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今一番期待されている映画作家、ジェレミー・ソルニエとメイコン・ブレアについて

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 どこで期待されているかって言ったら、私の心のなかで……。

ジェレミー・ソルニエが欲しい


Blue Ruin Trailer



 今一番新作が観たい作家を三人挙げろ、と言われたら、まずウェス・アンダーソン。次にポール・トーマス・アンダーソン。そして、ジェレミー・ソルニエ。だが、ジェレミー・ソルニエは2017年現在までに長編を三作品しか発表しておらず、日本で見られるのは最近二作だけだ。ソルニエ分が足りない。ベン・ウィートリー? たしかに興味深い作家ではあるし、作風も似ていなくもないが、あれはもうちょっとブリティッシュに複雑だ。

 で、そんなソルニエ飢饉へもってきて忽然とソルニエと同じ血をわける映画作家として登場してきたのが、ソルニエ監督作『ブルーリベンジ』主演俳優であるメイコン・ブレアだ。
 ブレアは初監督・脚本作である『世界に私の居場所なんてない』(ネットフリックスオリジナル)を今年のサンダンス映画祭で発表し、同映画祭でもっとも栄誉あるドラマ部門の審査員グランプリを獲った。同賞の歴史的に鑑みて、コーエン兄弟トッド・ヘインズブライアン・シンガートッド・ソロンズカリン・クサマ、ライアン・クーグラー、デイミアン・チャゼルらと同じクラスの評価を受けてデビューしたわけで、つい四年前の『ブルーリベンジ』以前はたいした芸歴もなかった四十代の冴えないおっさん俳優にしては破格というか、比類のないほどの期待をかけられている。

 メイコン・ブレアとジェレミー・ソルニエを同一視することは乱暴にすぎるだろうか? メイコン・ブレアは確かにソルニエと幼馴染でずっと彼と映画を作ってきた。長編三作(Murder Party、『ブルーリベンジ』、『グリーンルーム』)にはすべて出演しており、うち『ブルーリベンジ』では主人公を務めている。しかし、すくなくともクレジット上はソルニエ監督作はどれもソルニエの単独脚本でブレアの関わった痕跡はなく、逆にブレア初監督作『世界に私の居場所なんてない』や脚本作『スモール・クライム』にソルニエが噛んだというような話は聞かない。


 にもかかわらず、ブレアとソルニエの作家性はほとんど血を分けた兄弟を呼んでさしつかえないほどに共通している。

 まずどちらも主人公が致命的なまでに頼りない。
 両親を殺した男が出所したと聞き復讐に立ち上がるホームレス、ネオナチに楽屋に監禁されてしまったパンクバンド、自宅に押し入った窃盗犯を捕まえるべく奔走する中年の看護師、職や家族といったすべてを失い出所した元汚職警官。
 どの作品もバイオレンスでエクストリームな状況に置かれがちなのにも関わらず、アクション・スターみたいに腕っ節一本で苦境を切開なくなんて明らかに期待できそうもない面々ばかりだ。
 ソルニエ映画で唯一スター俳優主人公っぽいポジションだった故アントン・イェルチンにしても、『グリーンルーム』での華のないバンドメンバー四人のなかで更にびっくりするくらい華がなくて、中盤になるまでなかなか主人公っぽい雰囲気が出ない。何も知らずに観せられて、序盤に「この俳優、『スタートレック』に出てますよ」と教えられたら、チョイ役で? と返しそうなものだ。もちろん、中盤以降の存在感はやはりスターの素質があったんだな、と思わせるだけの演技を見せていて、いまさらながら早逝が惜しまれる。
 
 こうしたキャラ配置は当然意図されたものだ。
 本来バイオレンスやアクションの主役になりそうにないキャラを主人公に据える。その采配についてソルニエはインタビューで以下のように語っている。

――『グリーンルーム』は『ブルーリベンジ』や Murder Party といったこれまでの作品と同様に、しばし無能なキャラクターたちが悲劇と喜劇の両方を起こしますね。普通の映画ではまず生き残れそうにないキャラたちです。


ソルニエ:Murder Party ではわかりやすくアホなキャラばかり出して笑わせようと意図しました。『ブルーリベンジ』のドワイトは明らかに主人公に向いていない人間ですが、しかしけしてバカではない。単に不向きなだけです。悲しいまでに主人公に相応しくない。だからこそ切ないし、コメディチックな瞬間も状況から自然に生まれます。
 『グリーンルーム』もそうです。バンドメンバーはアホではありません。ただリアルな人々であるというだけです。ニュースなどを見ていればわかります。極端なプレッシャー*1や泥沼のカオスに囚われてしまった人々はどう見てもバカげた行動をとってしまうものなのです。
 私たちは有能な映画キャラに慣れきっています。映画の中の彼らは伝統的なヒーロー/ヒロインへと一足飛びで成長し、ある種の跳躍を行います。そういうものだと当然視してしまっている。
 しかし、人間を人間としてあるがままに描けば、めちゃくちゃなバカ騒ぎ*2になる。それは、単に真実味があるだけではなく、より喜劇的でより悲劇的であるという点でエキサイティングです。
 スクリーンに観客である自分と重なるキャラの姿を見出したとき、より深いレベルでの信頼が生まれるのです。キャラクターを窮地に追いやれば、衝撃は倍になります。私は深みから抜け出すための出口をキャラに用意して、彼らがもがく姿を眺めるのです(笑)。


