歴史とは復活である。
――ジュール・ミシュレの墓碑銘
【これまでのあらすじ】
2024年、夏。
日本人の大半はピクサーの新作に対する興味をほぼほぼ一切完膚なきまでに喪失し、ティーンの女子がバンドを組むアニメや、ティーンの女子がバンドを組むアニメ(2)や、ティーンの女子がバンドを組むアニメ(2)や、青い髪のティーンの女子が負けるアニメや、ティーンの女子がバンドを組む山田尚子の新作などにうつつをぬかしていたものの、わたしは幼少時に受けた恩義からピクサーに対する義理を失っていなかった。
かれらはかれらの外向きの欲動を、わたしはわたしの内向きの欲動を食らって生きている。
というわけで、『インサイド・ヘッド2』を観に行った。
ピクサーは「復活」したのか。
昨年のいまごろ、ピクサーはほぼ「終わったスタジオ」扱いされていた。
ディズニーの配信プラットフォーム重視の戦略に振り回されて本来劇場で公開すべきだった三作の完全新作(『あの夏のルカ』『ソウルフル・ワールド』『わたし、ときどきレッサーパンダ』)をDisney+に流したのち、劇場へのカムバックとなった『バズ・ライトイヤー』と『マイ・エレメント』でどちらも歴代ピクサー作品でも最低クラスの興収を出してしまった。
昨年の各種メディアの記事の見出しもその事実を物語っている。「『マイ・エレメント』は沈みゆくピクサーのメタファーである」(ニューヨーカー誌*1)、「ピクサー新作の大コケは魔法を再生するのにディズニーが苦労している証拠」(フィナンシャル・タイムズ誌*2)、「ピクサーはまだ死んではいないが、生命維持装置につながれた状態にある」(スクリーンラント誌*3)。
YouTuberたちもこぞってピクサーの凋落を取り上げ、その原因を続編商法、ラセターの追放、パンデミック、ある種の「暗さ」を失ったこと、親会社ディズニーの経営方針、他スタジオの伸長、情熱や創造性の欠如などに帰した。。
とりわけ、批判されたのが続編商法だ。前述の記事でスクリーン・ラント誌のサラ・リトルはこうしめくくっている。「現在制作中の『トイ・ストーリー5』と『インサイド・ヘッド2』は、あきらかに不要な続編だ。この二作はもしかすると以前のピクサーのきらめきをいくらか取り戻してくれるかもしれないが、あるいはただ失敗するだけかもしれない。ただ時間のみぞ結果を知る」……。
そうして、2024年7月。『インサイド・ヘッド2』が公開され、その「結果」が出た。世界興収15億ドル突破。アニメーション史上最高の興収*4をあげたのだ。
この商業的な大勝利はピクサーの復活を意味しているのだろうか?
創造性の破綻としての続編、必要悪としての続編
ピクサーは金のために続編をつくる。
そうした物言いは『モンスター・ユニバーシティ』や『ファンディング・ドリー』や『マイ・エレメント』を観もせずに今日のピクサーのありようをディスっているワケ知り顔のカスどもの戯言に聴こえるし、実際わたしはそうした文言をSNSで見かけるたびに頭のなかのカナシミとイカリがあばれだすのであるけれど、残念ながら真実でもある。
なぜなら、本人たちがそう公言している。
「続編は創造性の破綻」である。かつて、そう述べたのは、ピクサーの共同創業者エド・キャットムルで、同時にそれはある種の必要悪である、とも彼はいう。
合併の前後、オリジナル映画と続編のバランスをどうとろうかと検討していた時期があった。作品を気に入ってくれた人はその世界の物語をもっと見たいと思ってくれるのはわかっていた(言うまでもなく、マーケティングやグッズの担当者は売りやすい映画をほしがる。その意味で続編は手堅い)。しかし、続編しかつくらなければ、ピクサーは千からびてしまう。私は続編を創造性の破綻のように思っていた。
オリジナル映画のほうがリスクが高くとも、新しいアイデアを次々と世に送り出す必要がある。続編をつくればそこそこの興行成績が約束されるため、オリジナル映画で冒険する余地ができると考えた。オリジナル映画を毎年一本と続編を一年おきに一本、または二年間に映画三本のような組み合わせが、財政的にも創造的健康という意味でも妥当であるように思えた。
「冒険」のための「健康」を保つ作戦。それが続編だ。
