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きっと、星のせいじゃない。――映画『ウィッシュ』について

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星に願いをかけるときは
あなたが誰でも関係ない
心に浮かんだ望みはなんだって
きっといつか叶うでしょう


――When You wish upon a Star



 とすれば、ブルータス、罪は星にあるのではない、われわれ自身にあるのだ。


 シェイクスピア福田恆存・訳『ジュリアス・シーザー新潮文庫


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星に願いを

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ヒトラーも口笛を吹くのが好きだった。
なかでも「星に願いを」はディズニーアニメのファンでもあった彼の十八番でもあり、パリを征服したさいにはシャイヨー宮で市街を見下ろしながらこの曲を吹いたという。*1
一方でもう一人の独裁者であるところのウォルト・ディズニーは当初この曲にやや懐疑的だったらしい。が、1940年にリリースされて世界的なヒットナンバーになるや『ピノキオ』の枠を飛び出してディズニーコンテンツのいたるところで使用されるようになり、いまや映画鑑賞前に流れるディズニーのロゴアニメでもBGMとしてもおなじみだ。もはやディズニー全体のテーマソングといっても過言ではない。


それはつまり、「願い Wish」がディズニー長編アニメ―ション全体を貫くテーマだったからだ。それは同時にディズニーを最もアメリカ的にしている要素でもある。願い、叶えること。アメリカン・ドリームという名の宗教の骨子だ。


思い起こせば、ディズニー長編の第一作である『白雪姫』でも白雪姫の登場は「願い」を掛ける歌から始まっていた。
白雪姫が森の動物たちに話しかけながら、「私の秘密よ。誰にも言わないと約束してね」といって、井戸の底に向かって「I’m wishing…」と歌い出す。以降、ゼペットじいさんは木の人形であるピノキオに「本物の人間になってほしい」と願い、ダンボの母親は子どもがほしいと願い、シンデレラは舞踏会に出ることを願った。時代を経ても欲望(desire)することはなお肯定されつづけ、アリエルは脚を得て王子様に再会したいと願い、ラプンツェルは魔女によって閉じ込められた塔から脱出することを願い、ラルフはもう悪役でいたくないと願い、エルサは……エルサがなにを願ったのかはみんな知ってるし、みんな歌えるはずだ。

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そんなディズニーが百周年記念作として、そのものズバリ『ウィッシュ』というタイトルの映画を作る。
期待しないほうがどうかしている。
ディズニーの総決算的な内容になるのは間違いなく、クラシックでいて、それでいて新しいなにかを提示してくれるに違いない。そう思っていた。いや、願っていた。
その願いは予告編を見ても変わらなかった。
まるで『Borderlands』の(それも1くらいの)ようなトゥーン風のチープなルックを見せられて、それを「『白雪姫』などに立ち戻った水彩画風のタッチだ」などと主張されても、変わらなかった。
先に公開された海外の方から悪評が漏れ聞こえてきても変わらなかった。結局のところ、Rotten Tomatoes などの支持率にしたって主に英米映画批評家たちに好まれる割合を示しているにすぎず、個別のレビュー本文を読めばその英米の批評家たちがいかに信用ならない存在かはすぐにわかる。しょせんは『ロビン・フッド』も『ブラザー・ベア』も『グーフィー・ムービー』もろくに評価できなかったやつらなんですよ。
私はことディズニーアニメに関しては自分で観たものしか信じない。
12月15日の金曜日、私はそれを自分の眼で観た。
そうして、私たちの生まれたこの星の下では、祈りも願いも叶わないのだと思い知った。

『白雪姫』(1937年)より

『ウィッシュ』のオープニングは美麗に装丁された写本が開かれ、物語のあらましが語られるところから始まる。
これは『白雪姫』から始まって長いあいだ、特にプリンセスもので使われていたディズニーアニメの導入の作法である*2。一種の決意表明と見ていい。「これから始まるのはクラシックオマージュの映画ですよ」という。
だが、実際に展開されるのはテイストもソウルもないアニメーションと、100以上にも及ぶ(と制作者は語っている)オマージュという名のただのイースターエッグの乱発だ。
ダメなところは、そうですね、つらつら挙げれば仕込まれたイースターエッグの数以上に出てくるけれど、とりあえずはテーマである「願い」にフォーカスしよう。


