- 前説
- 新作映画ベスト10
- 1.『戦争と女の顔』(カンテミール・バラーゴフ監督、ロシア)
- 2.『アンビュランス』(マイケル・ベイ監督、アメリカ)
- 3.『ブラック・フォン』(スコット・デリクソン監督、アメリカ)
- 4.『NOPE』(ジョーダン・ピール監督、アメリカ)
- 5.『ニトラム NITRAM』(ジャスティン・カーゼル監督、オーストラリア)
- 6.『TITANE』(ジュリア・デクルノー監督、フランス)
- 7.『アフター・ヤン』(コゴナダ監督、アメリカ)
- 8.『リコリスピザ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督、アメリカ)
- 9.『ヘルドッグス』(原田眞人監督、日本)
- 10.『アポロ10 1/2:宇宙時代のアドベンチャー』(リチャード・リンクレイター監督、アメリカ)
- 他なんかよかったり言及したかったりする作品をてきとうに
- 2015~2021年までの年度別ベスト記事
前説
2022年の映像作品を思い返すに『ピースメーカー』はよかったなーとか『鎌倉殿の十三人』は最高だったなーとか『アトランタ』S3はたのしかったなーとか『ブラックバード』はごつかったなーとか、どうも浮かぶのはドラマばかり*1で映画の記憶はうすいのですが、まあ、観てはいる。観てはいるんですが、「自分の映画」がありませんでした。
これは自分としてはわりとショッキングなことで、というのも、2022年はポール・トーマス・アンダーソン(『リコリス・ピザ』)、ウェス・アンダーソン(『フレンチ・ディスパッチ』)、マイク・ミルズ(『カモン・カモン』)、ノア・バームバック(『ホワイト・ノイズ』)と、「自分の監督」だったはずの監督の新作がたてつづけに出たにもかかわらず、いずれも(悪くないんだけど)そんなに自分のなかでしっくりきませんでした。
一方で、ジョーダン・ピール(『NOPE』)だとか原田眞人(『ヘルドッグス』)だとかマイケル・ベイ(『アンビュランス』)だとかギレルモ・デル・トロ(『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』、『ナイトメア・アリー』)だとかコゴナダ(『アフター・ヤン』)だとか、それまで「自分の監督」ではなかったひとたちのほうが「自分の映画」感のあるものを撮ってくれたような印象があります。
年間ベストとは集計されるものと個人で出すものは見た目似ているようで目的はぜんぜん違うもので、集計されるものはどうしたって商業的なプロパガンダにしかならなくて、個人においては孤独な思想的なプロパガンダにしかなりません。
どっちが良くてどっちがいいのか、というのは別になくて、強いていうのならどっちもわるい。価値をかかげることは領土を一方的に策定する行為であり、それははたからみれば侵略とよばれます。
では、わたしの領土はどこにあるのか。
本当に映画の未来を想うなら映画という枠組みをストーリーテリングや技術や興行といった側面からゆるがせにきている作品を選出すべきなのでしょう。それは『スパイダーマン:ノーウェイホーム』だったり、『トップガン:マーヴェリック』だったり、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』だったり、『SLAM DUNK THE FIRST』だったり。
あるいは、なんというか、カイエ・デュ・シネマみたいな選びかたをすべきなのでしょう、しかしわたしは……などといけすかなさを遠ざけようとしてみたけれど、実際のカイエの2022年ベスト見たら日本公開作に関してはほぼほぼかぶっててやんなるね*2*3*4。
映画配信サイトのレコメンド機能なみに主体性や一貫性のないように見えるそんなわたしでも、いちおう評価基準はあるようで、ベストを並べるとその年の自分のテーマが浮き上がったりします。
では、今年のわたしのテーマとはなにか。
イヌです。
新作映画ベスト10
1.『戦争と女の顔』(カンテミール・バラーゴフ監督、ロシア)
画面いっぱいにボルゾイの顔のドアップが映る。本年度のベストです。
アレクシェーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を下敷きにしたという宣伝文句はともかく、まさしく顔の映画*5であったことはたしかで、常に誰がどういう表情をしているか、画面にふたつならんだ顔のどちらが前でどちらが後にきているか、というようなことばかりが問題にされる映画だった。一方で声(鳴き声)の映画でもあった。なぜこんなにイヌの声であふれているんだろうか。
親友であるはずの女ふたりのあいだに流れる緊張感が終始ヤバくて、こういう不穏さのぶつかりあいみたいなものが観たいんだよな、とおもう。
ラストのあれは『アンナ・カレーニナ』に対するアンチテーゼなのかな。
2.『アンビュランス』(マイケル・ベイ監督、アメリカ)
銀行強盗に失敗した兄弟が救急車を盗んで走り出す。しかしその救急車にはいまにも死にそうな患者が乗っていて……というアホな設定の爆走映画。ドローンを駆使した意味のわからないショットがぎょうさん出てきてあいかわらずベイさんはきばりやすなあ、という感じなのですけれども、基本的にドラマが狭い救急車内で起こるというコンパクトさがちょうどよい。
本作は長いのに一秒たりとも退屈な時間がない。精確にいえば、本来一時的な退屈は映画に必須の要素であるのだけれど、作る側に退屈にさせようという気がない。それは終盤のあるシーンによく現われている。高速道路を走行しつつも追い詰められつつある兄弟の片方が、スマホのイヤフォンで昔ふたりでよく聴いた懐メロ(曲は忘れた)をシェアする。ふたりしてノリノリで歌いだして思い出に浸るか……とおもわれたところでもうギレンホールが「こんな状況で落ち着けるか!」とキレて、イヤフォンをぶち切る。ノリツッコミである。振り返っている時間はない。映画は走り続けなければいけない。そして、ジェイク・ギレンホールはダウナー顔芸をやりつづけなければいけない。
あとなんか特に意味もなく巨大なイヌが出てきます。
3.『ブラック・フォン』(スコット・デリクソン監督、アメリカ)
連続少年監禁殺人魔のイーサン・ホークにある少年が捕まって、さあ、大変といった映画。
ピタゴラスイッチ的な脱出ゲーム演出に、ある感情が乗る。その感情がねえ、感情なんですよ。地上で髪の毛ひとつ残さずに失われてしまった少年たちが地下で残したかすかな痕跡を拾い集めていく。そういう行為こそが鎮魂なのです。死んだものの拾われなかった声を拾うこと。その結実がセリフではなくアクションで見せられるのもたまらない。スコット・デリクソンはやはりマーベルにはもったいない才能だった。
異世界(精確には過去)パートの映像表現もすき。
4.『NOPE』(ジョーダン・ピール監督、アメリカ)
ジョーダン・ピールがいきなりおもしろくなってしまった。これまでのピールはいまいち弾けきれなくて、どこか生真面目すぎるというか、理屈っぽすぎるところがあった。それは社会派意識ゆえの性向ではなくむしろ逆で、自分のなかに抱えられた不定形の情念や経験を外の世界に出すにあたって形にしようとしたときに、そういう計算しか使えなかったからだろうとおもわれる。
キレイすぎる自覚はあったのか、『アス』なんかでは割り切れない奇妙さをあえて出そうと苦心していたけれど、どうにもから回っていた。
で、頭でっかちさでは『NOPE』もそんなに変わらない。むしろ今回は「映画史はおれが背負う!」みたいな気迫で望んでいるので史上最高にあたまでっかちかもしれない。でも確実にワンカット以上は画が理屈を超越する瞬間があった。
「スペクタクル」を謳うだけはある。柳下毅一郎の定義に従うのなら、映画は見世物であって、何を見せるかというと驚異を見せるのだ。その見世物根性を忘れないのなら、ピールはたしかにいつかは本物のスペクタクルを撮られるのかもしれない。
5.『ニトラム NITRAM』(ジャスティン・カーゼル監督、オーストラリア)
ファーストショットがいいんですよね。(ロケ地は知ないがたぶん)タスマニア島のうつくしい夕焼けを背景にケイレブ・ランドリー・ジョーンズが花火をしている。隣近所からは「迷惑だからやめろ!」と罵声が飛んでくるんだけれど、ケイレブは委細構わず花火を燃やしつづける。これだけで「あっ、これは関わっちゃいけないむずかしい人を主人公にした映画なんだ」と一発でわかる。