実際、ピクサーは映画を矢継ぎ早に作り続けなければならなかった。
ディズニーと三本分の契約を結んで長編制作を開始した当初、ピクサーは四年に一本のペースを想定していた。当時のピクサーは年に300万ドルの売上しかないRenderMan、TVCMくらいしか主な収入源がなく、株主価値はマイナス5000万ドル。創業オーナーだったスティーブ・ジョブス自身の個人的な持ち出しによってなんとか会社の体をなしているという悲惨な状況だったものの、ディズニーの奴隷じみた契約(CFOだったローレンス・レビー曰く「買収せずに子会社化したようなもの」)によって長編の制作費用だけは全額ディズニーの負担で成っており、とりあえず「作るだけ」なら悠長なペースでも許された。制作ラインをひとつしか持たないアニメーション会社としては、極めて妥当なペースでもあった。
が、ピクサーは一本目から成功しすぎた。初長編の『トイ・ストーリー』が爆発的ヒットを飛ばし、その直後にIPOを果たし、ほとんど一夜にしてディズニーに対抗しうるトップスタジオに成り上がって”しまった”。*5
上場した以上は株価を上げつづけなければ――前年以上の成功と成長をつづけなければならない。それが資本主義の掟だ。
そうしたわけで、ピクサーは一年に一本ペースのリリースを強いられることとなる。ディズニーによる買収後はさらにその傾向が加速していく。実際、98年の第二作『バグズ・ライフ』以降は27年で27作の長編を送り出している。2015年〜24年までの直近10年間に限れば14作品だ。2年に3本ペースに近い。*6
『インサイド・ヘッド2』まででピクサーの続編作品は10作品。そのうち9作品は2010年の『トイ・ストーリー3』以降のもので、ここ15年に限ると18作のうち9作品、すわなち半分が続編となる。
キャットムルが想定した比率、「オリジナルと続編で3:2」を超過している。
ディズニーと続編
ピクサーの幹部たちは、インタビューで「なぜ、続編を作ることになったのですか?」と訊かれると、「わたしたちは一作目であまりにキャラや世界を緻密に作ったために一作だけでは語り足りなかったんですよ、ハッハッハ」などと答えがちだ。『ファインディング・ドリー』のときのアンドリュー・スタントンもそうだったし*7、今回のピート・ドクター*8もそうだった。かれらはかつてラセターが率い、ジョブズがクリエイティブを一任したオリジナルの「ブレイントラスト」*9の中心メンバーだった。
創造性あふれるベテランクリエイターたちの言がまったくうそっぱちとはおもわないし、『ドリー』は実際そういう話だったとおもう。
一方でピート・ドクターは創造における苦労が続編を生むとも吐露している。
独創性のあるアイデアを思いつくのはむずかしい。そして、それを売る場合、単に独創的なだけでなく観客の共感を得なければならない。その一見矛盾するようなアイデアを出していたのが初期のピクサーだった。
『自分が部屋にいないときにおもちゃがひとりでに動く』とか『クローゼットのなかにモンスターがいる』といったことは誰しもが夢想します。わたしたちはそうした、誰しも一度は思いつくものの物語の核として使われたことのないようなアイデアをいまだに探し求めているのですが、28作も映画を作ったいまではそうした鉱脈を掘り当てるのも困難です。
https://time.com/6986308/inside-out-2-peter-docter-interview/
そして、続編があふれるのは制作者ではなく観客の怠惰の問題だとも指摘する。
誰もが「なぜピクサーはもっと独創的なアイデアをやらないのか?」と言います。ところが実際にわたしたちが独創的なことをやろうとすると、人々はそれに親しんでいないので、見ようとしません。続編なら、「ああ、見たことある。あれ、大好き」といって見に来ます。
https://time.com/6986308/inside-out-2-peter-docter-interview/
観客は口では新規性を求めるが、本当に新奇な作品はとっかかりがなくて見に行かない、というのはたしかに一面では真実ではある。
一方で、ピクサーの続編制作ペースが親会社であるディズニーの近年の傾向と同調しているのは事実だ。
