あなたのおともだちがわたしにある質問をしようとしている。これはわたしたちの人生におけるもっとも大事なひととき。運命のような十二話と、奇跡のような十二・一話が終わった後の真夜中。春アニメをめでようと、わたしたちはネット民のつくった新作アニメ一覧表に目を通していた。そのとき、あなたのおともだちがこう言う。
「十三話はまだかな?」
このお話の結末がどんなふうになるかはわかっている。そのことの始まり、つまり深夜放送帯に死んだアプリのアニメが出現し、あちこちのちほーにおかしなフレンズが出演したときのこともよくよく考えているし、あのとき、政府はそのことに関してろくすっぽなにも言わなかったけど、twitterはありとあらゆる可能性を書きたてていた。
そんなとき、ヴィルヌーヴが新作を発表して、わたしは映画館への参観を要請されたというわけ。
あなたが『メッセージ』を観たら、きっとけらけらとわらったでしょうね。ホークアイが科学至上主義的なセリフをはいて、ヘプタポッドコンビの愛称は「フラッターとラズベリー」から「アボットとコステロ」へとかわっていた。まるで映画おたくの映画みたいに。
国際ポリティカル・サスペンスとスリラーっぽさがふえて、ずっと低温なのりだった原作がエンタメっぽくしあがっていた。あれはあれで好きよ。みていてたのしくなきゃ、映画じゃないわ……。
奇妙な邦題だった。
「『メッセージ』?」
「そうだ」と配給のソニー・ピクチャーズ大佐はうなずいた。
映画の原題は「到着」を意味する英単語で……なんといったか。そして原作となったテッド・チャンの短編は the Story of Your life。ハヤカワから出た翻訳のタイトルもそのまま「あなたの人生の物語」だ。
各国の製作会社や配給会社の思惑が交錯した結果、実に優美な屍骸が出来上がったというわけか。
それはまあいい。問題は中身だ。
「これを観てくれ」とソニー・ピクチャーズ大佐はドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の過去作が焼かれたDVDを何枚かとりだした。ここ七年間の作品、『灼熱の魂』から『ボーダーライン』まで。
「これらの作品から、なにかを推測できるかい?」
「たいして。”かれ”が独特のビザールさと大衆性を破綻ぎりぎりで両立させることのできる稀有な作家なのは誰の目にもあきらかでしょう。でも、常に次回作の成功が確約されるほど信頼を得てるわけじゃないし」
「なにか――ほかになにか、話してもらえることはあるかな?」とソニー・ピクチャーズ大佐。
「CGの使い方からみて、巨大のクモの幻覚にフェティシズムを感じているだろうということぐらいね。あとライティングがいつも暗め」
「女性受けの悪い、シリアスな社会派作家だと?」
「マーケティングの世界ではどうだか知らないけど、シリアスな社会派がいつも女性受けしないってわけじゃないわ。ボコボコの血まみれになったポール・ダノはいつだって扇情的。ついでにいえば、SF的な資質もあると目されているみたい。『ブレードランナー』の続編も任されているのがいい証拠」
「単刀直入に訊ねるが、きみは『メッセージ』を鑑賞するつもりはあるか?」
わたしはうなずいた。
「好きな原作者に好きな監督。しかも脚本のエリック・ハイセラーは姉ホラーの名作『ライト/オフ』の脚本家よ。あんまり役者の映画ってかんじはないけれども、観ない手はない。音楽のヨハン・ヨハンソンはここのところずっとヴィルヌーヴ監督と組んできて前作の『ボーダーライン』でも――」
「たしか」とソニー・ピクチャーズ大佐が早口でまくしたてるわたしのオタクトークを遮る。「メキシコ麻薬戦争映画だったな」
わたしは『ノー・エスケープ』(ヨナス・キュアロン監督)を観ている。犬と祖国を愛する老人が、不法に国境を犯したならずものどもを追うヒーロー映画だ。
ワイドなスクリーンにふもうなさばくちほーの風景が映る。気温40度、湿度0%。このかこくな環境・・・・おれはきおくがフラッシュバックした。いっぱつでわかった。それはつまりMEXICO・・・。おれの体温は高まり、内なる獣がめざめあがり、生存本能が高まっていった。
軟弱なおまえはけだるい午後の仕事帰りに、ただ暗黒の安寧をもとめて映画館にすいよせられる。もはやスマッホをいじる気力もなく、逆噴射文体をコピーする元気もうしない、死者の日明けのゾンビーのように「うあー」「うあー」とうめている。
