木下昌輝の幕末怪奇連作短編集『人魚ノ肉』を読んだ。読書会の課題本です。
そういうわけで近頃、切腹についてよく考える。
『人魚ノ肉』には切腹メインの話が二編、収録されている。
片方は唐突な切腹死を遂げた山南敬助の謎を沖田総司が探偵役として(?)追う話。もうひとつは横領の疑いで切腹に追い込まれた新選組勘定方の河合耆三郎、その彼の相棒役だった男の話。どちらも新選組の話としてはポピュラーな題材で、そこに作品全体を貫くガジェットである「食べたら不老不死になれる人魚の肉」がからまってくる。しかしまあ、ここでは人魚の肉などさておく。切腹の話です。
そもそもなぜ武士は腹を切るのか。
史実において切腹の持つ意味合いは、時代によってゆるやかに変遷している。
切腹が認知されだしたのは、武士の権力基盤が確固たるものとなった鎌倉初期だ。源義経の最期に見られるように、最初は戦場で進退極まった武士の自害手段の一種に過ぎなかった。*1罪を犯したり、戦に負けたりした武士には斬首をもって罰するのが適当とみなされていた。
その後、戦国時代には、切腹は敵味方に認められた「立派な武士」の「自主的な誇りある死」として(武士社会内での)特権的な性格が賦与されるようになった。*2要するに、武士の死に様として斬首よりワングレード上に据えられたのだ。
江戸幕府が成立し、二代将軍家忠の治世に入ると、切腹は武士の基本的な刑死手段に定められる。斬首、磔刑を基本とする町人や農民らとは異なり、他人の手を借りず自分で立派に死ねる武士の優越性を強調したわけだ。
一方で引責と結びつけられるようになった切腹は、トラブルにおける安易な綴蓋として乱用されるようになる。喧嘩両成敗はもとより、恥をかかされたというので腹を切る、公金横領がバレたので腹を切る、不祥事の責任を押しつけられて腹を切る、とりあえず上司に腹を切れと言われたから腹を切る。本来なら死に値しないような事由でも、藩や上役に類を及ぼすようなケースであればぐっと飲みこんで腹を切る。そういうことをできるのが、まことのサムライである、ということになった。刑死としての切腹とは別に殉死というものもあるが、あれもまあ見栄の張り合いの一種です。
それはそれとして、ではフィクションにおける切腹の機能とはなんなのか。
効用は千差万別なのだけれど、ひとつはまあ、人が死ぬ以上は謎がついてまわる。謎があればミステリーになる。
『人魚ノ肉』でも切腹はミステリーとして扱われる。特に沖田総司が主役の「肉ノ人」。なぜ山南敬助は切腹においこまれたのか。それは山南が隊から脱走しようとしたためだが、そもそもなぜ脱走しなければならなかったのか。その謎が沖田の前につきつけられる。
おそらく本邦における切腹ミステリー、切腹ホワイダニットの嚆矢は森鴎外が大正元年に発表した「興津彌五右衛門の遺書」だろう。鴎外の歴史ものの第一号だ。
亡き細川忠興*3の墓前で「明日年来の宿望相達し」「首尾よく切腹いたし候事」を報告する衝撃的な書き出しからはじまる。
一体なぜこの遺書の主ーータイトルから察するに興津弥五右衛門ーーは殿様の墓前で切腹などするのか。勘のいい読者ならちょっと考えれば殉死だと察せるだろうけれども、その所以はどういうわけか。単に御主君が死んだので自分も追腹を切ることにしました、というだけではドラマにならない。なにか特別な「御恩」があるはずだ。
そういう興味から森鴎外は一流の筆致で読者の興味をひっぱっていく。一行目で、私は死ぬことにしました、という宣言をしておいて、二行目からは主人公の祖父の来歴から話しだす迂遠っぷり。核心となる事件のあらましは全体の三分の一を超えたあたりでようやく語られ始める*4。
鴎外は意識的にサスペンスの話法を使ったわけではないだろう。しかもミステリーといっても、あくまで興津の死が謎なのは読者にとってだけであって、物語内のレベルでは謎でもなんでもない。
鴎外はその後、「興津」から殉死テーマを掘り下げて「阿部一族」、ドキュメンタリックな手法をつきつきめて(これも切腹譚である)「堺事件」などをものにしていく。
