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映画『聲の形』と漫画『聲の形』、それぞれのカタチの違いについて。

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 『たまこラブストーリー』のころから「山田尚子の闇*1とどう向き合っていくか」という、半径半クリック領域内で共有された問題意識があり、どうしてもそれを無意識に前提として話してしまうので、山尚について何を語っても狂人の妄言めきやしないかという不安があります。
 ともあれ、以下は軽度から強度のネタバレを含みます。

 「では刃ヶ谷先生、永束君の映画の観想をお願いします」

  ――大今良時『聲の形』七巻


映画『聲の形』 ロングPV

贖罪の物語としての漫画版『聲の形』

 映画が始まる。ほとんど不意打ちに近い抽象的な開幕*2から、橋の欄干の上に立ち川へ飛び込もうとする制服姿の主人公、そして小気味の良いモンタージュによって小学生時代を活写したオープニング・シーケンスへ移り、その終わり、主人公たち三人組のなかよし小学生グループ(当時)が大空に向かってスローモーションで飛び上がる快楽的な躍動に満ちた画面に『聲の形』とタイトルが表示される。ここまでほとんどセリフはない。より精確に言えば、モノローグを欠いている。


 あらすじを説明する必要があるので、いちおうあらすじ立てておくと、『聲の形』は小学生時代に耳の聞こえない転校生をいじめて再転校に追い込んだ少年・将也が、聾の少女・梢子をいじめたことを咎められて今度は逆にクラス中からいじめの標的にされ、友人を無くし、少女に対する罪悪感に苛まされながらぼっちとして高校生になり、彼女と再会し、付き合いをふかめていく話。

 約めてしまえば、贖罪の話だ。原罪の話だ。少年は罪悪感から自殺を実行しようとし、少女と再会してからはもはや取り戻せない幸福なはずだった彼女の小学生時代の穴埋めをやろうとする。
 自分が存在することで世界をより悪い場所にしてしまっているのではないか。自分は生きるに値しないどころか、生きていてはいけない人間なのではないか。いますぐ死ぬべきではないのか。そう思い詰めているのは少年だけではなく、少女も同様で、というか、出てくるサブキャラクターも突き詰めればだいたいそんな悩みを抱えている。そんな彼ら彼女らがどうすれば「生きていい自分」を手に入れられるのか。おおかたそういう話であると理解される。大今良時の描いた原作は。

 山田尚子と吉田玲子の監督脚本家コンビが脚色した『聲の形』は、どうも様子が違う。
 冒頭の四分の一を占める小学生時代のパートの演出にまず面食らってしまう。躍動感あふれるオープニング・シーケンスの速度をそのまま殺さず、ピュアな悪意で彩られたいじめのシーンを手早くノリよく処理していく。いじめっ子だった主人公が、いじめられる側に立つと構図が反転するあたりなどは儀式的でありつつもどこか合理的だ。非常に映画的、言ってしまえば、オシャレでポップでさえある。
 原作を読んだ身であれば、そのポップさにとまどう。
 原作『聲の形』の一巻は全体のトーンとくらべても突出して重い。そもそも本作が巷間で認知を得たのは、のちに第一巻のもととなるパイロット版の読み切りが微に入り細を穿つ凄惨な「小学校でおこるいじめの現場」をモノローグを織り交ぜつつ実に実にエモく描ききったからだった。そして、以降はその重すぎるその一話で犯してしまったことをどう償っていくかでキャラクター個々の物語が展開していく。
 いわば、第一巻=小学生時代は贖罪の物語としての『聲の形』の大黒柱ともなるべき超重要シーンだ。映画化にあたっては当然あらゆる手管を駆使して漫画に負けないエモーションの魔術を見せるのであろうと、そう予想されていた。っていうか、原作未読者でも予告編程度のあらすじをあらかじめ聞いていれば、まあそうなるだろうな、と考えるとおもう。
 ところがそうはならない。セリフは必要最低限にとどまり、モノローグもほぼない。原作がいちいち描いていたエピソードを、かろやかにすっ飛ばす。主人公のいじめがクラス会議で告発される段にさしかかってようやく腰を据えて描かれるかと思いきや、やはりあっさり処理されてしまう。*3
 この淡白さはなんだろう。いや、ちゃんといじめのシーンを描いているといえばそう言えるし、あくまで尺の都合でカットしただけだと言われればなるほどそうなのかもしれない。
 担任の先生の傲慢な責任回避っぷりや学級委員長の川井の「どうしてみんななかよくでないのォ」といった、第一巻で印象的だった名シーン名ゼリフが悉くオミットされているのも、サブキャラのサブプロットを一律に削ぎ落とした結果であるのかもしれない。
 小学生時代にかぎらず、メインの二人以外のキャラの描写は軒並み削られている。筋だけ見れば、映画版『聲の形』とは「漫画『聲の形』のエッセンスを伝えるために精妙に限界まで肉抜きされたダイジェスト版」だ。

