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地獄にスノードームで勝算はあるのか? ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(2)

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良い地獄を待っているーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(1) - 名馬であれば馬のうち

のつづき

 

第二話「魔女家に来る」  

 第一話は夏子がぬりえちゃんちへやってくる話でした。第二話はぬりえちゃんが夏子のうちにやってくる話です。
二〇一五年に開かれた講演会(関西ミステリ連合OB会『BIRLSTONE GAMBIT』収録)によると第二話は「中耳炎」と題されたぬりえちゃん視点の話になる予定でした。が、「中耳炎」は結局編集部から没をくらいます。*1本編はその没原稿の代わりに書かれたものです。

 

 

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)

 

 


*家、あるいは家族という名の地獄


 本書のタイトルである『魔女の子供はやってこない』をキーワード「地獄は来ない」とつきあわせると、どちらも「来ない」存在であると共通項が見出され、「魔女の子供(ぬりえちゃん)は地獄のメタファーである」とこの時点で短絡しえます。ところが第二話では魔女がやってくる。
 第一話でもともとの友人たちを無くした(無くした記憶を消してしまったので元々ぼっちだったということになっている)夏子は、学校の先生から「最近通り魔が出て危ないから友達とペアを組んで下校するように」と促されるものの、組む相手がいないので教室にぽつねんと残されてしまう。
 そこに、紙飛行機が窓から舞いこんできます。唯一の友人であるぬりえちゃんからのお誘いです。夏子はぬりえちゃんとの関係において、常に待つ側です。
 ふたりは一緒に外で遊びますが、内容は公園で本を読むだけ。他に遊び方がわからないので夏子はこういうことをやるのですが、ぬりえちゃんは「一人でできること、どうして二人でするんだろう」と疑問を呈し、夏子の家に遊びに行くことを提案します。このとき、とまどう夏子にぬりえが言う「友達でしょ?」は第一話で夏子の家に遊びに行きたがった小倉くんのセリフと呼応します。旧仲良し六人組は第二話以降姿を消しますが、このようにセリフを反復する形でふしぎとちょくちょく全編に顔を覗かせます。
 夏子は以前からあまり自分のうちに友達を招待しない子供だったようです。それは彼女自身の強い自意識に由来しています*2。彼女は精神を削りながら自室でぬりえちゃんを歓待しますが、内心では「二人でいる時何をすればいいか、せっかく外ではそれを見つけて決められたのに、どうして家で遊ぶんだろう、ずっと外で遊べたらいいのに、そう思」ってしまう。
 外で遊ぶときは外にあるものを使えばいい、しかし自分の家で遊ぶときは何を使っていても自分と関わりのあるものを使わざるをえない。つまり、自分の内面をさらけ出す必要がある。さらにやっかいなことには、さらけ出したもののになかに自分でも認識していない恥ずかしいサムシングを見いだされてしまうおそれがある。一方で規範を共有せずコントロールも効かないのになぜか他人からは自分の一部とみなされる「家族」という制度もあって、この人たちもなにかまずいことをしでかす恐れがある。
 夏子母の引き留めもあり、ぬりえちゃんはずるずる夕食を相伴し、ついにはお泊まりするのですが、この間に夏子は神経をすり減らしていく。はたから見れば些細なことでも、自分や家族の器の小ささを露見させてしまうのではと過剰に心配します。
 夏子の神経衰弱っぷりの他に夕食の様子から読み取られるのは、夏子と家族の断絶です。母親は子どもの客をあしらうのになれないせいか、やたらぬりえちゃんを引き留めてしまうし、傲慢な姉は割り切れない数のチーズ餃子の余分になんの断りもなく手を出してしまう。そして、父親は一応ふつうっぽく振る舞っているけれどいつ怒りっぽい地を覗かせるかわからない。
 どこの家庭にでもあるような他者としての家族の不可解さや理不尽さが夏子の心に負荷を加えていき、母親からぬりえちゃんと一緒に風呂に入ればと薦められたところで沸点に達します。夏子は「絶対嫌だ! 一人で入る!」と泣き叫んでトイレにひきこもります。まさに地獄。

