』も『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』もビジュアル・ノベルっぽい画面を取っている。
 それは本シリーズがそういうジャンルであると同時に、主人公が今見えている世界がそういうジャンルであると認識しているからだ。彼女は狂人なのだろうか? 広義にはそうかもしれないが、違う。彼女は自分が「ごっこ遊び」をしていることを認識している。彼女はしばしばプレイヤーに対して「あなたは私が作り上げた存在だ」というメタ発言をする。
 メタ認知療法がしばしばセラピーの分野で行われているように、彼女は世界をフレーミングし、自分を客観視できるイマジナリーフレンドを想像することで、自己セラピーめいた行為を働いているといえる。
 しかし、繰り返すが、この想像されたイマジナリーフレンドとはこのゲームにおけるプレイヤーのことだ。あなたにはあなたの人格がある。主体性がある。自由意志がある。

 ほんとうに?


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 ミステリとは過去を掘り起こし再現することを目的する物語の形式だ。ポイント&クリック・アドベンチャーもそれに似ている。ものを通して呼び覚まれる記憶が、過去がある。それはジャンルとしての一つの力学であり、その強制力から逃れることはできない。
 あるジャンルに身をゆだねるということは、ストーリーテリングの暴力性に晒されることでもある。そのジャンルの様式に従ってあなたは思考せねばならず、行動せねばならない。
『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』の主人公はその罠にハマり、忘れたがっていた過去に眼を向けるはめに陥る。
 過去を反芻するのは危険だ。苦い経験を噛みしめることはうつ病へと直結する。*18眼をそらしたがっているのはそらしたがっているだけの理由がある。本当にその過去は掘り出すべきなのか。本当にその真実は明かされるべきものなのか。
 その是非を決めるのはあなたではない。それが語られている場所のジャンルであり、様式だ。そうしたメカニクスに逆らう作品*19がしばしは「アンチ○○」と冠されるのは、逆説的にジャンルの重力の強力さを物語っている。

 ゲームであることの最大の枷とはなにか。ゲームであらねばならないことだ。かれらはもしかして、語りたいトピックをゲームを通して語っているのではなく、語りたくないトピックをゲームを通して語らねばならくなっているのかもしれない。他人の不安を追体験させられること。ゲームはあたかもその選択はあなたの自由意志による選択であり、その物語はあなたの欲望によってもたらされたと語る。
 ほんとうに?
 ほんとうに、あなたはその物語を見たかったのか?




 自分という人間の殻の外にいる自分を想像しながら、でも同時に自分であることには変わりない。ばかばかしい、牛乳の袋の外に牛乳があるようなものだ。


 ――『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』



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『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』の終盤、あなたは彼女に少し外に出て、空気を吸うように促す。出ると、*20彼女の頭上には真っ赤な空の中心で巨大な円形の空虚が口を開けている。すべてを飲み込む貪婪な黒い太陽が。あなたをどこまでも追いかける瞳が。

 あなたの空にもあるはずだ。






 

*1:https://screenrant.com/best-video-games-about-mental-health/

*2:https://www.nytimes.com/2019/03/24/technology/personaltech/depression-anxiety-video-games.html

*3:https://twitter.com/earthbound64/status/1413545531914268677

*4:https://www.engadget.com/2018-04-04-mental-illness-indie-take-this-kate-edwards-mike-wilson.html

*5:当該の開発者は入院したことをウィルソンに知らせていなかった。パプリッシャーに心配をかけたり、弱みを見せることを恐れていたのだ。

*6:『CUPHEAD』の開発陣があの狂気の満ちた作品の費用を捻出するために実家を抵当に入れていたのはあまりに有名な話だ。自分のせいで両親がホームレスになるかもしれない、というのは大変なプレッシャーだったに違いない。

*7:『OMORI』もそうだ

*8:インディーゲームにおける最大の販売プラットフォームである Steam では年に(AAA級のタイトルを含めて)8000本以上の作品がリリースされる。一本あたりの平均価格は5.99ドルで平均売上本数は2000本。一タイトルあたりの売上は12000ドル程度ということになるが、ここからさらに steam が3割のショバ代をさっぴいていく。https://www.4gamer.net/games/999/G999901/20200107024/

*9:「僕の広大なさみしさに見合うのは、もうパタゴニアパタゴニアにしかない……」ブレーズ・サンドラール『シベリア横断鉄道』

*10:おもしろいのは、現実パートと幻想パートのどちらでもRPG的な戦闘が発生することだ。だが、重みが違う。幻想パートで主人公はナイフを装備し、それで敵を切りつけていく。だが、それで誰かが死ぬことは(一部を除き)基本的にはない。ところが現実パートでナイフを誰かを斬りつけると一撃で相手が倒れ、「そんな危ないもん振り回すなよ!!!」とドン引きされる。

*11:ところで「牛乳が袋(bag)に入っているってどういうこと?」と思われる向きがあるかもしれない。これは本作の開発者がロシア出身であることと関係がある。東欧の一部やイスラエル、インドなどではミルクは紙パックやプラスチック容器ではなくて、ビニール袋に詰められて販売されている。アメリカ人が steam のレビュー欄かなにかで「バッグでミルク売ってんだなー」と驚いていた。

*12:呼び出せるのは一日一回までというルールがあるらしいのだが、そのルールを破る

*13:「(君は変わっていないんだね)」「どういう意味?」「(きみはひとりになることを恐れている。この不安が痛みを強くする)」

*14:最初はゴキブリだったのだが、彼女がゴキブリは嫌いということでホタルになる

*15:2021年のタイトルだと『Twelve Minutes』や『HAPPY GAME』あたり。

*16:ケイティ・サレン&エリック・ジマーマン

*17:エリアごとに区切られたマップなど

*18:「心理学者のスーザン・ノーレン=ホークセマは、反すうはうつ病の中心的な問題となる不適応な認知パターンであり、可能な限り止めるべきものだと考えた」『なぜこころはこんなに脆いのか 不安や抑うつ進化心理学

*19:たとえば、真実を見ぬきながら、犯人を哀れんでかばおうとして別の解決を捏造する名探偵。

*20:なんかポーランドだかロシアだかウクライナだかにある有名なマンションらしい

2021年の新作ベストゲーム10+やった新作+良かった旧作

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あけおめ。
とりあえず、2021年のまんがと映画とゲームのベスト記事を出したいとおもったのですが、このうち早めに出すことの公益性が高いのはゲームだなと判断したのでゲームからやります。ほら、まだ steam のセールやってるしね。
以下、「2021年に steam で正式リリースされたゲーム」と「2021年に邦訳されたゲーム」は新作扱い。


新作ベスト10

1.ENDER LILIES

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 実はまだクリアしてません。数時間やった時点でもうこれベストでええやろって気分になり、ベストになりました。
 いわゆるメトロイドヴァニア。世界観はダクソ風味で戦闘の難易度もそれなりに高い。でも理不尽に高すぎないあたりがちょうどいいというか、こういう洗練されたレベルデザインがイマっぽい。
 でもなんといってもすばらしいのは物語と世界観ですよね。
 主人公がほとんどなにもわからない状態で怪物だらけの世界にほっぽりだされるところからスタートするわけですが、冒険を進めていく過程でだんだんと世界やそこにいたひとびとの物語の断片が提示されていく。だいたいは悲劇的でありつつも、人と人とのつながりが確かに感じられて、たいへんに切ない。すごいエモい。ぎりぎりソウルライクといってもいいようなゲームだけれど、世界観のテイストはどちらかといえば『Momodora』や『Minoria』に近いでしょうか。クリーチャー化したシスターとかがガチで殺しにくるやつ。
 パブリッシャーの Binary Haze Interactive は、『ルーンファクトリー』シリーズなどをてがけいた故ネバーランドカンパニーの元社員が立ち上げた会社で、インタビューなどを管見するかぎり、結構開発にもコミットしているようですね。本作はそのパブリッシングタイトルの第一作。ドワンゴから派生した Why So Serious(『NEEDY GIRL OVERDOSE』とか) などと同じく、今後の日本のインディーゲームシーンを占っていくパブリッシャーとなっていくのではないでしょうか。

2.Inscryption

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 今さらなんか言うことある? ってくらい去年バズったデッキ構築型カードゲーム&アドベンチャー
 そもそもわたし、「ゲームマスターや対戦相手がゲームの盤外にいて、そのことを常に意識させられる」系のビデオゲームに弱いんですよね。そんなジャンル化するほどあったっけ? って、まあ、ほとんどなくて、今想定してるのはステッパーズ・ストップの『くもりクエスト』なんですけれど。
 で、インスクリプションでは「盤外にも世界があること」がフレーバー程度ではなく、ちゃんと演出的にも効いています。たとえば、カードゲームで対戦するときのライフはなぜか歯をトークンとして用いているわけですが、ということは切羽詰まったらペンチで自分の歯を抜くとライフを増やせる!
 
 正気か? 

 ダークでウィアードな雰囲気とゲーム性とメタ要素が見事にからまった白眉なシーンです。
 そして、対戦相手に一個の人格(まあストーリー的には人間ではないんですが)があることがこれまたストーリー的に大変重要になってくる。飛び道具を使っているようでいて、「ゲームのキャラにどう親しみを持たせるか」という難問を巧みに攻略していて、ダニエル・ミューリンズはインディー随一のストーリーテラーなのだなと再確認させられました。そんな、やろうと思えばいくらでもウェルメイドに作れる手腕を持った人物がよりによってこんなヘンテコで噛み砕きにくいお話を作るのが、作者の自意識が直に反映されるインディーゲームの魅力でもあるといいますか、これが楽しみで steam セールで無限にゲーム買って一生積んでるんだよなあ、というおもいです。積むなよ。はい。
 ミューリンズはほんとうに変な自意識を持ったゲーム開発者なので、そこが能く現れている前作 the hex もぜひ翻訳してもろてミューリンズの変さを日本語圏にも知らしめたいところですが、どうですか、日本のパブリッシャーのみなさん?

3.Death's Door

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 死者の魂を刈り取って捕獲するおしごとをしているカラスさんが飛んだり跳ねたり剣を振り回したりします。あとなんか人間の身体を乗っ取って歩行するようになったイカと深夜にデートしたりとか。ハイ、このコンセプトの時点で優勝。V9。永遠に不滅です。
「死神ゲーにハズレなし」が常識となって久しいインディーゲーム界隈ですが、本作はわけても傑作です。
 ジャンルとしてはゼルダライクを軽く3DにしたようなアクションRPG&パズル。謎解きそのものはオーソドックスで間口が広い*1つくりで、戦闘も心地よい歯ごたえがあるくらい。あの 『Titan Souls』*2ディベロッパーだけあって戦闘まわりについては警戒していたのですが、ボスの行動パターン把握もさほど難解ではなく、マップ上に適度に配置された回復ポイントのおかげで探索のストレスと達成感がうまい具合にバランスされています。
 ややローポリめのかわらしくもダークなビジュアルも見どころで、そこで語られる生と死、そして労働の物語はジャンル相応にしつこくない程度でありながらも、たしかにプレイヤーの心に余韻を残します。ボス戦ごとに倒したボスのお葬式をやるゲームって他になくないですか?
 Inscryption と同じく Kakehashi Games がてがけた翻訳も見事。2021年度の同社は Inscryption、Death’s Door, Eastward, There Is No Game: Wrong Dimension, My Friend Pedro: Ripe for Revenge, GenesisNoirといったタイトルをてがけており、もはやこの会社が翻訳したゲームを買っておけば翻訳の質もゲームのクオリティも間違いないという域です。Half-life: Alyx の翻訳も任せられた経験もありますから、もはや Valve 公認といっても過言ではない。

4.Milk outside a bag of milk outside a bag of milk

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 ロシア人の書く憂鬱な文学はもはや紙の上には存在しません。その亡霊たちの主戦場はネットとなり、そしてゲームとなりました。
 メタフィクション的な手法は、ときに基底現実の優位性を無意識の前提として機能します。その前提はもはやわたしたちの時代精神にはそぐわない。『マトリックス』の最新作がなぜあんなにも色褪せてみえたのか。それは、2020年代のわたしたちがもう「現実」の優位性など肌感覚で信じなくなってしまったからです。
 かなしいことにウォシャウスキーズを始めとしたほとんどのクリエイターたちは、その事実に気づいていません。この地上で真理に至った作り手は、そう、Nikita Kryukov、本作の開発者のみです。
『Milk〜』シリーズにおけるプレイヤーは、主人公によって想像された存在であると同時に主人公とは別個に実在もしている。あなたはゲームと基底現実のどちらの世界にも属していると同時に属していない。ではどこにいるのか、といえば、『Milk〜』の世界しかいる、としかいいようがない。
 筒井康隆がかつて主張した超虚構はここにおいて、といいますか、ここにおいてのみ完成しました。
 twitter、note、instagramYouTubetiktok、ありとあらゆる紙の書籍、映画館、テレビ、そういった場所で与えられる気分はすべて偽物です。わたしたちのほんとうの気分はここにある。ここでだけ、わたしたちは安らかに眠ることができる。

proxia.hateblo.jp


5.Hades

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 ローグライトはストーリー性に薄いもの、という固定観念を巧みなストーリーテリングによって打破したエポックな一作。
 その方法がローグライトの周回の要素を「道中集めたアイテム(ポイント)をキャラに貢いで親愛度を高める」という、どこぞの十二股(十六股だったっけ?)RPGみたいなシステムをもってしていて、思いつくんだろうけど、よくやったなあ、という印象。それが無理やり出ない印象なのは、ベースがギリシャ神話というそもそもが断片的な物語であり、ゲーム内でもキャラがひとりひとりちゃんと立っているからでしょうか。
 難易度はそこそこありますが、周回によるスキルアップや武器の取替によってハードルがかなり下がりますし、逆に高難易度を求める向きには公式の縛りプレイ機能(かなり詳細に各要素の難易度をいじれる)も用意されています。
 イヌを撫でられます(ケルベロス)。

6.OMORI

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 待った。とにかく待った。待っただけの甲斐があった。
 といっても、そこに至るまでにはいろいろありまして。九月の Playism のショーケース番組が Vtuber?のなんかのゴタゴタで潰れてしまい、まあそれ自体は別にどうでもよかったのですが、そこでアナウンスされるはずだった OMORI の日本語版の進捗報告がどこかへと消えてしまい、リリース予定が未定のまま更新されなくなったことにブチキレたわたしは十一月の終わりごろに原語版を勢いだけにプレイしました。で、クリアしてよかったなあ、と噛み締めていた十二月上旬になんの前触れもなく日本語版がリリースされました。よかったね。まあ、よかったんですけど、なんだろうなこのなんともいえない仄暗い気持ちは……。
 内容の話をしましょう。といっても、一歩踏みこんだらネタバレポリスと化したファンたちから袋叩きにされるのでなんもいえねえな。
 実はこれ、Milk outside a bag of milk outside a bag of milk と似てるんですよね。いや、鬱病メンタルヘルスを扱っているから、ってだけなくて。
 Milk outside a bag of milk outside a bag of milk の主人公は自分のいる世界をあるジャンルのゲーム(この場合はビジュアルノベル/ポイント・アンド・クリック・アドベンチャー)として捉えていて、プレイヤーの前に展開される画面もそういう彼女の世界観に沿ったインターフェイスで表現されています。
 OMORI はそれに似ているというか逆というか、(J)RPG的な様式を通して主人公のトラウマに立ち向かっていくんです。たとえば、トラウマの化身を前にした主人公は、特殊な状態異常にかかってろくに行動ができない。そこでただ「たたかう」とか無闇に選択しているとダメで、「おちつく」みたいな自分の心をなだめるコマンドを選ぶことでゲームが進行していくんです。そういうセルフヘルプの過程がRPGの戦闘画面で展開されていく。
 OMORI は空想の世界と現実の世界という二つの世界があって、主人公はそのあいだを行き来していきます。前者の世界ではいかにもRPG的な物語が繰り広げられて、戦闘でも主人公はナイフを振り回して敵を倒したりしていく。一方で、主人公は現実の世界にもいやいやながら参加していくことになります。そして、そこでもナイフを握って「RPG的な戦闘」を行うことになるのですが、いかにも強そうなヤンキー女に攻撃を加えると一発で勝ててしまう。そして、言われるのです。「ナイフで切りつけてくるなんて、おまえ、頭おかしいんじゃないのか!?」
 すなわち主人公はRPG的な世界とインターフェイスを持ち越したまま現実を生きている人間であるとも解釈できて、そうすることで彼は現実から距離をとっている。でも、そうした逃避的なフィルターのまま動くと現実と齟齬をきたしてしまう。そこをどう乗り越えていくか、という話であるようなないような。

 RPGツクール系最後の傑作だと思います。おすすめです。

7.ウイニングポスト9 2021*3

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 アンシャスオーバー(芦毛、2014年生 主な勝ち鞍:さきたま杯京都牝馬S函館スプリントS


 2035年のインタビュー。ネマホースパーク北海道(静内)にて。



――デッちゃんのことならよく憶えています。わたしの一歳下でね。とねっ子のころは華奢で儚げで、あんな仔が走るのかねえ、とかハウスのおばさま(ネマポーターハウスのこと。アンシャスオーバーの母の半妹)がたがよく噂してましたよ。
 この世界でひとつ違うとアレですし、私はオープン馬になったのも三歳の暮れといった調子でしたから、トレセンに移ってからはほとんど会う機会もなかったです。あの仔はほら、パッと出てきて三冠牝馬でしょう? エリザベス女王杯まで穫っちゃって。10年ぶりくらいじゃなかったかな? ブエナビスタ以来の四冠牝馬だって世間は大騒ぎ。さえないオープン古馬からすれば、もう別世界の住民です。
 嫉妬というか、憧れというか……うーん、同じ牧場の出で、しかも牝系も同じ(グリトグラ系)ですし、見上げて応援する気持ちしかなかったな。スーパースターですよ。
 もちろん有馬はキングカッターを打ち負かしてほしくてテレビで観ていました。ダイワスカーレットや(ネマ)クインさんの居たときみたいな牝馬全盛の時代がまた来てほしいなって。
 ほら、わたしら、(ジェンティル)ドンナさんやブエナビスタの走ってた時代も観てないじゃないですか。有馬や凱旋門牝馬が勝ってた時代があったんですよ。って、それは記者さんのほうが詳しいか。へえ、現地で観戦したの? いいなあ……。


 まあでも……なんの話でしたっけ?


 ……そう、18年の有馬記念
 キングとデッちゃん。牡牝の同年三冠馬同士の直接対決だって、派手に盛り上がりましたよね。パドックでもデッちゃんの深い黒鹿毛がつややかに輝いてて、きれいだった……。


 それがあんなことになって。


 あれから勝てなくなって、「やっぱり牝馬は牡馬には勝てない」「デッドサイレンスは三歳で終わった」なんてマスコミに陰口叩かれて、特にコースポなんて……すいません、記者さん、コースポの方でしたっけ。
 でも、大阪杯なんて2着だったんですよ。それもキングカッターの2着だったから、ある意味しかたなかったんでしょうけれど。
 やっぱり決定的だったのは、19年のヴィクトリアマイル。サニーマニアに負けたでしょう。
 直前までずっとGIの勝ち鞍がなかった穴馬ですよ。それで、「牝馬限定戦でも勝てないようならデッドサイレンスはもう引退すべきだ」なんて言われて。そう、コースポが。
 そこからはGIIでもボロ負けしだして、わたしもああもうダメなのかな、って勝手にさびしくなっていました。
 そしたら11月にエリザベス女王杯連覇でしょう。大復活。さすがです。あれは感動したな。
 そのころの私ですか? ダートと芝に交互に出てはGIIIでやっと勝ち負けって感じでした。やっぱりアレとは全然違う世界の馬(ひと)ですよね。デッちゃんはずっと牝馬代表として王道路線でやっていくんだって思っていました。


 そしたら翌年のフェブラリーSに来たでしょう。
 え? ダート? って、まあ、記者さんもびっくりしましたよね。私たちもびっくりです。
 私の陣営の人たちも直前まで「フェブラリーで勝ったら次はドバイだ」なんて冗談めかしてましたけど、すべりこみでデッドサイレンスが登録したと聞いて固まってました。モノが違うのはみんなわかってたんです。
 でも、世間の人はそんな雰囲気なかったんじゃないかな。ずっと芝でやってきた馬がいきなりダート挑戦ですからねえ。ダートの馬たちも怯えつつも負けないぞって意識だったんじゃないかな。私は芝もダートも半端でしたから、ダートにそんな思い入れないですけれど、それ一本の馬たちには矜持っていうものがあります。
 で、府中に行くと、案の定デッちゃんにやたらつっかかってる馬がいる。
 ゼニマックスでした。気持ちはわからないでもないかなあ。目の上のたんこぶだったゼニハメハちゃん(ネマゼニハメハ。2019年度ダート代表馬。ゼニマックスの半姉)が引退して、やっと自分の時代が来ると思ってたら四冠馬がテリトリーに乗り込んできたんですからね。四歳といっても二月の四歳でしたから、仔どもですよ。
 なんて言いがかりつけてたかな。芝で勝てないからってダートに来るな、とかそんなことです。
 デッちゃんは澄まし顔で馬耳東風といいますか、完全にゼニマックスを無視していましたから、それがますます気にさわる。
 デッちゃんは昔からぶっきらぼうなところがありました。そこがまた誤解というか、カチンと来るんでしょうね。話せば気配りのできる優しい仔だとわかるんですけど。
 レースの直前でしたし、お互いに気が立っていた。
 見るに見かねて年長の私が仲裁に入りました。といっても、猛るゼニマックスをなだめただけですけれど。
 で、ようやく落ち着いたかなーってころになって、デッちゃんがぽつりと「あたしも来たくなかったよ、こんな煙っぽい場所」と漏らしちゃって。
 これでゼニマックスだけじゃなくて他のダート馬全員敵に回しました。私もちょっとカチンときた。


 それで、ぶっちぎりに勝っちゃうんだからなあ。


 敵わない、とあらためて思いしらされました。


 でも、あのフェブラリーステークスでの2着が私のベストレースだった。私なんて、ゼニマックスにも先着できる馬じゃなかったんですよ。でも、デッちゃんの背中を必死で追いかけていくうちに……なんというか……自分以上の力が出せたっていうか……たぶん、あのレースでの私が自分史上最速の私でしたね(笑)。
 なにより楽しかった。私、走るのそんなに好きじゃなかったんです。ダートはね、特に。
 でも、あのフェブラリーステークスだけはめちゃくちゃ楽しかった。爽快だった。
 あんまりに楽しかったから、レース後に圭太くん(戸崎圭太騎手)と菊川さん(菊川順平調教師)にまっさきに言っちゃいましたもん、「ドバイ出ましょう!」って。2着だったのに。気持ちよさで頭おかしくなってた。
 たぶん、デッちゃんといっしょに走れたおかげだと思います。あの馬体がね、砂煙に映えるんですよ。とてもきれいなんです。そこは彼女がダートに来てよかったなって思いました。
 あれから、一緒に走る機会はなかったけれど……。


 去年ぐらいまでアメリカにいました。引退後にネマファームのアメリカ牧場で繁殖にあげられたんです。ふだんならGI勝ちの馬じゃないと牡も牝もネマの牧場には残れないんですけど、当時は米国牧場ができたばかりで、牝馬も不足してたらしいですね。自分ではダートそんなに得意な印象ありませんでしたけれど、いちばん大きい勝ち鞍がさきたま杯ですからね。ダメもとって感じ。
 まあ、やっぱり蛙の子は蛙ですよ。アメリカでも私の仔はGII止まりでした。それでもあの仔たちを誇りに思っていますけれど。
 デッちゃんは繁殖でも牝馬三冠でしょう。母娘で三冠ってどれだけすごいんだって話で。
 いや、帰ってきてからは会ってません。
 あっちはまだ繁殖やってて、こっちはホースパークで接客業ですからね(笑)。
 最後に話したのはアメリカ行った直後ぐらいだったかな。デッちゃんがアメリカ遠征に出ていた時期ですね。
 珍しくあっちから近寄って話しかけてきたので、なにかな、って思ったら「ありがとう」を言い忘れていたとか言い出して。
 なんのことかと思ったら、あのフェブラリーステークスのことでした。絡んでくるゼニマックスがとっても怖かったんですって。
 女帝然としてたあの仔から「怖かった」なんて言葉が出てくるなんて想像もしなかったから、あのときは面食らっちゃったけれど……私も「ありがとう」って言い忘れてたな。
 記者さん、この後デッちゃんにも会うんでしょう? だったら伝えといてもらえません? 
 アンシャスオーバーが「フェブラリーステークスのときはありがとう」って言ってたって。


 ああ、ドバイ? ボロ負けでしたよ。知ってるでしょ。コースポはやっぱり、いじわるだなあ(笑)

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8.Exo One

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 あなたは完全なる球体であり、転がることもできるし、重力に反発して浮くこともできる。
 完全なる球体であるあなたはハイレゾで表情豊かな各惑星をめぐり、青い光を放つ柱を目指す。
 それだけだ。
 一応、背景のストーリーめいたものはある。
 だが、重要なのはあなたが完全なる球体であること、そして、星々の風景が美しいこと、そのふたつだけだ。
 要高スペックPC。


9.Deathloop

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 わたしは死ぬほど3D酔いしやすい体質で、特にFPSの3Dだと一時間もしないうちにゲロゲロに酔います。おかげで Outer Wilds も Hal-Life:Alyx もろくにできやしない。
 それでもその一時間ずつを二十数日積み重ねて遊びつづけるくらいには Deathloop は楽しかった。まあ、さすがにIGN本家の10点満点は高すぎだとおもいますけれども。
 ループしていくうちにちまちま情報や武器やスキルを集めていくのは愉しいですが、ある程度の強さになると後は常に地形や敵の配置が固定された狭いマップをあくびしながら回っていくだけになるので、明確に中だるみはありますね。幸いなことにそこまで長く続きませんが。
 しかし、他にないファニーでユニークやノリやキャラに溢れていて、そういう世界にダイブするのは愉しい。同社の最高傑作である Dishonoredシリーズが肌に合わなかったぶん、なおさらそう感じられるのかもしれません。
 そういえば、昨年は英語圏でゲーム・映像の両界隈でループ(SF)ものが目立った年でありました。映画の話は映画のランキング記事でやるとして、ゲームの新作では Twelve Minutes、Loop Hero。DLCでは Outer Wilds の Echoes of the eyes も出ましたね。一口にループものといってもジャンルや語り口が多様化していて、ループという現象をどう活かすか、というのに各自の知恵と個性が出ていておもしろい。ちなみにわたしのイチオシは旧作(2020年発売)になりますが、House です。この話はあとでしましょう。


 

10.戦場のフーガ

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 あれは十年くらい前の日本SF大会だったとおもいます。ちょうど『ソラトロボ』が出るか出ないくらいのタイミングです。サイバーコネクトツーのブースが出店されていて、なにがあるのかな、と覗いたらなんとリトルテイルブロンクスシリーズの次回作のイメージイラストみたいなのが展示されていたんです。そこには『ソラトロボ』や『テイルコンチェルト』のほがらかな世界とは隔絶した陰鬱な情景が描かれていました。
 民族浄化を思わせる処刑の図、一様に暗い表情の戦時下のひとびと……。
「次のリトルテイルブロンクスはこれになります」とサイコネのひとは誇り高く宣言しました。

 それから幾年が経ち、サイコネはジャンプキャラゲーの開発に定評のある企業として地位を確立し、かつてケモノに燃やした情熱などすっかり忘れたように見えました。
 しかし、それはあくまでマーケット上でのこと。かれらはけっして初心を忘れてはいませんでした。裏(ネット)では高名なケモノ絵師たちを密かにかきあつめケモZINEを定期刊行するなど、一企業としてはとても正気の沙汰ではな……勇気ある活動を行い、”力”を蓄えていたのです。
 そして、満を持してかれらは長年のパートナーであるバンダイナムコに提案しました。「ケモノゲーを作りましょう!」 
 バンナムは言いました。「ケモは売れないのでやめてくれ」
 ふつうのディベロッパーならそこで諦めたでしょう。なにせ天下のバンナムのご意見です。「ケモは売れない」というのは何も感情論や印象ではなく、これまでの実績が物語っていた厳然たる事実だったのです。
 ですが、サイコネはふつうのディベロッパーではありませんでした。
「じゃあ、自分たちでパブリッシャーもやります」

 そうした心意気でできあがったのが、この『戦場のフーガ』です。

 ケモゲーのサイコネ、復活。

 この朗報に以前よりコネクションを築いていた各ケモ系クリエイターも馳せ参じました。ゲーム内のゲストイラスト寄稿陣のラインナップをごらんなさい。

『天穂のサクナヒメ』のキャラデザで一躍名をあげた ovopack こと村山竜大。
 後期2000年代からすでに伝説と讃えられていたたとたけこと外竹。
 あのコミカライズ版『ゼルダの伝説』の作者にして歴戦の古強者、姫川明輝。
「かわいい」と「エロい」は両取りできることを証明した現代のアインシュタイン、リコセ。
『東京放課後サモナーズ』の特攻隊長、樹下次郎……

 とまあ、十年二十年前から斯界ではトップティアーに属していた神たちが集結したわけです。まるで十月の出雲大社の有様です。
 いまいちピンとこないという方に喩えるなら、今週のジャンプに鳥山明荒木飛呂彦武井宏之が同時に掲載してされている、そのくらい衝撃的な豪華さでした。

 そんなサイコネとケモ絵師界のありったけを込めて制作されたゲームにおけるリーサルウェポンが、

「4歳〜12歳のいたいけな少年少女を弾(生贄)にして発射される大砲」

 だとは、誰が予想したでしょう。
 っていうか、どうしたらそんなこと……いや、似たような兵器は『ブレス・オブ・ファイア4』でも見たけどさ。主人公側が使う兵器じゃないってば。

 わたしたちはおもいました。

 サイコネは狂ってる。

 でも、ついていこう。
 
 一生、サイコネについていこう。

 そう、誓ったんです。

やったゲーム(新作編)

だいたいわかった

Happy Game

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 これはおもしろかった。かわいいウサギのくびをちょんぱしたり、でかいウサギにまるのみされそうになったりします。

TOEM

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 これもおもしろかった。写真撮影アドベンチャー。どっかのまんがで見たような主人公を始めとして、とにかく出てくるすべてのキャラクターがキュート。写真撮影ゲームだけあってゲーム内で取れる写真まわりの機能がいたれりつくせり(SNSに直にアップもできるよ)。

Kaze and the Wild Masks

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 未クリア。これもおもしろかった。正統派のプラットフォームアクション。ウサギ?みたいな獣人をあやつって、いろんな動物の精霊の力を借りてつきすすむ。

Skul: the hero slayer

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 未クリア。これもおもしろい。ローグライトアクション。勇者たちによって魔王をはじめとした魔王城の住民たちが囚われてしまったので、唯一難を逃れた最弱のスケルトンがたちあがる物語。
 頭をすげかえることでさまざまなスキルを使えるようになる。ややむずめの印象。

qomp

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 ちょっとおもしろい。家庭用ビデオゲームの始祖、PONGの世界から逃げ出したボールが主人公のアクションパズル。基本的にできる動作は「跳ね返る」ことだけで、これが意外に奥深い。ビジュアルや音楽面でもがんばっているけれど、パズルアクションとしてはややバリエーションに欠けるか。

Cucchi

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 微妙におもしろい。イタリアの大御所アーティスト、Enzo Cucchi*4の公式イメージ・アルバム的ゲーム。クッキの名作絵画にイマジネーションを得て造られた世界を探索して「眼」を集めていく。油断してると頭のでかいゴッホとか出てくるぞ。

1f y0u’re a gh0st ca11 me here!

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 微妙におもしろい。幽霊からかかってくる大量の電話を同時に受けて正しい部署へつないでいく聖徳太子的電話交換手アクション。
 アクション部分もだが、世界観がやや独特でありつつも、意外に飲み込みやすくてキャラにも愛嬌がある。いかにも個人制作のアクの強さと愛され感が同居したゲームですね。
 今のところボリューム的にも短くて電話交換アクションも忙しいだけで単調、といった印象だけれど、今後のアップデートでどんどん追加&強化されていく予定らしい。

Twelve Minutes

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 ループアドベンチャー。この手のものとしては初期配置からさほど動かないミニマルな作りが特徴。あと声優が豪華すぎ(デイジー・リドリージェームズ・マカヴォイウィレム・デフォー)。
 ヒッチコックキューブリックを意識しているそうで、まあたしかにそういう雰囲気といえなくもない*5のですが、おもしろいかっていわれると微妙なところがある。

Voice of Cards ドラゴンの島

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TRPGっぽさ」のおもしろみをなにか勘違いとしている。

World’s End Club

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 アンチ・デスゲームというコンセプト自体は意欲的で良い。だめな部分はそれ以外のすべて。 
 

A YEAR OF SPRINGS

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 日本在住の外国人(おそらく英語圏)が作った、日本を舞台にしてトランスジェンダーのリアルを描くアドベンチャー。サンリオっぽいかわいらしいイラストが特徴。現状ではめずらしい題材なので、プレイして損はないかも。
 ちなみに海外(WIRED)のレビューでは「あなたはこのゲームをやって『やっぱり日本って価値観が遅れてて野蛮よね〜』とおもうかもしれないが、我々欧米人もそんな変わんないぞ!」と力説しているのですが、裏を返せば欧米では日本は「そういう眼」で視られているということなんですな〜となります。
 ちなみに天皇に毒づくシーンがある貴重なゲーム。
 日本語はあまりこなれていませんが、最新作では結構自然になっていて、作者の語学力の向上がうかがえます。

Deltarune(Chapter 2)

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 おもしろい。おもしろいから、はやく残りのチャプター全部ちょうだい。

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 クッキークリッカーなんて昔のゲームじゃないかって? ハハハ、あなた、おもしろいこといいますね。ここ、steam じゃあ、クッキークリッカーはれっきとして新作ですよ。さ、いっしょに焼こうか。掘ろうか。召喚しようか。

アイドルマネージャー

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 それなりにはむちゃくちゃできるんだけれど、おもったよりむちゃくちゃができなくて、数世代前のGTAみたいな感触だな、とおもいました。

ビビッドナイト

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 一人でオートチェスを楽しめるのはデカい。それ以上でも以下でもない。わたしはそれで十分でした。

Loop Hero

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 ループ逆タワーディフェンス。よくデザインされたゲームだとは思います。あとは相性の問題です。

NUTS

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 自然公園でリスを撮影するゲーム。それだけだとややきつい。最近は撮影系のゲームが多いですね。

First Cut

drasnus.itch.io

 おれたちの『ブシドーブレード』が戻ってきた!!!!!!!!!今なら無料!!!!!!!!

ElecHead

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 電撃アクションパズル。よく練られたゲームだとはおもいます。

Dogs Organized Neatly

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 イヌがかわいいというだけで不毛なパズルゲームを延々やらされてしまう。

Road 96

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 独裁国家から脱出を目指すADV。Life is strange 2 といい、フランス人はなんでこういうゲーム作りたがるんだろうね。人との出会いが楽しく、それなり以上におもしろくはあるのだけれど、訳が一部プレイに支障をきたすレベルでダメ。

ZookeeperWorld(iOS

 Zookeeperです。

HoloVista(iOS

 写真撮影ゲーム。撮影対象が VaporWave……なかんじなのがおもしろい。

Mini Motorways

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 前作の方がおもしろい。

POKEMON UNITE

www.pokemonunite.jp

 MOBAはわるい文明。

クレヨンしんちゃん『オラと博士の夏休み』 ~おわらない七日間の旅~

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 キャラゲーとしては上出来なんだけどね。

探偵撲滅

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 清涼院流水に土下座してほしい。

桃太郎電鉄~昭和 平成 令和も定番!~

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 いっしょに遊んでくれる友人が二人以下のときに買うものではない。

まだ判断できない

Solar Ash

www.playstation.com

 Hyper Light Drifter の作者の新作。四ステージ目くらいだけど、これ楽しいのか????となっています。

Chichory: A colorful Tale

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 初めて二時間程度。昨年のインディー界ではトップクラスの評価を受けたアートアドベンチャー。いきなり鬱になって部屋に引きこもったウサギ(主人公の師匠)が出てきて、そのうつ描写のガチさにビビる。
 クリアの優先順位は高いけど、春くらいに日本語版が出ると聞いて少し迷っています。

Toodee and Topdee

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 チャプター3までクリアした。2Dプラットフォーマ―パズルの世界と、倉庫番パズルの世界を交互に切り替えてクリアしていくパズルアクションゲーム。いかにもゲームジャムでの企画から生まれた作品って感じ。今のところはスイスイ進めて愉しいけれど、これから難易度があがっていくんだろうか。

Valheim

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 サバイバルゲーム苦手な自分にしてはよく遊んだほうだが、まだ底が見えない。

FILMECHANISM

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 ワールド4か5までいってるはず。ステージの任意の状態を写真に取って保存することで、後で一回だけその状態に戻ることができるリコイル型パズルアクション。グラフィックやゲームデザインの丁寧さは ElecHead とに通じるものがある。一ステージごとが短くて、サクサク進む。でも、なんというのかな、こういうパズルゲームはたるくてあんまりやる気にならないんです。

NO LONGER HOME

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 30分で、ごめん、端境期の大学生のぼんやりとした不安や青春の蹉跌って興味ないんだ、って気分になった。

LIBLADE

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 2時間くらい遊んだ。おもしろい豪快剣戟アクション。おもしろいんですが、ちょっと今はほかにやるゲームがあるかな。

Let’s Build a zoo

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 遺伝子操作や違法建築や違法研究などで悪の動物園を目指す(善の動物園にもなれる)動物園経営シム。この手のゲームとしてはかなり難易度が低い印象。

DEAD ESTATE

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 MONOLITH とかみたいなひと部屋が狭い系のダンジョンで GUNGEON やる感じのゲーム。おもしろそう〜って買ってやってからあ、苦手だった、こういうの、と気づくのを繰り返している。
 ちなみに「圧倒的好評」の理由の大部分はキャラのセクシーさが占めてるっぽい。

Sable

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 20分くらいやって日本語版待ちと判断した。

The Artful Escape

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 今宇宙人にさらわれたあたり。

Cruelty Squad

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 あたしには Hylics なみに難解すぎたよ。

GenesisNoir

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 宇宙創生ジャズノワールハードボイルドパズルアドベンチャー。二時間くらいのところ。やりたいことはわかるんだけど、このレベルになってくるとゲームでやる意味ある……? と今のところはなっている。クリアすると評価変わるかも。

パラダイスキラー

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 だ〜か〜ら〜〜〜〜〜〜〜、3DFPSはゲロゲロに酔うから長く遊べないんだってば!!! これはとりわけ酔う。アートワークはめちゃくちゃすてき。

FANTASIAN(iOS

 今、坂口ゲーをやる体力がない。

Mon amour

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 Onion Games のゲームは毎回30分くらいでなんかもういいやってなる。

EVERHOOD

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 途中で致命的なバグにハマって数時間分のセーブデータがトんだのにキレてしばらく放り出してましたが、やっぱりやりなさおないといけないタイトルですよね。

DUNGEON ENCOUNTERS

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 一生判断保留したままなのではないか、という気がする。

Eastward

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 グラフィックがめちゃくちゃ美麗なRPG。こういう大作はどこかでがっつり時間をとらないと……がっつり……? いつ……?

