(『リズと青い鳥』、山田尚子監督、2018年、日本。ネタバレを含みますが、そこまで詳細にはやらない)
山田:そうですね。物語は、ハッピーエンドがいいよ……。
――劇場版パンフレットより
『リズと青い鳥』を語ることの不可能について
本来的に映画には意味のないカットなどひとつもなく、どんな空虚にも凝視すれば浮かぶだけのなにかがある。そして現代映画の術理は意味のゴールドディガーたちを誘導するために高度に洗練されてきたのであって、大概の作品において、わたしたちは一度観ればメジャーな構成要素にアタリをつけることができます。それは観る側のスキルというよりも、制作する側の親切心です。ここにこういうものがあるんだよ、と強調してくれる側の歩みよりです。
親切ではない映画には二つのタイプが考えられます。ひとつはガイドの役割を意図的に放棄し、要素を隠そうとする虚無の映画。もうひとつは過剰なまでに要素を投入し、それらを「親切に」もすべて可視化してしまった混沌の映画。
前者は上でも述べたように凝視の努力で超克できる。しかし後者は観ようとすればするほどちかちかとフリッキングしてめまいを呼び、あなたをするりと呑みこむでしょう。特に細部を積み立てることで全体の感想を組もうとするタイプの観客は、あまりの情報量の多さに対処しきれない。『リズと青い鳥』とはそうしたカオスの究極です。
拾うことのできる細部(すなわち反復、構図、対比、ライティング、寓意、表情、動作)が無際限に置かれているのではありません。拾うべき細部が無際限に存在するのです。分析以前に、人間にゆるされた記憶容量ではとてもおぼえきれるものではありません。「『リズ鳥』のすべてを解読した!」と主張する人がいるとしたら、その人は嘘つき村出身の嘘つき太郎か、リズ鳥を百回観てあたまがおかしくなった狂人か、記憶を司る女神ムネーモシュネーでありあらゆる芸術の母かです。
あるいはソフトが出れば、カットごとに一時停止&メモを取ってこの混沌に抗することができるかもしれません。だからそれまで、口をつぐむべきかもしれない。ただ祭壇を崇めつつ、リズ鳥に関して語られるあらゆる言説を信用しないでいるほうがいいかもしれない。
しかし好きになってしまった以上は「好き」と口に出さないとどうしようもない、という気持ちがあります。「好き」と口に出す以上はどこの何が好きか言わねばいけません。無限のすべてを好きになってしまったのであれば、個々の要素をどれだけ並べても結局無限そのものの輪郭を描けないジレンマがあるわけですが、それでも鎧塚みぞれはがんばったんだから、わたしたちもがんばっていきましょう。
感情という名の歯車の運動
前置きが長くなりました。
『リズと青い鳥』における言葉の一致と気持ちの不一致の話をします。
各種インタビューを読んでいると、言語的なコミュニケーションに対する山田尚子の絶望のふかさにおどろかされます。
山田:「みんな理解してもらいたくて生きてるんだな」というか「でも、思いのほかみんな身勝手に物事を理解しているな」というのでしょうか。なので、「自分の好きな相手には好きでいて欲しいということが実は届かないもの」であったりとか、そうですね……「やっぱり心っていうのはすれ違うもんだな」というのが「言葉っていうのはいくら尽くしても伝わらないもんだな」とか、いやいや全然絶望感まみれの話ではないんです(笑)。だからこそ希望が持てるというか、伝えたいし、伝われ!と思うし、思いを諦めないために物事って伝わらないものなのかな?と思うぐらい、なんかそういうチグハグ感が今回は大事だったのかなと思います。多分最後の最後まで会話って噛み合ってないんですよ。
http://tokushu.eiga-log.com/interview/6632.html
山田尚子はアクションの作家です。作劇上必要な情報、特に感情のゆれや気持ちのゆらぎを観客に伝える際にはまずセリフよりも運動に頼る。それはサイレント時代からの昏い野望を継いだ映画作家的な芸術主義的な感性によるものではなくて、インタビューを信頼するならば、言語的なコミュニケーションに対する徹底した不信によるものです。
結果として、『リズと青い鳥』では言葉と気持ち、言葉と運動が幾度となくズレを生じさせています。*1そのズレは鎧塚みぞれにとって希望の皮をかぶった絶望として出現します。すくなくとも、観てる側には絶望にしかみえません。
ところが山田尚子はそれを希望と呼びます。
山田:希美の存在が自分の世界だと思っているみぞれが、希美に抱いている「好き」の形と、希美がみぞれに対して抱いている「好き」の形がどうしても噛み合わない、思うことの形の違いを丁寧に掘り下げていく作品になっています。お互いに好きではあるし、興味を持たずにはいられない関係ですが、その形がどうも噛み合わない……でも、それは決してすれ違っているだけではないと思うんです。例えば、大きさの違う歯車同士がある一瞬動きが重なるような、そういった二人が重なる瞬間を希望的に描きたいと思いました。
http://liz-bluebird.com/interview/
