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誰が歴史と物語を描くのかーー『スターリンの葬送狂騒曲』

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(The Death of Stalin、英・仏、ベルギー、アルマンド・イアヌッチ監督)



ロシアで上映禁止のブラックコメディー『スターリンの葬送狂騒曲』予告編公開 - シネマトゥデイ



 北野武の『アウトレイジ』シリーズにおける独特の緊張感、たとえばヤクザたちがあまりにもくだらない理屈であっけなく殺されていくさまを強調することで、一見穏やかな日常的な場面(ラーメンを食べている、歯医者で治療を受けている、自営の修理屋で車をメンテナンスしている)がおぞましいまでの死や暴力とシームレスに地続きであるのだと観客に意識させて常時集中を強いる、あの空気。
 何かのタイミングを間違えたら死ぬ。だがその「何か」がなんなのか、「タイミング」がいつなのかがわからない。気づいたら撃たれて死んでいる。ところが自分殺した理不尽にも腑に落ちるところを感じる。今までその理不尽に順応して、肌感覚でわかっているような気もあったから。


 独裁者スターリン死後の後継争いを描いた『スターリンの葬送狂騒曲』の基調は明確にコメディです。ときに戸惑いすら押しつけてくるある種のブラック・コメディなどとは違い、笑いどころを作って観客をわかりやすく笑わせてくれます。たとえそれが(おそらくロクでもない場所に行くのであろう)トラックの荷台にスターリンの別荘で働いていた使用人たちを強権的に乗せて送り出した兵士が、直後に横からNKVD*1の職員に頭を撃ち抜かれる、といった残酷なジョークであったとしてもです。
 さらにいえば、劇中で処刑されるような人物のほとんどは名もなき兵士や市民だけで、終盤のある場面を除き、メインキャラクターたる委員会の面々が直接的な暴力にさらされることはありません。彼らは一貫して、スターリンの死に右往左往するコメディアンとしてふるまいます。
 ところが弛緩した喜劇の裏には冒頭で述べたような”暴”のにおいが潜んでいる。委員会メンバーたちの吐く言葉、取る行動ひとつひとつが最終的に政敵を葬り、自らが権力の座を奪取するためのものであると私たちは知っています。
 ただキャラクターたちは自分たちの目的は知っているかもしれないけれど、自分たちの言動の効果までは把握しきれない。独裁者の死によって生じた一時的な権力的真空が、どの人物に権力を与えているのか不明瞭にしているのです。たとえばスターリンの遺児であるスヴェトラーナ。ライバル同士であるフルシチョフとベリヤはそれぞれの手管で彼女を味方につけ、後継者争いを優位に進めようとしますが、彼女にも思惑があってなかなかうまくいかない。ソ連北朝鮮のような王朝でないのですから、レーニンのこどもたちがそうであったように、スターリンの娘だからといって後継争いを左右する力を持つとはかぎりません。しかし、まったく影響しないともかぎらない。
 あるいはちょっとしたジョークで相手の機嫌を損ねたりするだけで、委員会内でのパワーバランスが傾くかもしれない。なにが自らの墓穴を掘ることにつながるかもわからない。油断のならない混沌とした曖昧さが、喜劇性とやがて爆発するであろう暴力の予感を高めてくれます。


 では、その混沌の正体とは何か。
 終盤、あるキャラクターが政敵を蹴落とし処刑した直後、スヴェトラーナにこのような「勝利宣言」を吐きます。


「これが"物語"を間違えた人間の末路です(This is how people get killed, when their stories don't fit.)」


 人にはそれぞれ描こうとしている物語があります。
 その Story 同士が闘争し、fit できなかった物語から滅ぼされていき、残ったものだけが公式な historyとなるーー人間同士の争いに関するシニカルで普遍的なテーマが本作には能く描かれています。


スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

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*1:旧ソの秘密警察機構。KGBの前進


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