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引用のためらい、パロディのあわい――岡田索雲『ようきなやつら』について

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(本記事は岡田索雲『ようきなやつら』のネタバレが含まれています。といいますか、すでに読んでいる読者向けに書かれていてネタバレすらすっとばしているところがあります。ご注意ください。)
(ネタバレなしの紹介としては↓でV林田氏がこれ以上ないものをやっているのでそれ読んで)
manba.co.jp


 歴史を書くとは、歴史を引用することである。
   ――ヴァルター・ベンヤミン



 岡田索雲の『ようきなやつら』は大小さまざまな引用とパロディから成っています。それらをいちいち指摘していくのはこの記事の目的とするところではありません。ぜんぶ拾うのはそりゃ無理だろうしね。
 興味があるのは、それらがどのようなやりかたで行われているかということです。
 というわけで、わかりやすくデカいところからはじめましょう。ここらへんはだいたい言わなくてもわかるでしょうからすこし冗長かもしれません。


「忍耐サトリくん」のパロディ

「サトリくん」は、人の心の声が聴こえてしまう(=妖怪のサトリ)であるがゆえに他人に関わることを拒んで殻に閉じこもってしまう高校生サトリくんと、その心をなんとか開こうと試みる担任教師の対話を描いた物語です。
 本編で大きなウェイトを占めているパロディ元はふたつ。冨樫義博の『幽☆遊☆白書』と、和山やまの『女の園の星』です。前者は主にサトリくんのほうに、後者は教師のほうに割り振られています。
幽☆遊☆白書』には、〈仙水編〉と呼ばれるチャプターで室田というボクサー志望の男が出てくる。この室田に「人の心の声が聴こえる」という特殊能力があるんですね*1。「妖怪サトリ」という題材と幽白はこうした明白な共通項によって結び付けられたわけです*2
 パロディにはメディアによってさまざまな仕方がありますが、「サトリくん」ではコマ割り、ポーズ、セリフなどで表現されます。

(「忍耐サトリくん」より)
(『幽☆遊☆白書』より)
(『幽☆遊☆白書』より、室田)
(「忍耐サトリくん」より)


 ここで重要になってくるのが直接的な参照先の室田ではなく、参照先のチャプターのラスボスである仙水の存在です。仙水は最初は人を守るために活動していたはずだったのが、人類の醜悪な側面を目撃して闇堕ち、人類に敵対するようになったという人物。『幽白』の主人公である浦飯幽助の「ありえたかもしれない」裏面ですね。
 この仙水が『幽白』において「人類の醜悪さを目撃」した瞬間こそ、上で引用した「うわあああああ!!!」のシーンなのですが、「サトリくん」においてもちゃんと文脈が踏まえられている。単に変顔をパロってウケるよね、という以上の効用があるわけです。
 のみならず、担任教師の心の声を聴いてサトリくんが頭を抱えるシーン(=『幽白』で室田が仙水の心の声を聴くシーン)では、担任のほうに仙水のキャラが分配されています。すなわち、闇が深い、恐ろしいパブリック・エネミーであるというキャラづけです。 
 このように、かならずしも一対一対応でなくとも使いでを拡張できるのがパロディによるストーリーテリングの美点ですね。


「サトリくん」の担任教師は言葉の上では生徒と真正面から向き合う良い先生なのです。が、秘された心の奥の奥のほうではすさまじい悪を宿しています。そうしたキャラクターである担任教師のキャラデザに『女の園の星』の星先生を採用したのは、またなんというか、絶妙なチョイスですね。*3

(『女の園の星』より)
(「忍耐サトリくん」より)


 ほかの学園・教師モノとひと味違った『女の園の星』における教師と生徒の独特な距離感が「サトリくん」においても効いています。外見と口調と空気感をいただいた感じで、キャラの中身としてはそこまで寄せていません。
 ただネタを持ってくるのではなく、繊細にパラメータを調節して物語に奉仕させるのは実は結構難しい。パロディは元ネタそのものにインパクトがあるものが多いですから、うまくしないとその重力に引っ張られて「作者のまんが」ではなくなってしまいます。『ようきなやつら』単行本あとがきによると、岡田索雲は明確に書きたいメッセージを込めるタイプの作家であるようですが、それでいてパロディという一種他人に身を委ねる技法を効果的に使えるのは驚くべきことです。これは引用にもいえます。
 パロディのパンチ力を活かしつつも、ネタ元の文脈をきちんと織り込み*4、作者の作品としての芯も通っている。バランス感覚において出色の一本です。

「猫欠」のオマージュ

 四篇目に収められている「猫欠」の語り口は作品集中でもほんのり特異です。
 引きこもりになった化け猫の話で出演者は全員ネコ。視点キャラクターであるネコの語りによって進んで行くわけですが、丸フキダシや四角フキダシで括られたナレーションのほかに、語り手の内心の吐露として枠のないセリフも出てきます。
 フキダシなしのセリフ・ナレーション・内語自体は他のまんが*5でもよく見られる表現ですが、本短編集の他の作品ではほとんど用いられていません。唯一の例外はさきほど取り上げた「忍耐サトリくん」の先生の「本心」描写でしょうか。これだってパロディを背景にした特殊な例であり、つまり、「フキダシなしセリフ・モノローグ」はこの作者本来のスタイルではない。*6
 では、この「フキダシなしセリフ・モノローグ」はどこからきたのか。『幽白』のときと違って明白な証拠があるわけではないので推測が混じるのですが、おそらくやまだ紫の短編集『性悪猫』だとおもわれます。

やまだ紫『性悪猫』。あなたがたに読んでほしくないレベルのウルトラ超傑作)。)

 
「猫欠」と『性悪猫』のスタイルはよく似ています。ネコたちがメインキャラであり、主として二匹のネコ同士の会話で物語が進むこと。ネコたちが人間のように考え、しゃべり、にもかかわらず作中で描かれるネコたちの姿態はまんが的にカリカチュアライズされたものでなくリアルなネコの日常的な動作を切り取ったようなものであること*7。独白がやわらかさ帯びた叙情的でどこかフェミニンなセリフ回しであること。「やさしい」というワード。そして、フキダシなしセリフ・モノローグと吹き出し会話が入り交じること。



(「猫欠」より)

(『性悪猫』より)

 
 一方で「サトリくん」と異なり、直接的なコマの引用・パロディはなされません。
 つまり、「猫欠」におけるオマージュ*8は語りのスタイルこそが重要なのです。
 やまだ紫は日常にある痛みや困難や喜びを人生という視野から詩的に拾い上げる作風*9で、『性悪猫』もそのうちなのですが、そういった要素にネコ同士の対話が絡んでくる。不可能を承知で、ひとことで言うとしたら「やさしさ」と「あたたかさ」*10*11のまんがです。おさまりのよい形に削れない心をそのままに抱え込む空気感を岡田索雲は「猫欠」に加えたかったのではないか――という気がします。*12完璧なトレース(インターネットであなたがたが使っているような意味ではない)に固執してようにおもわれないのも、あくまでテイスト程度に留めておきたかった計算があったのではないか。

(「猫欠」より)
(『性悪猫』より。このコマについてはパロディではなく偶然でないかと思う)


 そして、実は『性悪猫』的なスタイルは語り手となっているネコを通した世界観であることにも留意しておきたいです。
 というのも、化け猫を責めたりなだめたりするネコたちはあんまり『性悪猫』っぽくない*13やまだ紫的な包容力と広い(というか長い)視野を持ったネコは語り手だけであり、だからこそ化け猫を外へ連れ出すことができたのではないでしょうか。

「サトリくん」ではコマ単位での直截的なパロディを行いつつも、作品のテイストや空気感を作者のほうでコントロールすることでまとまりを出していたわけですが、「猫欠」ではテイストや空気感を作者の「外」に一度預けることでより作者のやりたいことを果たしたといえます。
 そう、パロディ・引用・オマージュは他者を取り込むことである部分を作者のコントロール下から切り離し、それによって作品の可能性を拡げるのです。
 そして、『ようきなやつら』ではより思い切った引用の試みがなされます。
「追燈」です。

「追燈」の引用

「追燈」は関東大震災直にみまわれた東京を、しゃべる提灯をぶらさげながらさまよい歩く少年の物語です。
 誰もが度肝を抜かれるのは終盤の十ページにもおよぶ引用文――関東大震災時の朝鮮人虐殺についての証言でしょう。
 黒地の背景に丸く切り抜かれた部分に引用文献(末尾に添えられた「引用文献」欄によると『【普及版】関東大震災 朝鮮人虐殺の記録――東京地区別1100の証言』、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』、『九月、東京の路上で』の三冊)から引いてきた当事者たちの肉声を並べ、その声がページを埋め尽くしていきます。

(「追燈」より)

 あとがきで触れられているように、本作が関東大震災朝鮮人虐殺を主題にした「初めての漫画」であることについて作者はかなり注意を払っていたようで、そういうものを「”妖怪もの”として描いてよいだろうかという葛藤」に悩まされて「今作に関しては妖怪の存在を極力、曖昧にして描きました」と述べています。
 もちろん、そのこまやかな慎重さが本作の語り口にまで及んでいることは改めて指摘するまでもないでしょう。
 というわけで、ここでは引用文パートの効用についてだけ考えます。
 引用とは前述したように、本来作者の主導下にある叙述を別の誰かへ一時的に明け渡すことです。そのことによってどのような効果、つまり読者にどういった印象を与えることができるのか。
 真実性です。


 歴史的事件を主題にした作品においては「これは真実を描いている」という印象(何度でも重ねて強調しておきたい部分ですが、あくまで”印象”です)が、読者にとって重要になってきます。特に本作は歴史のパロディとしての歴史フィクションなのではなく、歴史を伝えるための歴史フィクションなのですから。でなければ、「妖怪の存在を極力、曖昧にして描」く必要などありません。その誠実さゆえに作中でフィクションの領域とノンフィクションの領域を明確な線を引いた。*14
 引用は本来、没入感を阻害するものです。異物なのです。それまでの語りとまったく別の語りが挿入されて、読者はそこで立ち止まらざる得なくなる。フィクションであればそこで”現実”に一瞬立ち戻る。そこで展開されている文章もまた”現実”に属するものとして受け取られる。
 だから、事実を語りたいのであればその記述はある種の態度をまとっているほうがよい。
 たとえば、〈太陽王〉ルイ十四世の寵臣だったダンジョー侯フィリップ・ド・クルシヨンは三十六年間に渡って毎日日記をつけ、それは後に数多くの歴史書に引用される重要史料のひとつとなりました。ダンジョーの日記は「退屈な文体と洞察力の欠如」(嶋中博章)によって特徴づけられるとされ、歴史家のフランソワ・ブリュシュなどは「ダンジョ―には毎日書き、文学的効果をまったく狙っていないという唯一無二の価値がある」と評価しました。*15
 実際のダンジョ―の記述における客観性や信頼性はここでは措くとして、ブリュシュはいいことをいいました。「文学的効果をまったく狙っていない」ように見える、という態度はここでは信頼につながっています。裏返せば、”なめらか”で”巧い”文章には”嘘くささ”が、内実はどうあれ、つきまとう。
 ダンジョ―は歴史記述の話ですが、ことフィクションの表現にかぎるならばこう言い換えることもできるでしょう。「そのメディアにそぐわない記述は真実性(あるいはあらゆる意味においての”本物らしさ”)を担保しているように見える」。
 引用部は異質であればあるほど、つまづきがあればあるほど、読者に「響く」のです。


 もちろん圧倒的な物量、引用が十ページに渡っているという手法そのものも重要です。
 十ページに渡って作者自身の語りを手放したように見える*16のは大変なことです。なぜそこまで「自分」を投げ出せるのか、という畏怖。それもまた読者の印象に重みを与えます。*17
 そして、畏怖しているのはおそらく読者だけではない。なにより作者が死者たちの声を蘇らせることに対するおそれをアティテュードとして示しているのです。*18なんとなれば、作者はそのような引用の仕方をしなくとも関東大震災下における朝鮮人虐殺を描くことができます。実際、主人公が崩壊した東京をさまよう場面は多大なリサーチのもとに構築されているフシがあり、それこそ”なめらか”に”巧く”語っています。それでも最後には岡田索雲は十ページの引用を選んだ。自分のなかのためらいがある場合に、ためらっている事実自体をどう伝えるか、というのも創作者のアートのひとつだとおもいます。


 引用・パロディ・オマージュ。いずれも自分とは異なる外部を呼び出し、ともにならびたっていく技術です。*19その意図や目的や効用はときどきによって違いますが、その「ときどき」をこれからも考えていきたいですね。つかれた。おしまい。アッ、「川血」と岡田索雲の作家的テーマの話するの忘れたな。今度でいい? いいよね。さよなら、さよなら、さよなら。

*1:『幽白』における室田は数ページ程度しか出演しない上に本筋にさほどからまないチョイ役ですが、かなり印象に残る名物キャラのひとりです。錦ソクラの麻雀パロディの金字塔『3年B組一八先生』の幽白パロディ回でもこの室田が採用されています。心の声が聴こえるって汎用性ありますしね。『うしおととら』パロディ回ではサトリだったし

*2:わたしたちはもちろんここで佐藤マコトの『サトラレ』も思い出さねばならないわけですが

*3:アランが言うように、パロディには涜聖の喜びがあります。パロディ元が清浄で無垢であればあるほど”喜び”が増すのです

*4:ところで、こうした技術の巧拙をもってパロディを「リスペクトがある/ない」の判断をくだすやりかたは個人的には同意できません。表現は表現でしかなくて、それこそ作者の内心は誰にもわからないわけですから。オマージュのやりかたがそっけなくて下手くそでもその作品を愛している人はたくさんいるでしょう。

*5:たしか歴史的には少女まんがの文脈から発展してきたものと記憶していますが、間違ってるかも

*6:ちなみに岡田索雲は長編連載デビューである『鬼死ね』時点では四角フキダシでの内語表現をそれなりに使用していましたが、『アクション』へ移籍してからの長編第二作『マザリアン』のころからほぼ使用なくなりました。それはつまりモノローグが入らない方向性に作風が変化していていったことを示しています

*7:線も似せてきたのかと一瞬思いましたが、岡田索雲の過去作に出てきたネコとそんなに変わらない。

*8:オマージュとパロディの違いについて。パロディとは喜劇としての捉え直しによって世界の新たな側面を批評的に暴き出すもの、というバフチン的な定義を据えて、オマージュとはかならずしもそうした再機能を目的としないもの、ととりあえずおいてもよいのですが、まあ別に深く考えなくてもいいです。

*9:好きな作家だけれど、あんまり自分のなかでも確固たる作家像を把握できていない

*10:ふたことあるじゃん

*11:↑「不可能を承知で」っていったじゃん、だから。

*12:まあ、「違います。オマージュではありません」と言われたらそれまでで、その可能性は大いにある。普通の感想や批評と違ってオマージュを前提にしてアレコレいうのはそこが弱点。

*13:ここらへんは他のネコまんがのオマージュが混ざっているのかもしれないが、自分は浅学にして存じあげない。

*14:ベンヤミン的な文脈でいうならば「引用によって歴史を語るとは、神話的な物語を「逆なで」し、破局の犠牲になった者たちの記憶を、歴史主義的に物語られる因果の連鎖から解放して救い出すことである。そうして初めて、死者の一人ひとりが何を体験したかが言葉になる。歴史を書くとは、神話としての歴史に抗して、それが抹殺した死者と、この死者が巻き込まれた出来事をその名で呼び出し、死者の記憶を証言することである。」(『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』柿木伸之)

*15:嶋中博章「歴史記述における史料の引用――瀕死の太陽王をめぐるダンジョ―侯の証言」

*16:見えるというのは引用の取捨や配置という形で作者という権力は依然存在しているからでもあります

*17:当たり前ですが、長々とした引用が読者へ与える印象・効用というのはメディアや作品によって異なります。大田洋子の「屍の街」とかね

*18:「敬意」といってもよいのですが、前述の「リスペクト」と同様あまり使いたくないことばです

*19:フィリップ・ソレルスのように引用それ自体をケンカのための道具に使うひともおりますが


ゲームの夢、映画の魔――『IMMORTALITY』について

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(本記事は本ブログに珍しく、あまりネタバレが含まれていない。ちょっとはあります)




 君という光が私を見つける 真夜中に



 宇多田ヒカル「光」


(本編より)



視覚芸術分野において「見ることと見られることについての作品」というフレーズで評することは若干の気恥ずかしさを伴う。使い古された表現であるという以上に、映像の本性がそういうもので、いってみれば(特に映画は)すべてに見る見られる関係を見出せるからだ。論の起点としてはよいのだが、それだけではなにも射抜いてないにひとしい。


とはいえ、「これは見ることと見られることについての作品だ!」と騒ぎたくなる作品はある。そうしたテーマが意識されているものを立て続けに観ていると特に。わたしは最近『NOPE』を観た。『心霊マスターテープ EYE』を観た。『隣のお姉さんが好き』を読んだ。『ブロンド』を観た。『アフター・ヤン』を観た。どれもがそのようにあった。
いずれも映画であり、連続ドラマだ。ゲームではない。ゲームにはふつう「カメラ」があるから。ビデオゲームにおける原罪とは「操作することと操作されること」であり、メタ要素もその局面に顕れる。
つまりは、生命の存在を撮ってしまうことによる罪悪と、非生命に取ることで命を吹き込んでしまうことによる罪悪の違いだ。窃視か、創造か。あなたはどちらで罰せられたいのか。
ゲームがいかに映画を夢見て映画に近づき、映画的な演出が可能なほどのグラフィックと容量を持ち得たとしても、究極的には映画そのものになれない(というか、なる必要がない)理由もそこにある。*1
逆もまた然りだ。映画がどれほどプレイヤーとゲームとの密接な距離に嫉妬したとしても、ゲームにはなれない。

(『ブラック・ミラー:バンダスナッチ』より。朝食のシリアルも選べる)



Netflixの実写インタラクティブドラマ『バンダスナッチ*2は、映画を夢見たゲーム、あるいはゲームを夢見た映画としての失敗のよい見本だ。
ゲームブック的な選択を愚直なまでに貫いて、膨大な数の分岐すべてに映像を用意する。二億人を超えるネトフリの契約者たちがいまだに一人として見たことのない分岐もあるという。狂っている。しかしその狂気じみた物量がなければ、「映画でゲームをやる」夢は見られなかった。*3そして、その夢は現実にはならなかった。あなたがネトフリと契約しているなら実際に観てみるといい。失望が味わえる。それはゲームのできそこないであり、ドラマのできそこないだ。「コントロール」できることがゲームの醍醐味であるはずなのに、選択分岐式のフルモーションビデオゲームではプレイヤーにはあれかこれかという限定的な支配権しか与えられない。その感覚はゲームと映画に共通する美点である没入感を蒸散させる。しかし、歴史の一部を目撃できているのかもしれないという感覚を持てるという点では、体験に値する失望ではある。
実写FMVゲームの理想といえば、テキスト的な選択肢に限らないプレイヤー=キャラの行動や決断がゲームの筋に影響を与えていくような形だろうが、それは実写でなければすでにクアンティック・ドリーム社のデイヴィッド・ケージが『Detroit: Become Human』で完成しており、そして現在のシネマティック3Dゲームは実写に嫉妬しないでいられるほどには実在感を獲得できている。このまま技術が発展していけば、やがては実写と見紛うルックに達するかもしれない。そのとき、真にインタラクティブなFMVゲームが完成するだろう。そのころのわたしたちがそうした種のエンターテインメントを求めているかは別にして。
 

では、映画とゲームはその未来まで幸福な結婚を成就できないのか。
そのとおり、とわたしは答えていた。そもそも映画は映画によって語られるものであり、ゲームはゲームによって語られるものだ。交雑させる必要もない。そう考えていた。



そこに『IMMORTALITY』が現れた。


『IMMORTALITY』は『Her Story』や『Telling Lies』、そして『#WARGEMES 』*4などを制作したサム・バーロウの最新作*5である。
とだけいえば、インディーゲームファンならだいたいどういうゲームか想像できるだろう。わたしもできるならばあなたの知識と想像力にフリーライドして楽をしたいのだが、いちおうワールドワイドウェブは万人に開かれた公共空間であり、この記事もまた万人に開かれた文書であるので、いちおうゲームの概要を説明したい。


『IMMORTALITY』は200を超える実写の映像クリップから成る。三本の未公開映画(『アンブロシオ』*6、『ミンスキー』、『トゥー・オブ・エブリシング』)の撮影カットとそのリハーサルシーン、ホームビデオ、TV番組の録画映像などだ。プレイ開始時点ではほとんど映像クリップは表示されていない。プレイヤーは映像中に映されている人物やアイテムを選択すると、そこからハイパーテキスト的な要領で共通する要素を保つ別の映像へとジャンプすることができる。そうやって未発見のクリップを探し出していくわけだ。
三本の長編映画には共通してある女優が出演している。マリッサ・マーセルという名の人物だ。将来を嘱望されたスター候補だった彼女は三本の作品がそれぞれの理由で不幸なお蔵入りとなったのち、現在は行方知れずとなっている。プレイヤーの目的は失われたフィルムの再構成を通じて彼女の人生の物語を追うことだ。
ただし、本作には(サム・バーロウの過去二作同様)「正解」を示してくれる明快なエンディングもなければ、途中途中であなたの理解を確認してくれるような採点システムもない。選択肢だって一度も表示されない。
アイテムや人物をたどりながら、ただ映像を観ていくこと。それだけが本作におけるゲームプレイだ。あまりおもしろくなさそうに見えるでしょう?

(本編のメニューより)



どこまでを明かすべきか迷う。
あなたが「それ」に出逢う瞬間の驚き、歓び、そして怖れに一点の曇りもあってほしくない。本作は他のあらゆるゲームと同様に、なんの前情報も与えられずにプレイすべきだ。疑いなく人を選ぶゲームではある。しかし、選ばれなかったことすらも代えがたい経験にしてくれる作品というのはある。



そのものではなく、その影ををなぞっていこう。そうすることが本作にとってもふさわしいはずだから。


映画のメタ性についての話まで戻ろう。映画は「誰がこの映像を撮っている/見ているのか」という問いに行き着いた瞬間に虚構性を暴かれて立ちいかなくなる。だから、たいていの作品では作り手も観客もわざとそこを無視する相互的な了解を交わしているわけで、いってみれば甘い犯罪のようなものであり、そこをグダグダいうとるようでは一生映画なんて観られない。
『IMMORTALITY』の作者であるサム・バーロウは、やはり断片的な実写映像によるアドベンチャーを試みた過去二作品において「誰がこの映像(=画面)を見ているのか」について自覚的だった。
『Her Story』でも『Telling Lies』でも「誰」がそのビデオを観ているのかは作中で設定されていて、ときおりホラーのような演出で画面に「観ている顔」が反射する。
その顔はプレイヤーの顔ではない。なぜなら記録映像とその映像を観ることはプレイヤーの人生に関係ない。
バーロウ作品における映像の大半はプライベートなものだ。『IMMORTALITY』の核心をなす映画群ですらどれも未完成かお蔵入りの作品だ。
そうした映像を観る主体は匿名で大勢で交換可能なプレイヤーである「あなた」ではありえない。実際、『Her Story』や『Telling Lies』ではあなたと映像のあいだに第三者を媒介にしている。ところが『IMMORTALITY』ではその隔壁が取っ払われ、あなたと映像が直につながった作品となっている。まさしく、「あなた」がその画面を見ているのだ。物語レベルでそのような作りにするのはいかにも容易なことだけれど、ここで注目されるべきはジャンル的な安易なツイストではない。そのように語られるためにどんな道具立てが用意されたのかだ。


(本編より)


加藤幹郎の『映画館と観客の文化史』によると、80年代にVCR(ビデオ・カセット・レコーダー)の普及により、ノンリニアで反復的な能動的見方をすることが可能になり、「映画を見る」ことから「映画を読む」ことが(映画業界に直接関わらない個人でも)できるようになったという。ここからシーンにおけるコマ数の比較やコマ単位でのカットの変化などを分析する計量映画学*7が産み出されたわけだけれど*8、『IMMORTALITY』においてあなたはまさしくコマ送りやスローモーションや一時停止を駆使して映像を「観る」というより「読む」ことになる。
映画あるいは映画であることの定義は百家争鳴の有様*9だけれど、家庭用映像ソフト登場以前は時間的な不可逆性もおそらく要件の一つだった。
映画の時間は、映画の物語内部ではもちろんさまざまな時間操作が行われていたによせ、現実と同じ流れのなかにあった。その時間の流れはわたしたちには介入不可能で、不可触で、堅固だった。
見ているものしか見えない。それがかつての映画の特性だった。
レーザーディスクやビデオの普及によって巻き戻したり停止することが可能となり、どうなったか。
見えないものが見えるようになった。*10



それはたとえば、幽霊。



心霊映像の多くは一時停止と画像的な引き伸ばしによって霊の存在を指摘する。それらは、その映像をふつうに視聴していた場合には見逃してしまう細部として語られる。厚みを持った映像を薄い一枚の画像にスライスすることで、ようやくわたしたちは霊を視ることが可能になる。
かれらはどこから来たのか。
ベンヤミンは言う。スローモーションには既知の運動のなかに未知の要素を見いださせる機能がある。
そのベンヤミンの言う視覚的無意識を霊へと敷衍した木澤佐登志は言う。「霊がいるからビデオを撮影するのでない。逆である。ビデオを撮影するからそこに(不可避的に)霊が取り憑いてしまうのだ」*11


写真が誕生当初からオカルトやスピリチュアリズムの温床だったことをあなたはどこかで聞いた覚えがあるかもしれない。考えてみれば不思議なことで、ふつうなら現実をありのまま精確に切り取る写真に「ありのまま」以上の要素など見出せないはずだ。ところが初期の写真技術はむしろその精確さと錬金術めいた光化学プロセスゆえに人の眼には見えないもの*12まで”精確に”観測することができるものと期待された。*13
そして、心霊写真家が多数出現することとなる。

(ユジェーヌ・ティエボーの心霊写真。おっさんのオーバーなポーズが愛らしい)



当時のインチキ心霊写真では同じプレート*14で二度撮影する二重露光がよく用いられたという。二重露光(二重露出)は心霊写真の基本技術であり、ダゲレオタイプから百数十年経った時代の日本のホラー映像作品でも二重露出による幽霊表現が使われていた。*15そのことを述べた『ホラーの作法 ホラー映画の技術』で小中千昭は写真・映像のなかの霊についてクリティカルな指摘をしている。「霊魂の顔は、いずれもボケた感じがしている。ボケとは何か。レンズの焦点距離から外れた像だ」。


本来フォーカスしていない対象を過剰に視ること。それこそ映像のなかの霊に出会うための手段だ。映像の媒体も霊媒もどちらもメディウムと呼ばれる。そう、わたしは今『IMMORTALITY』の話をしている。サム・バーロウが本作において最も意識したと公言する*16二作品のひとつ、『CURE』*17の監督である黒沢清はこう言った。「「存在していること」が「見ること」によって保障され、同時に「見ること」の可能性が「存在そのもの」によって極限まで高められる、これが作る側と見る側とが共に経験する映画というプロセスなのではないでしょうか。そして、見るためには当然光が必要です。光があれば、突然反対側に闇ができます。これが映画というものです」。*18この言葉を額面通りに取るならば、『IMMMORTALITY』は映画だ。いかに内部の収められた三作品*19が映画としてぎこちなく、物語としてそそられないものであったとしても、態度においてそうある。

(本編より。クリップには台本の読み合わせやリハーサル、日常風景の場面も含まれている)



『IMMMORTALITY』において、あなたは観客でもあると同時に編集者でもある。あなたがプレイの過程において、クリップを再生したりコマ送りしたりする作業は「本来この映像の編集に使われいたと思われる機器」*20であるムヴィオラを再現したコンピュータソフトを通じて行われているという設定だ。ムヴィオラはアナログな編集機材で、70年代くらいまでハリウッドのスタジオではこの機械で編集作業を行っていた。*21
ゲームプレイにおいてあまりにも些末なこの設定は、しかし本作の本性に迫る上で重要な要素でもある。
あなたは編集作業を行っているのだ。三本の映画にもなっていない映画をランダムに行き来して、バラバラで空白だらけのクリップを頭のなかで補完し、その語りと物語をひとつらなりにつないでいく。自分だけの解釈を作っていく。それは『Her Story』や『Telling Lies』でも試みられてはいたが、映画というメディアを背景にした本作ではより核心的なものとなる。
映画以外のメディアで映画について語ろうとした作品はいくつかあり、なかにはスティーヴ・エリクソンの『ゼロヴィル』のような傑作も存在するのだが、しかし作品受容体験を映画そのものと一致させようとしたものはあっただろうか。映画自身でさえ、そんな芸当は不可能だった。それはクリエイションの体験を受け手と共有するには、フラグメンタルでノンリニアな語りだけでなく、能動的な再構成への挑戦も促さなければならないからで*22、(その受容形態の変化にも関わらず)受け手が直接に触れることを想定していない*23映画には『IMMORTALITY』のような語りは可能なようでいて不可能だ。*24



『IMMMORTALITY』は映画を夢見て実際に映画になっているのかもしれない。一方で、ゲームにしかできない仕方で映画を語ってもいる。唯一であることはかならずしもおもしろさを保証しないけれど、無二の達成をしていることはたしかだ。
見返される視線は一方的な権力関係の転覆と双方向性を表す。
そうした視線がふさわしいゲームは現状『IMMMORTALITY』以外には存在しない。



*1:そして、似たような理由でアニメーションは映画ではない。よく勘違いされがちだが、「映画ではあること」は優れたメディウムであることの証明ではない。

*2:精確にはドラマ・オムニバス・シリーズ『ブラック・ミラー』のスペシャル・エピソード

*3:ゲーム側からのアプローチ――フルモーションビデオゲーム作品で『バンダスナッチ』と似たようなADVをやろうとした作品はいくつかある。近年ではトビアス・ウェバー監督の『Late Shift』(2016年)、そのパブリッシャーだった Wales Interactive が Good Gate Media と組んだ『The Complex』(2020年)などの一連の作品群、日本では小高和剛の『デスカムトゥルー』などが知られる。興味深いことに『Night Trap』(1993年)などの黎明期のFMVゲーム作品はシンプルに選択肢によって分岐するインタラクティブ・ムービー的な形態をあまり取らなかった。「分岐する映画」を作るには容量と予算が足りず、パズルアドベンチャーにしたりポイントアンドクリック方式にしたりなどの工夫が求められたらからだろう。映画側からの「インタラクティブ」な物語分岐のアプローチとしてはまずギミック映画の巨匠ウィリアム・キャッスルの『Mr.Sardonicus』(1961年)が挙げられる。「二通りあるラストの結末が観客の投票によって選ばれる」という趣向だったが、現在では、実はキャッスルは「二通りのフィルム」など用意しておらず、ストーリーとナレーションによって観客を一意の投票行動に誘導していたとする説が有力(柳下毅一郎『興行師たちの映画史』)。そういうわけで、事実上のインタラクティブ・フィルム第一号はモントリオール万博のチェコスロバキア館で公開された『Kinoautomat』(1967)とされる。これは途中の九つの分岐ポイントで上映が中断され、司会が主人公の行動に関して観客に二者択一の投票を行わせて、それによって物語が分岐していくもの。万博でナンバーワンの人気を集め、そのアイデアに魅了されたハリウッドがメソッドの輸入を試みたがチェコスロバキア共産党によって阻まれたという伝説まである。選択分岐式実写FMVゲームの詳しい歴史については本記事の本題ではないので、またの機会に回す。またアニメーションによるFMVは巨匠ドン・ブルースによる『Dragon’s Lair』(1983年)からデイヴィッド・ケージ作品やDONTNODの『Life is Strange』シリーズ、スーパーマッシブゲームズの『Until Dawn』などに至るまでの長い別筋の歴史があるが、これも今は措く。

*4:日本ではほとんど知られていないが、映画『ウォーゲーム』を原作としてハッカー文化をフィーチャーしたインタラクティブウェブビデオ。無料で遊べる。https://eko.com/wargames-xboxcopy

*5:そして彼の開発会社である Half Mermaid のデビュー作

*6:マシュー・グレゴリー・ルイスの小説『マンク』 The Monk の脚色という設定

*7:シネメトリクス。アニメーションの場合は計量アニメーション学とも

*8:北村匡平『24フレームの映画学;映像表現を解体する』、加藤幹郎編『アニメーションの映画学』

*9:特に最近はネット配信がらみで「『複数人の観客がひとつの画面に視線を注ぐこと』を『映画』の要件に入れるかどうか」(たとえば、リュミエールこそ映画の始原と信じる人々はこの条件を「入れる」ほうの定義を取る)でビデオ時代以上にマニア的にも商業的にも論争が繰り広げられているのだけれど

*10:見ることは啓示であり奇跡であるけれど、読むことは祈りやまじないに近い。止まり留まり戻りを繰り返すことで行間から神秘の徴を掬い取る、あるいは幻視する。再読は精読のためではなく、誤読のためにこそ行われる。

*11:木澤佐登志「霊は細部に宿り給う、とでもいうのだろうかーー『ほんとにあった!呪いのビデオ』のクリティカル・ポイント」『霊障 vol.1』心霊ビデオ研究会

*12:たとえば、流体(fluid)。エーテルとか動物磁気などと呼ばれ、空気中や人体の周囲を取り巻いていると考えられていたそれらの物質を写真は捉えられるのではないか、そう考えられていた。

*13:『写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写』浜野志

*14:フィルムに相当

*15:もっといえば、映画はその誕生以前から幽霊を弄んでいた。十八世紀末のイリュージョニスト、エティエンヌ=ガスパール・ロベールが幻燈機を利用して行ったファンタスゴマリアと呼ばれる幽霊ショーがそれだ

*16:https://www.washingtonpost.com/video-games/2022/09/16/immortality-sam-barlow-interview/

*17:もうひとつは『インランド・エンパイア

*18:黒沢清、21世紀の映画を語る』

*19:小説家でもあるアメリア・グレイ(バーロウの前作である『#WARGAMES 』が『Mr.Robot』とからんでいるので、その関係もあっただろうか)、『ワイルド・アット・ハート』の原作者にして『ロスト・ハイウェイ』の脚本家であるバリー・ギフォード(『IMMORTALITY』に限らずバーロウ作品はデイヴィッド・リンチの影響が絶大)、バーロウが本作の影響元のひとつに挙げている『赤い影』の脚本家アラン・スコットの三人がそれぞれ脚本を担当している事実は非常に重要。

*20:ゲーム中のガイドより

*21:マイケル・カーンは05年に『ミュンヘン』でアカデミー賞最優秀編集賞にノミネートされたときまでムヴィオラを使用していたという。

*22:ミステリにおける「なぜ読者は読者への挑戦状を受け取らないのか?」という問題とも似ている

*23:触れ得ないことが映画の神聖さでもある

*24:そうしたものに接近した例としては本作でもリスペクトが捧げられているデイヴィッド・リンチがいて、というかリンチを観たせいでバーロウもこんなものを作ったのだとおもうのだけれど、観客はともかくリンチ自身は『IMMORTALITY』的な方向性に興味があるようには見えない

2022年の新作映画ベスト10とその他:第三期ピークTVの時代、あるいは犬の年

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前説

 2022年の映像作品を思い返すに『ピースメーカー』はよかったなーとか『鎌倉殿の十三人』は最高だったなーとか『アトランタ』S3はたのしかったなーとか『ブラックバード』はごつかったなーとか、どうも浮かぶのはドラマばかり*1で映画の記憶はうすいのですが、まあ、観てはいる。観てはいるんですが、「自分の映画」がありませんでした。
 これは自分としてはわりとショッキングなことで、というのも、2022年はポール・トーマス・アンダーソン(『リコリス・ピザ』)、ウェス・アンダーソン(『フレンチ・ディスパッチ』)、マイク・ミルズ(『カモン・カモン』)、ノア・バームバック(『ホワイト・ノイズ』)と、「自分の監督」だったはずの監督の新作がたてつづけに出たにもかかわらず、いずれも(悪くないんだけど)そんなに自分のなかでしっくりきませんでした。
 一方で、ジョーダン・ピール(『NOPE』)だとか原田眞人(『ヘルドッグス』)だとかマイケル・ベイ(『アンビュランス』)だとかギレルモ・デル・トロ(『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』、『ナイトメア・アリー』)だとかコゴナダ(『アフター・ヤン』)だとか、それまで「自分の監督」ではなかったひとたちのほうが「自分の映画」感のあるものを撮ってくれたような印象があります。

 年間ベストとは集計されるものと個人で出すものは見た目似ているようで目的はぜんぜん違うもので、集計されるものはどうしたって商業的なプロパガンダにしかならなくて、個人においては孤独な思想的なプロパガンダにしかなりません。
 どっちが良くてどっちがいいのか、というのは別になくて、強いていうのならどっちもわるい。価値をかかげることは領土を一方的に策定する行為であり、それははたからみれば侵略とよばれます。
 
 では、わたしの領土はどこにあるのか。
 本当に映画の未来を想うなら映画という枠組みをストーリーテリングや技術や興行といった側面からゆるがせにきている作品を選出すべきなのでしょう。それは『スパイダーマン:ノーウェイホーム』だったり、『トップガン:マーヴェリック』だったり、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』だったり、『SLAM DUNK THE FIRST』だったり。
 あるいは、なんというか、カイエ・デュ・シネマみたいな選びかたをすべきなのでしょう、しかしわたしは……などといけすかなさを遠ざけようとしてみたけれど、実際のカイエの2022年ベスト見たら日本公開作に関してはほぼほぼかぶっててやんなるね*2*3*4
 映画配信サイトのレコメンド機能なみに主体性や一貫性のないように見えるそんなわたしでも、いちおう評価基準はあるようで、ベストを並べるとその年の自分のテーマが浮き上がったりします。
 では、今年のわたしのテーマとはなにか。


 イヌです。


新作映画ベスト10

1.『戦争と女の顔』(カンテミール・バラーゴフ監督、ロシア)


 画面いっぱいにボルゾイの顔のドアップが映る。本年度のベストです。


 アレクシェーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を下敷きにしたという宣伝文句はともかく、まさしく顔の映画*5であったことはたしかで、常に誰がどういう表情をしているか、画面にふたつならんだ顔のどちらが前でどちらが後にきているか、というようなことばかりが問題にされる映画だった。一方で声(鳴き声)の映画でもあった。なぜこんなにイヌの声であふれているんだろうか。
 親友であるはずの女ふたりのあいだに流れる緊張感が終始ヤバくて、こういう不穏さのぶつかりあいみたいなものが観たいんだよな、とおもう。
 ラストのあれは『アンナ・カレーニナ』に対するアンチテーゼなのかな。

2.『アンビュランス』(マイケル・ベイ監督、アメリカ)

 銀行強盗に失敗した兄弟が救急車を盗んで走り出す。しかしその救急車にはいまにも死にそうな患者が乗っていて……というアホな設定の爆走映画。ドローンを駆使した意味のわからないショットがぎょうさん出てきてあいかわらずベイさんはきばりやすなあ、という感じなのですけれども、基本的にドラマが狭い救急車内で起こるというコンパクトさがちょうどよい。
 本作は長いのに一秒たりとも退屈な時間がない。精確にいえば、本来一時的な退屈は映画に必須の要素であるのだけれど、作る側に退屈にさせようという気がない。それは終盤のあるシーンによく現われている。高速道路を走行しつつも追い詰められつつある兄弟の片方が、スマホのイヤフォンで昔ふたりでよく聴いた懐メロ(曲は忘れた)をシェアする。ふたりしてノリノリで歌いだして思い出に浸るか……とおもわれたところでもうギレンホールが「こんな状況で落ち着けるか!」とキレて、イヤフォンをぶち切る。ノリツッコミである。振り返っている時間はない。映画は走り続けなければいけない。そして、ジェイク・ギレンホールはダウナー顔芸をやりつづけなければいけない。

 あとなんか特に意味もなく巨大なイヌが出てきます。

3.『ブラック・フォン』(スコット・デリクソン監督、アメリカ)

 連続少年監禁殺人魔のイーサン・ホークにある少年が捕まって、さあ、大変といった映画。
 ピタゴラスイッチ的な脱出ゲーム演出に、ある感情が乗る。その感情がねえ、感情なんですよ。地上で髪の毛ひとつ残さずに失われてしまった少年たちが地下で残したかすかな痕跡を拾い集めていく。そういう行為こそが鎮魂なのです。死んだものの拾われなかった声を拾うこと。その結実がセリフではなくアクションで見せられるのもたまらない。スコット・デリクソンはやはりマーベルにはもったいない才能だった。
 異世界(精確には過去)パートの映像表現もすき。

4.『NOPE』(ジョーダン・ピール監督、アメリカ)

 ジョーダン・ピールがいきなりおもしろくなってしまった。これまでのピールはいまいち弾けきれなくて、どこか生真面目すぎるというか、理屈っぽすぎるところがあった。それは社会派意識ゆえの性向ではなくむしろ逆で、自分のなかに抱えられた不定形の情念や経験を外の世界に出すにあたって形にしようとしたときに、そういう計算しか使えなかったからだろうとおもわれる。
 キレイすぎる自覚はあったのか、『アス』なんかでは割り切れない奇妙さをあえて出そうと苦心していたけれど、どうにもから回っていた。
 で、頭でっかちさでは『NOPE』もそんなに変わらない。むしろ今回は「映画史はおれが背負う!」みたいな気迫で望んでいるので史上最高にあたまでっかちかもしれない。でも確実にワンカット以上は画が理屈を超越する瞬間があった。
「スペクタクル」を謳うだけはある。柳下毅一郎の定義に従うのなら、映画は見世物であって、何を見せるかというと驚異を見せるのだ。その見世物根性を忘れないのなら、ピールはたしかにいつかは本物のスペクタクルを撮られるのかもしれない。

5.『ニトラム NITRAM』(ジャスティン・カーゼル監督、オーストラリア)

 ファーストショットがいいんですよね。(ロケ地は知ないがたぶん)タスマニア島のうつくしい夕焼けを背景にケイレブ・ランドリー・ジョーンズが花火をしている。隣近所からは「迷惑だからやめろ!」と罵声が飛んでくるんだけれど、ケイレブは委細構わず花火を燃やしつづける。これだけで「あっ、これは関わっちゃいけないむずかしい人を主人公にした映画なんだ」と一発でわかる。
 そんなむずかしい主人公が資産家の独身女性に拾われる。そう、拾われる。彼女はイヌをたくさん屋敷内に飼っていて、それで孤独を癒やしている。主人公もそうした「イヌ」の一匹だったのだけれど、主人公も彼女自身もそのことに気づかなかった。それが悲劇の種になってしまう。
 最終的に主人公がシンパシーを抱く相手はイヌだけになってしまい、彼は大量虐殺事件を起こす前に主を失ったイヌたちを解放する。このあと放たれたイヌたちが野良で生き延びられるかはともかく、ストーリー上はイヌを生かして人を殺すわけだ。
 今年の二大「イヌとしてのヒト」映画のひとつ。

6.『TITANE』(ジュリア・デクルノー監督、フランス)

 車とセックスして車の子供を孕む連続殺人鬼の話。アホな展開がたくさんあって子どものころに子ども会の運動会に参加したときにもらえる駄菓子の詰め合わせパックみたいなプリミティブなうれしさがある。

7.『アフター・ヤン』(コゴナダ監督、アメリカ)

 ふだんならコゴナダみたいな静謐でミニマルで落ち着いた小品です然とした映画をつくる監督なんてでえきらいで、実際『コロンバス』なんか退屈きわまりなかったのだけれど、ドラマの『パチンコ』から潮が変わってきた。踊るのだ。比喩ではなく、文字通りに。

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 最初にいい感じにキビキビ踊る人間の映像を見せると視聴者は脳をやられ、あとに続く映像もなんとなく信頼感をもって見守るようになる。これが2022年にコゴナダが開発したテクニックというか詐術で、『アフター・ヤン』でも、まず踊る。

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 このように人間の認知というのは信用がならない。
 ところで、本作もまた映画についての映画みたいな部分があって、要するに映画とは茶葉を煮出して作るお茶のようなものだみたいなノリがある。理屈と膏薬はどこにもくっつくなあ、とおもうと同時に、映画とは自分で作り上げてしまう理屈を超えられるかどうかだともおもう。本作に関しては超えられていたほう。

8.『リコリスピザ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督、アメリカ)

 カップルなようなそうでないような腐れ縁のふたりが愛し合いつつ傷つけ合いつつようやっとキスするまで描いたノスタルジックラブコメ
 ポール・トーマス・アンダーソンの映画はいつもイカれた二人の、外部からは理解できない関係を語る。そういうものを観られるだけでいい。

9.『ヘルドッグス』(原田眞人監督、日本)

 大竹しのぶが演じるマッサージ師があるヤクザ幹部の邸宅を訪問するシーンで、控えの間にいる若い衆たちがテーブルサッカー(サッカー選手に見立てた人形に棒を通した台でガチャガチャするアレ)に興じている姿がちょびっと映るのだけれど、妙にはしゃいでいる。酒の入っていない状態でテーブルサッカーにあそこまで熱中している大人の描写はほかの映画ではあんまり見ない。まあ、たぶんスマホとか携帯ゲーム機とかいじったら怒られる環境で、ろくに娯楽もなくて退屈なぶんをテーブルサッカーで発散しているのだろうけれど、にしてもテーブルサッカーだ。
 かれらもまたイヌなんだとおもった。本作は全編通して(人間に使われる存在としての)イヌの映画で、そういうイヌたちが地獄をめぐる。まさにタイトル通りにヘルドッグス。
 坂口健太郎演じる主人公(岡田将生)の弟分もイヌっぽい。冒頭のトレーニングシーンなんかイヌ同士で馴れ合っているようにしかみえない。
 そして、かなしいかな、この手の映画でイヌがヒトになろうとすると、破滅するのだ。
『二トラム』とならぶ今年の二大「イヌとしてのヒト」映画のひとつ。

10.『アポロ10 1/2:宇宙時代のアドベンチャー』(リチャード・リンクレイター監督、アメリカ)

 リチャード・リンクレイターは一生うそなんだかほんとなんだか曖昧なノスタルジーを垂れ流し続けてほしい。


他なんかよかったり言及したかったりする作品をてきとうに

アンネ・フランクと旅する日記』(アリ・フォルマン監督)
 現代のアムステルダムアンネ・フランク博物館に展示されていた日記からアンネ・フランクのイマジナリフレンドであるキティが抜け出し、いなくなったアンネ・フランクを探し求める。これだけで設定の大勝利みたいな話だけれど、ここからWWIIの時代と現代を接続する力技も見もの。

『さがす』(片山慎三監督)
 行方不明になった父親を中学生の少女が探すミステリ。さすがにあざとすぎるところがちょくちょくあるものの、おおむね力強い画に溢れている。

ギレルモ・デル・トロピノッキオ』(ギレルモ・デル・トロ監督)
 ゼメキスとディズニーが恥知らずな実写リメイクを垂れ流したのと同じ年に、デル・トロはまさしく2022年のピノッキオを再創造した。今年のアカデミー賞の長編アニメーション部門はこれでしょうね。

『不都合な理想の夫婦』(ショーン・ダーキン監督)
 見栄っ張りな夫のせいでひたすら夫婦仲が最悪になっていくだけの話がこんなにおもしろく観られるのは、監督の技倆の高さの証。

『スティルウォーター』(トム・マッカーシー監督)
 アメリカの父性がフランスで暴力に目覚めていく話。この出だしがこういう転がり方するのか、という驚きに満ちている。

『ミセス・ハリス、パリに行く』(アンソニー・ファビアン監督)
 ミセス・ハリスをハウスで目撃したディオールの従業員が舞台裏のモデルやお針子たちに「ねえねえ、すてきなご婦人が来たの!」と報せるシーンで泣いちゃった。みんなを幸せにしてくれる天使をだれが幸せにしてくれるのかという映画です。

ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』(ウィル・シャープ監督)
 退屈極まる前半のロマンス劇がすべて後半のカンバーバッチ虐めのための前フリであったことを悟った瞬間の戦慄。

『ザ・メニュー』(マーク・マイロッド監督)
 変則的なスプラッタホラーだとおもう。シェフの自宅が「この種の狂った人間」の描写としてピカイチ。

『カモンカモン』(マイク・ミルズ監督)
 前作ほどでないにしても、よかったよ。

『ハッチング 孵化』(ハンナ・ベルイホルム監督)
 やや図式的すぎるきらいはあるものの、クリーチャー造形が秀抜。


ブラックボックス 音声分析捜査』(ヤン・ゴズラン監督)
 強迫症的で有能な人物描写としてはコレ以上の映画は今年なかったのではないか。

『ナイトメア・アリー』(ギレルモ・デル・トロ監督)
 なんといってもラストのあの顔。ちいかわですね。

『タミー・フェイの瞳』(マイケル・ショウォルター監督)
 成功した詐欺師の話はいつでもおもしろい。自分を詐欺師とおもってなければさらにおもしろい。
 
『英雄の証明』(アスガー・ファルハディ監督)
 この件でファルハディが黒か白かは別にしても、これまでやってきたはわりとクロっぽいと思う。それはそれとして映画は抜群におもしろい。

ナイル殺人事件』(ケネス・ブラナー監督)
 ケネス・ブラナーの虚仮威しみたいな演出が好きで、これはやりすぎの域にまで達してくれた。ラストはポアロ読者なら大爆笑か大激怒のどっちかだとおもう。

『ウエストサイドストーリー』(スティーブン・スピルバーグ監督)
 もう何撮ってもおもしろいんだもん、このごろのスピルバーグ

『フレンチディスパッチ』(ウェス・アンダーソン監督)
 二回観られなかったので正式な評価をくだすのが不可能なのですが、そもそもびっくりミステリでもないのに二回観ないと評価できない映画をつくる監督のほうに問題があるのでは。

『家をめぐる三つの物語』
 ネトフリで年始に観たオムニバス。どれも家をめぐる嫌な話でとてもよかった。「あまり言及されてない22年のオススメ」を選ぶならこれかな。

シチリアを征服したクマ王国の物語』(ロレンツォ・マトッティ監督)
 原作からの語りの改変が絶妙。ほら話ってのはこうでなくちゃね。

『さかなのこ』(沖田修一監督)
 語られている以上にストレートな聖愚者の物語。

神々の山嶺』(パトリック・アンベール監督)
 原作ファンから不満があるのはわかるが、映画の尺におさめるなら理想に近いとおもう。特にあの実写版を観てしまった身からすると。ほんと。アニメ映画版に文句いってるヒトは実写版観てからにしてほしい。
 登山行の美しさと孤独を画面一発で提示でてきるのは大きい。

オートクチュール』(シルヴィ・オハヨン監督)
 お針子版巨人の星みたいな映画。そうでもないか。ちなみに『ミセス・ハリス』とおなじくディオールが舞台。フランス映画である本作とイギリス映画である『ミセス・ハリス』とで「オートクチュール」観の違いを見出すのも愉しい。
 ところでファッション業界が題材になってると点が甘くなりますね。しょうがないじゃん。だって即物的にきれいなもんが映ってるんだもん。

『帰らない日曜日』(エヴァ・ウッソン監督)
 観た直後は、鶴田謙二のまんがみたいなシーンがある映画だったなあ、ぐらいの感想だったけれど、日が経つにつれこういうリストに入れたくなってくる。

『ホワイト・ノイズ』(ノア・バームバック監督)
 原作からして映画向きじゃないのにどうすんだ?とおもってたらいつものバームバック映画に仕立てやがった。それでもアダム・ドライバーじゃないと成り立たなかったとおもう。それくらいアダム・ドライバーはえらいのだけれど、あまりにえらすぎて、最近はこういう使われかたしかされてない。いいのかな。

チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ』(アキヴァ・シェイファー監督)
 ディズニーのアイコンとしての「チップとデール」というよりは、『レスキューレンジャーズ』のチップとデールの話なので、その時点で一般の観客に混乱を引き起こす上にロンリー・アイランド映画でもあるのでグダグダになった腐れ縁友情ものの要素とバッドテイストなしょーもなギャグまであって、本当にいいのか、ディズニー? 
 それはとりあえず感動的なのはこれが『ロジャー・ラビット』の後継たるライブアクション×アニメーションのハリウッド舞台裏ものである、という事実。『ロジャー・ラビット』では実写と2Dセルアニメだけだったけれど、今回は3Dに加えて日本のアニメ風、サウスパーク、80年代風、パペット、90年代CGアニメ風、粘土ストップモーションなどなどの細かに異なるルックがすべてごたまぜになって世界にひとしく溶け込んでいて、それだけで奇跡を見ているようだった。
 ずっと『ロジャー・ラビット』をリバイバルしてくれ、とおもっていた自分には夢のような作品。こういうときにあらゆるIPを支配しているディズニーは強い。っていうか、ディズニー以外も出ている気がするのだが、どうやってんだか。あと、まあ、さすがにもっとちゃんと話をつくれよ、とはおもったけれど。

 そういえば、この映画でもチップがイヌを飼ってました。チップの家はリスサイズなので、仔犬でも相当みちみちなんですよね。あのみちみち感は『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』っぽかった。でかい犬好きな人は両作とも必見です。
 あとイヌ映画としては『ストレイ』とか『レスキュードッグ・ルビー』とかも相応に良かったです。


 イヌ映画といえば気になるのが最近のアニメにおけるイヌ描写。
 ディズニーの新作『ストレンジ・ワールド』では四肢が欠損して三本脚になってるイヌが出てくるんですが、それを観た数日後に鑑賞した『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』でも三本脚のイヌが出てきたんですよね。ふたつとも出てくる脈絡はわかる。前者はダイバーシティの称揚で、後者はWWI後の戦間期傷痍軍人のメタファー。しかし、三本脚のイヌって去年『竜とそばかすの姫』でも出てきたじゃないですか。
 ここまで同時多発的に続くとなんなんだって気持ちになりますよね。アニメ監督はそんなにイヌを脚をひっこぬきたいのか。『ヒックとドラゴン』を観てあたらしい性的欲求でも掘り起こされたのか。アニメなんでなにやっても自由だとはおもいますけれど、架空のイヌの脚を抜く前に、それってほんとにイヌでやる必要がある? 人間でよくない? と自らに問いかけるべきだとおもいます。

 
 ところで、これはわたしが交配によって生み出した五本脚のイヌです。



 かわいいね。



〜おしまい〜

store.steampowered.com

*1:それだって観たかったのの半分も観られていない

*2:『パシフィクション』は映画祭限定上映なのでカウントしてない

*3:『偶然と想像』は昨年のベストリストに入れてる

*4:だから実質かぶってないのは『イントロダクション』くらい。逆に一本も観てないホン・サンスに興味湧いてきた

*5:ちなみに原題は「のっぽさん」みたいな意味で顔とは言っていない

2022年の新作まんがベスト10

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 今日まだ誰も言ってないかもだから言っておくね、「きみはスペシャル」
 きみはまだ信じてないかもだから言っておくね、「きみはスペシャル」
   
 ーーLizzo「Special」




 
 2022年はまんがにとってなんの年だったか。これは一言で定義できます。
 お嬢さままんがの年です。『クロシオカレント』、『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』、『エセお嬢様VSガチお嬢様』、『徳川おてんば姫』、それらの新刊お嬢さま勢で最高のお嬢さままんがの座に輝いたのがーー。

【新作連載まんがベスト10】*1

1.天野実樹『ことり文書』(ハルタコミックス)

 良家のお嬢さまである鳳小鳥は、「深窓の令嬢」タイプとはほど遠い、アクティブで快活で天真爛漫な十三歳。執事兼教育係である白石はさまざまな騒動を引き起こす小鳥のおてんばに手をやきつつも、その成長を見守っていく……という典型的なハルタの日常系まんが。

 この世には純粋無垢な善き魂が存在し、わたしたちはなにに代えてもそれを守り抜かねばいかない。そうしないと、この世界が信じるに値しない地獄になってしまうから。
 これはそうしたまんがです。昨年の映画でいえば、沖田修一監督のさかなクン伝記映画『さかなのこ』のマインドに近いかもしれません。人の形をした世界の魂を、周囲のひとびとが傷つかぬように寄り添おうと頑張っていく話。とはいえ、あそこまでヘンテコなまんがでなく、ガワとしてはかわいらしい日常コメディです。
 表情が抜群にいいですね。小鳥は喜怒哀楽がはっきりしていて、泣いたり笑ったりコロコロ感情が変わっていきます。全体的に画風は「いかにもハルタ*2」ですが、小鳥のデザインは目がはっきり大きく、ときどき口が「3」になったりなんかもして、もともと少女まんがの影響の濃いハルタ系でもさらに九十年代に寄った印象があります。それでいて表情の動かし方は今風に洗練されていて、もうこういうの見るだけでうれしいですね。泣き顔の巧いまんがはそれだけでベストなんですよ。
 そうしたデフォルメの利いた、どこか懐かしい小鳥のデザインが、前述した「人の形をした純粋無垢な世界の魂」っぽさとつながっていて、そういうものがやさしく環境にくるまれているだけで涙が出てきます。

2.山口貴由『劇光仮面』(ビッグコミックススペシャル)

 帝都工業大学特撮美術研究会、通称特美研。特撮番組や映画の着ぐるみやミニチュアといった美術を扱う研究会だ。その部長だった切通昌則が29歳で死んだ。彼を弔うために元特美研メンバーたち、実相寺、真理、芹沢、中野の四人は実相寺の自宅マンションに集う。切通のある「遺言」を果たすために……という出だしから始まる物語。

衛府の七忍』という若先生ワールドの総決算的大傑作がああいう形で終わってしまい、日々灰色に嘆き暮らしていた我々のもとに届いた一冊の新刊。一抹の不安を抱きながらも読みだすと、それまでの涙はたちどころにピタリと止まり、新たな傑作の誕生を予感します。
 しかし、同時に沸いてくる感情がありました。その感情はやがて素朴なファンボーイ的歓びやひねた批評的アングルなどといった他の情動を覆い尽くしていき、全身を純一に染めあげていきます。
 恐怖です。
 畏れといってもいいかもしれない。
 だって、この不穏さはただごとではない。
 一見すると、なにも凶事は起きていません。一巻では切通の遺言を果たすためのある儀式と、大学時代の回想が交互に語られるだけです。そこでは誰も死なないし、爆発やバイオレンスも起きない。どこに話が転がるかも見当がつかない。
 しかしそれでも肌が感じ取っている。不可視の奥底で、確実にとんでもない何かが進行している。
 その不穏さの源となっているのが、実相寺二矢という主人公です。
 まあ名付けからしてとんでもない。「実相寺」という名字なのはハハア特撮ネタだしね、と特に驚きもないのですが、その名字につなげてくるのが「二矢(おとや)」。そう、浅沼稲次郎暗殺事件を起こした右翼少年、山口二矢です。この二つの名をつなげる時点で相当イカれている。
 実際、劇中の実相寺は人並から外れた静かな異常者として描かれます。ねじまがっているタイプの異常者ではなくて、あまりにもまっすぐすぎるタイプの異常者です。脂肪どころか筋肉すらも削るほど肉体を研ぎ澄まし、元特攻隊の老人から「きみはいつの時代の人間なんだ」とビビられ、「人間機雷(特攻兵)に選抜されるのはきみのような人間だ」と評される。そしてその心性を保ったまま29歳の現在まで生きている*3
 この特撮オタク版藤木源之助みたいな少年に山口貴由は何を託そうとしているのか?
 劇中で在りし日の切通の口や実相寺のモノローグを通じて、延々と語られる特撮美術論はなんのためのものなのか?
 静謐で強大な圧に押しつぶされそうになりながらもようよう二巻の終わりまで読み進めて、ようやくわかります。
 すべては「この世界」を信じさせるための儀式だったのだと。「特撮」や「ヒーロー」を子供だましの空想とバカにしている圧倒的大多数の読者の眼を開くための500ページだったのだと。
「『衛府』という山口貴由の本気の傑作が終わってしまった」? とんでもない。
 この先生はいつでも全身全霊で本気です。

3.冬虫カイコ『みなそこにて』(webアクションコミックス)

 悲劇的な人魚伝説の伝わる、とある田舎の町。その町にいる祖母の家に預けられた少女、一花は千年(ちとせ)というミステリアスな雰囲気の少女に出会う。最初は不在の母親を待望し、早く町から出たいと願う一花だったが……という連作短編形式の伝奇群像劇。

 冬虫カイコをお読みでない? なにも失ったことがないならそれでいいけど(by 円城塔
『みなそこにて』の基調はクソ田舎伝奇ホラーです。閉塞感のあるクソ田舎におのおの鬱屈した思いを抱えている女性たちがいて、そこに絡め取られてしまう彼女たちの絶望が描かれます。
 冬虫カイコの天賦のひとつは、その絶望とあきらめの瞬間のエグいまでのうまさ。これは第一短編集である『君のくれるまずい飴』(2019年)から磨き上げられており、今回は題材と資質が異様なまでにマッチしています。
 さらに驚愕させられるのが、千年の異質さの描写です。千年の見た目は金髪で眼が爛々としていて歯がちょっととんがっていて、山に囲まれたクソ田舎にいる女の子としては浮世離れしているものの、おおむね人間の形をしています。いきなり別の異形になったりはしません。行動もかなり突飛ではありますが、魔法を使ったり人を殺して腸をひきずりだしたりはしません。
 しかし、この女は確実に異質な存在なのです。ストーリーやセリフでそう説明されているのもあるでしょうが、まずなにより、読んでいるときの肌感覚としてそう感知される。
 その感覚を成り立たせているのはまんがとしての演出です。ありとあらゆる表現技法が千年にはつぎこまれています。彼女の登場するコマにはかならずといっていいほど、時にささやかであるほどに「他とは違う」何かが含まれているのです。
 こうした技巧は三年前の短編集ではあまり目立たなかったように思われますが、この『みなそこにて』と、もうひとつ22年に出た本である第二短編集『回顧』ではほとばしっています。
 あるいは志村貴子に近づくかもしれない群像劇のストーリーテリング含め、見逃してはならない才能です。
 

4.とよ田みのる『これ描いて死ね』(ゲッサン少年サンデーコミックス

 離島の伊豆王島に住む高校生、安海相は『ロボ太とポコ太』という一巻で打ち切られたまんがの熱烈な愛読者。授業中にも隠れて読み返すありさまで、まんがに否定的な担任の手島先生からたびたび注意を受けていた。
 そんなある日、安海が作家休業状態の☆野のツイッターをチェックしていると、ひさびさに更新が。なんとコミティアで『ロボ太とポコ太』の新作を発表するという告知だった。安海は120キロ隔たった東京へ渡り、コミティアで☆野のブースへと向かう。そこに座って居たのはなんと担任教師の手島だった……という出会いから始まるまんが創作賛歌。

 とよ田みのるってどっちかっていうと苦手だったんですよね。いや、いいまんがを描くとおもいますよ。『FLIP-FLAP』とか。でもなんというか……なんだろうな、ノリが合わないっていうか……わたしの棚には入らない。そういう認識でした。
 ところが『これ描いて死ね』はバチバチに刺さった。創作を描いたまんがだから? 主人公がコミティアに初めて同人誌を出して、一冊も売れない苦渋を味わうから? そういう部分もあるでしょう。
 しかし一番の理由は、この世界が美しくてワクワクするものだと謳ってくれているからです。熱情をもって切り開けばだれにとってもそうなると教えてくれるからです。
 それはこれまでのとよ田まんがでも一貫して訴えられてきたメッセージでした。しかし、まんがをまんがによって表現する本作においてはよりピュアに研ぎ澄まされているのだと思います。


5.なか憲人『とくにある日々』(ヒーローズコミックス わいるど)

 なかよし二人組の椎木しい(しいちゃん)と高島黄緑(きみ)は高校に入学したての一年生。学園生活に期待を膨らませ、さまざまな奇行に走る。部活の新歓で、廃部となったお嬢様部の先輩たちから部室を譲り受けてもらった二人は新しい部活を創設しようとする……という学園ギャグまんが。
 
「犬のかがやき」のペンネームでツイッターまんが界を制覇した(ツイッターのほうのまんがも『犬のかがやき日記』として去年まとまった)なか憲人がわりと普通の尺の連載まんがでも天才を証明した一作。ツイッターと他の媒体でがらりと作風の変わる人は、特にエッセイの体裁で描いてる人(エッセイじゃないんだが)には多いのですが、この人に関しては、ツイッターのオフビートでウィアードなテイストをうまく活かして長篇にも馴染ませている印象です。
 基本的には日常の出来事や物事をその延長線上でズラシたりやや通常と違った角度で眺めつつ、空想を転がしていき、気がついたらヘンテコな景色まで連れてってくれる系のまんが*4で、そこに奇人や奇妙めの空間がブレンドされていきます。これだけで十二分におもしろいのですが、特筆すべきはそのタッチ。
 超絶エモーショナルなんですよね。カラーの塗りが。
 展開される話やセリフはほんとうにしょーもない馬鹿話なのに、同時に懐かしさと切なさが視覚を伝って脳に届く。
 ほんとうに楽しかった青春は劇的でもなんでもない日常、というのはよく聞く話ですが、それを表現レベルで演出しているのは発明です。あらかじめ失われることが予感されている青春の一コマが、文字どおりの意味でそこにあります。

6.躯咲マドロミ『カラフルグレー』(MeDu Comics)

 グランギニョル城に棲まう不死身の令嬢イリスは、行き過ぎた人体実験の罪で帝国軍に討伐された父である〈死神卿〉タナトスを復活させるべく、帝国軍兵士たちに移植された父の身体のパーツを集めようと首無メイドのメアリーとともに戦ったり怠けたりしながら広大な城内を大冒険。三ヶ月以内にタナトスを復活させないと、管理者のいない魔導融合炉が暴走して世界に破局がおとずれるらしいのだが……というスラップスティック・ダークファンタジー・ギャグまんが。
 
 線も身体もか細いキャラクターたちがややもするとアクションに不向きなように見えるけれど、これがまあよく動きます。合わない絵柄で無理に別のまんががやるようなアクションを描くのではなく、この絵柄に相応な、時間を止めた見せゴマをつくっていくかんじ*5。コマやページごとの間の緊張と緩和も絶妙で、特に一巻57-58ページはキャラの表情を含めたすべての流れが「停まっているのに動いている」というかなりすごいことをやっている。
キャラの性格もいいですよね。みんな自分勝手で蓮っ葉。その抜けの良さが死生観にもあって、世界観とつながっている。ダークでありつつもカラっとしていて、滅びつつあるけれどもペシミスティックではない。
 あんまり長続きしそうな感触ではありませんが、こういうのがあるおかげでクソみてえな現実が明るく照らされるんですよ。

7.雁須磨子『ややこしい蜜柑たち』(FEEL COMICS swing)

 デザイン事務所にアルバイトとして勤める浜里清見は、昔からの友人である瀬戸初夏から彼女の新恋人である白柳結を紹介される。初夏は(けっこう短期間に)彼氏が変わるたびに清見に引き合わせて紹介するという奇妙な習慣があった。
 清見は初夏に薦められて、なぜか結とふたりきりででかけることになる。それをきっかけに結に興味を抱いた清見は隠れて結と会うようになる。最初は初夏という不可解な女を共通の話題に語りあう飲み仲間のようなものだったが、ある夜、うっかりホテルで姦通してしまう。
 朝起きて後悔に襲われる清見。結は「初夏と別れて清見とちゃんと付き合う」と申し出るが、清見は「それだけは絶対やめろ」と止める。自分の犯したあやまちに混乱する清見だったが、唐突に初夏に呼びだされると事態はおもわぬ方向に……。

 という序盤の筋だけ紹介すると、よくある三角関係恋愛ものなのかな、とおもうじゃないですか。ぜんっぜん普通じゃないんですよね。どころか相当異常な話です。
 まず主人公の清見がかなりヘン。顔立ちもパリッとしていて傍から見た言動も比較的まともで、一見常識人っぽい。ところが、初夏が絡んでくると静か狂っていく。
 たとえば、清見にも同棲している彼氏がいるのですが、自分は初夏から毎回彼氏を紹介されているのに自分の彼氏のことは「初夏にバレるのがいや」だから言わない。結とうっかり寝てしまったときも、「初夏と別れる」と言い出した彼を止める理由が「こんなことが初夏にバレたら私はあなたに何をするかわからない」から。
 総合すると清見は初夏のことが好きっぽいんですが、好意の回路がかなり奇妙な配線になっているといいますか、なんかもう素直な意味で好きなのかどうかすらわからない。
 対する初夏も裏表のない陽キャのようでいて、清見視点ではブラックボックス的に描かれて、絶妙な間合いとふるまいで清見を振り回してくる。
 そして、このふたりのあいだに挟まる犠牲者となるのがシロくんこと結。清見と初夏よりは年下で、初登場時は大学生なのですが、まあまっとうで素朴な人間です。この純朴な青年が、そのまっとうさゆえに、竜巻のようなふたりの関係に巻きこまれると心身ともにズタボロにされていく。一巻の後半は清見中心の視点から彼中心の視点に切り替わるんですが、この彼から見ると、前半部分でもある程度客観的にヘンな人間として描かれていた清見のキャラがいよいよホラー性を帯びていく。
 これらのかぎりなくめんどくさい三者間の関係の見せ方がモチーフ使い含めて非常に巧く語られて、読者の心を終始かき乱してくれます。
 いまさら雁須磨子はよいなんて褒めるほど陳腐なことはありませんが、陳腐の誹りをこうむってでも褒めたい魅力が『ややこしい蜜柑たち』にはあります。
 

8.トマトスープ『天幕のジャードゥーガル』(ボニータ・コミックス)

 十三世紀、モンゴル帝国が大陸を席巻していた時代。少女シタラはイラン東部の都市トゥースである一家に奴隷として仕えていた。しかしあるときモンゴル軍が侵攻してきて、トゥースの街を蹂躙、シタラの敬愛する女主人もシタラをかばって殺されてしまう。すべてを失ってモンゴル軍の捕虜となったシタラに残された希望は、ある決意を胸に時代の荒波に立ち向かっていく……というお話。

 かつて『ダンピアのおいしい冒険』で話題になったときはなるほど~とおもって一巻だけ読んでそのあと購読していなかったトマトスープ先生でしたが、2022年になって『ジャードゥーガル』を読んでびっくらこいた。山本ルンルンと藤子Fをミックスしたような平面的でデフォルメの利いた絵柄がより線の洗練され記号的な印象を強めており、にもかかわらず奥行きがバチバチにきいている。
 二次元的であるはずの絵が三次元的に展開されているのです。アホみたいに足りない言い方ですが、なんだこの感覚は? 脳がハックされている気がする。無類すぎる。
 チンギス・カンの息子たちの顔立ちが「幼い」のもある種踏みにじる側にあるポジションの人間の描写として絶妙ですよね。
 話もフツーにおもしろい。踏みにじられる側と踏みにじる側との断絶を描き出してそれがドラマとしてもキャラクター描写としても機能しているし、全体としても歴史物としての広い視野がある。

9.黒崎冬子『平家物語夜異聞』(ビームコミックス)

 現代。家庭的な少年・夜とエキセントリックな少女・沙羅は16歳。互いを思いやる仲良しのおさななじみだったが、ある夜、平清盛の呪術?によって夜は平氏全盛期の平安時代へタイムスリップ。そこで彼は平清盛から「平徳子」すなわち清盛の娘として高倉天皇に入内せよという無茶ぶりをされる。個性的な平家の面々にふりまわされながらも自分の居場所を見いだしていく夜だったが、沙羅も同じ時代に来ているとわかって……という歴史ギャグもの。
『無敵の未来大作戦』で勇躍ビームコミックスの星に成り上がった黒崎冬子が次に選んだのは源平物でタイムスリップ。源平パロディにしろタイムスリップ歴史ものにしろ、さんざん擦られたネタじゃない? 大丈夫? という心配もこの作家には杞憂でした。まあめっぽうおもしろい。
平徳子を男子高校生にする」というアイデアからしてつじつまを合わせるのが大変だろうに、一コマごとにネコとネタが横溢するスラプスティックな黒崎節をあいかわらずぶん回し、読者をギリギリ置いてけぼりにするかしないかの速度で、しかし奇跡的にバランスが取れている。相当程度むちゃくちゃをやりながらも筋は存外原典の『平家物語』に忠実。徳子視点なのも相まって山田尚子版『平家物語』を彷彿とさせます。後白河法皇がマゾヒストとして描かれているところなんか、ギャグなんですが、あのあたりの時代見てるとあの人そうとしか解釈できんよなってのも超わかる。
 夜と沙羅の関係も、「家族」という軸から割とシリアスに切り込んでいて、マアーマジなシーンもマジでうまい。
 割と展開は早足気味なので、四巻くらいに収まるでしょうか。

 

10.藤近小梅『隣のお姉さんが好き』(ヤングチャンピオン・コミックス)

 中学生男子のターくんは隣に住む幼なじみの高校生、心愛(しあ)さんに恋をしている。映画マニアの心愛さんと距離を詰めるべくターくんは毎週水曜日に心愛さんの家でいっしょに映画を見る約束を交わすが、心愛さんのガードは果てしなく固く……というラブコメ

 本作がいかなるまんがか、あるいは藤近小梅がどういう漫画家であるかは、『隣のお姉さんが好き』単行本第一巻の表紙カバーとその表紙をめくってすぐの扉の絵を見れば一発でわかります。
 まず表紙は棒立ちになっている心愛さんが微笑みを浮かべて正面を向いている絵。それが電子版では二ページ先の扉では、まったく同じ構図と背景なのに、心愛さんが真横を向いてあさっての方向を見つめている。
 そう、これは視線についてのまんがです。
 並行で連載されている『好きな子がめがねを忘れた』ですでに十二分に証明されていることではありますが、藤近小梅はもっとも視線の扱いに敏感な漫画家のひとりです。常に視線の重なりとすれ違いが問題にされ、もうオブセッションの域に達しているといってもいい。
 そんな藤近小梅が映画を題材にラブコメを描くという*6。事件にならないはずがありません。
 一話目から全力でターくんが「見る側の人」であることが描写されています。この作品世界においては、見るということは愛するということです。しかし見られている側の心愛さんの視線はターくんとは重ならない。映画をふたりで鑑賞しているとき、ターくんは心愛さんの顔しか観ていないのに、心愛さんの視線は画面に注がれている。このとき、ターくんは心愛さんの横顔を眺めていることになります。その横顔に、ターくんは(一話目から!)告白するのです。「好きです」と。
 心愛さんは視線を画面から外さず、「この映画? よかったー気に入ってもらえて」といなします。
 追う視線と追われてそれを回避する視線、このふたつが水平に交わる瞬間はあるのかどうか。それだけでたまらないサスペンスが生じています。
 のみならず、視線の一方性と暴力性を自覚的にかつわざとらしくなく描きだし、「ただ見るだけでは愛することにはならない」とつきつけているところなんかはジョーダン・ピールの『NOPE』にも比肩する先鋭さがあります。
 藤近小梅は今もっとも映画的な漫画家です。それは映画を題材に扱っているからでも、映画ネタをこするからでも、映画のようなネームを描けるからでもありません。人間の眼について突き詰める態度が映画と一致しているからなのです。

ベスト10に入れるかどうかギリギリまで迷った枠

阿賀沢紅茶『正反対な君と僕』(ジャンプコミックス

 ギャルな見た目の高校生・鈴木は隣の席に谷くんにぞっこん。いろいろ考え過ぎな性分である鈴木はクールで孤高な谷くんの態度にやきもきしていたが、あるとき思い切って告白すると、受け容れてもらえることに。不器用なふたりの恋の行方は……という群像青春恋愛劇。
 端的にいってしまうとポスト『スキップとローファー』。主人公カップルの恋模様を軸に、他のまんがだとモブとして一面的に処理されがちなタイプの周囲の人々(スクールカースト的な規範が強く内面化されている)までひとりの人間として繊細に描き出していく。
 基本的には根っからの悪人や無神経な人間はいなくて、一見そう見える人でも内面ではいろいろいっぱいいっぱいに悩んでいたりする。日本の学生生活に「あるある」なコミュニケーションの難しさを用いるのがポイント。
 ……とまあ、そう括ってしまうとなんだか簡単そうですが、実際ちゃんと見せられるものに作るのウルトラ大変だとおもいます。マジで。成立しているだけでも奇跡。
 主人公たちに悩みは多いわけですが、基本的には独り相撲で読んでてあんまりイヤな気分にはならない。
 こういう作品(絵柄含めて)がいちおう少年漫画誌の看板を背負っているジャンプラから出ている事実は、公共的にも善きことだとおもいます。これが新人だっていうんだから、びっくりですよ


相馬康平、日下氏『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』(まんがタイムKRコミックス)

 三船桔香はアニメで観た悪役令嬢に憧れる小学五年生。ある日、悪役令嬢デビューをしようと傲慢お嬢さまムーブをとるのだが(実際に家は金持ちだったりする)、もちろんクラスメイトは誰も合わせてくれない。完全に孤立して夢を阻まれた桔香だったが挫けない。クール陰キャの絃(イト)、イヌになりたい願望を持つ女・繋(ツナギ)、ごく真面目な学級委員長の葵(アオイ)といった危険な変人たちをしもべにすることに成功し、誇り高き悪役令嬢坂を登り始める……という四コマギャグ。

 カツヲ先生が『三ツ星カラーズ』をてじまいしに、セクシーゾンビものを描き出した2022年、われわれの愛したクソガキまんが(命名:ななめの氏)は永遠に失われてしまったのかーー答えはノーです。まだ火は絶えておりません。
 『三ツ星カラーズ』や涼川りん『りとるけいおす』といった作品を代表とするクソガキまんがの良いところは、そこにあるつながりのうつくしさです。人間、思春期に入ると他者にも気持ちがあるんだということに気づき始め、その気持ちを慮ったり先取りしすぎたりなんかしてドギマギしていき、それがおもしろいラブコメなんかになったりするわけですが、小学生の世界にはそんな繊細な気遣いなど一切存在しません。自分の利益と欲望しか勘定せず、友だちといてもただ自分のやりたいことだけを破壊的に貫く。そして、やりたいことはひとりひとり当然異なるわけで、傍から見るとグループ内ですれちがっているように見える。
 それなのにグループ内ではなぜかコミュニケーションが成立しており、たがいのことを友人だとおもっており、つねにいっしょに行動している。なにより、かれら自身がかれら自身と妥協なく在る。そうしたウィズネスの奇跡がもっとも純粋な形で顕れるのが、自由な小学生のピアグループを描くクソガキまんがなのです*7。分断が極に達しつつあるこの世界で、今もっとも必要とされているジャンルといえるでしょう。
 外殻の話が長くなりました。でも、ながながいっといてなんですが、『桔香ちゃん~』は厳密な意味でのクソガキまんがとは少し違う。どちらかといえば、最近のきららで受けてるメインストリームである方向に近いかな。スイッチが入ると、つい……ごめんね。
 まあしかし、クソガキまんが的な要素は序盤は特に濃くて、本作でも三人組みである桔香、イトちゃん、ツナギの三人で目的が全然違うんですよね。たがいに都合のよい部分からつながったにすぎない。桔香の行動と思考がすべて自身の想像する悪役令嬢なるものを模倣する一方で、最初はその「しもべ」であるイトちゃんやツナギは悪役令嬢に対する興味なんてビタイチないわけです。
 それがおっちょこちょいでヘタレだけど愛嬌はある桔香を否定せずつきあうことで、思想や目的でというよりは人としての桔香をハブとするつながりの心地よさみたいなものに浸る。最初は桔香とそれぞれとの一対一の関係だったのが、グループとして行動していくうちに、「みんな仲良し」に、なんならグループ外の人間との新たな出会いすらある。
 ただ人間同士が仲良くなっていく。それがエンターテイメントになると気づいたのは、きららというジャンルの最大の功績です。
 一巻の最後に桔香の好きな悪役令嬢のアニメをみんなで鑑賞会するシーンは最高ですね。おたくにとっての鑑賞会は結束を確認し強めるための儀式ですからね。スパイク・リーの『ブラック・クランズマン』でKKKのひとたちが『國民の創生』を笑顔で上映していたのとおなじです。


額縁アイコ『リトルホーン〜異世界勇者と村娘〜』(ヤングマガジンコミックス)

「狭き大陸」と呼ばれる世界を支配していた魔王を異世界から来た勇者が討伐した。その勝利に沸く大陸の片隅の田舎村で、薬屋の娘ルカは勇者に憧れその従者になることを夢見、その友人リトルホーンと毎日伝え聞く勇者譚を愉しんでいた。
 そんなある日、勇者の一行が村にやってくる。殲滅したはずの魔族の生き残りが村に隠れているというのだ。勇者の脅迫によってあぶりだされたのはリトルホーンの姉たちだった。リトルホーンは魔族だったのだ。勇者一行はリトルホーンの姉たちを殺すと、魔族を匿ったとして村人も全員虐殺。ルカとリトルホーンだけが生き残る。
 勇者への憧れが憎しみに反転したルカは、リトルホーンとともに復讐を誓い、勇者殺しの旅にでる……という変則異世界転生ファンタジー

 ヒーローと悪役を反転させた物語っていくらでもあるのでしょうが、これは勇者のクズの方向性がフレッシュ。最初に主人公たちと対決する勇者パーティのひとりナイトのナイトーは、ガタイこそ立派で屈強な大人なんですけど中身は十歳の「異世界転生者」なんですね。 何かを守ることを異常な執着をもちすぎているひとなんですけれど、その異常さに年少ゆえの視野の狭さみたいなものが付加されてえらくグロテスク。たとえば、このナイトーは旅に出たルカと遭遇するのですが、自分らで村民を皆殺しにしといて、生き残りがいたと喜び。なぜかといえば、「故郷を失った薄幸の少女を育てる」ことが「一番大好きなクエスト」だから。この時点でヤバい。そして、ルカに「マリ」と名付ける。「マリ」はナイトーの異世界(日本)での幼なじみの名前で、彼はゲームをやるときにはヒロインの名前を常に「マリ」にしているのです。その「マリ」は病弱な少女なので、キャラの設定を合わせるために「キャラメイク」と称して五体満足なルカをおもいきり殴りつける。 
 狂った人間が狂った論理を転がし、圧倒的な暴力でもってその論理を通そうとする。このキャラ造形はすばらしい。しかもそのイヤさがいやでもゲームをやるときの人間ってこういうサイコパス感あるよね、といういやな現実味もあり、奇妙な心地になる。
 ほかにもやべーポイントが多数あって、もう全部盛りといったかんじ。単なるアンチジャンルものとは一線を画しています。こういうのがこの先いくらも見られるとおもうと期待が高まる。あとアクションも見応えがある。



井上まい『大丈夫倶楽部』(マンガ5)

 会社員の花田もねはとにかく日々が不安でしょうがなく、「大丈夫」になることを願っていた。彼女はある夜浜辺で出会った宇宙人(バクっぽい)の芦川といっしょに「大丈夫になる」ことを目指す部、大丈夫倶楽部を結成。「大丈夫」を日々希求していく……という連作。

 まあ、大丈夫になりたがっている時点でぜんぜん大丈夫じゃないひとたちの話だってのはわかっていただけると思います。第一話からいきなり散らかり放題の部屋で、捜し物が見つからずテンパりまくってるところから始まるんですね。まったくもってなにひとつ大丈夫ではない。そういう日々の大丈夫でなさを解きほぐし、心の均衡をささやかに保っていく。基本的にはそういうまんがです。『ご飯は私を裏切らない』(heisoku)のもうちょっと外向的なヴァージョンとでもいいましょうか。
 大丈夫じゃないもねが大丈夫になっていくさまだけで十分ほほえましくおもしろいんですが、そこに芦川の謎めいた過去が語られていったりしてそこでも読者をひっぱる。妙に錯綜したプロットで手から漏れるんじゃないかとハラハラしますが、いまのところは大丈夫に回っている印象。 
 ゲッサンの『春のムショク』でも井上まいは「なんか気持ち的にブラブラしていて茫漠たる不安を抱えたよんどころのない人間」を主人公にしていて(うろおぼえ)、そちらはそれをわりと直球の落ちモノブコメに仕立てていた記憶がありますが、今回は落ちモノ路線とはいえラブコメじゃない方向へ振ったところでより作家性のコアにそぐう作品になっていると思います。


