順番は特に順位に対応してはいません。母数となる新作は60本くらいか。今年はシネコンばかりで観ておる。
- 『ベネデッタ』(ポール・ヴァーホーヴェン監督)
- 『レッド・ロケット』(ショーン・ベイカー監督)
- 『フェイブルマンズ』(スティーブン・スピルバーグ監督)
- 『Search 2』(ニック・ジョンソン、ウィル・メリック監督)
- 『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』
- 『長靴を履いたネコと9つの命』(ジョエル・クロフォード監督)
- 『生きる LIVING』(オリヴァー・ハーマナス監督)
- 『ボーンズ・アンド・オール』(ルカ・グァダニーノ監督)
- 『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督)
- 『エブリシング・エブリウェア・アット・オール・ワンス』(ダニエルズ監督)
- 『MAD GOD』(フィル・ティペット監督)
- 『ヒトラーのための虐殺会議』(マッティ・ゲショネック監督)
『ベネデッタ』(ポール・ヴァーホーヴェン監督)
・映画が作中キャラクターをシニカルに撮る一方で、キャラクターたちもまた世界をシニカルかつ真剣に見返している。そういう不思議な緊張が映画に独特のハリを与えている。
人類を馬鹿にしている映画といえばそうなのだけれど、人類を安く見てはいない。かれらは下卑でありつむ気高く、愚かでありつつもしたたか。誰もが打算で動いているが、その打算を超える瞬間がある。人間を人間のサイズで撮っている映画というものは、年にそう何本も観られるものじゃない。
・「教区司祭に告解しなさい」「私が教区司祭です」
・本当に聖女でヤンスか〜?映画だと『聖なる証』もあった。あれは去年の新作でしたっけ? こっちはこっちで堅苦しすぎるところが逆に笑えるようにできていて、いい映画です。真剣すぎるひとたちがおもしろくなるメディアなんですよ。
『レッド・ロケット』(ショーン・ベイカー監督)
・無責任な男であるのを示すために車社会で運転しない(ずっと助手席にいる)のはいい。
・ショーンベイカーは映画が横長であることを知っている。
・いい犬が出てくる。
・基本的には今の日本に入ってくるアメリカ映画って南部の貧乏白人をあまり好意的に描かない。そうした人々を肯定することによってある種の態度までを肯定してしまうことになりかねない、というおそれを抱いているから。まあ実際南部的な価値観(それはネッドレック的なライフスタイルと必ずしも一致しないものの)を称揚するような映画を出されても、こちらとしては戸惑うしかないのもまた事実ではある。アメリカのリベラルというものをわたしたちはおそらく真には理解できないのだろうけれど、しかし映画館に入るとき、わたしたちはだいたいアメリカのリベラルの心持ちになっている。ふしぎなことです。
その視線で見る『レッド・ロケット』の南部貧乏白人たちは、まあ、あんまり賢くはない。善良でもない。好ましくなんてぜんぜんない。
主人公は落魄した出戻りポルノ男優で、一見男らしい磊落さを装いながらも、腹の底は惨めで打算的で利己的だ。地元の半分ヤクザのような黒人ファミリーから強いれた大麻を売り捌きながら、ドーナツ屋で見初めた高校生の少女をコマして、のみならずポルノ業界にひきこんで自分もカムバックを果たそうとする。
そんな男に寄生されている元妻とその母親は災難な立場なのだけれど、彼女たちも観客の好意に値するようなしおらしい人たちかというと、けっこう図太かったりする。
そんなかれらがドーナツ屋に行く。主人公が「今日はなんでも頼んでいいぞ。おごりだから」と誇らしげにいう。妻の実家に寄生しておきながらドーナツごときでたいそうな態度だ。しかし母娘は大喜びではしゃぎながらあれにしようかこれにしようかと悩んでドーナツを注文する。別に主人公に対して感謝の念は見せない。ただドーナツで頭がいっぱいなご様子。
そういう画、生活の他の場面では邪気と邪念しかなく、なんとなればセックスも駆け引きの道具に使うひとたちが、ドーナツに対してはまっすぐな欲望を見せる。それだって好意的な文脈の描写ではないはずなのだが、ほほえましいというか、愛らしいというか、いくぶん好きなってしまう。映画の魔力とはそういうしょうもない場面にも、あるいはそういうしょうもない場面にこそ宿る。
だからこそ厄介なんだね。
『フェイブルマンズ』(スティーブン・スピルバーグ監督)
・この作品とサム・メンデスの『エンパイア・オブ・ライト』では、どちらも「映画のフィルムというのは1秒間に24コマの光が闇と交互に繰り返すうんたら」みたいな映画を語るときによく言われる台詞が出てくるんですが、おもしろいのは、メンデスがそこで「光」を強調するのに対し、スピルバーグは「闇」に惹かれていく。
世間一般的なイメージだとメンデスこそが闇の監督で、スピルバーグのほうが光の監督だとおもわれがちなんでしょうけれど、そのへんのコンテクストの裏切りも含めて大変にエキサイティングな映画だった。
・こんだけ陰惨な映画なのに、最後に(しかもデイヴィッド・リンチを出しておいて)「光」でしめくくることのできる豪腕もすごいというか、ひとをコケにしているとか、愉快。
『Search 2』(ニック・ジョンソン、ウィル・メリック監督)
・パソコンのスクリーン上だけで展開されていくリモート時代(死語)の安楽椅子探偵サスペンス映画第二弾。別にそのコンセプトを原理主義的に守ることにはこだわっておらず、ちょくちょくズルをしていくのだけれど、そのこずるいウソも含めて愛嬌がある。こうやって少しずつコンセプトをはみ出していくのが続編のよさでもあるんですね。3くらいになってくると、はみ出しすぎて逆にダメになってしまうんでしょうが。
そして、どうすれば情報ハックテクニックを生得的に繰り出せるデジタルネイティブ(死語)の嗅覚がよく表現できていて、前作より好き。
『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』
・IMAX字幕で観て頭がパンクしてしまったので、もう一回観たいです。ノリはいまんとこ前作のが好きかもですが、なにせこっちはまだ完結していないのでなんとも。
・『ノーウェイホーム』もそうだったけれど、なにかを破壊しようとしている映画はそれだけで目撃する価値がある。
『長靴を履いたネコと9つの命』(ジョエル・クロフォード監督)
・聞いてたアクションのすごさはさほどのものでもなく、それよりはひたすら中年の怯えと後悔だけで組み立てられていく物語にすさまじさをおぼえた。かわいいネコちゃんなんだぜ?