物語内の人物たちが切腹の裏に隠された謎を巡って、トリッキーにかけずりまわる本格的な切腹エンターテイメント小説は、昭和十三年の吉川英治『夏虫行灯』*5を待たねばならない。待たなくても、その間に岡本綺堂*6の半七シリーズもあったことだし、探せば何か本格切腹ミステリが出てくるかもしれない。
切腹文学のはじまり
では他の切腹ミステリ以外の切腹フィクションではどうなっていたか。
鴎外は大正二年に「阿部一族」を発表する。「阿部一族」はたぶん日本人の九割が読んでいる作品なので、好き嫌いはどうあれ、いまさら説明はいらないと思う。読んでいない人は残りの一割であることを心底恥じながらこれからの生を生きてほしい。
おそらく「阿部一族」を含めこのころの一連の鴎外の切腹小説群(鴎外いわく「阿部一族」は「殉死小説」だったらしい)で日本の文芸における切腹のイメージをある一定の地平へ固着させたのではないか。
翻訳家の須賀敦子はエッセイ集『遠い朝の本たち』で、「阿部一族」をこんなふうに読解している。
日本の過去に置くようになったのは、彼が日本の現状に愛想をつかしたからだという論旨をよく目にするが、読んでいて、『阿部一族』の底流にある、西洋臭さのようなものに私はふと気づいたのである。『阿部一族』は殉死―切腹という武士たちの慣習が、西洋人をふくむ部外者が考えるように、ただ野蛮な風習なのではなくて、確固とした哲学や美学に支えられていたという一面を明らかにしている。しかし、最後にこの一族が苛酷な滅亡に追いつめられていく過程を、共同体の論理に従わざるを得なかった社会への批判と読むことは可能だけれど、それと同時に、ギリシア悲劇的な運命の桎梏としても読めるのではないかという考えが浮かんだとき、鷗外の晩年の作品への解読の扉がすこし開けたように思えた。人間の不条理ということが、ここでひとつの中心的な命題として克明にたどられていることは確実で、その捉え方は日本/東洋的というよりはより西洋的と思える。
またプロレタリア作家の宮本百合子(「鴎外・芥川・菊池の歴史小説)にいわく、
作者はこの事件をめぐる総ての人々の心理を、その時代のそのものとして肯定して描き出している。阿部一族の悲劇は悲劇として深い同情をもって映されていて、そこに作者の人間性においての抗議や批判は表現されていないのである。これは特に私たちの注意をひく点ではなかろうか。鴎外が、この時代の悲劇はその時代のものとして、人々の感情行動の必然のモメントをもその範囲において描いたということは、鴎外が歴史というものを扱った態度の正当な一面であったと思う。誤った近代化や機械的な現代化はちっとも行われていない。
須賀の「西洋的」と、宮本の「その時代のものとして」という表現は言葉だけ見ればそれぞれ相反しているように見えるかもしれないが、実のところ両者とも「今日・此処の論理とはかけ離れたところにある何か物凄い力」によって人物が荒波に揉まれる葉舟のように翻弄されていく物語世界の枠組みを指摘している。
してみると、明治から三十余年ほどしか経ていない大正初期でも、「江戸」や「侍の論理」への距離感は、現代からのそれとさほど変わらなかったのかもしれない。
大正七年には、鴎外のドキュメンタリックな語りの技法を受け継いだ芥川龍之介が、旗本板倉勝該による熊本藩主細川宗孝の誤殺事件を、主君の精神異常を憂う板倉家臣の視点から描いた「忠義」を発表する。「忠義」で切腹するのはお殿様である板倉勝該であるけれども、そこには「今」にはない不可解な人物を描き出そうとする芥川の努力があったりなかったりするのじゃなかろうか。
切腹の論理を、現代人には不可触の強烈な何かとして保存していこうとする努力は芥川以降の世代にも継承されていく。
十蘭と切腹
明治生まれの小説家である久生十蘭が戦中(昭和十八年)に発表した『亜墨利加討』。
『亜墨利加討』の主人公は馬鹿囃子の太鼓の名人で、戊辰戦争末期の各地の戦場をのんべんだらりと旅をする。