まどめクレテック『生活保護特区を出よ。』(トーチコミックス)

 生活能力に乏しい人間が国によって保護され、「生活保護特区」に居住させられるようになった日本。トーキョー在住の高校生のフーカはある日、国からの要請によってその特区へ移住することに。彼女の割り当てられた新しい住処である「にいなめ荘」にはなるほど生きづらそうな人々が集まっていて……というお話。

 要するにあんまり上手く人並みにお仕事などができない人たちが押し込められる区域があり、そこに住む人たちはできなさに絶望してよく自殺未遂などを起こしている。気が滅入るようなセッティングですね。そのなかでもギリギリな人間たちはギリギリにコミュニケーションをとって社会生活を営んでおり、そのギリギリさ加減にリアルがある。
 わりと序盤からキャラがわちゃわちゃ出てきて話もややとっちらかって、どこに転がっていくのか今のところわからない。どうも「世界」をまるごと構築しようとしている節があり、とんでもないことになりそうな雰囲気を醸しています。画もいいですね。ざらりとしていて、でも動きが軽やか。

 

はせべso鬱、羽流木ない『百合の園にも蟲はいる』(ヤンマガKCスペシャル)

 女子校の男性教師ものということで、『女の園の星』の二匹目のどじょう狙いかな~と半分ナメながら読んだら意外に誠実な教師まんがでした。子どもは無垢ではないし、教師も聖人ではない。誰もが理想と現実のあいだでもがいていて、そこに対する真摯さには好感が持てます。ギャグもツイストもよく機能していて、フツーに読ませる。三巻で完結してしまい終盤がやや早足だったのが残念。


もくもくれん『光が死んだ夏』(角川コミックス・エース)

 ある田舎の村に住む高校生よしき。彼は、親友の光が人間では別のなにかに入れ替わっていることに気づいてしまうが、光への執着からその状態を保つ方向へ動き始める……という伝奇ホラー。

 演出から物語、設定に至るまで、パーツごとに切り分ければどこかで見たものになる。にもかかわらず、それらが組み合わさった総体としての本作は烈しいまでの清新さを放っています。あるいは、マンガとはそうした組み合わせの妙に尽きるのではないのか、という気にすらなってくる。すでにかなり語られ尽くされている作品で、いまさらわたしが付け足すことなどないですが、間違いなく評価されるべき作品です。


松本次郎『Beautiful Place』(ヒーローズコミックス わいるど)

・セーラー服姿のティーンエイジャーが武装してドンパチやっているのはいつもの松本次郎先生なのですが、『いちげき』を経て確実にヌケがよくなっている。今後次第で最高傑作になるポテンシャルも。幕末の日本初の銃歩兵隊を描いた長篇の『列士満』(列士満 (SPコミックス))も要チェック。


松木いっか『日本三國』(裏少年サンデーコミックス

現代日本の風景そのままに架空戦記が展開されるエキサイティングさは他に代えがたい。キャラのアクの強さは好き嫌いが別れるところでしょうが、一巻でそう感じたとしても二巻三巻と読みすすめるべきといえるだけの構築力がある。

その他よかったもの

コンドウ十画『スケルトン・ダブル』(ジャンプコミックススケルトンダブル 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・異能や異能的シチュエーションの転がし方がうまい。

浄土るる『ヘブンの天秤』(ビッグコミックスヘブンの天秤(1) (ビッグコミックス)

・浄土るるという異形の才能をうまく飼い慣らそう頑張る編集部の苦心が見て取れる。そしてそれはその方面ではある程度うまくいっている。

あらゐけいいち『雨宮さん』(ゲッサン少年サンデーコミックス雨宮さん(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)
あらゐけいいちってそんなに好みの作家ではないんですが、これはいいですよ。

堀北カモメ『ゲモノが通す』(トーチコミックス)ゲモノが通す (1) (トーチコミックス)
・修理屋さんのお仕事まんがから人外異能バトルへの無茶なスライドの仕方がゴッツい。勢いで押し通そうとして通ってしまっている。今見たら一巻二巻アンリミ入ってたので加入者は是非。

嶋水えけ『ポラリスは消えない』(ガンガンコミックスJOKER)ポラリスは消えない 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスJOKER)
・死んだアイドルにファンが成り代わるというヤバサスペンス。頭のネジが外れたキャラを描けばその時点で勝利であることを証明した例。

頬めぐみ『おいしい煩悩』(MFコミックス)おいしい煩悩 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
・泣いてる顔が良いまんがは良いまんがです。(二回目)

池田邦彦、萩原玲『艦隊のシェフ』(モーニングコミックス)艦隊のシェフ(1) (モーニングコミックス)
・池田邦彦の連作短編作家としてのセンスの良さがここでも発揮されている

筒井いつき『夜嵐にわらう』(ヤングジャンプコミックス)夜嵐にわらう 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・教師と生徒の暗黒百合。筒井いつきはいつだって私たちを裏切らない。

中村すすむ『私の胎の中の化け物』(少年マガジンエッジコミックス)私の胎の中の化け物(1) (少年マガジンエッジコミックス)
・やや定型に落ちる感も残すが、この手の学園ホラーとしては抗いがたい艶がある。

地球のお魚ぽんちゃん『霧尾ファンクラブ』(リュエルコミックス)
霧尾ファンクラブ(1) (リュエルコミックス)
・一人の憧れの男子をめぐる女ふたりの恋のさや当て日常コメディ。ライバル以上敵未満の関係が非常に良い。

酢豚ゆうき『月出づる街の人々』(アクションコミックス)月出づる街の人々 : 1 (アクションコミックス)
・人外学園日常連作。この手のものとしてはあまり驚きはないものの、丁寧に作られている。メドゥーサの話がすき。

みやまるん『メガロザリア』(青騎士コミックス)メガロザリア 1 (青騎士コミックス)
・エグめの異色悪役令嬢ものかと思ったら異能バトルへと暴力的にスライドしていく謎まんが。

江坂純、凸ノ高秀『She is beautiful』(ヤングジャンプコミックス)she is beautiful 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・女を監禁する女。箱庭系学園アフターものとしては印象が高野ひと深の『ジーンブライド』(FEEL COMICS)とかぶるんですが、どっちも味が違ってておもしろい。

道満晴明ビバリウムで朝食を』(チャンピオンREDコミックス)ビバリウムで朝食を 1 (チャンピオンREDコミックス)
・この歳になっても安定してこのレベルをたたき出せるのはすさまじいことです。藤子Fマインドっていうのは、こういうのをいうんですよ。

カレー沢薫『いきものがすきだから』(モーニングコミックス)いきものがすきだから 1
・ドッグシェルターの話。単に「動物が好き」だからではどうにもならない現実に手をつっこんでいくのがカレー沢先生の真骨頂。

五十嵐純『ドミナント』(MFCドミナント 1 (MFC)
・いやー、この出だしからこういう方向に行くのか~という。

ピエール手塚『ゴクシンカ』(ビームコミックス)ゴクシンカ 1 (ビームコミックス)
・変人ヤクザ版HUNTER×HUNTER

眞藤雅興『ルリドラゴン』(ジャンプコミックスルリドラゴン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・エブリデイマジックの端正さ。

宇島葉『猫のまにまに』猫のまにまに 1 (HARTA COMIX)
・ネコを美少女として擬人化するというよくあるしょーもなネタのはずなのにまんがが異常にうまいせいで無限に読める

鶴田謙二『モモ艦長の秘密基地』モモ艦長の秘密基地 1 (楽園コミックス)
・もうツルケンは一生これでいいんです。私たちも、また。

荒井小豆、ジアナズ『異世界ありがとう』異世界ありがとう(1) (裏少年サンデーコミックス)
異世界ものという分野においてなにかがスペシャルというわけでもないんだけれど、表情豊かさでなんだか読ませてしまう魅力がある。

荒川弘『黄泉のツガイ』(ガンガンコミックス)
黄泉のツガイ 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)
・あまりに堂にいったバトルエンタメ。

とあるアラ子『ブスなんて言わないで』(&SOFAコミックス)
ブスなんて言わないで(1) (&Sofaコミックス)
・ただしさからこぼれ落ちてしまうものをすくい取りつつもそれでもただしくあろうとする人間の営為。はっきりとフェミニズム的なテイストを前面に打ち出したまんがが去年は目立っていて、各種ランキングでも評価されていたはず。

文野紋『ミューズの真髄』(ビームコミックス)ミューズの真髄 1 (ビームコミックス)
・『ブルーピリオド』になれなかった人たちの地獄みたいな美大(受験)残酷物語。ブルピなんだかんだ「エリートの物語」だと美大のひとがいうてらしたのを思い出す。都度都度上向くかと思わせ説いてたたき落としてくるところがほんに地獄やね。

たかたけし『住みにごり』(ビッグコミックス住みにごり(1) (ビッグコミックス)
・とにかく異常な人間を異常なものとして描く手際において卓抜している。

ばったん『けむたい姉とずるい妹』(KISSコミックス)けむたい姉とずるい妹(1) (Kissコミックス)
・三角関係を構成する三点(姉妹と男)がいずれもめんどくさい独り相撲をしまくるめんどくさ恋愛まんがでこういうのをずっと読んでいたいですよね。キメるとこがキマりまくっているのはさすが。


【単発・短編集・エッセイ】*8

五選

山口つばさ『ヌードモデル』(アフタヌーンコミックス)

『ブルーピリオド』で超売れっ子となった山口つばさの短編集。この人の本質はフェティッシュなまでのエロティックな瞬間(=コマ)とファム(オム)ファタルにあるのだと再認識させられる。よく考えたら『ブルーピリオド』も矢虎くんの前にファム・ファタルやオム・ファタルなひとびとがひっきりなしに登場するまんがといえなくもない。

冬虫カイコ『回顧 冬虫カイコ作品集』(MeDu Comics)

 女同士の「じゃあ、どうすればよかったんだろうな……」みたいな話が詰まった短編集。短編の尺で、あまり劇的なイベントを起こさないのに、ここまで抉られるものを書けるのは途方もない。あなたも読んで「じゃあ、どうすればよかったんだろうな……」となってください。

小骨トモ『神様お願い』(webアクションコミックス)

「性」を軸にしたイヤ~なサイコホラーまんがの短編集。森山塔を若干高橋葉介に寄せたような、ポップでありつつも湿度の高い絵柄で徹底的に責めてくる。どの話も特にクライマックスではどうかと思うぐらいのアクセルベタ踏みっぷり。この情念はこの手のジャンル以外で活かせるかどうかわからないのですが、しかし継続的に読みたくなる才能。

朝田ねむい『スリーピング・デッド』(Canna Comics)

 高校教師の佐田が夜道で通り魔に刺され死亡……したと思ったら、謎の研究所のようなところで目覚める。どうやら間宮というマッドサイエンティストの開発した細菌によってゾンビとして復活させられたらしい。手錠につながれて監禁された佐田の運命はいかに……というBLゾンビまんが。BLだけれど、意外に濡れ場が挿入されるのはやや遅め。それ以前にグロが満載だけれど。
 あきらかに病んだ状態から出発するふたりの関係の行く末が、あそこまで美しく残酷なものになるのか、という驚きがあります。ラストだけでいったら今年一番。全体通しても、朝田ねむいの最高傑作のひとつなんじゃないんでしょうか。藤本タツキもオススメしてたぞい。

あらいぴろよ『母が「女」とわかったら、虐待連鎖ようやく抜けた』(バンブーコミックスエッセイ)

『虐待父がようやく死んだ』『ワタシはぜったい虐待しませんからね!』などから続く自伝的エッセイまんが。父親の激しい虐待から抜けだし、結婚して子どもを産んだ著者。自分は「父親とは違う、ちゃんとした親になる」と決意するが、日々の育児のなかで子どもや夫につい憎悪を弾けさせてしまう。「親」としての自分と向き合うため、「子ども」だったころの自分を乗り越えようとする彼女。そうして、子ども時代を思い出していくと意外な盲点に気づく。直接的に虐待していた父親だけでなく、それまで自分を守ってくれていたと思っていた母親もまた「親」としておかしなところがあったのではないかーー。
 地獄の果てでさらに地獄を直視することが救いになる、という途方もなく壮絶な話。毒親・虐待系のエッセイまんがにはいくらか自己セラピー的な側面が見られますが、ここまで苛烈かつ破壊的に感情を掘り下げてギリギリで希望をつかみ取るのはあまり見ません。
 

他によかったもの

玉置勉強玉置勉強短篇集 ザ・ドラッグス・ドント・ワーク』玉置勉強短編集 ザ・ドラッグス・ドント・ワーク (MeDu COMICS)
・この行き場のない人間の行き場のなさを描けるのは玉勉先生だけなのかもしれない。これは情緒かな。

犬のかがやき『犬のかがやき日記』犬のかがやき日記
ツイッタージェニックまんがの模範解答としては『ちいかわ』や『ポプテピピック』に並ぶけれど、それらよりは幾分品がある。

岡藤真依『あなたがわたしにくれたもの』あなたがわたしにくれたもの (ビームコミックス)
・京都を舞台にカップルのお別れセックスを描く短編集。コンセプトの時点で勝っているが、セリフ回しと表情がいちいちすばらしい。

詠里『僕らには僕らの言葉がある』僕らには僕らの言葉がある
・聾唖の高校球児とその相棒役になったキャッチャー、そして彼らの周囲を描く長篇。完璧に「これは善きこと」と割り切れなさも残るなかで、それでも子どもを信じるの大切さを訴えているのがよい。野球マンガでいえば、今年は伊図透『オール・ザ・マーブルズ』も押さえておきたいところ。

谷口菜津子『うちらきっとズッ友』うちらきっとズッ友 ―谷口菜津子短編集― 【電子コミック限定特典付き】 (webアクションコミックス)
・何年連続で谷口奈津子を良かったリストに入れてんだろうって感じですが、しょうがないじゃん。毎回良いんだから。最悪で救い様のない人間にさえ寄り添ってみせる。それこそが谷口奈津子作品の強さなのだとおもいます。

panpanya『模型の町』模型の町 (楽園コミックス)
・何年連続で panpanyaを良かったリストに入れてんだろうって感じですが、しょうがないじゃん。毎回良いんだから。ジオゲッサーにいきなりハマったみたいな感じになっててウケたけれど、そこから掘れる深度がやはり尋常ではありません。

水谷緑『私だけが年を取っているみたいだ ヤングケアラーの再生日記』私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記 (文春e-book)
・ヤングケアラーたちの経験をひとりのキャラに統合した半エッセイ的ストーリーまんが。

たばよう『おなかがへったらきみをたべよう』おなかがへったらきみをたべよう
・なんとなくいい話にしようとした様子がうかがえるのがほほえましい。ぜんぜんなってないんですが。

もぐこん『推しの肌が荒れた もぐこん作品集』推しの肌が荒れた ~もぐこん作品集~【電子特典付き】 (バンチコミックス)
・今後、危ういところが危ういままなのか、洗練されていくのか。

高研『緑の歌 収集群風』緑の歌 - 収集群風 - 上 (ビームコミックス)
・濃厚なまでの80年代サブカルノスタルジー。今、日本で日本人がやったら絶対許されないと思う。本棚のシーンで焼き尽くされました。

小林銅蟲『ファミ魂特異点ファミ魂特異点 (ゲームラボコミックス)
・その時代の片隅に確かに棲息していた異常な人々を記録する実録まんが。マジでこんなゲーム同人文化があったことを知らなかったのでビビった。異常さでは『ファミコンに育てられた男』もなかなか。

宮澤ひしを『苦楽外』苦楽外 (ビームコミックス)
・この手のうまく収まる幻想が年一冊くらいは読みたい。

いしいひさいち『ROCA 吉川ロカストーリーライブ』
・読み終わった瞬間にいやあ、いいものを読んだ、となれる。

ニック・ドルナソ『アクティング・クラス』アクティング・クラス
・カリスマ講師率いる無料演技体験クラスが大変なことになっていく。前回(『サブリナ』)より好きですね。あのポーカーフェイスの活かし方を発見したようで。濱口竜介に映画化させたい。

高江洲弥『リボンと棘 高江洲弥作品集』リボンと棘 高江洲弥作品集 (HARTA COMIX)
・この世のすべての性癖をカバーしてるのではという恐怖。「ある日森の中」と「誘い花」がベスト。この怪物を飼い慣らせるハルタという雑誌もおそろしい。人はハルタ作家として生まれるのではなく、ハルタ作家になっていくのだ。

タイザン5『タコピーの原罪』タコピーの原罪 上 (ジャンプコミックスDIGITAL)
・『ちいかわ』ほどの安定感はなく、『星のポン子と豆腐屋れい子』ほどの計算高さもない。でも、ぼくたちはタコピーやしずかちゃんの泣いてる顔が大好きだ。

岡田索雲『ようきなやつら』ようきなやつら (webアクションコミックス)
・出来不出来がわりあいはっきりしているけれど、そのなかでもアティテュードは一貫しているのが作家という感じ。というか岡田索雲はデビュー当時からずっと一貫してきて全然ブレない。
proxia.hateblo.jp

【五巻以内で2022年に完結したまんが五選】

・このへんは個別に記事を立てたいところ。疲れてきたので手短に。

平方イコルスンスペシャル』(全四巻、トーチコミックス)

・2022年は『スペシャル』が完結した年として記憶されるべき。

戸倉そう『すぐに溶けちゃうヒョータくん』(全二巻、webアクションコミックス)

・かなりギリギリというかアウトなところをついてしまった加虐同棲まんがの傑作。

熊倉献『ブランク・スペース』(全三巻、ヒーローズ・コミックス)

・無理に群像劇にしなくともよかったのではないかな、と思う反面そこは思想の領域なのでこうせざるを得なかったかなとも思う。いずれにせよ些末な問題で、おおむねすばらしい奇想まんがです。

はせべso鬱、羽流木ない『百合の園にも蟲はいる』(全三巻)

・前述の通り。

冬野梅子『まじめな会社員』(全四巻、コミックDAYSコミックス)

・社会のクソさも自分のダメさも他人のアレさもひとしく掻いて掻いて出血しまくっているという点で、この作家に及ぶものはあまりいないのでは。


【+α】

綾辻行人清原紘十角館の殺人十角館の殺人(1) (アフタヌーンコミックス)
・ミステリのコミカライズとしてひとつの至福なあり方。ハッタリの効かせ方含めて。

若槻ヒカル『エルフ甲子園』エルフ甲子園(1) (コミックDAYSコミックス)
・若槻ヒカルのブルータルさに世間が順応する日まであとどれだけ必要なのだろう?

くみちょう『たぬきときつねの田舎暮らし』たぬきときつねと里暮らし 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
・獣としての子どもの無軌道さがよく出ていた。


*1:2022年1月〜12月に第一巻が発売された作品が対象

*2:森薫か入江亜紀のどちらかの系統に近い絵をさす

*3:他の三人の元特美研メンバーたちが「大人」になっているのと対照的に描いているのが巧い

*4:アナロジーとして想起されるのは panpanya

*5:逆に瞬間瞬間の「動」を描こうとするときはやはり弱い印象もある

*6:ちなみに元になった「シアちゃんターくんの映画劇場」というショートマンガが先行して存在するのですが、それは映画の紹介マンガでした

*7:マインドさえ保てるのなら小学生に限定する必要はないのですが、涼川りんの『あそびあそばせ』がどうしても思春期要素を取り入れざるをえなかったように、望むにしろ望まないにしろ、年齢区分による圧というのは働くのです

*8:22年1月〜2月に発売された短篇集、単発作品、エッセイまんが。長編であれば完結した作品が対象

足場から足場へ。:『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』について

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スーパーマリオやろうぜ」エリックがなだめるように言う。
 ぼくはかぶりを振る。
「あれはフェイクすぎる」
「裏にバスケのコートがあるじゃんか。ちょっとシュートでもしようぜ」
 ぼくはかぶりを振る。
 あれはリアルすぎる、とぼくは思う。


 ――マイケル・W・クルーン、武藤陽生・訳『ゲームライフ ぼくは黎明期のゲームに大事なことを教わった』みすず書房




 ぼくは今、いつ死んでしまうかわからないリアルなハーフライフです。


 ――いとうせいこうノーライフキング河出文庫





『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』。

日々、映画のリッチさへと接近しつつあるビデオゲームの画面*1に対し、映画の側が繰り出してきた一つの回答がここにはある。


Q. 映画がリッチなゲームに勝つにはどうすればよいか?
A. さらなるリッチな画面を出せばよい。


たしかに、先月で六歳(人間でいえば六十歳)を迎えた Nintendo Switchのスペックでは到底およびもつかないような精細で豊穣な世界がそこに描出されていた。
ヴィヴィッドな赤色のキノコが林立するキノコ王国は、60年代のヒッピーが見る幻覚のようなピースフルさに満ちている。大量に出演するモブ(ザコ敵)たちにはそれぞれおちゃめな個性が付与されていて、知り合うだけでも愉しい。*2

なによりマリオ自身のモデリングの精巧さ。

ゲームに忠実でありつつも、映画独自のたるっとした風味がさりげなくしかし効果的にブレンドされ、『シュガー・ラッシュ』のお菓子の世界にもまけないスウィートなゲーム世界に実にマッチした愛嬌に仕上がっている。
ご尊顔はもちろん、トレードマークである帽子にも気を配られていて、カメラが帽子に寄ると生地の質感まで伝わる。
セガとパラマウントが『ソニック・ザ・ムービー』でやらかして、後にディズニーに『チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ』でコスられまくったあの大失態は、業界に深い教訓を残したようだ。そこは子供向けアニメ映画の太陽王、イルミネーション・スタジオの仕事、外さない。*3
奇妙なことに、かぎりなくCG的に既存の造形をブラッシュアップしたマリオはフィクションっぽさが突き抜けていっそリアルに感じられる。なんというか、「このマリオ」は本物な感じがするのだ。われわれはふつうフィクショナルな人物を「リアルだ」というときには、そのキャラに肉や炭素を与えられたような感覚でいうけれど、「このマリオ」はまったく別の原子や細胞で構築されているような感じがする。
そんな別次元にあるようなリアリティ。





だからこそ、というか。
映画を観れば観るほど、マリオの顔に視線をそそげばそそぐほど、ある問いが頭のなかにもたげてくる。それはマリオと初めて出会ったときからぼんやり抱いていて、いまだに解決されていないわたしの文化的ミレニアム懸賞問題だ。


Q. そもそも、このおっさんは……なんなの?


見た目は完全に小太りの中年だ。かわいくもかっこよくもない。すくなくとも、今現在の世間でかわいいとかかっこいいとかいわれる世界的キャラクターの規範からは外れている。
そんなおっさんが世界的なキャラクター、それもポパイやホーマー・シンプソンのようなバッドアス中年とは違ってミッキーマウスと並ぶ子ども向けの良心的なマスコットとして君臨している。

そうだ。つい最近、ユニバーサルスタジオ・ジャパンへ行った。ちょうど任天堂が一区画を占領している時期で、お土産やさんではハリポタの魔法の杖*4に向けられるものと同じ熱量で老若男女がマリオのグッズに群がっていた。
そのとなりにはスヌーピーのグッズがやまほどあった*5というのに、みな永遠の生意気クソメガネと赤いヒゲのおっさんに日本銀行券を惜しまなかった。

考えれば考えるほど奇妙だ。
こんな存在をなんと呼べばよいのか。
彼は地元ブルックリンの住民たちに溶け込むにはファッションがヤンチャすぎるし、ファンタスティックなキノコ王国に溶け込むには人間でありすぎる。
このおっさんはどこに属しているのか。


脳内にマリオの顔が飽和しすぎてゲシュタルト崩壊を起こしつつあるわたしの混乱をよそに、映画は軽快に進んでいく。ブルックリンからキノコ王国へ跳び、クッパに囚われたルイージを救けだすべくドンキーコングたちの棲むジャングルへ。脚本はRPG的なおつかいクエストの作法すら外れて、イースターエッグとファンサのための祭典と化し、特に脈絡なくアーケード版『ドンキーコング*6や『マリオカート*7が矢継ぎ早にぶち込まれていく。舞台が変わるたびに色彩が変わっていき、マリオ自身も装いを変えつつ派手なアクションを繰り広げる。

多動症的に目移りしていく、一見すると連続していない世界。
すでに多数出ている海外の映評でディスられまくっている部分だ。
まあ、怒られるのもわかる。一貫性と世界観の統一は映画の基本中の基本だ。それを無視してドラッギーなタマゴをばらまきまくるのはシネアストの信義に反するのだろう。
だが、それはあくまで古典的な映画の信義だ。





マリオの原義とはなにか。

それは感動と驚きを誘うストーリー(いつものクッパとのドンパチ)でも、社会や人生について考えさせられる深遠なテーマ(とってつけたような父子テーマ*8)でも、ファン心をくすぐるイースターエッグの数々(胸焼けがする量)でも、繊細な音楽使い(使いどころが最悪なメジャーソング*9の連打)でもない。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』のタイトルのもとになった『スーパーマリオブラザーズ』は、プラットフォーム・アクション*10として生まれた。
プラットフォームとは足場を意味し、プラットフォーム・アクションのジャンルでは跳んだり跳ねたりのアクションを中心に足場から足場へと移っていく。

想像しづらいだろうか?
プラットフォーム・アクション・ゲームとはなにか? と問われた場合、こう説明すれば一発でわかってもらえる。:「『スーパーマリオ』みたいなゲームのことだよ」

スーパーマリオ』は最初のプラットフォーム・アクションでも最初のマリオのゲームでもなかったが、マリオとプラットフォーム・アクションの世間一般でのイメージを定義づけた。一時期には、それが「ビデオゲーム」そのもののイメージですらあった。
マリオはビデオゲームグルーチョ・マルクスであり、バスター・キートンであり*11チャップリンであり、そしてみなさん御存知の通り、ミッキーマウスだった。
まあそんな強引なアナロジーはともかく。


この足場から、あの足場へ飛び移れるか。
この点に注目すると、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は意外なほど「足場」の話をしている。
冒頭のブルックリンのマリオとルイージは転職&起業したてで自分たちの生活基盤に不安を覚えているし、最も安定的な足場と考えられている自らの家庭での居場所もグラついている。
そんな彼らが、現実世界のブルックリンからファンタジー異世界であるキノコ王国へ”ジャンプ”する。しかし、マリオが平穏なキノコ王国へ跳んでうるわしのピーチ姫と出会えた一方で、不運なルイージクッパの支配する暗黒地域に跳んでしまい牢獄にぶちこまれる。一歩間違うだけで、天国と地獄。これもまたプラットフォーム・ゲームの暗喩だ。
そして、マリオ自身の運命を占う重要な場面になると、「足場」はメタファーではなくそのものとして現れてくる。ドンキーコングとの決闘の場面は不安定な細い足場上での戦いであるし、その後にふたりが巻き込まれる災難も「足場」の崩壊から始まる。
さらにいえば、ルイージたちが囚われているマグマの監獄が象徴しているように、マリオの世界では「足場」を失うことはイコール死なのだ。
そして、彼らは劇中で何度も死んでいるはずなのに、死なない。

どんどん装いを変えていく景色とマリオの姿は、わたしたちが遊んできたマリオのゲーム体験そのものでもある。マリオがステージからステージへ、エリアからエリアへ跳ぶたびに世界は顔を変え、マリオも大きくなったり縮んだり、タヌキになったり、ネコになったりする。世界と彼の変化に論理的な脈絡などないが、それでもつながっている。
プラットフォーム・アクションにおける「足場」はそれぞれ切断されているのだ。世界もまたそうであるほうが理にかなってはいないか?

マリオというフランチャイズ自体も脈絡がない。
任天堂の公式設定では配管工ということになっている。
映画版ではブルックリン在住のイタリア系アメリカ人の配管工ということにもなっている。
ところが彼は作品によって医者になったりゴルファーになったりテニス選手になったりサッカー選手になったりレーサーになったりボクシングの審判になったりする。しかしマリオであることだけは揺るがない。


絶えず姿を変化させながら足場から足場へ、世界から世界へと飛び跳ねていく男、それこそがマリオだ。
どんな場所で、どんな姿で、どんなことをやっていても彼はこう叫ぶ。

「it's me, Mario」

これがマリオなのだ、と瞬間ごとに自らを定義する。

そんな存在を映画の世界でどう呼ぶか。

そうか。

やっとわかった。

マリオとは、スタァだ。





*1:ことここに至ってもゲームが映画の真似をしたってろくなことにならないとわたしの信仰は固まりつつある。『ラスト・オブ・アス』の達成よりも、『デス・ストランディング』の終盤の大惨事のほうをより深刻に捉えてしまう。

*2:結婚式のくだりは本作でも最良の部分だ

*3:そして、大抵の場合、イルミネーションの映画はど真ん中を捉えもしない。イルミネーションはいつもそうだ。『怪盗グルー』のフランチャイズは特にそうだ。時に興味深い方向に転がりそうなテーマに触れるのに、掘り下げない。踏み込まない。前回の『ミニオンズ』もそうだった。50点以下は出さないが、70点以上も出さない、そんな印象のスタジオだ。ああ? 『SING 2』のポーシャ? 彼女は女神だよ。

*4:5000円くらいするプラスチックの棒。赤外線機能がついているが、それを何に使うかについてはわたしに説明する気力はない。金で買える魔法もあるのだ、とだけいっておく。

*5:わたしには、ユニバーサルスタジオに行く度にスヌーピーのお菓子缶を買い、缶詰を集める習性がある。なぜそういった行動をとるのかは、残念ながら、現在の動物学ではわかっていない

*6:雰囲気はスマブラっぽい

*7:『マッド・マックス:怒りのデスロード』をやりたかった節が見受けられる

*8:誰がマリオに父親との相克を期待するだろうか。そもそもマリオに対して父親の存在すら期待していないのに。

*9:Take on Me が流れ出したときは「マジか……」という気持ちになった。

*10:ところでわたしは「プラットフォーマー」と呼ぶほうが好きだ

*11:バスター・キートンにヒゲはないが、マリオは常に彼のようなデッドパンに徹している。

最近日本語化されたらしいのでやっておきたい積みインディーADVゲーム10選

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これまでのあらすじ:
ティアキンって略すと、HIKAKIN、SEIKINに次ぐ第三の男(ナン)みたいですね。


下記はメモ代わりです。基本的にやったことはないのでゲーム内容の説明薄め。興味ある人は自分でググって。そういうわけなので翻訳の質もいちいち保証はしない。

Chicory: a colorful tale

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・2021年の暮れに発売されて年度ベスト級の評価を受けた塗り絵ADV、Chicory。日本ではSwitch版やPS版の発売に合わせて2022年中に日本語化されるはずだったものの、その後音沙汰がなくなり幾星霜。もうだめなのか、もうこないのか……となかば諦めてたら今年五月の終わりに突如としてPC版が日本語化された。やったね。ちなみに他のコンソール版はあいかわらず続報がありません。→追記:XBOXでは日本語版もリリースされていて、ゲーパスにも入ってるそうです。情報あんがとな!
・発売当初英語版で三時間くらいやった。そんなにむずくないパズルが中心だったような気がする。なんか主人公の師匠のうさぎがうつにかかってやる気ゼロ(しかもかなりシリアスなノリ)になり、なんもかんも主人公へ押し付けるという見たことない始まり方してた。


Where the Water Taste Like Wine

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日本語化リンク:
Where the Water Tastes Like Wine 日本語化 MOD | Patreon

・悪魔との契約を果たすため、アメリカじゅうをほっつき歩きいてさまざまなフォークからのロアを集めるゲーム。
・本作を有志訳したブリッツ氏の他の仕事だと、suzerainなんかもよかった。大国に挟まれたやべー小国の大統領として奮闘するアドベンチャー。こっちもテキスト量がすごい。

Oxenfree

apps.apple.com
・これは少しややこしくて、Steam版とかでは日本語ないんだけど、Netflixと契約しているヒトなら iOSにて(追記:Androidでも)タダで日本語版を遊べる。
・昔英語版をがんばってクリアしたんですが、『ストレンジャー・シングス』みたいなノスタルジックなジュブナイル・スーパーナチュラル・怪奇ものでした。
・記憶も薄れてるし、来月に続編が出るので復習しておきたい。ちなみになんでか続編の方は最初から日本語版が実装されてるっぽく、switch とかでも出ます(1のswitch版販売も海外のみなのに)
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Pentiment

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・Outer Worlds や Pillars of Eternity で知られる Obsidian Entertainment が昨年出して圧倒的な賛辞を浴びた中世殺人ミステリADV。とにかく入念に当時の生活や思想が再現されており、そのテキスト量と相まって翻訳は難しいんじゃないかとおもっていたら結構迅速に日本語対応した。
・とはいえ翻訳の質はあまりよくないというご意見もあったりする。まあ、学問周辺の翻訳は専門知識いるしね。
・リリース時に一二時間ほどやったけれど、中世写本を模したビジュアルが愉しかった。英語は辞書をいっぱいつかいました。

Kentucky Route Zero

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日本語化リンク:
Steam Community :: Guide :: Kentucky Route Zero非公式日本語翻訳mod

・公式のクソ翻訳(というかADVにおいて機械翻訳垂れ流しはもはや翻訳ではない)で悪名高かった傑作についにまともな有志翻訳が誕生。
・その有志翻訳が公式に採用されたらしいのだけれど、iOS版(これもネトフリと契約してれば無料)などとは違ってPC版にはいつまでたっても反映されない。現状は自力でMODをあてるしかないっぽいね。
・クソ翻訳時代にいくらかやりましたけど、クソ翻訳状態でも傑作でした。ADVシーンを変えたといっても過言ではない一作。

FAITH: The Unholy Trinity

store.steampowered.com

日本語化リンク:
Steam Community :: Guide :: FAITH: The Unholy Trinity非公式日本語翻訳mod

・これも2022年に出て各所で年度ベスト級の絶賛を受けたホラーゲーム。1980年代を舞台にした悪魔祓いの話?で、グラフィックも80年代当時のローファイなコンピュータグラフィック感を模している。
・有志翻訳は上のKRZ同様 ashi_yuri 氏の仕事。ありがてえ。

Critters for Sale

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日本語化リンク:
Steam Community :: Guide :: Critters for Sale日本語化パッチ

朝四時に死んだはずのマイケル・ジャクソンから呼び出されてバーへ向かったら悪魔と契約するはめになるADV。Steam では「圧倒的好評」。
・これも有志訳は ashi_yuri 氏。ありがてえ、ありがてえ。

潮汐少女:現象

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・なんか洒落たかんじが醸し出されている短編ノベル。こういうのをよく訳している nicolith 氏の仕事。

Teles at Neon Sea

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・発売当初に(精度の悪い)日本語訳がついたもののすぐに削除され、今年四月にリベンジ再翻訳。
サイバーパンク?なミステリADV兼プラットフォーマー・パズルらしい。日本語化にあわせて『ミスト探偵』という大変微妙な邦題もつけられた。

What Lies in the Multiverse

store.steampowered.com
・今やってる。マルチバ〜スな世界で「世界」を切り替えてパズルを解く、パズル・プラットフォーマー。ADVに入れていいかよくわかんないけれど、10選のキリをよくするために入れます。
・去年の3月に発売されてそのときに遊んだ記憶では日本語版なかったはずだったけれど、三四ヶ月後に実装されたっぽい。それに気づいたのが先月。ちなみに steam の表記だとなぜか日本語版なしになっている。あります。
・世界を切り替えるとだいたいヤバいことになっていて、そのギャップがおもしろい。
・今見たら80パーセントオフで300円という異常なたたき売りをされていた。13日までです。


[追記]Later Alligator

store.steampowered.com

日本語化リンク:
https://twitter.com/mme62939094/status/1592081150310318081?s=20

・去年の11月に有志訳していたとさっき知った。これもパッと見ワニさんかわいくて評判が高いけど、積んでるな〜。




ed]

声を奪われた魚たちーー実写版『リトル・マーメイド』について

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*オリジナル版・実写版両方の『リトル・マーメイド』のネタバレを含みます。

From Ashes to the Ocean


1989年の『リトル・マーメイド』は声の物語であり、歌と音楽の映画だった。



オフ・ブロードウェイでの成功により注目されていた作詞家ハワード・アシュマンと作曲家アラン・メンケンのコンビ*1は20ページの草案しかなかったごく初期よりプロダクションに参加すると、『リトル・マーメイド』の音楽面のみならず、演出や物語でも多大な貢献を果たし、暗黒期と呼ばれた当時のディズニーアニメの救世主となった。
アシュマンとメンケンの功績とは、実写版『リトル・マーメイド』で追加曲を書いたリン=マニュエル・ミランダも述べているように、「ミュージカル演劇のテクニックをアニメーション映画に持ち込んだこと」*2だ。
リプライズ*3、楽曲の構成*4、そしてなにより歌とアンダースコアの緊密な連携……いずれもプロパーなミュージカル演劇界から作法だった。
制作プロセスとしても、完成したフィルムにあとからスコアをつけるのではなく、ラフな出来上がりの途中段階から連動するような形で曲が作られていった。アシュマン曰く「昔のディズニーのスタイル」だ*5。「蒸気船ウィリー」や《シリ―・シンフォニー》シリーズといった初期ディズニーの音楽的な快楽に回帰した意味でもかれらはディズニーに”ルネサンス”をもたらした。

美女と野獣』や『リトル・マーメイド』で知られるハワード・アシュマン


美女と野獣』などで監督を務めたカーク・ワイズは「ディズニー・ルネサンスにおいてもっとも重要な役割を果たした人物をひとりだけ上げるなら、アシュマンだ」と述べている。*6実際、制作にまつわるエピソードを見ていると、彼が現場においてほとんど監督と同等かそれ以上の立場の担っていたことが伺える。
アシュマンは歌こそが『リトル・マーメイド』の核を成しているという事実に自覚的だった。『リトル・マーメイド』をめぐる有名なエピソードに「カットされかけた Part of Your World 事件」というのがある。主人公アリエルの地上へのあこがれを歌い上げるこのナンバーは今でこそ作品の象徴だが、スクリーニングでの子供ウケが鈍く、エグゼクティブだったジェフリー・カッツェンバーグによって一度は消されかけた。そのカッツェンバーグに「消すなら俺を殺してからやれ」と強硬につっぱねたのがアシュマンだった。「この手の大作映画には、心を掴む瞬間を与えてくれる曲が必要なんだ。『ピノキオ』の「星に願いを」のようなね」と彼はメンケンに語っていた*7
アリエルの声優を務めたジョディ・ベンソンによれば、アリエルはそんなアシュマンそのものだったという。
そのことばは、アシュマンの遺したデモテープを聴けば信じられる気がする。

open.spotify.com

『リトル・マーメイド』の共同監督のひとりであるマスカーは Part of Your World のデモを歌い上げるアシュマンを見て「アリエルになりきっていた」と述べている。


とはいえ、アシュマンはすでにない。そしてリメイクとは、ガス・ヴァン・サント版『サイコ』*8のようにフレーム単位で原作を反復することではない。
実写版で Part of Your World のパートが始まったとき、わたしは「わるくないじゃないか」とおもった。
予告編の感じた「こうして聴くとどうしようもなく”白人の音楽”っぽさが強調されるな」という印象は拭い難かったものの、わるくはない。アニメーションのあの豊かでたおやかなタッチを超えることはさすがにないが、リメイクとはそういうものだ。『ポケットモンスター金銀』でカントー地方を再訪するようなもの。ダウンサイズされた既視感。そこには単なる複製以上の愛嬌が宿っている。


演奏しない魚たち

ところが、Under the Sea は。

あれには唖然とした。

こうも疑いさえした。

「実写版監督のロブ・マーシャルは Under the Sea の歌詞を一度でも目を通したことがあるのだろうか?」



Under the Sea は Part of Your World にならぶ『リトル・マーメイド』の代表歌曲であり、物語上の機能においても対をなす。
Part of Your World でアリエルは地上生活と人間への憧れをダンスにからませて表現する。

あのひとたちが『踊』っているのを見たい/アレを使って歩き回っているのを見たい/アレはなんて言うんだっけ……/ああ、『脚』!/ヒレをばたつかせても遠くへはゆけない/跳ねたり踊ったりするには脚が必要なの
「Part of Your World」



対して、カニの宮廷音楽家兼アリエルのお守り係のセバスチャンが「君はそうやって上ばかり見上げているけれど、人間なんて恐ろしいもんだよ。海は十分に最高だ。ほかに何を望むんだ?」という説得のために歌い上げるナンバーが Under the Sea だ。


www.youtube.com


最初はセバスチャンひとりだけが必死に歌っていたのだが後半からは海の仲間たちが加わってオーケストラ(セバスチャン曰く「ステキな甲殻類バンド」)の様相を呈していき、ついには魚やカメたちが楽器を鳴らして踊り狂う。

イワシがビギン*9を始めれば/それが私にとっての音楽
(中略)
どんな小さな貝だって/ここではジャムのやりかたを知っている/海の底ではね
*10だって/ここでは踊り方を知っている/海の底ではね
「Under the Sea」



海の底でだって音楽も歌もダンスも揃っている。それなのになぜわざわざ危険を犯してまで地上へ向かおうとするのか?
セバスチャンの訴えはこの歌の終盤で抜け出していってしまうアリエルに届くことはない*11のだが、視聴者の心には確かに響き、物語上の説得力へとつながる。
普通だったらこんな愉快な海を抜け出してまで地上に行こうとは思わない。しかし、それでもアリエルの憧れは止められない。それだけ、強烈な想いを彼女は抱いている。
Under the Sea が愉しげで、そこで描かれる魚たちの生活が魅力的であればあるほど、アリエルの望みが際立つのだ。
Part of Your World と Under the Sea では曲のジャンルも対照的だ。特にもともとトリニダード・トバゴ訛りの強いセバスチャン*12が歌い上げる Under the Sea はカリプソ音楽*13やレゲエの影響が色濃い。ここに、海の下=カリブ海/海の上=植民地帝国というポストコロニアルな対立を見出し海の上にピュアに憧れるアリエルに複雑な気持ちを抱くことも可能だが、そこは措く。
重要なのは、Under the Sea の魚たちにはかれらの歌も音楽も踊りもあったということだ。

ところが、実写版では踊りしかない。


www.youtube.com



実写版では色とりどりの魚やクラゲたちが出てくるけれども、オリジナル版のように楽器も演奏しなければ、セバスチャン以外は歌に参加したりもしない。*14
監督インタビューによれば*15、マーシャルは Under the Sea を演出するにあたって、かつて『ファンタジア』(1940年)でディズニーがバレエ・リュス*16を思い出し、アルビン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター*17のダンサーたちを呼び寄せて海の生き物たちを演じてもらったという。
そうしたわけで実写版の Under the Sea はダンスに全振りしており、振り付けもモダンダンスっぽい。
そうした方向性自体は別のよいのであるけれど、ダンス「しか」しなくなったことで歌詞との矛盾が生じてしまっている。

特のこのパートだ。

サンショウウオはフルートを吹くし/コイはハープを弾く/カレイはバスを演奏する/みんなシャープにやってくれるんだ/スズキはブラスで/チャブ*18はタイコ代わりにタライ/ヒラメはソウルの名人で/エイだって一員さ/クロジマナガダラ*19は弦楽器/タラだっていい音鳴らす/黒い魚は喉自慢/ワカサギやニシンは場所ってのを心得ている/そして、そう、フグは吹けるのさ



原詞はすべて魚の名前にからめたダジャレになっていて、オリジナル版の画面では歌詞にあわせて対応する魚たちが楽器を弾く。セバスチャン自身も貝を叩いて演奏に参加する。
ところが実写版ではその歌詞がほとんどまったく無視され、文脈にあまり関係のない映像が流れる。「甲殻類バンド」の姿などどこにもない。踊るだけだ。
ちなみに Kiss the Girl でも同様に「歌詞に乗せてモブの動物や昆虫たちが演奏したり歌ったりする」描写が実写版ではなくなっている。

歌詞はそのままで映像が違う。この改変によってどういう状況が生じたか。
魚たちから音楽が奪われてしまったのだ。
これは Under the Sea のシーンそのものの在り方にも関わる。
セバスチャンの歌う「魚たちの音楽」が比喩でしかないのなら、観客も海の底もいいかも、という気持ちにならない。ましてやセバスチャンを無視して地上へ向かうアリエルの気持ちの強さになど想いを馳せられない。
画的にも魚たちは音楽から切り離されてしまっている。
オリジナル版では魚たちが演奏することで画面内に音源がある状態、いわゆる「インの音」*20として表現されていたのが、実写版では音はすべて画面の外からやってくるものになってしまった。
こうなると視聴覚の体験として、「海の底」にセバスチャンにとっての「音楽」なんてどこにあるの? という印象を持ってしまう。そこで歌われていることがすべてうそになる。
ほんとうに歌詞を読んだ上で、こんな演出に変えたのか?
そんなミュージカル演出なんてありえる*21だろうか?


私は最初こう思った。

ロブ・マーシャルは特に深く考えず、「ここはダンスで攻めよう。オリジナルをなぞってもおもしろくないしね」くらいの軽い気持ちで Under the Sea を演出したのだろう、と。

ところが家に帰ってオリジナル版を観返してみると、実写版でカットされている部分がひとつの意図に貫かれているのではないかという気になってきた。

その意図とは、徹底した魚の排除だ。

土曜の朝アニメのリアリティ

オリジナル版では実写版とある程度共通するエリックの乗った船上でのオープニングシーンのあと、オープニングクレジットが流れ、そこからなにやら劇場のような宮殿へと移る。
そこではアトランティカ王国の王であるトリトンが末娘であるアリエルをお披露目する式典? が催されており、まあなんだか全体的にレビュウっぽいイメージで進行していく。
客席に集まっているのは人魚と魚たち。カメラが寄ると、かれらは同じ列で混ざり合うように座っていて、かれらのあいだに区別がないのが伺える。*22全編通して描き込みのあまりない王国の内情が知れる数少ないシーンだ。
トリトンの家臣にも魚たちが登用されているようで、式場に入場してくるトリトンやセバスチャンを紹介する役目を担っているのはオレンジ色のタツノオトシゴだ。
実写版ではこのあたりはカットされ、*23トリトンとその娘たちである姉妹の集いみたいな場面に変更されている。
喋るタツノオトシゴも出てこない。
というか、喋る海棲生物はセバスチャンとフランダーくらいしかいなくなっている。*24
オリジナル版で言語を話す海棲生物はセバスチャンとフランダーの他には上記のタツノオトシゴ、Under the Sea の途中に出てくるアンコウ(?)や青いロブスター、そしてなにより悪役アースラの配下であるウツボのジェットサムとフロットサムがいるのだけれど、実写版においてはタツノオトシゴとアンコウに関しては出番が削られ、ジェットサムとフロットサムは喋らなくなってしまった。
それどころか、ジェットサムとフロットサムに関しては(あいかわらず孤独なアースラの唯一の家族として愛されているようなのに)名前すら呼ばれる機会がない。
声どころか名前まで奪われるなんて、いったいどういうことだろう?

実写版では声のかわりに電撃の能力を付与されていたジェットサムとフロットサム


クライマックス手前、催眠にかけられたエリック王子がアースラと結婚しようとする式典の場面。オリジナル版ではアリエルの応援にやってきた海鳥、イルカ、ヒトデ、オットセイ、ザリガニといった面々がスラップスティックに結婚式をめちゃくちゃに破壊する。実写版では、かれらの姿はない。


さて、オリジナル版からカットされた歌曲はいくつかあるけれど、そのなかのひとつに Les Poissons がある。
アリエルを追いかけて陸にあがったセバスチャンが、エリック王子のお抱えシェフの調理場で”残酷に”処理されている魚たちを見て震え上がるという場面の歌だ。
ほかのカット曲とは異なり Les Poissons はトラウマティックで印象に残る場面なので、マーシャル監督に対して「なぜ削ったんですか?」と尋ねるインタビュアーも出てくる。
それに対するマーシャルの返答はこうだ。

「土曜朝のアニメみたいなノリのシーンはアニメでは上手くハマっても、実写では馬鹿らしく見えてしまうことがある」「ストーリーと完全に関係ないシーンだったしね」*25


マーシャルの主張は一定程度は理解できる。
たしかに Les Poissons は本筋そのものとは関係ない場面だ。残酷で子どもに見せるには不適当かもしれないし、削っても問題ない場面ではある。表面上は。
しかし、この曲はきちんと他の場面との関連の上に成り立ってもいる。
Under the Sea の歌詞で歌われていた「海の上なんか行くと魚は食われちまうぞ」という脅しがホラー的に現前する場面でもあるのだ。
調理場にはセバスチャンの親戚のようなカニたちが何匹も並び、彼にとってはまさに目の前で「仲間」が虐殺されていく現場だ。
コメディっぽさのなかに、やはり地上の人間と海の生き物たちは相容れないのでは、という不安を観客に植え付ける。これもまたアリエルと彼女自身の抱く憧れのジレンマを(彼女自身と関係なくとも)高めている。
それが実写版では、「人間たちは魚を食べる」という恐怖は、アリエルがエリック王子の城にもぐりこんだときに歌う追加曲 For the First Time で遠回しに反映*26されるだけになった。

Les Poissons


個人的には Les Poissons を残すべきだったとは思わない。
ただ、なにかが削られたなら、その一方でなにかが増やされているのが常だ。
実写版において増やされているのは「家族」「親子」の描写だ。
トリトン王と娘であるアリエルの関係、オリジナル版ではほとんど影のなかったエリック王子の母親*27とエリックの関係、そのふたつの親子のラインに、新たに「実はトリトンとアースラは兄妹だった」という設定が追加される。
最後のトリトンアースラ兄妹設定はなかなかおもしろくて、アースラのトリトンに対する復讐心がより深まって見えるし、アリエルを勧誘するときも「おまえの父親ってヒドいだろ。わかるよ、わたしも妹だったんだしさ」と共感的に言い寄ってくるので説得力が強まっている。
実写版ではエリックの描写が増量されているのだが、それはアリエルが惚れるに足る好人物であることを観客に説得させるためだけではない。好人物であるエリックを父親であるトリトンが認めることで間接的にアリエルとトリトンの関係を強化するためもあるし、エリックと母親との関係をアリエルとトリトンの関係に重ねること(どちらも親が地上/海に偏見を持ち、しかし子どもたちを通じてその偏見を解消し、独立した存在として子どもたちを認める)で地上と海を対比させるためもある。
そうしたヒト同士の関係を描く上で、魚たちはノイズになる。人間が人魚たちと友好関係を築きたいといってもそれは腰から上がヒトだからで、海に生きる人々なら魚たちについては糧にせざるをえない。そのような矛盾を抱えている以上、実写版のアリエルは魚を「仲間」と見なすわけにはいかない。
理解はできる。
が、『リトル・マーメイド』は”それでいい”のだろうか?


そもそも『リトル・マーメイド』はオリジナル版であれ、実写版であれ、愛の物語に「見た目が違うもの同士であったとしても偏見を捨て、対等な存在として認め合おう」というメッセージが織り込まれた物語ではなかったのか?*28
なのに、魚たちを文化なき声なき存在に貶めるのはどういう了見なのか。
Les Poissons におけるマーシャルのセリフをさらに読み込むならば、そうした態度こそ「実写」にしたことであぶり出された差別の意識が根底にあるともいえる。
フォトリアルな身体を持った魚たち*29が歌ったり演奏したりするのは「不自然」なのだ。アニメなら人間と動物の描線は同じでその境界をある程度あいまいにでき、魚が人間のようにふるまっても許されるかもしれないが、現実に近い質感のCGでは「違和感」が出てしまう。
それが常識的な感覚というものだ。


だが、そんな常識的な感覚を乗り越えるのがフェアリーテイルであり、ミュージカルであり、映画のマジックではなかったのか。
そうでなくて、どうして物語に理念を込められるだろう。


実写版『リトル・マーメイド』は夢も魔法も信じていない。
それどころか自分たちの現実のために他者から声を奪っている。
この映画の海の底は、真っ暗で、凍てつくように寒い。



*1:より正確にはアシュマンは88年の『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』からディズニー作品に携わっている

*2:https://www.youtube.com/watch?v=Sh02RE9Y54Q

*3:一度出てきたナンバーの旋律や歌詞を劇中で再利用すること

*4:主人公の願望をプロットの早い段階で歌として提示する(「Part of Your World」)ことや、オープニングから物語に直結した歌を入れてくる(「Fathoms Below」)こととか

*5:谷口昭弘『ディズニー・ミュージック ディズニー映画 音楽の秘密』スタイルノー

*6:https://www.laughingplace.com/w/articles/2020/05/14/10-things-we-learned-from-kirk-wise-and-gary-trousdale-during-wdfm-happily-ever-after-hours/

*7:ドン・ハーン監督『ハワード ディズニー音楽に込めた物語』2018年

*8:あれはあれで大したものだ

*9:カリブ海グアダルーペ島やマルティニーク島発祥のルンバに似たダンス。もちろん begin the beguine でダジャレにもなる

*10:原詞では単に slug だがここでは sea slug のこと。画面に映っているのもウミウシ

*11:実写版ではアリエルも一緒に歌ったり楽しんだりして、一定の効果は見られる

*12:当初、マスカーとクレメンツの監督コンビは英国風の堅苦しい執事をイメージしていたが、アシュマンが現在のイメージに変えさせた。セバスチャンがトリニダード訛りなのはアシュマンが幼少期にそこで過ごした影響であるという説(https://www.mouseplanet.com/12989/Ariels_Tale)と、もともとアシュマンはジャマイカ訛りを臨んでいたがセバスチャン役声優のサミュエル・E・ライトがそれではうまくいかないと考えてトリニダード訛りとジャマイカ訛りの折衷みたいにしたという説がある。

*13:トリニダード・トバゴを起源とする音楽ジャンルで、トリニダードの移民が多く住んだイギリスで50年代に勢力を築いた。映画版『パディントン』にカリプソのバンドが出ているのもそうした背景。

*14:好意的に取るならば、終盤のコーラスは踊っている魚たちの歌声とも解釈はできる。しかし、セバスチャンとフランダー以外に喋れないこの海においてそのような魚たちが存在できるのかどうか。

*15:https://collider.com/the-little-mermaid-director-rob-marshall-interview/

*16:ロシア出身のセルゲイ・ディアギレフが率いて欧米で活躍したバレエ団)を参考にしたエピソード((https://www.washingtonpost.com/entertainment/theater_dance/how-walt-disney-got-rite-of-spring-right/2013/06/19/8d008e78-d895-11e2-a9f2-42ee3912ae0e_story.html

*17:モダンダンスの巨匠アルビン・エイリーによって設立されたアフリカ系アメリカ人のダンス・カンパニー。

*18:ヨーロッパで見られるウグイの仲間の淡水魚

*19:ヨーロッパに棲息する最大級のタラ

*20:宮本直美『ミュージカルの歴史 なぜ突然歌いだすのか』中公新書

*21:アリエルにかけたダジャレではない。いや、そうなのかもしれない。

*22:遠景になるとなぜか人魚しか映らないが。ちなみにトリトン王が入場する場面にはグーフィーも映っている

*23:ちなみにこの場面を変えるということは唯一といってもいい宮廷音楽家としてのセバスチャンの活動場面をなくすということでもあり、彼のアイデンティティの軽視でもある

*24:実写版では、どうもセバスチャンやフランダーの喋る組と他の魚たちの扱いが違う。カツオドリのスカットル(オリジナル版ではカモメだった)は魚を捕食しながら登場するのだが、それを目の当たりにしてもフランダーやアリエルはフレンドリーにスカットルに接し、スカットルもフランダーやセバスチャンを捕食対象としてみなさずに行動する。王国内ではなにかしらの格差がつけられているのだろうか?

*25:https://www.indiewire.com/features/interviews/little-mermaid-rob-marshall-cut-sebastian-scene-1234866180/

*26:カギで吊るされている魚の絵を目撃する

*27:エリックはモーセみたいに王族に拾われた養子であるというややこしい設定になっている

*28:最後にはアリエルがヒレを捨てて人間社会に同化してしまうにしても、だ

*29:ディズニー実写リメイクにおけるフォトリアル動物路線は1950年代以降もかすかに残っていたディズニーにおけるゴムホース的/原形質的な身体を完全に殺してしまったとおもう

Steam で遊べるメタフィクションなインディーゲーム入門

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ファッキンホットですわね。
四季がぶっこわれた日本におりますと、季節の感覚がなくなるもんでやんすが、じゃあ令和の日本人はどこに四季の風物を見出しておったかってえ申しますと、それが Steam のサマーセールだったんでございますな。


www.famitsu.com


今年のサマセは6月30日からだそうです。
それを聞きつけた信夫っつぁんがのご隠居の家に顔を出して、

「おおい、ご隠居、サマーセールでちょっくらいいかんじのゲームをな、ふたつみっつ見繕ってくんな」
と、まあ、こう申すわけです。
「そんなのはね、おまえさん、なにもあたしに頼まなくても、ゲームサイトとかtwitterとかでセールのたびにオススメソフトをプレゼンしてくれとるやろ。そういうのを見りゃええ」
「ええ〜、めんどくさい」
「めんどくさいって。めんどくさくはないよ。スマホをちょいちょいやればええんやし」
「しかしねご隠居、風情ってもんが……」


めんどくさくなってきた。
枕は投げ捨てて Steam で遊べるインディーのメタフィクションゲームの話をします。
メタフィクションゲームとは、メタフィクションのゲームです。虚構であることに自覚的なゲームです。
なんで「メタフィクショナルなゲーム」などとは呼ばないのかという点に関しては、営業上の機密に該当しますのでお答えできません。
なんでインディーだけかというと BioShockとか NieR: Automata とかも出てきて際限がないからです。
なんで Steam 限定かというと、メタフィクション系は itch.io とかに無限にあり際限がないからです。
以下の文章は去年出した同人誌に載せたメタフィクション系ゲームの紹介リスト記事*1であり、情報もだいたい当時のものです。ちょっとだけ最新の事情や私がその間に遊んだゲームを追加したりもしています。


五大メタフィクションインディーゲームとはなにか。えっ、てか、なに(笑い)

これは今回条件に該当しないので取り上げないサイコマンティス


 みなさんはメタフィクションなゲームは好きですか。わたしは好きです。おまえが好きかどうかなどどうでもよい。

 そういうわけで、本稿ではsteam 五大メタフィクションゲームを軸にメタフィクションゲームを紹介していきます。
 五大メタフィクションゲーム? なんだそのくくりは、と思われる方もいるかもしれません。正しい疑問です。なぜならわたしが勝手にそう呼んでいるだけ。すなわち、 The Stanley ParableUndertaleDoki Doki Literature Club!OneShot The HEX の五本からなります。これら五本の枝を伸ばしていくとメタフィクションゲームの傾向がわかりやすくなります。なるということにしてください。*2

The Stanley Parable:「ナレーター」に抗う/従う

The Stanley Parable

 The Stanley Parableはウォーキングシミュレーターと呼ばれるジャンルに属する一本。主人公スタンリーくんに憑依して、3Dのオフィスを一人称視点で歩き回ります。開始時から「ナレーター」による語り、もとい指示が飛んできますが、従うかどうかはプレイヤー次第……といった内容です。もちろん、「ナレーター」が用意した物語に従ってもいいわけですが、愉しいのは徹底して予定調和な流れに反抗していくプレイです*3。とにかくエンディングの数が豊富で、逸脱の数だけエンディングが用意されています。エンディングがあるということはそうした逸脱すらも開発者の用意した物語のうち、というジレンマがあるわけですが、そうしたメタフィクションの原罪さえ気にしなければ非常によく作りこまれたコメディです。ちなみに二〇二二年五月にリメイク版となる The Stanley Parable: Ultra Deluxがリリースされ、大幅パワーアップ。公式日本語も実装。ただ、無印を内包しているとはいえUD版はやはり無印の続編としての側面が強いので、先に無印を別に買ってやったほうがわかりやすいかと思います*4

 The Stanley Parable の作者、Davey Wreden が生み出したもう一つの傑作が The Beginner's Guide。本作で語りかけてくる「ナレーター」はなんと Davey そのひと。彼の友人である謎めいたインディーゲーム制作者 Coda の残した珍妙な作品群を通して、Coda の人柄や苦悩を探っていく……といった内容です。この作品が特異なのは、コンテンツの受け手であるユーザーもまた表現者としての欲を持っているというSNS時代のクリエイター/ユーザーの関係にスポットを当てたところでしょう。余白も多く、深読みを誘うゲームで「真相」を考察したネット記事も多くあがっています。どのように受け取るかはプレイヤー次第ですが、あなたがなにがしかのクリエイター、ないし、日々SNSを利用している人であれば―要するに全人類ですが―ぜひともプレイしていただきたい一本です。日本語MOD有。 
  The Stanley Parable にはもう一人開発者がいます。その William Pugh がてがけたウォーキングシムが Dr. Langeskov, The Tiger, and The Terribly Cursed Emerald: A Whirlwind Heist 。ながったらしいタイトルやんな。これは呪われたエメラルドを手に入れるために博物館へ潜入するステルスアドベンチャー………になるはずだったゲームが、プレイヤーがプレイする直前に不具合をきたしてしまいます。しょうがなくなったプレイヤーは「ナレーター」の指示に従ってゲームの裏方仕事に回ることに。The Stanley Parable のようなボリュームや The Beginner's Guide のような思弁性には欠けますが、そのぶんライトにユーモアを堪能できます。日本語化MOD有。

 逸脱が予定された The Stanley Parable の系譜で代表的なところといえば、ICEYでしょうか。こちらは2Dのメトロイドヴァニアアクション……の体裁で、The Stanley Parable のように「ナレーター」の指示に抗いまくってどんどん逸脱していきます。ゲーム内の世界観とメタ要素が上手くつながっていた The Stanley Parable と違って、やや上滑りなところもありますが、アクションゲームとしてもなかなか作りこまれており、声優も豪華。日本語化MOD有。

 The Corridorはシンプルな3Dウォーキングシム。ボタンしかない回廊に放り出され、そのボタンを押すと「二度とゲームを立ち上げるな」と警告されて強制終了されます。それでもめげずに再度ゲームを立ち上げると……といった内容。コンセプト的には Please, Don't Toutch Anything なども想起させますね。三十分程度で終わります。The Stanley Parable の「ナレーター」がゲームであることを強いてくる存在だとしたら、こちらの「ナレーター」はゲームであることを拒絶してくる存在といえるでしょう。日本語版MOD有。

 ゲームであることを拒絶してくる「ナレーター」の出てくる作品で近年高い評価を受けたのが There is No Game: Wrong Dimension。 ゲームを開始すると「ここにゲームはない!」とロシアなまりの英語でつっけんどんにプレイヤーを追い返そうとしてきます。やるなと言われると、ゲームをやりたがるのがプレイヤーの性というもの。どうにかこうにかしてゲームを始めると、そこには想像以上に深いストーリーが見えてきます。この手の作品としては極めてウェルメイドで、強いていえばそのウェルメイドさが鼻につくほど。トランスジャンル的な点は The Hex などとも似ています。公式日本語有。

 プレイヤーによる反抗とはまた違う味付けでメタとナレーションで戯れているのは Thomas was alone。複数の棒というか長方形を操作して、ステージごとのゴールを目指す、いわゆるプラットフォーマー・パズル・アクションです。それぞれの長方形は特性も名前も性格も異なります。いや、見た目はただの無機質な図形なので個性も人格もないだろ、とおもわれそうですが、それらを肉付けしていくのがプレイ中に挟まるナレーションです。ほとんど実況のような頻度で展開を説明したり、攻略のヒントをくれたり、「トーマスは○○だと思った」といったノリでプレイヤーの図形たちの「気持ち」を教えてくれます。最終的には幾何学的なスクショからは想像できないようなヒューマニスティックな共感と呼び起こしてくれることでしょう。日本ではあまり注目されてこなかった作品ですが、多くのフォロワーやパロディ作品を産んだ古典です。The Stanley Parable やツボおじさんこと Getting Over It with Bennett Foddyなどもそうした文脈に位置づけられる一作といっていいでしょう。残念ながら、日本語版はなし。

The Hex; トランスジャンルなゲームたち

The HEX

 The Hexの話題が出たので The Hex の話をしましょうか。開発者は Daniel Mullins。誰やねん、とお思いの方には Inscryption と Pony Island の作者といえば伝わりやすいでしょうか。ここに挙げたタイトルからもわかるとおり、メタメタなゲームを作りたがるクリエイターです。
 The Hex はいうなれば、ジャンルごった煮のオムニバスです。というと、『メイド・イン・ワリオ』のようなカジュアルなミニゲーム集を想像するひともいるかもしれませんが、こちらはもうちょっと内省的です。プラットフォームアクション、JRPG、2Dオンライン格闘ゲームトップダウンシューターなどといった六種類のジャンルの主人公たちを操り、かれらの過去、そしてゲーム内で発生すると予告されたある事件の「犯人」を探ります。興味深いのはキャラクターたちのストーリーだけではなく、現代のゲーム文化が批判的にフィーチャーされている点。steam のレビューに左右されるゲームの評価、ユーザーの身勝手な要望によってバランスが崩れていくオンラインゲーム、ゲームをスポイルする動画配信、ゲーム本編をとことん崩壊させていくチートMODなどといったユーザーからすれば当たり前の光景がトキシックで痛々しいものとして描かれます。さきほどふれたジャンル横断的な作りだけではなく、こうしたゲーム文化への批評も There is No Game と共通するところで*5すが、どこまでもウェルメイドさを保つ There is No Game に対して、本作は危ういまでに「個人的」。こうした昏いアングラ感もインディーの魅力です。長らく日本語版はありませんでしたが、二〇二二年にようやく公式日本語化。

 Mullins の steam デビュー作であるPony islandはトランスジャンル(アクションとパズルの往復)、メタな設定と語り(悪魔に呪われた筐体から逃れろ!)、プレイヤーと制作者と作中キャラクターの対立、と、その後も Mullins の特徴となる要素を兼ね備えています。日本語版MOD有……のはずですが、もしかして今はない?

 二〇二一年のインディーゲーム界に衝撃をもたらした InscryptionはMuliins の集大成といってよいでしょう。謎の小屋に閉じ込められて、デッキ構築型カードゲーム(すごろくっぽくRPGを進行していき、その過程でデッキが強化されるタイプのカードゲーム)をやらされる………かとおもいきや、「盤外」にも手を伸ばせることにも気づき……という Mullins 節が効いたメタい一本です。前二作に比べて作品中でのストーリーが飲み込みづらく、かつ未消化な印象を持たれるでしょうが、さもありなん。本作のストーリーを理解するためにはゲーム外にも謎解きが容易されているのです。LARPをはじめとしてリアルでの謎解きが大好きなアメリカ人っぽさ炸裂ですね。作者はカナダ人らしいですが。もちろん公式日本語版あり。
 これら三本の Mullins 作品を通してプレイすると、かれ独特の問題意識や意外なまでのウェルメイド志向がわかります。

 さて、トランスジャンルなゲームはまだまだあります。

 What the golf ?は二〇二一年の暮れに RTA in Japan でバズったこともあり、ご存じの方も多いのではないでしょうか。ゴルフのコースをひたすら回るゲームですが、タイトル通り、「これってほんとにゴルフなの?」とツッコみたくなるようなステージがガンガン立ちはだかってきます。このゲームをやり終えるころにはサッカーも宇宙開発も『アングリーバード』もみなゴルフなのだと悟りを得ることでしょう。日本語版有。余談ですが、ゴルフゲームはなぜかと形式を問われがちな伝統があるようで、変形コース(Golf it! 等)は序の口、ミニマルパズルゴルフカードゲーム(Golf Peaks)、終末世界 (Golf Club Waste Land)、RPGとゴルフの悪魔合体(RPGolf)などバリエーション豊か。マリオですら走りながらリアルタイムゴルフアクションをやる時代ですからね。続編の What the Bat?は両手がバットの子どもの人生を追っていく物語で、野球はまったくしません。
 tERRORbaneはバグだらけのJRPG風ゲームをお茶目なゲーム開発者とやりとりしながら攻略していくジャンル横断型コメディRPG。グリッチを剥がしてマップを上書きしたり、スクリプトを書きかえてオブジェクトを変更したり、いきなりポケモンやカードゲームになったりと、パロディ面を含めてとにかくやりたい放題です。現実のレイヤーをゲーム内に明示的な形で取り込んでメタフィクション風味をもてあそぶ点では、There is No Game や ICEY の「安全に管理されたメタフィクションゲーム」の系譜に属するかもしれません。これはこれでおもしろいサブジャンルだとおもいます。*6
 EVOLAND EVOLAND 2で越えられていくのはジャンルではなく、グラフィックです。ゲームボーイのようなモノクロ画面から始まり、段階的にグラフィックが向上、世界が豊かな色づいていき、最終的には3Dになっていきます。ゼルダライクでパロディに溢れたゲームはお世辞にも快適とはいえず、ストーリーに厚みはないものの(でも2は頑張ってはいます)、表現面で一見の価値はあるといえるでしょう。1は日本語版ありますが、ローカライズに伴う不具合がやや多かった記憶。2は日本語版なし。

 グラフィックが劇的に変わる演出といえば、The Messenger。基本的にはレトロな優良ニンジャアクションなのですが……是非その目で「変化」をごらんあれ。予告動画は見るな。死んだときに語りかけてくる悪魔やショップ屋の店主もバタくさいメタジョークを連発してきます。単純に愉しいアクションゲームでもあるので、メタフィクションにさして興味ない向きにもオススメです。日本語版有。

 異なる世代のグラフィックの世界を行き来するといえば Anodyne 2 もですね。こちらは2Dと3D。厳密にメタフィクションといえるか微妙なところもありますが、トランスジャンル的な一面もあり、なによりめちゃくちゃヘンなゲームなのでやってほしい。ナンバリングタイトルですが、1は未プレイでもよし。日本語版有。

 越境の極北は Glittermitten Groveかもしれません。あまり多くは語れませんが、ストア紹介に載せられているファンシーなサンドボックス系ゲームから最終的にとんでもないところまで飛びます。あまりゲームとしてはおもしろいほうではありませんが、とんでもないことはたしかです。日本語版なし。

 逆にジャンルを増やすのではなく、コアを切り詰めたゲームも存在します。indecision.がそれです。「ハイク・プラットフォーマー・アクション」を自称する本作は、一ステージ数秒から十数秒で終わるプラットフォーマー・アクション(要するにマリオみたいなゲーム)を次々とやらされるミニゲーム集です。極限までそぎ落としたわびさびの美。同作者(Bilge Kaan)は stikirという、「ゲーム作りに悩むインディーゲーム制作者」を主人公にしたアクションゲームをリリースしており、そちらもメタいです。どちらも日本語版はありませんが、特に問題なくプレイできます。

undertale:アンチジャンル

Undertale

 複数のジャンルを往来するゲームもあれば、特定のジャンルの意義を徹底的につきつめるゲームもあります。
 undertaleは「RPG」の在り方に愛情深く疑義をつきつけたアンチジャンルの傑作でした。経験値やレベル、そして戦闘といったRPGのシステムが奥底で意味するものを単位露悪以上の深度で物語に組みこんだのです。むろん、そうした問題意識を含んだゲームは undertale が最初ではなかったわけですが、ともかく、undertale はその後のインディーゲームシーン、インディーにおけるメタフィクションへの意識を決定的に変えた一本であることは疑いありません。公式日本語版有。
 アンチジャンルにおける steam の古典といえば、Spec Ops: The Line。戦争TPSです。一応シリーズらしいのですが、完全に独立したタイトルです。戦場で気持ちよく無双して敵兵を虐殺すること。戦争を題材にしたゲームにつきまといがちなその背徳的な快感に、このゲームは真正面から問いかけてきます。「それでいいのか」と。その問いかけ内容そのものだけでなく、「どこでどう」問いかけられてくるのかも必見です。無抵抗の市民を虐殺するイベントが物議を醸したCall of Duty: Modern Warfare II (二〇〇九年)の文脈を踏まえると、よりどう時代的な批評性を感じられます。 わりと古めのゲームというのもあり、「steam のインディーでメタ表現」といえば、まず名が挙がる一本です。日本語版有。

proxia.hateblo.jp
(Spec ops関連記事)

 昔のコンシューマ機で発売されたゲームは扱うかどうか難しいところですが、大古典(一九九七年発売)として moon は外せないか。元はPS1で発売された作品ですね。プレイヤーである少年がある夜に自分がプレイしていたゲームの世界に吸い込まれてしまいます。その世界では(かつてプレイヤーが操作していた)勇者は勝手に民家に押し入って泥棒はするわ、いたいけな犬をいじめるわ、とにかく悪評紛々たる人物でした。 少年は女神様から”ラヴ”を集めるようにいいつけられ、へんてこ世界に住むへんてこな住民たちと交流していきます。RPG的な世界観を基調にしながらも、戦闘がないのがいかにもアンチジャンル的。undertale を一部先取りしていたといえるでしょう。RPGでいえば、YIIK: A Postmodern RPGも文字通り「ポストモダン」であるそうなのですが、プレイがタルいのでクリアできていません。日本語版有。

  I (don't) Hate Hentai Puzzlesはアンチジャンルはアンチジャンルでも、マイナーなジャンルに眼をつけた一本。CEOの失踪により滅びかけた Steam(作中では St. EeM)。かつてのような多様なゲームを愉しむ風土はなくなり、ヘンタイパズルゲーム(簡単なパズルを解くとエッチな絵を閲覧できるようになるゲーム)がランキングを独占する地獄の有様になっていました。愛するプラットフォームの惨状を憂えていた主人公でしたが、「これだけ人気ということは、もしかしておもしろいのかも……」とランキングトップのヘンタイパズルに手を出します。これがまあ、クソみたいな出来なんですね。生粋の Steam ユーザーである主人公は怒りの「オススメしない」レビューを投稿します。すると、全 Steam ユーザーがそのレビューに逆上して非難を浴びせてくるのです。はたして、Steam に何が起こっているのか……という陰謀論的ヘンタイパズルシミュレーターADV。ピクセルドットで再現された Steam のブラウザからヘンタイパズルを購入・プレイしたり、他ユーザーと交流を行ったりするインターフェイスもユニークです。雰囲気は非常に良いのですけれど、ボリュームが少ないうえ、やや尻切れトンボ気味で終わるところが玉に瑕。日本語版は今のところありません。

 王道勇者ものが好きなら Reventureも。城で王様に謁見し、「お姫様を助けてくれ、勇者よ!」頼まれる王道横スクロールアクションRPGに見えますが、実は究極的には「クリア」は目的ではありません。本作の真の目的は百個以上存在するバッドエンディングを収集すること。雑魚に殺される、毒沼に落ち、自分の仕掛けた爆弾の爆風に巻き込まれ、王様を弑して王位を簒奪したのちに自分も部下に裏切られて暗殺されたりしていきましょう。プラットフォーマーの本質が「重ねられていく無様な死」であることに着目した希有なコメディです。日本語版有。

 そもそも二〇一〇年代以降のインディーゲームシーンは2Dプラットフォーマー・アクションに対するアンチから始まったといっても過言ではないかもしれません。ジョナサン・ブロウの Braidは、最初は時間巻き戻しギミックをフィーチャーしたパズルアクションとして現れます。主人公の目的は「プリンセスを救い出すこと」。いかにもマリオめいたヒロイックなセッティングですが、ゲーム内で日記の断片を見つけて読んでいくごとにどうも不穏な雰囲気が強まっていきます。ステージをクリアした後にキノピオよろしく登場するぬいぐるみたちにもプリンセスの行方がわからない。そうして、プリンセスの謎がゲームのギミックとも絡んできます。
 ゲームは規則によって成り立っています。ゲームを疑うなら、そのゲームを成している規則を疑っていくこと。それが次の世代のゲームを生んでいく。二〇〇九年に発売され、後のインディーゲームバブルの嚆矢となったBraidは、その背中でもってインディーの心意気を後進たちに伝えたのです。日本語版有。
 ちなみにブロウはメタが好きというよりは自分が好きすぎる結果創作物も自己言及的になってしまうタイプだと思うのですが、最高傑作といわれる3Dパズル The Witnessもそのうちか。*7

 

Doki Doki Literature Club!(『ドキドキ文芸部!』) :メタフィクションに向いた職業ーーヴィジュアル・ノヴェル

ドキドキ文芸部

 Doki Doki Literature Club!はアンチ恋愛シミュレーションといった趣のADV。そういうとネタバレになるから難しいですね。さっきのはうそ。かわいい女の子たちとなんのジャンプスケアもなく平和に遊んで暮らすゲームです。グレードアップ版となる有料版が出ていますが、メタ表現的にはむしろ後退しているので、無料版をプレイした方がよいです。満足したら、お布施のつもりで有料版を購入しましょう。追加シナリオもついてるよ。有料版は公式日本語有で、無料版は有志MODだったように記憶しています。

 DDLCを切り口にするのであれば、当然、ノベルゲーやテキストドリヴンのADVにおけるメタフィクション作品に言及していったほうがよい気もします。事実、Steam には同人・商業問わず、ノベルゲームの古典的な有名タイトルや野心溢れるタイトルが溢れています。*8最近は特に日本の古典作品が沢山入ってきている気がする。そうした観点でいえば、DDLC自体は出た当時はジャンル的にそんなに新しいことをやっているわけではなかった。

 ですが、ここではあまり深入りできません。わたしはエロゲ・同人ノベルの文脈をほとんど通過してきておらず、その流れを汲むノベルゲームもまた不案内です。本稿が真正面からのメタフィクションゲーム論を避けている理由もそこにあります。他の言語圏ならいざしらず、少なくとも日本語圏でエロゲ(死語となっている感もあるけれど美少女ゲームともいう)の積み重ねてきたメタフィクション表現の歴史を踏まえずにメタフィクションゲームを語るのはなんとも心許ないのです。とは言い条、ここでこうして現に語っているわけですが。

 というわけで、筆者の数少ない経験から絞り出せるタイトルといえばハイ、これ。ドドン。『レイジングループ』。人狼ゲームみたいな儀式に巻き込まれて何度も死に戻りを繰り返し、生存ルートと儀式の秘密を探る伝奇ループADVです。ループものというのはメタフィクション要素でもやや特殊な立ち位置でして、「ゲーム内のキャラクターがループ現象を自覚した途端に、その世界を現実と信じているにもかかわらず、虚構的な感覚で受け取ってしまう」ものです。ループを繰り返していくうちに「どうせまたこいつら(自分も)生き返るんだから」と投げやりになっていくアレですね。ループものでは映画『恋はデジャ・ヴ』のころからどの作品でも必ず一度は生じる無気力症で、最近の海外のループものではその永遠に繰り返さざるを得ない徒労感から物語がスタートする作品が増えていますが、そもそもループという現象そのものがゲーム的な現実感覚から……話が逸れました。ゲームのループですね。ループの出てきて、作中のキャラがそれを自覚的に利用するのであれば、それはメタフィクションゲームです。このくらいのスタンスでええんちゃいますか。『レイジングループ』はとにかくストーリーの思い切りがよいです。自分が吊られたり襲われたりを避けつつ、狼の正体を探っていかねばならない、という人狼ゲームのキモをノベルゲーム的なシステムとシナリオでちゃんと完遂しているのは驚くべき偉業といってよいでしょう。ギャグパートのノリにはついていけない人も多いでしょうが……まあ、そういうものなので。ループ以外の点でもメタ要素が配されてもいます。ケムコってインディーなんですか? うーん、どうだろ。日本製なので日本語版有。

 ループに自覚的な人狼モチーフで『レイジングループ』と双璧を成すもうひとつの傑作に『グノーシア』もあります。こちらも『レイジングループ』とはまったく別のアプローチから人狼のゲーム化を成功させた作品です。人狼ファンも、そうでない人にもマスト。日本製。*9
 メタ表現を含むミステリアドベンチャーでは、『春ゆきてレトロチカ』も見逃せない一本。ドラマパートはなんと実写で展開されます。しかしそこに流れる血は間違いなくノベルゲーム・ミーツ・新本格。ここまで言ったらネタバレ同然になってしまうのが、ミステリゲーム紹介の難しいところですね。「映像を使ったゲームでしかできない仕掛け」を達成しているのは間違いありません。もちろん、オール日本語。メタ表現から少し離れますが、近頃は実写映像をフルに用いたインディー作品も増えてきたのが興味深い。レトロチカはスクエニですが。っていうかスクエニはあきらかにインディーじゃないですが、ほらスピリットがね。
 スクエニの近年のチャレンジングなADVタイトルだと『パラノマサイト』なんかもおもしろかったですね。なにせ、ゲームを起動するとプレイヤー名の入力画面が立ち上がり、入力するとパソコンに登録しているユーザー名のほうで呼ばれます。PS版の Serial Experiments Lainかよ。こういう態度なので伝統芸能みたいな滋味のあるメタネタが歌舞伎のようにキマりまくった感じでお出しされてきます。それらは手なづけられた安全なメタ表現で衝撃に薄いかもしれませんが、テイストとしては十分味わいあるものです。

愛らしいビジュアルが特徴の BAD END THEATERはバッドエンドが運命づけられた少女、悪魔、魔王、勇者の四名の群像劇。視点人物の選択や行動を変えると他の主人公たちの物語展開にも影響をおよぼすいわゆるザッピングシステムを採用しており、『428』や『街 運命の交差点』、そして前述の『パノラマサイト』のスケールをこぢんまりとさせた印象。ストーリー自体もメタい。日本語版有。

 ノベルゲームというジャンルそのものをメタ的に捉えた海外の作品としては、milk inside a bag of milk inside a bag of milk があがります。お母さんからスーパーにミルク(舞台がロシアなのでミルクがプラ製のバッグに詰められている)を買うようにお使いを頼まれた少女が行って帰ってくるまでを描いた掌篇です。特異なのは主人公である少女の現実認識で、彼女は自分の見る世界を「ビジュアルノベル」と捉えています。そのメタっぽさを自覚しているのが複雑なところです。プレイヤーはイマジナリーフレンドとして召喚され、彼女から「読者」の役割を与えられます。そうして選択肢で彼女にささやきかけていくわけですが、あまり彼女にプレッシャーをかけるような選択ばかり行っていると「あなたはいらない」と存在を消されゲームオーバーになってしまいます。キャラクターがプレイヤーに反逆するメタ表現の一種とも捉えられますが、それ以上の奥行きと屈託を感じさせる怪作です。後日譚にあたる続編の Milk outside a bag of milk outside a bag of milk も是非。オープニングで Milk inside~のあらすじが Serial Experiments lain風のアニメーションでおさらいされます。そうしたスピリットの流れを汲む作品です。どちらも日本語版有。

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 ここからは、DDLCよりホラージャンルへと向かいましょう。ホラーもまたメタフィクション表現に向いたジャンルです。なにせ、「メタホラー」という呼称があるくらいです。プレイヤーを怖がらせるための表現ですからね。平気で虚実の境を越えてきます。ちなみに筆者はこのジャンルも全然得意ではないです。怖がりなので。ヴィジュアルノベルも避けてきてホラーも苦手、メタフィクションに向いてなくないか?
 DDLCのお家芸といえばPCのディレクトリへ介入してのファイルいじり。これを最初に試みたのは1997年に発売されたPCゲームの Virus: The Game といわれています。先駆性はともかく、かなりのクソゲーだったようで、評判は激烈に悪いですが。こうした表現は Nightmere などのスケアウェア(たとえば Nightmere では感染すると五分ごとに恐ろしげな頭蓋骨の絵が表示される)などからも想を得ているそう。

 で、ディレクトリ介入ホラーの血筋を受け継ぐのが怪奇の国イタリアからやってきた IMSCARED。デスクトップにゲーム専用のフォルダが生成され、要所要所でテキストファイルを介してのヒントやメッセージが出ます。ときには Youtube動画へ誘導されることも。ローポリゴンの主観3Dで、人によっては猛烈に酔います。筆者は酔いました。あと怖い。ローポリでも怖いものは怖い。日本語版なし。*10