たとえば、2015年の『シンデレラ』から正式に始まったディズニー・クラシックスの実写リメイク路線*10。
実写リメイクは、ティム・バートンの『ダンボ』などの一部の例外を除けば、申し訳程度に現代性を付与した挑戦のない無味無臭の作品にすぎず、『ライオンキング』『わんわん物語』『リトル・マーメイド』など喋る動物をフィーチャーした作品に至ってはフォトリアルな動物がセリフをしゃべるさまがグロテスクなMAD動画にしか見えない。
だが、商業的には哀れな『ダンボ』以外おおむねヒットしており、特に『アラジン』『ライオンキング』『美女と野獣』の三作は世界興収が10億ドルを超えている。さっき見た並びですね。そう、95年の『トイ・ストーリー』以前に国内興収1億ドルを突破したことあるの数少ないアニメーション映画、ディズニー・ルネサンス期の名作たちだ。これらはビデオの普及によって家庭での映画鑑賞が世界的に容易になった最初期の作品でもある。親たちは幼少期に映画館やビデオで観てすでにそれらが名作であること、安心して子どもに見せられるストーリーであることを知っていた。だから、映画館に子ども連れが詰めかけた、というわけだ。
むしろ、「原作」*11とおなじであること、創造性を発揮しないことがヒットの要因となった。
リメイク版『シンデレラ』企画の直接のきっかけとなったのは、2010年の『アリス・イン・ワンダーランド』(『不思議の国のアリス』の後日譚)のヒットだと言われている。2010年が『トイ・ストーリー3』の公開年だと考えるなら、不気味な符号だ。
アメリカにおける映画やアニメーションは、数年から五年スパンで企画される。『トイ・ストーリー3』は企画自体は2000年代初頭から存在していたものの、現在の形で本格的に始動したのは2006年のディズニーのピクサー買収直後のことだったし、『カーズ2』は2006年の『カーズ』公開ワールドツアーのさいにラセターが着想した。
皮肉な話ではある。というのも、ディズニー傘下でなかった時代のピクサーは、続編制作の権利をディズニーに握られていた。当然、ディズニー側はピクサーの続編で商売しようと目論み、2004年にはサークルセブンというピクサー続編専門のスタジオまで作った。このスタジオの存在はラセターやスタントンといったピクサークリエイティブ幹部からは目の敵にされ、案の定、ラセターがディズニーのCCOの座につくや、駆逐された。ちなみに、そのサークルセブンで練られていた続編企画とは『モンスターズ・インク2』、『ファインディング・ニモ2』、そして『トイ・ストーリー3』で、そのときの案がサークルセブンお取り潰しで廃されたあとにあらためてそれぞれ一から構想をリブートしたという。*12
そうした経緯を踏まえると、『トイ・ストーリー3』『ドリー』『ユニバーシティ』あたりはディズニーによる抑圧への反発から進んでつくりたがっていたのかもしれない。主観的な判断になるけれど(特に『ドリー』を評価しないファンは多い)、この三作はピクサー続編の中でもクオリティが高い。
現在のピクサーのクリエイティブのトップであるピート・ドクターは「自分は実写リメイクはやらない」と公然とディズニーのリメイク路線に対する批判を口にしているし、買収以来、ピクサーとディズニーは「別物」として距離を取っている様子は伺える。だが、やはりどういいつくろったところでピクサーはディズニーの所有物なのだ。なんとなれば、『トイ・ストーリー』を作るために事実上の専属契約を結んだときからずっとそうだった。
わたしたちは、ディズニーが買ったIPをどう扱ってきたかを知っている。『スター・ウォーズ』がどうなったか、20世紀FOXがどうなったか、そしてマーベルがどうなりつつあるか、もう知っている。
そして、市場の成長主義の論理は映画界の覇者となったディズニーすら縛る。
2023年、ディズニーは配信事業戦略の失敗(会員量値上げで百万単位の加入者を失った)とハリウッドのSAGAFTRAストライキに伴う興行不振による大幅な収益低下に見舞われた。
貧した大企業は安全策を取ろうとする。
2000年代のディズニーがそうだった。90年代の勢いを失ったディズニーはディズニートゥーン・スタジオというスタジオを立ち上げて、ビデオで『シンデレラ2』『リトル・マーメイド2』などといった過去作の粗悪な続編を乱発し、ファンの不興を買った*13。
