(本記事は岡田索雲『ようきなやつら』のネタバレが含まれています。といいますか、すでに読んでいる読者向けに書かれていてネタバレすらすっとばしているところがあります。ご注意ください。)
(ネタバレなしの紹介としては↓でV林田氏がこれ以上ないものをやっているのでそれ読んで)
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歴史を書くとは、歴史を引用することである。
――ヴァルター・ベンヤミン
岡田索雲の『ようきなやつら』は大小さまざまな引用とパロディから成っています。それらをいちいち指摘していくのはこの記事の目的とするところではありません。ぜんぶ拾うのはそりゃ無理だろうしね。
興味があるのは、それらがどのようなやりかたで行われているかということです。
というわけで、わかりやすくデカいところからはじめましょう。ここらへんはだいたい言わなくてもわかるでしょうからすこし冗長かもしれません。
「忍耐サトリくん」のパロディ
「サトリくん」は、人の心の声が聴こえてしまう(=妖怪のサトリ)であるがゆえに他人に関わることを拒んで殻に閉じこもってしまう高校生サトリくんと、その心をなんとか開こうと試みる担任教師の対話を描いた物語です。
本編で大きなウェイトを占めているパロディ元はふたつ。冨樫義博の『幽☆遊☆白書』と、和山やまの『女の園の星』です。前者は主にサトリくんのほうに、後者は教師のほうに割り振られています。
『幽☆遊☆白書』には、〈仙水編〉と呼ばれるチャプターで室田というボクサー志望の男が出てくる。この室田に「人の心の声が聴こえる」という特殊能力があるんですね*1。「妖怪サトリ」という題材と幽白はこうした明白な共通項によって結び付けられたわけです*2。
パロディにはメディアによってさまざまな仕方がありますが、「サトリくん」ではコマ割り、ポーズ、セリフなどで表現されます。
ここで重要になってくるのが直接的な参照先の室田ではなく、参照先のチャプターのラスボスである仙水の存在です。仙水は最初は人を守るために活動していたはずだったのが、人類の醜悪な側面を目撃して闇堕ち、人類に敵対するようになったという人物。『幽白』の主人公である浦飯幽助の「ありえたかもしれない」裏面ですね。
この仙水が『幽白』において「人類の醜悪さを目撃」した瞬間こそ、上で引用した「うわあああああ!!!」のシーンなのですが、「サトリくん」においてもちゃんと文脈が踏まえられている。単に変顔をパロってウケるよね、という以上の効用があるわけです。
のみならず、担任教師の心の声を聴いてサトリくんが頭を抱えるシーン(=『幽白』で室田が仙水の心の声を聴くシーン)では、担任のほうに仙水のキャラが分配されています。すなわち、闇が深い、恐ろしいパブリック・エネミーであるというキャラづけです。
このように、かならずしも一対一対応でなくとも使いでを拡張できるのがパロディによるストーリーテリングの美点ですね。
「サトリくん」の担任教師は言葉の上では生徒と真正面から向き合う良い先生なのです。が、秘された心の奥の奥のほうではすさまじい悪を宿しています。そうしたキャラクターである担任教師のキャラデザに『女の園の星』の星先生を採用したのは、またなんというか、絶妙なチョイスですね。*3
ほかの学園・教師モノとひと味違った『女の園の星』における教師と生徒の独特な距離感が「サトリくん」においても効いています。外見と口調と空気感をいただいた感じで、キャラの中身としてはそこまで寄せていません。
ただネタを持ってくるのではなく、繊細にパラメータを調節して物語に奉仕させるのは実は結構難しい。パロディは元ネタそのものにインパクトがあるものが多いですから、うまくしないとその重力に引っ張られて「作者のまんが」ではなくなってしまいます。『ようきなやつら』単行本あとがきによると、岡田索雲は明確に書きたいメッセージを込めるタイプの作家であるようですが、それでいてパロディという一種他人に身を委ねる技法を効果的に使えるのは驚くべきことです。これは引用にもいえます。