そんなむずかしい主人公が資産家の独身女性に拾われる。そう、拾われる。彼女はイヌをたくさん屋敷内に飼っていて、それで孤独を癒やしている。主人公もそうした「イヌ」の一匹だったのだけれど、主人公も彼女自身もそのことに気づかなかった。それが悲劇の種になってしまう。
最終的に主人公がシンパシーを抱く相手はイヌだけになってしまい、彼は大量虐殺事件を起こす前に主を失ったイヌたちを解放する。このあと放たれたイヌたちが野良で生き延びられるかはともかく、ストーリー上はイヌを生かして人を殺すわけだ。
今年の二大「イヌとしてのヒト」映画のひとつ。
6.『TITANE』(ジュリア・デクルノー監督、フランス)
車とセックスして車の子供を孕む連続殺人鬼の話。アホな展開がたくさんあって子どものころに子ども会の運動会に参加したときにもらえる駄菓子の詰め合わせパックみたいなプリミティブなうれしさがある。
7.『アフター・ヤン』(コゴナダ監督、アメリカ)
ふだんならコゴナダみたいな静謐でミニマルで落ち着いた小品です然とした映画をつくる監督なんてでえきらいで、実際『コロンバス』なんか退屈きわまりなかったのだけれど、ドラマの『パチンコ』から潮が変わってきた。踊るのだ。比喩ではなく、文字通りに。
最初にいい感じにキビキビ踊る人間の映像を見せると視聴者は脳をやられ、あとに続く映像もなんとなく信頼感をもって見守るようになる。これが2022年にコゴナダが開発したテクニックというか詐術で、『アフター・ヤン』でも、まず踊る。
このように人間の認知というのは信用がならない。
ところで、本作もまた映画についての映画みたいな部分があって、要するに映画とは茶葉を煮出して作るお茶のようなものだみたいなノリがある。理屈と膏薬はどこにもくっつくなあ、とおもうと同時に、映画とは自分で作り上げてしまう理屈を超えられるかどうかだともおもう。本作に関しては超えられていたほう。
8.『リコリスピザ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督、アメリカ)
カップルなようなそうでないような腐れ縁のふたりが愛し合いつつ傷つけ合いつつようやっとキスするまで描いたノスタルジックラブコメ。
ポール・トーマス・アンダーソンの映画はいつもイカれた二人の、外部からは理解できない関係を語る。そういうものを観られるだけでいい。
9.『ヘルドッグス』(原田眞人監督、日本)
大竹しのぶが演じるマッサージ師があるヤクザ幹部の邸宅を訪問するシーンで、控えの間にいる若い衆たちがテーブルサッカー(サッカー選手に見立てた人形に棒を通した台でガチャガチャするアレ)に興じている姿がちょびっと映るのだけれど、妙にはしゃいでいる。酒の入っていない状態でテーブルサッカーにあそこまで熱中している大人の描写はほかの映画ではあんまり見ない。まあ、たぶんスマホとか携帯ゲーム機とかいじったら怒られる環境で、ろくに娯楽もなくて退屈なぶんをテーブルサッカーで発散しているのだろうけれど、にしてもテーブルサッカーだ。
かれらもまたイヌなんだとおもった。本作は全編通して(人間に使われる存在としての)イヌの映画で、そういうイヌたちが地獄をめぐる。まさにタイトル通りにヘルドッグス。
坂口健太郎演じる主人公(岡田将生)の弟分もイヌっぽい。冒頭のトレーニングシーンなんかイヌ同士で馴れ合っているようにしかみえない。
そして、かなしいかな、この手の映画でイヌがヒトになろうとすると、破滅するのだ。
『二トラム』とならぶ今年の二大「イヌとしてのヒト」映画のひとつ。
10.『アポロ10 1/2:宇宙時代のアドベンチャー』(リチャード・リンクレイター監督、アメリカ)
リチャード・リンクレイターは一生うそなんだかほんとなんだか曖昧なノスタルジーを垂れ流し続けてほしい。
他なんかよかったり言及したかったりする作品をてきとうに
『アンネ・フランクと旅する日記』(アリ・フォルマン監督)