ディズニーのCEOボブ・アイガーはすでに「今後はオリジナルより続編を重視する」と公言している。「なぜなら、既存のタイトルはすでにみなさんに親しまれており、マーケティング費用も安く済むからです」。*14*15
2023年のディズニーが経営を立て直す策として、投資家たちに送った企画中のタイトルはこうだった。『モアナ2』、『アナと雪の女王3』、『ズートピア2』、そして、『トイ・ストーリー5』……いずれも近年のヒット作の続編だ。*16
今年はすでに『オーメン』と『猿の惑星』と『デッドプール』の続編をやった。そして『エイリアン』、『モアナ』、3DCG版『ライオンキング』の続編(なにしてんだ、バリー・ジェンキンス)が控えている。
ちなみに、『猿の惑星』、『オーメン』、『デッドプール』、『エイリアン』はどれももとは20世紀FOX。
いまや、ディズニーはより巨大なディズニートゥーン・スタジオになりつつある。
ディズニーとはなにか。あらゆる外部をみずからの王国に併呑しようとするイデオロギーのことだ。
それこそ、あらゆる伝記の証すとおりウォルト・ディズニーの遺志でもあり、どれだけ企業体質が変わっても今なお受け継がれている欲望だ。
単にIPだけについて言っているのではない。『ポカホンタス』からこの方、不器用なりにマイノリティを包摂しようと努力していることすら、おそらくはある程度までは純粋といえそうな現場レベルの善意ですら、そうして領有されていく。ディズニーにとって続編とはそのための武器のひとつだ。
中国の妖怪で、あらゆるものを食らう貪欲の化身、ドン(犭貪、トンとも)のようなものだ。放っておくとついには自分まで食らいだす。*17
最近のディズニーの好物は、自らの過去とした他人の過去だ。セルフリメイクやセルフパロディはある種のノスタルジアと受け取られがちだけれども、他人の過去である『デッドプール&ウルヴァリン』や触れられないほど遠くなった自らの過去であるクラシックス実写リメイクの手触りは、懐かしさからどこかかけ離れている。他者や他の時代から簒奪されたものに、ディズニーテイストを付け足したときの、あのプラスティックな手触り。ノスタルジー抜きのノスタルジー。
マーク・フィッシャーは他人や他の時代といった自分が直接に経験していいないものへの代理的で表面的なノスタルジーをレプリカント・ノスタルジアと名付けた*18が、ここにはもはやノスタルジーと錯覚しうる感傷すら存在しない。葡萄酒がキリストの血の味に感じられないように。
ほんらいはまったく異なる作品であるはずの『デッドプール&ウルヴァリン』と『ウィッシュ』が似た味わいを与えるのも、偶然ではない。すべてはディズニーランドの物語であるからだ。自らの過去への郷愁と、アメリカの未来への欲望と、他人の創造をすべてひとつの領域に封じようとしたあの狂気のつづき*19。
50年前にアリエル・ドルフマンとアルマン・マトゥラールが指摘したディズニー世界の構造は今なお、今だからこそ有効なのかもしれない。「ディズニーの世界は、十九世紀的な孤児院なのである。しかし、この孤児院には外部というものがない。孤児たちには逃げ出す場がない。この世界のキャラクターたちは、あちこちへ何度も移動し、あらゆる大陸へ旅行し、熱に浮かされたように流動するにもかかわらず、同一の権力構造のなかに決まってとどまり、あるいはそうした構造に必ず回帰する」*20。
キャラクターたちだけなく観客であるわたしたちはその王国から脱けだせず、既知だったり未知だったりする記憶を食いつぶしていくしかない。
ドンが宇宙と自らを食らい尽くした末に残すのは、果てしない虚無だ。そして、『デッドプール&ウルヴァリン』を観ればわかるように、今日においては虚無すらもかれらの領地であったりする。
『インサイド・ヘッド2』について:語りを不要とする続編
(以下は『インサイド・ヘッド2』についてのネタバレを含みます)
ディズニーの話になってしまった。ピクサーに戻そう。個別の作品について語ろう。本来なら、それ以外について書くべきではない。
『インサイド・ヘッド2』はどうだったのか?