 Steam で遊べるディレクトリ介入系のメタフィクションゲームというと、ホラーではないですが、『アトペス』もあります。もともとはニコニコ動画のゲームコンテストで受賞した作品。ミニゲームこなしつつ、別パートでノベルゲーム? のような物語を見守っていくという形式です。ユニークな点がいくつかあって、ミニゲームとノベルゲーパートは起動ファイル自体分けられていて、ミニゲームをクリアしたあとでノベルゲーをいちいち起動させて進行しなければなりません。いくつかあるミニゲームの切り替えも独特で、ゲームカセットに該当するテキストファイルをゲームハードに擬したフォルダに差し替えていくのです。ミニゲームのジャンルもシューティング、プラットフォーマー・アクション、昔懐かしののハイパーリンクを駆使したゲームブックと多様。どれも出来が中途半端なのですが、その半端さがのちのち意味を持ってきます。ゲーム研究者の松永伸司の「十分に発達したクソゲーはカウンターゲーミングと区別がつかない」というフレーズを想起させます。「ジャンル:哲学」を自称するだけあり、ストーリー内容は思弁的で、そこで好き嫌いが分かれるといいますか、わたしははっきり合わなかったのですが、プレイした人たちの評価は軒並み好評な模様です。無料。日本語版有、むしろ日本語しかありません。*11
 似たようなゲームでオススメなのは Outcore: Desktop Adventure でしょうか。こちらもファイル介入しまくり系でトランスジャンル的。昔懐かしのデスクトップアクセサリーみたいな感じでパソコンの中にいる主人公の少女が直接「プレイヤーさん」と会話するというモロもモロなスタイルです。クオリティはかなり高いのですが、なんと無料。日本語版あり。*12
 

 ホラーに戻りましょう。

 Dere Evil.Exe はオーソドックスなプラットフォーマー・アクション……見せかけたメタホラーアクション。進行するにつれ世界が狂っていき、難易度も鬼畜めいてきます。そのころには「Dere」がなにを意味するかも理解できてくるでしょう。本作を制作した AppSir Games は同一ユニバース上でホラーを作り続けている異色のチーム。Steam では他に HopBound という Dere Evil.Exe の続編となるメタホラーもリリースしています。世界観やモノにも凝るタイプのようで、シリーズ作中に出てくる「呪いのゲーム」をスーファミのカートリッジで再現したりしているのだとか。現実を不安にさせてやろうとする気概を感じさせます。

『Her Story』や『Telling Lies』といった実写映像を使った実験的な作風で知られるサム・バーロウの『IMMORTALITY』は典型的なホラーではないかもしれませんが、プレイヤーをゾッとさせる演出では図抜けています。あんまりネタバレなので語れませんが、物語そのものも現実へと滲出していったりする。日本語有。

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 ホラーとは厳密に異なるかもしれませんが、OMORIもおさえておきたいタイトル。なんらかの理由でひきこもりになってしまった主人公が、「ホワイトスペース」という謎の空間を通じて現実世界と空想世界を並行して冒険していくRPGです。二つのレイヤーに分かれた世界が互いにどう作用しあっているのか、時折現れて主人公を脅かす黒い影はなんなのか……空想世界はかわいらしく描かれる一方で、『ゆめにっき』(そういえばこちらも Steam で利用可能ですね)やホラーのようなサイコな恐怖描写が出てくるのも特徴です。*13二〇二一年のインディーゲームを代表する一作。日本語版有。

OneShot:あるいはその他のゲームたち

 特になんも考えなく五番目にOneShot を挙げました。本来ならディレクトリ介入系とかの文脈で触れておくべきゲームだったでしょうか。まあ、ともかく、傑作です。メタフィクションにおいては特にプレイヤーの神性とその「選択」の重要さが強調されます。OneShot はそこに魅力があるといえますし、それ以上のものを見せてくれるともいえる。と日本語版有。
 他の項で触れられなかったゲームやカテゴリにメンションしておきましょう。

 the magic circleメタフィクションゲームではインスタントクラシックと見なされている作品です。プレイヤーは「未完成作である一人称視点ファンタジーRPGの主人公」となり、テクスチャもろくに貼られていない灰色の世界を行きます。その道中で開発者たちの内輪もめを延々を見せられて……といった内容。特徴的なのはハッキングシステム。遭遇した敵のコードを書き換えて、自分にダメージを与えられないようにしたり、同士討ちさせたり、とやりたい放題できます。重要作なのですが、日本語版はありません。

 お手軽なところでは、I hate this game 。これはわかりやすくぶっとんだアクションゲームです。 ステージごとに画面の左端にポップした主人公を右端のドアに連れていくだけ、というだけのシンプルなプラットフォームアクションなのですが、全百ステージからなる本作は「左から右に行くだけ」に、とにかく凝ったバリエーションを繰り出してきます。ゴールであるドアが移動したり、突然3D画面になったりなんてのは当たり前。進行するごとにどんどんひねった(そしてメタな)解法を要求されます。日本語版はありませんが、特に英語力を必要としません。ステージ名がヒントになっているので、そこに注意すればいい程度か。

 Stories Untold 、四つのパートに分かれていまして、それぞれ主観視点のワンシチュエーションで、外部からの指示に基づいて色んな機械をいじくったりしていきます。通しでやると実は一貫した物語がある、という構造。プレイそのものも、「ゲーム画面を通してパソコンなどのディスプレイを見る」という二重性を伴っているんですね。たとえば、最初のステージでは古いコマンド入力型のアドベンチャーゲームをやらされます。一見何の変哲もなく進行していくのですが、どうもゲーム内の舞台が今自分が留まっているコテージであることがわかってきて……ああもう怖いやつ。これは怖いやつ。Steam 版に日本語は実装されていませんが、Switch 版ではなぜか日本語でプレイできます。不思議ですね。
*14

 社会・政治問題を主題に置く、いわゆるシリアスゲームもその特性上、メタ表現になりやすいジャンルです。否応なく現実をつきつけるのが目的ですからね。Steam で遊べるところだと amazonの倉庫で働く人々の「リアル」を描写した FULFILLMENTあたりでしょうか。ゲーム自体もアンチゲーム的ですが、ゲームオーバー後に題材となった問題にまつわる記事へのリンクが表示されます(シリアスゲームにはよくある手法)。日本語版有。社会派ADV『ヘッドライナー:ノヴィ・ニュース』のスタジオの作品というのがさもありなん。

 ゲーム画面のなかには一見メタ要素がなくとも、攻略を画面外から行わなければならない作品もあります。
 Keep Taliking and Nobody Explodesは複数人プレイ専用。ゲーム画面に表示された爆弾にしかけられたパズルを解体役のプレイヤーが解いていくのですが、そのプレイヤーにはパズルの解法がわかりません。PDFのマニュアルを持っている指示役のプレイヤーが声(音声チャット)でどうにかして解体役に解き方を伝えていくのです。*15ちなみにマニュアルも日本語化されているので安心。
 一方、The Longing は一人プレイ専用で、制限時間つきの爆弾も出てきませんが、代わりに要求されるのは待つこと。ひたすら待つこと。偉大な地下帝国の王の復活を400日間待たねばなりません。この「400日間」は現実の、リアルタイムでの400日です。王は勝手に寝て勝手に起きるので、エンディングを観るだけなら基本的になにもする必要がありません。公式の紹介でも、「ゲームを開始し400日後にまたゲームに戻るだけでも結末を見ることができます。実際ゲームをプレイする必要は全くありません。」と書かれています。Mountain などと並ぶ究極の放置ゲーでもあります。まあ、なにもやる必要がないだけで、実際にゲーム中で何かをしようとおもえば、地下帝国をトボトボ探検したり、自室で『ユリシーズ』や『白鯨』といった著作権の切れた大著の読破に取り組んだりもできます。私は今300日目ぐらいだったでしょうか。日本語有。*16


「Steam」「インディータイトル」だけで区切っても取り上げるべきタイトルはまだまだ尽きない*17わけですが、どこかで区切らないと本当に終わらないので、今宵はここまで。
みなさんも自分だけのメタフィクションゲームを見つけてくださいね。
グッバイ。



おまけの追記:メタフィクションとはなにか。

ビデオゲームメタフィクションはさまざまな方面から定義が試みられたりみられていなかったりするわけですが、個人的には James Cox というブロガーの2014年の記事におけるメタフィクション表現の四分類がしっくりくる気がします。
The Four Types of Metafiction in Videogames

すなわち、

Emergent Metafiction(創発的なメタフィクション

・自らがゲームであることを認め、プレイヤーに語りかけるゲーム。
・ゲーム側がプレイヤーに対して自らの虚構性を認めるときに顕れる。
 I.e. ゲーム中のキャラがプレイヤーに対して「私たちのゲームへようこそ、プレイヤーさん! 楽しんでいってください!」などとメッセージを発する。メニュー画面やチュートリアルは含まれない。

Immersive metafiction(没入的なメタフィクション

・プレイヤーが確立された役割のもと、架空の世界に入り込むゲーム。
・プレイヤーがある程度までプレイヤーとしての役割を果たしながら、フィクションの世界に入り込んでいるという事実をゲームに組み込んでいるもの。例えば、プレイヤーは一種の神のようなもので、電源のスイッチを切るだけで世界を消滅させられるとNPCが気づいている、といったゲーム。このタイプのメタフィクションではプレイヤーが自覚的に自分の立場やゲームとの関係性を利用して物語に参加する。

Internal metafiction(内的なメタフィクション

・ゲーム中のキャラが自己完結的なメタネタを入れるゲーム。
・ゲーム内部でキャラクター同士のやりとりの中で完結するメタフィクション。あるキャラが別のキャラに「この世界が実はゲームで、自分達はヒーローにただ殺されるのを待っているNPCだと感じたことはないか?」と問いかけるような自己完結的なもの。ゲーム世界の虚構性に触れてはいるものの、第四の壁を完全に破ることはなく、むしろそれを回避している。

External Metafiction(外的なメタフィクション

・ゲーム内のキャラクターを介さないメタネタのあるゲーム。
・ゲーム外の存在である開発者などがプレイヤーに向けてメッセージを発したりするもの。たとえばある部屋に入ったときに壁に「このゲームをプレイしてくれてありがとう! 開発者より」などと書かれているもの。多くの場合はゲーム内に隠されたイースターエッグとして配置されている。この手のもの最も古い例は開発者が自分の名前をゲーム中に記名した Adventure (ATAERI 2600)といわれる。*18


もちろんこれらの要素は一作品につき一つだけというルールがあるわけでもなく、一つの作品内で複数の属性を兼ね備えてたりもします。
この記事の冒頭で「メタフィクションとは虚構であることに自覚的なフィクション」とさらりと言い切った気がしますが、しかしゲームの場合はそこらへんむずかしくて、虚構であることに自覚的でないゲームなんてほとんどないといってもいい。ゲームは映画などとは違って、常にシステムメッセージやインディケーターなどが「ゲーム世界の外」に「プレイヤーに向けて」表示されており、これはそうした情報が「これはゲームである」という自覚がないと出てこない。
アクションゲームをやれば序盤のチュートリアルステージで「Aボタンでジャンプ」というメッセージが発せられるし、古いJRPGをやれば店で買い物したときに「*買った防具はちゃんと『装備』しなきゃダメだぜ!」と店主から言われる。
こうした細かい表現のメタ性みたいなのは昔から指摘されるところで、『moon』などはそのパロディからできてるといってもいいわけですが、しかし逆にいえばそうした細かいひっかかりを乗り越えてプレイヤーはまるごとそのゲーム世界をリアルに受け止めて感情移入したりできる*19わけで、そう考えると、ビデオゲームとは信仰の体系なのであり、ゲームデザインとはいかにその信仰をプレイヤーに堅固に保てさせられるかというアートなのかもしれない。
 
そういうことを上の記事を同人誌で書こうとしたときに考えたかった気がしますが、時間がなくて*20結局いつもの早口リスト記事になり、書き終わってからはメタフィクションのゲームについてはあんまりなんも考えないポムポムプリンとなり、前へ一歩も進んでおりません。


「たるんどるね」
「はい……」
「でもな、人間、止まっとる時間も大事やとおもうで。それも青春の一ページ」
「先生……!」
「ようし、そうと決まったら、あの太陽に向かってダッシュや!」
「はい!!!」






「クソアチっ(Fuckin' HOT)」









「……は。こ、ここは……?」




「よう! いよいよ今日は打ち上げだな! 宇宙へ飛び出すのが楽しみだろ?」


「そんな……私はさっきまで宇宙にいたはず……まさかこれは……?」


 
「「ループしとる〜〜〜〜〜〜!!??」」


(完)




おまけ2:参考文献リスト

藤田直哉「「カウンターゲーミング」と「メタフィクション」―批判的ゲームの可能性」(『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』所収)
吉田寛「メタゲーム的リアリズム—— 批評的プラットフォームとしてのデジタルゲーム」(『ゲンロン8:ゲームの時代』所収)」
イェスパー・ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』(ボーンデジタル)
松永伸司『ゲームの美学』(慶應義塾大学出版)
xcloche「分岐する物語:「アンチ・選択肢」の試み」(『セミになっちゃた』)
渡邉卓也「第四の壁を越えようとした名作ゲームたち――メタフィクションとして語られるゲームプレイヤーという存在」(『IGN JAPAN』)
藤田祥平「世界を大いに盛り上げる「Doki Doki Literature Club」の真の目的と少女たちからの救難信号」(『IGN JAPAN』)


虚構と現実――ゲームにおける“メタフィクション”の魅力に迫る:#168 しゃべりすぎGAMER」(『IGN JAPAN』)
「「moon」復刻と メタフィクション・ゲームの系譜 池谷勇人/木村祥朗/吉田寛/中川大地(ゲーム・オブ・ザ・ラウンド02)」(『PLANETS』)
メタフィクションの階層『UNDERTALE』から『MOTHER2』、『ガンパレード・マーチ』から『バイオショック』そして “チュートリアル ”」(『令和ビデオゲーム・グラウンドゼロ』)

あと自前でやってる Steam のグループ

*1:オリジナルの記事では「インディー」と限定していなかったのでそのへんちょくちょく齟齬が出ます

*2:書き終わって一年後に振り返ると、ぜんぜんわかりやすくも体系的にもならなかったね。

*3:ユーモアの方向性としては、Portalシリーズの流れを汲んでいるかもしれない

*4:初見プレイヤーが無印版を前提としたUD版のコンテンツにいきなり飛んで困惑するおそれがある

*5:この手の批評・パロディ志向的複数ジャンルゲーム詰め合わせとしては Indiecalypseもありますが、わたしは未プレイ。

*6:デザインにグリッチやバグの存在を取り込んだ例だと、高難度プラットフォーマーの Super Cable Boy、『バグダス デバッガー検定』もありますね。

*7:The Looker という The Witness のパロディもあります。

*8:Steins; Gate があります。Out of Frame(『ゲームの枠組みを変えるノベルゲーム』)があります。『うみねこのなく頃に』があります。

*9:余談ですが、時間制限のあるループものだと、minit、House あたりがオススメ。DEATHLOOP と同時期発売で少し話題になった Twelve minutes や Loop Hero もまあ、期待しすぎなければ。近年だと、Outer Wilds や The Foggoten City なども評価が高いですね、どちらも主観視点3Dなのでゲロゲロに酔いますが。House 以外は公式日本語版有。

*10:ちなみに似たような系列の海外製ホラーゲームだと File://maniac という作品もあるとか。itch.io とかで入手できるのかな。File://maniac に限らず、どうもディレクトリ介入/ファイル横断系のゲームは Steam 外で発表されることが多いようで、システム的な手間を考えればそうだよねという気がします。Inscryption やスクウェアのセーブデータ消したがる系の作品はかなり頑張ってるほうなのです。

*11:これも Steam には置かれていないフリーゲームのカルトゲーム SCE_2 から強い影響を受けたそう。

*12:ゲーム内PC画面表現については、Orwell, Kingsway、DUM-DUM, Everything is going to be OK, Secret Little Haven、Hypnospace Outlaw、餓史シャチの幸、GAME.EXE、NEEDY GIRL OVERDOSEなど枚挙に暇無し。スマートフォン画面を模したものも Replica や SIMULACRA シリーズを代表として勢力を築いている。

*13:『ゆめにっき』と『OFF』はこの手の悪夢系インディーRPGに絶大な影響を及ぼした二大ツクール製RPGで、試験に出ます。

*14:今回はあまり取り上げませんでしたが、メタ表現といえば、ジャンル的なるものに対するオタク的自己言及などもありまして、UnEpic とか UnMetal とかね。

*15:これ系もフォロワーがそこそこいて、最近だと Past Within

*16:そういえば最近読んでいるミゲル・シカールの『プレイ・マターズ』にキャラを一日に一歩しか動かすのできない『Vesper.5』という作品が出てきて、アイデアとしては The Longing と近いなとおもった。

*17:やったことのあるゲームでさえそんな状態なのに、Steam のウィッシュリストには来るべきメタフィクゲームが山と積まれている

*18:『Adventure』はビデオゲームに自覚的なメタ的な視点を持ち込んだものとしては最初の作品とされることが多い

*19:ゲーム中のメタ表現が感情移入を阻害するケースもあり、そのへんは Ludonarrative dissonanceという用語を通すとわかりやすいかもしれない

*20:というかもともと同人誌のボリューム不足の観点から入稿日に急いででっちあげた記事


murashit 先生へのおたより:「メタフィクション表現の四分類についてのメモ」についてのメモ

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【注意:今回の記事は私信みたいなものなので、知らない人が読んでもおもしろくない可能性があります】



murashit.hateblo.jp



👶 オギャーッ オギャーッ 


👶 フフフ……騙されたな


🐰 その泣き声は……わたしだ!!!


という茶番はともかく、murashit さん*1からのお便りが来たのではてな古来の作法である相互トラバで応答いたします。もともと「murashit 先生あたりが代わりに考えてくれねえかな……」とおもいながらつけたパートだったので、レスポンスいただけてサンキューなといった心持ち。*2

以下、自分の中でも固まっていないことが多く、わりと胡乱です。
返信といいますか、murashit さんのレスポンスを受けてつら考えたこと、くらいのテンションで笑覧いただければ幸いです。*3

1.emergent metafiction は 創発メタフィクションか問題

わたしも正直、四分類の訳語についてはそこまで真剣に考えていたわけでなく、辞書の言葉を機会的にあてたにすぎなかったのですが、これはよくなかったですね。イェスパー・ユールの『ハーフリアル』で emergent gameplay を「創発型ゲームプレイ」*4と訳していたこともありますし、ゲームの話の文脈で軽々に使うべきではありませんでした。
コックスの詳しい意図はわかりません*5が、四分類の文脈で和訳するならもうちょっと別の語、いっそ四分類すべてを意訳しても良かったかなとは思います。

2.Internal metafiction(内的なメタフィクション)はメタフィクションとして扱うべきかどうか問題

「物語世界を拡張する」ものでない表現が「(受け手は?)メタフィクションと認識しない」ことについては基本的には賛同でき、その意味で「こんなことが起こるなんて、まるで漫画の世界じゃん!」の例えをメタフィクションではないとするのはただしいかとおもいます(ただ「物語世界の拡張」については自分と murashit さんで多分違うこといってる。詳しくは3で。)。

「まるで漫画の世界じゃん!」という発言は、作品内の世界の枠組みをゆるがせるものでないと同時に、作品内の世界でよどみなく処理できるたぐいのものだからです。私たちも現実世界でそういうことはいうのだし。
四分類記事を書いたジェイムズ・コックス(ところできみのことはこれからジェイムズと呼んでいいかい? ありがとう!)が例として出している
「この世界が実はゲームで、自分達はヒーローにただ殺されるのを待っているNPCだと感じたことはないか?」というのもちょっと分析的になっただけで言ってるノリとしては「まるで漫画の世界じゃん!」とさしてかわりません。
ただ、実例とだしている The Secret of Monkey Island*6の動画(20秒程度)を見てみると、
www.youtube.com

主人公「今回のことを通じて学びを得たよ」
ヒロイン?「どういう学び?」
主人公「(選択肢)コンピュータ・ゲームに20ドル以上払うもんじゃないってね」
ヒロイン「え?」
主人公「ごめん、なんでこんなこと言ったのか自分でもわからない」

あきらかに作品内世界の「フィクション」としては一時的な断絶が生じています。これはプレイヤーが能動的にそうした選択肢を選ぶという行為を含んでいるからでもあるでしょう。

また、同じく例に出されているメタルギア2では、最終的には物語内部で回収されるとはいえ、それだけでは意味不明で唐突な「ゲームの電源を切れ」とか別のメタルギアシリーズに関する言及が頻出します。

おそらくジェイムズ的には発言される文脈*7が大事なのでしょう。

as it never fully breaches the fourth wall でおそらく重要なのは never "fully" breaches の部分で、完全に第四の壁を破壊するものではないにしても、ある程度は揺らいでいる。その一時的なハレーションにプレイヤーは「メタさ」を感じるわけで、結果的にはくすぐりに終わるとしても、「物語世界は拡張されている」のではないでしょうか。おまえもそう言いたいんだよな、ジェイムズ? 違ったらすまない。

3.External Metafiction(外的なメタフィクション

ところが、murashit さんのおっしゃっている「フィクションの内部の理解としてはあくまで『意味わかんないもの』なんですよね。物語世界が拡張されていない。」というところにわれわれの認識のズレがおそらくあって、もしかして murashit さんの仰る「物語世界が拡張される」というのはあくまで物語内の世界が地続きに拡大していく*8ということ?
「あきらかにフィクション外を参照しているのだとオーディエンスにとってはわかる、けれども物語世界の意味理解としては関係ない状況……」とおっしゃってるし、そういうことか。
うーん、だとしたら、さっきのわたしの2での応答は応答になっていないことになりますね。

わたしはキャラクター主観の意味や認識においては断絶していたり不可視であったとしては、プレイヤーには視えるものはそこにある、という立場です。幽霊みたいなもんですかね。この幽霊は街の住民たちの生活や物語関係なかろうが、視えるひとには無視できず、そこに在って、意識に作用している。そういうものはメタフィクションの表現にふれるではないか、と思います。これは多分わたしがメタフィクションにかぎらずあらゆる表現において、「異質さ」に惹かれているせいもあるでしょう。
だから究極的にはキャラクターがどう受け取ろうが、それはあまり関係のない。結局、世界を解釈しているのはプレイヤーなわけですから。*92もそういう話です。
ジェイムズはどう思ってるかって? 知らねえな、そんな男は……。


ジェイムズに関してひとつ言えるのは、タイトルが“The Four Types of Metafiction in Videogames”で文中でも“the kinds of metafiction that games can possess.”とも言われており、メタフィクションをジャンルではなく表現技法として用いているところだとおもいます。*10
だから、Internal metafiction や External Metafiction のように多くが一時的かつ可逆的な表現だったとしても彼にとってはメタフィクションに該当するのではないでしょうか。

だから、「過去改変SF*11において現代のインターネットミームがネタとして出された』ようなケースを考えたとき、それを「メタフィクション」として見るのか? 」といわれれば、これまで述べきたように、文脈として受け手にハレーションを引きおこすのであれば、「メタフィクション」なのでしょう。
もっと厳密にいうなら「メタフィクション的な表現」であって、作品全体としての「メタフィクションっぽさ」とは異なるのだとは思います。

個人的には(やはりジェイムズがどうなのかは知りませんが)、それが表現を指すものであるかぎり、「メタフィクション」がいくら増えてもあまり困らない。作品全体のジャンル性の話として用いる場合は若干困ることもあるのかな、と思いますが、そこは現状ただでさえゲームにおいてはバズワードと化している感もあり、もう手遅れな気もする。

手広く受ける立場をとると「単なる入れ子構造や自己言及」もメタフィクションにとして捉えがちになってしまうとは思います。
まあでもこのへんは自分でもなにか違うだろみたいな感覚があるのが正直なところです。実はストフィクに載せた記事からブログへ流し込むにあたって、いくつかタイトルを減らしていて、再帰型パズルのPatrick’s Paraboxなんかがそう。再帰型パズルの分野は見ていて破壊的でおもしろく、メタフィクション的な官能があるのですが、言語化するときにそれがメタフィクションに一致するかというと微妙なところがある。Patrick’s Parabox再帰性はあくまで作品世界内におさまる範囲*12なので、削る決断は簡単にできたのですが、じゃあこれが作品外まで波及していったときにどう扱っていたかはどうなるんだろう。このへんまだよくわかっていません。
BABA IS YOU なんかもたしか削った組ですが、やはりどう扱うべきなのか微妙なところ。

4.チュートリアルやゲーム内での指示について

リスト記事で「信仰の体系」ではないかといったのは、基本的には「『解釈を止めている』なんじゃないかな」とおなじようなつもりだったんではないかと思います。

まあここからは多分に余談になるのですが、

「信仰の体系」ということばを使ったのはバーナード・ペロンの「プレイヤー」と「ゲーマー」の二分類*13が念頭にあります。
「プレイヤー」とは単純に娯楽目的で(特段ゲームでなくてもよいが)ゲームを楽しむ人たちで、「ゲーマー」とは明示されている条件に従ってゲームをクリアすることを明確に意図してプレイに取り組む人々を指す。後者は没入のために訓練されたひとびとであり、本来なら「ちょっと待ておかしいやろ」と立ち止まって考えるようなゲーム特有の慣習をリアリティを受け入れることのできるような信仰の体系を有した人々なのだ、と。*14
よくいわれるコールリッジの suspension of disbelief *15のゲーム版メカニズム解説みたいなもんかしら?
実際にそんな二分類が正当かは疑わしいのですが、しかし「チュートリアルやゲーム内での指示はメタフィクションに含まない」とするジェイムズも似たような話をしています。
要するにゲームにしろ映画にしろ小説にしろ現実からすると「不自然」な部分はあるのだが、受け手はそれらのルールを知っているから「自然」に受け入れられるのだと。
そこから、ゲームのフォーマットは小説や映画のようにそこまで汎用的ではないから個別にルールをインストールする必要があるのだけれど、それはあくまで最初や序盤だけで、ゲームが進行するにつれて徐々に廃されていく。だからこれらは本来ゲームに含まれないものなのだから(四分類のいずれかに該当する形で発されているとしても?)メタフィクション表現に含むのをやめろ、と。

ジェイムズの言うことは事前に説明書を読むことが前提だった旧世代のプレイヤー的なとこがある気がします。
というのも今どきのチュートリアルはゲーム内の物語レベル*16に組み込まれている事が多い。そう簡単に物語世界から切り離せない。*17

そもそもゲームがルールとフィクションの融合であるならば、ルールはルールだよと簡単に切り離せないはずで、ルールの説明や指示が作品内部(特に近年は)に存在することの特殊性をもっとよくジェイムズは考えるべきではないでしょうか。わたしもそこまでよく考えてはいませんが。

こうした話をするときにわたしが思い出すのは、いわゆる異世界転生ものの小説やマンガのことです。ああしたジャンルでは、転生した主人公が(主人公にしか認識でない形で)物語世界内にポップするステータス画面やシステム画面を見る。主人公はそうした画面にシームレスに干渉して、世界に影響を及ぼすことができる。ゲーム的な感覚といいますか、ゲームそのものです。
ジェイムズが弁別したがっている異なる二つのレイヤーが、そこでは同じ屋根の下に現れているのです。
こうした世界観はすくなからず、ゲームプレイヤーのゲーム世界に対する感覚と重なっているのではないかと思います。
つまり、ステータス画面やシステム画面も世界の一部ではないか、ということです。
とはいっても別メディアに翻訳されたものと、ゲーム内に現れてくるものではやはり違うのではないかという気もするので、そのへんはまだ保留中ではありますが……。

*1:常日頃から「インターネットを殺して俺も死ぬ」と繰り返し予告していたところに、先日ついに twitterを破壊して、野望に一歩近づいたことで有名。

*2:自分自身が『ストレンジ・フィクションズ』で記事を立てるときに早期に深掘りをやめてしまったので、今回反応いただけたことで2mmくらいは進めることができた気がします

*3:わたしはそこまでフィクション論などを掘っていないのであんまり前提が共有しきれないところもあるでしょうし

*4:そして、emergence を創発

*5:ホイジンガのマジック・サークル概念を引っ張ってきたり、ルールとフィクションの枠組みでゲームを理解しているあたり、ユールを前提にしていそうな気もします

*6:私は未プレイです。最近、リマスター版が出て評判がよかったので、ポイント&クリックの元祖というのもあり、買って積んでます

*7:「これは situational irony(状況を皮肉る?)ために使われることが多い」という一文があることからしても

*8:たとえば、キャラが「この世界は作られたもの」だと気づいてそれが物語や行動[クリエイターやプレイヤーへの復讐だったり]にも反映されていく

*9:佐々木敦のパラフィクション論も読者への働きかけなのだみたいなスタンスだった気がするけど、ほぼ内容忘却してる

*10:ここは実はわたしが悪くて、あのメタフィクション紹介記事ではあきらかに作品全体そのもののジャンル性を指すものとして使っている。

*11:キャラが主体的に過去を改変していくタイムリープ的なやつを指しているのか、いわゆる改変歴史ものを指しているのか判然としないので、とりあえず後者で話をススメますが

*12:クリアしていないので最終的には作品世界を飛び出していたのかもしれない

*13:”From Gamers to Players and Gameplayers: the Example of Interactive movies” だったはずですが、今自分は読めないので正確に思い出せているかはわかりません

*14:ただしい理解かはわからないけれど、『ゲームの美学』の第七章で出てくるサールの「制度的事実」も似たようなもんかもしんない

*15:https://artscape.jp/artword/index.php/不信の宙づり

*16:「ナラティブ」という言葉が嫌いでないならそういう表現でもない

*17:物語の語りに完全に溶け込ませている場合と、物語と並行しながらも物語とは関係なくインストラクションが表示される場合があり、このへん一概にはくくれないのですが

2023年上半期に観た新作映画でよかった作品たち

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順番は特に順位に対応してはいません。母数となる新作は60本くらいか。今年はシネコンばかりで観ておる。

『ベネデッタ』(ポール・ヴァーホーヴェン監督)


・映画が作中キャラクターをシニカルに撮る一方で、キャラクターたちもまた世界をシニカルかつ真剣に見返している。そういう不思議な緊張が映画に独特のハリを与えている。
人類を馬鹿にしている映画といえばそうなのだけれど、人類を安く見てはいない。かれらは下卑でありつむ気高く、愚かでありつつもしたたか。誰もが打算で動いているが、その打算を超える瞬間がある。人間を人間のサイズで撮っている映画というものは、年にそう何本も観られるものじゃない。
・「教区司祭に告解しなさい」「私が教区司祭です」
・本当に聖女でヤンスか〜?映画だと『聖なる証』もあった。あれは去年の新作でしたっけ? こっちはこっちで堅苦しすぎるところが逆に笑えるようにできていて、いい映画です。真剣すぎるひとたちがおもしろくなるメディアなんですよ。


『レッド・ロケット』(ショーン・ベイカー監督)


・無責任な男であるのを示すために車社会で運転しない(ずっと助手席にいる)のはいい。
・ショーンベイカーは映画が横長であることを知っている。
・いい犬が出てくる。
・基本的には今の日本に入ってくるアメリカ映画って南部の貧乏白人をあまり好意的に描かない。そうした人々を肯定することによってある種の態度までを肯定してしまうことになりかねない、というおそれを抱いているから。まあ実際南部的な価値観(それはネッドレック的なライフスタイルと必ずしも一致しないものの)を称揚するような映画を出されても、こちらとしては戸惑うしかないのもまた事実ではある。アメリカのリベラルというものをわたしたちはおそらく真には理解できないのだろうけれど、しかし映画館に入るとき、わたしたちはだいたいアメリカのリベラルの心持ちになっている。ふしぎなことです。
その視線で見る『レッド・ロケット』の南部貧乏白人たちは、まあ、あんまり賢くはない。善良でもない。好ましくなんてぜんぜんない。
主人公は落魄した出戻りポルノ男優で、一見男らしい磊落さを装いながらも、腹の底は惨めで打算的で利己的だ。地元の半分ヤクザのような黒人ファミリーから強いれた大麻を売り捌きながら、ドーナツ屋で見初めた高校生の少女をコマして、のみならずポルノ業界にひきこんで自分もカムバックを果たそうとする。
そんな男に寄生されている元妻とその母親は災難な立場なのだけれど、彼女たちも観客の好意に値するようなしおらしい人たちかというと、けっこう図太かったりする。
そんなかれらがドーナツ屋に行く。主人公が「今日はなんでも頼んでいいぞ。おごりだから」と誇らしげにいう。妻の実家に寄生しておきながらドーナツごときでたいそうな態度だ。しかし母娘は大喜びではしゃぎながらあれにしようかこれにしようかと悩んでドーナツを注文する。別に主人公に対して感謝の念は見せない。ただドーナツで頭がいっぱいなご様子。
そういう画、生活の他の場面では邪気と邪念しかなく、なんとなればセックスも駆け引きの道具に使うひとたちが、ドーナツに対してはまっすぐな欲望を見せる。それだって好意的な文脈の描写ではないはずなのだが、ほほえましいというか、愛らしいというか、いくぶん好きなってしまう。映画の魔力とはそういうしょうもない場面にも、あるいはそういうしょうもない場面にこそ宿る。
だからこそ厄介なんだね。

(ベイカーの前作)

『フェイブルマンズ』(スティーブン・スピルバーグ監督)


・この作品とサム・メンデスの『エンパイア・オブ・ライト』では、どちらも「映画のフィルムというのは1秒間に24コマの光が闇と交互に繰り返すうんたら」みたいな映画を語るときによく言われる台詞が出てくるんですが、おもしろいのは、メンデスがそこで「光」を強調するのに対し、スピルバーグは「闇」に惹かれていく。
世間一般的なイメージだとメンデスこそが闇の監督で、スピルバーグのほうが光の監督だとおもわれがちなんでしょうけれど、そのへんのコンテクストの裏切りも含めて大変にエキサイティングな映画だった。
・こんだけ陰惨な映画なのに、最後に(しかもデイヴィッド・リンチを出しておいて)「光」でしめくくることのできる豪腕もすごいというか、ひとをコケにしているとか、愉快。


『Search 2』(ニック・ジョンソン、ウィル・メリック監督)


・パソコンのスクリーン上だけで展開されていくリモート時代(死語)の安楽椅子探偵サスペンス映画第二弾。別にそのコンセプトを原理主義的に守ることにはこだわっておらず、ちょくちょくズルをしていくのだけれど、そのこずるいウソも含めて愛嬌がある。こうやって少しずつコンセプトをはみ出していくのが続編のよさでもあるんですね。3くらいになってくると、はみ出しすぎて逆にダメになってしまうんでしょうが。
そして、どうすれば情報ハックテクニックを生得的に繰り出せるデジタルネイティブ(死語)の嗅覚がよく表現できていて、前作より好き。

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  • ストーム・リード
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スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』


IMAX字幕で観て頭がパンクしてしまったので、もう一回観たいです。ノリはいまんとこ前作のが好きかもですが、なにせこっちはまだ完結していないのでなんとも。
・『ノーウェイホーム』もそうだったけれど、なにかを破壊しようとしている映画はそれだけで目撃する価値がある。

(前作)

『長靴を履いたネコと9つの命』(ジョエル・クロフォード監督)


・聞いてたアクションのすごさはさほどのものでもなく、それよりはひたすら中年の怯えと後悔だけで組み立てられていく物語にすさまじさをおぼえた。かわいいネコちゃんなんだぜ?

(前作)

『生きる LIVING』(オリヴァー・ハーマナス監督)


・いかにも日本の戦後の雑然した蒸し暑さが香る黒澤版に比べてクラシーというジェントルというか、このトラッドさがなにより脚色をつとめたカズオ・イシグロのテイストなのだろう。冒頭から主演のビル・ナイは几帳面な人物であることが強調され、映画の世界もそのように規律されている。それはメカニカルな規則正しさという以上に「人前で裸にならないこと」という英国的な仮面(アメリカの古典的な逃避的なマッチョイズムの仮面とは似ているようでまた別の男性性の発露だ)によってデザインされているわけだけれど、『日の名残』がそうであったようにその一見立派だけれどもろいガラス細工をいたずらっ子のようにイシグロはつついてあそぶ。
『日の名残』の執事よりビル・ナイが救われているのは、彼は最後に公務員として仕事をする機会を与えられたということだろう。
ハンナ・アレントは労働とは家における個人的な営みであり、生活を支える他はなにも残さないといった。一方で仕事は創造的な性格を備えており、半ば公的なものであり、作り出したものは一種の作品として残る。その意味で、役場という「家」での書類仕事から街場の公園という「公共」にナイは飛び出し、共同体に参加し、他の人々に影響した。『日の名残』の執事という職はどこまでも家の事しかできないわけで、ナイの場合は公務員という職に恵まれたことで悔いなき人生を送れたのだった。

『ボーンズ・アンド・オール』(ルカ・グァダニーノ監督)


ルカ・グァダニーノはもはや何を撮ってもおもしろいし、ティモシー・シャラメはなにもしてもカッコよくキマる二人ともそんな域に入っている。シャラメはあんなにクソダサいジーンズを履いてもなおシャラメでありつづけ、グァダニーノはあそこまでわかりやすい目配せに満ちた記号とリスペクト(『マイ・プライベート・アイダホ』のどこにそこまで人を興奮させる要素があるのかわからないけれど)を散りばめてもなおメタファーであることよりは映画であることのほうがまさってしまう。すべての要素の総和よりも大きいものになってしまう。
・しゃれた映画なんだけど、「カーニバルで捕食」みたいなくだらないダジャレなんかもやる。グァダニーノはいつもどこか田舎っぽい。あかぬけないわけではないのだけれど、田舎っぽい。


『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督)


・ロバ。ロバね。よい動物映画でもある。
・いい歳した中年と老人がケンカする。そんなしょーもない映画がこんなにもおもしろい。こういうしょーもない争いなら延々観ていたい。
・ロバの映画といえば今年はスコリモフスキの『EO』もあった。あれは行く先々でロバが人間から勝手な意味づけをされつづけていくはなしで、動物の受けてきた扱いの歴史そのものである。
・最近のマーティン・マクドナーは燃やせばいいとおもっている節が見受けられる。


『エブリシング・エブリウェア・アット・オール・ワンス』(ダニエルズ監督)


・『ザ・フラッシュ』、『スパイダーバース』(今年は『アクロス・ザ・スパイダーバース』)、『スパイダーマン ノーウェイホーム』、そして本作と観てきておもったのは、マルチバースものってやっぱりそれまでの積み重ねなんだなって事で、実質現状のヒーロー映画ではスパイダーマンにだけしか許されていないのかもしれない。『ザ・フラッシュ』もがんばったけどさ、結局頓挫した企画とかキートンバットマンとか引っ張り出さないと盛り上がらなかったわけじゃないですか。
で、そういう積み重ね抜きにやるとすると、ある程度までを演じている俳優の文脈に寄りつつ、卑近な関係とかテーマにおとしこむしかないわけで、そこらへんはうまくいってたんじゃないかな。組み込まれたカタルシスは反復によって世界と自分が和解するループものみたいなやつだったけど。


『MAD GOD』(フィル・ティペット監督)


・『マルセル』みたいに洗練されてたりデルトロ版『ピノキオ』みたいにリッチなストップモーションもいいものだけれど、こういうぐちゃぐちゃのわけわかんないイメージをひたすら展開していく系のストップモーション独特の快楽もあるんだよなっておもわされる。


ヒトラーのための虐殺会議』(マッティ・ゲショネック監督)


・こういう閉じた官僚主義コメディ、会議ものはけっこう好き。ブラックコメディとして洗練されていればなおよい。ヒトラーものといえば今年はソクーロフの『独裁者たちのとき』もあって、あれはマジで異常です。

ヒトラーのための虐殺会議

ヒトラーのための虐殺会議

  • フィリップ・ホフマイヤー
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観た時はそこまで高評価つけなかったけれど、思い返すと『ノースマン』の野蛮ハムレットっぷり、『ミーガン』の痛快さ、日本版『最後まで行く』のラストの「まだまだ行くぞ〜」(by 『クリーピー』)感なんかもなかなか心に残りました。
映画館で観た新作でないものだと『フラッシュ・ゴードン』の4Kリマスター版でしょうか。傑作です。
まあでも今年は今のところドラマのほうがおもしろいかんじ。

コマったさんの台湾怪奇ミステリまんが――シャオナオナオ『守娘』

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台湾のまんがってえいいますと、去年ビームコミックスから発売されて村上春樹岩井俊二はっぴいえんどゆらゆら帝国などをピュアッピュアの小細工抜きで投げてきて日本の腐りきったサブカルクソ野郎どもを浄め死滅させた豪速球文化系青春ラブストーリー『緑の歌』(緑の歌 - 収集群風 - 上 (ビームコミックス))が思い出され、ああ、あれは傑作だったな、などとなつかしくなるわけですが、わたし自身、詳しいかというとそんなでもない。

全国100万のサブカルクソ野郎どもを燃やし尽くしたといわれるノルウェイの森を貸す男。自分たちを村上春樹小説の登場人物に重ねているところがポイント高い。(高妍『緑の歌 - 収集群風 -』ビームコミックス)
世界100億のサブカルクソ野郎を一瞬にして蒸発させたといわれる殺人本棚(高妍『緑の歌 - 収集群風 -』ビームコミックス)


しかしそんなでもないそんなわたしをぶん殴ってくるおもしろ台湾マンガが、今年も海を渡ってやってきました。


シャオナオナオの『守娘』です。
レーベルは角川のMFコミックスComicWalkerなどの連載作が書籍化されるときのレーベルですが、近年は華文まんがもよく翻訳しています。



タイトルになっている「守娘」とは、台湾では有名な怪奇怨霊物語に出てくる主人公「陳守娘」のこと。本作に附されている解説によれば、「呂祖廟焼金」「林役姐」と並んで台湾三大伝説*1と呼ばれるお話のひとつです。ちなみにわたしは寡聞にしてこの台湾三大伝説をいままで知らなかったのですが、解説されているところでは三つとも女性が男性によってひどい目にあわされて怨霊と化すお話で、なんぼなんでもアンソロジーなら(アンソロジーではない)もうちょっとテイストばらけさせない!? と選者に対して感じます。しかし本邦でも幽霊譚といえば番町皿屋敷みたいに勝手な男にひどい目にあわされて祟る女の話と相場は決まっているので、そういうものなのかもしれません。

で、まんがのほうの『守娘』では、この幽霊譚としての「守娘」を下敷きにしながらオリジナルな伝奇ミステリが展開されます。

舞台は清朝末期の台湾*2。主人公は名士の娘である潔娘(ゲリョン)。女性を婚姻と出産のための道具としか見なしていない世の中にファックな不安を抱いていた彼女は、ある日、道端で亡くなった女性の霊を鎮める儀式を行っていた済度師(霊媒師のようなもの)の繡娘(シュウリョン)に出会い、押しかけ弟子のような立場になります。
ちょうどそのときから潔娘の周囲で不穏な不思議現象が発生しはじめ、さらには街を覆う陰謀にも巻きこまれていく……

とまあ、そういうノワリッシュな伝奇ものなのですが、上に説明したあらすじ以外にも要素や各キャラの秘されたサイドエピソードが山盛りでお出しされてきます。複数のプロットラインが同時並行的に動いて絡み合うので、物語を追おうとするとちょっとよみづらい部分があるかもしれません。
台湾の歴史文化と縁遠い日本の読者には、文化的背景の読解でさらに負担がかかるかもしれない。
ちなみに元ネタとなったほうの「陳守娘」のお話は作中であらすじを語ってくれるので、そこに関しては予習は不要。

それでもちゃんと読んでいくと、女性に対する抑圧の歴史に向き合った著者の真摯さが響くうつくしいお話に仕立てられております。



ところで、本作の特異で興味深い点は物語そのものとは別のところにあります。
まずはこちらをごらんください。

(シャオナオナオ『守娘』MFC


ページ下部の手前にいる女性が潔娘で、奥にいる背の高いほうが繡娘です。ある儀式を追えてただ去っていくだけの場面なのですが、コマの配置がどうも奇妙。
右のコマは手前の潔娘と重なって奥のレイヤーに位置しているようです。が、一方で左のほうのコマは繡娘の手前に来ている。もしかすると、左のほうのコマは潔娘よりも手前にきているのかもしれない。右のコマは潔娘と繡娘のあいだに挟まれていると見るのが妥当でしょうか。

何が言いたいかというと、コマの配置に奥行きが与えられており、その配置とキャラクターの配置とが同等に描かれているということ。これがこのページだけの表現にとどまらず、全編通して貫かれています。コマ同士が奥行きの軸に対してフラットに配置する通常の作法と比べると、かなりトリッキーです。

実際、ちょっと読みにくかったりするわけですが、作者はなにも酔狂でこんな細工をほどこしているわけではありません。
たとえば、こちら。

(シャオナオナオ『守娘』MFC

いっけんごっちゃりした絵面ですが、読むときの眼の運びに迷うことはないかとおもいます。
右上の始点からすぐ下のコマ、さらに下、そこから左上、下、吹き出しからつながって左、そこからそのセリフを発している女性の表情から左どなりのコマの吹き出し……。
そうした視線誘導が実現しているのは、ふきだしのつなぎもさることながら、コマ間の奥行きで高低差を出しているからです。ページ右側を読むときは手前(上)から奥(下)へ、ページ中央でいったん浮上して、左へ移ると一段下がり、左端でさらに一段下がります。
ついでにこの奥行きの高低差はセリフ外でキャラクターの心情を伝えるのにも貢献しています。
このシーンに至るまでのゆきさつを知らない読者(つまり、あなた)だったとしても、ページの左側で笑顔で「あなたの結婚式もその日にしましょう!」とはしゃいでいる少女と、左端でスン……となっている少女(潔娘)のあいだに感情的なすれ違いが生じているのは直感できることかとおもいます。
それは「潔娘がすぐに応答しない」「潔娘のコマの背景(心情の反映)が真っ黒」「ふたりの表情の描き方の違い」「片方はアップで片方はロングショット」というさまざまな技巧の組み合わせが作用しているおかげですが、そうした技巧のひとつに「ふたつのコマの高低差」も含まれます。ふたつのコマの間の”落差”がそのままふたりの感情の落差、そして地の底へと突き放されていくような潔娘の心の動きと同期しているのです。


本作の画的な奥行きは、あきらかにストーリーテリングとつながっているわけですね。

奥行きは本作独特のモノクロの濃ゆいコンストラスト抜きでは語れません。たとえば、これ。

(シャオナオナオ『守娘』MFC

ただでさえ不気味な暗闇が、さらにそのレイヤーの上にあるコマを置くことで途方もない底なしの穴を覗いているような気分にさせられます。不安を煽るホラー演出として手堅くも心憎い気の利かせかたです。

「穴」といえばこちらのページも別のアングル、そして別の意味で穴っぽい。

(シャオナオナオ『守娘』MFC

見開きの中央に穿たれた奇妙な台形のコマからひょいと顔を覗かせるようなショット。
このページだけでこの女性=繡娘のただものでなさが伝わってきます。実際、かなーりただものではない女です。


さて、ここまで見てきたページでもわかっていただけるとおもうのですが、『守娘』では「タテに細長いコマ」が多用されます。レイヤーも上に来ることが多く、べたべたと貼られた付箋みたいな感触を読み手に与えたりもします。最初は「縦読みマンガ由来?」かとも考えたのですが(ちょっと調べても元が縦読みだった形跡は確認できず)、おそらくこれも実はストーリーテリングと関係した手法かもしれません。
というのも本作では呪符と呼ばれるまじない用の御札が出てきます。ストーリーの核心に触れるので多くはいえませんが、「紙に書かれた願いや呪い」が本作では結構重要になってきます。
それを踏まえると、ここまで縦長コマが連打されるのも、本書そのものがひとつの呪術的な儀式であるから、といえるのかもしれません。


コマ単位での階層づけや変形ゴマによる立体的な演出や枠線を取り払った絵をレイヤーの最下層に置く手法そのものは、取り立ててレアではありません。
しかしここまで全編に明示的に取り入れつつ、さらにストーリーテリングやテーマとナチュラルに絡ませてくる完成度の高い作品は希少ではないでしょうか*3。絵自体も静謐でありつつもヴィヴィッドとにかく良し。
天と地の間には、まだまだおもしろいまんががいーっぱいあるね、ハム太郎



🥩 ……



ん、ハム太郎……?


いや、違う。おまえは……!!?


ヘケッ!

ラム太郎やんけ〜〜〜〜〜〜〜〜〜


<完>


MFCから出た台湾マンガで最近よかったやつ

*1:いずれも元ネタは劉家謀の『海音詩』

*2:17世紀後半から19世紀末にかけて台湾は清朝の統治下にあった

*3:だいたいは珍奇な演出であれば珍奇な演出であるほど見せ場にもってくるものですし

小惑星の魔女は鬼道占師――The Cosmic Wheel Sisterhood について

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おのれの能力を越えて上昇しようとするような輩に用心しよう。死を免れない人間に否定されたるものごとを探し求める者たちに。


――ジェフリー・ホイットニー『エムブレム選集』





store.steampowered.com


The Cosmic Wheel Sisterhood はタイトルを裏切らないゲームです。宇宙の話をやり、回転する輪の話をやり、シスターフッドの話をやる。そして、タイトル以上でもある。ゲームについての話もやるゲームなのですから。


独り身でも魔女


チュートリアル終わりに入るオープニングアニメ。演出にあきらかにセーラームーン魔法少女ものの影響が見て取れて興味深い。



主人公のフォルトゥーナは魔女です。
あるとき、得意とするタロット占いによって自身の属するコヴン(魔女団)の崩壊を予言したために、リーダーから魔力とタロットを奪われた上、辺境の小惑星へ1000年の島流しに処されてしまいます。200年ほど経ったころ、底なしの孤独に耐えきれなくなった彼女は魔女の掟を*1破り、封印されしベヒモス・エイブラマーを召喚する。
エイブラマーはフォルトゥーナにこんな提案を行います。新しいタロットを作るのだ、昔の出来合いのタロットではない、自分だけのタロットを……。

呼び出すなり幽閉年数でマウントをとってくるベヒモス



ゲームは基本的にアイソメトリック視点で表示されるフォルトゥーナの家で進行していきます。この二階建ての手狭な家で禁足を強いられているフォルトゥーナはエイブラマーと問答したり、タロットカードを制作したり、ときおりやってくる訪問者を迎えたりします。訪問者とはつまり他の魔女たちのことです。彼女たちは宇宙を自由に飛び回り、自らの道を探求しています。
本作における魔女とは、元は人間だったものたちが「昇醒(ascend)」というプロセスを経て不老長寿と自由を手に入れた姿です。それぞれ出身年代や出身惑星が異なるものの、魔女であるという一点においてなんとなく緩やかに通じ合っています。
この魔女たちの対話が愉しい。すべての魔女には信念と希求する目的(学究や芸術など)があり、厄介な個性があり、奇天烈な見た目があり、それらがゆえに主人公と対立することもありますが、それでもどの魔女とも(最大の敵であるはずのコヴンの長とすら)どこかでつながっている感覚がある。人と人との関わりを描くのがADVの醍醐味のひとつですが、深いところでこのような感覚をもたらしてくれるゲームはなかなかありません。
魔女たちとの交流を通じ、フォルトゥーナは宇宙の運命へと関わっていくことになっていきます。重要になってくるのはもちろん、彼女のタロット占いの能力です。彼女は他の魔女や自分自身の運命をタロットによって占い、それが物語の行く末に重大な影響を及ぼしていくのです。

質問に対してタロットがいくつかの選択肢を提示してくれる。どんな選択肢が生じるかはカードにより、どの選択肢を選ぶかはプレイヤーによる。


と、まあ、ゲーム本編まわりのことは某ゲーム販売プラットフォームのレビューでも書いたので、なんかもういいかなという感じがする。詳しいゲーム内容などが気になった方は、今はインターネットというものもありますし、各種ゲームサイトの紹介記事や youtubeでの序盤のプレイ動画などを見るとよろしいでしょう。この記事では魔女とタロットとゲームの話をします。


個人的なフェイバリット魔女のひとり、ウンヌさん。こう見えてかなりヤベーやつです。


魔女とタロット

魔女とタロット占いは、実はもともとさほど深い関係にありませんでした。
原型となる図像入りのカードは十五世紀くらいからあったらしいのですが、当時はゲームや賭け事の道具であって、占いには使われていなかった。そういうものに啓蒙時代*2以降、長い時間をかけて色んな人がよってたかって古代エジプトの神秘やらユダヤ教カバラやらオカルトやらでゴテゴテ装飾して意味づけしていった末、黄金の夜明け団という魔術結社出身の人らが20世紀初頭に現在のタロットの原型を作った*3
いっぽう、魔女というのがヨーロッパ的に政治的に盛り上がったのは15世紀から17世紀にかけてでした。魔女狩りですね。つまり、タロットが本格化を初める以前の存在だったわけです。もちろん、中近世の魔女も占いはやっていたわけですが*4、タロットを使っていたという話は聞きません。
19世紀末にはタロットも魔女も、オカルティズムの魔術結社なんかを通じて接近する機会もあったはずですが、決定的には交錯しませんでした。
これらふたつがようやく合流するのは、20世紀に入ってから、1960-70年代のカウンターカルチャーの時代です。

気のおけない友人たちと浜辺でピザパーティをやっていた60年代



The Cosmic Wheel Sisterhood の主人公であるフォルトゥーナは1960年代に人間から魔女に「昇醒」したという設定です。人間時代はフォルクスワーゲンのヴァンで姉や友人と爆走し、半分ヒッピーみたいなノリで生きていたアメリカ人でした。そして、人間のときからタロット占いが得意だった。
この人物設定は「魔女とタロット」をやる上では、絶妙にクリティカルといえるでしょう。
まずタロット占いが大衆化されたのは60年代です。それまでは一部のディープなオカルト好きのものだったタロット占いでしたが、1960年にアメリカにおいて元女優のイーデン・グレイが煩わしい隠秘学の作法を薄めてわかりやすく実用と実践に徹した一般向けタロット占い本『Tarot Revealed』を出版し、タロット占いが一挙に大衆化します。フォルトゥーナもたぶんここからタロットにハマったのでしょう。
かたや魔女も60年代から70年代にかけてカウンターカルチャーの文脈で再解釈が行われます。1950年代に英国でジェラルド・ガードナーというオカルティストが『今日の魔女術』なるこちらもそれまでのややこしい隠秘学的な要素を排した実践的なウィッチクラフトの書を出版し、また自身のコヴンを組織することで現代的な文脈で魔女を復興します*5。その潮流が海を超えたアメリカで第二波フェミニズムと合流し、自らを魔女をとして再定義する女性たちのムーブメントへと発展していきます*6
これら二つの「大衆化」の流れにおいての共通のバックボーンとなったのがニューエイジ運動でした。モノ優先の資本主義社会に対するアンチテーゼとして精神世界を重視するニューエイジはそれ自体オカルティズムの文脈の混じったものです。いまここではないオルタナティブな象徴と繋がれるタロット占いはまさにうってつけのアイテムだったわけです。
ニューエイジ運動からエコ運動やスピリチュアリズムが拡大していったわけですが、この時期勃興したエコフェミニズムも家父長的な色彩の濃い現代文明へのカウンターとして女性と自然のつながりを象徴的に捉えることから始まった運動です。こうした文脈において魔女も自然と親しいエコな存在として再解釈されました。魔女狩りの時代において、魔女として告発されていたのはしばし、村落共同体からやや外れた場所で自分の庭や森林から植物を採取し、薬草やハーブとして他者の癒やしに用いていたアウトサイダーたちでした。

わりかし最近のゲームである The Excavation of Hob's Barrow というアドベンチャーゲームにも、上記のイメージ通りのコッテコテな「森に住む魔女めいたお婆さん」が出てきます。もちろん、あるクエストで薬草を調合するときに役立ってくれる。



現在でもフィクションで魔女的な人物がしばしガーデニングを趣味としているのもそうしたイメージです。『水星の魔女』でミオリネが自分だけの庭を持っていたりね。
The Cosmic Wheel Sister でもフォルトゥーナの親友としてジャスミンという魔女が登場します。彼女は自分の温室で植物を育てており、薬草からドラッグめいたものまでなんでもそろっています。

ジャスミン(左側の金髪)の温室。



タロットが占いの道具として取り込まれていった結果、占いを行うメジャーな主体である魔女とタロットも結び付けられて、その際にニューエイジ運動やネオペイガニズムが強力な触媒になって現在の「タロット占いを行う魔女」というなんとなくありそうなイメージに発展した、というところでしょうか。*7*8
共同体的なムーブメントとしての魔女は最近とみに盛り上がっている感もありますが*9、ともあれ、「魔女でタロット」をやるなら60年代のヒッピー以外ありえなかったわけです。

2000年から連載スタートしたジム・バレントの長寿アメリカン・コミック「Tarot: Witch of the Black Rose」。主人公の魔女タロットはその名の通り、タロットカードを介してスーパーな能力を発揮できるらしい。魔女・ミーツ・タロットなフィクションのひとつ。

ところで、意地でも魔女とタロットを結合させてやろうとする開発側の野望は、主人公の名前からも読み取れます。
フォルトゥーナとはタロットでいえば、10番のアルカナ「運命の輪」に関係する名前です。「運命の輪」のカードには運命を司る輪が描かれるわけですが、これはローマ神話のある女神の回している輪のことです。その女神の名がフォルトゥーナ。英語で「運命」を意味する Fortune の語源ともなっています。

「運命の輪」のタロットは本作でも”最強”のカード。どのように最強であるのかは実際にプレイしてたしかめてください。



これだけでも本作の主人公にふさわしい名であるとわかりますが、実は Wheel というモチーフは魔女的にも関係があります。
魔女を表す Witch の語源には諸説あるのですが、そのうちのひとつに「曲げる、回転させる」といった意味が含まれるものがあります。*10
つまりは、運命の輪を回す存在でありつつも、その運命を少し違った形に変える力を持った存在、それが魔女フォルトゥーナなのですね*11。まさに、The Cosmic Wheel Sisterhood。


ジャスミン氏。優しげな風貌であり実際優しいひとではあるけれど、根っこのところで意志が強く、敵に回すと厄介。



背景が練られているのはフォルトゥーナだけではありません。
さきほど言及したジャスミン1800年ごろの産業革命期の英国からやってきたという設定です。1800年ごろといえば、フランス革命を経てオランプ・ド・グージュ*12やメアリー・ウルストンクラーフト*13といった活動家たちがフランスの人権宣言やアメリカの独立宣言に女性が含まれていないことについて闘っていた時代。そうした抑圧的な時代で過ごしていたためか、ジャスミンは男性&地球不信であり、「自分たちの時代には選挙権もなかった」とフォルトゥーナたちに言い募ります。
ジャスミンは今いる魔女のコミュニティに強い繋がりを感じて固執しており、そのために友人たちと政治的に対立することにもなっていきます。
1800年ごろの英国は女性たちだけでなく、魔女にとっても受難の時代でした。1736年に制定された(アンチ)ウィッチクラフト法は魔術や魔女を禁止する法律で、なんと1951年まで続いたのです*14
ジャスミンは「お茶とガーデニング*15が大好き」という部分だけでなく、こうした背景からもまさに「英国の魔女」であることが刻印されているのです。

フォルトゥーナの親友その二のダリア。だいたい見た目通りの魔女。


ゲームについてのゲームとしての The Cosmic Wheel Sisterhood

このように The Cosmic Wheel Sisterhood はキャラクターひとつとっても練りに練られていることがおわかりいただけるかと思います。しかし、本作がマジなのは魔女とタロットに対してだけではありません。ゲームに対してもそうなのです。

(*注意:ここからはゲーム本編についての軽度から中度のネタバレを含みます)

フォルトゥーナは最初、「読む人」としてプレイヤーの前に提示されます。彼女はタロットから他者や自身の運勢を「読む」し、監禁生活の数少ない娯楽は読書です。
しかし、(ネタバレになるので詳しくはいいづらいのですが)ゲームの中盤で彼女は実はただの受動的な読み手ではなく、より能動的な物語の創り手であることが明かされます。


ゲーム内にはインタラクティブ・ブックというゲームブックのような軽いミニゲームがある。


ただ読んでいるだけかと思っていたら実は自分も物語の創造に参加している、その感覚はまさしくインタラクティブ・フィクションたるゲームにおけるプレイヤー自身の体験でもあります。
多くのゲーム、たとえばノベルゲームやテキスト主体のアドベンチャーゲームにおいてはキャラや世界の未来を選び取っていく感覚が多かれ少なかれついてくるものでしょう。
The Cosmic Wheel Fortune がとりわけすばらしいのは、そうしたプレイヤーによる創造の感覚が未来だけでなく
過去へも向けられている点です。
筆者が感動したシーンにフォルトゥーナの師匠でるユーエニアとの会話があるのですが、そこでは窮極的にはリアルな過去も未来も持たない、ともすれば空虚な存在であるゲームキャラクターとのやりとりが、血肉をもった温かい親密さを帯びて立ち上がっていくのです。

鹿の姿をしている師匠



限られた選択肢ひとつで過去と未来と現在が生成消滅していく幸福な残酷さこそ、ゲームならではの快楽であると The Cosmic Wheel Sisterhood は気づかせてくれます。そして、そのような空間において、ゲームキャラクターたちと関係を取り結ぶというのがどういうことであるかも。





サントラ

参考文献

*1:「魔女は死刑にすべきである。殺人を犯したからではなく、悪魔と結託したがゆえ」 ジョージ・ギフォード『魔女と妖術に関する対話』

*2:フランス革命期のフランスでタロット的なカードを使った占いの目撃情報が出てくる

*3:ウェイト(監修者の名)版、ウェイト=スミス(アーティストの名前)版、ライダー(出版社の名前)版、あるいはライダー=ウェイト=スミス版と呼ばれるタロット

*4:キリスト教的には占いは異教の営みであり、悪魔の力を借りて行うものとされ、魔女狩りのさいにはたびたび処刑理由にあげられました

*5:こうしたかつてキリスト教によって葬られた異教やアニミズム復権しようとする運動はネオペイガニズム(新異教主義)ともいわれた

*6:68年には「W.I.T.C.H.」というフェミニスト団体がそのマニフェストのなかで「あなたは魔女だ」と謳い上げている。W.I.T.C.H.はその年に活動を終えるが、のちのフェミニズム神学や新魔女運動に大きな影響を与えた。磐樹炙弦 『ウィッチ・フェミニズム──現代魔女運動の系譜』 #01 序論「"私たちのフェミニズム"の耐えられない軽さ」 | DOZiNE

*7:ヨーロッパではタロット占いはロマの人々と結び付けられるイメージも強いですが、このへんはあんまり調べても出てこなかった。

*8:アメリカだと映画観てるとよく出てくる「占い師が電話をかけてくる相談者を占うテレビ番組」とかイメージに影響してそう

*9:日本で増殖する「現代魔女」たちの証言/オカルト探偵「女が怖い」|webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム

*10:「witch という語は賢さ(wise)、曲げること(to bend)、ねじること(to twist )、回すこと(to turn)、コントロールすること(to control)、変えること(to change)などに由来します。ウィッチクラフトとは、変革の術なのであり、テクノロジーの別の形なのです」Leliah Corby, "How to Form Your Own Coven," Green Egg, November 5, 1975

*11:ちなみにフォルトゥーナに関していえばゲーム開始時の行動からまさに「魔女」であることが示されています。渡良好一の『魔女幻想』によれば、16世紀後半のイングランドにおいては witch とは「悪魔や悪霊と契約したもの」を指しました。欽定英訳聖書におけるの「出エジプト記」の thou shalt not suffer a witch to live. (ウィッチを活かしておいてはならない)における「ウィッチ」もそうした用法です。ゲーム冒頭でベヒモスを呼び出すフォルトゥーナはまさにこの意味においても witch なのです

*12:フランスで革命期に憲法に女性の権利の擁護が盛り込まれていないことに不満を抱き、『女性の権利宣言』を著してギロチンにかけられた人物

*13:英国人。ルソーの女性蔑視を糾弾する『女性の権利の擁護』で男女平等を先駆的に訴えたものの、当時の言論界からは激しいバックラッシュを浴びた。『フランケンシュタイン』のメアリー・シェリーの母。

*14:魔女狩りが下火になりつつあった時代に魔女を禁止する法律をわざわざ新しく制定するというのは奇妙な気がしますが、魔術が下り坂だった時代だからこそ、超常的な存在や力を否定し、「詐欺師」として取り締まる意図があったのだそう。教会の権威への挑戦もあったのでしょう。そもそも「存在すら否定される」という形の差別だったわけです。そういったこともあってか、魔女狩りとは違って死刑にはならず、懲役は最長でも一年と軽めに定められていました。ちなみに1600年初頭にジェームズ一世治世下で定められた「悪魔呼び出し、魔女術、悪霊との取引を禁ずる法令」では悪魔を呼び出そうとしたものは「いかなる意図があったとしても、死刑」でした。

*15:ちなみに英国で王立園芸協会が発足したのもの1804年

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上方の ぜいろく共が やって来て 東京などと 江戸をなしけり


(落首)
上野観光連盟|上野の歴史−4


 暑い日がつづきます。黄昏の世界です。しかし、あまりにも激しく燃え上がり、あまりにも詩的なので、あたかも新しい夜明けのようです。*1

 あまりにダルいので生活の維持をさぼって梅小路公園の水族館で飼われ(うお)たちにまぎれ餌などかすめとっておりますと、電話がかかってきて、「ディズニーランドば、ゆくぞ」と告げられます。姉の声です。

「ディズニーランドとは、どこですか」

「東京。遠かか?」


 わたしだって、かつて右京(にしのきょう)は北野の天神さまに寓した山椒魚(うお)です。左京(ひがしのきょう)はたしかに川を隔てた異境ではありますが、出町柳くらいまでなら今でも稀に参りますし、遠いとはおもいません。田舎に住む姉は、都会の地理感覚にうといのでしょう。

 わたしは「東京? くらい、伏見稲荷からだろうが石清水八幡宮からだろうがおけいはんなら一本だわ」と啖呵を切って水槽から飛びだしました。精確には京阪は出町柳までしか至らないので、その先はおぼつきません。しかし、そこは狭い京都のこと、なんとかなるだろうと楽観しておりました。ほら、『たまこラブストーリー』でも出町柳から東京へ行っていたではありませんか。

 そうしてペタペタ出町柳の駅で駅員さんにディズニーランドの所在を訊ねますと、「あー、だったら京都駅で新幹線の切符買ったほうが早いですねえ」などといわれ面食らいます。水族館から出町柳に来て出町柳から京都駅となると、ほとんど出戻りです。なんだか理不尽ですが、公共交通機関の時空間とは複雑怪奇なもの。あきらめて新幹線の切符を買います。

 ゆったりとしているようなしてないような座席に座し、発車を待っておりますと、車内放送のアナウンスがたおやかな声でこう申します。《東京駅への到着は〇〇時△△分……》。

 二時間後? たかだか市内を左から右へ移動するのに二時間もかかる? 嵯峨野線の鈍行より遅いのでは?

 わたしは鉄道には詳しくないのですが、この新幹線というのは奈良辺りに設置されたブラックホールを利用して動くに違いありません。おそらくスイングバイを利用して遠隔地にすばやく到達しようと意図された設計なのでしょうが、今回のような近場だと十分な位置エネルギーを得られず、単にかぎりなく移動速度を低下させるだけなのでしょう。そうでもないと説明がつきません。二時間ですよ。二時間あったらなにができますか……ちょっと寝てごきげんななめに起きるとか……。

 わたしは通りがかった乗員に不安を訴えます。二時間ですよ。

「二時間ですね」と乗員は相づちをうち、押していたカートからアイスクリームのカップのようなものを取り出します。ような、というか、アイスクリームのカップです。そのものです。白いパッケージに「ずんだ味」と表記されています。

霜がついてますが



「召しそうらへ」

 甘いものでも食べておちつけ、ということでしょうか。欺瞞を感じます。元国営企業だけあって、クレームのかわしかたに横着な傲慢さがある。しかし、ずんだは好きです。わたしはカップを受けとって、スプーンで薄緑色の誘惑を掬おうとしました。

 が、掬えません。硬いのです。岩のように硬い。天満宮の牛みたいに硬い。スプーンをつきたてると、カツーンと軽快な音を発して跳ねかえします。カツーン、カツーン、と。

 ふと、周囲を見渡すと他の乗客もカツーンカツーンやっている。みなアイスを凝視し、ひたすら彫刻に掘るように腕をふるっています。そんなにアイスを食べたいか。

 わたしも食べたい。通れッ! と念じながらスプーンでアイスを掘ろうとしますが、何度挑んでもカツーンカツーンいうだけで表面に傷ひとつつかない。ほんとうにアイスなのでしょうか。オリハルコンヒヒイロカネでできているのではないでしょうか。逆にこれだけつきたたても壊れないプラスティックスプーンのほうも異常なのではという気もしてきます。

 そのような不毛な作業と思考に没頭しているうち、いつしか時間の感覚がなくなり、気がつけば、東京駅への到着を告げるアナウンスを聞いています。しぶしぶカップを持って降車しようとすると、駅員から「すいませんがそれは車外に持ち出し禁止なんで……」と放棄を強いられます。禁止の理由が法的なものなのか科学的なものなのか呪術的なものなのかはわかりませんが、そういうものらしいです。せめて、舐めておけばよかった、といまさらながら悔やまれます。

 日本には「絵に描いた餅」という慣用句があり、意味は「食べられない食べものを見ると異常に腹が減る」。Youtubeなどでバーベキューや中華料理店のキッチンの動画を観るときによく使われます。

 そんな気持ちで、そんな空腹感で、東京駅をふらつき、スシの店を見つけたので入ります。ツナのにぎりが三貫、供されます。本物のツナ? と疑い半分で口に入れると、たしかに生のツナの味です。いやしかし、こんな内陸に本物のツナが入荷されるはずもないし、おそらくいつも食べているようなソイフィッシュなのでしょう。

 腹をくちくして駅構内を見渡すと、なんだか、どうも、違和感がめばえます。

 ヒトが多い。祇園祭はつい先日終わったというのに、この東京駅はヒトでいっぱいです。多すぎて、というか、密度が濃すぎて、酔うほどに。

 それになんというか……京都っぽくないのです。

 往くヒト来るヒトみんなスポンジケーキにバナナクリームを詰めたような匂いを発している。心が冷たそう。そばとか喰ってそう。どんな一見さんもおいしいぶぶ漬けでもてなす京都のあたたかみとは百八十度違います。まあ、洛外であるというだけでも剣呑な土地でありますし、出町柳のさらに遠方なら、天外魔境も同然。なるほど、あずまえびすとはこうした御面相でありますか。ハハア。

 いかつい東京人たちのあいだを怯えながら進みつつ、姉から指示されたとおりに形容線を目指します。形容線は読んで字のごとく、というべきか、その名に反して、というべきか、ともかくなんとも形容しがたいかたちをしております。

 しかも長い。形容線に入ってから、電車に乗るまで、無限に歩かされます。歩かされるだけならまだしも、降らされもします。黄泉までつづくような降りエスカレータに三回も乗る必要があり、降っていくあいだ、ずっと亡者たちの阿鼻叫喚と獄卒たちの高笑いを聞かされます。鉄の象がパオーンと鳴いてなにかを踏み潰しているのも見た気がします。ヒトを魂魄まで灼きつくす青白い炎も見た気がします。ここもブラックホールに近いのでしょうか。

 まあ、なにはともあれ、電車に乗ってさえしまえば、今度はすぐです。ディズニーランドです。






 マイク・ハマー駅に到着し、入国審査を通過すると、姉が出迎えてくれました。約束の待ち合わせ時間から少々わたしが遅れたせいか、しびれをきらして駅にいたものを二三呑みこんで銀の卵を産みそこから混沌(カオス)天空(エーテル)を生じさせたりしていたようでした。しかしそれですっきりしたのか、おもったよりもご機嫌です。全長十六メートルの万古不易の大蛇ともなると、気の持ちようも違ってくるのでしょう。

「あいが見ゆるがか」

 姉はしっぽでディズニーランドの中心、名にしおうシンデレラ城を示します。

「あン城ば()る」

 これだから九州人は。鬼石曼子(グイシーマン)だけじゃない。大友、立花、龍造寺、鍋島、秋月、阿蘇、松浦、それに加藤や細川。たいがいどこも野蛮です。蛮族です。城や国と見ると、奪うことしか考えません。

 事前に姉から渡されたスマホアプリには、ディズニーランドの地図が載っています。それによれば、天下の堅城です。円形の領域の中心にあるのはシンデレラ城、そこから放射状に道が延び、八方に廓を成しています。まずこれらを落とさないことにはランドの攻略など不可能です。日没までに終わるのでしょうか……?

 そういえば、わたしは聞いたことがあります。ディズニーランドにはファストパスなる制度があるらしい。早朝に早駆けしてチケットを穫れば、優先的にライドに乗れる券がもらえると。しかし、わたしたちが集った時点で、開園してからそこそこ時間が経っています。これでは、ファストパスとやらは売り切れてしまっているのではないのでしょうか。

「今はファストパスなどなか」

「え? ない?」

「時間指定制の優先パスは発行されとる。だが、朝駆けなんぞせからしい」

「じゃあ、どうやって優先パスの割当てを決めるんですか? 完全なる抽選?」

 姉はしゅるると舌を伸ばして微笑みました。

「カネじゃ。厳正に公正じゃなかね」

 姉はカネに糸目をつけませんでした。購入した優先パスで、ベイマックスに会いに行きます。

ベベイ



 ベイマックストゥモローランド・エリアに出没する大きくて白いぶよぶよした物体です。ロボットらしいです。エリア一帯は自動販売機から売店のグッズに至るまでこの白いまんじゅうの意匠にあふれ、ときおり街宣車のような車がのろのろ走りながら「わたしはベイマックス、あなたの心と身体の安全を守ります」と繰り返し呼びかけています。とてもディストピアっぽいです。監獄が誕生して以来、権力はこのような仕方でわたしたちを抑圧しようとするのですね。

 当のベイマックスに会うためには150分ほど並ばないといけないのですが、姉はカネにあかせた優先チケットを持っているのでわたしともども優先されます。あやしげな未来的施設に案内されると、なかではベイマックスがたくさんいて、背中にヒトを乗せビュンビュン飛ばしています。ベイマックスはひとりではなかったのです!

 多量の視覚的ベイマックスを浴びたベイマックス大好きな姉は大盛り上がりです。

「うはー、すごかー。ほら、見んね。ベイマックスにもベイマックスが乗っとる」

 姉がいっているのはベイマックスに乗ったベイマックスによく似たスキンヘッドにサングラスのおじさんでした。死ぬほど愉しくなさそうな様子で、二人用のベイマックスの座席でひとりクタッとうなだれています。心も身体もやや危険な状態にありそうです。

「ほら、ベイマックスベイマックスべべべのベイベイマックス。ブハハハ」

 姉はウケまくりながら、見知らぬ男性の写真を勝手に撮っています。倫理というものがないのでしょうか。ないのですね。九州には。

 ところがです。ベイマックスに乗ったおじさんの表情は飛んでるうちにだんだんと晴れやかになっていき、地上に降り立つころには幸福値が二百を超えていました。これには姉もわたしもびっくりです。

 自分たちで乗ってみると、なるほど理解できました。座席は心地がよく、なんだかいいにおいが漂い、ベイマックスのあたたかい声が常時語りかけてきます。これはハッピーになってしまいますね。幸せハッピースパイラルにやられてしまった姉は、ライドが終わるころには完全に弛緩して「これ……よさぬか……ベイマックス」などと気持ちよさそうなうわごとを発しておりましたとも。

 すっかりハッピーになった姉は調子に乗って、いきなり大将首を狙いにいきます。


 ミッキーマウスです。


 トゥーンタウンなる住宅街にあるミッキーの家まで押しかけます。

「おらーいれろー」

 姉は暴力的に戸を叩きます。ヒカキンの新居に押しかける厄介キッズのようです。いやキッズとて、ここまでアグレッシブではないでしょう。もちろん、中からの応答はナッシング。まあ、だれだって全長十六メートルで自在に火を吹く大蛇が自分の家の前にいたらビビります。

 ここは出直したほうが……と忠告する間もなく、姉は「たたきつける(いりょく:80)」でミッキーの家の扉をぶち破りました。ずんずか踏み入っていく姉を引き留める力もないわたしは姉のしっぽをおいかけます。

 入ってみるとふつうっぽい家です。なんの変哲もありません。玄関に貼られたミッキーとウォルト・ディズニーの写真の前をすぎると、書斎があり、本があり、キッチンがあり、机があり……と、机になにかメモのようなものが留められています。チェックリストです。自分を研鑽するための毎日の日課が書かれていました。おなじことをやっていた人物をわたしは知っていました。『グレート・ギャツビー』のギャツビーです。なにやら不穏な暗合な気がします。

 家さがししても主の姿はありません。国際的スターでありますし、多忙ゆえ不在なのでは……と姉に進言しようとしましたが、姉はずかずかと裏庭に侵入します。死体でも掘り起こすのでしょうか。

 庭もまたふつうです。家庭菜園といった趣の畑にはニンジンなどが植えられており、愉快げな効果音に合わせて出たりひっこんだりしています。やや普通でないのは、納屋でしょうか。納屋自体はアメリカ人の家には標準装備なのでしょうが、ミッキーの納屋は家のサイズに対してややデカい。郊外のモダーンなおうちには不釣り合いです。どうもこれは……

 おや? どこからか声が聴こえます。



ウォルト・ディズニーは幼少期を過ごした農村について終生、強い郷愁を抱いていた
 ここは庭ではない。家の内部(﹅ ﹅)に村があるのだ。心のなかにある原風景だ。だから、このなかには



 チェストー。


 と。

 姉が納屋の扉に「たいあたり(いりょく:40)」をくらわすと、牛や農業用具ではなく映画セットが出てきました。壁にかけられたスクリーンではミッキー主演映画の予告編が流されています。

 そして、さらにその奥には。

 いました。ミッキーマウスです。異教的であやしげな衣装に身を包んだ信者?らしきひとびとに愛想をふりまいて記念撮影しています。

 姉はわたしの背中を叩きました。

「さ、いきんしゃい」

 え?

「一番槍じゃ。大将首じゃ。誉れぞ。骨は拾っちゃる」

 ええ~~~~?

 これが止まっている車を見たらヤクザの死体が入っているとおもわなければならない国からやってきた蛇です。いうことが違います。しかし、ここは果てといえど、京都です。法があり、仕来りがあります。そして、みな理性を持っています。めったなことでは他人を殺してはならないのです。他人っていうか、ネズミだけど。

 わたしがひとしきりいやいやしていると、姉は、がんにゃあね、とつぶやき、わたしの腹にしっぽを巻きつけました。あっ、(ひや)い、と感じた次の瞬間には、身体が浮いていました。どうやらミッキーに対して投げつけられたようです。


 こんなの誉れじゃない〜〜〜。



 そのあとのことはよく憶えてません。
 



 べべイのベイ、という謎の声に起こされました。

 目覚めると、視界をぶよぶよした例の巨大なボデーが占めています。

 どうやら、通りがかりのベイマックスに介抱されたようです。よくみたら、ベイマックスのアトラクションで姉に写真を撮られまくっていたサングラスのおじさんでした。

「ちゃんと水分補給はこまめねに。この暑さなんだから」

 親切なおじさんだったようです。みなさんも熱中症対策は怠らないにしましょう(注意喚起)。

 そんなこんなで、いつのまにか、トゥーンタウンからトゥモローランドへ戻されていたようです。

 姉はといえば、わたしの隣で傷だらけの身体をペロペロと舐めていました。バチボコに負けたようです。わたしが起きたと気づくと、彼女はおちゃめに笑いかけてきました。

「やっぱ、中央(ヤマト)の王とホームグラウンドでやりあうのは分が悪か。出直しじゃ」

 鱗一枚も懲りていません。戦闘民族です。九州の北の方でもこれなのですから、日向とか薩摩とかどうなっているんでしょう。Vampire Survivor みたいな状況でしょうか。たぶん。

 日は暮れかけて、刺すようだった日射しもいくらか柔らかくなって、祭りが始まります。ランドの大通りをディズニー作品を象った山鉾が練り歩き、沿道の有象無象たちも拍手喝采。姉によれば、山鉾は毎日出てくるらしく、つまりここでは毎日が祇園祭ってコトでしょうか。ずいぶん愉快な京都もあったものだと感心するのですが、しかし、まあそれなりに気合いの入った鉾ばかりなので、毎日でも晒したいというのも令和らしい人情なのかもしれません。

「ベベイ」

 おっ、ベイマックスだ。

ベベイのベイ



 デカッ。 

【ベイ鉾 BAY HOKO (東京ディズニーランドワールドバザール上ル)】
ベイマックスは古来より宇迦之御魂神と縁があり、医療と統治の神として崇められていた。そのベイマックスを祀っていたのでこの名がある。山を飾るベイマックス御神体(人形)はネコを抱いた姿で、ラセター9年(2014年)穴亭曇衛門と羽入空理秀太郎との共作。前懸・見送ともにサンフランシストーキョーという架空の都市を象っている。作者は不明だが、アメリカ美術工芸品商会のロバート・チルダン氏から1965年に購入したもの。
ベイ鉾 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会より



 山鉾が終わると、それまで黒い板のような御札?を向けてさかんにベイ鉾を崇め奉っていたものどもがドッと押し寄せ、たちまちにベイマックスを解体し、その肉を火で炙ってパンに挟み、おいしそうなバーガーに仕立てます。神の肉を体内に取り込むことで神に近づくというわりと普遍的な儀式ですね。わたしにもひとつわけてくれました。

ベイバーガー


 東京の民はベイバーガーを食べればベイの声が聞こえるようになるといいます。そんな迷信を信じているとは田舎ものっぽくてかわいらしいですね。バーガーはバーガー。ただのファストフードです。こう、パクっと一口噛んでもぐもぐと咀嚼すれば、う〜ん、ジューシィな味わいが……

……として……だろう…………夏の…………



 ん? なにやらまた冒涜的(ブラスフェモス)な声が脳で……?



 ……私は〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉に行った。近年*2リニューアルされて、出し物も一新されたと聞いたからだ。行くとたしかに小綺麗になっている。いまとなっては以前のヴァージョンの詳細を憶えていないのだが、〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉オリジナルのメアリー・ブレアのコンセプトアートにさらに寄せた印象のキューエリアになっている、気がする。
 〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉はもともと1964年のニューヨーク世界博のために作られたアトラクションだった。世界博終了後にすでにあったアナハイムのディズニーランドへまるごと移設された。エスケイプ・フロム・トゥモロー』(ランディ・ムーア監督)を引き合いに出すまでもなく、〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉は隠微な不安をゲストに与える。その感覚は正しい。〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉はもとをたどればダークライドと呼ばれるジャンルのアトラクションだ。十九世紀後半に生まれた最も初期のダークライドは水の流れる人工的な運河にボートを浮かべ、くらがりを進んだ。客の多くはカップルであり、ダークライドの提供する暗闇が当時公共では許されなかったキスや情熱的な抱擁を交わす秘密の逢瀬の場となった。*3それをウォルト・ディズニーは脱臭して、子どもの人形で満たされた、清潔で平和な場に作り上げた。
 淫猥な出自を持つものを浄化すること。それ自体、倒錯的な行為だ。その倒錯が〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉というアトラクションにある種の背徳感を付与した。
 そして、実際に改装後の舟に乗ってみると、さらなる倒錯が行われているのだと知る。あたらしい人形が大量に追加されているのだ。その人形はいずれもディズニー/ピクサーの映画のキャラクターたちだ。圧倒的な経験だったといいたい。わたしはなにか大きくて悍ましいものに圧倒されてしまった。
 その感覚を振り払うために、わたしは〈魅惑のチキルーム〉へ向かった。ディズニーランドを訪れたときはいつでもわたしのオアシスになってくれるアトラクションだ。2008年に二度目のリニューアルを行って以降はあの名曲「魅惑のチキルーム」を聴けなくなってしまったが、それでも心穏やかでいられる楽園でありつづけている。
 わたしは二度目のリニューアルから登場するようになった『リロ&スティッチ』のスティッチの存在をこれまで特に気にかけたことはなかった。だが、〈イッツ・ア・スモール・ワールド〉の直後だと、妙にスティッチのでしゃばりさがひっかかった。別にスティッチ自体が不快なわけではない。不快感というより不安に近い。不安というより不安定さ。「これ」はなんだろう?
 気づいた。ディズニーランドはディズニーキャラによって征服されつつある。それまでディズニーランドの内部にあって、ディズニーの手から逃れつづけてきたものたち。かれらもまたディズニーキャラクターと化しつつある。なぜならディズニーランドにおいて最も売れるのは「ディズニーキャラクター」であるから。それは「ディズニー/ピクサー映画のキャラクターたちによってランドが占有される」という単純な話ではない。
 一例が、誕生以来日本で急速にプレゼンスを高めているクマのダッフィーとその徒党だ。ほとんど無からしたたりおちて生じた彼らは日本渡来以降、プー、ハンフリー、カントリーベアーズ、リトル・ジョン、バルー、ブレア・ベア、キナイ、コーダといった並み居るディズニーのクマの先輩たちを押しのけ不動の人気を確立し、年々「仲間」を増やしていった。日本では権利料の関係か、クラリスチップとデール)やマリー(おしゃれキャット)といったマイナーキャラをプッシュする傾向にあったが、ダッフィーは一味違う。『原典』となる作品を持たない。ただただ純粋な「ディズニーキャラクター」なのだ。そんなかれらがディズニーランドでは一大勢力を築いている。シーに至っては独自のショウや家屋まで持っている。販売可能なキャラクターとして、浦安の地に栄えている。
 ディズニーランドですらディズニーから逃げられないのではないか。このアイデアは私に戦慄を与えた。社会学の用語に「ディズニフィケーション」ということばがあるが、今この語が意味するべきはここに広がっている状況なのではなかろうか。ウロボロスの蛇のように自らを食らいつづけて、なお肥え太る。この怪物に今すぐ名をつけるべきではないのか。。
 ディズニーそのものがディズニーから逃れられないのであれば、より無力な私たちはなにをいわんや。「戦争」が起きているハリウッドに目を向ければ、それはすでに完遂されてしまっているようにも見える。私たちは消費者としてもはや目的ですらない。ただの養分だ。喰われるのを哀れに待つだけの。
 エ〜ッ。
 味噌漬けにしてあげる。



「途中から、ちいかわ朗読してなかった?」



 エ〜ッ?