コミュニケーション縁起としての映画『聲の形』

 でも本当にそうなのか? 本当に映画版は「原作のダイジェスト版」、薄味『聲の形』にすぎないのか?
 違う、何かが違う。原作のプロットをほぼそのままに山田尚子お得意のマテリアルなモチーフ(というか水と橋と落下と花)の反復や反転、そして脚や手元といった身体の部位を極端なクローズアップとときどきロングショットで回していく演出。岐阜にある有名な美術館がモデルになっているシーンとか、オリジナルの場面がないではないけれども、このままいけば大今良時の器量内におさまりそうな――。

 と、終盤、ヒロインの少女に対して、彼女と終始対立関係にある*4元いじめっ子グループの女子があるアクションを行う。原作には描かれていないアクションだ。

 ヒロインへ「バカ」という意味の手話を行うのである。これにヒロインは喜んで? 応じる。おなじく「バカ」と手話で返して。

 映画版『聲の形』で描かれようとしてきたのは贖罪ではなかったのだ、とこの瞬間はじめてわかった。山尚と吉玲が描こうとしてきたのは、コミュニケーション。

 最初から念頭にはあった。コミュニケーションは『たまこラブストーリー』でも『けいおん!』でも重要な位置を占めていたというか、それをどう視覚的に映画的に観客へ伝達するかといった意味ではテーマに等しかった。
 ただ、たまこにしろけいおんにしろ、インフラがある程度整備された状態でキャラたちはコミュニケーションを取っていた。一般的な意味での「コミュニケーションの欠落」は山尚世界にはありえず、『たまこラブストーリー』ではむしろ「情報量が多すぎてコミュニケーション回路がショートした」状態によってある種のディスコミュニケーション状態が出来した。

 ところが、『聲の形』ではそもそも伝達のための手段が器質的あるいは精神的に奪われた状態からスタートする。ヒロインは耳が聞こえず、うまくしゃべれない。主人公は小学生時代のパートが終わるあたりで、社会の関係が「切れた」ことを象徴するために挿入される糸の切断が表しているように、つねに俯きがちで人を顔のある人間として正常に認識できない。最初から糸電話でつながっていた『たまこラ』の二人とは対照的だ。


(注意:以下、映画版と漫画版の両方のラストに言及してます。)


 糸の切れた関係を結い直す物語、といえば『聲の形』はパッケージからして当然主人公とヒロインとの恋愛コミュニケーションの成立を主眼にするはずだろう。ところがle_grand_juran氏の指摘したとおり、そこは見逃せない一部ではあったとしても重点が置かれているようにはみえない。彼の言うように、(いくら尺の切り詰めに迫られていたとはいえ)「主役二人の恋愛的関係の構築」をメインとするなら原作通り主人公がヒロインの手を引いて「あの扉の向こうに何が待っているのかはわからないが、二人ならきっと乗り越えられる!」的なラストに終着したほうがオチとして明確だったはずだ。

 にもかかわらず、映画ではラストを文化祭に置いた。周囲の人間の顔に「☓」印をつけて*5コミュニケーションを拒絶していた主人公が、初めて顔をあげ、耳を澄まし、周囲の人々を人間として直視する。それが映画版のラストシーンだ。それまで比較的感情面では抑え気味だった演出を思いっきりエモへ振り、「世界が拓ける」主人公の感覚を観客へ一瞬で伝播させた監督の手腕は賞賛に値するとおもう。
 あらゆるコミュニケーションは相手を人間として認識することからはじまる。換言すれば、これまでクラスでまともなコミュニケーションを一人だけとってこなかった主人公は人間ではなかったわけで、これはやはり最終的に「人間になる」話なんだろう。
 どうやったら生きていい人間になれるのか、という点では実は原作版との問いに違いはないのかもしれない。*6ただ、原作では各キャラクターが過去のトラウマや自分の人格のダメな部分に向き合って克服する、というサブストーリーが盛り込まれていた。映画版では尺の都合でカットされている部分だ。そうしたサブキャラのサブストーリーを排除することで、物語の焦点はメインの二人に絞られる。
 違和感のあった小学生時代の描写の相対的な薄さもいまならわかる。
 「贖罪」は映画版の主題ではない。

