*オリジナル版・実写版両方の『リトル・マーメイド』のネタバレを含みます。
From Ashes to the Ocean
1989年の『リトル・マーメイド』は声の物語であり、歌と音楽の映画だった。
オフ・ブロードウェイでの成功により注目されていた作詞家ハワード・アシュマンと作曲家アラン・メンケンのコンビ*1は20ページの草案しかなかったごく初期よりプロダクションに参加すると、『リトル・マーメイド』の音楽面のみならず、演出や物語でも多大な貢献を果たし、暗黒期と呼ばれた当時のディズニーアニメの救世主となった。
アシュマンとメンケンの功績とは、実写版『リトル・マーメイド』で追加曲を書いたリン=マニュエル・ミランダも述べているように、「ミュージカル演劇のテクニックをアニメーション映画に持ち込んだこと」*2だ。
リプライズ*3、楽曲の構成*4、そしてなにより歌とアンダースコアの緊密な連携……いずれもプロパーなミュージカル演劇界から作法だった。
制作プロセスとしても、完成したフィルムにあとからスコアをつけるのではなく、ラフな出来上がりの途中段階から連動するような形で曲が作られていった。アシュマン曰く「昔のディズニーのスタイル」だ*5。「蒸気船ウィリー」や《シリ―・シンフォニー》シリーズといった初期ディズニーの音楽的な快楽に回帰した意味でもかれらはディズニーに”ルネサンス”をもたらした。
『美女と野獣』などで監督を務めたカーク・ワイズは「ディズニー・ルネサンスにおいてもっとも重要な役割を果たした人物をひとりだけ上げるなら、アシュマンだ」と述べている。*6実際、制作にまつわるエピソードを見ていると、彼が現場においてほとんど監督と同等かそれ以上の立場の担っていたことが伺える。
アシュマンは歌こそが『リトル・マーメイド』の核を成しているという事実に自覚的だった。『リトル・マーメイド』をめぐる有名なエピソードに「カットされかけた Part of Your World 事件」というのがある。主人公アリエルの地上へのあこがれを歌い上げるこのナンバーは今でこそ作品の象徴だが、スクリーニングでの子供ウケが鈍く、エグゼクティブだったジェフリー・カッツェンバーグによって一度は消されかけた。そのカッツェンバーグに「消すなら俺を殺してからやれ」と強硬につっぱねたのがアシュマンだった。「この手の大作映画には、心を掴む瞬間を与えてくれる曲が必要なんだ。『ピノキオ』の「星に願いを」のようなね」と彼はメンケンに語っていた*7。
アリエルの声優を務めたジョディ・ベンソンによれば、アリエルはそんなアシュマンそのものだったという。
そのことばは、アシュマンの遺したデモテープを聴けば信じられる気がする。
『リトル・マーメイド』の共同監督のひとりであるマスカーは Part of Your World のデモを歌い上げるアシュマンを見て「アリエルになりきっていた」と述べている。
とはいえ、アシュマンはすでにない。そしてリメイクとは、ガス・ヴァン・サント版『サイコ』*8のようにフレーム単位で原作を反復することではない。
実写版で Part of Your World のパートが始まったとき、わたしは「わるくないじゃないか」とおもった。
予告編の感じた「こうして聴くとどうしようもなく”白人の音楽”っぽさが強調されるな」という印象は拭い難かったものの、わるくはない。アニメーションのあの豊かでたおやかなタッチを超えることはさすがにないが、リメイクとはそういうものだ。『ポケットモンスター金銀』でカントー地方を再訪するようなもの。ダウンサイズされた既視感。そこには単なる複製以上の愛嬌が宿っている。
演奏しない魚たち
ところが、Under the Sea は。
あれには唖然とした。
こうも疑いさえした。
「実写版監督のロブ・マーシャルは Under the Sea の歌詞を一度でも目を通したことがあるのだろうか?」
Under the Sea は Part of Your World にならぶ『リトル・マーメイド』の代表歌曲であり、物語上の機能においても対をなす。
Part of Your World でアリエルは地上生活と人間への憧れをダンスにからませて表現する。
あのひとたちが『踊』っているのを見たい/アレを使って歩き回っているのを見たい/アレはなんて言うんだっけ……/ああ、『脚』!/ヒレをばたつかせても遠くへはゆけない/跳ねたり踊ったりするには脚が必要なの
「Part of Your World」
対して、カニの宮廷音楽家兼アリエルのお守り係のセバスチャンが「君はそうやって上ばかり見上げているけれど、人間なんて恐ろしいもんだよ。海は十分に最高だ。ほかに何を望むんだ?」という説得のために歌い上げるナンバーが Under the Sea だ。
最初はセバスチャンひとりだけが必死に歌っていたのだが後半からは海の仲間たちが加わってオーケストラ(セバスチャン曰く「ステキな甲殻類バンド」)の様相を呈していき、ついには魚やカメたちが楽器を鳴らして踊り狂う。
イワシがビギン*9を始めれば/それが私にとっての音楽
(中略)
どんな小さな貝だって/ここではジャムのやりかたを知っている/海の底ではね
*10だって/ここでは踊り方を知っている/海の底ではね
「Under the Sea」
海の底でだって音楽も歌もダンスも揃っている。それなのになぜわざわざ危険を犯してまで地上へ向かおうとするのか?