それは前作の不完全なエピゴーネンであるともいえる。
それは予定調和を破壊しようとして破壊しきれず予定調和におさまってしまった物語であるともいえる。
前者の話からはじめよう。前作『インサイド・ヘッド』と、『インサイド・ヘッド2』のプロットはよく似ている。
1のあらすじはこうだ。サンフランシスコに住む少女ライリーの頭のなかに棲まう擬人化された感情たちが、元気いっぱいのヨロコビ(Joy)をリーダーに戴いて”司令部”でそれぞれ情動を調整し、日々ライリーの幸せを希求している。感情たちのなかにはヨロコビにとって不要とおもわれる比較的新参のカナシミ(Sadness)もいて、彼女と折り合いがうまくつけられないのでいたのだけれど、ひょんなことからふたり”司令部”の外に放り出されてしまい、帰還のためにライリーの心のなかを冒険することに。一方ライリーの身にもただならぬ事態が起きてしまい……という感じ。
2のあらすじはこうだ。サンフランシスコに住む少女ライリーの頭のなかに棲まう擬人化された感情たちが、元気いっぱいのヨロコビ(Joy)をリーダーに戴いて”司令部”でそれぞれ情動を調整し、日々ライリーの幸せを希求している。そこにシンパイ(Anxious)などを筆頭に思春期を迎えたライリーのあたらしい感情たちが入ってきて、ヨロコビは自分からしたら一見不要とおもわれる彼ら彼女らとうまく折り合いをつけられないでいた。そんなあるとき、シンパイはヨロコビら古参の感情たちを追放して”司令部”の外へ放り出す。ヨロコビたちは帰還のためにライリーの心のなかを冒険することに。一方ライリーの身にもただならぬ事態が起きてしまい……という感じ。
アバウトなアウトラインが前作と続編で似るのはめずらしいことではない。
『トイ・ストーリー』だって1も2も「偶然な事故から持ち主の少年とはなればなれになったウッディが、その少年のもとに戻るまでの冒険を描く話」といえば変わらないし、『ファインディング・ニモ』と『ファインディング・ドリー』はどちらも「親と生き別れになった子どもがその親を探しに行く話」という点では共通している。物語構造が似るのは脚本家がなまけているせいではなく、その構造自体が作品のコンセプトやアイデンティティと結びついているからだ。
問題は1から2でどう変わったか、もっといえばより深く掘り下げられたか、という点だ。続編は前作との偏差で語られる。*212では1での達成を土台にするのがふつうだ。ふつうなのだが。
この前提が、『インサイド・ヘッド2』ではそもそも崩れている。
ヨロコビは前作で得た「自分の理解できないネガティブそうなものも実はライリーのためになっている」という学びを忘れているように見える。シンパイとの対立は陥れられた面が強いからまだいいにしても、自慢気に披露される不要な思い出を排除する装置はどう受け止めればいいのだろう。一方でときどき彼女は前作での学びに留意するようなアピールもやるので、こいつはなんなんだ、とおもってしまう。
だけど、まあ、それはいいだろう。前作で成長した主人公が学びをリセットされる続編ですばらしい作品など、いくらでもある。細かなキャラクターの不整合など、ストーリーの力強さで押し切ればいい。
いやしかし、その物語がまたおぼつかない。
第一作目では不本意な旅の道中でヨロコビがカナシミの重要性に気づき和解していくプロセスが細やかに描かれ、サブプロットにライリー本人の意識に上らない幼年期との別れがエモーショナルに挿入された。それらが十年たった今でも記憶に残るのは、作品全体の結論と強力に結びついたドラマであったからだ。まさに『インサイド・ヘッド』の設定下であったからこその感動だった。
けれど、『2』における感情古参勢の珍道中はなにもかもばらばらで薄味だ。一部のギャグはまだよいにしても、展開やキャラの感情は唐突で物語全体に対する有機性を欠き、印象に薄い。
感情側の物語の主軸となるシンパイとの対立にしても、一作目のヨロコビとカナシミのような発展的解決を見せるようで見せない。いや、いちおう解決する場面はあるのだけれど、なんかこう、なし崩し的というか至極あっさりしている。
展開にしろキャラにしろこのうつろさの元凶ははっきりしていて、まあ、キャラが多すぎる。古参感情勢と新規感情勢を合わせると単純にキャラが二倍。コンセプト上、ただでさえ90分そこそこのランタイムをライリー本人の物語と半々にしないといけないところに、倍のキャラたち。回せるわけがない。*22
というか、そもそもうまく物語を回そうとした形跡も見当たらない。
監督や脚本家はインタビューでたびたび「思春期に到来する感情としての不安を中心に据えた」と強調する。プロデューサーのマーク・ニールセンは「わたしたちは不安に対して正直になる必要があった。不安は最初は悪役に見えるかもしれないが、どこかに追いやるべきものではなく、和解すべきものだ。」*23という。
たしかに物語上はヨロコビたちはシンパイと和解し、融和するだろう。だがそれは物語の流れの必然としてそうなったのではなく、制作者がテーマとしてそのようにあるべきだと決めたからにしか見えない。
そこが、前作のヨロコビとカナシミとの和解と異なる部分だ。
『インサイド・ヘッド』シリーズはきわめて観念的で抽象的なコンセプトの作品だ。だからこそ、丁寧なストーリーテリングと地に足のついたキャラクターを必要とし、実際1ではそれに成功した。
ところが2では抽象的なコンセプトを抽象的なままに、感情や人格とはこうあるべきだからこうなりました、という映画にしかなっていない。キャラクターと物語を必要としないのであれば、なぜ映画にするのだろう?