舞台となるロサス王国は地中海のどこかに位置する島。そこを治めるマグニフィコ王はあらゆる魔術を修得した偉大なる魔法使いで、18歳以上の国民全員の「願い」を預かり、月に一度、儀式を開いてその願いを叶えてあげていた。
母親と100歳になる祖父*3と同居する少女アーシャは、老い先短い祖父の願いが叶うように祈りつつ、敬愛するマグニフィコ王の弟子となるべく、王城で働く七人の個性的な友人*4の力を借りて面接の準備を進めていた。
ところが実際に王と面会したアーシャは、そこでひとびとの「願い」がどのように扱われているかを知る。マグニフィコは国を平和に治めるためという建前で叶えるべき願いを恣意的に選別しており、「音楽の力でみんなで良い関わりをもちたい」というアーシャの祖父の願いを「反乱の種」とみなして永遠に叶えるつもりはないと断言する。アーシャは叶えるつもりがないのなら、せめてその「願い」をひとびとのもとに返すように説得する。「願い」を抜き取られたひとびとは自分の「願い」を忘れてしまうのだ。それを思い出させてあげてほしい、とアーシャは王に懇願するが、王はにべにもなく拒絶。面接も大失敗に終わる。
「願い」の真実にショックを受けたアーシャは「みなの願いを叶えたい」という願いに目覚め、夜空にそれを祈る。
すると、星のカービィ……じゃなかった、伝説のスタフィー……でもなかった、星の形をした精霊? スターが落ちてきて、その不思議な力で動物を喋らせるようにしたり*5、ニワトリを巨大化させたりする。その魔法を王からみんなの「願い」を取り戻すのに使えるかも、と思いついたアーシャはスターをつれて王城に潜入しようとするが……というのが最初の三十分からそこらくらいまでのお話。


願いという観点から眺めた場合、主人公であるアーシャの願いの在りかたは、ディズニー長編アニメのなかではわりと異質だ。
物語開始時点では、特段なにか強い願いを抱いているわけではない。おじいちゃんの夢が叶うといいなあ、とか、マグニフィコ王の弟子になれたらいいなあ、とか(傍から見てると)漠然と考えているだけ。
ディズニー長編、特にプリンセスものはだいたい主人公に強烈な欠如感とそれに基づく願望があって、それが物語を推進していく原動力となるのだけれど、アーシャにはそうした差し迫った欠如がない。だから、願望もない。
代わりにあるのは他者に対するいたわりの心だ。彼女は、さきほど言ったとおり漠然としているとはいえ、祖父の「願い」が叶ってほしいと真摯に考えているし、「願い」の真実を知ったあとも王城で触れたひとびとの「願い」に感銘を受けてそれらの願いが叶ってほしいと強く祈るようになる。そして、それがスターという魔法を呼び寄せる。
それがやがて、他者との連帯につながり、革命の物語へと発展していくわけなのだけれど、ひとまずは措いておこう。

