もしだれかに、なぜ彼が好きだったのかと、しつこく聞かれても、「それは彼だったからだし、わたしだったから」と答える以外に、表現のしようがない気がしている。わたしの思惟を越えて、わたしが個別にいえることを越えて、そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれたのだ。
(『エセー』、モンテーニュ、宮下志朗・訳、白水社)
北イタリアの夏のやさしい夕暮れ*1がつくり出す影は、恋するふたりの距離を喪失させ、ほとんど一体化させる。ベッドまで連れ立つ影、夜の樹上での逢引、旅先でのホテルのバルコニー。
融合のたくらみは映画の最初から仕掛けられていた。
アメリカからやってきた大学院生オリヴァーは、主人公の少年エリオにとってまず侵入者として現れる。エリオの部屋の半分がホームステイするオリヴァーのためにあてがわれ、オリヴァーも部屋につくなりまだエリオの私物の残るベッドに倒れ込んですやりと眠る。
その後も事あるごとにオリヴァーはエリオの領域を侵す。
オリヴァーの自転車が倒れそうになって、エリオの身体に触れる。友人たちとバレーボールに興じる場で、エリオに渡されかけた水のボトルをオリヴァーが横取りしてがぶ飲みする。そのままエリオの肩をぶしつけに揉む。
エリオの家族も友人も見知らぬ地元民でさえも、あっというまにオリヴァーに魅了される。
しかし、もちろん誰よりもオリヴァーに惹かれているのはエリオだ。そのことを口に出せないあいだ、彼は一途にオリヴァーを窃視しつづける。視るだけだ。彼は自分の部屋の半分であったはずのオリヴァーの領域に踏みこめない。
『君の名前で僕を呼んで』というタイトルのとおり、エリオの欲望は同化願望になって顕れる。彼が最初に目をつけたのは、オリヴァーのネックレスだ。
金のネックレスと、金色のメズーザー(ユダヤ教で用いる、聖句を記した小片をおさめたケース)にダビデの星がついたペンダントだった。これが僕たちを結びつけていた。それ以外のすべてが僕たちを分け隔てるとしても、これだけはあらゆる違いを超越していた。僕がダビデの星を目にしたのは、彼が来てすぐだった。その瞬間、僕は悟った――僕を惑わせたもの、彼を嫌いになるどころか親しくなりたいと思わせたのは、お互いが相手に求めるどんなものよりも大きく、したがって彼の魂より、僕の体より、大地そのものより素晴らしいもの、つまり同じユダヤ人同士という同胞意識なんだと。
(『君の名前で僕を呼んで』、アンドレ・アシマン、高岡香・訳、マグノリアブックス)
映画でもエリオはオリヴァーのペンダントを見て、「ぼくもそういうのを昔持っていた」と言い、どこからか見つけ出して身につけだす。オリヴァーとエリオ一家の他にユダヤ人のいない町において、同じ由来を持つこと示す民族的アイデンティティはふたりをつなぐ特別な共通点だ。
そして、同化願望といえば、もちろん衣服。同性愛と衣服による同化といえば、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』でのアラン・ドロンを思い出すけれど、もちろんエリオはもっと平和的な方法をとる。
初めて肉体的に結ばれ(エリオが最も望んだ「同化」の形だ)「君の名前で僕を呼ん」だ直後、エリオはオリヴァーにこんなことを言う。
「その(青い)シャツ、最初うちに来た日にも着ていたね。お別れするときが来たら、ぼくに呉れない?」
もちろん、その前にエリオがオリヴァーの下着を頭からかぶってオナニーにふけっていたことを観客は忘れてはいない。
エリオの父親の友人である老ゲイカップル(片方を原作者のアンドレ・アシマンが演じている)を別荘に迎えたとき、父親から「彼らがプレゼントしてくれたシャツを着ろ」と強要されてもエリオが強く拒絶したことも忘れてはいない。
かくして、エリオはオリヴァーのシャツの手に入れ、そのシャツに身を包むことで画的にも同化を完了する。
では、なぜそこまで本作は「一体化」を強調するのだろうか。
モンテーニュとエチエンヌ・ド・ラ・ボエシー
重要なヒントは最終盤に提示される。エリオが父親と対話するシーンで、父親はエリオとオリヴァーの関係を「それは彼だったからだし、わたしだったから」というモンテーニュのことばを引用して評する。
これはモンテーニュが親友エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーとの間の結びつきについて語ったことばだ。なんとなれば、引用元である『エセー(随想録)』の「友情について」という章はまるまる『君の名前で僕を呼んで』についての注釈であるとも言ってもいい。*2「友情について」は亡友ラ・ボエシーとの思い出を介して男同士の友情や友愛について思弁する、とみせかけて、実際にはラ・ボエシーへの強烈な想いが綴られた章だ。
白水社版の『エセー』訳者である宮下志朗はモンテーニュとラ・ボエシーの関係について、白水社ウェブサイトでの連載の一回を割いてよくまとめている。25歳のモンテーニュが共にボルドーの高等法院で同僚として働くことになる28歳のラ・ボエシーと出会うシーンをひこう。