冒頭の音楽室での早練のシーン。教室で希美とみぞれでふたりっきり。それぞれの楽器を準備しているときに、ふいにみぞれが「うれしい」というセリフをもらします。ほんとうに脈絡なく出てくるセリフなので解釈は色々あると思いますが*2、希美は「(作中作の児童文学で、それを元にした課題曲である)「リズと青い鳥」を演奏会で弾けてうれしい」のだと解釈して、「わたしもうれしい」と反応します。みぞれは「リズと青い鳥」の原作を知らないうえに「演奏会なんて一生来なければいい」と考えているので明らかに間違った受け取り方なのですが、それでも希美が「わたしもうれしい」と言った瞬間、みぞれの眼はかがやきます。
希美も「みぞれと一緒にいれてうれしい」と一瞬でも思ってしまったからで、これもまたすれちがいなのですが、でもその気持ちは本物だ。
これも「大きさの違う歯車同士がある一瞬動きが重なるような、そういった二人が重なる瞬間を希望的に描」いたうちなのでしょうが、一瞬と呼ぶのすらためらわれるような刹那の重なりで、本作は以後ずっとこうしたシーンが積み重ねられていきます。ふたりのやりとりに照らして「disjont」という単語を挿入する山田尚子のいじわるさは闇と形容する以外にありません。
余談ですが、「一瞬動きが重なるような、そういった二人の重なる瞬間」は劇中では抽象的な水彩表現でもたびたび示されます。この手法と意識は劇伴担当の牛尾憲輔とも共有されていたようで、
山田:牛尾さんと話す前に「希美とみぞれの関係をどう描こうかな」と考えて出た一つが「デカルコマニー」ということばだったんですね。水の上とかにインクを垂らして、それを紙に転写して絵をつくる絵画の技法です。垂らしたインクでできた模様と転写された側の絵柄は似ているけれど同じにはならない……それを希美とみぞれを描くのに落とし込んでいこうと思ってます、と牛尾さんに話したらすごく面白い、とおっしゃって。五線譜の上にインクをポタポタ垂らして、それを音符に見立てて音楽をつくっておられました。
https://eonet.jp/zing/articles/_4101959.html
この「似ているけれど同じはならない」関係がまさに希美とみぞれの気持ちと言葉である、ということに素朴ながら留意していただければ。
つぎにふたりの言葉が一致して気持ちがすれちがうのが、進路選択のシーン。「希美の行くところに行く」と決めているみぞれ(狂ってる……)は進路調査票を白紙で提出したものの、彼女の音楽の才能を見込まれて先生から音大のパンフを渡されます。もちろん、その時点でみぞれに音大に進むつもりなどないわけですが、みぞれの抱えたパンフを(奪い取って)見た希美*3は「みぞれ音大行くんだ。私も受けようかな」と言い出します。
このときもみぞれの眼は「うれしい」発言のおなじようにかがやきます。自分の進路と希美の進路が「音大」という単語で一致したこと、自分が音大に進むからと希美もそこを希望してくれたこと、それがたまらなく嬉しい。
いっぽうで、希美が音大受験をいい出したのは、みぞれがそこに進学するからでもフルートが大好きだからでもないのですが、それがまだみぞれにはわからない。わからないまま、希望だけを見つめています。
ここから二人の距離が開いていきます。
そのズレがやがて糸のように切れるのが、「リズと青い鳥」の人物関係と希美とみぞれの対応関係についての解釈が逆転する場面。
異なる場所にいる希美とみぞれのセリフがシンクロしていき、左右二分割された画面で顔とセリフが重なります。最高潮にふたりのセリフと気持ちが一致した劇中類のない場面ですが、残酷にも離れたふたりは自分たちの解釈が一致した事実を知りません。物語の解釈が一致したことでふたりのズレは埋まるのか。埋まりません。
みぞれが合同練習で「本気の音」を出したあとに、希美に告白するシーン。*4希美がみぞれに対して妬み深い自分の醜さを吐露したあと、みぞれはそれでも「あなたはわたしのすべてなの」と抱きついて、「大好き」なところを羅列します。絵ヅラのエモ具合にもかかわらず、抱きつかれている最中に眼を宙にやって*5茫洋としている希美の表情はほとんどホラーじみていますが、それでもやっと「私はみぞれのオーボエが好き」とだけ絞り出したあと、笑いだします。
音楽室での「うれしい」のときのように、ここで「わたしはあなたの○○が好き」というセリフが一致します。恋愛映画であれば、相思相愛、ということになる感動的なシーンでしょう。しかし、みぞれが希美の身体的特徴など希美自身につながる「好き」をあげているのにたいして、希美はみぞれの使っている道具しか「好き」と言えない。
希美とみぞれでは「好き」の量も質も違う。笑っちゃうぐらいに、なにもかも違う。
前出のインタビューでいうところの「希美の存在が自分の世界だと思っているみぞれが、希美に抱いている「好き」の形と、希美がみぞれに対して抱いている「好き」の形がどうしても噛み合わない、思うことの形の違い」が表出しているところです。
それでも「好き」ということば自体は噛み合っている。その刹那のつながりがふたりのコミュニケーションになります。
