『オリエント急行殺人事件』*1の映像化と呼ばれる作品は世界にだいたい五つくらいありまして、ここではシドニー・ルメット監督&アルバート・フィニー主演版(映画、1974年、以下「ルメット版」)、フィリップ・マーティン監督*2&デイヴィッド・スーシェ版(TVシリーズ、2010年、以下「スーシェ版」)、そしてケネス・ブラナー監督主演版(映画、2017年、以下「ブラナー版」)を扱います。
この三つのラストを比較することでケネス・ブラナー監督版が何を描いているのか、そういうことの輪郭を素描できたらな、とおもいます。
各版の総体的な違いは以下によくまとまっているので参照してください。ネタバレがありますけれど。
以下、まあ、なるべくネタバレしないように努力をしますがあまり期待しないほうがいい。
ケネス・ブラナー演じるポワロについて。
1934年のエルサレム。聖墳墓教会で司祭、ラビ、ウラマーの三人が容疑者とされる盗難事件が出来します。そこにさっそうと登場したのがわれらが名探偵エルキュール・ポワロ(ケネス・ブラナー)! 彼は快刀乱麻を断つ推理で事件を華麗に解決へと導きます。犯人はポワロに捜査を依頼したイギリス人警察官でした。彼は独立の気運が高まるエルサレムで治安維持の職を失うことをおそれ、事件をでっちあげることで市民を不安によって支配しようと企んだのです。
冒頭数分で語られ、ポワロの「名探偵力」を観客に知らしめる小さな事件。いかにも公正でリベラルな「イスラエル・パレスチナ問題はそもそもイギリスが悪いんです」論を戯画化したような挿話です。
もちろん、2017年に生きるわれわれは、もはやこのトピックを単純な善悪でくくれないと知っています。
しかし、本作のポワロさんはそれが可能な存在として現れます。
彼は過剰なまでに秩序を希求する、強迫性障害じみたキャラとして描かれます。朝食にゆで卵を2つ注文して、その大きさが均等かを確かめる。やたら他人のネクタイの曲がり具合を気にする。片方の足でロバの糞を踏んだら、もう片方の足も糞に突っ込ませる。
ブラナー監督曰く、
「彼はロバの糞を踏んづけても気にしない。しかし、もう片方の足が糞を踏んでいないことを問題視する。混沌にあってさえ、不均衡に秩序をもたらさなければと考えているんだ。」*3
かくしてポワロは1934年のエルサレムで明朗に断言するのです。
「物事には正しいこととと間違っていることがある。その中間は存在しない。 “There’s right, there’s wrong, there is nothing in between.”」
この絶対の自信、シリーズ名探偵にふさわしい所作といえるでしょう。
なんとなれば、正邪の分別に自信満々のブラナー版のポワロこそ『オリエント急行殺人事件』を経験するにもっともふさわしいポワロなのかもしれません。『オリエント急行殺人事件』とは、探偵の敗北についての話でもあるのですから。
オリエント急行とはどこか。
名探偵とは毎度毎度、非日常的な場へ放り出されるものと決まっています。では「オリエント急行」という場とは具体的に何を表している場であるのか。実のところ、この列車に何を見出すかによって物語は若干性格を違えてくる。
ポワロの同乗者たちの顔ぶれを見たときに、まず目につくのはその国際色の豊かさです。ポワロ自身はベルギー人で、他にはイギリス人、ハンガリー人、フランス人、ドイツ人、スウェーデン人、アメリカ人に至ってはイタリア系がいたりユダヤ系がいたり。
この多国籍性は原作でも言及されています。
「……それにポアロさん、なんとも物語的だとは思わないかね。あらゆる階級、あらゆる国籍、あらゆる世代の人々が勢揃いだ。三日間にもわたり、そんな赤の他人同士が一緒に過ごすのだからね。お互いからの逃げ道ひとつ持たないまま、ひとつ屋根の下で眠り、食事をするんだよ」(田内志文・訳『オリエント急行殺人事件』角川文庫)
このセリフにスーシェ版では「まるでアメリカじゃないか」というセリフが付け加えられます。
まずもって、オーソドックスな見方でしょう。原作でも解決編のときにポワロはこう述べています。「こんなに様々な人々が一ヶ所に集まるようなことが果たしてあるだろうかと想像してみたのです。そんな場所は、ひとつしか思い浮かびませんでした。アメリカ以外には、アメリカならば、それだけ多くの国籍を持つ人々がひとつ屋根の下に暮らしていてもうなずけます」(田内訳)
出自の異なる多様な人々が一つの場に集っているのはいかにも移民国家アメリカ的な状況ですし、殺人の動機となって幼児誘拐殺害事件もアメリカで実際に起こったリンドバーグ事件をモデルにしています。被害者につけられた12の刺し傷*4と12名の乗客が陪審制度と結び付けられるのは原作でも印象深いところです。
ネタバレぎりぎり、というか、これはもうネタバレだと思いますが、アメリカ的な状況下に集った人々が自分たちの信念にもとづき独自のルールを策して正義を執行する、というのもこのうえなく象徴的だとおもいます。
「オリエント急行=アメリカの縮図」説をより色濃くハッピーかつドメスティックに描いたのがルメット版です。
もうひとつの解釈としては、ミステリ評論家の佳多山大地が唱えた「国際連盟」説もあります。
後に第二次世界大戦で対立する陣営に分かれて戦うことになる国々が一丸となって協働する光景に「絵に描いた餅に終わった国際連盟の〈理想〉を、あの客車内で実現しようとした試み」*5を、なるほど、見いだせるといえば見いだせる。
オリエント急行にヨーロッパを見出すにしろ、アメリカを見出すにしろ、結局はハコとしての性質です。ケネス・ブラナーは探偵の物語として『オリエント急行殺人事件』を描くと宣言している(していない)のだから、われわれはオリエント急行が「ポワロにとって」何なのかを求めるべきでは?
