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『シン・ゴジラ』の尾頭さんの苗字問題について。

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 『シン・ゴジラ』を公開日に観て、そのときはまあ、おおむね心地のよい映画だな、だと思い、それ以上の感想については考えませんでした。それでマアその後、インターネットやリアル友人間でシンゴジについて語る言説を多量に摂取してくうち、自分のハラにも一つの問題意識が醸成されてきまして、それが市川実日子演じる環境省なんとか局課長補佐・尾頭さんの苗字の読み方問題。

 わたしは「尾頭さん」を「びとうさん」と読む/呼ぶべきだと思います。


『シン・ゴジラ』予告2


 もちろん、公式には「おがしらさん」です。
 しかし不思議と映画本編を熱心に観た人であっても、「尾頭」の読み方を「びとう」と誤解してる人が多い。映画内で「おがしら」「おがしら」と連呼されるのを聞いているはずなのになぜか間違えてしまう。たぶん、映画を鑑賞したあとにネットや何かで「あの人の名前なんだったかな」で検索して「尾頭」という字面が出たのを見て「なるほど、びとうさんだったな」と早合点するせいでしょう。わたしもそうでした。 そういう人は、その後、自分のなかで勘違いに気づいて本当の読みを学習しても、読むにあたってはいったん「びとう」と心の中で発音したあとで「おがしら」と訂正するくせがついてしまう。
 なぜ理性の人、文明人であるはずの我々がこのような愚を犯してしまうのか。これはおそらく我々が本能的に「びとう」と読むのが正しい、と思い込んでいるからだと思う。なぜそんなふうにおもいこんでいるかというと、他のあらゆる本能とおなじく、それが種の生存に必要な戦略だからです。
 つまり、「おがしら」という読みには不都合が潜んでいる。それも決定的に種の生存に不都合な何かが埋伏している。その不都合を避けるために、生きるために我々はまず「びとう」と読んでしまう。しょうがないことなのです。

 では「おがしら」と読むと、どういう不都合が生じるのか。小学生でもすこし考えればわかることと存じますので、ここにわざわざ言明する必要もないのでしょうが、インターネットがインフラとして全国民に浸透しきった昨今、そういう甘えは許されないので説明責任を果たすと、「おがしら」は「おかしら」という語と混同しやすいのです。「おかしら」とはむろん、「お頭」、集団の首領のことです。

 チームを仕切るヘッドの代名詞と取り違えられる可能性のある単語が、こと『たまこラブストーリー』クラスに円滑でスピーディなコミュニケーションを求められる今回の巨災対のような組織の会話に混入するのは大変に危険であると言わざるをえません。
 今回は幸いにもチームの人員に江戸っ子が一人もいなかったからよかったものの(江戸っ子には優秀な人間など存在しない、という関西育ちの監督の差別感情のあらわれでしょうか)、たとえば、江戸っ子かたぎの分子生物学者が登場して、ゴジラの分析と対応におおわらわになっている現場にとびこみ「てえへんでヤンス、おかしら! 蛇行にまじって歩行も混じってるでヤンスから既に自重を支えている状態でえヤンス」と叫んだとしましょう。*1「おかしら」とは当然チームの頭目たる矢口さんを指しています。ところが、気っ風はいいけど滑舌がわるいのが江戸っ子です。尾頭さんは自分を呼んだものと勘違いし、「なにこいつ勝手に私のこと呼び捨てにしてんのバカか死ね」とばかりに眉をひそめ絶対零度のまなざしを投げつけるわけですが、彼女のパーソナリティからしてそう思ったしても口にはださない。彼女は幼い頃から剣術や武術にすごい才能を発揮していたけれども、ここで江戸っ子を殴りつけたりはしない。ただ、すごい目つきで江戸っ子を睨みつけます。見られることに敏感な江戸っ子はその視線の持つ悪意に気づきますが、マゾ気質も備えているのでゾクゾクするものを覚えながらいいように甘受します。同時に、観客も江戸っ子の快感を共有します。監督のサービスですね。
 しかし、すれ違いは解消されない。尾頭さんは江戸っ子のことがだんだん嫌いになっていきます。その不和は周囲にも波及していき、チームの雰囲気も最悪なものに。単純に尾頭さんを呼ぶつもりが矢口が返事したり、矢口を呼ぶつもりが尾頭さんが振り返ったりという事故も頻発して、ますますイライラ度が上昇していきます。こんなことではゴジラともまともに戦えません。

 蕎麦をすする際もズルズル音をたてる無神経な江戸っ子科学者への憎しみを募らせる尾頭さんは、第三形態にフォームチェンジしたゴジラを眺めているときに、前のほうがかわいい感じでよかったななどと考えつつも、江戸っ子を排除するための名案を思いつきます。
 如何様、ゴジラを利用した江戸っ子の虐殺です。
 彼女はチームに黙って密かにゴジラをマインドコントロールする術を開発し、ゴジラを江戸っ子の根城である下町へ誘導します。巨獣の来襲ににげまどう江戸っ子たち。彼らに怪光線をあびせまくるゴジラ。赤々と燃え盛る城下八百八町。ゆらめく焔火が高笑いをあげる環境省の赤猫魔人尾頭さんの顔を凄絶に照らします。「ははは、おもいしったか! 江戸っ子どもめ! 慶喜公を裏切った報いをいまこそ受けるがよい!」。彼女が実は新選組局長近藤勇の生まれ変わりであった、という設定がここで開陳されます。彼女の恵まれた武才や極端な江戸っ子フォビアにはそういう因縁があったのです。
 我々はこのとき、本作が伝えようとしたテーマを、この世界の真理を、100%完璧に読み取って戦慄します。そう、本当に恐ろしいのはゴジラではなく人間だったのだ……。

 ありえた光景です。
 すべては尾頭という苗字を「おがしら」と読んでしまったがために生まれた悲劇です。
 我々が「びとうさん」と読んでしまうのは、「おがしら」が引き起こす悲劇を先験的に知っているからにほかならないのです。悲劇を想像できる力こそが、人間を万物の霊長たらしめる最強の機制であるのです。


 監督の願望とは裏腹に、現実の江戸っ子は有能な人材を多数輩出してきました(勝海舟とか?)。フィクショナルな事態であれ、ノンフィクショナルな事案であれ、江戸っ子が官僚や科学者として対ゴジラチームに参加する可能性は常にあります。上記の虐殺劇が繰り広げられる危険が、尾頭を「おがしら」と読むかぎりつきまとってくるのです。
我々は未来に対する責任があります。監督にだって、あるでしょう。尾頭に「おがしら」とふってしまうことで、人類の生存率が数%、あるいは数十パーセントほど低下してしまう。憂慮すべきエラーです。そしてそれは、人為的なエラーです。フィクション中のキャラの名前は、作者の一存でどうにでもなるものです。
 だったら、どうにかするべきです。
 そういう理由でもって、わたしは「びとう」と呼ぶべきだと、そう申し上げているのです。

*1:語尾のヤンスをつけるのは厳密には吉原の幇間のことばであって、江戸弁とは異なりますが、黙っていれば誤魔化せます。


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