マイ・ドッグ・デイズ・イン・キョート
なんの因果かわかりませんが、今現在京都では示しわせたように各映画館がイヌ映画の古典作を上映しています。
京都シネマでは『禁じられた遊び』、河原町のMOVIXでは『遊星からの物体X』、二条のTOHOでは『マイライフ・・アズ・ア・ドッグ』。
これはきっとイヌ映画を観ろ愚民どもという神からの徴にちがいありません。イヌ映画の神のな。
というわけでこの三作の犬映画的なアングルについて軽く触れていきましょう。
ばらばらに書いたものなのでそれぞれ関連性はとくにありません。
イヌの死とヒトの死が等価だった時代、それは――『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督、1952年)
冒頭、パリから逃れたポーレット一家三人が橋の上でドイツ軍の爆撃を受ける。
爆撃機が上空を舞う最中、幼いポーレットは逃げ出した犬を追いかけて走り出し、両親も彼女を追いかける。そこに機関銃が掃射され、両親は死亡。ポーレットはピクピクと痙攣している犬*1を抱いて、ひとりで橋の上をさまよう。
そこに荷車を引いた老夫婦が通りがかり、ポーレットを拾う。
老夫婦のおばあさんはポーレットの抱いている犬を見て「もう死んでるじゃないか」と引き離し、橋を通る川へと勢いよく投げ捨てる。このときの犬の死体の「モノ」扱い感がすごい。
犬を恋しがったポーレットは隙を見て老夫婦野元から脱けだし、川に流されていく犬の死骸を追い、拾い上げる。
田舎の畑のほうではもうひとりの主人公である少年ミシェルが家族と一緒に野良仕事をしている。牛が逃げ出した*2ので林を流れる川縁まで追うと、そこでポーレットと出会う。
ポーレットはミシェル一家で一時的に養われることに。橋の上で死んだ両親についてミシェルが訊ねると、ポーレットは「お母さんたちも川に投げ捨てられるの? 犬みたいに」とおびえる。ここでポーレットにとって犬は人間と価値的に大差ないことが示される。
ポーレットは犬を埋葬しようとするが、途中で牧師の邪魔が入る。パリ育ちで宗教的な知識にぜんぜん通じていない*3ポーレットに対し、牧師は「ミシェルが詳しいから聞いてごらん」と促す。
ミシェルは、死体を埋めることは知っていても埋葬行為自体の意味をよくわかっていないポーレットに墓というものの存在を教え、水車小屋で犬を埋葬する。ポーレットは「一匹だけだとあの世でさびしいから」と一緒に別の動物を埋めることを主張。ミシェルはとりあえず水車小屋に巣くっているフクロウから死んだモグラを取り上げて穴に放り込むが、ポーレットは「ネコとかも入れないと」と要求をエスカレートしていく。
ミシェルはミシェルで墓には十字架を指すものだということで十字架を調達しようとする。最初は自作しようとするもうまくいかなかったのもあって、教会の墓地からくすねるようになる。墓の数は埋められる動物の種類のともにどんどん増えていく。
ポーレットは幼く、命の価値に差をつけない。犬のために両親と自分を危険にさらしたこともいまいちわかっていない。両親が死んだことを理解しても、今度は「死んだ犬のように川へ乱暴へ投げ捨てられるのでは」とおそれる。
その一方で、両親と犬という自分にとっての世界をいっぺんに喪失してしまったせいか、命が失われることに対して非常にセンシティブだ。ミシェルが戯れにゴキブリを潰す場面では「殺しちゃダメ」と憤激してうずくまり、ミシェルとの対話を徹底的に拒否しようとする。
そのようなポーレットと、日常に根付く権威たるキリスト教にひそかな反発心を抱いているミシェルが手を組んだ結果、動物たちの墓の山が築かれ、その墓標が人間たちの墓からねこそぎ移しかえられてくる、といったグロテクスな事態が出来する。ポーレットは動物の死と人間の死が等価である世界を実現してしまったのだ。
そして、実のところポーレットの風車小屋は第二次世界大戦という状況を正確に捉えたジオラマでもあった。爆撃機やロケットミサイルによって人も家畜も無差別に焼き殺される世界。それはたしかにあの時代、誰もが肌で感じた現実だったのだろう。
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少年がイヌになる話――『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(ラッセ・ハルストレム監督、1985年)
『マイライフ・アズ・ア・ドッグ 【HDマスター】』予告編.wmv
