「panpanyaという漫画家は実在しない」
と、母から教えられたのは小学校に入るか入らないか、とにかくそんな時分でした。
そりゃあショックでしたよ。これまで信じてきた世界を突然崩されたのです。納得できるものではありません。
当然、わたしは「じゃあこのマンガは誰が描いたの?」と『足摺り水族館』を指差して母を問い質しました。
すると母は微笑んで(そう、大人が世間知らずの子どもを見下すときに浮かべるあの笑みです)、
「『楽園』のマンガはみんな位置原先生が描いてるのよ」
と言います。
「えっ、じゃあ。イコルスンも?」
「そうよ」
「黒咲練導も? kashmirも? シギサヤも?」
「全員そう」
「鶴田謙二もなんだ……」
「エレキテ島が出ないのはそのせいね。忙しいから」
「そうか……すごいな……位置原先生は……」
そう、位置原先生はすごい。位置原先生の新刊をみんな読もう。
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それから十年。
京都で都のとろめきを惑わす不逞浪士たちを拷問にかける仕事に就いていたわたしは、 その業務中に思いがけず panpanya先生が京都でサイン会を開くという情報を手に入れました。
実在しないはずの panpanya先生が……?
矢も盾もたまらず罪人から無理やりサイン会の予約券をもぎ取り、乾きパサつく肌をひきずり、四月二十一日先勝、三条のアニメイトへ馳せ参じます。
サイン会のうわさを聞きつけたのか、通りは世界各国から集結したサブカルおたく(見た目でわかる)たちで溢れていました。意気軒昂な彼ら彼女らは宮崎駿のアニメのように無数の個というよりはなめらかに統一・組織された群的な生命体となってメイトの階段へとなだれ込んでいき、それをメイトの店員たちが「もうだめだ」「ここで俺たちは死ぬんだ」「援軍はどうなっている」などと泣きわめきながらマスケット銃をやぶれかぶれに撃ちまくって押し返そうとしていました。
わたしも用意したサイン用の本(『蟹に誘われて』)を弾避けにしながら血路を開き、なんとかメイトの出入り口へとたどり着きます。panpanya先生にはちょっとした防弾効果もあるのです。
山積された死屍を踏み越えつつ、サイン会担当と思しき店員に今すぐ panpanya先生に会わせろと要求します。
すると、店員はセルロイドめいたにこやかな顔で一枚の紙片を差し出し、「整理券です」という。
聞けば、「整理券」とやらに記載されている時刻にまたメイトに戻ってこいというのです。予約券とはなんだったのか。
いくら不条理でもルールはルールです。
一時間後、わたしはふたたび屍山血河を乗り越え、メイト前に立ちます。
そうして店員に「整理券」を渡すと、今度は別の紙片をよこして「整理券2です」とぬかす。
言われるがままに「整理券2」に書かれた集合時刻に三度戻ってくると「整理券3」を渡される。
さすがに何かがおかしい、と勘づいたわたしは、
コラッ!!!!
と店員を一喝しました。
あんまりお客をバカにするんじゃないよ!
すると店員は悪びれてるようなそうでないようなノリでぺろっと舌を出し、
「たはー、あいすいません。これもうちのもてなしというやつで」
と言い訳しました。
なるほど、京都名物のいけずと言われればもてなしのうちかもしれないな、とひとり合点しているあいだに店員に促され、会場内に入ります。
予想はある程度していましたが、人がいっぱいです。いっぱいすぎます。
なんというか、人を人として認識できないレベルでいっぱいです。なんというか形から人だと察しはつくのですが、それがふだんおもっているような人権を有した存在としての人と視るのがむつかしい。おぞましい別の何かに見える。時代が時代なら独裁者が生まれ、虐殺が起こり、統計学が完成していたことでしょう。
「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生サイン会の待機列はこちらです〜」
会場内に店員の呼びかけが響きます。
なに? なに先生だって?
「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生サイン会の待機列はこちらです〜」
外に掲げてある看板を見るかぎり、本日ここでサイン会を催すのは panpanya先生のみ。
ということは、「ଇฌㄜဪ༄༮㐋ฌ先生」とは panpanya先生を指しているのでしょうか。文脈的にそれしか考えられません。
わたしは今まで panpanya先生のことを「ぱんぱんや」あるいは「ぱんぱにゃ」と読んできましたが、どうやら間違っていたようです。
先生にお会いする前に気づけてよかった……
待機列に並ぶと地獄の獄卒のような店員たちが「オラッ 本を用意しろッ」と客たちをしばきあげながら、ひとりひとりにペンを渡します。
どうやら整理券(3)の裏にサイン本に付す為書き用の名前を書け、と言いたいらしい。
わたしにペンを突き出してきた鬼はこう言いました。
「書いていただく姓か名か、どちらか一方を選べ! フルネームはNGだ!」
なるほど、時短というやつですね。
「ちなみに漢字かひらがなか、どっちかに限る。カタカナはダメだ!」
……??? 先生はカタカナアレルギーなのでしょうか?
