「メルボルンにも、生命はあるでしょうよ」
一同は大きく眼をみはった。
「どんな生命が?」と、ピーターは訊いた。
ーーネヴィル・シュート、木下秀夫・訳『渚にて』
指令はいつも十五桁の英数字で届く。そのコードをsteamのコード有効化ページに打ち込み、リディームする。あがない。それは原義的には罪を償還し、赦しを得る行為を指していた。
そのゲームをまともに購入しようとすると、50万2634ドルかかる。だが、コードをリディームすれば無料。贖罪とはそういうものだ。何事にも裏口はあり、恩寵は平等ではない。それが幸福な恩寵であるとして、だけれど。神からの愛はいつだってふたつの意味で致命的だ。
償還が済み、降臨し、再生される。ポップしたウィンドウには、典型的なというかサンプルから一切いじってなさそうなRPGツクール製のスタート画面が現れる。
〈ニューゲーム〉〈コンティニュー〉〈オプション〉。
〈ニューゲーム〉を選ぶと画面が暗転し、黒背景に画像が表示される。ペンギンの写真だ。幼鳥のようで、茶色い体毛に包まれている。飛べもしないのに羽ばたこうとしている姿を見て、傍らの飼育員らしき女性が微笑んでいる。その背後には何羽かのおとなのペンギンたち。
異常な点がひとつだけある。
赤ちゃんペンギンのサイズだ。デカい。背後のおとなペンギンたちと同等かそれ以上くらいの背丈に見える。錯覚だろうか。遠近法のあやだろうか。それともペンギンの赤ちゃんとは、もともとこのようにおおきいのか。
呆然とする。自失すらする。文字どおり、眼をうばわれてしまう。
下部にメッセージボックスが出た。姿なき発話者が告げる。
「*メルボルンに行け。」
「*ペンギンの赤ちゃんをつれてこい。」
「*本物を手に入れろ。」
異論はない。指令はつねにわたしの欲望と一致する。
しかし、メルボルンとは?
メルボルンと聞いて連想できるものは、ただひとつしかない。ネヴィル・シュートの『渚にて』だ。そこでメルボルンは「世界で一番南方にある主要都市」と表現されていた。
『渚にて』の世界では核戦争により北半球は壊滅し、残りの土地も放射能汚染によってじょじょに死につつある。メルボルンは天国あるいは地獄にもっとも近い街だった。「われわれが一番最後に近いわけです」*1。
たしか映画版(1959年のモノクロ版ではなく2000年のオーストラリア版)も観たことがあって、伊達男が車で爆走して路上のビルボードにつっこんで自殺するシーンをおぼえている。あの映画のメルボルンはなんだかブライトンみたいなぼんやりした港町だった。あそこに行くのか。そう思いながら、本棚の『渚にて』を開くと、「メルボルンまでは列車で三十分ほど」と書いてある。
宇治へ行くのとそう変わらない。みどりの窓口にいる駅員に訊くと、実際メルボルンは宇治の向こう隣にあるらしかった。赤道を越えるのがこんなにも手軽だったとは知らなかった。南の海がこんなにも近いなんてのも知らなかった。ひきこもって暮らしていると、地理感覚が破綻してしまう。まこともって恥じ入るばかりです。
「ペンギンですか」
唐突に駅員がそんなことをいうので、ハア? と呆けた声を出してしまう。
「あなたも、ペンギンですか」と駅員は繰りかえす。
わたしはペンギンではありません、とまっとうに返すと、駅員はあきれたように首を振り、スマホを取り出して、例のペンギンの赤ちゃんの写真を見せる。ウェブに載った新聞記事だ。「大バズりですわ」
曰く、いまやメルボルンに向かう客の大半はこの巨大赤ちゃんペンギン目当てらしい。メルボルンへこんなに大勢が殺到するのは、1851年のゴールドラッシュ以来だとか。
駅員はわたしに切符とビザを渡しながら、こうぼやく。「別にわざわざメルボルンまで行かなくても、ここでこうして見られるのにね。おれはね、こうずっと窓口に座ってよそにはいかないけれど、世界のいろいろな驚異を見てきたよ。京都水族館のXXLサイズのオオサンショウウオ、三匹のヒグマが経営するティーハウス、フリードリヒ・ヴィルヘルムの黒い軍勢、ファタ・モルガーナ・ラネズの猛吹雪、月の裏側のひみつきち、ブエノスアイレスのぐらぐら岩。いまや、てのひらにおさまるこの黒い窓からなんだって覗けるのに、どうしてわざわざ高価いカネを払って南の果てまで行くんだい?」