現代のアムステルダムでアンネ・フランク博物館に展示されていた日記からアンネ・フランクのイマジナリフレンドであるキティが抜け出し、いなくなったアンネ・フランクを探し求める。これだけで設定の大勝利みたいな話だけれど、ここからWWIIの時代と現代を接続する力技も見もの。
『さがす』(片山慎三監督)
行方不明になった父親を中学生の少女が探すミステリ。さすがにあざとすぎるところがちょくちょくあるものの、おおむね力強い画に溢れている。
『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』(ギレルモ・デル・トロ監督)
ゼメキスとディズニーが恥知らずな実写リメイクを垂れ流したのと同じ年に、デル・トロはまさしく2022年のピノッキオを再創造した。今年のアカデミー賞の長編アニメーション部門はこれでしょうね。
『不都合な理想の夫婦』(ショーン・ダーキン監督)
見栄っ張りな夫のせいでひたすら夫婦仲が最悪になっていくだけの話がこんなにおもしろく観られるのは、監督の技倆の高さの証。
『スティルウォーター』(トム・マッカーシー監督)
アメリカの父性がフランスで暴力に目覚めていく話。この出だしがこういう転がり方するのか、という驚きに満ちている。
『ミセス・ハリス、パリに行く』(アンソニー・ファビアン監督)
ミセス・ハリスをハウスで目撃したディオールの従業員が舞台裏のモデルやお針子たちに「ねえねえ、すてきなご婦人が来たの!」と報せるシーンで泣いちゃった。みんなを幸せにしてくれる天使をだれが幸せにしてくれるのかという映画です。
『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』(ウィル・シャープ監督)
退屈極まる前半のロマンス劇がすべて後半のカンバーバッチ虐めのための前フリであったことを悟った瞬間の戦慄。
『ザ・メニュー』(マーク・マイロッド監督)
変則的なスプラッタホラーだとおもう。シェフの自宅が「この種の狂った人間」の描写としてピカイチ。
『カモンカモン』(マイク・ミルズ監督)
前作ほどでないにしても、よかったよ。
『ハッチング 孵化』(ハンナ・ベルイホルム監督)
やや図式的すぎるきらいはあるものの、クリーチャー造形が秀抜。
『ブラックボックス 音声分析捜査』(ヤン・ゴズラン監督)
強迫症的で有能な人物描写としてはコレ以上の映画は今年なかったのではないか。
『ナイトメア・アリー』(ギレルモ・デル・トロ監督)
なんといってもラストのあの顔。ちいかわですね。
『タミー・フェイの瞳』(マイケル・ショウォルター監督)
成功した詐欺師の話はいつでもおもしろい。自分を詐欺師とおもってなければさらにおもしろい。
『英雄の証明』(アスガー・ファルハディ監督)
この件でファルハディが黒か白かは別にしても、これまでやってきたはわりとクロっぽいと思う。それはそれとして映画は抜群におもしろい。
『ナイル殺人事件』(ケネス・ブラナー監督)
ケネス・ブラナーの虚仮威しみたいな演出が好きで、これはやりすぎの域にまで達してくれた。ラストはポアロ読者なら大爆笑か大激怒のどっちかだとおもう。
『ウエストサイドストーリー』(スティーブン・スピルバーグ監督)
もう何撮ってもおもしろいんだもん、このごろのスピルバーグ。
『フレンチディスパッチ』(ウェス・アンダーソン監督)
二回観られなかったので正式な評価をくだすのが不可能なのですが、そもそもびっくりミステリでもないのに二回観ないと評価できない映画をつくる監督のほうに問題があるのでは。
『家をめぐる三つの物語』
ネトフリで年始に観たオムニバス。どれも家をめぐる嫌な話でとてもよかった。「あまり言及されてない22年のオススメ」を選ぶならこれかな。
『シチリアを征服したクマ王国の物語』(ロレンツォ・マトッティ監督)
原作からの語りの改変が絶妙。ほら話ってのはこうでなくちゃね。
『さかなのこ』(沖田修一監督)
語られている以上にストレートな聖愚者の物語。
『神々の山嶺』(パトリック・アンベール監督)
原作ファンから不満があるのはわかるが、映画の尺におさめるなら理想に近いとおもう。特にあの実写版を観てしまった身からすると。ほんと。アニメ映画版に文句いってるヒトは実写版観てからにしてほしい。
