第四話「魔法少女粉と煙」
ハロウィンの季節 ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(3) - 名馬であれば馬のうちのつづき。
矢部嵩の twitterアカウント名は「konakemuri」といいます。粉と煙。まさに第四話の主要モチーフです。
出だし*1はこんな感じ。
春の小虫が付いたのに気付き、掛けていた眼鏡を私は外しました。
眼鏡を外すと視界は霞み、刺繍の裏地で出来た世界みたいでした。
「刺繍の裏地で出来た世界」は、眼鏡外しを含めて、もちろん第一話の「文字のない世界」に呼応しています。今回は皮の裏側から世界を眺める話である、と直接的に表現しているのです。
今回で初めて自主的な依頼人が現れます。鍔広の帽子とお面で顔を隠した中年女性、タヒチさんです。
タヒチさんには亡くなった姉妹がいて、その息子であるビルマくんがある難病にかかっている。なるべく速やかに手術を受けない病状なのだけれども、ビルマくん本人が頑として手術を拒んでいる。甥が手術をいやがる理由を究明し、なんとか説得してやってくれないだろうかーー。との次第。
ぬりえちゃんはビルマくん説得のために、ビルマくんの亡母をひきずりだすことにします。といっても生き返らせるのではなく、本人そっくりのきぐるみを作って夏子に母親を演じさせようというのです。ちなみに着ぐるみはちぎり絵式で作ります。ここにも絵画のイメージですね。
かくして夏子 in ビルマくんのお母さんはビルマくんのお母さんとして病院へ向かいます。病室に入るとそこは粉の霧が舞う世界。ビルマくんの患った難病とは、ひどいかゆみなのでした。粉とは彼が掻いた皮膚の落屑、煙とはその滓が舞い上がる様を指します。
他人の皮をかぶった夏子と自分の皮を掻きまくった結果エレファントマンじみてしまったビルマくんとの対峙は、それだけでエキサイティングな光景です。ビルマくんは常識人ですから、いくら本物と見分けがつかない外見をしていてもお母さんがそこに実在しているわけがないと疑います。しかし同時に失った母を想う息子でもありますから、疑いつつもそうであってくれという希望にひっぱられていく。このあたりのプログレッシブな機微のうつろいは非常に洗練されています。
信じたいビルマくんは夏子をテストにかけます。親戚の名前、ビルマくんの好きなこと嫌いなこと、往事のこまごまとしたエピソード、身体的特徴。外見だけではなく内面の連続性も証明することで、目の前に表れたお母さんが「本物」であると示そうとするのです。
ここで以前誰かが言った「スワンプマン」ということばが思い出されます。「スワンプマン」がなんであるかは各自で適宜 wikipediaか何かを参照してください。問題は「誰が」スワンプマンと言ったのか。
ずん田くんです。第一話です。亡くなったお母さんを生き返らせたかった彼は魔女に対してこんな質問をぶつけます。
「生き返ったそれはどれくらい小倉なんですか。家族が見ても小倉に見える?」「完璧同じにするよ」「それは不可能でしょうどんだけ同じでも似せて作れば偽物ですよ」「例えばお金なら見て触って機械で読めてあらゆるシチュエーションで流通相成れば本物として使えるでしょ。これ本物だオッケーという基準があってそれを通れば本物でしょ」「がわが一緒でも精神と歴史はどうなるんです」「スワンプマンは考えだから物作りに持ち出すとただのブランド志向だよ。あなたに観測できないものでも要るというなら実装するし、持つ持たないを問題にするなら要るものはちゃんと持たせるけれど、とにかく超あるよじゃ駄目?」
チューリング・テストもフォークト=カンプフ検査もアウトプットさえ完璧なら腸や脳が機械だろうがなんだろうが人間として認めてくれます。信じたい者にとって必要なのはそうした判定結果です。
もちろん一から十まで生き返りを信じてくれたわけではありませんが、それでもビルマくんは夏子のことを「お母さん」と呼ぶようになってくれました。ところがそれでも手術は受けないと粘る。「それに勘違いしてるかも知れないけど、かゆいの掻くのも決して嫌ではないんだ」と主張します。
ここから滔々と披露される長広舌はいちいち全文引用していたらほぼ違法コピーレベルの代物になってしまいます。私なりにかみ砕きましょう。
