映画を観たのだから映画の話をしろ。映画の話をします。
誰が自分自身にこんな誓いに立てるでしょう。「わたしは死を見るにも、喜劇を見ると同じ目で見るだろう……」――セネカ「幸福な人生について」
死。所詮然し死といふ奴は、語るべきものではないらしい。野々宮は、思つた。まつたくの話が、死といふ言葉は、実感をもつて語られても不思議に空虚なものであるし、まして戯れに語られては、ただただ興ざめた思ひのみ深かめるらしい。
――坂口安吾「吹雪物語」
原作と映画の違いについて
でもまんがの話からはじめます。当然でしょう。100ワニとは現象であり、インターネットなしにありえなかった現象なのです。
『100日間生きたワニ』の原作である『100日後に死ぬワニ』は当初ギャグまんがとしてはじまり、進行していくにつれドラマに転じました。境目はどこかと問われれば、私は「集中線を使わなくなった時期から」と答えるでしょう。
初期の100ワニはほぼ毎話のように「ワニのドアップ+集中線」で〆られていました。
「100日後に死ぬワニ」 pic.twitter.com/RUblRfVWTs
— きくちゆうき (@yuukikikuchi) 2019年12月12日
「100日後に死ぬワニ」
— きくちゆうき (@yuukikikuchi) 2019年12月13日
2日目 pic.twitter.com/LFJ3vKGvPc
こうした演出は四コマ目のすぐ下に記されているワニの死までカウントダウンと連携してします。
要するに「こいつは(自覚していないが)○○日後に死にます」というギャグです。観客に周知されている出来事を登場人物だけが知らない、というのはシチュエーションはよくあるギャグの手法です。その「出来事」に「死」を当てはめ、かつインターネットでリアルタイムのコンテンツとして展開したことにきくちゆうきの慧眼があります。
すっかり世間に染まったとはいえ、不謹慎さに対する許容度が比較的に高い twitterという場で、死をネタにして笑う。そして、笑ったあとで、ふと我が身にも当てはまることにも気づく。わたしたちはワニ同様、明日にも死ぬかもしれないのに日々を蕩尽して漫然と生きている。ワニのように平気で数ヶ月後の予定なんぞ立てている。良質なコメディとは常にペーソスを孕んでいるものです。だからこそ、笑えるのだともいえます。
原作における集中線は5日目(ネズミが入院するエピソード)を境に後退していきます。そこから何がはじまるかというと、ワニとバイト先のセンパイの恋模様や友人たちを軸にした日常もの。判断の早さからいって、おそらく既定路線だったのでしょう。100日という時間の流れを描く形式が自然に作劇をドラマ的な方向へ向けたともいえます。あるいは不謹慎ショートコント100連発で保たせるのはさすがに厳しかったとも。
死は笑える。原作最初期におけるその思想はしかし、映画には受け継がれませんでした。
当たり前です。映画館で流す作品です。公共の場で、健全な老若男女の目に触れるものです。頭にアルミホイルを巻きつけているユーザーが八割を占めるといわれる twitterなんぞとはわけが違います。
映画では「死はかなしいもの」としてまっとうに描かれます。
そうしたアティテュードは開始一分で観客に示されます。
原作では100日目にあたるエピソード、すなわちワニの死の場面を冒頭に持ってくるのです。
原作のコメディ性を成り立たせていた要素のひとつに、「ワニがどのように死ぬかはわからない」点があります。死に様がぼやかされているので、彼が死ぬと予告されてもあまりリアリティがなく、だからこそワニの言動を笑うことができた。
しかし、映画ではいきなりワニが死ぬ。具体的に、こうやって死にますよ、と示される。しかも死の直前に、恋人や友人たちとの思い出の写真をおさめたアルバムなんぞを取り出して眺めたりする。一個の人格が、慕っていくれる仲間のいる人間が(ワニだけど)、死んだんですよ、と突きつけてくる。
重い。
シリアスにメランコリックな映画です。100ワニは。他人の死を笑うな。
原作に路線変更後もちょくちょくあった、ワニがひとりで何もせずに過ごす回をカットしたのも、そのへんが関係してくるのでしょう。このような重い映画で限られた日々を、60分という尺を無駄遣いすることは許されない。
映画と原作のトーンの違いが決定的に出ているのは、ワニが横断歩道で車に轢かれそうになったヒヨコを助けるエピソードです。
「100日後に死ぬワニ」
— きくちゆうき (@yuukikikuchi) 2019年12月14日
3日目 pic.twitter.com/ukitGmmCTo
原作初期に典型的な構成で、オチのコマは集中線+ワニのアップになっています。ワニの行末や後のトーンを知らない当時の読者からすれば「いや、死ぬのはおまえだろ!」とツッコむ話であり、明らかにそうした反応を誘うようにできている。
これが映画ではどうなるか。ワニはかなりのオーバーアクション(滑り込んで抱きかかえる)でヒヨコを救助し、めちゃめちゃ心配そうにヒヨコに注意します。冗談事ではないんだぞ、というふうに。そして、そのあいだずっとカメラは引いた視点から動きません。アップも集中線もないのです。そう、死は冗談事ではないのです。
ひとりの生きた人間(ワニ)としてのワニを印象づけていくこと。それが本作のドグマです。たとえば、原作ではワニの両親は電話越しの声のみの存在で、姿は描かれませんでしたが、映画では後ろ姿だけとはいえ存在を実感できる人物として描く、ワニの実家での両親の生活風景まで映し出されます。
ワニはだれかの息子であり、だれかの友人であり、だれかの恋人だった。そんなひとの死をあなたは笑えるのですか?
