あいまいなの境界の無いあわいにも揺らいでみる
しろねこ堂「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~」
『君の色』を語ることの不可能について
視ることを語るのであれば。
本来ならわれわれは『君の色』について語り、語り合いつづける義務を負っているわけですが、しかし、それは不可能なことであります。冒頭五分で映画自身で作品外で語られうることすべてを語り尽くしてしまったような映画に、いまさらなにをいえるというのか。公開から一ヶ月経つ今日においても、あの五分間を越える批評は提出されていませんし、これからも出ないでしょう。
それは評者の力量のせいではない。原理的にあり得ないのです。解釈によるあらゆる拡張を受け入れる傑作が存在するように、自らで決めた背丈を絶対に超えられない傑作も存在します。『君の色』とはそういう作品です。
ある程度読める人であれば、その拡張不能性があきらかで、だからこそ京アニ事件という見えている爆弾を果実と勘違いしてもいでしまう。地雷でしかないのに。袋小路でしかないのに。
でも、わたしはかれらを恥知らずとは批難しません。むしろ、シンパシーをおぼえます。わたしもまた、そうした地雷を踏んででもあれを語りたくなる人間だからです。
そう、やはり、この2024年9月において視ることについていうのであれば、『君の色』を避けることはありえなかった。避けることこそが恥知らずと糾弾されるべき怯懦です。
だから、これは敗退の記録なのです。
わたしは今日も『君の色』については語りません。
パソコンの画面とは魂をとらえる異界:『Cloud』
幽霊とはぼやけた世界に走る裂け目に現れるものであり、かつてはそこかしこに棲まっていました。映像機器の性能が悪かったせいです。写真技術の初期において、心霊写真とはぼやけた像のあわいに生じるものでした。*1
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ですが、いまや世界は鮮明になりつつある。
かつては10万画素程度の能力しかなかった携帯電話もいまや1000万画素にも達していて、あまりに隙間がせまくなったので、幽霊たちもすべりこめないようです。
幽霊たちの生存圏は日々、狭まりつつある。そんな絶滅危惧種をなんとか保護しようと奮迅している数少ない作家が、黒沢清です。*2
『蛇の道』はブラウン管テレビとビデオ映像の不吉さをどこまでも追いもとめた映画でした。
リメイク版『蛇の道』でも彼はなおスクリーン越しの画面の不吉さを諦めませんでした。ラストシーンでは全身全霊をそそいでパソコン通話画面に幽霊を召喚しようとした。さらに中篇『Chime』では、幽霊の住処を玄関用のドアカメラに見出しました。涙ぐましい努力です。
そして、『Cloud』。冒頭、つぶれかけた町工場からあやしげな健康器具を大量に仕入れた転売屋の菅田将暉がそれをフリマサイトに登録して売り捌くシーン。2023年にしてはおどろくほど粗い画面に並んだアイテムが、謎めいたフリマサイトの謎めいた挙動によって売り捌かれていく。それは取引であるけれども、売る方にも買う方にも人間はいない。菅田将暉が売り主では? とおもわれるかもしれませんが、しかし映画の画面上ではかれはただフリマサイトの映る画面を凝視し、ただ売れろと強く念じる存在でしかない。すべては自動的であり、魔術めいている。
黒沢清の興味が現代のインターネットをリアルに描くことではないとは各所で証言されているとおりではありますし、そんなもの読まなくても映画を観れば一発でわかるのですが、ではこの不気味さはなんなのか。
転売屋の菅田は事業拡大にあたり、アルバイトとして奥平大兼を雇いいれます。奥平は菅田の仕事に興味津々で、菅田のパソコンを覗き込んでいやがられます。ついには奥平は菅田の不在時にパソコンをいじり、それが菅田に露見します。菅田は「信頼関係が壊れた」と告げ、奥平をクビにします。
ここで注目すべきは奥平の菅田に対する執着ではなく、菅田がなぜそこまでパソコンに触れられるのをいやがるのか、ということです。
菅田にとってパソコンとは転売屋という彼のアイデンティティの源泉であり、インターネットとは人生における物事が動く唯一の場所です。かれはそこで無貌の幽霊として、人間のいない資本主義の現場に居合わせている。非常に希少な、サイバー資本主義で暮らせる幽霊。
かれはインターネットに取り憑かれているのではなく、かれがインターネットに取り憑いている。そうした意味において、菅田を襲撃しに来るひとびとはそれぞれ経路は違えど幽霊としての菅田将暉に取り憑かれて呪われたひとびとであるといえるでしょう。かれらは狂気の解消のために菅田将暉を襲うのではなく、呪いを祓うために菅田を滅しに来たのです。*3
スクリーンを一心に見つめるということで、スクリーンの向こう側の世界に同化する。それはあらゆる鑑賞という営みもおなじことで、わたしたちを映画を、インターネットを真剣に見つめることで幽霊になれる。*4
あるいは、もう、なっているのかもしれない。
リアルタイム・ファウンドフッテージ・レトロフューチャーSFホラー:『エイリアン・ロムルス』
廃墟と化したデトロイトを舞台にどんづまりの若者たちが盗みに手を出し、とんでもない"モンスター"に逆襲されるデビュー作『ドント・ブリーズ』とおなじ手つきでもって、フェデ・アルバレスは廃棄された宇宙ステーションを舞台にどんづまりの若者たちが盗みに手を出してエイリアンに襲われる『エイリアン:ロムルス』を撮りました。
