- 序
- 新作映画ベスト10
- 他に言及したいもの
- 『ミラベルと魔法だらけの家』(バイロン・ハワード監督)
- 『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督)
- 『ピーターラビット2』(ウィル・グラック監督)
- 『クルエラ』(グレイグ・ギレスピー監督)
- 『セイント・モード』(ローズ・グラス監督)
- 『パッシング 白い黒人』(レベッカ・ホール監督)
- 『サウンド・オブ・メタル』(ダリウス・マーダー監督)
- 『クーリエ 最高機密の運び屋』(ドミニク・クック監督)
- 『孤狼の血 LEVEL2』(白石和彌監督)
- 『サイダーのように言葉が湧き上がる』(イシグロキョウヘイ監督)
- 『花束みたいな恋をした』(土井裕泰監督)
- 『ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償』(シャカ・キング監督)
- 『ファーザー』(フロリアン・ゼレール監督)
- 『ダヴィンチは誰に微笑む』(アントワーヌ・ビトキーヌ監督)
- 犬映画オブ・ザ・イヤー
序
昨年は一昨年に輪をかけて映画を観られなかった気がします。やっぱり映画館行かないと観ないひとなんですよ、あたし。
そんな状態で出すトップリストって公益性はあんまりないわけですけれど、まあそもそもが全体的に公益性なんてないブログなのだし、備忘録としては結局必要になるのだし、結局は出さざるをえない。
というわけで参りましょう。2021年に公開された新作映画マイベストです。
新作映画ベスト10
1.『キャッシュトラック』(ガイ・リッチー監督、米英)
なんかこう長らく映画館に行けなかった時期があって。そうなると映画の愉しみを忘れてしまうんです。もう映画ってなにがおもしろかったのかわからない。
それでひさびさに映画館で観て、ああ映画っていいなあ、って気持ちが蘇ったのが『キャッシュトラック』でした。ガイ・リッチー映画ですよ。そんなガイ・リッチーって好きじゃなかったのにね。
どこが「いいなあ」だったのかって、暴力が常に上位に来るわけですよ、この映画。
いちおう、ジャンル的にはクライムだかノワールだかだったり、プロット的には割と凝った風の構成を取ったり、スパイ探しみたいな要素もあったり、でもそういうのが全部暴力の前に雑におざなりに吹き飛んでしまう。スパイ探しなんて、なんか唐突に犯人がおもむろに自白しだしますからね。あたかもミステリ要素なんてなんでもないかのように放り投げる。だってこれは暴力の映画だから。原題なんて Wrath of Man ですよ。いまどきスーパーヒーロー映画以外で Man なんてタイトルにつけないでしょう。しかも、Wrath ときている。アホなんじゃないの。
とにかく銃弾が飛び交って、一瞬の差で人が簡単に雑に死んでいく。ほぼみんな死んじゃう。ステイサムだけが生き残る。理由なんてないんです。ステイサムだから生き残っている。
特に感動した場面があります。
ジョシュ・ハートネットの演じるイキリヘタレキャラが幸運にも修羅場から五体満足で脱出する。みんな死ぬような映画で生き残れるポジションに入りかけるんですよ。でも、向こうで鳴っている銃声に魅入られるようにして、フラフラとキリング・フィールドに舞い戻って、結局なにをするというわけでもないまま無様に死んでしまう。
なんだかよくわからない高揚に当てられて、灯下の虫にようにふらふらと飛んでいって焼かれてしまう。そこにコンプレヘンシブな言語なんて介在する余地はなくって、ただ熱と光だけがある。映画を観るって、そういうことなんじゃないんでしょうか。
2.『偶然と想像』(濱口竜介監督、日)
アクセルしか踏まないキャラしか出てこない。そしてそういうキャラクターのエンジンによってのみ物語が駆動しているところがすごい。
基本的に濱口竜介はことばのひとです。ことばを発することそのものにアクションがある。そういうと非映画的な監督なのだとネガティブに受け取られそうだけれど、まあそういう勘違いはほうっておけばよいのです。
で、そういうことばのバランスが稀に崩れてただアクションだけが先行する瞬間があり、たとえば『寝ても覚めても』のレストランで東出昌大と入れ替わって東出昌大が現れる場面は問答無用にエキサイティングでした。