パロディのパンチ力を活かしつつも、ネタ元の文脈をきちんと織り込み*4、作者の作品としての芯も通っている。バランス感覚において出色の一本です。
「猫欠」のオマージュ
四篇目に収められている「猫欠」の語り口は作品集中でもほんのり特異です。
引きこもりになった化け猫の話で出演者は全員ネコ。視点キャラクターであるネコの語りによって進んで行くわけですが、丸フキダシや四角フキダシで括られたナレーションのほかに、語り手の内心の吐露として枠のないセリフも出てきます。
フキダシなしのセリフ・ナレーション・内語自体は他のまんが*5でもよく見られる表現ですが、本短編集の他の作品ではほとんど用いられていません。唯一の例外はさきほど取り上げた「忍耐サトリくん」の先生の「本心」描写でしょうか。これだってパロディを背景にした特殊な例であり、つまり、「フキダシなしセリフ・モノローグ」はこの作者本来のスタイルではない。*6
では、この「フキダシなしセリフ・モノローグ」はどこからきたのか。『幽白』のときと違って明白な証拠があるわけではないので推測が混じるのですが、おそらくやまだ紫の短編集『性悪猫』だとおもわれます。
「猫欠」と『性悪猫』のスタイルはよく似ています。ネコたちがメインキャラであり、主として二匹のネコ同士の会話で物語が進むこと。ネコたちが人間のように考え、しゃべり、にもかかわらず作中で描かれるネコたちの姿態はまんが的にカリカチュアライズされたものでなくリアルなネコの日常的な動作を切り取ったようなものであること*7。独白がやわらかさ帯びた叙情的でどこかフェミニンなセリフ回しであること。「やさしい」というワード。そして、フキダシなしセリフ・モノローグと吹き出し会話が入り交じること。
(「猫欠」より)
一方で「サトリくん」と異なり、直接的なコマの引用・パロディはなされません。
つまり、「猫欠」におけるオマージュ*8は語りのスタイルこそが重要なのです。
やまだ紫は日常にある痛みや困難や喜びを人生という視野から詩的に拾い上げる作風*9で、『性悪猫』もそのうちなのですが、そういった要素にネコ同士の対話が絡んでくる。不可能を承知で、ひとことで言うとしたら「やさしさ」と「あたたかさ」*10*11のまんがです。おさまりのよい形に削れない心をそのままに抱え込む空気感を岡田索雲は「猫欠」に加えたかったのではないか――という気がします。*12完璧なトレース(インターネットであなたがたが使っているような意味ではない)に固執してようにおもわれないのも、あくまでテイスト程度に留めておきたかった計算があったのではないか。
そして、実は『性悪猫』的なスタイルは語り手となっているネコを通した世界観であることにも留意しておきたいです。
というのも、化け猫を責めたりなだめたりするネコたちはあんまり『性悪猫』っぽくない*13。やまだ紫的な包容力と広い(というか長い)視野を持ったネコは語り手だけであり、だからこそ化け猫を外へ連れ出すことができたのではないでしょうか。
「サトリくん」ではコマ単位での直截的なパロディを行いつつも、作品のテイストや空気感を作者のほうでコントロールすることでまとまりを出していたわけですが、「猫欠」ではテイストや空気感を作者の「外」に一度預けることでより作者のやりたいことを果たしたといえます。
そう、パロディ・引用・オマージュは他者を取り込むことである部分を作者のコントロール下から切り離し、それによって作品の可能性を拡げるのです。
そして、『ようきなやつら』ではより思い切った引用の試みがなされます。
「追燈」です。
「追燈」の引用
「追燈」は関東大震災直にみまわれた東京を、しゃべる提灯をぶらさげながらさまよい歩く少年の物語です。
誰もが度肝を抜かれるのは終盤の十ページにもおよぶ引用文――関東大震災時の朝鮮人虐殺についての証言でしょう。