ワニの死後について
映画オリジナルの展開となるワニ死後のストーリーはけっこう技巧的です。
友人たちの喪失感を生前のエピソードの反復となる場面を描くことで際立たせ*1*2、観客の哀感を盛り上げていく。
そして、そこに唐突にカエルというオリジナルキャラを投入してくる。
カエルは根本的に異質な存在として現れます。
まずひとりだけ喋りのノリが違う。
映画では原作独特のセリフの間が忠実に再現されています。はっきりいえば映画向きの間とはいえないのですが、それがカエルの登場で活きてくる。カエルはものすごい早口でテンション高めです。そんな彼が故ワニの友人たちの生活圏にことごとく乱入して、ワニの死によってさらに空白が大きくなった空間を音で埋めていく。まさに空気を壊す存在そのものです。
位置的にはワニのいたポジションにいるのに、空気感だけ全然違う。カエルはネズミたちに対しフレンドリーにグイグイくるのですが、ネズミたちはつい彼を遠ざけてしまいます。まるで「おまえはワニじゃない」とでもいうように。
さんざん拒絶されたあげく、カエルはこうぼやきます。
「なんか、オレ、ノリ違いますかね?」
このセリフで、制作側がかなり意図的にカエルを「空気を壊すキャラ」としてデザインしたことが示唆されます。というか、明示に近い。
しかし、ノリが違うからこそ可能なこともある。
原作由来のキャラは劇中でほぼ泣きません。デッドパンのコメディであること、それが原作のトーンだからです。
ところがカエルは号泣します。映画オリジナルのキャラだから泣けるのです。そして、泣くという行為がネズミのある感情を誘発します。
この点において、映画は原作を破壊しているといえます。
ですが、原作を破壊したからこそネズミたちに(原作のトーンのままだったらありなかったであろう)「喪」を与えられることもできたのです。
残されたキャラクターの感情の救済。少なくともそれは映画版にしかなしえなかった偉業です。
それをおもしろいと感じるかどうかは個人によるとしか、いえませんが。
観ないほうがよい人
本作を絶対に観ない方がいい人もいます。
仲良しグループの友人を亡くした経験がある人です。
本作は、主役だったキャラクターが途中で退場し、脇だったキャラがその喪失や戸惑いと向き合ってやがて折り合いをつけ前進していく、という構成をとっています。似たような構造の作品は近年だと『WAVES』がありましたね。
100ワニでは死んだワニの欠けた場所を埋める存在として、カエルが出てきます。カエルの存在は物語機構的には上記の通り、たいへんテクニカルで興味深い。
しかし、現実に移し替えるとちょっと問題が出てきます。
本作ではカエルにワニの行動を再演させたり、彼の後ろ姿を重ねたり、つまりワニのポジションを埋める存在として描いている。すくなくとも、ネズミはそのようにカエルを見ているフシがある。
ちょっとそれが……許容しがたい。
死んだ人間は生き返らないし、生きている人間は死んだ誰かの代わりではない。喪失とはそういうものではない。人間はパズルのピースではないのです。
しかし、どうも作中ではカエルはワニの代替以上の役割を帯びさせられていない。キャラクターそのものはけしてワニにはなりえないパーソナリティを背負わされているにもかかわらず。
もしかしたら、入口はワニの代わりだとしても、友人関係を継続していけばカエルはカエルとしての人格をグループ内で与えられるのかもしれない。まあ、自然にそうなっていくでしょう。
でも、映画ではそこまでは描いてくれはしない。
なので、最近友人を亡くした人は観ないほうがいいです。最後ちょっといやな気分になります。なりました。だいたいそんなところです。