 世界との関係修繕、そしてメイン二人間のコミュニケーションを、映画版では徹底してアクションによって彫琢する。
 小学生時代、主人公がヒロインのノートを溜池へ投げ捨て、それを彼女が拾いに行く。びしょ濡れになった彼女に言い表しきれない感情*7をおぼえながら、主人公はその濡鼠姿に魅入られる。そして次の瞬間には溜池でびしょ濡れになってノートをぶちまけられているのは自分自身になっている。観客すらも気づかぬ間に「ヒロインのいじめっ子時代」から「主人公のいじられっ子」へと飛んでいる。
 構図の反転による重ね合わせ、それも水=鏡による反射といういかにもアレですが、これがひいては冒頭の「自殺を試みる主人公」と花火の日での「自殺を試みるヒロイン」につながってくる。あのシーンでベランダから飛び降りようとしているのは、ヒロインであると同時に主人公自身であって、それを救うことが自分を見殺しにしないことでもある。
 図像的にしろ物理的にしろ肉体の合一は最強のコミュニケーションです。わからない? 『君の名は。』は見ましょう。ひとつの肉体を共有することは、それだけでコミュニケーションであり、恋愛なんです。セックスという見方もありますね。

 そうした類はまあ、あくまで図式的なものにすぎない。もっと直截的な交換描写もある。たとえば、主人公がヒロインと意思疎通するために手話を覚える。手話で話しかける。これは原作の方に明示的に描かれているけれども、他者のことばを半分以下の精度でしか聞き取れないヒロインにとって、ヴァーバルなことばよりも手話のほうがなめらかであたたかい「ことば」として感受される。自分の領域である目(光)をつうじて手話で話しかけてくる健聴者は彼女へ寄り添ってくれる存在だ。
 コミュニケーションは他者理解の基本であり、会話とはコミュニケーションの基礎だ。だが、会話は両者が共通する言語で喋らないとつうじない。相手の言語を学んで話しかけてくる人、というのはそれだけでコミュニケーションを取りたいという態度を示していることになる。だからヒロインは嬉しい。だからヒロインは「好き」といういちばん大事なことばを、相手の領域である言葉(音)によって伝えようとする。
 道具である言語の交換、これもまた同一化の一つのかたちだ。*8メイン二人の間では、コミュニケーションを取ろうとする態度そのものがコミュニケーションとなり得ている。

いろんな形

 この領域侵犯的なコミュニケーションはメイン二人以外の間でも見られる。
 先述した元いじめっ子女子による手話の「バカ」もそうだ。彼女は「ヒロインのことが嫌いだし、たぶんそれは直らないだろう」という旨を宣言している。だから、(ある程度照れ隠しや本人が意識していない好意が混っているにしても)彼女の「バカ」は、字義通りの意味での悪口だ。
 でも、それがヒロインにはちょっと嬉しい。
 元いじめっ子とヒロインはその前に観覧車での決闘じみた対決があった。そこで元いじめっ子は筆談のために差し出されたノートを拒絶して「私はちゃんとゆっくり話してあんたに伝える」と言う。あくまでの自分の領域である声(音)に留まる。さらにいえば、小学生時代にクラス会でヒロインのためにみんなで手話を習いましょう、という運びになったときに一人立ち上がって「あの子は手話のほうが楽かもしれないけど、私は筆談のほうがいい」と敢然と主張した過去もある。彼女は、ヒロインには消して聞こえない声でさんざん悪意をぶつけてきた。
 その彼女が、手話でヒロインに話しかけた。ヒロインの言葉で話した。相手の言語で悪口をぶつける、というのは、現実世界にはなかなか還元しづらいだろうが、しかし『聲の形』ではポジティブな行為として受け止められる。すくなくともヒロインはポジティブなものとして受け止めた。コミュニケーションである、と。
 こうしたシーンをオリジナル描写として挟んでくるところに、今回の映画版スタッフのアティテュードがうかがえる。