「ディズニー・シーはたしかにダッフィー多いけど、アトラクションはキャラクターに頼ってないの多いとおもうんだけど……」



 そうね。



「あんた、だれン話しとるとね?」

 姉が絡んできました。

「だれって……神?」

「ああ、たまにあっちゃね」

 わかってくれたようです。

 暗くなったから帰ろう、と姉は告げました。姉は日本の蛇なので夜にはよわいのです。

 でも、ちょっとまって。わたしには寄りたい場所があります。


 


 夜のワールドバザールが昔から好きです。別れを予感させるさびしげな佇まいが。やさしく見送ってくれる仄かな灯りたちが。

 そのアーケードの一角、キャンディ屋とおもちゃ屋にはさまれた狭いスペースに、わたしのノスタルジーをもっとも掻き立てるお店があります。

ペニー・アーケード内部の様子。どんな遊具があるのかまったくわかりませんね。



 ペニー・アーケードです。今風にいえばゲームセンターでしょうか。ただし、二条のサードプラネットや河原町ラウンドワンのようなピコピコのゲームセンターではありません(ピコピコのも昔はあった気がします*4)。野球盤やピンポール、占い人形などの古めかしいゲームを揃えたキュートな遊び場です。稚魚のころのわたしはなぜかここで遊ぶのが好きでした*5

 一プレイ10円や30円の、他愛もないといえば他愛のないゲームばかりですが、この空間こそディズニーランドのひとつのテーマでもある「グッド-オールドなアメリカへのあこがれ」をもっとも能く体現していて、ディズニーランドにはない「雑駁と汚れた場所」でもあり、ひとたび銅貨をマシンに入れてピンポールを跳ねれば、わたしは1910年代のアメリカン・ボーイに……

 あれ? ピンポールマシンなくない?

 昔はあったよね? 撤去したのか? いや、記憶違い???

 というか……店内の遊具の半分くらいが動かないんですけど……

こんなかんじでコイン投入口がふさがれまくっている


 
 こんな……こんなはずでは………夢じゃ、これは夢にござる…………



 ベベイのベイ。

 帰り際、姉は福砂屋のカステラを持たせくれました。おしゃれなキュービックの箱に包まれた小分けパッケージで、なんともしゃらくさいですが、福砂屋のカステラは美味です。抗えません。このような偽物のノスタルジーではなく、ふるさとのおかしを食べて本物の思い出に浸れという姉からのプルースト的なメッセージだったのかもしれません。

 しかし、カステラは美味いだけで、特に記憶が喚起されたりはしません。八つ橋を食べて懐かしい気持ちになる京都人がいるか? いるかもしれない。京都人ってふだん何食ってんだろ……湯葉とか?

 

 帰りも新幹線です。京都駅に着きますと、入国審査にかけられます。ディズニーランドで出入国審査があるのはわかりますが、東京駅から京都駅までなら京都市内を行き来したです。なぜこのように尋問を受けるのでしょう。

「おまえ、京都住んでるの? ほんとに?」

 京都駅の入国審査官は例外なく横柄です。人の心がない。特に山椒魚に対しては。教習で『Papers, Please!』をやらなかったんでしょうか。

「なんか証拠ある? 京都民だっていうのの」

 わたしは口のなかから一冊の文庫本を取り出しました。

「これは京都にゆかりのある作家を集めたアンソロジー京都小説集です。ここに作品が載っています。京都があったりなかったりするような話を書きました。8月20日京都市内の書店で先行して発売されましたが、8月31日からネット書店を含めた各地の書店でも入手可能になります*6。これは身分証明になりませんか?」

「うーん」

「あとこれ」



「『SFマガジン』じゃん」

「8月25日発売の『SFマガジン 2023年10月号』の特集「SFをつくる新しい力」でSF入門向けの小説を二冊ほど紹介しています」

「ふーん。でもこれ京都関係なくない?」



「あと、9月10日の大阪文学フリマ声をテーマにした百合小説のアンソロジーに書いています。同じスペースで百合の泰斗・織戸久貴による怒涛のヒドゥンジェム的百合短篇レビュー本『百合小説アーカイヴ』も出ますからそちらもオススメ」

「百合」

「わたしのは豚の話です」

「百合?」



「あと、同じ大阪文フリで💖鴨川エッチ研究会💖というサークルから出るケモのアンソロジーにも小説を寄稿しています*7ウォルト・ディズニーがクマだったみたいな話です」

「エッチなんですか」

「わたしのはディズニーランドのように清らかで全年齢向けです」



「あとまだ告知されてないんで詳しくいえないけど、9月中ももう一個出る同人誌があって、そこにチップとデールについてのエッセイ?評論?が載ります」

「めっちゃがんばってるね」

「がんばってるんですよ。この記事も告知のためにがんばって書きました。あまりにがんばりすぎたので今日はかっぱ巻みっつしか胃にいれてません」

「感動したッ!」



 入国審査官はポンッとゲートを通してくれました。

 がんばっていれば、いいことあるんです。努力はかならず報われ、英語は勉強したぶんだけTOEICの点数に反映される。

 よかったね。

 めでたしめでたし……。



「しかし、わざわざ関東までなにしに行ってたのかね? 観光か?」

 審査官はおもしろいことをいいます。

 関東?

 あはは、ご冗談を。

 だって、あなた、あんな山奥に住んでいるのはタヌキかネズミくらいのものですよ。



*1:ギー・ドゥポール、土屋進訳:ポール・ヴィリリオ『黄昏の夜明け:光速度社会の両義的現実と人類史の「今」』序文

*2:調べてみると改装は2018年。けっこう前だ。18年以降にもディズニーランドを訪れたおぼえはあるのだけれど、そのときは友人と特にライドやショウなどに寄らず園内をうろつき回ることが主目的だったので、乗らなかった。

*3:高橋ヨシキ『暗黒ディズニー入門』

*4:トゥモローランド内に存在し、2015年ごろに閉鎖された「スターケード

*5:いままでは初めてディズニーランドに来たみたいなふうだったくせにここで唐突に設定が変わっている

*6:姉妹編として『大阪SFアンソロジー』というのもある。セットでどうぞ。大阪SFアンソロジー:OSAKA2045

*7:主催のツイート:https://twitter.com/violence_ruin/status/1690245350668546048?s=20

きっと、星のせいじゃない。――映画『ウィッシュ』について

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星に願いをかけるときは
あなたが誰でも関係ない
心に浮かんだ望みはなんだって
きっといつか叶うでしょう


――When You wish upon a Star



 とすれば、ブルータス、罪は星にあるのではない、われわれ自身にあるのだ。


 シェイクスピア福田恆存・訳『ジュリアス・シーザー新潮文庫


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星に願いを

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ヒトラーも口笛を吹くのが好きだった。
なかでも「星に願いを」はディズニーアニメのファンでもあった彼の十八番でもあり、パリを征服したさいにはシャイヨー宮で市街を見下ろしながらこの曲を吹いたという。*1
一方でもう一人の独裁者であるところのウォルト・ディズニーは当初この曲にやや懐疑的だったらしい。が、1940年にリリースされて世界的なヒットナンバーになるや『ピノキオ』の枠を飛び出してディズニーコンテンツのいたるところで使用されるようになり、いまや映画鑑賞前に流れるディズニーのロゴアニメでもBGMとしてもおなじみだ。もはやディズニー全体のテーマソングといっても過言ではない。


それはつまり、「願い Wish」がディズニー長編アニメ―ション全体を貫くテーマだったからだ。それは同時にディズニーを最もアメリカ的にしている要素でもある。願い、叶えること。アメリカン・ドリームという名の宗教の骨子だ。


思い起こせば、ディズニー長編の第一作である『白雪姫』でも白雪姫の登場は「願い」を掛ける歌から始まっていた。
白雪姫が森の動物たちに話しかけながら、「私の秘密よ。誰にも言わないと約束してね」といって、井戸の底に向かって「I’m wishing…」と歌い出す。以降、ゼペットじいさんは木の人形であるピノキオに「本物の人間になってほしい」と願い、ダンボの母親は子どもがほしいと願い、シンデレラは舞踏会に出ることを願った。時代を経ても欲望(desire)することはなお肯定されつづけ、アリエルは脚を得て王子様に再会したいと願い、ラプンツェルは魔女によって閉じ込められた塔から脱出することを願い、ラルフはもう悪役でいたくないと願い、エルサは……エルサがなにを願ったのかはみんな知ってるし、みんな歌えるはずだ。

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そんなディズニーが百周年記念作として、そのものズバリ『ウィッシュ』というタイトルの映画を作る。
期待しないほうがどうかしている。
ディズニーの総決算的な内容になるのは間違いなく、クラシックでいて、それでいて新しいなにかを提示してくれるに違いない。そう思っていた。いや、願っていた。
その願いは予告編を見ても変わらなかった。
まるで『Borderlands』の(それも1くらいの)ようなトゥーン風のチープなルックを見せられて、それを「『白雪姫』などに立ち戻った水彩画風のタッチだ」などと主張されても、変わらなかった。
先に公開された海外の方から悪評が漏れ聞こえてきても変わらなかった。結局のところ、Rotten Tomatoes などの支持率にしたって主に英米映画批評家たちに好まれる割合を示しているにすぎず、個別のレビュー本文を読めばその英米の批評家たちがいかに信用ならない存在かはすぐにわかる。しょせんは『ロビン・フッド』も『ブラザー・ベア』も『グーフィー・ムービー』もろくに評価できなかったやつらなんですよ。
私はことディズニーアニメに関しては自分で観たものしか信じない。
12月15日の金曜日、私はそれを自分の眼で観た。
そうして、私たちの生まれたこの星の下では、祈りも願いも叶わないのだと思い知った。

『白雪姫』(1937年)より

『ウィッシュ』のオープニングは美麗に装丁された写本が開かれ、物語のあらましが語られるところから始まる。
これは『白雪姫』から始まって長いあいだ、特にプリンセスもので使われていたディズニーアニメの導入の作法である*2。一種の決意表明と見ていい。「これから始まるのはクラシックオマージュの映画ですよ」という。
だが、実際に展開されるのはテイストもソウルもないアニメーションと、100以上にも及ぶ(と制作者は語っている)オマージュという名のただのイースターエッグの乱発だ。
ダメなところは、そうですね、つらつら挙げれば仕込まれたイースターエッグの数以上に出てくるけれど、とりあえずはテーマである「願い」にフォーカスしよう。


舞台となるロサス王国は地中海のどこかに位置する島。そこを治めるマグニフィコ王はあらゆる魔術を修得した偉大なる魔法使いで、18歳以上の国民全員の「願い」を預かり、月に一度、儀式を開いてその願いを叶えてあげていた。
母親と100歳になる祖父*3と同居する少女アーシャは、老い先短い祖父の願いが叶うように祈りつつ、敬愛するマグニフィコ王の弟子となるべく、王城で働く七人の個性的な友人*4の力を借りて面接の準備を進めていた。
ところが実際に王と面会したアーシャは、そこでひとびとの「願い」がどのように扱われているかを知る。マグニフィコは国を平和に治めるためという建前で叶えるべき願いを恣意的に選別しており、「音楽の力でみんなで良い関わりをもちたい」というアーシャの祖父の願いを「反乱の種」とみなして永遠に叶えるつもりはないと断言する。アーシャは叶えるつもりがないのなら、せめてその「願い」をひとびとのもとに返すように説得する。「願い」を抜き取られたひとびとは自分の「願い」を忘れてしまうのだ。それを思い出させてあげてほしい、とアーシャは王に懇願するが、王はにべにもなく拒絶。面接も大失敗に終わる。
「願い」の真実にショックを受けたアーシャは「みなの願いを叶えたい」という願いに目覚め、夜空にそれを祈る。
すると、星のカービィ……じゃなかった、伝説のスタフィー……でもなかった、星の形をした精霊? スターが落ちてきて、その不思議な力で動物を喋らせるようにしたり*5、ニワトリを巨大化させたりする。その魔法を王からみんなの「願い」を取り戻すのに使えるかも、と思いついたアーシャはスターをつれて王城に潜入しようとするが……というのが最初の三十分からそこらくらいまでのお話。


願いという観点から眺めた場合、主人公であるアーシャの願いの在りかたは、ディズニー長編アニメのなかではわりと異質だ。
物語開始時点では、特段なにか強い願いを抱いているわけではない。おじいちゃんの夢が叶うといいなあ、とか、マグニフィコ王の弟子になれたらいいなあ、とか(傍から見てると)漠然と考えているだけ。
ディズニー長編、特にプリンセスものはだいたい主人公に強烈な欠如感とそれに基づく願望があって、それが物語を推進していく原動力となるのだけれど、アーシャにはそうした差し迫った欠如がない。だから、願望もない。
代わりにあるのは他者に対するいたわりの心だ。彼女は、さきほど言ったとおり漠然としているとはいえ、祖父の「願い」が叶ってほしいと真摯に考えているし、「願い」の真実を知ったあとも王城で触れたひとびとの「願い」に感銘を受けてそれらの願いが叶ってほしいと強く祈るようになる。そして、それがスターという魔法を呼び寄せる。
それがやがて、他者との連帯につながり、革命の物語へと発展していくわけなのだけれど、ひとまずは措いておこう。

ミュージカルとしての『ウィッシュ』

ところで、『ウィッシュ』はミュージカル作品でもある。前に述べたように『白雪姫』が歌から始まっていた歴史を踏まえると、オーセンティックさ(いやなことばだ)をアピールするためにこのジャンルを選んだのは必然であったように思われる。
そう、ディズニーにおける「願い」は歌とともにあった。
特にディズニー・ルネサンス期と呼ばれる『リトル・マーメイド』以降の作品群では、ハワード・アッシュマンらの取り入れたブロードウェイ・ミュージカルの手法、すなわち主人公に秘められた欲望を歌を通じて観客に吐露することでそのキャラクターと物語の目的を鮮烈に示した。*6
このようなミュージカルのストーリーテリングにはある前提が必要となってくる。
つまり、歌い上げられるべき「願い」は秘められたものではなくてはいけない、という前提だ。
オペラなどとは異なり、ミュージカルではセリフと歌は分離されている。よく批判的な文脈で言われる*7「ミュージカルって突然歌い出すから苦手」というのも、普通に喋るセリフから突然会話としてはふさわしくない歌の世界へ移行するからで、ここでは現実的なレイヤーから空想的なレイヤーのジャンプが生じる。この飛躍をミュージカル苦手勢は違和感として捉え、ミュージカル好きな人はファンタスティックな感覚として好ましく感じる。*8


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抑圧されているからこそ「願い」は歌のレイヤー(=ここではない世界)で高らかに響くものであり、むしろそのような飛躍がないならミュージカルにする意味がない。
してみると、アーシャはどうだろう。彼女は特に秘密の願望を持っていない。強いていえば途中から王に隠れてレジスタンスとして活動することが秘密といえば秘密であるのだけれど、地下活動はあくまで手段にすぎず、その背後には「みんなの願いを叶えてあげたい」という目的がある。そして、その目的は特に秘されていない。
アーシャが星空に歌い上げる本作の主題歌「This Wish」は、曲単体では比較的良いほうなのだけれども、歌詞の内容的には「みんなの願いを叶えてあげたい」とついさっき持ったばかりの決意を*9特にひねりもなく歌い上げているにすぎない。そこには蓋されてきた感情が噴き上げる勢いがない。彼女は「願い」を歌うには、あまりにもキャラクターに内蔵されたバネが足りない。*10


とはいえ、ミュージカル映画のすばらしさは、時に「主人公は抑圧されていなければならない」というそれ自体理屈っぽい抑圧*11さえ歌声と映像のパワーで吹き飛ばせるところだ。しかしまあこの点でもなんというか、弱い。
ルネサンス期のディズニーのミュージカルではただブロードウェイ直輸入に徹するのではなく、映画的な手法やアニメーション的な誇張も多分に用いられていた。先日、テレビ放送で話題を呼んだ『ノートルダムの鐘』のオープニングでは、語り部である人形遣いの語りがそのまま過去のキャラクターの声へスライドしていくという手法が使われているし、厳密にはミュージカルではないのだが『ターザン』のオープニングではフィル・コリンズの「Two Worlds」に乗せて人間の家族とゴリラの家族をクロスカット見せていって最後にそのふたつが合流する、という演出で盛り上げてくれる。


キャラクターたち3Dの身体を持ってややアニメーション的な誇張が使いづらくなって以降も、ラプンツェルやエルサは彼女たち自身の躍動感と(時には文字通りの意味での)魔法によって、耳だけではなく眼も愉しませてくれた。
ところが『ウィッシュ』では映画的な、あるいはアニメーション的な映像のマジックがさほど信じられていないように思われる。
劇中歌のそれぞれの曲調や場面ごとのトーンはあるにしても、基本的には暗めの画面でキャラがうろうろしているだけだ*12。喋れるようになった動物たちが乱れ狂う「I’m A Star」や、地下レジスタンスたちが団結する「Knowing what I know now」がわずかにグルーヴを感じられる程度だろうか。
どの曲もそれなりに良くはあるのだけれど、既視感も強いし、どこかで突き抜けるものがない。まあ個人の感想です。

「願い」を独占している悪とは誰か

そもそも、人々固有の「願い」を吸い上げて独占するヴィラン、というのもなんのつもりなのか。
一代で王国を築き上げたマグニフィコは、伝統的な王族というよりも大企業のエグゼクティブ的にふるまう。見た目はスマートだが、その裏に隠された本性は傲慢で、気ままで独善的。道徳心も薄く、自分の思いついたことは誰のいうことも聞き入れず実行しようとする。妻である王妃のことも軽んじる。昔とは形を変えた家父長制のメタファーのようでもあり、そういう意味では現代的な悪役なのだろう。「愚民どもはいつも努力もせず、他人に自分の夢を託して怠けようとする」とはいかにもこの時代の成功者がとりそうな態度だ。そうだね、イーロン、あんたのことだ*13。月イチで行われる「願い」を叶える儀式がIT企業の製品お披露目会みたいなのも印象的だ。*14
そんな彼がひとびとの「願い」を吸い上げて王城でほぼ飼い殺しにしている。この「願い」をマグニフィコは何度も My Wish と呼び、所有権を主張する。なぜ管理しているかは説明ゼリフが多い本作のわりになんだかぼんやりしているのだが、どうもひとびとの「願い」が自分にはアンコントローラブルなのに耐えられず、どこかで支配からの逸脱を目論んでいるのではないかと不安になっているらしい。彼が叶えてあげる「願い」は「王様に尽くす騎士になりたい」とか「王国のために美しいドレスを織りたい」とか、王国=自分の利益になるものばかり。


他人の頭から生まれた「願い」を搾取してその権利を強硬に主張する悪人。
どこかで聞いた話だ。どこか。
ディズニーである。
slash filmの記事で指摘されているように、ディズニーは「マーベル・スタジオからルーカス・フィルム、ナショナル・ジオグラフィック、FOX、ESPN*15まで買い上げ」、文字通りの王国を作り上げた。そして、マーベルやスター・ウォーズといった他人の夢を自分の物として無尽蔵にコンテンツに作り続けている。
一方で、自らの所有する知的財産権については異常なまでに過保護*16で、特に著作権の保護期間を延長する法律は「ミッキーマウス保護法」として悪名高い。
なにより、ディズニー長編アニメーション自体の他人の夢で出来ている。
『白雪姫』や『眠れる森の美女』はおとぎ話の再話であるし、『ピノキオ』や『バンビ』や『くまのプーさん』などは明確に、しかも制作年からわりと近い時代に原作がある。ディズニーはそうした原作たちをそのときなりの思想に合わせて改変し、たいがいの場合は原作ファンから顰蹙を買った*17
しかし、われわれが今プーさんといわれて思い浮かべるのはフランク・トーマスの描いたプーさんであって、原作の挿絵担当であるE・H・シェパードのあの人形感のつよいプーさんではない。同様に『不思議の国のアリス』といえば青と白のエプロンドレスに身を包んだ金髪碧眼の少女であり、『美女と野獣』といえば黄金のドレスと水牛のような野獣の顔だ。
2000年代以降にオリジナル色が強くなってからも、過去に築き上げたIPは存分に利用してきた。
そんなディズニーがなんと呼ばれてきたか。「魔法の王国(Magic Kingdom)」だ。


本作はひとびとの「願い」を占有する「魔法の王国」を悪だと断罪する。
いってみれば、自己批判的な映画に見えるわけだ。
もちろん、アニメ映画というのは長期間にわたって非常に多くの人間の意図や意志が混じるので、その物語がどういった方向性のもとで書かれたのかを言い表すことは難しい。ただ、出力されたものを見れば、これはディズニーによるディズニー批判の映画に見える。
これを、普段は経営に口を出せずに労働力を搾取されつづけているディズニーの現場のアニメーターたち(の、あるいは集合的無意識)による勇気ある告発と称賛しようとおもえばできる。
できはするのだが、仮にそうだったところで、なんなのか。
ディズニーは依然として他人の「願い」や夢から富を生み出し続けているし、これからもそうしていくだろう。
なんとなれば、これまでのディズニーは富と共に夢や喜びも観客に与えてきた。
それは下敷きになるなにかがあったにしろ、たしかに確固たる世界を構築しつづけてきたからだ。
『ウィッシュ』は原作ものではなく、近年強まってきた異国文化フィーチャー感(悪く言えば”文化盗用”)も比較的弱い*18。そのせいなのかどうか、自分たちで美術の良さを謳うわりにはビジュアル的にも物語的にもスカスカで、クライマックスのそれ自体は正しく感動的なメッセージがうつろに響く。
ディズニー百年の歴史に対するオマージュとして作られたこの映画には、メタ的な寓意しかない。
ファンタジーを軽んじるものは、ファンタジーは寓意さえあれば成立すると考えがちだ。
違う。
たとえ寓意を重要視するとしても、ファンタジーであるなら、いや、物語であるならばそれを支える真剣さや一貫性や社会性や秩序や細部や人間性やルールや複雑さを欠いてはならない。つまりは世界がなくてはいけない。アーシュラ・K・ル・グィンで「真のファンタジーは寓意物語ではない。アレゴリ―とファンタジーは重なり合う場合がある」*19と述べたように。
「願い」や祈りが大事というのなら、信じるに値する世界を描き出そうとする努力、それ自体が重要な「願い」であるはずだった。
だが、そうした「願い」の代わりに本作にあるものは?
この十年、ディズニーがアニメにかぎらず超大作でやってきたことと同じ、100を超える大量のイースターエッグだ。ただ甘いだけで、何の栄養にもならない卵。
この卵を割っても未来は出てこない。
なぜなら、一つ残らず、腐りきっているから。

*1:Michael Spitzer, ‘The Musical Human: A History of Life on Earth’, 2021 →『音楽の人類史―発展と伝播の8億年の物語』原書房

*2:この手のオープニングが作品での私のお気に入りは『眠れる森の美女』。メアリー・ブレアの配色センスが炸裂しまくっているのがよい。例外的だが『ロビン・フッド』もすばらしい

*3:これが百周年を迎えるディズニーと重ね合わされているとするなら……最悪だ。

*4:明確に『白雪姫』の七人のこびとのオマージュ

*5:もちろん「プリンセスは動物と通じあえる」というディズニー八十年の伝統に則っている

*6:谷口昭弘『ディズニー・ミュージック 〜ディズニー映画 音楽の秘密』スタイルノー

*7:元はタモリだとか

*8:ミュージカルがなぜ「突然歌い出す」ようになったかについては宮本直美の『ミュージカルの歴史』(中公新書)がお手軽で詳しい

*9:家族から拒まれ、社会的にも抹殺されそうという抑圧はあるにしても

*10:いちおう悪役であるマグニフィコにも歌が用意されていて、そちらはたしかに国民には見せない彼の欲深さをナルシシズムを吐露しているのだが、こちらもなんというか、『リトル・マーメイド』のアーシュラや『ライオンキング』のスカーほどに良くはない。共犯者や部下がおらず、孤独なせいだろうか。

*11:ディズニープリンセスたちが抑圧的な状況下に押し込められる事の必要性の是非は何度でも問い直されるべきだろう

*12:いちおう歩くだけにしても演出の意図は見えていて、たとえば This Wish ではどんぞこな気分を味わっているアーシャが自分の願いと決意に気づき始めるにつれ、階段を登ったりして「アガって」いき、最後には空を見上げる。キャラの気持ちと歌と映画をシンクロさせようとはしている。

*13:見た目がスマートかはおいといて。むしろ『サクセッション』の終盤に出てきたアレクサンダー・スカルスガルドに近いのかも

*14:そういえば、一時期の海外アニメSF映画ではジョブスみたいな悪役が多かった

*15:スポーツ報道専門チャンネル

*16:もっともよくネットで本気半分でネタにされているように、ちょっとミッキーマウスを小馬鹿にするミーム画像を作るくらいではディズニーは怒らない。それで火遊びしているつもりのひとびとを見るたび、私はネットの卑しさを思わずにはいられない。

*17:たとえば、『バンビ』についてはルグィンの『ファンタジーにできること』河出文庫などに目を通すとよい

*18:地中海っぽさでいえば実写版『リトル・マーメイド』のほうが強く匂う

*19:「批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち」谷垣暁美・訳

2023年の新作映画ベスト20選+α、その夢の年

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proxia.hateblo.jp



「自分の夢がなんなのか知りたかったら、それをつきとめる方法は、映画をたくさん見ることだよ」


コニー・ウィリス大森望・訳『リメイク』(ハヤカワSF文庫)



映画を鑑賞するときの視座の一貫性を失ってしまったような気がする。
みなさん、お元気ですか。
わたしはトムの怒れる暴走列車です。

2023年ベスト10

1.『オオカミの家』(クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督、チリ)


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映画は夢でできている。年末に『ヘルレイザー』のリマスター版を観たときにもおもったのだけれど、なにかがある種の手続きに沿って生成されていく過程にはなにやら冒涜的なざわめきが宿る。自分が生成AIの絵について描出の完了したものよりはその過程で中断されたもののほうを、もっといえば、生成されていく過程そのものの動画のほうを好むのは、そうしたざわめきを興奮と錯覚しているからかもしれない。痒みだって痛みの錯覚なのだ。
『オオカミの家』はそうしたざめわき、網膜をとおして全身に大量のウジが這うような経験ができる数少ない映画だ。それは悪夢だ。昏い歴史にねざした昏いアニメーションだ。だが、すばらしい夢でもある。

2.『兎たちの暴走』(シェン・ユー監督、中国)


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ひさしぶりに帰ってきた母親がファム・ファタールとなって娘の人生を狂わせていく。
すべてのカットが夢のようで、あらゆる反復(特に火と開閉の行為)が陶酔的だ。だから……なにから思い出せばいいだろう?
再会のはずなのに、あたかも運命的に初めて出会ったかのような初々しさで娘にタバコの火をねだる(娘はまだ高校生だ)母、母と娘で異なる場所に置かれている寝椅子、『リズと青い鳥』ばりに誇示される学校空間の立体性、放送室で読み上げられる本心、間違えられていた誕生日、透明なiPhoneケース、しまわれた指輪、秘密のトランク、あらゆる視線のやりとり。ラストシーンが政治的検閲によって暴力的に中断される瞬間すら美しい。

3.『レッド・ロケット』(ショーン・ベイカー監督、アメリカ)


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バカなのに打算的で、利己的なのに愛されたがり。そういう最低な人間をチャーミングに描いてゆるされるのが映画の爽快さだと、そうした軽薄なレトリックを貼ってもよいのだけれど、その裏には作り手たちの繊細な仕事がある。イヌがいい。イヌの視線の効用をベイカーはわかっている。

4.『ベネデッタ』(ポール・ヴァーホーヴェン監督、フランス)


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幼い頃からキリストを幻視してきた少女ベネデッタは修道院に入って、やがて聖痕を受けた”イエスの花嫁”として修道院内で祭り上げられる。
このベネデッタに幻視されるキリストがいかにも気の抜けたイケメンで、信仰の対象としてどうなんだという感じなのだけれど、それが安っぽい撮り方で聖化され、ベネデッタ自身はほんとうに信じているのだと示される。人を感動させるイメージやイコンというのは、ヨハネの夢の昔から、キッチュで俗悪なものだ。昔読んだ矢部嵩の小説に主人公が「テレビみたいにきれい」と瞠目する場面があったのを思い出す。信仰はどこにでも宿る。宿らせる先はあなたが決められる。
聖者であることと背教者であることが同時に成立していたように、信じ貫くことと恣に自由であることは両立しうる。
そんなしなやかさがこの映画を痛快にしている。

5.『ミッション・インポッシブル:デッドレコニング PART ONE』(クリストファー・マッカリー監督、アメリカ)


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今年になって生まれて初めて、映画館で映画を観ている最中に事故で映中止になる事態に出くわした。それは音が途切れて映像のみ流れるという不具合だったのだけれど、他の観客たちと静かな困惑を共有しながら、急に細部や動きが強調されて鮮明になっていく映像を浴びながら、やはり映画は光と影なんだと感銘を受けた。残念ながらその事故った作品はわたしのベストに入る作品ではなかったのだけれど、『ミッション・インポッシブル:デッドレコニング PART ONE』を観たときに似たような感慨が蘇ったことを憶えている。まるでプロットの体をなしていないストーリー。アクションのために用意されたアクション。陰に隠されてもなければ狡く謀られてもいない陰謀。事前に何度も予告編で見せられて味のしなくなった断崖絶壁からの全力バイクフリーフォール。80年代から一ミリも進んでないAIの未来像。いやただだがしかし、そこには身体があって動きがあった。それが映画で、絶体絶命に見えるシーンも絶体絶命でないとわかっているはずなのに、危ない! トム・クルーズ! とハラハラする瞬間が何度もあり、あるいはそうした錯覚すらなくても、ただなにかこみあげてくる興奮があった。

6.『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督、英国)


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さびしい田舎の島に男がふたりいて、なぜか喧嘩をする。それだけなのが、べらぼうにおもしろい。なぜならこれも貫かれているから。

7.『マイ・エレメント』(ピーター・ソーン監督、アメリカ)


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良いとか悪いとかではなく、いや、スタジオとしてははっきりマイナスなのだろうけれど、ピクサー/ディズニーのスタイルはもはや古い類型の物語(ディズニー的な類型の物語、という意味では必ずしもない)の語り直しにしか向いていない。今のかれらは根本的に新しい型を作り出すようには教育されていないではないか、とさえおもってしまう。カルアーツはなにを教えているのだろう。で、そこらへんを開き直った『マイ・エレメント』は鮮やかなロマンティック・コメディだった。見てよ、あのポンヌフみたいな橋!

8.『ファースト・カウ』(ケリー・ライカート監督、アメリカ)


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このところ一年にひとりはかつて苦手だった監督が好きになる、というイベントが発生する。去年はそれが原田眞人の『ヘルドッグス』で起こった(新作の『BAD LANDS』も良かった)。今年はケリー・ライカートだ。ライヒャルトと呼ばれていた時代になんかジェシー・アイゼンバーグがダムを爆破? しようとする映画を観て、観てというか、画面が超絶暗くてなにもわからない、へたくそかな? としか思わなかった。さすがに『ウェンディ&ルーシー』はイヌがよいのでなんとかおもしろく観られたけれど、これがアメリカインディペンデント映画界の希望の星とはずいぶん暗い未来だな、と内心考えていたものだ。いやあ、でもね、映画館で観たら、よかったんですよ。ライカート。映画館向きの暗さだったんですね。
本作も、セットアップは西部劇なのに主人公たちが成り上がっていく手段が撃ち合いでも黄金でも列車強盗でもなく、揚げ菓子だというのがいい。しかもその菓子を売るシーンがまあ暗色めいて汚らしくて菓子自体もそんな映えないのに、めちゃくちゃうまそうに見えるのがすごい。牛? ああ、牛はいいよ。最高ですね。イヌもいいですね。過去を掘り出す存在としてのイヌ。最新作と『ショーイング・アップ』をふせて観れば、ズレていたふたりが最後に並ぶようになる系映画のひとだとわかる。山田尚子もやっと来年新作ですね。

9.『北極百貨店のコンシェルジュさん』(板津匡覧監督、日本)


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デパートを舞台にしたあらゆる物語は『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』に憧れる。その呪縛は原作のころから『北極百貨店のコンシェルジュさん』には現れていた。そして、映画にはその憧れがさらに濃く出ている。映画版の追加要素である、デパートについての歌から始まるオープニング、縦方向のアクション……なにより、どこまでも軽やかで朗らかな身振り。そして、タッチ。
西村ツチカは硬い作家である。その生真面目さが原作の良いところでもあり悪いところでもあった。映画版もまた映画版なりの良さと悪さがつきまとう。よく褒められる脚色も、90分の一連の体験としてはおさまりがよいはよいのだけれど、扱っているテーマからさらに離れてしまっている。
それでもこの作品がブレないのはアニメーションの最大の長所、すなわち現実の重力からの自由さがあらゆるレベルにおいて実現されているからだ。

10.『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(ダニエルズ監督、アメリカ)


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いやしくも多少なりとも映画を観ている人間であれば、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』などいうキッチュで美意識にも政治意識にも欠ける(にもかかわらずそのどちらも具えているかのようにふるまう)作品を全面的に称賛するなどあってはならない、という風潮がある、という妄想がわたしを支配していて、だからこの作品は今年のベスト5なら5位に、ベスト10なら10位に、ベスト15なら15位にかならずランクインする。正義は果たされなければならない。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は薄暗い映画館内での2時間の約束を遂げてくれた。わたしたちも義務を履行しなければいけない。
なので、この作品が2023年に日本で公開された事実を残しておかねばならない。

裏ベスト10

11.『Pearl/パール』(タイ・ウエスト監督)

アメリカンドリームが崩壊していくさまを描いた作品は例外なく良いものだ。これもまたキッチュな信仰をもってしまった人の話で、しかしベネデッタとは違ってパールは、前作を観ているひとなら最初からわかってるように、オーディションに合格することはない。彼女は映画が始まったときから怪物だった。だから、夢を持ったこと自体がはじめから間違いだった。それでも夢は見てしまう。凡人から怪物にまで平等に配布される夢見る権利、それがアメリカンドリームの残酷さだ。破られ折られ壊されつくしてもなお、夢を貫こうとした人間はどうなるのか。それがこの映画と前作の『X』では描かれる。

11.『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(ホアキンドス・サントス&ケンプ・パワーズジャスティン・K・トンプソン監督、アメリカ)

ひたすら目にやさしくない。『オオカミの家』とは別の形態の夢。

12.『イノセンツ』(エスキル・フォクト監督、ノルウェースウェーデンデンマークフィンランド

これとか『怪物』とか、あまりに子役の扱いがうますぎる映画ばかり摂取していると、たとえばある映画の序盤などを観せられたときに、「子役だなあ」と当たり前の事実に白けてしまうようになってしまう。よくないね。

13.『ボーンズ・アンド・オール』(ルカ・グァダニーノ監督、アメリカ)

両足の脛の部分が破れたジーンズ(超絶ダサい)から骸骨のように覗いたティモシー・シャラメの脚。

14.『ザ・キラー』(デイヴィッド・フィンチャー監督、アメリカ)

どこかポンコツマイケル・ファスベンダーがひたすらカッコつけているだけ、という週刊少年サンデーにでも連載されてそうなギャグまんが風味を楽しむシットコム映画。もちろん、ハーゲンダッツを食べたがるティルダ・スウィントンも抜群に良い。

15.『エリザベート1878』(マリー・クロイツァー監督、オーストリア

今年は特に邦画で水の話なのに水の扱いが非常に雑な作品が多くてイライラさせられたのだけれど、その点『エリザベート
1878』はなぜそこに水があるのか、なぜその人に水を重ねるのか、を惰性ではなく常に自問して考え抜いた上で水を用いていて良かった。

16.『フェイブルマンズ』(スティーブン・スピルバーグ監督、アメリカ)

映画論映画としては最上級なのだけれど、スピルバーグに期待される快楽がやや削がれている。

17.『EO』(イェジー・スコリモフスキ監督、ポーランド・イタリア)

動物映画枠。

18.『ジョン・ウィック:コンセクエンス』(チャド・スタエルスキ監督、アメリカ)

象徴的なキャラクターを中心に据えたシリーズものというのは、再演されるたびに壊れていくカラクリ人形劇のようなもので、4を超えるとあとはどう壊れていくかの仕方の問題になってくる。ジョン・ウィックの壊れ方は理想的だ。

19.『BAD LANDS』(原田眞人監督、日本)

とにかく、冒頭のオレオレ詐欺の受け渡しをめぐる攻防につきる。

20.『ロー・タイド』(ケビン・マクマリン監督、アメリカ)

サイズ感と予算感に対して無理しない範囲ですべてを詰め込んで丁寧にしあげた青春クライムドラマの佳品。こういう端正さに出会うと、嬉しくなってしまう。ちなみにマクマリン監督は『メイド・イン・アビス』の脚色を担当しているらしい。悪くない人選では?


あとは『ロスト・フライト』、『SEARCH 2』、『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』、『マッドゴッド』、『ヒトラーのための虐殺会議』、『アステロイド・シティ』、『ナチスが仕掛けたチェスゲーム』、『聖なる証』、『HUNT』、『PERFECT DAYS』、『HUNT』、『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』、『ファルコン・レイク』あたりもおもしろかったです。

アニメーションのトップ10

『オオカミの家』
『マイ・エレメント』
スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』
長ぐつをはいたネコと9つの命』
『マッド・ゴッド』
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・スタジオ」
『窓際のトットちゃん』
ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』
『駒田蒸留所へようこそ』
『マルセル 靴をはいたちいさな貝』


イヌ映画オブジイヤー

★『ジョン・ウィック:コンセクエンス』
 『レッド・ロケット』
 『ザ・キラー』
 『エリザベート1878』
 『ノースマン 導かれし復讐者』
 『窓際のトットちゃん』
 『ファースト・カウ』
 『長ぐつをはいたネコと9つの命』
 『スラム・ドッグス』
 『イニシェリン島の精霊』
特別賞:『ガンサーの相続金』

ドラマ

『サクセッション』と『BARRY』の年


2023年に遊んでおもしろかったゲーム20選+α

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前説

HADESやHollow Knightなどをやりなおしているあいだに2023年が終わってしまいました。この一年はほんとうに一年だったのでしょうか。365日のうち20日ぐらいちょろまかされたりされていないか。だれに? そりゃあ、あんた……任天堂


オマエーッ!


Steamの年間まとめによれば、わたしは2023年に新作旧作ひっくるめて56本のレビューを書いていたそうです。基本的にエンドクレジットまでたどりついた作品にしかレビューを書かない主義であるのをふまえると、あたかもたいそうな廃人のようでありますが、それらのほとんどは2時間か3時間で終わる作品ばかりです。わたしが廃人なのはライフスタイルとは関係なく、心が廃れているからです。その心が2時間か3時間かくらいのプレイにしか耐えられないのです。2,3時間で完結しない場合は飽きて別のゲームへふらふら移ります。それがわたしの性なのです。にもかかわらず。
なぜ、現代のAAAタイトルはプレイヤーに無条件に100時間の投資を要求するのでしょうか。その100時間に実りある体験が詰まっているならまだしも、100時間のうちの80時間くらいは(なんのゲームとは申しませんが)無駄に細かく分類されている銃弾をやりくりするためにインベントリを整理したり、(なんのゲームとは申しませんが)FF8のリノアキャッチみたいなクソダルイベントを2時間ごとに1回のペースで繰り返させるのです。どのような論理と権利があって、そのような虚無を1万数千円で売りつけてくるのでしょうか。[サラ・モーガンは悪く思っている……]
制作費に5億ドルかけているからでしょうか。広告費に10億ドルかけているからでしょうか。あるいは、単純接触時間の長さだけがプレイヤーに感動をもたらすための唯一のゲームデザインの黄金則だからでしょうか。むしろそうした細やかな雑作にこそプレイヤーのユニークな体験が宿り、自分だけの思い出になっていくからでしょうか。
おそらく、どれも正解ではないのでしょう。
その100時間は必要な100時間なのか、あるいはそうでないのか、という問いが存在するとして、それにただしく答えられるひとは地球上のどこにもいません。
わたしたちはかつてない時代にいます。単体のパッケージについて100時間でひとつらなりの体験を、どう語り、どう受容すればいいのか。誰も知らないのです。
でも、そういうものが現に生み出され、現に嗜まれている。
探索可能な1000以上の無の惑星で、無のミネラルを採掘する体験が、最終的には正当化されてしまうなにかがあのおぼろげな100時間のどこかにある。
途方もないことです。
途方もない時代です。

2023年のゲームトップ20

基本的には2023年にリリースあるいは翻訳された新作ですが、一部旧作が混じります

1.The Cosmic Wheel Sisterhood

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魔女宇宙タロット制作&占いADV。ADVの歴史は手入力式だったプレイヤーの行動を開き直って選択式にしたときから、有限も有限すぎるゲーム内での未来の帰結がいかに未知で無限であるかと錯覚させるかの詐術の歴史でもあったとおもうのですが、本作はプレイヤーと主人公に(メタ的な手法に依らず)ある程度の距離を作った上で「プレイヤー自身が未来を作っている」という錯覚を作り上げてくれます。そして、その錯覚を錯覚と作り手自身も知悉した上で、物語として肯定してくれるのが強い。*1
まあ、しかし、なによりキャラがいい。絵がいい。てざわりがいい。窮極的には、ビデオゲームとはルックなのではないかとおもいます。

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2.Kentucky Route Zero

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届け物を届けるためにトラック運転手が麦わら帽子をかぶったイヌやゆかいな仲間たちとともにケンタッキーを彷徨うADV。
マーク・トウェインに曰く、「ユーモラスな物語はアメリカのものであり」、その良し悪しは「話の中身(マター)」ではなく「語りのやりかた(マナー)」にかかっている。「ユーモラスな物語は重々しく語られ」、「何か面白いことがあるなんてことを少しでも勘づいているそぶり」など見せず、「好きなだけあちこちさまよい、特にどこにもたどり着かなくても構わない」。*22024年のいま、この条件に当てはまるアメリカ産のゲームをわたしはいまやひとつ知っている。
KRZはアメリカのお話であると同時に、演劇や現代美術、そしてビデオゲームのアドベンチャージャンルの歴史も踏まえています。それはビデオゲームアメリカの歴史を語る上で欠かせないものになったという本作なりのステイトメントであり、リスペクトやオマージュやノスタルジーを超え、ひとつのおおきな流れのなかに自らを位置づけようとする誇大妄想の叫びでもある。そうした狂いこそが、もっとも本作を特別なものにしているのでしょう。




3.Cyberpunk 2077: Phantom Liberty

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あのときの未来の続編。

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サイバーパンクとはノワールである、と看破した開発陣の慧眼はいくら称えても足らないくらいなのですが、ではノワールに徹しきれる物語がどれだけあるのか。宣伝広告の中に存在しない自由を素朴に信じ、その憧れのためにどこまでも都合よく使われるチンピラでしかない主人公とは、無限にクエストを課されるオープンワールドRPGのプレイヤー自身の似姿でもあったわけですが、今回は立場を同じくする仲間たち(と呼ぶにはあまりに複雑な利害と友情とつながった間柄)がいて、かれらに勇気づけられるときもあれば絡め取られるときもある。
ネトフリの『サイバーパンク2077:エッジランナーズ』の功績は大きいですよね。『エッジランナーズ』は本DLC配信前後のメジャーアップデートでもかなり優遇されていたわけ*3ですが、あのアニメこそが Cyberpunk 2077 におけるノワールを定義づけてくれました。つまりは、夜空に大きく輝いて見えるのに、手を伸ばしてもけっして届くことのない月。あるミステリ書評家がかつて「人間の魂の暗部を描く――これはノワールの芯である」*4と述べていたのにはおおむね同感で、その昏さのみを見つめる作品も数多いのですが、一方でそのすり潰されそうなほどに稠密な暗闇のなかで、わずかに射し込む光明をつかもうともがく姿を描くのもまたノワールであるとおもうのです。
Phantom Liberty はそれをほぼ理想的に達成してくれました。
引用されるのがジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』であるというのがまたニクい。『ニューヨーク1997』から生まれたもうひとつのゲーム史的傑作がなんであったかを思い出すのなら、本DLCで課される内容と語られる内容がこれまでのビデオゲームが積み上げてきた歴史の上で成り立っているのだと感得されることでしょう。

4.Chicory: A Colorful Tale(チコリー:いろとりどりの物語)

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世界一のアーティスト=その世界を保っている大魔法使い、みたいな世界で、その大魔法使いから唐突に大魔法使いたる役目を押し付けられたお調子者の弟子のイヌ、チコリーの冒険を描くお絵かきADV.
特にインディーゲームにおいては創作者の苦しみを表現しようとしたものは無数に存在するわけですが、Chicory ほど繊細かつ開かれた形で描いたものはかつてあったかどうか。
本作では難しさを抱えているさまざまなひとびと(獣人ですが)に出会います。成功したアーティストであるがゆえに、他人と自分自身から過大な期待を負わされて精神的につぶれてしまう師匠。表面上はへらへらとポジティブにふるまいながらも、心のどこかでは突然ふってわいた地位に自分の実力が見合ってないんじゃないかというインポスター症候群めいた不安をおぼえる主人公。その主人公に対して嫉妬し「業界はやはりコネなんだ!」と怒りをおぼえる絵師志望のハリネズミ。明日の面接が不安で朝からずっと浜辺で砂のお城をつくりつづけているイタチ。たいした理由はないのに「無性に”ツラいな〜”という日」がつづいて心が落ち着かないオポッサム……。だれもがとりたてて表には出さないけれど、どこかで大なり小なり不安定な感情を抱えています。
では陰鬱に塗りつぶされた世界かといえば、さにあらず。本作の世界にはそうした不安によりそい、共感し、元気づけてくれるひとびと(だから獣人なんだけど)もたくさんおります。かれら自身もまたなにがしかの苦しさを持っていて、そこがまたよい。思いやられながら思いやる。朗らかだけど憂鬱で、ダウナーだけどハッピー。そうした互恵といえるほど立派でも余裕のあるわけでもない関係こそが、人間同士のいとなみなのだと確認させてくれる貴重な作品です。




5.ゼルダの伝説:ティアーズ・オブ・キングダム

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ブレワイといっしょでラストのエモさにごまかされている気がしないでもないのですが、ちゃんとラストでエモくなれるということはそこまでのデザインが緻密に組み立てられているということなのだろうし、なんだかんだパズルを楽しく解いた気もするし、クリアから半年以上経った今となっては「とても良かった」という感触が残ってて、その気持ちは本物だとおもいたい。
だって、もう、縦の軸のゲームでさ、縦の軸のアクションのクライマックスやられたら感動しちゃうでしょう。しない? あなたにはひとの心がないんですか。いや、ひとの心がないのはブレワイであんな目に合わせたゼルダ姫をティアキンで百倍増しにひどい目に合わせなおす任天堂でしょうよ。こんな倫理観のひとたちに世界中の子どもたちがあそぶゲームや観る映画をつくらせていいんですか? まあでも劇場アニメ版『マリオ』を共同で作ったイルミネーションのメインコンテンツって泥棒だしな……。
ベストの五指に入っている理由の七割くらいはミネルさまです。


6.The Case of the Golden Idol

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The Game Awards の配信を某動画サイトで観ていたのですが、その冒頭で流れた本作の新作続編CMに対するコメントが「なにこれ?」といったような戸惑いの反応ばかりだったのを見て去年イチ悲しくなりました。The Case of the Golden Idol をご存知ない? なにも失ったことがないなら、それでいいけど*5
ひとことでいえば、『Return of the Obra Dinn』を2Dにして歴史改変SFにしてユーモラスで気持ち悪いおじさんたちを大量に投入した推理パズルADV、といったかんじでしょうか。「大量のユーモラスで気持ち悪いおじさんどもって、それ、要るやつ??」という疑問をおもちの向きもあるかとはおもいますが、断言しましょう、必要です。
ストアページのスクショやムービーを見てわかるとおり、この独特の絵からみなぎってくる謎のパワー、それそのものが本作の世界を織りなしているのです。
推理パートは理不尽すぎず簡単すぎないほどよいバランスで、それを解き明かす過程自体も愉しいのですが、謎を埋めていくことによって物語がプレイヤーのなかで読み取られていく過程のほうもまたエキサイティング。ここのあたりが『Return of the Obra Dinn』フォロワーの面目躍如たる部分でもあるでしょう。RotOD作者のルーカス・ポープ御大(埼玉県在住)絶賛も納得です。ちなみにエンディングのあとに全ストーリー解説もついてくるという親切仕様。
翻訳は有志のMODですが、これも凝っていてすばらしい仕事です。




7.Terror of Hemasaurus

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なんかデカくてつよいやつになりたい? なら、これ。
愚かな人類にイライラしてる? なら、これ。
ビルをぶっこわしてスカッとしたい? なら、これ。
ゴジラみたいな怪獣になって愚かで無力な人類をビルごとひねる潰す横スクロールアクション。ベースとなっているのは、何年か前にドウェイン・ジョンソンで映画化されたことでおなじみ(?)の『Rampage』(1986)。とにかく爽快。怪獣になって愚かで無力な人類を滅ぼしたい人にオススメです。途中で挟まるストーリーも諷刺がラジカルに利いててなかなかおもしろい。


8.Birth

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骨や臓物や植物でビジュアルを作り上げることに異常な執着を持つ Madison Karrh によるポイント・アンド・クリック式パズルADV。公式のストア紹介文によれば、「街中で見つかる骨や臓器から、寂しさをいやす生き物を作り上げるパズルゲーム」です。おぞましそうでしょう?
しかし、実際プレイしてみると、思いがけない温かさに満ちたゲームです。この感触はあまり類を見ない。
二時間ほどで終わる個人開発のゲームにわたしが求めるのは、そうしたユニークなテイストであるのです。新鮮な驚きとは、ミックやゲームのシステムだけに宿るものとはかぎらない。




9.Astrea: Six Sided Oracles

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Slay the Spire 的なデッキビルド式ローグライトカードゲーム……のサイコロ版。サイコロでデッキビルドというとテリー・キャヴァナー(『VVVVVV』などの開発者)の『Dicey Dungeons』があるわけですが、DDがヤッツィーっぽかったのに対して Astrea はStSフォロワーであることに呵責がない。
運と技術のバランスをいかに配分するかというゲームデザインの根本がつねに問われるデッキビルドものですが、「賽は投げられた」というフレーズがあるように、サイコロといわれるとかなり運よりな印象を受けがちです。しかし、本作ではその出目をスキルなどで事前/事後にかなりの程度、操作できてしまう。ここは発明ですよね。自分ではどうにもならないはずの運をテクニカルに操作ことで、逆に「運を自分で支配している」というプレイングの快感を演出している。そういう運要素の人為的操作ってふつーのカードゲームのデザインの基盤にもかならず含まれていたり(もっともシンプルな例がカードの追加ドローやリドローができるカード)するんですが、そこが明示的になることで単なるStSフォロワーとも違った味わいを生んでいます。

まあ、本作の詳細に関してはわたしよりうまく説明しておられる方がいらっしゃるのでそちらをお読みください。
yobitz.hatenablog.com

ふだんはあんまりデッキビルド系って熱心にはフォローしてないんですが、去年だと他にはポーカーを破壊していくポーカーベースのデッキビルド『Aces & Adventures』がたのしかったですね。


10.The Excavation of Hob's Barrow

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その昔、アドベンチャーサブジャンルにポイント・アンド・クリックというのがありました。画面上に表示されているキャラクターを主にマウスで操り、調べたい対象や移動先などをクリックして導くタイプのアドベンチャーです。90年代にルーカスアーツ(『The Monkey Island』など)の隆興とともに拡がりを見せ、一時代を築きましたが、さまざまな要因により2000年代には滅んだ*6……とおもわれていましたが、なんか00年代なかばにしぶとく復活し、こんにちに至るまで一定のファン層と文化を形成してきました。
ところで、Wadjet Eye Games というインディー・ディベロッパー/パブリッシャーがあります。The ShivahGemini Rueといった昔ながらの硬派なポイント・アンド・クリック・アドベンチャーを出している、というか、それしか出さないウルトラ硬派な会社です。ポイント・アンド・クリックというのは、操作キャラクターの出ない(つまり三人称視点ではなく一人称主観視点の)ビジュアルノベル的なインタフェースを持ったものを指す場合もある*7のですが、ワジェット・アイのゲームは日和らねえ。常に昔ながらのポイント・アンド・クリック一筋で勝負します。
The Excavation of Hob’s Barrow はそのような文脈において生み出されたハードコア・ポイント・アンド・クリック・アドベンチャーのひとつ。
19世紀のイングランドで、片田舎の墳墓の発掘調査にやってきた若き女性考古学者が、姿を現さない調査の依頼主を探すうちに墳墓と自分の因縁、そして村にまつわるある謎に気づいていく……という内容のフォークホラーです。
ちょっとローファイめのグラフィックによって描き出される悪夢的カットシーン、それもまあ、嘔吐する中年男性、なにやら木の枝にしばりつけられた中年男性、酔って目のすわった中年男性、魔女めいた老婆のアップ、穴の中でミミズに囲まれたブサイクな手作り人形、といった見ていてご褒美感ゼロの禍々しいイメージが連発されます。たしかにこのスロウでぬめっとした不吉さの提示はこのジャンルでしか出来ないような気がする。
スタイルこそはオールドスクールですが、操作感やシステム周りは現代的で、プレイ自体も快適です。
問題は、ワジェット・アイズ、というよりテキスト量が膨大になりがちなわりに売れにくいこの手のポイント・アンド・クリック全般にありがちな問題なのですが、日本語訳がないこと。けっこう特殊な単語が出てきたりするので、TOEIC2点のわたしにはつまづきながらのプレイでした。





11.South Scrimshaw, Part one

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トップ10の紹介も終わったところで、それそろ本記事の締切である1月1日の終わりも迫ってきたので、ここからはなるべく簡単に行きたい。
あ〜〜〜でもな〜〜〜これも本来ならトップ10クラスだったんだよな〜〜〜。数時間で終わる無料のデモ版なのに、とにかくフレッシュだった。
地球とは別の星に住むクジラの子どもの追う自然ドキュメンタリー番組風のビジュアルノベルです。このクジラがまたおもしろくて、成長していくにつれて海中の植物や動物や岩石や骨などを取り込んで個体それぞれに独自の共生環境を自分の身体表面に作り上げていく。生きる鯨骨生物群集みたいなものですかね。仔クジラが旅の道中で出会っていく大人クジラたちの個体ごとの違いを眺めるだけでも非常に愉しい。
クジラたちを取り巻く世界もまた作り込まれていて、テキストボックス中の注釈みたいな感じでその星の動物たちの生態や、ドキュメンタリーを撮っている調査班の設定などが明かされていく。時には注釈のなかに注釈gああり、注釈の注釈の注釈までいき、おもってみなかった情報に出会うことも。
ビジュアルノベルとしては取り立てて珍奇な仕掛けなどはほどこされていないし、デモ版というのもあってストーリーらしいストーリーも今のところないのですが、ただ「世界がある」という手触りが得られる。主人公の仔クジラも超絶かわいい。
フルヴァージョンが楽しみな一作です。日本語はこれもなし。

今年も海のゲームがいっぱいありましたね……山にクジラがいたゲームも……


12.Suzerain

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出たのは2020年で、翻訳MODが紹介されたのは2022年ですが、わたしは23年に初めてプレイしました。とある小国の大統領となり、外交では対立する大国のあいだで板挟みになり、内政では庶民と企業のあいだで板挟みになり、議会では右翼と左翼のあいだえ板挟みになり、家庭では家族と仕事のあいだで板挟みになり、内閣では友情と政局のあいだで板挟みになる、と、とにかくあらゆるところにジレンマの潜む、胃の痛くなるリソース管理系アドベンチャーRPGです。とにかくテキストとキャラクターが豊富で魅力的。これが非公式とはいえ訳されてプレイできるというのは、ひとつの奇跡といえます。




13.Diablo 4

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こいつです、おまわりさん。こいつが犯人です。こいつがわたしの貴重な時間を盗み、わたしの生産性をいちじるしく損ないました。ぜったい、許せねえ。なんですか、この……ボタンぽちぽちしているだけでなんか大量の雑魚をつぎつぎと屠ってレベルアップしていき使えるのか使えないのかわかんないスキルをゲットし強化しつつ、落ちている武器や防具などを絶えず選りすぐっていくだけで気持ちよくなれるゲームデザインは? こんなのあったらワンセッション二時間とか三時間とか平気で飛ぶに決まってるじゃないですか? 
ええ? ハックアンドスラッシュ? 知らないですね。そんなジャンル、聞いたことも触ったこともないです。
ええはい。たしかにそれはわたしのライブラリです。Grimdawnは……やったことあったかな……ある気がします。でも、ちょびっとです。舐めただけです。勝手にひとのプレイ時間をチェックしないでください。そういうの、違法捜査でしょ。知り合いの議員にいいつけてやるからな。
なんかストーリーとか? ぜんぜんよくわかんないんですけど、善良なひとびとの人生が神出鬼没のSEXY DEVILによって狂わされていくさまは見ていてなんだかいい感じがします。何の話なのかはシリーズほとんどやってないのでマジでぜんぜんわかんないんですけど。
でも、ストーリーがあるのはいいことだと思います。だって、クリアすればもうやめられるってことでしょう。
え?
クリアしても、やめられない?
なんで??? なぜ……?

14.Slay the Princess

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「森の小屋の地下に閉じ込められた姫を殺害せよ」と命じられた勇者に扮して姫を討伐しにいくビジュアルノベル。これ以上のことはあまり多く語れないので、さっさとプレイしてほしいところですが、日本語版がまだありません。要望が多ければローカライズしてくれるそうなので、要望を出しましょう。
構造としてはそこまで新鮮味は(特に日本では)ないのかもしれませんが、それを成立させるための手数とトーンのチューニング、テキストの味付け、そして声優の演技が極まっています。
結局のところ、わたしたちはみなバッド・テイストなゲームが好きなのです。




15.Shogun Showdown

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横方向にに一マスずつしか進めないというデザインがシンプルながらも効いているローグライト。日本語訳も地味にがんばっているとおもいます。


16.VIEWFINDER

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意外にプラットフォーマー的なセンスが要求される騙し絵的写真パズル。このアイデアを成立させるの大変だったろうな……とおもわされますが、TGAでインディー部門にノミネートされていたので、報われましたね。


17.Peglin

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Peggleにローグライト要素を足した結果、全人類にある悟りを開かせた。そうか、パチンコってローグライトだったんだ!


18.パラノマサイト FILE23 本所七不思議

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2023年のこの時代にゲーム中で設定した名前ではなく、パソコンのユーザーネーム(Steamの登録名だったかな?)でプレイヤーに呼びかける懐かしいメタネタをしかけてくるADVがあるなんて、という感動。しかしそれはもちろんジャブ程度のもので、本作の最大の楽しみなアクの強いキャラたちが織りなす、どこかファニーな群像バトル劇にあります。


19.Mothlight

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なんだかよくわからないが、16歳の少年の「とにかく俺は Dark Soul が好き」という熱情が前のめり気味に伝わってくるツクール製RPG。この作者は今は転生して『Angel’s Gear』とかあいかわらず尖ったゲームを作っています。


20.ファミレスを享受せよ

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ユニークさとウェルメイドさをふせもった個人開発者はなかなかおめにかかれないものです。『イルカにうろこがないわけ』では意外にゲームデザインのバランスのセンスめいたものも持っているんだなと気付かされる。そうか、このひとはバランス感覚が武器なんだ。

トピック別

【余談1:ゲームの翻訳の2023年】

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なにはともあれ、もはや説明不要な領域に達しつつある伝説のADV、Kentucky Route Zeroが”良質な”日本語でも遊べるようになったことをまず寿ぐべきでしょう。ローカリゼーションと訳者の重要性がこれほどまでに真剣に受け止められた年があったでしょうか。
わたしたちは『Baldur’s Gate 3』を発売年内にあそべるようになりました。『Chicory』もリリースから数年で翻訳されました。Where the Water Tastes Like Wineも日本語でプレイ可能になりました(わたしはなんかセッティングがうまくいかずに未プレイ)。特に翻訳なくても十分遊べたのだけれど『VVVVVV』も十数年越しに公式訳が出ました。わたしは難しくて投げ出してしまったけど作者独特の世界観が魅力的な『Angel's Gear』、いいかげん『To the Moon』やらななあとおもってるうちに公式有志訳された『imposter factory』、ツクール製RPGパズルADVとしては圧倒的な賛辞を受けている(個人的には合いませんでしたが)RAKUEN』の六年越しのローカライズ『ストレンジャーシングス』前後の80年代ジュブナイルシンセホラーリバイバルムーブメントの流れにありながらも日本では訳されてなかったせいでいまいち認知されてない『OXENFREE』と、23年になって出たその続編『OXENFREE 2』。いまや最重要インディーパブリッシャーの一翼にのしあがった New Blood Interactive が贈るぬるぬるエイトビット悪魔祓いADV『FAITH』の有志訳、あの歴史的メタウォーキングシムのデラックス版というか事実上の続編『The Stanley Parable: Ultra Deluxe』、『潮汐少女:現象』や『上に天井がある。』のようなヴィヴィッドな小品ADVにすばやく翻訳がついた例、ゲームボーイ用の開発環境で作られかなりセンシティヴなテーマを扱うADVをひらがなで繊細に訳した『彼は私の中の少女を犯し尽くした - HFTGOOM』、あるいはKRZのように不十分だった訳をファンの愛の力で改めた『Milky Way Prince – The Vampire Star』(そして同じ翻訳者が訳した新作『Mediterranea Inferno』)もあれば、翻訳不可能ではないかと囁かれた『Pentiment』は……まあ、たしかに、知識を要する翻訳というもののハードルの高さを思い知らされました。


翻訳といえば、22年の『7 days to end with you』みたいな翻訳ゲーム*8を23年の新作でやりたい向きにオススメなのが『Chants of Sennaar』。他人のしゃべっている言葉や店の名前などがまったくわからない状態で、会話や探索で拾った記号から単語を推測していくパズルADVです。『7 days~』と似たようなシステム(推測まわりのインターフェイスは『Return of the Obra Dinn』あたりを参考にしてるっぽい)ではある。このゲーム自体のローカリゼーションまわりで地味にがんばっているのは、単語単位で確定させていくと、やがて他人の話しているセリフもちゃんとなめらかな文章として均されるというとこ。たとえば、「イヌ」「ネコ」「吠える」という単語をそれぞれ確定させたとして、そのままだと他人のセリフも「『イヌ』、『吠える』、『ネコ』。」とぶつぎれでカタコトっぽい文になりそうですが、ちゃんと「『イヌがネコに吠えていますね。』」という自然な文章にコレクトしてくれる。ここらへんが「外国語を学習して上手くなっている」感を演出できていて、いいなあ、と感じました。


ちなみにわたしが今年もっとも期待している翻訳待機作は『Decarnation』と、『[ttps://store.steampowered.com/app/2343610:title=文字遊戯]』です。特に『文字遊戯』はすべてが漢字で出来た世界を冒険するRPGなのですが、これを中国語から翻訳するという偉業。デモ版に触れてそのとんでもなさを体感してほしい。

【余談2:きみもやがては他人のノスタルジー

80年代にカナダへ移民した南インド系の家族を描いた『Venba』や、南フランスで過ごした子ども時代が反映された『https://store.steampowered.com/app/1272840/Dordogne/?l=japanese:title=Dordogne]』など、昨年はなにかと他人の国のノスタルジーが話題でした。*9
そんな他人の国のノスタルジー系ゲームで昨年最大の話題作と言えば、インドネシア発の青春アドベンチャーhttps://store.steampowered.com/app/1201270/A_Space_for_the_Unbound/title=Space for the Unbound』だったでしょうかストーリー面ではともかく、ビジュアル面では約束どおりのものを出してくれましたね。ストーリー面はともかく。美麗なピクセルアートで活写された90年代後半のインドネシアの田舎町のディティールは唯一無二の豊穣さで、コントラストの利いた陽光と影とサモサの屋台が織りなす風景は、なぜか日本人の「懐かしさ」にもクリティカルヒットします。『ヤンヤン 夏の思い出』(エドワード・ヤン監督)を観て台湾の夏休みノスタルジーに共感するようなものかもしれない。他国でも日本の80-90年代ノスタルジーが消費されているというし、実のところ、わたしたちのノスタルジーはわたしたちに固有のようで、けっこう普遍的なのかもしれません。特にアジア圏は意外と日本とコンテンツが共通しているっぽいし。日本カルチャーって思ったより人気あったっぽいんですよ。もう過去形だけどね。そして、今や日本という場のそのものがノスタルジーの対象になりつつある気がする。
たとえば、中国の90年代のノスタルジーを描いたループものADV『完璧な一日』というのもあって、かなり日本カルチャーが出てきてビックリします。ミニ四駆(『爆走兄弟烈&豪』!)に、ファミコンに、『餓狼伝説』に、ゴジラに……作中では純正品として描かれてますけど、たとえばファミコンとかはパチモンのホビーパソコンが主流だったはずですがそれはまあ。



(これがあの伝説のネットミームか……と感動した瞬間)

逆に去年『Fading Afternoonを発表したロシア人開発者の yeo はヤンキーとかヤクザ(それも任侠映画な)とか、終わりゆく日本のアウトローをそれこそ80年代90年代的な風景とともに哀感たっぷりに描いていて、なんというか、他人の国のノスタルジーにうれしくなるのは自分だけではないのだな、とおもったりもします。

ノスタルジーとはまた違ったところで他国を感じられるのはWWIIに実際にあった台湾の爆撃被害(と日本による植民地支配の悲劇)を扱った『台北大空襲』は、当時の日台の複雑な関係がゲームのそこかしこに仕込まれていて、つきなみな言い方ですが、歴史を学べます。

インドネシアシンガポールを中心とした伝奇的事物を織り込んだ「イーストパンク」を標榜するハクスラGhostlore』も去年はちょっと触っただけだったので、いずれちゃんとプレイしたいな……。

【余談3:ガッカリしたゲーム】

わたしは欲望に忠実なので、事前の期待との落差でゲームに対する評価を決めてるところあるんですけれど、それでいえば2023年では『Starfield』と『Sea of Stars』の赤字がひどかった。この記事を書く前はその恨み言を1万字くらいぶちまけようかという勢いだったのですが、なんかここまでノンストップで記事を書いてきて色々疲れたのでやめておきます。

【余談4:ループもので苦しみを描くことについて】

In Stars and TImeをやったときにループものについて考えさせられました。映画とかアニメとかの映像作品のループものって、ループ毎に繰り返されるルーチンをカットしたり、あるいはそこまでしなくてテンポよく編集して視聴者をいらつかせないようにするじゃないですか。去年は『リバー、流れないでよ』という例外も出ましたけど。
ゲームもジャンルとしてループものをやる場合は、結構ルーチンをカットできたりもしますよね。
でも、ループもののクリシェとして「終わりのないループに苦しんで狂っていく主人公」的なやつがあって。そういうのって、主人公の主観ではまさに毎回お定まりのルーチンを省略できないからこそ病みが積みかさなっていくじゃないですか。
つまり、視聴者と主人公の感覚をシンクロさせるには視聴者にも主人公のループを余すところなくリアルタイムに味わわせておくべきで、まあふつうのループものはそんな情動に主眼置かないわけですけど、『In Stars and Time』ではおそらくエンディングから逆算した結果意図せずうっかり置いてしまって、その結果大変なことになってしまったんですよ。
ここのあたりの「ループをあえてリアルタイムで繰り返すこと」について、『minits』や『Twelve Minutes』や『リバー、流れないでよ』あたりと比較しつつ考えておきかったんですけれど、そろそろ1月2日の1時を超えそうなので、今回はやめておきます。

【余談5:良かったサントラ】

歌モノでは終末青春恐竜人類バンドもの『Goodbye Valcano High』はバンドものだけあって、よかったですね。いかにもアメリカのインディーロックっぽい透明感が前面に出ていて。
www.youtube.com


あとさすがにジャンル的に向いてないかなっておもってプレイしてないんですが、クラブ・スーサイド』の「ねえ、ねえ」がすばらしかった。
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サントラとしては『Celeste』などでおなじみの Lena Raine がコンポーザーを務めた『Chicory』、Mr.Saucemanの『Pizza Tower』、ローファイながらも耳残る『ファミレスを享受せよ』とか……アッ、1時だ。


といわけで、わたしはいまから後生大事に新年までとっておいた『Alan Wake 2』と『Baldur’s Gate 3』をプレイする旅に出ます。三ヶ月くらい探さないでください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

*1:そういえば、年末に murashit 先生とお話させていただいた(精確には murashit 先生は御簾の向こう側にやんごとなく御座し、その隣に侍っている御側衆の取次を介してやりとりした)ときに、ビデ美の話の流れで、プレイヤー個人の資質として「自己関与寄りにプレイしがちな性向/ミミクリ寄りにプレイしがちな性向」があるのではないか、といった話題になり、そのときにロールプレイもロールプレイとひとことでいっても、さまざまな態度がありそうだな、などとぼんやり考えたりもしたのですが、TCWSにはあまり関係ないのでここでは放っておきます。

*2:柴田元幸・訳「物語の語り方」

*3:電車乗れる機能とかもうエッジランナーズロールプレイのためでしかないだろ

*4:殊能将之 読書日記 2000〜2009』no.4683

*5:by 円城塔

*6:カットシーンをいちはやく導入するなどゲームの映画的な発展に寄与していたのですが、コンソールやPCの進化によってグラフィックが向上していくと、むしろポイント・アンド・クリックは映画的な演出や体験に不向きになってしまった。

*7:すくなくとも『Milk outside a bag of milk』ではそう言っていた

*8:「だからあれは翻訳ではないだろ」というお叱りは甘んじて受けましょう。

*9:ちなみにわたしはVenbaはクリアしましたけど、Dordogneは未プレイ

2023年に第一巻が発売された新作まんがのベスト20選+α

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ランキング雑誌を信じてはいけない。
集合していると称しつつ少人数の博識に頼っているwikiの知性を信じてはいけない。不完全なアグリゲーションを信じてはいけない。metacritic を、Amazonレビューを、あなたの神を信じてはいけない。
自分自身に祈りなさい。
わたしはあなたに真理をシェアするでしょう。ハチワレが、そうなされたように。

[ちいかわ書:第八章:第二十四節〜第二十七節]

youtube.com


【レギュレーション】

・2023年内に第一巻が発売された日本語(翻訳含)作品。
・短編集、初めから短期での連載が決まっていた単発長編などは含まない(これらについては別個に記事を立てます)
・2023年内に第一巻が発売され年内に完結した作品については除外し、別の記事(【五巻以内に完結したマンガ】)に回す。
・基本的に電子版の出ている本のみ。
・同人誌・自費出版は含まない。


【20選】

まとめて眺めてみるに、うそつきの話が多くなりました。
好きなんですね、そういうの。秋津みたいに。




1.平井大橋『ダイヤモンドの功罪』(ヤングジャンプコミックス)

。いまさら説明はいらないでしょう。なんてったって、『このマンガがすごい! 2024』一位ですよ。ランキング雑誌ってやっぱ頼りになりますわ。

しかしまあ、冗談抜きに、これを褒めなかったらウソでしょう。

わたしは常日頃からワナビ(スポーツ選手含む)における才能格差を問題を扱った作品を十把一絡に「才能もの」*1と怠惰にくくっているのですが、光の才能ものの最高峰が『メダリスト』なら、闇の才能ものの最高峰はこちらといってもよいでしょう。
スポーツまんがにおける(特に初期値の時点での)天才は常人ならざる怪物として描かれがちです。天才がゆえに凡人とは異なるメンタルを持っているし、凡人とは異なるメンタルを持っているがゆえに天才なのだろう、と。それは読者にもわかりやすく、受け入れやすい造形です。たとえば、本作の主人公である綾瀬川の才能のスケール感(天才揃いのプロすらも大幅に超えた史上類のない天才)でいえば今一番近いのは将棋マンガ『龍と苺』の主人公・苺でしょうが、苺はモロにわかりやすく奇人です*2。『メダリスト』のライバル狼崎光もその名の通り、狼めいた少女として登場します。常識を超えた怪物であるからこそ、人は天才を仰ぎ見ることができる。天才の側もその特殊なメンタリティに守られている面がある。
本作は綾瀬川という天才に常人の、それもちょっと小心なまでのマインドを吹き込みました。*3「ふつうの人の心もわかる天才」というのは、通常の作劇であればいいヤツとして描かれるのでしょう。ですが才能が彼の善人性をはるかに凌駕してしまったとき、他人の人生や感情だけでなく、自分の人生や感情も狂わせてしまう。
世間一般的に、才能とは他人の気持ちを踏みにじってもよい権利と解される面もあります。すくなくとも、フィクションではそのように描かれがちです。ですが、仮に、踏みつける側にも憐れみの心があるとしたら? 大怪獣が足元の人間たちを踏みたくないと、傷つきながら前進しているとしたら?
そんな大怪獣がいたら、わたしたちはこう感じるはずです。この怪獣は狂っている、と。
つまるところ、天才が天才として振る舞うのは他人にとっても自分にとってもある種の安全装置なのです。天才と凡人の物語は「圧倒的に理解/到達不能な存在がいる」というその分断にあるのです。だからこそ、逆にその天才に届きうるかどうかのエピソードや天才にもちょっと人間味があるんですよみたいなエピソードが盛り上がる。天才の物語とは凡人を語るための道具でしかない。*4
『ダイヤモンドの功罪』はそれをひっくり返しました。もう安全地帯はどこにもありません。泣きわめきながら大怪獣が都市を破壊していくスペクタクル。そのあとに残る焼け野原。ああ、青春のストライク。ズバーンといかしたアイツだぜ。がんばれ がんばれ 綾瀬川 おまえは〜カ〜スや〜♪


2.ひの宙子『最果てのセレナード』(アフタヌーンコミックス)

共犯者。なんと甘犯、じゃなかった、甘美な響きでしょう。後ろ暗い秘密で結ばれたふたつの魂に、わたしたちは灯蛾のようについふらふらと惹かれてしまいます。『最果てのセレナード』はそんな愚かなわたしたちを食らってくれる救済の光です。
主人公の小田嶋律は若手雑誌編集者。彼女は中学卒業十周年を祝う同窓会の幹事から、無二の親友だった白石小夜の行方を訊ねられます。それをきっかけに甦る中学時代の小夜との記憶。いまや自分とも疎遠になってしまった小夜の名前をググると、ピアニストとして大成したという記事がヒットします。ちょうどそんな折、故郷の北海道で身元不明の白骨死体が発見されたというニュースが飛び込んできて……という話。

スリーピング・マーダーものであるため回想シーンが結構な割合を占めているのですけれど、これを利用したモチーフ遣いがすごい。本作ではピアノが重要なアイテムとして出てくるのですが、回想に入っていることを示すコマ外の黒塗り*5とあえて背景を省くコマの多用が白黒のコントラストをあざやかに際立たせていて、ああ、そういえばマンガもピアノも白と黒で構成されていたのだな、と発見を与えてくれます。途中で同一ページ内で、現代パートの間に回想パートが真ん中に一コマだけ挿入される、という箇所もあるのですが、これなんかもう完全に鍵盤のイメージ。そういう眼になると、もう黒塗りに細長いコマがいくつか乗っているだけでピアノに見えてしまう。おそろしいことです。北海道に積もる真っ白な雪も、そうした白黒の対比をいっそうヴィヴィッドに印象付けます。
ピアノそのものの描写もものすごくて、律が小夜のピアノを初めて聴かされるシーンでは、その音の感覚が白い泡のような、あるいは不定形の光の迸りのようなものとして描写されます。それが、次に小夜のピアノを聴く場面では、小夜は前回と違って「自由」でない状態で弾くのですが、非常に端正な楽譜の譜面として律には聴こえる。この違いが最初と二回目のふたりの心理状態の違いとその状況をめぐる異常さをえぐり出していて、しびれますね。
そうしたテクニカルなストーリーテリングがなんのためかといいますと、すべて律と小夜の濃密な関係に奉仕しているわけです。束縛の強い毒親と小夜との異常な関係、なんとか親友を解放したい律の想い、そのふたつが組み合わさった末のサスペンス。
たぶんドラマ化するするんじゃないかな。でも、実写じゃぜったいに不可能な表現がここにはあります。
ピアノといえば昨年はもうひとつ傑作があったのですが、それは短編集/単発長編を扱った別記事(予定)で。


3.大武政夫『女子高生除霊師アカネ』(ヤングジャンプコミックス)

大武政夫は去年三冊出ました。いずれも傑作です。読みましょう。とりわけ、『女子高生除霊師アカネ』は作家性の濃度においても傑出しています。
大武作品は「登場人物がウソや虚偽を強いられる状況に陥り、それを取り繕うためにウソを重ねていった結果最終的にとんでもない画にいきつく」といったエピソードが多いのですが、本作は設定からしてそれを突き詰めています。なんといっても、詐欺師の話ですからね。
インチキ除霊師である父親が有り金持持ち出してキャバ嬢と駆け落ちしてしまった高校生、アカネ。困り果てた彼女は窮余の策として除霊の仕事を継ぐことに。父親同様、当然、霊能力など持ち合わせていない彼女は時に口先三寸、時に友人らの助けを借り、綱渡りのインチキ除霊を敢行していきます。
除霊師とはいいながら、アカネの敵は例ではなく依頼者本人です。つまりは、「霊が出る」と思い込んでいる依頼者をどう納得させていくか、という、説得をめぐるミステリ劇であり、そこにはインチキなりのロジックがあります。場合によっては単に「霊は成仏した」と説明するだけではだめで、その霊が成仏に値する心境に至った、というシチュエーションを作り出さなければいけない。ここのあたりをクリシェに頼らず構築できるのが大武先生のセンスですね。
第一巻の白眉はなんといっても、テレビで人気のベテラン霊能力者(もちろんコイツもインチキ!)とのインチキ除霊バトル。上述した対人間の説得ゲームに加え、もうひとつ上のレイヤーでの説得ゲームも繰り広げられます。
昔から除霊師・霊媒師ものは多いですが、23年のインチキものとしてら『令和陰陽師』(吉田博嗣)もありました。こちらはややシリアス寄りでアカネとはまたテイストが異なります。


4.羽流木はない、篠月しのぶ『フツーと化け物』(ビームコミックス)

高校生の伊藤は他人との距離感がいまいちわからずクラスから浮いているぼっちちゃん。彼女は同じクラスメイトで、そんなに目立ちもせずにみんなとそこそこうまくやっている「ふつう」なポジションの高橋さんを羨んでいました。ところが、ある日、その高橋さんが異形の怪物と化してクラス担任を捕食している場面に遭遇してしまいます。興奮した伊藤さんはつい高橋さんに「友達になろう」と申し出ますが……というコメディ。
薄汚くした『女の園の星』こと『百合の園にも蠱はいる』で学園コメディの才覚を世に知らしめていた羽流木はないが、ついにハネました。
「ふつうの人間」に溶け込めない人間と、「ふつうの人間」を装える怪物とによる人間性ディスカッション。人間のフリをしている怪物というとそれ自体「『ふつう』の人間なんか実はいなくてみんなそのフリをしているだけ」というメタファーのようですが、フィクションの強みは寓意がそのまま現実の質量を持つことで、人食いの怪物はやはり人食いの怪物なんですね。長いこと浮世で暮らしてきたので人間味はそこそこあるのですが、ギリギリの部分でヒトとは決定的に違うところがある。この塩梅が第一巻時点では絶妙で、このあとどう転がっていくのか。楽しみです。
ところで、最近は「クラスメイトが実は人間じゃなかった(or 人間じゃなくなった)」系が多い気がしますね。二巻で終わってしまいましたがこちらもパワフルなまんがだった(別記事で扱います)『変身人間ちえ』、四季賞読切から連載にのしあがった異星人同士もの『ワレワレハ』(松枝穂積、未単行化)なんてのもありました。いま、去年コミックDaysにアップされた講談社系の新人賞系読切全部読むやつを1/3くらいまでやったんですが、その時点で読切版「ワレワレハ」を含めて二三作ある。*6以前からある類型とはいえ、近年はギャグのフックというよりはティーンの生きづらさや多様性*7を描くための土台として使われている印象です。ハートフル学園群像劇ものとともに、静かなブームとなりつつあるのでしょうか。


5.路田行『すずめくんの声』(MeDu Comics)

会社員の綿野ほのかは恋人のすずめくんと別れてからというもの、携帯に録音した彼の声を四六時中イヤフォンを通して聴いていた。そんなある日、会社ですずめくんに激似の声を持つ新入社員・高梨史に出会い、しかもその教育係を任されることに。性格などはすずめくんと全く似ても似つかない高梨だが、その声を聴いてどうしようもなくなったほのかは「付き合ってください」と土下座してしまう…という恋愛漫画
比較的シンプルめの絵柄ながら、とにかく表情の捉え方が豊かですばらしい。路田先生は、ある女性が飼っていた愛犬の魂の憑依した若い男と同棲する怪作ラブコメワンコそばにいる』や去年出た短編集『透明人間そとに出る』のようにわりとスーパーナチュラル要素強めの作風という印象だったのですが、本作ではそこらへんは抑えめ、わりとノーマル、でもキャラのどこかネジの外れたおかしさはそのままといったバランスでしょうか。
「別れた恋人とよく似た風貌の人間が〜」というシチュエーション自体は恋愛ものよくあるものですけれど*8、似ているのが声だけ、というのがまた絶妙で、ほのかは高梨が話しているだけで聞きほれてしまうんですよね。この高梨の声に耽溺するシーンがまたいい。高梨くん自体はいいひとなんですが、ほのかの執着は声にある。一方で、高梨とすずめくんは違うひとで、別人格として扱うべきだと重々わかっている。だから罪悪感に押し潰れさそうになって、どうしようもなくなる。いやそれでもしかし、もういい大人なのだからそこに割り切りをつけられる理性も働かせることができて、ほのかは泥沼をなんとか脱そうとして、成功しかける。成功しかけるのだが、そこは恋愛漫画なのだから当然障害が現れて……いやああ、すばらしい。恋愛漫画のなにがおもしろいって、人間が狂うからおもしろいんですよ。ほのかのほかにも高梨を始めとして出てくるキャラもみんなほどほどにどこかヘン*9で、ここらへんも作家の美点という気がします。


