ティム・バートン曰く「歪んだウォルト・ディズニー」*1であるところの興行師ヴァンデヴァー(マイケル・キートン)が自身の経営する遊園地〈夢の国〉から偽物のフリークスたち*2を叩き出す。ダンボの属していた弱小サーカスから移籍してきた彼らは、ダンボというお目当てを手にしたヴァンデヴァーから邪魔な付属物としてお払い箱にされたのだ。
解雇を通告されたフリークスたちはダンボのテントに集い、すやすやと睡る仔象を微笑みながら見つめ、それぞれに別れを惜しむ。
このときダンボは単なるかわいいだけのゾウさんではない。本作においては単なるかわいいゾウであるで十二分な瞬間が山ほどあるけれども、映画を観て涙を流すにはかわいいだけでは足りはしない。
わたしたちがあのシーンで泣いてしまうのは、ダンボが魔法そのものであり、希望の象徴だからだ。不完全で、不格好で、無力に見えても、ハンデと思われた特質を羽ばたくための翼に変えて自由に宙を舞う。ダンボの魔法を目の当たりにしたからこそ、フリークスたちは窮地にあっても絶望しない。
そして、その魔法を信じるからこそ、ダンボの母親(ジャンボ)の救出劇に手を貸し、「本物」のフリークスとして自分たちの奇跡を顕す。
オリジナルの『ダンボ』では、ダンボがティモシー(ネズミ)からカラスの羽根を「魔法の羽根だ」と吹き込まれたのを信じて飛んだ。
ティム・バートンの『ダンボ』では、ダンボ自身が人々にとっての魔法の羽根になる。オリジナル版で徹底的にオミットされていた人間たち*3がリメイク版のメインをはったのは、けしてナラティブにおける親しみやすさの追及のみが目的ではない。
フリークスのサーカス団員たち、そしてコリン・ファース演じる父子は、オリジナル版『ダンボ』を観た観客自身の映し身なのだ。
かつて、わたしたちはセルアニメで描かれたダンボに自分を信じることの魔法を学んだ。おそらくはティム・バートンや脚本のエーレン・クルーガーもそうだっただろう。
要するにリメイク版『ダンボ』とは、オリジナルへの感謝を形にした映画だ。その点で、これまでオリジナルの影をなぞって虚しいダンスを続けたり、変に現代っぽく仕立てようと挑んで見事オリジナルを台無しにしていたディズニーの一連の実写リメイクにあって、唯一といっていいオリジナリティと意義を有する作品となった。
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