黒地の背景に丸く切り抜かれた部分に引用文献(末尾に添えられた「引用文献」欄によると『【普及版】関東大震災 朝鮮人虐殺の記録――東京地区別1100の証言』、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』、『九月、東京の路上で』の三冊)から引いてきた当事者たちの肉声を並べ、その声がページを埋め尽くしていきます。
あとがきで触れられているように、本作が関東大震災の朝鮮人虐殺を主題にした「初めての漫画」であることについて作者はかなり注意を払っていたようで、そういうものを「”妖怪もの”として描いてよいだろうかという葛藤」に悩まされて「今作に関しては妖怪の存在を極力、曖昧にして描きました」と述べています。
もちろん、そのこまやかな慎重さが本作の語り口にまで及んでいることは改めて指摘するまでもないでしょう。
というわけで、ここでは引用文パートの効用についてだけ考えます。
引用とは前述したように、本来作者の主導下にある叙述を別の誰かへ一時的に明け渡すことです。そのことによってどのような効果、つまり読者にどういった印象を与えることができるのか。
真実性です。
歴史的事件を主題にした作品においては「これは真実を描いている」という印象(何度でも重ねて強調しておきたい部分ですが、あくまで”印象”です)が、読者にとって重要になってきます。特に本作は歴史のパロディとしての歴史フィクションなのではなく、歴史を伝えるための歴史フィクションなのですから。でなければ、「妖怪の存在を極力、曖昧にして描」く必要などありません。その誠実さゆえに作中でフィクションの領域とノンフィクションの領域を明確な線を引いた。*14
引用は本来、没入感を阻害するものです。異物なのです。それまでの語りとまったく別の語りが挿入されて、読者はそこで立ち止まらざる得なくなる。フィクションであればそこで”現実”に一瞬立ち戻る。そこで展開されている文章もまた”現実”に属するものとして受け取られる。
だから、事実を語りたいのであればその記述はある種の態度をまとっているほうがよい。
たとえば、〈太陽王〉ルイ十四世の寵臣だったダンジョー侯フィリップ・ド・クルシヨンは三十六年間に渡って毎日日記をつけ、それは後に数多くの歴史書に引用される重要史料のひとつとなりました。ダンジョーの日記は「退屈な文体と洞察力の欠如」(嶋中博章)によって特徴づけられるとされ、歴史家のフランソワ・ブリュシュなどは「ダンジョ―には毎日書き、文学的効果をまったく狙っていないという唯一無二の価値がある」と評価しました。*15
実際のダンジョ―の記述における客観性や信頼性はここでは措くとして、ブリュシュはいいことをいいました。「文学的効果をまったく狙っていない」ように見える、という態度はここでは信頼につながっています。裏返せば、”なめらか”で”巧い”文章には”嘘くささ”が、内実はどうあれ、つきまとう。
ダンジョ―は歴史記述の話ですが、ことフィクションの表現にかぎるならばこう言い換えることもできるでしょう。「そのメディアにそぐわない記述は真実性(あるいはあらゆる意味においての”本物らしさ”)を担保しているように見える」。
引用部は異質であればあるほど、つまづきがあればあるほど、読者に「響く」のです。
もちろん圧倒的な物量、引用が十ページに渡っているという手法そのものも重要です。
十ページに渡って作者自身の語りを手放したように見える*16のは大変なことです。なぜそこまで「自分」を投げ出せるのか、という畏怖。それもまた読者の印象に重みを与えます。*17
そして、畏怖しているのはおそらく読者だけではない。なにより作者が死者たちの声を蘇らせることに対するおそれをアティテュードとして示しているのです。*18なんとなれば、作者はそのような引用の仕方をしなくとも関東大震災下における朝鮮人虐殺を描くことができます。実際、主人公が崩壊した東京をさまよう場面は多大なリサーチのもとに構築されているフシがあり、それこそ”なめらか”に”巧く”語っています。それでも最後には岡田索雲は十ページの引用を選んだ。自分のなかのためらいがある場合に、ためらっている事実自体をどう伝えるか、というのも創作者のアートのひとつだとおもいます。