掻くことはかゆみへの対症療法であり、治療行為であると彼は説きます。根治をねがうのは罠です。根治をねがってしまえば詐欺じみた治療法にすがるしかなくなる。「願いは病気を増悪するんだよ」。ほんとうにかゆみを無くしたいのなら、早期に地味で健全な生活を送るべきだった。母親が魔法みたいな奇跡に行き当たりばったりで頼った結果、手遅れになってしまった。なのに今更魔法なんてまた奇跡を持ち出してどうするのか。願うな、掻かせてくれ。
夏子は伝染したかゆみにさいなまされながらも、お母さんの立場にたって「願うのがそんなに悪いことなのか」と反駁します。
ビルマくんは「当事者でない人間がきれいごとを言うなよ」的なことばで再反論します。ここからのビルマくんのセリフは約めてしまえば嘘になるので、全文引用しましょう。
「判るだろ。全部自分でしてんだ。掻かなきゃいいだけなのに、我慢一つできないんだぜ。爪痕全部瘡蓋全部自制できない心の証だ。鏡に映る体のどこに意志がある。かゆみの奴隷、皮膚のいいなりだ。胸で物なんか考えない、胆や脊髄に何も宿らねえよ。気持ちも思考もいつでもこの皮膚の上の上っ張りで、浮かぶたびに自分で掻き消しているんだよ。
高潔でありたいだろ。自分で駄目にしてんだ。優れていたいだろ。日ごと卑屈になるんだ。集中したいだろ、没頭したいだろ、本も映画も、何見ててもかゆいんだ。心打たれた台詞にさえ自分の皮が落ちてる。音の海で何聴いてもぼりぼりぼりぼり骨から聞こえるんだよ。二十四時間全身を虫に覆われてる奴がすてきな物語に涙流すの? そういう人見てあなた感動したことあるの? 闘病も糞もない、意志の弱い奴に誰も憧れないし、絶えず曝され続ける惨めな自分は、磨くことも積み重ねることも出来ない。
結局優れた創作物なんかで上っ面だけの自分が真実救われないはしないと知るんだ。安い幻滅を繰り返す内強い意志とか優れた物の見方だとかが自分の中に育まれることがないと知るんだ。結論が出る、生きてすることで自分を掻き壊すより大事に扱える物事が自分に作り得ないと、優しくありたい。嫌われたくない。気色の悪いことなど口にせず、快い言葉を人のために綴りたい。強い意志が挫けず叶う話をしたい。誰かのことを思って生きたい。人だぜ。当然だよ。だけど薄弱な意志と上っ面の心で、出来ないだろうそんなこと。ただ気持ち悪い上辺の感覚ばかり、浅い心にストックされていく。
結局自分の思いや人格が幾らでも湧いて剥がれ落ちるこの皮のような物だと知るんだ。怒りも重いも乾いて剥がれて落ちていく。この部屋を見ろ。おれそのものだ。うすっぺらい自分が粉になって積もったものが、今ここにいるおれなんだよ」
人生の話です。ここまでくれば、どんなに鈍感な人でもわかるでしょう。ビルマくんは人生について極めて直截に話している。*2
生きて、そのときどきでかゆいところを自制できずに掻きむしるうちに自分の形を保つ皮膚が崩れていき人間でなくなってしまう。すこしずつすこしずつ人から外れていき、やがて美しい人たちが感動するような美しい世界に属する資格がないのだと識る。それがビルマくんの人生です。矢部嵩が「粉煙」ということばに託した寓意です。あ、要約できるじゃん。
皮と粉
第三話の「服」と同様、「皮」は本短編集全体に通底するモチーフです。安藤夏子と最初の五人の友人たちはみな「アンコ」関連の名前でした。第一話で初登場したぬりえちゃんは当初、老婆の皮をかぶっていました。第二話は家という皮膜にぬりちゃんがずかずかと入り込んでいく話で、そういえば餃子をめぐる葛藤もありましたね。第三話ではMの父親の皮を加工して押し花を作りました。第五話では奥さんの皮をかぶった夏子が仮初めの主婦として奮闘します。第六話では夏子が魔女という「皮」をかぶって魔法を起こそうとします。
第四話は少し逆説めいていて、皮をかぶれなかったこその悲劇であるわけです。ビルマくんは言います。「なりたい自分も装った自分も最後は自分の手で引ん剥いてしまうんだ。変わりたいと幾ら念じても信じても結局駄目な自分のまま。違う誰かなどにはなれない。嘘の自分は必ず剥がれて一番醜い自分が出て来る」。
皮の変化の否定、変身の否定はすなわち旧友たちを失って以降装いを変えつづける夏子に対する否定でもあります。キャラクターの対比ですね。ビルマくんは変身を否定することで魔法を否定する。では生*3の自分をどうやって守るのか。