セバスチャンの訴えはこの歌の終盤で抜け出していってしまうアリエルに届くことはない*11のだが、視聴者の心には確かに響き、物語上の説得力へとつながる。
普通だったらこんな愉快な海を抜け出してまで地上に行こうとは思わない。しかし、それでもアリエルの憧れは止められない。それだけ、強烈な想いを彼女は抱いている。
Under the Sea が愉しげで、そこで描かれる魚たちの生活が魅力的であればあるほど、アリエルの望みが際立つのだ。
Part of Your World と Under the Sea では曲のジャンルも対照的だ。特にもともとトリニダード・トバゴ訛りの強いセバスチャン*12が歌い上げる Under the Sea はカリプソ音楽*13やレゲエの影響が色濃い。ここに、海の下=カリブ海/海の上=植民地帝国というポストコロニアルな対立を見出し海の上にピュアに憧れるアリエルに複雑な気持ちを抱くことも可能だが、そこは措く。
重要なのは、Under the Sea の魚たちにはかれらの歌も音楽も踊りもあったということだ。
ところが、実写版では踊りしかない。
実写版では色とりどりの魚やクラゲたちが出てくるけれども、オリジナル版のように楽器も演奏しなければ、セバスチャン以外は歌に参加したりもしない。*14
監督インタビューによれば*15、マーシャルは Under the Sea を演出するにあたって、かつて『ファンタジア』(1940年)でディズニーがバレエ・リュス*16を思い出し、アルビン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター*17のダンサーたちを呼び寄せて海の生き物たちを演じてもらったという。
そうしたわけで実写版の Under the Sea はダンスに全振りしており、振り付けもモダンダンスっぽい。
そうした方向性自体は別のよいのであるけれど、ダンス「しか」しなくなったことで歌詞との矛盾が生じてしまっている。
特のこのパートだ。
サンショウウオはフルートを吹くし/コイはハープを弾く/カレイはバスを演奏する/みんなシャープにやってくれるんだ/スズキはブラスで/チャブ*18はタイコ代わりにタライ/ヒラメはソウルの名人で/エイだって一員さ/クロジマナガダラ*19は弦楽器/タラだっていい音鳴らす/黒い魚は喉自慢/ワカサギやニシンは場所ってのを心得ている/そして、そう、フグは吹けるのさ
原詞はすべて魚の名前にからめたダジャレになっていて、オリジナル版の画面では歌詞にあわせて対応する魚たちが楽器を弾く。セバスチャン自身も貝を叩いて演奏に参加する。
ところが実写版ではその歌詞がほとんどまったく無視され、文脈にあまり関係のない映像が流れる。「甲殻類バンド」の姿などどこにもない。踊るだけだ。
ちなみに Kiss the Girl でも同様に「歌詞に乗せてモブの動物や昆虫たちが演奏したり歌ったりする」描写が実写版ではなくなっている。
歌詞はそのままで映像が違う。この改変によってどういう状況が生じたか。
魚たちから音楽が奪われてしまったのだ。
これは Under the Sea のシーンそのものの在り方にも関わる。
セバスチャンの歌う「魚たちの音楽」が比喩でしかないのなら、観客も海の底もいいかも、という気持ちにならない。ましてやセバスチャンを無視して地上へ向かうアリエルの気持ちの強さになど想いを馳せられない。
画的にも魚たちは音楽から切り離されてしまっている。
オリジナル版では魚たちが演奏することで画面内に音源がある状態、いわゆる「インの音」*20として表現されていたのが、実写版では音はすべて画面の外からやってくるものになってしまった。
こうなると視聴覚の体験として、「海の底」にセバスチャンにとっての「音楽」なんてどこにあるの? という印象を持ってしまう。そこで歌われていることがすべてうそになる。
ほんとうに歌詞を読んだ上で、こんな演出に変えたのか?