そうだね、しかしたとえば、コナー・オー・ブリーンはこういった。
"みずから目にすることなくして、だれがペンギンを信じられようか!"*2
三十分の旅程のあいだ、電車に揺られながら、巨大赤ちゃんペンギンについて調べる。
生後十ヶ月。
体重は二十二キログラム。親鳥の体重の二倍らしい。さらに一日に二十四キロの魚を食べる。
身長は約九十センチメートル。これも親鳥より高いらしい。
メルボルンの水族館で今年唯一孵化した雛であるらしい。
名前はペスト。黒死病ではなく、パスタなどに用いるイタリアの調味料にちなむ。つまりはペースト。バジリコなどからできている、この緑色のペーストが茶色い赤ちゃんペンギンとどのようなつながりを持っているかはまったくもってさだかでない。
TikTokでは、よちよち歩くペストにノリノリな音楽を乗せたり、水族館の職員がペストの後ろでへたくそなダンスを踊ったり、同時期に話題となったタイの動物園のコビトカバの赤ちゃんと怪獣映画風アニメで対決したりととにかくまあ大忙し。
ペンギンの赤ん坊がデカいというだけで、そんなにもうれしくなるものだろうか? なる。わたしもメルボルンが近づくにつれてうきうきしてくる。こころがメルボルンになりつつある。眼もだいたいメルボルンだ。わたしのメルボルンのイメージは、もう大きなペンギンの赤ちゃんと一致している。これは倒錯でも顛倒でもない。事実として、世界はそのように、イメージのコラージュとしてできている。現代メディアのエコシステムは個人とイメージのあいだの空間を圧縮しつくした。わたしと赤ちゃんペンギンを隔てるものはなにもない。
一枚の写真に、ぐっと引きこまれる。突然、そこに映しだされた情景に、自分自身が臨場する。肉体を欠いた視線となって。対象と自分を隔てる時間、隔てる空間は、ぺしゃんこに潰れ、ゆがみ、蒸発する。われわれにとって、世界は写真だ(とりあえず)。
これを「世界写真」の仮説と呼ぼう。ぼくらは世界を写真の集積として体験している、ということだ。そのように「見て」いるのというのではなく、そのように「体験」している。…(中略)…人間に有機的に経験できる空間範囲は、限られている。人間はひとりでは、世界について、何も知らないに等しい。だがそれでもどこかに世界(という全体)が、たしかに自分とはある間隙によって隔てられたものとして、あると考えざるをえない。それは実在だが、実在として世界そのものに触れることはできない。バルトが「アメリカ」にそれを見たような、映像により構成された空間が、われわれの「世界」だ。
ーー管啓次郎「映像的ウォークアバウト」
世界。あなたの網膜に取り憑き、たびたび呼び起こされ、しかし決して触れることのできない幽霊たちの集まり未満の集まり。それについて、それに向かって、それとともに語ることが、あるいは語らせることができないもの。つねにあなたからゼロの距離にあるもの。すなわち、世界。
今はペンギンの赤ちゃん。
そこになくてもすぐそこにあるのなら、わざわざメルボルンにまで行かずとも、視線をスマホの画面へ永遠に凝らせておけばよいのでは? とあなたはいうかもしれない。わたしもすこしはそうおもう。でもやはり、違う。
見ることは信じることではない。信じるからこそ見るのだ。証すために見るのだ。「使徒トマスも、見ないうちは信じないと誓ったが、いよいよ見たときには、『わが主よ、わが神よ!』と言った。これは奇跡が彼を信じさせたのであろうか? おそらくそうではなかろう。彼はただ信じたいと望んだがために信じえたのであろう」*3。
幼いころ、キリストの降誕劇で羊飼いの役をやったことがある。羊飼いにしろ東方の三博士にしろ、twitchを開いてナザレのヨセフのチャンネルで配信されている出産実況を観るだけに満足せずイエスとの対面お誕生日会に出向いたのは、当時の貧相なインターネット環境(UStreamくらいしかなかった時代だ)のせいではない。
知識と経験を、信仰と現実を、みずからの知覚の範囲において一致させること。それが見るという行為だ。
みやこ路快速で宇治の次、メルボルンで降りる。さむい。そりゃそうだ。阪急の南のほうは今は冬。気温は10度ほどで、凍えるというほどでないにしても、半袖で歩くと乾燥とのコンボで気管支をやられる。