登山行の美しさと孤独を画面一発で提示でてきるのは大きい。
『オートクチュール』(シルヴィ・オハヨン監督)
お針子版巨人の星みたいな映画。そうでもないか。ちなみに『ミセス・ハリス』とおなじくディオールが舞台。フランス映画である本作とイギリス映画である『ミセス・ハリス』とで「オートクチュール」観の違いを見出すのも愉しい。
ところでファッション業界が題材になってると点が甘くなりますね。しょうがないじゃん。だって即物的にきれいなもんが映ってるんだもん。
『帰らない日曜日』(エヴァ・ウッソン監督)
観た直後は、鶴田謙二のまんがみたいなシーンがある映画だったなあ、ぐらいの感想だったけれど、日が経つにつれこういうリストに入れたくなってくる。
『ホワイト・ノイズ』(ノア・バームバック監督)
原作からして映画向きじゃないのにどうすんだ?とおもってたらいつものバームバック映画に仕立てやがった。それでもアダム・ドライバーじゃないと成り立たなかったとおもう。それくらいアダム・ドライバーはえらいのだけれど、あまりにえらすぎて、最近はこういう使われかたしかされてない。いいのかな。
『チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ』(アキヴァ・シェイファー監督)
ディズニーのアイコンとしての「チップとデール」というよりは、『レスキューレンジャーズ』のチップとデールの話なので、その時点で一般の観客に混乱を引き起こす上にロンリー・アイランド映画でもあるのでグダグダになった腐れ縁友情ものの要素とバッドテイストなしょーもなギャグまであって、本当にいいのか、ディズニー?
それはとりあえず感動的なのはこれが『ロジャー・ラビット』の後継たるライブアクション×アニメーションのハリウッド舞台裏ものである、という事実。『ロジャー・ラビット』では実写と2Dセルアニメだけだったけれど、今回は3Dに加えて日本のアニメ風、サウスパーク、80年代風、パペット、90年代CGアニメ風、粘土ストップモーションなどなどの細かに異なるルックがすべてごたまぜになって世界にひとしく溶け込んでいて、それだけで奇跡を見ているようだった。
ずっと『ロジャー・ラビット』をリバイバルしてくれ、とおもっていた自分には夢のような作品。こういうときにあらゆるIPを支配しているディズニーは強い。っていうか、ディズニー以外も出ている気がするのだが、どうやってんだか。あと、まあ、さすがにもっとちゃんと話をつくれよ、とはおもったけれど。
そういえば、この映画でもチップがイヌを飼ってました。チップの家はリスサイズなので、仔犬でも相当みちみちなんですよね。あのみちみち感は『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』っぽかった。でかい犬好きな人は両作とも必見です。
あとイヌ映画としては『ストレイ』とか『レスキュードッグ・ルビー』とかも相応に良かったです。
イヌ映画といえば気になるのが最近のアニメにおけるイヌ描写。
ディズニーの新作『ストレンジ・ワールド』では四肢が欠損して三本脚になってるイヌが出てくるんですが、それを観た数日後に鑑賞した『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』でも三本脚のイヌが出てきたんですよね。ふたつとも出てくる脈絡はわかる。前者はダイバーシティの称揚で、後者はWWI後の戦間期の傷痍軍人のメタファー。しかし、三本脚のイヌって去年『竜とそばかすの姫』でも出てきたじゃないですか。
ここまで同時多発的に続くとなんなんだって気持ちになりますよね。アニメ監督はそんなにイヌを脚をひっこぬきたいのか。『ヒックとドラゴン』を観てあたらしい性的欲求でも掘り起こされたのか。アニメなんでなにやっても自由だとはおもいますけれど、架空のイヌの脚を抜く前に、それってほんとにイヌでやる必要がある? 人間でよくない? と自らに問いかけるべきだとおもいます。
ところで、これはわたしが交配によって生み出した五本脚のイヌです。
かわいいね。
〜おしまい〜