書き終わってペンを返却し、鬼は待機列の後ろに人にまたペンを渡して、同じような注意をがなりたてます。
「ちなみにカタカナか漢字か、どっちかに限る。ひらがなはダメだ!」
……??? さっきと言ってることが違う?
「ちなみにカタカナかひらがなか、どっちかに限る。漢字はダメだ!」
「ちなみにアルファベットか漢字か、どっちかに限る。ローマ字はダメだ!」
「ちなみにイヌかネコか、どっちかに限る。オオサンショウウオはダメだ!」
列が進みます。進行方向の終端には灰色のカーテンに仕切られたスペースが設置してあり、その向こうに先生がいらっしゃることが見て取られました。
本当にいるのかな、とこの期に及んで疑念を棄てきれません。
ときどき、メイトの本棚のあいだから巨大な蛇がぬっと飛び出してきて、待機列のファンをぱくりとひとのみして去っていきます。
サインももらえないうちに蛇に食べられるのはいやだなあ、とおもいましたが、この日は幸い食べられずにすみました。実はちょっとヤバい場面もあったのです。蛇がちろりと舌を出し、味見のつもりなのかわたしの頬を舐めてきて、「ぬめっててまずっ!」とそっぽを向いて退散したのです。あぶなかった。
列はさらに進みます。
ようやく先生とのご対面です。
店員が上げてくれたカーテンをくぐり、秘密のヴェールの深奥へと至ります。
そこにいた panpanya先生は……
まさしく作品に「わたし」として出てくるキャラそのものの、ショートカットのかわいらしい少女でした。
先生のとなりにはイヌのレオナルドまでいます。
「ほんとうにまんがの通りだ……」
おもわず感嘆すると、先生は照れ気味に「よくいわれます」と頭をかきました。
感無量の心地で本を差し出し、サインをいただきます。
わたしは基本サイン会の場では喋らないひとですし、先生もサインに添えるイラストをお描きになるので忙しく、特に会話もなく進行していたのですが、シャイなわたしを慮ってくれたのかレオナルドがいろいろなことばをかけてくれました。
「どのあたりから先生の本を読みはじめられたんですか」
「『足摺り水族館』のころからですね」
「ほう、どこでお知りに?」
「先輩が『すごい漫画がある』とガケ書房に連れてってくれて……」
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話すと思い出がよみがえり、知らず目尻に涙が溜まってきます。
そのあいだにも先生は魔術師のような手際で美麗な線を描き出していきます。
レオナルドは質問をつづけます。
「今日はどちらからいらしたんですか?」
無口な客に対するサイン会での常套質問です。
「川から来ました」
「へえ、川。ここまでは大変じゃありませんでしたか。オオサンショウウオなのに」
オオサンショウウオのわたしは、ベタつく頬をぺしぺし叩きながら嘘をつきました。
「そんなでも」
そこで先生から「はい、できましたよ。どうぞ」とサイン本を渡されました。
描いてくださったのは、川のほとりで踊り狂うオオサンショウウオの絵でした。
わたしは久正人先生サイン会以来の満足をおぼえつつ、同じくサイン会に参加していた後輩のウーパールーパーと合流し、三条の人気ジェラートハウス「SUGITORA」に入りました。味はまあ普通なのですが、虎をフィーチャーしたマスコットが可愛い名店です。
わたしたちはジェラートをつつきながら、サイン会について語らいました。
よかった。
ほんとうによかった。
信じていてほんとうによかった……と。
信じれば漫画家はかならず具現化するのだ……。
「よかった」を唱えつづけて三十回を超えたころ、わたしの電話が鳴り出します。
とってみると、母からでした。
わたしは誇らしい気持ちで、母に panpanya先生の実在を報告しました。
母は大して興味なさそうに「そう、よかったね」と返し、「ところで」と話題を変えます。
「ゴールデン・ウィークは何をするつもり?」
深甚な問いかけです。わたしはしばし考え、「年を取ろうかとおもっています」と告げました。
しばらくは川に戻りたくない気分でした。
しばらくのあいだは……。
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