めんどくさいのでここからですます調でいきます。
現代イヌ映画を語る上ではずせない監督がスウェーデン出身のラッセ・ハルストレム。『ハチ公物語』のリメイク『HACHI 約束の犬』や『僕のワンダフル・ライフ』など犬視点の映画をハリウッドでものにしてきたイヌ映画の巨匠ですね。
『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』はそんなハルストレムの出世作です。ゴールデングローブ賞で外国語映画賞を獲得し、オスカーでも監督賞にノミネート*4され、彼のハリウッド進出への足がかりとなりました。
本作をイヌ映画という観点でみた場合、イヌ登場シーンの少なさにおどろかされます。にもかかわらず、モチーフとして、あるいは主人公の感情移入先として常に物語に影を落とし、観客の印象にまとわりつく。「人間のメタファーとしてのイヌ」に意識的な作品といえるでしょう。
冒頭*5は夜空に映る無数の星々のシーンで始まります*6。
その夜空にヴォイスオーヴァーで主人公であるイングマルの声がかぶさり、
「かわいそうな死に方をしたひとたちのことを想う。
たとえば、ボストンで肝臓の移植手術をした男のひとのこと。色んな新聞に彼のなまえが載ったけれど、結局それは死んだからだった。
宇宙にいった犬、ライカはどうだろう? ロシア人はスプートニクに彼女を乗せ、宇宙へ飛ばした。心臓や脳に電極をつけて、彼女の感情を計った。ライカの気分が良かったはずはない。
ライカは五ヶ月も地球を周回したあと、飢えて死んだ。こんなふうに、ものごとを比べるのは大事なことだ」
まさに「これから、イヌと人間を並列に語りますよ」という宣言で行われます。そして、その宣言の通り、本作は少年がイヌになるお話として進んでいくのです。
舞台は1950年代終盤のスウェーデン。イングマル少年は兄と結核をわずらった母親、そして一匹のボーダー・テリアと暮らしています。
母親の身体が衰弱していくのに反比例するかのようにやんちゃの度をましていく兄弟を見かね、かかりつけの医者は兄弟を一時的に田舎へ隔離して母親に療養するよう仕立てます。
イングマルはいつも一緒だったイヌも連れて行きたいと主張しますが、容れられず、林間学校へ行った兄とも別れ、ひとりで叔父夫婦の家へと向かいます。
その途上の列車で彼は再びライカについて思いを馳せます。
「かわいそうなライカのことを考えると気が滅入る。十分な食べものも与えられずに宇宙に飛ばされるのはおそろしい。
ライカは人類の進歩のために宇宙へ行かされた。彼女は行きたいだなんて頼まなかったのに」
このときもヴォイスオーヴァーが使われますが、重ねられる画は画面の右斜め下から左斜め上へと走行する機関車です。その黒くて細長なボディが「上昇」していくさまは、あきらかにロケットがイメージされています。
そのなかで自らの意志に反して母性=母星から離されて旅する孤独なライカはイングマル少年、というわけです。
そうして三幕構成の二幕目と舞台は移っていくのですが、少年と切り離された愛犬はこれ以降回想を除いてまったく登場しません。少年が母の待つ実家へと帰ってからも姿を見せないのです。
代わりにイングマルがどんどんイヌになっていく。彼は逗留先の田舎*7で、縦横無尽に鼻を利かせ、男勝りな少女サガや叔父夫婦の社宅の一階に住む死にかけた老人や村のセックスシンボルとなっている美女や彼女に対する叔父の視線などの「秘密」を本能的にかぎつけて、意図するしないに関係なく迫っていきます。
友達も大勢でき、村に溶け込んで、一見うまくやっているイングマル少年ですが、しかし、そこには母親への思慕がついてまわる。電話で村で起こったことの報告をながながしたり、実家にいたころの母との記憶をしきりに回想したりします。
衛星軌道上にあって地上のことを想うライカのように、彼の心は本質的にはさびしさに満ちていたのです。
病床の母親との回想のシーンでは、イングマルは常に愛犬と共にあります。読書に耽る母のベッドの下にイヌといっしょにもぐり込み、たわむれる。イヌの目線でイヌのようにはしゃぐエネルギッシュなイングマルは、読書を好む病弱な母親との対比になっています。精力旺盛なイヌであるイングマルは母親と遊んでもらいたがるわけですが、彼女にはそれがかなわない。むしろやかましく動く子どもにうんざりする。そのかなしい断絶がラスト付近でのイングマルのエモーションを爆発させる遠因となるのです。