旅を終えて大好きな伯父の待つ江戸の長屋まで戻ってくると、伯父の娘から伯父が切腹したと聞かされる。なんでも、伯父は湯屋の帰りに運悪くぶつかってしまったアメリカ人水兵からボコボコに殴られた。最初はなんでもないように済ませていたが、娘から「なぜそのような侮辱を受けたのに父上は死なないのですか」と難詰されて、「それもそうだな」と腹を切ったという。
主人公は娘を恨む。娘が強く当たらなければ伯父は無理に死なずに済んだはずだ。しかし、終わってしまったことはしょうがない。それより許せないのはアメリカ兵で、現地へ帰国した仇どもを討とうと決意した彼はなんと訪米する楽団の一行に紛れ込む。
最終的には、楽団に属する友人たちの支援を受けて、見事本懐をとげるわけだが、その後即座に自分も屠腹して後始末つけることにする。かくして彼は日本男子らしい見事な切腹を果たす。なんだか華々しい終盤のように思われるかもしれないが、肝心の仇討本番の場面も主人公切腹の場面もスッと飛び越えていきなり「行ってきます」→「やりました」の超高速展開で終わるので、見た目以上にかなりイレギュラーな構成である。
ともあれ、この伯父に切腹を強いる娘とやらが実に酷い。主人公としてはこの娘に恨みを向けてもいいはずなのに、娘はいつのまにか舞台から退場してしまい、物語は渡米仇討劇という時代小説に類をみない珍展開へと集約していく。切腹に足るだけの理由があるならば、それを実行するまでのプロセスはどうでもいいのだ。十蘭はそういう結果主義で切腹を理解していたのではないだろうか。一度武士が切腹すると口にしたら、論理や理由はどうあれ、誰もそれを止められないし、止めようとすらしない。
十蘭作品に出てくる切腹はどれも思い切りが良い。「ボニン島物語」では極貧の津軽侍が町人と喧嘩している最中、相手に差料を竹光と看破され、たまたま居合わせた武士の一行に爆笑される。それを恥じて当たり前のように切腹を決意するが、刀を買い戻す金もないので割った茶碗だかとっくりのかけらだかで腹を切ることに決める。さっそく腹を切るのかなあ、と思っていたら、見送りにきた朋輩と津軽藩の貧窮事情についてとくとくながながと嘆きあう。もしかしたら、こいつ死なないんじゃないかなと危ぶみかけたところでやはりあっさり死んでしまう。この緩急のつけかたが、モダンボーイ十蘭なりの「武士のロジック」との間合いの取り方なんだろう。
戦後の切腹
敗戦は理想化された日本という国もろとも、理想化された武士像まで地べたへひきずりおろした。
坂口安吾の「堕落論」に言う。
歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。
これが「五月の歌」という戦時中のエッセイで、機雷にふれて沈没した商船の責任の取って切腹した船長に対して、その妻が捧げた和歌を「美しい歌だと思つた。」と讃えたのと同じ人物の筆によるから戦争というのはわからない。
日本の敗北を武士道の敗亡と直列につなげた人間はなにも安吾だけではなかっただろう。鴎外以来、聖域に置かれてきた切腹という不可解な何かに対して、切腹の俗化、つまり理性や道理をもってアプローチしようという試みがはじまったのはこの頃からではないかと言いたいところではあるが、前述のとおり、昭和十三年には吉川英治がある一定のレベルで達成してる。
まあ、しかし、切腹のパラダイムシフトが起こったのはやはりこの頃からではなかったか。安吾は敗戦から二ヶ月後には早速、切腹の脱神話化に乗り出した。短篇「露の答」だ。
明治のころ、痴情のもつれで内縁の妻に追い掛け回されて逃げていた政治家が、宿屋で腹を切って死んでいるのが発見された。いったい特に死ぬ理由もないだろうに何故だろう、内縁の妻が怖くて死んだのだろうか、などと憶測を呼んだが、真相はなんということもない。
内縁の妻に居場所をつきとめられて、彼女ともみ合ってるうち、彼の所持していた脇差しが腹にささってしまったのだ。政治家は当初傷が浅いと思い込んで、気が大きくなり、逆ギレして内縁の妻を説経し、離縁を告げた。ようやく悪妻を追い出した政治家だったが、傷が悪化し、すぐに死んでしまったのだった。
