前回書いた記事がその翌々日発売の『ユリイカ』のウェス・アンダーソン特集号に載っていた一部原稿とかぶり、しかも予告した野生の話も論者のみなさんが結構触れてられていたので、そりゃそうだよなあ、などと思いつつ、やる気は減衰し、日々は無駄に過ぎていき、やがて人間はダメになっていきます。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
ウェス・アンダーソンのふたつのストップモーションアニメ、すなわち『ファンタスティック Mr.Fox』と『犬ヶ島』をつなぐキーワード――野生。この単語の意味するところを、ウェス・アンダーソン監督の初ストップモーションアニメ、『ファンタスティック Mr. FOX』から読み解いていきましょう。それによっておのずと『犬ヶ島』もわかっていけるはずです。
『ファンタスティック Mr.FOX』のあらすじ
まず『Mr.FOX』のあらすじから洗っていきましょう。
家畜泥棒を生業としていた主人公のミスター・フォックスは、当時交際相手だったミセス・フォックスの懐妊を聞かされ、そのまま結婚。「家庭のためにもう危ないことはしない」と泥棒稼業から足を洗い、新聞のコラムニストとしていわばホワイトカラー的な正規の職に就きます。
それから十二狐年後。優しい妻に多少偏屈ではあるけれど元気な息子の暖かい家庭を築いたミスター・フォックスでしたが、一方で単調で刺激のない貧しい生活に倦んでいます。ミセスは「貧しくても私達は幸せじゃない?」と慰めるものの、ミスターは「俺はもう七歳だ。俺の親父は七歳半で死んだ。もう穴ぐら暮らしはいやなんだ」
彼は新居探しの最中に、鶏農場に近接する大きな木を見つけます。「あの家にはリスクがある」という顧問弁護士の助言も聞かず、ミスターは家の購入を決断。新居に移るや、友人のオポッサム・カイリを巻き込み、妻には内緒で鶏泥棒をはじめます。
当初は上首尾だった家禽泥棒ですが、調子に乗って近隣の農場や牧場を荒らしまわるうち、農場主たちに目をつけられるように。そして農場主たちの親玉であるビーンの策略により、ある晩、逆襲を食らってミスターは尻尾を失ってしまいます。当然、妻にも泥棒の事実が露見します。「 十二狐年前に約束したわよね。もう二度と、鶏もガチョウもシチメンチョウもアヒルも……ヒナバトすら盗まないって。私はそれを信じたわ。なのに、なぜ? なぜわたしにウソをついたの?」「俺が野生動物(wild animal)だからだ」「でも夫でしょう、父親でしょう」
さらにビーンたちの重機による追い討ちで、フォックス家の新居は破壊されてしまいます。一家は地中へと退避。見境ない破壊の手はフォックス家のみならず他の動物たちまでにも及び、やはり地中へと逃げ込んできた彼らからミスターは騒動の元凶として冷たい視線を浴びせられます。地上への出口をビーンらによって封鎖され、食料を得る手段もありません。全員、地中で飢えて全滅するしかないのでしょうか?