そこで四話では「皮」に加えて、「粉」なるタームも出てきます。皮と粉です。大福です。タヒチさんが依頼に表れたときの会話を思い出してみましょう。
「大福のこの粉って苦手だな。のどごし苦しいもの。水大福だとまだ楽だけど、何故つけるんだろおいしくないのに」「餅を守っているのでは。くっつかぬよう乾かぬよう」「餅の皮みたいなもんか」「皮は餅でしょ」
粉は餅を守る存在である。ビルマくんは皮膚を掻きますが、皮そのものは彼のオブセッションではない。粉です。
「粉めいたこの部屋にいると壁や床の粉と自分とどこが境界か判らなくなる。掻きすぎて気持ちよくて何も考えらんない時意識がぼんやりして霧か煙の中にいるようになる。頭で感じる容量全部が皮膚の話で埋まるんだ。本当に何も見えなくなるんだ。この粉と煙の中で、一体何が見定められるんだ。何一つ透き通らない覆い包まれたこんな地獄の中の、どこに正しい道があるんだ」
粉ははげ落ちた自意識であると同時に、拡張された思考であることが示唆されています。とすると、第四話でもっとも読者の印象に残るであろうルビ芸*4も粉による保護と拡張という文脈にあることが理解されてきます。
カントはかつて日本語の書き言葉を「音読みが訓読みを注釈する」「焼きたてのゴッフル」とたとえましたけれども、矢部嵩の場合は日本語とは大福です。ビルマくんは皮膚を激しく掻きながら生前の母親の失敗を難詰する。彼の台詞には端から端にわたって「ぼりぼり」というルビがふられるます。掻痒によって剥がれた粉が夏子にも映り、夏子はかゆみにロジックで反論します。ここの地の文が「ビルマ君のお母さんが泣き出しました」と書かれているのは単なる綾ではありません。泣きながらビルマくんに語りかけているのはアンコである夏子ではなく、粉によってビルマくんとリンクしたお母さんの皮です。先ほど「夏子が反論した」と書きましたが厳密には間違いですね。
しかし拡張したり感染したりするのはあくまで思考の部分であって、身体ではありません。だからこそ、別れ際に「抱きしめて」と願うわけです。粉は防壁だけれども、隔離壁でもあるから。
ビルマくんは最後には手術を受け入れます。装った夏子が母親であることを否定し、たとえ彼女が本物の母親であったとしても手術を受ける気はないと断言した彼がなぜ魔法を信じたのでしょうか。
「手術を受けたらお母さんはずっと君の側にいるよ」という嘘を信じたかったからです。法月綸太郎のウィズネス概念にも通じますが、『魔女の子供はやってこない』において「共にいること」は一つ強力な魔法です。そして、夏子とぬりえちゃんの間柄においてはそれこそたぶん地獄への道程という言葉で言い表される。
嘘にすがったビルマくんは永劫の苦しみに落ちます。芽生えた希望を摘めず、粉にも頼れず、素の自分を曝すしかない。願ってしまったことに対する罰です。
お願いシンデレラ
どこかで言及しようと思って結局できなかったモチーフがあります。
シンデレラです。矢部嵩はこの童話を巧妙に操ってストーリーテリングをなめらかにしている。筋は誰でも知っているでしょうからいちいち説明は付けません。羅列します。
ぬりえちゃんは変身した夏子を送り出すときにこう言い含めます。「帰りも遅くはならないように。魔法はいつか解けるのだから」。十二時に解ける魔女の魔法です。
そして、夏子は馬車で病院まで向かいます。ビルマくんの演説を聞くうちにかゆみが伝染してしまった夏子は皮を掻きますが、そのせいで変装が崩れかけ、焦ります。ビルマくんが「手術は受けない。治さない」と鋼鉄の決意を口にした直後、病室のテレビから「舞踏会の喧噪」が鳴り出します。あわてた夏子は粉ですべって転んでしまい、靴が脱げてしまいます。
「靴脱げたよ」ビルマ*5がかがんで禿げた頭が見えました。「ほら、足出して」
私は涙を拭い、足裏を払い、ビルマ君の持つ靴に、右足の先を差し込みました。
入りませんでした。
原典である『シンデレラ』において、王子様の差し出した靴に足が入らなかったのはシンデレラの義姉たちです。それまでシンデレラをトレースしていた夏子が実は「偽物」の側だったと露見してしまう。まさにそれがきっかけでビルマくんは目の前の母親が本物ではないことを看破するのです。おとぎばなしのモチーフは次の第五話にも出てきます。