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My life as a pipe:『ファインディング・ドリー』のパイプについて

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 『ズートピア』のDVDが届きました。
 『ドリー』のパイプの話を思い出しました。


当記事は『ファインディング・ドリー』の重要なネタバレに触れています。っていうか、もう公開から一ヵ月以上経ってるだろが





「ファインディング・ドリー」日本語吹替版予告編

 『ファインディング・ドリー』ではパイプのモチーフが繰り返し出てくる。
 パイプはドリーを両親の庇護下から引き離した憎むべき敵であると共に、克服すべきトラウマであり、その入り組んだ閉鎖的な構造は彼女の健忘症と彼女の人生そのものを表象している。ここではパイプを切り口として『ドリー』の物語を追っていこう。
proxia.hateblo.jp


ひとつめのパイプ:デスティニーの水槽

 注意深い観客であれば、パイプが「犯人」であることは劇中のかなり早い段階からわかるはずだ。
 序盤でドリーが両親の存在を思い出し、旅に出るきっかけとなるフラッシュバック。そこに、暗い円筒形の空間へと吸い込まれていく幼いドリーの主観視点が一瞬だけ混じっている。
 だが、この時点ではドリーはまだ離別のきっかけに気づいていない。

 次にパイプが登場するのはジンベエザメのデスティニーの水槽だ。
 デスティニーは幼少時のドリーとパイプを通じて交信していたパイプ友達(Pipe Pal)だった。ここでパイプはドリーを攫うだけではなく、仲間と通信する手段でもあるというポジティブな側面が示唆される。
 ここでデスティニーは、彼女の水槽のパイプがドリーの故郷であるオープンオーシャン(でかい水槽)までのつながっていると教えてくれる。しかし、いったんはパイプに入るかけるものの、道連れがいないと道順を覚えられないとすぐに戻ってきて別ルートを乞う。
 ドリーは「一人では」パイプを突破できない。このささやかなシーンは後々の重要な逆転への布石となる。

ふたつめのパイプ:オープンオーシャン

 タコのハンクと協力し、なんやかんやあってオープンオーシャンにたどりついたドリー。
 だが、そこに彼女の両親や他のナンヨウハギたちの姿はなかった。
 彼女は自分がかつて住んでいた家の近くでパイプを見出し、両親と離れてしまったきっかけを思い出す。オープンオーシャンのパイプが引き起こす激流に吸い込まれて、彼女は海まで引きこまれてしまったのだ。

 そしてすぐさまトラウマとの対峙を余儀なくされる。
 他の生物から「ナンヨウハギたちは隔離所へ移送された」と言われた彼女は、意を決してパイプを横断しようと試みる。が、教えられた道順をすぐに忘れ、迷ってしまう。

 左、そして右……待って。
 もう左へは曲がったんだっけ?
 ああ、もう、まただ。
 よし、待てよ。待てよ待てよ待てよ。
 あれ、どっちだっけ?
 思い出せない。ええと、ええと、迷子になっちゃった。
 どうしてもダメだ、思い出せない。
 ぜんぶ忘れちゃうんだ。
 きっと、このパイプに一生閉じ込められるんだ(I’m going to be stuck forever in the pipes.)

 最後のラインはかなり象徴的だ。
 ドリーは単身大海へ放りだされてからニモ・マーリン父子に出会うまで、ずっとひとりで生きてきた。健忘症の彼女にとって他社の助けなく生きることは、パイプの迷路を何のしるべもなしに泳ぐのと同じような不安をかきたてるのだ。ドリーは暗く入り組んだパイプのなかをさまよう子どものまま、この日まで生きてきた。*1
 パイプとは、直接的なトラウマであるだけではなく、彼女の人生そのものを表しているのだ。

 だが、上のセリフの直後、「pipe」という単語から彼女は一条の光明を探り当てる。

 パイプ……パイプ友達……パイプ友達。
 パイプ友達!

