クエンティン・タランティーノ監督『ヘイトフル・エイト』
南北戦争の傷もまだ癒えきらない時代のワイオミングで、
雪中の小屋に閉じこめられた個性豊かな八人の面々が織りなす丁々発止の会話劇。
タランティーノということで色々言われたりもするんだろうし、それでこそのタランティーノ映画なのだと思うけれど、見ててフツーに面白かった。
三時間近い長尺で、しかも舞台が狭い小屋の中にほぼ固定されているにもかかわらず、終始、観客を飽きさせない。この一点だけでも物凄い。
特に中盤から終盤にかけては「いつ発砲する/されるのかわからない」というサスペンスの緊張感がほどよく使用されていて、ミステリというよりは端正なホラーのよう。
キャストもそれぞれにいい味を出していて、特にウォルトン・ゴギンズ演じる南部軍の愚連隊の生き残りがおいしい。
最初はタフでバリバリレイシストな南部ガイを演じてたのに、段々とヘタレで日和り見的な本性が露見し、「その場面における強者」に付和雷同するようになっちゃう。はては犬猿の仲だったはずの黒人北軍兵(サミュエル・L・ジャクソン)にまで尻尾をふって、最初に言ってた南部連合の誇りはどこへいったのか(しかもこの時点のジャクソンは南部軍人に対して割と最悪な行為をしていたと明らかになっているのに、ゴギンズはまるでどこ吹く風)。
そんな彼が一箇所だけ、意地というか媚びない態度を見せるシーンがある。なぜそういう選択をしたのか、その理由がいい。合理性でも情でも愛でもなく、「おまえは俺を殺そうとした」という憎しみから。
前二作の『ジャンゴ』と『イングロリアス・バスターズ』にあったわかりやすいテーマや正義はここにはない。個人の欲望と嘘と憎しみと疑念と相互不信と不可解な信念と関係性だけで時間が駆動している。日本だとそのまま百年は続きそうな桎梏だけれど、さいわいそこは十九世紀のアメリカなので、銃弾がめんどくさい何もかもを爽快にぶち壊してくれる。それがいいことかわるいことは知らないけれど、とりあえず観ているぶんには面白い。
トッド・ヘインズ監督『キャロル』
二回目。一回目は寝ていた部分も今回はチェックできた。
劇中で「観ること」「視線」「目」がやたらにフィーチャーされているのはよく言われているところではあるけれど、それ以外の要素として「目覚め」も挙げておきたい。
テレーズはよく寝る。寝て、起きる描写がやたら入る。冒頭のキャロルとの別れから、ストーリーの起点部分(キャロルとテレーズの出会い)へと戻っていくところでも、テレーズの起床シーンから語りが再開される。つまり、映画のストーリーを時系列順に並べると一番最初に来るのはテレーズの目覚めの場面ということになる。
そうしてテレーズが目覚める度に何事かが展開していく。
キャロルとの愉しい旅行でも、ある日目覚めると同じベッドにいたはずのキャロルがいなくなって、代わりにキャロルの古馴染みがソファに座っている。
その古馴染みにNYへ送り戻してもらう車中でも、テレーズは不意に寝て、また起き、そして吐く。
NYに帰ると、彼女は以前の迷える乙女ではなくなっている。
森脇真琴総監督『劇場版 探偵オペラミルキィホームズ〜逆襲のミルキィホームズ〜』
劇場版探偵オペラ ミルキィホームズ〜逆襲のミルキィホームズ〜
ミルキィホームズはそもそもミステリファンなど眼中になかった。どこかのインタビューで制作陣が「ミステリファンではなかった」と答えていたように憶えているけれど、なるほど、一部取り入れられていたミステリパロディもどこかカタかった。ミルキィホームズの四人の名前はそれぞれ古今の名探偵から採られているのだけれど、そのチョイスが: シャーロック・ホームズ、ポアロ、ネロ・ウルフ、コーデリア・グレイ。ネロ・ウルフまでならまだしも、コーデリアは明らかに時代的にも格的にも浮いている。ミルキィホームズの一期はスラップスティックなパロディに満ちていたけれど、そこで真剣に「ミステリ」をやるつもりはあまりなかったはずだった。
ところがなぜかミステリファンにウケた。深夜の萌えキャラアニメで「探偵」をフューチャーした作品がよほど珍しかったのだろうか。とにかく、ミステリファンにとってとっつきやすかったのは確かだ。翌年にはハヤカワの『ミステリマガジン』で特集が組まれ、芦辺拓の短篇にもミルホが「出演」したのだった。