しかし、ここでミスターは起死回生の策を編み出します。またも、家禽泥棒です。今度は地中からルートを掘り、キツネ狩りに追われて無防備になっている農場を突いたのです。
鶏やシチメンチョウを根こそぎ強奪し、大量の食料を手に入れたミスター・フォックス一行。ビーンのりんごサイダー倉庫から盗んできた勝利の美酒で乾杯……しようとしていたところに、りんごサイダーの洪水に見舞われます。ビーンがありったけのりんごサイダーをミスターたちの立てこもる穴に放水したのです。
薄汚い下水道に追いやられ、ふたたび一敗地に塗れるミスター。そのうえ、息子のアッシュがビーンに奪われたミスターのしっぽを奪還しようこころみて失敗し、一緒に居たいとこの(ミスターの甥)クリストファソンをビーンの狐質にとられてしまいます。
ミスターはミセスを下水が滝のように流れている場所*1へと連れ出し、「きみにウソをつくべきじゃなかった」と謝罪します。
「きみにウソをつくべきじゃなかった。誓いを破って*2、鶏を盗むことなんかしなきゃよかった。農場主たちに手をだすべきじゃなかったんだ。連中の裏をかいていい気になっていた。
楽しかった。でもやるべきじゃなかった。
残された道は一つだけだ。俺の身をやつらに差し出す。殺され、はく製にされ、暖炉の上に吊るされるしか……」
「ダメよ」
「それで、他のみんなは助かるかもしれないんだ」
「ああ、どうして私たちをこんな目に巻き込んでしまったの?」
「わからない。でも、もしかしたら、みんなにこう呼ばれたいからかもしれない。”ファンタスティック・ミスター・フォックス(すばらしき父さんギツネ)”とね。それで、みんなが俺の魅力に完全にヤられてしまうまでは……自分自身に満足できないんだ。
火中の栗を拾いに行ったり、狩りをしたり、捕食者を出し抜くのがキツネの伝統なんだ。俺が得意なことでもある。
俺たちは結局のところ……」
「わかってるわ。私たちは野生動物なの」
「たぶん、昔は野生でしかなかったんだろう。約束するよ。もう一度最初からやりなおせるとしたら、君にはもう隠し事はしない。ふたりで一緒にやったときのほうが、いつも楽しかっただろう。愛してるよ、フェリシティー*3」
「わたしも愛してる。それでも……あなたと結婚すべきじゃなかった……」
ミスターはライバルであるドブネズミとの死闘を制して自信を取り戻したのち、ペシミスティックな自己犠牲的作戦を取りやめ、クリストファソン救出作戦に切り替えます。そこで仲間たちに再起を賭けた演説を行うのです。
「さて、この豪華な晩餐のテーブルにならんだ顔ぶれを見てみようじゃないか。ふたりのすばらしい弁護士。優秀な小児科医。天才的なシェフ。辣腕の不動産屋。卓抜した仕立て屋。賢い会計士。天賦の才を持ったミュージシャン。……いい感じのヒメハヤ漁師。そして、おそらくは当代一の風景画家。
俺のコラムを読んだことのある人はほとんどいないだろう。存在を知っている人さえいないかもしれん。
だが、今ここに集っているのはみな野生動物でもある。
特質と唯才を持った野生動物たち。
DNAに織り込まれた何かに由来するラテン語の学名を持った野生動物だ。みんなそれぞれの種に固有の長所と短所をふせもっているんだ。
ともかく、この美しい個性を結集すれば、俺の甥を救出する一縷の望みを得られるかもしれない」
そうして、ミスターはその場に集った動物たちひとりひとりを学名で呼んで奮い立たせ、クリストファソン救出チームを組織します。
地上に打って出たミスター一行は、ビーンらを見事出し抜くことに成功。クリストファソン(と取られたしっぽの)奪回に成功し、バイクで帰路につきます。
その途中、野生の狼と遭遇し、その美に涙する一シーンを挟みつつ、下水道へ勝利の帰還を果たした一行。その後は、地中を通じて閉店後のスーパーマーケットという新たな狩場を発見し、ハッピーエンドを迎えます。ミスターは新たに妊娠が発覚したミセスを筆頭とした家族に向かい、こう演説します。
「キツネはリノリウムの床にちょっとしたアレルギーを持ってると言われている。けれど、実は肉球がひんやりあたって気持ちいい。
俺のしっぽは月に二度ドライクリーニングへ出さないといけない。けれど、自由に着脱可能だ。