『寝ても覚めても』には『ハッピーアワー』にも『ドライブ・マイ・カー』にもない快楽がありました。それはなにかといわれるとなにかはよくわからなくて、起因するとしたらある種のジャンル映画っぽさなのかと推測したりはできるのだけれど、やっぱりよくわかんない。
ああいうのがまた観たいなあ、と願いながら『ドライブ・マイ・カー』を観にいき、ああ、こういう方向に洗練されていくのか、と映画自体の評価とは別に、失望のような諦めのような感情を抱いて映画館を出たのが夏のこと。もう二度と濱口竜介の撮る身体にゾクゾクさせれることはなくなった、そうおもいました。
ところが『偶然と想像』で再会できたんですね。第三話。あれこそもう奇跡みたいなもんですね。
3.『ライトハウス』(デイヴ・エガーズ監督、米ブラジル)
「2人の男性が灯台のメタファーとしての巨大な男根像に残されたとき、良いことはなにも起こり得ません」という監督のことば以上に的確な評言もないとおもう。ちいかわみたいなもんです。
4.『プロミシング・ヤング・ウーマン』(エメラルド・フェネル監督、米)
チャーリーXCXの Boys から始まる映画がおもしろくないわけない。
ええっ!? マジでここで終わるの!? という突き放した感じがすさまじかった。これが世界なんだよ、と言われたような気がして、呆然とした。まあ、ここで終わんなかったわけですが。
あとでインタビュー読んだら監督的にはあそこで終わらせたかったらしい。そうだろうよ。あそこで終わらせられなかったのは結局のところ映画が夢を語る装置としての役割を強いられているからだと思います。そこのあたりは実はハリウッドは黄金期のころから、もちろんニューシネマ時代にあってさえ、変わらなかったわけですけれど。
5.『恐怖のセンセイ』(ライリー・スターンズ監督、米)
『ベスト・キッド』と『ファイトクラブ』をかけ合わせたような最高のトキシック・マスキュラリティ映画。
ジェシー・アイゼンバーグがAORを聞き、フランス語を習い、ダックスフントを飼っていることを聞いた空手のセンセイが「男の音楽はメタル! フランスの歴史は妥協の歴史、語学ならロシア語かドイツ語! イヌを飼うならジャーマンシェパードを飼え!」などと言ってくる。
7.『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(古川知宏監督、日)
テレビ版のときはああ清順とかイクニとか好きなのねってくらいでたいして面白いとおもわなかったんですけれど、映画はヤバかった。死ぬかとおもった。たぶん、演劇とおなじで密室での鑑賞体験だからこそなのだとおもいます。
8.『悪なき殺人』(ドミニク・モル監督、仏独)
チャプターごとに視点人物が切り替わる系のミステリ作品なんですが、切り替わるごとに謎が収束していくというより、エッ!? こんなとこ飛ぶの!? という驚きが連続してどんどん加速していく。なんか真面目っぽい顔して、そうとうアホで良い映画です。
いや、まさかさ、フランスの片田舎で起こった主婦の行方不明事件がコートジボワールの黒魔術師へと行き着くなんて誰も想像しないでしょう。
あとファーストカットが強烈でいい。映画ってファーストカットでヤギをおんぶした人を自転車で走らせてもいいんだ。
9.『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(アンディ・サーキス監督、米)
コロナを経てMCUのあらゆる面での過剰さにもう疲弊しきってしまったわけですが、そこに一服の清涼剤として現れたのがど根性ヴェノムさんの二作目。
なにがいいって、雑なんですよ。話の展開とかカットとか割と「これでいいや」って感じで雑に切る。他のマーベル映画ならあとひと手間ふた手間かけているところをハイ次ってかんじでサクサク進行させていく。それで驚きのランタイム実質90分。
内容もひたすら痴話喧嘩だし、なんならロマンティック・コメディのパロディみたいなシーンさえやる悪ノリっぷり。
極めつけはラスト。
あそこまでとってつけた感のあるラストはひさびさに観ました。とってつけた感しかないんですよ。ほんと。そこがすばらしい。
MCUって全部意味じゃないですか。コメディよりのやつであったとしても、すべてつながっていてひとつの大きな流れのなかにある。でもヴェノムは孤高かつナンセンスなんです。なくてもいいんです。ストップ・メイキング・センスってかんじです。その軽さに救われる。