 八方に伸びたパイプの路は行き止まりばかりでなく、彼女を助けてくれる仲間にもつながっていた。
 ドリーはパイプ管に声を響かせて、デスティニー(とその友達であるバンドウイルカベルーガ)にガイドを乞う。
 さらにその途上で、水族館の前で離れ離れになったきりだったマーリン父子とも再会する。
「ドリーならどうするだろう、って考えてここまでやってきたんだ」
 共連れさえいれば、パイプはけして脱出不可能の牢獄ではないのだ。

みっつめのパイプ:隔離所

 新旧の友魚の力を借り、ドリーは見事隔離所へ到達する。
 ところがそこで彼女は同族のナンヨウハギたちから衝撃の事実を知らされる。
 彼女の両親は、行方不明になった娘の後を追って何年も前に隔離所へとやってきていたというのだ。そして、そのままオープンオーシャンへは戻らなかった。隔離所へ行った魚がオープンオーシャンに戻らないということは死を意味する。
 自分の親は死んだのか、それも自分のせいで。
 絶望したドリーはそのまま事故的に下水から海へと流されてしまう。
 ドリーの主観視点で描かれるこのシーンは、フラッシュバックで垣間見た幼いドリーがパイプに吸い込まれるシーンと呼応している。彼女はふたたび両親を失ってしまった、というわけだ。

 またもや海でひとりぼっちとなったドリー。
 いったんは自分を見失いかけた彼女だったが、「ドリーならどうするか」で動き、立ち直る。
 そして、自分と両親をつなぐよすがである貝殻を追ううち、敷き詰められた貝殻が収斂するパイプの出口にたどり着き、そこで生きた両親に再会する。
 その場所は彼女を囚えていたトラウマの出口でもあった。

おまけ:Help me

 『ファインディング・ドリー』では「help」が頻出する。
 特にドリーにとって「Help me」はかなり重要なセリフだ。
 前向性健忘で短期記憶に問題のある彼女は、他者の介護を日常的に必要としている。
 親が、家族がいるあいだはまだいい。しかし、親がいなくなったら? そのことを想像して「あの子は社会でやっていけないのじゃないのかしら」とおいおい泣く母親の姿をドリーは劇中思い出す。

 親から離れて一人ぼっちになった彼女は、ずっと他の魚に対して「help me」を連発してきた。*2おせっかいなまでの彼女の親切な態度は、他者の助けを必要とする彼女自身の抱える不安の裏返しでもある。
 隔離所から海へ流され、昂じる不安のあまり健忘症が悪化してしまったドリーは「help me」を連呼する。

 ママ? パパ?
 いやだいやだ。いやだ。
 助けて。
 誰か助けて。
 助けて。私を助けて、おねがい。
 誰か助けて!

 ねえ、あなた、おねがい……(通りすがりの魚に声をかけるが無視される)
 助けて。
 助けてください。
 忘れちゃったんです。
「そうなの?」(他の魚の声)
 私……
「忘れたって、誰を?」
 私、私……
「ごめんなさいね。思い出せないんなら、助けてになってあげられないよ」(泳ぎ去っていく)

 あー……ねえ、私を助けてください。忘れちゃったんです……誰かを。
「うーん、具体的には誰を?」(別の魚の声)
 私の。私の、誰かです。
 誰か、誰かなんです。
 助けて。助けて、お願い。みんな行っちゃったんです!
 いなくなっちゃった。みんな忘れちゃった。
 私は何もできない子なんだ。忘れちゃいけないのに。
 何を忘れたの? 何か。何か大切なこと。それは……何?

 このくだりだけで十回も「Help」と口にする。

 その彼女が終盤、マーリン父子を救助し、ハンクの新しい人生を見つける手助けをする。*3
 誰かに助けられた者が、その助けてもらった誰かの助けになる。
 『ファインディング・ドリー』を Unforgettable な映画にしているのは、まさにそのようなマインドなのだと思います。

パイプクリーナー

パイプクリーナー

*1:段落の最初の文と微妙に矛盾しているようなセンテンスだが、気にするな

*2:タイトル後にある魚の夫婦と出会うシーンを思い出していただきたい

*3:ハンクに対する「海へ帰れ」的説得シーンを唐突すぎると文句をつける人は多い。仕方ないと思うけれど、あえて擁護するなら、ハンクの引きこもり症は彼の本心からの性分ではない、とおさわりコーナーでドリーは見ぬいたのではないか


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