というか、ルメット版、スーシェ版、ブラナー版の三者の違いもそこにあります。
つまるところ、「ポワロがどちらの側に属しているか」の違いなのです。
ポワロはどこにいるのか。
ルメット版。
1974年版のハリウッド・オールスター大作として制作されたルメット版のオチは、現在的な倫理観からするとかなり異常です。
なにせポワロの情状酌量によって「無罪」になった真犯人が乗客たちと抱き合って喜び、シャンペンを開けて乾杯する、というシーンで幕を閉じるのです。正義は圧倒的に真犯人の側にあり、残酷無道な被害者は殺されてよかった。正義は果たされた。めでたし、めでたし。そんな感じです。*6
こうした場において、フィニー演じるポワロもまた「善」の側、真犯人の側にあります。段取りありきで解決編へと導く原作版の発展形ですね。*7アメリカ人大物キャストによって固められたアメリカ的なオリエント急行内で、ポワロもまたアメリカ人の倫理に回収されていく。すなわち、独自の法による独自の制裁。
もっともフィニー・ポワロの立場には彼を「外国人」に留めるちょっとしたエクスキューズも入っています。彼は事件解決後、喜びに湧く乗客たちを尻目にちょっと意味ありげな顔つきで列車を去っていき、祝杯には参加しません。そのポワロの顔を、ひややかなものと受け取るか、真犯人に対する是認と受け取るかは意見がわかれるところでしょう。
ともあれ、カメラは退場していくポワロを追わず、エンドクレジットまで乗客たちによる祝宴の様子を映しつづけます。ルメット版『オリエント急行殺人事件』が主人公ポワロの映画というより群像劇として撮られた印象が、そんなところからも滲んでいます。
スーシェ版。
2010年にイギリスで作られたドラマ版では、流石にルメット版のようなハッピーな解釈は許されませんでした。
原作やルメット版のポワロは、同乗した鉄道会社の重役の意見を容れる形で偽の解決を甘受します。ところがスーシェ演じるポワロは偽の解決を受け入れることを強硬に反対するのです。オリエント急行乗車直前に「人が人を裁くこと」についてのジレンマをつきつけられていたポワロは、いくら被害者が極悪人とはいえ、私刑を看過できませんでした。彼自身、熱心なクリスチャンだったせいもあるでしょう(本ドラマでは、ポワロが神に祈りを捧げるシーンが何度も印象的に挿入されています)。
頑なに真相暴露にこだわるポワロのもとへ真犯人が説得へやってきます。
ポワロは説きます。「正義は法体系に委ねるべきだ」
真犯人は反駁します。「でも法が機能しなかったら?」
ポワロは激昂します。「ならば神に委ねるがいい」
真犯人は泣きはらします。「でも、人は正義を否定されたときに不完全な気持ちに――神に見捨てられた気分になります」
ここで突きつけられている問いはけっこうクリティカルです。
法律や神が悪人を見逃し、善人を苦しめているとき、人はどうすべきなのか。何ができるのか。
本ドラマの冒頭で、ポワロはある事件で犯人を追い詰めた末自殺に追いやりました。その直後、イスタンブールで(おそらくは姦通罪かなにかで)不当に石打刑に処される女性を目撃しました。前者の事件は、ポワロの職業である「名探偵」がある種私刑的な要素を孕んでいることを、後者の事件は法の正義に限界があることを示唆しています。
この2つの事件を前提にし、オリエント急行の殺人に相対したとき、法にも神にもすべてを委ねることのできない自分がいることを彼は発見するわけです。彼は「悪」としての真犯人との共通項を見出し、結局、大変な嗟嘆を飲み込みつつ、真犯人の「悪」に加担する。
スーシェ・ポワロにおいて、復讐はぜんぜん善きこととではないわけです。それを知りながら偽の解決を警察に報告しなければならないところにシリーズ探偵*8としての敗北がある。
ルメット版や原作とは違い、ラストでは乗客もポワロもみんな雪の舞う列車の外に降りています。彼は乗客たちの刺すような視線を浴びながら真実をねじまげた報告を行い、涙を溜めながら去っていくのです。この場面描写は重要です。
つまり、スーシェ版で描かれる「オリエント急行内での出来事」はある特定の範囲内での特殊な出来事ではなく、世界とどこまでも地続きの「現実」なのです。その厳しい現実をどこまでもポワロは孤独に歩いていかねばならない。スーシェ版の悲壮さは、そんなところからも生じているのでしょう。
ブラナー版。
で、われらがブラナー・ポワロは善と悪のどちらに属するのでしょうか?