6.紫のあ『この恋を星には願わない』(it Comics)

昨年は強烈な迫力を有した百合まんがが世に多く出ました。『破滅の恋人』(郷本)、『アウトサイダーパラダイス』(涼川りん)、そしてこの『この恋を星には願わない』。
冬葵(ふゆき)と瑛莉(えり)は幼いころから大の仲良し。なにをするにもいっしょでした。冬葵のほうはひそかに瑛莉に対して恋心を抱いていたのですが、ある事情からそれをずっと胸に秘めて過ごしていました。ところが、冬葵の弟の京平が瑛莉に告白し、ふたりが付き合いはじめたことから睦まじかった冬葵と瑛莉の関係が歪みはじめていきます。
この歪ませかたが周到かつ緻密ですね。些細なすれ違いと躊躇いと臆病さがこまごまと焚べられていくうちに執着の炎を静かに強めていき、気がついたら相手も自分も火だるまになっている。なぜお互いのことを大事に思ってそのように行動しているはずなのに、結果的にふたりとも傷だらけになってしまっているのか。なぜ、言葉というのはあんなにも刺さったまま残り続けるのか。
線の細いフラジャイルな絵柄がこの話の重みに果たして耐えられるのか、読んでいてドキドキさせられます。キャラの笑顔ひとつが苛烈なまでにスリリングでサスペンスフル。
読者の心臓のどこをひっかけば良い悲鳴が出るか、本作ほど熟知している漫画もないでしょう。
百合というのは、つくづく、心臓の弱い読者には向かないジャンルです。


7.秦三子『だんドーン!』(モーニングコミックス)

ハコヅメ』連載開始当初、誰もが秦三子を見誤っていました。自身が職業警官であった経験をベースに、ちょっとキレのいいお仕事コメディを描ける、たしかに貴重ではあるけれどもよく『モーニング』が拾いそしてロクにめんどうもみないまま放り出していく、そんなスケッチ作家だとおもわれていました。『ハコヅメ』が完結*10したとき、もはやこの作家の本性を取り違える読者はいなくなりました。
芯まで凍りついたような冷たい人間観と驚くほど周到なプロットをギャグでくるんで人情に落とせる、そんな尋常でない技芸をこなせるナチュラルボーンストーリーテラーであることを秦先生は証明したのです。
さて、その資質がもっともよく輝くのはいかなるジャンルか。『モーニング』もまた先生の資質を見誤りませんでした。そう、陰謀劇です。
時はペリー来航で揺れる幕末、薩摩藩の藩主・島津斉彬の寵愛を受ける下っ端藩士川路利良は上意を受け、同僚の西郷隆盛とともに世継ぎ問題でバチバチにやりあっている幕府の政争の渦中へ放り込まれる……というお話。
主人公が川路利良というだけで山田風太郎ファンの血が騒ぎますが、それはさておき、スパイものとしての切れ味はすでにして超一級。
特に川路が敵方のスパイを二重スパイへと"籠絡"していく顛末はどんなエスピオナージュでも見たことのなかった微温的なイヤさに溢れており、まさに秦先生の真骨頂。
快活な好青年がたまたま人たらしの才能を具えていたがために他人を、ひいては時代をまるごと(しかも自覚しながら)狂わせていくさまはピカレスクロマンの風格さえ感じます。


8.田島列島『みちかとまり』(モーニングコミックス)

白状しましょう。わたしは田島列島の『水は海に向かって流れる』も『子どもはわかってあげない』もそこまで好きではありません。佳いまんがだとはおもいます。おもしろくは感じます。名作と評価を得ていることに関して不満はありません。しかし、どうしても「自分のまんが」のカゴにはいれられない。他人にとっては死ぬほどどうでもいい線引きでしょうが、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、その境界を踏みにじったらわたしはわたしでなくなってしまう。
しかし、作家は、ときにわたしをわたしでなくしてしまう力を持ちます。
『みちかとまり』。ジュブナイル日常怪奇ホラー、とくくってよいでしょうか。
8歳の少女まりは、ある日、たけやぶで寝転がっていたみちかという同い年くらいの女の子と出会います。近所のおばちゃんに引き取られたみちかはなんだか存在がふんわりとしていて学校にいかず、まりからすれば羨ましい自由を得ています。自分も学校に行きたくない……そんなまりのぼやきを聞いたみちかは「じゃあ、かわってみる?」と手を差し出してきます。その手をまりが握った途端、ふたりは入れ替わり……といった話。
現実とファンタジーの境を継ぎ目なく行き来する独特の浮遊感は、8歳である主人公の主観的な日常感覚と直結していて、そのあやうさ含めて特別で愛おしい。作者特有の柔らかい線も、作中のリアリティラインのゆらぎをうま〜く曖昧にふやけさせていて、描かれている空間そのものが独自の法則を具えたひとつの世界になっています。
田島先生がここまで常ならざるものどもをシャープに描けるひとだとはあまりおもってきませんでした。びっくりした。自分の眼の節穴さを痛感させられる今日このごろですが、まあ、そんなことばかりですよ、まんがを読んでいると。

9.飴石『開化アパートメント』(ハルタコミックス)

今年の新人王は投票制にしたらば満場一致で平井大橋でしょうが、しかし個人的にはこちらも捨てがたい。
時は大正末期。モダーンなスパニッシュ・ミッション方式にデザインされた共同集合住宅「開化アパートメント」に集う住人たちはひとくせふたくせあるものばかり。そんなかれらの秘された物語が、探偵・東条を狂言回しに語られていく。そんな連作短編形式のお話です。
大正ロマンはいつでもどこでも人気のモチーフです。ハルタコミックス系列では特に最近レトロモダンづいているのか、同じく大正時代が舞台である『煙と蜜』(長蔵ヒロコ)を筆頭に、明治舞台の『八百万黒猫速報』(浅井海奈)、昭和初期舞台の『贋―まがいもの―』(黒川裕美)、ファンタジー入っていますが昨年完結の『帝都影物語』(比嘉史果)と、まあ、なんかそのへんの年代が多い。Fellows!のころはおなじレトロでもアメリカかぶれだったくせに……。
それはともかく、『開化アパートメント』です。大正ロマン趣味をここまで研ぎ澄まして洗練した作品もよう見ません。とにかく洒脱。とにかく耽美。ハルタ直系のいい意味でバタくさく細密な画風に、見せ場ではさらにフキダシに至るまでデザインを凝らしてきます。時には実験的ですらあります。
作品世界のトーンをすみずみまでコントロールしようという欲求に漲っているわけですが、かとおもえば、探偵の助手として学ラン学帽三白眼のヘキむき出しの少年をお出ししてくる。この「全部やってやる」という野心の壮大さがデビュー作として好ましい。
話ものんびりした風土のハルタにはめずらしく、シュッと切れるような収まりのよいものでありつつ、師弟あり百合ありBLあり双子ありとすでに関係性のベースブレッドのようなまんべんなさ、その上で連作としてのコンティニュイティが意識されたものばかりで、この欲張りな器がどこまで大きくなるのか、楽しみです。


10.安原萌『凍犬しらこ』(青騎士コミックス)

デカい犬が出てくる極寒北海道ポストアポカリプス。
とにかく、犬がデカい。
それだけで人間は幸せになってしまいますね。犬がデカい、というだけでマンガを褒める理由があるのか? とおもわれる方もおられるかもしれません。なります。なぜなら、犬がデカいから。
この犬はしかもしゃべります。まあ人語を解するとかではなくて、どうも飼い主である主人公が犬と会話できる特殊能力の持ち主だからっぽいんですけど。
この犬はしかも雪でできています。理屈はよくわかんないですけど、雪でできているので人肌程度の温度でも溶けちゃうらしいです。こういうフラジャイルなボディをもっている生き物がどういう目にあうか、いや、あわせたいのか、わたしたちはとうに知っている
話としては止まぬ豪雪で閉ざされて滅びかけている北海道を、主人公とデカい凍犬しらこがあるものを求めてさまようロードノベルで、札幌だとか釧路だとか苫小牧だとかいう地名が出てきますが、いかんせん雪で滅びかけているので観光的な要素はあまりなく、『ザ・ロード』とかみたいにひたすらさびしい世界がつづきます。意外に地域レベルのコミュニティは荒廃しておらず、北海道人の理性への信頼が伺えますね。
まあそういう物語はあるんですが、このマンガはやはり犬ですよ。デカい犬ですよ。デカい犬がはしゃぐ。デカい犬が走る。デカい犬が闘う。デカい犬が溶ける。スケラッコのデカい犬マンガの金字塔『大きい犬』の大きい犬さんに比べるとやや小さめで、そのぶん奇想も薄めですが、それでもデカい犬の歓びにあふれている。


11.おぐりイコ『触レ愛』(ヤングキングコミックス)

俗に「百合に挟まる男は死ね」というミームがございます。それはそのまま「百合に挟まる男」という存在の否定であり、あるひとにとっては一種のジョーク、別のひとにとっては本気の思想であったりします。どちらの了簡にせよ、つまりはクリシェです。陳腐化したクリシェは真剣に考えるに値しないものと議論のまな板の上から棄却され、ジャンルのゴミ箱で朽ち果てていきます。
ですが、われわれはクリシェクリシェであることに甘えすぎてはいなかったか。腐った豆から納豆ができるように、有り得た可能性の発展を阻害してはいなかったか。
『触レ愛』は、そんなインターネット的な腐敗とは別の次元からやってきた、「百合に挟まる男」のオルタナティヴな未来です。ええ。自分でいっておいて、なんて未来だな、とおもいます。
クラスの一軍グループに属する小木かぶらと、陰キャぼっちの大和田和音は高校では一言も口をきかない仲。しかし、放課後になるとカフェに集って憧れの大学生店員、錦さんを仲良く愛でておりました。ところがふとした拍子から和音は錦さんと付き合うこととなってしまいます。しかも初デートでキスまで交わしてしまう。ふたりの友情は破綻してしまうのか、とおもいきや、かぶらは和音に「錦さんのキスの再現」を要求して……というお話。
まあ、いってしまうと、かぶらは和音に錦さん役を演じさせながら、ふたりがデートでの行為を、友情の名のもとに共有していくわけです。会話から、キスまで。すさまじいのはかぶらと和音の再現への執着がマンガの技法にまで伝播しているところで、たとえば(1)錦さんがこっそり和音の耳元でささやいた言葉を、(2)和音がかぶらに伝えるシーンがあるのですが、そこでは(1)のときの構図が(2)でもそっくりそのまま反復されている。(1)では囁かれる側だった和音が(2)では囁く側になる。この倒錯。しびれますね。こうした脳に良い技巧がそこかしこで咲き乱れている作品です。
恋愛の構図としては主人公ふたりが共通したひとりの男を好いているはずなのに、片方が直接男とつながり、そしてもう片方が男とつながっている方を介して男とつながっているわけで、三角関係というよりは神聖モテモテ王国よりシンプルな直線的。いや、でも想いの矢印としてはやはり三角なのか……? その上ややこしいことにもう片方のほうには名目上の彼氏がいて、なんでつきあっているのかよくわからないんですが、彼氏のほうがもう片方のことが大好きなんでなんとか男と付き合ってる方を利用して自分の彼女と男の関係も破綻させようと策動しはじめ……ふつうなら四角関係なんでしょうけど、もうここまできたらどういう形状をしているのかわかりません。おそらくカラビ=ヤウ多様体みたいな形なのでしょう。
一巻後半でややキツイシーンがあるので、そこは警告しておきます。



12.大武政夫『J⇔M』(ハルタコミックス)

大武政夫は去年三冊出ました。いずれも傑作です。読みましょう。(2)
『J⇔M』はいわゆる入れ替わりもの。中年の凄腕殺し屋Jが小学生の女の子・恵と入れ替わってしまうお話です。基本的には『アカネ』で説明した大武先生のギャグの転がし方がこれにも当てはまっていて、殺し屋J(身体は小学生)は入れ替わった事実を覆い隠すために殺しの仕事から学業まで奮闘し、その無理の過程でおもしろみが出てきます。一方で中年男性の身体になって恵のほうは一人暮らしの家で好きなだけブラブラできるから特に元の身体に戻りたくなく……というモチベーションの相反がいい味付けになっています。
いやあ、Jが殺し屋としては凄腕なんですが、私生活ではハードボイルドに憧れてやたら自分をハードボイルドに演出しようとするバカで、そのバランスがいいんですよね。でも本棚は結構ガチで、チャンドラーや大藪春彦のほかにも樋口有介とかビル・プロンジーニとか並んでる。ちゃんと読んでる人だ。
ガチといえば、大武作品としての本作の特色を挙げるなら、暗殺業務におけるアクション描写のガチさでしょう。『ヒナまつり』でもときどき片鱗を見せていたアクションセンス*11が、本作では前面に押し出されています。映画の引用ネタもけっこうあるようで、Jと恵の初邂逅はあきらかに『レオン』だし……。

13.秋ヨシカ『ミドリの台所』(FUZコミックス)

花粉を通じてあらゆる動物に寄生し身体を乗っ取るヤバい植物の蔓延した終末世界。Amazon*12の倉庫で暮らす十五歳の種田みどりは、九歳の異父妹さくらのために日々料理に家庭菜園と料理に勤しんでおりました。動物性由来の食材が払底してしまったこの世界では、強制的にヴィーガン食を強いられます。しかし食いしんぼのさくらのため、みどりは大豆を軸に創意工夫で数々のレシピを考案し明日をサバイブする活力へと繋げていく、というお話。ヴィーガンパンクというかソイパンクというか。もちろん、実質ゾンビものでもあります*13
まず本作は、大豆料理マンガ? として充実しておりまして、出てくる料理がかなりおいしそう。しかも材料はもちろんわれわれの世界にもあるものばかりだから、再現性も備わっています。自分もなんか一品作りたくなってしまうことうけあいです。
そしてその料理を軸に展開される物語がユニークですばらしい。そもそも大豆料理だけを強制的に作りつづけるシチュエーションにゾンビものを取り入れたところが発想の勝利で、まあ、先述のように食料の種類に乏しいため、並の人間だとあんまり凝った美味しい食事を作られないわけです。
そこで、サイエンスに長じた主人公のみどりが持ち前の料理の腕と知識をいかして、大豆でハンバーガーやとんかつやたまごサンドを再現していく。これが本作の終末世界ではかなりの強み。ひいては他者との交渉や交流の糸口となっていきます。もっとも、ただ料理を出してノックアウト、ではなく、そこに至るまでのキャラクターや人間関係の描写も地に足をつけて丹念に描いていきます。
ちなみに本作はかなり控えめというか、世界観でコーティングした形ではありますが、ヴィーガニズム寄り*14の態度を見せている部分もそういう点でも結構めずらしい。まあ、ほんのちょみっとではあるんですけど。


14.古部亮『スカベンジャーズアナザースカイ』(ヤングチャンピオン・コミックス)

異常な少女たちの特殊部隊が異常な世界へ飛ばされ異常な異形たちを狩りつつ超常的なアイテムを回収(スカベンジ)していく怪異ミリタリーコンバットまんが。
Amazonレビュー欄で猛り狂っているファンは口々にこんな言葉を吐き出しております。「SCP」「タルコフ」「S.T.A.L.K.E.R.」。パラノーマルな領域(ゾーン)でアノマリーをぶちのめしたり、逆にぶちのめされたりしていく絶望がお好きな向きにはなにはさておきオススメです。まあ、わたしはタルコフもS.T.A.L.K.E.R.もやったことはないんですが……。*15
とはいえ、こうしたノリや固有名詞を知らないかたがたでも、個性豊かでいたいけな少女たちが修羅場に放り込まれてどうみてもオタクの作画としか思えない銃器をぶんまわして血反吐を吐きながらタフに異形たちと撃ち合っていくマンガが好きなら好きになれます。
かつてすさまじいハンティングバトルものを世に問いながらも、俗界の無理解によって三巻で打ち切られた『狩猟のユメカ』のリベンジがここに成就するか。


15.にゃんにゃんファクトリー『ヤニねこ』(ヤングマガジンコミックス)

Twitterから生まれたバズマンガ。タイトル通り、ニコチン中毒の猫獣人ヤニねこがただひたすらニコチン中毒者としてダメな生活を送っていくギャグまんが。ときおりちらりと垣間見えるハードな世界設定も見どころ。
こんなファッキンな世の中、いかなるドラッグもVtuberもわたしを脳に効かなくなってしまいました。ほんとうにどうしようもないクズがふにゃふにゃずぶとく健気に生きているマンガだけが、わたしに生きる力を与えてくれます。末法を迎えつつあるのはこの世ではなく、わたしなのかもしれない。
あなたは?


16.スタニング沢村『佐々田は友達』(文藝春秋

16歳の大人しくて至極地味な高校生、佐々田絵美はひょんなことからこれまで接点のなかったクラスの人気女子、高橋とすこしずつ交流を深めていきます。高橋独特の距離感に戸惑いながらも、なんとか間合いを測り合っていくふたり。一方で、クラスを飛び交う色恋のドラマに佐々田はどことなく戸惑いを覚えていく……という日常学園ドラマ。
今のアフタヌーン風の(最近の阿部共実的ともいっていいかもしれない)やわらかい陰影で切り取られた、高校生活のなんでもない、しかし輝かしく美しい瞬間を連発してくる、非常に雰囲気に満ちたまんがです。いっそ格調高さすら放っているかもしれない。
一見ノーテンキに見えるクラスメイトたちにもそれぞれの悩みがあり、クラス内カーストの線引と政治があり、人間関係の駆け引きがあり、おもいやりがあり、とそういういかにも最近の学園群像劇のようですが、うるせえ、わるいか、いかにも最近の学園群像劇が好きで。ディティールはいくらあってもよいものなのです。
しかし、そんななかにあって、カメラがずっと寄り添っている主人公であるはずの佐々田の内面だけがやや見えにくい。引っ込み思案で口下手なようだけれど、けして人嫌いではないのに、その口を重くしているのはなんなのか。高橋から親しげに下の名前で呼ばれてもそれを拒もうとするのはなぜなのか……。疑問と呼ぶには些末な違和感が読者のなかで積み上がっていき、佐々田という人物に対する興味を惹きます。
学園群像劇がある種の野次馬根性で成り立っているのは否めないところですね。
ところで作者のスタニング沢村とは聞き慣れない名ですね。これは実は『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました』や『女の体をゆるすまで』といった一連の壮絶なエッセイコミックでおなじみのペス山ポピーの変名というか、改名です。そういえば、もともとストーリー漫画志望でエッセイでも最後のほうに創作を載せて「これからはフィクションでやっていく」と決意表明をしていたような。
もともとエッセイまんがとしては正道のフィクションまんが(へんないいかただ)の技巧をかなり取り入れていた(しかもそれが巧かった)人だったので*16、フィクションを描くこと自体に意外性はありません。しかし、ここまでテクニカルなものを描ける作家だったとは、という嬉しく新鮮な驚きがあります。エッセイ出身でフィクション方面で活躍するようになった作家というと最近は『ブスなんて言わないで』のとあるアラ子が挙がりますが、ひとつルートとして確立されつつあるのかもしれません。
ともかく、『泣くボコ』と『女の体』の二作を読んでいれば『佐々田』についての読み方もややクリアになるとはおもいますが、本作については先入観を持たずに味わってほしい面もあるので、ややむつかしいところ。


17.つのさめ『一二三四キョンシーちゃん』

ひとり暮らしの小学生、おさなのもとに中国へ赴任しているパパから誕生日プレゼントとして先端科学的キョンシー・山田が贈られてくる。たしかに高機能ではあるのだけれど、どこか抜けている山田におさなは戸惑いつつも、ふたりで愉快な日常を築き上げていく。日常系キョンシーギャグ。
いやあ、いいですね。わりとシンプルな線で描かれて、キャラの眼なんかも楕円形の黒色塗りつぶしといった感じでかなり記号化されているんですが、このゆるいノリがオフビートなテイストとよくマッチしています。手足がゴムホースっぽく細長くてぐにゃぐにゃしていて、昔のアニメーション、もとい『アドベンチャー・タイム』っぽいんですよ。あれは少年とイヌのアニメでしたが、これは少女とキョンシー。だからなんだといわれれば、いまのところなんでもありません。
全体的にコミティア的な風味を残しつつも、たしかな巧さで読ませていくよいマンガです。こういうのが年に一作出てきたら嬉しくなってしまいます。まあ、ゆるかったり、オフビートなだけの作品はいくらでもあって……いやこれは空気わるくのでやめときましょう。
とにかく、もしかしたら、明日の『フイチンさん』になれるかもしれない。なれないかもしれない。どうかな。わかんない。オススメです。キョンシーちゃん。お子様の情操教育にもピッタリ。ご家庭にかならず一冊。文部科学省文化庁もオススメしなさい。


18.坂上暁仁『神田ごくら町職人ばなし』(トーチコミックス)

江戸を生きる職人たちの生き様を描いた職人時代物連作短篇。
とにかく、桶とか刀とか蔵とか、いろんなもん作ってます。それらの現場での作業の描写がちょっとびっくりするくらい豊かで細かくて艶めいています。江戸の時代の話なのに、どうやって取材したんだろう。現役の職人さんたちにあたったのかな。
とにかくこの手仕事の官能だけでも木戸賃は取れます。話もいいよ。時代物はたまにこういうごっついのが出てくるんですよねえ。


19.向浦宏和『CHILDEATH』(ヤングアニマルコミックス)

地球が自らの意志?で生み出した「魔女の森」から発生する「魔女」なる怪物たちによって人類は虐殺され、さらには「時の魔女」によって大人になったら死ぬ呪いがかけられた世界。人類は自然、12歳以下しか生き残れなくなり、子どもたちはいくつかの小グループにわかれてそれぞれの仕方で「魔女」の襲撃に抗っていた。「みんなと生き延びて大人になりたい」と強く願う主人公の鈴本モモの属するコミュニティでは子どもたちが魔女の肉を燃料として駆動する機械で飛び、襲いかかってくる魔女を討伐していた。が、あるとき、ついにコミュニティは全滅。唯一生き残ったモモはそのときに「自分は魔女の呪いで永遠に大人になれない(=この世界では死を運命づけられてはいない)」と知り、子どもたちみんなと自分自身が大人になるために魔女をすべてぶっ殺すと決意する……というポストアポカリプスジュブナイルダークファンタジー
ゴッツいです。てざわりがゴッツゴツしています。ひとことでいえば、北極かどこかで冷凍保存されていた80-90年代っぽい絵やノリや設定(鬼頭莫宏とか大友克洋とか大塚英志とか岩明均とか、あとそうそう、富沢ひとしらへん)を2020年代のテイスト(まどマギとかチェンソーマンとか)とブリーディングして誕生した謎の生命体、といった感じでしょうか。このまんがが過去に属しているのか未来に属しているのかはちょっと測りかねますが、本来2023年に存在しないはずの作品であることだけはわかる。
なんか子どもたちがいっぱい死ぬんですよ。生き残ってる子どもたちも「頭がよいと魔女に襲われる」という理由でロボトミー的な手術をみずからに施して知能を下げているんですよ*17。なんか、え、そこ切っていいの? みたいなすごい勢いで展開トバしたりもするんですよ。でもなんか伝わる気がしたりするんですよ。もうなんていいますか、ひたすらほとばしっているマンガです。作者の燃料が尽きるまでほとばしりつづけていてほしい。
それにしても、最近大友克洋に意識的に先祖返りするようなマンガが増えてきている気がするのは気のせいでしょうか。


20.福島鉄平『放課後ひみつクラブ』(ジャンプコミックス

ふしぎ学園ギャグ。コメだけど、ラブをつけるかは各自の判断によります。『ボクらは魔法少年』であんな笑っちゃうくらいにヘキを丸出しにしてなおまんがを成立させていた、福島鉄平が、またこんな笑っちゃうくらいピーキーな表現を出してきて、それでもなおなんの変哲もないまんがづらできている(できているのか?)のがすごい。まんがという枠組みの耐久テストの項目のひとつみたいな作品です。


そのほかで良かった30作

いつもはオナブルメンション枠をこんなに多く取らないような気もしますが、今年は第一巻開始まんがで単独の記事を立てたので、ついあれもこれも入れたくなりました。その途中で、以前に70作くらいあげたとき「多すぎるぞバカ」みたいなお叱りをネットのみなさまから受けたのを思い出したので半分削りました。
ゆえに、あるべきものがなにか漏れてるかもですが、そこにないものはないですね。


雪永ちっち、なだいにし『サツドウ』

サツドウ(1) (ヤングマガジンコミックス)

殺し屋よりの格闘バトルロワイヤルまんが。ギャグとシリアスの塩梅が良い。『ファブル』みたいな凄腕のファイターがふだんは常人を装っているみたいなギャップギャグもある。暗殺者たちで世界ができあがっているところがジョン・ウィックっぽいですね。


鬼山瑞樹『ぼくとミモザの75日』

ぼくとミモザの75日 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスJOKER)

ヤクザのオヤジを殺して世話係の高身長でアバラの透けたタレ目の凄腕殺し屋お姉さんと逃避行するお話。あらゆる点でプリミティブにむき出しな作品で、作中にも作者自身にも走り切ってくれ、と願わずにはいられません。


小野寺こころ『スクールバック』

スクールバック(1) (サンデーうぇぶりコミックス)

友達にも大人にも言えないような高校生たちの悩みを、糸目で関西弁の学校の用務員さんが聞いてくれる学園カウンセリング系ドラマ。とにかく第一話の完成度がストーリー的にもまんが的にも高い。ただ、この類型の物語であのレベルを出し続けるのはやはり難しいのかな、という印象です。しかし、安定しておもしろくかつ誠実ではありつづけており、こうした「イイ話のために作りだされたマジカルな人物」が苦手な向きにもオススメ。


涼川りんアウトサイダーパラダイス』

アウトサイダーパラダイス : 1 (アクションコミックス)

あそびあそばせ』のスピンオフ……といったらフツーなんですが、中身はぜんぜん普通ではない。分類としては『劇光仮面』と同じ棚に入れていいとおもう。エンタメのために造られたものではない作者の”想い”から出てきた本物の異形たちの話という意味で。涼川先生を野放しにしたらこうなるのか……という恐ろしさを垣間見てしまい、そっと蓋をしたくなりました。こういう凄まじいのだけれど、どう受け止めていいのかわからない作品に出くわしたときに素直にベストに入れられなくなったとき、自分は老いたのだな、と感じます。


くわばらたもつ『ぜんぶ壊して地獄で愛して』

ぜんぶ壊して地獄で愛して: 1【イラスト特典付】 (百合姫コミックス)

階段の高低差を活かした詰め方(その後の視線の逆転とラストのさらに大逆転)とか、万引きしてる場面を盗撮することの二重性とか、構図がめちゃくちゃエキサイティング。くわばら先生は筒井いつきに続く暗黒百合の一等星になれるとおもいます。


はせべso鬱『俺の男魂 サクリファイス

俺の男魂 サクリファイス(1)

男子高校生が女装して女子校に入るという手垢のつきまくった設定をおもしろく料理して見せられるのは作者の力量の証。


薄場圭『スーパースターを唄って』

スーパースターを唄って。(1) (ビッグコミックス)

最近ジャンルとして目立つようなそうでもないようなな現代日本の貧困を反映したストリート系アングラ半グレもの×ラップミュージック。一巻が百点。これはすでに話題作ですね。


朝田ねむい『まだら模様のヨイ』

まだら模様のヨイ(1) (裏サンデー女子部)

朝田ねむいの非BL。遺伝子改良超人ものを日常からぬめっとスライドさせていくところが作家性というか巧さ。


みそくろ『思春期姉弟

思春期姉弟 1巻 <電子版限定特典付き> (クランチコミックス)

男女の双子の中学生がそれぞれに思春期というか性の目覚めを迎えるカミングエイジコメディ。トピックは生々しいのだが、絵のチャーミングさで巧妙に中和されている。


ニャロメロン『ドラゴン娘のどこでもないゾーン』

ドラゴン娘のどこでもないゾーン(1) (てんとう虫コミックススペシャル)

ちおうコロコロコミック連載のギャグ4コマ。ポプテピスクール(別にニャロメロン先生はポプテプフォロワーではないのだけれど)ではもっとも芸術の域に近づいている。


東村アキコ『まるさんかくしかく』

まるさんかくしかく(1) (ビッグコミックス)

東村先生が小学生時代を過ごした宮崎での回想実録エッセイ。やはりこのひとは話を盛る才能がありすぎる。お父さんのキャラが卑怯。


KENT『大怪獣ゲァーチマ』

大怪獣ゲァーチマ(1) (ヤングマガジンコミックス)

怪獣もの。怪獣ものとしてもオーソドックスさとユニークさのバランスが絶妙。怪獣にそんな思い入れとかないんですが、これは楽しく読めています。サンデーうぇぶりではじまった『Kaiju on the Earth ボルカルス』といい、最近怪獣が勢いづいてますね。


ヨシアキ『雷雷雷』

雷雷雷(1) (裏少年サンデーコミックス)

怪物異能アクション。タツキフォロワー色が濃いのですが、ポップなタッチで救われており、独自の味わいも深い。線がいいですね。


Peppe『ENDO』

ENDO(1) (裏少年サンデーコミックス)

WWII末期の日本のイタリア人収容所の話。緊迫感あるディティールが読ませます。あまり日本では注目されてなかった題材ですが、参考文献リスト見るかぎりイタリアではけっこう語られてきたらしい。


速水螺旋人スターリングラードの凶賊』

スターリングラードの凶賊 1 (楽園コミックス)

安定しておもしろい螺旋人先生の共産圏エスピオナージュ。この無常感ある戦争こそがここでしか摂取できない味なんですよねえ。


亀『バットゥータ先生のグルメアンナイト』

バットゥータ先生のグルメアンナイト 1 (ボニータ・コミックス)

ボニータが『ジャードゥーガル』の二匹目のドジョウを狙ったと思しきマイナー地域(中東)骨太コメディ。単に知識の出し入れだけじゃなくて、まんがとしても意外によくできている。それにしてもイブン・バットゥータとは、またシブい。


BLZ『電網呪相ノロイさん』

電網呪相ノロイさん 1 (アライブ+)

現代怪異バトルもの。時代に取り残されたガラケーの呪いのサイトに優位性を与えたり、バトロワデスゲームを怪異化したり、発想はユニークでおもしろい。意外に会話でギャグを組み立てるセンスがある。ワンテンポで性急なのがややもったいない。


武田スーパー『だれでも抱けるキミが好き』

だれでも抱けるキミが好き(1) (ヤングマガジンコミックス)

『友だちとして大好き。』亡き今、性欲と性愛の境についていちばん真摯に考えているまんが。しょうがないんですよ。連載先がアフタヌーンじゃなくてヤンマガなので。


堤葎子『生まれ変わるなら犬がいい』

生まれ変わるなら犬がいい(1)【電子限定特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

クズ男が死んだ飼い犬に見えるようになってしまったお嬢様が男を飼う。これも絵がいい。 奇妙ですが、切実ですよ。こういうのに弱い。


うごほりさん、okama『無冠の棋士、幼女に転生する』

無冠の棋士、幼女に転生する【電子単行本】 1 (ヤングチャンピオン・コミックス)

うだつのあがらない中年プロ棋士が幼い子どもに転生して今度は羽生に勝とうとする話。才能と子どもの話なのでOkama先生がいきいきしてはります。転生もののわりには俺TUEEE要員がいろいろ意図的に排されている(転生先で将棋の知識が曖昧、双子の妹の方が才能があるなど)のが興味深い。


うぐいす祥子『僕に殺されろ』

僕に殺されろ(1) (月刊少年マガジンコミックス)

スプラッタホラーコメディ。名前だけで買っていい作家のひとりです。 一発でしょーもなくするオフビートさが今回も活きている。


松本ひで吉『いきものがたり』

いきものがたり(1) (モーニングコミックス)

動物おもしろ生態紹介エッセーとしては目の付け所が抜群にキャッチーでおもしろい。


見ル野栄司『デスクリエイト』

デスクリエイト(1)

デスゲーム管理・制作もの。前例がないわけではないではないのだが、それ自体をデスゲームにした上に原作者の専門知識が活かされているのはフレッシュ。設定はかなり無理があるけどまあいいだしたらデスゲームものみんなそうなので。


飯野俊祐『偏愛ハートビート』

偏愛ハートビート 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

出合頭のインパクトがとにかく強烈。


冬野梅子『スルーロマンス』

スルーロマンス(2) (コミックDAYSコミックス)

最初は向いてないんじゃとおもったけど読み進めてみると存外にスクリューボールコメディとして上質。


諏訪符馬『逢いたくて、島耕作

逢いたくて、島耕作(1) (モーニングコミックス)

島耕作世界で島耕作オタクがループする話。島耕作スピンオフでは出色の出来。島耕作読んどいてよかったと思わせられる。そんなことって人生であんまりないじゃない?


玉置勉強『突発的クリエイトファミリー』

突発的クリエイトファミリー 1 (MeDu COMICS)

45歳の落ち目のライトノベル作家がひょんなことからまるで関係のない行きずりの女の息子を引き取って共同生活することになるコメディ。子どものほうもイラストの上手いオタク少年で、互いにクリエイターとして論を戦わせ?る。そこそこ年を食った作家の感覚がおそらく作者と直結していてリアル。玉置勉強版の『秋津』。


郷本『破滅の恋人』

破滅の恋人 1 (楽園コミックス)

贅沢過ぎる狂気。これは読んどくといいですよ。好む好まないはともかく。


森高夕次『四軍くん(仮)』

4軍くん(仮) 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

都立で都大会ベスト4までいって調子こいてた球児がロクダイに入ったら四軍スタートで絶望するところからはじまる大学野球まんが。二巻でサブキャラたちのバックストーリーが描かれる。準野球エリートたちの質感のよさが際立っています。森高夕次はここくらいのポジションを書かせるとやはり抜群です。


川田『アスミカケル』

アスミカケル 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

高校生格闘マンガ。こんなレッドオーシャンのジャンルをまっすぐに描いておもしろくできるのはやはり横綱の風格。


*1:ほんとうはもっと意地汚い用語をつかっているのですが、内輪ネタなのでやめておきましょう

*2:テクニカルな戦略というより、作者の柳本先生のヘキなのだとおもわれますが

*3:主人公が強くなり続けた結果、読者が遡及的に「あいつもどうかしてる天才だったんじゃん」と気づく作品はままある。

*4:そこを突き詰めたのがまさに『龍と苺』の達成といえるでしょう。

*5:回想の表現としてはよく見られるやつ

*6:オススメは間宮ミヤ「アカネの自由帳」https://comic-days.com/episode/4855956445053723654

*7:人外ものをダイバーシティのメタファーとして扱うまんがが『BEASTERS』以降はとみに増えました

*8:寝ても覚めても』とか

*9:高梨は「好きな人が自分を好いてくれるならあまり形には拘らない」(でもだんだんそのことで傷ついていく)というメンタリティで、ここは『ワンコそばにいる』と似ています

*10:第一部完みたいな感じでしたが

*11:たとえば、15日まで公開されている第八話 https://comic-walker.com/viewer/?cid=KDCW_EB06204023010008_68&dlcl=ja&tw=2 では「換装時の射出のいきおいで銃のマガジンを飛ばして敵に当ててひるませ、そのすきにマガジンを交換し、態勢を立て直しかけた敵の腕をまず撃ち抜いて、直後に仕留める」というジョン・ウィックみたいなくだりが出てきます。

*12:特定の企業名は作中で挙げられていないがどう見てもAmazon

*13:キノコの胞子を媒介にしてゾンビになる話は『The Last of Us』や『マタンゴ』などちょいちょい見かけますが、植物の花粉でゾンビになる設定はゾンビものとしてめずらしい気がする

*14:一部アニマルウォルフェア的

*15:FPSニガテアルからね。『CONTROL』は好きヨ。

*16:余談ですが、エッセイまんがにおいてはフィクションまんがの技巧がうまければうまいほどなんかエッセイまんがしての強度は弱まる、という仮説を立てたことがあります。その話はいつかしたいな、とおもっていますが、まああんまりできる機会はなさそう。

*17:ラニュークの「ZOMBIES」みたいだ

2023年読んだ新刊まんがベスト(短編集・単発長編/五巻以内完結篇)

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proxia.hateblo.jp
↑出した時点で「もう今年は短編集とかのほうのランキングはいいかな〜」みたいなムードだったんですが、村長から「マンガを怠けるな」とお叱りを受けたのでなんとかない気力を奮って作りました。

【レギュレーション】

・1.2023年内に発売された日本語(翻訳含)作品の、短編集・単発長編(上下巻など第一巻発売時点で完結巻が明示されている作品。連作含む)。
・2.2023年内に最終巻が発売された日本語(翻訳含)作品で、五巻以内で完結したもの。
・基本的に電子版の出ている本のみ。
・同人誌・自費出版は含まない。


【短編集/単発長編】

1.ほそやゆきの『夏・ユートピアノ』

若き調律師と弱視のピアニストの交錯を描いた連作である表題作と、宝塚歌劇団受験をめぐるふたりの女性の交流を描いたアフタヌーン四季大賞受賞作「あさがくる」の二作を収録した短編集。
ほそやゆきのとは、ストーリー面では挫折と蹉跌を描き、セリフを含めた技巧面では(丹念に取材された)細部を描き、舞台としては北海道を描く作家であるといちおう今のところ定義できはする。
しかし、はたしてそれだけでしょうか?
カメラワークとコマ間の動作によってつけられた緩急、身体部位のクローズアップ、やわらかいタッチ、すずやかで乾いた陰影、冬の白、アフタヌーンとしかいいようのない縦長コマ、何か未満(「夏・ユートピアノ」の場合は友人、「あさがくる」の場合は師弟)の関係、人間と人間のあわいつながり。
しかし、はたしてそれだけでしょうか?
ピアノを題材にした作品としては異例なことに、ピアノを弾くシーンを漫符などで表現しないんですよね。劇中何度か描かれるピアノ演奏のシーンではすべてリアクション(拍手や演奏者自身の涙)でその出来や意味合いを読者へと伝えます。そして、その極みがラストのラストで来る。音楽まんがは「いかに音を伝えられないメディアで音を表現するか」の歴史だとおもうのですが、そこにこうしたアンサーもあったのかと感心させられます。おなじくピアノ×雪国×女二人を描いた『最果てのセレナード』(ひの宙子)と比較してみるのもおもしろいかもしれません。鍵盤の見立てで構図を作る部分とか似てますし。
いやしかし、はたしてそれだけなのでしょうか?
それらをすべてひっくるめたても、ほそやゆきの作品の総和に等しくない気がします。そこにまんがの秘術が隠されている気がする。わたしは存在自体が神秘のようなまんがが好きです。まんがを奇跡だと信じているからでしょう。そして、その奇跡を証明する奇跡がここには顕れている。


comic-days.com
(2018年の新人賞奨励賞読切。ところどころ歪だがこの時点でだいたいは完成されている)

2.heisoku『春あかね高校定時制夜間部』

名門・春茜高校の定時制夜間部に集まる面々を描いた夜の青春群像劇。十六歳から四十歳まで、元ホスト、元精神病院入院患者、複数人でのコミュニケーションが極端にニガテなひと、一見ひとあたりはいいが約束ごととなる途端に仮病を使ってドタキャンしまくる人等々、さまざまな事情や個性を抱えた生徒たちが出てきて、いずれも生きるのが大変そうなのですが、ふしぎとどこか明るさがある。
それは、それまで生きづらさを自分のなかで抱えるしかなかったひとびとが、学校空間という他者だらけの空間でゆるやかに共にあることで小さな救いを見出しつづけるからです。そんなスウィートすぎない、ちいさな救済が本作を特別な作品にしています。
高校とは基本的に「これから人生が始まるひと」の場ですが、事実上人生が終わってしまったひとの人生を始めさせる場として学校空間を作り出したのは『ご飯は私を裏切らない』の heisoku 先生の面目躍如たるところ。

3.シャオナオナオ『守娘』

台湾時代怪奇ミステリ。絵と画がとにかくよい。
このまんががすごくていいよ、という話は前にしたのでそちらを。

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4.大武政夫異世界発 東京行き』

大武政夫は異常なギミックをテコに状況をどんどん転がしてエスカレーションさせていき、最終的にあまりにもバカバカしい絵面へ行き着くギャグや、連作でこつこつ積み上げたキャラの性格やポジションから生じた位置エネルギーで暴力的な勢いをぶつける小噺を得意とする作家です。したがって、その本性は連作短編にあります。個人的には、そこまで一話完結短編の名手といった印象はありませんでした。
ところが本短編集の「俺たちの非日常はこれからだ!」を雑誌で読んだときはたまげました。単発の短編でめちゃめちゃおもしろれえ!
内容は、ある日突然、透明化や念力などの特殊能力にめざめた少年たちが時間のループにはまってしまったクラスメイトを助けるために奔走するクロスジャンルコメディです。
フィクションの分野では、特に短編においては「一つの話につきワンダーな設定は一つだけに留めとけ」と言われがちです。読者にとって「非日常」的な要素はそれだけでポケットがいっぱきになるほどのストレスであり、あんまり詰め込みすぎると読む方はパンクするし、味もまざってなんだかよくわからなくなってしまいます。
そこ本作ではワンダーが四つも五つも出てきて、それらがまったくごちゃごちゃした印象を与えず、きれいにひとつの物語として整然と処理されている。それは出てくる特殊設定がそれぞれ長年使い古されてある種の常識と化したジャンルであるから読者の認知ストレスも軽減されている面もあるでしょうが、それをなめらかに整理できるのはあきらかに作者固有の手腕です。もうあんたが日本SF大将(©️とり・みき)やね。
言ってみれば『ヒナまつり』や本短編集の後半に載っている魔法少年もの連作「魔法少年マモル始まらない!」でやっているようなキャラエピソードの積み上げを、クリシェと化したジャンルへアウトソーシングすることで省き、連作じゃないのに連作のような爆発的なパワーを生み出したのですね。一見ズルに見えますが、大武先生にしか不可能な曲芸です。驚くべきコントロール力です。
とはいえ、「素で描いた」と作者自身の語る「90 59 88」のピーキーさも、つきつめるとどこまで行くのか見てみたい気持ちもありますが……。

5.ティリー・ウォルデン『are you listening?』

とにかくコマの枠線というものを縦横無尽にいじりたおします。主人公たちの気持ちが動揺すれば枠線も歪み、水が満ちれば液体状に融解し、ときには境界である線そのものが消滅してしまう。愚直ですらあるそんな素朴さな外連味が、アートフォームとしてのコミックの可能性を信じ貫いているようで、読んでてうれしくなる作品です。さらりと、テキサスはマジックリアリズム的な土地なんだ、と言い放つところも南部ゴシック的なアメリカ文学の系譜に自らを位置づける図々しさがあって、物語やタッチの繊細に反してなかなかたくましい。

6.売野磯子『インターネット・ラヴ!』

インスタで見かけたら一般韓国人男性に岡惚れしてネトストしまくる一般日本人男性のラブストーリー。間違ってるとわかっていて間違ったことをやめられないひとの話はいいですね。ヤバい人の話ですが。
このごろはシャープなイメージのあった売野磯子ですが、本作は線も話もレトロでソフトでほんわかしてて、こういうのもよいですね。ヤバいひとの話ですが。*1

7.崇山祟『Gペンマジック のぞみとかなえ』

ホラーは本物の異形が生まれるジャンルです。『恐怖口が目女』を描いた崇山祟は本物の異形にして、真正の才物だったわけですが、去年若くして亡くなってしまいました。本作はその遺作。
ホラーではなく、スポコン少女漫画パロディ(ガラスの仮面とかエースを狙えとからへん)なマンガ部青春モノです。巻末の追悼対談で『ミステリーボニータ』の編集長が指摘しているように、「70年代の少女漫画の絵柄やノリをサンプリングしてギャグにするのってさんざんやり尽くされて」いて、さらにいえばマンガ部ものも昨年『これ描いて死ね』という大賞級の作品が誕生してしまった*2この2020年代において、「あえて」でさえこの領域に手を出すのは相応の覚悟を要します。そこに肝っ玉ひとつで乗り込み、見事、崇山崇にしか出せない作品を完成させてしまった。
シュールなノリと勢いだけのまんがのようにおもわれるかもしれませんがーー実際完全にノリだけでやっているだろ、みたいなところもときどき目につくのは事実ですがーーそれでもアクセントの利かせ方が際立っており読者を振り落としたり飽きさせたりはしません。不条理な乱暴さをふりまわしているように見えて、繊細な抑制も効いている。そこが崇山作品の美点でした。つくづく、惜しい作家です。

8.panpanya『商店街のあゆみ』

panpanya先生の短編集はひとつのベンチマークといいますか、ハードルといいますか、その年に出る短編集の総合的な質の指標になります。去年は『ユリイカ』でも特集が組まれたし、いまさら言うこともないでしょう。今回のお気に入りは「家の家」と「うるう町」。23年の奇想系短編集では河野別荘地『足が早いイワシと私』、小田扉『ぐるぐるゴロー』あたりも印象に残ったでしょうか。

9.月森吉音『ナイトメア・オブ・ドッグス』

イヌ獣人のカニスがバイクで単身旅しながら、さまざまな悪夢にうなされる他のイヌたちと出会ってその世界の謎に迫っていくロードコミック。人間の都合で虐待されたりひどい目にあったりするイヌの立場に共感的だったまんがというと21年に出た吉田真百合の『ライカの星』もありましたが、こちらは問題意識が直接的でより苛烈。動物福祉系のまんがは22年開始のカレー沢薫『いきものがすきだから』を筆頭に最近といいますか結構前からエッセイやルポの分野でちょくちょく観ますが、アニマルライツ的な問題意識から描かれたフィクションはそうなかったかも。23年に完結した『地球から来たエイリアン』といい、まんがの世界でもポスト人間主義というか、モラルサークルの拡大を感じます。
23年もイヌまんが(フィクション)は多かったですね。独裁政権の顛末をイヌ獣人に託して描いたロシア製コミック三部作『サバキスタン』、狂った女が転がりこんできた男をイヌとして飼い始める『生まれ変わるなら犬がいい』、そして先日紹介した『凍犬しらこ』。バリエーションも豊かです。

10.田沼朝『四十九日のお終いに 田沼朝作品集』

ちょうど切りの良い数字にするところでなにがいいかな、とおもって、路田行の『透明人間そとに出る』でもよかったんですが、路田作品は先日の記事で『すずめくんの声』を取り上げたのでいいかな、となり、じゃあ『いやはや熱海くん』について言及できなかった田沼朝で、ということになった。*3
短編の上手い作家というのは何通りかのタイプがいて、このひとはスケッチがうまくて質感がよいタイプ。

【五巻以内で完結した作品】

・だいたい過去のブログ記事で触れている作品ばかりなので、あらためて紹介するのがめんどい。

【比較的ソフトランディング】

冬虫カイコ『みなそこにて』(全3巻)

母親の再婚に伴い、人食い人魚伝説の伝わる村に住む祖母のもとに妹とともに移住してきた中学生の一花。彼女はそこで千年という不思議な雰囲気の少女と知り合い、”変わって”いく……という連作群像劇。
各話でそれぞれ視点人物となるキャラたちの心の隙間に千年という存在が入り込んでいき、三巻、ずうっと低温のホラーが続きます。
異質な存在の異質さの描き方がすばらしいんですよね。まんがメディアの立体性を巧みに利用しているんです。これについてはあとでもうちょっと考えておきたいなあ、とおもいます。

天野実樹『ことり文書』(全3巻)

鳳家の令嬢、小鳥は天真爛漫でアクティブなじゃじゃ馬中学生。箱入り娘にしようと枠に押し込めてもはみ出してしまう危なっかしい性分で、教育係兼執事の白石をいつもヤキモキさせます。
ハートフルなまんがです。ビッグな心があなたの胸をいっぱいに満たしてくれます。
主人公の小鳥の裏表ない善良さも、白石の律儀さも、屋敷のひとびとや小鳥の友人たちといった周囲の人間たちもすべてがあったかい。
それでいて、その温かみに上滑り感やうすっぺらさを感じないのは、一見ほのぼのとした物語の深奥に切実な願いが宿っているからです。
未熟な幼鳥は巣の外に出たがるけれど、世界は残酷さで満ちている。しかし、籠のなかで愛でるばかりが鳥の幸せでもない。無垢で、美しく、こわれやすい魂をどうしたら自由に幸福に生き延びさせてあげられるのか。
そのためにはただ一方的に保護するだけではなくて、たがいに手を差し伸べあって理解しなうのが思いやることが大事なのだと、本作はさりげなく、豊かに伝えてくれます。
ハルタ直系でありつつも、ややレトロな誇張の混じったキャラの輪郭や表情もすばらしい。まさにハルタという生態系以外では生まれなかったであろう珍禽です。

藤近小梅『隣のお姉さんが好き』(全4巻)

世に「気になるコと映画をいっしょに観る」系のシチュエーションラブコメはぎょうさんありますが、これは格が違う。映画を道具に恋を描くまんがではなく、映画のように恋を撮ったまんがです。
同時に、人間同士が対等に関係することについて非常に誠実な物語でもあります。それがまた視線のメディアである映画という題材と綿密に絡んでくるのがクレバー。

黒崎冬子『平家物語夜異聞』(全3巻)

一昨年の『鎌倉殿』ブームでにわかに平家物語モノも盛り上がりを見せましたけれど、『無敵の未来大作戦』の黒崎冬子先生が料理するとやはり一味違うものが出てきます。ギャグとシリアスを自在に行き来するというか、あたかもそんな境界など存在しないかのように遊べる作家は希少です。

ムネヘロ『ムシ・コミュニケーター』(全3巻)

虫の写真が聴こえる少女の日常連作短編。虫という存在をフィクションに使うにあたってここまで死生観まで寄り添った作品はなかなかありません。このクールさを失わないでいてほしい。

ばったん『けむたい姉とずるい妹』(全5巻)

ばったん先生の描く姉妹ものです。ハイ、この時点で最高。

【惜しかった】

有馬慎太郎『地球から来たエイリアン』(全3巻)

2220年、惑星開発局生物管理局に勤める朝野みどりは地球から160光年離れた日本領惑星「瑞穂」に赴任する。生物管理局は未来の移住に備えて原生生物を調査しておくのが仕事。異星の生物を愛するみどりは未知との出会いにワクワクしていたのだが、最初に命じられたのは”危険”な原生生物を絶滅させる業務だった……という第一話からはじまる異星生物お仕事SF。
個性的な異星生物やアクもビジュアルも強い(そして時にたちの悪い)同僚たちにふりまわされながら、まっすぐな主人公が仕事へぶつかっていき、その過程で思いだけではどうにもならない思い知り、懊悩しつつも成長していく王道の作りです。人類の利己によって都合よくいじられたり滅ぼされたりする異星生物の姿は、まさに今ここで生きている動物たちとも重なり、われわれへクリティカルな問いを投げかけてきます。惜しむらくはその問いを深化できるだけの尺が本作に与えられなかったこと。そして、こずるくてブルータルなキャラを描くときのハツラツとした有馬先生をもっと見られなかったこと。

額縁あいこ『リトルホーン〜異世界勇者と村娘〜』(全2巻)

魔族の生き残りが潜んでいた村が残虐な転生勇者一行によって根切りにされてしまい、その生き残りである魔族姉妹の末妹と村娘が復讐を誓う暗黒異世界ファンタジー。万能チート勇者を悪者にするマンガは異世界転生に疎いわたしでさえそこまで斬新な趣向ではないだろうな、となんとなく察しはつきつつも、転生勇者一行のキャラ立ちがとにかく尖りまくっている。たとえば、最初に戦うことになるナイトは転生前は小学生の男の子だったんですが、年齢相応かつ彼固有の生まれつきの思い込みの激しさと残酷さによってすさまじく偏った性格になっていて、あんまり見たことないバランスの異常さを発揮しています。
このイキの良さで2巻打ち切りとは思いもよらなかった。

甲斐冬雪『変身人間ちえ』(全2巻)

突然、怪物に変身するようになってしまったヒロインを中心にした学園ラブコメ。これもザリっとした古風なタッチに奇妙なバランス(そこがよい)のまんがで、長続きはしないだろうという予感あったのですが、さすがに2巻で終わるのは酷すぎる。ラブコメというか学園群像劇で「おれたちの戦いはこれからだ」を見せられるのは……。
ヒロインを中心に造形から展開まで作者のヘキが詰め込まれたピーキーなまんがですが、是非読んで名前を覚えていただきたい作家です。

仲間只一『大東京鬼嫁伝』(全4巻)

キャラがいい。抜群にいい。ただ、それだけではジャンプという名のキリングフィールドでは生き残れない。でもキャラがね、ほんま、キャラがいいんですわ。


来年はとりあえず『下北沢バックヤードストーリー』(西尾雄太・全3巻・24年1月完結)が入るかなあ。



proxia.hateblo.jp
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ランキングといえば今年これのベストSFアンケートにお呼ばれしたので投票してます。

*1:しかし主人公のネトスト行為について彼の友人が「(自分は推しのアイドルがいるが)これはお金払って推しをネトストする権利があたえられているような状態なワケ」と忠告するシーンがありますが、ネトストされてもいい権利なんて誰も売ってないでしょ! まあ本作のネトスト行為=せいぜい常時インスタを覗く、程度という文脈の話ではありますが。

*2:かててくわえて、マンガ部ギャグとしては『いいよね!米澤先生』の高い壁が存在します

*3:あと『なぎと短編集』も入れるか迷ったんだけど、心臓に良いブログを志向しているので、みなさんをびっくりさせちゃいけないなとおもって泣く泣く外しました。

死にたくもないし生きたくもないし歩きたくもない――『信長の野望・出陣』について

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数えた足跡など 気づけば数字でしかない


BUMP OF CHICKEN「カルマ」


走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく






 毎日、歩いている。
 そりゃ、歩くだろう、とおもわれるかもしれない。動物なんだから。そこそこ健やかな人間は一生のうちにおよそ一億五千万歩を歩く*1。よほどの事情でもないかぎり、歩かない日はない。歌にも歌われているように、幸せは歩いてはこず、むしろ音速に近いスピードでわれわれの前をかすめて置いてけぼりにしていく。不運な人間としては肩をすくめてとぼとぼと歩いていくしかない。
 しかし、「あなたはほんとうに生きているのか?」と指をさされて問われれば誰もがたじろいで即答しかねるように、「歩いているのか?」という問いには何か単純な動作のあれこれと異なる別な疑問がはらまれている気がする。
 たとえば、幸田文は「歩く」*2というエッセイでこう自問している。



「歩く」とはいったい何だろう。左右の足を代わり代わりに動かして前へ進むことで、なんでもなく始終やっていることだ。でも、歩いたかと云われると、五十年をふりかえって見て、「歩いた」と返辞のできるのは二度しかないようである。あとは、「ような気」ばかりする空しさである。



 こういうほんものの明晰さに通して我が身を省みれば、頭に書いた「毎日、歩いている」という一文がまるでうそっぱちに見えてくる。
 というのもわたしの歩行は、純粋な散策ではなく、卑しい野望に満ちているからだ。
 その野望は信長に突き動かされている。

煩悩 二本足 walk to walk

信長の野望・出陣』(以下『出陣』)はいわゆる位置情報ゲームだ。
「位置情報ゲーム」とは、『ポケモンGO』や『イングレス』ようなたぐいのスマホゲームだといえばわかりやすい。『ポケモンGO』や『イングレス』なんて知らないのでぜんぜんわかりやすくないよ、とおっしゃる向きに関しては社会性がかなりヤバい状態にあると推測される。個別のゲームタイトルについてここでわたしの講釈を聞くよりも、とりあえずまずは外に出て人に話しかけ、情報の格差を均したほうがよい。もしかしたら、自分が1999年からタイムリープしてきた前世紀人である事実が判明するかもしれない。
信長の野望』という戦国時代を舞台にした戦略シミュレーション、つまり織田信長武田信玄といったFGOなどでおなじみの戦国武将たちを操って天下統一を目指す、そういったようなゲームのシリーズがあり、『出陣』はそのひとつというか、まあスピンオフみたいなやつだ。
 そうした出自なので、当然『出陣』も領地を奪る奪られるといったデザインになっている。市町村を更に細切れにした単位の区画を渡り歩き、島津豊久森可成といった暴力武将たちを編成した軍隊を送りこんでノシていく。歩けば歩くだけ領土は広がっていき、なんとなくいい感じのムードになる。
 最初は近所をとりあえずヨンボリ歩きまわり、ゲーム画面上で表示される地図とにらめっこしながら、まだ占領していない区域を求めてさまようことになるだろう。征服の進行度合いは小さいグループから順に市町村→県→地域→全国といった単位でレイヤー分けされており、それぞれの単位ごとに征服の進行度が10%とか20%とかの割合で示される。この町はもう半分制圧したわ。でも、隣のこの市はまだ10%しか占領していないな。ようし、いままで寄ったことのない街だけれど、ちょっと今度でかけてみよう。
 そうやって、地図をちまちま埋めていく。
 そんなゲームである。
 ワクワクするでしょう? するよね?
 プレイヤーの行動原理は当然、「まだ未占領=未知の土地へ行くこと」になり、近所であってもいままで通ったことのない路地を歩き、いままで見たことのない景色に出会う。なんていうと、すてきな旅のように聴こえるけれど、仮にうつくしいなにかに遭遇したところで、自分の眼はスマートフォン画面上を凝視していて、気付かないままに過ぎていく。いや、実際に見たとしても、気にもとめない。それは『出陣』というゲームには関係ない、余計な要素だ。切り捨て御免の思い出である。


カントリーロード この道

『出陣』の空間は、城と野盗と農民と商人と浪人と軍勢と馬でできている。あと、たまに史跡。城とは領地のことで、農民は米、商人はカネの象徴だ。マップ上に点在する民草をタップしてゲーム内通貨となるそれらを回収する。徴税である。年貢である。自分の領土以外でもこれらのキャラは現れるので、そのときに遭遇した場合は略奪ということになるが、奪われるほうからすれば領主であろうがよそもんだろうが同じ理不尽だ。
 なんにせよ、城と野盗と農民と商人と浪人と軍勢と馬の取り合わせは、日本全国どこへ行っても変わらない。わたしたちは九州で民を強請り、東京で民を強請る。暴力は時代や土地が変わってもレートの変動しない世界屈指の安定通貨だ。誰もが喜んでエクスチェンジしてくれる。その営為は津々浦々で変わらないわけで、そのことが『出陣』の体験を、信長とともに歩くことを平らかに均していく。
 それでもあなたが「歩くこと」のできるひとならば、個別の歩行に固有の思い出を築き上げられるのかもしれない。眼を持ったひとはそうこうことが可能だ。ただぶらつくだけでも細部のみずみずしく語る。たとえば、韓国の詩人である李箱は東京で新宿やら銀座やらをぶらついただけでめっぽうおもしろい随筆を書きあげた*3。銀座でモガを発見し、救世軍の社会鍋をひやかし、公衆便所でうんこを垂れる。網膜で蒸発しそうな頼りない細部を留めておけるのは、才能だ。



 眼を持たないわたしの内面の世界は、『出陣』のマップとほぼ一致している。ある調査によると、GPS画面に頼って移動するひとは地図を持って移動するひとに比べ、途中の情景や道順を記憶しにくいそうだ。この調査を紹介したダヴィッド・ル・ブルトンは「GPSは道をルートに変え、道そのものよりも目的地を優先させ、道を解体して単なる味気ない通路に変えてしまう」*4と嘆いた。その道なき通路の世界をわたしは歩いている。
 次の空白から次の空白へと、地図を自分の国の色に塗っていく。19世紀のオクラホマみたいだ。入植者たちは、未割当の(もとはチェロキー族などが住んでいた)土地に早い者勝ちで殺到し、自分たちのものにした。過去を鑑みるならば、移動することは侵略する*5ことでもある。ならば、『出陣』は『信長の野望』シリーズのどの作品よりも、歴史の本質を射抜いている。わたしたちプレイヤーは、スマホ上に平面化された原野を帝国主義者の歩法で歩く。これこそが野望というものだ。

正しく僕を揺らす 正しい君のあの話

 いいわすれたが、わたしは歩くのがきらいだ。
 歩くことに関するエッセイや本などを読むと、たいていは歩くことが大好きな著者が歩くことを無条件で善きこととして肯定し、序文で歩行の快楽を讃える。歩く系のエッセイ本のなかでも最近に出た島田雅彦の『散歩哲学 よく歩き、よく考える (ハヤカワ新書)』でも、「よく歩く者はよく考える。よく考えるものは自由だ。自由は知性の権利だ」といった言い回しでセルフをボーストしていた。
 どうやら、歩くことについて書く人間は歩くことを好む傾向にあるらしい。わたしのようなアンチ歩行派が歩くのめんどい、などと漏らした日には、ネットイナゴたちから「じゃあ一生歩くな」「ホヤに戻れ」「木という木に『龐涓死於此樹之下』って書いてそう」などといった罵倒を浴びるはめになる。
 そうしたトータリスティックな非道に抗うために今日も今日とてみじんも動きたくない*6のだが、そうはいっても人間歩かなければ死んでしまう。肉体的にも社会的にも経済的にも。だからいやいや歩く。歩いているあいだは脳をぼんやりさせて自分が歩いているという不愉快な現実をあまり直視しないようにつとめる(スマホのなかの信長に意識を預けるのは有効なテクニックだ)のだけれど、歩行フェチ派は歩くことをあえて意識することでわたしの神経を逆撫でする。
 意識を凝すると生まれるのが意味だ。かれらは歩くこととは何かについてよく語る。
 たとえば、ルソーにとって歩くことは自由を味わうことだった。アリストテレスと鴉城蒼也にとって歩くことは考えることだった。ボードレールにとっては一種のオブセッションで(歩きすぎて足を壊したほどだ)、チャトウィンには逃避、ベルナール・オリヴィエには「肉体の絶頂」*7、そして、ロバート・ルイス・スティーブンスンに言わせれば「あの素晴らしい酩酊」*8
「歩行とは徳行である」、そういったのはたしかヴェルナー・ヘルツォークだ。彼はこうも言った。「そして観光とは死に値する大罪だ」*9
 彼らは目的のない旅、そぞろ歩く散歩を至上に戴く。指向性のある野心など抱いてはいけない。偶然に身を委ね、進んで迷子になり、未知との交歓に心震わせねばならない。
 常軌を逸している。
 そもそも、二足歩行自体が常軌を逸しているのだ。人間以外に日常的に二足歩行する動物はクマくらいのものだ。そのクマも自分たち以外に二足歩行を許さない人間たちによって射殺された。*10研究者によれば、歩行とは故意に転倒寸前の状態を作り出し、それを制御することで前に進む運動なのだという。どうりで不安定で危険な動作だ。わたしたちはもっと安定的な視線をとるべきだ。仰向けに寝そべるとか。うつ伏せに寝そべるとか。あるいは自分が自分のことを人間だとおもいこんでいるクマだという可能性も否めないのだし、そうだとすると二足歩行で外を出歩くのはますます危険だ。
 それでも歩け、と命じる声が聴こえる。
 命じているのは国だ。
 一日一万歩歩くべきだ、と厚生労働省はいう。精確には、「国民の健康の増進の総合的な推進を図るための基本的な方針」を謳ったガイドライン*11に則ると、一日6000歩〜9000歩*12だ。WHOによれば運動不足は全世界における死亡に対する危険因子として、高血圧、喫煙、高血糖に次いで、 第4位*13であり、万病のもと。高齢化社会にともなって増大していく医療保険費が国庫を圧迫する昨今において、自らを健康に保つのはもはや国民の義務だ。*14国民であるあなたがたが肉体的に病むと、国家もまた財政的に病む。そういうアナロジーがあなたに健全な生を強いる。昔は歩くだけで政府に反抗できた時代もあったというのにね。*15

 あるいはそれは、死ぬために歩け、と命じる権力よりはマシなのかもしれない。軍隊がそうだ。ナポレオンが大陸を制覇できたのもひとえにその驚異的な機動力のためといわれる。羽柴秀吉が信長死後に天下人になったのも、備中や美濃から大返しできたからだ。*16
 わたし自身はといえば、ジョン・ランボー以来のたった一人の軍隊なので、天下を平定をするためには独力をもってしなければいけない。ナポレオンが言ったとされているが実際にはどうか疑わしい箴言のひとつに、「歩くことを望むのなら、孤独をゆかねばねならない」というのがある。であるならば、わたしはひとりでグラン・ダルメの心意気というところだけれども、残念なことに、『ランペルール』(1990年)以来、コーエーナポレオン戦争を題材にしたゲームを出していない。
 しかし、孤独を吸い吐きするのに大陸のさびしさは必要ない。『出陣』に広がるローポリ*17な列島だけで十分だ。クランにも入らず、日本以外*18の外部が存在しない世界で、領土を脅かす敵もおらず、一揆を企む窮民もいない。
 紀行や歩行を描いた大半の文学で、描写の中核をなしているのは実は建物や風景ではない。ひとだ。他者との出会いと交わりが歩行者たちの記憶を呼び覚ます。『出陣』の日本で、新しい誰かに出会いたいのならば、ガチャを回すしかない。毛利元就斎藤道三といった金ピカの大名たちが、金ピカの演出で舞い降りてくる。
 対人戦?
 ああ、あるね。たしかにある。自分で編成した軍団で攻めたり守ったりしながら城を奪い合うやつ。だが、その城はわたしの保有する領地の請求権となんら関係がない。負けても勝っても版図は増減しない。なんの愛憎ももよおさない。いてもいなくてもいい、無個性な他人だ。 
 そしてだからつまり、『出陣』では歩くしかない。漫然と、あいまいに、薄味の、「ような気がする」一歩一歩を積み重ね、歩数を数字に還元し、その数字をガチャ用の札と交換していく。

(湯布院にいた人、今川家でよく見かける人兼今川家でよく見かける人の父親、よく知らん人、センゴク、難癖力ナンバーワン芸人、龍造寺四天王、有名じゃない方の直江、といった超豪華メンバーの排出されるガチャ)


 ゆるやかな歩行のリズムをときどき乱暴に断ち切って立ち止まり、スマホ画面をいじってプレゼントボックスやイベントミッションや確認し、二分の前にわかりかけていたなにか、レスリー・スティーヴンスが「真の歩行者」に宿るとした「静謐で朦朧とした精神の豊かな流れ」*19の芽生えのようなものも完全に忘れ去って、また次の空虚へと移動していく。移動の間の記憶はいまや一切思い出せない。紀行なき彷徨、進軍なき征服。「歩いた」という返辞が不可能な謎めいた運動。
 健康、自由、思索、記憶。歩行に付随するすべてが憎い。なぜだか憎くてしょうがない。それらは左右の足を代わり代わりに動かして前へ進むことで、なんでもなく始終やっているあの運動を、なんの臆面もなく晴れがましく「歩いた」と断言できるあなたがたのものだからだ。よちよち歩きを初めた昔から、わたしの歩行とは無縁なものだ。わたしの一億五千万歩の足跡はすべて洗い流されて、なにひとつ思い出せない。書くべき記憶がない。なにもない。
 だから、頼む、弾正忠信長。
 おまえの野望をくれ。
 わたしに歩けと命じてくれ。
 ガチャの回転にしか還元できない数字を与えてくれ。
 歩くことの価値をすり減らしてくれ。



*1:ジェレミー・デシルヴァ:直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足 (文春e-book)

*2:包む (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

*3:翼~李箱作品集~ (光文社古典新訳文庫)

*4:歩き旅の愉しみ: 風景との対話、自己との対話

*5:いわゆるランドラン(ランドラッシュ)

*6:梅崎春生は加藤哲太郎の遺書(「わたしは貝になりたい」)を引用して、「わたしは滝になりたい」と戯れていた。

*7:『ロング・マルシュ 長く歩く――アナトリア横断』

*8:「徒歩旅行」

*9:管啓次郎狼が連れだって走る月 (河出文庫)

*10:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/101900394/

*11:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kenkounippon21.html

*12:20-50代男性が9000歩、60代以上で7000歩、20-50代女性で8500歩、60代以上で6000歩

*13:https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/001171393.pdf

*14:国土交通省のまとめでは、一日一歩当たり、0.0015円〜0.061円の医療費抑制効果があると算出されている。https://www.mlit.go.jp/common/001186372.pdf

*15:「歩くことは、放浪や犯罪、社会的困難や貧困と結びつけて考えられていた。みすぼらしい道は、物乞いや放浪者、貧民や失業者、音楽家、行商人、ホームレスの歩くもの」だった。/トマス・エスペダル:歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術

*16:そういえば、ビデオゲームの世界では、「FPSから銃を抜いたらどうなるか」という実験から生まれたウォーキング・シミュレーターというジャンルについて、その反戦性を評価する識者もいた。https://www.salon.com/2017/11/11/a-brief-history-of-the-walking-simulator-gamings-most-detested-genre/

*17:ローポリなのはわたしの設定のせいだけれど

*18:それも南は八重山、北は稚内まで。どちらも安土桃山期には「天下」に勘定されていなかった。

*19:in praise of walking https://en.m.wikisource.org/wiki/Studies_of_a_Biographer/In_Praise_of_Walking

お犬さまが見てる--映画『落下の解剖学』について

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(本記事は映画『落下の解剖学』のネタバレを含みます)*1

 


www.youtube.com


ときどき奇妙なカットが挟まりますね。

 

「母親の裁判をもっと見たい」と裁判官に翌日の傍聴を訴える少年を左下から見上げてみたり、自宅近くの小高い丘から現場検証を見下ろす主人公の視点でズームしてみたり、終盤の中華料理屋でそれまで店内に据えられていたカメラが突然ワンカットだけガラス越しに人物を映したり。

 

 

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有名作家である女性、その夫が不審死を遂げ、殺害容疑が作家にかかる、果たして真相は? といった、ひとやまいくらのRASHOMONスタイルのプロットは、さして重要でもないといえるし、同時に大変重要であるともいえます。

たしかにその物語のためにある語りの仕方ではあるからです。

 

『落下の解剖学』は、謎に対してさまざまな角度から視線を浴びせる映画です。

謎はもちろん人間の数だけある。夫の死はジャンル的な意味でもミステリーであり、主人公は犯人なのかそうでないのか判然とせず、主人公の息子が実際になにを目撃したのかは観客には秘されていて、弁護士が心の底から主人公の無実を信じているのかどうかは不明です。

わたしたちは人間というブラックボックスを、外から観察してジャッジすることしかできない。

本作ではその多様な観察の方法を提示します。その手数が『落下の解剖学』のユニークさなのだといってしまってもいい。

 

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見ること、聞くこと、読むこと、すべてが総動員された映画ですが、とりあえずは見ることです。映像。あるいは画像。

 

オープニングクレジットでは数葉の写真が映ります。主人公家族のポートレイトで、どの写真も幸福そうです。

しかし、写真というのは瞬間を凍結させて切り取るメディアであり、結局長期的には機能不全を起こしている主人公家族を正しく表せなかったともいえるし、逆に、いや、一瞬であればこんなに美しい瞬間もあったのだと振り返られることもできる。実際映画の後半では、そのような使われかたもされていますね。

事件が起こってからは、「真相」を映すべくさまざまなタイプの映像が出てくる。どれもはっきり画面の質感が異なります。それはそれぞれのカメラのレンズがなにを欲望しているかの違いでもある。

報道のテレビカメラは主人公をだれにとっても他人にします。

いちおう中立的ではある。しかし、その中立性は「どちらに転んでもおもしろい」といった野次馬根性的なものでもあります。有名作家のゴシップですからね。

 

一方で、検察側はCGで作った棒人間的なアニメーション(日本でも報道番組でよく見るやつ)で犯行のプロセスを再現しようとします。

その非人間的な映像は非人間的なつめたさを帯びているが故に論理的な事実を提示しているかのような印象もある。たしかにこのような手順を踏まないと、あんな不自然な血痕の付着のしかたはしない。そうだ、検察はただしい。そのように印象づけられます。

 

そう、法廷劇というフィクションにおいて裁判とは印象をいかに操作するかというゲームなのです。

弁護士も主人公にホームビデオの前で証言のリハーサルをさせます。それも事実を洗うためではなく、印象を検証するためです。事件当時、なにをやっていたのか、言葉の上で再演させる。

 

現場検証も一種の再演です。しかしそこには主人公の息子という不確定の要素があって、証言がたびたびブレる。彼は事故で後天的に視神経に障害をおってしまって、眼がほとんど見えないわけです。

しかし、彼は見ないわけではない。法廷で密かに録音されていた事件前日の夫婦喧嘩のシーンで彼は実際に居合わせなかった現場を幻視しますし、終盤には生前の父の言葉を回想します*2

 

もうひとつ、彼は眼を持っています。

イヌです。

父親の遺体を発見するときに少年はボーダーコリーを連れているわけですが、それから警察が現着してからの騒ぎをカメラはこのイヌの目線の高さで捉えます。このイヌにも「視点」があることを提示しているわけです*3

どの登場人物にも依らず、ただ出来事だけを見つめる眼、それは劇中で唯一中立的な眼でもあります*4

裏を返せば、そのほかのカメラの眼はどこかで印象が偏っている、誰かの視線だということ。

 

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本格的な審理に入る前に弁護士は主人公に警告します。「真相は問題じゃないんだ」と。

他人からどう見えるかが問題であって、そういう意味では本作における司法は真実を希求する場ではない。さまざまな人物の視点を観客に提供する場です。

 

主人公はその視線に耐えられない。

自らの私生活をセンセーショナルにフィクション化して、半自伝作家として名声を博している彼女は言ってみれば、それまで一方的にまなざす側であったわけですが、それが完全に反転する。この人は殺人犯ではないか、この人は夫と不仲ではなかったか、この人はバイセクシャルではないか、この人は淫奔な不倫女ではないか……そういう目が法廷とテレビを通して彼女にそそがれます*5

月並みな言い方が許されるならば、観客もまたそのスキャンダラスな好奇の視線に参加しているのです。

途中で彼女は親密になりつつある弁護士の眼の奥底に潜む考えに怯え、「私をジャッジしないで」と乞います。法廷劇においては、かなり直截的なことばです。まさしくジャッジするのが裁判の場なのですし。

 

しかし、彼女がもっともおそれているのは裁判官の眼でも一般大衆の眼でも、あなたの眼でもありません。息子の眼です。見えないはずの彼の眼に、殺人犯としての自分が映るのをなによりもおそれています。

結局は、無罪か有罪かというよりも、少年がどう事件を捉えるか、というのが重要になってくる話なのですね。

 

 

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本作における眼やカメラが現在しか捉えられない、あるいは写真のように限定的にしか切り取ることのできない一方で、音や声は過去を保存できている、ように見える。

夫婦喧嘩の録音、冒頭のインタビューシーンの録音、主人公の書いた小説の朗読、そうしたものは生々しい即物性を帯びています。

しかし、それらもまた結局のところ、解釈のアングルによって印象が左右されてしまいます。この人はわるい妻だ、いや、悪いのは夫だ、この小説に書かれた文章は本心を反映している、いや、それはフィクションであって現実じゃない……ここでは音や声もまた不完全なメディアなわけです。

それは冒頭のインタビューシーン、主人公の声を記録する作業を夫からのノイズによって邪魔されるというくだりからも示されています。

 

本作における声でもっとも重要なのは、劇中で一度も話されない声です。ドイツ人である主人公の母語*6

ロンドンで出会ったフランス人と結婚してフランスに住む彼女は家庭内では英語でコミュニケーションを取り、裁判でも当初はがんばってフランス語を喋ろうとしますが、途中から英語に切り替えます。

夫との夫婦喧嘩のくだりでは、英語は彼女にとっての「中間地点(字幕では妥協点)」であると表現されます。完全アウェイであるフランス語よりは幾分か親しい位置ですが、それでもやっぱり英語は彼女のホームグラウンドではない。

 

山ほどある羅生門スタイル映画でも本作をユニークにしているところは、ここでしょう。

夫を殺したか殺していないかの真実は彼女だけが知っています。しかし、その真実は他人には不可視の彼女の内奥に隠されたまま、外に曝け出されることはない。彼女のドイツ語の声がそうであるように。*7

 


裁判結審後の中華料理店での打ち上げシーンで不自然にはさまるガラス越しのカットもそういうことなのです。

観客は彼女という存在を一枚隔てた側からしか観察することができない。彼女を怪物扱いする視線も、彼女に寄り添った視線も、彼女をただしく捉えることはない。

 

 

 

いや、ひとつだけ。

 

 


ラストカットを思い出してください。ベッドに眠りにつく彼女に寄り添ったのは誰だったでしょうか? 愛する息子? 庇護者となった弁護士? いや、そのどちらでもない。

 

 

イヌです。

 

 

曇りなく、いかなるジャッジもくださないがゆえに彼女にそばにいることができる眼。*8

 

本作を本年度でも最高のイヌ映画たらしめているのは、そういうところなのですよ。

 

 

 

 

 

 

*1:まあ、あと見たのちょっと前なので記憶違いなとこあるかも

*2:監督自身は「この映画には回想を入れなかった」と述べているにもかかわらず。あるいは私たちはこの発言を踏まえて、少年の"回想"をもう少し真剣に掘り下げるべきかもしれません。https://diceplus.online/feature/378

*3:三白眼が印象的なイヌですね。まさしく眼が剥き出しにされた存在です。

*4:たびたび本作の評で少年の視点や証言こそが無垢の真実と捉えているようなものもありますが、まあ解釈としては微妙なところで、私としては彼にもバイアスはかかっているように思われます

*5:あまり注目されないシーンですが、彼女の世界観と他者の視線がもっとも深刻に対立するのは夫のかかりつけだった精神科医の証言のシーンです。ふたりはどちらも確固たる夫のイメージを持ち、ゆずりません。

*6:mother-tongue

*7:ちなみに本作はフランス語、英語、ドイツ語の映画としてクレジットされていますが、ドイツ語のシーンは元の脚本に書かれているだけで、劇中からは削られているようです。

つまり、演出や編集として意識的にオミットしたことになり、そこにはもちろん意図があります。https://www.reddit.com/r/Oscars/comments/1ai6mut/when_in_anatomy_of_a_fall_was_german_spoken/

*8:それにしても女性がベッドでイヌとよりそっている映画は最近だとアキ・カウリスマキの『枯れ葉』でも見ましたね。

プレイヤーの破滅を目的とするゲームについて―『Balatro』の感想

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「塗辺くん」ふいに、真兎が言った。「もしかしてだけど、カードは――」
「「こことは別の場所にある?」」
絵空も声をそろえ、まったく同じ質問をした。


青崎有吾「フォールーム・ポーカー」


store.steampowered.com

インターネットは今日も平和

 インターネットは行き場のない叫びの行き場であり、神なきひとびとのための教会であり、どんなにみじめな嘆きもここではゆるされる。
 わたしはその夜、Redditを覗きに行っていた。Redditとはアメリカ最大の掲示板サイトで、いまどき掲示板なんて流行らないだろうと日本ではおもわれそうだが、なかなかな盛況ぶりを見せていて、2020年代に入ってもゲームストップ株をめぐる大騒動の震源地になったり*1、株式市場では本年度最大規模のIPOが見込まれていたりする*2
 魂が死んでいるときに寄るぶんには、よい場所だ。
 そして、こんなスレが視界に飛び込んできた。

https://www.reddit.com/r/truegaming/comments/1baj1nw/when_does_addictive_gameplay_become_a_bad_thing/

 スレッドのタイトルは「中毒的なゲームプレイはいつ害悪へと変わるのか? 『Balatro』の事例」。

 スレ主は、『Balatro』というゲームにいたく熱中していた。よくデザインされた、実にたのしいゲームである。それを数日のあいだに20時間ほどぶっつづけで遊んだあと、スレ主はきゅうにある恐怖に襲われるようになった。「自分はこのゲームで何を得られているんだろうか?」
 これは20年来のゲーマーであるスレ主が他のゲームを遊んでいるときには抱かなかった恐怖だった。Balatro はあきらかにプレイヤーを中毒にさせるようにデザインされている。実際、ゲームサイトや steam のユーザーレビュー欄には中毒に陥っていることを訴えるプレイヤーたちの(なかば冗談めいた)書き込みがあふれている。
 スレ主はこうした Balatro の中毒性を危惧した。ゲームはそもそも実際的な効用を伴わないものであるけれども、それでも良いアートであることはできるし、スレ主もそうしたゲームを期待する。Balatro のような、快楽中枢をひたすら叩き続けるようなゲームはたしかに楽しく魅力的であるけれども、どこか倫理に反しているような気がする。すくなくとも、子どもたちにはやらせたくない*3――。

 あらゆる問題提起がそうであるように、スレ主の感想に対しては賛否両論がわいた。「典型的な中年の危機だね。私のゲーム仲間たちも30代後半になると、多くがゲームに時間を費やすことに耐えられなくなって離れていったよ」「Dotaを1000時間プレイしたが、『NieR: Automata』や『Spec ops』をプレイした数時間のほうがよほど有意義に感じた」「Balatro は良心的だよ。買い切りゲームなんだから。デイリーやガチャのあるソシャゲやマイクロトランザクションのあるゲームのほうが凶悪だ」……。

 傍から見れば、スレ主は一見矛盾したことに悩んでいるように見えるだろう。ゲームで遊ぶことが一般的な意味での生産性につながらないことはわかりきっている(だからこその遊びなのだ)。なのに、この人物は「見返り」を得られないことに悩んでいる。あるいは、ゲームの「見返り」が”芸術”的な有意義さであるのならば、物語性の高いゲーム(RPGとかアドベンチャーとか)や習熟に時間を要するゲーム(ソウルライクやプラットフォーマー)をやればいいだけであり、それでも足りなければそもそもゲームなどやめたほうがよい。部屋を出ろ。本物の人生を生きるんだ。
 
 だが。

 わたしにはスレ主の気持ちが痛いほどよくわかった。
 なぜなら、わたしも Redditへアクセスする数分前に自分のPCから Balatro をアンイストールしたばかりだったからだ。

金銭抜きの純粋なギャンブル的中毒性



子曰、飽食終日、無所用心、何矣哉、不有博奕者乎、爲之猶賢乎已。
(先生がいわれた、「一日じゅう腹いっぱいに食べるだけで、何事にも心を働かせない、困ったことだね。さいころ遊びや碁・将棋*4というのがあるだろう。〔あんな遊びでも〕それをするのは何もしないよりはまだましだ。」)


論語』、金谷治・訳注、岩波文庫


Balatro はポーカーをベースにしたローグライトだ。公式には「ポーカーローグライク」と謳われている。ディーラーや他のプレイヤーを相手にするのではなく、その場にいるのはプレイヤーひとり。配られる手札を入れ替えたり入れ替えなかったりしながら役を揃えてスコアを得、一つのラウンドを突破するのに必要な目標点数を稼いでいく。ビデオポーカーからベット要素を差っ引いたものだ。
もちろん、カネもかかってないのに一人ポーカーするだけではおもしろくない。そこで Balatro は倍率に魔法をかけた。詳しいメカニクスは省くが(そんなに複雑でもないけれど)、手役の倍率は一ゲーム中で増加していく*5。ラウンドの合間にローグライトではおなじみのショップがあって、そこで手役やカードを強化して倍率を増やすことができる。

(Balatro のジョーカーのひとつ)

最も重要になってくるのが「ジョーカー」と呼ばれるカードだ。これは普通のポーカーと違ってワイルドカードとしてではなく、100種以上のジョーカーそれぞれに固有の特殊能力が付与されている。主には倍率を増やしたり、ショップで使える資金を増やせたりといった具合。
ジョーカーはゲーム外でスタックされ(基本五枚まで)、ワンハンドごとにその効果を発揮する。さらにジョーカー同士のシナジーが発揮されると、倍率はどんどん跳ね上がっていく。たとえば、最初ワンペアはだいたい最大でも60点ほどしかもらえないのだが、デッキ構築の手練次第で一撃で数万点は出せるようになったりする*6。これが気持ちいい。得点がカウントされるときの小気味よい演出もあいまって、脳から汁が出まくる。
先行作品をよく研究しながらデザインされたようで、プレイの流れも非常に洗練されている。まあ、そのへんの詳しいこと、具体的なゲームについてはググればいくらでも記事が出てくるので、そちらを参照していただきたい。あるいは実際に Balatro を買って遊ぶのもよいだろう。
いや、「よいだろう」ではない。

よくないのだ。

ぜんぜん、よくない。

わたしはあまり正直でもなければ、さほど道徳的な人間でもない。
しかし、だからといって、わざわざ自分のブログにアクセスしてなんだかよくわからない曖昧な文章を読んでくれる人間を地獄の釜の底に送り出すような真似はしたくない。たまにそういうことがしたくなる夜もありはするが、すくなくとも、今日ではない。


もちろん、Balatro は違法ではない。
というか、ギャンブルですらない。定価で1700円で支払えば、それ以上の金銭は求められない。正直、今後開発者が儲けを増やせるのかどうか、心配になるほどだ。DLCを売るにしても、ポーカーというゲームの拡張性のなさ、Balatro 自体の完成度の高さを見ると、何をDLCにすればいいのか。キャラグッズを展開するにしても、Balatro に出てくるキャラといえば、ジョーカーの大半に描かれた、どこか不吉さを漂わせる奇妙なピエロぐらいだ。
なにかのソーシャルゲームのように半年ごとに最高レアのキャラの引き換え券を5000円で買うように求めてくることもないし、なにかのソーシャルゲームのように盆暮れ正月クリスマスにガチャを回せと圧をかけてくることもない。

にもかかわらず、Balatro のデザインはあらゆる点でギャンブル的だ。あたかもギャンブルから金銭要素を抜いて中毒性だけを残したようですらある。そんなものを作ってどうするんだ、という気もするけれど、現にこうして存在する。

Balatro を語るとき、ひとは「ポーカーとローグライトとの融合」というくくりで、どうにかして「ゲーム」の範疇に引き入れようとする。実際、ローグライトとして取捨選択を的確に行ったデザインがなければ、Balatro の中毒性はありえなかっただろう。

それでもやはり、Balatro はそのデザインにおいてギャンブル的なのだ。カネも賭けられていないのに、そんなことが有り得るのか? 有り得る。それこそ、まさに Balatro が証明した達成なのだから。

Balatro におけるギャンブルのデザイン



「マシンに向かえばすべてを消去できる--自分自身だって消去できます」と言ったのは、ランダルという名のエレクトロニクス技術者だった。ギャンブルとは“ただで手に入るもの”を欲しがることだという一般的な考えとはうらはらに、彼は“無”こそを求めているという。先にモリーも言っていたように、だいじなのは、「ほかのいっさいがどうでもよくなる」〈ゾーン〉にいつづけることなのだ。


『デザインされたギャンブル依存症』ナターシャ・ダウ・シュール 、日暮雅通・訳、青土社



 建物からマシンまで、現代のカジノがいかに客を搾り取るように設計されているかについて刻銘に分析するノンフィクション本、『デザインされたギャンブル依存症』では、〈ゾーン〉を目指すギャンブラーたちの姿が描かれている。〈ゾーン〉とはかれらにいわせれば「台風の目に入ったような状態」のことで、「視界がクリアなのに、まわりでは世界がぐるぐる回っていて、何も耳に入らない。そこにはいない--マシンのそばにいて、マシンだけを相手にしている」ような感覚になるのだという。
 そうした境地において、ギャンブル行為はもはや勝つことを目的としない。続けることこそを目的とするようになる。
 重要なのは、速度だ。
 デジタル化されたスロットマシンとビデオポーカーは、プレイの速度を極限まで圧縮した。ディーラーや他のプレイヤーといった他者の存在を廃し、レバーやトランプカードをボタンに置き換え、チップをのやりとりを仮想空間上ですばやく行うようにした。プレイヤーが注意をはらうべき事象は劇的に減った。賭け、試し、結果を見る。そのプロセスを一定のテンポで繰り返していくうちにいつしかプレイヤーは〈ゾーン〉に入っていく。
 適切な速度を保つために、マシン上で表示される色、照明、アニメーション*7サウンド、空間の5つの要素が渾然となってプレイヤーの腹側被蓋野ニューロンを叩き続け、プレイヤーをスキナーボックス――脳に電極を埋め込まれたマウスが快楽を生じさせる電気刺激を求め、電気ショックのレバーを一時間に7000回も引いた箱――に閉じ込める。

(ラスベガスのビデオポーカー)

 もちろん、Balatro でも刺激が適切に配置されている。倍率がカウントされるたびにキン、キン、キンとリズミカルに鳴る金属音。ワンハンドで目標点数を突破したときに燃え上がる倍率ゲージ。跳ね上がっていく点数。カードを強化するパックを破るときの派手なエフェクト。メロウで起伏のない単調なBGM*8
 慣れたプレイヤーならオプションでゲーム速度を4倍速に変えるだろう。ラスベガスのビデオポーカーマシンが同時並行で三種から百種の手札をプレイできるようにしてスピードを何十倍にも増したように。〈ゾーン〉中毒者たちがたびたび速度に引きずられて判断ミスを犯すのとおなじように、最大速度で Balatro を遊ぶプレイヤーたちもミスでホールドするカードを間違えたり提出するハンドを勘違いしたり(フラッシュと思って出した手札に一枚だけ違うスートが混じっていたり)する。
 トランプや残り山札を前にして逡巡することはなくなり、あらゆる決断が半自動的に行われるようになる。思考も意識も勝ちも負けも等質にゲームの流れへ溶けこむ。勝ち負けがそんなに重要なことだろうか? 長期的に見れば、ギャンブルのプレイヤーはみな敗北を運命づけられている。エンドレスに続くタイプのビデオゲームもそうだ。『テトリス』のテトリミノはあなたを殺すまで加速しつづける。どんどん速く、速くなり。
 そうして、わたしたちは一日が二十四時間である〈ここ〉とは別の時間が流れる世界へと足を踏みいれる。〈ゾーン〉だ。*9
 自分という存在がゼロになる空間。
 そこが最終目的地だ。わたしはできるだけ、そこに留まりたい。
 しかし、無理だ。そこかで何かが狂う。適切なペースを保てなくなり、〈ゾーン〉に裂け目が生じてしまう。その裂け目から光が覗いている。気づく。朝だ。
 夜九時に Balatro を始めて、気がつけば、朝の五時になっている。
 わたしはさっき、うそをついた。このゲームは「ビデオポーカーからベット要素を差っ引いたものだ」と。とんでもない。
 賭けられているものは確実に存在する。時間だ。そして、まるごとかっぱがれてしまった。現実のギャンブルがそうであるように、だ。ボードレールが言うとおり、貪欲な賭博者である時間はいかさまなどに頼らずとも、あらゆる勝負を物にする。
 Balatro は狂っている。カジノならまだプレイヤーを中毒にする理由がある。金を無限に吸い取るためだ。繰り返しになるが、Balatro には、1700円を払ったっきりでおしまいなこのささやかなゲームには、わたしを底なし沼に突き落とす動機がない。完全な無差別な狂気以外に説明がつかない。純粋なる持続"のみ"を目的とした大量殺人鬼だ。そういえば、マスコットのピエロもなんとなく人を殺して笑っていそうな面構えをしている。

 怖いな、と感じてしまう。

 このゲームは、怖い。
 人生を無益な時間に費やしてしまった焦燥でも、実在のギャンブルをベースにした「非芸術的な」ゲームに淫してしまった罪悪感でもない。ピエロに対して恐怖症を抱いているからでもない。このゲームは、わたしが欲しいもの、ずっと心の底で欲しがっていたのに欲しいと口に出した瞬間に破滅してしまうなにかを知っている。
 だから、怖い。

ゲームには向かない人間



 何度でも初めからやり直すこと――これが賭博の理念の規定しているものである。だから、ボードレールにおいて秒針――〈秒〉――ーが賭博者のパートナーとして登場することには、厳密な意味がある。


 ヴァルター・ベンヤミンボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」山口裕之・訳、河出文庫



 ギャンブルはゲームではない。
 ほんとうにそうか? ギャンブリング・マシンの業界人は自分たちの機械のことを「ビデオゲーム」と呼ぶし、内部のシステムを考えるデザイナーは「ゲームデザイナー」と呼ばれる。
 そして、一般的な意味でのビデオゲームの側もギャンブルの技術を使う。

 最近の代表例は、Vampire Survivors だろう。
 スロットなどを扱うオンラインカジノでキャリアを始めた*10開発者の Luca Galante はそこで培ったノウハウを自作のゲームに持ち込んだ。The Verge誌のインタビューでガランテはこう語っている。



「スロットゲームはとてもシンプルです」と彼(ガランテ)は言う。「プレイヤーのやることはボタンを一つ押すことだけです。そして、ゲームデザイナーはそのボタンを押す(press)ようにプレイヤーの背中を押す(Push)方法を探し出さねばなりません。ボタンを押すたびにプレイヤーはお金を使うわけですからね。なので、サウンドやアニメーション、シーケンスの細部にまで細心の注意が払われます。基本的に、(デザイナーは)それらの要素がプレイヤーに与えるインパクトを最大限に引き出そうとします。私はギャンブル業界でその知識を吸収しました。だから、そうしたことを自分の作るゲームにあたりまえに適用したんです」


https://www.theverge.com/2022/2/19/22941145/vampire-survivors-early-access-steam-pc-mac-luca-galante



 Vampire Survivors をプレイしたものなら誰でもあの、宝箱を開けるときのパチンコじみた演出を網膜に刻まれていることだろう。そのときの多幸感も。だが、彼がギャンブル業界から輸入してきた手管がそれだけないことも知っているはずだ。なんといっても、Vampire Survivors はそのタイトル通り「生き延び”続ける”」ことを目的とするゲームであり、プレイヤーもそうするために何度も挑戦したくなるデザインになっている。

Vampire Survivors

 ギャンブルといえば、ピンボールはかつてアメリカ全土で禁止されていた。実際に金が賭けられ、ランダム性も高かったために、ギャンブルだとみなされていたのである*11。一九七六年、娯楽業界からニューヨークの市議会へピンボール解禁の嘆願が出され、それを受けて当時のニューヨーク市長の前でピンボールの達人、ロジャー・シャープがピンボールを実演することになった。彼は数々のショットやテクニックを市長と関係者の前で実演して見せて、ピンボールを「チャンス(運、偶然)ではなくスキル(技)に基づくゲームである」*12ことを実証した。
 スキルと運のバランスはゲームの競技性を測る指標でもある。eスポーツの大会の採用するタイトルを審査するならそこのあたりに厳密に気を配る必要があるだろう。だが、われわれが日常でなんとなく愉しむのであれば? パチンコにだってテクニックはあり、なんとなれば麻雀は究極のローグライトだ。
 偶然(アレア)と競争(アゴン)の交わるところでは、あらゆる遊びがゲームとギャンブルの境界線上にある。その重なる部分には共通した快楽が宿り、プレイヤーの心や脳の適切な部分を叩けばフローと〈ゾーン〉を生み出せる点ではさして変わらない。*13


 なにが言いたいのかって?