そんなミュージカル演出なんてありえる*21だろうか?
私は最初こう思った。
ロブ・マーシャルは特に深く考えず、「ここはダンスで攻めよう。オリジナルをなぞってもおもしろくないしね」くらいの軽い気持ちで Under the Sea を演出したのだろう、と。
ところが家に帰ってオリジナル版を観返してみると、実写版でカットされている部分がひとつの意図に貫かれているのではないかという気になってきた。
その意図とは、徹底した魚の排除だ。
土曜の朝アニメのリアリティ
オリジナル版では実写版とある程度共通するエリックの乗った船上でのオープニングシーンのあと、オープニングクレジットが流れ、そこからなにやら劇場のような宮殿へと移る。
そこではアトランティカ王国の王であるトリトンが末娘であるアリエルをお披露目する式典? が催されており、まあなんだか全体的にレビュウっぽいイメージで進行していく。
客席に集まっているのは人魚と魚たち。カメラが寄ると、かれらは同じ列で混ざり合うように座っていて、かれらのあいだに区別がないのが伺える。*22全編通して描き込みのあまりない王国の内情が知れる数少ないシーンだ。
トリトンの家臣にも魚たちが登用されているようで、式場に入場してくるトリトンやセバスチャンを紹介する役目を担っているのはオレンジ色のタツノオトシゴだ。
実写版ではこのあたりはカットされ、*23トリトンとその娘たちである姉妹の集いみたいな場面に変更されている。
喋るタツノオトシゴも出てこない。
というか、喋る海棲生物はセバスチャンとフランダーくらいしかいなくなっている。*24
オリジナル版で言語を話す海棲生物はセバスチャンとフランダーの他には上記のタツノオトシゴ、Under the Sea の途中に出てくるアンコウ(?)や青いロブスター、そしてなにより悪役アースラの配下であるウツボのジェットサムとフロットサムがいるのだけれど、実写版においてはタツノオトシゴとアンコウに関しては出番が削られ、ジェットサムとフロットサムは喋らなくなってしまった。
それどころか、ジェットサムとフロットサムに関しては(あいかわらず孤独なアースラの唯一の家族として愛されているようなのに)名前すら呼ばれる機会がない。
声どころか名前まで奪われるなんて、いったいどういうことだろう?