ブラナー版において、ポワロは独特のルールを有した列外の人物として現れます。オリエント急行に乗車するさい、カメラは列車の外部からパンしつつ、それぞれ固有の「窓」を持ったキャラたちを通り抜けるポワロを映します。このショットは降車時にも反復されるわけですが、乗客たちのなじみっぷりに対してポワロは明らかに異物として描かれている。
乗客たちとポワロの断絶は徹底しています。
まず被害者の身元が判明したときに、ポワロは「悪人といえど、殺してはいけない」とつぶやきます。原作で被害者に対して「まったく、あの獣め!」と怒りを示した友人に同意したのとは大違いです。被害者に同情する様子こそは見せないものの、被害者を悪党として糾弾する乗客たちとも一線を画しています。
なにより二者間の断絶が決定的なものとして視覚化されるのは、解決編のシーンでしょう。
雪の積もった車外で、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を思わせる長方形のテーブルに乗客たちが一堂に会し、その向こう側にポワロがポツンと立っている。そんな異様な構図。ルメット版での明るい車内で乗客たちに囲まれたポワロの図とは対照的です。
ポワロはこのとき真っ白な積雪の上に立っていて、対する乗客たちは洞窟内?に座っている。裁きを与える無垢な存在としての探偵がそこにはいます。
冷徹に真相を暴き出したあと、ポワロは真犯人に銃を渡してこう言います。「これで私を撃てばいい。そうすれば皆の望みどおり、真相は闇へと葬り去られる」
ブラナー・ポワロにはうそがつけない。友人である鉄道会社の重役はうそがつける(から対決場面において乗客たちの側に立っている)けれども、真実とバランスを至上とするポワロにはできない。
真犯人はそこであるリアクションをとります。その行動から、ポワロは真実とバランスだけでは、正しさと間違いだけでは割り切れないケースがあるのだと知ります。
彼の敗北宣言はスーシェ版と似ているようでまったく違う。ブラナー・ポワロはあくまで自身の問題として事件を捉えているのであり、そこにフィニー・ポワロのような、あるいはスーシェ・ポワロのような真犯人たちへの共感はほとんどない。
なぜならブラナー・ポワロにとってオリエント急行は完全な異国であり、その乗客たちは列車内で制定された独自のルールで動く異国人たちだから。
彼は彼の正義の通用するところでしか、名探偵たり得ない。
ブラナー・ポワロは善と悪のどちらに属していたか。答えは「どちらでもない」です。どちらにも属しきれなかった。彼の正義は場の正義と合致せず、最初から最後まで列車は彼と違うルールで走っていたのだから。
そうしてポワロは一人、列車の最後尾から降り、列車の進路とは逆の方角(駅)へ向かって歩み出します。観客の方へ向かって。
彼は駅で出会った警官から「ナイルで事件があった」*9と聞かされて、オリエント急行の殺人などなかったかのように名探偵の仕事に復します。そのとき、彼は警官に対してこう言うのです。「ネクタイが曲がっているよ」
まったく同じセリフを、彼はオリエント急行乗車直前にも口にしています。
彼がネクタイのあるべき姿を指摘し、それに他人も同意してくれる場所。彼が名探偵であり続けられる場所。
そういう場所に、ポワロは帰ってきたのでした。
- 作者:アガサ・クリスティー,山本やよい
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*2:いまや『ザ・クラウン』の主戦エピ監督だ
*3:CS Interview: Kenneth Branagh Orient Express, Thor & More!
*4:本邦で初訳されたときのタイトルでもあります
*6:事件が解決した瞬間に雪に足止めされていた列車が力強く走り出す場面も高揚感をあたえます
*7:原作版でのポワロの被害者への肩入れっぷりは露骨です。不要なはずの「第二の解決」を縷々と組み立てていき、ハバート夫人の証言につまづきが出れば助け舟を出してあげたりもする。これを段取りと呼ばずに、なんと言えば良いのか。
*8:『オリエント急行殺人事件』のエピソードがスーシェ版のドラマではほとんど末期に放映された事実を思い出しましょう
*9:言うまでもなく次回作『ナイルに死す』へのめくばせ