 もう一つの例。漫画版と映画版に共通するサブストーリーの一つに「主人公の母親とヒロインの母親との和解」がある。ヒロインの親は娘の人生を破壊した主人公を、ひいては主人公の親をも憎んでいた。原作ではなんやかんのあった末に、母親同士で酒を飲み交わして打ち解けるという梁山泊三国志みたいな描かれ方をしたのだが、映画版ではより「アクションによるコミュニケーション」に拘った。
 主人公の母親は美容師である。彼女の言語はハサミだ。だから、美容師である主人公の母親が客であるヒロインの母親の髪にハサミを入れているシーンをさりげなく挿入した。信頼していない相手には、髪という身体の一部を切らせないだろう、というわけだ。これまでは一方的に誰かを殴りまくるだけだったヒロインの母親の縄張りに、主人公の母親は進出する許可をもらったのだ。
 特に何かわかりやすい和解の描写があったわけではない*9。それを一発で「あ、こいつら仲良くなったんだな」とビジュアルで嫌味なく了解させる。山尚マジック。
 状況説明・心情説明的なモノローグを徹底的に排した映画版だからこその演出だろう。ここまで徹底的されると逆に無声映画というか、アート映画の領域に達しているとおもわんでもないけど。


『聲の形』=『たまこラブストーリー』前日譚説

 こうしたゴッデス山尚のなみなみならぬ深謀遠慮によって「ちゃんと目を見て、話せる」コミュニケーション能力を手に入れた主人公の石田くん。彼とヒロインである梢子がどうなっていくかといえば、これはもう『たまこラブストーリー』ですね。まちがいない。
 原作『聲の形』で終盤に入ってたヒロインの東京行きのエピソードを映画では(主に尺の都合で)カットしました。(主に尺の都合だったんでしょうが)このカットにはある作為が見られます。入院騒動が起こったあとの東京行きといえば? そう、『たまこラブストーリー』です。
 『聲の形』で本来あったはずの「東京行き」エピソードを削るということは、つまり「私たちの『聲の形』は『たまこラブストーリー』へ続きますよ」という映画製作人からのアツいメッセージだったのではないでしょうか。
 要するに、『聲の形』は『たまこラブストーリー』のプリクエルなのです。この二作は合わせて三時間半の前後編なのです。
 切れた糸は繋がって、輝く糸電話での会話が可能になった。
 完全なコミュニケーションの世界。超電導なコミュニケーションの世界。私達のハーモニー。
 ありがとう山尚、ありがとう吉田玲子。山尚をヤマショーって読むと、山風っぽくてステキですよね。
 えらいよねスタッフ。まともに『聲の形』映画化しようとしたら確実に大今良時の器に飲み込まれてしまっていたと思う。それを骨組みはそのままに、自分たちの映画にしてしまった。脚色とは、本来こういう仕事のことを指すのではないでしょうか。
 そのあたりとか、もっと話したいことは尽きません*10が、映画を観終わった興奮をそのままに妄想をつらねるのもなんなので、パンフやインタビューを読んでからにします。

*1:この話について僕に訊かれても困ります

*2:ラストで反復される。「音」と「光」、メイン二人を表象する領域

*3:クラスの副担任? であったはずの喜多という女教師が障害者支援施設からの出向みたいなよくわかんない立ち位置になっていて、それにともなって担任との一部やり取りをカットされている

*4:原作では主人公に好意を描いている設定になっているが、映画では明示的に描かれていないためわかりづらいかもしれない。こういうの、たまこマーケットとたまこラのときにもあったよなあ。もしかして、意識的に摘んでいるのかなあ

*5:これは漫画でも映画でも視覚的に字義通りに表現されている

*6:というかそもそも原作の時点でコミュニケーションを軽視していたかといえばそんなことはなくて、重要な主題のひとつとして組み込まれているとは思う。アプローチの違いなのかもしれない

*7:劇中でキャラたちが催す様々な感情が、まず彼ら自身の口で説明されることはない

*8:同じ言語を喋る人間同士にもこうした交換は起こりうる。「Aが発したあるセリフを、Bが別の場面でそのまま繰り返す」という方法だ。

*9:土下座はしていたけれど、あれはむしろ距離をとらせるタイプのものだろう

*10:特に石田くんのキャラ造形とか、水と落下の反復とか。


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