ナビつき! つくってわかる はじめてゲームプログラミング

 つくれないのでわからなかった。

メトロイドドレッド

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 はいはい、ちゃんといつかやりますよ。

旧作(十分に遊んでおもしろかったやつだけ)

House

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 今年一番の掘り出し物。ループホラーアドベンチャー。呪われた家に住む少女を操って家族を悲劇から救う。家族それぞれの行動パターンは時刻によってちゃんと規定されていて、リアルタイムで特定の場所で特定の行動を取るようになっている。それをうまく管理して悲劇を避けましょう。限られた時間リソースで最大効率の行動を選ばないといけないので、妹を救おうとしたら母親が死ぬ、母親を救おうとしたら妹が死ぬ……といったジレンマが生じるのが悩ましい。
 グラフィックもボリュームもミニマムですが、その分、シャープな完成度を誇っています。
 ちなみにネコは殺さないほうがいいです。

3rd Eye

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 東方興味ない人なのですが、これはよかった。ビザールでキュートなキャラクターデザインと、エドワード・ゴーリーや『アダムスファミリー』に影響を受けたシナリオが魅力的。

I hate this game

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 全百面からなるアクション。クリア条件は画面左端に位置しているキャラを右端のドアのとこまでもっていくというシンプルなもの。しかし、これがまあ、メタネタの連続で、あの手この手でプレイヤーに謎をけしかけてくる。

Spec Ops: the line

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 だんだん助けてくれ、という鬱々たる気分にさせられていくTPSシューター。ロード画面のTIPSに「すべてはおまえのせいだ」と責められる経験は唯一無二。

Lonely: Mountains: Downhill

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 高難度ロードバイク山下りゲーム。わたしは自転車が嫌いなので、自転車乗りがひたすらミンチにされていく光景を眺めていると自然と笑顔になります。

stikir

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 ゲームが作れないゲーム制作者にゲームを作らせるアクションアドベンチャー。詳しくは前回の記事で。

a new life

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 二人の女性の出会いと別れを描く短編ADV。ちょっとしたメタ要素もあるよ。作者は前作 missed message. の劇中で『魔法少女まどかマギカ』の画像を引用していて*6、おそらく本作のメタ要素はモロにまどマギの影響を受けている。

the messenger

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 前半のある場所で詰まってしまって放置していたのを久しぶりにやり直したらあっさりクリアできました。
忍者龍剣伝』というレトロ激むずゲーにインスパイアされた忍者アクションゲーム(何系のアクションゲームかを明かすとネタバレになる)ですが、難易度はそこまで高くありません。
 ゲーム中盤で、文字通り世界が一変するあるしかけが施されているのがポイント。それと随所にほどこされたたちの悪いオタクノリジョークも笑わせてくれます。純粋にアクションとしても歯ごたえがあって楽しいです。発売年にクリアできてたら年度ベスト10に入れてたと思います。

クロノ・トリガー

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 去年はじめてプレイしました。時代相応だなと感じつつも、やはりオールタイム・ベストでありつづけるだけのパワーがあった。
 これをやっていたおかげで今年の RTA in Japan 2021 Winter のトップバッターを十全に味わえたのは僥倖でした。

Milky Way Prince: The Vampire Star

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ウテナ』などに影響を受けた恋愛ビジュアルノベル。正統派な恋愛劇ではなく、トキシックな関係を描くという点で目新しい。 
 けどまあなんつーか、お題目ほどにはおもしろくなかったといいますか、訳もひどかったし……あれから改善されたんだろうか?
 書いてから、あ、これあんま良くなかったじゃん、って気づきましたが、まあ書いちゃったもんはしょうがないのでそのままにしておきます。

Football Manager 2021*7

 100時間くらいやってウォルブスの監督を無事クビになりました。

chronicon

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 Grim Dawn でハクスラの楽しさにめざめたのでほかにも手を出してみたんですね。とっつきやすいけど、GDほどではなかった。でもそれなりには楽しんだ。逆にSwitchで出たディアボロIIは数時間やって「あ、これ”””沼”””だ」と気づいたので意識的に遠ざけました。人生は有限なので。

Spelunky 2

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 ムズい。

VRChat

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 この楽しさはやはりゲームなんだとおもう。

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割と王道なやつを中心に紹介されていますね。

こっちは「えっ? こんなのも!?」というのが多い。多様です。

*1:エンディング後の要素が少しむずいかなってくらい

*2:リサイクル可能な矢一本だけを武器に巨大ボスラッシュを闘っていく高難易度アクション

*3:WP9:2021とダビスタSwitchとウマ娘のプレイ時間を合算すると1000時間超えると思う

*4:日本では「エンツォ・クッキ」表記が多い

*5:ちなみに主人公の住むマンションの廊下の床が『シャイニング』のやつ

*6:主人公が大好きなアニメという設定。著作権大丈夫なんだろうか

*7:FMシリーズは新作が出たとたんに旧作は消える仕組みっぽい

2021年のマンガ新作ベスト10+5+7+5

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「死体が喋っている」

 ――藤本タツキチェンソーマン』


まんがは無限の沃野であり、そこにはすべての物語が埋まっています。
知的障害者の恋愛の話はないだろうって? 
『初恋ざらり』(初恋、ざらり(1) (コルクスタジオ))を読みなさい。

女性刑務所の日常もの?
『ごくちゅう!』(ごくちゅう!(1))を読みなさい。

白鵬引退の真相を知りたい?
白鵬本記』(白鵬本紀: 白鵬のいちばん長い日 (2) (トクマコミックス))を読みなさい。

 うんちが大好きな少年がおじいちゃんの家でぼっとん便所へ落下して便器と下水の狭間にある糞世界(いせかい)へ転生し、便器と一体化したヒーローとなり、巨大なとぐろを巻くウンコの御神体を祀るうんこ人たちを守って敵対する洗剤人と戦うウンコファンタジー
『水洗戦記タケル』(水洗戦記タケル (1) (リイドカフェコミックス))を読みなさい。


想像しうるすべてがそこにはある。
想像しえないすべてがそこにはある。


などとてきとうこいてたらもう一月も半ばをすぎててびっくりした。
いまさら年間ベスト記事もないもんだ。

 というわけで。


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 去年と同じようにまず村長の年度ベスト記事の紹介から始めます。今年はみなさん読まれましたね。『ガールクラッシュ』は最高のカッコ良(よ)まんがなので読みましょう。わたしも去年読んでたらベストに入っていたとおもいます。


以下、2021年の1月から12月までに刊行された漫画が対象です。

先に同様のレギュレーションで上半期の新刊まんがをまとめた記事もありまして、そこで取り上げたまんがについては「もう書いただろ」ということで言及のカロリーが低めです。

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【2021年に第一巻が発売された継続連載作】

ベスト10

『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』ナガノ

 ちいかわのあらすじ:21世紀に新しく契られた原罪。

 わたしたちは気づいてしまった。ちいさくてかわいいものがたいへんな目にあっているとうれしい、という感情に。それはキュートアグレッションやしぃ虐の記憶とは似て非なるもの。嗜虐心にも庇護欲にも近くて遠い、おぞましい感情。
 そこに触れない『ちいかわ』評はすべて嘘をついています。的外れなのではなく、嘘をついている。だって、もう気づいているはずだから。
 まだ間に合うはずだろうって? 人類はそこまで堕ちていないって?
 ハハハ、いやもうダメです、手遅れです。
 今朝のめざましテレビは観ましたか? なにが映ってましたか?
 この世はでっかいちいかわのリプライ欄になってしまうんですよ。だって、みんながそう望んだから。領域はしずかにしたたかに拡大しつつあります。

 以下で紹介するまんがは外形的には『ちいかわ』と全然似てはいません。しかし、魂の形はすべて『ちいかわ』のバリエーションです。

『FX戦士くるみちゃん』原作・でむにゃん、作画・炭酸だいすき

 2014年、大学生の福賀くるみは20歳になると同時にFXを始める。ただ金儲けのためではない、五年前、リーマンショックによりFXで大損をこいた末に自殺した母の復讐戦だった。当初は順調に資産を殖やしていったくるみだったが、そこに壁が立ち塞がる。そう、かつて母を死に追いやった仇にしてラスボス、「オーストラリアドル」である……というお話。

 クラッシュの瞬間が見たいのだろうか? 全速でコーナーへ突入した車輪が携挙のように地から離れ、破裂しながら宙に舞う、その破滅を見たいのか? 魂の断末魔を聞きたいのか?
 違う。わたしたち自身がクラッシュしたいのです。わたしたちが四散する車体になりたいのです。
『FX戦士くるみちゃん』はギャンブルにおける絶望の快感を同時に追体験させてくれます。
 目の前の現実にただ圧倒され、自分の思考が掬った砂のように滑り落ちていくときの虚脱感。破滅に至るレールに乗せられて何もできないでいるときの昏い興奮。何もかもが終わってしまったときの、世界から自分だけ見捨てられてしまったかのような悲しみ。
 五分で常人の給料の一日分が稼げる。一晩で地獄の底を覗ける。数百ページに人一人の一生が詰まっている。
 マンガとして、かわいいキャラクターとして最大限の糖衣に包んでようやく呑みこんで恍惚とできる楽園の果実。それが『FX戦士くるみちゃん』というまんがです。
 生の映画を観ているようなもんさ……。
 

『ムシ・コミュニケーター』ムネヘロ

 森白百佳は孤独な中学生。学校ではいつもひとりで行動している。そんな彼女にも日々の話相手がいた。虫たちだ。チョウやアリ、ハエといった存在と、彼女は今日も交信する。

 野生の虫の死は日常茶飯事であり、かれらと関わるということは死と常に在ることです。百佳の出会う虫たちはかなりの頻度でその日のうちに死んでしまい、彼女はそのあっけなさに麻痺してしまっています。
 なんとなれば「プリンにたかられた」という理由で、ハエにトンボをけしかけて殺しさえする。
 彼女は人間とも虫とも長期的な関係を築くことを諦めており、その諦念が物語全体を冷たく貫いています。
 ですが、心の底では諦めたくない。ほんとうは人とも虫とも仲良くしたい。でもどうすればいいかわからない。そんなぎこちなさがそのままコマの構成をも侵食している。
 思春期の離人症的な孤独と焦燥を生のまま抉りとった怪作です。『麻衣の虫ぐらし』以来の虫ものの傑作でもある。*1

『すぐに溶けちゃうヒョータくん』戸倉そう

会社勤めで心身を磨り減らしていた女性、しきみ。彼女はある日、勤め先の冷凍倉庫で凍っている男性を発見します。しきみはそれを衝動的に家まで持ち帰ってしまい、一晩明けてびっくり。解凍された男は生きていていたのです。男はふだんは人の形をしていますが、少し熱を加えると溶けて液体になってしまう氷人間。記憶も名前もない彼をしきみを「氷太郎」(ヒョータ)と名づけ、その日からちょっと異常な同居を始めることに。

 しきみは氷太郎を「ペット」と呼び、自分に触れようとする彼を「しつけ」と称してライターであぶり溶かします。面白半分でスイカを食べさせて体色を真っ赤に染めたり、製氷皿で成形して麦茶にいれて食べたり。
凄惨ともいえる扱いを受けている氷太郎ですが、しきみのことが大好き。少しでも暑いと溶けてしまう彼は室内でしか行動できず、しきみに介護されないとまともに生活できません。
 しきみもしきみで氷太郎にねじれた愛情を抱いており、自分のすべてを無条件に受け入れてくれる彼に依存しきっています。
 端的に言ってしまえば、共依存的なDV関係の寓話です。まっとうな愛し方がわからない人の愛の話です。そんなトキシックな寓話があるか、というご意見もあるのでしょうが、逆に寓話でなかったらどこで吐き出せばよいのでしょう。

 本作がヘビイすぎるなら同じ(?)庇護欲ラブコメ路線で『矢野くんの普通の日々』などいかがでしょう。美男美女の絵がマジでいいんですよね、コレ。

『ディノサン』木下いたる


 恐竜の生き残りが発見されたことをきっかけに繁殖し、恐竜園が動物園なみにありふれた存在になった現代日本。主人公・須磨すずめは幼いころからの夢を叶え、「江ノ島ディノランド」という恐竜飼育施設に飼育員として就職する。「怖いだけじゃない恐竜の魅力をみんなに伝えたい」という志を抱くすずめ。果たして彼女の夢の行方は……というお話。
 
「現実に動物園で恐竜が飼育されていたら」というシンプルなアイデアを徹底的にリアリスティックに突き詰めたお仕事もの。動物園の飼育員ものというサブジャンルは昔からあり、最近では水族館といった動物園とは違った分野を扱ったものや、妖怪や怪獣などの空想生物ものも見かけたりします。*2
 お仕事ものとしての動物園まんがは主として 1. 動物園の動物たちのリアル(知識面での快楽をもらす) 2. 動物園経営のリアル(だいたいツラい) 3. 動物園で働く人たちのリアル(たいがいキツい) の三要素から成り立っている(いま考えた)わけですが、その点でいえば、三要素揃い踏みのオーソドックスなまでの正統派な動物園まんが。その正道に一点「恐竜」という大ウソを溶け込ませ、読者に「もしかして現実に存在するのでは?」と錯覚させるレベルで磨き上げる。よくできたSFっていうのは、こういう仕事を指すのだとおもいます。
 お仕事もので他に良かったのは岩田ユキの『ピーチクアワビ』。最近よく見かけるAV制作ものですが、エロよりかはクリエイターとしての葛藤や矜持の物語がメインであり、さわやかに読めます。ベストリストに入れるか最後まで迷った。*3

『ムサシノ輪舞曲』 河内遙


10歳上のお隣のお姉さん(作中では「おばさん」呼び)兼バレエの師匠・武蔵原環が好きな阿川龍平25歳。6歳のころから知る彼女に幾度となく告白してはフラレてを繰り返すうち、すっかりスレて諦めムードになっていた……のだが、そんな折に現れた環の弟の同僚・衣笠に環が一目惚れ。新たな恋に浮つく環の姿に諦めたはずの気持ちがまたグツグツと煮えたぎってきて……というBSS三角関係もの。

 日常的な色恋沙汰に、バレエのしなやかな動きやスタイルを過剰なまでに取り入れた画は読んでるだけで弾むような心地になる。昨年惜しくも六巻で完結した『スインギンドラゴンタイガーブギ』や『ガールクラッシュ』を初めて読んだときのような軽やかな印象が本作にもあります。
 細やかな心理描写やユーモアあふれる言語センスも見どころですが、やはりまんがとしての画の力がすごい。
 環が初めて衣笠の自宅マンションに招かれた時にある「モノ」の異質さとファンタスティックさ、そしてそのモノに宿る重たい過去の影はインパクトとモチーフ性を両立していて、これだけでストーリーテリングのうまさがわかる。
 河内遙と同じく20年選手の女性向けまんが新連載作だと久世番子の『ぬばたまは往生しない』(花とゆめコミックス)も連作として手堅く良く出来ていて、ベテランの自信と威風が窺えます。
 隣のお姉さんが好き系まんがとしては、今年は『隣のお姉さんが好き』の単行本第一巻が控えてますね。今もっとも卑劣かつ誠実なラブコメです。*4

『ブランクスペース』熊倉献

 高校生の狛江ショーコはクラスメイトの片桐スイに想像した物体を具現化できる能力(他人からは透明に見える)を持っていることを知り、それをきっかけに親しく付き合うようになる。おとなしいスイが鬱屈をためこんでおり、いつ爆発するともしれないと知ったショーコは、「彼氏を作る」ように彼女に助言するが……という話。

『春と盆暗』から奇想青春ものの描き手として注目されていた熊倉献ですが、まさか暗黒青春ホラー/スリラーにも適正があったとは、と驚かされた逸品です。
 スイは視えるけれどショーコには視えない、というのがそのまま彼女たちと世界との関係や二人の部分的な断絶にもつながっていて、ここがひとつアイデアだなあ、とおもいます。
 基本的に視えない側のショーコ視点で描かれるのもいいですね。ホラーの作法ではあるんですが、視えないぶんショーコの想像が広がっていき、それが幻想と現実の入り交じる世界観に即しています。
 設定に沿って徹底的に練ってあるんだな、気付かされるのが、とショーコとスイの(作品内での)ファーストコンタクトの場面です。大雨のなかをスイが視えない傘を持って立ち、雨粒がその傘の形にそって滴りおちている。ことばでの説明の前にまず「画」で読者を納得させる。全編がこのような丁寧さに貫かれている長編はめったに見かけません。
 幅広い読者層に受けているのも、むべなるかな。  
 

『泥濘の食卓』伊奈子

 バイト先のスーパーで店長と不倫していた捻木深愛は、唐突に別れ話を切り出される。理由は鬱を患った妻を支えるため。憔悴していく店長を助けたいと願う彼女は支援団体のカウンセラーを装って店長の妻に接触し、信頼を得ていく。深愛と店長と店長の妻の嘘まみれた奇妙な関係。そこに深愛に憧れる高校生ハルキと、ハルキに恋心を抱く同級生のちふゆまで絡んできて、物語はどんどん泥濘へと落ち込んでいく……という話。

 こうしてあらすじに起こすと救いのないドロドロの愛憎劇っぽくて、実際救いのないドロドロの愛憎劇なのですが、奇妙な軽やかさがあるのは主人公のマインドがポジティブなせいか。といっても、こわれたポジティブさで、彼女のせいで事態がどんどんドロドロしていくわけですが。
 ほんとうにもうどうしようもないんだな感が絵柄、キャラ造形、人間関係、物語の随所に柔らかく染み渡っており、そういう印象は『ヒョータくん』にも通じているかもしれない。
 2021年の新人王。

『地球から来たエイリアン』有馬慎太郎

 ときは2220年。人類はワープ航法の発明により何百光年も離れた太陽系外にも進出するようになっていた。朝野みどりは地球から160光年離れた日本の植民惑星「瑞穂」で生物管理局の職員として、現地の生物たちの調査管理の業務にあたることに。そこで待っていたのはみどりの想像以上にクセの強い異星の原生生物たちと同僚たちであった……というお話。

 そもそも本ブログが年末に第一巻開始まんがをまとめるようになったのは、有馬慎太郎の『四ツ谷十三式新世界遭難実験』の一巻打ち切りがきっかけでした。あれから四年、有馬慎太郎は戻ってきた。この事実一点をもってしても日本のまんが界にまだ希望が残っていることの証明になります。

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 有馬式の変人キャラ描写は健在。主人公こそ、理想主義的でまっすぐな、いかにもお仕事ものの主人公といった好感の持てる造型ですが、二巻からは本格的に一癖二癖ある人間たちが出てきてなお愉快になっていきます。
 異星生物SFとしてのスケールもデカく、最初のエピソードから「人間がルールと異なる生き物と折り合うこと」の難しさとエグさが突きつけられてきます。このレベルでやれるひともなかなかおらんのじゃないかな。
四ツ谷十三式〜』はモロに『レベルE』だったわけですが、本作ではより洗練されたぶん、作者が『レベルE』のどこの部分が好きだったかがより浮き彫りにされていて興味深い。


『ダンジョンの中のひと』双見酔

 腕利きのシーフ・クレイは行方不明となった父を探すため、ダンジョンの深層へ挑んでいた。ところがモンスターの戦闘中に壁が崩れ、そこからダンジョンに不似合いな少女が……。「ダンジョンの管理人」を名乗る少女は、クレイをダンジョン運営の従業員として雇いたいと申し出る。

 JRPGベースの、いわゆる異世界ジャンルにおける最大の利点は、世界創造のコストが低いことです。最小限の手間で「そういう世界」だと読者に飲み込ませる。異世界ジャンルがメタや脱構築に溢れているのもそのためです。誰もが型を知っているからこそ、型を外したときの驚きや新鮮さが生じる。昔は『忠臣蔵』とかの時代劇がその役割を担っていたんですが、今は漠然とした「JRPGっぽさ」の概念に継承しています。
 ところが、『ダンジョンの中の人』は異世界ファンタジーの提携をある程度までは踏まえつつも、作者独自の世界を構築する努力を忘れない。細部をきちんと理屈で突き詰める。良くも悪くも大振りなのが多いジャンルなので、こういう繊細な仕事に出会うと沁みます。
 あれ、この話、前回の紹介のときにしたっけな。まあいいや。
 なろう系的な異世界ファンタジーの作法にしたがった作品だと、ほかにおもしろかったのは若槻ヒカルの『エルフ甲子園』でしょうか。といっても若槻ヒカルは若槻ヒカルなのでファンタジーも野球もなくて、あるのはむき出しの暴力なんですが。
 あと、『くまみこ』の吉元ますめまで異世界転生もの原作のコミカライズに駆り出されてたのは驚きましたね。真鍋譲治も。オリジナル連載持ちでも並行できる余裕がある作家は投入されていく感じ。

+15選

『まじめな会社員』冬野梅子

 菊池あみ子。三十歳。独身。彼氏いない歴五年。契約社員マッチングアプリで婚活中ではあるものの、いまいち身が入らない。そんな彼女はほのかに憧れていた今村という書評系ライター兼書店員とお近づきになることに成功する。あわよくば……と浮かれていた彼女だったが、現実は厳しい。今村にはすでに恋人がおり、その恋人はなんとあみ子の職場のオシャレな同僚だったのだ……。

 インターネットは、まんがの欲望が快楽や感動だけでないことを発見しました。かさぶたのように膿んで乾いた、人間の醜い部分やどうしようもない部分を剥がしつづけるような背徳が本作には存在します。ネットでの反応を見るに、読者の一定数はあみ子にキレている。キレつづけながら、読んでいる。ふしぎなことです。人は不快であるとわかっているものをふつうは読まない。なのに読む。自傷としての読書がここにあるわけです。
 渋谷直角などと似たような文脈で受容されている感がありますが、留意しておきたいのは意外にあみ子がサブカル的なコンテンツをまっすぐ衒いなく摂取していることです。他者との差異化を目的としては使っておらず、ある本について「自分だけの読み」を発見することは単調で代替可能な日常に風穴をあけて呼吸するための手段です。
 その自由への脱出口が即座に他者とつながりたい欲に、そして色恋沙汰へとスライドしてしまうところが人間の悲しい性ですね。どんなに反発して皮肉ってみたところでわれわれの頭上から押し寄せ、飲み込んでしまうもの、それが社会。
 まんがのなかのあみ子は(地の文において)多弁です。常に状況や人物を分析し、常に精緻に読者へプレゼンします。しかし、その思弁が彼女自身を救うことはない。ここに描かれてある生活は『FX戦士くるみちゃん』と正反対でいるようでいて、根底では同じものです。われわれはその瞬間主観には過剰なまでに思考を巡らせる一方で、中長期的には実は何も考えておらず、ただ死に向かって走っている。違いは死までの到着速度くらいでしょうか。

『ニックとレバー』ミヤタキョウゴロウ

 日本で暮らす外国人、ニックとレバーの奇妙でオーバーアクト気味な日常を描くギャグまんが。

 おもしろガイジンネタってレイシズムであるだけでなくもはや陳腐極まってるよなー、と正直テンション低いかんじで読んでいたんですが、十話目あたりからギアが変わってくる。
 かっぱえびせんを夢中で食べているうちに部屋にあったものを全部食べてしまったり、化石を発掘しようとするうちに地下文明にいきあたったり……一〜数ページの話なのでそこまでぶっ飛んだレベルにまではいかないのですが、ハマったときの良さがすごい。
 個人的なお気に入りは、断捨離を極めた末に”無”の空間を生み出してしまう回(第五十六話)と「紙を43回折ったら月に届く(長さになる)」という都市伝説を実行する回(第十七話)。特に後者は一ページ四コマで壮大な奇想を表現しています。*5
 絵柄もまんがではあまり見ない濃い絵柄なのですが、それがなにげない一コマをエモさを高める(第24話の花見の席取りをする一場面は本当になんでもないのになぜか感動的)のに貢献している。
 これがデビューとなるミヤタキョウゴロウは『くるくるくるまミムラパン』の関野葵ともども、ガワの印象以上にポテンシャルのある描き手です。 
 今年の新作ギャグ漫画だと、仲間りょうの『高校生家族』が今のジャンプ全体でも上位の安定感。

『るなしぃ』意志強ナツ子

 いじめられっ子の地味な高校生*6、郷田るなは実家の鍼灸院で”火神の子”としてカルト宗教の中核を担っていた。クラスの人気者、成瀬健章は彼女の信者ビジネスに惚れこみ、るなに入れこんでいく……というお話。『小説現代』という文芸誌で連載されている異色作*7

 意志強ナツ子は、いつも似たような意匠で攻めてくるくせに毎回フレッシュである、という特異な作家性を持っています。
 本作もそうで、いちおう、るなと健章とるなに想いを寄せるスバルの三角関係がベース、といえばそうなんですが、そこに妙に地に足のついたカルトビジネス描写や、貧乏ゆえに「早く大人になること」を焦るあまりヤバいビジネスに憧れてしまう若者などといったなんともいえない要素が絡まり、代替不能のユニークネスが生じてしまいます。
 カルト信仰をギミックに使った新作で他に印象的だったのは、豚箱ゑる子の『毒を喰らわば彼女まで』。かなり荒削りで人には薦めづらいですが、読者に爪痕を残そうとする画作りの根性は忘れないでおきたいです。

『サイコの世界』原作・井龍一、漫画・大羽隆廣

 超能力者が全世界の人口の三割を超えた世界。日本は超能力者たちによって牛耳られるようになり、能力を持たない残り七割の人間たちは離島や僻地に強制移住させらていた。
 そんな非能力者の島のひとつ、風川島に駐在する警官・犬棒守は超能力者を隠して島で暮らす少女・災原リコにあることで協力を持ちかける。昔、超能力者に殺されたと思しい死に方をした少女・由良の殺害犯をつきとめ、復讐を果たそうというだ。あくまで復讐の道具としてリコをてなづけようとするする守だったが、一方のリコは守にガチ惚れしていた……という能力バトルまんが。

 一巻目からまあ人が死ぬ。このレベルで人が死んでいいのってくらい凄惨に死ぬ。それでいて、リコのヤンデレ具合を中心にギャグのテイストも強くて、その落差がいい味を出しています。お話は全然違うけれど『ゴールデンカムイ』を想起させるテイストです。同じ原作者が『爆笑頭』で鍛えたセンスも注入されているのかもしれません。まだどう転がるかは未知数ですが、少なくともツカミは好感触。
 現在最も多忙なまんが原作者のひとりである井龍一は伊藤翔太とのコンビでの『親愛なる僕へ殺意を込めて』で有名ですが、伊藤翔太と再タッグを組んだ『降り積もれ孤独な死よ』も去年の新作。こちらはいかにも講談社系サスペンスってかんじのツカミでビビらせてきます。

『スノウボールアース』辻次夕日郎

 地球を襲ってきた銀河怪獣軍団との最終決戦に挑むため、戦闘ロボット・スノウマンに乗り込んだ流鏑馬鉄男。しかし多勢に無勢で追い詰められ自爆を余儀なくされる。決死の覚悟だった彼を救ったのは唯一の親友であったスノウマンのAI「ユキオ」だった。自爆直前、ユキオは「地球に帰還したら友達をたくさん作って」と鉄男と約束を交わし、コックピットを切り離す。そうして十年ぶりに地球に帰還を果たした鉄男だったが、そこは以前の地球ではなかった。雪と氷に覆われた「スノウボールアース」になっていたのだ――というお話。

 怪獣とロボの戦闘を軸に組み立てられた氷河期SF。実に清々しくて豪快かつリッチな作品です。さまざまな点でポスト『進撃の巨人』っぽさがありますが、そういう流れのものがこういう全面的に洗練された形で出てくるのが新世代の感ですよね。買っておきたいルーキーの一人。
 こういう「一回終わってしまったあと」から始まるジャンルものが最近増えた気がします。

『フール・ナイト』安田佳澄

「転花」。それは人間に「種」を植え込んで「霊花」という植物に変える技術。陽の光が無くなってほとんどの植物が枯れた世界で、「霊花」は貴重な酸素供給原として必要不可欠となっていた。
 そんな世界で社会の底辺としてどん底の生活を送っていたトーシローは自分をとりまくすべてに絶望し、国の機関である国立転花院で「転花」の処置を受ける。「転花」完了までは二年。ひょんなことからトーシローに本来は聞こえないはずの「霊花」の声が聞こえる力があることを知った転花院の職員ヨミコは、その残り二年間を転花院の臨時職員として働かないかと誘う。彼に頼みたいことがあるのだ、と……。

 SFの新作が元気な2021年度を代表する一作。
 第一話で貧困*8から始まって食事に救われそして年上女性の誘いで公務員にリクルートされるながれはあきらかに『チェンソーマン』なわけですが、ヨミコはマキマと違って100%善良なパンピーなので安心してください。
 人間の死やボディパーツがある種の経済論理に組み込まれてしまうことの最も直接な形にはたとえば臓器移植などがありますが、でもまあ究極的には労働だってそうでしょう。『フールナイト』では死を持ってが換金可能なものとして描かれ(「転花」すると国から1000万円が支給される)、そこにドラマが生じます。換金可能な道具としての人間の形が極まった世界といえなくもない。そういう世界の話は前からありましたけれど、今後はもっと増えていきそう。
 コマ割りでの時間の緩急が堂にいっていますね。いかにも『アフタヌーン』的な操作という印象。連載元は『スペリオール』ですが。
 物語的には一巻でわりとストレートな人情ものをぶつけきたなと思ったら二巻では連続殺人捜査で、まだまだどう転がるかは断定できません。テーマ的には「親子」というところで一貫しているようには見えます。
 今年は(今年もというべきか)SFの新作が豊作でしたね。箱いっせの『AURORA NODE』も見逃してはおけないあたりか。

『あんじゅう』幾花にいろ

 百合ルームシェア日常もの。

 幾花にいろは欲望の輪郭を正確に測ることができる。
 わたしたちの心臓は幾花にいろに握られている。

『九条の大罪』真鍋昌平

ヤミ金ウシジマくん』の真鍋昌平の新作。半グレなどのアウトローを主な顧客として抱え、他の弁護士から蔑まれている九条間人の全仕事。
 
 暴力(直接的でないものも含む)の質感という点では真鍋昌平に比肩するものはいません。暴力シーンを描くだけならうまい作家はなんぼでもあるけれど、”暴のにおい”をここまで濃厚に放つことができるのは……。
 なぜなら真鍋先生はキャラに人間味を持たせるのがうまい。あそこまで突き放したネームやセリフでなぜここまで人間臭くかけるのかってくらい説得力があります。
 本作に出てくるひとたちは法的な観点から言っても人倫の面からいってもまあアウトな悪人ばかりで、ぜってえ関わりたくないんですが、そんなひとたちもわたしたちと同じ時代の空気を吸っていきているんだな、とフッとおもわせられる瞬間があって、たとえば、老人ホームで老人を虐待しながらその遺産を騙してむしりとっている半グレが出てくるんですが、そいつが言うんですね。老人が抱え込んでたマネーをぶんどって終わってる日本なんか捨てて海外で暮らすんだって。ここに設定されている「日本終わるけどどうする?」みたいなテーマは、どうしようもない半グレからグローバルエリートに至るまであらゆる階層の人間が直面している問題であって、そこに同じ屋根の下で暮らしているんだなという気持ちになれます。
 時代を反映したグレーな行為を扱った作品としては『テンバイヤー金木くん』もありましたね。題材が題材であるためか、二巻以降は転売を行う主人公へのヘイトコントロールに汲々としてしまっているのが少し残念。

『アフターゴッド』江野朱美

 IPOーーいわゆる「神」と呼ばれる存在によって北日本と関東の大部分が制圧された日本(首都は広島)。佐賀からある目的のためにはるばる状況してきた少女、神蔵和花は「神」を研究し撲滅することを目指す対神科学研究所の職員・時永からリクルートされる。

 SCP的な趣きを持つ伝奇バトルまんが。
 それまでは短編レベルではちらほらあったポスト藤本タツキを感じる作品群ですが、2021年後半になってから単行本でも見かけるようになりました。わけてもモロだなあ、とおもったのは江口侑馬の『野苺少女殺人事件』とかですけれど、総合的な期待感でいったら『アフターゴッド』ということになるでしょうか。
 見栄を切ることのできる画をかける作家はほんとうに希少です。

『さよなら幽霊ちゃん』sugar.

 もともと所属していた部活にいられなくなった高校一年生のみき、めぐ、とうこ。そこにもうひとり、幽霊のゆうが加わって、今日も空き教室で溜まってだべる。

 きらら系のまんがが自分にヒットすることはあまりないのですけれど、これはよかった。最初はゆるい日常コメディが続くのかな、とおもっていたら、一巻後半からややシリアスめなトーンになって、直前のギャグ回に張られていた伏線が物語的に回収されるという展開に。この切れ味にやられました。*9

『フォビア』原作・原克玄、作画・ゴトウユキコ

 すきま、自己臭、高所、集合体、閉所……世に存在するさまざまな恐怖症をテーマに描くホラー連作短編集。

 原作と作画が高度なレベルでマッチする事例は多くはなくて、だからこそ、そうした事例に出会うと幸福な気持ちになります。
 それがこころざわつかせるホラーまんがであったとしても。
 ゴトウユキコのまとわりつくような生々しさや性嫌悪的なニュアンス、そしてキャラの柔和そうでありつつも底のしれない印象のタッチが、原克玄の現代的なホラーとよく噛み合っています。
 これを読んでいるとゴトウがコミカライズ担当だった『夫のちんぽが入らない』もホラーだったのでないか、と思い返されさえする。
 一巻の白眉は「集合体」。「人間の形をした人間でないなにかがスパゲッティを食べる」表現としてはヨルゴス・ランティモスの映画『聖なる鹿殺し』に比肩します。

『MINI 4 KING』原案・武井宏之、漫画・今田ユウキ

 
 工藤モー太はミニ四駆を愛する13歳。母親の仕事(温泉の仲居というのがいかにも武井節)の都合で熱海の中学に転校してきた。彼は幻のミニ四駆パーツLASERを巡ってミニヨンギャングのヨンクダムやミニ四駆開発者のタミ子と関わるうち、クラスメイトのグリスと熱海最高峰のレース、熱海ミニヨンフェスを目指すことに。

 ついに『なかよし』にまで『シャーマンキング』ユニバースの版図を広げたとおもったら、今度は本家『コロコロ』も制覇*10。2021年も武井宏之の快進撃が止まりません。
 驚くべきか、予想通りというべきか、武井宏之のテイストがコロコロのホビーまんがにハマるハマる。ケレン味の効いたキャラクターたち、やたら壮大っぽい世界観、ツッコミを許さないフルドライブの展開、少年まんが王道のどこまでもまっすぐな主人公、フォルムの美しい車すなわちミニ四駆、迫力のレースシーン。
 なにより、ちゃんと「ミニ四駆のまんが」としてロジックを作って貫いているところに武井先生の愛を感じます。
 これが『コロコロアニキ*11などの「かつて子どもだった大人たちへ向けたノスタルジー商売」などではなく、コロコロ本誌で連載されているのは武井先生の現役感の証明ですね。
 

ハイパーインフレーション』住吉九

 ガブール人の少年ルークは地元を蹂躙搾取するヴィクトニア帝国(大英帝国がモデル)に反発し、かれらに対して贋金を売っていた。だがある日、ヴィクトニア人に使嗾された別のガブール人たちによって村ごと奴隷狩りに遭ってしまう。村の巫女だった姉ハルと引き離されそうになったルークはガブール人の神であるガブール神と邂逅し、身体からヴィクトニア帝国の紙幣を自由に噴出できる能力を与えられる。果たして奴隷商人にさらわれた姉を助けることができるのか……というお話。

 カネを軸に欲深い曲者たちと騙し騙され殺し殺されを繰り広げるコンゲーム冒険もの。
 シャープでシリアスな本筋にキッチュでオーバーアクト気味なギャグ、そしてアクがかぎりなく強いキャラたちをシームレスに通す架空歴史劇は、なにより『ゴールデンカムイ』を彷彿とさせ、作品の可能性も引けを取らないものを感じさせます。
 単にその場のインパクト重視ではなく、構成も練られていて、ある場面で行われた駆け引きが別の場面の別の文脈で伏線として効かせる手法をよく使う。一本の長編としての期待感の高さは2021年でも上位といっていいでしょう。
 適度に架空世界であるぶん、われわれの知る史実に似ていつつもめちゃくちゃをやろうとおもえばやれるのが強い。手持ちのカードの切りどころを心得た作者であるといえます。
 資本としてのカネを扱ったエンタメとしては、大物原作者・稲垣理一郎*12とレジェンド・池上遼一*13のがタッグを組んだ『トリリオン・ゲーム』や、加藤”おれたちの”元浩の『空のグリフターズ〜一兆円の詐欺師たち〜』もハジケてた。

ジーン・ブライド』高野ひと深

 メディア系の職場で働く諫早依知は最後先でインタビュー相手からセクハラを受けたり、見知らぬ男に日常的に付きまとわとられていたりととにかく女性性につきまとう生きづらさに辟易していた。
 そんなある日突然現れた正木蒔人という男に「きみの運命の相手だった男だ」と告げられる。彼は依知と同じ秀光館学園なる学校の出身で、(読者には詳細が明かされないものの)「ジーンブライド」と呼ばれる制度に関係ある相手だったらしい。
 その日からなにかと蒔人と関わりあいになるようになり……という話。

 最近とみに増えたフェミニズム的な視点から社会のクソな部分に真っ向から切り込む系まんが、でありつつ、古風な定型である「突如、無からある方面で理想的な男性が舞い降りてくる」ロマコメ……かと思いきや、思いがけない方向へと舵を切るモリモリな一品。
 ここまで欲張りなのにチグハグな印象を受けないのは職人芸といいますか、テンプレで割り切る箇所は割り切って、ディティールに費やすところは丁寧に突き詰める、そのバランスが良いのだとおもいます。今後、一巻では秘されている大きな仕掛けと社会派としてコンシャスなところがどうかみ合っていくのかがたのしみ。
 そういえば、高野ひと深といえば出世作私の少年』がありますけれど、社会人女性が年少の少年と交流する系まんがでは青井ぬゐ『少年を飼う』がキッチュなタイトルに反して良い新作だったように記憶しています。
 
 

『双生遊戯』岡田淳

 関西一の規模を誇るヤクザ、布袋組。その五代目を継ぐ最有力候補が現組長の子である双子、琳と塁だった。昔ながらの侠気を重んじる琳の"ツムギ"と、新世代として革新を謳う塁の"カイカ"。血を分けた兄弟でありながら、相反する思想を掲げる二人は犬猿の仲だった。若手の組員である塩田は琳と塁の世話役だった古庄から「次の組長にどちらがふさわしいか選んでほしい」と相談される。襲名は半年後。選ばれなかった方は"消され"てしまうという。おもわぬ大任を背負わされた塩田の明日はどっちだ。

 清水の次郎長のころから国民のおもちゃとして、数々のエクストリームなバリエーションを花開かせてきたヤクザまんが。2020年のヤクザまんが新刊オブザイヤーが『忍者と極道』なら2021年はコレ。
 とにかく一話目の絶大なインパクトで話題になった作品ですが、基本的には押しの強いイケメンふたりのあいだで板挟みになってアタシ(ツーブロックのヤクザ)どうなっちゃうの〜〜!?? みたいなノリですね。ある程度まではヤクザ/不良まんがのストーリーラインを踏まえつつも、全編にキテレツなキャラをまぶしたエルビスプレスリーサンドみたいなカロリーを誇っています。
 現行の2巻まででも十分おもしろいですが、イロモノの逐次投入だけではやがてキツくなるだろうし、ここから更に突き抜けてほしい。



【単発長編・短編集】

 このペースで行くと一生公開できないのでここからは省エネモードでいきます。

ベスト5

『阪急タイムマシン』切畑水葉


 上半期のまとめ記事でだいたい言った気がする。というわけで、以下はそのときの最掲です。

 阪急電車というとまんま有川浩の『阪急電車』が連想されるのですが、そちらは内容をまったくおもいだせない。でもなんか人情っぽかった感触はおぼえている。これもそんな話なのだろうと、手にとってみると、おもったとおりにあたたかくやさしい絵柄で、しかし意外にハードな物語をつきつけてきます。
 主人公・野仲いずみは毎日通勤のために阪急電車に乗っています。てもちぶさたな乗車中の愉しみは、大好きな編み物作家FIKAの作品集を眺めること。おっとりしていて引っ込み思案、職場の同僚たちともなんとなくソリのあわない彼女にとって、編み物は楽しかった子ども時代を思い出させてくれる避難所であり、FIKAはあこがれの象徴でした。
 そして、いつものように電車でFIKAの作品集をながめていると、ちょうど視線の先にFIKAのセーターを来た女性が。いずみは意を決して女性に話しかけます。「FIKAさん、ええですよね!」
 と、実はセーターの女性は幼馴染の編み物仲間で、小学生のころ別れたっきりだったサトウさんでした。
 FIKAの作品がきっかけで昔の親友と再会できたことに運命を感じ、気分が高揚するいずみ。しかし、いっぽうのサトウさんは浮かない顔です。「阪急乗んでええとこやったら、会わずに済んだのに……」

 人生における輝かしい時期は人によって異なります。若い頃が最高で、あとは降るだけどとぼやく人もいるでしょうし、逆に若い頃は暗黒期で今のほうが断然良い、という人もいるでしょう。そしてある人は特定の出来事を強く記憶していて、おなじイベントを共有した別の人はほとんど忘れかけていることもある。
 そういう「子ども時代に対する思い入れ」がまったく異なるふたりがふたたび出会ってしまったことから記憶という名の「タイムマシン」が動き出す、そういう話です。
 人は苦い記憶に蓋をしがちですが、自分にとっては思い出したくはなかったネガティブな出来事でも、あえて向き合うことでひとつ過去にケリをつけ、前に進む契機になる。ハッピーでもバッドでもないけれど、ポジティブな物語はある。そういうバランスのお話をかける作家は稀でしょう。
 絵。絵がいいですね。等身を伸ばしたこうの史代といった趣で、ハードな話を辛すぎない程度にくるんでくれる天与のやさしさがある。
 秀作ファンタジー短編集である『春の一重』(2018年)のころから実力の高さは折り紙つき*2でしたが、『阪急タイムマシン』で現実的な話も達者であることを証明して、今後もどういう作品を見せてくれるのか、いい意味で予想できない作家です。

『空飛ぶ馬』原作・北村薫、漫画・タナカミホ

 上半期のまとめ記事でだいたい言った気がする。というわけで、以下はそのときの最掲です。

 だって、高野文子なわけですよ。原作の表紙は。
 あなたは高野文子が表紙書いてる小説のコミカライズやれっていわれてやれますか。神ですよ。高野文子といったら、ほぼまんがの神です。第二の高野文子といったら『秋津』の秋津が全力で囲い込むレベルです。
 高野文子や神や『秋津』を知らない人でも三国志ならご存知でしょうから仕方なく三国志でたとえますが、曹操からちょっと呂布と一騎打ちして勝ってきて、と頼まれるようなもんですよ。そんな関羽雲長が令和の日本にいるか? いないだろ?