こころもからだもなにもかも会社と資本主義社会に売り渡してしまったおまえは、ほとんどめくらの状態で券売機へと寄りかかり、てきとうなボタンを押しまくっててきとうなチケットを買う。そのあとに続くのは二時間の祝祭ではなく、二時間のそうしつだ。おまえはそうやって、そうして観るべき映画を観たにもかかわらず観ておらず、観るべきでない映画を観てやはり観ていなくて・・・・やがてすべてを観て何も観ないまま老いて死ぬ。それはキンメリアから届いた警告の声だ。
そんなおまえにとって『ノー・エスケープ』はサンチョ・パンサだ。観ることで完全にかくめいされる。
圧倒的になにもないさばくちほーで、絶望的なまでになにも持たないめひこちほーのふほー移民たちが、暴力する意志である老人と犬にやく五十時間ものあいだ追跡をうけ、ハントされていく。
ただそれだけでおまえは尻穴の奥まで蹂躙される。魔法のように眠れない九十分が過ぎていく。最終的に壮大なエンディング画面を観たおまえはあるなつかしい歌のフレーズを思い出す。「けものはいても のけものはいない」……。
それはかつて合衆国憲法で謳われた文句だ。ハミルトンやワシントンの理想だ。だがいまや? たしかにけものがいる。そして、のけものはいない。なぜなら、みな『マチェーテ』のロバート・デ・ニーロのようなクソやろうに殺されたからだ。
げんじつの合衆国にダニートレホは存在しない。いや、存在するが、ロバート・デ・ニーロをナイフやマシンガンで地獄へ叩き落としてくれるダニートレホはいない。いたとしても、せいぜい『ブレイキング・バッド』で生首になるのがせきの山だ。先生はけして認めやしないだろうが。
そうだ、先生のことばを思い出す。
「おまえが好きな映画とか作品にいちゃもんつけくるやつは、全員あほなので、きにするな。そいつらはどうせメキシコで死ぬ」
『ノー・エスケープ』の登場人物たちはみなメキシコとアメリカの間で死ぬ。
『ノー・エスケープ』が盛り上げりにかける平坦なアクション映画だと dis ったやつらも、地獄と煉獄の間で死ぬ。
それがめひこちほーだ。Welcome to ようこそ地獄パークへ。きょうもどったんばったんおおさわぎ。
ああ、なんてこと。『ノー・エスケープ』はけもフレじゃないの……。
ソニー・ピクチャーズ大佐はウィンドウズ・ペイントを立ち上げて、図表を描いた。
「オーケイ、これはけもフレと視聴者とのコスモロジーを表した図だ。Aは「どうぶつ Animal」のA。Bは「ぼく Boku」、つまり視聴者だな。両者の間に惹かれた直線はパソコンやテレビの画面だ。そして、空気と水があるだけ。完璧な理想郷といえる」
わたしはうなずいた。
「もちろん。ところでなんでAとBを結ぶ線が屈折しているの?」
彼はくびをかしげた。
「ぜんぜん、わからん……でもこうすれば」彼はその図表に破線を一本つけくわえた。
「三角形になるくない?」
「なるけど。それが?」
数十秒の沈黙があった。
「……キリスト教には三位一体という概念がある」
「いま、ちょっと考えたでしょ」
「父と精霊と子。父とは要するに神で、子はわれわれ人間だな。精霊はこの二者を橋渡ししてくれる存在だ。だが本当は、父がフレンズであり、子がわれわれだとしたら?」
「じゃあ、あのアルファベットが振られていない三つ目のカドは? テレビが精霊ってこと?」
「惜しい。テレビは直線。正解のカドは『けものフレンズ』という番組そのものだ。これは無二なようでいて代替可能な要素で、けもフレがアプリや漫画といった多様なメディアで同時的に展開されたのと同じように、実は『けものフレンズ』という番組でなくても成り立つ。どんな媒体を通したとしても、AとBの関係は不動なわけだ。これを増えるママの原理という」
わたしは胸のうちで考えた。点B、つまり、わたしたちは視聴する番組を選べるようになる前に、最終的に視線が到達する地点を知っている。どんなアニメや映画であったとしても、そこ現れるのは常にフレンズたちなのだ。
あなたはかしこい。かしこいので、アニメ『けものフレンズ』全十二話が円環であることを知っている。十二話を観た人間は第一話へと戻り新たな発見を得て、また第十二話までをたどる。けもフレ視聴は二百四十分でひとまとまりのループを構成する。文字通りの意味で、永遠に等しい二百四十分。
それはあなたがけもフレを観てないときにもつづいている。映画を観ているときのあなたにも。ごはんを食べているときのあなたにも。動物園へ行ってサーバルキャットの檻の前ではしゃいでいるときのあなたにも。
シャマランは、ともすれば、『シックス・センス』のときからけもフレを知っていたに違いない。わたしはほとんど確信に近い信仰を得る。