俺たちの木の家はもう二度と戻ってこないかもしれない。けれど、いつかは新しい芽が生えてくる。
スーパーにあるスナック菓子はガチョウ風味だ。ハトのモツは合成物。リンゴでさえ見た目ニセモノっぽい……でも、星の模様がちりばめられている。
それでも、今夜は食べよう。みんなで食べ明かそう。この頼りない灯りの下でもかまわない。
きみたちは疑いなく、俺の人生で一番すてきな野生動物たちだ。
さあ、みんな、ジュースのパックを掲げて。
俺たちの生存(survival)に乾杯」
キツネと野生
ご覧の通り、『Mr. Fox』は、中年の危機を迎えた男性が「野生=冒険心」を取り戻す話です。「みんなから尊敬されたかった」と漏らすミスターの言葉から察するに、男性的な名誉欲もつけくわえてもいいでしょう。作中でもオマージュが捧げられているディズニー映画『ロビンフッド』*4、あるいはイギリス児童文学的な文脈で言えば『ピーターラビット』にも見られるように、盗賊生活は動物の「本性」である、という歴史的なイメージがあります。
もっとも家庭を守りたい心と冒険を求めたい心のあいだで引き裂かれるアンビバレントさは、ロアルド・ダールの原作にはない要素です*5。ウェス・アンダーソンのフィルモグラフィを見ればわかりますが、中年の危機的な部分は彼の作家的な資質に依るところが大きい。*6
ともかくミスターの冒険への回帰が守るべき家族に災厄を招いてしまうわけですが、最終的には自身の野生と折り合うことで家庭と折り合います。農場主たちを撃退し、地中生活に戻ったミスター一家は結局泥棒で暮らしていくことになるものの、狩場は以前のようなハンティングの快楽に満ちた鶏農場ではなく、人工物であふれたスーパーマーケットです。冒険心の面はいくらか後退していても、より安全で安定した盗みにミスターもミセスも満足するのです。*7昔は危険な山に挑戦していた登山家が、結婚して子どもができるようになると家族で楽しめるレジャー登山に落ち着くようになる、といった感じでしょうか。配偶者からは「山なんか危険だからやめろ」と言われたけれど、妥協点としてそこに落ち着くみたいな。
アニメーション研究家の土居伸彰は、同じくアニメーション研究家である細馬宏通との対談でウェス・アンダーソン作品における「野生」について、端的にこうまとめています。
土居:『Mr. FOX』や『犬ヶ島』を観ると、ウェス・アンダーソンにとっての「人間」がどういうものかというのが象徴的にわかってくる。『Mr. FOX』では、最終的に自分自身の野生を取り戻すことによってすべての危機を回避するという結末でしたが、ウェス・アンダーソンの映画には、その人その人にある種の「野生」「本性」みたいなものが眠っていて、それに基づいた「役割」のようなものを全うすることしかできないという人間観がある。
(中略)その人の持っている性質、その人独自の役割――本能に従うことが、ウェス・アンダーソン作品においてはすごく重要なものとして考えられているような気がします。
「アニメーションという旅路の途中で」『ユリイカ 総特集=〈決定版〉ウェス・アンダーソンの世界」
『Mr. FOX』や『犬ヶ島』における「野生」は、それこそ「本性」的にアンコトローラブルな衝動として描かれます。ミスターがスリルをやめられないのと同様、『犬ヶ島』のチーフは噛みつくことをやめられません。
二〇一六年のディズニー映画『ズートピア』では、動物たちに課せられている「本能」が理性によって完璧に制御されうる幻想として描かれていました。また、「キツネはずる賢い」や「ウサギに警察の仕事は無理」といった世間によるべき論の先入観の押しつけを峻拒する作品でもありました。対照的に、『Mr. FOX』では「本能」や本来あるべき姿といったものが抗えない運命として描かれているのは興味深いところです。
が、百パーセント野生に身を委ねてしまうのが幸福なのか、といえばウェス・アンダーソンはそうは描きません。
ミスターは終盤に野生のオオカミと遭遇します。このオオカミは、私たちの世界で見かける四ツ足の獣であり、スーツを着込んで二足歩行するミスターたちは根本的に異なる存在です。本来的な意味での野生動物を体現した存在です。*8