 いた。

 タナカミホ。五六年前に『いないボクは蛍町にいる』で才気をほとばしらせまくったっきり、(すくなくともわたしの観測範囲では)どこかへ行ってしまっていた作家がすさまじい成長を遂げて帰ってきた。

 いわゆる「日常の謎」と呼ばれるミステリのサブジャンルの嚆矢にしてマスターピースとされる北村薫の〈円紫さんと私〉シリーズ。女子大生の〈私〉を狂言回しとして、落語家の円紫さんを探偵役に、彼女らの日常で生じた、小さいながらも底の深い謎の数々を解決していきます。
 本作はその〈円紫さん〉シリーズ第一作である『空飛ぶ馬』のコミカライズです。
 
 ミステリのコミカライズって、けっこう難儀そうじゃないですか。思いません?
 だって、ミステリってほとんど会話と説明から成っているわけです。人が殺される瞬間はあっても謎に伏されるからアクションは描けないし、探偵が聞き込みしたり推理を披露したりするシーンはひたすらセリフが並ぶだけで画面に動きは少ないし。推理時の犯行再現シーンで差別化するって手もありますけど、あれだって「終わったこと」の再現なわけで、物語の盛り上げ手段としては幅がかなり限られてくる。
 じゃあ金田一少年式におどろどろしい装飾的な死体で映゛えようとおもったり、コナン式に謎の組織との暗闘を盛り込もうとおもったところで、『空飛ぶ馬』には死体も闇の組織もでてきません。
 犯人といえば、喫茶店で砂糖壺をせっせといじっているような普通の市井のひとばかり。
 難易度Aのミステリコミカライズという分野でも更に難易度特Aの原作チョイスなわけです。
 にもかかわらず。
 できてしまっている。
 なぜだ。
 わからん。わからねば!(by 漏瑚)

 原作と比較できればいいんですけれど、引っ越しの時に「もういい! ターボ、ミステリやめる!」とミステリを大量に処分した関係で手元に『空飛ぶ馬』がない(ウマだけに)。つーか、北村薫ってほぼ電子化されてないんだね。
 しょうがないので勘でやりやす。
「赤頭巾」とかはわかりやすいんですよね。まんが的に再構成されてるんだろうなあ、というのが。絵本の再現というユニークなレイヤーが混じっている分、メリハリつけて読みやすいのだろうし、絵本的なタッチと物語内の現実が混ざるシーンはわかりやすく技巧的。それはわかる。それはまあ、わかるんだけど。
 にしたって、「砂糖合戦」は。
 それこそ、ほとんど*6卓上での会話なわけですよ。大して派手なことが起こるわけでもない。それなのにめちゃめちゃエキサイティングでおもしろい。円紫さんのキメゴマ、タイトルコールが出るときの犯人のあの表情、その反復、動と静の操作、ラストの切れ味、見せ方、なにもかもが最高。
 どこからどう見ても〈円紫さん〉シリーズだよ、これは。
 オチのうまさや話のおもしろさはもちろん原作に由来するところではありますけれど、それをこんな高精度かつ高純度で再現できるとは。長生きはしてみるものです。最初からこのコミカライズありきだった気さえしてくる。90年代の雰囲気をたしかに醸しだしつつも、この時代のためにリファインされたような清新さ。さっきもいったけれど、表情、表情がいいのかな。人間のささやかでねっとりとした悪意をすくい取ったような犯人たちの造形を、キャラの繊細な表情を止めて切り取ることで再現している。そして、主人公は徹底してその表情を観察する側に置かれている。カメラなんですね。映画だ。映画だからか。

 けっきょくなんだかよくわかりませんでしたね。
 いかがでしたか。
 ひとつだけいえるのは、「砂糖合戦」はミステリ小説コミカライズの歴史に残る一編となるのではないか、ということです。むしろ、北村薫初読者にはここから勧めたっていいのかもしれない。プルトラ。
 

『魚社会』panpanya

 あーッ! あいつ! またバカのひとつおぼえみたいに panpanyaの短編集を年度ベストリストに入れて!
 いや、だって、しょうがなくないですか? 文句なら傑作しか出さない panpanya先生に言ってください。
 今回の白眉はなんといっても、ヤマザキのカステラ風蒸しケーキの回。はたから見たらほぼ作者のエッセイみたいな話なんですけれど、panpanyaオブセッションである「完全に再現することは不可能な記憶を再現しようとすること」がこれ以上ないくらい出ていて、とてもおいしい。そこにフードポルノ要素も重なって読者も「食べたい〜」とおもわされるので、なおさら感情が乗る。読めば、わたしたちも渇望してしまうのです。もう存在しないあの食感、あの味を。

『まばたき』『いてもたってもいられないの』ばったん

 ばったん先生の短編集が二冊出ました。どっちも買って読め。
 志村貴子の遺伝子に入江亜季の成分を混ぜたような、と形容すればよろしいでしょうか。さして長くもない尺のなかにテーマ(特に『いてもたっていられないの』に関しては明確に「女の性欲」という主題が設定されている)やモチーフを落とし込みつつ、絶妙にまるめて物語を作るセンスは卓抜しています。

+10

『渚 河野別荘地短編集』河野別荘地

 奇想から奇妙な二股ものまで取り揃えた短編集。初出はオモコロですが、ギャグまんがではなく、ビームとかそのへんのしっとりしたテイスト。
 非常に映画的なセンスをもつ作家で、画作りはもちろんコマの配置も巧みです。
 物語は尺の長短あれどあるようなないようなものばかりですが、見せ方だけで保ってしまう。佳い新人です。

『教室の片隅で青春がはじまる』谷口菜津子

 目立ちたがり屋なのだが空回りしまくってクラスで浮いた存在となっている高校生まりもが、転校してきたモコモコの宇宙人ネルと親友になる。性に興味津々なネルだったが、男子に誘いをかけてもその毛玉のマスコットみたいなかわらしい見た目のために取り合ってすらもらえない。ネルがモテるためにはどうすればいいか、ふたりは知恵を絞るが……という青春群像劇。高校生活を律する「空気」との距離感が絶妙に出ていて、登場人物がそれぞれの自分らしい快適な生き方にどうアプローチしていくのか、というのがよく出来ている。


『CALL』朝田ねむい

 金欠のフリーター・ハルヒコがゲイ向けデート風俗のボーイと間違えられ、アキヤマという社会人と関係を持つことに。最初はカネ目当てでだましまだし身体抜きの付き合いをするつもりのハルヒコだったが……というBLまんが。
 朝田ねむいは2021年に初めて知った作家さんです。 twitterのフォロワーさんがたのしそうに読んではるなあ、とおもって手にとってみたらべらぼうによかった。
『CALL』に関していえば、陰影のはっきりしたパキっとした画がカリフォルニアみたい(アホみたいな感想)で、そういう質感なのにダウナーな雰囲気がある。そして、その雰囲気に意味がある。

『アントロポセンの犬』川勝徳重

 トーチやビームはとにかくいけすかないまんがを出すことでいけすかない読者たちから強力に支持されており、いけすかない。そのいけすかないまんがの2021年の筆頭こそ川勝徳重であり、われわれはこのいけすかなさを積極的に擁護していかねばなりません。イヌはかわいいです。
 

『いえめぐり』ネルノダイスキ

 奇想の系譜、ネルノダイスキ先生のメジャーデビュー。
 は? ビームは大リーグですが?
 わかりやすくいうと服みやすくした panpanya先生。作家をドラッグ扱いすな。
 

『マーブルビターチョコレート』幌山あき

 若い頃持て囃されていた小説家が糊口を凌ぐために週刊誌のライター仕事に手を出し、そこで取材対象となるパパ活女子と関わっていく広義の暗黒百合。百合かな? 百合ってことにしておいてください。
 パパ活女子のジョーカー(DCのではない)っぷりがズルくて、そこがいいんスよね〜〜。
 小説家がメインキャラの新作だと他に高江洲弥の『先生、今月どうですか?』や瀬川環の『三文小説集 瀬川環作品集』や藤松盟の『姉の親友、私の恋人』も印象的でした。

『黄昏てマイルーム』コナリミサト

『凪のお暇』で一巻ごとに「こういう話だったのか!?」を人間関係とマインドセットの曲芸だけで更新してくるコナリミサトは何描いても巧い期に入ってしまったのではないか、という疑惑があります。

『向井くんはすごい!』ももせしゅうへい

 2021年代のLGBTQ主題まんがの最前線。ジャンプラなんかでも『肉をはぐ』以降セクシャルマイノリティを正面から扱った短編が増えていて、まあそれは業界全体の傾向でもあるんですが、ここまでヌケのいい作品はあまりなかった気がします。

『ワルプルギス実行委員会実行する』速水螺旋人

 奇想SF短編集。い速水螺旋人がおもしろいなんて誰でも知っていることです。白眉はゴーゴリの「外套」のパロディ。物語自体は「外套」からほぼ変えていないんですが、一点だけ、「外套がパワードスーツになっている」、というアイデアだけでSFになっているのがすごい。表題作もちょうどいい具合ですき。

『ライカの星』吉田真百合

 2021年に『犬は歌わない』というドキュメンタリーを観まして、それはソ連初宇宙犬となったライカの記録映像と現代ロシアの都市部で暮らす野良イヌたちの映像を交互に映していく映画だったのですが、人によって蹂躙されていくイヌたちの姿を見せられると『ライカの星』で人間たちに復讐しようとした宇宙犬にがんばれ、と言いたくなります。

【エッセイ・ルポ・実録まんが】

ベスト7

『いつも憂き世にこめのめし』にくまん子

『フィリピンではしゃぐ。』はしゃ

『さよならキャンドル』清野トオル

『鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟卯月妙子

『女の体をゆるすまで』ペス山ポピー

『迷走戦士・永田カビ』永田カビ


今年もたくさんエッセイまんがを読みました。わけても上記七作は文句なく傑作です。

『いつも憂き世にこめのめし』は性生活を含めた赤裸々な日常をやわらかくユーモラスなタッチで描いた作品。妹がいいキャラしている。


『フィリピンではしゃぐ。』は語学留学のために渡ったフィリピンでさまざまな国籍のひとびととの共同生活を描いたもの。留学あるあるを通じて語られる「母国語が英語でないもの同士の交流」がキュート。


『さよならキャンドル』は清野とおるが満を持して送り出すとっておきのネタ、東京都北区十条のスナック「キャンドル」の思い出を綴った作品。ママをはじめとした「キャンドル」の面々がとにかく実在を疑うレベルで濃い。
ここまで濃厚なキャラの出てくるエッセイまんがもない。清野先生の集大成といってもいい。


『鬱くしき人々のうた』は九十年代に精神科の閉鎖病棟のリアルが描かれたエッセイ。卯月先生自身のキャラの強烈さもあるけれど、電気ショックや患者間のレイプが当たり前のようにあっさりと描かれるのがショッキング。それでも全編に奇妙なポジティブさが漂っているので救われる。


『女の体をゆるすまで』はノンバイナリーの性自認を持つ著者が女性の身体を持って生まれてきたことで晒されてきた性暴力や違和感と向き合っていく作品。非常な話題作になりましたね。アシスタント時代に受けた性暴力について加害者本人と対峙するクライマックスは強烈な印象を残しました。


あだち勉物語』は、『連ちゃんパパ』で鬼バズりをしたありま猛が大作家あだち充の兄のあだち勉を描く伝記的まんが。ありま先生のまんが力がとにかく高い。個人の伝記のみならず、当時のまんが界(あだち充赤塚不二夫周辺)の周囲をインサイダーとして視点から記録しており、史料的価値も高いです。


『迷走戦士・永田カビ』はご存知永田カビ先生の最新エッセイ。生きていてほしい。それだけが願いです。


ほかで心に残ったのは『性別X』、『人生が一度めちゃめちゃになったアルコール依存症OLの話』、『つつがない生活』あたりでしょうか。


【五巻以内で完結したまんが】

ベスト5

『午後9時15分の演劇論』横山旬 3巻完結

 2021年でいちばんおもしろかったワナビ・芸術系大学生まんががどれだったかといわれたら、新旧問わずこれになる。創作の何もわからなさを赤裸々に曝け出したまんがというと島本和彦を思い出しますが、島本が虚勢のような韜晦のような断言をぶちかますのに対して、こっちはマジでなにもわかんない。マジでわかんないままものづくりをやる、そこに青春のリアルがある。

『東京城址女子高生』山田果苗 4巻完結

とにかく地味な題材に高校生の部活ものというありきたりなセッティングを、ていねいな狂気で描ききった秀作。こういうものこそ、存在の記録をウェブのどこかに記録しておかないといけない。

異世界もう帰りたい』ドリヤス工場 3巻完結

 ドリヤス工場のキャリアハイ。異世界ものの傑作の要件である「世界をちゃんとデザインしている」を十二分に満たしている。

風太郎不戦日記』原作・山田風太郎、漫画・勝田文 3巻完結

 最高の原作、最高の作画。近年の『モーニング』における最大の奇跡。「あそこ」にラストをもってくる批評性や同時代性を含めて完璧。

『友達として大好き』ゆうち巳くみ 3巻完結

 コミュニケーションの距離感がわからない人が適切なコミュニケーションを学んでいく、数あるコミュ障まんがでも宝石のような輝きを放っていた。

+10

『無敵の未来大作戦』黒崎冬子 3巻完結

 流れるようにファンシーとギャグが織り込まれ、なにもかもがまるでとぼけていて軽やかなのだけれど、そこで描かれている葛藤や鬱屈はとてもシリアス。このバランスで描ける作家は今後三年は出ないのでは。

『交換漫画日記』町田とし子 2巻

 まんがバージョンの交換日記を通して描かれる高校生同士の友情と恋と夢。シンプルな題材ながらも作品自体も作中作もとても豊穣。

『怒りのロードショー』マクレーン 3巻完結

 一時期濫発された映画ものまんがの孤高にして最高峰。

『海辺のキュー』背川昇  4巻完結

 オチもの青春ホラーの新たなるマスターピース。背川昇はほのぼのとダークの落差を描かせたら現状右に出る者がいない。そういえら、『タコピーの原罪』まだ読んでないんですけど、概要だけ聞いて『海辺のキュー』みたいなもんですかとタコピー読者に訊いたらそうかもと返ってきた。そうなの?

『狩猟のユメカ』古部亮 3巻完結

 喋る動物バディハンティングバトルサスペンス。サイコパスの怖い人を描くのがうまかった。ただただ惜しい。

『謎尾解美の爆裂推理!!』おぎぬまX 2巻完結

 近年の新作ミステリマンガでもかなりおもしろい部類だったものの、探偵モノでキン肉マンをやろうとしたたためにミステリ界からは黙殺された。

『JSのトリセツ』雨玉さき 2巻完結

 『なかよし』で連載されていた現代最先端の児童教育まんが。保護者の立ち回りにまで配慮しているのがすごい。
 

『魔々ならぬ』ゆーき 3巻完結

 魔王と勇者が同時に日本のぼんくら男性のもとへ飛ばされてくる逆異世界転生共同生活もの。絵もギャグもシャープでよかった。

 

『スポットライト』三浦風 3巻完結

 陰キャの大学生が片思い相手を追いかけてミスキャンのカメラマンをやることになったがその片思い相手にもミスキャン運営に片思い相手がいた、といういかにも今っぽいぐちゃぐちゃ青春もの。見た目はオシャレなのだが、読むとグロテスクなまでにダウナーで暗い、けれどほのかな光明も見せてくれる、という奇妙なのだか巧妙なのかわからないバランスがクセになる。

『ほしとんで』本田 5巻完結

 大学の短歌ゼミを選んだ主人公が教授やゼミ生たちと心温まる短歌ライフを送るまんが。本田先生の新連載も去年単行本が出ましたが、打って変わって自殺をテーマにしたシリアスな連作短編でビビったね。


他に覚えておきたかったところとしては、志村貴子の『ビューティフル・エブリデイ』(3巻完結)、おれたちのまつだこうた先生の『あゝ我らがミャオ将軍』(3巻完結)、縁山『家庭教師なずなさん』(4巻完結)、鬼頭莫宏原作『ヨリシロトランク』(3巻完結)、うぐいす祥子『ときめきのいけにえ』(3巻完結)。
あと「5巻以下」というレギュレーションからは外れますが、灰田高鴻の『スインギンドラゴンタイガーブギ』(6巻完結)は特にメンションしておきたい。いやでも六巻まで広げたらチョモランの『あの人の胃には僕が足りない』も入るし収集がつかなくなりますね……。
 さてもとりあえず、以て瞑すべし。


【おまけ】『ルックバック』について。

 まず2021年はどういう年だったかといえば、藤本タツキの『ルックバック』の年でした。年間新作ベストリストについて話をするにあたって、『ルックバック』の話しなかったら片手落ちどころか、ぜんぶうそになってしまう。それくらい大きな作品は、こと単発の一巻ものとして出版されたまんが作品としては近年でも稀有です。
『ルックバック』はすごいまんがだとおもいます。しかし、わたしのリストには入っていません。なぜか。わたしの夢ではないからです。
 年度ベストであろうと初心者にオススメな○○100選であろうとリストを作るというのは、一種の賭けです。点をならべることによって自分のテイストを線にする。それは年間通して読んだもの観たものにしかできない贅沢であり、その贅沢をわたしはだれにも差し出すつもりはない。*14
『ルックバック』に向けられたあらゆる語り、創作者の葛藤、京都アニメーション事件への哀悼、純技術的な審美、時代性、ウェブまんが時代における中編・短編の地位の地殻変動、ジャンププラスというプラットフォーム、藤本タツキという作家への共感と愛着。
 いずれもわたしには無縁なものです。
 わたしの馬は別にいて、わたしはそれに賭けたいとおもう。
 それだけのことです。

【おまけその2・今年の傾向】

・御前試合(トーナメント)ものと、ポスト藤本タツキと、ポスト(アンチ)ヒーローものが流行ってるな、という話でもしようと最初は考えてたんですが、一番目と三番目にあんまりおもしろいものがないのでテンションがあがらないんでやめました。御前試合ものに関しては最近の『テンカイチ』、ポストヒーローものに関しては『EVOL』が好きです。

 ほかにもまあいろいろおもしろい新作はあったのですが、ぜんぶはね、ぜんぶは無理だよ。つかれた。

【おまけその3・過去の年度ベスト】

そのときどきのコンセプトがバラバラです。

proxia.hateblo.jp
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なんで今年書いててやたら疲れたのかわかった。いつもは臨終図鑑か新作連載ベストか単発長編ベストかのどれかしか出さなかったのに今年だけ全部やろうとしたからだ。

*1:虫ものは毎年供給されるジャンルなのですか、今年はなんか虫人(虫擬人化)ものが二つあった(有野金悟の『肉食JKマンティス秋山』と、村田真哉・zuntaの『こんちゅき』)のが印象に残っている

*2:わたしは青木幸子の『ZOOKEEPER』が頂点だとおもいます。

*3:二巻目でやや勢いが落ちたかな、と感じてしまった

*4:そういえば『偶然と想像』にも描かれてたけど、「好意はあるけど好きかどうかまではわかんなくて、でも次に会ったら高確率で好きになってしまうかもしれない」情緒って、男性向けフィクションには稀な感覚な気がする。基準は『モーニング』であり、『島耕作』です。

*5:細かく説明すると、一コマ目(「紙を43回折ると〜」という説を聞かされる)から紙を折る過程が描かれる二コマ目、三コマ目がだんだんと小さくなっていき、”月に届く”四コマで文字通りパッとコマが広がる。

*6:中学生くらいだと思って読んでたら amazonのあらすじで高校生となっていたのでびっくりした

*7:まあ今どき文芸誌にまんがが載ること自体はめずらしくもなんともありませんが。

*8:その貧困が日本社会そのものの貧困に由来していることを含めて

*9:シリアスとコメディが混ざるきららなやつだと今年は幌田の『またぞろ』もありましたね。わたしは四コマ基本的にあわないのであわなかったですけれど。

*10:もともと『コロコロアニキ』で徳田ザウルス原作で『ダッシュ!四駆郎』の続編を描いてはいましたが

*11:2021年から電子版へ移行

*12:Dr.STONE』原作

*13:わたし的には『信長』

*14:そういう意味でわたしは2021年度の新作映画ベスト作りを迷っています。例年に比べてあまりに観ていないからです。ただ、ベストには未来の自分のための記録という側面もあるので、出さないのも違うかなという気もする。

2021年の新作映画ベスト10+α

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 昨年は一昨年に輪をかけて映画を観られなかった気がします。やっぱり映画館行かないと観ないひとなんですよ、あたし。
 そんな状態で出すトップリストって公益性はあんまりないわけですけれど、まあそもそもが全体的に公益性なんてないブログなのだし、備忘録としては結局必要になるのだし、結局は出さざるをえない。
 というわけで参りましょう。2021年に公開された新作映画マイベストです。


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画像はイメージです


新作映画ベスト10

1.『キャッシュトラック』(ガイ・リッチー監督、米英)


 なんかこう長らく映画館に行けなかった時期があって。そうなると映画の愉しみを忘れてしまうんです。もう映画ってなにがおもしろかったのかわからない。
 それでひさびさに映画館で観て、ああ映画っていいなあ、って気持ちが蘇ったのが『キャッシュトラック』でした。ガイ・リッチー映画ですよ。そんなガイ・リッチーって好きじゃなかったのにね。
 どこが「いいなあ」だったのかって、暴力が常に上位に来るわけですよ、この映画。
 いちおう、ジャンル的にはクライムだかノワールだかだったり、プロット的には割と凝った風の構成を取ったり、スパイ探しみたいな要素もあったり、でもそういうのが全部暴力の前に雑におざなりに吹き飛んでしまう。スパイ探しなんて、なんか唐突に犯人がおもむろに自白しだしますからね。あたかもミステリ要素なんてなんでもないかのように放り投げる。だってこれは暴力の映画だから。原題なんて Wrath of Man ですよ。いまどきスーパーヒーロー映画以外で Man なんてタイトルにつけないでしょう。しかも、Wrath ときている。アホなんじゃないの。
 とにかく銃弾が飛び交って、一瞬の差で人が簡単に雑に死んでいく。ほぼみんな死んじゃう。ステイサムだけが生き残る。理由なんてないんです。ステイサムだから生き残っている。

 特に感動した場面があります。
 ジョシュ・ハートネットの演じるイキリヘタレキャラが幸運にも修羅場から五体満足で脱出する。みんな死ぬような映画で生き残れるポジションに入りかけるんですよ。でも、向こうで鳴っている銃声に魅入られるようにして、フラフラとキリング・フィールドに舞い戻って、結局なにをするというわけでもないまま無様に死んでしまう。
 なんだかよくわからない高揚に当てられて、灯下の虫にようにふらふらと飛んでいって焼かれてしまう。そこにコンプレヘンシブな言語なんて介在する余地はなくって、ただ熱と光だけがある。映画を観るって、そういうことなんじゃないんでしょうか。

2.『偶然と想像』(濱口竜介監督、日)

 アクセルしか踏まないキャラしか出てこない。そしてそういうキャラクターのエンジンによってのみ物語が駆動しているところがすごい。

 基本的に濱口竜介はことばのひとです。ことばを発することそのものにアクションがある。そういうと非映画的な監督なのだとネガティブに受け取られそうだけれど、まあそういう勘違いはほうっておけばよいのです。
 で、そういうことばのバランスが稀に崩れてただアクションだけが先行する瞬間があり、たとえば『寝ても覚めても』のレストランで東出昌大と入れ替わって東出昌大が現れる場面は問答無用にエキサイティングでした。
寝ても覚めても』には『ハッピーアワー』にも『ドライブ・マイ・カー』にもない快楽がありました。それはなにかといわれるとなにかはよくわからなくて、起因するとしたらある種のジャンル映画っぽさなのかと推測したりはできるのだけれど、やっぱりよくわかんない。
ああいうのがまた観たいなあ、と願いながら『ドライブ・マイ・カー』を観にいき、ああ、こういう方向に洗練されていくのか、と映画自体の評価とは別に、失望のような諦めのような感情を抱いて映画館を出たのが夏のこと。もう二度と濱口竜介の撮る身体にゾクゾクさせれることはなくなった、そうおもいました。
 ところが『偶然と想像』で再会できたんですね。第三話。あれこそもう奇跡みたいなもんですね。

3.『ライトハウス』(デイヴ・エガーズ監督、米ブラジル)

「2人の男性が灯台のメタファーとしての巨大な男根像に残されたとき、良いことはなにも起こり得ません」という監督のことば以上に的確な評言もないとおもう。ちいかわみたいなもんです。

4.『プロミシング・ヤング・ウーマン』(エメラルド・フェネル監督、米)

 チャーリーXCXの Boys から始まる映画がおもしろくないわけない。
 ええっ!? マジでここで終わるの!? という突き放した感じがすさまじかった。これが世界なんだよ、と言われたような気がして、呆然とした。まあ、ここで終わんなかったわけですが。
 あとでインタビュー読んだら監督的にはあそこで終わらせたかったらしい。そうだろうよ。あそこで終わらせられなかったのは結局のところ映画が夢を語る装置としての役割を強いられているからだと思います。そこのあたりは実はハリウッドは黄金期のころから、もちろんニューシネマ時代にあってさえ、変わらなかったわけですけれど。

5.『恐怖のセンセイ』(ライリー・スターンズ監督、米)

 『ベスト・キッド』と『ファイトクラブ』をかけ合わせたような最高のトキシック・マスキュラリティ映画。
 ジェシー・アイゼンバーグAORを聞き、フランス語を習い、ダックスフントを飼っていることを聞いた空手のセンセイが「男の音楽はメタル! フランスの歴史は妥協の歴史、語学ならロシア語かドイツ語! イヌを飼うならジャーマンシェパードを飼え!」などと言ってくる。

6.『マリグナント』(ジェイムズ・ワン監督、米)

 マ〜〜〜〜〜ジでバカ。

7.『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(古川知宏監督、日)

 テレビ版のときはああ清順とかイクニとか好きなのねってくらいでたいして面白いとおもわなかったんですけれど、映画はヤバかった。死ぬかとおもった。たぶん、演劇とおなじで密室での鑑賞体験だからこそなのだとおもいます。

8.『悪なき殺人』(ドミニク・モル監督、仏独)

悪なき殺人(字幕版)

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  • ドゥニ・メノーシェ
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 チャプターごとに視点人物が切り替わる系のミステリ作品なんですが、切り替わるごとに謎が収束していくというより、エッ!? こんなとこ飛ぶの!? という驚きが連続してどんどん加速していく。なんか真面目っぽい顔して、そうとうアホで良い映画です。
 いや、まさかさ、フランスの片田舎で起こった主婦の行方不明事件がコートジボワールの黒魔術師へと行き着くなんて誰も想像しないでしょう。
 あとファーストカットが強烈でいい。映画ってファーストカットでヤギをおんぶした人を自転車で走らせてもいいんだ。

9.『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(アンディ・サーキス監督、米)

 コロナを経てMCUのあらゆる面での過剰さにもう疲弊しきってしまったわけですが、そこに一服の清涼剤として現れたのがど根性ヴェノムさんの二作目。
 なにがいいって、雑なんですよ。話の展開とかカットとか割と「これでいいや」って感じで雑に切る。他のマーベル映画ならあとひと手間ふた手間かけているところをハイ次ってかんじでサクサク進行させていく。それで驚きのランタイム実質90分。
 内容もひたすら痴話喧嘩だし、なんならロマンティック・コメディのパロディみたいなシーンさえやる悪ノリっぷり。
 極めつけはラスト。
 あそこまでとってつけた感のあるラストはひさびさに観ました。とってつけた感しかないんですよ。ほんと。そこがすばらしい。
 MCUって全部意味じゃないですか。コメディよりのやつであったとしても、すべてつながっていてひとつの大きな流れのなかにある。でもヴェノムは孤高かつナンセンスなんです。なくてもいいんです。ストップ・メイキング・センスってかんじです。その軽さに救われる。
なんて思っていたら、ちゃんと『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』につながっていてびっくりした。やっぱり特に意味はなかったんですけど。

10.『PITY ある不幸な男』(バビス・マクリディス監督、ギリシャポーランド

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 不幸な状態に依存してしまうことって人間あるよな〜という点では『愛がなんだ』に通じているんですけれど、脚本がヨルゴス・ランティモスの長年のパートナーであるエフティミス・フィリップなので万倍ひどい。撮り方はまあなんというか……ランティモスってやっぱりギリシャのクレムデラクレムだったんだなって。
 イヌがすばらしくいいです。

他に言及したいもの

『ミラベルと魔法だらけの家』(バイロン・ハワード監督)

 ディズニーひさびさのミュージカル。アンチプリンセスものとしての意識がけっこう明確に出ていて、たとえば「動物と意思疎通ができる」というのは典型的なディズニープリンセスの権能であったのだけれど、それが目の前で別のいとこに”とられる”というシーンがあったり、他にもアナ雪のエルサを意識したキャラにクィア的なイメージ*1を暗に付与していたり。ミュージカルシーンの出来もわりかしよかった。『ズートピア』以降で一番好きなディズニー/ピクサー長編かもしれない。
 やっぱりアメリカ人はミュージカルのつくりかたがわかってるよね。それにしても最近のアメリカはミュージカル多いですね。半分くらいはリン・マニュエル・ミランダのせいでは。

『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督)

 リドスコはSFとかより時代劇のほうが好き。あんまり顧みられてないけど『キングダム・オブ・ヘブン』とかそれこそ『ザ・デュエル』とか。クソ重そうな甲冑着てクソ重そうな剣を振り回すシーンを撮る時の気合の入れようは半端なくて、本作の決闘シーンはリドスコ史上でも抜きん出ているのじゃなかろうか。『グラディエーター』とかよりもずっと。*2
 あとイヌを中心に動物がいっぱい出てきて、それぞれのシーンでパッと見で寓意がわかるのもよい。

ピーターラビット2』(ウィル・グラック監督)

アメリカ人が作るイギリス映画」という奇妙なポジションが2では特に炸裂していて、ピーターがメンターを得てストリートでヘイストしたりする。

『クルエラ』(グレイグ・ギレスピー監督)

 親殺し映画としては最高なのだけれど、『101匹わんちゃん』の前日譚としては最悪というなんともアンビバレンツな気持ちに苛まされる。まあ『マレフィセント』のラインだろうし、ベースになってるアニメから外れてなんぼのもんってノリなんだろうけど。
 でも、いちばん許せなかったのはクルエラが擬似家族を作ってたところだったかな。
 クルエラってそもそも「家庭」とか「家族」的なるもののアンチとして出てきたキャラなんですよ。原作小説では毛皮商の妻ってことになっているんだけどかなり好き勝手やって「わたしの一族はわたしが最後だから、夫をわたしの姓に変えてやったわ」なんて言い放ったりする。”良妻賢母”であるパディタと対置されているわけです。
 これが『101匹わんちゃん』ではもはや何やってるかわかんない無から生まれた女*3みたいになっていて、ただ純粋にダルメシアンの子どもを盗んで毛皮にしようとするヤバいひとになっている。
『101匹わんちゃん』は飼い犬同士が縁を結んで飼い主同士も結婚して、幸福なご家庭を作ることが核になっている映画で、狂った孤独な女であるクルエラは子どもを奪って家庭を崩壊させる悪の象徴なんですね。
 これが実写版の『101』になるとさらに加速して、ヒト(飼い主夫妻)とイヌ(ダルメシアン夫婦)の妊娠と出産が完全にシンクロするというグロテスクなプロットになる。一方でクルエラにはファッションデザイナーという地位が与えられる*4。自分の会社でデザイナーとしてのセンスを開花させた部下のパディタに惚れ込んでいるんだけれど、あるとき「結婚するからデザイナーやめます」と告げられて激怒する。90年代の映画なんですけど、「いくら才能があっても結婚すれば家庭におさまるのが女のしあわせ」という価値観がアメリカでもふつうにまかり通っていたんですね。で、パディタを取り戻そうとする仕事人間であり成功者であるクルエラが”悪”とされてしまう。
 クルエラがパンクなのだとしたら、それはファッションや後ろで流れるBGMがパンクなのではなく、そのあり方や生き様がパンクなんです。だって、ディズニーの女性ヴィランってだいたい魔女か女王かその両方なのに、『101匹わんちゃん』のクルエラってただただイカれてる一般人(主人公の元同級生)なわけですよ。すごくないですか?
 わたしはクルエラにその狂気をつらぬいてもらいたかった。パンクでありつづけてほしかった。キャラの福祉を考えたら、そら擬似家族的なコミュニティを形成できたほうが幸せだよね、って話なんですけれど、クルエラにはそういうものを超越してただ突っ走ってほしかった。
『クルエラ』には”悪役であること”を引き受けるくだりがあって、そこはクルエラマインドがあったんですけどね。まあ単体の映画としては好きです。

 

『セイント・モード』(ローズ・グラス監督)

セイント・モード/狂信

セイント・モード/狂信

  • モーフィッド・クラーク
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 たまにホラーでキリスト教テーマというかイカれた狂信者ものなのがあって、あーこれ書いてて今フラナガンの『真夜中のミサ』の続き観なあかんなー、と考えているわけですけど、『セイント・モード』はかなりそのへんソリッドといいますか、必要なことしか詰まってない。ファナティシズムとナーブスリラーみたいな要素がうまいこと絡まっていい出汁が出ております。プロットは百合。ラストはかな〜りいじわる。

『パッシング 白い黒人』(レベッカ・ホール監督)

(ネトフリ映画)

 俳優が監督業に手を出すのは太古の昔からあるわけですけれど、近頃は映画技術の向上のせいか打率が上がっている気がする。『パッシング』はかなりルックが練られた作品で、主題となっているのはタイトルにもある人種的パッシング、つまり、肌の色が薄い黒人が白人を装って社会に溶け込むという昔の黒人の生き方で、主人公もそういうひとなんですけれども、これをモノクロで撮る。しかも、やや昔っぽいライティングで撮る。するとどういうことになるかといえば、主演の黒人俳優の肌がやや薄くなって、いかにもブラックって感じじゃなくなる。この手法がかなりスリリング。
 そして、主人公が自宅のあるハーレム(黒人地区)に戻るとそれまで白が基調だった画がガラリとかわって黒が基調となる。
 あざといといえばあざとい演出なんですけれど、うまいなあ、とおもうわけです。

サウンド・オブ・メタル』(ダリウス・マーダー監督)

 めちゃめちゃがんばっているわりに報われている感の少ないリズ・アーメッドですが、今回もめちゃめちゃがんばりました。音を通じて世界を覗く映画っていくつかありますけれど、これは手堅くできていますね。原案がデレク・シアンフランスですが、っぽいといえばっぽい気がする。

孤狼の血 LEVEL2』(白石和彌監督)

 イヌが人間になる映画。

『サイダーのように言葉が湧き上がる』(イシグロキョウヘイ監督)

 わたせせいぞうみたいな画面もよいんですが、なんといってもSNS描写。「インターネットをポジティブに描写する」っていうのはこういうことなんですよ、誰にとは言わないけど。

『花束みたいな恋をした』(土井裕泰監督)

 あれだけコスっといてこういうところで言及しないのも不実だなあって。
 

『ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償』(シャカ・キング監督)

 潜入スパイものってそれだけでおもしろい。映画の最後に、エッ、このひと21歳だったの!? ってビビったけれど。

『ファーザー』(フロリアン・ゼレール監督)

 演劇的な手法がよく効いていておもしろい。わたしも忘れっぽいのでアンソニー・ホプキンスに全力で感情移入しました。

ダヴィンチは誰に微笑む』(アントワーヌ・ビトキーヌ監督)

 アート業界はまじで魑魅魍魎の巣窟なんだな……とおもわせられる山師ばかり出てくるドキュメンタリー。再現映像を本人にやらせるのがしょーもなくてよい。ドキュメンタリーだと他にも『コレクティブ』とかよかったな。ドラマシリーズだと『殺戮の星に生まれて』。

犬映画オブ・ザ・イヤー

☆『犬は歌わない』
 『最後の決闘裁判』
 『恐怖のセンセイ』
 『PITY ある不幸な男』
 『カラミティ』
 『孤狼の血 LEVEL2』



今年はPTAとウェス・アンダーソンの新作を愉しみに生きていきます。

*1:虹色がキーカラーとなる

*2:最近ジョエル・コーエン版の『マクベス』も観ましたが、やっぱりリドスコとは気合が違う

*3:いちおうパディタの元同級生という原作からの設定は継承している

*4:この設定が『クルエラ』では引き継がれる


かわいいゾウさんを撃つーー『It Takes Two』について

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*本記事には『IT Takes Two』についてのネタバレが含まれています。*1


しかし私はその象を撃ちたくなかった。草の束を膝に叩きつける象を私は見つめた。象は何かに没頭している老婦人を思わせる雰囲気を持っていた。象を撃つことは謀殺のように思われた。


   ーージョージ・オーウェル「象を撃つ」(Haruka Tsubota 訳)



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ゾウは忘れられない


 2021年度の The Game Awards でゲーム・オブ・ザ・イヤー(作品賞)に選ばれた It Takes Twoは、ゲーム史に残る邪悪なトラウマをプレイヤーに刻んだゲームでもあった。
 ゾウを殺すのである。
 ただのゾウではない。
 この世の純粋無垢を具現したような愛らしい、思いやりのある、かわいいゾウ、しかもぬいぐるみのゾウをプレイヤーは手にかけなければならない。
 プレイヤーに拒否権は事実上ない。ストーリー進行の要請としてゾウさんをひどいめに合わせねばならず、どうしてもやりたくないならゲームをそこでストップする以外の方法はない。
 一連のイベントシーンを乗り越えたプレイヤーたちは誰もが頭を抱えて、あるいは天を仰いで、こうつぶやく。
 ーーどうしてこんなことに。


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どうして……?