ミュージカルとしての『ウィッシュ』

ところで、『ウィッシュ』はミュージカル作品でもある。前に述べたように『白雪姫』が歌から始まっていた歴史を踏まえると、オーセンティックさ(いやなことばだ)をアピールするためにこのジャンルを選んだのは必然であったように思われる。
そう、ディズニーにおける「願い」は歌とともにあった。
特にディズニー・ルネサンス期と呼ばれる『リトル・マーメイド』以降の作品群では、ハワード・アッシュマンらの取り入れたブロードウェイ・ミュージカルの手法、すなわち主人公に秘められた欲望を歌を通じて観客に吐露することでそのキャラクターと物語の目的を鮮烈に示した。*6
このようなミュージカルのストーリーテリングにはある前提が必要となってくる。
つまり、歌い上げられるべき「願い」は秘められたものではなくてはいけない、という前提だ。
オペラなどとは異なり、ミュージカルではセリフと歌は分離されている。よく批判的な文脈で言われる*7「ミュージカルって突然歌い出すから苦手」というのも、普通に喋るセリフから突然会話としてはふさわしくない歌の世界へ移行するからで、ここでは現実的なレイヤーから空想的なレイヤーのジャンプが生じる。この飛躍をミュージカル苦手勢は違和感として捉え、ミュージカル好きな人はファンタスティックな感覚として好ましく感じる。*8


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抑圧されているからこそ「願い」は歌のレイヤー(=ここではない世界)で高らかに響くものであり、むしろそのような飛躍がないならミュージカルにする意味がない。
してみると、アーシャはどうだろう。彼女は特に秘密の願望を持っていない。強いていえば途中から王に隠れてレジスタンスとして活動することが秘密といえば秘密であるのだけれど、地下活動はあくまで手段にすぎず、その背後には「みんなの願いを叶えてあげたい」という目的がある。そして、その目的は特に秘されていない。
アーシャが星空に歌い上げる本作の主題歌「This Wish」は、曲単体では比較的良いほうなのだけれども、歌詞の内容的には「みんなの願いを叶えてあげたい」とついさっき持ったばかりの決意を*9特にひねりもなく歌い上げているにすぎない。そこには蓋されてきた感情が噴き上げる勢いがない。彼女は「願い」を歌うには、あまりにもキャラクターに内蔵されたバネが足りない。*10


とはいえ、ミュージカル映画のすばらしさは、時に「主人公は抑圧されていなければならない」というそれ自体理屈っぽい抑圧*11さえ歌声と映像のパワーで吹き飛ばせるところだ。しかしまあこの点でもなんというか、弱い。
ルネサンス期のディズニーのミュージカルではただブロードウェイ直輸入に徹するのではなく、映画的な手法やアニメーション的な誇張も多分に用いられていた。先日、テレビ放送で話題を呼んだ『ノートルダムの鐘』のオープニングでは、語り部である人形遣いの語りがそのまま過去のキャラクターの声へスライドしていくという手法が使われているし、厳密にはミュージカルではないのだが『ターザン』のオープニングではフィル・コリンズの「Two Worlds」に乗せて人間の家族とゴリラの家族をクロスカット見せていって最後にそのふたつが合流する、という演出で盛り上げてくれる。


キャラクターたち3Dの身体を持ってややアニメーション的な誇張が使いづらくなって以降も、ラプンツェルやエルサは彼女たち自身の躍動感と(時には文字通りの意味での)魔法によって、耳だけではなく眼も愉しませてくれた。
ところが『ウィッシュ』では映画的な、あるいはアニメーション的な映像のマジックがさほど信じられていないように思われる。
劇中歌のそれぞれの曲調や場面ごとのトーンはあるにしても、基本的には暗めの画面でキャラがうろうろしているだけだ*12。喋れるようになった動物たちが乱れ狂う「I’m A Star」や、地下レジスタンスたちが団結する「Knowing what I know now」がわずかにグルーヴを感じられる程度だろうか。
どの曲もそれなりに良くはあるのだけれど、既視感も強いし、どこかで突き抜けるものがない。まあ個人の感想です。