 

「あまり家には呼びたくなかった?」
「怖い」月が眩しく私は俯きました。布団の姉の膨らみが見えました。「嫌われそうで怖い。やなとこいっぱい知られそうで怖い」
「そうなの」
「もっと仲良くしたくてと、ぬりえちゃんはいっていたけれど」垂れる髪の毛の中に私は隠れました。「私にはもう親友だから、これ以上には仲良くしないで欲しい……」
「どうだろう」魔女の声がしました。「安藤さんはさ、人の目が怖いのかもしれないね」

 

*眼球奇譚


 人の目。
 第三話で複数回反復されるモチーフはいくつかありますが、とりわけ重要なのはこの「目」でしょう。たとえばこんなパラグラフがあります。

 

 道端に不審者注意の立て看板があって、黒地に目玉のイラストが描かれていました。その目が苦手と私が言うと、ぬりえちゃんが腹からマジックを取り出して、さっと塗り潰してしまいました。「憂いは断ったね。さあ行こう」

 

   なぜ目なのでしょうか。なぜ夏子は視線を恐れるのでしょう。

 見る-見られるの関係は映画であれば直感的に「スクリーンと観客との緊張関係」という当たり障りのない一言に要約して了解を得られるところですが、小説ではメタフィジカルな言及なしに登場人物が読者を見返すことはまずありえず、よって作品ごとに個別具体的な視線論をでっちあげる必要があります。
 夏子は観察者としての自分にはわりと無頓着です。姉のプライベートが書いてある日記を平気でぬりえに晒したりします。また、ぬりえの応対にあたる家族の一挙手一投足をパラノイアックな視線と解釈を注いでいます。
 そんな彼女が観察されることを過剰に忌避する。見られることで、「嫌われることが怖い。知られるのが怖い」と言う。自己評価の低い彼女は深く立ち入られると自分の醜い部分がバレてしまうと思いこんでいる。だから、自然と浅いつきあいを志向してしまいます。
 つまり、評価されること、判断されることを恐れているのです。後藤明生ふうに言えば「他者の解釈を拒絶」している。
 

 他者を拒絶するということは、他者の目を拒絶することだ。他者の解釈を拒絶することだ。つまり、他者から見られることを拒絶することであり、他者から解釈されることを拒絶することである。
(中略)
 つまり、そこには「見る←→見られる」という、他者との関係が成立しない。その成立を許さない。「見る←→見られる」という他者との関係を拒絶するのが、志賀直哉の「直写」ということなのである。
(「第二章 裸眼による「直写」 志賀直哉『網走まで』『城の崎にて』」『小説ーーいかに読み、いかに書くか』)

 

 見て見られる。判断して判断される。それらは関係の基盤です。コミュニケーション以前の問題です。
 観察がなければ解釈もなく、解釈がなければ言語化もない。そして、言語化しないのなら願いもない。他人に観察されることで再帰的に自己を識るのは、ねがいにパースをひくための初歩です。『魔女子供』において「ねがい」というテーマがなぜディスコミュニケーションや友人といった人間関係の話の上に描かれてるのかといえば、自分を見てくれる他者がいなければ自分のねがいも描けないからです。文字にならないからです。

 

「文字のない町は綺麗だけれど、景色は変わってしまうから。言葉にしないと伝わらないから、言葉で願うことを書いてるんだよ」(第六話)

 

 ぬりえは夏子に視線を恐れるなと諭します。「人の目が怖いのはさ、慣れれば平気になるんじゃないかな。訓練しようよ」と言います。他者に解釈されることを恐れるな、ということです。そして、安藤家を辞去するとき、夏子に人間の目玉の入ったスノードームを渡します。このスノードームもまた第二話で印象的に反復されるアイテムです。