 It Takes Twoは世にも珍しい二人プレイ専用のタイトルだ。
 仲が冷え切ったすえに離婚を決断した夫婦が離婚を悲しむ娘の涙の力によって、魂を人形に囚われてしまい、元の肉体へ戻るために協働して奮闘する、という内容。プレイヤーは夫婦のうち、どちらのキャラを操作するかそれぞれ選んでプレイする。
 基本的には3Dのフィールドでパズルをときながら進んでいくプラットフォーマー・アクションだが、途中で多彩なミニゲーム(だいたいは明確な元ネタあり)をこなしていったりもする。
 相棒となるプレイヤーと、ときに励ましあい、ときに罵りあい、ときに煽りあって進行していくプレイはゲーム内の物語そのものともシンクロしており、豊かなゲームデザインとあいまって、約12時間前後の共同作業がまったく苦にならない。たしかにゲームオブザイヤーの名に恥じない、2021年の新作タイトルでもマストな一本といえるだろう。


 だが、ゾウを殺さなくてはならない。


 問題となるのは Cutie という名前のゾウさんと対峙するシークエンス。
 自分の身体を取り戻すにはもう一度娘に涙を流させればいいのではないか、と考えた主人公夫婦は、彼女のお気入りだったぬいぐるみを壊すことで娘に悲しみに追いこうとする。そのターゲットとなるぬいぐるみが Cutie だ。
 そんな企みを露も知らない Cutie はアポもなく現れた夫婦を歓迎し、ハグをしたり、クッキーを薦めたりする。夫婦が自分を殺そうとしていると知ったあとでさえ、穏やかに説得してやめさせようと試みる。
 Cutie は本編でプレイヤーたちの言い訳になるような悪事を一切働いていない。ひたすら、いい子だ。
 プレイヤーたちは命乞いをしながら逃げ惑う Cutie を追い回さなければならない。傷つけなければならない。殺さねばならない。
 その殺害過程は凄惨のひとことに尽きる。とても文字では描写できない。詳細を知りたい場合は本編をプレイするか、あるいは youtubeにアップされた動画を観てほしい。


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 上の動画のコメント欄には嘆きと後悔が渦巻いている。「Cutie にこんなことはしたくなかった」「インディーゲームでここまでの罪悪感と絶望と悲しみを抱いたことはかつてなかった」「このシーンを見た後、セラピストへ会いに行きました」「泣いた」「あらゆるゲーム・映画を通じて最も心打ち砕かれるシーンだ」……
 実際にこのパートでプレイを止めたと告白するものさえいる。 
 Steam の不評レビューでもっとも評価を集めているのも「ゾウさんがかわいそう」*2と書かれたものだ。ちなみに二番目に人気を集めている不評レビューは「クリアするより前に彼女からフラれたので(オススメしません)」だ。
 

 Redditのある投稿者*3は「俺はこれまでゲームを通して色んな存在を殺してきた。悪魔から空港の一般人まで、あらゆるものを。そういうことについて、あまり深く考えてこなかったといえる。だが、慈悲を請うなにかを苛み殺す経験は、俺と俺のガールフレンドをすさまじく不快にさせた」。


 この投稿で言及されている「空港の一般人」とは一人称視点シューティング戦争ゲーム『Call of Duty』シリーズ6作目『Modern Warfare 2』(2016年)に出てくるあるステージを指す。そのステージではプレイヤーはテロリスト*4に扮し、ロシアの空港で丸腰の市民を虐殺することになる。*5
 ビデオゲームの歴史において最も論議を呼んだ場面のひとつだ。*6
 

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 そんな悪趣味の極致とされるゲームよりも Cutie 惨殺はむごい体験だった、と彼はいう。

 このようにゲーム中に道徳やタブー、法律、そして個々の感性の境界を踏み越える体験をビデオゲーム研究者のモーテンセンヨルゲンセンは〈逸脱 transgression 〉と呼んだ。*7
 逸脱的な体験はときに殺人のような社会規範にもプレイヤーの道徳理念にも反する行動を強いるけれども、基底現実でそのような行動を取るよりはプレイヤーに耐え難さを催させない。なぜなら、プレイヤーは、実際の行動と結果が生じているゲーム内世界から身体的に切り離された空間におり、文脈的にも隔絶している。要するに、画面のこちら側でボタンを押すことと画面の向こう側で銃を撃って人を殺すこととのあいだには、地続きの感覚として認識するにはかなりの距離がある、というわけだ。*8
 

 逸脱にはある種の美的経験をもたらす効果がある。*9戦争ゲームをメタ的に解釈した Spec Ops: The LIne (2016年)に代表されるように逸脱を明示的に批評的な文脈で用いるゲームも多く存在する。しかし、CoD:MW2や純粋な無差別殺戮を追求したと謳ったポーランドの Hatred(2015)などは多くの人々に火遊びの快楽を超えて嫌悪を催させた。*10
 そして、It Takes Twoはそれ以上の拒否反応を招いた。
 現実世界において、ゾウのぬいぐるみをめちゃくちゃにすることは、無抵抗の市民を虐殺するより残酷な行いだとはまずみなされない。ここに顛倒がある。なぜだろう。
 
 
 ひとつには、Cutie が顔を持ったキャラクターとしてよくデザインされていることだ。Cutie が劇中で登場してから退場するまでは数分程度しかないものの、そのあいだに彼女のやさしさ、愛らしさ、無垢さがわずかな会話や行動で十全に提示されている。
 感情移入するにあたり、対象を一個の存在として認識することは重要だ。たとえば、ひとは「○○という国の子どもたちが飢えて苦しんでます。あなたの寄付で救えます」という情報を見せられても、なかなか簡単にそうした子どもたちの窮状に対してアクションを起こそうとはしない。ところが、「○○という国にすむ△△ちゃんは今晩食べるパンすらありません。彼女は毎朝家族のために10キロ離れた井戸まで水を汲みに……」などと具体的なストーリーを提示されると急に寄付へとつながりやすくなる。*11
 創作の分野においてキャラクターの重要性が説かれるのもつまりはそういうこと。どうでもいいキャラが死んでも読者にとってはどうでもいい。
 そして、Cutie のキャラは声といい振る舞いといい、かなり幼く設定されている。ここが特に制作者の悪辣なところだ。まるで何もわからない子どもを手にかけているような感覚に陥ってしまう。 外見も幼児向けのぬいぐるみであり、実際主人公の娘の大事なおもちゃという設定もあるため、容易に「=子ども」という連想が働いてしまう。
 子ども殺しの描写は全世界的にエンタメコンテンツで忌避されている。『Skyrim』のようにNPCを無造作に殺害できるようなゲームでも、子どもだけはその対象から外されていることが多い。前述の CoD:MW2 でさえ、空港の虐殺シーンに子どもは出していないのだ。
 そうした点において、It Takes Twoはタブーに踏み込んでいるといえる。逸脱の度合いが高い。
 
 
 もうひとつには、主人公夫婦の行動原理に共感できないこと。
 すでに書いたように主人公夫婦は「娘の涙のせいで自分たちが人形になってしまったのだから、もう一度娘を泣かせばきっと元に戻れる」というロジックで動いている。いかなる理由があれ、自分たちの娘を泣かせるつもりで行動する親がいるだろうか。*12
 実際、このあたりの物語運びに強い拒否感を抱いたプレイヤーは少なくようだ。ある Steam ユーザーは「こいつらに子供を育てる資格はない」*13と断言し、英語圏のあるユーザーは「『こいつらはサイコパスだ』と感じてプレイを止めた」という。
 もちろん、主人公夫婦はこのあと娘に対するおもいやりを取り戻すわけだが、それにしてもいくら切羽詰まった状況で多少のためらいはあるとはいえ、「自分の子どもを傷つけようとする親」が描かれるというのも考えてみれば、いくらギャグであるとはいえ、異質だ。
 

 さらにもうひとつ。以上このイベントが作品の見てくれから期待されていなかったことだ。
 物語はおとぎ話みたいで実際、物語全体通して見ればハートフルといえるし、キャラクターデザインもかわらしく仕上げられている。まさに子どもといっしょにプレイするにふさわしい感触だ。
 そのゲームの外見や事前情報から想定される期待のフレームを外れたとき、プレイヤーは衝撃を受ける。それは「裏切られた」という感情へ、ときにいい意味で、ときに悪い意味でつながる。
バイオハザード』を購入して遊んだプレイヤーが「まさかゾンビになった人間を銃で撃つハメになるとは……」とショックを受けることはまずない(「まさか、あんな屋敷のなかであんな謎パズル解かされるだなんて……」とショックを受けることはあるかもしれない)。戦争ゲームであるCoDで一般市民を虐殺することは予想しないかもしれないが、しかし兵士やテロリストを射殺することは期待するわけであるし、そこにおいて一般市民を巻き込むことをまったく想定しないかといえばそうではないだろう。
 だが、It Takes Twoにおいてかわいいゾウさんをさんざん追いかけ回して追い詰めたすえに殺すことは誰も希望しないし、想像もしない。ゲームジャンルと地続きになっている展開でもない。
 わたしたちはまったく無防備な状態で、強烈な一撃を喰らう。


 わたしたちはゲームで体験したことを語りたがる。なかでも衝撃的だった体験を語ろうとする。Cutie the elephant のくだりが It Takes Twoのネタバレにおいて最も語られるシークエンスであるのは、そういうことだ。
 開発者のジョセフ・ファレスはインタビューで「あれは美しいシーンだった。自分は大好きだ」と述べたうえでこう続けている。「ゲームはプレイを通してプレイヤーの感情を惹起します。みんなよく取り違えるけれども、いい気分が引き起こされたのであればもちろんそれはよいことですし、悪い感情が引き起こされた場合でもそれはゲームのストーリーテリングにとってはよいことなのです。」*14
 

【おまけその1・ボリート*15としてのヴィデオゲーム】


 ヴィデオゲームにおける強制力について書きたい。あるいは、steam や YoutubeRedditでかれらがそうしているように、自分の体験についてわたしは語りたい。


 Cutie 殺害がショッキングなのは、プレイヤーたちが一挙手一投足をもってその行為に加担しなければならないからでもある。本作のストーリーは一本道であり、繰り返しになるが、Cutie を殺さないという選択肢はゲームの停止以外ありえない。
 しかし、本当に自らの道徳規範や嫌悪の感情に忠実ならば、ためらいなくそこでゲームを中断できるはずだ。*16


 でも、わたしはしなかった。わたしたちは、そうしなかった。


 ジョージ・オーウェルのエッセイ「象を撃つ」をおもいだす。当時英領だったインドに駐在していたオーウェルが、地元民を殺害したゾウを射殺するように依頼される話だ。オーウェルとしては気が進まない業務だったのが、ふと気がつくと地元民の注目が自分に注がれており、宗主国民としての責務を果たすようにみえない力で強制されているかのような心地になる。そして、彼は象を撃ってしまう。
 ヴィデオゲームは自由なあそびであるけれども、不自由なあそびでもある。ゲームはときどき無意味なようにおもわれたり、プレイヤーの意に沿わないようなことも強いてくる。強制は明確な指示として文字や声で命じられる場合もあるし、
そうするしかない流れになる場合もある。それはゲームの作品世界がひとつの系であるからだし、独自の法則によって形作られているからだ。
 しかし、RPGで経験値を得るためにザコ敵を狩ったり、しょうもないミニゲームをやらされたりするならともかく、あきらかに間違っている感覚をおぼえるものを間違っていると断定できないままにやらされる体験は希少だ。これはわたしたちたちの倫理、すなわち現実がフィクションの世界に優越しているという事実のひとつの証左なのだろうか?


 この前遊んだ Spec Ops: The Line では「吊るされた民間人か兵士かのどちらかを撃たねばらない」という選択を突きつけられた。うんこ味のカレーか、カレー味のうんこか、みたいな二者択一だ。それはゲームにおける選択の無意味さについての批評のようでもあったけれど、プレイヤーとしてはどっちに転んでも最悪な分、むしろ撃つのが気持ち楽だった。
 だが、たいていのゲームのたいていの場面は選択肢を提示しはしない。ゲームには目的があり、(ものにもよるが)ストーリーやプロットが設定されている。その終端に達することで、わたしたちはようやく「ゲームを遊んだ」といえるようになる。
 ゲームのメディアとしての特性は受け手の関りかたの能動性にある。もちろん、小説にだってページをめくるという行為に能動性は宿り、それを利用して「物語を読みすすめる読者と物語内で起こる悲劇の共犯関係」をメタ的に描いたミステリだってあるけれども、かなり抽象的だ。「おまえがページをめくったせいで作中の人物がひどいめにあいました」と言われても、ハア、そうッスか、という気分にしかならない。
 ビデオゲームの操作系とインタラクションの機序も現実に比べれば抽象的にすぎる。とはいえ、選択や行動について覚える能動性はそれでも他メディアと比較にならない。
 自分の意志がそこにあるような気がするし、実際プレイヤーの意志を反映してプレイヤーキャラは動く。
 だが、実際には物語に、ジャンルに、作品ごとのシステムに、ゲーム機の性能に、コントローラのボタンの形状や数に、あるいは数々のなんとなしな了解によってわたしたちは縛られていて、その範囲内でしか意志することはできない。


 ゲーム研究者のイェスパー・ユールは『The Art of Failure: An essay on the pain of playing video games』*17プレイヤーが回避しえない意図せざるゲーム中の悲劇の例として、『レッド・デッド・リデンプション』とボードゲームの『Train』*18をとりあげている。
レッド・デッド・リデンプション』の終盤では(ネタバレになるので詳細は伏せるが)とあるプレイヤーの意志に反するであろうあるキャラについての悲劇を強制的にあじわわされる。しかし、一方でその時点では当該キャラは「プレイヤーの代理」としての役割から解放されているので、プレイヤーの感じる負担は少なくなる。人形夫婦が「プレイヤーの代理」としての役割を負わされたまま Cutie の殺害に加担する It Takes Twoとは対照的だ。
 どちらかといえば It Takes Twoのフィーリングに近いのは『Train』のほうかもしれない。

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Train


 このゲームは人間の形をしたフィギュアを貨物列車に詰め込んで輸送するゲームだ。プレイヤーはできるだけ貨物列車にフィギュアを満載しようとする。そうして、列車がマップの端に到達すると、プレイヤーは伏せられたカードの山からカードを一枚引く。そのカードには目的地の地名が記されている。なぜか、どういった地名なのかはプレイヤーに事前に明かされていない。


 一番乗りで山札から引いたあなたのカードにはこうあるーー「アウシュビッツ」と。


 その他のカードにはこうだ。「ヘルムノ」「ダッハウ」「トレブリンカ」……。
 いずれもナチスドイツの建設したユダヤ絶滅収容所の代名詞となっている地名だ。


 プレイヤーはゲームに勝つために進んで”ポイント”を輸送していたつもりが、知らずして虐殺に加担するはめになっていた、というわけだ。「Train」がウォール・ストリート・ジャーナル紙で二度とプレイしたくないゲームとして取り上げられたのは当然だったろう。最も一点ものとして開発され市場に流通しなかったので、一般のゲーマーには触れる機会もなかっただろうけれど。*19
 しかし、「Train」の全体像が明かされたあとも積極的にプレイを続ける向きは少数だろう(「いったん始めた以上は他のプレイヤーもいることだし仕方ない」としぶしぶ続けるか、最初からそういうゲームとして悪趣味に楽しむかする人たちは別にして)。
 かたや、It Takes Twoには奇妙な魔力がある。わたしたちは不快な行為をやらされると判明したあとでも、罪悪感に苛まされながらネチネチとゾウさんを追い回す。その罪悪感には拒絶の感情だけでないなにか別のものが宿っているのだろうか? だとすれば「それ」はなんだろう? ユールはその問いには明確な答えを与えてはくれない。代わりにこう述べる。
「これらはすべて、ゲームが悲劇と責任の探求という意味で最も今日陸なアートフォームであることを示しています。私たちは、どのように犯罪を犯すか、またどのようにそれを隠すかを実際に考えさせられました。ゲームは隠れる場所を与えてはくれません」*20


 そう、わたしたちには逃げ場がない。
 窮極的には、わたしたちの行動はデザインされたものだ。クリボーを踏まないマリオはいないし、スライムを真っ二つにしない勇者はいない。わたしたちはほかのなにかを殺すようにコントロールされている。そしてそのことに呵責を覚えない。かつてなく自由な時代なはずなのに、アイヒマンみたいな毎日。
 ゲームで強制される逸脱的なシーンは、そんなわたしたちの不自由さを確認させてくれる。ゲームを遊ぶという行為とはいったいどういうことであるのか、その根源を問うてくる。
 だからこそ、わたしは It Takes Twoのゾウさんの場面が心に残っているのかもしれない。オーウェルが象を撃つことによってコロニアリズムの奇妙な権力関係を発見したように、物事には顛倒や凝視によってしか届かない領域がある。
 ゲームであることの良い点は、わたしの行為によって現実のゾウさんが死ぬことはないし、Cutie もエンディングでは修復されて元気になっているということだ。


 

【おまけその2・ジョセフ・ファレスというひと】

開発者はレバノンスウェーデン人のジョセフ・ファレス(Hazelight Studios)。元は映画監督で、兄である俳優のファレス・ファレス*21を主演にした長編を撮ったこともあった。
 2010年代からゲーム業界へ転身し、『ブラザーズ:2人の息子の物語(Brothers: a Tale of Two Sons)』(2013)で成功を収める。同作はコントローラーの左右で主人公となる二人の兄弟を別々にあやつる、一人協力プレイともいうべき操作系のゲームだった*22
 二作目となる A Way Out(2018、日本語版未発売*23)では、さらに過激化して完全な二人協力プレイ専用ゲームとして発売。テレビゲームなど孤独な陰キャのオタクのやるもの、という偏見を覆し、発売二週間で100万本を売った。この A Way Out の発売前年にファレスは時の人となる。といえば、聞こえはいいが、つまりは炎上した。
 2017年の The Game Awards にゲストとして出演したファレスはパブリッシャーであるEAのゲームにおけるルートボックス要素(ものすごく噛み砕いていえば、ガチャ)を批判。のみにとどまらず、全世界へ向けての生放送の真っ最中に中指を立てて「Fuck the Oscar(アカデミー賞なんかくたばっちまえ)」などと発してしまう。

jp.ign.com


 日本なら出禁ものの大失態だ。だが、フィル・フィシュ*24や Notch*25といった札付きの問題児を見てきたゲーム業界はファレスの放言程度はかわいいものだと判断したのかもしれない。*26 A Way Out は翌年のTGAで部門賞にノミネートされ、さらに It Takes Twoでは最高賞となるゲーム・オブ・ザ・イヤーに輝いた。受賞のスピーチで、ファレスはこう述べた。「2017年にこのステージ上で『アカデミー賞なんかくたばれ』って言ったけれど、まあある意味で、くたばったよね。The Game Awards のほうが良くなってきているもの」。
「Fuck the Oscar」ミームIt Takes Twoの作中でもイースターエッグとして仕込まれている。


*1:でも、あなたが本当はそんなの気にしないことをわたしは知っている。

*2:https://steamcommunity.com/id/Sirecia/recommended/1426210/

*3:https://www.reddit.com/r/Games/comments/mqp8zl/comment/h45jhkg/?utm_source=share&utm_medium=web2x&context=3

*4:正確にはテロリストの仲間を装ったスパイ

*5:ステージの前には警告が出され、ステージをスキップするかどうかを選べる。日本語版では市民を射殺するとゲームオーバーという仕様に変えられている。

*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/No_Russian

*7:‘The paradox of transgression in games’

*8:ちなみにゲームを通じて発生する認知的不協和を説明するタームとしては Ludonarrative Dissonance という概念もある。こちらはプレイヤー自身の倫理観によって引き起こされる不協和というよりは、ゲーム全体としてのテーマと部分としてのシーンが齟齬をきたしたときに起こるものっぽい。http://www.fredericseraphine.com/index.php/2016/09/02/ludonarrative-dissonance-is-storytelling-about-reaching-harmony/   https://twitter.com/zmzizm/status/1169122687026978817?s=20

*9:モーテンセンヨルゲンセンはカントの「崇高さとは自分より大きいものに出会ったときの経験である」ということばを引き、逸脱にはそうした感覚と出会う可能性があると示唆している。

*10:もちろん、MW2の空港ステージを心から楽しんだプレイヤーもたくさんいただろう。それは犯罪ではない。

*11:たしか行動経済学でこういうのに名前がついていたはずだが忘れた

*12:ここにはプレイヤーがゲーム内の操作キャラクターを常に自らのアバターとして考える「アバター・バイアス」の問題も絡んでいる。プレイヤーにとってゲーム内の操作キャラクター(代理行為者)とはなんなのか、という問題については松永伸司の『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会)の第六章と第十一章でもふれられているが、私は議論をよく理解できている自信はない。ある日いきなり『ビデオゲームの美学』をすべて理解したイケメンが白馬に乗って現れてわたしにわかりやすく解説してくれないかなあ、と願っているがその日はいまだに訪れない。だれか助けてくれ。

*13:https://steamcommunity.com/profiles/76561198850470927/recommended/1426210/

*14:https://www.pushsquare.com/news/2021/04/exclusive_josef_fares_discusses_the_infamous_elephant_scene_in_it_takes_two

*15:コーマック・マッカーシーの戯曲とそれに基づく映画『悪の法則』に出てくる自動処刑装置」

*16:カイヨワ曰く、自発的でないかたちでプレイされるゲームはゲームではない

*17:邦訳タイトルは『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』ボーンデジタル

*18:よくにた名前のボードゲーム、『Trains』とは別物

*19:本作をデザインしたブレンダ・ロメロはこの他にもプレイヤーが奴隷貿易業者に扮する The New World や強制移住を余儀なくされた19世紀のネイティヴ・アメリカンたちの「涙の道」と呼ばれる死の行進を題材にした One Falls for Each of Us などのシリアスゲームを制作したらしい。

*20:p.88, 『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン

*21:ベースはスウェーデンだが、アラブ系の役柄でアメリカの映画やドラマに出演することもたびたびある。有名どころだと『ローグ・ワン』や『ウエストワールド』にも出演。

*22:2020年にSwitchへ移植された際にはコントローラーを分割できるSwitchの特性に合わせてローカル二人プレイも実装された。しかしゲームの演出上には一人プレイのほうが想定されている

*23:現状英語版すら Steam だと日本では購入不可能となっているが、Electronic Artsの販売プラットフォーム Origin で購入できる

*24:Fez』で知られるゲームデザイナー。個性的な言動で炎上しまくったあげく(有名どころではあるゲーム開発者のカンファレンスで放った「今の日本のゲームはクソ」発言)、現在はゲーム開発から引退。

*25:Minecraft』の開発者。あらゆる方面への差別発言を繰り返したあげく、マイクロソフトに売った『Minecraft』のクレジットから名前を消されてしまった。あまりの素行の悪さにマイクラファンからも忌避され、「マインクラフトは初音ミクが作った」というミームが一時期流行った。https://knowyourmeme.com/memes/hatsune-miku-created-minecraft

*26:余談になるけれども、SF小説の界隈で起こったサッドパピーズ騒動で差別主義的団体ラビッド・パピーズを創設した Vox Day も90年代はPCゲームの開発者だった。フィル・フィッシュとかはまた違ってくるけれど、”問題児”を生んでしまう土壌みたいなものは界隈には確実あったようで、これが2010年代にゲーマーズゲートを引き起こし、現在立て続けに起こっているキャンセル騒動につながっているわけだけれど、今回は関係ないので省きます。

2022年1月の新作まんがベスト10+5

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 あけましておめでとうございます。
 以下は、2022年の一月に第一巻が発売された新作まんが10選と、同じく2022年に発売された単発長編・短編集5選です。
 基本的にはおもしろいと感じた順にならんでいるものと思し召しあそばせ。


 よくある質問:
 Q.来月もやるの? マンスリーでやるの?
 A.わからない。これまでの経験からいえば今月っきりになる可能性が高い。

【2022年1月に第一巻が発売された連載もの】

1.『とくにある日々』(なか憲人)

 今月のベスト。なかよしの高校生ふたりを中心に展開されるオフビートな学園コメディ。単純に奇想コメディとしてめちゃめちゃ笑えるんですけど、画的としてエモーショナルな瞬間が何度もあって謎の感動を呼びます。panpanyaテレンス・マリックに撮らせたみたいな。


2.『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』(原作・相馬康平、作画・日下氏)

 アニメの影響で悪役令嬢を目指すイタい小学生桔香ちゃんとそれぞれの思惑と成り行きから彼女の下僕として侍ることになった仲良しグループの四コマギャグ。要するにまあみんな大好きな「本物になりたいニセモノ」の話であって、それは”悪役令嬢”に憧れるけれど空回りすることでもあるし、彼女よりもキャラの濃いメンツに囲まれているということでもある。姉フィクとしても優秀。


3.『百合の園にも蟲はいる』(原作・羽流木はない、作画・はせべso鬱)

 名門女子校に赴任してきた男性教諭・円谷。なんとなく馴染めなさを感じていたところにクラスでいじめ疑惑が浮上し、彼はそれを解決しようと乗り出すが……という教師ものの学園コメディドラマ。『女の園の星』とは異なり、生徒たちのダークでラジカルな面を見せる……というとよくあるまんがのようだけれど、主人公もなかなかキレているところがおもしろい。イカれたキャラしか出てこないまんがはよいまんが。キレどころのタイミングもよい。

 

4.『艦隊のシェフ』(原作・池田邦彦、作画・萩原玲二

 池田邦彦に対する認識が変わったのは『国境のエミーリャ』を読んだくらいからでしょうか。連作短編をまとめる技量が抜群にすごい。第二次世界大戦中の日本海軍の駆逐艦で烹炊兵と呼ばれた料理係たちの奮闘を描くお料理グルメ×戦争まんがである本作でも、綿密な取材に裏打ちされた人情ありスリルありの人間ドラマが分厚く発揮されています。っていうか、スパイものが好きなんだなあ、池田先生。

5.『おいしい煩悩』(頬めぐみ)

 グチャグチャに泣きはらしてる人間の顔は好きですか。大好きなあなたには、コレ。『おいしい煩悩』。一話に一ページぶちぬきでグッチャグチャに泣いて許しを乞うている主人公が見られます。ノリとしては黒崎冬子から品の良さを抜いたような印象でしょうか。引き出しがあまりなさそうなのが今後の不安。
 

6.『夜嵐にわらう』(筒井いつき)

 私たちの筒井いつき先生はいまも世界のどこかで暗黒百合を描き続けている。そう思うだけで勇気がもらえる気がするんです。このまんがでは生徒たちから陰湿ないじめを受けている教師が、突然登校してきたやべー不登校児に執着されたことから、クラスがめちゃくちゃな暴力教室になっていきます。そう、いつもの100パーセントの筒井先生です。

7.『ミューズの真髄』(文野紋)

 ドアマットみたいな人生を送ってきた主人公が一念発起してやりなおす、という物語は類型としてさして珍しいものではなく、そういうもののなかではシチュエーションがあまりにも『凪のお暇』と被りすぎだろう(女性向けまんがのフォーマットの範疇かもですが)とは思います。しかし、ディティールに乗っている情念というかパッションみたいなものはオリジナルで迫力がある。


8.『天使だったらよかった』(中河友里)

 ずっと仲良しでやってきた夏瑚(女)、泰星(男)、憂奈(女)の高校生幼馴染三人組。しかし、ある日、泰星と憂奈がつきあいはじめて、主人公・夏瑚は疎外感をおぼえだす。複雑な気持ちを抱えていた夏瑚だったが、ある時、憂奈が想像を絶するサイコパス野郎と判明し……という三角関係BSSNTR返しメフィストフェレスまんが。キャラや展開はめちゃくちゃ濃いのだが、まんがとしてはするりと飲める喉越しのよさが匠の業前。


9.『目つきの悪いかわいい子』(ハミタ)

 属性一点賭けシチュエーションラブコメ(俗に言う高木さん系)と見せかけておいてシリアスな話をやる、というのは、特段珍奇というわけでもないんですが、これはそのなかでも手続きが誠実な印象。
 

10.『花は咲く、修羅の如く』(原作・武田綾乃、作画・むっしゅ)

 京都の高校で放送部やるやつ。『響け!ユーフォニアム』の放送部バージョンと理解すれば早い。第一巻ではキャラや設定紹介止まりといった印象ですが、その時点ですでに厚みがあり、今後の地獄が楽しみです。
 

【2022年1月に発売された単発長編・短編集】

1.『苦楽外』(宮澤ひしを)

 エグみを抜いた前期五十嵐大介といった印象の海棲怪奇譚。奇譚という表現がしっくりくる温度感。


2.『リボンと棘 高江洲弥作品集』(高江洲弥)

 『先生、今月どうですか?』でプロップスを高めつつある高江洲弥の天才性と全方位に満遍ない嗜好が遺憾なく発揮されている短編集。死体を埋める百合ならぬ埋められた死体百合の「ある日森の中」と、小学生が人喰い植物人外の力に溺れる「誘い花」が特にマーベラス。読んでいると、人はハルタ作家として生まれるのではなく、ハルタ作家になっていくのだなあ、とおもいます。


3.『黄色い耳(((胎教)))』(黄島点心)

 異才・黄島点心の黄色シリーズ?第三作(だったとおもう)。中編が二篇載っており、前半の方では黒ギャルが友達とDV彼氏を山に埋めてもう一回その山に行ったら謎の耳キノコの化け物と出会ってセックスして恋仲となり耳たぶに耳キノコの子を孕む、といういつもの文章にしたら気が狂っているのかな? という勢いのあるストーリーでまあこういうのに関しては読んでくださいとしか言いようがない。
 

4.『絶滅動物物語』(うすくらふみ、今泉忠明・監修)

 主に人間の手によって絶滅した動物(正確にはアメリカバイソンなどギリギリ絶滅しなかったものも含む)にまつわる物語。動物関連書籍でよく名をみかける今泉忠明監修。リョコウバトやステラーカイギュウ、ドードーといったわりと有名どころを扱いつつ、人間の業をえぐります。現存しない動物たちの生きていたころの姿を再生する、という地味に難業をクリアした力作。


5.『SUBURBAN HELL 郊外地獄』(金風呂タロウ)


 郊外で気の狂ってしまった現代人の姿を描くサイコホラー短編集。きちんと「土地と人間」の呪いに落とすところがホラーとして端正。

第94回アカデミー作品賞候補作の(ほぼ)全所感。

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 今年に入ってから映画の感想をブログに残していないことに気づいたのでよくないなーとおもったので、時期も時期もだし、アカデミー賞の作品賞候補になっている十作品のうち、日本で公開済みの九作品についての感想を書いておきます。正直、そこまで興味持てなくて関連情報も掘ってない作品ばかりなので、表層的なことしか言えませんが。以下、好きな順。

『ナイトメア・アリー』(ギレルモ・デル・トロ

 フリークショー(見世物小屋)映画とペテン師映画のハイブリッド。デルトロ作品のなかではベストではないだろうけど、いちばん好きかも。
 とにかく前半の見世物小屋描写が最高で、カーニバルの夜の陰気ないかがわしさも昼の陽気な愉しさも両方ともたっぷり描いてくれます。これはリメイク元である『悪魔の往く町』にはなかったところ。*1ウィレム・デフォーウィレム・デフォーしているのも見所。
 ただまあ、これは主演のブラッドリー・クーパーの映画ですよね。最初は寡黙でひょろりとした正体不明のあんちゃんとして現れたクーパーがマジシャンの弟子になり、やがて口先という天分を見つけて都会でペテン師として成り上がっていく。その過程が「ギーク*2というカーニバルの見世物*3に重ねられているのが痺れるといいますか、わたしの好きなタイプのプロットです。これがクーパーによく合うんです。
 ラストのある場面でクーパーは「Mister, I was born for it.(そのために生まれてきたんです。)」と言います。このセリフは原作には存在せず、『悪魔の往く町』では「I was made for it.」でした。 made ではなく born 。どちらも意味的には代わりません。*4
 しかし、どこまで行っても身ぎれいで、顔立ちや瞳に強さを宿したタイロン・パワーはたしかに「作られて」そこに在るのかもしれないけれど、どんなに男らしく強権的に振る舞っていても眼からフラジャイルさが消えないクーパーの場合は「生まれた」ときの運命から抜け出せない。ささやかでありつつも、極めて重要な変更点です。まだあんまりうまく言語化できないのでこれから考えていきたい。
 こういう生まれ持った宿命に呪われて抜け出せない系の物語によわいな……。クリント・イーストウッドの言うところの「運命に後ろから追いつかれる」的な。
 

『ウエスト・サイド・ストーリー』(スティーブン・スピルバーグ

 同名のミュージカル映画(1961年、ロバート・ワイズ監督)のリメイク。
 ミュージカルっていうよりは映画なんだけど、やっぱりミュージカルでもある。ふしぎな作品です。映画的な制約の要請としてミュージカルを映画的に撮らざるをえない窮屈な作品は多いというか、実写のミュージカル作品ってそういうものばかりなんですけれど、これはスピルバーグが映画的に撮りたいからそう撮っているという感じがする。
 たとえば、終盤のレイチェル・セグナーとアリアナ・デボーズが言い争う場面で、ふたりとも歌いながらなのに普通のドラマのような顔どアップの切り返しでカットを割っていて、これが成立するのスピルバーグくらいでしょう。
 主役二人が恋に落ちる体育館での集団ダンスシーンもバッキバキに決まっていて最高で、ある映画評論家が「歌だけじゃなくてコレオグラフも含めてのミュージカル」って言っていたけれど、まさにそれが体現された快楽的なシーンだとおもいます。
 今年去年とミュージカル映画がやたら多いですけれど、この調子でどんどん増えていってほしいですね。好きなジャンルなので。といっても、新作で自分に完全にフィットするものは少ないのですけれど。『シラノ』(ジョー・ライト監督)なんかも曲はよかったんだけど……。


『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(ジェーン・カンピオン

 アートハウス~~~~~ってかんじ。
 最初、カンヌのコンペにノミネートされたときは「えっ!? まさか、ドン・ウィンズロウの映画化!?」と興奮しましたけれど、違いました。いちおう、ウィンズロウのカルテル三部作もFXでのドラマ化が進んでいるらしいです。最初はリドリー・スコットで撮る予定だったらしいけど、どうなるのやら。
 それはさておきつ、ジェーン・カンピオンのほうの『パワー・オブ・ザ・ドッグ』。弟を子持ちの女にとられて嫉妬で狂うカンバーバッチがいいですよね。弟役のジェシー・プレモンスもあいかわらずいい。カンバーバッチと比べてどっちがインテリ感あるかっていうとカンバーバッチのほうなんですが、モンタナにいそうな男感はプレモンス。っていうか、カンバーバッチは英国人だしね。コディ・スミット=マクフィーもオスカーの助演男優賞ノミニーに値する存在感。
 こうして見るとなんかウジウジした男ばかりで、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』とはアメリカの田舎のウジウジした男たち映画だったのかもしれません。アメリカ人はアメリカのうじうじした男映画が大好きなので毎年ひとつはその風味のある映画が作品賞候補に入っているものですが、受賞となると『ムーンライト』以来?

 

『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー)

 毎年オスカー候補に一作は入ってる系のふつーにいい話だなあ、っていいますか。ふつーにいい話だなあ映画ってそんなきらいじゃないですよ、わたしは。『ニュー・シネマ・パラダイス』に感動するタイプの人間なので。
 他人に感想を述べるなら以上でおしまいなんですが、それだけだと他に比べてバランスがわるいか、そうですね……。
 主人公は、耳が聴こない家族のなかで唯一の健聴者で、ある種の通訳者として家族と地域社会との橋渡しを担っている。タイトルにもなっている「コーダ(CODA)」とはこうしたひとのことです。両親が仕事を行う上でも彼女の存在は欠かせないわけで、家族としては高校生の娘に依存して生活しなければならない、といういびつな状況に陥ってしまっています。しかし大学進学を控えた主人公にも将来の夢ややりたいことはあるわけで……という、このジレンマの作り方がうまい。「親も子も互いのことを大事に思っているし好きなんだけれど、関係としてはトキシックになってしまっている」という悪人のいない悲劇的なシチュエーションは最近だとピクサーの新作『私ときどきレッサーパンダ』もそうでしたね。毒親ものが増えてきた今だからこそのバランスというのもあるのかな。
 

ベルファスト』(ケネス・ブラナー

 北アイルランドベルファストのある通りに住む少年と家族を描いた、ブラナーの自伝的作品。
 冒頭からその通りに対して覆面の集団が襲撃をしかけてきて、なんだと思ったらマジョリティであるプロテスタントがマイノリティであるカソリックを追い出そうとしているんですね。そんな地域で主人公である少年家族はプロテスタント、という少々呑み込みづらい設定。しかし複雑な設定であるからこそ、差別的な対立の恣意性や不毛さが際だつのかもしれません。主人公と近所のお姉さんが「プロテスタントっぽい名前とカソリックっぽい名前の違い」を並べあうシーンは皮肉かつ象徴的です。
 俳優は全員がんばっていて魅力的。
 ただ正直、この題材ならもっとおもしろく撮れたんじゃないかな。そうならないのがブラナー的というかなんというか。モノクロで撮っているところなんかさしづめアルフォンソ・キュアロンの『ローマ』で、無垢な少年が差別的な社会のまっただ中に放り込まれるさまは、タイカ・ワイティティの『ジョジョ・ラビット』なんですけれど、キュアロンほどの格もワイティティほどの愛嬌もブラナーにはないんですよね。そこが最近は好ましくも感じられるんですけれど。
 作品としてはともかく(今やってる『ナイル殺人事件』のほうが好き)、ブラナーの個人史としてはなかなか興味深い。というのも、後年ブラナーが映画として撮ることになる「ケネス・ブラナー少年が大好きだったもの」がちょくちょく映り込んでくるからです。観ていると、ああ『オリエント急行』をああいうオープニングにしたのは少年時代にこういう状況を体験したからなのだなあ、とか、請負仕事でやっていたとばかり思っていたけど意外と『マイティ・ソー』に思い入れがあったんだなあ、とか、微笑ましい気持ちになれます。 

 

『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介

 去年の映画鑑賞まとめにも書いたんですけど、『偶然と想像』のほうが好きなんですよね。わかりやすくおもしろいから。むつかしい映画はわからん。
 まあしかし、いくらいけすかねえな~とおもってても濱口作品を観られてしまうのは、そのキッチュな部分、つまり人間のどうしようもなさ(主に痴情のもつれ)とそのヤバさを確実に見せてくれるからです。*5
 特に西島秀俊岡田将生演じる東出昌大東出昌大ではない)とある共演者が一緒にいるところに出くわしてしまう場面のアチャ~感はすごい。「通りすがってしまい、そのまま通り過ぎざるをえない」という点で、車の特性を他のシーンよりもよほどうまく利用していたのではないでしょうか。
 基本的にはコメディの人なんだとおもいますが、シリアスであればあるほどコメディ部分が際立つので、塩梅がむつかしいですね。また『寝ても覚めても』みたいなのを撮ってほしいですが、ここまでのクラスになってしまうと無理なのかな。
 

『DUNE 砂の惑星』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ

 デュ~~~~~ン、ってかんじの映画でした。
 ヴィルヌーヴのSFに感心したことってあんまりないかもしれない。重いもん。でもまあ、『メッセージ』なんかと比べるとその重たさに向いた原作だったかもしれません。


 

『ドリームプラン』(レイナルド・マーカス・グリーン)

 女子プロテニスのレジェンド、ウィリアムズ姉妹を育て上げた父親を主人公にした映画。
 アメリカンドリームを追い求めるゆがんだ狂人を題材にした映画は好きです。なのですが、本作に関しては無理にホームドラマ的な側面も盛り込もうとしたからか、どっちつかずになってしまった印象。あれはもうたまたまうまくいっただけの毒親だろ。
 姉妹たちに『シンデレラ』を観せ、ひとりずつ学んだ教訓を真剣に訊ねていく場面は狂いっぷりという点で好きです。


『ドント・ルック・アップ』(アダム・マッケイ)

 好ましい部分は多々あるものの、他者を見下して徹底的にバカにせずにはおられないアメリカンリベラルの悪癖が悪い形で作用していて(『バイス』とかはまだ調和が取れていたと思う)なんだかな~~~という気持ちになる。
 ティモシー・シャラメティモシー・シャラメ役と以外形容しようがない天使みたいな役回り(お祈りするシーンで中心になるし)で出ているのはウケた。あの最後の晩餐のシーン、シャマランの『サイン』っぽくありません? ない?