「願い」を独占している悪とは誰か

そもそも、人々固有の「願い」を吸い上げて独占するヴィラン、というのもなんのつもりなのか。
一代で王国を築き上げたマグニフィコは、伝統的な王族というよりも大企業のエグゼクティブ的にふるまう。見た目はスマートだが、その裏に隠された本性は傲慢で、気ままで独善的。道徳心も薄く、自分の思いついたことは誰のいうことも聞き入れず実行しようとする。妻である王妃のことも軽んじる。昔とは形を変えた家父長制のメタファーのようでもあり、そういう意味では現代的な悪役なのだろう。「愚民どもはいつも努力もせず、他人に自分の夢を託して怠けようとする」とはいかにもこの時代の成功者がとりそうな態度だ。そうだね、イーロン、あんたのことだ*13。月イチで行われる「願い」を叶える儀式がIT企業の製品お披露目会みたいなのも印象的だ。*14
そんな彼がひとびとの「願い」を吸い上げて王城でほぼ飼い殺しにしている。この「願い」をマグニフィコは何度も My Wish と呼び、所有権を主張する。なぜ管理しているかは説明ゼリフが多い本作のわりになんだかぼんやりしているのだが、どうもひとびとの「願い」が自分にはアンコントローラブルなのに耐えられず、どこかで支配からの逸脱を目論んでいるのではないかと不安になっているらしい。彼が叶えてあげる「願い」は「王様に尽くす騎士になりたい」とか「王国のために美しいドレスを織りたい」とか、王国=自分の利益になるものばかり。


他人の頭から生まれた「願い」を搾取してその権利を強硬に主張する悪人。
どこかで聞いた話だ。どこか。
ディズニーである。
slash filmの記事で指摘されているように、ディズニーは「マーベル・スタジオからルーカス・フィルム、ナショナル・ジオグラフィック、FOX、ESPN*15まで買い上げ」、文字通りの王国を作り上げた。そして、マーベルやスター・ウォーズといった他人の夢を自分の物として無尽蔵にコンテンツに作り続けている。
一方で、自らの所有する知的財産権については異常なまでに過保護*16で、特に著作権の保護期間を延長する法律は「ミッキーマウス保護法」として悪名高い。
なにより、ディズニー長編アニメーション自体の他人の夢で出来ている。
『白雪姫』や『眠れる森の美女』はおとぎ話の再話であるし、『ピノキオ』や『バンビ』や『くまのプーさん』などは明確に、しかも制作年からわりと近い時代に原作がある。ディズニーはそうした原作たちをそのときなりの思想に合わせて改変し、たいがいの場合は原作ファンから顰蹙を買った*17
しかし、われわれが今プーさんといわれて思い浮かべるのはフランク・トーマスの描いたプーさんであって、原作の挿絵担当であるE・H・シェパードのあの人形感のつよいプーさんではない。同様に『不思議の国のアリス』といえば青と白のエプロンドレスに身を包んだ金髪碧眼の少女であり、『美女と野獣』といえば黄金のドレスと水牛のような野獣の顔だ。
2000年代以降にオリジナル色が強くなってからも、過去に築き上げたIPは存分に利用してきた。
そんなディズニーがなんと呼ばれてきたか。「魔法の王国(Magic Kingdom)」だ。