なんとも情けない話だ。ここには「ギリシア悲劇的な運命の桎梏」や「その時代のものとして、人々の感情行動の必然のモメント」もない。いつでもどこでも見られそうな、下世話な痴話喧嘩があるだけだ。こういうふうにして安吾は、戦時中に崇拝されてきた武士道に後ろ足で砂をかけた。
サラリーマン化していく武士と切腹
武家社会というシステムにすり潰されて死ぬ男たちの不条理をあからさまに悲劇として捉える視点。そういう視点ができたのは、わずかここ五十年ばかりの間のことのように思える。
(浅野内匠頭の切腹などとは明らかに一線を画する)、下っ端武士の切腹がなぜ悲劇として受容されるようになったかといえば、戦後十数年のあいだにある回路が形作られたからだと思う。
すなわち、「武士」を「サラリーマン」と等号で結ぶ回路が。
そうした悲劇性をメインに据えるようになったのは、映画でいうと多分『切腹』(小林正樹監督、滝口康彦原作、62年)、『武士道残酷物語』(今井正監督、南條範夫原作、63年)あたりから。高度経済成長期の日本で会社に使い潰されるサラリーマンたちの悲哀をたくみにくみ取り、当時まだ軒昂だった左翼運動とも呼応したこれらの諸作は、切腹という現代人からかけ離れた行為に一定のリアリティを与えた。『武士道残酷物語』などは、江戸時代の切腹を、第二次大戦中の特攻隊員、さらには戦後のサラリーマンとエピソードをフラットに繋いでいくことで、勤め人としての武士を通じて、切腹を意図的にモダナイズしようと試みている。
そこでもやはり、切腹とは武士や武家社会というシステムの行きつく終着点なわけだ。なかば自動化されたシステムでもある。そこに目的を求めるのはむしろ不純ですらある。
たとえば、『切腹』(原作題は「異聞浪人記」でプロットはほぼ同じ)の食い詰め浪人・千々岩求女は井伊家の江戸屋敷の軒先で狂言切腹を演じて、井伊家から厄介払いの小遣い銭をせびろうと企むものの、彼の真意を見ぬいた井伊家家臣に狂言を逆手に取られ、切腹を強いられてしまう。
いわば千々岩求女は切腹という行為を合目的的に用いようとしたために、無残で無意味な死に追いやられてしまったと言える。そして、そもそも切腹とは無残で無意味な死にざまなのだ。
ところが『切腹』にはその先がある。
江戸時代の論理に照らして受け止めるならば、千々岩求女の死もそこで完結するものでなくてはならないはずだが、『切腹』では千々岩求女の仇を取ろうとする人間が出てくる。『武士道残酷物語』が切腹を特攻と重ねたのと同様に、そこには切腹に(この場合はネガティブな)意味を求める現代性が滲んでいる。
山田風太郎と切腹
学生運動を中心とした日本の左翼革命運動は七十年前後を境に求心力を失い、急速に衰亡していく。その断末魔ともいえる浅間山荘事件から半年後の七十二年七月に発表された山田風太郎の短篇「切腹禁止令」では、六十年代的なウェットで苛烈な切腹作劇から離れ、むしろ無意味で無様な前近代*7の象徴として、切腹がとことんコケにされていく。
主人公である小野清五郎*8は幕末の混乱期に、所属している香月藩で尊王の志を同じくする同僚、尊敬する勤王派の巨魁、佐幕派のトップの三人それぞれの切腹現場に居合わせる。その有様がいずれも武士の尊厳とはかけ離れた、あまりにどうしようもなく情けない死に様だったことに清五郎は愛想を尽かす。
時代が明治へ移り、議会の前身である公議所に公儀人(議員)として奉職するようになった清五郎は、昔垣間見た三者の凄惨な死に様を思い出し、「切腹禁止令」法案を公議所に提出する。それが守旧派の侍たちの反撥を呼び、よってたかって清五郎を切腹させようと工作しはじめる……という奇怪な筋。
「切腹禁止令」で清五郎が遭遇する三つの切腹シーンはいずれも長い。無駄に長い。そして、グロい。
たとえば、清五郎の尊敬する香月藩勤王派の領袖江崎帯刀の切腹シーンはこういう感じ。
「ククククク……チチチチチチチ……くわーっ」