 こうしてみたら十作品中四作品がリメイクというか映画化済作品なんですね。こんな年はあんまりない気がする。単にスピルバーグ、デルトロ、ヴィルヌーヴといった巨匠たちが懐古趣味に走っているだけといえばそうなので、映画界全体の潮流とむすびつけるのはどうなのかな。
 そうして、ずばぬけて面白い作品も、どうしようもないほどつまらない作品もない。ようするにいつものアカデミー賞候補作って印象。ここに並んだ作品よりはいまやってるマイケル・ベイの『アンビュランス』のほうが好きです。あれはいいですよ。自分はもしかしたら銀行強盗ものにかんしてはあんまりあたまよくないほうが好きかもしんない*6
 予想ですか。オスカーは『コーダ』が獲るんじゃないんでしょうか。そんなことはどうでもいいから、『リコリス・ピザ』を今すぐ公開してほしい。

*1:1947年版との比較はここに詳しい。 Nightmare Alley (2021) vs. Nightmare Alley (1947): What Are the Differences? | Den of Geek

*2:字幕では Geekという語に「獣」という字が当てられています。辞書的にはただしくありませんが、この映画に関してはフィットしていると思います

*3:特にアメリカでは本来「ギーク」といったらこのカーニバルのギークのことで、「おたく」などの意味はあとからつけられた

*4:まさかブラッドリー・クーパーが監督主演した『アリー スター誕生』(A Star is born)にかけたわけでもなかろうが

*5:おなじキッチュさでもクラシック音楽づかいのダサさは『偶然と想像』でもどうかとおもいましたが……。

*6:ここでいう「頭のいい」はマイケル・マンとか『ザ・タウン』とかであり、「頭がわるい」には『キャッシュ・トラック』とか『アンビュランス』が入ります

フィギュアスケートまんがにおけるジャンプ時のコマ送り表現について。

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 フィギュアスケートまんがを読んでいると、どの作品にもある演出が共通して描かれることに気づきます。
 それが「ジャンプ時のコマ送り」。

(『メダリスト』つるまいかだ 『アフタヌーン』連載)

 このようにジャンプの回転を連続写真のように、ひとつの画面の中におさめ、表現する手法です。
 これがまあフィギュアスケートまんがには必ず一回は出てくる。確定で出てくる。確定演出ってやつですね。
  フィギュアスケートの見せ場としてジャンプがいちばん盛り上がるのはわかる。ジャンプの回転表現としてはもうひとつ「((💃))」的なエフェクトをつけるものがありますが、これではタテ、ヨコ、回転の三つの運動を兼ね備えたジャンプの迫力を伝えるには足りない。それを読者に伝えるにはコマ送りで表現したほうがよい。それはわかる。
 では、どのくらい昔からある表現なのか。気になりますよね? 気になりませんか? ならない? あっ、そう。わたしは気になります。気になるので、さかのぼって調べてみましょう。

2010年代

(『氷上のクラウン』タヤマ碧 『アフタヌーン』連載)

・キャラの色合いの濃淡で時間経過を表現しているのがニクいですね。カメラの角度にも少し工夫がされています。着氷時のキャラを読者の目の前にこさせることで迫力を出そうという意図か。本作は特にカメラの位置が意識されていて、既存のフィギュアスケートまんがに対するチャレンジ精神が垣間見えます。

(『キスアンドクライ』日笠希望 『週刊少年マガジン』連載)

・見ての通り、日笠希望はいい絵を描くんです。『キスアンドクライ』はかなり早い段階で打ち切りになってしまって残念でしたが、それ以降名前を聞かないのが心配。

2000年代

(『くるりんぱっ!』今井康絵 『ちゃお』連載)

・これも奥行きを意識した迫力のある構図。奥→手前→奥となっているのは珍しい。

(『ブリザードアクセル鈴木央 『週刊少年サンデー』連載)

・ベタの濃淡で時間経過を表していますね。同じ画面にジャンプを見ている人の後頭部も収められているのが印象的。他のジャンプ描写では「ジャンプを見て驚いている人の顔」も入ってたり、本作はとにかく表現面でのバリエーションが楽しいです。

1990年代

(『ワン・モア・ジャンプ』赤石路代 『ちゃお』連載)

・これはちゃんとコマを割って目撃者の反応を描いているパターン。なにげにコマ割りもジャンプの軌道に沿って流線的になっている。『ちゃお』はフィギュアスケートまんがのメッカですね。

(『ドリーマー!!』武内昌美 『少女コミック』連載)

・ほとんど角度のついてないところからジャンプをとらえた珍しい構図。

1980年代

(『銀色のトレース』柴田あや子)

・見開きでジャンプをダイナミックに描きつつ、同時並行で主人公(驚いている人)とライバル(怜花と呼ばれている黒髪)のやりとりを展開することで、ジャンプの時間経過をも表現するというかなり大胆な手法。画面はかなりうるさいですが。

1970年代

(『銀色のフラッシュ』ひだのぶこ 『週刊少女コミック』連載)


『恋のアランフェス』→『愛のアランフェス』槇村さとる 『別冊マーガレット』連載)

・槇村、ひだはフィギュアスケートまんがの開拓者。このころから「キメゴマとしてのジャンプ」「ジャンプを目撃した人間たちのリアクションも同ページ内で描く」「フィギュアスケートの立体性」が意識されていたことがわかります。

始祖はだれか。

 と、いろいろ見てきたわけですが、どうも五十年前から存在している表現のようです。
 本邦におけるフィギュアスケートまんがは1970年代から、もっといえば札幌五輪(1972年)以降から始まりました。*1なので、これ以上は遡れないということになる。入手しうる最古のフィギュアスケートまんがの『ロンド・カプリチォーソ』(竹宮惠子、1973年)ですが、厳密にジャンプのみにフォーカスした表現とはいえないものの、コマ送り表現が出てきます。
 




 では、竹宮惠子が始祖なのでしょうか。うーん。

 と、なんとなく釈然としない気持ちで竹宮惠子の自伝『少年の名はジルベール』を読んでいたら、72年に竹宮や萩尾望都山岸凉子とヨーロッパ旅行へ行くくだりが出てきました。山岸凉子はいわずとしれたバレエまんがの大御所。当時は『アラベスク』という意欲的なバレエまんがを連載していた時期にあたります。
 ん? バレエ……? そういえば、フィギュアの選手はバレエの練習もするものと『メダリスト』で読んだような……?
 直感が働いて早速キンドル版の『アラベスク』一巻(1971年)を購入。
 すると、



 

 はい、勝ち〜〜〜〜〜〜〜。
 山岸と交流の深かった竹宮が一定程度『アラベスク』の表現を取り入れた可能性はあるし、そうでなくとも影響力が強い作家・作品でしたからここからフィギュアスケートまんがにも波及していったのは全然考えられることです。
 いやあ〜〜〜〜こういう偶然の導きと勘と経験がマッチして何かを掘り出したときって脳汁がヤバいですね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜というわけで、「フィギュアスケートまんがのジャンプコマ送り表現の起源はバレエまんが」ってことで雑調査はおしまいです〜〜〜〜〜〜〜〜いかがでしたか?〜〜〜〜〜お役にたったかはどうあれ、わたしは楽しかった〜〜〜〜〜。

バレエまんがにおけるジャンプコマ送り表現

 いや、待てよ。じゃあ、バレエまんがでのジャンプコマ送り表現ってどうなってるんだろう……?
 『テレプシコーラ』読んだことあるくらいで、ぜんぜん知らないジャンルだし一からディグりなおすのも……と悩んでいたら、いるものですね、救世主というのは。バレエまんがの歴史をまとめてくださっている note 記事がありました。


 非常に勉強になる良いジャンル史概説です。ありがとう。インターネットに感謝。

 
 で、70年代編の記事ではなんとバレエでのコマ送り表現に触れられています。天恵かな?
 この記事では、バレエのジャンプコマ送り表現は「70年代だけに顕著に見られるバレエシーンの表現」であるとされています。白いカラスがいないか自分でもいつか検証してみたいところですが、とりあえずはこの記述を信用したい。
 してみると、「バレエにおけるジャンプコマ送り表現は早々に絶滅したが、遺伝子を受け継いだフィギュアスケートまんがでは半世紀を経た今でも主流の表現として生き残っている」ということになります。
 ロマンがあるストーリーですね。自分でいっといて、ホンマかいな、とおもわないでもありませんが*2、とりあえずのところはうつくしいままで今回の調査を終えましょう。


 ところで、上の記事を書かれたせのおさんはコマ送り表現の起源として石ノ森章太郎説を唱えておられます。特に理屈の説明とかなされていませんが、これはありそう。石ノ森章太郎は男性作家のみならず女性作家にも多大な影響を与えていたというのは1970年前後の女性漫画家シーンを活写した『少年の名はジルベール』や『一度きりの大泉の話』でも描かれています。*3日本まんががアニメーションや映画に影響を受けて発展してきたことを考えると、コマ送り表現に限定すれ石ノ森以前にもありそうな気もしますが、これも調べようとすると手間だな……いつか、いつか、ね。


おまけ:『メダリスト』のジャンプコマ送り表現

 すっかりフィギュアスケートまんがのトップランナーの地位を固めた『メダリスト』ですが、ジャンプシーンにもさまざまな工夫が凝らされています。



・ジャンプ中に表情が変化するまんがはめずらしい。これに限らず、『メダリスト』は競技中の表情にフォーカスしているところがあたらしさのひとつであります。




 
・コマ割りされた画面のひとつ上にレイヤーを足してそこにジャンプを置く。上で見た『銀色のトレース』にも似たかなり複雑な画面ですが、情報自体は整理されているのでさらりと読めてしまう。

  

・伝説の第十八話。複数の選手の演技を同時並行でシームレスに描くというとんでもないエピソードなのですが、ジャンプでも「ひとつらなりのジャンプを割って三人の選手を描く」という発想の勝利みたいなことをやっています。


『メダリスト』のエポックなところは他にもいっぱいあるのでいつか書けたらいいですね。

  

*1:最初期のフィギュアスケートまんがである竹宮恵子の『ロンド・カプリチォーソ』(1973-74年)やひだのぶこの『銀色のフラッシュ』(1976-78年)では、札幌五輪の女子シングル銅メダリスト、ジャネット・リンに言及されています。ジャネット・リンという人は当時の日本ではアイドル的な人気を博したようで、CMやテレビ番組でひっぱりだこだったそう。フィギュアスケートの受容史について手頃な本が見つからなかったのでなんともいえませんが、彼女が日本におけるフィギュアスケート人気の土台を築いたのはありそう。

*2:note の記事中でも『絢爛たるグランドセーヌ』あたりにそれっぽい表現がある

*3:特に竹宮惠子は「石ノ森先生の『マンガ家入門』を15歳のときに読んで、マンガ家になりたいと決心した日から、信用できる大人は両親のほかにはまず石ノ森先生だった」(『少年の名はジルベール』)と書き「実際に弟子として働いてはいなくても、気持ちは弟子です」と熱烈に私淑していたそう

『文体の舵をとれ』合評会の運営についてのメモと、人類の進歩と調和

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 昨夏から『文体の舵をとれ』の課題を Discord 上で集まってわいわいやっとりました。
 本書は『ゲド戦記』などで知られるファンタジー・SF作家のル=グウィンがあなたの文体を鍛えてくれる創作指南本であり、全十章からなる課題をクリアすると最強の文体が手に入るとも、ル=グウィンが闇のパワーを得て復活し、あまねく蒼穹を竜と恐怖のもと支配するようになるともいわれています。こわいですね。
 つねひごろから文章をダシに他人とワイワイしてえな〜〜というよこしまな欲を抱いていたわたしは、twitterなどで知り合ったおたくたちを招き、Discord で文舵サーバを爆設しました。これを【Aサーバ】と仮称しましょう。
 まもなく別のツイフレさん(ツイッターフレンドのこと)が独自に文舵サーバを激設きました。わたしはスパイ活動を兼ねてそこにも潜ることにしました。これを【Bサーバ】と呼びましょう。
 そうして【Aサーバ】では主催・運営者として、【Bサーバ】では一参加者として、それぞれの立場から舵をとる機会を得たわけです。
 以下、箇条書き。箇条かな? 書いてて退屈だったので嘘の項目を一つ混ぜました。

序の補足

 ……というかんじではじまるはずだったのですが、その前に。
 先日、わたしも参加していた文舵サーバの主催・大戸又さんが文舵会運営について明快でまとまった記事を出されまして。
walkingchair.medium.com
 そういえば、自分も文舵会まとめみたいなのを書こうとして途中で放り出してたよな……一ヶ月くらい……とおもいだして読み返してみたら、意外と量があった。これがそれ。
 ろくに整理もされてない状態ですが、捨てるのももったいないので、以下に投げておきます。
 大戸さんのとことかぶってる箇所もあれば、言ってること全然違えみたいなところもあるかと存じますが、気にしすぎない方向でお願いします。
 これが作者編ルールその4違反です。

『文体の舵をとれ』の効能について

・文体の舵をとったら、本当の文体が良くなるんですか? 文章うまくなりますか?
 →わ、わかんないっピ……🐙
 →すくなくとも、文の構成や句読点の打ち方を手とり足とり教えてくれるタイプの教本ではありません。課題をこなすだけで一朝一夕に文章がうまくなりはしない。
 →これは【Bサーバ】の主催である大戸さんがよく仰っていることなのですが、文舵とは「文章の筋トレ」です。普段使わない文章を筋肉を一時的に酷使することで鍛える。いい例えだと思います。
 →質問に寄せるのであれば、わたしは野球の素振りのようなものだと答えるでしょう。素振りは漫然と一万回繰り返すだけではバッティングの上達につながらないといいます。逆にちゃんと目的意識と工夫があれば、百回で十分だったりする。これはクロマツテツロウの『ベー革!』というまんがに描いてあったことなので、文句のある方は小学館のほうまでお願いします。
 →素振りしてみて自分のフォームの欠点を認識するのも重要です。
 →筋トレとしてみるなら、文舵の課題は二つのカテゴリに分けられると思います。ひとつは指(文章技巧)の筋トレ、もうひとつは眼(視点)の筋トレです。
  第一章はストレッチのようなものとして、第二章〜第五章までは指の筋トレ。第六章〜第八章は眼の筋トレ、といったかんじ。
  指(文章技巧)の筋トレとは、「ふだんなら書かないような特殊な制限を課して行われる課題」です。第二章では句読点のない文章を数百文字分書かねばならず、第三章では同じ長さの短文だけで段落を構成し、七百文字の語りを一文で作らねばなりません。第四章では語句や行為の過剰な反復。第五章は形容詞・副詞の使用禁止。いずれも普段文章を書いている分にはまずしないことです。
  眼(視点)の筋トレは、視点や人称に関わる視座を養います。第六章では複雑な時制の統御、第七章では異なる視点(POV)のレッスン、第八章では視点の切り替えの意識。
  第九章は指の筋トレ的でもありますが、より実践的です。第十章は実践そのもの。なにせ、先生曰く「プロ作家になったときに必要な技能」なのですから。
 →筋トレは筋トレなので、ホームランやヒットの打ち方を具体的に教えてくれるわけではありません。文章の書き方がわからない、あるいは伝わりやすい文章の教授を求めているのなら、文章指南本を読みましょう。
 →個人的な意見ですが、たぶん一問あたり三回くらいは短い期間に繰り返してやるのが理想なんだとおもいます。エルデンリングかな? 繰り返し体に覚え込ませることで課題ごとに問われている焦点にやっと意識をフォーカスできるというか。全十章をのんべんだらりと一通りやるだけだとすぐに何やったか忘れるし……。
 →とおもってたら、大戸さんが二周目に入りました。すごい。

・小説以外の文章にも応用できますか?
 →基本的には小説向きの技法書だと思し召しあそばせ。形容詞や副詞の効果をひとつ引いた視点から実感してみるとかはまあ使えないでもないだろうけど、別に視点とか気にしてもしゃーないしなあ……。
  
 

合評会の運営

合評会の公式ルール

・大戸さんの記事とかぶりますが、以下は本書で述べられているル=グウィン式の合評会ルールを独自にまとめたものです。

〈作者編〉
一、合評の対象となる物語の作者は、会合の前も最中も、沈黙しなければならない。
二、合評の対象となる作者は、沈黙しなければならない。
三、合評の対象となる作者は、沈黙しなければならない。
四、前もって言い訳や説明するのも禁止。
五、質問された場合のみ、その返事を他の参加者全員も聞きたいかどうかを確認した上で、できるだけ簡潔に述べる。
六、論評されているあいだはできるだけメモを取ること。
七、論評してもらったら「ありがとう」と感謝をまず伝えること。
八、論評が終わり、作者から発言したいのであればしてもよい。ただし、a.手短に b.弁解しないこと。
九、自作について質問したいことがあれば尋ねても良い。
十、自作は(可能なら)音読する。

〈評者編〉
一、簡潔に、
二、誰からの横槍もなく、
三、作品の重要な点に関することに限って(ささいな間違いの指摘は原稿への書き込みで済ませて)、
四、人格攻撃をしない。
五、他者の論評を挑発しない。
六、他者の論評を笑わない。
七、他者の論評をやりこめようとしない。
八、他人の発言を復唱しない。
九、他人の発言に賛同したいなら、そう言う。不同意の場合は、根拠をちゃんと言う。
十、どんな素朴だと思った意見でも、感じたことはあまさず伝える。
十一、否定的なことを言うよりも、改善の可能性を提示する。
十二、作者に対して、作中の事実関係を〈はい・いいえ〉で直に訊ねてみてもよい。あるいはグループ全体で問いを共有してから、尋ねていいか全員の同意をとれた場合にのみ訊く形にしてもよい。(長い弁解や説明を必要とする質問はしないこと)
十三、アナロジーで語ってはならない。「○○に似てる、△△を思い出した」などと言ってはいけない
十四、その作品が何を扱っているか、何をしようとして、何を実現しているのかをちゃんと見定める。
十五、合評会はあなたのアピールの場ではない。「伝えるのは本人に対してであって、他人ではない」。

・ユニバーサルにデザインされた規則集だとおもいます。文舵以外でも、たとえば文芸サークルの小説の合評会なんかでも十分通用するのではないのでしょうか。1930年代のウォルト・ディズニー・スタジオのストーリー部門では、ちょっとでもダメな脚本を書いてきた人には合評仲間たちから罵声を浴びせられ、ウォルト・ディズニーその人が脚本*1をビリビリ破るといったことが行われていたらしいですが*2、そんなパワハラじみた集まりよりは百倍いい気持ちで研鑽できるとおもいます。

公式ルールの運用

・完璧に守るのはやはり難しいです。特に作者編の八、評者編の十一と十三は意識しないとつい破ってしまう。
・それと長いスパンで会をやっていると気持ちがダラけて、ルール遵守もグズグズしだしてくる。
・とはいえ、ガチガチにルールを固守するよりは、ある程度までは柔軟に対応していったほうがいいのではないでしょうか。
・人は自分がルールを破るときは無意識にやってしまうものなので、そういうときに他の参加者から気軽に指摘できる雰囲気も重要でしょうか。気づいても、責めるようで言い出しにくいものですから。
・作者編の七もさりげないことで忘れられがちですが、重要な項目です。いい感じの雰囲気にしていくこと。それが合評会では大事です。忌憚なく指摘するほうが大事、といわれる向きもあるでしょうが、逆です。いい感じの雰囲気だからこそ忌憚なく意見を交わしやすくなるのです。
・アナロジーで語るなという部分はあくまで評者を鍛えるためのルールです。出来合いの言葉を安易に使うな、ということです。これはアナロジーに限らない。
・とはいえ、あまりにあんまりな文を出されると人は「これは◯◯だろ!」とつっこみたくなってしまうものです。参加者のなかには、この抗い難い衝動を誘発させルール十三をやぶらせるためにワザと何かの二次創作みたいな文を提出する待ちガイルもいます。気をつけましょう。
・評者編ルール十三については「特定の作品名だけでなくジャンル(ホラーなど)について言及してはいけない」と解釈している参加者もいました。「文体」を評するという意識からすれば理解できる枷です。でもまあ個人的にはあまりに厳しすぎるのではないかと思います。

合評会における人と時間

人数

・5〜7人でやるのがちょうどいいかもしれません。厳格にタイムキープできる自信があるなら10人までいけるか。
・感想(作者応答含)をひとりあたり3〜5分×6人×6作品で100〜180分くらいのイメージ。合評会はかなり時間を食います。解散予定時刻から感想に使える時間を逆算しましょう。
・やってくうちに人数が減るものなので、いきなり5人スタートでやっても立ちいかなくなるかも。8人くらいで始めたほうがよいのかな。大人数の場合は合評形式(後述)を輪番ではなく挙手制にしたほうがよいです。
・ある程度言語化能力を信頼できて作品にバリエーションを出せそうなメンツを集められるのであれば、4人がベストという感触がある。ただまあそんなグループはまずありえない。
・よほどの理由か自信がないかぎり、10人以上と3人以下はやめておいたほうがいいかも。

メンツ選び&集め

・集合できる時間帯が重なる人にしておきましょう。
・知り合いを集めたほうがいいのか、ワークショップみたいに知らない人同士がいいのか。
・知り合いすぎてもよくないかもしれません。出される文章のジャンルが似通いがちだし、打ち解けすぎてタイムキープがルーズになりがちだし、その人の文章に対してある種の先入観を持ってしまいがちだし。
・逆に知らなさすぎても遠慮が生じて合評がいまいち盛り上がらない恐れがあります。それにリスク管理という点ではどうしても不安定になってしまう。
・サーバAではミステリ・SF寄り、サーバBではSF・ファンタジー寄りのメンツが集まったのですが、それぞれで提出文に異なる偏りが出たのは興味深かったです。たぶん、集めるメンツで「この設問にはこういう回答が出がちだよね」という傾向がかなり違う。
・文舵のみを目的にして募集をかけ、SNS上でですら知らん人同士でやった場合にどういう具合になるのかはわかりません。
・上のルール集自体、知らん人同士でやることを想定していると思われるので、ルールを厳正に適用すればなんとかなるのかもしれません。

期間

・サーバA Bともに基本隔週で課題をこなしました。全十章ですが、一回でこなすには多すぎる章は複数回に分けたり、参加者の諸事情によって延期することがあったりして、結局半年から十ヶ月はかかったでしょうか。長丁場です。一緒に長く過ごして不快にならない相手を選びましょう。ただ、主催者はメンツを選べますが、他の参加者同士の相性はどうしようもなかったりする。わたしは幸い他の参加者に恵まれました。*3


合評会の流れ

テキストの執筆と提出

・問題文をよく読みましょう。書く前に二回、書いた後に二回、書き直したあとに二回読めばよいです。わたしはたまに全面的に問題文を読み違えて恥ずかしいおもいをしました。
・それでもどう書けば良いのかわからないこともあるかもしれません。そういうときはネットで課題文を公開している先輩諸氏の文を読んでみましょう。どのような方向性ぐらいかは掴めると思います。
・提出。discordの場合。サーバAでは一枚のGoogleドキュメントを各自で編集してベタ貼り。サーバBではテキストファイル形式でDiscordに投稿しました。提出においてはどちらでもさして不自由しないです。後者のファイル投稿を取る場合は、discord 上で直に展開できる.txt形式で提出した方が良いでしょう。Mac使いの方は特に注意してください。
・締切は開催前日以前に設定しておいたほうがよい。サーバBでは開催日の二日前に提出締切をセットしていたでしょうか。ただ、合評会の最中にテキストを読むスタイルをとるのであれば、締切を開催日時にもってかえてもよいでしょう。オススメはしませんが。
・ただ、人間は締切までに原稿を出すとはかぎりません。

提出されたテキストを読む

・提出されたテキストは合評前にかならず目を通しておきましょう。気づいた点はメモをとりましょう。
・読むのは意外と重労働。この点は文舵会を始める前には気づきにくい問題です。
・他人の文章って読むのめんどくさいからね。しかも分析的に読まないといけないとなるとなおさら。
・あんまり前に読んでも細部を忘れちゃうからなるべく開催近くで読みたいし……(わたしは開催二時間前くらいにバーっと読んでました)
・サーバAでは合評会でのそれぞれの作品の合評前に5分程度時間をとって読むスタイルをとりました。これなら確実ではあります。ただ問題も多い。
 ・まず馬鹿みたいに時間を喰う。6人いてそれぞれ5分読書時間をとったとして、全部で30分。時間が限られている会の場合はこのロスは痛い。限られていなかったとしても30分の気力が消費されるわけですから、そのぶん会がタルみがちになります。
 ・設問によっては数分程度では読みこめない。「目を通せた」と「読んだ」は違います。もちろん、リーディング時間を延長することもできるのですが、「5分経ちました。読めましたか?」と訊かれると人は読めてなくても「読めてません」とは言い出しにくいもの。合評のために集まっているのに、そこがおざなりになるようでは何の会なのかわかりません。
・「読む時間が取れない問題」は提出側にも責任がある場合があります。締切をちゃんと守りましょう。ハイ……。
・回答文のどこに目を向ければいいのかは『文体の舵をとれ』の各課題の末尾に示されています。主にはこれを参考にすればよいでしょう。一方で、自分なりの問題意識を掘り当てることも大事です。時間が許すなら、それを会の同席者に問うてみましょう。
・時間的精神的余裕があれば音読してみましょう。

集まる場所

ル=グウィン先生が想定されているのは直接対面の場だとおもわれます。
・ただこういう御時世なので、ネットを介してボイスチャットツールを使うのが現実的です。
・こういうご時世でなかったとしても、自分の生活圏内で参加者を五人も六人も集められるのか????
・テキストチャットだけで完結させることも不可能ではないでしょう。めんどくさそうですが。

司会

・居た方が円滑に回せます。
・基本的にはタイムキープが仕事。評者の評言に相槌をうつのも重要です。
・挙手制の場合は発言希望者を指名したり、希望者がでない場合にむりやりランダムに指名するのもこの人の役目です。

合評の形式

・輪番制と挙手制があります。前者は参加者全員が順番に感想を述べていくスタイル。後者は発言希望者が何らかの手段で発言意志を示し、指名を受けて感想を言うスタイル。
・輪番制の利点。全員が発言できる。どんな些細なことでも言わざるを得ない羽目になるので意外なバリエーションが出やすい。共通の見解みたいなものが醸成されて書き手が応答しやすくなる。
・輪番制の欠点。とにかく時間がかかる。感想がかぶりやすい。後になればなるほど言うことがなくなる。流れみたいなのができるとそれに逆らうのが難しくなり、感想が均質化されてしまう。
・挙手制の利点。(特に大人数の時に)時間の管理がしやすい。感想がかぶりにくい。
・挙手制の欠点。誰も! 手を! あげないのである! なんだかんだ感想をいう順番が固定化されがち。全体を通じて感想をまったく言わない人が生まれてしまう可能性。
・人数が少ないなら輪番制、多いなら挙手制の方がやりやすいかもしれない。挙手制はステルスの人が生まれてしまわないように、司会と会全体でうまく調整していかねばなりません。

評者タイム

・ルールを守りましょう。これに尽きます。ルールさえ守っていればル=グウィン先生もニッコリです。毎回始める前にルールを確認するタイムを設けてもいいぐらいかもしれません。
・ルールをやぶるときは「これはルール違反なのですが」と前置きしましょう。多用は控えましょう。
・前述の通り、だいたいの合評は毎課題の末尾についているル=グウィン先生の提案に沿えばつつがなく運びます。
・輪番制でル=グウィン先生御謹製の論点が喰らい尽くされてしまった! という場合は自分なりのプラスアルファを探してみましょう。ない場合は「ありません」でも大丈夫です。
・気を使いすぎもよくないのですが、攻撃的な態度にならないように注意しましょう。自分以外は手のひらサイズのかわいいウサギさんだとおもって接してください。
・「自分は自分なりの着眼点や切り口を持っている」と自己暗示をかけるのもよいかもしれません。自分が文章や小説の何にオブセッションを抱いているのか、考えてみましょう。
・文体の舵をとっているのですから、困ったときは文体や視点に注目してみましょう。
・できれば(これがむずかしいのですが)質問を作者にしてみましょう。作者応答のときの指針になります。
・見落とされがちですが、提出文のあらすじ(どういう話か)を把握しておくのは大事です。合評の時にここのあたりは無意識に避けられがちです。自分が「ちゃんと読めていない」のかもしれないとおそれるためです。
しかし、だいたいの文は描写の断片です。どういう話やシチュエーションなのか、一読しただけではわかりづらいのは当然。誤読や読み落としを恐れず、「これはこういう話なのだと思いますが〜」と自分なりの解釈を披露しておくと、他の評者や作者との認識や着眼点の違いがあぶりだせて、結果的には会全体の利益に資するとおもいます。

作者の応答タイム

・ルールを読むと、先生は作者の応答タイムを基本ないものとして想定されているようにおもわれます。
・とはいえ作者と読者とコミュニケーションがあっての文章なのではないか。個人的にはあったほうがいいとおもいます。その提出文に対する一種のまとめの時間にもなりますし。ルールを墨守しろとはなんだったのか。以下、やる場合について書きます。
・1.質問に答える。2.評者の反応を掬い取りつつ、作意を説明する。基本的にはこのふたつをやるだけで時間は潰れます。
・気持ちはわかりますが、言い訳は時間の無駄です。どうして羞恥心を発散させたいのなら、執筆意図の説明に巧みに忍び込ませしょう。
・狙った効果が得られなかった場合は、読者の読解力不足より自分の表現力不足を疑いましょう。
・まあでも伝わらなかったといってあんまりクヨクヨするのもよくない。文章の九割は伝わらないのが普通です。
・各課題の焦点になっているとこさえ伝われば、という気持ちでやると訓練的にもいいかもしれません。

感想の保存法

・A.さきほど触れた craig くんによる録音。
・B.各参加者ごとに自分に向けられた評言を自分でまとめる。
・C.【Aサーバ】では、「司会が共有されたドキュメントに直に各自の感想を書き込む」という形式を後半から取っていました。一覧性と網羅性という点では有効です。
  →難点その一:ぼんやりしてると参加者の言ってることを聞き逃してわけがわからんくなる。深夜にはキツい。
  →難点その二:話しながら書くことは無理なので自分の感想が一覧から抜け落ちてしまう。これはあらかじめ論点を文字にしておくことで対処可能。ただ、それでも「自分の提出ターン時の作者応答フェイズ」は無理。


 

ル=グウィン先生の仰る事がわからない場合

・あらゆる教典がそうであるように、たまにル=グウィン先生の御言葉は曖昧だったり矛盾しているように見える箇所を含んでいたりします。
・見解は会ごとに出せばいいとおもいますが、いちおう会内では見解を統一しておきましょう。次回の課題を話し合う場で解決できればよいですが、実際に書いてみないと気づけない部分もあるかと思います。仮にあなたが主催者で、無限の責任感を持つ神の如き存在であるのなら、一回分の合評会が終わったらすぐに次回分の課題をやり、その身をもってつまづきやすい点をあぶりだしましょう。
・英語をある程度解し、かつ原語版を持っている人がたまに降臨するかもしれません。神です。崇めましょう。もっとも、神にだってわからないことはあります。

・その日の文舵会が終わったらみんなで歌を歌います。歌う曲はみんなで選びましょう。いちばん盛り上がったのはアジカンの「リライト」と映画『ヘアスプレー』の「You can’t stop the beat」でしょうか。

www.youtube.com


他のことなど

・以上の文を書いてから一ヶ月かそこら放置してたら、他にどんな論点について書きたかったのかわからなくなってしまいました。
・文舵会においては評者が一番重要です。良き読み手になるのは難しいことかもしれませんが(下手な課題文かいたときより、うまく評をできなかったときのほうが落ち込みます)、善き読み手になる道は万人に開かれています。明文化されているわけですから。
・序盤にも書きましたが、【サーバA】と【サーバB】で出てくる感想や課題ごとの空気が結構異なっていたのはおもしろかった。「これはこういう課題だな」という見立ては実は一定でないのかもしれない。
 →あたりまえだけど、人の文章に対する感覚や基準って個人個人や帰属しているジャンルごとに違うんですね。「文章の最善ってこうだろ」みたいな意見が、あるコミュニティでは同意を得られても、別のコミュニティではまったく前提として理解されない。たとえばミステリファンが中心となっている場所とSFファンが中心となっている場所の「良い文章」って違うわけですよ。もしかしたら、いちばん根っこの部分では共通している美意識みたいなのはあるのかもしれませんが。2つのサーバに参加してよかったな、っておもうのはそこらへんの差異をなんとなく肌で実感できたことでしょうか。
・ほかに何が書きたかったんだっけ……。そうそう、各章の課題ごとの留意点と攻略法。
 →忘れてることも多いし、無理だな……。
 →とおもってたら、hayanelさんがええまとめ書いてはった。これ、いいです。
note.com


*1:実際にはストーリーボード、いわゆる絵コンテ

*2:『アニメーションの女王たち』より

*3:他の参加者のみなさまの恵みとなれたかは自信がありませんが……。

ORGANISM という未来の廃墟に行った。ーーVRChat紀行

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 廃墟というのは裏返しの未来にすぎない。
        -ウラジミル・ナボコフ 
 
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 エメラルドの鹿に導かれて電話ボックスから出ると、そこは誰の記憶にもない中庭だ。

 暗い。異様に暗い。団地なのか、マンションなのか。陰鬱とした空気に憑かれた高層住宅に四方を囲まれ、上を見ると建物が渦をまいて白く輝く空の穴に吸い込まれている。

 出口はない。

 心細くなっていると、柔らかな表情の球体関節人形、八十年代から復活してきたかのようなウサギめいた謎電子生物、リトルグレイ、黒い天使、黒い少女、ワンピースの少女、黒いペスト医師などが出迎えてくれた。

 これからいっしょに ORGANISM を攻略しようという。

 ORGANISM ?

 眼の前にそびえる建物は有機体というよりは、どうしようもなく無機物であるようにおもわれた。仲間たちに疑問をそのままぶつける。

 どういう意味なの?

 それをこれから見に行くのさ、と電子生物は長い耳を揺らしていった。

 

f:id:Monomane:20220523172241p:image

 

 ORGANISM は DrMorro なる人物が創造した VRChat 上のワールドだ。あらゆる地獄がそうであるように数ステージの階層からなり、ステージごとにテーマとなる舞台が異なる。容量は400MBほど。VRCのワールドのなかでは大きめの部類だが、ずばぬけたサイズというわけでもない。

 最初のステージは集合住宅だ。

 黒電話と謎の信号を映したブラウン管テレビの置いてあるエントランスから短い螺旋状の階段を上ると、吹き抜けになった一角へと出る。そこの壁には長方形の銀色の口が無数にあるいは無限に並んでいて、これはなんだろうといぶかしんでいると、

「郵便箱ですね」

 と同行者のひとりから声があがる。

 なるほど、郵便箱。集合住宅の出入口付近にあるのだし、理に適っている。

 郵便箱そのものに触れてもインタラクションは生じない。遊びに来たのだからなにかおもしろい仕掛けはないものかともう一度あたりを見回す。

 壁沿いに備え付けられた階段とタラップに気づいた。望めば天国まで届きそうなほどの高さまで続いている。

「あっ」とふいに電子ウサギが声をあげた。「エレベーターがありますよ」

 エレベーター。エメラルドの鹿がエレベーターについてなにか警告していた気がする。ここでははぐれると合流が難しい。不審なものにうかつに触れたり乗ったりすると変な場所に飛ばされ、もとの地点へ戻るのに苦労する。

 止めなければ、と思ったときには好奇心旺盛な電子ウサギは全速力で走り出していて、いきおいのままに昇降ボタンを押し、瞬時に消失する

 声をかける間もない。

 そのさまを見ていた別の同行者と目が合う。

「……あれは死んだものと思いましょう」

 建物に侵入してから十分も経っていない。こういう映画を、むかしに観た気がする。おろかで脆弱な人間どもが武装して《ゾーン》を探索へ向かうが、ひとり、またひとりと静かに無残に退場していく。あれに似ている。

 果たして二時間後にどれだけのものが生き残っているのか――

 などとおののいていると、空から何かが音もなく墜落した。さっきの電子ウサギだった。

「エレベーターはかなり上の階につながってるみたいでした」

 階段を登るのが億劫な人のために設置されたショートカットらしい。わざわざショートカットがあるということは、そこが正規のルートなのだろうか。

 われわれは上へ登るのを後回しにし、廊下から通じている別の部屋を探索することにした。

 なかはいかにも古いマンションといった具合で、黒いゴミ袋がダストシュートのまわりに投棄されていたり、複数の電気ボックスが階段状にならんでいたり、『インセプション』みたいに空間が螺旋状にねじれた廊下があったり、廊下の壁ぎちぎちに詰まった列車の前にリトルグレイが立っていたりした。

 

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 中庭もあった。最初も中庭だった気もするが、ここは比較的狭く囲われた場所だ。中庭というよりは窪みに近い。積もった雪かなにかがシェードのついた電球の上方にある何かの吸引口に吸い込まれている。積もっている白いものは『エルデンリング』のローデイル城(後)のような起伏を生じさせていて、赤々としたライティングといいどうも不吉だった。

 長居するような場所ではないと判断してみな階段から戻ろうとする。が、アバターが階段の天井にひっかかって出られない。背をかがめて一歩ずつ段をあがっていき、なんとか脱出する。ひとりだけ、リトルグレイがどうしても上れずに、白い底でさびしく立ち尽くしていた。

 

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 造られたときから廃墟となることを運命づけられた風景、それが VRChat のワールドだ。VRChat のワールドには基本的に人がいない。ひとけのあるワールドも存在するが、そこにいるかれらもまた訪問者であり、その世界に棲むために創られたものではない。だれもがひとりでやってきて、ひとりで去っていく。

 

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 ウンベルト・エーコによれば、「廃墟の美」ということばは十八世紀に生まれたという。「十六世紀から十七世紀末にかけて、人びとは失われた文明のイメージを廃墟にみてとり、そこに人間の命運のはかなさに対する教訓的な思索の糸口を得ていた」(「芸術における不完全なかたちについて」)

 十八世紀的な廃墟とは「精神的な一貫性を欠く断片のコラージュ(イタリアをちょっと、中国をちょっと))」(高山宏)なのだが、ORGANISM は断片でありながらもどこか一貫している。

 おそらくそれは DrMorro*1というひとりの作者の夢と記憶に由来しているからかもしれない

 DrMorro のワールドを訪れた経験があるものは多いはずだ。一時期、常時「人気のワールド」欄に表示されていた大規模ワールドである Olympia には、わたしも右も左もわからない Vistor 時代に訪れ、その広大さに感銘を受けた。初めて VRChat の可能性を感じさせてくれたワールドでもある。

 Olympia はヘレニズム的な雰囲気をたたえている。一方で、DrMorro のワールドにはもうひとつのラインがある。

 Moscow Trip シリーズがそれだ。「Moscow Trip 1957」と「Moscow Trip 2002」のふたつが現状公開されており、そのタイトル通り、1957年と2002年のモスクワの風景が再現されている。「1957」に入ると当時のロシアの典型的な集合住宅でスポーンし、外に出て公園で遊んだり、遊覧船に乗って偉大なるスターリズム建築の世界を愉しむことができる。ここの公園で『同志少女よ、銃を撃て』の読書会を開いたのはわたしにとってのソ連時代のよい思い出だ。

 

 

 VRChat で印象的なのは、自分たちの生活圏を再現しようとする人々だ。ロシア人と韓国人に多い気がする。どちらもこの三十年で劇的な変化を経験した国だ。かれらはチェーンのスーパーや実在する鉄道駅や集合住宅の一室を VRChat の世界に復元しようとする。

 

f:id:Monomane:20220523172740p:image

 

 それらの施設はどれも使い古されていて、さびしく、しかしどこか懐かしい。異国人であるわたしはそうした原風景を記憶に持っていないにもかかわらず、そう感じてしまう。「アメリカ映画を見て郷愁をおぼえるすべての観客は〈アメリカ人〉」*2であるように、1950年代の集合住宅*3の壁紙の質感に、ロシア人の気持ちになってしまう。その懐かしさが実際のロシア人の抱くものとおなじであるかは関係がない。なぜなら、その世界はロシア人を欠いている。ただひたすらの廃墟。一個人によって夢見られた世界がその世界と接続していなかったはずの誰かの記憶を浸食していく。それは『ゆめにっき』で行われたことだ。『Undertale』で行われたことだ。Vaporwave の世界で、Liminal Space の世界で、インディーやアンダーグラウンドと冠されるあらゆる芸術の領域で行われてきたことだ。 自分の幻想で他人の脳を塗りつぶすためには、ある程度まとまった規模の世界を用意する必要がある。「Moscow Trip」シリーズは愛らしくも強固な世界観を有していたが、それはVRの旅人たちの祖国を乗っ取れるほどに巨大ではなかった。そのモスクワは組織されているようで、やはりばらばらの断片の寄せ集めだったのだ。

 断片をつなぎあわせるための糸を物語と呼ぶ。

 

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 ORGANISM には物語があった。

 VRChat のワールドには人間を含めた生物がいない。オルガニズムが不在なのだ。

 ハーバート・スペンサーやリリエンフェルトらが提唱した社会有機体説では、社会は生物有機体に擬せられる。部分は部分同士で相互に依存しあい、分解して戻しても機械のようにはふたたび機能しない。全体でようやくひとつの単位なのだ。

 ORGANISM でも一見脈絡のないあらゆる要素が分かちがたく絡み合っている。ある種のイメージやオブジェクトは反復され、その反復が複数の趣の異なるワールドをつないでいる。

 

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 わたしたちは輝く液体で満たされたタイル張りの水槽を見るだろう、廊下に放置されたベッドを見るだろう、八方から飛び出してくる電車の運転席を見るだろう、だれかのささやきを聴くだろう、頭上を照らすまばゆい光を見るだろう。

 それらはおそらく簡単なプロットに言語化しうる。だが、それはわれわれの物語ではない。物語の解読をすること自体は実は重要ではない。いや、あるいは重要なのかもしれない。物語を読み込もうとすると自然、細部を凝視せざるをえなくなる。イメージが脳に焼き付く。世界が乗っ取られてしまう。その過程の罠に誘うために物語は必要なのかもしれない。

 驚くべきは目に見える場所にはだいたい行けること。AAAのオープンワールドRPGのような開かれた自由さがここにもあらわれている。この自由さが細部への耽溺を可能にもしている。

 ORGANISM は未来の廃墟だ。二十一世紀のわれわれは廃墟を造り出すために他人のイメージを必要としなくなった。いまや他者は攻め落とされるべき目標としてのみある。創り出さないわたしは蹂躙されるしかない。

 ORGANISM を訪れてからもう二日、あの世界のことばかり考えている。

 

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 ユルスナールはピラネージの《幻想の牢獄》を「人工的でありながら不吉な現実世界、密室恐怖症的でありながら誇大妄想狂的な世界」と評した*4。どう見ても虚構なのにリアルに感じられ、狭苦しくありながらも無辺であるという感覚はまさに ORGANISM そのものだ。ピラネージといえば、スザンナ・クラークの幻想小説『ピラネージ』では、ピラネージの絵画のような館に住む語り手の生活が描かれていて、後半で実はある「方法」によって基底現実からその世界へ送り込まれていたと判明するけれど、われわれはもはやピラネージ的な廃墟へ跳ぶためにそのような魔術を必要としない。

 Oculus Quest 2(現在は Meta Quest 2 という呪われた名を背負っている)は37180円で売られており、VRChat は基本無料だ。三途の川の渡し賃はかつてないほどリーズナブルになっている。

 入口はそこに用意されている。

 入ってしまえば、出口はない。

 

 

 

 

ファンムービーを作った人。すごい。

 

  

vrchat紀行その一はこちら。

 

 

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*1:PAUL.A.Kという名義で画家としても活動している

*2:管啓次郎コロンブスの犬』

*3:こんにち我々がロシアのオタク界隈でよく見るフルシチョフカ的な団地より以前のものか

*4:須賀敦子ユルスナールの靴』

あこがれを吸い寄せる虚空――『虚空の人 清原和博をめぐる旅』について

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 長島は英雄だった。難しい理由は必要なかった。子供にも即座に理解できる英雄だった。長島になりたかった。野球選手になって長島になりたかった。たとえ野球選手にならなくても長島になりたかった。
 少しずつ自分は長島でなく、長島になれないのだということがわかってくる。しかし、高校生になり、大学生になっても、心のどこかに長島になることができたらと思いつづけてきにちがいない。もし長島になれたら……。
     沢木耕太郎「三人の三塁手」(『敗れざる者たち』文春文庫)



『虚空の人』は、覚醒剤取締法違反で逮捕された元プロ野球選手、清原和博の釈放後の人生を追ったルポルタージュだ。
 清原はPL学園時代に甲子園で活躍して大スターとなり、プロになってからも西武ライオンズ読売ジャイアンツの主力バッターとして君臨した。タイトル獲得歴こそないものの、高校時代から常に球界の話題の中心にいた選手であり、それは引退後も変わらなかった。
 2016年2月、清原が覚醒剤で逮捕された。釈放後、スポーツライターの鈴木忠平は清原ファンである『Number』編集長と組んで、甲子園時代の清原に関する特集を組む。その記事を読んだ清原からかかってきた電話をきっかけに、清原と鈴木の交流が始まる。
 絶望の底にあり、自分からはほとんど何も話さない清原だったが、取材中、鈴木がふと口にした「今年の夏の甲子園第百回記念大会を観戦しにいってはどうか」というアイディアに興味を示す。そこから現役時代からの友人であるスポーツ用具会社の社長・宮地やステーキハウスの店長・サカイらとチームを組み、甲子園観戦に向けてたるんだ身体を鍛え直そうとしはじめる。
 ところが、清原はトレーニングを始めてすぐに気力を喪失してしまう。ジムに行きたくないと駄々をこねたり、宮地たちの呼び寄せたインストラクターをクビにしようとしたり。典型的なうつの症状なのだが、わかっていても支援している仲間たちは果てしない徒労感をおぼえてしまう。
 だが、彼らは清原を見捨てない。本業であるスポーツ用具業やステーキハウス業をなかば投げ出してまで廃人同然の清原を助けようとする。世間的には「終わった人」である清原を。
 なぜか。
 著者がそのことについて宮地に直接尋ねるシーンがある。宮地は返答に窮し、「ちょっと考えさせてください」といって電話を切る。その問いは清原を追う著者本人にも返ってくる。
 なぜ清原でなくてはいけないのか。