 結局のところ、Balatro をギャンブルにしているのは Balatro そのものではない、ということだ。
 わたし自身の技術的向上心のなさが Balatro を呪いをかけているのだ。
 Balatro にもプレイヤースキルの介入する余地はある。大いにある。経験でわかること(ジャック同士のシナジーやパックを買う優先順位や状況に応じた立ち回り)が増えていき、攻略していくことの喜びが用意されている。
 スキルフルなプレイヤーなら随所に散りばめられた有益なヒントを読み取っていけることだろう。残りの山札の内訳をワンクリックで覗かせて、現実のポーカーでは禁止されているカウンティング行為をゆるしてくれるし、現状のデッキ構成が苦しければ一試合スキップして立て直しの機会を与えてくれる。立ち止まって思考し、計算することができるプレイヤーは勇気という名のチップをベッドした本物の賭けを行える。それこそが Balatro の望むゲームのありかただろう。
 でも、わたしはそうはできない。プレイヤーとしてのわたしは単純な反復を好む。どんなゲームであれ、挑戦や新しい戦術の試行にはつい、腰がひけてしまう。ノータイムで捨て札を選択し、ひと呼吸のあいだにわかりやすく高得点なハンドを選び(そしてミスる)、常に似たようなジョーカーと戦略を選び、そして前とおなじように6番目か7番目のアンティで崩壊する。このスキナー箱は7000回の確実な破滅をもたらしてくれる。持続する終わりの感覚。
 わたしはソシャゲのシナリオをスキップしてガチャを回すだけのゲームにしてきたし、ローグライトゲームをひたすらパーマネントレベルアップ要素を貯めるための無の周回を繰り返すゲームにしてしてきた。麻雀とはひたすら自分の手牌に注視し絵合わせをするゲームであり、SEKIROは門番に無限回殺されて終わるゲームだ。
 ゲームにおけるわたしの学習曲線はいつも死人の心電図のように真っ平らだ。
 こんな態度で Balatro を走りつづけるのはゲームに対しても失礼だろう。やめるべきだ。やめろ。やめた。アンイストールした。Balatro をライブラリから削除したぞッ!
 今後はもっと健全な人生を生きよう。
 自己を研鑽し、子どもを育て、イヌを飼い、毎朝の庭の芝刈りをかかさず、ご近所とはさわやかな笑顔で挨拶を交わし、週末にはバーベキューをやる。SEKIROにもちゃんと再挑戦して、芦名なんたらをどうにかする。Elden Ring のDLCが出るまでにどうにかする。自分を高めろ。上昇しろ。無になるな。
 ソシャゲのシナリオもちゃんと読もう。エデン条約編で涙できる大人になろう。
 おっ、そういえば、最近始めた Limbus Company のログボを今日はまだもらってなかったな……Steamを立ち上げねば……
 

>

ア、アンイストールしたはずのおまえがなぜ……??
< 

た、たすけっ……
〜完〜

 

 

 

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/GameStopのショートスクイズ

*2:https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-03-11/SA6R66T0AFB400

*3:ちなみに Balatro は実際に Switch で年齢レーティングの不備を理由に一時的に販売を禁じられた。https://www.gamespark.jp/article/2024/03/04/139015.html

*4:博がすごろくのような遊びで、奕が囲碁

*5:稀に減ることもある

*6:ゲームのデザインとしてはデッキ構築型というよりは、Wingspan のようなエンジン構築型と形容したほうが適切な気もするのだが、公式にはデッキ構築ローグライクと称されている。

*7:「一九九〇年後半に考案された(ダイナミックプレイ・レート)は、ユーザーがゲームプレイのペースをコントロールできるようにした革新のひとつだ。これはビデオ・ポーカー機(ファントム・ベル)に搭載された機能で、メインのプレイ画面の上にある補助画面に、カードディーラーの手のアニメーションだけが映る。ディーラーの手は、プレイヤーのペースに合わせてゲームを進めていく。つまり、動きが遅いプレイヤーにはゆっくりカードを出し、動きの速いプレイヤーには素早い手さばきで対応し、最も速いプレイヤーのときにはディーラーの手自体がえてしまうのだ。」。ゲームの速度調整がプレイヤーとゲームのあいだにコミュニケーションを生む」同書より

*8:リズムに変化のないスローな曲は、消費者の行動を調整しやすく、〈機能的音楽〉とも業界では呼ばれる。こうしたものもゾーンを維持する助けになる。

*9:「〈マシン・ゾーン〉における時間は、クロノス的時間ードゥルーズガタリの言う“物と人の位置を定め、形をつくり、主体を決定する“標準時間”ーから逸脱して、“イベントの無期限の時間”に従う。それは“相対的な速さと緩慢さ”によって測られ、ほかのモードにおける時間が前提とする“時計や時系列の価値から独立した”時間だ。ミハイ・チクセントミハイも同様に、〈フロー〉活動の時間は自身の体験に“適応する”のであって、その逆ではないと考えた。」同書, 位置No4761

*10:https://www.youtube.com/watch?v=XQVdR8mJrds

*11:https://en.wikipedia.org/wiki/Pinball

*12:吉田寛デジタルゲーム研究』第六章より。ギャンブルとゲームの境界を探った論文のひとつでもある。

*13:『Palworld』なんかこのへんがよく出来てましたね。

越えていく物語たちのポリフォニー――ゲーム『未解決事件は終わらせないといけないから』に影響した作品について

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(注1:本記事はゲーム『未解決事件は終わらせないといけないから』、小説『白光』『新参者』『終わりの感覚』、映画『ファーザー』の軽度〜中度のネタバレを含みます)
(注2:基本的には、『未解決事件』をクリアした人に向けて書かれた文章です。なに? まだやってない? 傷ついたことがないならそれでいいけど。まあ二時間くらいで終わるのでサッと買ってやっちゃいなよ。)

store.steampowered.com



 なぜ小説を書きたいのだろうか。それは小説を読んだからだ――という形で、「読む」ということと「書く」ということを、結びつけてみようと思ったのである。


 後藤明生『小説――いかに読み、いかに書くか』アーリーバード・ブックス



物語は越境します。ときには言語を。ときにはジャンルを。ときには時代を。ときには媒体を。
ひとつの作品をひもといて見るとき、それはすでに複数の物語をはらんだ集合体なのであって、真に孤立した物語というのは存在しません。あらゆる物語は越境の行先地であり、出発点でもある。その事実自体はなんら興奮をもたらす問いではない。
なので、問題となるのは、それがどのような仕方で越えられているか、ということなのです。


今年一月にリリースされた韓国産ミステリーADV、『未解決事件は終わらせないといけないから』(以下『未解決事件』と略)。過去に起こって迷宮入りしていた少女誘拐事件をめぐる、記憶と物語、そしてひとりの人間たちの再生の物語を独特なゲームシステムで描き、話題を呼んだ作品です。
そのユニークさや内容はさまざまなところで紹介されているので、いまさらここで改めては語りません。


www.4gamer.net
(ゲーム内容について知りたいかたはこちら)




さて、『未解決事件』の開発者であるSOMIが、日本のゲームニュースサイトのインタビューに答えてこんなことを言っていました。



――本作の開発にあたって影響を受けた作品はありますか?

Somi:主に小説からインスピレーションを受けています。ゲームのクレジットにもありますが、韓国の小説家キム・ヨンスが書いた「濡れずに水に入る方法」からインスピレーションを受けました、 この小説は、他人に対する無条件の優しさについて書かれています。また、ミステリー部分では三木彦連蔵の小説「白光」から、ドラマティックな部分では東野圭吾の小説「新参者」から多くのヒントを得ました。


『未解決事件は終わらせないといけないから』の最大の特徴は、プレイすることで安らぎを得られること―人気短編ADV多数手掛けるクリエイターSomi氏【開発者インタビュー】 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト



三木彦連蔵ってだれだよ、連城三紀彦だろがい、直木賞作家やぞ、という翻訳部分でのツッコミはすでに散々なされているであるのでともかくとして、これは実はかなりクリティカルな回答だったりします。
映画にしろゲームにしろクリエイターがインタビューで出してくる「影響を受けた作品」なんてのは、たいてい刺身のツマ程度の参考にしかならないのですが、『未解決事件』に関しては「あれ、『新参者』と連城の『白光』なんですよ」と言えば既読者なら膝を打つはず。実際、わたしの身の回りにいるミステリオタクも膝を打ちすぎてゴリランダーになっていました。*1

というのも、『白光』にはこんな一節が出てくるんですね。



そんな風に自分が起こした自殺未遂事件のことさえちゃんと説明できずにいる僕が、今度の事件のまだ未解決の部分を……たとえば誰がどんな動機で僕の大切な……大切な娘を殺害したか……あの正月の一つの「家族の風景」が今度の事件にどうつながり、一人の罪のない少女を死へと追いつめたか……説明するために警察を訪ねてきたと言っても、信じてもらえないかもしれませんね。
でも僕は今日、やっと勇気を出して真実を語りにここへ来たのです。



連城三紀彦『白光』光文社文庫(no.1227)
(太字は筆者による強調)



まさに「未解決事件を終わらせないといけないから」。いや〜、こういうのを見ると……嬉しくなっちゃいますよね。なりませんか? 🙋読者「なるなる〜」  👍御同意ありがとう!

作者のブログでは、ほかにもアンソニー・ホプキンスのオスカー受賞で話題になった*2『ザ・ファーザー』なども参考作にあげられています。もちろん、ゲーム本編のエンディングに引用文献として紹介されるジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』やキム・ヨンスの作品も忘れてはいけません。

いってみれば、『未解決事件は終わらせないといけないから』は複数の異なる国のフィクション、そして複数の異なるメディアの交差点でもあるわけです。ボルヘスが言うように、引用とは言語のシステムであるわけですが、同時に書き直す(リライト)ことでもある。
作者が影響を公言しているこれらの作品群は『未解決事件』において実際どのように作用していったのか。

ひとつずつ、見ていきましょう。

連城三紀彦『白光』

連城三紀彦の『白光』はこんな話です。
聡子という主婦が妹の幸子から娘である直子を預かります。カルチャースクールへ出かける、というのが幸子の大義名分でしたが、実は不倫相手の大学生・平田とあいびきするためであることを聡子は知っていました。そして、聡子が家に直子とボケかかっている舅の桂造を残し、娘の佳代と買い物に出かけているあいだに直子が行方不明になってしまう。直子の父親である武彦や聡子の夫である立介も直子の捜索に出るのですが……

と、まあ、ここまでおわかりのとおり、扱う範囲が”家族”なわりに登場人物がやたら多い。三世代で二組の家族が出てくる。しかも、かれらの関係と感情の矢印が錯綜しまくり、それがまた物語のダイナミズムとなっていくので、ちょっとあらすじとしてまとめにくいんですよ。しかし、これはミステリなので、「ネタバレ防止」というエクスキューズをもってサボることができる。楽ですね。
とはいえ、四行五行程度のあらすじでも『未解決事件』との関連はいくつか見て取れるはずです。
まずなにより、少女が、それも娘であり孫でもある少女が失踪する事件であること。痴呆症気味の老人が出てくること。さらに物語が進むと、前に示した引用部からも読み取られるように、ある人物が警察に自首します。ここも共通していますね。細かいところでは、「つま先立ちして塀の向こうにいる子どもを覗く」という行為も。

(自白司法制度の国では事件解決の図)

しかし、『未解決事件』が『白光』からなによりも受け継いだのは、その語りの部分です。前述のSOMIのブログでは*3こう述べられています。
『白光』からは、一つの事件に注がれる複数の異なる視線がもたらす反転の魅力を学んだ」、と。
ミステリ作家の綾辻行人が、かつて「逆転の小説」であると形容したように*4、連城作品はとにかく構図が逆転反転しまくります。長編はもちろん、短篇でもおかまいなしに三回も四回もどんでんがえりまくる。そうして、最初に見えていた絵が最後には完全に別物となって立ち現れてくる。
そんな連城式の「逆転」を可能にしているのが語りの操作です。特に『白光』ではとにかく視点がせわしなく切り替わります。正体不明の老人(のちに桂造と判明)の一人語りに始まり、聡子、武彦、立介、幸子、平田……人物だけでなく人称も一人称と視点人物よりの三人称を自在に使い分け、しかも視点の切り替わりも章分けでなく一行空けでポンポンやってくる。
登場人物たちは平凡な生活な上で決して表に出さない「秘密」――この場合はある人物のある人物に対する想い――を抱え、その「秘密」同士がすれ違い、観測者である読者の想定を裏切りつづけていく。
『未解決事件』は、なるほど、連城作品の「反転の魅力」をスマートに翻訳にした語り口であるといえるでしょう。

東野圭吾『新参者』

『白光』とならんで日本のミステリ小説からの参考作としてあげられている『新参者』は、「ドラマティックな部分」(インタビュー)あるいは「事件をめぐるキャラクターたちの態度」に影響を受けたと語られています。
東野圭吾はいまさら説明もいらない国民的ミステリ作家で、『新参者』も有名作ですが、いちおう概要を説明しておきましょう。

まあたしかにこんな顔力(かおぢから)の「新参者」刑事が来たら一発で地域になじみそう

探偵役をつとめる刑事・加賀恭一郎(ドラマや映画では阿部寛が演じています)という男がおりまして、そのシリーズ八作目です。
東京は日本橋の警察署に異動したてほやほやの加賀。その彼があるマンションの一室で起きた中年女性殺害事件を追う連作短篇……であるはずなのですけれど、ちょっと構成が奇妙なんですね。
最初の方はわりと殺人事件と直接関係あるようであんまりない、料亭の小僧さんを加賀がコロンボ的な陰湿さでいじめる小咄だったり、ちょっと泣かせる人情噺のような短篇(もちろんミステリですが)などが続きます。読み進めていくにつれ、加賀は被害女性に近しい人物に寄っていき、彼女を取り巻いていた人間関係や物語が浮き上がってくるのです。
この構成は意識的に組まれている。加賀は下町の「新参者」として「誰もが見向きもしないような些細なことに拘り、たとえ事件に無関係だとわかっていても、決して手を抜かずに真相を突き止めようとしてきた」*5からこそ、最終的な真相を解決までに持っていく最適な一手を見抜き、そのためにただしく動けるようになるのです。
途中、加賀はミステリの探偵役としてあまりに寄り道をしがちなことに、あるキャラからメタ的な疑義を呈されます。それに加賀はこう答える。



捜査もしていますよ、もちろん。でも、刑事の仕事はそれだけじゃない。事件によって心が傷つけられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手だてを探しだすのも、刑事の役目です*6



これはミステリの探偵役としては異端な思想です。事件そのものを解決してこその探偵なのですから、そこから派生した事件にまで関わる必要は、本来であれば、ない。
しかし、こうした加賀の態度、「ある悲劇的な事件が起きた場合、その”被害者”は直接的に加害された当人だけではなく、”事件”もまたひとつだけに留まらない」という考えは『未解決事件』における登場人物たちの扱いに通底しています。
悲劇に関わったすべての人間を救済すること。それは『未解決事件』でも間違いなく意識されているテーマであるのだとおもいます。
そして、「だれもがだれかのために『秘密(嘘)』を抱えている」というコンセプトも。


ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』

「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信だ」という引用によりエンディングで参考文献として銘記されているジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』ですが、単に一文を引用したという以上に、『未解決事件』に深い影響を及ぼしています。


https://pbs.twimg.com/media/GEy-utjaMAAlReL?format=jpg&name=large


『終わりの感覚』は、ひとりの老人が自らの半生を振り返る回想の物語です。
あるとき、主人公のトニー老人のもとにある人物から遺産の一部を譲り渡すという報せが届きます。その人物とは、大学生時代に恋人だった女性ベロニカ……の母親。
トニーは訝しみます。というのも、元恋人の母親とは40年前に一回だけ会ったきりだったからです。遺贈される品にはお金だけでなく、トニーがかつて敬愛していた友人エイドリアンの日記も含まれていました。これまた奇妙です。たしかにエイドリアンはトニーとベロニカが別れた後、ベロニカに付き合いだしていました。そして、大学卒業間近になったころに唐突に自殺してしまっていたのです。その彼の日記をなぜベロニカの母親が?
疑問を抱きながらも、彼は親友の死の真相がかかれているかもしれない日記を手に入れるため、かつての恋人ベロニカと40年ぶりに会おうとします。
その過程で、彼は高校時代のエイドリアンや、大学時代のベロニカとの記憶を思い出すのです。それは未熟で恥ずかしい思い出ですが、老人となった今では懐かしく甘美なものでした。
ですが、どうしてもエイドリアンの日記を引き渡そうとしないベロニカと駆け引きを繰り返すうちに、彼女からこんなことばを投げつけられるのです。「あなたってなにもわかっていないのね。昔から、そうだった……」

新潮クレスト・ブックスという海外文学のレーベルから出ているとはいえ、ミステリ的な要素をもつ小説であるので、過度のネタバレはよしておきましょう。
しかし、『終わりの感覚』を一言で表すなら、「人生において、他者も自分も、なにひとつ、全然わかっていなかった人間の話」です。

こうしたことを踏まえて、『未解決事件』の「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信だ」の前後の会話を見てみましょう。主人公である「清崎蒼」が彼女の前に現れた警察官(「審判者」とこの場面では呼称されている)と会話する場面です。



審判者「『歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信だ』と言います。」
清崎蒼「どういう意味ですか?」
審判者「あなたは『全然わかってない』って意味です。」



『終わりの感覚』のなかでこのセリフが出てくる文脈もまた『未解決事件』を読み解くうえで示唆的です。
これは高校時代に早熟の哲人であったエイドリアンが授業中に先生から「歴史とはなにか?」と問われた際に言ったセリフ*7なのですが、彼はその実例として先に女性を妊娠させたことを苦に自殺した同級生を引き合いに出します。
妊娠させたガールフレンドがいたらしいということからその同級生の死についてわかった気でいるが、しかし自分たちの手元にあるのはかぎられた情報だけで、もしかしたら他にも死に至る動機や理由もあったかもしれない……時間が経って彼のことを記述したいとおもったとき、そんな彼をどう書けばよいのか。
一方で、先生は賢しらな若者にこう返します。



問題だとはわかる。だが、フィン君*8、君は歴史というものを――ついでに歴史家というものを――見くびっている。仮に哀れなロブソン君*9が歴史的興味を掻き立てる存在だったとしよう。歴史家が直接的証拠の不足に直面するなど、いまに始まったことではない。むしろそれが当たり前だ。だが、今回の件では検屍が行われているはずだな。ならば検屍官の報告書があることを忘れてはならん。ほかにも、ロブソン君は日記をつけていたかもしれんし、手紙を書いたかもしれん。
誰かに電話をして、その内容が相手の記憶に残っているかもしれん。ご両親は寄せられたお悔やみの手紙に返事を書いているだろう。いまから五十年後、現在の平均寿命からすると、君ら生徒諸君もかなりの人数が生き残っていて、聞取り調査に応じられるだろう。君の想像ほど手に負えない問題ではないかもしれんよ




このかれらのやりとりは、『終わりの感覚』のその後の展開に深く関わってきます。
そして、もちろん『未解決事件』にも。
記憶はたしかに曖昧になっていくし、十分な情報を得られないこともあるかもしれない。しかし、早々に悲観して諦めず、丹念に記憶を掘り出し、証拠書類を探し出して突き合わせれば、わたしたちはいずれ「真相」にたどり着ける。それは『未解決事件』においては、悪しきニヒリズムに屈しない態度へと昇華されています。

(『未解決事件は終わらせないといけないから』より)

そして、『終わりの感覚』では老いと記憶についてこうも語られます。



年齢が進むにつれ、その感覚と思いは鈍ってくる。記憶は重なり合い、行きつ戻りつし、虚偽の記憶が充満してくる。若ければ、まだ短い人生の全体を思い出すことができるが、老人の記憶は断片の集まりや継ぎはぎになる。記憶は、飛行機事故を記録するブラックボックスのようなものだ。墜落がなければテープは自動消去される。何かがあって初めて詳細な記録が残り、何事もなければ、人生の旅路の記録はずっと曖味なものになる。



「最初にキャラクター(と読者)の想像していた構図がひっくり返され、その画が衝撃となる」という点では、『終わりの感覚』は、連城作品同様、『未解決事件』の手触りとよく似ています。欠落したりバラバラになった過去の記憶と、その再構成への試み、あるいは後悔の意識、という点でも共通している。
読んでいるときの印象という点では、どの参考作よりも『未解決事件』に近いかもしれません。

とはいえ、「老いと記憶」というテーマについて、直接的にモチーフに取られている参考作はほかにもあります。
映画『ファーザー』です。


ロリアン・ゼレール監督『ファーザー』


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『ファーザー』はそのものずばり、認知症により記憶の混濁した老人(アンソニー・ホプキンス)を主人公にした作品です。
この映画から『未解決事件』は開発者曰く「認知症にかかった老人のもつれた記憶と歪んだ現実認識という、ゲームの根幹をなす構成を得」たのだそう。

どういうことか。

『ファーザー』では、アンソニー・ホプキンスの主観で話が進んでいきます。一人暮らしをしていた偏屈な老人のもとに娘のアンがやってきて、恋人のいるパリに移住すると言い出す。見捨てられたのか……と老人が悲嘆に暮れていると、家のソファに見知らぬ男が座っている。「あんた誰だ」「誰って……ポールですよ」どうもポールはアンの夫らしいのですが、さきほどアンから「恋人ができたのでパリに引っ越す」と言われたばかりの老人は(視聴者といっしょに)戸惑います。やがてアンが帰ってきたので「お前の夫のポールを見た」と彼女に告げると、「夫? 夫なんていないけど?」と不思議がられ……
とまあ、このような感じでどんどん錯綜していきます。認識している記憶の時系列がめちゃくちゃに入れ替わり、ある人物だとおもっていた者が別の人物としてズラされていく体験はたしかに『未解決事件』の「ゲームの根幹をなす構成」に巧妙に翻訳されて導入されているといえるでしょう。

『ファーザー』において、アンソニー・ホプキンスはひたすら混乱していく自らの現実認識と記憶について、こう訴えます。「すべての葉を失ったようだ……枝や風や雨が……もうなにがなんだかわからんよ……
そして映画はおだやかに風に揺れる木々のカットで終わります。
こうした記憶や人格としての木のイメージは『未解決事件』でも、反転したポジティブな形として、継承されているように思われます。
よく「twitter的」と評される『未解決事件』のインターフェイスですが、個別の発言や発話者を入れ替えることで発言の「ツリー」をつくりあげていく作業がそのゲームプレイとなっています。
年月や精神という風雨によって散ってしまった葉や枝をかき集めて、樹木を再生していくこと。
作者のSOMIは、『ファーザー』のあまりにあわれなアンソニー・ホプキンスを救いたいという気持ちがあったのではないか。

まとめのようなもの

ここまで挙げた作品はいずれも「記憶」や「秘密」の話です。記憶や秘密の話でないミステリなんてまずほとんどないので、それ自体はカロリーのない言明ですが、その記憶をどう再構成するかで各メディアで違いが出てきます。
ミステリには探偵役というものがいて、終盤でそれまでバラバラで断片的だった証言や証拠を時系列に沿ったリニアなプロットして提示します。これが解決と呼ばれる行為です。この解決の作業をゲームのシステムに取り込んでプレイヤーを強制的に参加させるのがミステリゲームといえます*10。まあ例外はある。例外はいくらでもあるのだが、今この瞬間はそういうことにしておいてください。
『未解決事件』もそうした「ミステリ小説への読者の能動的な参加」というゲームのうちではあるのですが、注目したいのは、ゲーム内において再構成されるのは実は「事件のプロット=誰が犯人で、どのように犯行が行われたか」ではなく、「各証言者におけるタイムライン=事件の関係者の物語」であるということです。
最初は不審だったり距離のある感じを出していた人物が、実はひとりの人間であったと識る。それは『未解決事件』が上記参考四作から共通して受け継ぎ、ビデオゲームならではの語り口として翻訳されたエッセンスだったのではないでしょうか。

エンディングで示されるSOMIからのメッセージも、そうした態度を証しているのだとおもいます。



「各自図生*11」が答えだと誰もが言う
弱肉強食が然だと言い張り怒りと嫌悪を帰る時代
その中で揺れ動き時には嘲笑され見下されても周りを見て連帯できるみなさんを私は心から応援したい
他人に理由なく優しくしたとき
それまで存在しなかった物が新たに作り出されて人生のプロットが変わると信じながら私はこのゲームを完成させた



国やジャンルや媒体を越えて、わたしたちは影響されあっている。越えてきたものは、その都度、適切な語り口、適切な物語へとアダプテーションされていくわけですが、確固として変わらない部分もある。
そうしたなにかをつないでいくことこそが、読むという行為であり、作るという営為なのではないでしょうか。


補記:読めなかった参考作

冒頭部のインタビューでも触れられていたように、『未解決事件』では韓国人作家のキム・ヨンス(金衍洙)の「「젖지 않고 물에 들어가는 법(ゲーム中の日本語訳では「濡れずに水に入る方法」)」も直接の引用として出てきます。:「他人に理由もなく優しくしたとき、存在しなかった物が新たに作り出されて今までの人生のプロットが変わります」
この小説はキム・ヨンスが23年に出したばかりの短編集である『너무나 많은 여름이(「あまりにも多くの夏が」といったような意味らしい」)』に収録されている作品で、現状未邦訳であり、当然読めません。
どうもコロナ禍の状況が強く反映された作品集であるらしく、おなじくコロナ禍が思索の起点になったという『未解決事件』と通じるところがあるようです。
キム・ヨンス自体は日本でも近年の韓国文学ブームを受けて著書がものすごい勢いで訳されまくっているので*12そのうち、この短編集も出るといいなあ。

(クラゲネタはSOMIの娘がクラゲ大好きで「絶対ゲームに入れて」と頼まれたから入れたらしい)

ちなみに作者はこの記事で取り上げた作品以外にも引用やオマージュをたくさん仕込んでいると語っているのですが、それを発見するのはプレイヤーの楽しみのひとつであろうということで明かすのを我慢しているのだとか。そうしたものを探していったら、また『未解決事件』の読みのアングルも変わっていくのかもしれませんね。

*1:オタクはよくゴリランダーに進化します。気をつけましょう。

*2:なぜ"話題になった"かは各自ググって調べてください

*3:Google翻訳が韓国語ビタイチできない私を騙そうとしてしないかぎりにおいて

*4:逆説というより、もっと分かりやすい”逆転”ですね。「実は逆だったのだ」という構図が、いったいどれだけ連城作品の中に出てくることか。象徴的な意味での”逆”に限らず、もっとあからさまな”逆”がいっぱい!」(『連城三紀彦 レジェンド2 傑作ミステリー集』講談社文庫)

*5:p.389

*6:p.253

*7:『終わりの感覚』の劇中では、『歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信だ』はパトリック・ラグランジュというフランス人の言葉とされています。しかし、本書の訳者あとがきによれば、ラグランジュは作者ジュリアン・バーンズがでっちあげた人物の可能性が高い。「バーンズのミドルネームがパトリックであり、ラグランジュを英訳すればバーン(Lagrange→la grange→the barn=納屋)になるのだから、パトリック・ラグランジュジュリアン・バーンズ本人と考えて間違いあるまい。」

*8:エイドリアンのこと

*9:自殺した生徒

*10:成功している例は少ないですが

*11:「各」々が「自」分で「生」き残ることを「図」る、というような意味の韓国の熟語らしい。社会競争の熾烈さを伺わせる

*12:わたしは『世界の果て、彼女』くらいしか読めていませんが


2024年上半期の新作映画ベスト10

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最近は映画に刺激を受けることもなくなったな……とおもっていたのですが、今日トッド・ヘインズの『メイ・ディセンバー』を観て、こんなギリギリのプロットを画の力だけでこれほどまでに押し通せるものなのかと感動し、少し前まで出す気もなかった上半期のベストを並べる気になりました。いい映画というのは、映画の原義について考えさせてくれるものですね。

1.『ゴッドランド/GODLAND』(フリーヌル・パルマソン監督、アイスランド

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上司から「アイスランドに教会建てろ」って言われたデンマーク人の牧師が、湿板写真の機材をえっちらおっちらかつぎながらマジでなんもない大地に教会を作ろうとする。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『フィツカラルド』の風格を具えていますが、もうすこし世知辛い。この世知辛さがいいんですね。画面も当時の写真の規格に合わせたような窮屈な画角になっていて、そんな世界で馬や人が不毛の地に呑まれて死んでいく。特定のだれかやなにかの悪意に苛まされるわけではなく、強いて言えばアイスランドという途方もない空白が人間を叩きのめしていく。牧師はずっと「デンマークに帰りたい帰りたい」としかぼやかない。
世にも最悪な「走る馬(マイブリッジの)」オマージュが出てくるんですよね。*1写真の映画(なにせ「この映画はアイスランドで発見された七葉の写真を着想とした」というウソ字幕が出る)でもあるし、アンチシネマでもある。信仰も科学も生命も文化も、すべてここでは無力なんだ。

2.『アイアンクロー』(ショーン・ダーキン監督、米)

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プロレス一家もの。といっても『ファイティング・ファミリー』みたいにハッピーな感じではぜんぜんなくて、ほとんどホラーじみた陰惨な悲劇を淡々と描いていく実録バイオピック。
あまり撮り方の巧い映画ではないんだけれど、題材がどストライクです。強権的な父親の下でプロレスエリートとして育てられる三人の兄弟たち。幼い頃は無邪気に戯れていたかれらが成長するにつれて才能の格差や父親からの期待の差なんかでボロボロになっていく。ブラザーフッドの崩壊はつねにうつくしい。この映画もまた例外ではありません。

3.『TALK TO ME トーク・トゥ・ミー』(フィリッポウ兄弟監督、オーストラリア)


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去年公開だけど今年観たので。
ジェイムズ・ワン以降といっていいのか、「異界」としてのあの世とつながる映画はいくらも出てきたけれど、この映画はそのつながり方の描写が群を抜いている。

4.『夜明けのすべて』(三宅唱監督、日本)

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フラジャイルな主人公のモノローグで映画がはじまったときは逃げ出したくなったんですけれど、そこで見切らなくてよかった。モノとことばの往復がていねいな映画。救われる気概のあるひとたちが救われていく。映画にしかつけないうつくしいうそです。

5.『ゴジラ×コング 新たなる帝国』(アダム・ヴィンガード監督、米)


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近年ではマイケル・ベイの『アンビュランス』なんかもそうだけれど、「映画ってこれでいいんだ」と開き直らせてくれる作品に弱い。ひたすら前に向かって疾走しつづける映画は、停止ボタンのない映画館でしか存在できない。それってすごいことですよ。

6.『美しき仕事』(クレール・ドゥニ監督、仏)


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1999年の作品の日本初上映。初めてドゥニ作品を観たのは『ハイ・ライフ』で、こんな退屈極まる映画を撮る監督なら今後二度と観なくてもいいかとおもっていたのですけれども、予告編がたまらなく魅力的だったので本作を観に行きました。大正解。フランス外国人部隊の男たちがひたすら肉体と醜い嫉妬心をぶつけあう(ときにはマッパで)映画です。
太陽と肌を佳く撮る作品も少なくなりつつあります。

7.『恋するプリテンダー』(ウィル・グラック監督、米)


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『マイ・エレメント』もそうだったけれど、最近はクラシックモダンなロマコメの波が来ている。自分のなかだけで。世間的にはクラシカルなロマコメはあんまり求められてない風向きなので、出たときに貪るのが吉かも。あとエンドロールが最高。マジで。

8.『チャレンジャーズ』(ルカ・グァダニーノ監督、米)


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ときおり正気じゃないカットの挟まる感情と時間のラリー。あんまりノッてないときのグァダニーノに近いんだけど、役者のパワフルさでどうにかしている。

9.『システム・クラッシャー』(ノラ・フィングシャイト監督、ドイツ)


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救いたくてもけっして救えないハズレものを救うにはどうすればよいのか→どうにもなんねえよね、というあられもない現実をなお希望があるかのように見せかけられるのが映画の美点。

10.『落下の解剖学』(ジュスティーヌ・トリエ監督、仏)


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最後のひと枠は『リンダはチキンが食べたい!』でもよかったんですが、イヌがよかったので『落下の解剖学』に軍配があがりました。適度なコンシャスさと適度なアートハウスっぽさに少々のポップさを加えた仕上がりはいかにもカンヌ好みだけど、そのバランスであまりいやらしくはないところもいい。去年のアカデミー作品賞ノミニーのなかではいちばんかな、とおもっていたんですが、最近観た『ホールドオーバーズ』に鞍替えしました。
proxia.hateblo.jp

*1:「走る馬」といえば、劇場版ウマ娘ジャングルポケットのやつでも冒頭のシーンでウマ娘版「走る馬」が出てきますね。

『インサイド・ヘッド2』の感想、あるいはディズニー/ピクサーにとっての続編とはなにか。

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 歴史とは復活である。

 ――ジュール・ミシュレの墓碑銘

【これまでのあらすじ】

2024年、夏。
日本人の大半はピクサーの新作に対する興味をほぼほぼ一切完膚なきまでに喪失し、ティーンの女子がバンドを組むアニメや、ティーンの女子がバンドを組むアニメ(2)や、ティーンの女子がバンドを組むアニメ(2)や、青い髪のティーンの女子が負けるアニメや、ティーンの女子がバンドを組む山田尚子の新作などにうつつをぬかしていたものの、わたしは幼少時に受けた恩義からピクサーに対する義理を失っていなかった。
かれらはかれらの外向きの欲動を、わたしはわたしの内向きの欲動を食らって生きている。
というわけで、『インサイド・ヘッド2』を観に行った。

ピクサーは「復活」したのか。

昨年のいまごろ、ピクサーはほぼ「終わったスタジオ」扱いされていた。
ディズニーの配信プラットフォーム重視の戦略に振り回されて本来劇場で公開すべきだった三作の完全新作(『あの夏のルカ』『ソウルフル・ワールド』『わたし、ときどきレッサーパンダ』)をDisney+に流したのち、劇場へのカムバックとなった『バズ・ライトイヤー』と『マイ・エレメント』でどちらも歴代ピクサー作品でも最低クラスの興収を出してしまった。
昨年の各種メディアの記事の見出しもその事実を物語っている。「『マイ・エレメント』は沈みゆくピクサーのメタファーである」(ニューヨーカー誌*1)、「ピクサー新作の大コケは魔法を再生するのにディズニーが苦労している証拠」(フィナンシャル・タイムズ*2)、「ピクサーはまだ死んではいないが、生命維持装置につながれた状態にある」(スクリーンラント誌*3)。
YouTuberたちもこぞってピクサーの凋落を取り上げ、その原因を続編商法、ラセターの追放、パンデミック、ある種の「暗さ」を失ったこと、親会社ディズニーの経営方針、他スタジオの伸長、情熱や創造性の欠如などに帰した。。
とりわけ、批判されたのが続編商法だ。前述の記事でスクリーン・ラント誌のサラ・リトルはこうしめくくっている。「現在制作中の『トイ・ストーリー5』と『インサイド・ヘッド2』は、あきらかに不要な続編だ。この二作はもしかすると以前のピクサーのきらめきをいくらか取り戻してくれるかもしれないが、あるいはただ失敗するだけかもしれない。ただ時間のみぞ結果を知る」……。

そうして、2024年7月。『インサイド・ヘッド2』が公開され、その「結果」が出た。世界興収15億ドル突破。アニメーション史上最高の興収*4をあげたのだ。

この商業的な大勝利はピクサーの復活を意味しているのだろうか?

(公開時の大コケスタートからのちに多少盛り返したとはいえやはりコケてしまった『マイ・エレメント』。傑作ではないかもしれないけれど、不当に低く評価されている良い作品)

創造性の破綻としての続編、必要悪としての続編

ピクサーは金のために続編をつくる。
そうした物言いは『モンスター・ユニバーシティ』や『ファンディング・ドリー』や『マイ・エレメント』を観もせずに今日のピクサーのありようをディスっているワケ知り顔のカスどもの戯言に聴こえるし、実際わたしはそうした文言をSNSで見かけるたびに頭のなかのカナシミとイカリがあばれだすのであるけれど、残念ながら真実でもある。
なぜなら、本人たちがそう公言している。

続編は創造性の破綻」である。かつて、そう述べたのは、ピクサーの共同創業者エド・キャットムルで、同時にそれはある種の必要悪である、とも彼はいう。

合併の前後、オリジナル映画と続編のバランスをどうとろうかと検討していた時期があった。作品を気に入ってくれた人はその世界の物語をもっと見たいと思ってくれるのはわかっていた(言うまでもなく、マーケティングやグッズの担当者は売りやすい映画をほしがる。その意味で続編は手堅い)。しかし、続編しかつくらなければ、ピクサーは千からびてしまう。私は続編を創造性の破綻のように思っていた。
オリジナル映画のほうがリスクが高くとも、新しいアイデアを次々と世に送り出す必要がある。続編をつくればそこそこの興行成績が約束されるため、オリジナル映画で冒険する余地ができると考えた。オリジナル映画を毎年一本と続編を一年おきに一本、または二年間に映画三本のような組み合わせが、財政的にも創造的健康という意味でも妥当であるように思えた。

――『ピクサー流 創造するちから 小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法』ダイヤモンド社


「冒険」のための「健康」を保つ作戦。それが続編だ。
実際、ピクサーは映画を矢継ぎ早に作り続けなければならなかった。
ディズニーと三本分の契約を結んで長編制作を開始した当初、ピクサーは四年に一本のペースを想定していた。当時のピクサーは年に300万ドルの売上しかないRenderMan、TVCMくらいしか主な収入源がなく、株主価値はマイナス5000万ドル。創業オーナーだったスティーブ・ジョブス自身の個人的な持ち出しによってなんとか会社の体をなしているという悲惨な状況だったものの、ディズニーの奴隷じみた契約(CFOだったローレンス・レビー曰く「買収せずに子会社化したようなもの」)によって長編の制作費用だけは全額ディズニーの負担で成っており、とりあえず「作るだけ」なら悠長なペースでも許された。制作ラインをひとつしか持たないアニメーション会社としては、極めて妥当なペースでもあった。
が、ピクサーは一本目から成功しすぎた。初長編の『トイ・ストーリー』が爆発的ヒットを飛ばし、その直後にIPOを果たし、ほとんど一夜にしてディズニーに対抗しうるトップスタジオに成り上がって”しまった”。*5
上場した以上は株価を上げつづけなければ――前年以上の成功と成長をつづけなければならない。それが資本主義の掟だ。

そうしたわけで、ピクサーは一年に一本ペースのリリースを強いられることとなる。ディズニーによる買収後はさらにその傾向が加速していく。実際、98年の第二作『バグズ・ライフ』以降は27年で27作の長編を送り出している。2015年〜24年までの直近10年間に限れば14作品だ。2年に3本ペースに近い。*6
インサイド・ヘッド2』まででピクサーの続編作品は10作品。そのうち9作品は2010年の『トイ・ストーリー3』以降のもので、ここ15年に限ると18作のうち9作品、すわなち半分が続編となる。
キャットムルが想定した比率、「オリジナルと続編で3:2」を超過している。

(直近で大コケした続編(正確にはシリーズスピンオフ)『バズ・ライトイヤー』。「『トイ・ストーリー』に出てくるバズ・ライトイヤー人形の元ネタになった映画(だったっけ?)をやる」という複雑怪奇なコンセプトで、ピート・ドクターだったかがインタビューで「いやあ、あそこまで需要ないとはおもわなかったよ」とか言っていた。)

ディズニーと続編

ピクサーの幹部たちは、インタビューで「なぜ、続編を作ることになったのですか?」と訊かれると、「わたしたちは一作目であまりにキャラや世界を緻密に作ったために一作だけでは語り足りなかったんですよ、ハッハッハ」などと答えがちだ。『ファインディング・ドリー』のときのアンドリュー・スタントンもそうだったし*7、今回のピート・ドクター*8もそうだった。かれらはかつてラセターが率い、ジョブズがクリエイティブを一任したオリジナルの「ブレイントラスト」*9の中心メンバーだった。
創造性あふれるベテランクリエイターたちの言がまったくうそっぱちとはおもわないし、『ドリー』は実際そういう話だったとおもう。

一方でピート・ドクターは創造における苦労が続編を生むとも吐露している。
独創性のあるアイデアを思いつくのはむずかしい。そして、それを売る場合、単に独創的なだけでなく観客の共感を得なければならない。その一見矛盾するようなアイデアを出していたのが初期のピクサーだった。

『自分が部屋にいないときにおもちゃがひとりでに動く』とか『クローゼットのなかにモンスターがいる』といったことは誰しもが夢想します。わたしたちはそうした、誰しも一度は思いつくものの物語の核として使われたことのないようなアイデアをいまだに探し求めているのですが、28作も映画を作ったいまではそうした鉱脈を掘り当てるのも困難です。
https://time.com/6986308/inside-out-2-peter-docter-interview/

そして、続編があふれるのは制作者ではなく観客の怠惰の問題だとも指摘する。

誰もが「なぜピクサーはもっと独創的なアイデアをやらないのか?」と言います。ところが実際にわたしたちが独創的なことをやろうとすると、人々はそれに親しんでいないので、見ようとしません。続編なら、「ああ、見たことある。あれ、大好き」といって見に来ます。
https://time.com/6986308/inside-out-2-peter-docter-interview/

観客は口では新規性を求めるが、本当に新奇な作品はとっかかりがなくて見に行かない、というのはたしかに一面では真実ではある。


一方で、ピクサーの続編制作ペースが親会社であるディズニーの近年の傾向と同調しているのは事実だ。
たとえば、2015年の『シンデレラ』から正式に始まったディズニー・クラシックスの実写リメイク路線*10
実写リメイクは、ティム・バートンの『ダンボ』などの一部の例外を除けば、申し訳程度に現代性を付与した挑戦のない無味無臭の作品にすぎず、『ライオンキング』『わんわん物語』『リトル・マーメイド』など喋る動物をフィーチャーした作品に至ってはフォトリアルな動物がセリフをしゃべるさまがグロテスクなMAD動画にしか見えない。

だが、商業的には哀れな『ダンボ』以外おおむねヒットしており、特に『アラジン』『ライオンキング』『美女と野獣』の三作は世界興収が10億ドルを超えている。さっき見た並びですね。そう、95年の『トイ・ストーリー』以前に国内興収1億ドルを突破したことあるの数少ないアニメーション映画、ディズニー・ルネサンス期の名作たちだ。これらはビデオの普及によって家庭での映画鑑賞が世界的に容易になった最初期の作品でもある。親たちは幼少期に映画館やビデオで観てすでにそれらが名作であること、安心して子どもに見せられるストーリーであることを知っていた。だから、映画館に子ども連れが詰めかけた、というわけだ。
むしろ、「原作」*11とおなじであること、創造性を発揮しないことがヒットの要因となった。
リメイク版『シンデレラ』企画の直接のきっかけとなったのは、2010年の『アリス・イン・ワンダーランド』(『不思議の国のアリス』の後日譚)のヒットだと言われている。2010年が『トイ・ストーリー3』の公開年だと考えるなら、不気味な符号だ。

アメリカにおける映画やアニメーションは、数年から五年スパンで企画される。『トイ・ストーリー3』は企画自体は2000年代初頭から存在していたものの、現在の形で本格的に始動したのは2006年のディズニーのピクサー買収直後のことだったし、『カーズ2』は2006年の『カーズ』公開ワールドツアーのさいにラセターが着想した。
皮肉な話ではある。というのも、ディズニー傘下でなかった時代のピクサーは、続編制作の権利をディズニーに握られていた。当然、ディズニー側はピクサーの続編で商売しようと目論み、2004年にはサークルセブンというピクサー続編専門のスタジオまで作った。このスタジオの存在はラセターやスタントンといったピクサークリエイティブ幹部からは目の敵にされ、案の定、ラセターがディズニーのCCOの座につくや、駆逐された。ちなみに、そのサークルセブンで練られていた続編企画とは『モンスターズ・インク2』、『ファインディング・ニモ2』、そして『トイ・ストーリー3』で、そのときの案がサークルセブンお取り潰しで廃されたあとにあらためてそれぞれ一から構想をリブートしたという。*12
そうした経緯を踏まえると、『トイ・ストーリー3』『ドリー』『ユニバーシティ』あたりはディズニーによる抑圧への反発から進んでつくりたがっていたのかもしれない。主観的な判断になるけれど(特に『ドリー』を評価しないファンは多い)、この三作はピクサー続編の中でもクオリティが高い。

現在のピクサーのクリエイティブのトップであるピート・ドクターは「自分は実写リメイクはやらない」と公然とディズニーのリメイク路線に対する批判を口にしているし、買収以来、ピクサーとディズニーは「別物」として距離を取っている様子は伺える。だが、やはりどういいつくろったところでピクサーはディズニーの所有物なのだ。なんとなれば、『トイ・ストーリー』を作るために事実上の専属契約を結んだときからずっとそうだった。

わたしたちは、ディズニーが買ったIPをどう扱ってきたかを知っている。『スター・ウォーズ』がどうなったか、20世紀FOXがどうなったか、そしてマーベルがどうなりつつあるか、もう知っている。

そして、市場の成長主義の論理は映画界の覇者となったディズニーすら縛る。
2023年、ディズニーは配信事業戦略の失敗(会員量値上げで百万単位の加入者を失った)とハリウッドのSAGAFTRAストライキに伴う興行不振による大幅な収益低下に見舞われた。

貧した大企業は安全策を取ろうとする。

2000年代のディズニーがそうだった。90年代の勢いを失ったディズニーはディズニートゥーン・スタジオというスタジオを立ち上げて、ビデオで『シンデレラ2』『リトル・マーメイド2』などといった過去作の粗悪な続編を乱発し、ファンの不興を買った*13
ディズニーのCEOボブ・アイガーはすでに「今後はオリジナルより続編を重視する」と公言している。「なぜなら、既存のタイトルはすでにみなさんに親しまれており、マーケティング費用も安く済むからです」。*14*15
2023年のディズニーが経営を立て直す策として、投資家たちに送った企画中のタイトルはこうだった。『モアナ2』、『アナと雪の女王3』、『ズートピア2』、そして、『トイ・ストーリー5』……いずれも近年のヒット作の続編だ。*16
今年はすでに『オーメン』と『猿の惑星』と『デッドプール』の続編をやった。そして『エイリアン』、『モアナ』、3DCG版『ライオンキング』の続編(なにしてんだ、バリー・ジェンキンス)が控えている。
ちなみに、『猿の惑星』、『オーメン』、『デッドプール』、『エイリアン』はどれももとは20世紀FOX
いまや、ディズニーはより巨大なディズニートゥーン・スタジオになりつつある。

デッドプールウルヴァリン』より


ディズニーとはなにか。あらゆる外部をみずからの王国に併呑しようとするイデオロギーのことだ。
それこそ、あらゆる伝記の証すとおりウォルト・ディズニーの遺志でもあり、どれだけ企業体質が変わっても今なお受け継がれている欲望だ。
単にIPだけについて言っているのではない。『ポカホンタス』からこの方、不器用なりにマイノリティを包摂しようと努力していることすら、おそらくはある程度までは純粋といえそうな現場レベルの善意ですら、そうして領有されていく。ディズニーにとって続編とはそのための武器のひとつだ。

中国の妖怪で、あらゆるものを食らう貪欲の化身、ドン(犭貪、トンとも)のようなものだ。放っておくとついには自分まで食らいだす。*17
最近のディズニーの好物は、自らの過去とした他人の過去だ。セルフリメイクやセルフパロディはある種のノスタルジアと受け取られがちだけれども、他人の過去である『デッドプールウルヴァリン』や触れられないほど遠くなった自らの過去であるクラシックス実写リメイクの手触りは、懐かしさからどこかかけ離れている。他者や他の時代から簒奪されたものに、ディズニーテイストを付け足したときの、あのプラスティックな手触り。ノスタルジー抜きのノスタルジー

マーク・フィッシャーは他人や他の時代といった自分が直接に経験していいないものへの代理的で表面的なノスタルジーレプリカントノスタルジアと名付けた*18が、ここにはもはやノスタルジーと錯覚しうる感傷すら存在しない。葡萄酒がキリストの血の味に感じられないように。
ほんらいはまったく異なる作品であるはずの『デッドプールウルヴァリン』と『ウィッシュ』が似た味わいを与えるのも、偶然ではない。すべてはディズニーランドの物語であるからだ。自らの過去への郷愁と、アメリカの未来への欲望と、他人の創造をすべてひとつの領域に封じようとしたあの狂気のつづき*19
50年前にアリエル・ドルフマンとアルマン・マトゥラールが指摘したディズニー世界の構造は今なお、今だからこそ有効なのかもしれない。「ディズニーの世界は、十九世紀的な孤児院なのである。しかし、この孤児院には外部というものがない。孤児たちには逃げ出す場がない。この世界のキャラクターたちは、あちこちへ何度も移動し、あらゆる大陸へ旅行し、熱に浮かされたように流動するにもかかわらず、同一の権力構造のなかに決まってとどまり、あるいはそうした構造に必ず回帰する」*20
キャラクターたちだけなく観客であるわたしたちはその王国から脱けだせず、既知だったり未知だったりする記憶を食いつぶしていくしかない。
ドンが宇宙と自らを食らい尽くした末に残すのは、果てしない虚無だ。そして、『デッドプールウルヴァリン』を観ればわかるように、今日においては虚無すらもかれらの領地であったりする。


インサイド・ヘッド2』について:語りを不要とする続編

(以下は『インサイド・ヘッド2』についてのネタバレを含みます)

ディズニーの話になってしまった。ピクサーに戻そう。個別の作品について語ろう。本来なら、それ以外について書くべきではない。
インサイド・ヘッド2』はどうだったのか?
それは前作の不完全なエピゴーネンであるともいえる。
それは予定調和を破壊しようとして破壊しきれず予定調和におさまってしまった物語であるともいえる。


前者の話からはじめよう。前作『インサイド・ヘッド』と、『インサイド・ヘッド2』のプロットはよく似ている。

1のあらすじはこうだ。サンフランシスコに住む少女ライリーの頭のなかに棲まう擬人化された感情たちが、元気いっぱいのヨロコビ(Joy)をリーダーに戴いて”司令部”でそれぞれ情動を調整し、日々ライリーの幸せを希求している。感情たちのなかにはヨロコビにとって不要とおもわれる比較的新参のカナシミ(Sadness)もいて、彼女と折り合いがうまくつけられないのでいたのだけれど、ひょんなことからふたり”司令部”の外に放り出されてしまい、帰還のためにライリーの心のなかを冒険することに。一方ライリーの身にもただならぬ事態が起きてしまい……という感じ。

2のあらすじはこうだ。サンフランシスコに住む少女ライリーの頭のなかに棲まう擬人化された感情たちが、元気いっぱいのヨロコビ(Joy)をリーダーに戴いて”司令部”でそれぞれ情動を調整し、日々ライリーの幸せを希求している。そこにシンパイ(Anxious)などを筆頭に思春期を迎えたライリーのあたらしい感情たちが入ってきて、ヨロコビは自分からしたら一見不要とおもわれる彼ら彼女らとうまく折り合いをつけられないでいた。そんなあるとき、シンパイはヨロコビら古参の感情たちを追放して”司令部”の外へ放り出す。ヨロコビたちは帰還のためにライリーの心のなかを冒険することに。一方ライリーの身にもただならぬ事態が起きてしまい……という感じ。

アバウトなアウトラインが前作と続編で似るのはめずらしいことではない。
トイ・ストーリー』だって1も2も「偶然な事故から持ち主の少年とはなればなれになったウッディが、その少年のもとに戻るまでの冒険を描く話」といえば変わらないし、『ファインディング・ニモ』と『ファインディング・ドリー』はどちらも「親と生き別れになった子どもがその親を探しに行く話」という点では共通している。物語構造が似るのは脚本家がなまけているせいではなく、その構造自体が作品のコンセプトやアイデンティティと結びついているからだ。

問題は1から2でどう変わったか、もっといえばより深く掘り下げられたか、という点だ。続編は前作との偏差で語られる。*212では1での達成を土台にするのがふつうだ。ふつうなのだが。

この前提が、『インサイド・ヘッド2』ではそもそも崩れている。
ヨロコビは前作で得た「自分の理解できないネガティブそうなものも実はライリーのためになっている」という学びを忘れているように見える。シンパイとの対立は陥れられた面が強いからまだいいにしても、自慢気に披露される不要な思い出を排除する装置はどう受け止めればいいのだろう。一方でときどき彼女は前作での学びに留意するようなアピールもやるので、こいつはなんなんだ、とおもってしまう。
だけど、まあ、それはいいだろう。前作で成長した主人公が学びをリセットされる続編ですばらしい作品など、いくらでもある。細かなキャラクターの不整合など、ストーリーの力強さで押し切ればいい。

いやしかし、その物語がまたおぼつかない。
第一作目では不本意な旅の道中でヨロコビがカナシミの重要性に気づき和解していくプロセスが細やかに描かれ、サブプロットにライリー本人の意識に上らない幼年期との別れがエモーショナルに挿入された。それらが十年たった今でも記憶に残るのは、作品全体の結論と強力に結びついたドラマであったからだ。まさに『インサイド・ヘッド』の設定下であったからこその感動だった。
けれど、『2』における感情古参勢の珍道中はなにもかもばらばらで薄味だ。一部のギャグはまだよいにしても、展開やキャラの感情は唐突で物語全体に対する有機性を欠き、印象に薄い。

感情側の物語の主軸となるシンパイとの対立にしても、一作目のヨロコビとカナシミのような発展的解決を見せるようで見せない。いや、いちおう解決する場面はあるのだけれど、なんかこう、なし崩し的というか至極あっさりしている。
展開にしろキャラにしろこのうつろさの元凶ははっきりしていて、まあ、キャラが多すぎる。古参感情勢と新規感情勢を合わせると単純にキャラが二倍。コンセプト上、ただでさえ90分そこそこのランタイムをライリー本人の物語と半々にしないといけないところに、倍のキャラたち。回せるわけがない。*22

というか、そもそもうまく物語を回そうとした形跡も見当たらない。
監督や脚本家はインタビューでたびたび「思春期に到来する感情としての不安を中心に据えた」と強調する。プロデューサーのマーク・ニールセンは「わたしたちは不安に対して正直になる必要があった。不安は最初は悪役に見えるかもしれないが、どこかに追いやるべきものではなく、和解すべきものだ。」*23という。
たしかに物語上はヨロコビたちはシンパイと和解し、融和するだろう。だがそれは物語の流れの必然としてそうなったのではなく、制作者がテーマとしてそのようにあるべきだと決めたからにしか見えない。
そこが、前作のヨロコビとカナシミとの和解と異なる部分だ。
インサイド・ヘッド』シリーズはきわめて観念的で抽象的なコンセプトの作品だ。だからこそ、丁寧なストーリーテリングと地に足のついたキャラクターを必要とし、実際1ではそれに成功した。
ところが2では抽象的なコンセプトを抽象的なままに、感情や人格とはこうあるべきだからこうなりました、という映画にしかなっていない。キャラクターと物語を必要としないのであれば、なぜ映画にするのだろう?

わたしのこうした幼稚な疑問の答えは興行成績をもって答えられている。
それで映画になるからだ。
ライリーパートの思春期あるあるネタと、脳内パートで感情たちが感情のまま動くこと。それだけでダイレクトに観客の経験に訴える。
物語はスクリーンの中にあるのではない。観客の頭の中に、記憶のなかに存在するのだ。だから、べつに本編のストーリーテリングがぎこちなかろうが、観客の側で補完してくれる。それこそが『インサイド・ヘッド』のコンセプトの強みだ。

記事前半部で引用したピート・ドクターの続編に関する諦念に似たことばを思い出そう。観客は、一人の例外もなく、未知のものより既知のものを好む。わたしたちが『インサイド・ヘッド2』を観るのはそれが新規IPではなく続編だからであり*24、映画館の暗闇でしか目撃しえない新鮮味のある挑戦的な物語だからではなくわたしたちの経験した物事について反応できる映像だからだ。

いちおう、制作陣がスクリーンの中で爪痕を残そうとした形跡はある。ラストのヨロコビの結論は「自分たち感情よりも『大きなもの』がある」と受け取ることができるもので、それは彼女たちのアイデンティティを根幹から破壊しうるアイデアではあった。自分たちの存在意義を突き詰めて自己の殻を破る話はわたしも好きで、ファンから蛇蝎のごとく嫌われている『トイ・ストーリー4』を評価する理由もそこにある。
が、けっきょく、『インサイド・ヘッド2』では殻をやぶって無限の彼方へは行きはしない。それはやはり、本編の物語での細部でのタメが不足していたからだ。飛んでるのではない。カッコよく落ちているだけ。
もっとも、おもちゃたちと違って感情に自分のアイデンティティについて疑いを持ってもらっても困るので、やはりコンセプトの範疇に収まってよかったのかもしれない。


おわりに

ともあれ、ディズニー/ピクサーはかれらの戦略の正しさを証明した。:
「続編は売れる」。
この認識において行き着く先はピクサーもまたリメイク・続編工場となりはてるディズニートゥーン化であり、かつて彼らの唾棄したサークルセブン化だろう。なればこその「復活」だろうか。

ピクサーの次なる公開作品は『星つなぎのエリオ』。監督脚本は、『リメンバー・ミー』のエイドリアン・モリーナ。『リメンバー・ミー』はピクサーの非続編作品のなかで劇場でヒットしたと言える*25最後の映画だ。もう七年も前になる。
インサイド・ヘッド2』は現在のピクサーを延命した。
そして、『エリオ』が未来のピクサーの試金石になることは間違いない。
そこにあるのはヨロコビか、カナシミか。


*1:https://www.newyorker.com/culture/cultural-comment/elemental-is-a-tearful-metaphor-for-pixars-decline

*2:https://www.ft.com/content/b50259e7-67d1-44ae-a749-636139cc5855

*3:https://screenrant.com/pixar-movies-what-went-wrong-problems-explained/

*4:現時点では3DCG版『ライオンキング』が若干上な気もするが、なんにせよ歴代一位になることは確実。

*5:ローレンス・レビー『PIXAR<ピクサー>世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』文響社

*6:おそるべきは、それだけのハイペースで発表されたにもかかわらず、ほとんどの作品が大ヒットしたことだ。95年の『トイ・ストーリー』公開以前、長編アニメーション映画で国内興収1億ドルのラインを突破した作品は、『ライオンキング』『アラジン』『美女と野獣』『ポカホンタス』、そして実写とのハイブリッドである『ロジャー・ラビット』だけだった。言うまでもなく、すべて本家ディズニー作品だ。インフレーションを考慮にいれる必要があるとはいえ(2024年現在は国内興収1億ドルではアニメーション分野の歴代トップ100にも入れない)、このディズニーの牙城を始めて打ち破ったのが1.9億ドル稼いだ『トイ・ストーリー』であったことは特筆に値する。以降、コロナ下での公開となった『1/2の魔法』などの一部の例外を除き、毎作基本国内2億ドル以上のヒットを飛ばしている。もっとも近年の制作費は2億ドルほどが基本なので、世界興収で6億ドル稼ぐ必要があり、コロナ以降はなかなかこのハードルを(そもそも三作続けて配信スルーになったこともあり)越えられずにいたが、今回『インサイド・ヘッド2』が世界興収15億ドル越えというアニメーション史上最高のヒットを飛ばしたこともあり、ピクサーの「復活」を印象付けた。

*7:ファインディング・ドリー』パンフレット

*8:現在のピクサーのクリエイティブのトップ

*9:ストーリーを決めるための脚本会議のようなもの。のちにディズニーが模してストーリートラストを作った

*10:ちなみにクラシックスの実写での語り直しは14年の『マレフィセント』、実写リメイクそのものは96年に『101』でそれぞれすでにやっていた。

*11:ディズニーアニメの大半は原作つきであるけれども、ここではリメイク元映画の意

*12:スタントンは『トイ・ストーリー3』をあらためて練り直す際に、サークルセブンで書かれた脚本は「あえて見なかった」とさえいっている。よほど嫌っていたのだろう。https://web.archive.org/web/20070401075040/http://www.ew.com/ew/article/0,,1204709,00.html

*13:この悪習を一層したのがディズニー/ピクサー合併によってディズニーのCCOも兼任することになったジョン・ラセターで、こうした改革によりディズニーアニメは90年初頭以来の輝きを取り戻し第二次ルネサンス期を現出する

*14:https://www.cartoonbrew.com/feature-film/disney-and-pixar-will-lean-on-sequels-in-near-future-says-ceo-bob-iger-241096.html

*15:こうした方針にはもちろん近年高騰の一途をたどる映画製作費の問題も考慮する必要があるだろう。ピクサー映画ももはや制作費が2億や3億では効かなくなりつつある。3億ドルの制作費を回収するのは10億ドル規模の興収が必要だ

*16:https://screenrant.com/disney-sequel-strategy-studio-teamup-plan-scared/

*17:蒼天航路』にそんなかんじで描いてあった。

*18:https://k-punk.org/now-wait-for-last-year-again-or-how-king-kong-wiped-my-memory/

*19:ディズニーは取り込んだ他者をすべて「ディズニフィケート」していく。ディズニー/ピクサーの凋落の話題によく比較対象にされるソニーの『スパイダーマン:スパイダーバース』はこうした文脈においてこそ引き合いにすべきだ。異なるマルチバースからやってきた異なるテクスチャのスパイダーマンたちが不調和な形で併存する世界。もっとも、それはソニーが王国に足るだけの資本力を持っていないだけなのかもしれないけれど。

*20:アリエル・ドルフマン、アルマン・マトゥラール、山崎カヲル・訳『ドナルドダックを読む』昭文社

*21:『フュリオサ』の語りに鈍重さをおぼえるのは『マッド・マックス:怒りのデスロード』のあの昂奮を憶えているからだし、『クワイエット・プレイス:DAY1』のジャンプスケアを排した観念的な語り口を許容できるのもこれまでの二作でそういうものをしゃぶり尽くしたと知っているからだし、『怪盗グルーのミニオン超変身』になんの希望も抱かないで観に行けるのも『怪盗グルー』がなにかを期待できるようなシリーズでないと知っているからだ。

*22:キャラ増加による弊害はもうひとつある。一作目に愉快なビートを形作っていた、ライリー以外の人間キャラたちの脳内の感情たちによるやり取りがほとんど行われなくなった。おそらく、下手に出すと「え、でもこいつら前作にはいなかったじゃん。大人の脳内なら前作からいたはずだけど……」と前作と矛盾が起こしてしまう。もっともそこは制作陣も自覚しているようで、クレジットシーンのおまけでなんとか辻褄を合わせてはいる。しかしおおっぴらに使えなくなったのは痛かった。

*23:https://pocculture.com/interview-disney-and-pixars-inside-out-2-director-kelsey-mann-and-producer-mark-nielsen/

*24:もっといえば、どこの馬の骨ともしれない会社だからではなく「ピクサー」だからであり

*25:それでもピクサー全体の成績でいったら下位に属するが

37歳のネコは親でもおじさんでもなくて、まるで天使のようだ――映画『化け猫あんずちゃん』について

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 さりながら諸君よ、感じやすく、子供のごとく純粋で、おれのように誠実な心の持ち主である諸君よ、いうまでもなく諸君のためなのだ。

 ーーE・T・A・ホフマン、石丸静雄・訳『牡猫ムルの人生観』




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死んだ母親たち、使えない父親たち、外されたネコ。

 なぜネコに頼むのか、という疑問がある。
 アニメ映画『化け猫あんずちゃん』の話だ。

 片田舎に建つ草成寺にすみつく化け猫・あんずちゃんは、寺の和尚さんから彼の孫である小学生、かりんちゃんの世話を頼まれる。かりんちゃんの父は、声が青木崇高*1であることからも察されるようにまあだらしない父親で、借金取りから逃げまわるあいだ、娘を父である和尚さんにあずけたのだった。
 ここにかりんちゃんを取り巻く三世代ぶんの家族があるわけだけれど、「家族」と呼ぶにはあまりにもやる気がない。なぜなら保護者としての親がひとりも存在しない。

 かりんちゃんの父はねんがらねんじゅう借金とりに追い回され、性格も軽薄で、悪い意味で親としての威厳がない。娘からも「哲也」と名前で呼ばれている。続柄が代名詞になる日本語空間においては、ややおちつかない扱いだ。親しみから親を名前で呼ぶ家庭はあるだろうが、かりんちゃんの場合は侮蔑とまではいわないまでも、あきらかに「敬意を払うに値しないから」という含意が読み取れる。

 その父の父でかりんちゃんの一応の預け先になる和尚さんも、小学生の保護者としてはすこし弱い。
 アウトサイダーばかりの劇中では屈指の常識人として描かれ、かりんちゃんことは気に掛けてやさしくしてはあげている。あげているのだが、存在すら初めて知ったばかりの孫にとまどいを感じているのか、じかに接するとなると、おこづかいをあげて町で遊ばせるぐらいのことしかできない。お話を通しても、あまり保護者という感じがしない。
 では、母と祖母はどうなのか。いってしまえば、どちらも死んでいる。特に祖母は原作では健在であり、生きていればかりんちゃんの保護者となりえたはずの存在だったのだが、映画化にあたって死んだことにされてしまった。
 かりんちゃんの母親は、映画化によって追加されたキャラだ。かりんちゃんはこの母親を恋しがり、何度もその想い出を噛みしめ、ついには再会のために地獄までおもむくことになるのだけれど、まあともかく死んでしまっている。

 父親たちは頼りなく、母親たちは喪われている。そんなかりんちゃんの「めんどうを見る」存在としてあらわれるのが、化け猫あんずちゃんである。

 それにしても、なぜネコなのか。
 フィクションにおけるのネコの表象といえば、自由・無責任・孤高あたりだろうか。
 たとえば、『ヤニねこ』の主人公ヤニねこはヤニを空気のように吸って生きているだけの社会不適合者だが、ネコである。こうしたキャラクターは、他の動物では成立しない。タバコをくゆらせているドーベルマンは警察関係者なんだろうな、という印象を抱かれるだろうし、ペンギンがシーシャを吸っていると潜水能力に影響するのではないか、とハラハラされる。

(にゃんにゃんファクトリー『ヤニねこ』講談社


 実際、『化け猫あんずちゃん』の共同監督のひとりである久野遙子もパンフレットのインタビューでこう語っている。「猫の無責任さって、人の無責任さとは全然意味が違うんです。猫に責任がないのは普通のことだから。そのフラットさがあんずちゃんのキュートなところですね」。

 子どもの世話をする、その保護者になる。それは人類にとり、もっとも重大な責任を課されるタスクのひとつだ。そんな仕事をあえて無責任の象徴たるネコにおしつける。

 しかも、だ。あんずちゃんは、オスである。劇中でもたびたび、たまぶくろが強調されている。オスのネコは、基本的に子育てに参加しないことで有名だ。ますます保護者に不向きすぎる。

 そもそも原作にはかりんちゃんなどという小学生は出てこない。かりんちゃんの母親同様、映画版で追加されたキャラだ。保護者不在の哀しい女の子など、いましろたかしの世界にはいなかった。

『あんずちゃん』にいたるまでの「おじさん」映画の系譜

 本作の共同監督を久野とともにつとめた山下敦弘は、『あんずちゃん』とよく似た映画を以前に撮っている。
 2016年の『ぼくのおじさん』が、それだ。

(『ぼくのおじさん』)


 北杜夫の原作(1972年)でちまたに知られる本作は、小学生である「ぼく」とその叔父である「おじさん」(松田龍平)の交流を描く。
「おじさん」は哲学講師であるのだけれど、受け持つ講義は週に一コマだけで、ほかになにをしているのかよくわからない。「ぼく」の一家の居候として無駄飯を食らい、マンガ雑誌を「ぼく」にたかろうとする。とくに人格的に輝く面を持っているわけでもない。ろくでもない野郎である。

 そんな無為徒食の「おじさん」は、たびたび「ぼく」の親から「ぼく」の面倒をおしつけられるのだけれど、ここでもあまり大人としての保護者力を発揮しない。「ぼく」からは適度にかろんじられていて、どちらかといえば友だち感覚に近い。かといって、小学生である「ぼく」と30前後とおぼしき「おじさん」では完全に対等な友だちということもありえず、なんとも独特な関係を築いている。この距離感は、いかさま、『あんずちゃん』っぽい。


 そして、映画の構成も似ている。この『ぼくのおじさん』は、前半で「おじさん」と「ぼく」の日常描写パート、後半からはガラリと舞台をハワイに移してのわりとしっかりしたドラマパートに分かれている。『あんずちゃん』も前半が日常パート、後半からは黄泉下りだ。 つまり、山下敦弘のフィルモグラフィ上では、「なんかしらんがぶらぶらしている謎のおじさん」と「なんかしらんがぶらぶらしている謎の化け猫」が同一視されている。

 さらに遡るなら、『ぼくのおじさん』で松田龍平演じる「おじさん」とは高等遊民のパロディ、もっといえば夏目漱石の『それから』(1910年)的な明治期の高等遊民のパロディといえる。*2 

『それから』の主人公である代助は、帝大を出ながらも30歳で特に仕事もしない。裕福な家族から就職や結婚といった社会参加への”圧”をかけられてものらりくらりとかわしていく。『ぼくのおじさん』の「おじさん」も、寄生先が富裕でないところ以外、ほぼそうした塩梅である。

『それから』のお見合いを強要されるくだりでは、見合い相手の容貌にいちいちケチをつけるのだけれど、映画『ぼくのおじさん』でもそこもオマージュされている。映画版『ぼくのおじさん』で松田龍平が起用されるにあたり、その父である松田優作森田芳光版『それから』(1985年)で主演を張った事実が意識されなかったはずはないだろう。*3

森田芳光版『それから』。ふとした瞬間の松田優作の顔が松田龍平によく似ていて、やはり親子なのだなと感じる)


あるいは「ネコ=おじさん」映画の系譜。

 ここに高等遊民パロディ映画としての系譜が、『それから』から『ぼくのおじさん』を経由して『化け猫あんずちゃん』へと引かれていく。それは日本の映画史的/文学的なラインなのだけれど、実はもう一本、継承されているモチーフで引けるラインがある。

 ネコだ。映画版『ぼくのおじさん』では序盤から白いネコが出てきて、影のように「おじさん」によりそう。自由で、無責任で、とらえどころのない存在としてのネコ=「おじさん」というわけ。

 そして、「おじさん」がひとなみに恋に落ちていくハワイ編*4で、ネコは姿を消す。『それから』もそうだが、高等遊民は遊民でありつづけることはできない。かれらは恋をし、その恋によって他人に、そしてより大きな枠組みへと関わっていく。ネコみたいな人間は、やがてネコではいられなくなってしまうのだ。

 それはともかくとして、『ぼくのおじさん』の「おじさん」に『それから』の代助という先祖がいたのとおなじく、『ぼくのおじさん』のネコにも参照されるべき先達がいる。フランスの巨匠、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(1958年)に出てくるイヌたちがそれだ。

ジャック・タチぼくのおじさん』に出てくるダックスフント


『ぼくの伯父さん』も戯画的なほどにガッチガチに厳格な両親のもと*5で息苦しくなっている少年を、浮世離れした(しかし日本の「おじさん」と違って洒脱な)「伯父さん」たるユロ氏が逃避へと誘う話なのであり、タイトル的にも『ぼくのおじさん』へ明白な影響をおよぼしている。

『ぼくの伯父さん』は、街をうろつく野良イヌの集団をながながと映すカットから始まる。イヌたちは薄汚いけれど、かろやかに、自由に街をかけていく。やがて、そのうちの一匹、服を着たダックスフントが群れから外れ、フューチャリズム建築っぽい住宅へと入っていく。ダックスフントは、この家の子どもである「ぼく」の飼い犬なのだ。

 このダックスフントと無口な「伯父さん」氏のイメージはふしぎと重なっていき、「伯父さん」が「ぼく」の家に現れるときにもダックスフントが同時に画面に出てくる。そうして犬としての「伯父さん」のイメージが強化されていく。

 もちろん、スタイリストであるジャック・タチのことだから、偶さかにそうした印象ができあがったわけではない*6。映画と同時並行で書かれたノベライズ版を読めば、そのことは疑いようもない。

ぼくが忘れることの出来ないのはダキだ。ダキはダックスフント種の犬で、ちょうどうなぎに四本足をつけたように胴長の犬だ。パパとママがいるときは、ぼくはお行儀よくしていなければならない。あぐらかきで呑気にのおのお出来るのは、伯父さんといるときか、ダキと遊んでいるときだ。もっとも、伯父さんとダキも、はなすことが出来ない仲良し同志。
(中略)
現在にも、未来にも、そして過去にさえ興味や希望の思い出を持たなかった伯父さんは、ときどき、ふうっと自分が宙にういてしまっていたのではないか。時間とともに音をたてないで、流れてゆくいのちを涙ぐんで見つめている動物的な感覚が、伯父さんを自失状態においたのだ。そんなときでも、伯父さんは別に悲しい顔なんかしていなかった。ぼくの犬のダキのような表情が、その瞳にあるような気がした。

 ――ジャック・タチ、秦早穂子・訳『ぼくの伯父さん』三一書房



 イヌは人類のもっとも古い友だちである、とはよくいわれるところ。「ぼく」はそのイヌを最良の友とし、同時にその友の面影を自分の「伯父さん」とダブらせる。閑静で清潔感溢れる「ぼく」の家と、雑然とした下町を自在に行き来するイヌと「伯父さん」は、「ぼく」の息苦しさを救ってくれる。*7

 なにかと世界が狭くなりがちな子ども時代にとって、ここではないもうひとつの世界を見せてくる存在がどんなに貴重なことか。
『ぼくの伯父さん』は、徹底したイヌ映画だ。イヌに始まりイヌに終わる。人ではない、いまここではない出口としてのイヌ。そのイメージは日本の『ぼくのおじさん』にネコへ変換*8されて持ちこまれ、『化け猫あんずちゃん』で人そのものと融合した。
 

 と、このような仕方で山下敦弘は、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』と森田芳光の『それから』を組み合わせて『ぼくのおじさん』を造り出し、それを『化け猫あんずちゃん』へと昇華させていった。そうした流れが、まあ、ある。あるということにする。*9


「おじさん」でも「ネコ」でもあり、「おじさん」でも「ネコ」でもない。

 ところで、代助、「おじさん(松田龍平)」、「伯父さん(ユロ氏)」といったおじさんたちには共通した美点がある。
 つまり、子ども(甥や姪)にやたら好かれる。
 さきほど『ぼくの伯父さん』の話で触れたように、きっちりしたレールの上におらず、大人と子どもの中間のような位置にいる「おじさん」たちは、親類の子どもたちにとって一種のアジールだ。
 しかし、それは責任持って子どもをはぐくむ「ちゃんとした父母」という存在がいて、家庭という枠組みが機能しているからこそ出現する逃避先だ。

 ひるがって、あんずちゃんはどうか? 
 子どもであるかりんちゃんは、完全に規範となりうる親を見失っている。母を喪い、父親に見捨てられ(たと感じ)、いままでろくに会ったこともなかった祖父の寺にいきなり預けられ、ろくに知り合いもいない田舎で暮らす。孤児ではないけれど、気分は孤児に近い。山の妖怪たちでなくとも同情して大号泣ものだろう。*10
 そこに登場するのが、あんずちゃんだ。37歳。見た目も仕草もおっさんとネコのハイブリッドだ。

 そして、あんずちゃんはネコであるがゆえに、代助や「おじさん」のように結婚だの就職だのの圧力を受けない。
 そう聞くと『ゲゲゲの鬼太郎』のテーマソングのようでお気楽至極なようだけれど、『あんずちゃん』で描かれるあんずちゃんの日常は、もうすこし陰惨だ。なぜなら、あんずちゃんは社会から拒絶されつつも社会で生きるしかない存在として描かれている。
 和尚さんの扶養の下にあるものの、人間のような図体で人間のようにメシや娯楽を消費するあんずちゃんにはカネがいる。それを稼ぐために、按摩*11や川から鵜を追い払うといった仕事未満のアルバイトをこなしていく。

 だが、バイト帰りにスクーターで走行中、あんずちゃんは警察に捕まる。そして、免許証の不所持をとがめられる。「だめだよ」と警官はいう。「免許は16歳から取れるんだから」
 おかしみに満ちつつも、酷な発言だ。なぜなら、あんずちゃんは30歳を越えてやっとイエネコから化け猫に転化したという設定であり、16歳のときはふつうのネコにすぎなかった。免許など取りようがない。*12

 社会からはじき出されたまま、システムには付き合わなければならない。責任や義務を履行しようにも、その支払い先がわからない。完全なアウトサイダーだ。市民未満であり、人間未満。

 いつもノンシャランとしているあんずちゃんの様子からはわかりずらいかもしれないけれど、かれもどうもそうした状況に対して鬱屈を抱えているらしい。

 その鬱積が爆発するのが、自転車の盗難に遭う場面だ。パチンコの帰りに自転車を盗まれたかれは家に帰るや尋常ならぬ面持ちでぶつぶつ恨みをつぶやきながら、棒に包丁をガムテープでまきつけて即製の槍を作り始める。終始興奮を抑えられず、和尚さんの静止もきかず、四つ足で忙しなくばたばたと廊下を駆け回ったりしながら、自作の槍でふすまを突きまくる。そして半べそをかきながら、「だってだって、くっそ~~~~、俺は悔しいんだよ、おしょうさん!」

いましろたかし『化け猫あんずちゃん』講談社

 自分に向けられた顔のない悪意*13。それは人間からの自分への攻撃的な拒否でもある。あんずちゃんは、そう捉えたのではないか。

 代助や「おじさん」には見られない屈折が、ここにはくすぶっている。生まれたときから人間社会へ包摂される可能性を閉ざされた存在、それがあんずちゃんだ。飲み会にさそってもロクに「つるまない」山の妖怪たち*14に対してあんずちゃんが不満を漏らすのも、そうした孤独からの脱出口を妖怪たちに見出そうとしたからにおもわれる。*15

 だが結局、かれは山では暮らせないし、人間にもなりきれない。もはやネコにも戻れない。えらく半端な境界上の生き物だ。かりんちゃんとの東京行きの直前で和尚さんが指摘するようにあんずちゃんは「大人」ではある。だが、それは「一定の年齢を重ねている」以上の意味を持たない。かれは父親でもなければ、なんらかの地位を持つ社会的存在でもない。


 そんなあんずちゃんが、かりんちゃんの親代わり、あるいは保護者となりうるのか。


 いってしまえば、なれない。映画でも、そうなってはいない。

 かりんちゃんにとって、ケアしてくれる大人は死んだ母親以外に存在しない。かりんちゃんに同情してくれる山の妖怪たちも志だけは保護者マインドなのだが、なさけないまでに惰弱であり、子どもを守る力を持たない。

 けっきょく、かりんちゃんはその母親と決別したあと、父親に対して「早く大人になる」ことを宣言する*16。自分以外に頼れるものがない。それが彼女の生きていくことになる世界だ。


 それでも。


「大人」になるまでの猶予を過ごすパートナーとして、彼女は(父親ではなく)あんずちゃんを選ぶ。
 疑問が反芻される。
 なぜ、ネコなのか?