それにしても、あらゆるものがデカい。ビルは軒並み京都タワーなみに高く、ヒトはみなsattouの描く肖像画のようだ。きっかりと縦横に交わる通りは京都に似てなくもないが、右京区の感覚で「ちょっと一ブロック向こうに足を伸ばそうか」などと無策に出ていくと、ハーフマラソンの距離を歩かされるハメになる。ガリバーの旅したブロブディンナグ国とはここのことだろうか。
うかつに歩くと小腹が空くけれど、ここでレストランに入るのも、やっぱりうかつな判断だ。料理の量は京都の五倍。値段は十倍。味は駄菓子のポテトフライを牛丼にしたようもので、たいへんに美味である。支払いのために財布から紙幣を取り出すと、店員から野蛮人を見る眼で見られる。労働者の権利のために闘争し続けて二百年、資本主義を超克したメルボルンではスマホやプラスチックのカードを示すだけで支払いが免除される。仕組みはよくわからないけれど、しちめんどうな交換や商取引の習慣から解放されるのはよいことだとおもう。
ペンギンのいる水族館は街の南に位置しているという。下っていく。遠い。水族館が遠い。Instagramでワンタップの距離がどこまでも遠い。
大通りは中華料理屋、アメリカンなバーガーショップ、地元発っぽいドーナツ屋、日本風オタクショップ、プリクラハウス、ベトナム料理屋、カンボジア料理屋、博物館、台湾とベトナムを合体させたような趣味のワッフル屋、本場イタリアの味を謳うジェラート屋、一風堂、『美女と野獣』が上演されている劇場などなどが整然かつ雑多に建ちならぶ。ありとあらゆる文化がここに混淆している。なるほど、「一番最後に近い街」にふさわしいありさまかもしれない。こうして、スヴァールバルの世界種子貯蔵庫のように世界中の文化を保存しておけば、世界が滅びかけたさいにはここが復興の拠点となるだろう。
ひとびともナイスだ。店のひとたちはみな必ず「今日は良い日ですか?」と訊いてくる。
「良い日です」とわたしはかならず返す。
「なぜ?」
「ペンギンを見るから」
ああ、とカフェの店員は苦笑気味にうなずき、イングリッシュ・ブレックファストのカップをわたしつつ、こちらに背後を見るようにうながす。
ふりかえると、店の外に人間の行列ができている。通りの南方へずうっとつづいている。
「あなたのお仲間ですよ」と店員はいう。「あの赤ちゃんペンギンがバズってから、ずっとあんなですね」
メルボルンでひとが行列をなす施設はふたつしかない、とその店員はいう。ひとつは博多ラーメン屋。もうひとつは Lune というクロワッサン屋。
「ここはクロワッサンとコーヒーの国ですから」
わたしはお茶とベーグルの人間であり、ラーメンはあまり好まないのだけれど、そういうことを口にしないだけの社交性はあった。代わりに「宇治にもいいパン屋がありますよ。たま木亭という。わたしは行ったことがないのだけれど。宇治ですから」
「宇治ですからねえ」と店員はうなずく。「あの行列もときどき、最後列が宇治に達します。並ばないんですか」
並ぶ。
待っているあいだに入場チケットを手に入れる。
水族館では、受付で現金を支払うなどという甘ったれた資本主義はゆるされない。入場できるかどうかは魂の清らかさにかかっている。ウェブサイトで入場したい時間帯(三十分刻み)を指定し、あとはVISAとかAMEXとか呼ばれる謎の札、おそらくは免罪符の子孫かなにかだとおもわれるカードに祈る。十分な数の天使がわたしのカードの上にとまっておりますように、と。
水族館の入場口にはアメリカの入国審査官のような鋭い目つきの女(ジェシー・プレモンスによく似ていた)が座っていて、いわれるがままにパスポートを渡すと、ねぶるようにわたしの顔とパスポートの写真を見比べ、「英語で答えろ。できるな? できるだろ。どこの出身だ?」と問い詰める。キョート、と英語でも日本語でもどちらもでいいような単語を答えると、なにが気に入らないのか、あからさまな舌打ちをする。
「目的は?」
ペンギンを連れだしに来た、とは口が裂けてもいえない。
「観光」
「ペンギンか?」
「はあ」
「ペンギンなら」と女は出入り口の付近を指さす。やせぎすのキングペンギンがよたよたと外に出ようとしていた。「あそこにもいる」
「あれじゃなくて」とわたしはいう。