なんて思っていたら、ちゃんと『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』につながっていてびっくりした。やっぱり特に意味はなかったんですけど。
10.『PITY ある不幸な男』(バビス・マクリディス監督、ギリシャ・ポーランド)
不幸な状態に依存してしまうことって人間あるよな〜という点では『愛がなんだ』に通じているんですけれど、脚本がヨルゴス・ランティモスの長年のパートナーであるエフティミス・フィリップなので万倍ひどい。撮り方はまあなんというか……ランティモスってやっぱりギリシャのクレムデラクレムだったんだなって。
イヌがすばらしくいいです。
他に言及したいもの
『ミラベルと魔法だらけの家』(バイロン・ハワード監督)
ディズニーひさびさのミュージカル。アンチプリンセスものとしての意識がけっこう明確に出ていて、たとえば「動物と意思疎通ができる」というのは典型的なディズニープリンセスの権能であったのだけれど、それが目の前で別のいとこに”とられる”というシーンがあったり、他にもアナ雪のエルサを意識したキャラにクィア的なイメージ*1を暗に付与していたり。ミュージカルシーンの出来もわりかしよかった。『ズートピア』以降で一番好きなディズニー/ピクサー長編かもしれない。
やっぱりアメリカ人はミュージカルのつくりかたがわかってるよね。それにしても最近のアメリカはミュージカル多いですね。半分くらいはリン・マニュエル・ミランダのせいでは。
『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督)
リドスコはSFとかより時代劇のほうが好き。あんまり顧みられてないけど『キングダム・オブ・ヘブン』とかそれこそ『ザ・デュエル』とか。クソ重そうな甲冑着てクソ重そうな剣を振り回すシーンを撮る時の気合の入れようは半端なくて、本作の決闘シーンはリドスコ史上でも抜きん出ているのじゃなかろうか。『グラディエーター』とかよりもずっと。*2
あとイヌを中心に動物がいっぱい出てきて、それぞれのシーンでパッと見で寓意がわかるのもよい。
『クルエラ』(グレイグ・ギレスピー監督)
親殺し映画としては最高なのだけれど、『101匹わんちゃん』の前日譚としては最悪というなんともアンビバレンツな気持ちに苛まされる。まあ『マレフィセント』のラインだろうし、ベースになってるアニメから外れてなんぼのもんってノリなんだろうけど。
でも、いちばん許せなかったのはクルエラが擬似家族を作ってたところだったかな。
クルエラってそもそも「家庭」とか「家族」的なるもののアンチとして出てきたキャラなんですよ。原作小説では毛皮商の妻ってことになっているんだけどかなり好き勝手やって「わたしの一族はわたしが最後だから、夫をわたしの姓に変えてやったわ」なんて言い放ったりする。”良妻賢母”であるパディタと対置されているわけです。
これが『101匹わんちゃん』ではもはや何やってるかわかんない無から生まれた女*3みたいになっていて、ただ純粋にダルメシアンの子どもを盗んで毛皮にしようとするヤバいひとになっている。
『101匹わんちゃん』は飼い犬同士が縁を結んで飼い主同士も結婚して、幸福なご家庭を作ることが核になっている映画で、狂った孤独な女であるクルエラは子どもを奪って家庭を崩壊させる悪の象徴なんですね。
これが実写版の『101』になるとさらに加速して、ヒト(飼い主夫妻)とイヌ(ダルメシアン夫婦)の妊娠と出産が完全にシンクロするというグロテスクなプロットになる。一方でクルエラにはファッションデザイナーという地位が与えられる*4。自分の会社でデザイナーとしてのセンスを開花させた部下のパディタに惚れ込んでいるんだけれど、あるとき「結婚するからデザイナーやめます」と告げられて激怒する。90年代の映画なんですけど、「いくら才能があっても結婚すれば家庭におさまるのが女のしあわせ」という価値観がアメリカでもふつうにまかり通っていたんですね。で、パディタを取り戻そうとする仕事人間であり成功者であるクルエラが”悪”とされてしまう。
クルエラがパンクなのだとしたら、それはファッションや後ろで流れるBGMがパンクなのではなく、そのあり方や生き様がパンクなんです。だって、ディズニーの女性ヴィランってだいたい魔女か女王かその両方なのに、『101匹わんちゃん』のクルエラってただただイカれてる一般人(主人公の元同級生)なわけですよ。すごくないですか?