シャマラン映画の真髄とはなんだったか。
けもフレの神髄とはなんだったか。
「見た目は違っていても、わたしはあなたである」
『スプリット』もまたけもフレであることは、疑いようもなかった。
姿かたちも十人十色で、「だから」惹かれ合うのだというのならば、二十三の姿かたちを持つジェイムズ・マカヴォイ演じる多重人格者はどれほど魅力的なのだろう。
「やばんちゃん、『メッセージ』の原題ってなんだったっけ?」
わたしは、Hulu で配信されていた今期の覇権アニメ『アニマルズ』の第二話を移していた画面から目をあげる。
「たしか、『到着』って意味の単語だったとおもうけれど」
「それがわからないと困るの。ディープウェブでコピーを探すときにつかうから。原題がわからなきゃ、サーチもできないでしょ」
「残念だけど、わたしにもわからないわ。マーベル映画にしたらどう? マーベルなら原題と邦題がそんなに違わないし、それに……」
あなたはぷりぷりして、ニコニコちほーで「アライさんがうどんを打つシリーズ」の新作探しに戻っていくでしょう。
ジェームズ・ガンという監督が、予想外のヒットを飛ばした『ガーディンズ・オブ・ギャラクシー』の新作をひっさげてやってきた。わたしたちは公開初日に映画館へ殺到して、彼の新作に目と耳をかたむけた。
映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』日本版予告編
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の一作目は、宇宙の孤児たちが互いにいがみ合いながらも友情を築き、ついには新しいフレンズ――家族を形成する話だった。二作目では主人公に「実の家族」が現れて、フレンズたちのファミリーが揺れる。だが、その実の父親というのが……。
アメリカ人は実の父をどうしてここまで憎めるのだろう。オイディプスの御代から連綿と伝わるメンタリティやキリスト教文化というだけでは説明できない。
もっと深いレベルで根付いている憎悪……そういうことに思いを馳せたとき、わたしは彼らの建国の父が、なぜアメリカにやってきたかのを思い出す。
そして、ピルグリムの父たちの後に続いた第二、第三の移民たちがなぜアメリカにやってきたのかを。
黒人奴隷たちは例外かもしれないが、彼らは現地で別の父親を与えられた。現在アメリカに棲まう黒人たちの名字のほとんどは彼らの元「主人」から与えられた名字であり、それとは別に彼らの血には少なからぬ割合で「主人」の血が混じっている。旦那様のお手つきだろうとなんだろうと、奴隷女から生まれた子どもは奴隷だった。
そんな子どもたちが、どうして父親を愛せるのか。本当の愛はどこある?
血の繋がった父親など必要ない。欲しいのは、同じ由来を持ち、気持ちを理解してくれ、ただしく導いてくれるメンターだ。
そうだろう、ロケット・アライグマ?
くたびれたゴミパンダが画面の向こうでうつむきがちにつぶやく。
「なんでもかんでも俺にやっかいごとを押し付けやがって。気楽なもんだよな。そうやって、なんでもアライさんにお任せしていればいいのだバーロー……」
「アライ……バーロー……アライバル……」
「なんて?」 あなたはUターンして、ニコニコからログアウトしてくるでしょう。
「『メッセージ』の原題。Arrival。Arrive の名詞形ね」
「すごーい!」とその語をノートに書きつけながら、あなたは言う。「ありがとう、やばんちゃんってあたまいいんだね!」
「大丈夫か?」
ソニー・ピクチャーズ大佐がわたしの肩を揺さぶった。
「感動のあまり気絶していたようだが」
あたまがかすががったようにぼんやりしている。周りを見渡すと、エンディングのスタッフロールがはじまったというのに誰も席をたたない。マーベル映画のシアターと間違えて入ってしまったのだろうか? 今の時代はみなマーベル映画のようなエンディングを期待している。最後に続編を予告する二分間のおまけがつくエンディングを。次の二時間のための、二分。次の次の二時間のための二分。「つづく」の文字はフランチャイズを永続させるためのトリガーだ。
「そうね」わたしは大佐に応えた。「いいアニメだったわ」
「アニメ?」大佐は首を傾げた。
「まあ、たしかにブルーバックで大体撮影してそうだしな」
あらゆる映画を通してわたしたちは『けものフレンズ』を観る。だが、ある映画を観ることと、そこに二重写しにされた『けものフレンズ』を観ることははたして両立しうるのだろうか?