An Interview With Green Room Director Jeremy Saulnier


 ソルニエ映画のキャラクターたちは平凡さをもって極限状況と対峙する。それは主人公のみならず、対置される「悪役」の側も変わらない。
 『グリーンルーム』でのパトリック・スチュワート演じるネオナチの親玉を思い出してほしい。彼はなにしろプロフェッサーXなので面構えだけはデキる感を醸しているが、バラックの楽屋に閉じ込められた無力なバンドメンバー四人+女一人に対して二十名を超える部下に銃火器と戦力差で圧倒していたにも関わらず、場面場面での判断を誤り、拙劣な戦力の逐次投入と失敗を重ねてしまう。
 これがヒーロー映画だったら「いくらなんでも悪のくせに無能すぎる」と白けてしまうところだ。*3しかしソルニエ的にはこれが「人間としてのリアリティ」なのだ。有能も無能も悪も正義も、すべて「人間」の平凡さの範疇内でおさまってしまう。その事実、世界観自体がたまらなく残酷だ。南部の山奥で蠢いてドラッグ密造で稼ぐネオナチは、そうした地に足の着いた野蛮の姿だ。だから、情けなくもあるけれど、同時にすごくおそろしい。
 そして、映画的シチュエーションは悪役の側にも主人公の側にも常に非凡さを要求する。一般的なアクション映画であれば、二時間の冒険と葛藤を通じてヒーローはソルニエが言うところの「成長と跳躍」を遂げて平凡から非凡へと脱皮する。
 だが、ソルニエ映画のキャラたちはどうしようもなく平凡なままだ。
 非凡さが要求される事態において凡庸を貫こうとするとき、惨を極めた破局がもたらされる。

『世界に私の居場所なんてない』

 そんなソルニエ的世界観の体現者だったメイコン・ブレアもまた、監督脚本を務めた『世界に私の居場所なんてない』で凡庸な主人公と卑小な悪役を描いた。


I Don't Feel at Home in This World Anymore - Trailer HD


 主人公はホスピス病棟に務める中年の看護助手。日々、枯れて死んでいく患者たちを看取りつつ、ファンタジー小説を慰めとして孤独に暮らしている。
 その彼女がある日家に戻ると、家が荒らされていた。パソコンやおばあちゃんの形見である銀食器を空き巣に盗まれた彼女は警察に駆け込むも「鍵をかけ忘れたあんたがわるい」とむしろ警官から責められてしまう。
 彼女は手裏剣の達人であるけったいな隣人トニーの助けを借り、盗品の行方を追う。PCは彼女にとっての貴重な財産だし、銀食器は家族の思い出の品ではあるが、実のところ彼女にとって重要なのはモノの価値や所縁ではない。
 正義だ。彼女は自分はこの世界に必要とされていないと感じていて、居場所を見いだせないでいる。タイトルの『世界に私の居場所なんてない』もつまりはそういう意味だ。生まれて三十年か四十年のあいだずっと独身であり、おそらくこれからも独身でありつづけ、友だちどころか近所付き合いすらなく、家の庭には毎日何者かが犬のフンを残していく。*4そういう生活の延長線上にあるのはただ終点、つまり死のみであって、だから彼女は死ぬのを異常に怖がり、唐突にその恐怖をトニーへ吐露する。

主人公「死にたくない……」
トニー「死なないよ、今はまだ」
主人公「死んだらただの無になるんだわ」
トニー「ならないって」
主人公「なるわよ、トニー。まるでテレビを消すように、フッとなっておしまい」

 
 彼女は世界を正そうとする。他人の家に勝手に忍び込んで物を盗むのは間違っている。その盗品を売るのは間違っている。彼女が独力で突き止めた証拠を無視して盗人を捕まえようとしない警察は間違っている。悪いやつが大きな面してのさばっている世界は間違っている。
 映画の後半で盗人の正体がヤクザ的金持ちのドラ息子だったと判明する。その父親によれば、ドラ息子にはもともと最高の教育環境を与えてやったという。本来盗みなどする必要のない家に生まれた人間がレールを外れて無軌道に暴れまわり、彼女の人生を侵害する。
 彼女はその歪みを正そうとするが、多くの「正しくあろうとする人々」を描いたフィクションとおなじく、なぜかそこでとんでもないバイオレンスが意図せず発生してしまう。
 ラストはソルニエ作品を彷彿とさせるある「等身大の悪役」との直接バトルになる。目をみはるようなアクションも、ツイストの利いた機転も、引用符でくくりたくなるようなクールな名台詞もない。ひたすら地味で、鈍重。だからこそ陰惨さが際立つ。暴力とは本来凄惨ではなく陰惨なものだ。そういうことを思い出させてくれる。

 『世界に私の居場所なんてない』がソルニエ映画と異なるのは、地に足の着いたイヤさの一方で、地に足の着いた救いをも用意してくれている点だ。もっともブレアが脚本をてがけた『スモールクライム』ではその救いが同種でより強力な磁場をもつものに絡め取られてしまうのだけれど。


*1:in pressure cooker envrionment 圧力鍋的環境

*2:a flailing clusterfuck

*3:実際ラスト周辺の油断はやりすぎなようにも見えた

*4:その犬の飼い主が前述の手裏剣マスターで、彼女が犬の飼い主をつきとめて文句を言いに行くところから関係が生じはじめる


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