わたしのこうした幼稚な疑問の答えは興行成績をもって答えられている。
それで映画になるからだ。
ライリーパートの思春期あるあるネタと、脳内パートで感情たちが感情のまま動くこと。それだけでダイレクトに観客の経験に訴える。
物語はスクリーンの中にあるのではない。観客の頭の中に、記憶のなかに存在するのだ。だから、べつに本編のストーリーテリングがぎこちなかろうが、観客の側で補完してくれる。それこそが『インサイド・ヘッド』のコンセプトの強みだ。
記事前半部で引用したピート・ドクターの続編に関する諦念に似たことばを思い出そう。観客は、一人の例外もなく、未知のものより既知のものを好む。わたしたちが『インサイド・ヘッド2』を観るのはそれが新規IPではなく続編だからであり*24、映画館の暗闇でしか目撃しえない新鮮味のある挑戦的な物語だからではなくわたしたちの経験した物事について反応できる映像だからだ。
いちおう、制作陣がスクリーンの中で爪痕を残そうとした形跡はある。ラストのヨロコビの結論は「自分たち感情よりも『大きなもの』がある」と受け取ることができるもので、それは彼女たちのアイデンティティを根幹から破壊しうるアイデアではあった。自分たちの存在意義を突き詰めて自己の殻を破る話はわたしも好きで、ファンから蛇蝎のごとく嫌われている『トイ・ストーリー4』を評価する理由もそこにある。
が、けっきょく、『インサイド・ヘッド2』では殻をやぶって無限の彼方へは行きはしない。それはやはり、本編の物語での細部でのタメが不足していたからだ。飛んでるのではない。カッコよく落ちているだけ。
もっとも、おもちゃたちと違って感情に自分のアイデンティティについて疑いを持ってもらっても困るので、やはりコンセプトの範疇に収まってよかったのかもしれない。
おわりに
ともあれ、ディズニー/ピクサーはかれらの戦略の正しさを証明した。:
「続編は売れる」。
この認識において行き着く先はピクサーもまたリメイク・続編工場となりはてるディズニートゥーン化であり、かつて彼らの唾棄したサークルセブン化だろう。なればこその「復活」だろうか。
ピクサーの次なる公開作品は『星つなぎのエリオ』。監督脚本は、『リメンバー・ミー』のエイドリアン・モリーナ。『リメンバー・ミー』はピクサーの非続編作品のなかで劇場でヒットしたと言える*25最後の映画だ。もう七年も前になる。
『インサイド・ヘッド2』は現在のピクサーを延命した。
そして、『エリオ』が未来のピクサーの試金石になることは間違いない。
そこにあるのはヨロコビか、カナシミか。
*1:https://www.newyorker.com/culture/cultural-comment/elemental-is-a-tearful-metaphor-for-pixars-decline
*2:https://www.ft.com/content/b50259e7-67d1-44ae-a749-636139cc5855
*3:https://screenrant.com/pixar-movies-what-went-wrong-problems-explained/
*4:現時点では3DCG版『ライオンキング』が若干上な気もするが、なんにせよ歴代一位になることは確実。
*5:ローレンス・レビー『PIXAR<ピクサー>世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』文響社
*6:おそるべきは、それだけのハイペースで発表されたにもかかわらず、ほとんどの作品が大ヒットしたことだ。95年の『トイ・ストーリー』公開以前、長編アニメーション映画で国内興収1億ドルのラインを突破した作品は、『ライオンキング』『アラジン』『美女と野獣』『ポカホンタス』、そして実写とのハイブリッドである『ロジャー・ラビット』だけだった。言うまでもなく、すべて本家ディズニー作品だ。インフレーションを考慮にいれる必要があるとはいえ(2024年現在は国内興収1億ドルではアニメーション分野の歴代トップ100にも入れない)、このディズニーの牙城を始めて打ち破ったのが1.9億ドル稼いだ『トイ・ストーリー』であったことは特筆に値する。以降、コロナ下での公開となった『1/2の魔法』などの一部の例外を除き、毎作基本国内2億ドル以上のヒットを飛ばしている。もっとも近年の制作費は2億ドルほどが基本なので、世界興収で6億ドル稼ぐ必要があり、コロナ以降はなかなかこのハードルを(そもそも三作続けて配信スルーになったこともあり)越えられずにいたが、今回『インサイド・ヘッド2』が世界興収15億ドル越えというアニメーション史上最高のヒットを飛ばしたこともあり、ピクサーの「復活」を印象付けた。