クライマックス手前、催眠にかけられたエリック王子がアースラと結婚しようとする式典の場面。オリジナル版ではアリエルの応援にやってきた海鳥、イルカ、ヒトデ、オットセイ、ザリガニといった面々がスラップスティックに結婚式をめちゃくちゃに破壊する。実写版では、かれらの姿はない。
さて、オリジナル版からカットされた歌曲はいくつかあるけれど、そのなかのひとつに Les Poissons がある。
アリエルを追いかけて陸にあがったセバスチャンが、エリック王子のお抱えシェフの調理場で”残酷に”処理されている魚たちを見て震え上がるという場面の歌だ。
ほかのカット曲とは異なり Les Poissons はトラウマティックで印象に残る場面なので、マーシャル監督に対して「なぜ削ったんですか?」と尋ねるインタビュアーも出てくる。
それに対するマーシャルの返答はこうだ。
「土曜朝のアニメみたいなノリのシーンはアニメでは上手くハマっても、実写では馬鹿らしく見えてしまうことがある」「ストーリーと完全に関係ないシーンだったしね」*25
マーシャルの主張は一定程度は理解できる。
たしかに Les Poissons は本筋そのものとは関係ない場面だ。残酷で子どもに見せるには不適当かもしれないし、削っても問題ない場面ではある。表面上は。
しかし、この曲はきちんと他の場面との関連の上に成り立ってもいる。
Under the Sea の歌詞で歌われていた「海の上なんか行くと魚は食われちまうぞ」という脅しがホラー的に現前する場面でもあるのだ。
調理場にはセバスチャンの親戚のようなカニたちが何匹も並び、彼にとってはまさに目の前で「仲間」が虐殺されていく現場だ。
コメディっぽさのなかに、やはり地上の人間と海の生き物たちは相容れないのでは、という不安を観客に植え付ける。これもまたアリエルと彼女自身の抱く憧れのジレンマを(彼女自身と関係なくとも)高めている。
それが実写版では、「人間たちは魚を食べる」という恐怖は、アリエルがエリック王子の城にもぐりこんだときに歌う追加曲 For the First Time で遠回しに反映*26されるだけになった。
個人的には Les Poissons を残すべきだったとは思わない。
ただ、なにかが削られたなら、その一方でなにかが増やされているのが常だ。
実写版において増やされているのは「家族」「親子」の描写だ。
トリトン王と娘であるアリエルの関係、オリジナル版ではほとんど影のなかったエリック王子の母親*27とエリックの関係、そのふたつの親子のラインに、新たに「実はトリトンとアースラは兄妹だった」という設定が追加される。
最後のトリトンアースラ兄妹設定はなかなかおもしろくて、アースラのトリトンに対する復讐心がより深まって見えるし、アリエルを勧誘するときも「おまえの父親ってヒドいだろ。わかるよ、わたしも妹だったんだしさ」と共感的に言い寄ってくるので説得力が強まっている。
実写版ではエリックの描写が増量されているのだが、それはアリエルが惚れるに足る好人物であることを観客に説得させるためだけではない。好人物であるエリックを父親であるトリトンが認めることで間接的にアリエルとトリトンの関係を強化するためもあるし、エリックと母親との関係をアリエルとトリトンの関係に重ねること(どちらも親が地上/海に偏見を持ち、しかし子どもたちを通じてその偏見を解消し、独立した存在として子どもたちを認める)で地上と海を対比させるためもある。
そうしたヒト同士の関係を描く上で、魚たちはノイズになる。人間が人魚たちと友好関係を築きたいといってもそれは腰から上がヒトだからで、海に生きる人々なら魚たちについては糧にせざるをえない。そのような矛盾を抱えている以上、実写版のアリエルは魚を「仲間」と見なすわけにはいかない。
理解はできる。
が、『リトル・マーメイド』は”それでいい”のだろうか?
そもそも『リトル・マーメイド』はオリジナル版であれ、実写版であれ、愛の物語に「見た目が違うもの同士であったとしても偏見を捨て、対等な存在として認め合おう」というメッセージが織り込まれた物語ではなかったのか?*28
なのに、魚たちを文化なき声なき存在に貶めるのはどういう了見なのか。
Les Poissons におけるマーシャルのセリフをさらに読み込むならば、そうした態度こそ「実写」にしたことであぶり出された差別の意識が根底にあるともいえる。
フォトリアルな身体を持った魚たち*29が歌ったり演奏したりするのは「不自然」なのだ。アニメなら人間と動物の描線は同じでその境界をある程度あいまいにでき、魚が人間のようにふるまっても許されるかもしれないが、現実に近い質感のCGでは「違和感」が出てしまう。
それが常識的な感覚というものだ。
だが、そんな常識的な感覚を乗り越えるのがフェアリーテイルであり、ミュージカルであり、映画のマジックではなかったのか。
そうでなくて、どうして物語に理念を込められるだろう。
実写版『リトル・マーメイド』は夢も魔法も信じていない。
それどころか自分たちの現実のために他者から声を奪っている。
この映画の海の底は、真っ暗で、凍てつくように寒い。