 本の終盤、野々垣という清原の元秘書兼運転手が出てくる。野々垣は元プロ野球選手。甲子園でPL学園の敵チームの応援として初めて清原を目撃し、PL学園時代は清原の後輩、そしてプロ入り後の西武時代はチームメイトでもあった。
 現役引退後は安定した会社員生活を送っていたが、ある日、巨人に移籍した清原からかかってきた一本の電話で彼は清原の付き人に転職する。清原が引退し、離婚のストレスから球界外のあやしげな人間たちと付き合い出すと野々垣は違和感をおぼえて清原のもとから離れる。そしてなんと清原の因縁の相手である桑田真澄の経営する少年野球チームのコーチに就く。
 それでも心は清原から離れられない。清原の逮捕時には、鈴木と接触し、「自分が清原さんについての本を書くから、その売り上げを全部清原さんにあげられないか」と申しでる(当然無理だった)。
 人生を通じ、野々垣は清原とくっついては離れていく。それであまり報われているようには見えない。むしろ、清原のいないほうが少なくとも社会的には安定した人生を送られたのではないか。彼はいう。
「清原さんといっしょにいるのが一番しっくりくるんです」
 こうもいう。
「僕は清原和博になりたかったんですよ」


 そのセリフで別のルポを思い出す。
 沢木耕太郎の「三人の三塁者」だ。
 レギュラークラスの実力を持ちながらも、長島茂雄の巨人入団によって野球人生を狂わせてしまった二人の三塁手、難波と土屋のその後を沢木が追う話だ。
 長島は沢木にはあこがれのヒーローだった。しかし同時に決してつかむことのできない幻影でもあった。
 その感情を沢木は団塊世代の「ぼくら」共通の敗北として描いた。子ども時代にだれもがぼんやり恋い焦がれる将来のイデアとしての長島。だが、成長の過程で可能性は剪定されていき、大多数はどこかの段階で長島にはなりえないのだと悟る。
 だからこそ、沢木は「長島になれる可能性があった長島のライバルたち」を感情移入として見いだす。

 もしも長島になれたら! しかし、ぼくらはついに長島たりえなかった。だからだろうか、やはりついに長島になりえなかった二人の男に、強く心を惹かれるのは……。
    沢木耕太郎「三人の三塁手



「三人の三塁手」の長島像と『虚空の人』の清原像は似ている。どちらも天真爛漫で裏表がなく、人なつこい。レギュラー争いで蹴落とされたり、試合で敗北したライバルたちからも愛されてしまう。*1
 私はスターであったころの長島も清原も知らない。一般論で話すと、「スターとは観客の欲望を受け止めるからっぽの器である」という説をよく聞く。長島や清原もそうした意味でただしくスターだったのだろう。なれるはずのないことはわかっていてもなりたいという憧れを止めることのできない欲望の対象。「その人になりたい」という同一化への強烈な感情は外から見れば愛として観測される。
 宮地にとっても野々垣にとっても、そしておそらく著者にとっても、清原は他者であると同時に自分でもある。
 『虚空の人』でのなかの清原はどこまで閉じた人間だ。状況が状況なのでしょうがないのだが、あまり多くを語らないし、自分の行動に説明をつけない(というか、つけられない)。
 説明されずに閉じている、というのは同時に解釈にあたっては開かれているということでもある。 著者は徹底的に清原を調べようとする。PL学園時代の監督や同級生を取材し、そのキャラクターに迫っていく。
 だが、あるとき、PL学園時代の監督からこんな非難を受ける。
「あなたは結局、清原を食い物にしようとしているだけではないのか」
 そのことばにショックを受けて自分の中にあったある欲望に気づいた著者は、清原についての取材を中断し、清原とのつながりそのものを絶とうとする。
 実は「三人の三塁手」にも似たような流れがある。長島の先輩で、長島入団と同時にレギュラーの座を奪われてしまった土屋という選手がいた。沢木耕太郎は土屋本人に会うために、彼の親族や関係者との接触を試みるのだが、「ほうっておいてあげてください」などと言われてなかなかうまくいかない。それでもどうにか渡りのつけられそうな人物を発見するのだが、そこで疑問が芽生えてしまう。

 彼と会ってどうしようというのか。なにをきこうというのだろう? 重いものが、ぼくのなかに溜りはじめていた。
(中略)
 土屋と動機の友人に連絡の橋渡しを頼み、ひたすら彼からの連絡を待った。ついに彼からの連絡はこなかった……と、本来ならば書くところであろう。この文章の首尾を一貫させるためには、そうでなくてはならない。しかし、事実を記しておこう。ぼくは土屋をおいかけることをやめてしまった。彼に会って、どうしたらよいのか? もう訊ねるべきことはなかった。
    沢木耕太郎「三人の三塁手



「三人の三塁手」において、沢木が取材を途絶した具体的な理由は描かれない。
 ただ、彼は気づいてしまったのではないかと思う。ルポルタージュにおいて、取材対象が実は自分自身の欲望の映し鏡であることに。
 土屋と会って話したところで、そこにいるのは自分の欲望した「長島になれなかった自分」の似姿でしかない。
 土屋が長島とのポジション争いや野球人生を通じて実際に何を考えどう感じたのかとは、なんの関係もない。一流のストーリーテラーである沢木は予感していたのではないだろうか。土屋と出会ったら「物語」が崩れてしまうことに。*2
 翻って、『虚空の人』の鈴木は沢木ほどには作家的な才覚(詐術、と言い換えてもいい)に恵まれてはいない。そのことが、『虚空の人』の語りをぎこちなくもするし、誠実にしもする。
 本書を読んでも清原和博という人間がどうして薬物に手を出したのか、逮捕後に何を考えてどう過ごしていたのか、深いレベルではわからない。ただ、清原という誘蛾灯に引き寄せられ、その身を焦がすひとびとの昏い輝きを目にすることはできる。
 うつくしいと思うべきか、かなしいと感じるべきか、どちらなのかは知らない。

*1:実際の人物がどうであったかは私はビタイチ興味がない

*2:そんな彼の作家的資質が最も露骨かつ上質な形で出たのが『人の砂漠』に収められている「おばあさんが死んだ」だ


文字と声と亡霊たちの天国――『ディスコ・エリジウム ザ・ファイナル・カット』について

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「けど、”ディスコ”・エリジウムでしょ……。おかしくないかしら? ディスコは過去のもの、忘れられたものでしょう?」
「過去は未来だが、未来は死んでいる!」


 ――『ディスコ・エリジウム




 『ベイビー、あんたが探してんのは結局あんた自身なのよ』


 ――舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』(新潮文庫


 Disco Elysium の感想を書くなんてことは不可能だ。なぜなら、それは概観して全貌を捉えようにも分裂しすぎていて、要素へ分解しようにも継ぎ目がなさすぎる。*1そもそも世界の感触をことばで伝えるなんて人間の技量を超えているのでは?
 なので、ここに書かれているのはプレイ中に発された声の残響だ。あなたのために用意された25番目のスキル。それがわたし。


知覚(聴覚)[中:成功]
   遠くでラジオが聴こえる。世界のラジオが。音が流れてくる。おはよう、エリジウム。もうすぐ世界に戻る時間だ。


 大脳辺縁系*2と古代爬虫類脳に苛まされる常闇から抜け出すと、あなたはホテルの一室ですっぱだかになって昏倒している四十代の髭面の中年男性だ。自分の名前もわからない。なぜそこにいるのかもわからない。今が何年の何月何日かもわからない。なにもわからない。自分がみじめであること以外は、なにひとつ。

これがあなた。どんなに泣いて拒もうが、暴れて嫌がろうが、これがあなた。


 あなたは部屋中に散らばった衣服をかきあつめ(なぜ窓が割れているのだろう?)、のろのろと部屋の外へ出る。その瞬間から三十時間に渡る洪水に見舞われる。文字と声の氾濫だ。
 もちろん人が喋る。あなたが話しかけたキャラクターは(あなたを嫌っている人物でさえ)みな饒舌に自分のことを語ってくれる。物も喋る。街中に散りばめられたオブジェクトは土地を語り、歴史を語っている。ときに比喩ではなく物が”喋り”、こちらへ語りかけてくることさえある。コンテナや郵便ボックスやネクタイとは仲良くしたほうがいい。

もちろん死体も喋る。「物言わぬ死体」なんて誰がいった?


 そして、なにより、あなたの脳の中の24のスキルたちがささやきかけてくる。「論理」が指針を構築し、「百科事典」が用語を解説し、「修辞学」が会話を助け、「演劇」が相手の嘘を見抜き、「概念化」が芸術を称揚し、「視覚計算」が捜査し、「意志力」が正気を保ち、「内陸帝国」が狂気へ突き落とし、「共感」がやさしくさせ、「権威」が脅し、「団結心」が拠り所となり、「暗示」が皮肉を効かせ、「耐久力」によって耐え、「痛覚閾値」が痛みを求め、「肉体装置」が暴力を求め、「電気化学」が快楽を求め、「悪寒」があらゆる情景を描き出し、「薄明」があらゆる不安をほじくりだし、「手と眼の協調」が工作し、「知覚」が読み取り、「反応速度」は即応し、「才覚」が自由市場原理を唱え、「手さばき」が盗み、「平静」は二十四時間いつでも平静だ。これらの声は単にTRPG的なダイスロールによる成功判定に用いられるだけでなく、あなたの頭のなかで常時がなりたてたりケンカしたり議論したり一致団結したりする。
 頭のなかに24の人格がいる状態、と聞いて、あなたはもしかして自分が狂ってしまったのかと心配するのかもしれない。安心してほしい。その懸念は当たっている。
 ありとあらゆる声が文字となり、一つの小さな区画に閉じ込められている。Disco Elysium とはそういうゲームだ。


概念化 -
   ゲームだと? ゲーム? これが? ゲームというのはもっと……


 そう、あなたは(FGOを抜きにすれば)2020年代ビデオゲームとしては考えられないほどのテキスト量に呑み込まれる。ようこそ、エリジウムへ。ひとつのゲームとしてはもちろん、あるいは小説としてさえ異常な文字数だ。英語にして120万ワード弱*3。量だけでいえば、これを超える文学作品はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて*4くらいしか存在しない。ピンチョンもトルストイもギャディスもトールキンドストエフスキーもスターンもGRRマーティン(電気化学:「早く続きを出せ!」)も、Disco Elysium に比べたらどんなに長い作品でも半分ほどの量しかない。
 あなたは目覚めたばかりのねぼけた頭でこう反発するだろう。
 量が問題なのか? 物語の質とは量なのか?
 そうだ。少なくともこの場合は、量だ。
 今話しているのはひとつの物語についてではない。必要最小限の手数で最大限の快楽を得られるようなハンディなドラッグについて話しているのではない。世界を作るために、あなたに世界がここに在るのだと錯覚させるために必要な物量について話している。

踊る大捜査線


 文字を読むこと。とにかく膨大な記述を眼で追うこと。それは書物時代の儀式であり、リュミエール以降には避けるべきとされる忌まわしい行為だった。21世紀のひとびとはアクションにしか興味をもたない。なるべく喋るな、なるべく書くな、語るな、見せろ、猫を守れ。
 そうしてメガノヴェル的なパラノイアは前世紀へと駆逐され*5、わたしたちは聖堂のように静かなスクリーンを慎み深く眺める禁欲的な消費者になった。
 Disco Elysium はその逆をいく。世界を文字で溢れさせている。そして、決定版となる現行の Final Cut バージョンではその文字に(声として発されるべきものについては)すべてボイスが吹き込まれている。
 文字も声も語るためのツールだ。それらは何を語っているのだろう。物語? 半分は正解だ。しかし人は物語には感動はしても崇めはしない。わたしたちが畏敬を抱く対象は世界そのものだけだ。そして、わたしたちは世界を広大さによって知覚する。果てのない感覚。果てにはまだその先の果ての果てへの期待。未視感。驚異。憧れ。
 それはしかし本来は”画”に媒介される感覚だ。文字に表現できる範囲は、非合理なまでに狭い。だが、文字という不便で不器用な方法の積み重ねによってでしか表現しえない領域がある。記憶と過去がそれだ。


百科事典
   ボルヘスはかつてこう言った。書物は記憶と想像力が拡大延長されたものだ、と……。*6 ついでに、こうも言った。書物は残されているが、死んでいる、と。


平静[失敗:やや難しい]
   それは言っていない。


 Disco Elysium の舞台となるのはレヴァショール*7という架空の都市の一区画であるマルティネ―ズだ。フランス革命ロシア革命が同時に起こったような騒乱で一度は共産主義政権が樹立されたものの、《連合》と呼ばれる資本主義者の外圧によって粉砕された。以降はどの警察の管区にも属さない、政治的社会的空隙のような一劃になっている。1910年代と30年代と70年代と2020年代のそれぞれの挫折をミックスしてかき回したような終末の感覚。夢見られていた理想は王政時代の立像の下に埋葬されてしまった。
 革命も熱狂もとうに冷えている。そこに住むのは打ち捨てられた人々だ。誰もかれも貧しく、絶望している。12歳の少年はヤク中の父親に虐待されて家を飛び出し、連日木から吊るされた死体に石を投げている。公的機関に替わって街を取り仕切る労働組合は腐敗しきっており、過激な人種主義グループと結託してさえいる。時代に取り残され、誰からも必要とされなくなった老人ふたりは肩を寄せ合うようにして毎日街の片隅でペタンクに明け暮れる。
 街自体も寂れきっている。鈍色の建物や銅像が雪に埋もれ、なにかが芽吹く気配を微塵も感じさせない。その中心にあるのが呪われた集合商業施設で、そこに入ったテナントはたちまちに潰れてしまうと噂される。
 ゲームを開始して三十分であなたは理解する。壊れてしまっているのはあなただけではない。この街もだ。


薄明
   ここもだ。

金持ちすぎて光(空間)を捻じ曲げるおとこ。大好き。来賀友志がSF作家だったらこういうキャラを考えていたかもしれない。


 そうした壊れ果てた街と人々からあなたは世界と人々についての過去を掘り返す。あるいは思い出す。忘れないでほしい、意味不明な単語や歴史を教えてくれる「百科事典」スキルも元はあなたの脳に宿っている。
 そうしてあなたの人格も思い出されていく。しかし注意してほしいのだけれど、思い出されていく自分自身の人格とは、ゲームプレイ上では作り出されるものでもある。あなたは社会主義理論の信奉者だったかもしれない。ハードコア美学の理解者だったのかもしれない。ネオリベも裸足で逃げ出すウルトラリベラリストだったのかもしれない。極めて複雑で奇々怪々な人種差別理論をインプットしたファシストだったのかもしれない。自身のセクシュアリティから”解放”された人だったのかもしれない。すばらしい量のクソを勢いよくぶちまける肛門の持ち主だったのかもしれない。あらゆる物質を変形破壊することで次の創造の形を導く対オブジェクト部隊員だったのかもしれない。コル・ド・ド・ダクアの声を聞くために全身の皮膚を聴覚器官と化した黄金の耳の持ち主だったのかもしれない。共産主義の0.000%を実現して”真実”の学位を取得し今、共産主義を立ち上げるのではなく、二枚舌のグロテスクなこの世界の正確なモデルを確立しようとしている本物の共産主義者だったかもしれない。これらすべてであった可能性もある。どれでもなかった可能性もある。

ここでのあなたは熱烈な共産主義者であり、レイシストであり、ほとんど浮浪者であり、黙示録の到来を予感させるスーパースター刑事だ


 あなたはゲームプレイを通じてあなたという人格を作り出していく/思い出していく。*8注意してほしい。あなたが取り戻していくのは、自分が「どういうふうに壊れていた」のかということだ。そう、「壊れていた」という事実だけは動かしがたい。マルティネ―ズという街がそうであるように。
 なんでも言おう。大量のテキストが要るのだ。それは自動的にあなたの網膜に流し込まれていく文章ではない。あなたが自分で選び、鯨飲せねばらない。破滅的な飲酒を行うようにして、あなたは進んでテキストに酔い、テキストに呑まれていく。*9
 そう、望むのなら、あなたは自分がアルコール中毒者だったということにもできる。


内陸帝国
   あなたさまはここで、是が非でもカラオケをしなければなりません。このような機会は滅多にないのですから。内に秘めたその感情を表現なさるべきです。あなたの海にように広大なお心を、皆に広く知らしめるべきです。


 だからこそ、*10Disco Elysium はハードボイルド刑事小説のとらねばらなかった。昏倒から始まり、歩行と聞き取りによって街と人の(忌まわしい)記憶を呼び起こすには、これ以上ふさわしいジャンルはない。
 単にメインのストーリーとその道具立てだけをなぞるなら、本作はシンプルで古典的で明快だ。名も無き死体、ファム・ファタル労働組合と企業の対立、スト破り、酔いどれ刑事、戦争の記憶、みなしごたち、人種差別、スラムの再開発、陰謀、地下の同性愛者たち、素手の殴り合い、男たちの友愛、消えた銃、共産主義、行方不明者たち……そういうものがハメットの『血の収穫』風の勢力間衝突とチャンドラー好みの”男と女の物語”を通して*11語られていく。懐かしさすらおぼえるかもしれない。
 そのシンプルな物語が、それまで呑んできた(一見本筋とは関係ない)テキストと記憶によってたまらなくオリジナルな体験になる。
 つまるところ、Disco Elysium は難解なゲームではない。たしかに複雑な歴史が描かれているし、現実とは異なるテクノロジー(ラジオ通信によるインターネット!)や明らかにSF的な設定(〈識域〉と呼ばれる謎の空間物質)に満ちている。しかし、それらは全く未知というわけでもないし、理解不能というわけでもない。ただ、膨大なのだ。そして、広大なのだ。世界のように。世界そのもののように。わたしたちの脳みそが処理しきれないレベルで。
 もちろん、「広い」ゲームはいくらでもある。「豊かな」ゲームも無数にある。世界を語るために散りばめられたロアにしたって、最近の大作オープンワールドRPGなら当然のように具わっている。*12しかしそうしたゲームにおいて世界は視られ、触れられるべきものだ。Disco Elysium での世界とは、読まれ、聴かれるべきものだ。


柳田國男
   つまり、セックスってことやね。

折口信夫
   今回は違うと思います。


 だから、あなたも聴くだろう。読むだろう。思い出すだろう。
 過去からやってきた未来の天国。
 グルーヴィでディスコなエリジウム







*1:本作の世界観、ゲームプレイ、設定、人物、背景知識、レファレンス元などを知りたければ、ゲームメディアの doope! の特集連載を読めば大体足りる。プレイ前に概要を掴みたいならここを読もう。https://doope.jp/2022/06127832.html

*2:「記憶は海馬でコード化され、大脳真皮質に貯蔵され、前頭―辺緑系のメカニズムによって取り出される」『意識はどこから生まれてくるのか』マーク・ソームズ、岸本寛史&佐渡忠洋・訳

*3:https://doope.jp/2022/07128131.html

*4:英訳版は約126万ワードとされる

*5:メガノヴェル自体は前世紀的ではないやりかたで今も生まれ続けている。https://www.esquire.com/entertainment/books/a40828532/adam-levin-mount-chicago-maximalist-novel/?fbclid=IwAR2xowm6yCab6cV-9hTGRKdzWmXAaUhhi8GF8rbNHTV7eQSRmhuEaLmuaeM

*6:『語るボルヘス 書物・不死性・時間ほか』ホルヘ・ルイス・ボルヘス木村榮一・訳

*7:Ravachol 間違いなく19世紀にレストランを爆破してギロチンにかけられた元墓泥棒のアナキスト、フランシス・ラヴァショルに由来している

*8:もしかしたらあらゆる”ロールプレイ”をしつつもどの”ロールプレイ”にもならないことがこのロールプレイングゲームの核心なのかもしれない

*9:公平を期すなら Disco Elysium こそ要所要所でのビジュアライズが卓越した作品であることは言明しておかねばならない。それを認めることがこの記事の記述の大半に反することになってもだ。特にブランコのシーンやあの”虫”が登場する瞬間の美しさといったら……

*10:「歩くことは読むことである」というクリシェと化したレベッカ・ソルニットの名言を引くまでもなく

*11:そして驚嘆すべきことに、2020年代的なバランス感覚で

*12:直接の参照元となった Planescape 以外にも本作に多大な影響を与えたcRPGの伝統も見逃していけないだろう。その伝統が他国より強大だったエストニアのゲーム文化という背景も。そこのあたりは前述の doope! の特集記事に詳しい。

引用のためらい、パロディのあわい――岡田索雲『ようきなやつら』について

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(本記事は岡田索雲『ようきなやつら』のネタバレが含まれています。といいますか、すでに読んでいる読者向けに書かれていてネタバレすらすっとばしているところがあります。ご注意ください。)
(ネタバレなしの紹介としては↓でV林田氏がこれ以上ないものをやっているのでそれ読んで)
manba.co.jp


 歴史を書くとは、歴史を引用することである。
   ――ヴァルター・ベンヤミン



 岡田索雲の『ようきなやつら』は大小さまざまな引用とパロディから成っています。それらをいちいち指摘していくのはこの記事の目的とするところではありません。ぜんぶ拾うのはそりゃ無理だろうしね。
 興味があるのは、それらがどのようなやりかたで行われているかということです。
 というわけで、わかりやすくデカいところからはじめましょう。ここらへんはだいたい言わなくてもわかるでしょうからすこし冗長かもしれません。


「忍耐サトリくん」のパロディ

「サトリくん」は、人の心の声が聴こえてしまう(=妖怪のサトリ)であるがゆえに他人に関わることを拒んで殻に閉じこもってしまう高校生サトリくんと、その心をなんとか開こうと試みる担任教師の対話を描いた物語です。
 本編で大きなウェイトを占めているパロディ元はふたつ。冨樫義博の『幽☆遊☆白書』と、和山やまの『女の園の星』です。前者は主にサトリくんのほうに、後者は教師のほうに割り振られています。
幽☆遊☆白書』には、〈仙水編〉と呼ばれるチャプターで室田というボクサー志望の男が出てくる。この室田に「人の心の声が聴こえる」という特殊能力があるんですね*1。「妖怪サトリ」という題材と幽白はこうした明白な共通項によって結び付けられたわけです*2
 パロディにはメディアによってさまざまな仕方がありますが、「サトリくん」ではコマ割り、ポーズ、セリフなどで表現されます。

(「忍耐サトリくん」より)
(『幽☆遊☆白書』より)
(『幽☆遊☆白書』より、室田)
(「忍耐サトリくん」より)


 ここで重要になってくるのが直接的な参照先の室田ではなく、参照先のチャプターのラスボスである仙水の存在です。仙水は最初は人を守るために活動していたはずだったのが、人類の醜悪な側面を目撃して闇堕ち、人類に敵対するようになったという人物。『幽白』の主人公である浦飯幽助の「ありえたかもしれない」裏面ですね。
 この仙水が『幽白』において「人類の醜悪さを目撃」した瞬間こそ、上で引用した「うわあああああ!!!」のシーンなのですが、「サトリくん」においてもちゃんと文脈が踏まえられている。単に変顔をパロってウケるよね、という以上の効用があるわけです。
 のみならず、担任教師の心の声を聴いてサトリくんが頭を抱えるシーン(=『幽白』で室田が仙水の心の声を聴くシーン)では、担任のほうに仙水のキャラが分配されています。すなわち、闇が深い、恐ろしいパブリック・エネミーであるというキャラづけです。 
 このように、かならずしも一対一対応でなくとも使いでを拡張できるのがパロディによるストーリーテリングの美点ですね。


「サトリくん」の担任教師は言葉の上では生徒と真正面から向き合う良い先生なのです。が、秘された心の奥の奥のほうではすさまじい悪を宿しています。そうしたキャラクターである担任教師のキャラデザに『女の園の星』の星先生を採用したのは、またなんというか、絶妙なチョイスですね。*3

(『女の園の星』より)
(「忍耐サトリくん」より)


 ほかの学園・教師モノとひと味違った『女の園の星』における教師と生徒の独特な距離感が「サトリくん」においても効いています。外見と口調と空気感をいただいた感じで、キャラの中身としてはそこまで寄せていません。
 ただネタを持ってくるのではなく、繊細にパラメータを調節して物語に奉仕させるのは実は結構難しい。パロディは元ネタそのものにインパクトがあるものが多いですから、うまくしないとその重力に引っ張られて「作者のまんが」ではなくなってしまいます。『ようきなやつら』単行本あとがきによると、岡田索雲は明確に書きたいメッセージを込めるタイプの作家であるようですが、それでいてパロディという一種他人に身を委ねる技法を効果的に使えるのは驚くべきことです。これは引用にもいえます。
 パロディのパンチ力を活かしつつも、ネタ元の文脈をきちんと織り込み*4、作者の作品としての芯も通っている。バランス感覚において出色の一本です。

「猫欠」のオマージュ

 四篇目に収められている「猫欠」の語り口は作品集中でもほんのり特異です。
 引きこもりになった化け猫の話で出演者は全員ネコ。視点キャラクターであるネコの語りによって進んで行くわけですが、丸フキダシや四角フキダシで括られたナレーションのほかに、語り手の内心の吐露として枠のないセリフも出てきます。
 フキダシなしのセリフ・ナレーション・内語自体は他のまんが*5でもよく見られる表現ですが、本短編集の他の作品ではほとんど用いられていません。唯一の例外はさきほど取り上げた「忍耐サトリくん」の先生の「本心」描写でしょうか。これだってパロディを背景にした特殊な例であり、つまり、「フキダシなしセリフ・モノローグ」はこの作者本来のスタイルではない。*6
 では、この「フキダシなしセリフ・モノローグ」はどこからきたのか。『幽白』のときと違って明白な証拠があるわけではないので推測が混じるのですが、おそらくやまだ紫の短編集『性悪猫』だとおもわれます。

やまだ紫『性悪猫』。あなたがたに読んでほしくないレベルのウルトラ超傑作)。)

 
「猫欠」と『性悪猫』のスタイルはよく似ています。ネコたちがメインキャラであり、主として二匹のネコ同士の会話で物語が進むこと。ネコたちが人間のように考え、しゃべり、にもかかわらず作中で描かれるネコたちの姿態はまんが的にカリカチュアライズされたものでなくリアルなネコの日常的な動作を切り取ったようなものであること*7。独白がやわらかさ帯びた叙情的でどこかフェミニンなセリフ回しであること。「やさしい」というワード。そして、フキダシなしセリフ・モノローグと吹き出し会話が入り交じること。



(「猫欠」より)

(『性悪猫』より)

 
 一方で「サトリくん」と異なり、直接的なコマの引用・パロディはなされません。
 つまり、「猫欠」におけるオマージュ*8は語りのスタイルこそが重要なのです。
 やまだ紫は日常にある痛みや困難や喜びを人生という視野から詩的に拾い上げる作風*9で、『性悪猫』もそのうちなのですが、そういった要素にネコ同士の対話が絡んでくる。不可能を承知で、ひとことで言うとしたら「やさしさ」と「あたたかさ」*10*11のまんがです。おさまりのよい形に削れない心をそのままに抱え込む空気感を岡田索雲は「猫欠」に加えたかったのではないか――という気がします。*12完璧なトレース(インターネットであなたがたが使っているような意味ではない)に固執してようにおもわれないのも、あくまでテイスト程度に留めておきたかった計算があったのではないか。

(「猫欠」より)
(『性悪猫』より。このコマについてはパロディではなく偶然でないかと思う)


 そして、実は『性悪猫』的なスタイルは語り手となっているネコを通した世界観であることにも留意しておきたいです。
 というのも、化け猫を責めたりなだめたりするネコたちはあんまり『性悪猫』っぽくない*13やまだ紫的な包容力と広い(というか長い)視野を持ったネコは語り手だけであり、だからこそ化け猫を外へ連れ出すことができたのではないでしょうか。

「サトリくん」ではコマ単位での直截的なパロディを行いつつも、作品のテイストや空気感を作者のほうでコントロールすることでまとまりを出していたわけですが、「猫欠」ではテイストや空気感を作者の「外」に一度預けることでより作者のやりたいことを果たしたといえます。
 そう、パロディ・引用・オマージュは他者を取り込むことである部分を作者のコントロール下から切り離し、それによって作品の可能性を拡げるのです。
 そして、『ようきなやつら』ではより思い切った引用の試みがなされます。
「追燈」です。

「追燈」の引用

「追燈」は関東大震災直にみまわれた東京を、しゃべる提灯をぶらさげながらさまよい歩く少年の物語です。
 誰もが度肝を抜かれるのは終盤の十ページにもおよぶ引用文――関東大震災時の朝鮮人虐殺についての証言でしょう。
 黒地の背景に丸く切り抜かれた部分に引用文献(末尾に添えられた「引用文献」欄によると『【普及版】関東大震災 朝鮮人虐殺の記録――東京地区別1100の証言』、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』、『九月、東京の路上で』の三冊)から引いてきた当事者たちの肉声を並べ、その声がページを埋め尽くしていきます。

(「追燈」より)

 あとがきで触れられているように、本作が関東大震災朝鮮人虐殺を主題にした「初めての漫画」であることについて作者はかなり注意を払っていたようで、そういうものを「”妖怪もの”として描いてよいだろうかという葛藤」に悩まされて「今作に関しては妖怪の存在を極力、曖昧にして描きました」と述べています。
 もちろん、そのこまやかな慎重さが本作の語り口にまで及んでいることは改めて指摘するまでもないでしょう。
 というわけで、ここでは引用文パートの効用についてだけ考えます。
 引用とは前述したように、本来作者の主導下にある叙述を別の誰かへ一時的に明け渡すことです。そのことによってどのような効果、つまり読者にどういった印象を与えることができるのか。
 真実性です。


 歴史的事件を主題にした作品においては「これは真実を描いている」という印象(何度でも重ねて強調しておきたい部分ですが、あくまで”印象”です)が、読者にとって重要になってきます。特に本作は歴史のパロディとしての歴史フィクションなのではなく、歴史を伝えるための歴史フィクションなのですから。でなければ、「妖怪の存在を極力、曖昧にして描」く必要などありません。その誠実さゆえに作中でフィクションの領域とノンフィクションの領域を明確な線を引いた。*14
 引用は本来、没入感を阻害するものです。異物なのです。それまでの語りとまったく別の語りが挿入されて、読者はそこで立ち止まらざる得なくなる。フィクションであればそこで”現実”に一瞬立ち戻る。そこで展開されている文章もまた”現実”に属するものとして受け取られる。
 だから、事実を語りたいのであればその記述はある種の態度をまとっているほうがよい。
 たとえば、〈太陽王〉ルイ十四世の寵臣だったダンジョー侯フィリップ・ド・クルシヨンは三十六年間に渡って毎日日記をつけ、それは後に数多くの歴史書に引用される重要史料のひとつとなりました。ダンジョーの日記は「退屈な文体と洞察力の欠如」(嶋中博章)によって特徴づけられるとされ、歴史家のフランソワ・ブリュシュなどは「ダンジョ―には毎日書き、文学的効果をまったく狙っていないという唯一無二の価値がある」と評価しました。*15
 実際のダンジョ―の記述における客観性や信頼性はここでは措くとして、ブリュシュはいいことをいいました。「文学的効果をまったく狙っていない」ように見える、という態度はここでは信頼につながっています。裏返せば、”なめらか”で”巧い”文章には”嘘くささ”が、内実はどうあれ、つきまとう。
 ダンジョ―は歴史記述の話ですが、ことフィクションの表現にかぎるならばこう言い換えることもできるでしょう。「そのメディアにそぐわない記述は真実性(あるいはあらゆる意味においての”本物らしさ”)を担保しているように見える」。
 引用部は異質であればあるほど、つまづきがあればあるほど、読者に「響く」のです。


 もちろん圧倒的な物量、引用が十ページに渡っているという手法そのものも重要です。
 十ページに渡って作者自身の語りを手放したように見える*16のは大変なことです。なぜそこまで「自分」を投げ出せるのか、という畏怖。それもまた読者の印象に重みを与えます。*17
 そして、畏怖しているのはおそらく読者だけではない。なにより作者が死者たちの声を蘇らせることに対するおそれをアティテュードとして示しているのです。*18なんとなれば、作者はそのような引用の仕方をしなくとも関東大震災下における朝鮮人虐殺を描くことができます。実際、主人公が崩壊した東京をさまよう場面は多大なリサーチのもとに構築されているフシがあり、それこそ”なめらか”に”巧く”語っています。それでも最後には岡田索雲は十ページの引用を選んだ。自分のなかのためらいがある場合に、ためらっている事実自体をどう伝えるか、というのも創作者のアートのひとつだとおもいます。


 引用・パロディ・オマージュ。いずれも自分とは異なる外部を呼び出し、ともにならびたっていく技術です。*19その意図や目的や効用はときどきによって違いますが、その「ときどき」をこれからも考えていきたいですね。つかれた。おしまい。アッ、「川血」と岡田索雲の作家的テーマの話するの忘れたな。今度でいい? いいよね。さよなら、さよなら、さよなら。

*1:『幽白』における室田は数ページ程度しか出演しない上に本筋にさほどからまないチョイ役ですが、かなり印象に残る名物キャラのひとりです。錦ソクラの麻雀パロディの金字塔『3年B組一八先生』の幽白パロディ回でもこの室田が採用されています。心の声が聴こえるって汎用性ありますしね。『うしおととら』パロディ回ではサトリだったし

*2:わたしたちはもちろんここで佐藤マコトの『サトラレ』も思い出さねばならないわけですが

*3:アランが言うように、パロディには涜聖の喜びがあります。パロディ元が清浄で無垢であればあるほど”喜び”が増すのです

*4:ところで、こうした技術の巧拙をもってパロディを「リスペクトがある/ない」の判断をくだすやりかたは個人的には同意できません。表現は表現でしかなくて、それこそ作者の内心は誰にもわからないわけですから。オマージュのやりかたがそっけなくて下手くそでもその作品を愛している人はたくさんいるでしょう。

*5:たしか歴史的には少女まんがの文脈から発展してきたものと記憶していますが、間違ってるかも

*6:ちなみに岡田索雲は長編連載デビューである『鬼死ね』時点では四角フキダシでの内語表現をそれなりに使用していましたが、『アクション』へ移籍してからの長編第二作『マザリアン』のころからほぼ使用なくなりました。それはつまりモノローグが入らない方向性に作風が変化していていったことを示しています

*7:線も似せてきたのかと一瞬思いましたが、岡田索雲の過去作に出てきたネコとそんなに変わらない。

*8:オマージュとパロディの違いについて。パロディとは喜劇としての捉え直しによって世界の新たな側面を批評的に暴き出すもの、というバフチン的な定義を据えて、オマージュとはかならずしもそうした再機能を目的としないもの、ととりあえずおいてもよいのですが、まあ別に深く考えなくてもいいです。

*9:好きな作家だけれど、あんまり自分のなかでも確固たる作家像を把握できていない

*10:ふたことあるじゃん

*11:↑「不可能を承知で」っていったじゃん、だから。

*12:まあ、「違います。オマージュではありません」と言われたらそれまでで、その可能性は大いにある。普通の感想や批評と違ってオマージュを前提にしてアレコレいうのはそこが弱点。

*13:ここらへんは他のネコまんがのオマージュが混ざっているのかもしれないが、自分は浅学にして存じあげない。

*14:ベンヤミン的な文脈でいうならば「引用によって歴史を語るとは、神話的な物語を「逆なで」し、破局の犠牲になった者たちの記憶を、歴史主義的に物語られる因果の連鎖から解放して救い出すことである。そうして初めて、死者の一人ひとりが何を体験したかが言葉になる。歴史を書くとは、神話としての歴史に抗して、それが抹殺した死者と、この死者が巻き込まれた出来事をその名で呼び出し、死者の記憶を証言することである。」(『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』柿木伸之)

*15:嶋中博章「歴史記述における史料の引用――瀕死の太陽王をめぐるダンジョ―侯の証言」

*16:見えるというのは引用の取捨や配置という形で作者という権力は依然存在しているからでもあります

*17:当たり前ですが、長々とした引用が読者へ与える印象・効用というのはメディアや作品によって異なります。大田洋子の「屍の街」とかね

*18:「敬意」といってもよいのですが、前述の「リスペクト」と同様あまり使いたくないことばです

*19:フィリップ・ソレルスのように引用それ自体をケンカのための道具に使うひともおりますが

ゲームの夢、映画の魔――『IMMORTALITY』について

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(本記事は本ブログに珍しく、あまりネタバレが含まれていない。ちょっとはあります)




 君という光が私を見つける 真夜中に



 宇多田ヒカル「光」


(本編より)



視覚芸術分野において「見ることと見られることについての作品」というフレーズで評することは若干の気恥ずかしさを伴う。使い古された表現であるという以上に、映像の本性がそういうもので、いってみれば(特に映画は)すべてに見る見られる関係を見出せるからだ。論の起点としてはよいのだが、それだけではなにも射抜いてないにひとしい。


とはいえ、「これは見ることと見られることについての作品だ!」と騒ぎたくなる作品はある。そうしたテーマが意識されているものを立て続けに観ていると特に。わたしは最近『NOPE』を観た。『心霊マスターテープ EYE』を観た。『隣のお姉さんが好き』を読んだ。『ブロンド』を観た。『アフター・ヤン』を観た。どれもがそのようにあった。
いずれも映画であり、連続ドラマだ。ゲームではない。ゲームにはふつう「カメラ」があるから。ビデオゲームにおける原罪とは「操作することと操作されること」であり、メタ要素もその局面に顕れる。
つまりは、生命の存在を撮ってしまうことによる罪悪と、非生命に取ることで命を吹き込んでしまうことによる罪悪の違いだ。窃視か、創造か。あなたはどちらで罰せられたいのか。
ゲームがいかに映画を夢見て映画に近づき、映画的な演出が可能なほどのグラフィックと容量を持ち得たとしても、究極的には映画そのものになれない(というか、なる必要がない)理由もそこにある。*1
逆もまた然りだ。映画がどれほどプレイヤーとゲームとの密接な距離に嫉妬したとしても、ゲームにはなれない。

(『ブラック・ミラー:バンダスナッチ』より。朝食のシリアルも選べる)



Netflixの実写インタラクティブドラマ『バンダスナッチ*2は、映画を夢見たゲーム、あるいはゲームを夢見た映画としての失敗のよい見本だ。
ゲームブック的な選択を愚直なまでに貫いて、膨大な数の分岐すべてに映像を用意する。二億人を超えるネトフリの契約者たちがいまだに一人として見たことのない分岐もあるという。狂っている。しかしその狂気じみた物量がなければ、「映画でゲームをやる」夢は見られなかった。*3そして、その夢は現実にはならなかった。あなたがネトフリと契約しているなら実際に観てみるといい。失望が味わえる。それはゲームのできそこないであり、ドラマのできそこないだ。「コントロール」できることがゲームの醍醐味であるはずなのに、選択分岐式のフルモーションビデオゲームではプレイヤーにはあれかこれかという限定的な支配権しか与えられない。その感覚はゲームと映画に共通する美点である没入感を蒸散させる。しかし、歴史の一部を目撃できているのかもしれないという感覚を持てるという点では、体験に値する失望ではある。
実写FMVゲームの理想といえば、テキスト的な選択肢に限らないプレイヤー=キャラの行動や決断がゲームの筋に影響を与えていくような形だろうが、それは実写でなければすでにクアンティック・ドリーム社のデイヴィッド・ケージが『Detroit: Become Human』で完成しており、そして現在のシネマティック3Dゲームは実写に嫉妬しないでいられるほどには実在感を獲得できている。このまま技術が発展していけば、やがては実写と見紛うルックに達するかもしれない。そのとき、真にインタラクティブなFMVゲームが完成するだろう。そのころのわたしたちがそうした種のエンターテインメントを求めているかは別にして。
 

では、映画とゲームはその未来まで幸福な結婚を成就できないのか。
そのとおり、とわたしは答えていた。そもそも映画は映画によって語られるものであり、ゲームはゲームによって語られるものだ。交雑させる必要もない。そう考えていた。



そこに『IMMORTALITY』が現れた。


『IMMORTALITY』は『Her Story』や『Telling Lies』、そして『#WARGEMES 』*4などを制作したサム・バーロウの最新作*5である。
とだけいえば、インディーゲームファンならだいたいどういうゲームか想像できるだろう。わたしもできるならばあなたの知識と想像力にフリーライドして楽をしたいのだが、いちおうワールドワイドウェブは万人に開かれた公共空間であり、この記事もまた万人に開かれた文書であるので、いちおうゲームの概要を説明したい。


『IMMORTALITY』は200を超える実写の映像クリップから成る。三本の未公開映画(『アンブロシオ』*6、『ミンスキー』、『トゥー・オブ・エブリシング』)の撮影カットとそのリハーサルシーン、ホームビデオ、TV番組の録画映像などだ。プレイ開始時点ではほとんど映像クリップは表示されていない。プレイヤーは映像中に映されている人物やアイテムを選択すると、そこからハイパーテキスト的な要領で共通する要素を保つ別の映像へとジャンプすることができる。そうやって未発見のクリップを探し出していくわけだ。
三本の長編映画には共通してある女優が出演している。マリッサ・マーセルという名の人物だ。将来を嘱望されたスター候補だった彼女は三本の作品がそれぞれの理由で不幸なお蔵入りとなったのち、現在は行方知れずとなっている。プレイヤーの目的は失われたフィルムの再構成を通じて彼女の人生の物語を追うことだ。
ただし、本作には(サム・バーロウの過去二作同様)「正解」を示してくれる明快なエンディングもなければ、途中途中であなたの理解を確認してくれるような採点システムもない。選択肢だって一度も表示されない。
アイテムや人物をたどりながら、ただ映像を観ていくこと。それだけが本作におけるゲームプレイだ。あまりおもしろくなさそうに見えるでしょう?