少年時代に『エイリアン2』を観てそのホラー性に魅了され、「ホラー版スターウォーズ」としてシリーズを受容してきた*5アルバレスは、なるほどホラーとして『ロムルス』を撮っている。しかし、やや特異なのは物語前半部分では主人公たるケイリー・スピーニーはステーションにドッキングした宇宙船のなかで、モニターを通してステーション内部に潜入した仲間たちを見守っているところ。
この中継のスクリーンが妙に粗い。全体的にこの世界では一部のテクノロジーが1980年代から止まったようで、映像機器の画面はブラウン管のままで、コンピュータはDOSプロンプトで動きます。登場人物のひとりが遊んでいる携帯ゲーム機はワイヤーフレームで描画されており、機械類はやたらごつごつしている。
そうしたレトロフューチャーのテイストは単なる趣味に留まらず、リアルタイム・ファウンドフッテージホラーとでと呼べるような、なんとも矛盾した名称の新ジャンルを成立させてもいます。
スピーニーが船内で見つめる中継画面の、2000年代初頭の初期のファウンド・フッテージ・ホラーのような、あるいは心霊投稿ビデオのような解像度。美術家の原田裕規は論考「アンリアルな風景」のなかで、本来は自然さやリアルさを印象付けるために使われる3DCGをあえてその虚構性を強調する形で使う「レンダリング・ポルノ」という概念を紹介し、その特徴を「CGを「非現実のもの」だと思わせる(=自白する)」ことにあると述べました。
そうした意味において現実の鮮明さと一致しないブラウン管テレビ的な画面は、その粗さによって非現実性が強調されることで「この世のものではない」幽霊たちや不吉さが宿りやすいのかもしれません。
さて、スクリーンの向こうにいる仲間たちに異変が起こると、スピーニーも船内から出て、自分が見ていた画面の中の世界へと入り込んでいきます。ここから『ロムルス』という映画は「扉と開くことによる恐怖」というホラー映画の鉄板ともいえるモチーフを追求していくことになり*6、ここも『Cloud』と比較すると興味深いところですが、時間もありませんし、ここでは触れるのみにとどめておきましょう。
おもしろいのは画面を見ることをやめたスピーニーが画面の向こう側と格闘するようになるところです。彼女はあるキャラの映る画面に向かって発砲し、エイリアンとのラストバトルではヘルメットのバイザー越しに闘いを繰り広げます。
キャラクターはいつから画面の向こうの怪異を殴れるようになったのか、といえばこれも映像が明瞭になり、怪異の輪郭をはっきりさせてくれたおかげです。『ロムルス』という映画自体の流れもそのようにできています。
というのも、最初、ブラウン管のぼやけた画面を眺めているときはエイリアンの"予感"しか映らず、そのものは姿を現しません。スピーニーがブラウン管を撃ち抜くとき、画面に映るあるキャラの姿は機器の能力並にぼやけています。予感とは戦えないし、幽霊は撃ち殺せない。それが鮮明でないホラーの世界のルールです。
しかし、ラストバトルでヘルメット越しに襲いかかってくるエイリアンは確固たる明らかさでスピーニーと対峙します。このとき、はじめて画面の向こう側の存在を殺せるようになるわけです。
正体が明らかになると恐怖が霧消してしまう、とはホラーでよく言われるところです。*7つまり、恐怖を克服するには輪郭を定めればよい。暴力とは自他の境界を侵す行為でありますから、線をはっきりさせるのは大事です。形あるからこそ壊せる。それを認識したら、もはや恐怖ではなくなります。
このようにかつては幽霊を克服することは真剣に見るものの特権でありました。いまや、世界の鮮明さはからなずしも真剣さを要件とはしなくなり、幽霊たちは無差別に喪われつづけています。
まあしかし、そもそもフィクションのプロダクトにおいては天然物の幽霊など存在しません。ブラー、グリッチ、ノイズ。すべては人工的な技術であり、世界の表面に傷をつけ裂け目から幽霊たちを呼び出そうとする意志です。事故を模倣することでしか事故を語れない。倒錯ですね。儀式ですね。あらゆるフィクションがそうであるように。
もう時間がありません。今日はここまでです。またいずれ。
*1:「心霊写真に映っている(と言われる)霊魂の顔は、いずれもボケた感じがしている。ボケとは何か。レンズの焦点距離から外れた像だ。これこそ、映像のキャメラで表現出来る霊の姿ではないか。」小中千昭『恐怖の作法 ホラー映画の技術』
*2:「この「ぼんやりとした姿」といった幽霊像は、数年後、黒沢清監督が『回路』(2001) で全面的に導入し発展させた。ボケた幽霊の姿は動き、肉体有る人間と「芝居」をし、それを捉えるキャメラも移動していく。これだけのことをビデオで簡易にやるのは不可能であり、ましてやフィルムでは気の遠くなる様なプロセスが必要なのだが、CGIを用いた革新的な手段によってこの像を獲得した。」小中千昭『恐怖の作法 ホラー映画の技術』
*3:菅田をおびやかす存在がまずガラス窓をぶち壊して彼の日常に侵入してきたという点は重要です。彼を襲いに来た岡山天音がすりがらすの向こう側に映っていたことも。
*4:石井岳龍の『箱男』もまた映画のメタファーである映画でしたが…………
*5:https://remezcla.com/features/film/interview-fede-alvarez-talks-alien-romulus-more-spanish-than-english/
*6:「「なぜ開けるだけが出来ないんだ!」というあるキャラのセリフはこの作品のすべてを要約しています。開けることによって地獄へつながってしまうこと。エイリアンの身体すらその表現のうちに入ること。
*7:それをたとえば平山夢明は「人間は見えているものより見えないもの、すなわち、恐怖よりも不安に畏怖の念をおぼえる」(『恐怖の構造』)と表現した