*1:より正確にはアシュマンは88年の『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』からディズニー作品に携わっている
*2:https://www.youtube.com/watch?v=Sh02RE9Y54Q
*3:一度出てきたナンバーの旋律や歌詞を劇中で再利用すること
*4:主人公の願望をプロットの早い段階で歌として提示する(「Part of Your World」)ことや、オープニングから物語に直結した歌を入れてくる(「Fathoms Below」)こととか
*5:谷口昭弘『ディズニー・ミュージック ディズニー映画 音楽の秘密』スタイルノート
*6:https://www.laughingplace.com/w/articles/2020/05/14/10-things-we-learned-from-kirk-wise-and-gary-trousdale-during-wdfm-happily-ever-after-hours/
*7:ドン・ハーン監督『ハワード ディズニー音楽に込めた物語』2018年
*8:あれはあれで大したものだ
*9:カリブ海のグアダルーペ島やマルティニーク島発祥のルンバに似たダンス。もちろん begin the beguine でダジャレにもなる
*10:原詞では単に slug だがここでは sea slug のこと。画面に映っているのもウミウシ。
*11:実写版ではアリエルも一緒に歌ったり楽しんだりして、一定の効果は見られる
*12:当初、マスカーとクレメンツの監督コンビは英国風の堅苦しい執事をイメージしていたが、アシュマンが現在のイメージに変えさせた。セバスチャンがトリニダード訛りなのはアシュマンが幼少期にそこで過ごした影響であるという説(https://www.mouseplanet.com/12989/Ariels_Tale)と、もともとアシュマンはジャマイカ訛りを臨んでいたがセバスチャン役声優のサミュエル・E・ライトがそれではうまくいかないと考えてトリニダード訛りとジャマイカ訛りの折衷みたいにしたという説がある。
*13:トリニダード・トバゴを起源とする音楽ジャンルで、トリニダードの移民が多く住んだイギリスで50年代に勢力を築いた。映画版『パディントン』にカリプソのバンドが出ているのもそうした背景。
*14:好意的に取るならば、終盤のコーラスは踊っている魚たちの歌声とも解釈はできる。しかし、セバスチャンとフランダー以外に喋れないこの海においてそのような魚たちが存在できるのかどうか。
*15:https://collider.com/the-little-mermaid-director-rob-marshall-interview/
*16:ロシア出身のセルゲイ・ディアギレフが率いて欧米で活躍したバレエ団)を参考にしたエピソード((https://www.washingtonpost.com/entertainment/theater_dance/how-walt-disney-got-rite-of-spring-right/2013/06/19/8d008e78-d895-11e2-a9f2-42ee3912ae0e_story.html
*17:モダンダンスの巨匠アルビン・エイリーによって設立されたアフリカ系アメリカ人のダンス・カンパニー。
*18:ヨーロッパで見られるウグイの仲間の淡水魚
*19:ヨーロッパに棲息する最大級のタラ
*20:宮本直美『ミュージカルの歴史 なぜ突然歌いだすのか』中公新書
*21:アリエルにかけたダジャレではない。いや、そうなのかもしれない。
*22:遠景になるとなぜか人魚しか映らないが。ちなみにトリトン王が入場する場面にはグーフィーも映っている
*23:ちなみにこの場面を変えるということは唯一といってもいい宮廷音楽家としてのセバスチャンの活動場面をなくすということでもあり、彼のアイデンティティの軽視でもある
*24:実写版では、どうもセバスチャンやフランダーの喋る組と他の魚たちの扱いが違う。カツオドリのスカットル(オリジナル版ではカモメだった)は魚を捕食しながら登場するのだが、それを目の当たりにしてもフランダーやアリエルはフレンドリーにスカットルに接し、スカットルもフランダーやセバスチャンを捕食対象としてみなさずに行動する。王国内ではなにかしらの格差がつけられているのだろうか?
*25:https://www.indiewire.com/features/interviews/little-mermaid-rob-marshall-cut-sebastian-scene-1234866180/
*26:カギで吊るされている魚の絵を目撃する
*27:エリックはモーセみたいに王族に拾われた養子であるというややこしい設定になっている
*28:最後にはアリエルがヒレを捨てて人間社会に同化してしまうにしても、だ
*29:ディズニー実写リメイクにおけるフォトリアル動物路線は1950年代以降もかすかに残っていたディズニーにおけるゴムホース的/原形質的な身体を完全に殺してしまったとおもう