本作はひとびとの「願い」を占有する「魔法の王国」を悪だと断罪する。
いってみれば、自己批判的な映画に見えるわけだ。
もちろん、アニメ映画というのは長期間にわたって非常に多くの人間の意図や意志が混じるので、その物語がどういった方向性のもとで書かれたのかを言い表すことは難しい。ただ、出力されたものを見れば、これはディズニーによるディズニー批判の映画に見える。
これを、普段は経営に口を出せずに労働力を搾取されつづけているディズニーの現場のアニメーターたち(の、あるいは集合的無意識)による勇気ある告発と称賛しようとおもえばできる。
できはするのだが、仮にそうだったところで、なんなのか。
ディズニーは依然として他人の「願い」や夢から富を生み出し続けているし、これからもそうしていくだろう。
なんとなれば、これまでのディズニーは富と共に夢や喜びも観客に与えてきた。
それは下敷きになるなにかがあったにしろ、たしかに確固たる世界を構築しつづけてきたからだ。
『ウィッシュ』は原作ものではなく、近年強まってきた異国文化フィーチャー感(悪く言えば”文化盗用”)も比較的弱い*18。そのせいなのかどうか、自分たちで美術の良さを謳うわりにはビジュアル的にも物語的にもスカスカで、クライマックスのそれ自体は正しく感動的なメッセージがうつろに響く。
ディズニー百年の歴史に対するオマージュとして作られたこの映画には、メタ的な寓意しかない。
ファンタジーを軽んじるものは、ファンタジーは寓意さえあれば成立すると考えがちだ。
違う。
たとえ寓意を重要視するとしても、ファンタジーであるなら、いや、物語であるならばそれを支える真剣さや一貫性や社会性や秩序や細部や人間性やルールや複雑さを欠いてはならない。つまりは世界がなくてはいけない。アーシュラ・K・ル・グィンで「真のファンタジーは寓意物語ではない。アレゴリ―とファンタジーは重なり合う場合がある」*19と述べたように。
「願い」や祈りが大事というのなら、信じるに値する世界を描き出そうとする努力、それ自体が重要な「願い」であるはずだった。
だが、そうした「願い」の代わりに本作にあるものは?
この十年、ディズニーがアニメにかぎらず超大作でやってきたことと同じ、100を超える大量のイースターエッグだ。ただ甘いだけで、何の栄養にもならない卵。
この卵を割っても未来は出てこない。
なぜなら、一つ残らず、腐りきっているから。

*1:Michael Spitzer, ‘The Musical Human: A History of Life on Earth’, 2021 →『音楽の人類史―発展と伝播の8億年の物語』原書房

*2:この手のオープニングが作品での私のお気に入りは『眠れる森の美女』。メアリー・ブレアの配色センスが炸裂しまくっているのがよい。例外的だが『ロビン・フッド』もすばらしい

*3:これが百周年を迎えるディズニーと重ね合わされているとするなら……最悪だ。

*4:明確に『白雪姫』の七人のこびとのオマージュ

*5:もちろん「プリンセスは動物と通じあえる」というディズニー八十年の伝統に則っている

*6:谷口昭弘『ディズニー・ミュージック 〜ディズニー映画 音楽の秘密』スタイルノー

*7:元はタモリだとか

*8:ミュージカルがなぜ「突然歌い出す」ようになったかについては宮本直美の『ミュージカルの歴史』(中公新書)がお手軽で詳しい

*9:家族から拒まれ、社会的にも抹殺されそうという抑圧はあるにしても

*10:いちおう悪役であるマグニフィコにも歌が用意されていて、そちらはたしかに国民には見せない彼の欲深さをナルシシズムを吐露しているのだが、こちらもなんというか、『リトル・マーメイド』のアーシュラや『ライオンキング』のスカーほどに良くはない。共犯者や部下がおらず、孤独なせいだろうか。

*11:ディズニープリンセスたちが抑圧的な状況下に押し込められる事の必要性の是非は何度でも問い直されるべきだろう

*12:いちおう歩くだけにしても演出の意図は見えていて、たとえば This Wish ではどんぞこな気分を味わっているアーシャが自分の願いと決意に気づき始めるにつれ、階段を登ったりして「アガって」いき、最後には空を見上げる。キャラの気持ちと歌と映画をシンクロさせようとはしている。

*13:見た目がスマートかはおいといて。むしろ『サクセッション』の終盤に出てきたアレクサンダー・スカルスガルドに近いのかも

*14:そういえば、一時期の海外アニメSF映画ではジョブスみたいな悪役が多かった

*15:スポーツ報道専門チャンネル

*16:もっともよくネットで本気半分でネタにされているように、ちょっとミッキーマウスを小馬鹿にするミーム画像を作るくらいではディズニーは怒らない。それで火遊びしているつもりのひとびとを見るたび、私はネットの卑しさを思わずにはいられない。

*17:たとえば、『バンビ』についてはルグィンの『ファンタジーにできること』河出文庫などに目を通すとよい

*18:地中海っぽさでいえば実写版『リトル・マーメイド』のほうが強く匂う

*19:「批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち」谷垣暁美・訳


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