両立しえない、というのが通常の答えになる。そして、その事実は自由意志の問題にもかかわってくる。あらゆるコンテンツ、あらゆる景色、宇宙の至る場所にけもフレが強制的に見出されてしまうとしたならば。
三位一体。父、精霊、子。フレンズ、コンテンツ、わたし。あなた、それ、わたし。
『メッセージ』のエンディングが終わっても、次の二時間のための二分間のオマケ映像はこない。
いや。
そうなのだろうか?
ほんとうに?
大佐はずっとわたしを見つめている。ともだちに送るような、親しみのこもった視線だ。わたしたちをヨハンソン作曲のエンディングテーマ「Kangaru」の旋律がやさしくつつむ。
「大佐、質問が」とわたしは言った。
「めずらしいな。いつもは私が質問する側なのに」
「大佐は、いや『監督』は〈トリガー〉を引いたことが――視聴者に破壊コマンドをつかったことはありますか?」そのセリフを吐き終える前から、わたしは特殊な破壊コマンドを生成するために必要なものの計算にとりかかっていた。
ソニー・ピクチャーズ大佐の顔がゆがみ、きしみ、はがれおち、本性であるたつき監督のそれが覗く。崩壊はながく続かない。ふたたび表情がプログラムされる。再構築された表情筋の表層に浮かんでいたのは――笑顔だ。
人さし指を上方にあげて、彼が言う。可視域ぎりぎりの声(フォント)で。
「つづく」
最初は、なにも感じない。やがて、喜悦が全身を満たす。彼は、たんなる「12・1話」として12・1話を設計してはいなかった。感覚的トリガーでもなかった。それは記憶のトリガー。永劫へといたるメッセージ。一秒一秒は無害な知覚物のつらなりからなるアニメーションで、時限爆弾のようにわたしの脳内に植えこまれていたのだ。ワンクールアニメのひとつの結果として形成されていたはずのそれらの心的構造物が、いまはわたしの永遠を規定するゲシュタルトを形成しつつある。わたしはみずから、その「アニメ」を直感している。
わたしの心がかつてなく速く働きはじめる。わたしの意志に反して、致命的なアナロジーの了解がひとりでに提示されてくる。わたしはその観念連合を阻止しようとするが、けもフレの想起を押しとどめることはできない。
それは地獄なのか、天国なのか、はたして現実なのか。
地獄の住民の大半にとって、そして天国の住民の大半にとっても、地球とそれほど違っているものでもない。けもフレと地獄がそれほど違わないように。
第一話の放送日にサーバルをながめているときのことが心に浮かぶ。あなたはあたまのわるいセリフをくちにして、どうぶつのまま画面をはねまわるでしょう。それを観たわたしたちの大半は「なんと退屈なアニメだろう」と嘆くでしょう。でもそれでも観つづける。
それで第三話を過ぎたころからわかる。わたしとあなたのあいだにはかけがえのない絆があるんだって。あなたを観る前から、わたしはおおぜいの冬アニメのなかからあなたを見分けることができた。あれはちがう。ううん、これもそうじゃない。待って、あそこのあの子がそうよ。
そう、そのアニメ。そのやさしいアニメがわたしのフレンズ。
『メッセージ』を観たことで、わたしの人生は変わった。
そもそものはじめから、わたしはどの映画もあなたであることを知っていたし、当然のものとしてそのアナロジーを利用したりもした。けれど、わたしが目指しているのは歓喜の極致なのか、それとも苦痛の極致なのか? わたしは父と子のどちらになるのだろうか?
いずれにせよ、あなたはずっとわたしのそばにいる。これからもあなたを観つづける。
誰かがわたしを映画に誘ってこう言う。
「けもフレの第七十四話をみにいきたいかい?」
で、わたしはほほえんで、こう答える。
「ええ」
そして、わたしたちは手をつないで映画館にはいって、スターウォーズの新作のチケットを買い、ともだちにあうの。つまりはこれからもどうぞよろしくね。
引用文献
テッド・チャン『あなたの人生の物語』ハヤカワ文庫SF
「理解」公手成幸・訳
「あなたの人生の物語」公手成幸・訳
「地獄とは神の不在なり」古沢嘉通・訳
逆噴射聡一郎(ダイハード・テイルズ)
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