(本編のメニューより)



どこまでを明かすべきか迷う。
あなたが「それ」に出逢う瞬間の驚き、歓び、そして怖れに一点の曇りもあってほしくない。本作は他のあらゆるゲームと同様に、なんの前情報も与えられずにプレイすべきだ。疑いなく人を選ぶゲームではある。しかし、選ばれなかったことすらも代えがたい経験にしてくれる作品というのはある。



そのものではなく、その影ををなぞっていこう。そうすることが本作にとってもふさわしいはずだから。


映画のメタ性についての話まで戻ろう。映画は「誰がこの映像を撮っている/見ているのか」という問いに行き着いた瞬間に虚構性を暴かれて立ちいかなくなる。だから、たいていの作品では作り手も観客もわざとそこを無視する相互的な了解を交わしているわけで、いってみれば甘い犯罪のようなものであり、そこをグダグダいうとるようでは一生映画なんて観られない。
『IMMORTALITY』の作者であるサム・バーロウは、やはり断片的な実写映像によるアドベンチャーを試みた過去二作品において「誰がこの映像(=画面)を見ているのか」について自覚的だった。
『Her Story』でも『Telling Lies』でも「誰」がそのビデオを観ているのかは作中で設定されていて、ときおりホラーのような演出で画面に「観ている顔」が反射する。
その顔はプレイヤーの顔ではない。なぜなら記録映像とその映像を観ることはプレイヤーの人生に関係ない。
バーロウ作品における映像の大半はプライベートなものだ。『IMMORTALITY』の核心をなす映画群ですらどれも未完成かお蔵入りの作品だ。
そうした映像を観る主体は匿名で大勢で交換可能なプレイヤーである「あなた」ではありえない。実際、『Her Story』や『Telling Lies』ではあなたと映像のあいだに第三者を媒介にしている。ところが『IMMORTALITY』ではその隔壁が取っ払われ、あなたと映像が直につながった作品となっている。まさしく、「あなた」がその画面を見ているのだ。物語レベルでそのような作りにするのはいかにも容易なことだけれど、ここで注目されるべきはジャンル的な安易なツイストではない。そのように語られるためにどんな道具立てが用意されたのかだ。


(本編より)


加藤幹郎の『映画館と観客の文化史』によると、80年代にVCR(ビデオ・カセット・レコーダー)の普及により、ノンリニアで反復的な能動的見方をすることが可能になり、「映画を見る」ことから「映画を読む」ことが(映画業界に直接関わらない個人でも)できるようになったという。ここからシーンにおけるコマ数の比較やコマ単位でのカットの変化などを分析する計量映画学*7が産み出されたわけだけれど*8、『IMMORTALITY』においてあなたはまさしくコマ送りやスローモーションや一時停止を駆使して映像を「観る」というより「読む」ことになる。
映画あるいは映画であることの定義は百家争鳴の有様*9だけれど、家庭用映像ソフト登場以前は時間的な不可逆性もおそらく要件の一つだった。
映画の時間は、映画の物語内部ではもちろんさまざまな時間操作が行われていたによせ、現実と同じ流れのなかにあった。その時間の流れはわたしたちには介入不可能で、不可触で、堅固だった。
見ているものしか見えない。それがかつての映画の特性だった。
レーザーディスクやビデオの普及によって巻き戻したり停止することが可能となり、どうなったか。
見えないものが見えるようになった。*10



それはたとえば、幽霊。



心霊映像の多くは一時停止と画像的な引き伸ばしによって霊の存在を指摘する。それらは、その映像をふつうに視聴していた場合には見逃してしまう細部として語られる。厚みを持った映像を薄い一枚の画像にスライスすることで、ようやくわたしたちは霊を視ることが可能になる。
かれらはどこから来たのか。
ベンヤミンは言う。スローモーションには既知の運動のなかに未知の要素を見いださせる機能がある。
そのベンヤミンの言う視覚的無意識を霊へと敷衍した木澤佐登志は言う。「霊がいるからビデオを撮影するのでない。逆である。ビデオを撮影するからそこに(不可避的に)霊が取り憑いてしまうのだ」*11


写真が誕生当初からオカルトやスピリチュアリズムの温床だったことをあなたはどこかで聞いた覚えがあるかもしれない。考えてみれば不思議なことで、ふつうなら現実をありのまま精確に切り取る写真に「ありのまま」以上の要素など見出せないはずだ。ところが初期の写真技術はむしろその精確さと錬金術めいた光化学プロセスゆえに人の眼には見えないもの*12まで”精確に”観測することができるものと期待された。*13
そして、心霊写真家が多数出現することとなる。

(ユジェーヌ・ティエボーの心霊写真。おっさんのオーバーなポーズが愛らしい)



当時のインチキ心霊写真では同じプレート*14で二度撮影する二重露光がよく用いられたという。二重露光(二重露出)は心霊写真の基本技術であり、ダゲレオタイプから百数十年経った時代の日本のホラー映像作品でも二重露出による幽霊表現が使われていた。*15そのことを述べた『ホラーの作法 ホラー映画の技術』で小中千昭は写真・映像のなかの霊についてクリティカルな指摘をしている。「霊魂の顔は、いずれもボケた感じがしている。ボケとは何か。レンズの焦点距離から外れた像だ」。


本来フォーカスしていない対象を過剰に視ること。それこそ映像のなかの霊に出会うための手段だ。映像の媒体も霊媒もどちらもメディウムと呼ばれる。そう、わたしは今『IMMORTALITY』の話をしている。サム・バーロウが本作において最も意識したと公言する*16二作品のひとつ、『CURE』*17の監督である黒沢清はこう言った。「「存在していること」が「見ること」によって保障され、同時に「見ること」の可能性が「存在そのもの」によって極限まで高められる、これが作る側と見る側とが共に経験する映画というプロセスなのではないでしょうか。そして、見るためには当然光が必要です。光があれば、突然反対側に闇ができます。これが映画というものです」。*18この言葉を額面通りに取るならば、『IMMMORTALITY』は映画だ。いかに内部の収められた三作品*19が映画としてぎこちなく、物語としてそそられないものであったとしても、態度においてそうある。

(本編より。クリップには台本の読み合わせやリハーサル、日常風景の場面も含まれている)



『IMMMORTALITY』において、あなたは観客でもあると同時に編集者でもある。あなたがプレイの過程において、クリップを再生したりコマ送りしたりする作業は「本来この映像の編集に使われいたと思われる機器」*20であるムヴィオラを再現したコンピュータソフトを通じて行われているという設定だ。ムヴィオラはアナログな編集機材で、70年代くらいまでハリウッドのスタジオではこの機械で編集作業を行っていた。*21
ゲームプレイにおいてあまりにも些末なこの設定は、しかし本作の本性に迫る上で重要な要素でもある。
あなたは編集作業を行っているのだ。三本の映画にもなっていない映画をランダムに行き来して、バラバラで空白だらけのクリップを頭のなかで補完し、その語りと物語をひとつらなりにつないでいく。自分だけの解釈を作っていく。それは『Her Story』や『Telling Lies』でも試みられてはいたが、映画というメディアを背景にした本作ではより核心的なものとなる。
映画以外のメディアで映画について語ろうとした作品はいくつかあり、なかにはスティーヴ・エリクソンの『ゼロヴィル』のような傑作も存在するのだが、しかし作品受容体験を映画そのものと一致させようとしたものはあっただろうか。映画自身でさえ、そんな芸当は不可能だった。それはクリエイションの体験を受け手と共有するには、フラグメンタルでノンリニアな語りだけでなく、能動的な再構成への挑戦も促さなければならないからで*22、(その受容形態の変化にも関わらず)受け手が直接に触れることを想定していない*23映画には『IMMORTALITY』のような語りは可能なようでいて不可能だ。*24



『IMMMORTALITY』は映画を夢見て実際に映画になっているのかもしれない。一方で、ゲームにしかできない仕方で映画を語ってもいる。唯一であることはかならずしもおもしろさを保証しないけれど、無二の達成をしていることはたしかだ。
見返される視線は一方的な権力関係の転覆と双方向性を表す。
そうした視線がふさわしいゲームは現状『IMMMORTALITY』以外には存在しない。



*1:そして、似たような理由でアニメーションは映画ではない。よく勘違いされがちだが、「映画ではあること」は優れたメディウムであることの証明ではない。

*2:精確にはドラマ・オムニバス・シリーズ『ブラック・ミラー』のスペシャル・エピソード

*3:ゲーム側からのアプローチ――フルモーションビデオゲーム作品で『バンダスナッチ』と似たようなADVをやろうとした作品はいくつかある。近年ではトビアス・ウェバー監督の『Late Shift』(2016年)、そのパブリッシャーだった Wales Interactive が Good Gate Media と組んだ『The Complex』(2020年)などの一連の作品群、日本では小高和剛の『デスカムトゥルー』などが知られる。興味深いことに『Night Trap』(1993年)などの黎明期のFMVゲーム作品はシンプルに選択肢によって分岐するインタラクティブ・ムービー的な形態をあまり取らなかった。「分岐する映画」を作るには容量と予算が足りず、パズルアドベンチャーにしたりポイントアンドクリック方式にしたりなどの工夫が求められたらからだろう。映画側からの「インタラクティブ」な物語分岐のアプローチとしてはまずギミック映画の巨匠ウィリアム・キャッスルの『Mr.Sardonicus』(1961年)が挙げられる。「二通りあるラストの結末が観客の投票によって選ばれる」という趣向だったが、現在では、実はキャッスルは「二通りのフィルム」など用意しておらず、ストーリーとナレーションによって観客を一意の投票行動に誘導していたとする説が有力(柳下毅一郎『興行師たちの映画史』)。そういうわけで、事実上のインタラクティブ・フィルム第一号はモントリオール万博のチェコスロバキア館で公開された『Kinoautomat』(1967)とされる。これは途中の九つの分岐ポイントで上映が中断され、司会が主人公の行動に関して観客に二者択一の投票を行わせて、それによって物語が分岐していくもの。万博でナンバーワンの人気を集め、そのアイデアに魅了されたハリウッドがメソッドの輸入を試みたがチェコスロバキア共産党によって阻まれたという伝説まである。選択分岐式実写FMVゲームの詳しい歴史については本記事の本題ではないので、またの機会に回す。またアニメーションによるFMVは巨匠ドン・ブルースによる『Dragon’s Lair』(1983年)からデイヴィッド・ケージ作品やDONTNODの『Life is Strange』シリーズ、スーパーマッシブゲームズの『Until Dawn』などに至るまでの長い別筋の歴史があるが、これも今は措く。

*4:日本ではほとんど知られていないが、映画『ウォーゲーム』を原作としてハッカー文化をフィーチャーしたインタラクティブウェブビデオ。無料で遊べる。https://eko.com/wargames-xboxcopy

*5:そして彼の開発会社である Half Mermaid のデビュー作

*6:マシュー・グレゴリー・ルイスの小説『マンク』 The Monk の脚色という設定

*7:シネメトリクス。アニメーションの場合は計量アニメーション学とも

*8:北村匡平『24フレームの映画学;映像表現を解体する』、加藤幹郎編『アニメーションの映画学』

*9:特に最近はネット配信がらみで「『複数人の観客がひとつの画面に視線を注ぐこと』を『映画』の要件に入れるかどうか」(たとえば、リュミエールこそ映画の始原と信じる人々はこの条件を「入れる」ほうの定義を取る)でビデオ時代以上にマニア的にも商業的にも論争が繰り広げられているのだけれど

*10:見ることは啓示であり奇跡であるけれど、読むことは祈りやまじないに近い。止まり留まり戻りを繰り返すことで行間から神秘の徴を掬い取る、あるいは幻視する。再読は精読のためではなく、誤読のためにこそ行われる。

*11:木澤佐登志「霊は細部に宿り給う、とでもいうのだろうかーー『ほんとにあった!呪いのビデオ』のクリティカル・ポイント」『霊障 vol.1』心霊ビデオ研究会

*12:たとえば、流体(fluid)。エーテルとか動物磁気などと呼ばれ、空気中や人体の周囲を取り巻いていると考えられていたそれらの物質を写真は捉えられるのではないか、そう考えられていた。

*13:『写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写』浜野志

*14:フィルムに相当

*15:もっといえば、映画はその誕生以前から幽霊を弄んでいた。十八世紀末のイリュージョニスト、エティエンヌ=ガスパール・ロベールが幻燈機を利用して行ったファンタスゴマリアと呼ばれる幽霊ショーがそれだ

*16:https://www.washingtonpost.com/video-games/2022/09/16/immortality-sam-barlow-interview/

*17:もうひとつは『インランド・エンパイア

*18:黒沢清、21世紀の映画を語る』

*19:小説家でもあるアメリア・グレイ(バーロウの前作である『#WARGAMES 』が『Mr.Robot』とからんでいるので、その関係もあっただろうか)、『ワイルド・アット・ハート』の原作者にして『ロスト・ハイウェイ』の脚本家であるバリー・ギフォード(『IMMORTALITY』に限らずバーロウ作品はデイヴィッド・リンチの影響が絶大)、バーロウが本作の影響元のひとつに挙げている『赤い影』の脚本家アラン・スコットの三人がそれぞれ脚本を担当している事実は非常に重要。

*20:ゲーム中のガイドより

*21:マイケル・カーンは05年に『ミュンヘン』でアカデミー賞最優秀編集賞にノミネートされたときまでムヴィオラを使用していたという。

*22:ミステリにおける「なぜ読者は読者への挑戦状を受け取らないのか?」という問題とも似ている

*23:触れ得ないことが映画の神聖さでもある

*24:そうしたものに接近した例としては本作でもリスペクトが捧げられているデイヴィッド・リンチがいて、というかリンチを観たせいでバーロウもこんなものを作ったのだとおもうのだけれど、観客はともかくリンチ自身は『IMMORTALITY』的な方向性に興味があるようには見えない

2022年の新作映画ベスト10とその他:第三期ピークTVの時代、あるいは犬の年

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前説

 2022年の映像作品を思い返すに『ピースメーカー』はよかったなーとか『鎌倉殿の十三人』は最高だったなーとか『アトランタ』S3はたのしかったなーとか『ブラックバード』はごつかったなーとか、どうも浮かぶのはドラマばかり*1で映画の記憶はうすいのですが、まあ、観てはいる。観てはいるんですが、「自分の映画」がありませんでした。
 これは自分としてはわりとショッキングなことで、というのも、2022年はポール・トーマス・アンダーソン(『リコリス・ピザ』)、ウェス・アンダーソン(『フレンチ・ディスパッチ』)、マイク・ミルズ(『カモン・カモン』)、ノア・バームバック(『ホワイト・ノイズ』)と、「自分の監督」だったはずの監督の新作がたてつづけに出たにもかかわらず、いずれも(悪くないんだけど)そんなに自分のなかでしっくりきませんでした。
 一方で、ジョーダン・ピール(『NOPE』)だとか原田眞人(『ヘルドッグス』)だとかマイケル・ベイ(『アンビュランス』)だとかギレルモ・デル・トロ(『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』、『ナイトメア・アリー』)だとかコゴナダ(『アフター・ヤン』)だとか、それまで「自分の監督」ではなかったひとたちのほうが「自分の映画」感のあるものを撮ってくれたような印象があります。

 年間ベストとは集計されるものと個人で出すものは見た目似ているようで目的はぜんぜん違うもので、集計されるものはどうしたって商業的なプロパガンダにしかならなくて、個人においては孤独な思想的なプロパガンダにしかなりません。
 どっちが良くてどっちがいいのか、というのは別になくて、強いていうのならどっちもわるい。価値をかかげることは領土を一方的に策定する行為であり、それははたからみれば侵略とよばれます。
 
 では、わたしの領土はどこにあるのか。
 本当に映画の未来を想うなら映画という枠組みをストーリーテリングや技術や興行といった側面からゆるがせにきている作品を選出すべきなのでしょう。それは『スパイダーマン:ノーウェイホーム』だったり、『トップガン:マーヴェリック』だったり、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』だったり、『SLAM DUNK THE FIRST』だったり。
 あるいは、なんというか、カイエ・デュ・シネマみたいな選びかたをすべきなのでしょう、しかしわたしは……などといけすかなさを遠ざけようとしてみたけれど、実際のカイエの2022年ベスト見たら日本公開作に関してはほぼほぼかぶっててやんなるね*2*3*4
 映画配信サイトのレコメンド機能なみに主体性や一貫性のないように見えるそんなわたしでも、いちおう評価基準はあるようで、ベストを並べるとその年の自分のテーマが浮き上がったりします。
 では、今年のわたしのテーマとはなにか。


 イヌです。


新作映画ベスト10

1.『戦争と女の顔』(カンテミール・バラーゴフ監督、ロシア)


 画面いっぱいにボルゾイの顔のドアップが映る。本年度のベストです。


 アレクシェーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を下敷きにしたという宣伝文句はともかく、まさしく顔の映画*5であったことはたしかで、常に誰がどういう表情をしているか、画面にふたつならんだ顔のどちらが前でどちらが後にきているか、というようなことばかりが問題にされる映画だった。一方で声(鳴き声)の映画でもあった。なぜこんなにイヌの声であふれているんだろうか。
 親友であるはずの女ふたりのあいだに流れる緊張感が終始ヤバくて、こういう不穏さのぶつかりあいみたいなものが観たいんだよな、とおもう。
 ラストのあれは『アンナ・カレーニナ』に対するアンチテーゼなのかな。

2.『アンビュランス』(マイケル・ベイ監督、アメリカ)

 銀行強盗に失敗した兄弟が救急車を盗んで走り出す。しかしその救急車にはいまにも死にそうな患者が乗っていて……というアホな設定の爆走映画。ドローンを駆使した意味のわからないショットがぎょうさん出てきてあいかわらずベイさんはきばりやすなあ、という感じなのですけれども、基本的にドラマが狭い救急車内で起こるというコンパクトさがちょうどよい。
 本作は長いのに一秒たりとも退屈な時間がない。精確にいえば、本来一時的な退屈は映画に必須の要素であるのだけれど、作る側に退屈にさせようという気がない。それは終盤のあるシーンによく現われている。高速道路を走行しつつも追い詰められつつある兄弟の片方が、スマホのイヤフォンで昔ふたりでよく聴いた懐メロ(曲は忘れた)をシェアする。ふたりしてノリノリで歌いだして思い出に浸るか……とおもわれたところでもうギレンホールが「こんな状況で落ち着けるか!」とキレて、イヤフォンをぶち切る。ノリツッコミである。振り返っている時間はない。映画は走り続けなければいけない。そして、ジェイク・ギレンホールはダウナー顔芸をやりつづけなければいけない。

 あとなんか特に意味もなく巨大なイヌが出てきます。

3.『ブラック・フォン』(スコット・デリクソン監督、アメリカ)

 連続少年監禁殺人魔のイーサン・ホークにある少年が捕まって、さあ、大変といった映画。
 ピタゴラスイッチ的な脱出ゲーム演出に、ある感情が乗る。その感情がねえ、感情なんですよ。地上で髪の毛ひとつ残さずに失われてしまった少年たちが地下で残したかすかな痕跡を拾い集めていく。そういう行為こそが鎮魂なのです。死んだものの拾われなかった声を拾うこと。その結実がセリフではなくアクションで見せられるのもたまらない。スコット・デリクソンはやはりマーベルにはもったいない才能だった。
 異世界(精確には過去)パートの映像表現もすき。

4.『NOPE』(ジョーダン・ピール監督、アメリカ)

 ジョーダン・ピールがいきなりおもしろくなってしまった。これまでのピールはいまいち弾けきれなくて、どこか生真面目すぎるというか、理屈っぽすぎるところがあった。それは社会派意識ゆえの性向ではなくむしろ逆で、自分のなかに抱えられた不定形の情念や経験を外の世界に出すにあたって形にしようとしたときに、そういう計算しか使えなかったからだろうとおもわれる。
 キレイすぎる自覚はあったのか、『アス』なんかでは割り切れない奇妙さをあえて出そうと苦心していたけれど、どうにもから回っていた。
 で、頭でっかちさでは『NOPE』もそんなに変わらない。むしろ今回は「映画史はおれが背負う!」みたいな気迫で望んでいるので史上最高にあたまでっかちかもしれない。でも確実にワンカット以上は画が理屈を超越する瞬間があった。
「スペクタクル」を謳うだけはある。柳下毅一郎の定義に従うのなら、映画は見世物であって、何を見せるかというと驚異を見せるのだ。その見世物根性を忘れないのなら、ピールはたしかにいつかは本物のスペクタクルを撮られるのかもしれない。

5.『ニトラム NITRAM』(ジャスティン・カーゼル監督、オーストラリア)

 ファーストショットがいいんですよね。(ロケ地は知ないがたぶん)タスマニア島のうつくしい夕焼けを背景にケイレブ・ランドリー・ジョーンズが花火をしている。隣近所からは「迷惑だからやめろ!」と罵声が飛んでくるんだけれど、ケイレブは委細構わず花火を燃やしつづける。これだけで「あっ、これは関わっちゃいけないむずかしい人を主人公にした映画なんだ」と一発でわかる。
 そんなむずかしい主人公が資産家の独身女性に拾われる。そう、拾われる。彼女はイヌをたくさん屋敷内に飼っていて、それで孤独を癒やしている。主人公もそうした「イヌ」の一匹だったのだけれど、主人公も彼女自身もそのことに気づかなかった。それが悲劇の種になってしまう。
 最終的に主人公がシンパシーを抱く相手はイヌだけになってしまい、彼は大量虐殺事件を起こす前に主を失ったイヌたちを解放する。このあと放たれたイヌたちが野良で生き延びられるかはともかく、ストーリー上はイヌを生かして人を殺すわけだ。
 今年の二大「イヌとしてのヒト」映画のひとつ。

6.『TITANE』(ジュリア・デクルノー監督、フランス)

 車とセックスして車の子供を孕む連続殺人鬼の話。アホな展開がたくさんあって子どものころに子ども会の運動会に参加したときにもらえる駄菓子の詰め合わせパックみたいなプリミティブなうれしさがある。

7.『アフター・ヤン』(コゴナダ監督、アメリカ)

 ふだんならコゴナダみたいな静謐でミニマルで落ち着いた小品です然とした映画をつくる監督なんてでえきらいで、実際『コロンバス』なんか退屈きわまりなかったのだけれど、ドラマの『パチンコ』から潮が変わってきた。踊るのだ。比喩ではなく、文字通りに。

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 最初にいい感じにキビキビ踊る人間の映像を見せると視聴者は脳をやられ、あとに続く映像もなんとなく信頼感をもって見守るようになる。これが2022年にコゴナダが開発したテクニックというか詐術で、『アフター・ヤン』でも、まず踊る。

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 このように人間の認知というのは信用がならない。
 ところで、本作もまた映画についての映画みたいな部分があって、要するに映画とは茶葉を煮出して作るお茶のようなものだみたいなノリがある。理屈と膏薬はどこにもくっつくなあ、とおもうと同時に、映画とは自分で作り上げてしまう理屈を超えられるかどうかだともおもう。本作に関しては超えられていたほう。

8.『リコリスピザ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督、アメリカ)

 カップルなようなそうでないような腐れ縁のふたりが愛し合いつつ傷つけ合いつつようやっとキスするまで描いたノスタルジックラブコメ
 ポール・トーマス・アンダーソンの映画はいつもイカれた二人の、外部からは理解できない関係を語る。そういうものを観られるだけでいい。

9.『ヘルドッグス』(原田眞人監督、日本)

 大竹しのぶが演じるマッサージ師があるヤクザ幹部の邸宅を訪問するシーンで、控えの間にいる若い衆たちがテーブルサッカー(サッカー選手に見立てた人形に棒を通した台でガチャガチャするアレ)に興じている姿がちょびっと映るのだけれど、妙にはしゃいでいる。酒の入っていない状態でテーブルサッカーにあそこまで熱中している大人の描写はほかの映画ではあんまり見ない。まあ、たぶんスマホとか携帯ゲーム機とかいじったら怒られる環境で、ろくに娯楽もなくて退屈なぶんをテーブルサッカーで発散しているのだろうけれど、にしてもテーブルサッカーだ。
 かれらもまたイヌなんだとおもった。本作は全編通して(人間に使われる存在としての)イヌの映画で、そういうイヌたちが地獄をめぐる。まさにタイトル通りにヘルドッグス。
 坂口健太郎演じる主人公(岡田将生)の弟分もイヌっぽい。冒頭のトレーニングシーンなんかイヌ同士で馴れ合っているようにしかみえない。
 そして、かなしいかな、この手の映画でイヌがヒトになろうとすると、破滅するのだ。
『二トラム』とならぶ今年の二大「イヌとしてのヒト」映画のひとつ。

10.『アポロ10 1/2:宇宙時代のアドベンチャー』(リチャード・リンクレイター監督、アメリカ)

 リチャード・リンクレイターは一生うそなんだかほんとなんだか曖昧なノスタルジーを垂れ流し続けてほしい。


他なんかよかったり言及したかったりする作品をてきとうに

アンネ・フランクと旅する日記』(アリ・フォルマン監督)
 現代のアムステルダムアンネ・フランク博物館に展示されていた日記からアンネ・フランクのイマジナリフレンドであるキティが抜け出し、いなくなったアンネ・フランクを探し求める。これだけで設定の大勝利みたいな話だけれど、ここからWWIIの時代と現代を接続する力技も見もの。

『さがす』(片山慎三監督)
 行方不明になった父親を中学生の少女が探すミステリ。さすがにあざとすぎるところがちょくちょくあるものの、おおむね力強い画に溢れている。

ギレルモ・デル・トロピノッキオ』(ギレルモ・デル・トロ監督)
 ゼメキスとディズニーが恥知らずな実写リメイクを垂れ流したのと同じ年に、デル・トロはまさしく2022年のピノッキオを再創造した。今年のアカデミー賞の長編アニメーション部門はこれでしょうね。

『不都合な理想の夫婦』(ショーン・ダーキン監督)
 見栄っ張りな夫のせいでひたすら夫婦仲が最悪になっていくだけの話がこんなにおもしろく観られるのは、監督の技倆の高さの証。

『スティルウォーター』(トム・マッカーシー監督)
 アメリカの父性がフランスで暴力に目覚めていく話。この出だしがこういう転がり方するのか、という驚きに満ちている。

『ミセス・ハリス、パリに行く』(アンソニー・ファビアン監督)
 ミセス・ハリスをハウスで目撃したディオールの従業員が舞台裏のモデルやお針子たちに「ねえねえ、すてきなご婦人が来たの!」と報せるシーンで泣いちゃった。みんなを幸せにしてくれる天使をだれが幸せにしてくれるのかという映画です。

ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』(ウィル・シャープ監督)
 退屈極まる前半のロマンス劇がすべて後半のカンバーバッチ虐めのための前フリであったことを悟った瞬間の戦慄。

『ザ・メニュー』(マーク・マイロッド監督)
 変則的なスプラッタホラーだとおもう。シェフの自宅が「この種の狂った人間」の描写としてピカイチ。

『カモンカモン』(マイク・ミルズ監督)
 前作ほどでないにしても、よかったよ。

『ハッチング 孵化』(ハンナ・ベルイホルム監督)
 やや図式的すぎるきらいはあるものの、クリーチャー造形が秀抜。


ブラックボックス 音声分析捜査』(ヤン・ゴズラン監督)
 強迫症的で有能な人物描写としてはコレ以上の映画は今年なかったのではないか。

『ナイトメア・アリー』(ギレルモ・デル・トロ監督)
 なんといってもラストのあの顔。ちいかわですね。

『タミー・フェイの瞳』(マイケル・ショウォルター監督)
 成功した詐欺師の話はいつでもおもしろい。自分を詐欺師とおもってなければさらにおもしろい。
 
『英雄の証明』(アスガー・ファルハディ監督)
 この件でファルハディが黒か白かは別にしても、これまでやってきたはわりとクロっぽいと思う。それはそれとして映画は抜群におもしろい。

ナイル殺人事件』(ケネス・ブラナー監督)
 ケネス・ブラナーの虚仮威しみたいな演出が好きで、これはやりすぎの域にまで達してくれた。ラストはポアロ読者なら大爆笑か大激怒のどっちかだとおもう。

『ウエストサイドストーリー』(スティーブン・スピルバーグ監督)
 もう何撮ってもおもしろいんだもん、このごろのスピルバーグ

『フレンチディスパッチ』(ウェス・アンダーソン監督)
 二回観られなかったので正式な評価をくだすのが不可能なのですが、そもそもびっくりミステリでもないのに二回観ないと評価できない映画をつくる監督のほうに問題があるのでは。

『家をめぐる三つの物語』
 ネトフリで年始に観たオムニバス。どれも家をめぐる嫌な話でとてもよかった。「あまり言及されてない22年のオススメ」を選ぶならこれかな。

シチリアを征服したクマ王国の物語』(ロレンツォ・マトッティ監督)
 原作からの語りの改変が絶妙。ほら話ってのはこうでなくちゃね。

『さかなのこ』(沖田修一監督)
 語られている以上にストレートな聖愚者の物語。

神々の山嶺』(パトリック・アンベール監督)
 原作ファンから不満があるのはわかるが、映画の尺におさめるなら理想に近いとおもう。特にあの実写版を観てしまった身からすると。ほんと。アニメ映画版に文句いってるヒトは実写版観てからにしてほしい。
 登山行の美しさと孤独を画面一発で提示でてきるのは大きい。

オートクチュール』(シルヴィ・オハヨン監督)
 お針子版巨人の星みたいな映画。そうでもないか。ちなみに『ミセス・ハリス』とおなじくディオールが舞台。フランス映画である本作とイギリス映画である『ミセス・ハリス』とで「オートクチュール」観の違いを見出すのも愉しい。
 ところでファッション業界が題材になってると点が甘くなりますね。しょうがないじゃん。だって即物的にきれいなもんが映ってるんだもん。

『帰らない日曜日』(エヴァ・ウッソン監督)
 観た直後は、鶴田謙二のまんがみたいなシーンがある映画だったなあ、ぐらいの感想だったけれど、日が経つにつれこういうリストに入れたくなってくる。

『ホワイト・ノイズ』(ノア・バームバック監督)
 原作からして映画向きじゃないのにどうすんだ?とおもってたらいつものバームバック映画に仕立てやがった。それでもアダム・ドライバーじゃないと成り立たなかったとおもう。それくらいアダム・ドライバーはえらいのだけれど、あまりにえらすぎて、最近はこういう使われかたしかされてない。いいのかな。

チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ』(アキヴァ・シェイファー監督)
 ディズニーのアイコンとしての「チップとデール」というよりは、『レスキューレンジャーズ』のチップとデールの話なので、その時点で一般の観客に混乱を引き起こす上にロンリー・アイランド映画でもあるのでグダグダになった腐れ縁友情ものの要素とバッドテイストなしょーもなギャグまであって、本当にいいのか、ディズニー? 
 それはとりあえず感動的なのはこれが『ロジャー・ラビット』の後継たるライブアクション×アニメーションのハリウッド舞台裏ものである、という事実。『ロジャー・ラビット』では実写と2Dセルアニメだけだったけれど、今回は3Dに加えて日本のアニメ風、サウスパーク、80年代風、パペット、90年代CGアニメ風、粘土ストップモーションなどなどの細かに異なるルックがすべてごたまぜになって世界にひとしく溶け込んでいて、それだけで奇跡を見ているようだった。
 ずっと『ロジャー・ラビット』をリバイバルしてくれ、とおもっていた自分には夢のような作品。こういうときにあらゆるIPを支配しているディズニーは強い。っていうか、ディズニー以外も出ている気がするのだが、どうやってんだか。あと、まあ、さすがにもっとちゃんと話をつくれよ、とはおもったけれど。

 そういえば、この映画でもチップがイヌを飼ってました。チップの家はリスサイズなので、仔犬でも相当みちみちなんですよね。あのみちみち感は『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』っぽかった。でかい犬好きな人は両作とも必見です。
 あとイヌ映画としては『ストレイ』とか『レスキュードッグ・ルビー』とかも相応に良かったです。


 イヌ映画といえば気になるのが最近のアニメにおけるイヌ描写。
 ディズニーの新作『ストレンジ・ワールド』では四肢が欠損して三本脚になってるイヌが出てくるんですが、それを観た数日後に鑑賞した『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』でも三本脚のイヌが出てきたんですよね。ふたつとも出てくる脈絡はわかる。前者はダイバーシティの称揚で、後者はWWI後の戦間期傷痍軍人のメタファー。しかし、三本脚のイヌって去年『竜とそばかすの姫』でも出てきたじゃないですか。
 ここまで同時多発的に続くとなんなんだって気持ちになりますよね。アニメ監督はそんなにイヌを脚をひっこぬきたいのか。『ヒックとドラゴン』を観てあたらしい性的欲求でも掘り起こされたのか。アニメなんでなにやっても自由だとはおもいますけれど、架空のイヌの脚を抜く前に、それってほんとにイヌでやる必要がある? 人間でよくない? と自らに問いかけるべきだとおもいます。

 
 ところで、これはわたしが交配によって生み出した五本脚のイヌです。



 かわいいね。



〜おしまい〜

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*1:それだって観たかったのの半分も観られていない

*2:『パシフィクション』は映画祭限定上映なのでカウントしてない

*3:『偶然と想像』は昨年のベストリストに入れてる

*4:だから実質かぶってないのは『イントロダクション』くらい。逆に一本も観てないホン・サンスに興味湧いてきた

*5:ちなみに原題は「のっぽさん」みたいな意味で顔とは言っていない

2022年の新作まんがベスト10

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 今日まだ誰も言ってないかもだから言っておくね、「きみはスペシャル」
 きみはまだ信じてないかもだから言っておくね、「きみはスペシャル」
   
 ーーLizzo「Special」




 
 2022年はまんがにとってなんの年だったか。これは一言で定義できます。
 お嬢さままんがの年です。『クロシオカレント』、『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』、『エセお嬢様VSガチお嬢様』、『徳川おてんば姫』、それらの新刊お嬢さま勢で最高のお嬢さままんがの座に輝いたのがーー。

【新作連載まんがベスト10】*1

1.天野実樹『ことり文書』(ハルタコミックス)

 良家のお嬢さまである鳳小鳥は、「深窓の令嬢」タイプとはほど遠い、アクティブで快活で天真爛漫な十三歳。執事兼教育係である白石はさまざまな騒動を引き起こす小鳥のおてんばに手をやきつつも、その成長を見守っていく……という典型的なハルタの日常系まんが。

 この世には純粋無垢な善き魂が存在し、わたしたちはなにに代えてもそれを守り抜かねばいかない。そうしないと、この世界が信じるに値しない地獄になってしまうから。
 これはそうしたまんがです。昨年の映画でいえば、沖田修一監督のさかなクン伝記映画『さかなのこ』のマインドに近いかもしれません。人の形をした世界の魂を、周囲のひとびとが傷つかぬように寄り添おうと頑張っていく話。とはいえ、あそこまでヘンテコなまんがでなく、ガワとしてはかわいらしい日常コメディです。
 表情が抜群にいいですね。小鳥は喜怒哀楽がはっきりしていて、泣いたり笑ったりコロコロ感情が変わっていきます。全体的に画風は「いかにもハルタ*2」ですが、小鳥のデザインは目がはっきり大きく、ときどき口が「3」になったりなんかもして、もともと少女まんがの影響の濃いハルタ系でもさらに九十年代に寄った印象があります。それでいて表情の動かし方は今風に洗練されていて、もうこういうの見るだけでうれしいですね。泣き顔の巧いまんがはそれだけでベストなんですよ。
 そうしたデフォルメの利いた、どこか懐かしい小鳥のデザインが、前述した「人の形をした純粋無垢な世界の魂」っぽさとつながっていて、そういうものがやさしく環境にくるまれているだけで涙が出てきます。

2.山口貴由『劇光仮面』(ビッグコミックススペシャル)

 帝都工業大学特撮美術研究会、通称特美研。特撮番組や映画の着ぐるみやミニチュアといった美術を扱う研究会だ。その部長だった切通昌則が29歳で死んだ。彼を弔うために元特美研メンバーたち、実相寺、真理、芹沢、中野の四人は実相寺の自宅マンションに集う。切通のある「遺言」を果たすために……という出だしから始まる物語。

衛府の七忍』という若先生ワールドの総決算的大傑作がああいう形で終わってしまい、日々灰色に嘆き暮らしていた我々のもとに届いた一冊の新刊。一抹の不安を抱きながらも読みだすと、それまでの涙はたちどころにピタリと止まり、新たな傑作の誕生を予感します。
 しかし、同時に沸いてくる感情がありました。その感情はやがて素朴なファンボーイ的歓びやひねた批評的アングルなどといった他の情動を覆い尽くしていき、全身を純一に染めあげていきます。
 恐怖です。
 畏れといってもいいかもしれない。
 だって、この不穏さはただごとではない。
 一見すると、なにも凶事は起きていません。一巻では切通の遺言を果たすためのある儀式と、大学時代の回想が交互に語られるだけです。そこでは誰も死なないし、爆発やバイオレンスも起きない。どこに話が転がるかも見当がつかない。
 しかしそれでも肌が感じ取っている。不可視の奥底で、確実にとんでもない何かが進行している。
 その不穏さの源となっているのが、実相寺二矢という主人公です。
 まあ名付けからしてとんでもない。「実相寺」という名字なのはハハア特撮ネタだしね、と特に驚きもないのですが、その名字につなげてくるのが「二矢(おとや)」。そう、浅沼稲次郎暗殺事件を起こした右翼少年、山口二矢です。この二つの名をつなげる時点で相当イカれている。
 実際、劇中の実相寺は人並から外れた静かな異常者として描かれます。ねじまがっているタイプの異常者ではなくて、あまりにもまっすぐすぎるタイプの異常者です。脂肪どころか筋肉すらも削るほど肉体を研ぎ澄まし、元特攻隊の老人から「きみはいつの時代の人間なんだ」とビビられ、「人間機雷(特攻兵)に選抜されるのはきみのような人間だ」と評される。そしてその心性を保ったまま29歳の現在まで生きている*3
 この特撮オタク版藤木源之助みたいな少年に山口貴由は何を託そうとしているのか?
 劇中で在りし日の切通の口や実相寺のモノローグを通じて、延々と語られる特撮美術論はなんのためのものなのか?
 静謐で強大な圧に押しつぶされそうになりながらもようよう二巻の終わりまで読み進めて、ようやくわかります。
 すべては「この世界」を信じさせるための儀式だったのだと。「特撮」や「ヒーロー」を子供だましの空想とバカにしている圧倒的大多数の読者の眼を開くための500ページだったのだと。
「『衛府』という山口貴由の本気の傑作が終わってしまった」? とんでもない。
 この先生はいつでも全身全霊で本気です。

3.冬虫カイコ『みなそこにて』(webアクションコミックス)

 悲劇的な人魚伝説の伝わる、とある田舎の町。その町にいる祖母の家に預けられた少女、一花は千年(ちとせ)というミステリアスな雰囲気の少女に出会う。最初は不在の母親を待望し、早く町から出たいと願う一花だったが……という連作短編形式の伝奇群像劇。

 冬虫カイコをお読みでない? なにも失ったことがないならそれでいいけど(by 円城塔
『みなそこにて』の基調はクソ田舎伝奇ホラーです。閉塞感のあるクソ田舎におのおの鬱屈した思いを抱えている女性たちがいて、そこに絡め取られてしまう彼女たちの絶望が描かれます。
 冬虫カイコの天賦のひとつは、その絶望とあきらめの瞬間のエグいまでのうまさ。これは第一短編集である『君のくれるまずい飴』(2019年)から磨き上げられており、今回は題材と資質が異様なまでにマッチしています。
 さらに驚愕させられるのが、千年の異質さの描写です。千年の見た目は金髪で眼が爛々としていて歯がちょっととんがっていて、山に囲まれたクソ田舎にいる女の子としては浮世離れしているものの、おおむね人間の形をしています。いきなり別の異形になったりはしません。行動もかなり突飛ではありますが、魔法を使ったり人を殺して腸をひきずりだしたりはしません。
 しかし、この女は確実に異質な存在なのです。ストーリーやセリフでそう説明されているのもあるでしょうが、まずなにより、読んでいるときの肌感覚としてそう感知される。
 その感覚を成り立たせているのはまんがとしての演出です。ありとあらゆる表現技法が千年にはつぎこまれています。彼女の登場するコマにはかならずといっていいほど、時にささやかであるほどに「他とは違う」何かが含まれているのです。
 こうした技巧は三年前の短編集ではあまり目立たなかったように思われますが、この『みなそこにて』と、もうひとつ22年に出た本である第二短編集『回顧』ではほとばしっています。
 あるいは志村貴子に近づくかもしれない群像劇のストーリーテリング含め、見逃してはならない才能です。
 