 これは元々餡子が夏子に旅行のおみやげにプレゼントしたもので、夏子の机にかざってありました。最初もちろん目玉など入っておらず、サンタと橇が封入されていただけです。
 ぬりえは夏子の部屋で生まれて初めて見たスノードームに興味を示し、お風呂にもスノードームがあったと主張します。それは中に水の入った輪投げのおもちゃで、スノードームを「中に水が入ったまるっこい物体」としか認知していなかった彼女にはどちらも同じものに見えたのです。「文字のない町」では機能さえ同一なら区別もないのかもしれませんね。
 夜、眠れないふたりはベッドを船に見立てて航海ごっこを始めます。そのとき、夏子は島に見立てた机からスノードームを取ってきて「宝にしよう」とぬりえに渡します。それをぬりえをふたつに割ると、中から大量の液体が流れ出し、やがて部屋を覆い尽くします。のみならず、町全体も海原に変えてしまいました。ふたりはベッドの船で外にこぎ出し、寝と水にしずまった町の様子を「スノードームのよう」に眺めます。『ドラえもん』の「ブルートレインにのろう」*3を思わせるノスタルジックな幻想です。
 そうして、翌朝にぬりえはスノードームを夏子に返却、というか再プレゼントします。追加された目玉の意味は明白ですね。夏子たちがスノードームの中で町の住民を一方的に眺めていたように、町に住む夏子もまた見られる客体である、ということです。ぬりえを見送るために外に出た彼女はもはや他者の視線を恐れなくなっていました。それもこれもぬりえちゃんという他者が夏子の領域に「やってきた」からこその達成なのです。

 


*目玉の正体


 スノードームに追加された目玉は基本的には他の人々からの視線の象徴なのですが、別の可能性としては神などもありえます。
 劇中、何度か監視者のような飛行体が登場します。第一話の二章目の終わりで、村雨くんが魔女の住むマンションを教えてくれたときに「来るのと彼が訊くのにかぶり、教室の飛行機の音が通り過ぎていきました」。第三話で死者蘇生を迂遠に断るぬりえちゃんと気まずくなったときに「窓の方をヘリコプターの音が通り過ぎていきました」。第六話で子供のときの世界を訪れたふたりがげろアパートで夏子と出会う前のぬりえを見つけたときに「遠くでヘリコプターが飛ぶのが聞こえました」。どれも音だけで姿はありません。第三話で夏子は授業終わりに窓から空を見上げて「雲の少ない澄んだ高い空で、神様がいるのならよく見えそうでした」と述べますが、見られる側からは見えない存在です。

 この神はただ見るだけの存在ですから、たとえば人を罰したりはしません。航海ごっこ中にふたりは通り魔の犯行現場を目撃します。夏子は通報したほうがいいのか迷いますが、ぬりえは「(通り魔を)捕まえるためにしたことじやないし」といってスルーしてしまいます。夏子が「このまま二度と捕まらないかも」と言っても、人の法とは別の世界で生きるぬりえは無関心です。
 すべての魔女は地獄へ行きますが、地獄とは行ったり落ちたりやってきたりする人間的な業の生み出す場所なのであって、神とは関係がない。第三話で夏子の先生が「神様しかしちゃいけないことってあるんだと思うよ」と話したのを受けて、ぬりえが「神様とか聞くとちょっと笑っちゃうね。偉けりゃやってもいいんだったら、私は黙ってやっちゃうけどな」と言い放つのは彼女が神的な上位存在とはまた異なる存在だからでしょう。

 地獄行きを決めるのが魔女であり、神様がいるなら見えるはずの空に神様を見いだせないのならば、やはり彼女たちの住む町の空に神はいないのかもしれません。地上の神のほうは五話に出てきます。

*1:「中耳炎」はのちに矢部嵩twitterにアップされ読めるようになりました

*2:彼女の姉も家に友達をあげるタイプではないと書かれているので、家風でもあるのでしょう

*3:てんとう虫コミックス25巻所収


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