このシーンの前に来る「本気の音」のシーンで示唆されているように、希美とみぞれはズレている状態が自然です。そのズレの具体値をふたりは告白シーンで認識します。だからこそ、ある種のあきらめにつながるのでしょう。
ラスト、ふたりは(山田監督のいうところの「鳥かご」である)校舎をはじめて出て、並んで歩きます。みぞれが希美をフォローし、その背中を見つめる存在であることについてはまた別の機会にのべたいとおもいますが、急いで付言しておくならば、本作において「横並び」に歩くことは非常に重要です。
山田:希美とみぞれの関係は、映画ではある終わり方をしますが、ただその関係性がずっとそのままなわけじゃない。いろいろと逆転する部分もあるけれど、まだまだこれからどっちがどっちにもなりうる、とも思ったんです。同じ場所にいてどちらかが前に行くこともあるけど、それでも横並びに歩いていけるような関係に描こうと気をつけていました。
https://eonet.jp/zing/articles/_4101959.html
噛み合う瞬間が奇跡ですらある世界観において、「横並びに歩ける」ことや「二人の視線が合う」(パンフより)こと自体、祝福なのです。
横並びで歩くシーンはわずかしか続かず、また二人にとってのいつもの配置に戻ります。が、今度こそ言葉がきちんと重なる瞬間がやってくるのです。*6みぞれが「ハッピーアイスクリーム」と叫んだあとに「disjoint」の文字が挿入されるのは、単に雰囲気によるものではありません。
ラストカットでふたりの視線の関係が覆されるに至っては、それまで巧妙に積み重ねてきた視線のズレによるストレスを一挙に解放した巨大なカタルシスが押し寄せてきて言葉にならない……。
いわゆる山尚の闇について
山田:この作品では、“世界が美しくあること”というのは特に意識しました。みんなとても真剣に悩んでいるし、明日の一歩を踏み出すのすら辛そうな子たちばかり。でもすごく一生懸命に生きている。そんな彼らの悩みを肯定したいと思ったし、たくさん悩みがあっても、世の中には青空があるし、花も咲く。彼らを包む世界は、美しく優しくあってほしいと思ったんです。
(リンク切れ)http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/hwchannel_20160916_4549604?p=2)
鳥かごとしての学校、という抑圧的な舞台を選んでいるにもかかわらず、「世界が美しくあること」の意識は前作から継承されているとおもいます。
『リズと青い鳥』は一般的な意味でのハッピーエンドの物語ではありません。「横並び」になれたとはいえ希美とみぞれの関係はズレを抱えたままでしょうし、今後も九十九%のズレと一%の歯車の噛み合いを繰り返して生きていくのでしょう。しかし山田尚子の世界観ではそうした関係も美しい世界の一部なのです。おたがい百%の気持ちをぶつけあったからといって、それが百%の理想につながっていくのか、という青春フィクションのアンチ的な意図もこめられているのかもしれません。(込められてないかもしれません)
しかし、必然的な気持ちのズレと相互理解の不可能を宿命づけられたこの世界において、歯車をまわし続けて通じ合えると錯覚しうる一瞬を求め続けていくこと、それこそが希望なのです。他のフィクションに比べて、リアルのそれに近い感覚だとおもいます。
フィクションでフィクションの希望をうたわずに、現実にねざした希望を描こうとする山田尚子は闇側の人間ある、とわたしの知る人はいいます。結局はものごとをどういう側面でとらえるかの話で、それでもわたしたちはその大いなる闇が、ひとしずくであまねく天地を照らす光を育てるための養分なのだと信仰したい。わたしたちは「山尚の闇」を主張する一派に屈してはならない。いつかどこかで、歯車が噛み合って希望という名の光を生む瞬間が訪れるのですから。
だから、山尚を追いなさい。フォローしなさい。「いいえ、止めても無駄です。わたしは異国のひとを慕い、その後を追います」*7
山尚を信じましょう。
視線のズレと背中を追うことについての話は次にすると思います。次があれば。
響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編 (宝島社文庫)
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*1:ズレといえば本作で最も重要なズレは視線のズレと位置のズレですが、今回はその話はしません。
*2:一番妥当なのは「(これまで色々あったけれど大好きな)希美といっしょにふたりで練習できてうれしい」というシンプルな解釈でしょうか
*3:ここで二人の位置交換が行われるのも興味深い
*4:夕日の陽光がみぞれを照らし、影が希美を覆う、すさまじくいわじるな対比の構図
*5:冒頭の登校シーンからずっと希美は「見上げる人」として描かれ、その視線が彼女自身の感情のゆれとともにゆらぎだします
*6:わたしは普段、あまり音に注目した見方をしないのですが、パンフの監督インタビューによるとこの場面では「二人の足音も偶然重なった」そうで、神の御業はこのような現象を指すのだな、とおもいました