世界の果てまでつきあって

 劇中でのあんずちゃんは、かりんちゃんに対して保護者らしい行動をあまり取っていない。
 特に、日常の描かれる映画前半パートでは、あんずちゃんはかりんちゃんと別行動していることも多い。「いっしょにやった」といえるのは、鵜を川から追い立てるバイトくらいだろうか。ちょっと距離がある。

 しかし、同時に、あんずちゃんはなんだかんだでかりんちゃんを見捨てない。かりんちゃんが行方不明になれば、めんどくさがりながらも見つかるまで探す。唐突な東京行きにもつきそう。貧乏神がかりんちゃんに取り憑きそうになると、ひきはがそうとする。地獄までもつきあう。
 かりんちゃんの母親を地獄から連れ出して、追っ手である鬼たちから逃げるくだり。あんずちゃんは禁じられているはずのスクーターに乗り込み、かりんちゃん母娘を乗せて爆走する。


「どこまで行くの?」とかりんちゃんは訊く。*17

 あんずちゃんは叫ぶ。

「そりゃあ、世界の果てまで行くんだにゃ~」

 どこまでも連れだってくれる存在。

 それがあんずちゃんの定義だ。



 なにかを与えてくれるわけでもない、戦って勝ってくれるわけでもない、頼りにはまったくならない。ただ、いっしょにいてくれる。
 それはあんずちゃんが人間と異なる種だからこそ成り立つ距離感だ。これがヒトであれば、ほかの「おじさん」たち同様に、多かれ少なかれ人間社会の磁場にからめとられてしまう。


 ネコは自由だ。なにから自由なのか。人間社会の重力から自由なのだ。

 だからこそ、世界の果てまでも、かりんちゃんのそばにいられる。そのことばに真実味を持たせられる。ネコにしか頼めない仕事だ。*18
 ふたたび、パンフレットのインタビューを引こう。山下敦弘はこう述べている。

 終盤あんずちゃんが「ずっとかりんちゃんのそばにいるニャー」というんですよ。でも、それはなにかをしてくれるわけじゃない。ただ隣にいるだけ。それがあんずちゃんと人間の距離感なんです。



 それはまあ、けっきょくところの人間にとって都合のよい動物の搾取なのかもしれない。
 だが、フィクションで動物を描くとき、人間は搾取以外のなにができるっていうんです?
 ともあれ上の山下監督のインタビューに呼応することばが、文学者ドリス・レッシングのネコエッセイ『Particularly Cats』*19にある。今日はこれでしめくくることにしよう。

かれはしずかに私といっしょに座るのを好む。でも、それは私にとって簡単なことではない。書き物や庭の手入れや家事に追われていると、かれとゆっくり座っているひまなどなくなる。かれは子猫のころから、私に注意を要求する猫だった。本を読みながら義務的に撫でているだけでは、たちまちにそぞろな心を見抜かれてしまう。私がかれのことを考えなくなると、かれはそっぽをむいて去ってしまう。
かれと一緒に座りたいならば、私は自分自身をゆっくりと落ち着かさせ、いらだちや焦りを頭から追い払わねばならない。かれもまた、心身を落ち着いている必要がある。そうして私は、かれに、猫に、猫の本質に、かれの最高の部分に近づいていくのだ。人間と猫、私たちは私たちを隔てるものを超えていく。

――ドリス・レッシング『Particularly Cats』



 おつかれまんにゃー。


原作。

共同監督の久野遥子のまんが。傑作。

*1:リメイク版『蛇の道』、『ミッシング』のながれ

*2:現実の明治・大正期における高等遊民たちは、いまでいう高学歴就職難民的な、日露戦争後の社会問題としての側面があり、われわれが『それから』を読んでイメージするほど優雅な存在ではない。『近代日本の就職難物語』(吉川弘文館)参照。

*3:夏目漱石つながりでいえば、『吾輩は猫である』の元ネタといわれるホフマンの『牡猫ムルの人生観』がドイツ的なビルトゥングスロマンのパロディであることも思い出していいのかもしれない。ネコとは、アンチビルトゥングスロマン的な存在だ

*4:ちなみにおじさんが異性と恋に落ちる展開は映画版のオリジナル

*5:1958年に出たノベライズ版『ぼくの伯父さん』の訳者・秦早穂子の解説によると、ジャック・タチは機械中心主義的な近代に対するアンチテーゼとして本作を作りあげたという。

*6:そもそも「偶然」とはジャック・タチの映画から一番遠い言葉だ

*7:映画版では描かれないが、ノベライズ版では「伯父さん」は風邪をこじらせて死んでしまい、「伯父さん」がアトリエを構えて野良イヌたちが遊んでいた古い下町も開発にともなって失われていく。

*8:その変化は「おじさん」とユロ氏との質的な違いにも関係している。ユロ氏は保護者とまではいわないものの、「ぼく」にとっての守護天使的なポジションにいる。イヌはネコよりはやや保護者に近いポジションにいる、というわけだ

*9:もっと山下敦弘のフィルモグラフィを丹念に精査すれば、山下敦弘における「おじさん」たちの扱いについて一定の見解がえられるのだろうけれど、ここでやりすぎるようなトピックでもなく、今はその元気もない

*10:とはいえ、子ども向けフィクションにはよくあるシチュエーションではある。

*11:この職業がかつて盲者、すなわち被差別層の仕事だったことに留意しなければならない

*12:最初から疎外してくるくせに、ショバ代だけはきっちり徴収していく。そうしたシステムへの不信感は高等遊民的というより、原作者のいましろたかしが『釣れんボーイ』などで描いてきた肌感覚に発したものだろう。いましろ的な感覚とは個人的には「大人になりたいという願いはあるのに、自身の抱える(逃避的)衝動のせいでできない」といったジレンマであり、そうしたところを踏まえると彼が「あんずちゃん」お脚本の改変に不満を抱いたのも当然な気もするが、ここではいましろについては論じない。

*13:映画では犯人が出てくるが、原作では結局犯人の正体は不明のまま終わる

*14:そして終盤の展開を見ればわかるように、かれらもまた人間にとってが「役立たず」である。

*15:あんずちゃんは「友だち」に対してはかなり強めの責任感を持つ。よっちゃんに取り憑いた貧乏神との交渉を見よう。

*16:同級生の男子とは結婚の約束までする

*17:母親が訊いてた気もする

*18:ここで、ダナ・ハラウェイ的な伴侶種概念を持ち出すこともできるけれど、あるいはあんずちゃんが「おれ、死なないから、化け猫だから」と言ったことに注目して、むりやり『マルクスの亡霊たち』を結びつけてもいい気がするけれど

*19:邦訳は『なんといったって猫』晶文社

幽霊たちの隠れ場所:『Cloud』、『エイリアン:ロムルス』

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あいまいなの境界の無い

あわいにも揺らいでみる


しろねこ堂「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~

 

 

 

『君の色』を語ることの不可能について


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視ることを語るのであれば。

本来ならわれわれは『君の色』について語り、語り合いつづける義務を負っているわけですが、しかし、それは不可能なことであります。冒頭五分で映画自身で作品外で語られうることすべてを語り尽くしてしまったような映画に、いまさらなにをいえるというのか。公開から一ヶ月経つ今日においても、あの五分間を越える批評は提出されていませんし、これからも出ないでしょう。

それは評者の力量のせいではない。原理的にあり得ないのです。解釈によるあらゆる拡張を受け入れる傑作が存在するように、自らで決めた背丈を絶対に超えられない傑作も存在します。『君の色』とはそういう作品です。

 

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ある程度読める人であれば、その拡張不能性があきらかで、だからこそ京アニ事件という見えている爆弾を果実と勘違いしてもいでしまう。地雷でしかないのに。袋小路でしかないのに。

でも、わたしはかれらを恥知らずとは批難しません。むしろ、シンパシーをおぼえます。わたしもまた、そうした地雷を踏んででもあれを語りたくなる人間だからです。

そう、やはり、この2024年9月において視ることについていうのであれば、『君の色』を避けることはありえなかった。避けることこそが恥知らずと糾弾されるべき怯懦です。

だから、これは敗退の記録なのです。

わたしは今日も『君の色』については語りません。

 


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パソコンの画面とは魂をとらえる異界:『Cloud』

幽霊とはぼやけた世界に走る裂け目に現れるものであり、かつてはそこかしこに棲まっていました。映像機器の性能が悪かったせいです。写真技術の初期において、心霊写真とはぼやけた像のあわいに生じるものでした。*1

 

ゲームの夢、映画の魔――『IMMORTALITY』について - 名馬であれば馬のうち

 

ですが、いまや世界は鮮明になりつつある。

かつては10万画素程度の能力しかなかった携帯電話もいまや1000万画素にも達していて、あまりに隙間がせまくなったので、幽霊たちもすべりこめないようです。

幽霊たちの生存圏は日々、狭まりつつある。そんな絶滅危惧種をなんとか保護しようと奮迅している数少ない作家が、黒沢清です。*2

蛇の道』はブラウン管テレビとビデオ映像の不吉さをどこまでも追いもとめた映画でした。

リメイク版『蛇の道』でも彼はなおスクリーン越しの画面の不吉さを諦めませんでした。ラストシーンでは全身全霊をそそいでパソコン通話画面に幽霊を召喚しようとした。さらに中篇『Chime』では、幽霊の住処を玄関用のドアカメラに見出しました。涙ぐましい努力です。

 

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そして、『Cloud』。冒頭、つぶれかけた町工場からあやしげな健康器具を大量に仕入れた転売屋の菅田将暉がそれをフリマサイトに登録して売り捌くシーン。2023年にしてはおどろくほど粗い画面に並んだアイテムが、謎めいたフリマサイトの謎めいた挙動によって売り捌かれていく。それは取引であるけれども、売る方にも買う方にも人間はいない。菅田将暉が売り主では? とおもわれるかもしれませんが、しかし映画の画面上ではかれはただフリマサイトの映る画面を凝視し、ただ売れろと強く念じる存在でしかない。すべては自動的であり、魔術めいている。

黒沢清の興味が現代のインターネットをリアルに描くことではないとは各所で証言されているとおりではありますし、そんなもの読まなくても映画を観れば一発でわかるのですが、ではこの不気味さはなんなのか。

転売屋の菅田は事業拡大にあたり、アルバイトとして奥平大兼を雇いいれます。奥平は菅田の仕事に興味津々で、菅田のパソコンを覗き込んでいやがられます。ついには奥平は菅田の不在時にパソコンをいじり、それが菅田に露見します。菅田は「信頼関係が壊れた」と告げ、奥平をクビにします。

ここで注目すべきは奥平の菅田に対する執着ではなく、菅田がなぜそこまでパソコンに触れられるのをいやがるのか、ということです。

菅田にとってパソコンとは転売屋という彼のアイデンティティの源泉であり、インターネットとは人生における物事が動く唯一の場所です。かれはそこで無貌の幽霊として、人間のいない資本主義の現場に居合わせている。非常に希少な、サイバー資本主義で暮らせる幽霊。

かれはインターネットに取り憑かれているのではなく、かれがインターネットに取り憑いている。そうした意味において、菅田を襲撃しに来るひとびとはそれぞれ経路は違えど幽霊としての菅田将暉に取り憑かれて呪われたひとびとであるといえるでしょう。かれらは狂気の解消のために菅田将暉を襲うのではなく、呪いを祓うために菅田を滅しに来たのです。*3

スクリーンを一心に見つめるということで、スクリーンの向こう側の世界に同化する。それはあらゆる鑑賞という営みもおなじことで、わたしたちを映画を、インターネットを真剣に見つめることで幽霊になれる。*4

あるいは、もう、なっているのかもしれない。

 

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リアルタイム・ファウンドフッテージレトロフューチャーSFホラー:『エイリアン・ロムルス

 

廃墟と化したデトロイトを舞台にどんづまりの若者たちが盗みに手を出し、とんでもない"モンスター"に逆襲されるデビュー作『ドント・ブリーズ』とおなじ手つきでもって、フェデ・アルバレスは廃棄された宇宙ステーションを舞台にどんづまりの若者たちが盗みに手を出してエイリアンに襲われる『エイリアン:ロムルス』を撮りました。

少年時代に『エイリアン2』を観てそのホラー性に魅了され、「ホラー版スターウォーズ」としてシリーズを受容してきた*5アルバレスは、なるほどホラーとして『ロムルス』を撮っている。しかし、やや特異なのは物語前半部分では主人公たるケイリー・スピーニーはステーションにドッキングした宇宙船のなかで、モニターを通してステーション内部に潜入した仲間たちを見守っているところ。

この中継のスクリーンが妙に粗い。全体的にこの世界では一部のテクノロジーが1980年代から止まったようで、映像機器の画面はブラウン管のままで、コンピュータはDOSプロンプトで動きます。登場人物のひとりが遊んでいる携帯ゲーム機はワイヤーフレームで描画されており、機械類はやたらごつごつしている。

そうしたレトロフューチャーのテイストは単なる趣味に留まらず、リアルタイム・ファウンドフッテージホラーとでと呼べるような、なんとも矛盾した名称の新ジャンルを成立させてもいます。

 

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スピーニーが船内で見つめる中継画面の、2000年代初頭の初期のファウンド・フッテージ・ホラーのような、あるいは心霊投稿ビデオのような解像度。美術家の原田裕規は論考「アンリアルな風景」のなかで、本来は自然さやリアルさを印象付けるために使われる3DCGをあえてその虚構性を強調する形で使う「レンダリング・ポルノ」という概念を紹介し、その特徴を「CGを「非現実のもの」だと思わせる(=自白する)」ことにあると述べました。

そうした意味において現実の鮮明さと一致しないブラウン管テレビ的な画面は、その粗さによって非現実性が強調されることで「この世のものではない」幽霊たちや不吉さが宿りやすいのかもしれません。

 


さて、スクリーンの向こうにいる仲間たちに異変が起こると、スピーニーも船内から出て、自分が見ていた画面の中の世界へと入り込んでいきます。ここから『ロムルス』という映画は「扉と開くことによる恐怖」というホラー映画の鉄板ともいえるモチーフを追求していくことになり*6、ここも『Cloud』と比較すると興味深いところですが、時間もありませんし、ここでは触れるのみにとどめておきましょう。

おもしろいのは画面を見ることをやめたスピーニーが画面の向こう側と格闘するようになるところです。彼女はあるキャラの映る画面に向かって発砲し、エイリアンとのラストバトルではヘルメットのバイザー越しに闘いを繰り広げます。

キャラクターはいつから画面の向こうの怪異を殴れるようになったのか、といえばこれも映像が明瞭になり、怪異の輪郭をはっきりさせてくれたおかげです。『ロムルス』という映画自体の流れもそのようにできています。

というのも、最初、ブラウン管のぼやけた画面を眺めているときはエイリアンの"予感"しか映らず、そのものは姿を現しません。スピーニーがブラウン管を撃ち抜くとき、画面に映るあるキャラの姿は機器の能力並にぼやけています。予感とは戦えないし、幽霊は撃ち殺せない。それが鮮明でないホラーの世界のルールです。

しかし、ラストバトルでヘルメット越しに襲いかかってくるエイリアンは確固たる明らかさでスピーニーと対峙します。このとき、はじめて画面の向こう側の存在を殺せるようになるわけです。

正体が明らかになると恐怖が霧消してしまう、とはホラーでよく言われるところです。*7つまり、恐怖を克服するには輪郭を定めればよい。暴力とは自他の境界を侵す行為でありますから、線をはっきりさせるのは大事です。形あるからこそ壊せる。それを認識したら、もはや恐怖ではなくなります。

 


このようにかつては幽霊を克服することは真剣に見るものの特権でありました。いまや、世界の鮮明さはからなずしも真剣さを要件とはしなくなり、幽霊たちは無差別に喪われつづけています。

まあしかし、そもそもフィクションのプロダクトにおいては天然物の幽霊など存在しません。ブラー、グリッチ、ノイズ。すべては人工的な技術であり、世界の表面に傷をつけ裂け目から幽霊たちを呼び出そうとする意志です。事故を模倣することでしか事故を語れない。倒錯ですね。儀式ですね。あらゆるフィクションがそうであるように。

 

もう時間がありません。今日はここまでです。またいずれ。

 

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*1:「心霊写真に映っている(と言われる)霊魂の顔は、いずれもボケた感じがしている。ボケとは何か。レンズの焦点距離から外れた像だ。これこそ、映像のキャメラで表現出来る霊の姿ではないか。」小中千昭『恐怖の作法 ホラー映画の技術』

*2:「この「ぼんやりとした姿」といった幽霊像は、数年後、黒沢清監督が『回路』(2001) で全面的に導入し発展させた。ボケた幽霊の姿は動き、肉体有る人間と「芝居」をし、それを捉えるキャメラも移動していく。これだけのことをビデオで簡易にやるのは不可能であり、ましてやフィルムでは気の遠くなる様なプロセスが必要なのだが、CGIを用いた革新的な手段によってこの像を獲得した。」小中千昭『恐怖の作法 ホラー映画の技術』

*3:菅田をおびやかす存在がまずガラス窓をぶち壊して彼の日常に侵入してきたという点は重要です。彼を襲いに来た岡山天音がすりがらすの向こう側に映っていたことも。

*4:石井岳龍の『箱男』もまた映画のメタファーである映画でしたが…………

*5:https://remezcla.com/features/film/interview-fede-alvarez-talks-alien-romulus-more-spanish-than-english/

*6:「「なぜ開けるだけが出来ないんだ!」というあるキャラのセリフはこの作品のすべてを要約しています。開けることによって地獄へつながってしまうこと。エイリアンの身体すらその表現のうちに入ること。

*7:それをたとえば平山夢明は「人間は見えているものより見えないもの、すなわち、恐怖よりも不安に畏怖の念をおぼえる」(『恐怖の構造』)と表現した

元気で大きいペンギンの赤ちゃん:メルボルン探訪記

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メルボルンにも、生命はあるでしょうよ」
 一同は大きく眼をみはった。
「どんな生命が?」と、ピーターは訊いた。


  ーーネヴィル・シュート、木下秀夫・訳『渚にて



 指令はいつも十五桁の英数字で届く。そのコードをsteamのコード有効化ページに打ち込み、リディームする。あがないredeem。それは原義的には罪を償還し、赦しredemptionを得る行為を指していた。





 そのゲームをまともに購入しようとすると、50万2634ドルかかる。だが、コードをリディームすれば無料。贖罪とはそういうものだ。何事にも裏口はあり、恩寵は平等ではない。それが幸福な恩寵であるとして、だけれど。神からの愛はいつだってふたつの意味で致命的だ。

 償還が済み、降臨ダウンロードし、再生プレイされる。ポップしたウィンドウには、典型的なというかサンプルから一切いじってなさそうなRPGツクール製のスタート画面が現れる。

〈ニューゲーム〉〈コンティニュー〉〈オプション〉。

〈ニューゲーム〉を選ぶと画面が暗転し、黒背景に画像が表示される。ペンギンの写真だ。幼鳥のようで、茶色い体毛に包まれている。飛べもしないのに羽ばたこうとしている姿を見て、傍らの飼育員らしき女性が微笑んでいる。その背後には何羽かのおとなのペンギンたち。


https://media.cnn.com/api/v1/images/stellar/prod/pesto-gender-reveal-with-michaela-smale.jpg?c=16x9&q=h_653,w_1160,c_fill/f_webp


 異常な点がひとつだけある。
 赤ちゃんペンギンのサイズだ。デカい。背後のおとなペンギンたちと同等かそれ以上くらいの背丈に見える。錯覚だろうか。遠近法のあやだろうか。それともペンギンの赤ちゃんとは、もともとこのようにおおきいのか。
 呆然とする。自失すらする。文字どおり、眼をうばわれてしまう。
 下部にメッセージボックスが出た。姿なき発話者が告げる。


メルボルンに行け。


*ペンギンの赤ちゃんをつれてこい。


*本物を手に入れろ。


 異論はない。指令はつねにわたしの欲望と一致する。


 しかし、メルボルンとは?


 メルボルンと聞いて連想できるものは、ただひとつしかない。ネヴィル・シュートの『渚にて』だ。そこでメルボルンは「世界で一番南方にある主要都市」と表現されていた。
 『渚にて』の世界では核戦争により北半球は壊滅し、残りの土地も放射能汚染によってじょじょに死につつある。メルボルンは天国あるいは地獄にもっとも近い街だった。「われわれが一番最後に近いわけです*1
 たしか映画版(1959年のモノクロ版ではなく2000年のオーストラリア版)も観たことがあって、伊達男が車で爆走して路上のビルボードにつっこんで自殺するシーンをおぼえている。あの映画のメルボルンはなんだかブライトンみたいなぼんやりした港町だった。あそこに行くのか。そう思いながら、本棚の『渚にて』を開くと、「メルボルンまでは列車で三十分ほど」と書いてある。

 宇治へ行くのとそう変わらない。みどりの窓口にいる駅員に訊くと、実際メルボルンは宇治の向こう隣にあるらしかった。赤道を越えるのがこんなにも手軽だったとは知らなかった。南の海がこんなにも近いなんてのも知らなかった。ひきこもって暮らしていると、地理感覚が破綻してしまう。まこともって恥じ入るばかりです。

(京都ステーション)


「ペンギンですか」

 唐突に駅員がそんなことをいうので、ハア? と呆けた声を出してしまう。

「あなたも、ペンギンですか」と駅員は繰りかえす。

 わたしはペンギンではありません、とまっとうに返すと、駅員はあきれたように首を振り、スマホを取り出して、例のペンギンの赤ちゃんの写真を見せる。ウェブに載った新聞記事だ。「大バズりですわ」

 曰く、いまやメルボルンに向かう客の大半はこの巨大赤ちゃんペンギン目当てらしい。メルボルンへこんなに大勢が殺到するのは、1851年のゴールドラッシュ以来だとか。

 駅員はわたしに切符とビザを渡しながら、こうぼやく。「別にわざわざメルボルンまで行かなくても、ここでこうして見られるのにね。おれはね、こうずっと窓口に座ってよそにはいかないけれど、世界のいろいろな驚異を見てきたよ。京都水族館のXXLサイズのオオサンショウウオ、三匹のヒグマが経営するティーハウス、フリードリヒ・ヴィルヘルムの黒い軍勢、ファタ・モルガーナ・ラネズの猛吹雪、月の裏側のひみつきち、ブエノスアイレスぐらぐら岩エドラ・ムーベディサ。いまや、てのひらにおさまるこの黒い窓からなんだって覗けるのに、どうしてわざわざ高価いカネを払って南の果てまで行くんだい?」

 そうだね、しかしたとえば、コナー・オー・ブリーンはこういった。

"みずから目にすることなくして、だれがペンギンを信じられようか!"*2


 三十分の旅程のあいだ、電車に揺られながら、巨大赤ちゃんペンギンについて調べる。
 生後十ヶ月。
 体重は二十二キログラム。親鳥の体重の二倍らしい。さらに一日に二十四キロの魚を食べる。
 身長は約九十センチメートル。これも親鳥より高いらしい。
 メルボルンの水族館で今年唯一孵化した雛であるらしい。
 名前はペスト。黒死病ではなく、パスタなどに用いるイタリアの調味料にちなむ。つまりはペースト。バジリコなどからできている、この緑色のペーストが茶色い赤ちゃんペンギンとどのようなつながりを持っているかはまったくもってさだかでない。
 TikTokでは、よちよち歩くペストにノリノリな音楽を乗せたり、水族館の職員がペストの後ろでへたくそなダンスを踊ったり、同時期に話題となったタイの動物園のコビトカバの赤ちゃんと怪獣映画風アニメで対決したりととにかくまあ大忙し。
 ペンギンの赤ん坊がデカいというだけで、そんなにもうれしくなるものだろうか? なる。わたしもメルボルンが近づくにつれてうきうきしてくる。こころがメルボルンになりつつある。眼もだいたいメルボルンだ。わたしのメルボルンのイメージは、もう大きなペンギンの赤ちゃんと一致している。これは倒錯でも顛倒でもない。事実として、世界はそのように、イメージのコラージュとしてできている。現代メディアのエコシステムは個人とイメージのあいだの空間を圧縮しつくした。わたしと赤ちゃんペンギンを隔てるものはなにもない。



 一枚の写真に、ぐっと引きこまれる。突然、そこに映しだされた情景に、自分自身が臨場する。肉体を欠いた視線となって。対象と自分を隔てる時間、隔てる空間は、ぺしゃんこに潰れ、ゆがみ、蒸発する。われわれにとって、世界は写真だ(とりあえず)。
 これを「世界写真」の仮説と呼ぼう。ぼくらは世界を写真の集積として体験している、ということだ。そのように「見て」いるのというのではなく、そのように「体験」している。…(中略)…人間に有機的に経験できる空間範囲は、限られている。人間はひとりでは、世界について、何も知らないに等しい。だがそれでもどこかに世界(という全体)が、たしかに自分とはある間隙によって隔てられたものとして、あると考えざるをえない。それは実在だが、実在として世界そのものに触れることはできない。バルトが「アメリカ」にそれを見たような、映像により構成された空間が、われわれの「世界」だ。
      ーー管啓次郎「映像的ウォークアバウト」



世界。あなたの網膜に取り憑き、たびたび呼び起こされ、しかし決して触れることのできない幽霊たちの集まり未満の集まり。それについて、それに向かって、それとともに語ることが、あるいは語らせることができないもの。つねにあなたからゼロの距離にあるもの。すなわち、世界。

 今はペンギンの赤ちゃん。

 そこになくてもすぐそこにあるのなら、わざわざメルボルンにまで行かずとも、視線をスマホの画面へ永遠に凝らせておけばよいのでは? とあなたはいうかもしれない。わたしもすこしはそうおもう。でもやはり、違う。
 見ることは信じることではない。信じるからこそ見るのだ。証すために見るのだ。「使徒トマスも、見ないうちは信じないと誓ったが、いよいよ見たときには、『わが主よ、わが神よ!』と言った。これは奇跡が彼を信じさせたのであろうか? おそらくそうではなかろう。彼はただ信じたいと望んだがために信じえたのであろう*3
 幼いころ、キリストの降誕劇で羊飼いの役をやったことがある。羊飼いにしろ東方の三博士にしろ、twitchを開いてナザレのヨセフのチャンネルで配信されている出産実況を観るだけに満足せずイエスとの対面お誕生日会に出向いたのは、当時の貧相なインターネット環境(UStreamくらいしかなかった時代だ)のせいではない。
 知識と経験を、信仰と現実を、みずからの知覚の範囲において一致させること。それが見るという行為だ。

みやこ路快速

 
 みやこ路快速で宇治の次、メルボルンで降りる。さむい。そりゃそうだ。阪急の南のほうは今は冬。気温は10度ほどで、凍えるというほどでないにしても、半袖で歩くと乾燥とのコンボで気管支をやられる。
 それにしても、あらゆるものがデカい。ビルは軒並み京都タワーなみに高く、ヒトはみなsattouの描く肖像画のようだ。きっかりと縦横に交わる通りは京都に似てなくもないが、右京区の感覚で「ちょっと一ブロック向こうに足を伸ばそうか」などと無策に出ていくと、ハーフマラソンの距離を歩かされるハメになる。ガリバーの旅したブロブディンナグ国とはここのことだろうか。

(巨人たちはあまりに無法なので道端に電車を突き刺したりする)

 うかつに歩くと小腹が空くけれど、ここでレストランに入るのも、やっぱりうかつな判断だ。料理の量は京都の五倍。値段は十倍。味は駄菓子のポテトフライを牛丼にしたようもので、たいへんに美味である。支払いのために財布から紙幣を取り出すと、店員から野蛮人を見る眼で見られる。労働者の権利のために闘争し続けて二百年、資本主義を超克したメルボルンではスマホやプラスチックのカードを示すだけで支払いが免除される。仕組みはよくわからないけれど、しちめんどうな交換や商取引の習慣から解放されるのはよいことだとおもう。

(中華街の店で出てくるつけあわせのスープはどれも日清のカップ麺のスープの味がする。うまい。)


  ペンギンのいる水族館は街の南に位置しているという。下っていく。遠い。水族館が遠い。Instagramでワンタップの距離がどこまでも遠い。
 大通りは中華料理屋、アメリカンなバーガーショップ、地元発っぽいドーナツ屋、日本風オタクショップ、プリクラハウス、ベトナム料理屋、カンボジア料理屋、博物館、台湾とベトナムを合体させたような趣味のワッフル屋、本場イタリアの味を謳うジェラート屋、一風堂、『美女と野獣』が上演されている劇場などなどが整然かつ雑多に建ちならぶ。ありとあらゆる文化がここに混淆している。なるほど、「一番最後に近い街」にふさわしいありさまかもしれない。こうして、スヴァールバルの世界種子貯蔵庫のように世界中の文化を保存しておけば、世界が滅びかけたさいにはここが復興の拠点となるだろう。
 ひとびともナイスだ。店のひとたちはみな必ず「今日は良い日ですか?」と訊いてくる。
「良い日です」とわたしはかならず返す。

「なぜ?」

「ペンギンを見るから」

 ああ、とカフェの店員は苦笑気味にうなずき、イングリッシュ・ブレックファストのカップをわたしつつ、こちらに背後を見るようにうながす。
 ふりかえると、店の外に人間の行列ができている。通りの南方へずうっとつづいている。

「あなたのお仲間ですよ」と店員はいう。「あの赤ちゃんペンギンがバズってから、ずっとあんなですね」

 メルボルンでひとが行列をなす施設はふたつしかない、とその店員はいう。ひとつは博多ラーメン屋。もうひとつは Lune というクロワッサン屋。

「ここはクロワッサンとコーヒーの国ですから」

 わたしはお茶とベーグルの人間であり、ラーメンはあまり好まないのだけれど、そういうことを口にしないだけの社交性はあった。代わりに「宇治にもいいパン屋がありますよ。たま木亭という。わたしは行ったことがないのだけれど。宇治ですから」
「宇治ですからねえ」と店員はうなずく。「あの行列もときどき、最後列が宇治に達します。並ばないんですか」


 並ぶ。

(平日の朝から長蛇の列)


 待っているあいだに入場チケットを手に入れる。
 水族館では、受付で現金を支払うなどという甘ったれた資本主義はゆるされない。入場できるかどうかは魂の清らかさにかかっている。ウェブサイトで入場したい時間帯(三十分刻み)を指定し、あとはVISAとかAMEXとか呼ばれる謎の札、おそらくは免罪符の子孫かなにかだとおもわれるカードに祈る。十分な数の天使がわたしのカードの上にとまっておりますように、と。
 水族館の入場口にはアメリカの入国審査官のような鋭い目つきの女(ジェシー・プレモンスによく似ていた)が座っていて、いわれるがままにパスポートを渡すと、ねぶるようにわたしの顔とパスポートの写真を見比べ、「英語で答えろ。できるな? できるだろ。どこの出身だ?」と問い詰める。キョート、と英語でも日本語でもどちらもでいいような単語を答えると、なにが気に入らないのか、あからさまな舌打ちをする。

「目的は?」

 ペンギンを連れだしに来た、とは口が裂けてもいえない。

「観光」

「ペンギンか?」

「はあ」

「ペンギンなら」と女は出入り口の付近を指さす。やせぎすのキングペンギンがよたよたと外に出ようとしていた。「あそこにもいる」
「あれじゃなくて」とわたしはいう。

「ペンギンはペンギンだろ」  

 わたしの欲しいペンギンは、赤ちゃんでなくなっていく赤ちゃんペンギンだ。あと一、二ヶ月で茶色い体毛が抜け落ち、体重が減り、まだ巨大ではあるだろうけれど、他のおとなペンギンたちとたいして差異がなくなっていく、その前段階にいるペンギンだ。今この瞬間にしか収穫できない、新鮮で無垢なミームの権化だ。いったでしょう? 世界そのものだって。 などとは、結局いわなかったけれど、審査官は入場許可のハンコを捺してくれた。

「みんなあのペンギンめあてで来るよ」と彼女はいう。「この水族館に来る客、全員だ。この水族館はイコールあの巨大な赤ちゃんペンギンで、あの巨大な赤ちゃんペンギンがこの水族館。いや、水族館だけじゃない。メルボルン来るヤツみんな赤ちゃんペンギンモクだ」


 ふりかえって列を構成している面々をながめると、なるほど、みやこ路快速の車内で見かけたような顔ばかりだ。ちなみに先ほどのペンギンはだれの注目もこうむらないまま出入り口を抜け、脱走に成功しつつあった。

「このメルボルンがかぎりなく巨大赤ちゃんペンギンと等しいのなら」と彼女はいう。「あの赤ちゃんペンギンが赤ちゃんじゃなくなったとき、どうなるんだろうね」

 悲観することはありませんよ、とわたしはパスポートを受けとりながらやさしくいう。メルボルンには他に見るべきものがたくさんあります。

「たとえば?」と彼女はするどく返す。

 わたしは返答に窮してしまう。いや、あるはずなのだ。ガイドブックを読めば、Googleで検索すれば、だれかに訊けば。しかし、今この瞬間、わたしのなかのメルボルンにいるのは巨大なペンギンの赤ちゃんだけだ。おまえは中華料理屋に行きたいか? いいえ。アメリカンなバーガーショップには? べつに。地元発っぽいドーナツ屋は? ミスドで十分だし……。日本風オタクショップ? 京都には美しい四季とオタクショップがある。
 じゃあ、プリクラハウスは? ベトナム料理屋は? カンボジア料理屋は? 博物館は? 台湾とベトナムを合体させたような趣味のワッフル屋は? 本場イタリアの味を謳うジェラート屋は? 一風堂は? 『美女と野獣』は?


 いらない。それらはメルボルンではない。わたしの想像したメルボルンでは断じてない。巨大な赤ちゃんペンギン以外は、メルボルンではない。

 何秒、何分経っただろうか。わたしは口を半開きにしたままポカンと阿呆のように、実際阿呆以外なにものでもなかったのだけれど、立ち尽くしていた。


 審査官はつまらなそうにしばらくこちらを眺めていたが、きゅうに弾けたように笑いだした。

 なにがおかしいのか。まったくわからない。

 困惑していると、彼女はカウンターの上に登り、入場審査待ちの列をつくっているひとびとに呼びかけた。


「みなさん、どうぞご自由に入場してください! 当水族館はたったいまから、だれでも、望むがままに出入りできるようになりました! しちめんどうな審査は撤廃です! おめでとう」

 それを聞いた客たちが、わっ、と歓声をあげて押しよせ、通過ゲートへと殺到していく。ほかの係員たちが押しとどめようとするが、すでに遅い。人のうなりは怒濤となり、わたしもまた押し流されていく。

 業務を抛擲した彼女はカウンターであぐらをかき、たからかに歌っていた。



 このいやはての集いの場所に
  われら ともどもに手探りつ
  言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう
 
 かくて世の終り来ぬ
  かくて世の終り来ぬ
  かくて世の終り来ぬ
 地軸崩れる轟きもなく ただひそやかに*4



 列待ちのあいだに公式サイトで調べた情報によると、水族館は十五のエリアに分かれていて、ペンギンは最後のエリアに展示されている。移動は不可逆であり、一度別のエリアに進めば、もう二度と前のエリアの魚には再会できない。クラゲとか。ムツゴロウとか。タスマニアキングクラブとか。
 そんなものには、だれひとり、目もくれない。

無人水族館)


 解き放たれた人の波は最初の十四のエリアを三分ですっ飛ばし、万物をひとつの建物で把握しようとする十九世紀の博物学的欲望を彼方へと葬り、十五番目のエリアに到達する。いなや、みなスマホを取りだす。茶色いふわふわの大きな赤ちゃんを探す。透明なケージのなかのキングペンギン二十羽はいずれもおとなだ。違う。赤ちゃんは。どこだ? どこだ?

 いた。


 ペストだ。岩場の向こう。顔だけが覗いている。世のすべてを拗ねたような、つめたい目。その視線をあびたい一心で、数千いや数万の客たちは子育て期の南極のペンギンたちのようにエリアにひしめいている。
 歓声があがる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」わたしも連呼に加わる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」見知らぬ膨大な他者たちと視線や声を一にすると、独特の高揚が生じる。まるで2000年代後期みたいな気分だ。
 茶色いふわふわの頭がのっそりと動きだす。歓声がなおも高まる。「かわいい!」「ふわふわ!」「おっきい!」わたしも……いや、もう〈わたし〉などはいない。〈わたしたち〉だ。
 わたしたちは高さ五メートルはあろうかという水槽用強化ガラスに群がり、張りつき、すこしでもペストに肉迫しようとする。いっぽうペストは悠揚と岩場をいきつもどりつしながら、こちらをみやったりみやらなかったりする。彼からの視線を欲望して、同期していたはずのわたしたちも分裂する。「こっちを向いて!」「いやこっちだ!」「いやこっちを!」心が数万ある。だがいまだに一つだ。

 十分ほどやいのやいの騒いでいると、ようやくペストが岩場から降り始める。わたしたちの興奮と歓声がいっそう高まる。よちよちとあぶなかっしく歩行するさまはやはり赤ちゃんで、そばにはいつも寄り添うように二匹のペンギンがついてまわる。親だろう。親であるはずだ。親であるに決まっている。
 わたしたちは一人残らず聖なる親子に涙する。一つのユニットとしてのある家族への視線を共有する信仰が生じつつある。わたしたちは羊飼いだ、メルキオールだ、バルタザールだ、カスパールだ。いかなる現実も美しく粧い、世界を摩耗させていく写真の使徒だ。

 ペストがわたしたちのもとまで降り立つ。





 クチバシをあげ、あのふきげんそうな眼でわたしたちひとりひとりをねめる。たまらない。この眼を前にして、なにかやるべき使命があった気がするけれど、もはやそんなことはどうでもいい。なぜなら天国にいるのですから。
 わたしたちはペストの眼の前のガラスにはりつく。上から下から横から。遮られた視線もリレーされ、わたしたちはひとつの塊となってペストを見つめる。だれもが至福だった。平和だった。満たされていた。



 みしり、とおおきな音がした。

 そこからは早い。崩壊はいつも一瞬だ。
 五十センチ厚の水槽用アクリルガラスがわたしたちの重さと熱に耐えきれず、砕け散る。視線をこちら側とあちら側で分けていた境がなくなる。
 ペンギンたちがけたたましく鳴きながら脱走をはじめ、わたしたちと交錯する。わたしたちをひとつにしていた意志は注意とともに霧消してしまい、単位としてのわたしはわたし自身へと返還される。自我を取り戻していったのは他の人もおなじなようで、個々の生存本能を働かせて、みな、この混沌に対して絶叫と暴力をもって対処しようとしている。混乱が加速しつつある。その隙間をぬって、ペンギンたちが駆けていく。驚くほど迅速に。
 熱狂が撹拌されて覚めてひいていき、ふと意識の間隙にこんな考えがすべりこむ。
 これが終わりのはじまり
 そうおもいながらなんとなしに視線を横にすべらせて。
 
 眼があった。

 ペストと。赤ちゃんペンギンと。あの不機嫌な眼と。

 ほかのおとなペンギンたちとは違い、じっと立ち尽くしたまま、こちらを見つめている。


*本物を手に入れろ。


 とっさに彼を抱きかかえ、走りだした。
 渚まで。


渚にて

 摂氏十度である。

 十月のメルボルンの海岸で、泳ごうなどと考えるやつはまずいない。

 なとど勝手に決めつけていたら、海面がぬわりともりあがり、水着姿の大柄な中年女性が這い上がってきた。そして、たまたまそこにいたわたしに「今日は良い日?」と訊く。

 世界は複数の驚異にあふれている。

 さしあたって手近な世界がわたしの傍らにいて、ペストだ。巨大な赤ちゃんペンギンは広大な海と砂浜にたたずむと、なんだかそこそこ大きいくらいで、さして世界に見合うサイズではない気がする。大きさなど、ペスト自身は気にもかけていないのだろうけれど。
 




 しばらく、ペンギンと一緒に滅びから遠い海をながめる。日が暮れかけたあたりで、だれかに肩を叩かれた。
 見やると、シベリアンハスキーをつれた男がいる。タンクトップに短いパンツをはいた、心身ともに非常に健康そうな人物だった。シベリアンハスキーも劣らず精悍な顔つきだ。


「このビーチはイヌは禁止ですよ」とわたしはいう。

 
「ペンギンは」とイヌが問う。「どこですか」


 わたしはペストを見る。あいかわらず、茫洋と波を見つめつづけている。潮風に吹かれて、茶色い毛がところどころ抜けかかっている。おとなになる準備をしているようだった。




 すこし迷ってから、イヌにこう告げた。



わたしがペンギンです*5




*1:木下秀夫・訳『渚にて

*2:上田一生『ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ 増補新版』

*3:フョードル・ドストエフスキー米川正夫・訳『カラマーゾフの兄弟

*4:T・S・エリオット

*5:アンドレイ・クルコフ沼野恭子『ペンギンの憂鬱』

どうしてドナルド・トランプはわたしをファックしないのか:大統領選下シアトル滞在記

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 長いよ。今回は。


 アメリカを訪れるたびにわたしは、本当の「アメリカ」はマンハッタンやシカゴの街路にも中西部の農場町にもなく、ハリウッドランドスケープやメディアの景観によって創り出された幻想のアメリカのなかにこそあると、よく感じる。

 ーーJ・G・バラード、南山宏訳『ハロー、アメリカ』1994年版序文より



 そして、読みとおしたとしても、あなたが今の情勢についてなにか気の利いたことをいう助けにはならない。

狂気とは一体何なのだろう? そもそもいろいろな意味で、狂っていない人なんているのだろうか? パッと見てわからなくても、みんなおかしな勘違いをしていたり、どこかしら狂っている。まあ俺以外はね。
  ーーリン・ディン、小澤身和子訳『アメリカ死にかけ物語』



 そうね、だから⋯⋯はじめましょう。

11月5日午前9時 ベルビュー





 エリオット・ベイに蒸気船で上陸して数日が経った。ホテルのテレビはCNNもFOXもMSNBCもABCもNETFLIXYoutubeも平等に映す。なにかについて話しているようだけれど、なんなのか、まるでわからない。外に出る。徒歩三分で芝生の広がる公園へたどりつく。みなランニングしているか、デカいイヌを連れているか、デカいイヌといっしょにランニングしている。ほんとうに、この三パターンしかない。信じてくれ。
 遊具には子どもたちが群がり、人工の川ではカモたちがぐわぐわと遊び、高級というよりは小綺麗という意味で身なりの良い親たちがおだやかに談笑している。実に心地よい。実に正気だ。青空の州(ブルー・ステイト)ワシントン。シアトル近郊のベルビューは、その日も平穏だった。




 わたしは公園のベンチに座って朝食をとっていた。コーヒーチェーンで買ったクロワッサン・アマンドとロンドンフォグ、そしてメイシーズの洒落た店舗で買ったタロイモウベ味のココナッツプリン。計32ドル。約5000円。はっきりいって5000円の味じゃない。クロワッサン・アマンドは、烏丸の文博横のPAULで買ったほうが断然うまいし安い。ロンドンフォグは歯を溶かすほどに甘く、ココナッツプリンにいたっては、なんというか、ココナッツプリンだ。




 哲学者の三浦哲哉は『LAフードダイアリー』で訪米当初アメリカの食べ物に期待していた要素として伝統から断絶した「不自然さ」と人工的な「実験性」を挙げていたけれど、このクロワッサンとココナッツプリンにはそのどちらもなくて、ただ自然で保守的な、味わいのなさだけがある。*1

 でも、高価いとはおもわない。実際に日常的に買えるかどうかは別にして、この街ではおそらくだれもがこれを妥当な値付けとおもっているのだろう。食べ物の値段に反映されるのは原材料費と人件費だけとはかぎらない。安全、安心、健康、正気、この街をたいらかに保つあらゆる魔法の値段も含まれている。

かもかもかもかもかもかもかもかもリバー


 しばらくぼんやりイヌやカモを眺めたのち、西側から吹く潮風にさそわれて、散歩へ出かける。すぐ背の高い街路樹に抱かれた瀟洒な住宅街に入る。どの家もデカい。そして造りがいい。わたしは京都市水族館の水槽のなかにしか住んだことがないので高級な家というのがどういうものかわからない(わたしみたいなものが京都の東山に侵入しようとすると棒でつつかれて追い出される)けれど、まあ、なんか高価な家なんだとおもう。どれもひらべったい。敷地がじゅうぶんに広くて、屋を重ねる必要がないのだ。
 これまで見た住宅街のなかでも、もっとも美しい景観だ。ベルビュー(「美しい眺め」)という地名に恥じない。実際ここはアメリカでも四番目に住宅価格の高価い一帯として知られている。名だたるテック系の大企業が本社を置く街としても知られる。
 空気もいい。アメリカの街としてはびっくりするくらい車が通っておらず、植物も多いので酸素が濃くすずやかだ。湿っぽすぎず、乾きすぎてもいない。「呼吸ができる」というのは、こういう場所でこそいうのだろう。開放感もすごい。ここに比べたら、東京は海の底にひとしい。わたしなんか、潰れてしまうよ。

 そして、もちろん、みなイヌを連れている。デカいイヌを。林立するビル群のふもとに広がる芝生のうえや、整然とした石畳の歩道で、イヌたちをのびのび遊ばせている。道端にはイヌ用のエチケット袋を無料で配布するポストが建てられていて、街そのものがイヌを飼うことを奨励しているようだった。




 イヌの街、とでも呼ぶべき場所があるのだとおもう。イヌは、特にデカいイヌは、地域の治安のよさと住環境のよさを表す。幸福度の指標にもなる。リードにつながれた善いイヌたちが暮らす地上の楽園。それがここだ。こういうのが「イヌを飼う」ということであるなら、狭苦しい日本の都市部でイヌを飼うのはもれなく虐待なのかもしれないとすらおもわされる。


無限にイヌが遊べる空間がある



 この安寧はなんだろう。外国に行くと、いつも「ここは日本じゃないな」と感じるはずなのに。ひとびとが異国語をしゃべっているからではない。通貨や食べ物が違うからでもない。安全を実感できないからだ。治安の話じゃない。治安はもちろん含まれるが、そういうことじゃない。「自分の日常的にいる場所」ではない、という感覚だ。たとえ車に轢かれようと、近くの弁当屋がにぎりめしの代わりに大麻を売っていようと、闇バイトで雇われた若者が強盗に押し入ろうと、自分にとっての「ふつう」であるかぎりは、自分が排除される異物でないと確信できるかぎりはそれは安心と安全の境地へとむすびつく。その感覚は、外務省の危険安全レベルにはあらわれない。というか、なんなら東京ですら「日本じゃない」。あんなに自分が異物でしかない街もない。

 ところがベルビューはなんというか、日本だ。日本にこんな整った住宅地はおそらく存在しないけれど、日本だ。言語も気候も違うけれど、日本だ。こんな場所で育った記憶は一切ないけれど、曇りなく穏やかに過ごせる。それは自分とベルビューがおなじだからではない。自分は攻撃されたりや排除されたりしないだろうという絶対的な確信が持てるからだ。




 根拠はない。でも、そう感じる。だれもが銃を持っている可能性のあるこの国で「そう感じ」られるのは、とてつもないことだ。
 歩きつづけて、ワシントン湖沿いの別の公園にたどり着く。ここもまた良い公園だ。真新しい遊具が設置してあり(ベルビューの公園はどこでもたっぷりと小綺麗な遊具がある)、歩道も歩きやすく均されている。当然のように景色もよい。この街には雑で見苦しいところはひとつもないのか?

海沿いの公園



 公園の歩道をさらに行くと、だんだん傾斜がかっていき、やがて山道めいた坂の入口にさしかかる。鬱蒼とした木々がそれまでのほがらかな陽光を遮り、やや異質な薄闇でみずからの内を閉ざしている。




 どうしよう⋯⋯と迷っていると、魚が話しかけてきた。そう、魚、いまにも死にそうな、陸の魚だよ。その魚はゼエゼエと喘鳴しながら、かすれた声で、いう。

「つれてってくれ」

 どこに?

 墓に。

「あの方はもう一度アメリカを偉大な国にしたがっておられます」
「それはきみもじゃね、ウェイン。わしもそうじゃ。もっとも、最終目標についてはだれの意見も一致しているが、手段についてはもっと議論を重ねる余地がある……いや、それをいうなら、いったい、"アメリカ”という言葉が厳密には何を意味するのか、じゃ。これは情緒的なシンボルでな、ウェイン、一九八〇年、九〇年代に流行遅れになって、だれにもアピールしなくなったもので……」
  ーーJ・G・バラード、南山宏訳『ハロー、アメリカ』


11月5日午後1時 シアトル・キャピトルヒル地区





 もちろん、ここにもイヌはそこいらじゅうにいる。
 魚を脇に抱えてUberを降りると、赤いジャケットにバッヂをジャラジャラつけた髣髪髭面の男性に呼び止められる。
「気をつけたほうがいい」
 気をつける?
「この街は変わっちまったよ。いつもは善き隣人たちの街なんだ。今日は違う。気をつけなよ」
 男はそう警告を発して、乱杭歯を剥いてニッと笑い、ひたすら困惑するわたしたちを残して去っていく。

 信じてくれ。


 ほんとうに、そんな男と会ったんだ。


 わたしたちは警戒しながらキャピトルヒルを歩いた。この街のカラーを知るのにさして時間は要さない。五十メートルごとに虹色と遭遇する。レインボーフラッグをかかげた店、レインボーカラーに塗られた横断歩道、レインボーカラーのユニコーン⋯⋯。真っ黒な服装に身を包んだ、どう見ても中高生ぐらいの子どもたちが、やはり真っ黒な小さなライブハウスの前で列をつくっていた。その斜向かいにはポップアート志向のサブカルファッション・グッズショップがあった。アートと若者の街にありがちなヒリツイた空気はあるものの*2、髭バッヂ男の警告に反して、身の危険らしい危険は感じられない。

キャピトルヒルのジミー・ヘンドリクス像



 シアトルはグランジの発祥の地だという。マーク・フィッシャーによると、カート・コバーンは資本主義リアリズムの絶望をもっとも能く体現したミュージシャンなのだそうだ。ジェイムソンのいうところの『もはやスタイルの革新が不可能で、想像の博物館の中で死んだスタイルを模倣することしかできない世界』の中に自分がいることを見出し、反抗することそれ自体が産業にあらかじめ取り込まれた見世物だと了解しながらも、それが耐え難いほどに陳腐だと知りながらも、反抗の態度を貫かざるを得なかった男。
既に確立された『オルタナティブ』や『インディペンデント』という文化圏を見てみよう。そこでは、まるで初めてであるかのように、古い反抗や異議申し立ての身振りが延々と繰り返されている。『オルタナティブ』や『インディペンデント』は、主流文化の外側にあるものを指し示すのではない。むしろ、それらは主流の中でのスタイル、実際には支配的な様式なのである。」( Mark Fisher," Capitalist Realism: Is There No Alternative?")
 わたしたちは『インディペンデント』や『オルタナティブ』だったものが主流文化に取り込まれているさまを実際に目の当たりにすることができる。「想像の博物館」などではなく、現実の博物館で。シアトルには〈ポップカルチャー博物館〉という音楽・映画・ゲームなどのサブカルチャーを扱った施設*3があり、そこではニルヴァーナを特集した展示も設けられている*4。かれらの愛用した楽器、レコードのジャケット、ポートレイト、ライブのフライヤー、そして生涯がガラスケースの向こうで陳列され、かつて蔑まれていた文化に正統性を与えている。尊いことだ。入場料は30ドルほど。ウェブサイトから予約する場合は曜日とタイミングによって価格が変動するらしい。株価のように。

ポップカルチャー博物館



 ちなみにこのポップカルチャー博物館でのニルヴァーナの展示は、つい最近、ある物議をかもしたカート・コバーンについての解説板に「彼は27歳で"un-alived himself"した」と書いたのだ。
 un-alive とはインターネットのスラングで「自殺」を指す。
 2020年以降、コロナ禍で病みやすくなったユーザーの精神を救うために、プラットフォームの側が検索において特定のネガティブな単語を検閲するようになった。「自殺」もそのひとつだったのだけれど、まあしかし、インターネットで自殺について語らないなんて不可能だ。ユーザーは禁止された単語を別にワードに置き換えるようになった。それが、un-live 。
 こうしたネットにおける検閲逃れのテクニックを英語圏では、アルゴリズムによるフィルタリングに適応した言語という意味でアルゴスピーク(Algospeak)と呼ぶ。そうしたものをポップカルチャー博物館のキュレーターは「メンタルヘルスとの闘争のために悲しくも命を落とした人々への敬意のしるしとして」使ったらしい。奇妙ではあるが、文脈としては通らなくもない。
 ところが、一部のひとびとがその言い換えに反発した。かれらが引き合いに出したのはジョージ・オーウェルの『1984年』だった。『1984年』で描かれる管理ディストピア社会では、市民を馴致するためにアルゴスピークならぬニュースピークなる語法が幅を利かせている。要するに語彙をシンプルに変えていくことで市民の思考の幅を絞ろうとするのだけれど、そのうちのテクニックのひとつとして、接頭辞にun-をつけることで(主に政府批判に使えそうなネガティブな)反対語を大幅に削減するというものがあり、un-liveはそれを想起させる⋯⋯というのが博物館批判派の主張だ。

 結局、博物館側が折れて「died by suicide」という一般的な表現に修正されたらしい。
 皮肉な騒動だ。アルゴリズムによる統制に抗って生まれたアルゴスピークが博物館という権威に回収され、自殺という悲劇を無痛化するために用いられた。おそらく、キュレーターにはコバーンの死を消費したくない、という個人的な願いがあったのかもしれない。しかし、インターネット上での力なきひとびとの抵抗手段を博物館のキュレーターという立場から振るった結果、インターネット文化からのディストピア的悪夢めいた収奪と化してしまった。フィッシャーにいわせれば、これこそニルヴァーナ的な現象だろう。
 オルタナティブでありたい、自由でありたいと願うわたしたちの精神はすきあらば盗まれ、無害化され、取り込まれ、換金されていく。そこから逃れることはできない。

 I’m out for Presidents to represent me. (Say What?)
 I’m out for Presidents to represent me. (Say What?)
 I’m out for dead Presidents to represent me.

俺を代表してくれる大統領なんていない
 俺を代表してくれる大統領なんていない
 俺が求めている大統領は 札束に印刷された死んだ大統領だよ
 ーーNas、池城美菜子訳「The World is Yours」


11月5日午後3時 エリオット・ベイ・ブック・カンパニー


生まれながらにして土地の名を腹部に縫い込まれた哀しき獣



 魚があいかわらず墓場に行きたいとだだをこねるので、書店に入る。書店は墓場以外でもっとも墓場に近い場所だ。いまは亡い人間が死んだ紙に失われてしまったことばを綴るのが本であり、書店ではそうした墓碑を粛然と並べている。
 書店はエリオット・ベイ・ブック・カンパニーと名乗っていた。公式サイトにはこうある。
エリオット・ベイ・ブック・カンパニーは、キャピトル・ヒル地区の心臓部に位置する総合書店です。地域最高レベルの15万冊以上の新刊書コレクションに加え、大量の既刊本も取り揃えています。さらに、年間を通してすばらしい著者たちによる朗読会やイベントを実施しています。
1973年にウォルター・カー氏によって創業された当店は、パイオニア・スクエアのメイン・ストリート109番地にインディペンデント系書店として設立されました。その後、著者朗読会用のイベントスペースやシアトル初の書店併設カフェを加えながら、店舗の拡大と変遷を重ね、2010年にシアトルのダウンタウンに隣接するキャピトル・ヒル地区に移転しました。私たちは独自の書籍セレクション、杉材を用いたオリジナルの本棚、そして知識豊富なスタッフと共に移転し、これまでと変わらない温かい雰囲気、カスタマーサービス、品揃えを維持しています⋯⋯
 そして、「Thank you for supporting this woman and queer owned business.」という一文で締めくくられている。




 二階建ての、すばらしく雰囲気のいい本屋だ。質量ともに充実していつつも、インディペンデント系らしく店としての趣味や政治性*5を反映したセレクトも並ぶ。YA、絵本、マンガといった子どもたちのためのスペースも贅沢に取っていて、そういうのを見るだけでも豊かな心地になれる。
 誘われるようにSF&ファンタジーのコーナーに行くと、新刊棚にパオロ・バチガルピの新作『Navola』(内容はまだ知らない)やレヴ・グロスマンの『The Bright Sword』(内容はまだ知らない)、20世紀初頭の満州を舞台にしているらしいヤンシィー・チュウの『The Fox Wife』(やっぱり内容はまだ知らない)などが面陳されている。その裏に回ると、慣れ親しんだ、死んだ作家たちがたくさんいた。

 そのなかにJ・G・バラードの『ハロー、アメリカ』があった。
 コンラッドの『闇の奥』を下敷きにエネルギー枯渇と財政破綻と劇的な環境変動によって滅んだあとのアメリカ合衆国*6を舞台にしたSFだ。滅亡から一世紀ほど経ったところで、ヨーロッパに離散していたアメリカ人の子孫*7が蒸気船アポロ号に乗ってマンハッタン島へ上陸し、その船にこっそり潜んで「密航した21歳の青年(もっとも偉大な西部劇俳優と同じ名前の「ウェイン」)は、自分がこの国の新しい支配者、第45代大統領となることを夢見るが⋯⋯」*8。かつて合衆国を覆っていた資本主義と車とパラノイアが幻想的かつ鮮烈なイメージとして矢継ぎ早に展開されていく、いつもどおり美しくどうかしているバラード作品だ。「優れたアメリカ論フィクションは往々にしてアメリカ人以外の手で描かれる」という法則*9に、この本もまたのっとっている。
「第45代大統領?」
 と、魚は、ない首をかしげる
「今は第何代だっけ⋯⋯?」
『ハロー、アメリカ』が出版されたのは、1981年のことだ。古いSFの描く近未来は、わたしたちの生きる現在に追い越されることがある。それが昔はいやだった。今は、ちょっと、いいかもしれない。
 ググると一発で出る。1789年ジョージ・ワシントンから数えて45代目(58期目)のアメリカ合衆国大統領は、2017年に誕生した。見たことのある顔だった。ホテルのテレビが絶えずその顔を映していた。
『ハロー、アメリカ』に出てくる”もうひとりの第45代大統領”がどんな名を名乗っていたか。おもいだすべきではないのか。
 

レーガンの個性(パーソナリティ)。この大統領選候補者の深遠な肛門性は、将来において合衆国を支配すると予想されよう。⋯⋯(中略)⋯⋯サディズム傾向をもつ精神病質者たちにレーガンをともなう性的妄想を生みだすよう求める実験がさらにおこなわれて、大統領職にある人物たちはもっぱら生殖器の観点から認識されているという見込を裏づける結果となった。

 J・G・バラード法水金太郎訳「どうしてわたしはロナルド・レーガンをファックしたいのか」


11月5日午後5時 シアトル・ボランティアパーク


 



 書店で手に入れた『Nintendo Power』誌*10に載っていた地図をたよりに、墓へ向かう。シアトルのレイクビュー墓地には、ある偉大なスター俳優が葬られている。
 ブルース・リーだ。十八歳で香港からシアトルに渡った李小龍青年は六年のあいだ肉体*11と精神*12を磨き、それからカリフォルニアへ移ってジークンドーを創始した。ついでに映画スターにもなった。と、いうのが Wikipediaで語られるところのブルース・リーとシアトルの由縁で、しょうじきブルース・リー映画をロクに観たことのないわたしには、なぜ死んだカンフースターが魚にとってそこまで深甚な意味をもつのか、わからない。
 あらゆる死への道がそうであるように、墓場までの道のりもまた遠い。ANTIFAが集会を計画しているともボンクラどもがLARPを開こうとしているとも噂されているボランティアパークを横目に、やたら人間に対してイキりたっているリスのガンつけに怯えつつ、住宅街を過ぎていく。よくアメリカの映画なんかで見るかんじの「郊外の一軒家」然とした家が多い。適度な広さの芝生に、トム・ソーヤーがペンキ塗りをしていそうな塀に、年老いた南部人が安楽椅子を漕ぎながらライフルの手入れをしてそうなポーチ。ハロウィンのかざりつけが残っている家も多い。そして、もちろん、路上にはリードで人間と並走しているイヌたち。

激しく動いて人間を威嚇する、凶暴なリス



 ベルビューより手ごろかもだけど、だとしても生活費がべらぼうなんだろうなあ、などと世知辛いことを考えながら、坂をのぼっていく。夕方の風が冷たい。冬に近づきつつある。あるいは死に。
 住宅街を抜けると、また別の公園だ。なんかもう、シアトルの公園の多さと豊かさにはびっくりする。どこも歩くだけで心地よくて、たちまち土地に対する愛が芽生えてしまう。I ♡ Seatle。

「シアトルのつづりは、Seattle。tはふたつだ」
 と、魚がテンションの下がることをいう。
「それは先住民の酋長の名だった。彼は入植者たちと交渉しつつ、彼のひとびとを守る方策を探った。平和主義者と、いまならいえるだろう。でも、その姿勢が妥協と見られて、彼のひとびとから反発もされ、その一部が入植者と戦争を起こした。結局、彼のやさしさは報われなかった。あの悪名高いポイント・エリオット条約が結ばれ、彼のひとびとは先祖代々の土地を失い、アメリカ各地へと散らばった。平和とはなんだろうね、オオサンショウウオ? 交渉とは? ひととひととが交わることとは? 英語でtがひとつだから、ふたつだから、それが英語でないことばを話していたひとびとにとってなんなんだ?」

 魚は視点の定まらない眼を泳がせ、顎をパクパクさせながら、早口でそんなうわごとを口走る。息を吸い吐きするたびに、腹部の鱗に藍色の夕闇にきらめきの波を立たせる。いや、もう、夜だ。


 魚は死にかけている。


 どうしようかと、顔をあげると、視界に黒い穴がとびこんだ。よく見ると、表面がたゆたっている。貯水池だ。
 魚を池に放さねば、と焦るのだけれど、池の周囲に網と有刺鉄線が張り巡らされており、侵入できない。
 ふと、池のそばに目をやると、高い塔があった。あの塔の最上階から魚を池へ落とせば、有刺鉄線の壁を越えられる。これだ。わたしは塔に突撃した。

 



 これだ、ではなかった。
 死ぬほど死んだ。
 塔のなかは強敵だらけで、『ダークソウル』の城下不死街みたいになっており、いや城下不死街より適切なたとえが『ダークソウル』にはあるのかもしれないがわたしはそこより先に進めておらず、ともかくも永遠に出られない死地なのだった。
 篝火から篝火に移動しようとしては、休憩ごとに復活するスケルトン兵たちの襲撃に耐えきれず、もとの篝火へと撤退する。乾坤一擲で無理に突破をはかると、死ぬ。どうにもならない。
 途中の踊り場で出会った商人の話によれば、塔のなかは全三十の階層に区切られており、フロアごとにボスが配置されている。屋上にたどりつくには最低でも30くらいまでレベルをあげておかないときびしいらしく、それもまともなプレイスキルがあっての話だった。わたしの腕なら50でもちょっと苦しい。

 結局、塔の攻略は断念せざるを得なかった。わたしたちは塔を離れ、ふたたび墓地を目指した。寒風に逆らいつつ、ひいひいと坂をのぼる。魚は目に見えて衰弱していく。だんだんと、鱗の波が凪いでいく。
 開けた丘のような地点に出た。なにやら立派な博物館が建っている。ウィング・ルーク博物館だ。アジア系移民の歴史に特化した展示を行う博物館らしい。すこし惹かれたが、とうに十七時を過ぎて閉館している。




 その博物館の正面に展望台があった。ドーナツ型の謎のオブジェの向こうに、シアトル中心街の夜景が広がっている。きれいだね。疲れ果てた身体からはそんなシンプルなことばしか出ない。墓地はまだまだ遠いようだった。
 ほら、きれいだよ、とよく夜景が見えるようにと抱えていた魚を上に持ちあげる。反応が薄い。なにもいわない。

 魚をおろして、その呼吸をたしかめる。

 息が絶えていた。



 この土地では他人の同情心なんかをあてにしてはいけないのだ。カールはアメリカのことを本で読んでいたが、この点ではまったく正しかったわけだ。ここではただ幸福な人々だけが周囲の無関心な顔にはさまれながら、めいめいの幸福をほんとうに享楽しているように見えた。

 ーーフランツ・カフカ、中居正文・訳『アメリカ』



11月5日午後7時 シアトル・某所


出口。ほんとうに?



 死んだ魚を抱えて、Uberの運転手にてきとうなバーへ向かうように頼んだ。禿頭の運転手は自分のことをAmazonのCEOだと思い込んでいる狂人で、自分もこのあたりに住んでいるのだといった。
「このへんはいいところだよ。みな穏やかで、犯罪もない。隣人はみな親切だ」
 と、運転手はいう。
 わたしは昼間に遭遇した赤いジャケットの予言者からもらった警告について考えた。
 運転手は一方的に喋る。
「バーに行きたいのか? こんな日に? へんな人だね。まあ、いいんじゃないか。この街ではなにかが起こっても、なにも起こらない」
 バーは混んでいた。なにやらパーティのようなものが開かれているせいだった。色とりどりの風船が飛び、スーツを着た女性のパネルが設けられ、大きなプロジェクタ用スクリーンにMSNBCの特別ニュース番組が映し出されている。




 スクリーン前に群がったひとびとは、「Harris/Walz」と書かれた帽子やバッヂをつけ、談笑しながら光をながめていた。
 番組の画面が切り替わって、青背景をバックにパネルになっていた女性が映し出され、「ヴァージニアで勝った」と報じられる。バーの客たちから歓声があがる。直後、赤背景をバックに金髪の老人が映し出され、「サウスカロライナで勝った」と出る。ブーイングがあがる。
 なにをやっているのか、と訊ねる勇気はなかった。たぶん、スポーツ観戦かなにかだろう。あるいは、ビンゴ大会。

Dang Dang 混み合う



 わたしはバーの前に停まっていたフードトラックに死んだ魚を調理してくれるように頼んだ。すると、たいそう見栄えの良いフィッシュ&チップスをこしらえてくれる。フードトラックのシェフがこう訊ねる。
「友だちだったのかい?」
 わたしは答える。
「たぶんね」
 ほんとうは「そうだったらよかったね」といいたかったのだが、わたしは英語でどういえば起こり得なかった過去についての願望を表現できるのかわからない。

別のハンバーガー屋のテレビ



 バーのなかから歓声が響いた。また青い女性が勝ったらしい。
 チップスをつまみながらバーに戻ると、出入口横の空間にステージらしき台座がこしらえられていた。ギターやベースを持ったひとびとが音合わせをしている。マイクスタンドもできていた。ライブをやろうとしているらしい。でも、バーのひとたちの視線はスクリーンに注がれていて、だれもステージとバンドの出現に気づいていないようだった。

バーにも、イヌ。



 今度はブーイング。見ると、金髪の老人ではなく、壮年の別の男性が映っていた。テキサス州でSENATEというのを勝ち取ったらしい。ここでは赤ければ、みんな敵であるようだった。
 バンドが演奏をはじめた。ボーカルが三人フロントに立ち、耳慣れたなつかしいサウンドに乗せてラップをはじめる。Rapper's Delight であるようだけれど、わたしの知っている歌詞とは違う。どういう歌詞かわかればよかったのだけれど、フィッシュ&チップスをたらふく食べてお腹があったまり、ねむくなっていたわたしには、マイクを通して撹拌されバーの喧騒に融けていく声をうまく聴きとれない。まどろみのすきまを縫って、となりに座っていた客が別の客にこうこぼしているのが聞こえる。「なんて混沌だ。恥だよ。なんとも、恥ずかしい⋯⋯」




 そういえば、ベルビューのショッピングモールを散策しているときも、聴こえてくる音楽は絶妙にチージイで懐かしかった。トゥー・ドア・シネマ・クラブの「Undercover Martyn」、マルーン・ファイヴの「This Love」、ダニエル・パウターの「Bad Day」。”あのころ”のヒットナンバーばかり。やはり混沌としていたけれど、今よりはそうでなかった”あのころ”。ベルビューのメイシーズはそんな時代に留まっているかのようだった。なんたって、バーンズ&ノーブルとかいう大手書店チェーンが新規開業するモールなのだ。2024年なのに。本を、しかも紙の本を読む人間なんて地上のどこにも残っていないはずなのに。*13なのに⋯⋯なのに⋯⋯⋯⋯Zzzz....。

〜かわいイヌ〜



 さいきん観た映画でシアトルが舞台だったものはあっただろうか? あった。リチャード・リンクレイターの『バーナデット ママは行方不明』だ。シアトルの郊外に住む裕福な家庭の主婦であるバーナデット(ケイト・ブランシェットが演じている)が近所付き合いや子育てに疲れはてて壊れ、建築家というかつての夢に逃避して南極へと向かう物語。彼女の夫はマイクロソフト社員で、マイクロソフトの本社はもちろんシアトル近郊のレドモントンにある。「資本主義の何が問題かというというと、誰にも好まれないものを供給するということです。資本主義と選択の話をすれば、「マイクロソフト」、そのひとことにすべてが凝縮されています。誰もほしいとおもっていないのに、みんな持っていないとダメなものです。チェーン店も同じです。チェーン店の大ファンなんているのでしょうか? ほとんどいないとおもいますが、わたしたちはみなそこに行く羽目になるのです*14⋯⋯。
 幸福であるように見えることも「誰もほしいとおもっていないのに、みんな持っていないとダメなもの」のひとつだ。幸せな家庭を築き、それを近所に福々しく見せなければならない。そうした見た目の幸福はマイクロソフトAmazonスターバックスから配られる。ここシアトルから輸出される。みなそこに行く羽目になる。

 そういえば、昨日はスターバックスの一号店に行った。海辺のピアにある小さな店舗で、店内に飲食用のスペースはなく、半分はカウンター、もう半分はマーチャンダイズに割り振られていた。




「みんなここでしか手に入らない商品ですよ」と一号店の店員はほがらかにつげる。京都に帰ってからそれを■■■■に話すと、「京都のスターバックスでも京都限定のグッズが売られている」と教えてくれた。御当地ハローキティのように規格化された差異という、矛盾した商品がいともかんたんにわたしたちの現実に流通する。わたしたちはみなあらゆる場所へ行く羽目になる。
 一号店のコーヒーには一号店限定の豆が使われていた。飲むと、たしかにおいしい。でも、ふだんスターバックスに行かないわたしには、その味が他店とどう異なるのかわからない。

〜かわいイヌ〜



 椅子から転がり落ちかけたところで、目が覚める。よだれをふきふきあげた視線が、プロジェクタの画面に定まる。画面の両端からそれぞれ赤いバーと青いバーが表示されていて、赤いバーのほうが長い。来たときから、ずっとだ。
 客の数が減っていた。残ったひとたちもEXITと掲げられたサブの出入り口から帰りはじめている。みな、憮然とした表情だ。怒りや悲しみといった激烈さはなく、ただただ無表情になにかを諦めているようすだった。
 バンドはティアーズ・フォー・ティアーズの「Everybody Wants to Rule the World」を口ずさんでいる。本気か? 『Mr.Robot』じゃあるまいし。今年は『ネクスト・ゴール・ウィンズ』でも『怪盗グルー』の新作でも聴いた気がする。*15ウクライナでの戦争開始からこのかた、ずっと流れている曲な気がする。いや、2016年からだったか? それよりもっと前から? 「光の届かない部屋がある/壁が崩れ落ちる中で手を取り合って/その時が来たら、私はすぐ後ろにいる」⋯⋯。*16

 だれも歌を聴いてはいなかった。ステージの前は不自然なまでにきまずい空白ができていた。みなプロジェクタを凝視するか、帰路につくかしている。ひとりを除いて。
 



 赤いジャケットの髭バッヂ男だった。あの予言者がいた。

 バンドの演奏にただひとり反応し、踊り狂っている。

 ボーカルのひとりが「Recount!」と叫び、あたらしい曲がはじまる。

 ますます髭バッヂ男のダンスがはげしくなる。

 彼の存在に気づいた一部の客たちはなんともいえないかんじで彼をながめていた。

「あの男、おれは好きだな」とだれかがつぶやくのが聞こえた。




 信じてくれ。

 これはほんとうにあったことだ。
 
 11月5日に、わたしが目撃したすべてだ。

「それで、どこへ?」トムはさけんだ。「ぜんたい、どこへ行くつもりなんだ?」
「わからない」と彼はいった。「いや、そうだ。アメリカへ行くんだ!」
「いや、やめろ」トムは煩悶しながら、さけんだ。「行くな。お願いだから行かないでくれ。もう一度、よくよく考えてみてくれ。そんな向こう見ずなことはしないでくれ。アメリカへは、行かないでくれ」

 ーーチャールズ・ディケンズ『マーティン・チャズルウィット』


11月6日午前8時 ベルビュー





 朝の風景はおだやかだった。なにひとつ変わったようにはおもわれない。イヌはあいかわらずそこいらじゅうにいて、ヒトは走っている。安全がつづいている。
 ふたたび、ワシントン湖沿いの公園に来ていた。あのとき、魚に呼び止められて入れなかった薄暗い坂道の前に立つ。




Alan Wake 2』の冒頭に出てくる森のようで、かすかにいやな予感もよぎったけれど、いやここはベルビューなのだし、”日本”なのだし、と一歩を踏み出す。あしもとの枯れ葉がくしゃりと乾いた音をたてる。くしゃり、くしゃり、とそんな音を響かせながら、だれもいない茂みをゆく。
 おもったとおり、ここもまた気持ちよくウォーキングが楽しめる道だ。傾斜はやや急だが、適度に脚に負担がかかるところがまた心地いい。入る前におぼえたいやな予感など、とっくに忘れてしまっていた。
 静かだった。住宅街のど真ん中にあるはずなのに、どこかの山の中腹みたいに人気がない。こんな場所を街なかに造れるだなんて⋯⋯ベルビューでは驚かされっぱなしな気がする。

 と。


 背後に気配を感じた。その感覚に、低いエンジン音が追いついてくる。
 振り返ると、うしろからシアトル市警のパトカーがのろのろと迫っていた。

 2023年1月、と魚が昨日教えてくれた事件をおもいだす。
 インド系の23歳の大学院生、ジャーナビ・カンドゥラが横断歩道を渡っている最中にパトカーに轢かれて死亡した。シアトル市警は最初その事実を隠蔽しようとしたという。その後、別の警官がカンドゥラの死を茶化している動画が公開された。録画されたその映像で、警官はこういっていた。
「彼女はなんでもない人間だったんだよ⋯⋯11000ドルだっけ? 小切手を切ればいい。どうせ26歳なんだし、そんな価値のある女じゃなかった⋯⋯」

 パトカーはゆっくりとわたしを追い越し、十メートルほど先で停車する。

 
 なんだ?


 ここはなにもない坂道だ。歩いているものも、わたし以外に存在しない。
 わたしか? わたしに用があるのか?

 心臓が高く強く打つ。脳の髄が焼けつく感覚をおぼえる。寒さにかじかんでいた指先が火照る。

 ここはアメリカだ、とわたしは今まで忘れていた事実を思いだす。
 だれかが銃を持っているかもしれない国だ、という事実を。
 というか、確実に持っている。相手は警官なのだから。
 入国審査官のねちっこい、疑わしげな視線をおもいだす。
 あの赤いジャケットの髭バッヂ男をおもいだす。
「気をつけろ」

「おまえはひとりだ」



 動揺を押し殺しながら、パトカーの横を通る。
 呼び止められるか、とおもったが、パトカーのなかからの反応はない。警官が車内でなにをしているのか気になったが、こわすぎて運転席を一瞥すらできない。

 ある程度パトカーに先行したところで、速歩きになる。歩道へはみ出した茂みがパトカーからの視線(「射線」だ、とそのときは捉えていた)をさえぎってくれるところまでくると、小走りに駆け出す。坂をあがりきり、住宅の並ぶ通りへ飛び出す。

 パトカーが追ってくる様子はなかった。

 だが、恐怖は止まらない。


 わたしは走りつづけた。走って走って、道を下り、車道を横切り、ダウンタウンを越え、地下へと潜り、京都市営地下鉄の車両に飛びこんだ。
 慣れた灯りに照らされて、ようやく一息をつくが、呼吸は荒れたまま落ち着かない。鼓動も全身を揺らしつづけていく。
 扉が閉まり、車両がゆっくりと動き出す。そして、国際会館を経由して烏丸御池まで⋯⋯京都までわたしを運んでいく。

なんか京都駅にちいかわポップアップストアができてた。



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*1:ベルビューの名誉のためにいっておくと、ダウンタウンにあるRoyal Bakehouseのクロワッサン・アマンドは過剰な甘さでおいしかった。コーヒーチェーンのクロワッサンより安いにもかかわらず、大きさは3倍ほどあった

*2:キャピトルヒル地区はブラック・ライブス・マターの時期に抗議運動を過熱させた末、シアトル市警を追い出して自治を行ってもいた。Capitol Hill Occupied Protest - Wikipedia

*3:創設者はマイクロソフトの共同創業者でもあるポール・アレン

*4:Nirvana: Taking Punk to the Masses | Museum of Pop Culture

*5:とはいえ受けは広く、見間違えでなければバーニー・サンダースなどの本と並んでオルトライトの論客であるマイロ・ヤロプロスの本まであった。

*6:ついでになぜか日本も滅んでたはず

*7:そもそもアメリカ人自体がいろんな国からの移民で構成されているので、彼らは「故郷」に戻っていただけだったともいえるが

*8:創元SF文庫版表紙あらすじより

*9:ゲームだと『Death Stranding』もそうだし、『Life is Strange』もそうだ。そういえば、『Life is Strange 2』はシアトルから始まって米墨国境の「壁」に至るロードストーリーだっだ。それをわたしはあるプロラブコメディアンから指摘されて、はじめて気づいた。というか、調べてみると、シアトルはLISシリーズ通して出てくる定数であり、一部ファンのセオリーでは「”力”の発現に関係あるのでは」とささやかれている。らしい。

*10:アメリカで発行されていた任天堂公式のゲームマガジン

*11:詠春拳をベースに道場を開いた

*12:名門ワシントン大学の哲学科に入った

*13:これはわたしの物知らずだ。バーンズ&ノーブルは近年は店舗ごとに地域に合わせた品揃えを展開し、シアトルにかぎらず全国的に拡大傾向にあるらしい。https://www.honest-broker.com/p/what-can-we-learn-from-barnes-and

*14:マーク・フィッシャー、セバスチャン・ブロイ&河南瑠莉・訳「「未来を創造しなければならない」ーーマーク・フィッシャーとの未公開インタビュー(2012年)」

*15:『マエストロ』では「Shout」も流れてたっけな。

*16:個人的には『ハンガー・ゲーム』の主題歌としてロードがカバーしたバージョンが好きだ

2024年に観た新作映画ベスト10+10+犬+コッポラの『メガロポリス』

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「それって、味の感想じゃないですよね?」


 ーー『悪は存在しない』(濱口竜介監督)


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(上半期公開映画分の感想はだいたいこっちにあります)


 朽ちつつあります。
 12月は『モアナ2』*1と『ライオンキング:ムファサ』を観て激怒したわけですが、しかしその怒りをしたためるほどの気力がない。寒いせいでしょうか。老いたせいでしょうか。いや、すべてが滅びつつあるせいです。チャーリー・カウフマン脚本の『オリオンと暗闇』で言われたとおり、いまや「サンダンス映画祭の出品作の半分よりも暗闇のほうがおもしろい」。
 ディズニーの続編/実写化路線をいまさら批判したところでディズニーを救えるわけでもなく、ジャウム=コレット・セラの映画を毎年スクリーンで観られたあの黄金の日々が戻ってくるわけでもありません。われわれはどうにかやっていくしかないのだから、毎日にささやかな喜びを見出していきましょう。イーストウッドやリンクレイターやリドリー・スコットやシャマランや山田尚子やグァダニーノの新作を観られることを言祝ぎましょう。ヨーロッパからやってきた新しい才能を歓迎しましょう。たいして興味のなかったシリーズの続編やプリクエルのおもわぬ楽しみを享受しましょう。世界の残酷さを捉えたドキュメンタリーから学び、現世を憂えましょう。いうではないですか、芸術は加点法で採点すべきだと。美点にだけ光をあてるべきだと。加点法であれば、『ムファサ』だって名作です。

 そんなわけあるか。

 なめてるのか。

 ふざけてるのか。

 何も見えていないのか?