4.とよ田みのる『これ描いて死ね』(ゲッサン少年サンデーコミックス

 離島の伊豆王島に住む高校生、安海相は『ロボ太とポコ太』という一巻で打ち切られたまんがの熱烈な愛読者。授業中にも隠れて読み返すありさまで、まんがに否定的な担任の手島先生からたびたび注意を受けていた。
 そんなある日、安海が作家休業状態の☆野のツイッターをチェックしていると、ひさびさに更新が。なんとコミティアで『ロボ太とポコ太』の新作を発表するという告知だった。安海は120キロ隔たった東京へ渡り、コミティアで☆野のブースへと向かう。そこに座って居たのはなんと担任教師の手島だった……という出会いから始まるまんが創作賛歌。

 とよ田みのるってどっちかっていうと苦手だったんですよね。いや、いいまんがを描くとおもいますよ。『FLIP-FLAP』とか。でもなんというか……なんだろうな、ノリが合わないっていうか……わたしの棚には入らない。そういう認識でした。
 ところが『これ描いて死ね』はバチバチに刺さった。創作を描いたまんがだから? 主人公がコミティアに初めて同人誌を出して、一冊も売れない苦渋を味わうから? そういう部分もあるでしょう。
 しかし一番の理由は、この世界が美しくてワクワクするものだと謳ってくれているからです。熱情をもって切り開けばだれにとってもそうなると教えてくれるからです。
 それはこれまでのとよ田まんがでも一貫して訴えられてきたメッセージでした。しかし、まんがをまんがによって表現する本作においてはよりピュアに研ぎ澄まされているのだと思います。


5.なか憲人『とくにある日々』(ヒーローズコミックス わいるど)

 なかよし二人組の椎木しい(しいちゃん)と高島黄緑(きみ)は高校に入学したての一年生。学園生活に期待を膨らませ、さまざまな奇行に走る。部活の新歓で、廃部となったお嬢様部の先輩たちから部室を譲り受けてもらった二人は新しい部活を創設しようとする……という学園ギャグまんが。
 
「犬のかがやき」のペンネームでツイッターまんが界を制覇した(ツイッターのほうのまんがも『犬のかがやき日記』として去年まとまった)なか憲人がわりと普通の尺の連載まんがでも天才を証明した一作。ツイッターと他の媒体でがらりと作風の変わる人は、特にエッセイの体裁で描いてる人(エッセイじゃないんだが)には多いのですが、この人に関しては、ツイッターのオフビートでウィアードなテイストをうまく活かして長篇にも馴染ませている印象です。
 基本的には日常の出来事や物事をその延長線上でズラシたりやや通常と違った角度で眺めつつ、空想を転がしていき、気がついたらヘンテコな景色まで連れてってくれる系のまんが*4で、そこに奇人や奇妙めの空間がブレンドされていきます。これだけで十二分におもしろいのですが、特筆すべきはそのタッチ。
 超絶エモーショナルなんですよね。カラーの塗りが。
 展開される話やセリフはほんとうにしょーもない馬鹿話なのに、同時に懐かしさと切なさが視覚を伝って脳に届く。
 ほんとうに楽しかった青春は劇的でもなんでもない日常、というのはよく聞く話ですが、それを表現レベルで演出しているのは発明です。あらかじめ失われることが予感されている青春の一コマが、文字どおりの意味でそこにあります。

6.躯咲マドロミ『カラフルグレー』(MeDu Comics)

 グランギニョル城に棲まう不死身の令嬢イリスは、行き過ぎた人体実験の罪で帝国軍に討伐された父である〈死神卿〉タナトスを復活させるべく、帝国軍兵士たちに移植された父の身体のパーツを集めようと首無メイドのメアリーとともに戦ったり怠けたりしながら広大な城内を大冒険。三ヶ月以内にタナトスを復活させないと、管理者のいない魔導融合炉が暴走して世界に破局がおとずれるらしいのだが……というスラップスティック・ダークファンタジー・ギャグまんが。
 
 線も身体もか細いキャラクターたちがややもするとアクションに不向きなように見えるけれど、これがまあよく動きます。合わない絵柄で無理に別のまんががやるようなアクションを描くのではなく、この絵柄に相応な、時間を止めた見せゴマをつくっていくかんじ*5。コマやページごとの間の緊張と緩和も絶妙で、特に一巻57-58ページはキャラの表情を含めたすべての流れが「停まっているのに動いている」というかなりすごいことをやっている。
キャラの性格もいいですよね。みんな自分勝手で蓮っ葉。その抜けの良さが死生観にもあって、世界観とつながっている。ダークでありつつもカラっとしていて、滅びつつあるけれどもペシミスティックではない。
 あんまり長続きしそうな感触ではありませんが、こういうのがあるおかげでクソみてえな現実が明るく照らされるんですよ。

7.雁須磨子『ややこしい蜜柑たち』(FEEL COMICS swing)

 デザイン事務所にアルバイトとして勤める浜里清見は、昔からの友人である瀬戸初夏から彼女の新恋人である白柳結を紹介される。初夏は(けっこう短期間に)彼氏が変わるたびに清見に引き合わせて紹介するという奇妙な習慣があった。
 清見は初夏に薦められて、なぜか結とふたりきりででかけることになる。それをきっかけに結に興味を抱いた清見は隠れて結と会うようになる。最初は初夏という不可解な女を共通の話題に語りあう飲み仲間のようなものだったが、ある夜、うっかりホテルで姦通してしまう。
 朝起きて後悔に襲われる清見。結は「初夏と別れて清見とちゃんと付き合う」と申し出るが、清見は「それだけは絶対やめろ」と止める。自分の犯したあやまちに混乱する清見だったが、唐突に初夏に呼びだされると事態はおもわぬ方向に……。

 という序盤の筋だけ紹介すると、よくある三角関係恋愛ものなのかな、とおもうじゃないですか。ぜんっぜん普通じゃないんですよね。どころか相当異常な話です。
 まず主人公の清見がかなりヘン。顔立ちもパリッとしていて傍から見た言動も比較的まともで、一見常識人っぽい。ところが、初夏が絡んでくると静か狂っていく。
 たとえば、清見にも同棲している彼氏がいるのですが、自分は初夏から毎回彼氏を紹介されているのに自分の彼氏のことは「初夏にバレるのがいや」だから言わない。結とうっかり寝てしまったときも、「初夏と別れる」と言い出した彼を止める理由が「こんなことが初夏にバレたら私はあなたに何をするかわからない」から。
 総合すると清見は初夏のことが好きっぽいんですが、好意の回路がかなり奇妙な配線になっているといいますか、なんかもう素直な意味で好きなのかどうかすらわからない。
 対する初夏も裏表のない陽キャのようでいて、清見視点ではブラックボックス的に描かれて、絶妙な間合いとふるまいで清見を振り回してくる。
 そして、このふたりのあいだに挟まる犠牲者となるのがシロくんこと結。清見と初夏よりは年下で、初登場時は大学生なのですが、まあまっとうで素朴な人間です。この純朴な青年が、そのまっとうさゆえに、竜巻のようなふたりの関係に巻きこまれると心身ともにズタボロにされていく。一巻の後半は清見中心の視点から彼中心の視点に切り替わるんですが、この彼から見ると、前半部分でもある程度客観的にヘンな人間として描かれていた清見のキャラがいよいよホラー性を帯びていく。
 これらのかぎりなくめんどくさい三者間の関係の見せ方がモチーフ使い含めて非常に巧く語られて、読者の心を終始かき乱してくれます。
 いまさら雁須磨子はよいなんて褒めるほど陳腐なことはありませんが、陳腐の誹りをこうむってでも褒めたい魅力が『ややこしい蜜柑たち』にはあります。
 

8.トマトスープ『天幕のジャードゥーガル』(ボニータ・コミックス)

 十三世紀、モンゴル帝国が大陸を席巻していた時代。少女シタラはイラン東部の都市トゥースである一家に奴隷として仕えていた。しかしあるときモンゴル軍が侵攻してきて、トゥースの街を蹂躙、シタラの敬愛する女主人もシタラをかばって殺されてしまう。すべてを失ってモンゴル軍の捕虜となったシタラに残された希望は、ある決意を胸に時代の荒波に立ち向かっていく……というお話。

 かつて『ダンピアのおいしい冒険』で話題になったときはなるほど~とおもって一巻だけ読んでそのあと購読していなかったトマトスープ先生でしたが、2022年になって『ジャードゥーガル』を読んでびっくらこいた。山本ルンルンと藤子Fをミックスしたような平面的でデフォルメの利いた絵柄がより線の洗練され記号的な印象を強めており、にもかかわらず奥行きがバチバチにきいている。
 二次元的であるはずの絵が三次元的に展開されているのです。アホみたいに足りない言い方ですが、なんだこの感覚は? 脳がハックされている気がする。無類すぎる。
 チンギス・カンの息子たちの顔立ちが「幼い」のもある種踏みにじる側にあるポジションの人間の描写として絶妙ですよね。
 話もフツーにおもしろい。踏みにじられる側と踏みにじる側との断絶を描き出してそれがドラマとしてもキャラクター描写としても機能しているし、全体としても歴史物としての広い視野がある。

9.黒崎冬子『平家物語夜異聞』(ビームコミックス)

 現代。家庭的な少年・夜とエキセントリックな少女・沙羅は16歳。互いを思いやる仲良しのおさななじみだったが、ある夜、平清盛の呪術?によって夜は平氏全盛期の平安時代へタイムスリップ。そこで彼は平清盛から「平徳子」すなわち清盛の娘として高倉天皇に入内せよという無茶ぶりをされる。個性的な平家の面々にふりまわされながらも自分の居場所を見いだしていく夜だったが、沙羅も同じ時代に来ているとわかって……という歴史ギャグもの。
『無敵の未来大作戦』で勇躍ビームコミックスの星に成り上がった黒崎冬子が次に選んだのは源平物でタイムスリップ。源平パロディにしろタイムスリップ歴史ものにしろ、さんざん擦られたネタじゃない? 大丈夫? という心配もこの作家には杞憂でした。まあめっぽうおもしろい。
平徳子を男子高校生にする」というアイデアからしてつじつまを合わせるのが大変だろうに、一コマごとにネコとネタが横溢するスラプスティックな黒崎節をあいかわらずぶん回し、読者をギリギリ置いてけぼりにするかしないかの速度で、しかし奇跡的にバランスが取れている。相当程度むちゃくちゃをやりながらも筋は存外原典の『平家物語』に忠実。徳子視点なのも相まって山田尚子版『平家物語』を彷彿とさせます。後白河法皇がマゾヒストとして描かれているところなんか、ギャグなんですが、あのあたりの時代見てるとあの人そうとしか解釈できんよなってのも超わかる。
 夜と沙羅の関係も、「家族」という軸から割とシリアスに切り込んでいて、マアーマジなシーンもマジでうまい。
 割と展開は早足気味なので、四巻くらいに収まるでしょうか。

 

10.藤近小梅『隣のお姉さんが好き』(ヤングチャンピオン・コミックス)

 中学生男子のターくんは隣に住む幼なじみの高校生、心愛(しあ)さんに恋をしている。映画マニアの心愛さんと距離を詰めるべくターくんは毎週水曜日に心愛さんの家でいっしょに映画を見る約束を交わすが、心愛さんのガードは果てしなく固く……というラブコメ

 本作がいかなるまんがか、あるいは藤近小梅がどういう漫画家であるかは、『隣のお姉さんが好き』単行本第一巻の表紙カバーとその表紙をめくってすぐの扉の絵を見れば一発でわかります。
 まず表紙は棒立ちになっている心愛さんが微笑みを浮かべて正面を向いている絵。それが電子版では二ページ先の扉では、まったく同じ構図と背景なのに、心愛さんが真横を向いてあさっての方向を見つめている。
 そう、これは視線についてのまんがです。
 並行で連載されている『好きな子がめがねを忘れた』ですでに十二分に証明されていることではありますが、藤近小梅はもっとも視線の扱いに敏感な漫画家のひとりです。常に視線の重なりとすれ違いが問題にされ、もうオブセッションの域に達しているといってもいい。
 そんな藤近小梅が映画を題材にラブコメを描くという*6。事件にならないはずがありません。
 一話目から全力でターくんが「見る側の人」であることが描写されています。この作品世界においては、見るということは愛するということです。しかし見られている側の心愛さんの視線はターくんとは重ならない。映画をふたりで鑑賞しているとき、ターくんは心愛さんの顔しか観ていないのに、心愛さんの視線は画面に注がれている。このとき、ターくんは心愛さんの横顔を眺めていることになります。その横顔に、ターくんは(一話目から!)告白するのです。「好きです」と。
 心愛さんは視線を画面から外さず、「この映画? よかったー気に入ってもらえて」といなします。
 追う視線と追われてそれを回避する視線、このふたつが水平に交わる瞬間はあるのかどうか。それだけでたまらないサスペンスが生じています。
 のみならず、視線の一方性と暴力性を自覚的にかつわざとらしくなく描きだし、「ただ見るだけでは愛することにはならない」とつきつけているところなんかはジョーダン・ピールの『NOPE』にも比肩する先鋭さがあります。
 藤近小梅は今もっとも映画的な漫画家です。それは映画を題材に扱っているからでも、映画ネタをこするからでも、映画のようなネームを描けるからでもありません。人間の眼について突き詰める態度が映画と一致しているからなのです。

ベスト10に入れるかどうかギリギリまで迷った枠

阿賀沢紅茶『正反対な君と僕』(ジャンプコミックス

 ギャルな見た目の高校生・鈴木は隣の席に谷くんにぞっこん。いろいろ考え過ぎな性分である鈴木はクールで孤高な谷くんの態度にやきもきしていたが、あるとき思い切って告白すると、受け容れてもらえることに。不器用なふたりの恋の行方は……という群像青春恋愛劇。
 端的にいってしまうとポスト『スキップとローファー』。主人公カップルの恋模様を軸に、他のまんがだとモブとして一面的に処理されがちなタイプの周囲の人々(スクールカースト的な規範が強く内面化されている)までひとりの人間として繊細に描き出していく。
 基本的には根っからの悪人や無神経な人間はいなくて、一見そう見える人でも内面ではいろいろいっぱいいっぱいに悩んでいたりする。日本の学生生活に「あるある」なコミュニケーションの難しさを用いるのがポイント。
 ……とまあ、そう括ってしまうとなんだか簡単そうですが、実際ちゃんと見せられるものに作るのウルトラ大変だとおもいます。マジで。成立しているだけでも奇跡。
 主人公たちに悩みは多いわけですが、基本的には独り相撲で読んでてあんまりイヤな気分にはならない。
 こういう作品(絵柄含めて)がいちおう少年漫画誌の看板を背負っているジャンプラから出ている事実は、公共的にも善きことだとおもいます。これが新人だっていうんだから、びっくりですよ


相馬康平、日下氏『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』(まんがタイムKRコミックス)

 三船桔香はアニメで観た悪役令嬢に憧れる小学五年生。ある日、悪役令嬢デビューをしようと傲慢お嬢さまムーブをとるのだが(実際に家は金持ちだったりする)、もちろんクラスメイトは誰も合わせてくれない。完全に孤立して夢を阻まれた桔香だったが挫けない。クール陰キャの絃(イト)、イヌになりたい願望を持つ女・繋(ツナギ)、ごく真面目な学級委員長の葵(アオイ)といった危険な変人たちをしもべにすることに成功し、誇り高き悪役令嬢坂を登り始める……という四コマギャグ。

 カツヲ先生が『三ツ星カラーズ』をてじまいしに、セクシーゾンビものを描き出した2022年、われわれの愛したクソガキまんが(命名:ななめの氏)は永遠に失われてしまったのかーー答えはノーです。まだ火は絶えておりません。
 『三ツ星カラーズ』や涼川りん『りとるけいおす』といった作品を代表とするクソガキまんがの良いところは、そこにあるつながりのうつくしさです。人間、思春期に入ると他者にも気持ちがあるんだということに気づき始め、その気持ちを慮ったり先取りしすぎたりなんかしてドギマギしていき、それがおもしろいラブコメなんかになったりするわけですが、小学生の世界にはそんな繊細な気遣いなど一切存在しません。自分の利益と欲望しか勘定せず、友だちといてもただ自分のやりたいことだけを破壊的に貫く。そして、やりたいことはひとりひとり当然異なるわけで、傍から見るとグループ内ですれちがっているように見える。
 それなのにグループ内ではなぜかコミュニケーションが成立しており、たがいのことを友人だとおもっており、つねにいっしょに行動している。なにより、かれら自身がかれら自身と妥協なく在る。そうしたウィズネスの奇跡がもっとも純粋な形で顕れるのが、自由な小学生のピアグループを描くクソガキまんがなのです*7。分断が極に達しつつあるこの世界で、今もっとも必要とされているジャンルといえるでしょう。
 外殻の話が長くなりました。でも、ながながいっといてなんですが、『桔香ちゃん~』は厳密な意味でのクソガキまんがとは少し違う。どちらかといえば、最近のきららで受けてるメインストリームである方向に近いかな。スイッチが入ると、つい……ごめんね。
 まあしかし、クソガキまんが的な要素は序盤は特に濃くて、本作でも三人組みである桔香、イトちゃん、ツナギの三人で目的が全然違うんですよね。たがいに都合のよい部分からつながったにすぎない。桔香の行動と思考がすべて自身の想像する悪役令嬢なるものを模倣する一方で、最初はその「しもべ」であるイトちゃんやツナギは悪役令嬢に対する興味なんてビタイチないわけです。
 それがおっちょこちょいでヘタレだけど愛嬌はある桔香を否定せずつきあうことで、思想や目的でというよりは人としての桔香をハブとするつながりの心地よさみたいなものに浸る。最初は桔香とそれぞれとの一対一の関係だったのが、グループとして行動していくうちに、「みんな仲良し」に、なんならグループ外の人間との新たな出会いすらある。
 ただ人間同士が仲良くなっていく。それがエンターテイメントになると気づいたのは、きららというジャンルの最大の功績です。
 一巻の最後に桔香の好きな悪役令嬢のアニメをみんなで鑑賞会するシーンは最高ですね。おたくにとっての鑑賞会は結束を確認し強めるための儀式ですからね。スパイク・リーの『ブラック・クランズマン』でKKKのひとたちが『國民の創生』を笑顔で上映していたのとおなじです。


額縁アイコ『リトルホーン〜異世界勇者と村娘〜』(ヤングマガジンコミックス)

「狭き大陸」と呼ばれる世界を支配していた魔王を異世界から来た勇者が討伐した。その勝利に沸く大陸の片隅の田舎村で、薬屋の娘ルカは勇者に憧れその従者になることを夢見、その友人リトルホーンと毎日伝え聞く勇者譚を愉しんでいた。
 そんなある日、勇者の一行が村にやってくる。殲滅したはずの魔族の生き残りが村に隠れているというのだ。勇者の脅迫によってあぶりだされたのはリトルホーンの姉たちだった。リトルホーンは魔族だったのだ。勇者一行はリトルホーンの姉たちを殺すと、魔族を匿ったとして村人も全員虐殺。ルカとリトルホーンだけが生き残る。
 勇者への憧れが憎しみに反転したルカは、リトルホーンとともに復讐を誓い、勇者殺しの旅にでる……という変則異世界転生ファンタジー

 ヒーローと悪役を反転させた物語っていくらでもあるのでしょうが、これは勇者のクズの方向性がフレッシュ。最初に主人公たちと対決する勇者パーティのひとりナイトのナイトーは、ガタイこそ立派で屈強な大人なんですけど中身は十歳の「異世界転生者」なんですね。 何かを守ることを異常な執着をもちすぎているひとなんですけれど、その異常さに年少ゆえの視野の狭さみたいなものが付加されてえらくグロテスク。たとえば、このナイトーは旅に出たルカと遭遇するのですが、自分らで村民を皆殺しにしといて、生き残りがいたと喜び。なぜかといえば、「故郷を失った薄幸の少女を育てる」ことが「一番大好きなクエスト」だから。この時点でヤバい。そして、ルカに「マリ」と名付ける。「マリ」はナイトーの異世界(日本)での幼なじみの名前で、彼はゲームをやるときにはヒロインの名前を常に「マリ」にしているのです。その「マリ」は病弱な少女なので、キャラの設定を合わせるために「キャラメイク」と称して五体満足なルカをおもいきり殴りつける。 
 狂った人間が狂った論理を転がし、圧倒的な暴力でもってその論理を通そうとする。このキャラ造形はすばらしい。しかもそのイヤさがいやでもゲームをやるときの人間ってこういうサイコパス感あるよね、といういやな現実味もあり、奇妙な心地になる。
 ほかにもやべーポイントが多数あって、もう全部盛りといったかんじ。単なるアンチジャンルものとは一線を画しています。こういうのがこの先いくらも見られるとおもうと期待が高まる。あとアクションも見応えがある。



井上まい『大丈夫倶楽部』(マンガ5)

 会社員の花田もねはとにかく日々が不安でしょうがなく、「大丈夫」になることを願っていた。彼女はある夜浜辺で出会った宇宙人(バクっぽい)の芦川といっしょに「大丈夫になる」ことを目指す部、大丈夫倶楽部を結成。「大丈夫」を日々希求していく……という連作。

 まあ、大丈夫になりたがっている時点でぜんぜん大丈夫じゃないひとたちの話だってのはわかっていただけると思います。第一話からいきなり散らかり放題の部屋で、捜し物が見つからずテンパりまくってるところから始まるんですね。まったくもってなにひとつ大丈夫ではない。そういう日々の大丈夫でなさを解きほぐし、心の均衡をささやかに保っていく。基本的にはそういうまんがです。『ご飯は私を裏切らない』(heisoku)のもうちょっと外向的なヴァージョンとでもいいましょうか。
 大丈夫じゃないもねが大丈夫になっていくさまだけで十分ほほえましくおもしろいんですが、そこに芦川の謎めいた過去が語られていったりしてそこでも読者をひっぱる。妙に錯綜したプロットで手から漏れるんじゃないかとハラハラしますが、いまのところは大丈夫に回っている印象。 
 ゲッサンの『春のムショク』でも井上まいは「なんか気持ち的にブラブラしていて茫漠たる不安を抱えたよんどころのない人間」を主人公にしていて(うろおぼえ)、そちらはそれをわりと直球の落ちモノブコメに仕立てていた記憶がありますが、今回は落ちモノ路線とはいえラブコメじゃない方向へ振ったところでより作家性のコアにそぐう作品になっていると思います。


まどめクレテック『生活保護特区を出よ。』(トーチコミックス)

 生活能力に乏しい人間が国によって保護され、「生活保護特区」に居住させられるようになった日本。トーキョー在住の高校生のフーカはある日、国からの要請によってその特区へ移住することに。彼女の割り当てられた新しい住処である「にいなめ荘」にはなるほど生きづらそうな人々が集まっていて……というお話。

 要するにあんまり上手く人並みにお仕事などができない人たちが押し込められる区域があり、そこに住む人たちはできなさに絶望してよく自殺未遂などを起こしている。気が滅入るようなセッティングですね。そのなかでもギリギリな人間たちはギリギリにコミュニケーションをとって社会生活を営んでおり、そのギリギリさ加減にリアルがある。
 わりと序盤からキャラがわちゃわちゃ出てきて話もややとっちらかって、どこに転がっていくのか今のところわからない。どうも「世界」をまるごと構築しようとしている節があり、とんでもないことになりそうな雰囲気を醸しています。画もいいですね。ざらりとしていて、でも動きが軽やか。

 

はせべso鬱、羽流木ない『百合の園にも蟲はいる』(ヤンマガKCスペシャル)

 女子校の男性教師ものということで、『女の園の星』の二匹目のどじょう狙いかな~と半分ナメながら読んだら意外に誠実な教師まんがでした。子どもは無垢ではないし、教師も聖人ではない。誰もが理想と現実のあいだでもがいていて、そこに対する真摯さには好感が持てます。ギャグもツイストもよく機能していて、フツーに読ませる。三巻で完結してしまい終盤がやや早足だったのが残念。


もくもくれん『光が死んだ夏』(角川コミックス・エース)

 ある田舎の村に住む高校生よしき。彼は、親友の光が人間では別のなにかに入れ替わっていることに気づいてしまうが、光への執着からその状態を保つ方向へ動き始める……という伝奇ホラー。

 演出から物語、設定に至るまで、パーツごとに切り分ければどこかで見たものになる。にもかかわらず、それらが組み合わさった総体としての本作は烈しいまでの清新さを放っています。あるいは、マンガとはそうした組み合わせの妙に尽きるのではないのか、という気にすらなってくる。すでにかなり語られ尽くされている作品で、いまさらわたしが付け足すことなどないですが、間違いなく評価されるべき作品です。


松本次郎『Beautiful Place』(ヒーローズコミックス わいるど)

・セーラー服姿のティーンエイジャーが武装してドンパチやっているのはいつもの松本次郎先生なのですが、『いちげき』を経て確実にヌケがよくなっている。今後次第で最高傑作になるポテンシャルも。幕末の日本初の銃歩兵隊を描いた長篇の『列士満』(列士満 (SPコミックス))も要チェック。


松木いっか『日本三國』(裏少年サンデーコミックス

現代日本の風景そのままに架空戦記が展開されるエキサイティングさは他に代えがたい。キャラのアクの強さは好き嫌いが別れるところでしょうが、一巻でそう感じたとしても二巻三巻と読みすすめるべきといえるだけの構築力がある。

その他よかったもの

コンドウ十画『スケルトン・ダブル』(ジャンプコミックススケルトンダブル 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・異能や異能的シチュエーションの転がし方がうまい。

浄土るる『ヘブンの天秤』(ビッグコミックスヘブンの天秤(1) (ビッグコミックス)

・浄土るるという異形の才能をうまく飼い慣らそう頑張る編集部の苦心が見て取れる。そしてそれはその方面ではある程度うまくいっている。

あらゐけいいち『雨宮さん』(ゲッサン少年サンデーコミックス雨宮さん(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)
あらゐけいいちってそんなに好みの作家ではないんですが、これはいいですよ。

堀北カモメ『ゲモノが通す』(トーチコミックス)ゲモノが通す (1) (トーチコミックス)
・修理屋さんのお仕事まんがから人外異能バトルへの無茶なスライドの仕方がゴッツい。勢いで押し通そうとして通ってしまっている。今見たら一巻二巻アンリミ入ってたので加入者は是非。

嶋水えけ『ポラリスは消えない』(ガンガンコミックスJOKER)ポラリスは消えない 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスJOKER)
・死んだアイドルにファンが成り代わるというヤバサスペンス。頭のネジが外れたキャラを描けばその時点で勝利であることを証明した例。

頬めぐみ『おいしい煩悩』(MFコミックス)おいしい煩悩 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
・泣いてる顔が良いまんがは良いまんがです。(二回目)

池田邦彦、萩原玲『艦隊のシェフ』(モーニングコミックス)艦隊のシェフ(1) (モーニングコミックス)
・池田邦彦の連作短編作家としてのセンスの良さがここでも発揮されている

筒井いつき『夜嵐にわらう』(ヤングジャンプコミックス)夜嵐にわらう 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・教師と生徒の暗黒百合。筒井いつきはいつだって私たちを裏切らない。

中村すすむ『私の胎の中の化け物』(少年マガジンエッジコミックス)私の胎の中の化け物(1) (少年マガジンエッジコミックス)
・やや定型に落ちる感も残すが、この手の学園ホラーとしては抗いがたい艶がある。

地球のお魚ぽんちゃん『霧尾ファンクラブ』(リュエルコミックス)
霧尾ファンクラブ(1) (リュエルコミックス)
・一人の憧れの男子をめぐる女ふたりの恋のさや当て日常コメディ。ライバル以上敵未満の関係が非常に良い。

酢豚ゆうき『月出づる街の人々』(アクションコミックス)月出づる街の人々 : 1 (アクションコミックス)
・人外学園日常連作。この手のものとしてはあまり驚きはないものの、丁寧に作られている。メドゥーサの話がすき。

みやまるん『メガロザリア』(青騎士コミックス)メガロザリア 1 (青騎士コミックス)
・エグめの異色悪役令嬢ものかと思ったら異能バトルへと暴力的にスライドしていく謎まんが。

江坂純、凸ノ高秀『She is beautiful』(ヤングジャンプコミックス)she is beautiful 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・女を監禁する女。箱庭系学園アフターものとしては印象が高野ひと深の『ジーンブライド』(FEEL COMICS)とかぶるんですが、どっちも味が違ってておもしろい。

道満晴明ビバリウムで朝食を』(チャンピオンREDコミックス)ビバリウムで朝食を 1 (チャンピオンREDコミックス)
・この歳になっても安定してこのレベルをたたき出せるのはすさまじいことです。藤子Fマインドっていうのは、こういうのをいうんですよ。

カレー沢薫『いきものがすきだから』(モーニングコミックス)いきものがすきだから 1
・ドッグシェルターの話。単に「動物が好き」だからではどうにもならない現実に手をつっこんでいくのがカレー沢先生の真骨頂。

五十嵐純『ドミナント』(MFCドミナント 1 (MFC)
・いやー、この出だしからこういう方向に行くのか~という。

ピエール手塚『ゴクシンカ』(ビームコミックス)ゴクシンカ 1 (ビームコミックス)
・変人ヤクザ版HUNTER×HUNTER

眞藤雅興『ルリドラゴン』(ジャンプコミックスルリドラゴン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・エブリデイマジックの端正さ。

宇島葉『猫のまにまに』猫のまにまに 1 (HARTA COMIX)
・ネコを美少女として擬人化するというよくあるしょーもなネタのはずなのにまんがが異常にうまいせいで無限に読める

鶴田謙二『モモ艦長の秘密基地』モモ艦長の秘密基地 1 (楽園コミックス)
・もうツルケンは一生これでいいんです。私たちも、また。

荒井小豆、ジアナズ『異世界ありがとう』異世界ありがとう(1) (裏少年サンデーコミックス)
異世界ものという分野においてなにかがスペシャルというわけでもないんだけれど、表情豊かさでなんだか読ませてしまう魅力がある。

荒川弘『黄泉のツガイ』(ガンガンコミックス)
黄泉のツガイ 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)
・あまりに堂にいったバトルエンタメ。

とあるアラ子『ブスなんて言わないで』(&SOFAコミックス)
ブスなんて言わないで(1) (&Sofaコミックス)
・ただしさからこぼれ落ちてしまうものをすくい取りつつもそれでもただしくあろうとする人間の営為。はっきりとフェミニズム的なテイストを前面に打ち出したまんがが去年は目立っていて、各種ランキングでも評価されていたはず。

文野紋『ミューズの真髄』(ビームコミックス)ミューズの真髄 1 (ビームコミックス)
・『ブルーピリオド』になれなかった人たちの地獄みたいな美大(受験)残酷物語。ブルピなんだかんだ「エリートの物語」だと美大のひとがいうてらしたのを思い出す。都度都度上向くかと思わせ説いてたたき落としてくるところがほんに地獄やね。

たかたけし『住みにごり』(ビッグコミックス住みにごり(1) (ビッグコミックス)
・とにかく異常な人間を異常なものとして描く手際において卓抜している。

ばったん『けむたい姉とずるい妹』(KISSコミックス)けむたい姉とずるい妹(1) (Kissコミックス)
・三角関係を構成する三点(姉妹と男)がいずれもめんどくさい独り相撲をしまくるめんどくさ恋愛まんがでこういうのをずっと読んでいたいですよね。キメるとこがキマりまくっているのはさすが。


【単発・短編集・エッセイ】*8

五選

山口つばさ『ヌードモデル』(アフタヌーンコミックス)

『ブルーピリオド』で超売れっ子となった山口つばさの短編集。この人の本質はフェティッシュなまでのエロティックな瞬間(=コマ)とファム(オム)ファタルにあるのだと再認識させられる。よく考えたら『ブルーピリオド』も矢虎くんの前にファム・ファタルやオム・ファタルなひとびとがひっきりなしに登場するまんがといえなくもない。

冬虫カイコ『回顧 冬虫カイコ作品集』(MeDu Comics)

 女同士の「じゃあ、どうすればよかったんだろうな……」みたいな話が詰まった短編集。短編の尺で、あまり劇的なイベントを起こさないのに、ここまで抉られるものを書けるのは途方もない。あなたも読んで「じゃあ、どうすればよかったんだろうな……」となってください。

小骨トモ『神様お願い』(webアクションコミックス)

「性」を軸にしたイヤ~なサイコホラーまんがの短編集。森山塔を若干高橋葉介に寄せたような、ポップでありつつも湿度の高い絵柄で徹底的に責めてくる。どの話も特にクライマックスではどうかと思うぐらいのアクセルベタ踏みっぷり。この情念はこの手のジャンル以外で活かせるかどうかわからないのですが、しかし継続的に読みたくなる才能。

朝田ねむい『スリーピング・デッド』(Canna Comics)

 高校教師の佐田が夜道で通り魔に刺され死亡……したと思ったら、謎の研究所のようなところで目覚める。どうやら間宮というマッドサイエンティストの開発した細菌によってゾンビとして復活させられたらしい。手錠につながれて監禁された佐田の運命はいかに……というBLゾンビまんが。BLだけれど、意外に濡れ場が挿入されるのはやや遅め。それ以前にグロが満載だけれど。
 あきらかに病んだ状態から出発するふたりの関係の行く末が、あそこまで美しく残酷なものになるのか、という驚きがあります。ラストだけでいったら今年一番。全体通しても、朝田ねむいの最高傑作のひとつなんじゃないんでしょうか。藤本タツキもオススメしてたぞい。

あらいぴろよ『母が「女」とわかったら、虐待連鎖ようやく抜けた』(バンブーコミックスエッセイ)

『虐待父がようやく死んだ』『ワタシはぜったい虐待しませんからね!』などから続く自伝的エッセイまんが。父親の激しい虐待から抜けだし、結婚して子どもを産んだ著者。自分は「父親とは違う、ちゃんとした親になる」と決意するが、日々の育児のなかで子どもや夫につい憎悪を弾けさせてしまう。「親」としての自分と向き合うため、「子ども」だったころの自分を乗り越えようとする彼女。そうして、子ども時代を思い出していくと意外な盲点に気づく。直接的に虐待していた父親だけでなく、それまで自分を守ってくれていたと思っていた母親もまた「親」としておかしなところがあったのではないかーー。
 地獄の果てでさらに地獄を直視することが救いになる、という途方もなく壮絶な話。毒親・虐待系のエッセイまんがにはいくらか自己セラピー的な側面が見られますが、ここまで苛烈かつ破壊的に感情を掘り下げてギリギリで希望をつかみ取るのはあまり見ません。
 

他によかったもの

玉置勉強玉置勉強短篇集 ザ・ドラッグス・ドント・ワーク』玉置勉強短編集 ザ・ドラッグス・ドント・ワーク (MeDu COMICS)
・この行き場のない人間の行き場のなさを描けるのは玉勉先生だけなのかもしれない。これは情緒かな。

犬のかがやき『犬のかがやき日記』犬のかがやき日記
ツイッタージェニックまんがの模範解答としては『ちいかわ』や『ポプテピピック』に並ぶけれど、それらよりは幾分品がある。

岡藤真依『あなたがわたしにくれたもの』あなたがわたしにくれたもの (ビームコミックス)
・京都を舞台にカップルのお別れセックスを描く短編集。コンセプトの時点で勝っているが、セリフ回しと表情がいちいちすばらしい。

詠里『僕らには僕らの言葉がある』僕らには僕らの言葉がある
・聾唖の高校球児とその相棒役になったキャッチャー、そして彼らの周囲を描く長篇。完璧に「これは善きこと」と割り切れなさも残るなかで、それでも子どもを信じるの大切さを訴えているのがよい。野球マンガでいえば、今年は伊図透『オール・ザ・マーブルズ』も押さえておきたいところ。

谷口菜津子『うちらきっとズッ友』うちらきっとズッ友 ―谷口菜津子短編集― 【電子コミック限定特典付き】 (webアクションコミックス)
・何年連続で谷口奈津子を良かったリストに入れてんだろうって感じですが、しょうがないじゃん。毎回良いんだから。最悪で救い様のない人間にさえ寄り添ってみせる。それこそが谷口奈津子作品の強さなのだとおもいます。

panpanya『模型の町』模型の町 (楽園コミックス)
・何年連続で panpanyaを良かったリストに入れてんだろうって感じですが、しょうがないじゃん。毎回良いんだから。ジオゲッサーにいきなりハマったみたいな感じになっててウケたけれど、そこから掘れる深度がやはり尋常ではありません。

水谷緑『私だけが年を取っているみたいだ ヤングケアラーの再生日記』私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記 (文春e-book)
・ヤングケアラーたちの経験をひとりのキャラに統合した半エッセイ的ストーリーまんが。

たばよう『おなかがへったらきみをたべよう』おなかがへったらきみをたべよう
・なんとなくいい話にしようとした様子がうかがえるのがほほえましい。ぜんぜんなってないんですが。

もぐこん『推しの肌が荒れた もぐこん作品集』推しの肌が荒れた ~もぐこん作品集~【電子特典付き】 (バンチコミックス)
・今後、危ういところが危ういままなのか、洗練されていくのか。

高研『緑の歌 収集群風』緑の歌 - 収集群風 - 上 (ビームコミックス)
・濃厚なまでの80年代サブカルノスタルジー。今、日本で日本人がやったら絶対許されないと思う。本棚のシーンで焼き尽くされました。

小林銅蟲『ファミ魂特異点ファミ魂特異点 (ゲームラボコミックス)
・その時代の片隅に確かに棲息していた異常な人々を記録する実録まんが。マジでこんなゲーム同人文化があったことを知らなかったのでビビった。異常さでは『ファミコンに育てられた男』もなかなか。

宮澤ひしを『苦楽外』苦楽外 (ビームコミックス)
・この手のうまく収まる幻想が年一冊くらいは読みたい。

いしいひさいち『ROCA 吉川ロカストーリーライブ』
・読み終わった瞬間にいやあ、いいものを読んだ、となれる。

ニック・ドルナソ『アクティング・クラス』アクティング・クラス
・カリスマ講師率いる無料演技体験クラスが大変なことになっていく。前回(『サブリナ』)より好きですね。あのポーカーフェイスの活かし方を発見したようで。濱口竜介に映画化させたい。

高江洲弥『リボンと棘 高江洲弥作品集』リボンと棘 高江洲弥作品集 (HARTA COMIX)
・この世のすべての性癖をカバーしてるのではという恐怖。「ある日森の中」と「誘い花」がベスト。この怪物を飼い慣らせるハルタという雑誌もおそろしい。人はハルタ作家として生まれるのではなく、ハルタ作家になっていくのだ。

タイザン5『タコピーの原罪』タコピーの原罪 上 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・『ちいかわ』ほどの安定感はなく、『星のポン子と豆腐屋れい子』ほどの計算高さもない。でも、ぼくたちはタコピーやしずかちゃんの泣いてる顔が大好きだ。

岡田索雲『ようきなやつら』ようきなやつら (webアクションコミックス)
・出来不出来がわりあいはっきりしているけれど、そのなかでもアティテュードは一貫しているのが作家という感じ。というか岡田索雲はデビュー当時からずっと一貫してきて全然ブレない。
proxia.hateblo.jp

【五巻以内で2022年に完結したまんが五選】

・このへんは個別に記事を立てたいところ。疲れてきたので手短に。

平方イコルスンスペシャル』(全四巻、トーチコミックス)

・2022年は『スペシャル』が完結した年として記憶されるべき。

戸倉そう『すぐに溶けちゃうヒョータくん』(全二巻、webアクションコミックス)

・かなりギリギリというかアウトなところをついてしまった加虐同棲まんがの傑作。

熊倉献『ブランク・スペース』(全三巻、ヒーローズ・コミックス)

・無理に群像劇にしなくともよかったのではないかな、と思う反面そこは思想の領域なのでこうせざるを得なかったかなとも思う。いずれにせよ些末な問題で、おおむねすばらしい奇想まんがです。

はせべso鬱、羽流木ない『百合の園にも蟲はいる』(全三巻)

・前述の通り。

冬野梅子『まじめな会社員』(全四巻、コミックDAYSコミックス)

・社会のクソさも自分のダメさも他人のアレさもひとしく掻いて掻いて出血しまくっているという点で、この作家に及ぶものはあまりいないのでは。


【+α】

綾辻行人清原紘十角館の殺人十角館の殺人(1) (アフタヌーンコミックス)
・ミステリのコミカライズとしてひとつの至福なあり方。ハッタリの効かせ方含めて。

若槻ヒカル『エルフ甲子園』エルフ甲子園(1) (コミックDAYSコミックス)
・若槻ヒカルのブルータルさに世間が順応する日まであとどれだけ必要なのだろう?

くみちょう『たぬきときつねの田舎暮らし』たぬきときつねと里暮らし 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・獣としての子どもの無軌道さがよく出ていた。


*1:2022年1月〜12月に第一巻が発売された作品が対象

*2:森薫か入江亜紀のどちらかの系統に近い絵をさす

*3:他の三人の元特美研メンバーたちが「大人」になっているのと対照的に描いているのが巧い

*4:アナロジーとして想起されるのは panpanya

*5:逆に瞬間瞬間の「動」を描こうとするときはやはり弱い印象もある

*6:ちなみに元になった「シアちゃんターくんの映画劇場」というショートマンガが先行して存在するのですが、それは映画の紹介マンガでした

*7:マインドさえ保てるのなら小学生に限定する必要はないのですが、涼川りんの『あそびあそばせ』がどうしても思春期要素を取り入れざるをえなかったように、望むにしろ望まないにしろ、年齢区分による圧というのは働くのです

*8:22年1月〜2月に発売された短篇集、単発作品、エッセイまんが。長編であれば完結した作品が対象

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