*7:『ファインディング・ドリー』パンフレット
*9:ストーリーを決めるための脚本会議のようなもの。のちにディズニーが模してストーリートラストを作った
*10:ちなみにクラシックスの実写での語り直しは14年の『マレフィセント』、実写リメイクそのものは96年に『101』でそれぞれすでにやっていた。
*11:ディズニーアニメの大半は原作つきであるけれども、ここではリメイク元映画の意
*12:スタントンは『トイ・ストーリー3』をあらためて練り直す際に、サークルセブンで書かれた脚本は「あえて見なかった」とさえいっている。よほど嫌っていたのだろう。https://web.archive.org/web/20070401075040/http://www.ew.com/ew/article/0,,1204709,00.html
*13:この悪習を一層したのがディズニー/ピクサー合併によってディズニーのCCOも兼任することになったジョン・ラセターで、こうした改革によりディズニーアニメは90年初頭以来の輝きを取り戻し第二次ルネサンス期を現出する
*14:https://www.cartoonbrew.com/feature-film/disney-and-pixar-will-lean-on-sequels-in-near-future-says-ceo-bob-iger-241096.html
*15:こうした方針にはもちろん近年高騰の一途をたどる映画製作費の問題も考慮する必要があるだろう。ピクサー映画ももはや制作費が2億や3億では効かなくなりつつある。3億ドルの制作費を回収するのは10億ドル規模の興収が必要だ
*16:https://screenrant.com/disney-sequel-strategy-studio-teamup-plan-scared/
*18:https://k-punk.org/now-wait-for-last-year-again-or-how-king-kong-wiped-my-memory/
*19:ディズニーは取り込んだ他者をすべて「ディズニフィケート」していく。ディズニー/ピクサーの凋落の話題によく比較対象にされるソニーの『スパイダーマン:スパイダーバース』はこうした文脈においてこそ引き合いにすべきだ。異なるマルチバースからやってきた異なるテクスチャのスパイダーマンたちが不調和な形で併存する世界。もっとも、それはソニーが王国に足るだけの資本力を持っていないだけなのかもしれないけれど。
*20:アリエル・ドルフマン、アルマン・マトゥラール、山崎カヲル・訳『ドナルドダックを読む』昭文社
*21:『フュリオサ』の語りに鈍重さをおぼえるのは『マッド・マックス:怒りのデスロード』のあの昂奮を憶えているからだし、『クワイエット・プレイス:DAY1』のジャンプスケアを排した観念的な語り口を許容できるのもこれまでの二作でそういうものをしゃぶり尽くしたと知っているからだし、『怪盗グルーのミニオン超変身』になんの希望も抱かないで観に行けるのも『怪盗グルー』がなにかを期待できるようなシリーズでないと知っているからだ。
*22:キャラ増加による弊害はもうひとつある。一作目に愉快なビートを形作っていた、ライリー以外の人間キャラたちの脳内の感情たちによるやり取りがほとんど行われなくなった。おそらく、下手に出すと「え、でもこいつら前作にはいなかったじゃん。大人の脳内なら前作からいたはずだけど……」と前作と矛盾が起こしてしまう。もっともそこは制作陣も自覚しているようで、クレジットシーンのおまけでなんとか辻褄を合わせてはいる。しかしおおっぴらに使えなくなったのは痛かった。
*23:https://pocculture.com/interview-disney-and-pixars-inside-out-2-director-kelsey-mann-and-producer-mark-nielsen/