そんな奇怪な声をあげながら、江崎帯刀は酔っぱらいみたいにそのあたりをよろめき歩いた。おしひらかれたその下腹部に、血まみれの皮下脂肪や腹筋や腹膜や大網などがむき出しになりーーいや、それより、そこからだらだらと灰色の大腸がたれ下がって畳にひきずられているのに、みな全視覚を奪われた。
あとで知ったところによると、帯刀は奥の書院の机に墨痕粛然たる遺書をしたため、ひとり従容として作法通りに切腹を図ったらしい。ーーところが、左腹部に刀を突き刺し右へひいてから、そのあまりな超痛苦に意識錯乱におちいって、そのまま跳ねでてきたらしい。
(中略)
「チチチチチ……イイイイイ……くわーっ」
彼はまったく狂乱状態でそんな苦鳴をしぼりだしつつ、凍りついたみなの視線の中で、そこの柱に抱きつき、裂けた腹をおしつけ、最期には交接運動みたいな腰つきを二、三度繰返したのち、柱の根もとに血だらけの蛙のようにへたばって、凄まじい痙攣とともに息絶えた。くいしばられた歯のあいだから、はみ出した舌が食いちぎられて垂れ下がっていた。
あまりにも明るい晩夏の残光の中でに、それは夢魔としか思われない光景であった。
なんだ「ククク」「チチチ」って。
ここで描かれている小林泰三じみた切腹描写は完全にスプラッタホラーの領域で、他の切腹フィクションにありがちな潔さやカッコよさなどは微塵もない。
現在でも時代小説を書く作家はだいたい侍だとか刀だとか切腹だとかが好きで書いている節があるので、意識的にか無意識的にか、麗々しく荘厳な切腹シーンを演出しがちだ。だが、山田風太郎作品にはそうした傾向に対する悪意しか嗅ぎ取れない。
作中、山風は福沢諭吉の口を借りてこんなアンチ切腹論をぶつ。
「腹なんぞ切っても人間なかなか死ねるものではなく、大苦しみは当たり前のことだが、いったいいつから日本にこんな理屈に合わない風習が生じたものか。おそらく魂はハラに宿っておるという医学に無知蒙昧な迷信から発したものでしょう。このごろ王政復古というが、しかし古えの王政のころーー奈良時代や平安時代、いわんや神武天皇さまのころにはそんな怪習俗はなかったようだ」
と、首をかしげてにがにがしげにいった。
「西洋人ーーいや、まともな頭を持つ文明人から見れば、土人の首狩りの儀式と同様でしょうな。人の首を切るのじゃなく、自分が痛いのだからいっそう馬鹿げておる。それは、是非、法律でやめさせなさい」
「切腹禁止令」は笑劇としての性格が色濃く、一時の悪乗りで書かれたのかとも思われそうだけれども、山風的には思うところあって執筆したものだったらしい。
「切腹禁止令」に先駆けて同年五月に発表したエッセイ「斬首復活論・切腹革命論」(『死言状』収録)でもこんなことを述べている。
もう一つ切腹刑を作ってもいいと思う。
ただし、名誉あるサムライの伝統として復活するのではない。逆に、その伝説をひっくりかえすために復活するのである。 こんな伝統は昭和二十年八月以来消滅したかと思っていたら、なかなかどうして存外しぶとく生きながらえていて、例の市ケ谷台上、一作家の壮絶な実演となった。この分ではまだなかなかこの風習は日本の地上から絶滅しないだろう。
これを壮絶と形容するのは、なお伝統にとらわれている観念からで、実際は、その苦痛たるや絞首刑斬首刑の比ではない。腹なんか切っても人間は容易に死ねるものではない。この伝統の淵源は、魂はハラにあると信じていた時代の医学的無知にある。こういう科学的誤解から発した酸鼻な死の儀式がいつまでも伝えられて、日本の男が名誉ある自決をとげなければならないときはハラキリをしなければ恰好がつかないということになっては、これまた量刑不当といわなければならない。不合理な伝統はなるべくその糸を絶った方がいい。
だから、私のいう切腹刑は極悪人の最重罪として行わせ、サムライのハラキリを永遠に払拭するためである。
ごらんのとおり、前述の福沢諭吉の切腹批判とかなり重複している。
山風のこうしたニヒリスティックな態度は七十年代以前の切腹描写へのアンチテーゼというよりは、青年期に敗戦を経験した戦中世代である彼の心性や個人的資質に帰すべきだろう。山風にとって武士の不条理とは戦時中の日本人の不合理さと地続きであり、切腹などは最も唾棄すべき、野蛮な情緒趣味でしかない。総合的なオブセッションでは明らかに山風のほうが勝っているだろうが、創作において切腹の神聖さを無効化しようと試みたという点では安吾の「露の答」と似ている。