それに伴ってかは知らないが、二期以降、制作陣のミステリ意識は向上していく。その傾向がよく現れているのが各話タイトルの変遷だ。ミルホでは各話タイトルが有名ミステリ作のパロになっていて、第一期ではルパンやホームズや乱歩といった古典中の古典しかピックアップされていなかったものの、二期からはエルロイやキャロル・オコンネルといった時代やジャンルに幅が出てきて*1、四期では『インシテミル』と言った最近の国内の話題作から『九マイルは遠すぎる』や『深夜プラス1』といった国外のオールタイム・ベスト、はては都筑道夫の『黄色い部屋はいかに改装されたか?』といった評論本まで組み込む域にまで到達した。
本編でも「探偵」と「怪盗」という予め用意された設定(偵都ヨコハマで争い合う二つの陣営的なナニ)を意識的に自問するようになり、二期では「探偵」と「怪盗」の関係性についてよりシリアスに深く意識されたストーリーが語られるようになった。
ところがでこれでファンが喜んだかといえば、むしろどんどん盛り下がっていったように思う。
交代した監督の資質とかまあ一概に理由を特定できはしないんだけれど、とにかく、制作陣のミステリ理解がレベルアップしていくのに反比例して、観測範囲内でミルホについて語るミステリファンは減少していった。まああくまで観測範囲内での話なので、あるいはどこでは大盛り上がりだったのかもしれないが、そういうふうに見えた。
しかも真剣に「探偵」や「怪盗」について語るようになったからといって、それが傾聴に値するほど新規性や迫力に富んだものだったかどうか。探偵がいるから怪盗がいて、怪盗がいるから探偵がいるんだよね、というだけはよくある俗流陰陽理論みたいでテンションさがるのもむべなるかな。
結局ミルキィホームズとはなんだったのか。
一期は面白かった。それは間違いなく感触として残っている。視神経がそう記憶している。夏休みスペシャルには未来のにおいがあって、それでミルホは「何か」なのだと確信した。新しい何かであるはずだった。二期ははじめの方は良かったんだけど、スラップスティックコメディをとりがえる様子が見えてきてラストはよくついていけなかった。主人公が交代した三期は二三話観ただけで視聴を取りやめた。ふたたびミルキィホームズがカムバックした四期はそれなりに楽しく観たおぼえがあるけれど、内容はほとんど覚えていない。
気が付くと第一期から五年が経っていた。
未来だったはずのミルキィホームズは十二話で一枠一クールを大過なく埋めるだけの平凡な深夜アニメに成り果てていた。一話ごとにそこそこ視聴者を楽しませ、二十数分後には一切の記憶から消え去る。そのサイクルを十二回繰り返すだけの作品。初期のころの狂躁めいた情熱はすっかりと冷えきり、なかば義務感で定時にチャンネルを合わせる。動画を眺める。ストーリーも何も頭に入ってこない。それはアニメなのかもしれない。しかし未来ではない。何かではない。
あるいはミステリとおなじなのかもしれない。消費のプロセスが。初撃に未知の驚きがあり、魅了され、継続的に摂取していくうち刺激が失われて、それでも初恋の味が忘れられず惰性で読みつづける。自己を鍛錬し、レベルアップできるタイプの読者はそれでも自分なりに未知の驚きを発見ないし発明しつづけていけるのかもしれないが、不幸なことに、自分はそのタイプではない。
そうして、やがて悟る。もうミルキィホームズという土壌には何も残されてはいないのだと。
だから今回の劇場版がアナウンスされたときも何も期待しないことにした。
公開されれば喜ばしいし、観に行く。しかし期待はしない。今までの五年間でミルホに「その先」などないと知っていた。
森脇監督が総監督して戻ってくるということで、せめて一期の破天荒なギャグが多少なりでも戻ってくればよいと思っていた。
劇場版ミルホは二月二十七日に公開された。
もぎりの兄ちゃんに導かれるがままに三番スクリーンに入ると、絶望的に少ないというほどではないが、同じ劇場で上映中のガルパンやキンプリや『同級生』なんかに比べると客の入りも熱量もなんだかそこそこといった感じ。
本編がはじまると、どことなくぎこちなかった場内の雰囲気がすぐに和らいだ。序盤から矢継ぎ早に繰り出されるギャグに場内から絶え間ない笑いが巻き起こる。この時点でおおかたの期待はクリアしていたかもしれない。第一期みたいな放送禁止ギリギリのパロディネタはさすがに避けられていたが、それでも映画館で可能な範囲内で最大限笑いを獲りに行っていた。四期に出てきた変な妖精キャラも、三期の主役だったよくわからない二人組もオミットされていて、「私たちの観たいミルキィホームズ」が帰ってきた印象だった。