モンテーニュは3歳年長のラ・ボエシーという存在を知っていた。ラ・ボエシーもまた、モンテーニュの噂を聞いていたらしい。なにせラテン語を母語として育って、6歳だかで、地元の名門コレージュ・ド・ギュイエンヌに入学し、ずっと年上の連中と張り合った神童なのだから。そして二人は、「人出でにぎわう、町の大きな祭りのときに、初めて偶然に出会ったのだが、たがいにとりことなり、すっかり意気投合して、結びついた」(1・27「友情について」)。モンテーニュによれば、「そこには、なにかしら説明しがたい、運命的な力が働いており、この結びつきのなかだちをしてくれた」のだった。それは、そんじょそこらの友情ではなかった。「世間のありふれた友情を、われわれの友情と同列になど置かないでほしい。わたしだって、そうした友情のことは、人並みに知っているし、そのなかでもっとも完全なものだって知らなくはない。でも[…]、通常の友情の場合は、手綱をしっかり持って、慎重に、注意深く進んでいく必要がある。それは、うっかりしているとほどけてしまうほどの結びつきなのだから」(1・27)。
第8回 友情について - 白水社
まるで映画のようにドラマチックな出会いと情熱的な友情。
ラ・ボエシーは十代にして『自発的隷従論』という現代にも参照される名著を書き上げた早熟の天才だったことも、音楽に文学に多彩な才能を見せるエリオに通じる。また早逝したラ・ボエシーをひたすら惜しんで嘆くモンテーニュの筆は、オリヴァーが去ったあとのエリオの愁嘆を想起させる。ラ・ボエシーが亡くなったのも、モンテーニュとの出会いからわすが四年後のことだった。「あの人との甘美なる交わりや付き合いを享受すべく与えられた、あの四年間と比較するならば、それはもう、はかない煙にすぎず、暗くて、やりきれない夜でしかないのだ。」というモンテーニュの詩的な悲嘆はそのまま小説版『君の名前で僕を呼んで』に書かれていてもおかしくない。
しかし、なにより『君の名前で僕を呼んで』を思わせるのは次の一節、いや二節だ。
われわれがふつう友人とか、友情とか呼んでいるのは、つまるところ、それによっておたがいの魂が支え合うような、なにか偶然ないし便宜によって取り結ばれた親密さや交際にほかならない。そして、わたしがお話ししている友情の場合、ふたつの魂は混じり合い、完全に渾然一体となって、もはや両者の縫い目がわからないほどなのである。
この高貴な交わりにおいては、ほかの友情をはぐくむような、奉仕だとか、恩恵は考慮にもあたいしない。なにしろ、われわれの意志は、完全に融合しているのである。……(中略)……事実、両者のあいだでは、意志、思考法、判断、財産、妻子、名誉、生命など、すべてが共通であって、その和合は、アリストテレスの実に的確な定義にしたがうならば、「体がふたつある心」にほかならず、ふたりはたがいに、なにを貸し与えることもできないのだ。
(両節とも宮下志朗・訳『エセー』「友情について」より)
『エセー』の訳者・宮下志朗によると「これは友情であって、肉体的な同性愛ではない」そう。が、『君の名前で僕を呼んで』の原作者アンドレ・アシマンはその見解におそらく同意しない。
――あなたは長年に渡ってプルーストを研究し、教えてきました。プルーストは回想録と小説の境界を綱渡りする人ですよね。アシマン:まったくそのとおりです。ルソーもそういう人ですね。彼は自分の人生についてウソを書いてきた。
――とても巧妙に、ですね。
アシマン:とても巧妙に、だよ! モンテーニュもそうでした。
Interview with André Aciman | Features
「回想録と小説のあいだに明確な違いなどありはしない」と公言するアシマンは、成程、自伝的小説である『君の名前で僕を呼んで』を執筆するにあたり、(彼の考える)モンテーニュに倣うことで『エセー』に秘められたモンテーニュの思慕を汲み取ろうとしたのではなかったか。
原作小説では、タイトルの意味、エリオとは「誰」なのか、オリヴァーとは、エリオの父親とは「誰」なのかがより明確なかたちで読者に示される。*3
小説からアダプテーションされ映像となった本作でも、主人公が「縫い目のない」「身体のふたつある心」たるを追い求める点は変わらない。*4オリヴァーはエリオのベッドを奪うことでエリオの心に侵入し、エリオはオリヴァーの衣服に袖をとおすことでオリヴァーとひとつになる。それらはあくまで映画的な演出・象徴であって、現実には決して実現しないだろう愛情の究極形態なのだろう。だからこそ、燃え盛るさまがうつくしい。*5
そしてあの頃みたいに僕の顔をまっすぐに見て、視線をとらえ、そして、僕を君の名前で呼んで。
(『君の名前で僕を呼んで』、アンドレ・アシマン、高岡香・訳)
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*1:誰もが眼を奪われる本作のライティングであるけれども、実は撮影時はほとんど雨天で、ほとんどが人為的につくり出した光源で太陽光を再現していたらしい。この功をグァダニーノはタイ人撮影監督のサヨムプー・ムックディプロームに帰している。幻想的な画作りで話題となったアピチャートポン・ウィーラセータクンの『ブンミおじさんの森』でも撮影監督を勤めた人物だ。
*2:実際の原作はあまりに多様な文学的レファレンスで構築されているので、ネタ元をひとつに絞ることは無意味だろう
*3:特に映画版ではオミットされた第三部「クレメンテ症候群」
*4:まるで『饗宴』で喜劇作者アリストパネスが語った愛の起源ーーゼウスによって分かたれた男の半身がもうひとりの男の半身を探すように