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落ちる。――『Fall Guys: Ultimate Knockout』

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 六十名からなる豆人間たちがひとところに集まって「ゲームショー」をやらされる。「エピソード」=ステージごとに二割から三割程度が失格となり、最終的にたったひとりが勝者となる。
 わたしたちは Fall Guys でサバイバルのなんたるかを初めて知ることになるだろう。PUBG、Fortnite、Apex Legends、これらのバトルロイヤルは真の意味において人生ではなかった。厳しく残酷な命の取り合いを装いながらも、その実、小学校のグラウンドの行われる雪合戦となんらかわらない牧歌的な遊戯だった。
 撃たれて死んだとしてもそれはプレイヤーの死ではなかったし、敗北はめぐり合わせでプレイヤーの敗北に直結しない。わたしたちは真剣に遊んでいたかもしれないが、真剣に殺し合ってはいなかったのかもしれない。


 Fall Guys を本気(マジ)だと感じるのはなぜだろう。落ちるからだ。負けるときは落ちるときと定められている。タイトルにもそう定義されている。落ちるものども。そのバーティカルな破滅は、他のバトルロイヤルのごときホリゾンタルで(そこでは落下しても無傷で)フラットで(あたかも落下を検討すべき運動などとは考えてはいなくて)テイストレスな敗北(敗因がはっきりしている)とは一線を画している。本気がある。本物の生と死がかかっている。

 
 サバイバルの原義とは、他人をマスティフガンで撃ってアイテムの詰まった棺に変えることではない。特設ステージでクソデカなトラヴィス・スコットや米津玄師を愛でることでもない。生き残ることだ。『死のロングウォーク』のように、背後から迫ってくる死の境界からいかに逃れて続けていられるか。血を吐きながら続ける不毛な競歩こそがサバイバルだ。
 どこかで落ちたとき、あなたは Eliminate される。失格という意味だ。排除されるという意味だ。それは60名の参加者だれの身にも平等に訪れる。ランクマッチが用意されていないのはある種の教義でもある。次はあなたであるかもしれないし、わたしであるかもしれない。誰もが落とし穴に落ちる可能性がある世界。ふとしたスリップで排除されてしまうかもしれない世界。ひとりしか勝てない勝者総取りの世界。それをわたしたちは資本主義と呼ぶ。あるいは、たんに社会と。


 武器やアイテムなどどこにも落ちていない。アビリティやアルティメットなんてもの使えない。自分の肉体さえ自由とは言えない。できることはジャンプとタックルとエモート、それと哀れっぽく他人の袖を引く動作くらいだ。あなたは何度も落下し、回る棒やハンマーに弾き飛ばされ、ドラムの上を回り、シーソーで滑り、他人に踏み潰され、転ばされ、卵やボールを奪ったり奪われたりしながら、五つの「エピソード」を勝ち残っていく。
 そうだ。思い出してほしい。これは「ショー」だ。誰かがスライム床で滑りながらもがくあなたを見て笑っている。でもその観覧者の姿を捉えることはできない。それもまたリアルだ。必死な人間の姿を見るのはわれわれにとっての最高の娯楽だ。スポーツがそうだ。リアリティ番組がそうだ。インターネットがそうだ。現実がそうだ。生きるとはそういうことだ。


 山田風太郎だったかスティーブン・キングだったかが、物語には二つの型しか存在しないといっていた。穴に落ちる話か、落ちたあとその穴から這い上がる話か。
 誰もかれもが落ちていく。
 問題は落ちないでいられるかどうかではない。
 いつ落ちるのか、だ。


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