季節はうつろい、イングマルにもようやく実家に戻る時期がやってきます。彼はさっそく*8愛犬について尋ねますが、どうもあいまいな返事しか返ってこない。
そうこうしているうちに母親の病状が悪化し、入院生活のすえ亡くなってしまいます。
事実上のみなしごとなったイングマルはふたたび叔父夫婦の家へと預けられます。が、元気だった前回とは打って変わってふさぎこんだ挙げ句脱走し、叔父に「愛犬について預かり所へ問い合わせる」という条件と引き替えに叔父夫婦の家へと戻ります。
ところが翌日、叔父に「犬はどうなったのか」と訊いてもまともに答えてくれない。
もやもやしているうちにイングマルは彼をめぐるサガともう一人のクラスメイトの女子との恋のさやあてに巻き込まれます。いがみあう女の子のあいだで最初はうろたえていた彼でしたが、突然なにを思ったのか、四つん這いになってわんわん吠え、イヌの物まねをやりだします。
そのままサガとボクシング対決をする流れになったイングマルは、ふっきれたようにイヌの物まねを続け、実力的には優位に立つサガを翻弄します。
が、イヌ戦法にいらだったサガは「あんたのイヌは死んだんだよ。知らなかったの?」とつい残酷な真実*9をつきつけます。
それを聞いて逆上したイングマルはサガに対してがむしゃらに殴りかかりますが、勢いあまってリングのあった納屋の二階から落下し、昏倒します。
そこでまたライカのことを思い出すのです。
「比べることは大事だ。ライカのようなイヌのことだけを考えろ。彼らは最初から知っていたんだ。ライカが二度と地上に戻ってこない、と。
彼女が死ぬと知っていた。
彼女を殺したんだ」
そこで言及されているのは哀れなライカについての扱いであると同時に、自分の愛犬の、そして自分自身のことでもあります。
母と愛犬を喪い、兄と別れ、幼年期の世界と完全に切り離されてしまったイングマル少年。
意識を取り戻した彼は叔父の建てたあずま屋に立てこもり、一晩じゅう泣き明かします。
翌朝やってきた叔父が「すまなかった、おまえに犬の死を伝えることがどうしてもできなかったんだ」と声をかけると、イングマルは「僕が彼女を殺したんじゃない」と独り言のように繰り返します。
叔父があわてて「そうだとも、おまえじゃない」と言うと、イングマルは「なんで僕を求めてくれなかったの、ママ。どうして」と嘆くのです。
ここにおいて、「殺してしまったかもしれない彼女」は三つの対象を指しています。
ひとつは母親。
もうひとつは愛犬*10。
そして三つ目はライカ。
どれも自分自身とは不可分の対象であり、それらを無力に喪失した後悔を乗り越えて、少年は大人になっていくのです*11。イヌとして生きた幼年期に別れを告げて。
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イヌ映画のストラテジー――『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター監督、1982年)
The Thing - John Carpenters Original Trailer
ジョン・W・キャンベルのSF短編「影が行く」の二度目の映画化となる『遊星からの物体X』はイヌ映画におけるテクニカルな作劇の見本ともいうべき一作です。
まずはじまりが南極のまっさらな大地を疾走する一匹のハスキー犬*12。この画だけでも感動的です。そして、その後を追うように現れたヘリコプターから、なぜかハスキーに向けて何発もの発砲がなされます。
なぜ、ヘリコプターの人間たち(ノルウェーの南極観測隊)はいたいけなイヌを執念深く撃ち殺そうとするのか? 観客における謎への当惑が画の強烈さもあいまって、やがて興味へと変わることでしょう。
ハスキーはやがてアメリカの観測隊が駐留している基地へとたどり着き、彼らに保護されます。ちなみにハスキーを追ってきたノルウェー人たちは射殺。イヌを殺そうとしたものの当然の末路でです。よかったね。
しかし、このハスキーはもちろん招いてはいけない客でした。しばらく基地内をうろうろしたのち、邪魔だというので檻に放り込まれたイヌでしたが、なんとその夜、ほかのイヌたちがおびえながら見守るなか、異形の姿へと変貌します。
そう、このハスキーは宇宙から飛来してきた恐るべき寄生生物が宿ったモンスターイヌだったのです。寄生生物はより高度な知性体への寄生をめざし、その毒牙を観測隊員たちへと向けます。