(ここで四十年くらい一気にすっ飛ばす)
ちかごろの切腹
近年を代表する時代小説作家、葉室麟の直木賞受賞作『蜩ノ記』は切腹を主題に据えた切腹ミステリーだ。
幼なじみである同僚とのつまらないいさかいから職を解かれた若い武士、庄三郎は藩の家譜を編纂している戸田秋谷を監視する任につく。秋谷は七年前に前藩主の側室と密通し、それを見咎めた小姓を斬殺した罪で十年後(物語開始時では三年後)の切腹を言い渡されていた、という設定。
庄三郎でなくとも誰だって不審を抱く。殿様の側室を寝どった上に小姓を斬り殺した男がなぜ即刻切腹にもならず、家譜の編纂などに従事しているのか。切腹するにしても、なぜ十年という猶予が切られているのか。読者は、秋谷が巻き込まれた事件をまず額面通りには受け取らない。視点人物たる庄三郎もそうしない。もちろん、事件には裏があるのだけれど、ここではまあ詳しく触れないことにする。ひとつだけ言っておくならば、もちろん秋谷は無実だ。
『蜩ノ記』は切腹にミステリー要素をからませているという点では『人魚ノ肉』と似通っているかもしれない(どっちもカタカナのノがタイトルに混じってるし)。しかし『蜩ノ記』では実のところ切腹の原因、その真相は実のところ物語上あまり重要ではない。この真相は小説がだいたい三分の一程度進んだ段階で明かされ、それがわかったところで秋谷の切腹を差し止めるのは不可能だ。
ではなんのために腹を切るのかーーそれが作中起こるある事件をきっかけに変化していき、ラストへと至る。
『蜩ノ記』において秋谷は、上の都合で簡単に下を切り捨てる武家社会の力学を批判しつつも、最終的に従容として切腹の座につく。その死に様を、美しいものとして描く。それは六十年代のように戦闘的な社会批判にも、江戸時代のリアリズムを突き詰める方面にも振れない、ある種今世紀的な玉虫色の結論であるように思われる。身勝手な上司の理不尽には啖呵を切りつつも、構造的な理不尽には逆らいきれない。そうした中途半端なリアリズム、中途半端なファンタジーの折衷をもってオトナの小説と呼ぶんだとしたら、こんなに悲しいことはないよね、と思わないでもないけれど、まあ今はどうでもいいです。
やはりこの作品でも切腹についての意味付けがなされてる。切腹が主題なんだから切腹に意味があるのは当たり前なのだけれど、『蜩ノ記』では一旦目的性を失った切腹に再度ポジティブな意味付けがされているのであって、そこには「意味や目的のない切腹などあってはならない」という強いヒューマニズムがうかがえる。
山田風太郎のところでも述べたように、だいたい時代小説とか切腹とか書く人は悲劇として書くにしろなんにしろ、それを美しく書きたがるものなので、これからもまあそうなんでしょう。『無限の住人』のウルトラマンもなんかそういう清々しさを拭えなかったし。あ、そうだ。漫画も混ざるとさらにややこしいことになってくるなあ……。
そろそろ眠くなってきたのでやめます。
何の話しようとしてたんだったかな……。
まあ、切腹の描き方にも色々あるけれども、個人的には無理やり目的性をもたせた切腹よりは、久生十蘭みたいな切腹のやりかたが好きです。
切腹が象徴するもの、切腹に託されるものは時代によって変化していく。そういうフィクションにおける切腹の精神史みたいなものを詳細にたどっていけばそれなりに興味深い仕事になるんだろうけれど、私はめんどうくさいのでやりません。
付録:切腹パターン集
要素:理由(切腹の罪状や理由が周知されているかどうか。物語の進行具合によって状態変化しやすい)、罪(その罪状や理由が事実と一致しているか)、実行(切腹が最終的に完遂されるかどうか)+自主性(みずから切腹を望んで、あるいはすすんで受けれて刑にふくしたかどうか)
1.理由(明白)、罪(有罪)、実行(完遂)