『生きる LIVING』(オリヴァー・ハーマナス監督)
・いかにも日本の戦後の雑然した蒸し暑さが香る黒澤版に比べてクラシーというジェントルというか、このトラッドさがなにより脚色をつとめたカズオ・イシグロのテイストなのだろう。冒頭から主演のビル・ナイは几帳面な人物であることが強調され、映画の世界もそのように規律されている。それはメカニカルな規則正しさという以上に「人前で裸にならないこと」という英国的な仮面(アメリカの古典的な逃避的なマッチョイズムの仮面とは似ているようでまた別の男性性の発露だ)によってデザインされているわけだけれど、『日の名残』がそうであったようにその一見立派だけれどもろいガラス細工をいたずらっ子のようにイシグロはつついてあそぶ。
『日の名残』の執事よりビル・ナイが救われているのは、彼は最後に公務員として仕事をする機会を与えられたということだろう。
ハンナ・アレントは労働とは家における個人的な営みであり、生活を支える他はなにも残さないといった。一方で仕事は創造的な性格を備えており、半ば公的なものであり、作り出したものは一種の作品として残る。その意味で、役場という「家」での書類仕事から街場の公園という「公共」にナイは飛び出し、共同体に参加し、他の人々に影響した。『日の名残』の執事という職はどこまでも家の事しかできないわけで、ナイの場合は公務員という職に恵まれたことで悔いなき人生を送れたのだった。
『ボーンズ・アンド・オール』(ルカ・グァダニーノ監督)
・ルカ・グァダニーノはもはや何を撮ってもおもしろいし、ティモシー・シャラメはなにもしてもカッコよくキマる二人ともそんな域に入っている。シャラメはあんなにクソダサいジーンズを履いてもなおシャラメでありつづけ、グァダニーノはあそこまでわかりやすい目配せに満ちた記号とリスペクト(『マイ・プライベート・アイダホ』のどこにそこまで人を興奮させる要素があるのかわからないけれど)を散りばめてもなおメタファーであることよりは映画であることのほうがまさってしまう。すべての要素の総和よりも大きいものになってしまう。
・しゃれた映画なんだけど、「カーニバルで捕食」みたいなくだらないダジャレなんかもやる。グァダニーノはいつもどこか田舎っぽい。あかぬけないわけではないのだけれど、田舎っぽい。
『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督)
・ロバ。ロバね。よい動物映画でもある。
・いい歳した中年と老人がケンカする。そんなしょーもない映画がこんなにもおもしろい。こういうしょーもない争いなら延々観ていたい。
・ロバの映画といえば今年はスコリモフスキの『EO』もあった。あれは行く先々でロバが人間から勝手な意味づけをされつづけていくはなしで、動物の受けてきた扱いの歴史そのものである。
・最近のマーティン・マクドナーは燃やせばいいとおもっている節が見受けられる。
『エブリシング・エブリウェア・アット・オール・ワンス』(ダニエルズ監督)
・『ザ・フラッシュ』、『スパイダーバース』(今年は『アクロス・ザ・スパイダーバース』)、『スパイダーマン ノーウェイホーム』、そして本作と観てきておもったのは、マルチバースものってやっぱりそれまでの積み重ねなんだなって事で、実質現状のヒーロー映画ではスパイダーマンにだけしか許されていないのかもしれない。『ザ・フラッシュ』もがんばったけどさ、結局頓挫した企画とかキートンバットマンとか引っ張り出さないと盛り上がらなかったわけじゃないですか。
で、そういう積み重ね抜きにやるとすると、ある程度までを演じている俳優の文脈に寄りつつ、卑近な関係とかテーマにおとしこむしかないわけで、そこらへんはうまくいってたんじゃないかな。組み込まれたカタルシスは反復によって世界と自分が和解するループものみたいなやつだったけど。
『MAD GOD』(フィル・ティペット監督)
・『マルセル』みたいに洗練されてたりデルトロ版『ピノキオ』みたいにリッチなストップモーションもいいものだけれど、こういうぐちゃぐちゃのわけわかんないイメージをひたすら展開していく系のストップモーション独特の快楽もあるんだよなっておもわされる。
『ヒトラーのための虐殺会議』(マッティ・ゲショネック監督)
・こういう閉じた官僚主義コメディ、会議ものはけっこう好き。ブラックコメディとして洗練されていればなおよい。ヒトラーものといえば今年はソクーロフの『独裁者たちのとき』もあって、あれはマジで異常です。
観た時はそこまで高評価つけなかったけれど、思い返すと『ノースマン』の野蛮ハムレットっぷり、『ミーガン』の痛快さ、日本版『最後まで行く』のラストの「まだまだ行くぞ〜」(by 『クリーピー』)感なんかもなかなか心に残りました。
映画館で観た新作でないものだと『フラッシュ・ゴードン』の4Kリマスター版でしょうか。傑作です。
まあでも今年は今のところドラマのほうがおもしろいかんじ。