本作でイヌが登場するのは序盤であるこのくだりまでです。しかしすでに十二分に役割を果たしている。
まずホラー映画の象徴として。
ホラー映画にはさまざまなパターンが存在します。そのうちのひとつが「イヌはまっさきに死ぬ」。
人間たちに凶事がおそいかかるときの先触れとして、その忠実なパートナーであるイヌがいのいちばんに生け贄にささげられます。イヌの無惨な死骸を見た人間たちはなにやらただならぬ事態が進行していることを悟ったり悟らなかったりします。
いわば、「炭鉱のカナリア」としてのイヌの死とでも呼びましょうか。
そうした意味で『遊星からの物体X』において「最初の犠牲者」としてイヌが登場するのは実にパターンにかなっています。
しかし、定型をなぞるだけでおわらないのがジャンルムーヴィー中の傑作として称えられるゆえんです。本作ではもうひとひねりが加えられます。
すなわち、物語的なテーマに説得力を加える存在として。
本作の最大のキモは人間同士の相互不信。寄生生物は宿主の外見を完全コピーできてしまう。それがゆえの「ガワや言動がそれっぽくても中身はわかったもんじゃない」という不安にもとづく隊員間の(そして観客の)疑心暗鬼です。
そこに当時の社会情勢なりなんなりの読み込みも可能でしょうが、今日はそんなことはどうでもいい。
まっさきに寄生されて正体をあらわにするのがイヌ、という事実がストーリーテリング的に重要なのです。
くりかえしますがイヌは人間のパートナーです。もっとも重要な、永遠の友達といってもいいでしょう。何千年にもわたって馴らされてきたイヌという種が、人間をうらぎるなど誰にも考えられない。
その悪夢が本作では具現化するのです。あんなにも従順だったイヌの正体が実は人類をほろぼす寄生生物だった、というショック。
イヌでさえわれわれを裏切る世界で、いったいなにを信じろというのでしょう。いわんや、人間など。
そう。「忠実」や「信頼」を表象する存在であるイヌが最初に寄生されるからこそ、効果的なのです。これから展開される人狼ゲームを、「信頼」というキーワードをよりきわだたせるのです。
これこそ『遊星からの物体X』におけるイヌづかいの卓抜さでしょう。「最初に死ぬイヌ」にビジュアル的な印象だけではなく、二重三重ののたくらみをめぐらす。なみのイヌ映画にできることではありません。
もちろん、イヌの演出自体も見事です。
寄生されたハスキー犬の何かの確信を湛えたりりしさ目つきとたたずまいは、あきらかにイヌでもヒトでもない知性を感じさせます。
基地に潜り込んだあとに隊員の部屋に近づく廊下のカットも、動きのタイミングだけで不穏さを見事に切り取っていてうつくしい。
寄生ハスキーが檻の中で怪物に変化していくシーンに至ってはまさに白眉。慣れ親しんだイヌがイヌでないものになっていくグロテクスさ、くらがりでぎゃんぎゃん吠えまくる周囲のイヌたち、なんとかその場から脱出しようと檻の網を食い破ろうとする一頭イヌ映画史に残る名シークエンスです。
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*1:撮影のときにクスリでも飲ませたのか?
*2:あんなにやたらめっぽう疾走する牛はなかなか映画ではおめにかかれない
*3:十字架にかけられている人物が誰なのかも知らないレベル
*4:外国語映画で監督賞にノミネートされた監督は意外に多いが、スウェーデン人に限れば83年のベルイマン(『ファニーとアレクサンデル』)以来四年ぶり三人目。ちなみに99年に『サイダーハウス・ルール』でハルストレムが二度目のノミニーとなって以降、スウェーデン人映画監督が監督賞にノミネートされた例は英語・スウェーデン語通じて皆無。
*5:母親との浜辺での美しい記憶のファーストカットの後
*6:地球から見あげた宇宙。宇宙から見下ろした地球のカットからはじまる『遊星からの物体X』とは逆。
*8:預かり所に預かってもらっていると思っている
*9:聡明なサガであったからこそ叔父の態度から見抜けたことであったという一方で、イングマルも薄々かんづいていたであろう
*10:名前はシッカン。スウェーデンでは男女ともに用いられるファーストネームらしいですが、監督の念頭にあったのはスウェーデンの往年の女優シッカン・カールソンだったでしょうか
*11:本編に横溢する性的なイメージは成長を描くためのひとつの補助線でしょう
*12:ファーストカットは前述したとおり、宇宙からみた地球。その地球にUFOが墜落していくカット