もっとも、ストーリーのほうは酒のつまみ程度にしか見なしていなかった。三度目か四度目となるトイズの喪失。映画限定であろう新たなる敵ボス。ライバルである怪盗帝国とのからみ。筋から道具立てまでこれまで何度も見てきたようなものばかりで、そういうところから察するに、まあ最後にはそこそこのところに落ち着くんだろう。敵ボスをやっつけ、トイズを取り戻し、怪盗帝国とはこれからもルパン三世と銭形のとっつぁんみたいなゆるいライバル関係を継続していく。そういうオチ以外には考えられないし、事実そのように展開も収斂していく。ツイストもなにもない、平和な深夜アニメのロジック。
そうして、佳境にさしかかる。ミルキィホームズのリーダー、シャーロックはライバル怪盗帝国のリーダーであるアンリエットからこう問われる。今回の相手は時間を巻き戻すという強大な力を持っている。かたやミルキィホームズは超能力であるトイズも失って、勝てる見込みがまったくない。どうするのか。
シャロの答えは単純だ。「何度負けても立ち上がればいいんです」。
これまでも、何度もそう主張してきた。倒されてもそのたびに立ち上がり、前に進めばいい。しかし、今回の敵は根性だけで勝つにはあまりに至難の相手だ。世の中には精神論だけではどうにもならないことはある。アンリエットは無言で立ち去りかける。
その背中に、シャロはこんな言葉をぶつける。「七転八倒の精神ですよ」。祖父であるシャーロック・ホームズから習ったということわざだ。
アンリエットは呆れたように訂正する。「それをいうなら、七転び八起き、でしょう」
「いいえ、七転八倒でいいんです」
シャロは、にこやかにそう断言する。
そのときに観客は悟る。
七転八倒、それこそがミルキィホームズというシリーズ探偵のオリジナルさであり、また、ミルキィホームズというアニメそのものだったのではないのかと。
ミルキィホームズはシリーズ探偵だ。コナンやホームズや金田一耕助といった面々とおなじく、小出しに出来される事件を対症的に解決していく。シリーズ探偵がなぜシリーズ化していくかといえば、それは人気があるからで、商業的な要請としてシリーズ探偵は探偵でいることをやめられず、作品世界はその探偵に活躍の場を供給するために事件を無限に発生させる。よくネタにされる名探偵コナン世界のいびつさに象徴されるように、それは終わりのない地獄めいたゲームだ。事件を何度解決してもすぐに次の事件が起こる。シリーズ探偵とは七回転んだ時点で八回目も転ぶことが予定されている悲惨な存在なのだ。
その悲惨さに、これまでどれだけの探偵が真摯に向き合ってこれただろう。彼らに許されるのはせいぜい「行く先々で事件が起こるもんだから、他人から死神あつかいされるてるよ」といったメタ的な自嘲くらいだ。探偵個人の成長や変化ならいくらでもあるだろうけれど、自らがシリーズ探偵であることについての呪いについては揃って顔をそむけている。
その呪いをミルキィホームズは朗らかに肯定してみせた。
八回目の転倒があらかじめ組みこまれている世界でも、前に進んでみせると言ってのけた。だから、過去に戻って歴史を改竄しようとしている後ろ向きな敵ボスになど負けないのだと。
ミルキイホームズはそもそもが探偵にとって大事な超能力であるトイズを失うところから始まったアニメだった。一期の終わりで彼女らはトイズを取り戻し、そしてまた失う。そして、二期はまたトイズを失った地点から再出発する。ミルキイホームズの面々は基本的にあまり成長をみせない。それは、彼女らの努力が報われない世界設計に対する韜晦でもあるのだろう。
そのせいかしらないが、ミルキイホームズはトイズを失ったことを嘆いても、それを取り返す実質的な努力をあまり行わない。ただ刹那的に日々を生き、事件を場当たり的に解決したりしなかったりする。彼女たちは気づいていなかったかもしれないが、それはおそらくトイズを取り戻すのに一番正しいありかたなのだとおもう。探偵たちに対してサディスティックなその世界にあっては、一日一日を生き抜き前進することが何より探偵的な営為なのだ。だからシャロは転ぶことを恐れない。
そういうことを理解したときに、はじめてミルキイホームズが「名探偵」に映った。名探偵とはなんだろう。難事件を解決すれば、名探偵なのか。名推理を披露すれば名探偵なのか。違う。名探偵とは探偵として固有のアティテュードを有したもののことだ。
それまではミルキイホームズにアティテュードなどないと思っていた。いくら自分らで「私たちは探偵です!」と自己規定を繰返したところで、実質の伴わないむなしい叫びにしか聞こえなかった。事件を放置し、推理を放棄し、探偵であることを放擲した動物たちにしか見えなかった。その見方はある意味で正しく、ある意味で間違っていたのだろう。ミルキイホームズとは、「名探偵になる」物語だったのだ。