 映画に点数をつけるな。
 順位をつけるな。年末になどまとめるな。
 ことばにほんとうなどはなにもない。本物が欲しければ、さびれた海岸の町に建つ、「帝国」という名の劇場を買い取って、そこでかつてはみなに観られていたのに、いまはだれからも忘れられてしまった映画をかけなさい。真理も信仰もその光のなかにしかありません。
 映画から見れば、人類なんて全員0点だよ。

2024年の新作ベスト10

1.『I Saw the TV Glow』(ジェーン・シェーンブルン監督)

 120点の映画ですね。技術が20点で、気持ちが100点。
 ひとことでいえば、藤近小梅の『隣のお姉さんが好き』をダークで陰鬱にしたような話で、幼少期からずっとフィクションを摂取してきた人間たちにとっては終着点というか、とどめの一撃のような映画です。
 十年前にハリウッドを席巻したインディーの波は今や凪ぎ、A24さえもかつて薄暗さを失いつつある昨今、この『I Saw the TV Glow』は死ぬ前に見る走馬灯です。誰の? あなたの。わたしの。まだ根性悪く続いている20世紀の。

2.『ソウルの春』(キム・ソンス監督)

 こんなグダグダなクーデター映画観たことないって感じで新鮮でした。戦争にしろクーデターにしろ、歴史上の出来事の勝者の側ってなにかと最適なムーブして勝ちましたみたいなイメージで語られがちですけれど、実際はけっこうミスったり抜けてたりするんですよね。実際のところ、スポーツやゲーム以外の勝負事の八割は、「勝った側が相手より賢かった」というより、「負けた側が相手よりアホだった」という理由で決着がついているのだとおもいます。そもそも最適解ってルールや法則がかっきり決まってる場だからこそ出せるものですし。
 そして、クーデターは正規に組織化された戦争よりもよほど曖昧なギャンブルで、敵も味方もミスりまくる。それって、はたからみるとコメディに近くて、たとえば『日本のいちばん長い日』なんかもそういうとこありますよね*2
『ソウルの春』はそうしたクーデターのコメディに自覚的で、だからこそおもしろくて恐ろしい。
 特にファン・ジョンミン演じる全斗煥*3と、彼に同調する軍高官たちの温度差の描写がいい。首謀者の全斗煥はクーデターが失敗したら即人生ゲームオーバーだからフルベットするんですけど、仲間たちは失敗してもあわよくば生き延びようと両睨みなので少しでも不利になると腰がひけてしまう。
「このプロジェクトメンバーでマジでやる気あるの、もしかして私だけ!?」という話で、そういう意味ではいちばん近い映画って実は『トラペジウム』なんですよね。一つのことに全賭けする以外の選択肢を持てないリーダーと、そのリーダーにちょっと引いちゃうメンバーの話。
 どうしても鹿爪らしい顔で語るしかない事件を、ドエンタメとして描くことができるところは韓国映画の強さ。

3.『ゴッドランド/GODLAND』(フリーヌル・パルマソン監督)

 上半期のベスト。「ちょっとアイスランドまで行って教会建ててきてよ」と命じられた神父が単身アイスランドに乗り込むんですが、人はいるにはいるけど雪と火山と氷と動物の死骸しかない不毛の地なので当然神父は狂っていきます。アイスランド版『ゼア・ウィルビー・ブラッド』みたいな話です。そうかな?
 人を拒絶した土地で人間的な営み(文明、と言い換えてもいいかもしれない)を試みようとする映画はいつだって迫力あっていいですよね。TWBBしかり、『フィッツカラルド』しかり、本作しかり。カメラの三人称的な距離は、人間の卑小さをつきはなした形で、この上なく残酷に切り取ります。
 銀盤写真がいいアクセントに使われていて、映画の全体としても視線の扱いに自覚的。視線が丁寧な映画はすべてよい映画です。

4.『アイアン・クロー』(ショーン・ダーキン監督)

 毒親プロレスファミリーもの。仲睦まじかったプロレスラー兄弟たちがトキシックな父親のせいでプロレスラー兄弟たちが、どんどん狂って死んでいく。善良なものであれ悪きものであれ、映画においてホモソーシャルとは崩壊させるために用意されます。その陰惨な崩壊美には誰にも抗えない。

5.『ドリーム・シナリオ』(クリストファー・ボルグリ監督)

 編集だけで勝っている映画ってそんなにないんですけれど、『ドリーム・シナリオ』はコメディとしてカットの切り替わるタイミングといいテンポといい完璧で最高でした。だれが編集やってるんだとおもったら監督自身だった。夢を扱った映画としても夢と現実のルックのバランスがちょうどよい。『シック・オブ・マイセルフ』のときはそこまで評価できなかったんですが、なんかここまで勘のいい監督だったとは。
 アリ・アスターの推す新人は『オオカミの家』のレオン&コシーシャといい、逸材が多い気がする。もしかして、プロデューサーの才能あるのか? アスターがエグゼクティブ・プロデューサーをつとめる『サスカッチ・サンセット』もすこぶるおもしろいとの評判なので、来年五月の公開が楽しみ。

6.『チャレンジャーズ』(ルカ・グァダニーノ監督)

 過去と現在を往還する語りとゼンデイヤを挟んで揺れる三角関係を、テニスのラリーと重ねて描いた時点でハイ大勝利って感じ。物語と感情と運動を一致させる超技巧。グァダニーノ映画は、最高傑作でないときでさえ、他の映画を優越します。

7.『きみの色』(山田尚子監督)

 あなたは今ここにある世界がうつくしいと断言できますか? ありのままの世界を肯定できますか? イエスと答えたとして、テレビをつけてBBCやCNNのワールドニュースを十分間観た後でもなおその返答を覆しませんか?
 できないでしょう。
 今あるこの世界を直視に値する美しいものとして心の底から信じているひとは、とくに創作者であれば、おそらくほとんどいなくて(だってそもそも創作とは今ある現実を変えようとする試みなわけですし)、それってまあ例外的な狂気だよねとおもうわけです。山田尚子は、その超希少な狂人の一人。『平家物語』に至っては悲劇的な死すら、ありのままの世界の一部として肯定しようとしている。そこまで狂える人はいません。だからこそ特別で、だからこそ毎作が傑作なんです。
『きみの色』はそうした山田尚子映画のマニフェストです。マニフェストであるがゆえに、原理主義的であり、自己充足的であります。だから、ヒットはしませんし、これが山田尚子の最高傑作だというひともあまりいないでしょう。
 しかし、聖典であり、正典であることは疑い得ません。

8.『ヒット・マン』(リチャード・リンクレイター監督)

 今年はだれの年であったか。と問われれば、心ある映画ファンの98パーセントは、「グレン・パウエルの年」であったと迷いなく答えるとおもいます。『恋するプリテンダー』、『ツイスターズ』、そして、『ヒットマン』。たった一年で「2020年代のロマコメの帝王」の座を確立してしまいました。
 ロマコメはその古式然とした規範の濃さーーいってしまえば、異性愛規範や恋愛至上主義といったところ*4が近年のハリウッドの価値観とずれてしまっており、ちょくちょくそのズレをどうにかしたいな〜みたいな暗闘を繰り広げていたジャンルです。個人的には古典的な型をハズす革新のフレッシュよりは、様式の美を求めがちなジャンルであるので、なかなかそのへんの兼ね合いがむずかしかったのですけれども。いっそピクサーの『マイ・エレメント』みたいに非人間化したほうがやりやすいのかもなどと考えていました。
 そうしたジレンマをグレン・パウエルは、たたずまい一発で解決してしまいました。なんでしょうね、あのクラシックなマッチョっぽいイケメンではあるんだけど、笑うとちょっと抜けるというか、アホっぽい善良さが漏れ出してくる安心感。でもどこか陰もある。あの笑顔がラブコメにおいてはハズしとして機能していて、なんなら批評性さえそなえているのがすごい。グレン・パウエル以外にはない資質です。スターかくあるべし。
 で、今年は『恋するプリテンダー』と『ヒット・マン』のどっちをベスト10に入れるかで悩んでいたわけですが、映画としての出来のよさで『ヒット・マン』かな、ということになりました。意外にクセのあるリンクレイターのオフビートさを乗りこなせる俳優はあまり多くないですが*5、グレン・パウエルがこれがまあ合いまくる。
 特にクライマックスの"ダンス"シーンの気持ちよさはマ〜ジで最高。とにかくヌケがよい。

9.『ゴジラ×コング 新たなる帝国』(アダム・ウィンガード監督)

 映画という枠組みは強固なようで脆弱で、脆弱なようでいて強固なものです。ときどき『スパイダーマン:ファー・ウェイ・フロム・ホーム』のような作品をなげつけられて揺らぐかとおもえば、なんだかぜんぜん大丈夫だったりもする。
 『ゴジラ×コング』はバカのふりをして全力でそうした枠を殴りつけてくる映画の耐性テストのような作品で、そうした映画独特のえもいわれぬ不安定さが気持ちいい。

10.『Talk to Me/トーク・トゥー・ミー』(ダニー&マイケル・フィリッポウ監督)

 オーストラリアはたまにというか、謎にホラー分野で快作を生みだします。以前だったら『ババドック』、今年は『悪魔と夜ふかし』。そういえば、わたしたちはジェームズ・ワンリー・ワネルがオーストラリア出身であることを忘れがちです。
 ロードキルで轢く動物がカンガルーであること以外にオーストラリア性というのがあるのかもわかりませんが、『トーク・トゥ・ミー』は近年のあの大陸から出てきたホラー映画でいちばんの作品です。
〈境界〉を飛び越えるときにはなにかアクションが欲しい。それを「手を握る」ことにした時点でもうしびれっぱなし。

+10

11.『恋するプリテンダー』(ウィル・グラック監督)

 やはりエンドクレジットが最高ですね。映画館で一回観たあとも、飛行機の中で何度もあのシーンだけ繰り返し再生しました。

12.『夜明けのすべて』(三宅唱監督)

もう日本の映画ってたぶん冬の光陰以外に撮るべき対象ってなくなっていて、それはまあ『ぼくのお日さま』とかもそう。それにもののやりとりや乗り物の往復運動を乗せれば、まあ映画になる。なってしまう。ゴダールは車と女があれば映画は撮れるみたいことを言っていたような気がしますが、別に車じゃなくても自転車で、女じゃなくても巨大な猿とトカゲでもよい。それが映画100年の発展なのだとおもいます。

13.『トラップ』(M・ナイト・シャマラン監督)

 シャマラン最高傑作では? ジャウム・コレット=セラの『セキュリティ・チェック』みたいにひたすら「犯人」側がグダっていく映画は好き。

14.『ホールド・オーバーズ 置いてけぼりのホリディ』(アレクサンダー・ペイン監督)

 このクラシカルなやさしさには抗いがたい。

15.『化け猫あんずちゃん』(山下敦弘監督)

 ホールドオーバーズとは別のアングルでやさしい映画。
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16.『ぼくのお日さま』(奥山大史監督)

 これも冬の光陰の映画ですね。光と運動を撮れる映画監督はそれだけで貴重です。

17.『シビル・ウォー』(アレックス・ガーランド監督)

 これ観た翌日にアメリカ行ったら大統領選当日だったんですよね。それはともかく、「撮ること」「目撃すること」のロードムービーとして上質。

18.『システム・クラッシャー』(ノラ・フィングシャイト監督)

 マジもんのアウトサイダーは救い得ないのだ、という現実を容赦なくつきつけていく点ではホールドオーバーズやあんずちゃんとは逆の映画と言えますね。現地ドイツでは19年公開作で、監督のフィングシャイトは2024年に『The Outrun』というシアーシャ・ローナン主演映画を撮って、結構評価されています。これは日本でも今年公開?

19.『オーメン:ザ・ファースト』(アルカシャ・スティーブンソン監督)

 ホラー映画に自分が求めるものってショッカーや怖さより、「へんな絵面」なのかもしれず、そういう点でこれは満たされまくりました。冒頭のチャールズ・ダンスの笑顔で最高の映画だとわかります。

20.『どうすればよかったか?』(藤野知明監督)

 日本的な家父長制って別に怒鳴ったり殴ったりはしてこないんですよ。ただ、「祟り神」と化したあなたを恐れ、怯え、閉じ込め、目を逸らしながらやりすごそうとする。人間ならそれでいつか死んで終わりなのですが、では、人間でないものの場合は?

他良かった作品

『悪は存在しない』(濱口竜介監督)、『メイ・ディセンバー』(トッド・ヘインズ監督)、『Chime』(黒沢清監督)、『エイリアン:ロムルス』(フェデ・アルバレス監督)、『インフィニティ・プール』(ブランドン・クローネンバーグ監督)、『リンダはチキンがたべたい!』(キアラ・マルタ、セバスチャン・ローデンバック監督)、『セキュリティ・チェック』(ジャウム・コレット=セラ監督)、『トランスフォーマー/ONE』(ジョシュ・クーリー監督)、『ビー・キーパー』(デヴィッド・エアー監督)、『ミッシング』(吉田恵輔監督)、『フュリオサ』(ジョージ・ミラー監督)、『ザ・バイクライダーズ』(ジェフ・ニコルズ監督)、『DUNE PART2』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)、『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督
)、『ゴールドボーイ』(金子修介監督)、『落下の解剖学』(ジュスティーヌ・トリエ監督)、『ダム・マネー ウォール街を狙え!』(クレイグ・ギレスピー監督)、『哀れなるものたち』(ヨルゴス・ランティモス監督)、『僕らの世界が交わるまで』(ジェシー・アイゼンバーグ監督)、『ビートルジュースビートルジュース』(ティム・バートン監督)、『枯れ葉』(アキ・カウリスマキ監督)
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リマスター/再上映では『カンフーマスター!』(アニエス・ヴェルダ監督)と『美しき仕事』(クレール・ドニ監督)、『テルマ&ルイーズ』(リドリー・スコット監督)。特に『美しき仕事』はベスト。

アニメ映画:よかった順

『きみの色』
『化け猫あんずちゃん』
『リンダはチキンが食べたい』
トランスフォーマーONE』
ウマ娘プリティーダービー 新時代の扉』
『ルックバック』
『オリオンと暗闇』
『数分間のエールを』
『ロボット・ドリームズ』
『トラペジウム』
ムーミンパパの思い出』
『FLY!/フライ!』
『めくらやなぎと眠る女』
インサイド・ヘッド2』
『ねこのガーフィールド
名探偵コナン 100万ドルの五稜星』
『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』
『モアナと伝説の海2』
『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』
機動戦士ガンダム SEED FREEDOM』
(『ライオンキング:ムファサ』はほぼほぼアニメなのですが、ディズニーが超実写版と言い張っているので実写枠です)

イヌ映画オブジイヤー

☆『落下の解剖学』
 『DOGMAN』
 『関心領域』
 『エターナル・ドーター』
 『ゴッドランド』
 『枯れ葉』
(『ロボット・ドリームズ』は入りません)
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ドラマ

『The PENGUIN』と『私のトナカイちゃん』がよかったよ。あと『地面師たち』はあんだけ転がして引っ張ってくれたんだから文句ないのだけれど、世の中そうじゃない人が多いようで、ちょっとビックリした。

フランシス・フォード・コッポラの『メガロポリス』のおもいで。

 メルボルン行ったときに観ました。ミニシアターみたいな小劇場に満員のお客さんがつめかけており、さすがコッポラの威光は南の果てでも燦然と輝いておるのだな、と感心しながら観はじめたんですよね。
 観始めて数分経つあいだにわたしは「え、これ⋯⋯これは、なんの⋯⋯なに???」みたいなかんじになってしまったのですが、オーストラリアの観客はなんだかやたらノリが良く、ところどころでドッカンドッカン爆笑する。コッポラは笑わせるつもりで撮ってなかったとおもいますが、なんかもうコメディ映画でもこんな笑わんやろってぐらいみんな笑う。
 で、この映画ってだれも予想しないような異様なラストカット(どんでん返しとかそういうんじゃなくて、とにかく絵面が異様)で終わるんですけど、あまりの異様さにさしものオーストラリア人もあっけにとられて沈黙⋯⋯したのかとおもいきや、エンドクレジットに入って「監督:フランシス・フォード・コッポラ」と出た途端に万雷の拍手、場内大喝采。「愛してるぜ! フランシス!」とみんな叫びます。嘘みたいですが、マジです。
 なんかカルトポンコツ映画の応援上演みたいな雰囲気でした。実際、五年もしたら愛されカルトポンコツ映画になるのかもしれません。
 それはそれとして、映画館から出ようとしたらなんか出入口がめっちゃ混雑して出られないんですよ。ぎゅうぎゅう詰めで。単に人数が多いのもあるんですけど、みんな出入口付近で立ち止まった隣の人と感想トークとかしまくってるんですよ。夜十時に。
 家に帰ってからやれよ、とおもったんですけど、後ろから知らんあんちゃんに「いやあ、最高だったな!」と話しかけられて、あ、こいつら、知らん者同士で感想トークしてるんだ、と納得しました。
 ”巨匠コッポラ”を認識しつつ、その身代をなげうって作った大作をシニカルに消費し、鑑賞後即みんなで感想を語り合う。映画リテラシー高すぎだろ。そりゃ、リー・ワネルとジェイムズ・ワンもメルボルンから出てくるわ。そうおもったね。 
 そのあと、そのあんちゃんとは特に盛り上がらず、まだ開いてたハンバーガー屋でハンバーガーを買い、ホテルに戻ったとさ。

*1:『モアナ1』の監督をロン・クレメンツとともに務め、2018年に引退したジョン・マスカーは、今度行われる『モアナ』の実写リメイクにも、続編商法にも否定的なコメントをしています。https://english.elpais.com/culture/2024-05-18/the-director-who-shook-up-disney-and-hollywood-animation-with-a-mermaid-a-genie-from-a-lamp-and-a-polynesian-princess.html

*2:リメイク版はそこを見誤ってシリアスな人情に振ったからつまんなくなってしまった

*3:映画では偽名にされている

*4:とはいえスクリューボールコメディの時代からその時代時代で「旧来的な価値規範に捉われない新しい男女像」に挑もうとしてきた功績も忘れてはなりません。

*5:『バーナデット ママは行方不明』のケイト・ブランシェットはがんばってたのですが、ついに噛み合わなかった


2024年のベストゲーム10選とその他愉快だったゲームたち

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I thought I heard you say
I wanna play with you, I wish you did too
I wanna play with you, I wish you did too
I wanna play with you, I wish you did too
I wanna play with you, I wish you did too

――んoon「Forest - feat. ACE COOL」



proxia.hateblo.jp
(2023年分)

・ゲームの内容の話はだいたい別の場所で書いているので、ここではそれ以外のことについて書きます。「それ以外のこと」以外、要するに実のありそうなことを書き出したら、この記事書くの飽きてきたんだなとおもってください。
・最終的にめちゃ長くなったんで、上の目次から興味の有りそうなタイトルやトピックへ飛ぶよろし。まあ2位以下はわりとノリとつないでいるので、順位自体はあんまり参考にせんでもらっておくと。
・基本的には2024年にリリースされたゲームが多いですが、別に新作に限定していません。単に24年に遊んだゲームが対象。


 では、参りましょう。

2024年のゲームベスト10

1.『Keylocker』(Moonana/Serenity Forge)


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 ユーザーが「インディーには”尖った””アート”が欲しい」というとき、基本的には大嘘で、ほんとうは端正さと真正さを求めています。マクドナルドでアンケートを取ったら客たちが「もっとサラダみたいな健康的なメニューを出してほしい」と答えるようなものです。で、なければ、『Balatro』のようなウェルメイドの極致のような出来の代物が「今年最高のインディー」だと称えられるはずもありません。
 とすれば、わたしたちが求めているものは製品のように装った異形、あるいは異形のように装った製品なのかもしれません。それこそ、『Balatro』のように。
 だれもが正気を欲する世の中です。しかしどうすれば正気でいられるのかは、だれにもわからない。
『Keylocker』はただしい狂い方を教えてくれます。たとえば、ほとんどすべてのオブジェクトやモブに固有の会話が設定されている。ロック観が今どきピュアすぎて逆にエッジが効いている。ストーリーテリングカットシーンの切り替わりが唐突すぎる。QTEベースの戦闘が初見殺しすぎかつムズすぎる。設定が多すぎる。音楽の力を信じすぎている。すべてが真剣に作られすぎている。頻発するバグにすら生真面目さがある。あらすじ? 聞きたいですか? どうやら我々の知る土星ではない土星ギリシア神話をベースに神々的存在が人類を創造した後なんやかんやあって破綻した人類をやりなおすぜということで生まれた人類型アンドロイド(だいたい対になるドッペルゲンガーと呼ばれる双子的存在を持ってできる)たちだったが神々の住む天上から遠く隔たった下層のスラムで惨めに暮らしておりそんな腐った世界に生まれ落ちた天性のロッカーにして脱獄囚BOBO-Chanが音楽の禁止された世界で専制的階級社会をぶっ壊すためにハッカー占い師ジャンク屋サムライ娘被差別階級のアシカガスマスクをかぶった関西弁の少女禁断のジューボックスメカ脱税専門ドッペルギャングなどを率い各地でコンサートを開いて人々に「声」を与えるのだけれど手をこまねてみている支配者たちではなく鯨を神聖視する教会と結びついてBOBO一派な行く先々で妨害を……

https://pbs.twimg.com/media/GX3MU8TaUAA5Xtj?format=jpg&name=large


 おわかりのとおり、とても開かれた作品ではない。

 インディーゲームとはなにかと聞かれたら、わたしは「個人的な記憶のパッチワークでできた夢」と答えるでしょう。どのような芸術形態であれ、個人・少人数制作の作品にはその人の見てきたことや体験してきたコンテンツの断片が、わりあい無造作にデコボコと置かれがちです。製品にする、ということは、そうしたデコボコを複数人での合意のもとで均す作業でもあります。たまにたったひとりで製品であることを可能にする、ある意味で怪物のような作者もおり、2020年代はそういう天才的な怪物たちの時代なのだとはおもいますが、それはともかく。

(よくわからないけど頑固でかわいいサムライ。ロマンス対象キャラでもある)

『Keylocker』は、まさしく誰かの見た夢です。『LiEat』に出会った衝撃から右も左もわからない状態でRPGツクールに手を出し、『Virgo versus the Zodiacs』という傑作を作り出したMoonanaはわれわれのより親しんできた意味での怪物であり、異形です。
 本作の戦闘システムに『マリオ&ルイージRPG』の影響があることは明白ですし、論理の回路はともあれ、納得もすることでしょう。音楽に旧ソ連ポスト・パンクアヴァンギャルドメタル、日本のビジュアル系が混ざっていることも理解できるでしょう。RPGとしての雰囲気の影響がもっとも強いのは『女神転生』シリーズ、なるほど、そうだろうな。そして、『MOTHER』。『MOTHER』の影響を受けていないインディーRPGなんてありうるでしょうか? 
 そのうえで、スキルツリーのシステムは『Grim Dawn』だという。わかるよ。わかるけど、そこで『Grim Dawn』ですか。
 こうした孤独な脈絡の無さこそが夢であり、狂気であり、インディーであるわけです。その結果できたゲームは製品として、どうか。
「上手くない」のひとことに尽きます。
 いや、グラフィックはアニメーション含めて完璧な出来だし、キャラやセリフは立ちまくってるし、戦闘も難易度が理不尽なだけでシステムとしては悪くないし、音楽は言うまでもなくよいし、設定や世界観はとっつきずらいものの綿密に構築されています。一つ一つの要素は、非常にレベルが高い。にもかかわらず、それらを有機的につなげる手管がドヘタです。だれよりも筋肉ムキムキで出来上がった肉体を持っているのに活躍できないスポーツ選手みたいなものでしょうか。
 端正さを旨とする商業の論理では許されない存在です。

(こういう主人公)

 しかし、ここに在る。在ってしまう。そういうたぐいの奇跡として、『Keylocker』は2024年のベストゲームであるわけです。正気なものとカロリー過多でジャンクなもの以外も許されるという世界の豊かさの証明として、そこにいてくれているのです。福音です。
 本作が完全に閉じられず、幾分開かれたものになっているとしたら、それはテキストの力です。このゲームはテキストがとにかく強い。そして、それを日本語に訳した翻訳者のおかげでしょう。日本語訳の水準が少しでも落ちていれば、本邦における『Keylocker』の体験は無惨に破綻していたはずです。もしかすると、自分は英語版でやるより深い体験を得られたのではないかという気すらしてくる。買いましょう。

(このゲームのこと)


2.『Balatro』(LocalThunk/Playstack)

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 中毒性の高いゲーム*1は憑物落としといいますか、悪魔祓いなのだとおもいます。呑まれたようにそれだけしかやらなくなり、その正体を見極めた時点で解放される。
 悪魔との賭けで張られるのは金ではありません、時間です、命です。ゲームが可処分時間を争奪する賭け事なのだとしたら、罪は『Balatro』だけにあるのではない、『Apex Legends』にもありますし、『Final Fintasy VII Remake』にもある。どれだけ長くテーブルの前に座らせられるか、それがカジノとビデオゲームの共通の目的であり、究極的にはプレイヤーとデザイナーとのあいだに遊ばれているゲームです。
 だから、ゲームを見たときに「クリアまでの所要時間」を気にするようになった時点であなたはゲームをする人間としては死んでいる。毎週末に特定のGIレースに1000円だけ賭ける、今日は5000円までと決めたパチンコを本当に5000円で切り上げる、チャラになった南郷さんの借金300万をそっくり差し馬に乗せてもう一戦打たずそそくさと帰る。人間としてはただしいし、賢いでしょう。でも、終わっています。ゲームは、芸術でもスポーツでも物語でも活動でも社交でもメッセージでもアゴンでもイリンクスでも儀式でも信仰でもありません。純粋な無為です。蕩尽される命のかがやきであり、滅びの予感です。
 そうした原義を『Balatro』は教えてくれる。あらゆるソシャゲやMMORPGやオンラインバトロワが甘く取り繕って隠匿しようとしてきた真理を教えてくれる。まっすぐでまっとうなゲームです。
 そのために『Balatro』はポーカーという古臭いゲームを分解して組み直し、デッキ構築ローグライトの型を極限まで削り、快楽のサイクルを最速で回転させるにはどう作ればいいかの極限を追求しました。と、すれば、これにもっとも近いゲームは『Into the Breach』ではなかったか。
 わたしは悪魔が好きです。いっしょに夜ふかしして踊ってくれる悪魔が好き。買いましょう。

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3.『INDIKA』(Odd Meter/11 bit Studio)


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 悪魔のささやきがずっと聴こえるゲームもある。『INDIKA』です。
「悪魔」の声が聴こえる流され系修道女インディカさんが架空歴史19世紀ロシア(ちょっとスチームパンクっぽい)を舞台に、隻腕の傷痍軍人をお供に、試される大雪原マザーロシアを蒸気バイクで爆走したり、超巨大キャビア缶詰工場に潜入したりしつつ、信仰を試されまくるお話。
『INDIKA』は掛け値なしに映画のように撮られたゲームです。カメラワークからカットの切り方、演出、演技まで、その質感がそんじょそこらのAAAよりめっちゃ”映画”してる。
「映画のようだ」といわれるゲームはFFVIIやMGSからこのかたナンボもございましたし、FMVと呼ばれる実写取り込みのゲームは太古の昔より存在しましたし、なんとなれば映画そのものを題材にした『Immortality』なんかも近年ではありました。しかし、心底映画っぺえ〜、東欧のインディー映画っぽい〜と思えるのはなかなかありません。
 じゃあ、映画でやれよ、という話にもなるのでしょうが、そこを『INDIKA』は「ゲームであること」に過剰に自覚的になることで巧妙に回避しています。その詐術が、意図してのものかどうなのか、最終的には「信仰とはゲームである」という批評を完成させてしまいます。これはすごい。
 某所でも書きましたが、GuardianやApp2Topのインタビューによれば*2、開発スタジオのOdd meterはロシア・ウクライナ戦争でロシアからカザフスタンアルマトイに移住すること*3になったそうで、創設者のドミトリー・スヴェトロフ曰く、ロシア正教会は「プーチン政権のプロパガンダ機関」と化し、若者たちに「祖国のために戦い、死んで、天国へ行け」と奨励しているのだそう。幼い頃から信心深い家庭に育ち、一時期は修道院で過ごしたのちに信仰を捨てた*4彼がそのような有り様を唾棄すべきものと捉え、『INDIKA』の底なしのニヒリズム*5へとつながったのは疑いえません。
 本来なら積極的な信仰とは無縁に生きているわたしたちには本来伝わらないはずの途方もない絶望が、映画とはまた違った角度から伝わる。結果的に、『INDIKA』はゲームそれ自身を含めた既存メディアのどれにも達成できなかったことを実現しています。買いましょう。

4.『SANABI』(Wonder Potion/Neowiz)


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 フィクションの角度はさまざまな条件によって制約され、その範囲はわれわれの想像よりもはるかに狭小です。そのために、映像的演出の仕方は各メディアごとにはもちろん、各ジャンルごとにバリエーションがあります。プラットフォーマーメトロイドヴァニアのような2Dサイドビューアクションにさえ、ユニークな演出は存在する。あるいは芽吹きつつある。
 『SANABI』はそのストーリーや演出を映画から借用しているのは疑いえないところですが*6、しかしカットシーンとインゲームをよどみなく繋いで2Dサイドビューのスタイルをたもったままプレイヤーに感動的な物語体験を与える手腕はユニーク以外のなにものでもありません。端的にはトメとズームとエフェクトですが、それにしても、考えてもみてください。大部分を三頭身ほどのドット絵で展開されるキャラクターたちに多くの人々が感情移入し、泣いているのですよ。想像力に溢れた平成人(絶滅して久しいと言われます)ならいざしらず、『Last of Us』や『Life is Strange』の存在するこの2020年代に?
 それはつまりタペストリーから映画への転換が2Dプラットフォーマーメトロイドヴァニアの世界で生じつつある。『hollow knight』や『Ori』シリーズほどのリッチな(アニメーション寄りの)アニメーションでなくても、画面の静と動だけで語る技術がこのジャンルに育ちつつあるのではないか。小品ですが、『sheepy』などもその良い傍証となることでしょう。買いましょう。


5.『The Fermi Paradox』(Anomaly Games/Anomaly Games、Wings)


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 二度と取り戻すことのできない過去を夢見ることのできる人間は幸いである。なにものにも汚されることのない永遠を抱きながら生きられるのだから……。
 そうかな? わたしはずっとあのすばらしき黄金の日々、すなわち『歴史隆々』の後継者を求めてきました。その過程で「意外と自分はテキストアドベンチャーRPGが好きなのだな」と発見があったのはともかく、思い出は二度と手に入らない。いや、今でもVectorで『歴史隆々』を買うこと自体は可能なのですが、さすがにOSとの兼ね合いがね⋯⋯。
 ある種のひとびとは『歴史隆々』欲をコロニービルドシムでその欲望を代替できるようですが、わたしはできません。パラドゲーをオブザーバーモードで観戦する毎日です。『Crusader Kings III』は家系図を引いてくれるのでマジでいいですよ。
 で、去年は『ファンタジーマップ・シミュレーター』が出ましたね。レビュー欄で「『歴史隆々』を彷彿とさせる!」という文言を書いてるひとが多く、こんなに『歴史隆々』ファンがネットの大海に潜んでいたのかと胸がいっぱいになりましたが、肝心の『ファンタジーマップ・シミュレーター』自体はこれまであった放置系ゴッドシム/ライフゲーム系放置シム(『WorldBox』は結構好き)とさして代わり映えのしなくて、あの『歴史隆々』の情報の物量、すなわち歴史感がもっと欲しい! とおもっているユーザーには不足でした。
 で、『Thee Fermi paradox』ですよ。2021年にアーリーアクセスが開始されて未だにフルリリースしていない。いま、ver.0.7くらいだったかな? まあ未完成です。その未完成具合に夢がある。アンビルドの夢です。
 内容? 聞きたいですか。壮大ですよ。各惑星に「生命の種」を撒き、そこから生まれ出ずる種を愛でてつつ文明の発展を見守っていく。惑星間で戦争もします。人類は宇宙規模で愚かです。興りも滅びもなにもかもが、ほぼ文字だけで編み上げられている。それをなんと呼ぶか。歴史です。
 単線的な史観の発展段階ごとにある程度枠組が決まっていて、そのバリエーションの乏しさに窮屈になることもあるんですが、でも全然想像が入る余地がある。その隙間でわたしたちは妄想します。英雄を、政治を、社会を、カギカッコつきでの「歴史」を。
 あの思い出は変わらず戻ってはきません。でも、代わりに海棲サイバーパンクポルノクラシー文明が砂漠ガラス文明を滅ぼしたりします。それもまたすてきな銀河です。買いましょう。

6.『DICEOMANCER』(Ultra Piggy Studio/Gamera Games)


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 わたしはデッキ構築型ローグライトが好きなのではありません。世界をなんとなく律していた枠組が、その世界がもともと内側に有していた論理によって、まったく正当に、けれどもめちゃくちゃに破壊されるその瞬間が好きなのです。それが特によくあらわれる裂け目がデッキ構築型ローグライトというだけなのです。
 で、『DICEOMANCER』。カードゲームです。あなたはダイスをふります。目が出ます。その出目でもって、画面上のあらゆる数字を操作できます。そう、あらゆる数字を。敵味方のHP、敵の攻撃力、手札の上限枚数、マナプールの最大値、所持金、敵の予告行動までのターン数、アセンション数、カードに記されたあらゆる数字⋯⋯ゆくゆくはイベントやショップやルールブックさえも、あなたはサイコロによって書き換えることができるようになるでしょう。
 デッキ構築型ローグライトはよく「運ゲー」というワードでもって良し悪しを測られますが、運のゲームを運によって塗り替えていく、これほどの快楽はありません。
 惜しいのは、開発側自身がその威力に臆して二の足を踏んでしまっていることです。もっとなにもかも破壊していいのに。なんなら、すべて崩壊させてもいいのに。
 なにげにアートワークとアニメーションまわりが唯一無二のすばらしさ。買いましょう。

7.『Leap Year』(Daniel Linssen/Daniel Linssen, Sokpop Collective)


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 謎解きで一番気持ちの良い瞬間は「答えが最初から自分のそばにあったことを知る」ときです。具体的にも、抽象的にも。
 それでいえば、『Leap Year』は快楽の連続でした。すべての可能性は与えられている。わたしたちはそれに気づいていないだけ。跳びさえすれば届いたのに、どうせ自分はなどと見切って諦める。
『Leap Year』は無言で、しかも物語もなしに語られる人生讃歌です。気づきの連続こそが教訓であり、テーマです。こういうものこそが美しい。
 アビリティの解放をエリア間のゲーティングに用いるというメトロイドヴァニアの暗黙の前提を逆手に取ったsokpop一世一代の快作。あれ、sokpopは今作に関しては開発はしていないんだっけ? なんでもいいや。買いましょう。

8.『The Life and Suffering of Sir Brante』(Sever/101XP)


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 去年はさまざまなRPGに手を出しました。『warsim』、『caves of qud』、『roadwarden』……が「手を出した」程度でどれも止まっております。と、いうのも、テキスト量多いのに日本語化されてない。まあ、そうですね。そういうものです。単純なワード数だけでいってもメガノベル級の翻訳量を要求されるアドベンチャーRPGは訳されないのが当然なジャンルです。特にファンタジーだと独自の用語とか言い回しとか多いからなお手間が余計にかかるしね。
 比較的抑えめの規模だった中世ファンタジーテキストRPG『The Life and Suffering of Sir Brante』も、当初は日本語でのプレイを絶望しされていました。ところがまさかの公式からの日本語版実装のアナウンス。これだけの実質有志のボランティアとして、一年八ヶ月かけて50万ワードのテキストをコツコツ翻訳した Bliz氏は英雄だとおもいます。ちなみにこのかたは『Suzerain』の有志訳もなさったかたです。あと『Where the water tastes like wine』や『Stasis』やJoe Richardsonのゲームとかも。ヤバすぎ。
 それはともかく、『Sir Brante』。これは架空の中世ファンタジー的世界で新興貴族の家庭の次男坊に生まれた男の物語です。この「新興貴族の次男坊」というスタート地点が絶妙で、ふつうであれば、没落した名家の後継ぎの俺がその事実を知らずに貴種流離譚とか、スラムのガキからキング・アーサーとかをやりたがるところじゃないですか。でも、本作の主人公は祖父の代に成り上がった貴族の家系だからそんな地位が高いわけでもありません。むしろ、必死に藻掻かないとたちまち家格が落ちてしまうし、っていうか自分自身がどんなに頑張ったところで次男坊だからまともに栄達することは困難で、せいぜいそこそこの官僚とか坊さんとか革命戦士とかに落ち着くしかなく、それでもなお家長になりたいなら目の上のたんこぶである兄をどうにかするしかない。
 どのようなルートをたどるにしろ、政治感覚というのは絶対に必要とされいて、体制側のお偉いさんに取り入ってスパイみたいなことをやったり、逆に反体制側におもねったり、神秘的な貴族のご令嬢の愛人になったり、ときには自分の親友を謀殺した憎き卑劣漢の靴を舐めるなんてことさえやらなきゃいけません。
 要するに、魔王を討伐したり、ドラゴンを撃ち落としたり、ラダーン祭りに参加したりといった勇者じみた行為とは一切無縁の泥臭い「剣と魔法の中世ファンタジーRPG」というわけです。
 え? 「魔法」がどこにあるか? って、まあ、いろいろありはするんですが、いちばんわかりやすいのは「三回までは死んでもOK!」なところでしょうか。なんか世界を支配する神のおかげで全人類死んでも復活します。やばいね。このロマンあふれる設定を上述したようなヤダみ溢れる泥臭中世になげこむと「高位の貴族が戯れに使用人を殺して生き返らせる」とか「高位の貴族軍人が庶民である部下に難癖をつけて決闘を繰り返し申し込み、いたぶりまくって殺す」とか「高慢な爺さんがムカついた孫を蹴り殺す」とかろくでもない用例しか出力されてきません。
 よいファンタジーの条件とは世界を実感できることです。ありものを使うことはかならずしも悪いことばかりではないですが、そのものがなぜそこにあり、どのように機能しているのかを感じさせる奥行きが欲しい。矛盾はあってもいいのですが、信じられるだけの質量が欲しい。
 アーシュラ・K・ル=グウィンは「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」でこう述べました。「怠惰な精神の産物である使い回しのお定まりの設定ではなく、ほんものの空想によって生み出された社会や文化を舞台とするファンタジー作品を見つけると、わたしはいつも、花火を打ち上げたくなります」
 わたしもまた『Sir Brante』のために花火を打ち上げましょう。世界の成り立ち、宗教、社会や生活のディティール、魔法の要素、キャラの言動、それらすべてにおいて信じたいとおもわせるだけの力がこのゲームにはあります。
 ちなみにスタジオはこのユニバースを拡大させるらしく、こちらもまた独自架空歴史テキストヘビイアドベンチャーRPGのユニバースを拡張させつつある『Suzerain』とおなじく興味津々で注視しております。

9.『LOK DIGITAL』(Letibus Design, Icedrop Games/Draknek and Friends)

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 わたしはそれなりにパズルが好きですが、パズルのほうはわたしのことを激烈に嫌いな模様です。ろくにクリアさせてもらった経験がない。『Baba is you』、『Patrick’s Parabox』、『Understand 』、『Curesed』、『Void Stranger』、『Witness』、『A Monster’s Expedition』、いずれも傑作と肌感ではわかりますが、その精髄まで嘗めている気がどうもしない。
 知性と根性のどちらか、あるいは両方が足りないのだといわれればそれまででしょう。ゲームは差別的です。かれらは属性によって差別するのではありません、力量によってふるい落とすのです。
 『Everything is going to be OK』などで知られる実験的ゲーム/ソフトウェア開発者のalienmelonことナタリー・ロウヘッドはマストドンでこんなことをトゥートしていました。*7

「ゲームはアートだ」と主張したがる人々が、実際にそのセリフを口にするとき、決まっていつも「まあ、自分はそんなにゲームが上手じゃないけれど⋯⋯」というためらいがあとにつく。
映画を楽しむのに「上手」である必要があるだろうか?
アートを楽しむのに「上手」である必要があるだろうか?

こんなことをいうのも(ゲームの分野でアーティストとして活動する)自分に、つねにつきまとうトピックだからだ。
なぜ、ゲームを享受するのにスキルの問題がそんなにも取りざたされるのだろうか?
「上手」でなくても楽しめるゲームを、私はいくらでも挙げることができる。けれど、「本物のゲーム」の理想というのは商業性の強いメインストリームの作品によって左右されがちで、それはアートフォームとしてのゲームについてのひとびとの理解を今でも規定している。こうした固定観念からぬけだすのは容易ではない。
Nathalie Lawhead (alienmelon): "“games are art” but then you hear comments from p…" - Mastodon



 ロウヘッドが実質的にメディア・アーティストであることや、「映画やアートを楽しむのにスキルはさして入り用ではない」という見方にいくぶんかの留保はつくであろう*8にしても、「まあ、自分はそんなにゲームが上手じゃないけれど⋯⋯」とつぶやくひとたちの気持ちはよくわかる。ことゲームにおいてはアクセシビリティの問題は、実はだれでも大なり小なり抱えている。「後期高齢者が『バイオハザード』や『ELDEN RING』をクリアした」といったほのぼのニュースが流れてくるとき、それが話題になるという事象の裏側に含まれているものはなにか。
 動体視力、勘、反応速度、音感、論理的思考能力、パターン記憶、物語把握、ジャンルや様式への順応、その他さまざまな種類の認知能力。あなたは好き嫌いを得意不得意と混同してゲームを選んでいるとき、実はゲームに選ばれている。
 そして、あなたが共有しているかはわかりませんが、わたしには人生を貫くひとつの欲望がある。この世のすべての傑作に触れたい。けれども、ゲームは篩からこぼれ落ちたものには触れることすら許さない厳格さがある。気がする。私はなぜ あらゆる人 あらゆる場ではないのか!*9
 
『LOK DIGITAL』はもしかしたら夢多き無能者の見た末期の幻覚なのかもしれません。
 Thinkyという比較的最近に確立されたジャンルがあります。『A Good Snowman Is Hard To Build』や『A Monster’s Expedition』などで有名なパズルゲーム作家 Alan Hazelden*10が提唱した概念で、「迅速な反射神経や器用さではなく慎重な推論がすべて」とされるゲーム群のことです。Thinkyなゲームを紹介するサイト、Thinky Gamesによれば「論理ゲーム、探偵(推理)ゲーム、ミステリーゲーム、ストラテジーゲーム、数学的ゲーム、アドベンチャーゲーム」といった広範なジャンルを横断するそうです。要するにこれまであまりに指す範囲が広すぎた「パズルゲーム」のくくりから、『テトリス』などの反射神経やゲーム的アクションが要求されるサブジャンル(主には落ちものパズル)を切り離し、より純粋な思考と解決の快楽を重視するジャンルです。ジャンルと言ってもこの漠然とした扱いづらさは首唱したHazelden自身の認めるところで、「でもみんな使っちゃってるからしょうがないんだよな〜」とインタビューで言ってました。
 で、『LOK DIGITAL』はそうしたThinkyゲームの最新の例のひとつとして取り上げられます。
 ブロックのマス目に浮かんだ文字をつないで、特定の単語を作りマス目を塗りつぶしつつ、その単語の持っている固有の効果によってマスをさらに塗りつぶす。で、マス目をすべて塗ったらステージ完了。ざっくりと説明するとなんのこっちゃみたいなゲームですが、やってみると、これがよくできている。
 そして、意外にThinkyすぎはしない。
 漠然とした推論をもとに、マウスをドラッグしながらうねうね文字をつなげながら、ああこれは違うのか、これも違うのか、と感覚的なトライアル・アンド・エラーを繰り返していると、なんとなくできてしまう。
 わたしにやさしいThinkyなゲームとは、『Return of the Obra Dinn』系列の「間違いが3つ以下だと『惜しい』と教えてくれるシステム」しかり、ニアピンまでの寄せ方がご親切です。『LOK』は設問を見たときの「うへえ〜〜、わけわかんないよ、無理だよ〜〜」という気持ちから「手筋はわかってきたけど、詰めがわからない」までの距離が意外と近く、そこからちゃんと「これを発見したおれって天才じゃない?」までの気づきをきっちりキャリーしてくれる。とっつきづらいようでいて、親しめるところの多いあんちゃんです。
 ついでに、ビジュアルもいいし、音楽もいい。

10.『Mouthwashing』(Wrong Organ/Critical Reflex)


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 ローポリホラーの波が来ている来ている来ています! というのは占わずとももはや誰もが知っていて、『Crow Country』と『Mouthwashing』がバカ売れしているところからもわかるわけですけれど、ではローポリホラーであることとはいったいなんなのか。
 過去の世代に属する美学のリバイバルというのは多くの場合、甘いノスタルジーを伴い、ときにはその甘美さが目的化されるといわれます。*11
 しかし、マーク・フィッシャーのいうようにその回顧への欲望が「新自由主義的な資本主義が連帯や治安を破壊したことが、その埋め合わせのようにして、価値の定まったものや慣れしたしんだものへの渇望をもたら」*12されたものであったとすれば、ローポリホラーをめぐる状況はいささか奇妙であるといわざるをえない。ローポリホラーに内在しているものは安定した過去の日々ではなく、不確定で崩れやすい不安のこころだからです。
 ホラーに出てくる怪物が「人間の出来損ない」である点はしばしば指摘されるところです。ある程度までは人間に近い形態であるからこそ、非人間的なおぞましさが際立つのですね。
 そうすると、ローポリ人間たちは、たとえ劇中で真正の人間として描かれていたとしても見た目には人間未満の感覚がずっとつきまとう。PS1〜2世代のプレイヤーたちは、(たとえどんなに明るい内容のゲーム出会ったとしても)旨の奥底でつねにこの感覚のもよおす不安に憑かれてきたのです。
 人間がまがい物なら、世界もまがい物です。現実に似ようとするが現実になりきれていない。そこに歪みが生じます。そこにホラーが吹き出します。
 懐かしさは甘さだけではない、ということです。記録メディアはここ百年常に鮮やかさを更新しつづけているため、過去の映像はつねにどこか傷ついて見えます。今撮られている映像でさえそうです。そこにはなにかが入り込む間隙がある。
 そこまでであれば、どんな無自覚なローポリホラーにも含まれているおぞましさです。
『Mouthwashing』のすばらしさは、そうしたローポリの「出来損ない」や「不鮮明さ」の不安を演出面で徹底して磨き上げたところです。たとえば、画面の切り替わりでよくディゾルブや音飛びが生じるのですが、これが傷ついた過去や混沌とした記憶を語る物語のエモーションと連動している。単に趣味やフィーリングとしてグリッチやバグ的な表現が取り入れられているわけでなく、きちんとストーリーテリングの文脈に理屈づけられているのです。
 ローポリホラー作品は表層に浮き出るインスタントな不穏さでそのまま押し切ろうとしてしまうきらいもありますが、『Mouthwashing』ではあらゆる細部が物語やキャラやモチーフに奉仕し、ひとつの強力な体験を作り上げています。『How Fish is made』のようなピーキーな不条理ホラー(でもよく見たらテーマは『Mouthwashing』と通底している)を作っていたWrong Organがこんなストロングスタイルのホラーを出して評価されるだなんて、うれしい驚きです。
 2024年はパブリッシャーであるCritical Reflexの年でもありました。『Buckshot Roulette』、『Arctic Eggs』、『THRESHOLD』、そして『Mouthwashing』。なぜタワーディフェンスやら高速アクションプラットフォーマーやらゴキゲンなゲームを出していたキプロスのパブリッシャーが、唐突にローポリホラー界のゴッドファーザーと化したのかはわかりませんが、まあ今後もひとつよろしくおねがいしたい。

 そういえば、Critical Reflexの『Arctic Eggs』についてはここでも取り上げました。
booth.pm


メンションしたい良かった作品たち(エンドクレジットまで見たか、ある程度十分に遊んだとおもったもの。順不同)

・基本的には印象に残った順で並んでいるようなそうでないような。
・スクショはビジュアルを気に入ったゲームのみ


『Sorry, We are Closed』(à la mode games/Akupara Games)
・これもローポリホラーの部類に入る。けど傾向としては『バイオハザード』とか『パラサイト・イヴ』あたりのアクション性が高いもの。
・ビジュアルのセンスだけでいったら『Keylocker』や『Diceomancer』とならぶくらいに好き。須田51先生のフォロワーらしいん。個人的には須田ゲーそのものはそんなにマッチしない一方で、須田ゲーフォロワーは刺さるのが多い。村上春樹そのものは好きじゃないけど、春樹フォロワーには好きな作家が多いみたいなのといっしょですね。いっしょか?
・話としては失恋して人生どん底のコンビニ店員のミシェルという女が「公爵夫人」と名乗るめちゃつよ悪魔に見初められて「第三の目」が開き、悪魔や天使といったこの世ならざるものが見える体質になってしまう。なんとか「公爵夫人」を求愛をはねつけるために魔界じみたダンジョンで自分とおなじように「公爵夫人」の食い物されて哀れな末路を辿った人間のたちの「目」を回収していく。ノリとしては近いのは『ペルソナ』シリーズだろうか。シリーズ初期と後期を足して二で割ったかんじ。
・ちなみに「目」が開いてみると、地元の住民(友だち含む)の半分以上は悪魔か天使で、レコード店に至っては客が全員悪魔という日もあるくらい。
・ぶっとんだ設定でありつつも、なにげに主題である「愛」の在り方へ丁寧にフォーカスしているという点で物語的にも見るべきものがあり、ベスト10リスト作りでは『Mouthwashing』とどちらを採用するか迷った。でもパブリッシャーのナウさで『Moutshwashing』に軍配があがった。Akuparaもね、好きですけど。『The Darkside Detective』シリーズ日本語化してくれたら、もーっとスキになるかな。
・そういえば、『Sorry, We are Closed』でもう一点特筆したいのが、音楽。24年で一番ですね。基本的にはムーディーでダークなシンセっぽいBGMなんですけど、ボス戦ではいきなりボーカル付きでこんなんが流れます。
www.youtube.com

・サントラが良かったゲームで今年ナンバーワンです。次点は『LOK DIGITAL』。いちばん聴いた(聴かされた)の『Balatro』のアレ。TGAでオーケストラアレンジが流れたときはまじめに感動しました。

『The Rise of the Golden Idol』(Color Gray Games/Playstack)
・一枚絵的なシチュエーションから穴埋めパズルの方式で登場人物や事件の真相を当てるミステリADV『the case of the golden idol』の続編。当初は『return of the obra dinn』フォロワーとして扱われていましたが、いまや類似作は『the golden idol』のフォロワーたちと呼んだ方がいいような状況*13。『the duck detective』とかね。
・ミステリゲームって日本人がわりと真剣に考えてきた分野だとおもうんですが、本格ミステリの呪いというべきものが強かった。それは「究極的には真相とはダイアログと地の文で物語的に語られるべき」ということで、つまりは小説であることの呪縛です。そうしてすべてのミステリはノベルゲームやポイントアンドクリックに囚われ続けることになった。
・しかし、「推理」の体験とは物語を自らの手で再構築することではなかったか、と考えたときに、アメリカ人やラトビア人がナラティブのくびきをいとも簡単に放り出して新ジャンルを作り出してしまったのは転回でした。
・その新しい道が最終的にどこへ向かうのかはまだわからないのですが、『the rise of〜』では明確に途中経過を示してくれます。ウミガメのスープです。デジタルでインタラクティブな推理ゲームをつきつめた結果、ウミガメのスープの行き着く。おもしろすぎる。
・Playstackは2024年はこれと『Balatro』を出したからえらい。それはそうと翻訳⋯⋯。




『未解決事件は終わらせないといけないから』(Somi/Somi)
・では、小説的なナラティブに囚われたミステリゲームが出口なしなのかといえば、そんなことはなくて、韓国のSOMIはそのセンスでもってやすやすとハードルを越えてきました。システム的にもストーリー的にもそんなに新味があるかといえば微妙ですが、なにがなんでも二時間の体験をなめらかにしようとする執念と作り込みがすさまじい。そして、この浪花節。アジアですね。
・開発者のSOMIは日本のミステリを結構読んでいるらしくて、影響元として道尾秀介東野圭吾連城三紀彦らを挙げています。*14すごい。ザ・2010年前後のミステリオタクだ。好みの傾向が「家族」というのもわかりやすい。

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『Momodora:月影のエンドロール』(Bombservice/Playism)
・人気メトロイドヴァニアMomodoraシリーズ完結作。特にゆるすぎもせず厳しすぎもせず、なめらかで心地よい手触りのいつものMomodoraという感じで、最終作だからといって特にどんでんがえしや演出盛り盛りだったりするわけでなく、あくまで古き良きインディー作品として静かにたたんでいく慎ましさが好ましい。
メトロイドヴァニアにはドッヂさえあればいいのです、あのたおやかなドッヂの感触さえあれば……



『Felvidek』(Jozef Pavelka, Vlado Ganaj/Tutto Passa)
・現在のスロバキアでアル中の騎士と巻き込まれ体質の僧侶が、フス派の残党やオスマントルコの手先などと小競り合いしつつ、謎教団の陰謀を解き明かすツクールベースの中世舞台RPG。昔から外国人はツクールを使ってへんてこなRPG*15を作りまくっているんですが、だいたいは『ゆめにっき』とかの影響下にあるところ*16、『Felvidek』はマジで他に類を見ないキテレツさを誇ります。とにかくコメディのセンスがキレている。
・ところで本作に関しては日本語訳がクソ問題というのがあり、一般レビュアーがそれでも訳してくれただけ感謝!というのはよいのですが、業界に対して責任あるひとびとがそれを看過したらあかんだろ、とおもいます。ローカライズは作品の一部なのだから。日本語にするだけならpcotでもできる。翻訳はその先にあるものです。
・とはいえ、最近フィードバックを受けて翻訳が改善したらしい。検証する気にはなりませんが。ゲームは多く、人生は短い。ユーザーは無償のデバッガーではない。っていうかこっちが金払ってるからむしろマイナスです。アーリーアクセスにもいえることだけれども。
・このまとめ記事においてはこのほかにも幾度か翻訳・ローカライズの質に言及したとおもいます。しましたね? 
 不幸にも、ゲームにおいて翻訳はあまりに顧みられることの少ない分野です。特に絶対的に人手の足りず、(「依頼人が知らないあいだに孫請けの孫請けに出していた」という『SANABI』の例のように)粗悪な翻訳業者の横行するインディー分野においては、まともな翻訳者/ローカライズ担当者というのは存在がすでにして神です。もっと称えられるべきではないか。わたしの知るかぎり、日本のいかなるゲーム賞にも「翻訳部門」はないのですが、文芸に「日本翻訳大賞」があるのだから「日本ゲーム翻訳大賞」だってあってよいのでは。



Alan Wake 2』(Remedy Entertainment/Epic Games Publishing)
・『1』より好き。REMEDYは『コントロール』を経て、映像的な演出にさらに磨きがかかったといいますか、誤解を恐れずいえばもっとも映画っぽいゲームを作る会社だとおもいます。とにかく、変てこな演出がほとばしっています。
・実写映像の使い方が特によい。虚と実の境目をゆるがせる作品テーマにどこよりも本気。思い返すだに傑作です。
・『1』と『2』の怪奇表現のテイストの違いに注目するとおもしろくて、ここ十年でホラーは世界的にスティーブン・キング式のモダンホラーからSCP的なるネットホラーへと転換したんだとわかります。そして、それはメディアの変化と密接にむすびついている。『Alan Wake 2』のユニークさは、現代的なネットのテイストを取り入れつつも、ちゃんとスティーブン・キング的なテレビ時代に軸足を残しているところ。



『1000xResist』(Sunset Visitor/Fellow Traveller)
・90年代の香りを濃厚に漂わせつつも同時に2020年代でしかありえないSFアドベンチャー。謎の宇宙人が謎の宇宙ウィルスをばら撒いたせいで人類が滅亡した地球が舞台なんですけど、その世界に唯一免疫を持った女の子が生き残って、海底に自分のクローンで王国みたいなのを作るんですね。そこで起こる政争と痴話喧嘩が主に問題となって、まあこれだけ聞くと大味なSFっぽくて実際そうなんですけど、一方で本作は「香港」というのがひとつキーワードになってきます。
 と、いうのも、最初に言った「宇宙ウィルスパンデミックで唯一生き残る女の子」が香港系のカナダ移民二世なんですね(学校生活描写はいかにも「北米のアジア系」というか、『butterfly soap』あたりを想起します)*17。しかも、両親が20年ごろの民主化運動に参加した咎で追放されて移民したひとたちなんです。この「香港の記憶」が本編にもうまい具合に絡んで、絶対に他では出せない味を出している。
 ちなみにディレクターは舞台芸術出身の現代アーティストでもあって、あんまり高級とはいえない3Dのアセットをあの手この手で演出してきて、そこに振り回されすぎてる感がないでもありませんが、ユニークです。問題意識としては『keylocker』と通底していますが、語り口としてはこちらのほうが洗練されているか。
・ちなみに、百合です。
・ところで、『Mouthwashing』のときにもおもったのですが、実はゲームって、物語のボリュームが大きくなればなるほど、リニアな語り口って向かなくなる気がします。たしか『Mouthwashing』の開発者がどこかのインタビューで「プレイヤーを飽きさせないことを目的にシーンを構成していったら、自然とああいうノンリニアな語りになった」と証言していましたが、操作という名のけだるく散漫な手続きを要する以上、「順繰りの説明すること」の有効性って他のメディアに比べると薄いような⋯⋯あくまで感触ですが。



『(the) Gnorp Apologue』(Myco/(Myco))
・生産と回収が分かれているタイプの放置型クリッカー。この形式が最近流行ってるのか、『Idle colony』とかもそうでしたね。正直なんでなめらかな体験曲線が身上のクリッカーにめんどくさ要素持ち込むんだよ、とおもわないでもないんですが、Gnorpはビジュアルから世界観までよく作り込まれていてよい。
クリッカーでは『Digseum』も好きだった。24年はクリッカーづいて他にもいろいろ試してみたのですが、最終的に時間と人生の価値に向き合わねばならず、虚無に陥りがちなこのジャンルはおいらのポッケには大きすぎらあ、といった感じだった。あと、個人的な性向として、「放置系」といっても起動しているとついつい用事がなくてもウィンドウを見ちゃうのも精神衛生上よくない。短めの放置型クリッカーがもっとあればよいのですが、ジャンルからいって矛盾しているので、なやましいね。『Rusty Retirements』もアニメーションのセクシーさに感銘を受けたれど、結局ガ―っとやってバーっと飽きてしまったし。
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『Spell Disk』(Sunpeak Games/Sunpeak Games)、『マジッククラフト』(Wave games/bilibili)
・どちらもジェネリック『noita』系魔法連鎖アクション見下ろしローグライク。『the binding of isaac』×『noita』といえばわかりやすいか。
・前者と後者でそんなに出来に差はない(もちろんそれぞれに個性はある)のだけれど、レビュー数では二桁くらい違う。それは『マジッククラフト』がbilibiliパブリッシングで、中国人ユーザーの心をがっちり掴んでいるから。wukongをsteamのgotyにしたり、言語対応要求にぼやく開発者をレビュー爆撃したり、良くも悪くもこの層を味方にするかどうかでsteamというのは戦略が違ってくるのだな、と実感します。
・どちらもある程度テキトーにやっていてもなんとかなるんですけれど、比較的『Spell Disk』はマップも魔法のバリエーションもこじんまりとしていて連鎖の計算がある程度しやすい。『マジッククラフト』はだらりと長くて魔法デッキの構成に冗長性がある。また『Spell Disk』はやや『Vampire Survivor』を意識しているっぽく、っていうかおまけにヴァンサバパロみたいなゲームモードがある。
・好みはどちらかというと、『Spell Disk』かな。でもやっぱり甲乙つけがたいな。っていうか『noita』もやりなおしたくなってきましたね。


『Utopia Must Fall』(Pixeljam/Pixeljam)
・タイトルがいいですよね。レトロモダンなゲームばかり作ったりパブリッシュしている零細パブデヴpixeljamの最高傑作。
・いまどき、『asteroids』っぽいワイヤーフレーム画面で『スペース・インベーダー』っぽいアーケードシューティングゲームつくるやつおる? おるんですな。ここに。しかも、おもしろい。
・宇宙から来襲してくる侵略者たちや隕石を、「new new york」や「neo tokyo」みたいなイカした名前の最終防衛ライン兼都市に設置したミサイルやレーザーで防衛していきます。ステージごとに兵器のアップグレードがあり、それをうまくやりくりしていく。人類の最終戦争においては恒久アップグレードなどという甘ったれた概念は存在しません。わかりやすいシステムと練られた学習曲線とピカピカしたビジュアルでついつい遊んでしまいますな。

https://shared.fastly.steamstatic.com/store_item_assets/steam/apps/2849680/ss_66330977cd6e7523f3745c346f8fbf64a7bcb871.1920x1080.jpg?t=1734382813


Citizen Sleeper』(Jump over the age/Fellow Traveller)
サイバーパンクテキストRPG。よくできています。よく書かれています。しかし行儀がよすぎるといいますか、どこかで「”サイバーパンク”って”こういうもの”だよね」という折り目の正しさに束縛されすぎているきらいもあって、まあそれは『サイバーパンク2077』にも感じられたことですが、あるジャンルでやる以上は、もっと新規性が欲しい。あるいは『Keylocker』みたいな混沌が。
・まあしかし、SFのゲームってビジュアルが強ければそれでいい気もする。
・おもしろかったことには変わりないので、続編も楽しみです。



『Neva』(Nomada Studio/Devolver Digital)
・さすがに『Gris』に戦闘くっつけるのは蛇足でしょ……絶対失敗するパターンだわ……とおもってたら、きっちりその部分も楽しかった。アートだけじゃなく、きちんとメカニックも作れるスタジオだったんだな、という印象。それでも『Gris』の鮮烈さを超えてはきませんが。これが games for impact? ここ十年寝てたのか?
・なにはともあれ、とにもかくにも、イヌがよい。よすぎ! 巨大な犬、きょだいぬがいます。犬ゲームオブザイヤーです。



『Buckshot Roulette』(Mike Klubnika/Critical Reflex)
・1人用のゲームとしてはこぢんまりとしていますが、かなりよく作り込まれていて、400万本の大ヒットもむべなるかな。


『Monument Valley III』(Ustwo Games/Netflix Games)
・まさかのネトフリ独占。
・3作目いうて、もうやることなかやろ……とおもっていたら、きっちり新規性のあるものを出してきてうれしかった。



『Awaria』(vanripper/vanripper)
・『Helltaker』の人の新作。倉庫番あんまり得意じゃない勢としては、こういうアクションよりのほうが助かる。
・そろそろなんかデカいゲーム作ってくれよ、とはおもうけど、作風的にむずいのかな。


Football Manager 2024』(Sports Interactive/SEGA
・わたしの中では放置ゲーその二。なんとなく今年は買わないでいる方向かな〜とおもってたらいきなりEpicがタダでくれた。Epic大好き! いちばん好きなゲーム販売プラットフォームです! ゲイブの野郎なんかやっちゃってくださいよ!!
・たぶん今年EPICでまともに遊んだゲームはこれと『Alan Wake 2』と『Prince of Persia the Lost Crown』(序盤で止まっている)くらいだけど。


『Spin Hero』(Sphere Studios/Goblinz Publishing, Maple Whispering Limited)
・デッキ構築型ローグライトスロット。『幸運の大家様』をファンタジーRPG風の世界観でバトルっぽく味付けしたもの。『大家様』よりとっつきやすい。深みはそんなないけれど、この手のものに深みを求めてもなというところはある。


『Ballionaire』(newobject/Raw Fury)
・デッキ構築型ローグライトパチンコ。24年は『Balatro』(ポーカー)を筆頭に、先の『Spin Hero』(スロット)、『Dungeons & Degenerate Gamblers』(ブラックジャック)など、ギャンブルを材に取ったデッキ構築型ローグライトが個人的には目についた年でした。そのなかではよくできていたほう。サイケなビジュアルもよい。
・そういえばこれとバンドルにされて売られていたデッキ構築型ローグライトクレーンゲーム『ダンジョンクロウラー』のようはやったはやったけど、NextFesのときにデモ版をやり尽くしてしまっていたのでなんか盛り上がらなかった。デモで大盤振る舞いしすぎるのもよしあしですね。


『滅ぼし姫』(Steppers' Stop/Steppers' Stop)
・2024年最大のニュースは「ステッパーズ・ストップがSteamに初上陸!」だとおもいます。


『スルタンのゲーム(デモ版)』(Double Cross/2P Games)
・もっともオリエンタルで、もっともフェティシュで、もっとも正式リリースを楽しみにさせるゲームです。


『SUMMERHOUSE』(Friedemann/Future Friends Games)
・圧倒的な「夏」に「家」を建てるゲーム。ゲームというか、箱庭というかジオラマビルダーというか。
・近年は『Tiny Glade』や『Townscaper』や『Dystopika』みたいな「特に制約もなく家を立てていくだけ」のゲームがちょくちょく出ていますね。ローファイな雰囲気でチルしたいけど、手先を動かしておきたいみたいな。
・開発者は元はGrizzlyGames(『Thronefall』や『Superfilight』のスタジオ)の人で、あそこはもともと三人で立ち上げられて今は二人でやってるらしいんですが、オリジネイター三名それぞれがソロディベロッパーとしてヒット作(『Will You Snail?』や『The Ramp』など)を持っているヤベー才能集団です。
https://shared.fastly.steamstatic.com/store_item_assets/steam/apps/2533960/ss_d6b4d74ce348f5a286005ca254269d1282101fd0.1920x1080.jpg?t=1734252880


『Maiden & Spell』(mino_dev/mino_dev, Maple Whispering Limited)
・24年は夏くらいまでシューティングづいていて、『斑鳩』をやったり東方にチャレンジしたり、まあいろいろ遊んでみたりしておったのですわ。そのなかでいちばん性にあっていたのが『Maiden & Spell』。キャラもかわいいし音楽もいいし何よりちゃんと最後まで遊べる。すべてがほどよい。続編の『Rabbit and Steel』はそこまでハマらなかったですけど。




『Paratopic』(Arbitrary Metric/Serenity Forge)
・ローポリホラーウォークシム。ローポリホラー短編の中でもギザついた印象を残す。『Mouthwashing』同様に、ローポリはこうした傷ついて混乱する過去の断片を語る時にもっとも映える。


『The Invincible』(Starward Industries/11 bit Studios)
スタニスワフ・レムの『ザ・インヴィンシブル』のゲーム化、っつっても前日譚みたいな内容。
・SFウォーキングシムとしてはそれなりに広がりがあってそこそこ良い体験だった。レトロフューチャーなSF的意匠の数々が素敵。



スナフキンムーミン谷のメロディ』(Hyper Games/Raw Fury)
・よく憶えていないのだが、途中からスナフキンムーミンの幻影をひたすらおいかけていく、カヴァンの『氷』みたいな幻想執着LOVEストーリーになっていった気がする。



『Windblown』(Motion Twin/Motion Twin, Kepler Ghost)
・『Dead Cells』のとこの新作。アーリーアクセス。見下ろし3Dローグライトアクション。3D版『Dead Cells』というとちょっと違う*18んだけれど、でも他人に説明するときはめんどくさいからそれですましてしまうかも。
・おもしろいんですよ。おもしろいんですけどね。やっぱりこう、一戦一戦に命をかけられないというか、恒久アップグレードをアンロックしていくことが目的化してしまうというか、それでいえば『Hades』はうまくやってたんだなあ、とおもいます。
・そういえば、『Hades II』もちょっとやったネ。こっちもアーリーアクセス。なんかもうアーリーアクセスばかりで、正式リリース版待ってていいですか、って気持ち。


『Hauntii』 (Moonloop Games/Firestoke)
・「良かった」かといえばかなりギリギリなラインで、ビジュアルはね、すごい良いんですよ。他に代えがたい魅力なんですよ。でも、それが発揮されるのは最初の十数分がピークで、あとはなんか砂を噛むような無味なプレイが続きます。
・開発側もやる気がないわけじゃなくて、他のゲームにもあるようなミニゲームや要素や演出をいろいろ詰め込んではいる。でも、それがどれも淡白すぎるというか、全体に有機的にむずびついていないというか、なんかバラバラな印象。すべてをすこしずつ掛け違えているようで、なんだか惜しい。あと10時間のゲームではない。
・でもこのビジュアルはマジでいい。




『BLUE ARCHIVE』
・取材についていくというのでやった。
・騒がれるだけあってエデン条約編はよかったですね。ぬいぐるみの使い方が好き。


『学園アイドルマスター
・端的にいえば、おもしろい。
ライトノベルの対する「ラノベ」呼びみたいなところであたしはずっとソシャゲをソシャゲと呼び続けていくんでしょうけれど、それはともかくあるゲームジャンルやメカニクスを取り入れて作られるソシャゲというのは、そのゲームシステムの部分がどんなにうまく作られていたとしても、ソシャゲの無制限なリプレイ性やデイリーミッションという名の義務感によってスポイルされ、腐っていきます。それは落ちものパズルであろうと、JRPGであろうと、デッキ構築型ローグライトであろうと、パワプロのサクセスであろうと、そしてノベルゲームであろうと変わりません。それは制作現場の努力がどうとか工夫がどうとかいうレベルの話ではなくて、今の産業の構造下でガチャを中心にした運営型のゲームを作ろうとすると不可避的にそうなってしまうのであって、わたしたちは実った果実の黒ずんだ部分を無視してかじって、おいしいね、と笑うふりはできる。まわりにみんながいてくれるからね。そうね、基本無料のソシャゲの最大のいいところは、ゲームのソーシャル機能とはなんら関係ところで社交的であることなのかもしれません。友だちがやっているから、おもしろい。それはおもしろさの一部です。
・だとしても、日常に組み込まれた無為はいつか、前触れもなく破裂して、あなたに虚脱感をもたらすでしょう。そこからあなたがふたたび立ち上がるとして、立ち上がらせるものはなにか。わたしの場合はスピンオフコミカライズの『学園アイドルマスター GOLD RUSH』で見かけたイヌみたいなマユゲの女でした。


『Pokemon TCG Pocket』
・「”最強”なのだった。」→「もう無理だって、ルールとかぜんぜんわかんないだからさアッ!」の繰り返し。


『webfishing』(lamedeveloper/lamedeveloper)
・”まったり”なのだった。
https://shared.fastly.steamstatic.com/store_item_assets/steam/apps/3146520/ss_d1fdc753a7dc005896e239ea5ea055618a744bb6.1920x1080.jpg?t=1728673229


信長の野望 出陣』
・ハマったけど、途中でこれなしで歩いたほうが早いことに気付いた。
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オンゴーイング

『Crusader Kings III』
・わたしの中では放置ゲー。神。出まくるDLC、かわらない味。
・HoIもたまに回してます。


『雀魂』
・毎週末にイツメンで打っており、愉快です。metacriticで15000点あげてほしい。野良では打ちません。


Lumines Remasterd』
・成長曲線が2年くらい前から一ミリも上向いてないけれど、愉快です。


Cookie Clicker』
・もはや盆栽に近い。愉快です。

途中でプレイが止まってるけれどクリアしたいな〜とおもっているゲームたち

『Planescape:Torment』(Beamdog/Beamdog)
ファミ通に載った九井諒子先生のインタビューを読んで「CRPGって難易度イージーでも遊んでいいんだ!」という開き直り的啓示を得て、わたしもいろいろやるようになりました。これクリアしたら次は『Divine Divnity』を進めたいとおもいます。
・やってみるとめちゃくちゃいい。自分の選択によってちゃんと物事が動いているんだ感と、自分の選択なんて他者や世界の前では些末なことなのだという冷たさがほどよいバランスで同居している。そして、やっぱりテキストだよテキスト。ユーモアが今でもおもしろいというか、全編趣味のわるいコメディみたいな感じなので楽しいよ! 酒場はいるといきなり全身燃えて苦しんでる男が出てきてですね、なんでも得てるんだっていったら調子こいてた魔術師が別の魔術師たちからシメられて全身を煉獄に通じる「扉」にされちゃったせいだっていうんですよ、いいですよねえ。クリアまではしたいですね。



『Animal Well』(Billy Basso/Big mode)
・ネコに追いかけられるところで一生詰まっていてみなさんが恐れおののいている「その先」をおそらくまだ見られておらんのですが、謎解きメトロイドヴァニアとしては手触り含めた出来がすばらしい。
・そういえば、『Animal Well』は有名なYoutuberがパブリッシングを務めたゲームらしいのですが、有名Youtuber自身がゲームを作っている例もいくつかあってトルコの人気Youtuberが作っている『Anomally Agent』はそこそこ楽しかったですね。ホラゲの『Indigo Park』なんかも去年話題になりましたけれど、これはやってない、ホラーなので。そうしたラインで変わったところだと、みんな知っててパクってる有名ゲーム批評チャンネル『Game Maker’s Toolkit』が『Mind over magnet』というパズルプラットフォーマーを出しました。こっちはちょっと触ってこんなかんじか〜〜となった。



『九日ナインソール』(RedCandleGames/RedCandleGames)
・1時間半くらいやった時点でいろいろ忙しくなって止まっています。最初からやり直したい。


『Minishoot’ Adventure』(SoulGame Studio/SoulGame Studio, IndieArk)
・全方位ツインスティックシューター×初期ゼルダ。好感触だったのだけれど、2時間半ほど遊んだところでもろもろ忙しくなって止まっています。これは別に最初からやりなさなくてもいいからクリアしたい。


『Decarnation』(Atelier QDB/Shiro Unlimited, East2West Games)
・23年からわりに楽しみにしていたのだけれど、ローカライズがしょっぱくて止まっています。でもモノはよさそうだから、なんとか無理矢理にもクリアはしたい。


『The Void Rains Upon Her Heart』(Veyeral Games/The Hidden Levels)
・ローグライト横スクロールシューティング。世界観や物語がかなり独特で、それなりの難易度でも続けたくなる魅力がある。なんとかクリアまではしたいですね。


『Punch Club 2』(Lazy Bear Games/tinybuild)
・6時間ほどプレイしたところでまあだいたいいいかなという気分になって止まった。クリアはしないとおもいます。でも、その瞬間まではそれなりに楽しんだよ。Lazy Bearっていつもそうよね。


聖剣伝説 VISIONS of Mana』(Square EnixSquare Enix
・わたしは『聖剣伝説』シリーズに恩義という名の無限の負債を負っていて、聖剣伝説シリーズである以上は発売前から微妙なんだろうなとだいたいわかっている状態でも買わねばならない返済の責務があります。
・でもこれは、発売前の期待の低さからすれば、かなりがんばってるほうだった。
・作ってるひとたち、きっとめっちゃ『聖剣伝説』シリーズ好きだったとおもうんですよ。特にレジェマナ。その愛をプレイヤーにも分かち合ってほしかったとおもうんですよ。その思いは伝わってくる。そして、わたしにはそれを否定できない。
・しかし、実際の愛情表現の仕方としてあらわれるのは必要に薄い過去作との接続であり、過去作のキャラの脈絡のない引用であり、要するに老いたプレイヤーを接待する老人介護。というか、開発者もたぶんおんなじくらい老いてるので老老介護
 ままでもなんとかクリアまではしたいですね。


『Thronefall』(GrizzlyGames/GrizzlyGames)
タワーディフェンスをもうちょっとストラテジー寄りにしたようなゲームで、一〜三週間に一ステージほどのペースぐらいでコツコツやっておる。


『メタファー:リファンタジオ』(Atlas/SEGA
・八時間くらいやったとおもいます。「ああ、これ『ペルソナ5』なんだな」と感じた時点で挫けそうになり、いや、しかしそれでもやらないとと奮起しようとしたのですが、そのタイミングで会った先輩、私が審美眼を信じる数少ない存在であるその人が「『メタファー』はつまんなかった」「『ペルソナ3』→『4』→『5』→『メタファー』と右肩下がりに劣化していっている」「そんなことよりミラン・クンデラを読め」「『不滅』はインターネットの話だぞ」「読書会やろう」「おれってどうすればいいのかな」と言ってきたのでもうやる気ゼンレスゼロゾーンになってしまいました。『不滅』もまだ読んでません。


『My Lovely Empress』(Game Changer Studio/Neon Doctrine)
・『My Lovely daughter』だの『My Lovely Wife』だのエグめで背徳的な物語が特徴のパラメータ管理型アドベンチャーのシリーズを出しているGame Changer Studioの最新作。相変わらずキャラデザはいいのですが、いい加減ワンパターンというか、変に複雑にしようとして単にめんどうになっているだけというか……。


『Library of Ruina』(ProjectMoon/ProjectMoon)
・開発元への取材についていくというので『Limbus Company』ともどもけっこうやりました。わりとやったんですよ。でも、長くて終わってない。そしてシステムが異常にめんどくさい。しかし、シナリオはおもしろくて、ぼつぼつは終わりまで続けていきたい。

セールで買って積んでるのでこれからやりたいゲームの一ダース*19

『Lorelei and the Laser eyes』:識者がみんな絶賛してるが一番気になるのがモチーフが『去年、マリエンバートで』ということ。
『Starstruck 時をつなぐ手』:これも話題だったけど、結局触らずじまい。
『Crow Country』:デモやったときはめんどいな〜と感じたんですが、リリース後のあまりの評判の高さに買ってしもうた。
『十羽の死んだ鳩』:これもローポリホラーとしてもっぱらの評判。リリース時点で「近日日本語版実装予定!」とアナウンスしていたようにおもうけれど⋯⋯?
『Osteoblasts』:Moonanaの旧作。有志翻訳アップデート!
『Cryptmaster』:The Horror Game Awards 観てて気になったので買おうとしたら、すでに買ってあった。こういうホラーはよくあります。
『Beastieball』ドッジボール題材のゲームってしょっぱい評価のが多いんだよな⋯⋯という前評判を覆してめっちゃ好評
『Until Then』:日本語化アップデート!二代目A Space for the Unboundっぽいオーラを漂わせているが、どうなのか。
『空と海の伝説』:Thinky界隈で評価が高い。
『Threshold』:安心と信頼のCritical Reflexパブリッシングのローポリホラー。あと、遅れて日本語訳された『LUNACID』もネ。
『Wukong: the Black Myth』:まじめなので一から『西遊記』を読んでいます。いま斉天大聖が神通力を得て修行から戻ったとこ。『悟空道』とか、『三獣士』とか、あと、小島剛夕小池一夫コンビの孫悟空がどうしても菅原文太にしか見えない版『西遊記』とかは読んでるから、履修済みってことにしておいていいですか。だめ?
『Still Wakes The Deep』:「博多弁で炎上したゲーム」という程度の認識しかなく無意識にスルーしていたのですが、よく見たら開発があの The Chinnese Room、そう、ウォークシムの元祖『Dear Esther』のThe Chinese Room!
 なんか色々やろうとしてコケて紆余曲折あって『Little Orpheus』出したあたりまでは知っていたんですが、その後はウォークシムというジャンルごと死んだのかな〜くらいに考えてたら、ここに来て復活。しかも、某氏から「SWtDはかなりウォークシムですよ」と教えられてこれはもう買うしかない。悲しみの弔鐘はもう鳴り止んだ。君は輝ける人生の、その一歩を、再び踏み出す時が来たんだ。


 ほかにもいろいろ書けるゲームや書きたかったゲームがあった気がしますが、なんだか飽きたしお正月も終わったしわたしにだって日々の暮らしというものがあるので、ここまでにいたしとうございます。
 あ、あと去年はIndie Intelligence Networkというところで海外にいろいろ行ってインタビューの記事化をやったりしてたよ。韓国編はもう公開されてるけど、春先からもいろいろ出てくる予定です! よろしくね。

whysoserious.jp

*1:システムドリヴンの

*2:あんまり作品には関係ないのですが、スヴェトロフはインタビューで「11 bit Studioは東欧のAnnapurnaになろうとしている!」と語っていて、ほんまかいなとなった。

*3:「リリース後に事態が好転しなければさらにスペインへ移るだろう」とも語っている。

*4:たしか『Night In the Woods』のメインクリエイターもアメリカ人だけどそんな生い立ちだった

*5:ニヒリズムの起源がニーチェ以前にツルゲーネフの『父と子』にあったことをわたしたちは思いだすべきでしょう。INDIKAの開発元がブルガーコフゴーゴリドストエフスキーといったロシア文学の後継を僭称していたことも。

*6:ディレクターも映画マニアを自認しています。https://news.denfaminicogamer.jp/interview/240719a_jp

*7:似たような疑義はゲームに関するいくつかの本で呈されているのですが、ここで彼女のトゥートを引用するのは単に直近で見かけた例だからです

*8:まあ技術というより様式に親しんでいるかという問題であり、ゲームに関するスキルの話の六割くらいも実は様式の会得の問題なのだとは感じる

*9:フェルナンド・ペソア「断章」

*10:Draknek & Friendsというスタジオで、開発とともパブリッシングも行っています

*11:「ジェイムソンの主張するところでは、「ノスタルジー・フィルム」に属する映画は過去を正確に再現することを目的とせず、代わりに特定のスタイルを思わせる要素を用い、より現代的な方法論を駆使してそれらの要素を意図的に再利用するのだという。」https://proxia.hateblo.jp/entry/2019/05/29/235641

*12:『我が人生の幽霊たち』

*13:『Obra Dinn』のルーカス・ポープは「四年半費やしてリリースした時点でもう飽き飽きしていた。続編はない」と明言しています。https://www.youtube.com/watch?v=a8IMDfnLULI

*14:あとジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』も引用されますが、あれは法月綸太郎によると実質泡坂妻夫なので泡坂妻夫です

*15:『OFF』、『space funeral』、『oneshot』、『Lisa』、『mothlight』、『Hylics』、『Virgo versus the Zodiacs』あたり

*16:そういえば、『OFF』のリマスターがsteamで出るらしい。正気か?

*17:ちなみにカナダは『Venba』といい、「移民の家族」が主題のゲームが目立ってきている印象

*18:今後は変わるのかもしんないけれどとりあえず今はギミックなどを使ったメトロイドヴァニア感は薄い

*19:際限なく挙げようとしたらきりが無くなったので12個に絞った