「ペンギンはペンギンだろ」
わたしの欲しいペンギンは、赤ちゃんでなくなっていく赤ちゃんペンギンだ。あと一、二ヶ月で茶色い体毛が抜け落ち、体重が減り、まだ巨大ではあるだろうけれど、他のおとなペンギンたちとたいして差異がなくなっていく、その前段階にいるペンギンだ。今この瞬間にしか収穫できない、新鮮で無垢なミームの権化だ。いったでしょう? 世界そのものだって。 などとは、結局いわなかったけれど、審査官は入場許可のハンコを捺してくれた。
「みんなあのペンギンめあてで来るよ」と彼女はいう。「この水族館に来る客、全員だ。この水族館はイコールあの巨大な赤ちゃんペンギンで、あの巨大な赤ちゃんペンギンがこの水族館。いや、水族館だけじゃない。メルボルン来るヤツみんな赤ちゃんペンギンモクだ」
ふりかえって列を構成している面々をながめると、なるほど、みやこ路快速の車内で見かけたような顔ばかりだ。ちなみに先ほどのペンギンはだれの注目もこうむらないまま出入り口を抜け、脱走に成功しつつあった。
「このメルボルンがかぎりなく巨大赤ちゃんペンギンと等しいのなら」と彼女はいう。「あの赤ちゃんペンギンが赤ちゃんじゃなくなったとき、どうなるんだろうね」
悲観することはありませんよ、とわたしはパスポートを受けとりながらやさしくいう。メルボルンには他に見るべきものがたくさんあります。
「たとえば?」と彼女はするどく返す。
わたしは返答に窮してしまう。いや、あるはずなのだ。ガイドブックを読めば、Googleで検索すれば、だれかに訊けば。しかし、今この瞬間、わたしのなかのメルボルンにいるのは巨大なペンギンの赤ちゃんだけだ。おまえは中華料理屋に行きたいか? いいえ。アメリカンなバーガーショップには? べつに。地元発っぽいドーナツ屋は? ミスドで十分だし……。日本風オタクショップ? 京都には美しい四季とオタクショップがある。
じゃあ、プリクラハウスは? ベトナム料理屋は? カンボジア料理屋は? 博物館は? 台湾とベトナムを合体させたような趣味のワッフル屋は? 本場イタリアの味を謳うジェラート屋は? 一風堂は? 『美女と野獣』は?
いらない。それらはメルボルンではない。わたしの想像したメルボルンでは断じてない。巨大な赤ちゃんペンギン以外は、メルボルンではない。
何秒、何分経っただろうか。わたしは口を半開きにしたままポカンと阿呆のように、実際阿呆以外なにものでもなかったのだけれど、立ち尽くしていた。
審査官はつまらなそうにしばらくこちらを眺めていたが、きゅうに弾けたように笑いだした。
なにがおかしいのか。まったくわからない。
困惑していると、彼女はカウンターの上に登り、入場審査待ちの列をつくっているひとびとに呼びかけた。
「みなさん、どうぞご自由に入場してください! 当水族館はたったいまから、だれでも、望むがままに出入りできるようになりました! しちめんどうな審査は撤廃です! おめでとう」
それを聞いた客たちが、わっ、と歓声をあげて押しよせ、通過ゲートへと殺到していく。ほかの係員たちが押しとどめようとするが、すでに遅い。人のうなりは怒濤となり、わたしもまた押し流されていく。
業務を抛擲した彼女はカウンターであぐらをかき、たからかに歌っていた。
このいやはての集いの場所に
われら ともどもに手探りつ
言葉もなくて
この潮満つる渚につどう
かくて世の終り来ぬ
かくて世の終り来ぬ
かくて世の終り来ぬ
地軸崩れる轟きもなく ただひそやかに*4
列待ちのあいだに公式サイトで調べた情報によると、水族館は十五のエリアに分かれていて、ペンギンは最後のエリアに展示されている。移動は不可逆であり、一度別のエリアに進めば、もう二度と前のエリアの魚には再会できない。クラゲとか。ムツゴロウとか。タスマニアキングクラブとか。
そんなものには、だれひとり、目もくれない。
解き放たれた人の波は最初の十四のエリアを三分ですっ飛ばし、万物をひとつの建物で把握しようとする十九世紀の博物学的欲望を彼方へと葬り、十五番目のエリアに到達する。いなや、みなスマホを取りだす。茶色いふわふわの大きな赤ちゃんを探す。透明なケージのなかのキングペンギン二十羽はいずれもおとなだ。違う。赤ちゃんは。どこだ? どこだ?