わたしはクルエラにその狂気をつらぬいてもらいたかった。パンクでありつづけてほしかった。キャラの福祉を考えたら、そら擬似家族的なコミュニティを形成できたほうが幸せだよね、って話なんですけれど、クルエラにはそういうものを超越してただ突っ走ってほしかった。
『クルエラ』には”悪役であること”を引き受けるくだりがあって、そこはクルエラマインドがあったんですけどね。まあ単体の映画としては好きです。
『セイント・モード』(ローズ・グラス監督)
たまにホラーでキリスト教テーマというかイカれた狂信者ものなのがあって、あーこれ書いてて今フラナガンの『真夜中のミサ』の続き観なあかんなー、と考えているわけですけど、『セイント・モード』はかなりそのへんソリッドといいますか、必要なことしか詰まってない。ファナティシズムとナーブスリラーみたいな要素がうまいこと絡まっていい出汁が出ております。プロットは百合。ラストはかな〜りいじわる。
『パッシング 白い黒人』(レベッカ・ホール監督)
(ネトフリ映画)
俳優が監督業に手を出すのは太古の昔からあるわけですけれど、近頃は映画技術の向上のせいか打率が上がっている気がする。『パッシング』はかなりルックが練られた作品で、主題となっているのはタイトルにもある人種的パッシング、つまり、肌の色が薄い黒人が白人を装って社会に溶け込むという昔の黒人の生き方で、主人公もそういうひとなんですけれども、これをモノクロで撮る。しかも、やや昔っぽいライティングで撮る。するとどういうことになるかといえば、主演の黒人俳優の肌がやや薄くなって、いかにもブラックって感じじゃなくなる。この手法がかなりスリリング。
そして、主人公が自宅のあるハーレム(黒人地区)に戻るとそれまで白が基調だった画がガラリとかわって黒が基調となる。
あざといといえばあざとい演出なんですけれど、うまいなあ、とおもうわけです。
『サウンド・オブ・メタル』(ダリウス・マーダー監督)
めちゃめちゃがんばっているわりに報われている感の少ないリズ・アーメッドですが、今回もめちゃめちゃがんばりました。音を通じて世界を覗く映画っていくつかありますけれど、これは手堅くできていますね。原案がデレク・シアンフランスですが、っぽいといえばっぽい気がする。
『サイダーのように言葉が湧き上がる』(イシグロキョウヘイ監督)
わたせせいぞうみたいな画面もよいんですが、なんといってもSNS描写。「インターネットをポジティブに描写する」っていうのはこういうことなんですよ、誰にとは言わないけど。
『ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償』(シャカ・キング監督)
潜入スパイものってそれだけでおもしろい。映画の最後に、エッ、このひと21歳だったの!? ってビビったけれど。
『ダヴィンチは誰に微笑む』(アントワーヌ・ビトキーヌ監督)
アート業界はまじで魑魅魍魎の巣窟なんだな……とおもわせられる山師ばかり出てくるドキュメンタリー。再現映像を本人にやらせるのがしょーもなくてよい。ドキュメンタリーだと他にも『コレクティブ』とかよかったな。ドラマシリーズだと『殺戮の星に生まれて』。
犬映画オブ・ザ・イヤー
☆『犬は歌わない』
『最後の決闘裁判』
『恐怖のセンセイ』
『PITY ある不幸な男』
『カラミティ』
『孤狼の血 LEVEL2』
今年はPTAとウェス・アンダーソンの新作を愉しみに生きていきます。