引用・パロディ・オマージュ。いずれも自分とは異なる外部を呼び出し、ともにならびたっていく技術です。*19その意図や目的や効用はときどきによって違いますが、その「ときどき」をこれからも考えていきたいですね。つかれた。おしまい。アッ、「川血」と岡田索雲の作家的テーマの話するの忘れたな。今度でいい? いいよね。さよなら、さよなら、さよなら。
*1:『幽白』における室田は数ページ程度しか出演しない上に本筋にさほどからまないチョイ役ですが、かなり印象に残る名物キャラのひとりです。錦ソクラの麻雀パロディの金字塔『3年B組一八先生』の幽白パロディ回でもこの室田が採用されています。心の声が聴こえるって汎用性ありますしね。『うしおととら』パロディ回ではサトリだったし
*2:わたしたちはもちろんここで佐藤マコトの『サトラレ』も思い出さねばならないわけですが
*3:アランが言うように、パロディには涜聖の喜びがあります。パロディ元が清浄で無垢であればあるほど”喜び”が増すのです
*4:ところで、こうした技術の巧拙をもってパロディを「リスペクトがある/ない」の判断をくだすやりかたは個人的には同意できません。表現は表現でしかなくて、それこそ作者の内心は誰にもわからないわけですから。オマージュのやりかたがそっけなくて下手くそでもその作品を愛している人はたくさんいるでしょう。
*5:たしか歴史的には少女まんがの文脈から発展してきたものと記憶していますが、間違ってるかも
*6:ちなみに岡田索雲は長編連載デビューである『鬼死ね』時点では四角フキダシでの内語表現をそれなりに使用していましたが、『アクション』へ移籍してからの長編第二作『マザリアン』のころからほぼ使用なくなりました。それはつまりモノローグが入らない方向性に作風が変化していていったことを示しています
*7:線も似せてきたのかと一瞬思いましたが、岡田索雲の過去作に出てきたネコとそんなに変わらない。
*8:オマージュとパロディの違いについて。パロディとは喜劇としての捉え直しによって世界の新たな側面を批評的に暴き出すもの、というバフチン的な定義を据えて、オマージュとはかならずしもそうした再機能を目的としないもの、ととりあえずおいてもよいのですが、まあ別に深く考えなくてもいいです。
*9:好きな作家だけれど、あんまり自分のなかでも確固たる作家像を把握できていない
*10:ふたことあるじゃん
*11:↑「不可能を承知で」っていったじゃん、だから。
*12:まあ、「違います。オマージュではありません」と言われたらそれまでで、その可能性は大いにある。普通の感想や批評と違ってオマージュを前提にしてアレコレいうのはそこが弱点。
*13:ここらへんは他のネコまんがのオマージュが混ざっているのかもしれないが、自分は浅学にして存じあげない。
*14:ベンヤミン的な文脈でいうならば「引用によって歴史を語るとは、神話的な物語を「逆なで」し、破局の犠牲になった者たちの記憶を、歴史主義的に物語られる因果の連鎖から解放して救い出すことである。そうして初めて、死者の一人ひとりが何を体験したかが言葉になる。歴史を書くとは、神話としての歴史に抗して、それが抹殺した死者と、この死者が巻き込まれた出来事をその名で呼び出し、死者の記憶を証言することである。」(『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』柿木伸之)
*15:嶋中博章「歴史記述における史料の引用――瀕死の太陽王をめぐるダンジョ―侯の証言」
*16:見えるというのは引用の取捨や配置という形で作者という権力は依然存在しているからでもあります
*17:当たり前ですが、長々とした引用が読者へ与える印象・効用というのはメディアや作品によって異なります。大田洋子の「屍の街」とかね
*18:「敬意」といってもよいのですが、前述の「リスペクト」と同様あまり使いたくないことばです