ミスターはオオカミとコミュニケーションをとるために、英語で「どこから来た? なにをしている?」と問いかけます。
オオカミから反応がないとみるや、ラテン語で自分の学名を名乗り、相手の学名も伝えます。「学名を呼ぶ」のはクリストファソン救出作戦時に「学名には動物本来の役割が宿っている」という思想のもと、仲間の動物たちの野生を呼び起こすために使われた手法ですが、このときのオオカミには通じません。
ラテン語の学名=動物本来の役割=野生の公式はミスター独自の幻想であり、本物の野生動物とはもっと彼の想像とは違う生き物なのだということが示唆されます。
「どうやら英語もラテン語も通じないようだ」と悟ったミスターはフランス語にも挑戦しますが、やはり反応はありません。
オオカミには、本物の野生には、言語は通じないのです。
ミスターは崖の上に佇むオオカミの姿に涙します。そして、無言で左手を高く天につきあげます。すると、オオカミも左脚をビッと伸ばして応え、そのまま去っていきます。「なんて美しい生き物なんだろう」。ミスターはためいきをつきます。
ここで本物の野生動物を知り、自らがどうあがいても文明以前には戻れない存在であると知ったからこそ、ミスターはラストシーンの演説にあるような、人工物に囲まれた世界での妥協した「野生」生活をよしとするのです。
人間は完全な野生動物にはなれない、しかし、完全に文明にも染まれない。たとえその欲求が自己破壊につながるとしても、誰にも飼いならしえない何かが内に宿っている。そのことを象徴する生き物として、古来から文明と野蛮の境界線上の生き物とされたキツネが主人公として選ばれたのは、ある種必然だったのでしょう。
proxia.hateblo.jp
そうして、私たちは内なる野生を抱えて生きていかねばいかない。なぜそれに抗えないのかはわからない。しかし、そういうものであるからしようがない。
実のところ、『犬ヶ島』もまさに『Mr. FOX』とおなじような結論で終わります。
主人公犬・チーフは大した理由もないのに人を噛んでしまう癖を持っています。そのことについて、ラストシーンでヒロイン犬・ナツメグと語り合います。
チーフ:友だちは俺を喧嘩好きだとおもっている。でも、ほんとうは違うんだ。ときどきカッとなって自分を見失ってしまうことはあるけれど、それを楽しんだことはない。俺は暴力的な犬じゃない。なぜ噛みついてしまうのかわからないんだ。ナツメグ:飼いならされた動物は好きじゃないわ。
チーフ:ありがとう。
決して飼いならしえない何かを持った男たちの物語――それはウェス・アンダーソン映画に共通する彼自身の「本能」でもあるのです。
次は『犬ヶ島』に戻って「半孤児」の話をすると思います。余力があったら。
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*1:『ラスト・オブ・モヒカン』のオマージュか
*2:fall off the wagon 自らに課していた禁を破ってしまう、という意味。もとは「禁酒をやぶる」ことを指し、ビーンの農場からりんごサイダーを盗んだことにもかかっている。
*3:ミセス・フォックスの本名
*5:ダールの原作では終始ミスター・フォックスは泥棒であり、妻子もそれを疑いなく受け入れています
*6:「中年の危機」まわりに着目してWAを論じる代表的な評論家は町山智浩でしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=a7JwA5ZXg6w
*7:ラストで新しい家族としてリスタートをきる、という構図は冒頭のミセスの台詞「妊娠したの」が反復されることで明瞭となります
*8:『ユリイカ』のウェス・アンダーソン特集号に寄せられた蓮實重彦のエッセイによると、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌のインタビューで「『ファンタスティック Mr.Fox』での狐のパペットが被写体として最高だったのは、それが犬に似ていたからだと監督のウェス・アンダーソンは述べ、「最後には狼が姿を見せ、それがインスピレーションのみなもとだった」ともつけてい」たそうです