いた。
ペストだ。岩場の向こう。顔だけが覗いている。世のすべてを拗ねたような、つめたい目。その視線をあびたい一心で、数千いや数万の客たちは子育て期の南極のペンギンたちのようにエリアにひしめいている。
歓声があがる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」わたしも連呼に加わる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」見知らぬ膨大な他者たちと視線や声を一にすると、独特の高揚が生じる。まるで2000年代後期みたいな気分だ。
茶色いふわふわの頭がのっそりと動きだす。歓声がなおも高まる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」わたしも……いや、もう〈わたし〉などはいない。〈わたしたち〉だ。
わたしたちは高さ五メートルはあろうかという水槽用強化ガラスに群がり、張りつき、すこしでもペストに肉迫しようとする。いっぽうペストは悠揚と岩場をいきつもどりつしながら、こちらをみやったりみやらなかったりする。彼からの視線を欲望して、同期していたはずのわたしたちも分裂する。「こっちを向いて!」「いやこっちだ!」「いやこっちを!」心が数万ある。だがいまだに一つだ。
十分ほどやいのやいの騒いでいると、ようやくペストが岩場から降り始める。わたしたちの興奮と歓声がいっそう高まる。よちよちとあぶなかっしく歩行するさまはやはり赤ちゃんで、そばにはいつも寄り添うように二匹のペンギンがついてまわる。親だろう。親であるはずだ。親であるに決まっている。
わたしたちは一人残らず聖なる親子に涙する。一つのユニットとしてのある家族への視線を共有する信仰が生じつつある。わたしたちは羊飼いだ、メルキオールだ、バルタザールだ、カスパールだ。いかなる現実も美しく粧い、世界を摩耗させていく写真の使徒だ。
ペストがわたしたちのもとまで降り立つ。
クチバシをあげ、あのふきげんそうな眼でわたしたちひとりひとりをねめる。たまらない。この眼を前にして、なにかやるべき使命があった気がするけれど、もはやそんなことはどうでもいい。なぜなら天国にいるのですから。
わたしたちはペストの眼の前のガラスにはりつく。上から下から横から。遮られた視線もリレーされ、わたしたちはひとつの塊となってペストを見つめる。だれもが至福だった。平和だった。満たされていた。
みしり、とおおきな音がした。
そこからは早い。崩壊はいつも一瞬だ。
五十センチ厚の水槽用アクリルガラスがわたしたちの重さと熱に耐えきれず、砕け散る。視線をこちら側とあちら側で分けていた境がなくなる。
ペンギンたちがけたたましく鳴きながら脱走をはじめ、わたしたちと交錯する。わたしたちをひとつにしていた意志は注意とともに霧消してしまい、単位としてのわたしはわたし自身へと返還される。自我を取り戻していったのは他の人もおなじなようで、個々の生存本能を働かせて、みな、この混沌に対して絶叫と暴力をもって対処しようとしている。混乱が加速しつつある。その隙間をぬって、ペンギンたちが駆けていく。驚くほど迅速に。
熱狂が撹拌されて覚めてひいていき、ふと意識の間隙にこんな考えがすべりこむ。
これが終わりのはじまり?
そうおもいながらなんとなしに視線を横にすべらせて。
眼があった。
ペストと。赤ちゃんペンギンと。あの不機嫌な眼と。
ほかのおとなペンギンたちとは違い、じっと立ち尽くしたまま、こちらを見つめている。
「*本物を手に入れろ。」
とっさに彼を抱きかかえ、走りだした。
渚まで。
摂氏十度である。
十月のメルボルンの海岸で、泳ごうなどと考えるやつはまずいない。
なとど勝手に決めつけていたら、海面がぬわりともりあがり、水着姿の大柄な中年女性が這い上がってきた。そして、たまたまそこにいたわたしに「今日は良い日?」と訊く。
世界は複数の驚異にあふれている。
さしあたって手近な世界がわたしの傍らにいて、ペストだ。巨大な赤ちゃんペンギンは広大な海と砂浜にたたずむと、なんだかそこそこ大きいくらいで、さして世界に見合うサイズではない気がする。大きさなど、ペスト自身は気にもかけていないのだろうけれど。
しばらく、ペンギンと一緒に滅びから遠い海をながめる。日が暮れかけたあたりで、だれかに肩を叩かれた。
見やると、シベリアンハスキーをつれた男がいる。タンクトップに短いパンツをはいた、心身ともに非常に健康そうな人物だった。シベリアンハスキーも劣らず精悍な顔つきだ。
「このビーチはイヌは禁止ですよ」とわたしはいう。
「ペンギンは」とイヌが問う。「どこですか」
わたしはペストを見る。あいかわらず、茫洋と波を見つめつづけている。潮風に吹かれて、茶色い毛がところどころ抜けかかっている。おとなになる準備をしているようだった。
すこし迷ってから、イヌにこう告げた。
「わたしがペンギンです」*5