→有罪の人間が普通に切腹した。物語内の通過点 or 一要素。(e.g. 五味康祐「勘左衛門の切腹」等多数)
2.理由(明白)、罪(有罪)、実行(未遂)
→有罪の人間がなんらかの理由で切腹を遂げられなかった。(e.g. 杉浦日向子の(多分)『東のエデン』に収録されていたタイトル思い出せない短篇)
3.理由(明白)、罪(無罪)、実行(完遂)+自主性(ナシ)
→濡れ衣を着せられて死亡。ミステリ的には「真犯人は誰か?」「彼を陥れたのは誰か/なぜか?」ということが焦点に。ドラマ的にはここから彼の無念を晴らす存在が出てこなきゃいけない。『必殺仕事人』なんかで多そう。
4.理由(明白)、罪(無罪)、実行(完遂)+自主性(アリ)
→濡れ衣を着せられていることを了解しつつ切腹。真相が提示されてない場合は真相を探るミステリに(e.g. 「肉ノ人』)、真相が提示されてもなお死を切腹した場合は「なぜあえてすべてを呑み込んで従容と切腹を選ぶのか?」が焦点になる(e.g. 『蜩ノ記』)
5.理由(明白)、罪(無罪)、実行(未遂)
→濡れ衣の罪が晴れてよかったね、というパターンというか一場面というか。(e.g. 「夏虫行燈」)
途中まで「有罪」だったのがある要因で「無罪」に変化するパターンもここか。(e.g. 冲方丁『天地明察』)
6.理由(不明)、罪(有罪)、実行(完遂)
→何かの刑罰でなくて、自主的に切腹を選んだパターン。理由を知りたい人間は事後に捜査しなければならない(e.g. ある時点までの「亜墨利加討」)。理由があきらかになれば1へ転化。
7.理由(不明)、罪(有罪)、実行(未遂)
→自主的に切腹しようとして実際いいとこまでいったんだけど、なんらかの理由で死ねなかったパターン。当事者の口から理由が語られる。語られたあとは2へ転化。
8.理由(不明)、罪(無罪)、実行(完遂)
→無実の罪やある勘違いの理由をひっかぶって勝手に死んだ。あるいは、上からの圧力で殺されたが、そもそもの罪状すら明らかにされないケース。
9.理由(不明)、罪(無罪)、実行(未遂)
→勝手に切腹しようとしたがなんらかの理由で死ねなかった。理由が明らかになれば5へ転化。
思いつきで指標を作ってみたけれど、うまく運用できない。
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*1:なぜ自殺するのに喉や胸でなく腹を突くのか、については、「お腹の中に魂が宿っている」と考えたから、ということらしい
*2:籠城戦で追い詰められた城主が部下の助命と引き換えに自分だけ切腹するのもこのパターン
*3:といっても書き出しでは「妙解院殿(松向寺殿)」としか書かれていないので、よほどの歴史マニアでないかぎり誰のことだかわからない
*4:といっても、これ自体かなり短めの短篇なのだが
*5:あらすじ:番衆を務める平四郎。ある日、彼は同僚から恋敵である図書係の甚三郎が役目で不祥事を起こし、四日後に切腹すると聞かされた。なんでも、甚三郎は管理を担当していた殿様大事の歌仙本を紛失してしまったらしい。城中では甚三郎が金に眼がくらんで盗みだしたのではないかと噂がたつ。身の潔白を主張する甚三郎だったが、家老たちは四日後までに歌仙本が出てこないかぎりは彼に詰め腹を切らせる処置を下した。結局、四日たっても紛失した本は見つからず、甚三郎は白洲へひったられる。にっくき恋敵の死を見物するつもりで城へ上がった平四郎は、折悪しく家老と遭遇し、剣の腕を見こまれて介錯役を命じられる。一介の侍である平四郎に否も応もない。介錯役の準備を進めていると、突然、甚三郎の許嫁であった娘に押しかけられる。彼女こそ、平四郎が恋い焦がれたものの、最終的に甚三郎にかっさらわれてしまった女性であった。甚三郎の潔白を信じる彼女は、平四郎が個人的な恨みから彼をハメたのではないかと糾弾。愛しさ余ってにくさ百倍、売り言葉に買い言葉で平四郎はつい彼女の疑いを認めてしまう。それを真に受けて彼女がお城へ訴え出てしまったからさあ大変、一転平四郎は「歌仙本盗難の真犯人」として総出で追われることに……