聞くところによればディズニーは長編アニメから十数作ほどを対象に実写リメイクする予定であるらしい。九十年代のいわゆるディズニー・ルネッサンス期の名作群からも『リトル・マーメイド』や『ライオン・キング』、『アラジン』といった顔ぶれが待機作として控えている。
アラン・メンケンが音楽を、ハワード・アッシュマンが作詞を担当したルネッサンス期のミュージカル群はどれも完璧な魔法に満ちていて、幼少期に体験したならばもはや何者にも代え難いほどの奇跡として私たちの記憶に固着している。
そもそもアニメーションの原義は命なき者に命を吹き込むことであるはずで、そうした魔術を生身の人間でやり直すこと自体反呪術的というか、無粋であることは決まりきっている。『スターウォーズ』やマーベルが百年帝国を築きつつあるような現代映画界において例えビジネス上の要請で生まれ出た映画であって映画であることには変わりなく、映画である以上は観なければならない。製作側に求められる品性と観客の側に求められる品性はそれぞれ別種のものなのですから。
で、『美女と野獣』。
ポール・ウェルズに指摘されるまでもなく、村のファニーガールであるベルは91年版の時点から明白に「男尊女卑と家父長主義文化の犠牲者」*1として描かれているのであって、それでもまだ旧来的なプリンセス・ストーリーの重力に回収されていた91年版を、ビル・コンドンとディズニーはリメイクにあたってより「現代的」な方向へと改変した。
伊達男ガストンはベルに求婚するさいに村で物乞いに身をやつしている独身女を示し「結婚しない女の末路はあれだ」と脅す。当時のフランスの田舎では、ベルみたいにシェイクスピアを好む読書家の女性が自立して生きる余地など絶無だった。
この独身女は折々に印象的な活躍をするのだけれど、村におけるマイノリティはベルや彼女だけではない。ガストンの側近ル・フゥもその一人だ。彼のセクシャリティがゲイに変更されたことは大きな話題を呼び、コードが厳格な一部地域では本作の上映自体が禁じられる騒ぎとなった。と、いっても話題の大きさに反して彼のガストンに対するあこがれはあこがれ程度にとどまり、直接的に彼の想いを爆発させる場面はほとんどない。むしろ原作ファンが驚くのは終盤における彼の転身ではないか。
こうしたわかりやすいキャラ配置だけでなく、メインとなるベルと野獣の恋愛劇にも実は繊細な配慮がほどこされている。もとから四十分も追加されているので当たり前といえば当たり前なのだけれど、二人が恋愛に陥る課程がより丁寧に、より説得的に描かれるのだ。
追加描写によって強調されるのはふたりの共通点だ。ふたりとも母親を早くに失い、本を友とし、属するコミュニティで外れものとして生きてきた。だからこそ互いの孤独を理解し、寄り添うことができる。
そう、孤立の解消こそ本作の裏テーマとみるべきだろう。ベルと父親との関係も不在の母親を介して更に掘り下げられている*2し、村人たちと城の住人たちの意外なつながりもおまけ程度であるけれども断絶していた城と村の再結合、一度は憎しみあったはずの人々の和解に一役買っている。
なのに、だ。肝心要のミュージカル部分で一番輝きを見せるのは、一人だけ孤立したまま結末を迎えてしまうガストン(ルーク・エヴァンス)なのはどういうわけだろう。コンドン(に代表される制作陣)はミュージカルパートでいちいち役者の動きを止めたり、原曲を細切れにして間延びさせたりして力強いテンポを殺してしまっているわけだけれど、ガストンはその肉体的な説得力ひとつでミュージカルのキャラであることを成立させている。ル・フゥのアシストも貢献大だけど、彼の「強いぞガストン」の躍動は原作以上に力強く、逆に原作の醜悪なパロディに墜してしまった「Be Our Guest」と対照的だ。
原作以上に怪物化し、ある外的な要因のせいでより惨めな最期を遂げてしまう彼だが、キャラクターとしては報われている。