おそらく最初からそうやろうとして作られた話ではない。パンフのインタビューを読む限り、現在ですら意識されていない。
ところが、ミルキイホームズは五年四シーズンかけて、名探偵にふさわしいだけのオリジナルなアティテュードを独力でさぐりだした。テレビシリーズ数十話とTVスペシャルは、劇場版でシャロが「七転八倒」の世界を肯定するあの瞬間のためにあった。
ミルキィホームズはたしかに観るに値したアニメだった、と今なら疑わない。
『サタデー・ナイト・ライブ/アダム・ドライバー回』
ドライバーがカイロ・レンを演じた『スター・ウォーズ フォースの覚醒』のパロディスケッチがいっとう面白い。
アメリカに『Undercover Boss』というリアリティ番組があって、普段偉そうにして社員をこき使ってる大企業のCEOとかそのへんの重役たちを下っ端新入社員として身分を詐称させて現場へもぐりこませ、最底辺の社員やバイトたちと交流をさせるといった内容なのだけれど、それをSNLでは『スターウォーズ』のカイロ・レンにやらせている。
そこで描かれてる彼がネットで「中二病」だとか「エモ」だとか小バカにされているカイロ・レン像まんま(社員食堂で飯食ってる最中に「同僚」たちに「カイロ・レンさんって脱いだらムキムキマッチョで腹筋が6つに割れてるらしいよ!」と無駄にアピールしたがったり)で、作ったスタッフは心得ているなあ、と思います。
そういえば、マーティン・フリーマンがホストを務めたときの『The Office』×『ロード・オブ・ザ・リング』のマッシュアップもふるっていた。こういうネタはハズレないのかも。
『第66回ベルリン国際映画祭』
受賞作はジャンフランコ・ロッシ(ロージとも)監督の『Fire at Sea』。
ロッシは2013年のベネチアでも『ローマ環状線』で金獅子賞を獲っているから、これで二冠を掌中に。ベネチアとベルリンで二冠といえば、チャン・イーモウ、アントニオーニ、ジョン・カサヴェテス、ゴダール、ロバート・アルトマン、アン・リー、ジャハル・パナヒ(昨年の受賞者)、といった錚々たる面子が並んでいるわけで、ここにドキュメンタリー監督であるロッシが加わることになる。
filmneweurope.comが映画祭ごとに毎回出している採点まとめ表を見ると『Fire at Sea』は唯一の平均四点代(五点満点)を叩き出していて、前評判通りの受賞ということになる。2014年には四点台を叩きだした二作品(『六歳の僕がオトナになるまで』と『グランド・ブダペスト・ホテル』)をさしおいて三点ジャストの低評価だったディアオ・イーナンの『薄氷の殺人』が金熊賞というフロックはあったものの、2015年はコンペ作中平均最高点(3.6)だった『Taxi』が順当に獲っているので、基本的には評論家の評価と受賞作が一致する傾向にあるのかもしれない。
ちなみに今年のコンペ全十八作品の平均点は約三点(2.9967)。それで基準にするなら、個人的に楽しみにしているトマス・ヴィンターベアの新作(3.33)やミア・ハンセン=ラブの新作(3.60/最優秀監督賞)はまずまずに収まった印象か。逆に『Mud』のジェフ・ニコルズの『ミッドナイト・スペシャルは2.47、題材で興味をひかれる『ジーニアス』は2.60と北米・英国勢は総じてやや辛め。唯一、A・ギブニーのドキュメンタリーが安定の風格。
ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズ』
- 作者:ウォルター・アイザクソン,井口耕二
- 出版社/メーカー:講談社
- 発売日: 2011/11/05
- メディア:単行本
- 購入: 3人 クリック: 14回
- この商品を含むブログ (9件) を見る
町山智浩がラジオで「ジョブズという人は若いころは反権力の革命家だったのに、アップルでビッグになると自分が独裁者になった」と言っていたけれど、ある意味でジョブズという人は一環していて、そもそも Apple I を作っていたころから「ユーザーはなにもわかっていない! だからあいつらには何もいじらせない! おれがデザインしたものだけを使わせる!」と主張するコントロール欲求の強い人で、それが無名だったころには単に狂人の戯れ言だったってだけのこと。姿勢としてはずっと「独裁者」だった。
いまのところ得られた知見は「人類は、役に立つキチガイと役に立たないキチガイを見分ける技術を一刻もはやく手に入れなければならない」と「周囲が上手に扱うとよく働くキチガイもいる」というところか。
*1:特にオコンネルは前年度のミステリランキングで上位になった新刊『愛おしい骨』を使用